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再び、格差社会について 2006.3.29.昨年10月様々なところに格差が生まれ、誰を顧客とするのか「市場の規定」が一番重要であることをこのブログに書いてきた。三浦展さんの「下流社会」が注目されたこともあり、政治を含め多くのところで格差が論議され始めている。しかし、マスコミでの論調は相変わらず「所得格差拡大の是非」とか「アメリカ型社会の是非」といった二元論的、二者択一的論議ばかりでほとんど意味をなしていない。ジニ係数を持ち出すまでもなく、アメリカのように年収200万以下の世帯が全体の2割近いという構造と日本は全く異なっている。世界最大の小売業であるウオルマートの日本進出の経緯を見れば一目瞭然である。日本はかなり高度な消費構造を持った市場となっていると私は認識している。その消費構造とは昨年10月のブログにも書いているが、「モノの所有価値市場」から「使用価値市場」へと明確にパラダイム転換が起きており、結論から言うと情報とサービスの使用に最大価値を置く時代へと移行している。逆にこのパラダイムの潮流に乗り切れない企業、エリア、個人に格差が生まれていると考えている。そして、重要なことは使用価値の中心が「どのように」動いているかである。金融で言えば、お金の使用が今どのように動いているか、株であれば経営者は市場へと公開して得た資金をどのように使用し利益を上げているかとなる。こうした「使用」アイディアについては数多く出現している。セブンイレブンではお惣菜や弁当工場のアイドルタイムを活用した「セブンミール」宅配サービスがそうであるし、古いところでは一流ホテルの割安提供で一躍シェアーを伸ばしたWebサイトの「一休」もある意味では「使用価値」の隙間を狙ったアイディアである。最近の不動産投資信託、ファンドは周辺エリアまで土地物件を広げているが、使用価値が下がれば当然以前のバブルの二の舞となる。実は中心の中心へと価値観が動いており見誤ると同じ間違いを起こしてしまうということである。一方、個人、生活者の視点からいうと、使用の場面や出来事に応じて明確に使い分けが進んでいる。流通で言えば、これは百貨店、これは専門店、これはコンビニ、といった具合にである。今回問題となっているPSE法も、経産省はモノ価値でしか中古品を見ないでいる。アーチスト達(生活者)にとっては古いアンプやチューナーにその音質の良さという使用価値を見いだしており、全く異なる価値観の衝突であった。そして、記者会見の場で坂本龍一さんは役所に使用価値を決めて欲しいとは思わないと明確に宣言していた。当たり前の話で、価値を認めるのは「使用する」本人自身であり、市場である。景気が上向きであるから、個人消費が上向くといった旧来の短絡的認識では今日の市場から退出する以外に道はない。新しい価値を創造しえるものだけに明日があり消費は活性する。マスコミによく使われているキーワードに「2極化」があるが、極論をいえば一人の生活者の中に「2極化」があるのであって、全く別個の市場が存在する訳ではない。ヴィトンのバックを持った若い女性もモノによっては100円ショップのダイソーも利用するのである。追記 昨年10月に書いたブログ「階層化社会の到来」については次のアドレスにてご覧ください。 http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.03.29
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「野生の思考」続き(3)ープリミティブコンシャスの時代へー 2006.3,26,もう少し人間が本来もっている自然、野生について考えてみたい。昨年8月には衆院選挙について「劇場型」小泉ブランド戦略というメディア化社会・高度情報化社会について情報の時代の特徴について指摘をしてきた。秋には経済ばかりでなく、企業間にもエリア間にも様々なところに格差が生まれてきている事実。あるいは情報によって揺れ動く心理市場、結果としてわっと売れてぱたっと止まる商品のライフサイクルの短さについても触れてきた。また、一方では大きくは「近代」によって失ってしまった自然、家族・絆、あるいは歴史・文化の取り戻しが顕著になりつつあることを「LOHAS運動」や「Always三丁目の夕日」等を例に挙げながら書いてきた。ある意味においては「デジタル世界」から「アナログ世界」への揺り戻し、回帰現象でもある。顧客・市場の「好き」は非連続そのもので、今日は「嫌い」という。デジタル感性化した市場とは「なにげない一言」「ディテールの違い」「瑣末と思われる部分」に化学反応でもするかのように反応してしまう「過敏症顧客」を生んできた。サプリメント依存症候群などはその良い事例であろう。そうしたデジタル世界から、過去を遡り過去の良さに共感し、見えない糸をたぐり寄せる「アナログ世界」はいわば連続する世界と言うことができる。その連続する世界の向こうを1万年単位で遡ろうと呼びかけているのが中沢新一さんの「アースダーバー」だと思う。少し前の新聞記事であったと記憶しているが、縄文時代の遺跡発掘に推定21歳の小さな女性が発掘されその女性が小児まひであったという記事である。4000年前小児まひでは21歳まで生き続けることは難しく、介護という考えが既にあったのではないかという内容であったと記憶している。私達は縄文時代のイメージを粗野で弱肉強食の時代であるかの如く錯覚してきた。今日のような介護という概念はなかったであろうが、生命への優しさをもった社会であったことは間違いない。そして、私自身の勝手な思い込み認識を目鱗させてくれた三木成夫さんの「胎児の世界」(中公新書)もそうであった。既に19年程前に亡くなられている比較解剖学の先生であるがその「胎児の世界」では次のように書かれている。”・・・このからだをつくる一つ一つの細胞の中に膨大な量が巧みに封じ込められ、代から代へと確実に伝えられているのでしょう。いわゆる「記憶の遺伝」です。俗にいう「本能」も、このメカニズムなしにはとうてい考えることはできません。・・・・この生命記憶も、じつは、ふつうの記憶のように「回想」することができるのです”今、中沢新一さんは地図を片手に東京という都市を歩き、「回想」つまり生命記憶の糸を辿ろうとしているのだと思う。私の専門はマーケティングであり、顧客・市場という視点から、こうした「記憶の遺伝」「回想」がどんな領域でどんな形で出てきているかを「野生」というキーワードで表現してみた。おそらく、日常取り入れやすい小さな単位から「野生」は始まっていくと思う。例えば、「食」がそうであり、古代米への注目や豆類・雑穀をスイーツなどへの取り入れもそうした傾向の一つであろう。丁度一昨日のニュースで牛乳離れが進み約1000トンの生乳が廃棄されると報じられたが、まさに動物系脂肪ばなれはますます加速していくであろう。食ばかりでなく、10年前までの花屋さんは洋花ばかりであったが、今日の「和」ブームに沿うように季節の野草なども店頭に並ぶようになってきた。閉鎖寸前であった北海道の旭山動物園の復活も、ペンギンやシロクマなどの本来持っている野生をアイディアをもって見てもらったことによるものだと思う。アフリカなどへエコツーリズムに出かけた参加者に聞いた話であるが、多くの方は野生の動物が一様にきれいであったと言っていた。勿論、動物園で見るシマウマとサバンナを駆け巡るシマウマとを単純比較してはいけないが「生命美」とでもいうような感動を述べていた。近代化によって失ってきたものの取り戻しへの着眼の一つとして、「野生」があると思うが皆様はいかがお考えであろうか。
2006.03.26
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「野生の思考」 続きープリミティブコンシャスの時代へー 2006.3,22,中沢新一さんの「アースダイバー」を始め著作を読まない方にとって、少し分かりにくいテーマであったと思う。中沢さんのように1万年前まで遡って東京の「野生」を見つめることはできないが、既に「野生」を無くしつつある現代について触れてみたいと思う。数年前、「快眠」をテーマに日本を代表する眠り関連企業に集まっていただき共同研究をしたことがあった。不眠は生命のメカニズムと同じように100%解明されてはいないが、様々な外的・内的要因により「体内時計」の調節がつかなくなってしまって起る症状である。日本人の1/4が不眠を訴えているが、その共同学習の講師としてお願いした国立精神神経センターの内山真先生によると、日常できることを言えば朝太陽光をしっかり浴びることだという。不眠を訴える子供には、例えば夏であれば一日中太陽の下で遊ばせ、夜は真っ暗にして眠れば1週間程度で不眠は解消されると話されていた。つまり、自然の中に置いて、人間が本来もっている「野生」を取り戻すということである。そう言えば、サバイバル体験をしてルバング島から帰還された小野田さんは「小野田自然塾」を開き子どもたちに自然の中での生き方を教えている。何もかもがスイッチ一つで快適な生活を送れる今日、生命力そのものが衰えつつあると思う。TOKIOがやっている番組「鉄腕ダッシュ村」を始め、広義には田舎暮らしということになるだろうが、移住のための不動産紹介から始まり、田舎暮らしのライフスタイルを販売するところに注目が集まっている。結構若い世代がこうした自給自足的な暮らし、自らがあらゆるものを作っていくことは、どこか直感的に「野生」への気づきが生まれているのだと思う。季節や自然のうつろい、時には自然のもつ怖さまでを5感で感じ取ることによって「野生」を取り戻そうとしている。丁度、WBCが開催されチームジャパンが優勝した。平均視聴率43.4%(関東地区)というから、最高視聴率は楽に50%を超えていると思う。誰もが感動したのは、あのイチローさえもが野球少年のようにシャンペンをかけられて心底喜んでいる姿であったと思う。一見個人主義者、孤高の人のように思われていたイチローがまるで子供のように怒り、喜ぶ姿である。これは勝手な私の想いであるが、私達が本来もっていた野生とイチローのむき出しの野生とがどこかで共鳴していたのではないか。なんでもかんでもマーケティング的に見てしまう私ではあるが、今後「野生への気づき」というキーワードは大きな意味をもってくると考える。おそらく「プリミティブコンシャス」といった着眼が食やファッションに取り入れられるであろう。自然食から野生食へ、ナチュラルファッションからプリミティブファッションへ、リゾートもプリミティブなリゾートメニューが増えてくるであろう。
2006.03.22
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「次」を見据える視座「野生の思考」 2006.3,19,年頭のブログで対立する価値観がぶつかり合うカオスの年になるだろうと書いた。昨年格差社会の到来というテーマについても私見を述べてきた。価値観がぶつかり合うことは決して悪いことではない。しかし、コミュニケーションであれ、考え方であれその根底にあるのが「2元化」の物差しである。売れる・売れない、好き・嫌い、善・悪、・・・・本来深められなければならないテーマであるにも関わらず、分かりやすさが最優先されてきた。誰もが感じていることと思うが、ここ十数年で圧倒的に変わったなと思うのが「時間感覚」そのスピードである。当時、「ドッグイヤー」という言葉が流行ったが、既に死語となり、猛スピードは日常となっている。新商品開発で言えば、時間がかかる車も2~3年かかっていたものが今や1年以内、コンビニの店頭にはめまぐるしく新商品が並ぶ。Newsという情報競争を勝ち抜かない限り、次に進めない。情報発信者の課題は「伝わらない」ことの解決とばかりに、バイラルマーケティングやサウンドバイト等の手法を駆使する。そして、そうした「違い」を求める情報が一斉に街に、店頭に、個人に洪水のように向かう。従来、対極にあると思われてきた人工都市は「自然」となり、地縁・血縁は「情報縁」となり、猛スピードは「日常時間」となり、闇・夜が無くなり、今日と明日の境目がなくなってきた。マーケティングで言えば、デジタル感性市場に対するマーケティングである。例えば、7~8年前、飲食で言えば「ダイニングバーブーム」があった。奥行きや雰囲気を醸成するために照明を駆使した暗い店がほとんどであったが、今や生き残っている店は少ない。既に当初から改装・インテリアといった初期投資の回収を1~2年とみていたから損はしなかったと思う。今はどうであろうか?以前からあった蔵や建物を生かした店、照明は明るくなり、熟練した職人技による料理、へと変わってきた。超俯瞰的に見て行くならば、デジタル世界(バーチャル)からアナログ世界(リアル)へ、スピード時間からスロー時間へ、情報縁から地縁・血縁(コミュニティ・家族)へ、人工都市から自然都市へのシフトが始まっている。商品のライフサイクルは更に短くなり、振り子のように揺れ動きながら「次」の世界へと移って行くと思う。さて、どんな視座をもって「次」を見据えていけばよいのか、実は、最近読んだ「アースダイバー」(中沢新一著講談社刊)に「次」の世界の入り口のようなものを感じた。中沢さんはヨーロッパと東京の歴史的な都市形成の違いを踏まえて、縄文時代の東京はフィヨルドのように海が内陸へと無数に伸びており、その地形(岬/パワーポイント)が発する意味作用を考えていくと「野生」の東京が見えてくる、と言っている。岬は他界への通路で聖なる場所であったと言う。そして、東京に無数に残っている貝塚について”縄文時代の人々、つまり新石器時代の人々は、海や川や山から動物を穫ったとき、きれいにお料理したりして食べます。そして食べた殻をぜったいに安易なところに捨てたりしませんでした。魚を食べた場合は、魚の骨をぜんぶ残して、特に「骨を折らない」ということが重要だったようです。・・・骨を水の世界へていねいに返すことによって、魚がもう一度、人間の世界へもどってくる。また体をつけて、人間の世界にもどってくる。そういうことを期待してやっているのです。貝殻についても同じだったと思うんですね。”このように縄文地図をもって東京を見て行くと、全然見えなかった世界が見えてくる、そんな目鱗させてくれた一冊であった。丁度、三木成夫さんが言うところの「生命記憶」(「胎児の世界」中公新書)のようにどこか深いところから立ち上ってくる感覚である。私は、今日のライフスタイルの原型が江戸時代に出来ていることから、かなり江戸時代をスタディしてきた。しかし、更に1万年単位で遡る「野生の思考」にヒントとなる視座を感じた。つまり鳥の目を持ちつつ、1万年前の思考に思いを掘って行く、そんな「感性」が求められていると思う。
2006.03.19
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失われた絆を求めて 2006.3,12,先週 久世光彦さんが亡くなられた。「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」等私達にとって楽しませてくれた身じかなテレビプロデューサー(作家)である。久世さん論を展開する気はないが、時代に向き合ったお一人だと思っている。その「時代」とは、昨年11月にこのブログで書いた「Always三丁目の夕日」と重なっている。そして、重なっている「時代」の中心には家族・絆があると考えている。がんこ親父とそれを支えるお母さん、生きること=働くことに一生懸命だが暗さはない、狭い部屋ではあるが真ん中にはちゃぶ台があり、互いに表情がわかる家族。幼少期は遊びが全てであり、歓声が聞こえ誰がどこで何をしているか雰囲気でわかる時代であった。そして、今不振が続くプロボクシング界にあって亀田父子に注目が集まったり、プロゴルファー横峯さくらパパ人気など、どこかで失われてしまったものへの回帰が始まっている。さて、核家族化が言われてから十数年経過し、単身世帯は1/4を数年前に超え、DINKS世帯を含めると全世帯数の50%を超えている。私は数年前からシングルライフにおける「単位革命」を指摘し、社会の単位がファミリーから個人単位へと移ってきたことをレポートしてきた。ヒット商品的に言えば、一人鍋であったり、モノ単位の売り場やメニューがテーマ単位(例えば、今流行の血液サラサラコーナー等)に移行していくことであった。ここではそうした単位革命についてはふれないが、「家族」という単位変化について考えてみたい。ここ十数年社会に登場してきたキーワードと言えば、不登校、家庭内暴力、凶悪少年犯罪、引きこもり、ニート、こうした言葉は少なくとも「寺内貫太郎一家」や「Always三丁目の夕日」にはなかった言葉である。おそらくこうした家庭崩壊が社会の表舞台に出てきたのは1983年の「戸塚ヨットスクール事件」であったと思う。このブログでも一度取り上げたが、夜回り先生こと水谷修さんに駆け込んでくる少女達がいかに多いか、家族の絆が既に残っていない家庭がいかに多いかがわかる。ことの本質は教育や育児の問題であると思うが、ここでは失われた絆をどう取り戻していくのか、既にその芽が出始めていることをテーマとしたい。まず、最近のファミリータイプのマンションを見ていくとある工夫がなされたものが出てきている。「寺内貫太郎一家」の居間はいまやリビングとなったが、ダイニングからでもリビングが見え、母親と子供との距離感をなくす工夫である。あるいは「食育」といった堅苦しい話ではなく、母と子が一緒に料理を作っていくキッチンや料理教室等が始まっている。本来であれば「寺内貫太郎一家」の如くちゃぶ台をヒックリ返すように「真正面」から向き合えばよいのだが、少しづつではあるが絆を取り戻す気づきが始まっている。つまり、関係を結ぶ「場」の距離感を近くして行く工夫である。更に「時」という視点に立つと膨大な市場が見えてくる。それは「記念日市場」である。一般的にはギフト市場ということになるが、この考え方の延長線上には「ファミリーイベント市場」として見て行くことができる。ファミリー旅行は言うに及ばずファミリー用の個室が用意されているレストランなど、ファミリー「時」を共有する出来事・メニューづくりである。特に、これからの商業は「次のファミリースタイル創造」へと移っていくと思う。親子の参加・体験、親子が共に楽しめる、親子が一緒に作る、・・・バラバラになった個人を今一度家族という絆へとつなぎ直して行く、ファミリー再創造市場の出現である。特に、団塊世代のジュニアがパラサイトから家庭を持つ時へと至りつつある。「Always三丁目の夕日」のような幼年期を送った団塊世代にとって、「家族」というキーワードは重要である。そして、二世代ファミリーだけではなく、三世代ファミリー市場がこれから広がっていくと考える。「母娘消費」から「新たなファミリー消費」への進化である。
2006.03.12
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「生き方」コンセプトの時代・つづき (3) 2006.3,5,耐震偽装事件、ライブドア事件、東横イン・・・・ここ数ヶ月経営における不祥事が続いている。昨年11月多くの経営者を始めマネジメントに携わる人にとって師として仰ぐピーター・ドラッカーが亡くなった。書籍でしか知らない私であるが、経営を単に経済活動であると考える経営不祥事が続発している現実に対し、ドラッカーの言葉を思い出すにつけ何ともやりきれない思いでいっぱいである。ドラッカーは経営リーダーの責務について”真摯さを絶対視して、はじめてマネジメントの真剣さが示される。・・・・・・真摯さはごまかせない。ともに働く者とくに部下には、上司が真摯であるかどうかは数週でわかる。無能、無知、頼りなさ、態度の悪さには寛大かもしれない。だが、真摯さの欠如は許さない。そのような者を選ぶ者を許さない。・・・組織が腐るのはトップが腐るからである。「木は梢から枯れる」との言葉どおりである。範とすることのできない者を高い地位につけてはならない。”(P、ドラッカー「マネジメントー課題・責任・実践」より)先週書いたジョイフル本田、オートウエーブ、叶匠壽庵には創業者の経営への「真摯さ」が至るところに見、感じることができる。「真摯さ」とは私流の言葉でいうと「生き方」経営となる。既に亡くなられているがダスキン創業者の鈴木清一もそうしたお一人であった。今から31年程前にダスキンの仕事に携わらせていただいたのだが、まだ創業時の雰囲気・熱気が社内に充満していた。時間はあってないようなもので、1人2役、3役当たり前のように働いていた。ダスキンでは社員と呼ばずに「働きさん」といっている。「はたを楽にする」の意味で、回りの人や加盟店さん、大きくは社会に対し貢献しようという使命から生まれた創業者ならではのアイディアである。創業の時に”社会のお役に立てないのならば、どうぞ神様この会社をつぶしてください”と祈ったとお聞きしている。それでも急成長企業にはありがちな小さな事件は日常的に起きていた。そして、その度に鈴木清一は泣いて諭していた。「無一物中無尽蔵」を絵に描いたような方で、長屋に住み、休みは死んでからにしますと24時間働かれた方である。May I Help You?何かお役に立つことはありませんか、がポリシー&行動で、常々お金は後からついてくると話されていた。オートウエーブの広岡会長のいう「親切が先、ビジネスは後」と同じである。BSE、鳥インンフルエンザ、社会保障不安、格差社会、相次ぐ少年犯罪、幼児への凶悪犯罪、言葉にならない不安感を誰もが持っている時代である。 心の扉は閉じられ、洪水のように押し寄せる情報に翻弄されることにも疲れてしまっている。そうした時代にこそ、「生き方」共感がキーワードとなる。大仰な理念をいうのではなく、目の前のお客様に「たった一言」「たった1つのアクション」を真摯に本気になって示せばよいのだ。もし、その一言、1アクションが普遍性をもっているとすれば、それは大きなヒット商品となる。
2006.03.05
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