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物語消費時代(9) 団塊世代市場 2006.4.30.市場を見ていく4つ目の視座が「関係」で、団塊世代の夫婦間、子との間、孫、更には仕事関連での人との関係、少し広げていけば地域コミュニティとはどんな関係を結び、それがどんな消費局面を作っていくのか読み解いていきたい。今、平成16年の社会保障制度改正により、「離婚時の厚生年金の分割」が実施され「定年離婚」がマスコミで取り上げられている。まあ、マスコミとしておもしろおかしく作った情報であるが、私の考えは全く逆である。おそらく数年後のデータに明確に出てくると思うが、団塊世代の離婚率(離婚件数ではない)は低いと思う。最近のデータを読んでいないので断言はできないが、殺人等の凶悪犯罪発生率(これも総量ではない)についても、団塊世代は他の世代と比較し低いと理解している。この世代の最大特徴は、両親が「戦争世代」であり、戦後の荒廃したさまをリアルに体験していることにある。「Always三丁目の夕日」に出てくる東京の町並みにも若干その匂いが出ているが、幼い少年少女時代のこころに刻まれているものの一つが「戦争」であった。つまり、この世代の時代感からくるものと思うが、一言でいえば「平和主義者」である。国と国との争いごとばかりでなく、夫婦間、子との間、といった人間関係においても「争い」を嫌う世代であると、私は考えている。「団塊の世代」の名付け親は堺屋太一さんであるが、当時こうした「平和主義」を物事をはっきりさせない世代として厳しい指摘をしていた。学生時代はといえば、かぐや姫の「神田川」ではないが、「同棲生活」というキーワードを経て「同世代結婚」(=友達夫婦)が多い。次の世代である「新人類」がハネムーンから帰った直後に離婚する「成田離婚」と比較すればその違いは明確である。団塊世代は結婚し「ニューファミリー」と呼ばれ、1つのライフスタイルを形成していく。そして、「クロワッサン」が1977年に創刊され、知的で社会意識の強い賢明なライフスタイルマガジンとして団塊世代女性の支持を得ていくこととなる。一方、結婚しないキャリアウーマンの「結婚しないかもしれない症候群」という自立する女性も産み出していくが、総じて仲良し夫婦、友達夫婦としてほぼ二人の子と共に生活をしていく。そして、社会意識として強く出てきたのが1980年代の「牛乳パックの再生利用」というかたち出てくる「エコロジー」である。バブルへと向かっていく時代に子育てに一生懸命でバブルとは無縁な世代であった。少年少女時代の「モノの欠乏感」「平和主義」「友達関係」はのちの団塊ジュニアとの関係として「パラサイト」というキーワードや「母娘消費」の話題へとつながっていく。このように消費においては、「家族投資」「ジュニア投資」であり、決して新人類のような自己投資の「過剰さ」は無い。インポートブランドへの興味・関心はないし、団塊ジュニアのセレクトショップのような消費への「美意識」も持ってはいない。最大の自己投資は「関係」「絆」の確認へと向かう、と私は考えている。その確認行動は新しい「家族消費」として様々なところで出てくると思う。個人という社会の単位、バラバラとなった関係を取り戻す動きでもある。団塊世代の原則は「夫婦二人」家族となる。田舎暮らしが好きで移住するにも二人、週末チョット美味しいものを食べに行くにも二人。今や一人鍋ブームであるが、「二人鍋」が出てきてもおかしくはない。ところで、あのホリエモンが保釈されたとのニュースを聞いて、この「家族」という考えの未来について思いが錯綜した。というのも周知の通り、ホリエモンは団塊ジュニアであり、団塊世代の両親は健在で福岡に住んでいる。ホリエモンが父親を評し”これだけ頑張っても、この程度の生活しかできない”と、起業を思い立った理由の一つに上げていた。ホリエモン逮捕の報に接し、父親はマスコミの取材に対し、”どうであれ、帰ってこれるところがここにはある”と話をしていた。あまり好きな言葉ではないが、ある意味で「格差社会」を一番実感したホリエモンに対し、彼の両親は今どんな思いでいるのだろうか。横道に少しそれてしまったが、団塊世代は関係・絆の確認に向かうと書いたが、もう少し具体的いうと、例えば「食」でいうと「おふくろ料理」である。失ってしまったものを取り戻す行動である。ただ自分の舌で確認したおふくろの味というより、キーワードとしてのおふくろの味であって、山陰のおふくろの味でも良いし、中国のおふくろの味でもエジプトのおふくろの味でもかまわない。自身のこころの中にかってあった「おふくろの味」が想起できれば良いのだ。団塊世代の物語消費という言い方をするならば、「おふくろ物語」となる。今、豊かさであるが故の過剰な食、グルメばやりであるが、「食育」へと引き戻すのもこうした物語によってだと思う。そして、人との関係の真ん中には「食卓」がある。(続く)追記 -1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.04.30
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物語消費時代(8) 団塊世代市場 2006.4.26.団塊シニアの行動について、どんなテーマを求め、どんな時間を過ごすか新人類世代との対比の中で書いてきた。更にすすめ、どんな「場」を求めて過ごすか気づいた点を書き留めてみたい。既に平均2人の子もパラサイトから結婚へと至り、家の中にはいない。老いた両親を自宅に呼び一緒に過ごす団塊世代の家庭が増えている。既に数年前からリフォームが始まっており、風呂場を始め介護するに必要なリフォームである。こうしたリフォーム需要はこれからも伸びていくと思うが、これからは「場」の移動が進んでいくと考える。既に、その予兆はシニアの「都心回帰」として出てきている。今回話題となった耐震偽装事件の1つである日本橋のマンションもシニアが多いと聞いている。この団塊世代は1969~71年に一斉にサラリーマンになり、通勤地獄と言われたように郊外に一戸建てを購入した世代である。当時は「ベッドタウン」と呼ばれ、朝早く家を出て夜寝に帰るベッドタウンである。職住遠隔のライフスタイルであった。今や郊外住宅団地の象徴であった多摩ニュータウンでは空き室が増え社会問題化しつつある。郊外から中心部へと「時」を日常的に楽しむために移動する。田舎暮らし好きは、都心と田舎とを往復する暮らしになるだろう。前回団塊シニアの生活時間割はかなり忙しいと書いたが、あれこれチョットづつ時を楽しむには「移動しやすさ」が最大の鍵となる。今その先頭に立って移動しているのが団塊シニアの女性達である。数年前からホテルのランチにシニア女性が大挙して押し寄せ話題になったが、今やネットと口コミでそれこそ路地裏にまで押し寄せている。私も時々楽しみで行く大井町は平和小路の奥まったところにあるうなぎの立ち飲み居酒屋「むら上」にも押し寄せていた。大通りから中通へ、裏通りへ、そして裏路地へと全てが「表」通りになってしまう時代である。このように散歩・散策ブームであるが、ご近所から始まり、周辺へと広がり日本の裏側と呼ばれている山陰地方や岬に代表される日本のハジハジにまで小さな発見・冒険散歩は広がっていく。大移動化社会、大移動時代を迎えようとしている。路地裏文化とは、その路地に生活する人達の日常的に繰り広げられている生活そのものである。私流の言葉に置き換えれば「生活文化観光」の時代を迎えることとなる。お土産は、その土地で日常生活で使われているモノ=生活文化がお土産となる。いわゆる特産品的な土産ものから、時間をかけて磨かれ伝わってきているその土地ならではの文化の香りのするもの、特に生活道具等雑貨がお土産になっていくと思う。観光産業は、名所観光から、地場産グルメ観光へ、そしてその土地ならではの生活文化観光へと移行していくであろう。時間の側面から見れば、大きく構えた長期間の旅から、日常の小さな旅へ、小口回数の旅へと変わっていく。団塊シニアのライフスタイルは「居住」から「滞在」へと移っていく。部屋の中には所有するものは出来る限り少なくし、レンタルを始めとした使用サービスを活用したものとなる。そして、所有するものは厳選=減選されたものとなるが、所有するこだわりへの投資は惜しまないであろう。この団塊シニア市場のキーワードは「移動」であり、旅行もさることながら、移動には不可欠な「携帯」「簡便」「コンパクト」「軽さ」を備えたものにヒット商品が生まれてくる。つまり、旅の道具類が日常の生活道具へと変わっていくということである。一言でいうと、日常生活の「旅化現象」である。あたかも旅先での滞在のように日常生活を送るということである。(続く)追記 -1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.04.26
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物語消費時代(7) 団塊世代市場 2006.4.23.さて団塊世代は定年後どんな時間を過ごすであろうか。既にリタイアしている上の世代とは全く異なる時間の過ごし方になる。24時間、365日全てが自由時間である。上の世代のように仕事とは100%離れ、ともすれば生き甲斐を無くし、旅行もそこそこ行ったし、さて何をするか、といった「老後生活」には決してならないということである。年金受給は65歳からであり、それまでの5年間をどう時間を使っていくかである。団塊世代にとってこの5年間は以降の第二の人生スタートの良きトレーニング期間となる。仕事、旅行、趣味、スポーツ、ボランティア、コミュニティ活動・・・・多くの選択肢のなかで「好き」を軸にしたあれこれチョットづつ組み合わせた人生になるであろう。「好き」が高じて起業することも増えるであろうし、趣味のコレクション仲間と共に私設美術館や映画館の運営までやろうとするシニアも出てくる。CMで一躍有名になった「大車輪おじさん」ではないが、身体を鍛えたシニア向けの各種スポーツ大会も数多く開催されることになる。鳥取県では既に始まっているが、Uターンして地方コミュニティに活動の場を移す人も出てくる。私の友人の一人は好きになったタイに長期滞在し、タイ語を学びできれば小さな仕事をしてみたいと言っている。スローライフというキーワードがあるが、結構忙しい生活時間割になる。つまり、スピードが日常となっている都市における社会時間と自由時間としてのスローなプライベート時間を行ったり来たり、といったバランスある生活時間割になる。このように1人のシニアは多彩な顔を持ち、そこに多くの新しい市場が生まれてくる。まず、「好き」を極めて行く「プロの道具」「プロのスタイルウエア」等プロ市場が表へとでてくる。腕は二の次(!)として、形から入る訳である。流通の店頭は更に「専門化」していくであろう。勿論、プロへのスクールやプロクラブに大挙してシニアが集まる。ここで重要なことは「好き」が常に変化していくことである。例えば、ご近所の奥さんから誘われてハワイアンフラダンスは健康にいいからとチョットのぞいてみた。続けていくうちに、ハワイアンダンスの歴史やウエアへと興味は深まっていくだろう。少しづつダンスもうまくなっていくに従って、発表舞台が欲しくなる。そして、本場ハワイで踊ってみたいと思うようになるだろう。更には、フラダンスの先生になる人も出てくるであろう。興味を入り口にして、関心が高まり、好きへと、そしてセミプロへ、プロへと進化・深化していく。対象とする自己投資市場は、今どの過程にいるか、そして市場を深化させていくために何を必要とするのかがビジネスの最大課題となる。さて、あれこれと忙しく時を使っていく団塊世代であるが、おそらくこうしたことを含め、「時価値」を初めて認識することになる。これからの人生が「限られている」時間であるとの認識である。四季という時のうつろいに感動するだろうし、日本古来の地域独自の「儀礼時」を大切にしてもいくであろう。そして、消費という表舞台では、自分にとって固有な時として「記念日市場」という市場が大きくなっていく。俵万智さんの「サラダ記念日」ではないが、私が「この時」と思った時が記念日になる。あるいは、記憶に今なお残っている「個人記念日」も復活するだろう。当然であるが、パーソナルギフト市場は従来のギフト市場を拡大させあらゆる領域にわたっていく。自己消費としか見えないようなものでも「ギフト用パッケージ」や「カード」等はあらゆる売り場の標準常備アイテムになっていくだろう。プレゼント先は、夫婦間、子、孫、友人、といった個人が中心となるが、母校であったり、お世話になったコミュニティであったり、社会といった広がりをもっていくであろう。既に市場として存在している「自分史」制作ももっと日常化され広がったものとして出てくると思う。ブログや写真集、場合によっては映画もありえるだろう。皆、「少年少女」に戻って時を振り返る。心は野球少年やギター少年、あるいは心ときめかせてくれた出来事へと想いを巡らせるであろう。「次号へ続く)追記 -1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.04.23
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物語消費時代(6) 団塊世代市場 2006.4.19.団塊世代の物語消費として、小さな幸福を求めた「生き方テーマ物語」となるとコメントした。生き方というと職人のもつ手技を想起させるが、勿論主要な物語モチーフとなるがもう少し広がりをもったものになると思う。私はマーケティングコンサルタントという仕事柄から日本全国を旅してきたが、その土地ならではのもっと日常世界に寄った小さな物語世界を美味しくいただいた経験を強く覚えている。京都でいうと、先斗町から一筋入った路地裏にある「オバンザイ」を出してくれる店、その大皿に盛られた水菜と油揚げとの炊き合わせといったお惣菜に京都の人達のモノを美味しく食べる知恵と工夫、そうした生活風景に魅力を感じた。好きな沖縄に行くと、最近は「チャンポン」を食べ歩いている。長崎チャンポンではない。一言で言うと、野菜炒め卵とじをライスにのせた沖縄ではごく日常の食べ物である。沖縄の食堂には沖縄そばと共に必ずあるメニューであるが、食堂毎に入れる具材や味付けが一店一店全て異なっている。そんな小さな違いを見いだすのもまた楽しいものである。つまり、その土地、その人固有の考え方や生き方、大仰に言えば生活文化を楽しむ時代を迎えていくと思う。視点を変えて言うと、「学習」というより「楽習」が着眼となる。なにげない日常のチョット奥にある小さな物語を表へ、売り場へと出せば良いのである。しかし、その土地の人にはなかなか理解できないという問題がある。自分たちにとっては当たり前で「外」の顧客には魅力的であることが理解しえないということである。都市と地方、こうしたミスマッチも「都市生活者研究」をした地方企業が「野の葡萄」のように続々と都市に出てくることによって解決していくものと思う。生活文化が物語のテーマになると同時に、もう一つテーマ潮流になるのが、「少年・少女」である。青春フィードバック、若かりし頃を思い出すということだけではなく、今一度少年・少女になってみたいという心理潮流である。既にその潮流は出てきている。あの「冬のソナタ」もシニア女性を「一人の少女」にさせてくれたことによるものである。白い馬に乗った王子様を迎える少女の気持ちにさせてくれたという訳である。今、若い女性達の注目が「ホストクラブ通い」に一部あるがそうした「過剰さ」ではない。「ひととき少女」であって、2007年以降離婚が増加すると言われているが、マスコミがいうほど離婚率は高くはならない。ある意味において「心理市場」そのものと言うことが出来る。こうした「ひととき少年・少女市場」着眼はサービス領域の中心になると思うが、自己表現としての世界にもこれから出てくると思う。体型変化や身体機能低下ということを前提に、ファッション分野において「少年・少女」スタイルが出てくるということである。既に、後ろから見たら「年齢不詳」のスタイル、ジーンズにカジュアルなシャツ、頭にはキャップに足下はスニーカー、首にはiPodといったシニアが増えている。「少年・少女」ファッションというと「コスプレ的」ファッションを想起されるかもしれないが、これらとは全く異なるので誤解しないでいただきたい。おそらく、アイビー世代、平凡パンチ世代であった団塊世代にとって「紺のブレザー」は必須アイテムであった。こうした紺ブレなどはオーダーアイテムの定番になっていくと思う。さて、他にも沢山のテーマ物語が考えられるが、亡くなられた久世光彦さんについて書いた時に少し触れたが、特に「大家族物語」がテーマとなっていくであろう。住まいのことを言っているのではない。この物語も「ひととき大家族」である。後ほど書くことになるが家族一人一人の「個人記念日」市場が盛んになる。具体的にはそうした記念日「時」を機会としてひととき集まる「大家族」パーティ&ギフト市場である。出張パーティサービスなどはますます盛んになる。あるいは、飲食施設等は大家族も収容できる個室が求められていくであろう。(次号も続く)追記 -1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.04.19
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物語消費時代(5) 団塊世代市場 2006.4.16.前回団塊世代の変容を促した大きなパラダイムチェンジ、既成神話の崩壊による価値観変化がどこへと向かうであろうか、それがどんな消費局面を創っていくのか私見を述べてみたい。ところで団塊世代も定年まであとわずかである。年金受給は65歳からであるが、それまでの5年間という時間はどう使われていくのか、結果どんな消費舞台を作っていくのかが市場の最大テーマとなる。前回新人類世代との比較において「幸福物語」というキーワードを使った。「不安」から「幸福」へ、虚構からリアルへ、非日常から日常へと市場をリードしていくのが団塊世代となると仮説した。つまり、「小さな幸福」、どこにでもある、日常の、極めて個人的な、バランスのとれた・・・・こうした「物語消費市場」へと移っていくのだが、そこには大きなキーワードを必要とする。それは家族や旧来の仕事や勤務先など過去の関係からの自由である。私はマーケティングを考えていくとき4つの整理法を使ってマーケティングを組み立てていくことにしている。その4つとは第一が「テーマ」である。自由を得た団塊世代はどんなテーマ性、テーマ領域に興味・関心をもつだろうか?第二が「時」である。自由な時間割を得ることになる団塊世代はその「テーマ」を中心にしてどんな時を過ごすようになるのか?第三は「人」である。誰と一緒にテーマを共有し時間を過ごすのか?夫婦なのか、新たな友人なのか?第四は「場」である。どんな場でそうしたテーマ、時間、人と次の生き甲斐を追求していくのか?都心部なのか、田舎暮らしのような地方なのか?あるいは「行ったり、来たり」といった移動が中心となるのか?まず「テーマ」を取り上げてみたいと思う。一定の経済的余裕を踏まえ、主要価値観の大きさから言うと、人生観>生命観>生活観といった「生き方中心」の価値観がこれからの行動(&投資)を決めていくものと仮説される。団塊世代は昭和30年代をテーマとした「Always三丁目の夕日」ではないが、物質的な欠乏感を体験してきた世代である。食、衣、住といった生活するのに最低限必要とするものへの欠乏である。明日への不安といった精神生活より、その日食べることに精一杯であった時代体験であった。人間は環境の産物であり、こうした環境は小さな生命記憶として私達の無意識下に色濃く残っている。モノを大切にする気持ちと共に満腹感は今なお持ち続けている。食で言えば、成人病を気遣いながらも「あれこれチョットづつ満腹感を得たい」とする欲求である。こうした点を見事にメニュー化しているのが自然食レストラン「野の葡萄」である。低カロリーで血液サラサラなど予防メニューを用意し、ブッフェスタイルのあれこれチョットづつ食べられるといった満腹感も用意されている。今、柿安ダイニングを始め総菜売り場では「量り売り」が主流となっており、こうした傾向をうまくとられているがこれからは更に「テーマ売り場」が主流となっていくであろう。健康を謳えば売れた時代は既に終えている。どんな健康に良いのか、どう組み合わせればどんなことが期待されるのかが分かるテーマ売り場である。食材で言うと、団塊世代が慣れ親しんだ日本古来の食材を使ったテーマメニューとなる。米・麦等の穀類、豆類、野菜、海草、魚介類が中心となる。数年前に粗食ブームが起きたが、そうした粗食がごく普通のメニューとして登場するであろう。但し、更に「小」サイズ・「小」量で組み合わせ「バランス」が重要となる。つまり、「方法論」が売れる時代を迎えることとなる。例えば、ネット上で自己診断を行い、メニューを選び、セブンミールではないが宅配してもらえるようなサービスが生まれるであろう。そして、こうした日常食を踏まえ、「満腹感」としての贅沢感では、少年期なかなか食べることの少なかった「すき焼き」や「うなぎ」といった「ひととき贅沢食」を選択していくことになる。そして、決してグルメではないので「美食」はテーマにはならない。新人類世代と比較して言うならば、「過剰」ではなく、「そこそこバランス良く」ということになる。キーワード的には「小」「調和」「バランス」といった世界である。そして、なによりも選択していく際の物差しは、人生価値、作り手や販売者との「生き方共感」が決め手となる。物語消費という言い方をすると、小さな幸福を求めた「生き方テーマ物語」となる。(次回も続く)追記-1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.04.16
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物語消費時代(4) 団塊世代市場 2006.4.12.前回新人類世代との比較において団塊世代について少し触れてみた。「過去」をもたない新人類世代と第二の人生を歩もうと「過去」と向き合う団塊世代との対比である。団塊世代の価値観形成について、団塊世代が育った少年期昭和30年代や高度成長期での「猛烈サラリーマン」についてはマスコミを始め既にフィードバックされ始めているので詳しくは割愛したい(詳しくは私の9月のブログを参照ください)。この世代の価値観形成について更に注目したい点は「バブル期」の団塊世代である。1890年代末に向けて起った土地所有神話バブルであるが、周知の通り日経の平均株価は4万円弱まで高騰し、米国NYの不動産を買いあさり「日はまた昇る」日本として世界の脚光を浴びた時代である。東京ディズニーランドが開業し、亡くなられた中尊寺ゆっこさん描く「オヤジギャル」が海外旅行へと出かけ、当時東大の理工系学生が野村証券に入社するといって話題になった時代である。こうした時代にあって団塊世代は市場の表舞台に上がることはなかった。前回「オタク論」で触れたように新人類世代が消費の主人公で、「モノ充足」から、「なめ猫」や「あられちゃん」といった情報興味・消費へと移っていた時代である。当時「家計調査年報」を私なりに分析したことがあったが、家計支出において家賃・食費・光熱費など「生きるに必要な支出」を教育費・娯楽費など「生きるに選択する支出」が上回った大きな転換点の時代であった。つまり、「豊かな時代」への転換点であったが、団塊世代にとって今日の団塊ジュニアはまだ10代であり教育費への支出が大きく、まだまだ生活は苦しい時代であった。つまり、「バブルスルー」、バブルによる恩恵も損失もなかった経験を持っている。そして、1992年にバブルが崩壊し、「父帰る」という言葉が流行ったように残業代カット、収入減少という時代を迎えて行く。しかし、妻がパートへと出かけ、1997年までは世帯収入は増えていく。これは私の仮説であるが、1998年から急激に世帯収入が減っていく、その背景となっている大きな「パラダイム変化」が団塊世代の価値観形成に大きく影響していると考える。それは50歳を目前にして北海道拓殖銀行、山一証券の倒産、重厚長大型企業の低迷といった「大企業神話の崩壊」、能力主義導入に見られる「年功序列・終身雇用神話の崩壊」、中国への工場移転など「国内産業の空洞化」、IT技術の導入による楽天市場やユニクロに代表される「産業・ビジネスの高次化」・・・・堺屋太一さんが名付けた「団塊」というかたまりは大きく変容していく。格差社会が生まれた「根っこ」は実は同じである。ここ数年団塊世代による同窓会がブームとなっているが、当たり前であるが仕事人生30数年を経て経済格差を含め多くの点で一人一人に違いが出てきた。このパラダイム変化=神話崩壊を通じて、同じ価値観を共有しえる仲間同士のくくり直しが始まっている。団塊ジュニアもパラサイトを脱し結婚へと進み、一定の預貯金も保有し、多くの諸条件から「自由」になる。例えば、この「自由」が仕事に向かえば「好き」が高じた「小さな起業」になり、趣味に向かえば今流行の「オヤジバンド」になる。社会に向かえばボランティアやNGOの活動となる。家族に向かえば夫婦の「小さな旅」となる。経済格差は他の若い世代ほど団塊世代においては生じてはいない。これは私が勝手に名付けたものであるが、団塊世代は「小さな幸福物語」づくりへと向かっていく。次回はこうした「小さな幸福物語」がどんな消費として現れてくるか一つの予測をしてみたい。(次回も続く)追記 -1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.04.12
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物語消費時代(3) 2006.4.9.前回「オタク」のマスプロダクツ化に触れながら市場状況の推移について考えを書いてきた。ある意味においては裏側の世界が表へと出てきたことであり、サイバーと呼ばれる少数の人間(オタク)の「過剰さ」がオピニオン(=メディア)を通じマスへと広がる「トレンド」推移でもある。オタクという言葉も健康オタクから始まり様々のところでオタクがネーミング化され市民権を得ることことによって、その「過剰さ」が持つ固有な鮮度を失っていく。市場認識としては、いわゆる「過剰さ」からのスイングバックの真ん中にいる。元祖オタクにとっては停滞&解体となる。つまり、「過剰さ」から「バランス」への転換であり、物語消費という視点から言えば、1980年代から始まった物語の終焉である。別の言葉で言うと、虚構という劇場型の物語から日常リアルな物語への転換であり、「不安」を背景とした物語から「幸福」を目指した物語への転換が始まると思う。勿論、これからも不安過敏市場=自己防衛市場はセキュリティからサプリメントまで広範囲に渡って成長していくと思う。しかし、幸福追求市場の芽は既に出始めている。その予兆は過去に遡り、過去に未来を見いだす動きとして既に出てきている。昨年11月に書いた「Always三丁目の夕日」や少し前に亡くなられた久世さんの功績への再注目、最近見直され始めた旧来の「商店街」に見られるように、「過剰」な物語から次なる物語への転換の芽と考える。そうした転換は、私の持論である、近代化によって失ってしまったものの取り戻しとして出てきている。単なる自然の取り戻しではなく、前回テーマとした生命力の取り戻し、家族更には絆の取り戻し、そして歴史・文化の取り戻しについては観光地化した寺社仏閣的なものから地域毎の日常の中に今なお残っているコミュニティ(地域文化共同体)の発掘へと一歩踏み込んだ取り戻しである。さて、横道にずれてしまったが、1990年代半ばまで物語消費の主人公であった新人類世代、先行してきたオタクは今どこへいったのであろうか?オタクの街秋葉原は再開発の街として既に観光地化(=一般化)してしまっている。ネット上では2チャンネルのような匿名世界とは異なるSNSのような特定世界が生まれ、「過剰さ」の発露の場が難しくなってきた。”どこへ行ったのオタクさん”であるが、そもそも「過剰さ」の背景にはモノへの飢餓感ではなく、精神的飢餓感によるものであった。私は過去の中に未来を見いだして行く「取り戻し」について触れたが、過去がある世代、モノへの飢餓体験のある世代しか「取り戻す」ことはできない。つまり、過去をまだ持たない新人類世代から団塊世代へと物語消費の主人公は代わっていく。そして、当然であるが、物語もまた変わることとなる。団塊世代から消費をリードしていくどんなサブカルチャーが生まれてくるのか?私は幸福消費物語への転換がなされていくものと仮説しているが、30兆とも50兆とも言われている退職金の行方のことを言っているのではない。従来の「不安」解決としての物語創造は獏としてはいるが社会全体を覆う不安であり、解決にはコストをかけずにすませることが出来た。しかし、幸福は一人一人異なる固有の世界であり、極めてコストがかかる物語消費である。虚構からリアルへ、非日常から日常へ、不安から幸福へ、物語の舞台、シナリオ、演出、そして観客が変わっていく。その中心となる団塊世代の物語消費とはどんな市場となるのか次回もこのテーマを取り上げてみたい。追記-1 ここで私がいうオタクとは情報(物語)の過剰な読み取り方を楽しむ人間を言うのであって、漫画、アニメ、フィギュア、理系等の各オタクというより広い意味で使っている。追記 -2 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.04.09
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物語消費時代(2) 2006.4.5.昨年8月からスタートしたこのブログも約8ヶ月になります。アクセスしていただいた件数がちょうど5000を超えました。感謝!ところで物語消費に戻るが、物語は舞台、役者、シナリオ、演出、そして観客という小宇宙を創ることに他ならない。代表成功例として取り上げられているのが「東京デズニーランド」の世界である。誰でもが感じると思うが、ゲートに入ればそこには現実と遮断された異空間があり、一人一人が主人公である世界が広がる。正面にはシンデレラ城があり、シンボルとして強烈なインパクトをもって私達に迫ってくる。そして、多くの遊具施設や次々と催されるアトラクションという「NEWS」による「回数化」を前提とした見事な仕組みとなっている。そして、次回来場を誘うかのようにディズニーグッズという「お土産」が用意されている。見事に物語マーチャンダイジング&マーケティングがなされている。このビジネスモデルと酷似しているのが実は「渋谷109」である。渋谷109はディズニーランドを模して創られたアミューズメントパークではない。どこにでもある商業施設として、よく知られているナショナルチェーンがテナントとして入ってスタートした。今日のティーンファッションのメッカとして全国から修学旅行生がくるような観光スポットになった契機は、やはり「エゴイスト」の出店からであったと思う。渋谷の駅を出ると遠くに円筒形の109があり、まるでシンデレラ城のようである。「円筒形」のビルの中央にはエスカレーターがあり、回りに小さな店が並ぶといった通常では極めて使いづらい構造となっている。しかし、この使いづらさ、小さな店がひしめき合う猥雑感と各店から出されるトランス系音楽とによって、一種異様な雰囲気、非日常感・異空間を醸し出している。私は一時期この渋谷109のブランドづくりをお手伝いしたことがあるが、その時のコンセプトはティーンの「大人になるための社会学校=聖地」であった。ティーンの娘達は巡礼者で、祭司はカリスマ店長、円筒系フロアーはいわば回廊である。週単位で変わるMDは変化そのもので、常に鮮度が保たれている。そして、巡礼記念のお土産として、お気に入りの商品を買っていく訳である。物語消費という視点で東京ディズニーランドと渋谷109を比較すると多く仮想現実の構造で似ているが、唯一異なることは物語の「過剰さ」の在り方の違いであると思う。東京ディズニーランドの過剰さはディズニー物語の読み込みへの過剰さを現実世界と100%遮断してあり、せいぜいグッズへのコレクションを自分の部屋に飾るといった広がりでしかない。一方、渋谷109における過剰さは「ガングロ」「山姥」といったメイクあるいは厚底靴といった外側に向かう「ギャル」のコミュニケーション表現となっている。今、オタクの聖地秋葉原に「アキバ系」といわれるオタク文化が外側・表へと出てきた。周知の萌え系、メイド喫茶などがそうであるが、2チャンネルのスレッドでスタートした「電車男」も書籍化・映画化という形で表へ外へと出てきている。つまり「オタク」のマスプロダクツ化である。そうした背景を考えると、東京ディズニーランドの来場者数が低迷していることもうなずける。物語という虚構世界の現実化はあるフェーズに至ると急激に外へと拡散していく。そして、今無数のサブカルチャーが生まれてきている。物語を読み込ませる謎の深さ・奥行き(=興味関心)あるいはビジネスとしての仕掛けがどんなフェーズにいるのかがヒット商品の成否を分けることとなる。(次回も続く)追記 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.04.05
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物語消費時代 (1) 2006.4.2.偽メール事件による民主党執行部総辞職、WBCでのイチロー、少し前はトリノにおけるイナバウアー、そしてわずか2ヶ月半前に起きたライブドア事件、更には耐震偽装事件、”人の噂も75日”というが情報が駆け巡るスピードは桁違いに早くなっている。ライブドア事件などは遠い過去であるかのように感じてしまう。周知の通り、この4月1日から「ワンセグ」サービスが始まり、ケータイで地上波デジタル放送を見ること以外にも多くのサービスが受けられるようになった。情報の波はますます早く、その勢いは増していくだろう。このブログでも盛んに「心理市場」というキーワードを使ってきたが、押し寄せる情報の波に気持ちは右へ左へと揺れ動いていく。モノが結果買われているが、情報が買われている時代である。このような情報消費の時代の予兆は既に1980年代の後半にあった。誰もがそうだったなと思うロッテから発売された「ビックリマンチョコ」である。チョコレートを食べずにおまけシールを集めることに熱中し、チョコをゴミ箱に捨てないようにと社会現象にまでなったメガヒット商品である。特に10代目の「悪魔VS天使シール」は凄まじく月間販売数1300万個と記憶している。ビックリマンチョコのストーリー性&ゲーム性の中に当時の消費社会を「物語消費」として言い当てたのは大塚英志さんであるが、物語=情報という虚構世界を現実世界=チョコに置き換えて行く開発であった。チョコというモノ価値から、物語を読み解く面白さ=情報価値への転換である。そして、このチョコの主要なマーケットは「新人類」と呼ばれ、以降「宇宙戦艦ヤマト」の熱狂的なフアンへとつながっていく。オタクというキーワードにも関連するが、ここではそうした世代論についてコメントはしない。ところで、新人類といえば1990年代半ば景気低迷が始まった頃インポートブランドブームの中心顧客であったことを想起されるだろう。つまり、ブランド創造にもつながっていく訳である。その良い事例では若い女性の圧倒的な支持で今なお行列ができているスイーツの店「グラマシーニューヨーク」がある。私もデパ地下を研究した頃かなりな頻度で食べたが、確かに美味しいスイーツである。あまり知られてはいないが、この「グラマシーニューヨーク」はニューヨークに実在する専門店ではなく、エリア(NY)のもつ物語を借りて創った日本のメーカーブランドである。今マーケティング&マーチャンダイジングの主要なテーマは、市場がどんな「物語」に興味・関心をもっているかを探ることにある。最近耳にする「感動産業」「感動商品」もこうした「感」を揺さぶる物語追求と同義である。あるいは「こだわり」や「伝統」といった深みもこうした物語の範疇に入る。次回は情報の時代にあって、どんな物語に注目が集まっているか私見を述べてみたい。
2006.04.02
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