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ヒット商品応援団日記No76(毎週2回更新) 2006.6.28.ここ1~2年、全ての産業がサービス化されるに従って、「人」へのモチベーションアップの手法や仕組みが盛んに議論されてきた。つきつめていけば、違いという付加価値を最終的に産み出すのは「人」であると気づいたからである。それが、生産現場であれ、研究所であれ、勿論流通現場であれ、鉱物資源など持たない日本にあって唯一生産性と共に固有性という何事かを産み出すものこそ「人」であるということに行き着いた訳である。こうした人の成長を経営の中心においた企業の一つにダスキンがある。祈りの経営というユニークなポリシーをもつ企業であるが、その経営理念は人の本質をついた世界となっている。「一日一日と今日こそはあなたの人生が(私の人生が)新しく生まれ変わるチャンスです自分に対しては損と得とあらば損の道をゆくこと他人に対しては喜びのタネまきをすること我も他も(わたしもあなたも)物心共に豊かになり(物も心も豊かになり)生きがいのある世の中にすること 合掌 」(ダスキン祈りの経営理念)さて、皆さんはこの経営理念をどう読み解かれるだろうか?ダスキン関係者であればその理念を自分の体験を交えながら話をすることだろう。私なら今風に置き換えると、養老孟司さんの「バカの壁」ではないが、自分の勝手な思い込みで決めつけていた「自分」を解き放ちなさいと。朝、目がさめたら新しい真っ白な紙にどのようにでも描けますよ、生まれ変われるチャンスですよ、と変われる自分であることを経営理念としてもっていると解釈している。毎朝、この経営理念を声を出し全員で確認し合っている会社である。40数年前に創業した当時のベンチャー企業であればこそ、こうした自ら変化を受け入れ変わることに躊躇しないエネルギーとアグレッシブさが必要であったのだと思う。しかし、40数年前も今も「変化」に対する受容に変わりはない。逆に、パラダイムの変革台風の中心に入っている現在こそ必要な経営であると思う。未来は茫洋とした先にあるのではない。今、変化し続けることの中にしかない。今、個人化が進行し、ビジネスにおいても個人力の総和がビジネスの基礎となりつつある。米国では三千数百万人のフリーエイジェントが活動していると言われている。一昔前、”数パーセントの優秀な人間さえいれば会社は成長する”と言われてきた。実際、そうした数パーセントの人間によって伸びてきた事実もあった。しかし、今日そんな悠長な時代ではない。一人一人が戦力となって競争しており、社内の垣根を超えたプロジェクトやアライアンスといったビジネスが日常化している。個人+個人という足し算ではなく、個人×個人という自乗倍の世界へと変化するのが人のもつ潜在資源力である。そして、ビジネスは継続であり、個人ではその発想力やアイディアに限界があり、チームという考え・単位が必要になっていると思う。いわゆるチームによる「協業」である。映画やオーケストラ、あるいは農業における協業にも例えられるが、それぞれが専門分野という役割を果たしながら、相互に刺激し合い高め磨き上げる仕事術である。こうしたチーム経営、プロジェクト、アライアンスに重要なことは、先ずは明快な目標・目的をもつことである。ところで話をダスキンの経営理念に戻すが、「損と得とあらば損の道をゆくこと」とあるが、どういうことであろうか?今から30年ほど前、ダスキンは化学ぞうきんというヒット商品によって、本部&加盟店というチーム経営が順調に回り始めたその時に、「損の道」を戦略的に採択したのである。次なる「変化」として、愛の店事業という「損の道」を創業者鈴木清一が提唱したのである。“ダスキンは、これからが本番。どのような損の仕方をして経営を広げていくか“私流に言えば、損という「未来投資」をどのようにしていくのか、という次なる経営目標・目的を明確にしたと理解している。そして、この事業によって、周知のダスキングループの経営の基礎ができたのである。ここから学ぶことは、個人の成長こそビジネス成長の第一歩との認識と共に、チームには常に「未来」という変化を取り入れ、更に「生まれ変わる」ことができるとする強い経営への意志だと思う。ところで、多くの人がワールドカップでの日本チームの戦いを見たと思う。変化=未来を取り入れ続けるとは、中田英寿のいう「90分走り続けること」であり、「ボールを奪い勝つこと」である。ある意味で「損の道」、捨て身で闘った中田と言えると思う。ブラジル戦終了後、ピッチに一人仰向けに寝て涙していた中田の姿に、個人の成長とチーム経営という難しさを重ねて見てしまったのだが、皆さんはどう感じられたであろうか。中田英寿はどんな次なる未来を描くのか見守りたいと思う。(続く)追記 ちなみにブラジル戦前日、中田は公式サイトに次のようなメッセージを寄せている。・・・・・・・・・・・・“全力でブラジルを倒しに行く” これが俺がやるべき事であり、やれる事。 もちろん、これまでの2試合も、全力で相手を倒しにいったけれども、今度のブラジル戦は最低でも“2点差以上”で勝たなければならず、得点を取られないようにするという問題以前に、得点を取らないとどうしようもない。1-0で勝つような試合ではなく、もしかしたら3-4で負けてしまうかもしれない、そんな試合をしたいと思う。 ともかく、守らなければならないものは唯一 “誇り” これまでの自分の人生の為に、これまでの自分に関わってきてくれた全ての人の為に、そして最後の最後まで、自分を信じ続けてくれているみんなの為に、すべてを尽くして戦ってきたいと思う!! この試合が最後にならないことを信じ続けて……。ひで (http://nakata.net/jp/hidesmail/hml277.htm)
2006.06.28
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ヒット商品応援団日記No75(毎週2回更新) 2006.6.25.ここ1年程の間に相次ぐ経済事件が起きた。一連の耐震偽装事件、東横インの条例違反、ライブドア事件、村上ファンド事件、最近では社保庁による情報改ざん、シンドラーエレベーター事件もそうだと思うが、全ての事件に通底しているのが「経済合理性の追求」である。1990年代半ば、IT技術を活用した革新的なマーチャンダイジングやマーケティングによって、市場を一変させた企業、ブランドが相次いだ。例えば、ユニクロ、楽天市場、・・・・・・それぞれの企業が果たした役割は知っての通りである。そして、今遅れていた業界、市場において2000年前後の規制緩和を一つの契機としてこうした経済事犯が起きてきた。経済合理性の追求はどの企業においても当たり前のことであり、利益の最大化のためにこれからも必要な視座である。しかし、一見非経済的に見える戦略を採り高収益を上げている企業も実は多い。マスコミにとって、話題にならないテーマであり、取り上げることはまれである。彼らも、視聴率や販売部数という目標を持っているからと思う。結果、類似したテーマ、類似した事件、類似した人に集中し、ユニークな経営をしている企業が表舞台へと出てくることは少ない。一見非合理的に見えるが、実は理にかなった企業に未来工業という会社がある。岐阜にある電設資材メーカーで製品点数は約16,000点と極端に多く、売れない製品を作りつづけている。そこにはアイディア溢れる「小さな違い」の製品をどこよりも先行して作る現場経営の仕組みがある。この発想は、非常識経営と言われているホームセンターのジョイフル本田と同じである。「死に筋」だからこそ扱うとして、ねじ、釘、ビス類をバラ売りし、「ジョイフル本田になくてどこにあるんだ」と言われるまでになったケースと同じである。売れ筋を追いかけると店はどんどんつまらないものになってしまうと言って、売るものは「夢」ですというジョイフル本田と「楽して儲けよう」というアイディア溢れる小さな違いを創造する未来工業は、共に一般的な経済合理主義を超えている。経済合理性を別の言葉に置き換えると、コストパフォーマンス、システム化、それらを貫くIT技術といった方法が盛んに言われ取り入れられてきた。しかし、同時にIT依存には限界があると認識を改めはじめている。一時期、より顧客に近いところのビジネス、中抜きビジネスとして通販が脚光を浴び、誰もが参入した。周知の通り、分厚い総合カタログはほとんど存在していないか、専門カタログとして再編されている。しかし、通販カタログで今なお元気なのがカタログハウスの「通販生活」である。勿論、コンセプトは明確であり、特定顧客を対象としたビジネスであるが、この通販生活の最大特徴は実は顧客接点である「お便りありがとう室」にある。顔が互いに見えないビジネスであることから、見えるように見えるようにと、いただいたお便りには必ず「手書きの返事」でお応えしている。こんな「アナログ的」運営を行っているのが通販生活である。未来工業もジョイフル本田も、通販生活にも共通して経営のコアとなっているのが「人力」である。しかも、顧客接点現場での経営、ある意味で「人力経営」、人の成長が経営を支えているとする企業文化と言えよう。どんなに、顧客データベースがあろうと、効率よいシステムが組まれようとも、コストパフォーマンスの良い地域で生産しようとも、常に経営の中心には「人」を置いているという単純な事実である。このことを忘れた時、経済事件が生まれる。(続く)
2006.06.25
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ヒット商品応援団日記No74(毎週2回更新) 2006.6.21.ダン・ブラウンのベストセラー小説の映画化である「ダ・ヴィンチ・コード」がヒットしている。6月6日には800万人を動員し、1000万人を軽く超えるといわれている。様々な暗号解読をビジュアルでうまく表現した点は、古くは「ビックリマンチョコ」とある意味では同じである。また、1990年代初頭の謎本「磯野家の謎」もそうであった。物語消費の過剰さは、一方で「謎解き」消費の過剰さへと向かっている。最近のマスメディアのテレビ報道までもがそうした方向に進んでいる。元来、いち早く正確な事実報道を主眼とするニュースはワイドショー化を超えて、謎解きに終始しはじめている。今回の秋田小1児童殺害事件も、鈴香容疑者のこころの謎解き報道となっていることは誰もが感じていることと思う。ゲストには犯罪心理学者や元警察鑑識、あるいは脳科学の専門家までが出演し、専門意見を述べる。視聴者は、時に警察官になり、被害者の母親になったり、場合によっては裁判官にもなる。常に、表現されるのは「こころの闇に迫る」といった、不可解さに対する投げかけである。視聴者、受け手にあるのは、「曖昧さ」に対する言葉にならない「不安」と「怖さ」であると思う。例えば、少年犯罪のデータを見てもわかるが、ここ10年間の刑法犯の推移は若干上昇気味ではあるが、戦後60年の推移と比べたら極めて少ない社会となっている。しかし、多くの人は「社会に少年犯罪が蔓延」していると思っている。これは情報化社会の特質で、「不可解=曖昧な情報」への過剰反応の連鎖が起きているのだ。こうした過剰反応の連鎖については、「うわさとパニック」など既に多くのケーススタディ、社会心理における研究がなされている。ここでは、その原点ともいうべき「うわさの法則」(オルポート&ポストマン)を簡単に説明してみたい。R=うわさの流布(rumor), I=情報の重要さ(importance), A=情報の曖昧さ(ambiguity)< うわさの法則:R∝(比例) I×A > つまり、話の「重要さ」と「曖昧さ」が大きければ大きいほど「うわさ」になりやすい、という法則である。但し、重要さと曖昧さのどちらか1つが0であればうわさはかけ算となり0となる。例えば、1997年神戸で起きた「酒鬼薔薇事件」では次のような法則が成り立つ。・重要さ:人命にかかわる ・曖昧さ:犯人は誰かわからない ・うわさ:次は誰が狙われるかも?当時、「犯人は中年男性かも」といった「うわさ」が流布されたことを思い出すことと思う。私は敢てこうした事件を取り上げたのも、今流行の「口コミマーケティング」もこうした法則を踏まえて実施されている。ある意味で、「曖昧さ」に人は耐えることがことができないという「心理」をついたマーケティングである。視点を変えれば、心理市場の側面をもつ株式市場などはものの見事に当てはまる。「風説の流布」が極めて重大な犯罪となるのはこうした背景からである。私自身、30数年マーケティングを実践してきており、こうした法則は勿論頭に入っているが、「うわさの流布」を意図的にやったことはない。逆に、「うわさ」の対極にあるのが「実体験・リアリティ」であり、曖昧さの解決=「実体験」が連鎖していく方法こそ「口コミマーケティング」であると考えている。今、「曖昧さ」に対する不安は4つに分けることができる。1、健康に対する不安:癌といった病気から身じかな不眠といった不安。更には、「食」への不安。2、経済に対する不安:世代によっても変わるが、社会保障から勤務先企業の経営や仕事への不安。3、社会に対する不安:主に、凶悪犯罪からオレオレ詐欺などへの不安。4、人災に対する不安:住まい、エレベーター、電車など生活インフラに対する漠然とした不安。今、「曖昧さ」の極にあるのが未知なる「こころ」である。しかし、最近の脳科学ではかなりのことが分かってきている。人間の脳の発達は、人と人、人と機械の間では大きな開きがあることが分かってきた。つまり、脳は五感で培われ、都市という五感を感じることの少ない環境では、いわゆる「キレル子供」が多い。既に25年間、「じゃれつき遊び」という情動のおもむくままに遊ばせこころを抑制する訓練を行っている幼稚園に注目が集まっている。都市化によって失ってしまった、いわゆる「五感を取り戻す」一つの動きである。情緒障害を起こしている子供だけでなく、ごく普通の子供ですら山村留学をはじめ自然を感じ取れる環境づくりが必要となっている。情報の表層をなぞるような「うわさ」の時代にあって、こうした「謎解き」こそ必要であると思っている。(続く)
2006.06.21
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ヒット商品応援団日記No73(毎週2回更新) 2006.6.18.キラーコンテンツという言葉は一時期流行ったので記憶に残っていると思う。ある商品やサービスを普及させるきっかけとなるコンテンツ(情報やサービス)のことをキラーコンテンツと呼んでいる。あまり良い例ではないが、家庭用のビデオ普及のキラーコンテンツにはアダルトビデオがそうであった。最近では、コンテンツを更に明確化しようと「キラーアプリケーション」「キラーソフト」など細分化されてきている。しかし、言葉の意味合いを少し範囲を広げれば、今回のワールドカップが薄型テレビの拡販に大きく働いていることもキラーコンテンツと呼んでもかまわないと思う。つまり、小売業的に言うと、全てのフロア・売り場が平均的に売れている訳ではない。そこには、キラーコンテンツに近い、ブランドや商品、時にはイベント・催事などを組み合わせ編集している。もっと平易に言えば、「強い目的買い」と「ついで買い」といっても、それほど間違いではない。いづれにせよ、強く引きつける情報&サービスのことであり、誰もがこのキラーコンテンツを探している。ある一つの物語、ある一つのプログラム、ある一つの使用方法、概念を広げればたった一店、たった一人、たった何かによって、市場が異なるフェーズ(相)へと移行してしまうコンテンツである。どこにでもある金太郎あめのようなテナントの入った商業施設であった渋谷109が、どこにもない固有なティーンのファッションビルへと変貌していく点となったのは、やはり「エゴイスト」であろう。大人になるための儀式衣装として「セクシー系」のアイテムが並び、入学を望むティーンは渋谷に集まったのである。そこには祭司をつかさどるカリスマ店長がおり、儀式を終えた生徒は商品というお土産を買い儀礼を終えるのである。ネーミングにあるように、「私」を超えた「エゴ」のスタイルというコンセプトは、他との小さな違いではなく、全く違う世界を提示している。そこから、ガングロ・山姥という婆娑羅ファッションが生まれたのである。さて、今やインポートブランドの代名詞になっているシャネルも同様だと私は思っている。ココシャネルには多くの逸話が存在している。「この服は売りに出せないわ。私のものになっていないから」「仕事は私の命をむさぼりくった。私の恋さえも」…過去の破壊者、自由に生きる恋多き女、激しい、怒り、…多くの人がそうココシャネルを評しているが、ココシャネルにとっての服とは、そうした生き方や生活、アイディア等、全てが一つのスタイルとして創られたことにある。逸話はそうしたスタイル創造の過程として必然的に出てきたものと思う。クチュール以外でも単なる臭い消しであった香水を清潔でエレガンスなものへと革新させ「No.5」「No.22」を出していくことは知っての通りである。エゴイストがシャネルのようになれるかといったことではない。エゴイストは渋谷109を一変させ、シャネルはヨーロッパ社交界のクチュールを始め香水、アクセサリーなど「オシャレ」世界を一変させた。いささか強引ではあるが、そこには「キラーコンテンツ」の持つ市場への在り方が見て取れる。エゴイストにもシャネルが生きた時代と同様に、ティーンにとって「既成」に対する破壊、反逆、アンチ、を受け入れる背景がある。別の言葉でいうならば、多様な価値観が錯綜、衝突するパラダイムの転換期市場ということができる。違いはシャネル自身が「モードではなく、私はスタイルを創り出したのです」と語っているように、エゴイストがモードであるのに対し、シャネルは「生き方」としてのスタイルを貫き通した点にある。変化への破壊であれば、破壊し続けることが宿命となり、エゴイストはコンビニ以上の鮮度を保つためのマーチャンダイジングを必要とする。一方シャネルの場合、後継者であるカール・ラガーフェルドが言うように、「スタイルを受け継ぐのではなく、シャネルの精神を受け継ぐ」ということになる。こうした違いはあっても「既成」への強い反逆、破壊がキラーコンテンツの本質であると思う。話は変わるが、一連のライブドア事件、村上ファンド事件を思うにつけ、私はその倫理性の欠如について断罪してきたが、一方日本の証券市場をある意味で様変わりさせた「キラーコンテンツ」のように思えて仕方が無い。ここ1~2年規制緩和と共に、書店の棚は金融関連の書籍・雑誌で埋められ、主婦のデイトレーダーが話題になり、証券市場の20%を個人株主が占めるようになったのも、堀江・村上というコンテンツが大きく作用してきたことには間違いない。結果として、自らを「キラー」としてしまったが、一度キラーコンテンツがどのように証券&金融市場に変化を与えてきたかスタディしたいと思っている。(続く)訃報 6月13日、ヒット商品応援団の仲間である梅原豊和氏が亡くなられた。あまり大阪に行く機会がなく、昨年12月に食事をしたのが最後であった。癌との闘病中であったが、そんなそぶりは微塵も見せずによく食べていた。大阪から離れず、大阪のデザイナーのために少しでも貢献したいと、その時語っていたが、元来商売人であった梅原氏が死期を感じていたのかもしれません。叔父さんである梅原龍三郎画伯ばりの強いタッチのデザイナーであったが、あの世でもヒットデザインを創り続けることと思います。感謝、そしてご冥福をお祈りいたします。ヒット商品応援団 飯塚敞士
2006.06.18
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ヒット商品応援団日記No72(毎週2回更新) 2006.6.14.「会社は株主のものでしかない」という考えに対し、なぜ会社は法人企業、「法人」という人格を会社に与えているのかと根源的な問いに答えてくれたのは岩井克人さん(「会社はだれのものか」平凡社)であった。私が近しく仕事をさせていただき尊敬もした経営者のお一人であるダスキン創業者鈴木清一は、創業時”神様、この会社が社会のお役にたたないのであれば、どうぞつぶしてください”と祈って、会社をスタートさせた。和菓子の叶匠壽庵の創業者芝田清次は、和菓子だけでなく”美しく生きよ”と従業員ばかりか、初対面の私にも説いておられた経験を持っている。あるいは今も「思いの経営」を目指しているオートウエーブの広岡さんや「野の葡萄」を立ち上げた小役丸さんもそうしたお一人だと思う。創業者には、というより創業精神がバトンタッチされている企業、例えばサントリーを始め、ある一つの明確な「人格」「らしさ」を持ち続けている企業も多い。そして、創業・起業とは「未来」への強い意志であり、それは昔も今も変わらない筈である。最近は「Always三丁目の夕日」を契機に昭和30年代がテーマとなっているが、当時は企業も個人も未来を思い描けた時代であった。描ければこそ頑張れた訳である。未来とは、いつか手に入れようとするもので、実は描いた未来を消費しながら今日へと至って来た。ところが、1990年代半ばから「未来」が分からなくなってきたのだと思う。明日は何が起るかわからない、多くの企業も個人もそう思っている。つまり、手に入れたいとする「未来」が無いのだ。私が「私生活主義」を解体し、内側にある私生活から外側へと向かう「未来」を思い描く時に来ていると指摘したのもこうした背景からである。さて、思い描く未来がない時代にあって、しかし停滞という踊り場から一歩踏み出す動きもある。「既に起っていた未来」と教えてくれたのはP、ドラッカーであるが、今それぞれの足下から「小さな」未来が始まっている。先日、鳥取米子の企業家と話をする機会があった。おそらく誰も知らない「鳥取」である。せいぜい知られているのは知事の片山さんぐらいである。全国一人口数の少ない小さな県だからこそできることがある、と信じている人達がいる。多くの地方も同様であるが、市の中心部の商店街はシャッター通りと化し、全てが停滞しているように見える。どこにでもある問題を、どこにもない知恵と方法をもって一人一人が行動し始めている。このブログで知り合った二人の主婦は、沖縄糸満のディープな公設市場に気軽に集まれる場所をつくりたいと、コミュニティカフェをスタートさせて5ヶ月になろうとしている。「バカ者」「ワカ者」「ヨソ者」がコト起しには必要であるが、まずは「バカ者」が走ればいいのだ。バカになって未来を描き続ければ、必ず追いかけてくる人はいる。点はいつしか点とつながり線となる。線は線と重なり、時には離れ、そしていつしか小さな面になる。最近、起業し会社へと成長していくさまは、子育てに良く似ているなと思っている。今、社会問題化している幼児・児童への虐待の多くは、その背景に母親自身愛情をもって育てられてこなかった事実。こころに傷を負った母親が、まるで子を私有物のように扱うのも、愛情という未来から疎外されているためと指摘する専門家も多い。未来は両親や兄妹などの「外」、大きく言えば社会から望まれてこそ未来となる。愛情という未来を受けて生まれ、時に怒られ、愛され、けがや病気も経験し、同時に「自分一人」で生きてきた訳ではない、と思い得た時、初めて「親」になる。子供を産んだからといって、親は最初から親になれる訳ではないのだ。起業も会社運営も、未来を描きながら子から親になっていく。そこにあるのは自己愛ではなく、回りへ社会への惜しみない愛情であると思う。(続く)追記-1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.06.14
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ヒット商品応援団日記No71(毎週2回更新) 2006.6.11.先日、鳥取米子に行き40分程時間をいただき、「伝え方一つ」で価値が決まる情報化社会をテーマに講演を差し上げた。その主旨は、メーカーであれ、生産者であれ、勿論小売業であれ、全ての企業は情報産業との認識を強く持たなければならないという話であった。今年1月にライブドア事件に触れ、「情報の罠」というタイトルで情報のもつ「あやうさ」について書いた。商品も人もエリアも、勿論店頭・店も情報を発信しており、全てがメディアになった時代のただ中で私達はビジネスをしている。人が耳を傾け目にするのはその情報のもつ「鮮度力」と「回数力」によってである。ある意味で情報の「鮮度継続競争」をしている訳である。コンビニでは約3000点ある商品の内、70%が1年で入れ替わり、約3000程発刊されている雑誌の内、約1/3程が創刊し1年以内に廃刊される。ある商業施設では1年間で10数%のテナントを入れ替え、常に鮮度を保つ仕組みを導入している。情報化社会とはニュース化社会であり、膨大な情報の波の中で「もの言う」時代となっている。ところで、「もの言う株主」こと村上ファンドの村上氏が逮捕された。私は金融のプロではないので、その法的な判断は差し控えたいと思うが、彼が自ら「メディア」と化し「もの言う株主」として舞台に立ち、発言してきたことの意味について考えを書いてみたい。ライブドア事件が起きた時、私はこのブログで次のように書いた。”「情報」の本質はあらゆる「壁」を超えて変化を与える、ということに極まると思う。国境、人種、性別、年齢、勿論企業間という壁もである。そして、情報はIT技術の進化により驚異的なスピードをもって個人を直撃する、そうした社会のただ中に私達はいる。耐震偽装事件、ライブドア事件に共通していることは、この「情報操作」によるものと私は考えている。そして、問題は情報にあるのではなく、情報の本質を踏まえた情報発信者のモラルと情報操作を許さない仕組みにある。”(No38/情報の罠)情報操作とは、偽計、風説、偽装、粉飾、虚偽、誇大、といったことになる。そして、何よりも大切なことは情報発信者のモラルである。株式市場を始め全てのビジネスは「公」の秩序のもとに行われ、良く言われるようなグレーゾーン、脱法的世界は常にあり、自らを戒めるモラルによって「公」が保たれるのだ。モラル、倫理性こそ企業経営の最大資源であると言ったのは「会社はだれのものか」を書かれた岩井克人さんであるが、モラル、倫理は極めて現実問題として私達の判断に迫ってくるものである。先日、以前仕事をした仲間で今は大手のファンド運用会社に勤める女性と食事をしたが、「数字が桁違いに大きく、現実感がない」とその苦労を話していた。彼女の「現実感」こそ重要で、村上氏、堀江氏の発言には「ゲーム感」はあっても「現実感」はない。私のいう舞台、劇場とは現実のお店であり、店頭であり、エリアであり、人である。シューティングゲームで狩りをして遊ぶ画面の中の舞台ではない。しかし、その虚と実との差は極めて小さく、情報のもつ「あやうさ」を常に認識し持ち続けなければならない。今回の一連の舞台は、やはりニッポン放送の株取得から始まったのだが、既にそれ以前から舞台は幕を開けていた。メディア舞台という視点に立てば、作・演出村上世彰、主演ホリエモン、ストーリーとしては「旧パラダイムに抗し闘う若者・チャレンジャー」といった図式となる。逮捕直前の記者会見で”聞いちゃったんだから仕方がない”という発言はまさに「ゲーム」でしかない。ゲームであるから、「だまし」「だまされる」ことも当然ある。そして、「シューティングゲームをして何が悪いんですか」と本人は本気で思っていると思う。ルール、つまり情報操作を許さない仕組み、日本版SECについての論議が盛んであるが、今一度資本主義・会社の中心に倫理性を置いた社会制度という考えから出発すべきと思う。私が尊敬するダスキン創業者鈴木清一は次のような言葉を遺し、今なお多くの場所にその自筆の言葉が飾られていると聞いている。(続く)「今、天地のくだける音がする。目を覚ませ! 良く聞け!」追記 -1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.06.11
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ヒット商品応援団日記No70(毎週2回更新) 2006.6.7.過去このブログで団塊世代のこれからの動きについて数多く書き留めてきた。この世代の特徴は1)保守的で金銭感覚としてはケチ2)平和主義者で争いごとを好まない3)自然が好き4)友達夫婦・友達親子5)雰囲気・スタイル重視といったところで多くの調査も大体こうした結論のようである。この世代に支給される35兆円とも50兆円とも言われる退職金の行方を多くの企業は当然の如く考えている。ここではそうした消費や貯蓄にも結果としてつながることになるもう一つの市場、というよりもう一つの視座を考えてみたい。人生60年という節目を人は第二の人生のスタートと言うが、その節目は次の人生が「限られたもの」であることを強く認識させるものである。その限られたという意味には、まず限られた時間(残された生命ある時間)、限られた身体機能(健康&機能の低下)、限られた情報処理能力(スピード)、限られた家族・友人(子達の独立や友人の逝去など)、限られた経済(預貯金や不動産等)・・・・大きなところではこうした「限定」を意識して、旅を始め多くの消費や貯蓄を考えていくことになる。この「限定」意識とは、ある意味ではモノ充足という「物的欲望」を卒業し、「こころの学校」に入学することでもある。さて、「こころ」はどこへ向かっていくのであろうか?既にその兆候は出始めており、私の仮説では「個」と「社会」「地球」という2つの広がりの中で「こころ」を充実させていくことになると思っている。「個」に向かう根底には大仰に言えば「人生観」があり、「社会」に向かう根底には「社会観・倫理観」がある。理屈っぽくいうと、こうした2つの価値観が重なるたった一人の「死生観」を目指すのであるが、整理のために敢て分けてみた。まず「個」へと向かう世界であるが、やはり「やり残したこと」あるいは「更に深めたい」とする世界が広がる。若い頃、やりたくても経済的にも時間的にも出来なかったことへのチャレンジである。趣味からコレクターへ、テーマは様々多岐にわたる。昭和30年代ではないが、多感な少年時代に憧れていた世界、例えば蒸気機関車を始めとした鉄道の模型集めは、いつしか大きなリビングは列車が走り回るジオラマに占拠されることとなる。子供の頃買おうと思っても経済的に買えなかった世界を取り戻すコレクターになっていく。そうした趣味の世界の中でも「ビートルズ世代」と呼ばれた団塊世代は、無数の「オヤジバンド」を出現させることになる。青春フィードバックである。ヴィンテージもののギターやアンプ、あるいはステージ衣装にもこりまくるだろう。まだ、エレキバンドの全国大会は生まれていないが、ここ数年でそうした舞台が用意されてくる。そして、全国至る所にあるコンベンションビューローは学術発表の場から「オヤジバンド」の予選会場へと変わっていくこととなる。勿論、こうした「やり残した世界」には様々な「起業」も含まれる。そば打ちが高じて手打ち蕎麦屋を開業したり、子供の頃夢見た漁師への道を歩んだり、オムライス店を開いたりする「小さな」起業、「人生」起業が無数に生まれてくる。こうした「個」へと向かう志向と共に「社会」「地球」へと向かう世界は大きく広がることとなる。周知のボランティアやNPOへの参加である。少し前の「ソトコト」にもNPOの特集が組まれていたので、ここでは割愛するが、自ら社会に貢献したいとする「こころ」の世界である。「夜回り先生」こと水谷修さんのような活動はできないにせよ、「足ながおじさん」のような水面下での活動は増えてくると思う。そうした「こころ」充足を企業経営という視座で見ていくことが重要となる。一時期、「企業市民」という考えがあり、ボランティア休暇といった制度も用意された。しかし、ここ10年右肩下がりの時代にあって死語になってしまった感がある。パラダイムが激変する中、忘れ去られてしまった社会貢献は、企業人としての「志」「生き様」「哲学」という言葉として、再び経営者に企業に突きつけられてくるのだ。ジョージ・ソロスのように「投機」による利益を最大化させ、一方では得た利益を慈善事業に援助するといった、ビジネスと生き方とを分ける考え方には、日本人、特に団塊世代の人間にはなじめないと思う。江戸時代の大商人は「利益にしたがって社会還元」することがごく当たり前で、町役人と呼ばれ道路補修や防災、場合によっては捨て子や迷い子の養育まで支出していたと言われている。そして、町民から「尊敬」されることが、唯一のお返しであった訳だ。これからは儲かっているだけの企業から、儲けながら儲けを社会へ還元し続ける企業、いわゆる尊敬される企業に評価が集まっていくと思う。世にある無数の製品を選ぶ物差しの一番目に「尊敬する企業」というキーワードが来る時代となる。つまり、「志コンセプト」「生き様コンセプト」といった人生コンセプトがブランドのコアとなる時代が到来する。(続く)追記 -1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.06.07
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ヒット商品応援団日記No69(毎週2回更新) 2006.6.4.臨界点とはそもそも物理学用語であったが、私が知る限り異なる世界に使われるようになったのはサブカルチャーの人達が「オタク」の臨界点とか「美少女ゲーム」の臨界点のような使い方をしていたと記憶している。つまり、従来脱社会的な存在で海面下にあったオタクが、突如として海面上、社会の表舞台へと出てくるようになった、その飽和点、異なるフェーズ(相)へと進んでしまうその一点を臨界点と名付けたと思う。約1ヶ月程前に「アキバ系」について触れ、”どこに行ったのオタクさん”と書いたが、真性オタク、元祖オタクとは異なる「観光オタク」が今アキバに集まっている状況こそ、臨界点に達したと考えている。今回、この臨界点というテーマを書こうと思ったのは、サブカルチャーにおける臨界点ではなく、多くのヒット商品・ヒット業態が抱えるテーマ、順調に伸びていく商品がある時突如として売り上げがぴたっと止まり後退していく現象、臨界点現象についてである。特に、情報消費商品であるファッションや食などは成長へのスピードが早いと同時に後退もまた急激に起る。私達誰もが経験してきた代表例はなんといってもユニクロだと思う。SPAという、しかも中国生産という画期的な仕組みで登場し、顧客の圧倒的な支持を得て急成長し、ある時パタッと止まったことは記憶に新しい。その時顧客にとってユニクロのフリースを着ることは誰もが着ていて「恥ずかしい」ものになっていたのである。ユニクロにとっては工業製品であるフリースは、顧客にとってはファッションであったのである。売れたのは、品質の高い安価な工業製品ではなく、ユニセックスファッションとしてのフリースが売れたのである。誰もが同じフリースを着ていることに気恥ずかしさを感じた時が臨界点であった。その後青山にデザイン研究所をつくり、ジーンズなどに生かしてきたのもこうした背景からだと思う。つまり、臨界点を超えた最大理由は、顧客は「違い」を求めるフェーズへと向かっていたということである。そうした状況を指して、個性時代と呼んできた訳である。ユニクロと同じように、セレクトショップの旗頭であるビームスもマス市場化を前にして出店をストップさせ市場を限定したことも「違い」を残す方法の一つであった。市場が臨界点に達することはファッションばかりでなく、食の分野でも同様である。特定のフードチェーンビジネスについてはコメントしないが、マス生産された工業製品としての食から手作り感のある「違い」のある食へと変化してきている。中華の紅虎餃子からスタートした際コーポレーションは今や京料理の豆寅まで数多くのブランドショップを有している。例えば、1業態で100店舗100億というビジネスではなく、10業態10店舗100億という飲食ビジネスへと変化させてきている。こうした動きも全て臨界点を意識した経営である。アパレルファッションではワールドが代表企業であろう。メーカーであれ、専門店であれ、ビジネスは「継続」である。継続できるか否かが最大の経営判断の時代を迎えている。「違い」を求める顧客市場にあって継続利用を促すものは何か、ということである。1つは、全てを「小」単位に限定し、その特定市場の中だけでビジネスをしていく考え方である。成長という視点に立てば、ワールドや際コーポレーションのように「小」単位を複数組み合わせていく経営と言える。もう一つは、ブランディングである。顧客の利用継続という期待値、未来期待値をどれだけ創造できるかである。ブランドという固有な物語を創れるかが経営の最大課題となる。今、日本茶飲料市場において熾烈な競争が行われている。周知のサントリーVSキリンVS伊藤園という三つ巴の戦いである。このブログでも取り上げた伊右衛門は物語創造というブランド戦略によって、従来の日本茶飲料市場とは別個に新たな市場創造を果たした。結果として、市場それ自体を大きくした点について特筆すべきことだと私は書いた。一方のキリンも伊藤園も広告CMを見ても分かるように「日本茶葉」「鮮度」というモノよりのコンセプトというポジションをとっている。私は、サントリーが打つであろう次の一手に注目している。それは伊右衛門物語をどう発展させブランドにまで高めていくかである。ウーロン茶のトップブランドであるサントリーが黒烏龍茶を出したことは花王のヘルシアを意識した「次の一手」であるが、「文化物語」強化戦略を新商品導入というかたちで伊右衛門がとるのか、また別個に社会的ニュースになるような文化物語を創造するのか注目したい。敢て、簡略化して言うならば、「文化」物語VS「モノ鮮度」物語の戦いである。(続く)追記 -1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.06.04
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