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ヒット商品応援団日記No85(毎週2回更新) 2006.7.30.前回欽ちゃん球団の活動を借りて「コミュニティ事業のあり方」についてふれてみた。スポーツというエンターテイメントを借りた街おこし、地域起こしと共に、各地域盛んなのが動物園、水族館といった自然をテーマにしたテーマパークのリニューアルである。少し前に夕張市との比較で取り上げた「旭山動物園」の再生、そのコンセプトとなった「行動展示」という考え方が多くの動物園、水族館で取り入れられてきた。例えば、シロクマの行動展示では、最大の好物であるアザラシ(=観客)がさもいるかのような仕組み、見せ方が構造上作られている。アザラシ(=観客)をめがけてシロクマが飛びかかる、観客はその野生にびっくりするといった、野生のもつ行動を興味深く展示する考え方で全ての動物が展示されている。これは私たちが知らなかった野生の一面、不思議さを見せてくれている。再生に取り組む「バカもの」と共に、このコンセプトが倒産寸前の旭山動物園を救ったのである。都市化によって失ってしまった最大のものは自然である。切り身なっている魚しか知らない子供たち。図鑑の中でしか見たことのない動物。コンクリートの割れ目にけなげに出てきた「根性だいこん」が全国で話題になる時代である。都市、特に東京に住んでいると自然が自然である気象という情報すらあまり気にかけることもなく過ごすことが可能である。交通網や地下街が発達し雨にぬれることなく目的地まで行くことができる。こうした便利さに慣れてしまっているのが都市生活者である。そして、唯一自然を感じるのが「四季」であるが、そんな季節の移ろいを感じる時間の余裕さえない。身の回りにいる動物と言えば、ペットだけである。そのペットですら人気犬の過剰交配により障害犬が生まれている時代である。ある意味でコンクリートに覆われたことによるヒートアイランド現象や突然の集中豪雨による都市水害に唯一の自然を感じている。こうした時代にあって、エコロジーや自然世界を構えて提案したり、理屈で理解を深めようとしても、残念ながらコミュニケーションとしては成立しない。勿論、エコロジー理解者は市場として存在し、日本は世界においてエコ先進国であると思う。しかし、都市においては体験、体感する術が圧倒的にないという現実がある。こうした体験、体感するマーケティングにおいて旭山動物園が教えてくれたことは、理屈としての学習ではなく、子供たちの興味世界を入り口とした<体験楽習>こそが重要なポイントとなる。動物園ばかりか、地元市民、商店街の反対を押し切ってオープンさせた金沢21世紀美術館も同様である。現代アートをテーマとした美術館で、子供たちには理解できないというのが反対論者の意見であった。しかし、見事に悲観論者を裏切り、子供たちの人気のスポットとなった。子供たちの興味、遊び場としての美術館、というコンセプトの勝利であった。まるで歩道から通り抜けられるような美術館との導線、見るものと見られるものとの逆転がはかられた空間、声を上げてもよい自由な環境。従来の静かに構えて見るといった美術館とは大きく異なる。子供たちにとって、アートは遊び場であり、興味のおもむくままに感じ取れる、まさに学習ではなく、<感性楽習>の場となっている。あえてこうした事例を出したのも、動物園や美術館の再生を別な視点から見ることによって、他の市場への大きな着眼になるからである。どんなところに興味が集まっているか、関心はどこに注がれているか、好きな世界はなにか、そうしたことを「入り口」に、ちょっと触れてみる、声を上げてみる、肌で感じてみる、そうした体験による楽習こそがあらゆるマーケティングに必要となっていることが分かってくる。「冷凍みかん」にしろ、「天マス」にしろ、コンセプト着眼は「思い出消費」であり、遡る時間の長短の違いがあるだけである。冷凍みかんは「学校給食」という思い出であり、天マスはそのレトロなパッケージ表現となっている。若い子たちの興味がどこにあるのかは、明確に押さえられている。しかし、ヒット商品となるにはその継続にある。そのためにはモノとしての商品魅力だけではなく、その商品を使うことそのものに新鮮さを感じ取れるような方法論が必要なのだ。つまり、××××法、○○○○式、△△△△プログラムといった方法論こそが売れるのである。例えば、冷凍みかんであれば「学校給食式」というブランドのなかの1アイテムにするのも良いかもしれない。勿論、「学校給食式」というブランドコンセプトにするのであれば、育ち盛りの子供たちにとって一番必要な「栄養バランス」がメニューコンセプトとなる。旭山動物園のコンセプトは「行動展示」であるが、私のことばでいうと、「野生式」とか、「生命式」といったコンセプト表現となる。担当される商品やサービスに、例えば方法論として○○○○式という視点で見直していくと必ず異なる世界が見えてくると思う。(続く)
2006.07.30
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ヒット商品応援団日記No84(毎週2回更新) 2006.7.26.欽ちゃん球団こと「ゴールデンゴールズ」の存続が決まった。欽ちゃんの責任の取り方について注目を集めた一つの事件であったが、メディアは好意的に球団の存続を含め報道したと思う。これは欽ちゃんの人徳だと皆思っている。今回の欽ちゃんによる存続判断は、判断を会社(内部)ではなく、社会(外部)にまかせた点にある。社会の声にまかせること、それが唯一生き残れる道であると欽ちゃんは判断したのだと思う。私は前々回「三方よし」というテーマで近江商人のビジネスの心得について書いた。今回の欽ちゃん球団の存続について欽ちゃんは欽ちゃん球団から市民球団へと変わりますと宣言してくれた。「売り手よし、買い手よし、世間よし」という三方よしではないが、球場へ足を運ぶ地元フアンよし、世間・社会よし、となったが、広島カープのようにユニークな社会人クラブ球団よし、となって欲しいと思う。私流のことばで言うと、コミュニティ球団として経営していって欲しいと思う。今回の事件で「世間よし」となったのは、欽ちゃんの人柄・人気もさることながら「夢列車」にあると思う。夢という未来を語れるリーダーがいかに少ない時代になってしまったということでもあろう。三方よし、という夢列車だから多くの人が欽ちゃん劇場と言いながらも共感したのである。さて、課題は「売り手よし」という球団経営についてである。欽ちゃんによるボランティアであってはならないと私は思う。夢列車という理念を欽ちゃんは掲げてくれた。後は、どう継続して夢列車を走らせるかである。つまり、継続は「経営」の最大テーマであり、コミュニティビジネスとして成長していかなければならない。NPO法人ゴールデンゴールズにはその芽が出てきていると私は思う。その1つはゴールデンゴールズをブランド化する試みである。現在は鶏卵や農産物にゴールデンゴールズのラベルを貼っており、逆の意味でゴールデンゴールズをPRしているにすぎない。ゴールデンゴールズというネーミングは糸井重里さんがつけたのだが、新しい野球の楽しみ方、欽ちゃんのパフォーマンスを含め、マーケティングでいうと新しいコンセプトを持っている。野球を新しい切り口のエンターテイメントとしてコンセプト化した訳だから、同じように鶏卵にも農産物にも”新しい面白がり方””楽しい食”としての「何か」が必要である。つまり、「食」の新しい物語づくり、コミュニティブランドづくりである。それは欽ちゃんファミリーではないが、テーマ設定としては安全・安心を踏まえた「食卓」「ちゃぶ台」を囲んだ家族の<食育物語>というコンセプトでブランド成長をはかるのも面白いかもしれない。さて、今回の事件を取り上げたのも地域活性の良きモデルになると思ったからである。スポーツを街おこし、地域起こしに活用して成功しつつあるのは周知のアルビレックス新潟である。”スタジアムへ行こう!”をキャッチフレーズにお年寄りまでもがユニフォームを着て平均4万人を動員しているサッカー球団である。私も一時期京都サンガをお手伝いしたことがあるが、球場でのライブはまさに「感動」の二文字であった。今年4月の商標法の改正により、地域ブランドが可能となった。しかし、地域の名前をつければそれでモノが売れることなどありえない。「感」が動くような何かが問われているのだ。シャッター通りと化した商店街のなかにあって、今なお元気な商店街の代表は東京世田谷の千歳烏山商店街(えるも~る烏山 http://www.elmall.or.jp/)であろう。地域通貨「ダイヤスタンプ」の交換のしやすさと豊富な特典で注目された商店街である。こうした特典の仕組みも必要と思っているが、このエリアには区の出張所でもある烏山区民センターという人が集まれる「場」が用意されている。そして、2ヶ月に1回程度のイベントやセールといった小さな出来事が実施されている。このえるも~る烏山には「感」を動かすテーマと仕組み(=地域通貨)、集まれる場(=区民センター)と集積力(=加盟店120店)があり、それらの小さな出来事情報を各店で発信している。理屈っぽく整理したが、こうしたコト起こしには「バカもの」「ワカもの」「ヨソもの」が必要となっている。アルビレックス新潟もえるも~る烏山もスタート当初には「バカもの」がいたと思う。今、ゴールデンゴールズは欽ちゃんという「バカもの」と野球好きの「ワカもの」がいる。後は「ヨソもの」という外からの眼が必要であると思う。コミュニティの場合、往々にして「ヨソもの」を排除したがるものである。今回の夕張市がそうであるように、手前味噌な投資による地域活性は必ず破綻する。行政であれ、メーカーであれ、生産者であれ、ゴールデンゴールズであれ、夢あるコミュニティ事業として、「継続」というテーマに取り組める<経営者>が今必要となっている。(続く)
2006.07.26
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ヒット商品応援団日記No83(毎週2回更新) 2006.7.23.このブログをスタートさせ一年弱になる。当初一週間で70~80のアクセスであったが、エリアを広げ複数のブログに書き始めたこともあり400アクセスを超え、累計で1万アクセスを超えた。感謝!マーケティングという専門分野であり、しかもご覧いただいている方との共通の言葉、文脈をもたないまま公開してきた。私自身もまだまだ勉強中であり、コミュニティの時代を迎えようとしている今、埋もれているヒット商品をぜひ教えていただきたい。コメントあるいはトラックバックはフリー(但し、アダルト関連については削除しています)で、またHP(http://homepage2.nifty.com/iizuka-takashi/)には応援団のメンバープロフィールも公開しているので是非ご覧いただきたい。私のブログはこれからヒットするであろう着眼点や視座について書いている。既にヒットしている商品や業態、サービスについてはYahooのランキングサイトを始め多くのメディアも取り上げているので取り上げるつもりはない。例えば、以前話題となった「冷凍みかん」について触れたことがあるが、GTOというミュージシャンの歌と連動させていることと共に、団塊世代ばかりか若いティーンにも過去に遡って消費している点、「プチ思い出消費」について指摘したかったからである。冷凍みかんだけでなく、学校給食の上位には「揚げパン」もあり、コンビニには既に置かれており人気商品の一つとなっている。そのように未来をどう見ていくか、その着眼点をこのブログを通じて提供していきたいと考えている。実は、先日私のパソコンが壊れ、HDを交換してもらう2時間ほど久しぶりに渋谷の街を歩いた。公園通りからセンター街、渋谷109へと歩いたのだが、2000年前後のティーンのファッションやメイク、いわゆるガングロ・山姥とかなり変わってきているなと感じた。当時のおどろおどろしいスタイルから、婆娑羅の世界を残しつつもう少し大人っぽく洗練されたスタイルになっていた。理屈っぽくいうならば、「大人化」は着実に進んでいるなと思った次第である。ところで、今流通をはじめ多くのビジネスがいかに「顧客に近づくか」様々な試みがなされている。顧客に近づくとは、常に揺れ動くこころ、意識下にある潜在的な動きを把握することに他ならない。今から10年以上前、コンビニの成功はPOSデータの読み取り、分析にあると言われてきた。店頭には常に小さな変化、新商品は次から次へと投入され、その結果をPOSデータとして分析&ストックされてきた。その代表が1日の来客数2600万人のデータを読み取ってきたセブンイレブンであった。勿論、ローソンもファミリーマートも同じ方法をもって競争してきた訳である。しかし、以前気に入った商品が来てみると店頭になかったり、店頭にある商品を選択するに足る情報がなくて迷って買わなかったり、つまり顧客心理の奥を読み取るにはPOSだけでは不可能であった。こうした顧客心理を読み取る2つの競争が始まっている。1つは周知のICタグ・デジタル技術を活用してより顧客心理に近づこうとする試みである。商品についたICタグにより、瞬時に精算できるという便利さの向上だけではなく、顧客が商品を手に取ったかどうか、結果購入したか否かを分析する試みである。つまり、店頭での消費行動、どんな動きをしたかを分析しようとするnext POSへのトライである。もう一つの方向はセブンイレブンでは「ご用聞き」活動で訪問対話による顧客心理の把握であり、ローソンではシニア向けの店舗ではシニアの店長を置いたり、シニア同士が集い会話してもらえるようなコミュニティスペースを作ったりする試みである。旧来の商店街では当たり前であったアナログとしての対話や配達を取り入れる試みである。さて、こうしたこころの奥まで入り込む方法についてどちらが正解かという問題ではない。おそらく2つの方法の組み合わせになるだろう。但し、問題は個人情報の取り扱いである。いくら法が整備されても、見えないところで個人情報は使われている。個人情報活用の代表的事例としては、あの書籍ネット通販のアマゾンだと思う。いわゆるカスタムメイドサービスで、以降多くのネットを含めた通販型のビジネスモデルに採用されてきた一つのシステムである。そのシステムのお手本はアナログ世界、例えば馴染みのレストランでは名前ばかりか前回食べたメニューをお覚えてくれていて、そうした履歴情報をベースに今回のおすすめを用意してくれるといったサービスであろう。こうしたアナログ的世界、別なことばでいうと記名された世界を、IT技術を駆使しストックされた情報をもとにシュミレートし、アナログと同様の顧客サービスを匿名世界においても行う時代となっている。わかりやすく言えば、問い合わせや購買といった「履歴情報」をストックし、アクションの結果を突き合わせ精度を高めていく方法である。専門的なことに入ってしまったが、こうしたデジタル世界を私は否定している訳ではない。問題は「無自覚」のまま、生活に取り込んでいるということにある。ある意味では「管理された」世界に住んでいると言える。このことを可能にしているのは、ことばにならない「不安」であろう。コンビニにおける新しい2つの試みも、「不安解決」を入り口にしたこころへのアプローチであると考えている。単純化していうと、ICタグのついた商品を手に取ったが結果購入しなかった場合、なんらかの不安があり、パッケージなどの情報では不安解決に至っていないと判断するであろう。また、シニアのこころはシニアが分かってくれるであろうという不安解決法の一つである。今、こころの解読競争が始まった。(続く)
2006.07.23
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ヒット商品応援団日記No82(毎週2回更新) 2006.7.19.前回、近江商人の商いの心得について触れたが、今日のビジネスあるいはCSRといった企業の社会的責任について示唆的な内容を持っているので「三方よし」について私の考えをコメントしてみたい。「三方よし」とは、「売り手よし、買い手よし、世間よし」という三方が良しとした近江商人が到達した「商いの精神」である。ところで日本の商人とはかくあるべしと一つの潮流を作ったのが周知の石田梅岩である。江戸時代の当時は士農工商という身分制度のもとで、物を右から左へと移動させるだけの商人を卑しいものとして見ていた。しかし、石田梅岩は欲しい物を欲しい人に交換させる社会的意義を語り、利潤は正当なものであると明確にした。但し、その利益を得る前提として、売り手、買い手双方にとって利益を生むものでなくてはならいと商道徳を説いた。この考え方は江戸末期の二宮尊徳や明治時代の渋沢栄一へと受け継がれていく。ある意味でこうした考え方を現場で実践したのが近江商人で、私達にとってより分かりやすい一つの物差しとなっている。今、近江商人発祥の地である滋賀県の経済同友会では、相次ぐ企業の不祥事を踏まえ、この「三方よし」に取り組み始めている。詳しくはHPをご覧いただきたい。(http://www.shigaplaza.or.jp/sanpou/index.html)ところでこの近江商人の心得には私達にとって活用しえる物差しが沢山あり、その一部をピックアップしてみた。しまつしてきばる/ビジネスマンの心得滋賀県近江ばかりでなく京都などでも耳にする日常の心構えである。倹約につとめて無駄をはぶき、普段の生活の支出をできるだけ抑え、勤勉に働いて収入の増加をはかる生活を表現している。「しまつ」は単なる節約ではなく、モノの効用を使い切る、生かしきることであり、「きばる」は、「おきばりやす」という挨拶につかわれているくらい日頃から親しまれた言葉である。近江商人の天性を一言で表現している。 暖簾(のれん)/ブランド資産近江商人の家訓に「暖簾」という文字を見出すことは難しいと言われている。しかし、奉公人に別家(暖簾分け)を認める際の祝い品のなかには、たいてい暖簾が含まれている。それは、大切な屋号を長年の勤功と信用の証しとして与えているのである。主家の一統であることを示す暖簾は、世間の信用も厚く、別家として独立した商売を始めようとする奉公人にとっては、何よりの資本といえるものであった。今日でいうところのブランド資産である。乗合商い(のりあいあきない)/一種のコラボレーション多店舗展開のための資金調達の方法として創出されたのが、乗合商い(組合商い)と呼ばれる一種の合資形態をとった共同企業の形成である。酒造業を中心とする矢尾喜兵衛家の出店網は、地元の酒造業者から施設店舗を居抜きで借り受け、奉公人を支配人として送り込むやり方で作られた。その動機には、資本の有効活用・危険分散・人材の活用という、経営合理主義が貫いていた。 出精金(しゅっせいきん)/モチベーションの仕組み(ストックオプション&ボーナス)出店する支配人の勤務意欲を刺激するために、給料以外に利潤の一部を配当する制度のことである。出店の決算では、経営資本に対して一割ほどの自己資本利子を課し、それを組み入れた資本額を超える正味財産がその年度の利益となり、算出された利益の一部が出精金として配分された。営業の最低達成目標を示した強制蓄積制と支配人への能率刺激制を組み合わせた、出店管理の経営手法であった。 陰徳善事(いんとくぜんじ)/企業市民としての社会貢献人に知られないように善行を行うことである。陰徳はやがては世間に知られ、陽徳に転じるのであるが、近江商人は社会貢献の一環として、治山治水、道路改修、貧民救済、寺社や学校教育への寄付を盛んに行なった。文化12(1818)年、中井正治右衛門は瀬田の唐橋の一手架け替えを完成した。1000両を要した工事の指揮監督に自らあたり、後の架け替え費用を利殖するために2000両を幕府に寄付した。押込め隠居(おしこめいんきょ)/取締役会決定当主を強制罷免することである。今でいうところの社長交代である。正当な利益を積み上げて築かれた家産を、一己の欲望のために傾けるような当主が出現した場合は、後見人や親族が協議して当主を押込め隠居の処分にした。これは家訓でも認められており、単なるお飾りの文言ではなく、実際に発動されたことのある、生きた条文であった。積み上げられてきた家産は当主の私物ではなく、一種の法人財産と見なされていたのである。さて、近江商人の経営理念のごく一部であるが、どう感じられたであろうか。”ルールは犯していませんよ。倫理なんて時代によって変わるんだから”と公言したのは堀江前社長。”めちゃくちゃ儲けましたよ”と会見で話した村上代表。石田梅岩の流れをついだ二宮尊徳は「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」と書き留めている。経済も道徳も共に必要である。そして、とことん儲けたビルゲイツも、悪名高いヘッジファンドのジョージソロスも共に慈善事業・社会貢献をしている。いわゆるビジネスと生き方(倫理など)とを分ける考え方である。こうした考え方の中に堀江前社長や村上代表も入るのであろうが、私にとって「三方よし」のようにビジネス=生き方として見ていくことの方が「未来」が見えてくるように思えてしかたがない。今、パロマガス器具の責任回避とも受け止められかねない会見があったが、少し前に同様の不祥事に対し刑事事件では既に時効になってもなおかつ回収に走り回っている松下電器と比較してしまう。マスコミは企業の危機管理を指摘するが、そうしたテクニックも必要であろう。しかし、松下幸之助創業者は「会社は社会の公器である」と名言している。その理念がキチンと現場にバトンタッチされていることの中に、実は未来が見えてくると私は思う。(続く)
2006.07.19
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ヒット商品応援団日記No81(毎週2回更新) 2006.7.16.あまり報じられていないが滋賀県の県知事選挙で無所属の嘉田さんが自公民をバックにした現職知事を破って知事となった。環境をテーマに東海道新幹線の新駅建設凍結を公約に掲げ、その時のキャッチフレーズが「もったいない」であった。政治的なことは別にして、この「もったいない」という日本語に着目してみたい。「もったいない」のもったい(物体)とは、もともと仏教用語で、物の本来あるべき姿になっていない、生かされていない、無駄になるのが惜しいとする言葉である。京都の庶民生活に今なお残っている「始末」ということばにつながっていることばである。以前取り上げた「えんぴつで奥の細道」ではないが、日本語、日本文化への再着目と共に、日常語の世界に戻る傾向を読み取ることができる。子供の頃、ご飯が少しでも残っていると”もったいない”と怒られたものである。特に、日本語の場合、使われ、磨かれ、新たな意味を付与され、といった時代の変化がことばの中に堆積されている。つまり、ことばは数千年前の世界とつながっており、遡ることができるアナログ感性の世界である。一方、私達はことばを圧縮し、記号として使ってきた。「マルキュー」(渋谷109)や「セカチュウ」(世界の中心で愛を叫ぶ)、最近では女子高校生のヒット商品「天マス」(天まで届け!マスカラ)まで、ほとんど圧縮されることを想定してネーミングされている。猛スピードでことばをやりとりするには、デジタル化は不可欠である。というより、デジタル技術によって、このスピードが可能となったのだ。既に、死語となっているが、「ドッグイヤー」ということばの如く、時を駆け抜けてきた。以前、「二十歳の老人」というキーワードで若い世代の特徴を指摘したが、情報体験だけであたかも老人の如く達観してしまっている若者についてである。今、コラムニストの天野祐吉さんはブログ(http://blog.so-net.ne.jp/amano)にて若者の「ことば感覚」に触れ、ことばの本来の意味がわからないと嘆くのではなく、時代を色濃く映し出していることばとして、その遊び心、新感性を認めている。例えば、若者からの新解釈・珍解釈として、「目が肥える」「ヘロいん」さんの答;ヒアルロン酸の注入しすぎ。成形の失敗。「チンゲン斎」さんの答;情報の取り込みすぎで肥えた目へのダイエット勧告。前回「こどもびいる」のネーミングの妙について書いたが、私たちは物を買っているように見えて、実はその物に取り込まれている意味や情報という「物語」を買っている。その表現としての「ことば」は重要であり、ゆとり感、遊び心が必要になっていると思う。ある意味で、ことばはデジタルからアナログへと向かいつつあり、その向かう先は過去という世界もあるが、今感覚もある。デジタル世界は0と1、白と黒、善と悪、好きと嫌い、といった二者択一的世界であるが、0.5もあるよね、これは好きだけれどこの部分はチョット嫌い、とした第三の世界、第三の感性がやっと表舞台に上がってきた。そして、地域には地域固有のことば、文化がある。冒頭の知事選の滋賀県は近江商人発祥の地であり、商人の教え「三方よし」がまだビジネスに生きている土地である。「三方よし」とは、「売り手よし、買い手よし、世間よし」という三方が良しとした近江商人が到達した「商いの精神」で、「一人勝ち」は決してうまくいかないということでもある。このように潮目が変わってきたと言えるのだが、この「もったいない」を今の若者が解釈したとするならば、どんな新解釈、珍解釈がでてくるだろうか。勿論、「もったいない」と同様の運動の一つにLOHASがあることは周知しているが、自前のことばで素直な感性で解釈したらどんな世界が生まれてくるであろうか。ここに、新市場創造の着眼がある。(続く)
2006.07.16
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ヒット商品応援団日記No80(毎週2回更新) 2006.7.13.ここ10年程「癒し」が都市生活者にとって大きなテーマとなっている。このブログでも「個人化」というキーワードを何回も使ってきた。マイブームは私用化であり、オーダーメイドによる「お取り寄せ」も盛んで、飲食店にまで個室が完備されてきている。しかし、個人化とはその本質が「孤独化」でもあることが、自覚され自己解決策がとられ始めてきている。そして、この孤独化を更に病的にまで進めてしまうのが「ストレス社会」である。数年前、「快眠」をテーマに眠り市場をスタディしたが、不眠の主要原因はストレスであった。そのストレス背景であるが、家庭内ストレスも多くあったが、最大原因はやはり急激なる「働き方の変化」にあった。特に、1990年代のビジネス進化を整理してみると、1、知識集約型ビジネス=精神労働化時代へ→こころの疲労、こころの強化、2、圧倒的なビジネススピードの時代へ→生活リズムの喪失、モードチェンジの難しさ、3、個人契約労働化の時代へ→見えないストレス、自己解決こうした背景から、ビジネスを終えて帰宅してもなかなかリラックスした自分に戻れない、そんな解決策として様々な癒し商品が生まれてきた。日常でのモードチェンジのための商品では、バスルームの充実がはかられ、香り商品も人気商品となった。勿論、快眠のための枕をはじめとした商品にも注目が集まった。あるいは、東京では恵比寿をはじめ多くの若いビジネスマンが帰路立ち寄るショットバーが繁盛している。更には、季節単位でのモードチェンジとして、沖縄離島などのリゾートが大人気となっている。この延長線上にはアニマルセラピー、もっと身じかにいうならば、ペットブームがある。現在、1200万頭の犬がペットとして飼われ、ペットにもトレンドがあり無理な交配が障害犬を生んでいることは周知の通りである。少し視点を変えて見ていくと、「お笑いブーム」も一時ストレス解消娯楽であり、直接的ではないがエステも同じリフレッシュ効果がある。極論ではあるがファッションやアクセサリーの購入を見ても「自分へのご褒美消費」としての側面を持ち、自己癒し消費と言えよう。つまり、私達の回りにある市場の多くは「癒し市場」としての側面を併せ持っているという事実である。情報分野で言えば、こうしたブログ仲間、ネットコミュニティも孤独者同士がネット上で会話することも癒しと言えなくはない。今流行のヴィンテージジーンズや古民家、和雑貨など和ブームも歴史という時間のもつ「深さ」「穏やかさ」といった「美」が本質としてもっている癒しにつながっていると思う。そして、この分野での最近のヒット商品の代表は、1ヶ月程前「感の時代」で取り上げた「えんぴつで奥の細道」であろう。ところで「こころに効く商品」で一番分かりやすい商品は、確かこのブログでも取り上げた「こどもびいる」であろう。福岡のもんじゃ鉄板焼「下町屋」(http://www.monjayaki.com/)が飲料「ガラナ」のラベルを「こどもびいる」に張り替えて出したところ、人気メニューになり全国に広がった、あのヒット商品である。チョットお洒落に、クスッと笑える、一種の癒し商品である。最近では「アヒルサイダー」を出しているようだが、できれば「おとなびいる」というノンアルコール系の「和みビール」でも出して欲しかった。いずれにせよ、ネーミング・ラベルという伝え方一つでこころに効くヒット商品となる。こうした「こころに効く」着眼市場は益々広がっていく。数年前までは一種の「隙き間市場」であったが、どの市場であれ、「こころに効く商品」がキラーコンテンツとなって当該市場全体を牽引していくこととなる。(続く)
2006.07.13
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ヒット商品応援団日記No79(毎週2回更新) 2006.7.9.前号で「潮目が変わった」と書いた。片方に振れていた振り子が反対方向へと向かっていく。既にその予兆はあり、昨年「Always三丁目の夕日」を始め多くの現象を取り上げてきた。劇場型から日常型へ、洋から和へ、人工から自然へ、仮想現実から体験現実へ、極端からバランスへ、刺激から穏やかさへ、軽さから奥行へと。こうした価値観の揺れ戻しを現象面から見ていくと「回帰現象」となる。例えば、原点回帰あるいは基本回帰、企業でいうと創業への回帰であり、本業への回帰となる。個人でいうと、等身大の自分への回帰となる。虚飾や無理、背伸びといったことを削ぎ落とし、自身の感受性のままに戻ろうとすることである。生活者、特に都市生活者のライフスタイル変化として見ていくと、例えば”スープカレーも食べてきたけれど、やはり本格カレーはインドのチキンカレーよね”あるいは”やはりおふくろが作るじゃがいもカレーが一番”といった現象となって現れてくる。ファッションでいうと、茶髪から黒髪への変化であり、ダメージジーンズからリーバイスのようなオーセンティックなジーンズへの回帰となる。一時的なトレンド消費から、継続する定番消費への変化である。既に、都心回帰、昭和回帰、あるいは日本文化回帰といった多くの現象が出現してきた。今、団塊シニアの動向が注目されているが、どんな回帰現象となって現れてくるであろうか。私は、まず「少年少女回帰」が始まると考えている。今流行のアンチエイジングの先、もっと生命力が、こころが輝いていた世界への回帰である。団塊世代の少年少女期はまだまだ物が乏しかった時代であった。食べることに精一杯であり、「遊び」道具にまでお金を投じることは少なかった。男性でいうと、その多くは野球少年であり、ギター少年であった。回帰の在り方からいうと、プロ野球でいえば、「マスターズリーグ」などは今後更に盛んになるであろう。ギター少年は周知の「おやじバンド」が全国隅々まで結成され広がるであろう。高額の楽器が不思議な程売れると思う。いやもう既に売れている。こうした趣味、スポーツでの回帰は益々盛んになっていく。ある意味ではコレクター、「大人のオタク」が遊び道具を求めて街の横丁・裏筋に出かけることとなる。3ヶ月程前のTV番組「人生の薬園」だと思ったが、子供の頃憧れの食べ物であったオムライスをメインにしたお店を夫婦二人でオープンさせるストーリーであった。今の若い世代にとって卵はありきたりの食品であるが、当時は大切な栄養源であった。朝食と言えばご飯にみそ汁、あとは納豆か生卵であった。周知の通り、今や「納豆ブーム」であり、「卵かけご飯専用醤油」が注目されている。ところで、話を元に戻すが、ご夫婦の店づくりに奥さんも協力するのだが、奥さんにも小さなやり得なかった夢がある。その夢は手芸であり、作られた手芸品を店のなかで販売することがオムライス店出店の条件であったという。こうした小さな起業も「少年少女回帰」の一つだと思う。つまり、全てがやりえなかった「自己表現=小さな夢」として回帰していく。好きな山登りが高じて、ヒマラヤを目指すシニア登山家、好きで集めたLPレコードを聞いてもらいたくてカフェを開店させる、こうした一見不思議に見える現象が至る所に現れてくる。少年少女期に描いた夢をかなえることの中に、いやその夢そのものに多くのビジネスチャンスが生まれてくる。社会人学校を含め、各人のテーマに沿った専門学校が流行り、シニアと若い世代が共に勉強するといった光景が増えてくる。再学習、再楽習といったスクール市場が大きくなり、百貨店や専門店、あるいは旅行代理店はこうしたスクールとネットワークを組むことになる。例えば、自然に囲まれたいと山歩きを始め、次第に本格的登山の講習を受けるようになる。当然、登山用具はまるでプロのようなものを求めるようになるだろう。そして、いつしか憧れの山、ヒマラヤに登ってみたいと思うようになる。このように単純に物語が進むとは思わないが、少年少女が青年・大人へと成長していく様を思い描くことは重要である。既に、こうしたプログラム化やネットワーク化については百貨店から始まっている。井上陽水の初期に「人生が二度あれば」という曲がある。亡き父を想い「次なる人生を楽しんでもらいたかった」とする曲である。今や、二度目の人生を「少年少女」になって歩む時代となった。(続く)
2006.07.09
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ヒット商品応援団日記No78(毎週2回更新) 2006.7.5.小泉総理の訪米、プレスリーの聖地訪問におけるパフォーマンスも強いインパクトのある劇場演出とはならなかった。ましてや日本への帰国当日、元首相である橋本龍太郎さんの突然の逝去によって、小泉さんのパフォーマンスが対比され、ひと頃の驚きは単なる軽さへと変わってしまった。昨年の衆議院解散について、唯一正確に指摘していたのは天野祐吉さんであった。TVキャスターの質問に答え”あれは猫だましでしょ”と相撲の一手をもって喝破したのだが、この一年で私達の「感じ方」が180度変わったと思う。私は80数%の高い支持率を得た5年前の小泉総理誕生を、失礼ではあるが一つのブランドとして見立て、そのブランド戦略を分析をしたことがある。(http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/2005/08/index.html)その分析の結論であるが、ブランドとして確立したその多くの創業者は、奇人・変人と呼ばれており、社会的事件といわれるようなニュースを継続的に流し、話題を常に喚起している。シャネルもロレックスも、ソニーの創業者である井深さんも、盛田さんも、あるいはHONDAの本田宗一郎さんも皆奇人、変人であった。小泉劇場もまさに、同様の戦略をとっており、おそらくこの9月の次なる総理候補者への「バトンタッチ劇場」が最後になると思う。どんなラストシーン、劇場のエンディングとなるかはわからないが、「潮目」が変わってきている。その潮目とは、劇場型コミュニケーションから、日常型コミュニケーションへの転換である。別の言葉でいうと、メディア(情報発信)コミュニケーションから、リアル(対話)コミュニケーションとなる。人工的エンターテイメントから自然のエンターテイメントへ、仮想現実から体験現実へ、極端からバランスへ、刺激から穏やかさへ、軽さから奥行へ、・・・・・・キーワード的にはこうした劇場型から日常型への変化が加速していく。ところで地域ブランドの成功例といわれた夕張メロンの地である夕張市が財政破綻をした。632億円という膨大な債務に誰もが驚いたことと思う。そして、「メロン城」をはじめアミューズメントパークがつくられていたことに驚きを禁じえない。同じ北海道の旭山動物園と比較してみると、多くの点で「違い」が見えてくる。周知の旭山動物園も来場者の減少により閉園する瀬戸際までいった施設である。再建についてはテレビをはじめ報道されているのでここでは説明しないが、夕張市と比較すると違いが分かる。■夕張市/遊園地を含む石炭の歴史館、メロン城(醸造所)といった人工的エンターテイメント施設。□旭川市/(旭山動物園)動物の本能をリアルに体験してもらう自然のエンターテイメント施設。仮想現実のエンターテイメント世界を提供して唯一成功したのはディズニーランドである。しかし、来場者数の減少に歯止めをかけるために、今もなお新たなアトラクションを増やし続けている。今から、5年程前に、私もあるバブル期につくられた地方のテーマパーク再建のために4~5回現地を訪れプランを練ったことがある。作られた「箱もの」の活用に、あらゆる可能性・アイディアを駆使し、再建プランをつくったが旭山動物園のように好きを超えて死にものぐるいになって行動する人がいなかった。こうしたバブルのつけとでもいうべき施設は「塩漬け」にされ、あるいは廃墟となったテーマパークは全国至る所無数にある。これから、多くの地方は補助金が削減され、財政的には大変な時代を向かえる。どこも観光産業化と地場企業の活性がテーマとなっている。前号で、私は「削ぎ落とし、引き算をし、空けてみて、それでも残るもの、それは本質であり、本物であると思う」と書いた。観光産業で言えば、旧来の名所旧跡的団体観光から、その土地ならではの歴史の堆積した固有な生活文化個人観光へと変わっていくと考えている。その観光の中心は団塊世代であり、2007年以降、一斉にその旅が始まる。そして、地方のごく日常の商品から土産物を入り口にヒット商品が生まれてくるであろう。なぜなら、地方にとっての「日常」は都市生活者にとって未知の「新しさ」であり、小さくても奥行きのある文化である。但し、前号の最後に書いたように「道草」に耐えられるだけの、「感じ」とることができる「何か」を持っている商品ということになる。夕張市のような「箱もの」施設ではなく、その土地その土地ならではの固有な生活文化、日常の中にヒット商品が生まれる。潮目が変わったのだ。(続く)
2006.07.05
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ヒット商品応援団日記No77(毎週2回更新) 2006.7.2.やはり「えんぴつで奥の細道」(ポプラ社)が週間ベストセラーNO1に躍り出た。(トーハン6月27日調べ)芭蕉の名文をお手本の上からなぞり書きするいわゆる教本である。全てPCまかせでスピードを競うデジタル世界ではほとんど書くという行為はない。ましてや、鉛筆など持つことがない日常である。たまに、申請書類など直筆で書く時、こんなに書くことが下手になってしまったのかと思うことが多々ある。ある意味で、便利さから一度はなれて、自分と向き合う入り口になっているのだと思う。「えんぴつで奥の細道」の書を担当された大迫閑歩さんは”紀行文を読む行為が闊歩することだとしたら、書くとは路傍の花を見ながら道草を食うようなもの”と話されている。けだし名言で、今までは道草など排除してビジネス、いや人生を歩んできたと思う。このベストセラーに対し、スローライフ、アナログ時代、大人の時代、文化の時代、といったキーワードでくくる人が多いと思う。それはそれで正解だと思うが、私は直筆を通した想像という感性の取り戻しの入り口のように思える。全てが瞬時に答えが得られてしまう時代、全てがスイッチ一つで行われる時代、1ヶ月前に起きた事件などはまるで数年前のように思えてしまう過剰な情報消費時代、そこには「想像」を働かせる余地などない。「道草」などしている余裕などありはしない。そうした時代にあって失ったものは何か、それは人間が本来もっている想像力である。自然を感じ取る力、野生とでもいうべき生命力、ある意味では危険などを予知する能力、人とのふれあいから生まれる情感、こうした五感力とでもいうような感性によって想像的世界が生まれてくる。既に3月にこのブログで「野生の思考」で私の考えの一端を述べているので是非参考にしていただきたい。(http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/2006/03/index.html)ところで江戸時代、俳句は最も贅沢な遊びであった。有限である人生そのものを俳句という道草をする訳であるから、これ以上の贅沢はない。私は俳句の専門家ではないのでその美的感性世界を読み解くことはできないが、マーケティングとして少し読み解いてみたいと思う。和食、和のインテリアや古民家、浴衣に代表されるファッション、漢字、般若心経、・・・・洋のライフスタイルからの反転、揺れ戻しによる、いわゆる和ブームの時代に入っているが、日本の精神世界その根底にあるのが、削ぎ落とし、「引き算の美学」である。「なにもなにも、ちいさきものはみなうつくし」と言ったのは清少納言であるが、引く、空ける、削ることによって生まれる美学である。俳句でいえば、言外、行間、間に美を感じとる世界である。空間でいえば、茶室のように空白、余白、ミニマムに美を感じ取る。そうした日本古来の美学に対し、反逆した世界も出てくる。その代表例が歌舞伎であり、戦国武将の婆娑羅的衣装であろう。さて、こうした「引き算の美学」は、わびさび、あはれ、いき、といったキーワードへとつながっている。「わびさび」はよく使われる言葉であるが、「侘しい、寂しい」といった物足らない様のことであり、「あはれ」とは自然や人へのしみじみとした情感・交感であり、「いき」とは、意気地、洗練としての我慢の意味、それで良しとする一種のあきらめを含んだ色気、こうした精緻な美意識こそ日本の美である。こうした世界を今風にいうと「シンプル&ナチュラル」というのであろうが、そうした程度の表現では追いつけない奥行きのある世界である。「伝え方」も当然変わらなければならない。全てが過剰であった時代から、物語も削ぎ落とされなければならない。多くを言う時代から、たった一言、たった一幕、たった一つのアクション、によって顧客が動く時代へと向かう。その「たった一言」に感じる時代へと向かっているということである。別な視点からいうと、削ぎ落とし、引き算をし、空けてみて、それでも残るもの、それは本質であり、本物であると思う。今、言われている「質」の時代とはそうした削ぎ落とされた商品であり、流通であると思う。一度、これでもかと引き算をしてみてはいかがであろうか。対象とする市場を狭めてみる、品揃え商品を絞り込んでみる、売り場を半分にしてみる、販売スタッフを少なくしてみる、一個売りをクオーターカットしてみる、量り売りをしてみる、・・・・・そこに「何が」見えるかである。リストラをしてみるということではない。引き算をし、削ぎ落としてもなお残るもの、それがあなたのお店・商品を代表する「何か」である。顧客から見れば”いろいろあるけど、あそこはこれよね”とする「代表性」である。そして、それは「道草」に耐えられるだけの、「感じ」とることができる「何か」をもっているか否かである。そして、その「代表性」をたった一言で表現してみることだ。(続く)
2006.07.02
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