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『旅順口日俄战争遺址 东鸡冠山北堡垒(とうけいかんざんきたほるい)』と刻まれた日露戦争遺跡碑。帝政ロシアは1898年に旅順を租借し、旅順の東側の半永久的な防御線として1900年に中国人労働者を使役して堡塁を建設。堡塁は周囲496メートル、面積9900平方メートルの不規則な五角形で、天然の岩にコンクリートと石、そして泥土で覆って造られた。内部の構造は複雑で、司令部、兵舎、弾薬庫、治療室、台所などの周りに胸墻、側防窖室が配置された。堡塁の周囲は堀があり、堀の外の斜面には高圧電流が流れる鉄条網が架設されていた。日露戦争において、1904年8月21日の第1回旅順総攻撃の際に日本軍第11師団(四国兵団)による堡塁の攻略が始まった。第11師団は鉄条網の突破に成功して内堀に入ったが、土砂に覆われた側防窖室からの近接攻撃により大損害を受けた。その後、数度に渡って坑道を掘り、堡塁の爆破を試みた。12月15日には日本軍が発射した28センチ榴弾砲弾が命中し、守備隊の指揮官コンドラチェンコ少将が戦死した。その後、12月18日に堡塁の正面で2.3トンのダイナマイトを爆破させ、これに乗じて占領。日本軍は、この堡塁を突破するために約8,000人の死者を出したのだと。東鶏冠山北堡塁入口には『北堡塁』と刻まれた岩が。ここは撮影スポットになっているようであった。現地ガイドの案内に従い堡塁の横を歩いて行く。『暗堡通道入口』碑。岩に覆われたトンネルの如き通路、その先には階段が。しかしこの入口にはネットフェンスが。擁壁が倒れているようであった。そして再び階段を上っていく。暗渠土塁の壁にあった日本の城にある「狭間」のような穴・砲眼が。『暗堡』碑。右手の壁には銃弾の跡が無数に。日本軍の砲撃の弾痕跡であろう。ここからロシア軍は反撃し抵抗したのであろう。反撃用砲眼が大きく外から破壊されていた。女性の横顔の様な形が見えるのだとの説明板。なるほど!!。名前は『玛格丽』・マーガレットと呼ばれているようであった。落ち込んだ表情、大きな波状の髪、深い凹んだ目、尖った鼻、丸いあごは、ヨーロッパの美女のシルエットのように見えるのであった。『側防暗堡』碑。大きく破壊された暗堡の壁。『側防暗堡入口』フェンスに保護されて安全面からか立ち入り禁止に。『側防暗堡入口』碑。『日軍爆破口』東鶏冠山が陥ちたのは203高地占領後の12月18日であったと。第1回攻撃では砲撃の後突撃というという攻撃法であったが、それでは味方の損害が大きい上敵方には損害が殆どなかったのだと。そのため途中より攻撃法が変え、堡塁近くまで密かに坑道を掘り進めて要塞を攻撃するというというものに作戦を変えて行ったのだと添乗員から。『日军爆破口』 ここが日本軍が2.3トンのダイナマイト爆弾を仕掛けて破壊し、突破した場所。この爆破よって日本軍がこの堡塁を陥落させるきっかけになった(突破口となった)のだと。今はのどかで緑深い山に、生々しい弾痕や爆破口がある。百年前の死闘が目に浮かぶ場所。『遊覧通道』碑。 1916年に建立された『東鶏冠山記念碑』が立っていた。正面に「東鶏冠山北堡塁」と刻まれていた、満州戦跡保存会の石銘板台座の碑文には「明治三十七年八月以来第十一師團ノ諸隊及後備歩兵第四旅団ノ一部隊之ヲ攻撃シ 同年十二月十八日占領ス 陸軍大将男爵鮫島重雄碑名ヲ書ス 大正五年十月 満洲戦蹟保存會」と。ロシア軍大砲が並んでいた。『俄军炮阵地(ロシア軍大砲陣地)』「1898年、ロシアが強制的に旅順大連を租借した後、ここに重砲陣地を築き、旅順西北方向に対する火力網となった。1904年10月、日本軍の二個師団が東鶏冠山北堡塁に向かって猛烈な攻撃を行い、19日間の内、重砲砲撃と爆発によってトーチカを落とした。」兵舎のエリアに入って行く。士兵宿舎。電話室指揮部入口が前方に。指揮部指揮部内部。更に進む。兵舎のキッチン、応急処置場所。コントラチェンコ戦死の石碑コントラチェンコ戦死の場所の紹介1904年 日露戦争が勃発後、日本軍は東鶏冠山北堡塁を奪い取るため、129日の攻守戦を展開した。12月15日の20時ごろ、ロシア陸軍防御司令官であるコントラチェインコ少将は堡塁の指揮部に来て軍事会議を行う。日本軍はこの情報を知ると、すぐに重砲(280mm榴弾砲)を激しい攻撃をし、指揮部は一枚の砲弾に命中され、コントラチェンコ少将が殺された。戦後、日本軍はその寛大な度合いと顕著な戦績を誇示するため、ここに「コントラチェンコ少将の戦死の場所」という石碑を建てられた。ロマン・イシドロヴィチ・コンドラチェンコ。日本・ロシア双方から、「日露戦争に於けるロシア軍屈指の名将」と高く評価されている。戦死した場所には日露戦争終戦後その死を惜しんだ日本側によってこの祈念碑が建てられたのだと。下の写真はウィキペディアより。 『堡塁正門』碑。そして坂を下り、先程の入口に向かって戻る。この窪んだ場所は?そして再び『北堡塁』と刻まれた場所に戻ったのであった。バスに乗り、東鶏冠山を下る。前方に見えたのが『白玉山(はくぎょくさん)』であろうか。港を見下ろす標高130mの小山で、山頂にある展望台からは軍港として利用されている旅順港を一望することができる。山頂部に立つ高さ66.8mの白玉山塔は旅順のシンボル的存在で、東郷平八郎と乃木希典により立てられ、当初は表忠塔と名づけられたが後に改名された。そして『鸡冠山路』から『新城大街』への交差点の角にあったのが『东鸡冠山景区』と赤く刻まれた石碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.08
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8:30に『大連日航飯店』から、この旅行の最後の観光場所『旅順』を目指して『長江路』をバスは進む。そして何度も訪ねた『中山広場』を通過。そして『南山路』を『労働公園』に向かって進む労働公園前の『解放路』沿いの『聯通大廈』ビル。既に交通渋滞が始まっていた。前夜に大連市内の夜景を楽しんだ『大連テレビ塔』が右手に。そして車窓から、道沿いに文字の書かれた札を手前に置き、座っている多くのオジサン達の姿が。日雇い労働者が、この日の仕事を求めているのだと添乗員の王さんから。写真中央の『专业』は『専門職』のこと。中古住宅の修繕業であろうか?『八一路』に入り『八一広場』のロータリーを通過。『名城国際公館』が右手に。四つ星ホテルの『仲夏花園酒店』入口。『大連芸術品交易中心』。そして途中『浜海西路』沿いに会った『珍珠宝石館』に立ち寄る。販売プレゼンに誘われて『真珠クリーム』を土産に購入。レストラン『付家庄海鲜大排档』が右手に。そして前方に海の上を走る『星海湾大橋』が姿を表した。濱海西路と高新園区を結ぶ、海上のバイパス路。この大橋の登場により、市内と高新園区を結ぶ中山路/黄浦路の大渋滞問題が解消されたのだと。この『星海湾大橋』は全長6.8kmで、2階建て構造になっていた。市内から高新園区に向かうルートは上階を、逆は下階を走るのだと。歩行者用の通路も設けられていると添乗員からの説明。我々の往路は2階・上部の道を走る。車窓右手に、昨夜、夜景を楽しんだホテル『大连一方城堡豪华精选酒店』の姿が。『星海広場』の吊橋や『シェル博物館』そしてその奥にマンション群が見えた。マンション群を追いかける。大連が海に囲まれた美しい街であることを再確認したのであった。そして更に『星海湾大橋』からの車窓の風景を楽しみながら進む。一方通行の2階部分の高架橋。前方左手に海を渡り終えた『甘井子区』のビル群が見えて来た。建設も新しい高層ビル群が左手に。巨大なマンションが林立。『万达海公館』。マンション群の入口であろうか?走行しながら緑地帯に散水する作業員の姿。安全帯等は付けていない模様。左手には旅順に向かう電車とトンネル入口が。左手に『塔河湾站(塔河湾駅)』が。大連軌道交通12号線の駅。大連軌道交通12号線は全長は40.38km。起点は1号線との接続駅である河口駅、終点は旅順新港駅。駅数は8駅であり、うち河口駅が地下駅、他の7駅が高架駅である。『新城大街』の道路脇には『旅順歓迎您』の文字とその先に大きな像が。馬に乗ったこの武将像は誰?この先を『东鸡冠山景区』に向かって『新城大街』を左折。右手に『东鸡冠山景区』。そして『东鸡冠山』に到着しバスを降りる。広場にはユニークな形の石のモニュメントが。この日に訪ねた旅順の観光場所。『东鸡冠山景区意图(東鶏冠山景区示意図)』東鶏冠山は日露戦争時の激戦地で、司馬遼太郎の『坂の上の雲』にその激戦の様子が詳細に描かれている。ここには当時のロシア軍の堅固な堡塁が今も残り、壁の無数の弾痕や爆破跡が当時の戦闘の激しさを物語っていたのであった。山が鶏冠に似ているために東鶏冠山と呼ばれたのだと。ここにロシア軍は防御線として「東鶏冠山堡塁」を建造した。堅牢な施設で、士官室や兵舎、食堂、弾薬庫などを設けていたと。すなわち、1900年より設営されたロシア軍トーチカ要塞。関東軍はここを落とさないと、旅順港のロシア海軍を攻撃できないということで、数万人の死傷者を出した日露戦争の激戦地なのであった。1898年帝政ロシアが旅順、大連を強引に借りた後、旅順を長期的に占領するために、1900年より、中国労働者にこの永久的な防御工事を蓄蔵するように強制した。これは帝政ロシアが旅順東側の陸上防衛戦にある重要な工事で有り、北側の階○地の制御に用いられる。1904年日露戦争が始まった後、ここは日露戦争の重要な戦場となった。8月21日に日本軍第11師団は攻撃を始め、なかなか奪い取れないため、坑道発破により堡塁に近づいていった。12月15日に、ロシア軍陸軍防衛司令コトラキン少将が日本軍の重砲で堡塁内の司令部で砲撃に当たり死んだ。12月18日に、日本軍は堡塁の正面に2.3トンダイナマイトを入れて大きい発破で北堡塁を占領した。『东鸡冠山景区 旅順二〇三桜花图』。様々な桜の写真を展示。こちらにも。八重桜であろうか。『旅順日俄戦争陳列館』内部を見学。『旅順口区国防教育基地』と書かれたプレートも。よって日本のことを悪しざまに書いた展示室でもあったのだ。『旅順口』と書かれた石碑のある場所の写真が展示されていた。海を臨む場所で、旅順口が感動的なほど間近に見おろせルバ所。右から伸びる「老虎尾」と左の「黄金山」に挟まれた隙間(写真中央の石碑の後方)。まさにそこが、日本海軍による旅順口閉塞作戦の現場なのであった。その内側には、ロシア旅順艦隊が引きこもっていた湾が見えた。『坂の上の雲』ファンには絶対に見て欲しい光景なのであった。『旅順口 風伝展覧館』の文字が。遼東半島先端部の地図。『旅順口行政区划图(区分地図)』&『旅順口区干路交通示意图』。『旅順绿色经济区”五城一都”发展規划图』新石器時代からの中国の歴史のパネル展示。『交后戦争』(日清戦争)のパネル展示。『苏联紅軍出兵東北』はソ連軍の中国東北部進出の歴史説明。関東軍の進出とソ連軍の旅順撤退までの歴史説明。日露戦争の『戦争結果』。ポーツマス会議。向こう側・ロシア側:左からコロストウェツ、ナボコフ、ウィッテ、ローゼン、プランソン、手前・日本側:左から安達、落合、小村、高平、佐藤。会議で使われた写真中のテーブルは博物館明治村にて展示されていると。ポーツマス条約(アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約とも称する。)の調印メンバー。1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊[注釈 1]のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア帝国全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印された。小村壽太郎(右から2番め)と高平小五郎(一番右)、随員2名および米国人外交顧問ヘンリー・ウィラード・デニソン(中央)。『一个旅順口半部近代史』(左)『一个旅順口半部近代史』(右)ズームで『日露戦争』を。1945年8月19日、偽満州国皇帝・溥儀は日本へ亡命する途中でソ連軍に抑留される。瀋陽飛行場での写真のようだ。1945年8月20日、最後の関東軍司令官山田乙三(やまだおとぞう)がソビエト軍に投降し、降伏文書に調印した。第二次世界大戦の終結。1945年9月2日、USSミズーリ艦上での降伏文書調印式。座ってサインをするのは、マッカーサーであろう。『公共施設:留下的歴史記憶』。関東軍支配下での記憶に留めておくべき様々な建築物が。『旅順景区(点)遊覧示意図』。『露天博』。関東軍が建設、利用した数々の建築物。こちらにも。『来未诉合历史让』の石版彫刻。そしてその前に展示品が。明治37年(1904年)2月8日、日本艦隊は、朝鮮半島西部の仁川港のロシア艦隊を攻撃すると同時に、遼東半島南端にある旅順港においてもロシア艦隊への奇襲攻撃を行った。 またその一方で、日本陸軍の先遣部隊が仁川に上陸したのであった。東郷平八郎は、日本の幕末から昭和時代初めの武士(薩摩藩士)、海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。日清戦争では「浪速」艦長として高陞号事件に対処。日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り日本海海戦での完勝により国内外で英雄視され、「陸の大山、海の東郷」、「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」と呼ばれた人物。ロシアの機関銃であろうか?中央には2砲弾も。280㎜榴弾砲弾 重量217㎏ 最大射程7.8㎞。日中戦争、第二次世界大戦で使用した『高射機関砲』か?大きな地図で日露戦争の戦況を説明する別のグループの添乗員。もう少しこの場所の見学を続けたかったが、添乗員に呼ばれて外に出たのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.07
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この旅行も7日目、観光の最終日の6月25日(火)となる。ホテル『大連日航飯店』の我が部屋からの光景。右側が大連駅方面。この日もほぼ快晴、朝の陽光がビルに反射し黄金色に輝く。『長江路』沿いのビル群を我が部屋から。道路沿いにはマッサージ店やサウナがずらりと並ぶ。写真左端のレンガ色が「泰殿養生会館」。日本人経営のマッサージサロンで、技術うまいから好評と。泰式マッサージ、全身マッサージ、足裏マッサージとオイルマッサージなどがあると。そしてその右側はサウナで、どうやら怪しい?サービスの店か?そしてこの日もホテル廻りの早朝散歩に向かう。時間は6:10過ぎ。ホテルのロビーは朝の清掃中。長江路にある大連日航ホテルの斜め向かいの、民生街へ入ってすぐ左にある『宏済大舞台(こうさいだいぶたい』。京劇の公演場所で、大連京劇院による演出が行われているのだと。ここは日本が大連を租借していた時代にはもともと「天福茶園」があった場所で演劇も行われていて、1911年には保善茶園と名称を変えて、後に永善茶園と名称を変えた。当時様々な演劇がおもに日本語で行われた中に、京劇の『人面桃花』の北京語による演出もあった。1931年には大規模な改築を開始して、1933年には竣工、1934年には「宏済大舞台」として開業した。『秋田温泉』は2015年6月の新しく大連日航ホテルのすぐ横にできた24時間営業のサウナであると。しかし、秋田温泉は大連日航ホテルとは何も関係ないらしいが、なぜ「秋田」?。大連駅方面に歩を進める。火災にあった建物が。『長江路』と『天津街』の交差点。右手に大連のCRに架かる『現 勝利橋』が見えた。大連駅の東方向1キロ、ロシア風情街手前の橋、今は『勝利橋』と呼ばれている。昔の名は『日本橋』。1899年、帝政ロシアが建て、当初の名前が『ロシア橋』であったと。橋の北にはロシア官庁街(今はロシア風情街)。1905年、日露戦争勃発し、橋は一度壊されたと。そして、1907年、日本当局がこれを造り直し名前も日本橋と改名した。改造後の橋は鉄筋構造のアーチ橋で、長さは108.6m、広さは16.4m。第二次世界大戦終戦後、ここを『勝利橋』と改名された。現在は歩行者通路も別途作られ、旧橋の西側に新しい橋も作られた。『上海路』の先にある『大连艺术展览馆』をズームで。旧東清鉄道汽船本社ここは夜の散策で訪ねたのであった。高層ビル群も姿を表した。宏孚商旅酒店(手前)、摩天大楼中心(裏側)そして大連中心·裕景(右)であろう。なかなかビル名を特定するのが難しいのだ。そして『大連駅』大連駅は満州国時代に建てられた駅だが、正面から見ると東京の「上野駅」の正面玄関口にそっくり。大連駅の方が上野駅より大きいものの、建築物全体のデザインは両駅ともに非常に酷似。日露戦争で大きな損傷を受けた大連駅を新たに建造したのが日本人だと。大連駅は満州鉄道の太田宗太郎氏が上野駅を参考に設計したもの。大連駅の立地は平坦ではなく、高低差があったことから、太田宗太郎はこの高低差を活かし、自動車で駅の2階部分に直接乗り入れることができるように設計。現代の空港でも見られる設計だが、2階部分は出発、1階部分は到着と階層を分けることでスムーズな利用を実現したのだと。こうした設計が取り入れられたのは「当時の中国では大連駅が初だった」と。時間は6:30過ぎ。大連駅前から中山広場方面の高層ビル群。右に『天安国際大厦』『天安国際大厦』は地下52階、地下3階、最上階は202m。左に『インターコンチネンタル大連 (大連遠洋洲際酒店)』。大連駅のチケット売り場。『栾雪莲窗口』。切符販売・発券の速さで匠の技を持つ大連駅員「栾雪莲」さんの専用コーナーであるようだ。『南一桜进站口』は一階南駅入口。『中山路』を『中山広場』に向かって歩く。『友好広場』が前方に。ロータリーの中央の巨大な球形のモニュメントを前日に続き再び。広場のシンボルであるこの球形のオブジェは1996年に当時の大連市長の発案で作られた。これはサッカーボールではなく真珠をかたどったものであると。3120枚のガラスで構成されており、直径は15メートル、重さは117トン。この球体を支える台座は世界の人種の色(黄・白・黒・赤・茶肌)を表現し、また5大陸の友好を表しているのだと。ロータリーをグルッと廻り進む。後方に『友好大廈』『大連市内案内図』。大連市の総面積は12,574km2であり、うち旧市街区の面積は2,415km2。山地や丘陵が多く、平野や低地が少なく、地形は北から南へ傾き、北は広く、南は狭くなっている。地勢は中央から南東と北西部にある黄海と渤海へ傾き、黄海への斜面は長く緩やかである。長白山のある千山山脈は旧市街区を貫いており、地形のほとんどは山地や緩やかな低い丘陵であり、平野と低地は河川の水が海へ流れ込むところ及び山裾の谷地に点在するだけで、至るところでカルスト地形が目に付き、カルスト地形と海食地形が比較的に多いのだと。そして中山路を進み『中山広場』に到着。『旧 朝鮮銀行』。建物の歴史、詳細については『8月1日のブログ』👈リンクにアクセス願います。『中山路 1』のプレートが。中山広場の歴史建築物には『中山広場1号~10号』まで番号が付けられているのであった。下図はウィキペディアより。『朝鮮銀行 大連支店旧址』現在は『中国工商銀行中山広場支行』。ネオクラシック様式、大きなコリント式の神殿風オーダー(円柱)が目を引いたのであった。『关东银行旧址』「关东银行旧跡」とは1947年から1950年まで存在した地方銀行のことで紙幣も発行していたようです。『全国重点文物保护单位 大连中山广场近代建筑群 一 朝鲜银行大连支店旧址』ロータリーの歩道を歩く。『旧 関東逓信局』。『关东都督府 邮便电信局旧址』。『市级文物保护单位 关东都府邮便电信局旧址』。現在は大連市郵政局が使用。『武装押运』と書かれた黒、そして白の車両が2台駐車中。それにしても『武装』の文字は物騒!!民間の警備車両のようだ。中国では現金輸送車や各種護送車には武装した押运员(ヤァァ ユゥィン ユゥァン)と呼ばれる警備員が同乗し運搬物を守っていると。しかも警備員は防弾ベストにショットガン(散弾銃)やアサルトライフル(自動小銃)まで装備が許されているのだと。中山路を隔てて、『大连远洋洲际酒店(大連遠洋洲際酒店)』(左)と『大连国貿中心大廈(大連国貿中心大廈)』(右)。『旧横浜正金銀行大連支店 (中国銀行遼寧省分行)』。石碑が2つ。中山広場の向こうに『大連賓館・旧ヤマトホテル』が。『大連人民文化倶楽部』を横から。『旧 清国大清銀行』。『大連人民文化倶楽部』。英国バース合唱室内楽団のコンサートが行われるようであった。『大連人民文化倶楽部』。『旧 清国大清銀行』を振り返る。『旧大連市役所(現 中国工商銀行)』。更にロータリーを進む。『旧横浜正金銀行大連支店 (中国銀行遼寧省分行)』。『中山広場』を半周する。帰路は『民生街』を進む。左手に『独門衝烤魚(民生街)』。右手に『金逸国际电影城』は映画館であろうか。この付近は『浪速町』と呼ばれ、大連のなかでもっとも古い商店街であり、随一の繁華街であったと。日本人住民は浪速町を散策することを東京の銀ブラをもじって「なに(浪)ブラ」と言っていたと。正面の高層ビルは、我々が宿泊している36階建ての「大連日航飯店」。女性が『燜子』を焼いて、それを婦人と子供が食べている像。燜子(menzi)は中国東北地方は大連名物の小吃のひとつ。キャッサバ澱粉を「燜」=蓋をしてとろ火で煮込んで固めたもので、食感はワラビ餅よりすこし固め。その澱粉の塊を一口大にぶつ切りにしてから熱々の鉄板で炒め、ニンニク、醤油、酢、ごま油などで調味したスープをかけて食べるのだと。鉄板で炒める時に表面の水分が抜けるので、やらかいこんにゃくでも食べてるかのよう。 葱に香菜、ニンニク、おこげ、ごま油と香りの良いおやつだと。子供が美味しそうに。『燜子』と書かれた旗。『大連老街』と書かれているのであろうか。『悦泰街里』という大連にしてはモダンな一角。ただし、この時間の人の数は少なかった。この巨大な置物は??。『鼎(かなえ、てい)』の如きものが上部に。中国古代に使用された肉を煮る礼器。3足ないし4足 (方鼎) で,青銅製と陶製のものがあるのだと。象の背中に載っているものは船?これも舟そしてベンチ?『天津街古玩城』天津街はもともと古道具、偽物チックな真珠、安い洋服や雑貨、ちゃちなおもちゃなどが露店スタイルで売っている場所でありようだ。はんこ屋、水墨画屋、中華風の壷屋、お茶屋、茶道具屋、筆屋、珠玉屋、紅木家具屋、古切手屋、中華風雑貨屋等々・・・・・があるようだ。『民生街』と『天津街』の交差点。左手の「玉荷池 荷池湯泉」は温浴施設(スーパー銭湯・サウナ・スパ施設)。『LONGXI(龍熙) CLUB』は?重厚な銅製の扉。そして『日航ホテル大連 (大連日航飯店)』に戻る。36階、総部屋数372室、148 m の高層ホテル。中国民生銀行(大連勝利橋支行)の文字も横に。時間は7:11。『日航ホテル大連 (大連日航飯店)』のフロアー配置図。そしてホテルレストランでの食事に。調理品コーナー。さすが五つ星の日航ホテルだけあって、料理の種類が豊富なのであった。いろいろ取りました。そして目玉焼きと牛ステーキも焼いてもらいました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.06
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大連都心部の緑山に位置する標高360mの大連テレビ塔からの大連の街並みの夜景を堪能した後は、緑山の坂をバスで下る。『劳动公园』の大きなサッカーボールのモニュメント。『解放路』を左折し『五恵路』沿いの『大連瑞詩酒店』(手前)と『大連国際商貿大廈』(奥)。そして頂部が黄色の照明の建物は『大連希望大厦』。『中山路』を進み『人民広場』の前を走ると大連市オリンピック広場が。オリンピック広場(奥林匹克広場)の奥には体育場、サッカー場等があると。『西岗体育館』。大連人民スタジアムとも呼ばれる。歴史南満州鉄道(満鉄)が1925年(民国14年)に建設を開始し、1928年に完成した大連運動場がその起源であると。『大连奥利加尔大酒店』。『星海広場』に到着。『星海広場』はアジア最大の面積を誇る広場(天安門広場よりも広いと言われる)で1997年に完成、『星海広場』全体は、敷地面積が110万m2あり、アジア最大の都市広場。楕円形の形をした近代的な公園部分は一番長いところで直径約240m、広さは4.5万m2もあります。巨大な真っ白なスポーツをテーマにしたモニュメントが広場の楕円外周に沿って並んでいた。大きな通りと近代的な高層ビルだらけ。巨大な「Sheraton」が目に飛び込んで来た。星海広場の外周道路の一角で、中洋折衷のような建物が並んでいた。マンション群の最頂部をズームで。更に移動しながら同じ頂部をズームで。前方の海の上の『星海湾大橋』をズームで。濱海西路と高新園区を結ぶ、海上のバイパス路。この大橋の登場により、市内と高新園区を結ぶ中山路/黄浦路の大渋滞問題が解消されたと。この星海湾大橋は全長6.8kmで、2階建て構造になっていた。市内から高新園区に向かうルートは上階を、逆は下階を走っているのであった。様々な色に刻々と変化。『星海湾大橋』と右手にホテル『 グランド ハイアット ダーリェン(大连君悦酒店)』。昔は風光明媚な星海湾の広大な敷地を埋め立てて出来たところで、広場の向こうで海が見えるエリアには多くの高級な高層マンションが連なっていた。その金額は約3万元/平米もするそうで大連の一等地だと。別のマンション群。こちらにも。棒高跳びであろうか?『秋田竿燈まつり』の如き照明灯。再びマンション群を見る。こちらにも。大連市市制百周年(1899年~1999年)を記念するために建設した百周年記念彫刻広場は1999年9月19日に完成したものである。当彫刻は開いた本の形と羽ばたく翼の形にしている。巨大スケールのスケボー広場のような左右が湾曲している広場の端。星海広場の横の運河に架かる橋を渡る。ズームで。『大連シェル博物館(貝殻博物館)』。2009年4月に貝殻の形をモチーフにした銀色の建物に生まれ変わったとのことであるがなぜかその後もずっとOPENせず、貝殻博物館という名前だけが残っているとのネット情報も。巨大なシンデレラ城の様な建物は『大连一方城堡豪华精选酒店ザ キャッスルホテル ア ラグジュアリー コレクションホテル ダリアン』。星海広場が一望でき、中国にいることを忘れ、ヨーロッパの城に滞在するという優雅な雰囲気を満喫出来るホテルであると。1泊2~3万円であろうか?そして星海広場を後にし、帰路につく。『星河街』を進む。右手に『大連市游泳館』が。50m、25mのコースプールと飛び込みプールがあるほか、バドミントンや卓球ができる体育室をはじめ、トレーニング室やテニスコートなど各種施設もあると。途中、しばし夜市を訪ねる。場所は『中原街小吃街』。約100mにわたり羊肉の串焼きや焼餅などの屋台が連なり、地元客で連日賑わっていた。その場で素材を選んで調理してもらうスタイルの海鮮料理店や屋台も。アメリカンチェリーが。巨大なアメリカザリガニの如き・・・。中国語では「小龍蝦」(ミニロブスター)と呼ばれ、最近ブームになっていると。いろいろな蟹が水槽に。月曜日の夜の為か人の数は比較的少なかった。こちらにも多くの種類のサクランボの山が。しかしこの辺は多くの人の姿が。『中原小吃街』の東門。ヒマワリの種が大量に。様々な唐揚げも。中国式ファーストフードの店が並ぶ商店街を目のみで楽しんだのであった。そしてこの日の観光の全てを終え、ホテルへの帰路に。友好広場の中心にあった球形モニュメントのライトアップは刻々と模様を変えて。そしてホテルに戻り、この夜も二人で反省会を。〆には、日本から持参した『揖保乃糸』を楽しんだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.05
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ホテルを19:40び出発して大連市内夜景鑑賞に向かう。中山広場に向かってバスは進む。『旧 朝鮮銀行』。『旧 大連民政署/大連警察署』。ライトアップされた『大連金融大廈』。『大連賓館』。『大連賓館』正面。結婚前の記念撮影のカップルがここにも。ライトアップされた『旧大連市役所(現 中国工商銀行)』。様々に色が変わって。『旧 東洋拓殖大連支店』。『世界貿易ビル(大连世界贸易大厦)』。『インターコンチネンタルホテル』は様々なカラーに次々に変わっていった。『大連市(人民)政府旧址』。再び『旧大連市役所(現 中国工商銀行)』。『旧横浜正金銀行大連支店 (中国銀行遼寧省分行)』。『旧横浜正金銀行大連支店 (中国銀行遼寧省分行)』そして後ろに『中銀大廈』。『人民路』と左に『世界貿易ビル(大连世界贸易大厦)』。『南山路』を『劳动公园』に向かって進む。遠くに『大連テレビ塔』が見えて来た。そして『劳动公园』のテレビ塔下に到着。地上高さ: 190 m建設: 1987年8月8日12角形のすっきりしたデザインのテレビ塔。塔の高さは190m、東京タワーの333mと比べると高さが足りないように思うかもしれないが、小高い山の上に立っているので、海抜は360mあるのだと。総合的な高さと展望視界については、東京タワーに勝るとも劣らないと感じられたのであった。テレビ塔下の『緑山展望台』から大連の街並みを見下ろす。中央に青の『インターコンチネンタルホテル』。左に『希望大厦营销中心』、その右に『大連国際商貿大廈』、『大連瑞詩酒店』と一番右に『インターコンチネンタルホテル』。色の変化を追いかける。眼下の『劳动公园』の大きなサッカーボールのモニュメント。これぞサッカーの町・大連のシンボルなのであると。大連には、昔は、大連実徳という有名なサッカーチームがあり、全国レベルで活躍していて、ワールドカップの中国代表チームにもメンバーを送り込んでいるのだと。よって、大連ではサッカーが大変人気があり、サッカーボールをかたどったモニュメントが方々にあるのだと。しかし多くの負債を抱え、2012年に解散してしまったと。『希望大厦营销中心』をズームで。大連テレビ塔ビル前から見上げる。『大连观光塔(大連観光塔)』の文字が。1階からエレベータで上に上がり手荷物検査をしてから専用エレベータに乗って展望台に行くのだと。ケーブルカーで『劳动公园』からこの緑山頂上のテレビ塔まで来ることも出来るようであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.04
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『日本人街』の散策を終え、バスに乗り、この日の最後の観光の渤海湾の隅に浮かぶ『棒棰岛(棒槌島・ぼうすいとう)眺望』に向かう。『仲南路』を利用してバスは進む。左手にあったのは『亲宝贝海澜幼稚园』。安全色・黄色のスクールバス。『山峦路(さんらんろ)』を走る。『峦』は「えんえんと連なる山々、くねくねと続く山並み」の意と。亦山(またやま)そして亦山ということか?信号停止線が車線ごとに中央に向かって、少しずつ後方に下がっているのであった。理由は??道路の法面には巨大なキノコが。『绿水青山就是金山银山(緑水青山就是金山銀山)』と書かれた石碑。2005年、当時浙江省党委員会書記だった習近平総書記が初めて「緑の山河は金山・銀山にほかならない」という理念を提起したのだと。第18回党大会以降、習近平総書記はさらに繰り返しこの理念を強調した。例えば、2013年にカザフスタンを訪問した際、次のように述べたと。「われわれは緑の山河を必要とし、金山・銀山も必要としなければならない。金山・銀山より緑の山河を必要としなければならず、しかも緑の山河は金山・銀山にほかならない。」「緑の山河は金山・銀山にほかならない」とは人間本位の民生思想を体現し、人間と自然の調和的共生の法則を順守し、党と政府が大いに推進するエコ文明建設の鮮明な態度と確固たる決意を生き生きと表しているのだと。ここが『濱海北路』からの入口。遠くに『大连棒棰岛宾馆(バンチュイアイランドホテル)』が見えて来た。『大连棒棰岛宾馆(旧東山ホテル)』があり、国賓館として、中央政府の要人が 来る時に、いつもここに宿泊していたらしく、周恩来も鄧小平もよく来ていたのだと。昨年、2018年5月7、8日に北朝鮮の金正恩委員長の2度目の訪中となった際に中朝首脳会談を行い、宿泊しているのがこのホテル・『大连棒棰岛宾馆(旧東山ホテル)』。面白い形状の石のモニュメント。そして黄海が眼下に見えて来た。黄河から運ばれる黄土により黄濁している部分があることから黄海と呼ばれている。黄海は太平洋の縁海であり、広義の東シナ海の一部である。北西側では、山東半島と遼東半島の間の渤海海峡を通じて渤海とつながっている。北東は遼東半島と朝鮮半島の間に西朝鮮湾(西韓湾)が入り込んでおり、その湾奥に鴨緑江が河口を作っている。水深は平均44mと浅く、大陸棚となっている。北は遼東半島から、南は揚子江河口までにまたがっている。中国は昔から「黄」の文字が大切にされて来ているのだと。中国の最初の皇帝は「黄帝」と呼ばれ、文化の発祥地が「黄土高原」であり、中華民族のゆりかごの地が「黄河」であり、黄帝の子孫の肌色は「黄色」であるなど、黄色の色は古くから中国伝統文化とは切り離せない縁があるとのこと。宋代(960年 – 1279年)から清代(1644年 – 1912年)までの中国では、黄色は皇帝・皇位を表す色として尊ばれ、皇帝以外の使用が制限されたと。黄色が皇帝を表す理由に、「黄」と「皇」の発音(huáng)が同じだからとのこと。白い帆のヨットが静かに。『棒捶岛』周辺の地図。海岸から500mのところに、切立った小島があり、遠くから見ると、農家で使われる衣服を叩く棒のように見えることから、『棒捶岛』と呼ばれていると。棒棰島は大連市の東南部海浜に位置し、市街区より少し離れた国賓館リゾート地。海に面して別荘が多い静かな所で、海の正面近くに小さい島があり、名前が『棒捶岛』。この島に関して美しい伝説が残っていると。棒棰というのが朝鮮人参の意味、島の形が朝鮮人参に似ているからこの名前が付けられたと。又は農作物を叩く道具に似ているからという由来もあるのだと。春にはアカシアが咲き乱れ、夏には美しい砂浜と緑地が共存。中国の要人たちの避暑地としても知られている。中国中央政府の重要会議もここで開催されると。園内にはホテルと別荘(一戸建て)があり、9ホールのゴルフ場もあるのだと。山、海、島、礁の自然景観に恵まれた場。棒棰島ホテルが三つ星クラスで、1959年に出来た古いホテル。始めは東山ホテルと言い、政府が投資したホテルであったと。国賓館として、中央政府の要人が来たらここに宿泊、かつて周恩来、鄧小平もよく来ていたと。本館以外に13棟の別荘があり、毛沢東と周恩来それぞれ使った別荘が残っていると。1977年から”棒棰島ホテル”と名づけたと。島の先端をズームで。十数m?の断崖絶壁。眼下の陸側には釣り場も造られていた。ズームで。遠く黄海に浮かぶ左から『ニ山島』、『三山島』、『大山島』が微かに見えた。見学を終え帰路に。道路脇の見事な植栽。『濱海北路』からの入口前を再び。『迎賓路』を走る。往路と同じ『山峦路』を戻る。『仲南路』を右に行くと『朝阳路』。『ニ七広場』のロータリーを右折する。バスが路面電車を追い抜く。いろいろな型式、色の路面電車をバスの車窓から。懐かしい型式のマイクロバスが再び。『王府学校』の文字があったので、学童の送迎用であろう。『華東街』の201路の『華東広場駅』から路面電車の一部区間体験乗車に。大連には現在2系統(201路・202路)の路線があり、市街を東西に走る201路(201系統)は、日本車輌製の戦前型電車が走る路線として有名で、沿線には旧満鉄本社をはじめ戦前からの建物も多く、昔日の面影を感じられる路線。料金は乗車するときに支払う方式なのであった。幸い、乗った電車はかなりの旧式型の電車。大連は路面電車以外にも、BRT(bus rapid transit、バス高速輸送システム)あり、トロリーバスあり、郊外電車あり、かつ地下鉄もと、バラエティに富んだ交通網が楽しめる街であるようだ。それほどの混雑もなく。旅友もカメラを持ってお疲れで居眠りモードに。『三八広場』で路面電車を下り、再びバスに乗る。そして大連駅北口に近い『大連日航ホテル』に到着。時間は17:20過ぎ。ホテルのフロントロビー。我々の部屋。ベッド。もちろんダブルではなくツゥイン。部屋の窓からの眺め。そしてしばしの休憩後、バスにてこの日の夕食会場に向かう。大連北口駅前の『長江路』を進む。『新开路』沿いの夕食会場に到着。美しいボタン(牡丹)?の刺繍。こちらにも。夕食は四川料理。山盛りで皆さん食べきれずに。長いあご髯がトレードマークの三国志の『関羽(かんう)』であろうか?見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため、諸葛亮からは「髯」殿と呼ばれ、『三国志演義』などでは「美髯公」などとも呼ばれた武将。そしてこの日のホテルに向かってバスは進む。前方に『大连站』が見えて来た。『长江路』から見た『大连站』。『大连站』は瀋陽鉄路局の大連鉄路支局が管轄する一等駅。瀋大線、哈大線が乗り入れている旅客列車の始発駅。毎日、約80本の旅客列車が発着する。また、大連快軌3号線や大連市電201系統、トロリーバス101系統も当駅に接続している。満州国時代に建てられた駅で、日本の上野駅がモデル。南側には広大な勝利広場があり、2階が出発、1階が到着と空港のようなつくりになっている。北口も作られ、そこは凱旋広場と呼ばれ、開発区へ行く大連快軌3号線の出発駅もある。そして一旦ホテルに戻り、この日のオプショナルツアーの『大連夜景鑑賞』に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.03
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中山広場を後にし、魯迅路沿いを走ると左手にあったのが雅楽軒酒店(右)と万達影城(大連一方広場店)(左)。『大連大学 魯人路校区』。『大连车务段』前には三種類の旗がはためいていた。中央に中国国旗、左に安全旗、右に车务段旗が。『大连车务段』は「大連電車管理課」であろうか。『大連満鉄本社旧址』。日露戦後、満洲への日本の覇権拡張の原動力となった旧満鉄本社/大連満鉄旧址陳列館の建物を訪れた。この建物は、『満鉄』👈リンクが、帝政ロシア植民地時代の中心地であったロシア人街から、日本植民地時代の中心地とする大広場/中山広場の近くに業務を早く移動させるため、建設中の建物を引き継いだものである。こちらは大連満鉄旧跡陳列館と同じ旧満鉄本社ビルの中央棟の正面。現在は瀋陽鉄道局大連鉄道事務所ととして使用されているようであった。この前方左に私たちが訪れた『満鉄旧址陳列館』と満鉄会社の資料室があった。左側の『大連満鉄舊(旧)址陳列館』。ここは『南满洲鉄道株式会社旧址』。『市級文物保護単位 ”満鉄”旧址』。南満州鉄道本社の歴史がこの中に。『大連満鐵舊址陳列館(大連満鉄旧址陳列館』。『大连故事一历史建筑 南满洲铁道株式会社旧址』。本社内の『廊下』。そして次に目に飛び込んできたのがこの豪華な部屋。白い壁に金色の装飾と当時を彷彿させる豪華なインテリアで、シャンデリアも。ロシア帝国が建設中だった2棟の洋館を改修し、1908年に満鉄本社が置かれた歴史スポット。現在では瀋陽鉄路局の大連事務所として使用されており、そのうち1棟が満鉄旧跡陳列館として公開されていた。建物一階は事務所として使用されている様子で立ち入り禁止。展示物は2階にあり、階段を上がって行った、赤い絨毯の階段を上ると、2階も白の世界。当時の満鉄グッズや写真資料など興味深い品を展示しているほか、旧総裁室も復元して公開していた。『大連満鐵舊址陳列館』。日本人のノスタルジーツーリズム客を目当てとしていることは、資料室に入る手前の最も目立つところに置かれている石碑に書かれた説明文が、中国語表記の真下に日本語を併記していることからも明らかだ。そこでは、文の締めくくりに、中国と日本との友好関係を強調していた。「日露戦争終結後、日本は1906年11月東京において「南満洲鉄道株式会社(略称、満鉄)を創設、1907年4月大連にて開業した。「満鉄」は、経済、軍事、文化、外交の各分野に及ぶ独占的な組織で有り、日本政府に代わり満洲における植民統治を38年の長きにわたり担った。「満鉄旧跡陳列館」の設立の目的は、我々が歴史を鑑とし未来に臨み・友好の新たな一章を切り拓くことにある。」ここにも『満鐵舊址陳列館』日露戦争後の1906年11月に国策会社「南満洲鉄道株式会社(満鉄)」が設立され、翌年1907年にこの地に本社が移転された。この建物は、ちょうど100年周年にあたる2007年に旧本社建物の一部が「大連満鉄旧跡陳列館」として再整備されることになり、一般に見学可能となった。現在、旧満鉄総裁室と会議室などが復元され、公開されていた。当時のこの建築物の写真も展示されていた。二階に上がり廊下の奥にある扉は総裁室や陳列棚などがある部屋で部屋の内部や展示品は写真撮影禁止と。そのうちに、歴史を語りながらの案内の男性から陳列品?を手にして「これは購入できますよ」と勧めて来たのであったが・・・。見事な天井の飾り。その下には、当時の歴史を語る様々な写真が展示さていた。そして、『大連満鉄舊址陳列館』を後にし、バスに乗り込み、次の観光場所の『日本人街』に向かって進む。車窓から『世紀街』を走る路面電車の姿が。『日本人街』に向かって『魯迅路』を走る。『尚品槐花』は中華料理の店。道路脇には住宅街の雰囲気が。日本人街入口近くには火災にあった住宅の姿が生々しく。『枫林街』と『明泽街』のロータリーでバスを降り、日本人街の散策を始める。日本統治時代(1905~1945)の大連には多くの日本人が住んでいたと。 終戦後、大連から日本に引き揚げた 人の数は20万人以上と。大連にあった日本人街の大部分はすでに壊されて跡形もないが、 ここ大連外国語学院のそばに旧日本人街としてわずかに残っていた。ここ中山区・南山の北麓、海を望む楓林街、南山路、七七街、五五路、望海街の一帯は、日本統治時代の1910年~20年代に多くの和風モダン住宅が建設された高級住宅街であったと。 旧日本人街は、人もまばらで閑静な 住宅街といった感じであった。可愛らしい対の人形が迎えてくれた。日本料理店『京和』の招き人形。羽衣をヒラヒラさせ、空を舞う白き天女の像も。ズームで。かつて高級住宅街だった南山地区でで以前の街並みを残す再開発がはじまり、日本風情一条街(または南山風情一条街)と呼ばれている。このあたりには、家屋の大きさ、門構え、庭のこぢんまりとした雰囲気など、日本人が暮らしていた形跡がところどころにある。ここに、満鉄や関東軍のお偉方も住んでいたのだと。例えば、1928年の張作霖爆殺事件の犯人・河本大作の邸宅もここにあったと。南山の丘の上には塔が。ネットで調べてみると南山の「気象塔」のようだ。「サッカーボール」は毎日ではないものの、夜はライトアップされ七色に「七変化」すると。大連のシンボルとしてのサッカーボールがここにも。ここ南山風情街には1999年3月18日付けの碑が。当時の党総書記兼国家主席であった江沢民の手によるものであると。それにはこう書かれていた。「百年風雨洗礼 北方明珠生輝」。大連の街ができて100年。『ロシアや日本による風雨にもさらされたが、今では中国は北方の珠のように光り輝いていると』いう意味であろうか??像をズームで。『枫林街』を歩く。『枫林街』は長くはなく、両側に小さなヨーロッパ風の建物がたくさんあり、最上階は3階しかなく、家の数はわずか100程度でで、静かな落ち着いた通りであった。『南山歴史建築』案内図。三角屋根の建物。『原徳国(ドイツ)領事館』。1925年頃に建てられた建築面積約600平方メートルの大連で最初の鍵の保護された建物である鳳林通りの西洋風の建物。日本の占領期は大連のドイツ領事館であった。日本料理店。立派なバルコニーを持つ石造りの建物。『中国金?』ロケットを思い浮かべる建物。花に囲まれた『水&元素漂浮』。Uターンして。この街は結婚前の記念写真の舞台となっているようだ。長~~い煙管(きせる)を持って。こちらにも。いろいろなポーズで。一番良い時間と空間。日本風の家屋も。3階建てのコンクリートの家。ギターを奏でながら。『柒七(VIP)商务会所』。パーティーや宴会の会場なのであろうか?煙突付きの2階建ての民家。車窓から。『元・日本陸軍奉天特務機関大連派出所(現共青団大連市委事務所)』。旧帝国陸軍の暗部の1つ、戦前に中国大陸で情報収集・謀略工作を担った奉天特務機関の大連派出所。人影もまばらな『南山風情街』なのであった。そして周りの住宅地では古い住宅を取り壊し新しい住宅に建て直していたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・
2019.08.02
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昼食後は、バスにて『黄河路』を東に進む。西安路駅のすぐ上にある百貨店で、昼食レストランの近くの『鹤辉购物广場』。『大连市沙河口区教师进修学校』は教員養成学校。『大連中山公園南門』入口。大連中山公園(だいれんちゅうざんこうえん、簡体字: 大连中山公园)は中国・大連市の沙河口区にある区立公園で、日本が大連を租借中は「聖徳公園」となっていたところで、現在は「労働公園」などとともに、大連の観光地のひとつになっている。東北路沿いにある『大九頻道』ビルをズームで。『大连广播电视台』ビル。『大連テレビ塔』が見えた。大連都心部の緑山に位置する大連テレビ塔は標高360m。エレベータで上に行くと展望台がある、ここから大連市内を展望には最適と。1990年に竣工、2005年に最度改造され、上にはレストラン、喫茶店、回転展望室、観光ホールなどあり、大連観光名所の一つとなっていると。山へは車で登れるが、労働公園方面からロープウェーもあると。夕方となればライトアップし、大連の一夜景となると。『爱政书店』と『大连时尚百盛』の両ビルを繋ぐ連絡橋。『长春路』を見る。『大連医科大学附属第一医院』。『大连医科大学第一临床学院』。一見、大学のような雰囲気の建物が、『遼寧省大連市中級人民法院』。大連市中級人民法院とは、大連市の裁判所のこと。1930年に日本人の設計者によって建てられた建物は、日本統治下時代には関東地方法院として使用されていたのだと。『大連市人民政府』と人民政府前の『人民広場』。大連市人民政府は大連の行政機関。購入した「大連 写真集」には『人民広場』の全景が。大連の有名な観光スポットの一つである、『人民広場』。人民広場は大連中心部に近くにある大きな公園で、きれいに整備されていることから多くの地元の人の憩いの場となっていると。もともと満州国時代には、関東州の庁舎があったため州庁前広場と呼ばれていたが、戦後、スターリン広場と変更された。その後1994年に人民広場となったのだと。広さは12.5万m2もあり、緑鮮やかな芝生は4万m2にも及び、星海広場が登場するまでは大連で最も広い広場であったとのこと。『大連市人民政府』をズームで。大連市の行政の中心。戦前は関東州庁の役割を果たした建物。1937年竣工設計:小園貞助鉄筋コンクリート造4階、地下1階。『大連市公安局(旧警察訓練所)』。『大連市公安局』は、市の公安業務を担当する市政府部門で、12の区、市(郡)の副支局と30以上の事業部があると。戦前は警察訓練所として使われていた建物。この建物のモデルといわれているのは東京大学安田講堂だと。中山路をさらに進む。大連市審計局か?右の高層ビルは『大連希望大厦』。地上40階、地下3階のオフィスビル。全高: 170.6m『中国人民保险集团股份有限公司』。『中山路』を走る。『大商电器交电公司』。中山広場に向かってバスは進む。中央分離帯には花々が咲いて。交差点角の『国美电器』の前には巨大なサックスホーンが。右手に『胜利广场』。『インターコンチネンタルホテル(大連遠洋洲際酒店)』中山広場から約200m、友好広場に面して建つホテル。高さ112.4m、48階建ての近代的な高層ホテル。『友好広場』大連の都心部、中山広場と大連駅の間に位置、昔は『西広場』と呼ばれていた。1950年代、中国と前ソ連同盟友好記念するため、友好広場と名づけた。東側には中山広場、西へ行くと大連駅、北に繁華街ー天津街と繋がっている。友好広場あたりはショッピング街、映画館、飲食街及び文化娯楽の中心地で、広場中央に巨大な水晶球があり、1996年に造られ、吉祥と幸運をもたらす願いが込められていると。大連市街の各所にある特徴的な円形ロータリーの一つで、1950年に中国とソビエト連邦の友好を記念して命名された。水晶球が5本の柱にて支えられ、世界5大洲が支える意味を有すると。重さは117トン、直径は15メートル、モニュメントの中にカラーライトが7852個。夕方となるとライトアップされ、ネオンが非常に美しいと。バスは『友好広場』のロータリーをグルッと。『中山広場』の先に『世界貿易ビル(大连世界贸易大厦)』が見えた。60階建て、全高260m。祇園祭の山車をモチーフにした塔を載せた中国工商銀行(旧大連市役所)。日本統治時代の遺産。『大和旅館旧址』をバスの車窓から。再び『中国工商銀行(旧大連市役所)』をバスの車窓から。バスを降り『中山広場(旧大広場)』の見学に出発。中山広場の歴史建築配置図を作って見ました。そしてこちらは、中山広場にあった『歴史建築 案内板』。購入した写真集より中山広場の全景。まずは『大连宾馆(大和旅館旧址)』。『大连宾馆 百年歴史酒店联盟』。『全国重点文物保護単位 大连中山広場近代建築群 一大和旅館旧址』。『大連賓館』「大連賓館はもと大和(ヤマト)ホテルと言い、日本人建築家の太田毅と吉田宗太郎によって設計されました。建設工事は1909年の着工1914年の竣工です。ヨーロッパのルネッサンス様式の建築様式で、近代保護建築物に指定された名所です。」『大連賓館』の正面左側。『大連賓館』の正面左端。再び『大連賓館』を中山広場から。『旧大連市役所(現 中国工商銀行)』を中山広場から。玄関の唐破風など日本建築の意匠が取り入れられており、塔屋のデザインは京都祇園祭の山車をイメージしたとされる。設計者の松室重光は関東都督府土木課の課長で、大連民政署を設計した前田松韻の後任にあたる。松室は京都府技師時代に社寺建築の保存修復にも業績を残しており、建物のデザインにもその見識が反映されている。戦後も1947年~1950年は大連市人民政府庁舎(市役所相当)として使用され、その後は市政府各部局の分庁舎となった。現在は中国工商銀行大連市分行が使用している。設計 - 松室重光(関東都督府民政部土木課)施工 - 清水組竣工 -1919年8月延床面積 -9,870m2中央の花壇。『旧 東洋拓殖大連支店』。東洋拓殖株式会社は植民地事業のための国策会社。植民地事業のための国策会社である東洋拓殖株式会社の大連支店。設計者の宗像主一は、広場の対面に立つ朝鮮銀行大連支店を設計した中村與資平の弟子にあたる。下層に連なるアーチ窓にアメリカ商業建築の影響が見られる。設計 - 宗像主一竣工 - 1936年延床面積 -8,105m2戦後の1951年から1957年まで中国共産党大連市委員会庁舎として、その後は市政府の分庁舎として使用された。現在は交通銀行大連市分行が使用している。『旧 清国大清銀行』1910年6月竣工。延床面積は1,762m2清国大清銀行大連支店として1910年に建てられたルネサンス様式の建物。中央の塔屋はフランス風のマンサール屋根。1912年の中華民国成立に伴い中国銀行へ改称された。戦後は大連市教育局庁舎として使用された。現在は中信銀行中山支行(旧・中信実業銀行)が使用している。1912年の中華民国成立に伴い中国銀行へ改称された。戦後は大連市教育局庁舎として使用された。現在は中信銀行中山支行(旧・中信実業銀行)が使用している。竣工 - 1910年6月延床面積 -1,762m2『大連人民文化倶楽部』。第二次世界大戦後、新中国成立の間もない頃、ソ連軍がまだ旅順・大連に駐屯していた時期である1950年に、コンサートホール兼劇場として大連人民文化倶楽部が建設された。日本が大連租借中にも映画館・小劇場はあったそうだが、これほど大規模な文化施設は建設されていなかったと。『大連人民文化倶楽部』をズームで。現在も大連市の主要な文化施設として、内外の演奏家・演劇家に利用されている。設計はソ連。 1995年、2008年の2回にわたる全面改修を経て、現在の収容人員は一階が600席、二階が400席。広場中央の花壇と『旧横浜正金銀行大連支店 (中国銀行遼寧省分行)』中国銀行遼寧省分行は、1909年に日本の外国為替銀行だった横浜正金銀行の大連支店として建てられた。終戦後、一時、ソビエト連邦の極東銀行として使用されていたが、現在では中国銀行が使用している。『旧横浜正金銀行大連支店 (中国銀行遼寧省分行)』の近づいて。3連のバロックドームを持つタイル貼りの建物。基本設計は日本で妻木頼黄が行い、弟子にあたる満鉄技師の太田毅が妻木の図面を元に実質設計を行った(太田は臨時煙草製造局技師兼司法技師として妻木の指導下で実績を積み、在官のまま満鉄に招かれていた)。1945年より極東銀行(ソヴィエト連邦)が使用。現在は中国銀行遼寧省分行が置かれている。設計 - 妻木頼黄、太田毅竣工 -1909年延床面積 - 2,805m2『辽宁省第九批省级文物保护単位 横滨正金银行大连支店旧址』。『大连市重点保护建筑 中国银行旧址』『旧 関東逓信局』。旧 関東逓信局関東州での郵政事業を担当した逓信省関東逓信局の庁舎だった建物。大連市役所の対面に位置します。戦後はソビエト連邦軍大連警備司令部が接収。現在は大連市郵政局が使用しています。同じ設計者の建物が向き合うのは異例だが、当時の松室が関東都督府でただ一人の建築技師として設計業務を一手に引き受けていた事実の証左とも言える。設計 - 松室重光(関東都督府民政部土木課)竣工 -1917年延床面積 -2,556m2『市级文物保护单位 关东都督府邮便电信局旧址』。『旧 朝鮮銀行』。日本統治下で中央銀行としての機能を持っていた朝鮮銀行。その大連支店の業務拡大に伴って1920年に建物を新築した。戦後、朝鮮銀行が解散した後も建物は銀行として使用され、現在は中国工商銀行中山広場支行が使用している。『旧 朝鮮銀行』に近づいて。コリント式オーダーが並ぶルネサンス様式の建物。設計者は朝鮮銀行の建築顧問として多くの銀行建築を手がけていた中村與資平。京城に建築事務所を構えていた中村は、この新築工事のために1917年に大連出張所を開設した。なお、1922年に中村が活動拠点を日本に移した際に、同出張所を部下の宗像主一に譲っている(中村宗像建築事務所)。設計 - 中村與資平(中村建築事務所)施行 - 中村建築事務所竣工 - 1920年構造 - 鉄筋煉瓦造3階建延床面積 - 5,278m2『全国重点文物保护单位 大连中山广场近代建筑群 一 朝鲜银行大连支店旧址』『旧 大連民政署/大連警察署』1908年に大連民生署の庁舎として建築されました。日本統治下の大連で最初に建てられた庁舎。中央に時計塔を持つスタイルはヨーロッパの市庁舎風ゴシック様式の建物。1922年より大連警察署の庁舎となり、戦後は大広場警察局と中国海軍後勤部が使用した。現在は、遼陽銀行大連分行が入居しています。設計者は関東都督府土木課の前田松韻。前田は中国東北地方に渡った最初の日本人建築家である。日露戦争下の1904年に軍倉庫の建設に携わり、1905年2月に大連軍政署の嘱託技師となった。しかし2年後の1907年10月には東京高等工業学校の教授に抜擢され、民政署庁舎の完成を待たず帰国した。在任機関は短かったが、大連の民間建築に一定の規模と耐火構造を求めた建築規則の草案作成にも参画するなど、大連の都市建設に大きな影響を残した。設計 - 前田松韻(関東都督府民政部土木課)施工 - 荒川工務局着工 - 1907年8月1日竣工 - 1908年3月25日構造 - 煉瓦造2階建、塔屋付建坪 - 234坪延床面積 - 約2,000m2『大連金融大廈』。この場所にもともとあった建物は、1914年に竣工したイギリスの在大連領事館。設計はイギリス工務局の上海事務所技師長補佐だったH.アシェッド氏。大広場に面した唯一の在外公館であった。1952年以降は大連市六一幼稚園(※)が使用していましたが、1995年に取り壊されて、2000年には大連金融大廈として建てられた。したがって、この建物は現在では歴史的建物ではないと。※「六一」とは六月一日のことで、その日は中国の儿童节(児童節=こどもの日)であると。一度は泊まってみたい『大連賓館・旧ヤマトホテル』を。 そしてこちらは私が購入した写真集より。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.01
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この旅行も6日目・6月24日(月)の朝、丹東のホテル・『鴨緑江大厦』の我が部屋からの光景。この日も天気は快晴に近かった。時間は5:02過ぎ。6時過ぎにホテルを出発し、この日の早朝散歩へ。再び『鴨緑江大厦』の建物を振り返る。11階建て、173室のホテル。2001年開業、2006年に改装。ホテルから10分もかからない『丹东站(丹東駅)』を訪ねる。『鴨绿江畔 仙境寛甸』は『鴨緑江畔 ワンダーランド』と。ウィキペディアによると『丹东站(丹東駅)』は「瀋陽~丹東(瀋丹線)の終点の一等駅。北京、青島、チチハル、長春等からの長距離列車のほか、省内の主要都市との間の旅客輸送がある。中朝友誼橋の中朝国境には単線の線路が新義州方面に通じ北朝鮮の平義線に連絡しており、北京 - 平壤間の国際列車であるK27/28次列車も運行されている。また、瀋丹線と並行する瀋丹旅客専用線と、大連駅とを直接結ぶ丹大都市間鉄道(現在の金荘線と丹東側の貨物線を延伸して接続)も運行している。1904年:日本が安奉線(安東~奉天)を敷設。鉄一浦駅という簡易駅が設置された。 これが丹東駅の前身である1909年5月~1911年10月:朝鮮総督府鉄道京義線と鴨緑江大橋(現・断橋)で接続。 これにより、釜山まで鉄道でつながったのだと。1943年7月 :鴨緑江にもう1つの橋を架ける。(今の中朝友誼橋)これにより鉄道と道路で 各々の橋を利用することができるようになった1965年1月:安東市が丹東市に改名され、駅名も同時に丹東駅に変更される。2009年1月:新駅舎使用開始。 新駅舎長146.4m、幅46m、2階建て、一部3階で、建築面積1.53万m2『丹东站(丹東駅)』に立つ毛沢東像。北京の方向を向き手を掲げる毛沢東。『丹东站(丹東駅)』駅舎。丹東駅は鴨緑江をまたいだ対岸の北朝鮮・平壌行きの国際列車の中国側国境駅でもあるのだ。『丹东站列车时刻表(丹東駅列車時刻表)』とその下にチケット売り場。高速鉄道の予約はネットででき、駅構内の自動発券所で受け取れるようであった。ただし、中国の身分証名書を持つ国内客のみ利用可能であるようだ。列車の空席一覧表。各列車の停車駅表示。売店に売られていた『沟帮子熏鸡』は鴨の燻製味のチップス?500gとあるので鴨肉の燻製?甘栗。ライオンには巨大な赤い花が首に飾られていた。錦江山公園の『曙光閣』という真っ赤な展望台。標高300メートルの「火焔山」の頂上に位置し、高さ41m、7階建て。日本の天守閣を模した不思議な外観をしていた。ズームアップして。ここからは、鴨緑江の対岸の北朝鮮の新義州の町並みが広く見渡せるのであろう。錦江山公園にある『錦江亭』も見えた。高さは17.5mで、六角形、3層構造とのことだが、回収工事中のようであり周囲に足場パイプが設置されていた。そしてこちらは、丹東のバスターミナル駅舎。バスの時刻表、ゲート等が表示されていた。早朝のためか街は未だ静かに。『丹东老干部(老年)大学』の文字が入口に。「老干部」とは「ベテラン幹部」のこと。日本で言う「高齢者大学(老人大学・シルバーカレッジ)」に似たものであろう。『幹』が『干』に変わるのは意味深(いみしん)なのであった。何故かと言えば、「人生は干物のようだ。塩漬けにされ、さばかれ、干されてしまう。」という言葉を想いだしたからであった。『丹东市第六中学校』店頭に並べられていたサザエに似た「アカニシ」貝であろうか?殻付き生牡蠣も。そしてホテルに戻り、朝食会場がオープンするまで、舞台付きの大会議室?の椅子に座ってしばし待つ。そしてこの日の朝食を楽しむ。ホテルのフロント。8:30にホテルを出発し『花园路』を利用して大連に向かってのスタート。丹東ICに向かって進む。『辽宁国泰集团』ビル。そして『G11鹤大高速』の丹東IC料金所入口から高速に入る。『G11鹤大高速』にて約320kmあるという『大連』に向かってバスはひたすら進む。車の数も少なく。1965年に大規模水保全プロジェクトとして建設された『铁甲水库(铁甲貯水池)』から流れ出ている『柳条河』を渡る。『大孤山服務区(サービスエリア)』にてトイレ休憩。時間は10:40。1967年に建設された『廉家坝水库(廉家坝貯水池)』から流れ出ている『双岔河』を渡る。『庄河』を渡る。『庄河东IC』手前を走る。大連に近づくに連れて高層ビル群が姿を現す。庄河市内のビル群であろう。車の数は相変わらず上下線とも少なく。しばらく走り『碧流河』を渡る。高層ビルが道路脇に増えて来た。石灰岩が顕になった丘も近くに。『G11鹤大高速』から見える高層マンション群。左手には『大連湾』が遠くにそしてその入江も。大連湾とは反対側にある『金州湾』近くの『G15沈海高速』とのインターチェンジを通過し南下する。そして『大連IC』にて高速道路を下りる。『大连』の文字が。1898年にロシアが租借し、「遠い所」を意味する「ダリニー(Дальний)」と名付けられ、日露戦争(1904~05年)後に日本の租借地となって、『大连』と改名されたのだと。さすがにロシア人にとって、当時のロシアの首都サンクトペテルブルク(Санкт-Петербург)からは遥かに『遠い』地であったのだ。『大连公安』と書かれた建物。『東北快速路』にあったこの鍵の如きモニュメントは?高層マンション群の見える高架道路を進む。新幹線線路が左横に。そして大連市街に入り『東北路』沿いの『大连市公共行政服务中心』。梭鱼湾公园の前にはドーム状の屋根を持つ建物・『大連市城郷建設培訓中心』が。『臭水套』に架かる橋を渡り、更に南下する。大连市西岗区工三巷の『大連船舶重工集団有限公司』の造船所。600万人以上の人口を持つ大連市。そして大連は日本からの出張者も非常に多いため、約1万人近くが常時大連にいるとのこと。下の道路『疎港路』の北側(右側)は大连市西岗区香炉礁街。大連市内に近づくに連れ、驚くことは、ビルの高さが半端じゃないことであった。高層ビルの品評会の如くに、高さやビルの風貌などを競い合っているようにも見えたのであった。『大世界家居广场』。ハイエンドブランドの家具、国内最先端のブランド家具、およびハイエンドの住宅代理店と販売の輸入を専門とする会社のビルのようであった。『沙河口区人工智能少年培育基地』AI研究とイノベーションの才能育成を行う施設のようであった。大連の街並みを車窓から楽しみながら進む。联合路と五一路の交差点を走る。路面電車の線路の右手に『极品汇农超大市场』。黄河路沿い右側の『锦辉购物广场』。『黄河路』沿いの『大地春餅店』がこの日の昼食レストラン。昼食は『春餅料理』と添乗員から。春餅(チュンビン、中国語: 春饼)はおもに中国北方の伝統的な料理とのこと。 薄餅(バオビン)の一種で本来は立春の日の行事食だが、普段にも食されているのだと。 小麦粉を水で溶いて、円形に薄く延ばして油を使い焼いたもので柔らかかった。 肉類、野菜、卵を炒めたものなどを包んで食べるのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.31
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『鴨緑江断橋』を後にし、バスにて夕食レストラン会場に到着。この日は『丹東料理』とのこと。鮮魚や貝が豊富に入った鍋が並んでいた。この煮魚は淡水魚?この旅行では何回も食べたキクラゲ(木耳)エビの唐揚げを楽しむ。ビールも入り、食べるのに夢中でこの後の写真は???・・・。売店には中国軍の軍事用のジープ等の模型も売られれいた。『丹东公安』と書かれた車両は警察車両であろう。鴨緑江と北朝鮮の山か?夕食後は『安東老街』の散策にバスで向かう。鴨緑江の川岸にあった公園内のモニュメント。船を漕ぐ人々の像のようだ。鴨緑江に突き当たった『十纬路』を見る。この先の左手が『丹東駅』。多くの高層ビルが鴨緑江沿いに林立。壊れかけているように見える建物が。窓の大きさも不規則に。そして微妙な壁の凹凸も。積み木の如くにも。微妙な凹凸がある高層ビルがここにも。そして『安東老街』に到着。丹東の歴史は清朝が1876年に政府が置いたことが始まりだが、当時は『安東』と呼ばれていた。山東省などから多くの移民が流入し、にぎわっていた当時の街並みを表現したテーマパーク兼グルメ街だ。入口にあった『安東商祖』像が『安東老街』を守っていた。そして自由散策時間になり、しばし散策。ビルに埋め込まれた中華門をくぐると、中華民国時代の町並みが続き、数多くのレトロなローカルフードの店や茶館などの飲食店が並んでいた。『水果码头』はフルーツショップか。『码头』は「桟橋」の意と。寿司屋があった。9種の『网紅』、寿司のネタはなんなのであろうか?狭い路地に多くの観光客、そして中国の人々が。この日は日曜日。多くの赤提灯🏮も。昔の『安東老街』の街並みの姿であろうか。アメリカザリガニがウジャウジャと。中国でアメリカザリガニが食材として人気を呼んでいるのだと。消費量は右肩上がりで、2017年の国内生産量は初めて100万トンを突破したと。関連産業も含めた総生産額は2685億元(約4兆3千億円)、従事者は520万人に上り、一大産業に成長しているとのこと。中国語では「小龍蝦」(ミニロブスター)と表記され、食用への抵抗感は少ないのだと。ザリガニ養殖を副収入とすることで、農村地域の所得を向上させる当局側の思惑もブームの背景にあるのだと。『安東老街』にはいくつかの入口が。2015年に遼寧省丹東市の駅の西にオープンした「安東老街」。再開発されたレンガ造りのビルの中に100年前の古い町並みを再現したテーマパークで、同じような施設がハルビン(「老道外中華バロック歴史文化区」と「関東古巷」)にもあったとのこと。『安東老街』の前には子供達の遊び場も。ゴム紐に吊られてトランポリンも。ミニSLも。機関車トーマスにも似て。『大连火爆鱿鱼』と書かれた屋台。『鱿鱼』とはイカ。イカ焼きから真っ赤な炎が。これぞ『火爆』!!真っ赤なイチゴも。そして美味しそうなので1パック購入したのであった。自由時間も終わり、バスに乗り込むが旅友のひとりのオバチャンがバスに戻って来ていないのであった。私もバスを降り数人で手分けして探すと、別の入口近くでキョロキョロとしているオバチャンの姿を私が発見したのであった。彼女はよく似ている別の入口を待ち合わせ場所と勘違いして待っていたのであった。今回の旅行でこれが唯一の行方不明、遅刻なのであった。そして全員がバスに乗り込みこの日のホテルに向かったのであった。『大众路』そして『锦山大街』を走る。『锦山大街』には高層ビルが。そして車窓からこの日のホテル『鴨緑江大厦』。ホテル近くの公園の中央には浅い水遊び場が。そしてこの日のホテル『鴨緑江大厦』に到着。『江』の文字が消えていたが。時間は19:37。そして我々の部屋。部屋に戻り、買って来たイチゴを楽しみながらこの日の反省会をウィスキーを片手に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.30
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『鴨緑江断橋』、『中朝友誼橋』を振り返る。クルージング乗り場に向かう途中の店には朝鮮のチマチョゴリが土産に売られていた。そして、ここ川沿いの遊歩道には、北朝鮮の古い紙幣やバッチが売られていた。魚介類の干物も。勇ましい姿のレリーフが。『鴨緑江国家重点風景名勝区』ここが『鴨緑江断橋』散策のチケット売り場だったようだ。ここにも『鴨緑江断橋』のモニュメントが。再び『鴨緑江断橋』の残されたコンクリート橋脚を見る。鴨緑江 案内図。そしてクルージング乗り場に向かう。船に乗り込む。50人くらいは乗れる船。そしてこの日の最終便?がスタート。時間は16:35過ぎ。まずは『鴨緑江断橋』そして『中朝友誼大橋』の下をくぐり上流方向に船は進む。『鴨緑江断橋』の最先端の橋脚の一つ手前の橋脚は楕円形ではなく真ん丸なのであった。ここを中心に橋が回転するために車輪が回転できる様に円形になっているのであった。『中朝友誼橋』を見上げて。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の新義州の建物は工場であろうか?煙突のある場所は、当時の旧王子製紙があった場所であるとのこと。左手前は北朝鮮であるが、その先のビルが林立する場所は、中国丹東市なのであった。理由は『鴨緑江』が正面から左に大きく蛇行しているから、北朝鮮側と見えるのであった。『鴨緑江断橋』から下流側の鴨緑江の地図。大きく左に蛇行していることが解る。夕日が『鴨緑江』の河面をまでも光らせて。そして船はUターンして下流側に進む。目の前に、先程行った『鴨緑江断橋』の最先端部が姿を現した。多くの観光客の姿が。北朝鮮側に残された『鴨緑江断橋』のコンクリート基礎部が寂しく並ぶ。この一段下がった展望台は、後に作られたものであろう。中国国旗がはためいていた。船が進んでいる場所は、地図上では北朝鮮の領土域なのであろうが・・・・・。この辺が、韓国国境との決定的な違いなのであろう。北朝鮮側のこの円形のやや高層の建築中?の建物はホテルなのであろうか?この日は日曜日の為か、クレーンの動きは全くなし、それとも・・・・。そして、8月1日の旅友・Sさんの情報によると、新義州市のこの建物は、北朝鮮で『民族の太陽』とされる故・金日成主席をたたえるために太陽を模した形になっていると朝日新聞が報じていると。こちらの建物はいかにも朝鮮風。『劳动公园』内の観覧車の動きも全くなし。工場群が続く。浚渫船であろうか。新義州の港なのであろう。設備が極めて古いことは直ぐに解ったのであった。川底から砂を採取する船か?船の古さも。まだまだ活躍している船なのであろう。この建物は比較的新しそう。これも工場であっただろうか。これらは、皆、日本人が建てた建物なのであろうか。砂利等の資材置き場。そしてこの先でUターンし上流側に戻る。遠くに白い橋の塔が見えたが、工事中なのであろうか。ネットで調べてみると『新鴨緑江大橋(しんおうりょっこうおおはし)』であるらしい。『新鴨緑江大橋』は中国・遼寧省丹東から鴨緑江の中朝国境をまたいで北朝鮮・平安北道新義州市とを結ぶ第3の橋。設置場所は、鴨緑江大橋(中朝友誼橋)の下流20kmの位置で、振興区(新城区)の浪頭から対岸の三橋川が鴨緑江へ合流するところの右岸(龍川)へ達する。構造は吊り橋。全長は6,026m、アクセス道路を含めると20km。建設は2009年10月、中国の温家宝首相が訪朝した際に締結した「経済合作協定」によるもので、事業費は1億5000万ドル。大部分は中国の資金協力で賄われた。橋の建設は両岸から中国が2011年10月に始め、2014年10月には橋の本体と中国側接続道路が完成。しかしながら北朝鮮側の接続道路、税関施設の建設は、前年度から対中国との経済交流を進めていた張成沢が失脚するなど中朝関係が悪化している背景もあり、現在に至るまで目処は立っておらず『無期限延期』となっているのだと。なるほど、写真を拡大してみても、塔だけで吊橋用のケーブル等は確認できなかったのであっった。これがその『無期限延期』となっている橋の写真であるとネットから。 【https://www.zakzak.co.jp/soc/news/170425/soc1704250005-p9.html】より対岸の中国・丹東市の高層ビル群。そして中洲の『月亮島(げつりょうとう)』にも高層ビル群が。月亮とは中国で月の意。面積13.4万㎡、南北約1,300m、幅は200mで、丹東市と橋でつながっている。この付近の中州はほとんどが北朝鮮領であるがこの島は中国領であるとのこと。月亮島およびその周辺は国際リゾート地として開発され、島にはホテルやマンションが建てられているのだと。この対照的な光景が現実の世界なのであった。⬆の部分が『鴨緑江断橋』の先端部。『中朝友誼大橋』を列車が渡っていた。慌ててズームで。再び北朝鮮側を注視しながらカメラを片手に。この建物は、警備兵士の詰め所であろうか?警備兵士らしき人物をズームで。赤い板にはハングル文字が書かれていた。『鴨緑江阁飯店』とのこと。ネット情報によると招待所らしいと。中国人ツアーが食事に行く場所でもあると。『修造船厂(修造船工場)』修理中の船なのであろうか、埠頭の如きものはなく、陸地に乗り上げるかのように停泊中。再び前方に『鴨緑江断橋』そして『中朝友誼橋』が。この下流、黄海までの50kmには中朝の国境を流れる鴨緑江に架かり通過できる橋はない。次の上流側にある橋は約55km先の丹東市河口村に架かる『河口断橋』。1942年(昭和17)12月に竣工した鉄筋コンクリート製の道路橋であったと。全長709.12m、幅6m、高さ25m、橋脚22基のこの旧清城大橋は、鴨緑江にかかる「鉄道が走らない道路橋」としては、最大規模の橋だったと。ここも断橋と呼ばれるのは、途中で橋が切れているためで、『鴨緑江断橋』同様に朝鮮戦争時の1951年3月29日に米軍の空爆により破壊され200mほどの橋桁が崩落しているのだと。現在、崩落か所には橋脚3基が残されているとのこと。ネット上方から。写真右の方が橋桁が無いことが解ります。 【https://4travel.jp/travelogue/10611801】より更に上流側にも橋はなく、次にある橋は更に上流側200km程度離れた集安市に架かる『集安鴨緑江国境鉄道大橋』の鉄道橋があるとのことだが、車や、人が歩いて渡れる橋ではないのだと。尚、中国吉林省集安市と北朝鮮慈江道満浦市で、国境の鴨緑江に架かる新たな道路橋が今年の4月に正式に開通した。着工が決まった2011年以降の両国関係悪化に伴い事業は一時凍結。最近の関係改善を反映し、中朝国交樹立70周年の今年の開通にこぎ着けたとのネット情報もあったのだが。しかしこれが、国交があり友好国?そして最大の輸出入国である中国との北朝鮮の国境の現実である事もこの旅行で知ったのであった。北朝鮮の病院?の如き建物であったが。人の姿は全く見えなかった。以前、北朝鮮の高層ビル群「黎明」通りが ハリボテ「大道具さん仕事」だとグーグルマップで判明して話題になっていた事を、ふと、想い出したのであったが・・・。 再び観覧車をズームで。日曜日の午后の家族連れの姿が確認できると、ややホット出来るのであったが・・・。こちらのウォータースライダーも同様に。ネットで子供達が楽しむ姿が映っている写真を探したが、皆、下の写真の如くでこのウォータースライダーで人の写っている写真は見つからなかったのであった。再び『鴨緑江断橋』の展望台を。そして『Google Earth』での航空写真。左が中国・丹東市そして鴨緑江を隔てて北朝鮮・新義州市中央に上から「中朝友誼橋」と「鴨緑江断橋」が。丹東市と新義州市は1.5kmも離れていないと見えるが、両市の生活は大きく異なるようだ。丹東市は現代的な街が広がり、高層ビルが林立する街、そして新義州市は時代遅れの工場地帯?の如きであった。北朝鮮の若者たちは、北朝鮮国民にとって唯一の身近な外国、中国の都市丹東市の日々発展していく姿を対岸から目の当たりにし、何を考えているのであろうかと思いをはせながら、この地を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.29
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バスを降り『鴨緑江断橋』の見学に向かう。『鴨緑江断橋』の袂には、いまでも『トーチカ』が残っていた。トーチカ(ロシア語: точка)は、鉄筋コンクリート製の防御陣地を指す軍事用語。周囲の壁には大小多くの狭間が。壁の厚さは300mm以上あろうか?『トーチカ』説明パネル。1928年、日本が構築したトーチカ。高さ11m(含地下室)、直径6m。5階建て、現在西方向に8度傾いている。『它是日本帝国主叉掠夺和侵略我国的検证』の文字が最後に。『これは日本帝国主義による掠奪と我が国への侵略の証である』と厳しい言葉が書かれているのであろう。朝鮮戦争時には丹東、集安、臨江から中国軍が鴨緑江を渡っていったので、この様な『中国人民志願軍の銅像』があった。1950年10月19日、『中国人民志願軍』が秘密裏に北朝鮮に進入し、国連軍への攻撃を徐々にスタートさせて行ったのだと。『中国人民志願軍』は朝鮮戦争に際し抗米援朝のために編成され、朝鮮に派遣されて米軍を中心とした国連軍と戦った中国軍。その主力は人民解放軍将兵であったが,新たに志願した兵士が多い。 1950年 10月 25日国連軍が北進を続けて中国国境に迫ったとき、人民志願軍は彭徳懐司令官の指揮下に鴨緑江を越えて戦闘に参加し一時は戦況を大きく逆転させた。 51年7月から停戦協議が行われ、53年7月停戦協定を正式に結んだ。以後、中国人民志願軍は北朝鮮の戦後再建に参加したが、58年に全員帰国したと。正面の『鴨緑江断橋』を渡ることに。看板の金文字の揮毫は【究極の対日核戦争】を主張した軍の長老「遅浩田」のものであると。左手にあるのが『中朝友誼橋(ちゅうちょうゆうぎきょう)』。ここ『中朝友誼橋』は北朝鮮との国境貿易で一番重要なルートになっており貿易が最も活発であるとのことであったが中朝友誼橋をバスやトラックがたまに通るだけで活発とは思えなかったのであったが。隣の橋には『中朝友誼橋』と書かれたプレートも。『断桥史话(断橋史話)』。鴨緑江断橋は1909年に建設された鉄道用のトラス橋。中国と北朝鮮の国境である鴨緑江に京義線の「鴨緑江橋梁」として建設された。建設を担ったのは日本駐鮮総督府鉄道局。『鴨緑江断橋』を北朝鮮方向に進む。人の映らない瞬間を狙ってシャッターを。12連のトラス橋であったと。建設を担ったのは日本駐鮮総督府鉄道局。歩いている場所には線路が敷かれていたのであろう。『鸭绿江大桥竣工通车(鴨緑江大橋竣工通車)』。1911年10月に竣工。最初は単線路と両側に歩道があったようだ。橋に下の中国側には、観光用のフェリー乗り場が。この後、ここから鴨緑江のクルージングを楽しんだのであった。遊覧船に乗って、北朝鮮側を覗き見れるとの事で地元中国の人達にも人気があるのだと。橋の向こうは北朝鮮の新義州市。北朝鮮では大きな街のひとつに数えられるようであるが、高層の建築物は見当たらない。橋の袂に遊園地があるのか観覧車の姿が見えたが、動いていなかったのであった。近代化が進み、高層ビルが林立する丹東市内に対して、荒涼とした雰囲気が伝わってくる川向こうの景色とのコントラスト・・・。これが日本では決して感じることのできない北朝鮮との「国境」の風景なのであった。『鴨緑江第一橋被炸断』。1950年11月8日午前9時過ぎの朝鮮戦争時にアメリカ軍のB-29爆撃により破壊されたのだと。『断橋残垣』1950年11月24日、再度の爆撃により北朝鮮側の三座のトラス橋は更に破壊され尽くしたと。断橋から下流側を見る。右が中国、左が北朝鮮。橋梁は朝鮮戦争中の1950年11月8日、国連軍による爆撃によって橋梁の中央部から北朝鮮側までが破壊されたのだと。その後も歴史的建造物として保存されているのであった。『鴨緑江断橋』の現在の最先端に到着。最先端の最前部は一段下がった展望台になっていた。この部分は後に設置されたのであろう。激しい爆撃により鉄骨は螺子曲がり。鴨緑江断橋と呼ばれて現在はプロパガンダ用?に整備されており、爆撃を受けた時のままの先端の破断面を見ることができたのであった。爆撃されたと思われる爆弾が。北朝鮮側の橋のコンクリート製の基礎部分のみ残る『鴨緑江断橋』。残されたコンクリート製の基礎部分と北朝鮮の風景。『史为 鉴』と刻まれた『断桥遺址』「鉴」とは日本語で「鑑」、つぶさに見る、じっくり観察する、教訓、戒め、等の意味があるのだ。1950年11月8日~14日にB-29によって爆撃され破壊され・・・と。一段下がった最先端部から振り返る。『辽宁丹东 鸭绿江 中朝边境』と刻まれた石碑。橋以外の場所の中朝国境線は、中国側の鴨緑江側に引かれているようであったが。再び北朝鮮側の『新義州市』を振り返る。新義州市(신의주시、シニジュ市)は朝鮮民主主義人民共和国の平安北道の道都。鴨緑江を挟んで中華人民共和国丹東市と向かい合う国境の街である。人口は約29万人。鴨緑江には中朝友好橋が架かり、中朝交通の要衝となっているとのことだが・・・・。この橋は、船舶が通行できるように中央部が旋回する可動橋だったのだと。日本国内の可動橋といえば、日露戦争の戦勝を記念して建設された隅田川の勝鬨橋(1940年)が有名だが、それより30年も前に海の向こうのこの場所で完成させていたことになるのだ。『独特的开闭梁』。橋の中央部は船舶が通行できるように旋回する可動橋であったが、1934年3月に可動を停止したと。世界にある可動橋は垂直方向への開閉式であるが、この橋は水平式の回転方式であり非常に珍しい構造であると。水平方向に回転し、船舶を通過させている写真。こちらにも。先程、橋の先端から屈み込んで撮ったコンクリート橋脚天端の写真をズームで。水平に回転できるように、円形の金属車輪が見えたのであった。北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)が列車で中国を訪ねる際には、この『中朝友誼橋』を利用しているのだと。中国側の正式名称は鴨緑江大橋で、以前このように呼ばれていた時代もあった。鴨緑江に架かる全長946.2m、橋脚12の橋である。1990年10月に中朝両国の合意に基づき現在の橋の名前となる。鴨緑江大橋(中国側)・鴨緑江鉄橋(朝鮮側)などとも呼称される。アジアハイウェイ1号線の一部となっていると。ネット情報によると『中朝友誼橋』は、この様になっているようである。下流側を鉄道、上流側を道路が通る鉄道道路併用橋である。 【http://ln.people.com.cn/BIG5/n2/2016/1202/c378338-29403837.html】より。『鴨緑江断橋』を中国側に戻る。鴨緑江の水面からの写真が。『中朝友誼橋』も単線でバスやトラックが。上流側(向こう側)を走っているのがなんとなく。橋の幅が狭いので、時間帯によって「中国→北朝鮮」 又は 「北朝鮮→中国」 のように交互一方通行のようであった。中国側から北朝鮮に入る『観光バス』であろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.28
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『本溪水洞』の見学の後は、来た道を戻り丹東に向けてバスは走る。再び『G1113丹東高速』を利用して南下。これぞ田舎の風景。『細河』に沿って走る中国鉄路総公司(CR)・新幹線の線路を渡る。前方の山の頂上が禿山に。『新幹線』の線路が前方に。『南天门隧道』。丹東方面の山々が姿を現す。再び新幹線の線路。山の上に展望塔の如き建物が。トイレ休憩に立ち寄る。『通远堡服务区』は通远堡サービスエリア。サービスエリアの売店でアイスクリームを購入し楽しむ。『烤鴨巻餅』はこの地域の名物なのであろうか。新幹線の線路下を何度も通過して進む。車の台数は少なく。石灰岩の白き山肌が露わに。『五龙背』出口まで1km。『五龙背収費站』を通過。ここにはETCゲートが。丹東市のビル群が姿を現す。左手の山の上には『丹東抗美援朝記念館』の『抗美援朝記念塔』が見えた。丹東抗美援朝記念館(朝鮮戦争の記念館)は1958年に建設が始まり、朝鮮戦争休戦協定の調印40周年記念日である1993年7月27日に開館した。記念館は陳列館、パノラマ館、記念塔の3つの建物で構成されている。総敷地面積は18万m2で、5800m2の陳列館の上には民族の特色あふれるあずまやが設置されている。陳列館ロビーの正面には、「抗美援朝、保家衛国」のレリーフを背景に、毛沢東主席と彭徳懐将軍の大きな彫像があります。館内は抗美援朝戦争(朝鮮戦争)館、抗美援朝運動館、中朝人民友好館、英雄烈士館の4つのテーマで展示していると。そして前方に『鴨緑江(おうりょくこう)』が姿を現した。そしてその対岸には北朝鮮の街並が。『鴨緑江』は朝鮮半島の北西端,中国と朝鮮の国境をなす川。中国ではヤールー江とよぶ。白頭山に水源を発し、虚川江、長津江、渾(こん)江、靉(あい)河などの支流を集めながら西流,竜岩浦で黄海に注ぐ。朝鮮第一の大河で、,全長790km,流域面積は朝鮮側3万1739km2、中国側3万7750km2、合計6万9489km2に達する。河流には嵌入(かんにゆう)蛇行がよく発達しているが、土砂の流出量が少なく、流域には平地がほとんど形成されていないと。『安東閣』はレストランであろうか。そして車窓から中朝友誼橋(ちゅうちょうゆうぎきょう)及び手前に『鴨緑江断橋(おうりょくこうだんばし)』が姿を現した。中朝友誼橋(ちゅうちょうゆうぎきょう)は中華人民共和国遼寧省丹東市と朝鮮民主主義人民共和国平安北道新義州市を結ぶ橋で、中国側の正式名称は鴨緑江大橋で、以前このように呼ばれていた時代もあった。鴨緑江に架かる全長946.2m、橋脚12の橋である。下流側を鉄道、上流側を道路が通る鉄道道路併用橋である。1990年10月に中朝両国の合意に基づき現在の橋の名前となる。鴨緑江大橋(中国側)・鴨緑江鉄橋(朝鮮側)などとも呼称される。『鴨緑江断橋』は中国と北朝鮮国境の鴨緑江に1909年に京義線の「鴨緑江橋梁」として建設された鉄道橋である。12連のトラス橋で、橋の中央部は船舶が通行できるように旋回する可動橋であったが、1934年3月に可動を停止した。朝鮮戦争中の1950年11月8日、国連軍による爆撃によって橋梁の中央部から北朝鮮側までが破壊され不通になったが、歴史的遺産としてそのまま保存されている。現在、橋上は中国側により遊歩道として整備されている。この橋のすぐ上流に鴨緑江第二橋梁が1943年に完成し、現在は中朝友誼橋と呼ばれて利用されている。 朝鮮戦争の時、実際に使われていた対空『機関砲』が展示されていた。ボフォース40mm機関砲(スウェーデンのボフォース社製)? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.27
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『本渓水洞』に到着しバスを降りる。時間は10:35。『本溪枫香谷温泉度假酒店』のポスターが『本溪水洞』の入口に。近くに温泉があるのであろうか。この日は日曜日であり多くの観光客の姿も。『北道教发祥地 铁刹』。中国の道教文化は長い歴史を持ち、古代中国の伝統文化の中で重要な役割を果たしている。道教は中国の主要な宗教の一つであり、それは1800年以上の歴史を持っている。『铁刹山』はその道教の名山なのであろう。『本溪水洞』遊覧案内図。『本溪水洞』入口に向かって進む。麻雀を楽しむ人々の像に混じって我が旅ともの一人も参加。『本溪水洞』手前の河。小さな広場で踊りを楽しむ中国の方々。緑を川面に映した池。中国風東屋の如き建物。池には鯉の如き黄色い魚がウヨウヨと。ズームで。そして『本溪水洞』の入口が現れた。岩に『本溪水洞』と赤く刻まれた入口。ズームで。鍾乳洞で、内部のほぼ全体が池になっていて電動船で見て回るようになっていて鍾乳洞である が、その大部分が池になっているので『水洞』と呼ばれていると。 鍾乳洞の長さは約2800mとのこと。检票口(改札口)が並ぶ。中に入っていく。中に入って暫くは、鍾乳石も石筍もない、 単なる洞穴の中を歩いている感じ。私の前を歩く、現地添乗員の王さん。木道を進む。怪獣が現れた。亀の泳ぐ姿も石柱の後ろに。様々な恐竜が。鍾乳石が姿を現す。この人物は?更に通路の坂を上下しながら洞窟内を歩いて進む。そしてこの場所から電動舟に乗る。天井から滴が落ちて来る為、そして防寒用に厚手のジャケットが準備されていた。かなりの旅友達はこれを借りて羽織っていたが、私は自分のジャケットで。『本溪水洞』内の鍾乳洞案内図をガイドブックから。1983年5月1日から正式に外国人に対する開放を開始。1994年国家重点風景名勝区に指定され、2002年3月、国家旅游局AAAA级名勝風景区に評されたのだと。そして我々ツアーグループ員だけの貸し切り舟で見学のスタート。船が意外にカメラ撮影するには速く、なかなか写真が巧く撮れなかったのであった。撮った写真のフォーカスが甘いのか、ボケて見える写真だらけであったが、良さそうな写真を選択してアップします。いやピンボケの方が、幻想的な光景が写しとられていて、これはまた面白いのであったが。洞窟は規模が大きく、七宮、三峡、二門、九曲といった様々な特徴を備えた景観が100カ所以上あるのだと。多くの鍾乳石が天井から、そして緑にライトアップされ。広さ36km2、全長2.3kmの水を湛えた、世界最長の鍾乳洞である。約4、5百万年前に形成された。洞内は通年10℃の常春。水はわりあい清らかで、底を見渡せる。平均水深1.5m、最深7mあると。頭上に気をつけながら進む。様々な色の照明が。こちらは無色の照明、細い鍾乳石が太い釘の如くに。ときどき頭上近くに鍾乳石が迫り 、頭を下げて避けるスリル満点 。青の鍾乳石。次には黄色の鍾乳石。『人参蛙』。像に似て。光の三原色:RGB(赤Red・緑Green・青Blue)と黄色で照らせれて。何故かホッとする場所。不思議な形の石筍(せきじゅん)。次々に様々な形の鍾乳石、石筍が、様々な色にライトアップされて迫ってくるのであった。『芙蓉壁』。そして船着き場に戻る。この鍾乳洞は巨大で日本の比ではないが、難点はけばけばしい照明による演出過剰な 点。鍾乳洞とは悠久の時間をかけて造りあげた大自然の美そのものに価値があるの だから、赤い灯青い灯の大都会の雑踏を連想させては、かえって興醒めではないかと思ったのであるが。 しかし今回の場合、比較的快速の観覧船に座乗する観光客 の目が、めまぐるしく変化する前方を素早く識別できるように、色彩豊かな照明が必要か もしれないとも。 30分程の遊覧船での見学を終え、船を降りる。出口に向かって歩く。入口から光が。そして『本溪水洞』を出て振り返る。ここ『本渓水洞』👈リンク のネット動画を紹介させていただきます。そしてこの池の場所では、白と黄の鯉が渦をなして。長閑な光景。そしてこの日の昼食レストランに。『聚仙桜飯店』の料理メニュー。『田舎料理』とのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.26
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この旅行も既に後半に入り、この日は5日目の6月23日(日)。ホテルを8:30に出発し、『本渓水洞』に向かって進む。『本渓水洞』は瀋陽の南東にある本溪市の中心部から東に30kmの大規模な鍾乳洞。バスの車窓から、瀋陽北駅近くにあった、ユニークな形の『方圆大厦』ビルが。ネット情報に寄ると、英ガーディアン紙は2012年発表した「世界で最も醜い建築物」の第4位として、中国の遼寧省瀋陽市にあるこの『方圆大厦』を選んだと。同ビルは米テレビ局・CNNテレビ(CNN)傘下のウェブサイトの「世界で最も醜い建物・トップ10」の9位にも選ばれているのであった。瀋陽市設計院の趙院長は、「建築物の美の評価は服飾のファッションと同様に、時代とともに移り変わる」と説明。「人の審美眼と時代の要求はともに変化するものだ。対象物の美醜を批評する権利は、だれにでもある」と述べた上で、「21世紀の初頭に完成した方円大厦は、今日にいたっても人々の議論を巻き起こしている。これは、建物として成功した作品であることを示すものだ」と述べたのだと。なるほどユニークな形状のビルであり、記憶に残る形状であったが、決して醜いとは思わなかったのであったが。『沈阳青年公園』近くの『冈雨坛街』を走ると右手には『西滨街路』が。『青年大街』を南下すると右手に『遼寧工業展覧館』の建物が林立するビル群の中央、木々の後ろに。ズームで。国内外の企業による新技術や新製品の展示会によく利用されている建築物のようだ。『青年大街』を『浑河(こんが)』に向かって進む。すると前方に渋滞が。交通整理員の姿もなく、前方に工事資材を運ぶフォークリフトの如き車両が道路をゆっくりと。中国らしい光景とじっと我慢すること5分あまり。『浑河(こんが)』に向かって進む。『浑河(こんが)』に架かる『浑河大橋』を渡る。『浑河(こんが)』は中華人民共和国東北部の河川で、遼河の支流。渾河は「泥の河」の意。旧称は瀋水とも玉帯河とも。渾河瀋陽市内の渾河遼寧省と吉林省の境界に源を発してのち両省の境界を流れ、薩爾滸を経て南西に遼寧省を縦貫して渤海の遼東湾に注ぎ込む河。『浑河大橋』を渡り更に『浑河大街』を南下する。前方に高速道路料金所が見えて来た。『沈阳高速』&『G1113丹阜高速』の『沈阳站』入口。ここにはETCゲートはない模様。そして本溪に向かって進む。距離は58kmとの表示が。本溪方面に進む。その下に『丹乐(丹東)』の文字も。何の安全表示や三角反射板、カラーコーンの設置もなく、高速道路を単独で清掃する人物の姿が。そして久しぶりの山の姿が現れた。インターチェンジで高速を降り『沈环线・高台子街道』を進む。片側3車線の高速道路の如き一般道を進む。山の上には、発電所のクーリングタワーの白煙・水蒸気が。発電所の全景が見えた。そして本溪市内のマンション群が。このマンションも投資対象で建てられたものか?『佳兆业 水岸新都』ウォーターフロントのマンション群の展示案内所か?『太子河』を渡る。河沿いにもマンション群が。道路には本渓市の大きな垂れ幕が。これぞ中国の光景。しかし昔に比べてクラクションの音は殆ど聞こえて来ないのであった。ガソリンスタンドに立ち寄りトイレ休憩に。売店も横に。我々のバスには『HIGER』の文字が。Higer Bus社としても知られるHiger Bus Company Limitedは、江蘇省蘇州に本社を置く中国のバスメーカー。『本溪羊汤(やんたん)』の文字が。『羊汤』は羊肉及び内蔵の入ったスープとのこと。本渓市の名物なのであろうか。道路脇にはこの地の名物のサクランボ等の出店が並んでいた。道路脇には農家のビニールトンネルが。繰り返し利用している事が解るのであった。道路脇にミツバチの巣箱を発見。そして中国国内で久しぶりに見るトンネルが前方に。『三架岭隧道』。寺社仏閣の如き建物が車窓から。眼の前に大きな山が姿を現す。そして『本渓水洞』が近くなってきた。遼河の支流『太子河』が車窓から。『本溪水洞』の案内板も。近くには市名の由来となった観光地・本渓湖があり、その水源は『本溪水洞』という鍾乳洞となっており曲がりくねった地中の川が数キロに渡って続いているのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.25
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中山広場でバスを降り、暫しの広場周辺の夜景観光に。中華民国時期(1912-1949)に、孫文の三民主義と孫文本人を宣伝する国民党の孫文崇拝運動の一環として、「中山公園建設運動」が行われた。「中山」は孫文の出身地は、広東省中山市に由来ているのだと。そして孫文の死後、国民政府は全国各地の孫文と関係のある公園を中山公園に改名する運動を行い、中国全土にある中山公園の数が一気に増えたと。1949年には、中山公園は全国に267箇所あると言われていたが、半世紀ほど経過し、現存するのは87箇所と言われていると。この後にも、大連の日本の統治時代に建設された建物が並ぶ中山広場も訪ねたのであった。ここの中山広場中央にはかつて日本が建てた日露戦争の戦勝記念碑に上書きされた形で、日本の侵略を指弾する姿勢をとる毛沢東像が立てられていたのであった。これにより、この毛沢東像は、日本のイデオロギー的象徴を完全に否定し、日本の侵略を強烈に批判するモニュメントとなったのであるとのこと。中山路/浪速通の方向へ手を掲げていて、その先には瀋陽駅(旧奉天駅)がある。日本が支配した奉天満鉄附属地の中核である駅の方に手を向け、台座部分の躍動感あふれる群衆も毛沢東と同じ旧奉天駅を向いて、民衆と指導者毛沢東との一体化を連想させ、抗日戦争や戦後の中国の発展などの物語を現し、抗日の迫力が増しているのであった。そして『遼寧賓館』・『旧奉天ヤマトホテル』を訪ねた。『大和旅社旧址』。築:1927~1929年 設計:小野木横井共同建築事務所奉天大広場(中山広場)に面して建築された、大連ヤマトホテルと並んで満州を代表するホテル。『遼寧賓館』・『大和旅社旧址』の文字が。遼寧賓館・館内の片隅にはピアノが。スタインウェイのピアノ。1899年製で米国ニューヨーク工場での製造品と書かれていた。現在では保護されるべき文物として使用されていない様であった。もしかすると、李香蘭も弾いた当時のピアノかと?通路の左右には連続アーチが連なり右手にはエレベーター、左手には階段があり、正面の階段を昇った通路突き当たりには「餐庁」と金色の額が掲げられたバンケットホール。翌日は日曜日、結婚式でも行われるのであろうか?既に受付の準備が行われていた。歴史を感じさせるホテルロビー。李香蘭が初舞台となった、奉天・大和旅館。李香蘭は満州国と日本のスターだったが、映画『萬世流芳』とその主題歌「賣糖歌」、挿入歌「戒煙歌」そして「夜來香」「海燕」「恨不相逢未嫁時」「防空歌」「第二夢」などのヒット曲により、中華民国でも人気スターとなったと。李香蘭は中国人と思われていたため、日本の敗戦後、中華民国政府から漢奸(売国奴・祖国反逆者)の廉で軍事裁判にかけられた。そして、李香蘭は来週上海競馬場で銃殺刑に処せられるだろう、などという予測記事が新聞に書かれ、あわや死刑かとも思われた。しかし奉天時代の親友リューバの働きにより、北京の両親の元から日本の戸籍謄本が届けられ、日本国籍であるということが証明されたのだと。帰国した後、翌年には旧姓(当時の本名)「山口淑子」に戻って銀幕に復帰、日本映画を中心に活躍した。主演作では、池部良と共演した1950年(昭和25年)の『暁の脱走』などが名作として名高い。見事なシャンデリア。このホテルに宿泊したことのある、中国の著名人100名のリスト。金日成、松岡洋右、愛新覚羅・溥儀、蒋介石・・・の名が。ホテル『遼寧賓館』のフロント。1F客室前の廊下。この螺鈿細工がほど施された鏡は、エレベーターホール奥にある「餐庁」の入口前に置かれていた。奉天の迎賓館たる存在だったヤマトホテル時代の調度品は皆この様な豪華なものだったことまちがいなし。毛沢東の写真。1920年台に賓客用の会見に使われた『中央大廳・バンケットホール(宴会用広間)』の写真。現在のバンケットホール(宴会用広間)。女学生だった山口淑子は自身の歌の先生(イタリア人オペラ歌手)の前座として、荒城の月やシューベルトのセレナーデをこの舞台で歌ったのだと。1950年台初期の毛沢東主席、周恩来総理、とベトナムの胡志明(ホー・チ・ミン)。陳列棚には当時使われていた食器等が展示されていた。1920年台後期の建設直後の大和旅館。民国初年(1912年)の奉天駅。こちらも1920年台末の大和旅館。1927年の建設中の大和旅館。1Fのホテルロビー。そして再び『中山広場』の毛沢東像を。笑顔で手を降って。毛沢東像の土台の部分。躍動感あふれる人々。抗日戦争や戦後の中国の発展などの物語を現しているのだと。兵士、労働者、農民たちが毛沢東(中国共産党)を支えているイメージ。設定を変えズームで。中央後ろには毛沢東語録を持つ群衆の姿が。画面中央には中国の国章を掲げている男女もいた。毛沢東の背中側にも。農民と思しき恰好をした二人が手を取り合い掲げ、その横に共産党宣言をもったインテリ風の人が横の農民と手を取り合い、中国を構成する4要素のうちの知識人と農民の連帯がアピールされているのだと。最後に『大和旅館旧址』を振り返る。帰路の中山広場近くにあった『西部酒城』。『炭焼鸽』は焼肉屋か。そして『鸽』はハトの意。『金凤凰』はサウナ付きのマッサージ店か?時間は21:13。いろいろな店のネオンを楽しみながらの店を想像しながらの帰路であった。そして2連泊のホテルに戻り、翌日に向けてトランクの整理等を行い、この日の長い一日の反省会を行い、爆睡したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.24
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昭陵の観光を終えて、この日の夕食会場に向かう。『泰山路』を北に向かう。『海鮮食府 金巡湾』が右手に。途中、時間調整の為か、スーパーマーケットに立ち寄る。綺麗に並んではいるが、これは「カイコ」の「サナギ」であろうか?カイコ(蚕)といえば桑の葉を食べるあの生き物ですが、中華料理店で出される「カイコ」は、違う生き物。たいていは便宜上カイコと呼んでいるだけで、「サクサン(柞蚕)」というヤママユガ科の蛹(さなぎ)なのだと添乗員の王さんから。多くの果物類も販売されていて安堵。黄色のマクワウリであろうか。サクランボいやアメリカンチェリーであろうか?山のように積まれて。そしてこの日の夕食レストランは先程の『海鮮食府金巡湾』。いつもの様にターンテーブルで。この日ももちろんビールも。この日はいつもより早い夕食、時間は17:00。そして2連泊の瀋陽北駅前のホテル『珀麗酒店』に戻る。この日の我が部屋からの日没風景。チョット窓ガラスが汚れていて・・・・。西の空が赤く染まり。時間は19:07。自撮り。そして、この日はオプショナルツアーの『瀋陽夜景観賞』に参加。ツアー仲間全員が参加とのことで、19:15過ぎにホテルを出発。沈阳北站前を通過。沈阳北站前の『北站路』沿いにある『美豪丽致酒店(沈阳北站店)』。タクシーのトランクには大きなトランクを滑り落ちそうに何個も押し込んで。まだまだ明るく、『瀋陽夜景観賞』には・・・・。しかしビルには次第に灯りが灯りだした。遼寧広播電視塔(通称・彩電塔)が車窓から。中国遼寧省瀋陽市瀋河区彩塔街1号に位置する電波塔。通称電塔、彩電塔、テレビ塔、彩塔。 頂点までの高さは305.5m。主にテレビ電波アンテナ用と展望台観光用に使われる。展望台は露天と室内の2つがあり、露天は205.65m、室内は193.4mの高さである。展望台からは、瀋陽市街のビル群や瀋陽故宮、瀋陽市街の北に位置する北陵公園、瀋陽市街の南を流れる渾河などが一望できるのだと。見学場所近くでバスを降り進むと、夜市入口に『彩塔早夜市』の看板が。瀋陽にはさまざまな夜市があるとのことだが、遼寧広播電視塔(通称・彩電塔)下の、南一経路周辺の夜市が市中心地では最大であると。縦横3~400mほどの区間に軽食、衣料品、雑貨類、ペット、ゲームなど約500軒の屋台が出店し車両を通行止めにして歩行者天国の状態になるのだと。両側には所狭しと屋台が並んでいた。生活用品売り場。衣類も。射的場も。焼きトウモロコシを楽しむ女性たち。こちらは真っ赤なザリガニ?時計売り場。ベトナムでも見たジャックフルーツであろう。ジャックフルーツの中の実を綺麗に取り出して。このマッキンキンな玉子(金卵)は?これは「寿たまご」と言うらしい。燻製釜で2昼夜じっくりと燻製されたタマゴらしい。また、キンピカに輝く目立つ色は口に入れても問題がない塗料なんだとか。見ているだけで甘さが口の中に溢れて来た。ビールを楽しみながら食事を楽しむ若者、そしてご家族。殻付き牡蠣焼きの上にトッピングが。トッピングはシラタキ、ハルサメ、ビーフン??こちらはイカ焼きであろうか。TRYしたかったが、翌日ツアー仲間に迷惑をかけてはとグッ!!と我慢。そして前方に遼寧広播電視塔(通称・彩電塔)が。バスに戻り『南三経街』を進む。そして右手に『沈阳站』が見えて来た。中国鉄路総公司(CR)の駅。以前は謀志敦駅、奉天駅と呼ばれていたのだ。築:1910年 設計:太田毅「辰野式」のレンガ造りとなった奉天駅は、満鉄最大規模を誇る駅舎。満鉄は、日本がこの地域を本格的に占領する前から、奉天駅周辺に鉄道附属地を設定し、独占的に大開発を行って行ったのだ。これによって、奉天城にいる中国側に威圧感を与え、実質的な占領政策を推進して行ったのであった。白のライトアップも美しく。中国らしく真っ赤な色で『沈阳站』と。駅舎の時計は20:30を示していた。美しいライトアップを車窓から楽しむ。手前が昔の奉天駅舎、後ろのアーチが新たな瀋陽駅舎なのであろうか?駅前の『沈阳站交差点』。駅前の店頭には兵馬俑の騎兵俑が。2体が仲良く。中山路を通り『中山広場』に。『旧横浜正金銀行』。1925年。直線的なアール・デコデザイン。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.23
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『隆恩門』を抜け、方城内に入ると沢山の建物が現れて来た。この『方城』は1644年に建設され、高さが6.15mの塀に囲まれ広さは、南北方向の長さが146m、東西方向の長さは120mもあり、その中にこれらの建物が建っているのであった。正面のこの建物が『隆恩殿』。この『方城』の中の建物には、『隆恩殿』をはじめ、西配楼、東配楼、西配殿、東配殿と焚帛亭があった。ズームで。入り口中央の階段部には皇帝のシンボルの雲龍の彫刻が。巨大な丹陛石(階段の真ん中の石の意)に「寿山福海」と「龙凤合欢」の姿が刻まれていると。『隆恩殿』説明板。『隆恩殿』の中には、燭台や花卉が置かれた奥に皇帝が座っていた玉座が。『隆恩殿』から『隆恩門』を振り返る。『隆恩殿』を横から。『西配殿』。『西配殿』説明板。日本語が欲しいのであったが。『西配殿』の『阿底峡』(左)と『蓮花生』(右)。『大日如来』(左)と右は?。左は?と『長寿佛』(右)『四臂观音』(左)と『金剛萨捶』(右)。『玛尔巴』。『西配殿』前にあった『焚帛亭』。石灯篭のようなものは、白色大理石でできており、「焚帛亭」と呼ばれると。この中には丸い火壺が置かれ、大祭の時に儀式に用いられた絹布や紙が燃やされたと。独自の形をした『角楼』。『隆恩殿』の階段を下りる。階段上の龍は蜷局を巻いて、黒光りしていた。『隆恩殿』の四隅には獅子の形をした雨水の排水口が。ハクセキレイであろうか?反対側の『角楼』を見る。『棂星门』か。『棂星门』は移設されたのであろうか?『棂星门』・『石祭台』。2代目皇帝のホンタイジとその妻・孝文端皇后の陵墓の前にある『百祭台』。この台には中央から石香炉、石香瓶一対と石燭台一対の石五共が載っていた。『方城』と『宝城』とを区画する城壁に設けられていた飾り付け。中央の飾り付けは、焼き物のレリーフで、皇帝のシンボルの龍ではなく、唐草模様のデザインなのであった。見事な垂直の城壁が続きその奥に角楼が。『月牙城』。「月牙城」とは「The Crescent City」、クレセント、すなわち三日月の事。三日月の如くに。右側には『大明楼』が。再び『城壁』と『角楼』を見る。現地添乗員王さんのの説明を聞く旅友達。城壁の頂きの先にある『角桜』。『角楼』説明板。そしてこれが『昭陵』:清朝2代目ホンタイジの陵墓。城壁の上からの眺め。ただ、いまだに墓は一度も開けられたことがなく、誰が埋葬されているのか、また、本当に埋葬されているかどうかさえ、誰も確かめた者はいないのだと。なぜか、墓の頂上『宝頂』には木が植えられて?いたのであった。添乗員から楡(ニレ)の木であると。『宝城』、『宝頂』、『地宮』説明板。地下に築かれた墳墓を『地宮』と呼ぶと。焼き物のレリーフを城壁上から見下ろす。そして城壁の上を歩きながら帰路に。『隆恩門』。『角楼』の全体を見る。『隆恩殿』そしてその後ろの『大明桜』を振り返る。『隆恩門』から『隆恩殿』。皇帝の龍のみが、足に5つの鈎爪を持って描かれたと。そして正門を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.22
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『中国工业博物館』を後にし、『北陵公園』にバスは向かう。『崇山東路』を進む。『新开河』を渡る。大きな門には『辽宁省(遼寧省)人民政府』の文字が。辽宁省(遼寧省)の都市配置図。この沈阳市をはじめ、この後訪ねる本溪市、丹東市、大連市を含む辽宁省(遼寧省)。北東部を吉林省、北部を内モンゴル自治区、西部を河北省と接す。また南西部は遼東半島を境に海域が分かれる黄海と渤海に面し、南東部は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と接する。人口は4500万人を超えるの巨大な省なのである。『北陵公園』外南の石碑北陵は後金の2代目、清の初代皇帝である太宗皇太極ホンタイジとその妻の孝文端皇后のお墓。敷地面積330万m2あると。。北陵は瀋陽の中心部から北にあることからつけられた通称で、正式名称は昭陵という。陵墓、建築物などは現在でも良好な状態を残し、清朝初期の技術・建築文化の一端を知ることができるのであった。2004年にユネスコの世界遺産(文化遺産)の明・清王朝の皇帝墓群の一部として追加登録された。規模は清の関外三陵(他の二陵は東陵と永陵)のうちで最大規模。また現在、周囲は瀋陽で1番大きな公園「北陵公園」となっており、自由な散策が可能なのであった。『北陵公園』入口前の広場は花に包まれていた。生花と造花でコーディネイトされて。龍の姿も。鳳凰の姿も。『北陵公園』ウォーキングコース案内。ここが世界遺産『昭陵』のある北陵公園の正門入り口。獅子像。『券売所』現地添乗員が私たちのパスポートを持ってチケットを購入してくれた。中国は理由はわかりませんが世界遺産の訪問にはチケット購入時にパスポートが必要なのであった。入口門の扁額・『昭陵』。右手の門から入場する。『北陵公園』案内図。ホテルの部屋にあったガイドブックの写真です。同じく『昭陵』上空から正門方向に向けての写真です。園内は緑と池が。敷地面積は330万m2。北陵は瀋陽の中心部から北にあることからつけられた通称で、正式名称は昭陵。見事な彫刻。園内の大型電動カートに乗り込み進む。世界遺産の昭陵へは、この直線の道を1.5Kmも歩かなければならないので、私達はこのカートで移動した。もちろん有料で、一人10元とのこと。『太祖ホンタイジ像』。中国、清朝の第2代皇帝。在位1626‐43年。廟号は太宗。太祖(ヌルハチ)の第8子。太祖の下でサルフの戦に抜群の功を立てるなど武将の誉れが高く、国政を処理する四大ベイレ(貝勒)の一人であった。即位後ただちに八旗制度の改革に着手し,皇帝の独裁権力の強化に努めた。この改革の完成したのち、1636年改めて皇帝の位につき国号を大清と称し、改元して崇徳とした。対外面では、即位後,明とひとまず山海関を境界として和議をすすめ、かたや朝鮮に対しては1627年朝鮮王仁祖を江華島に追い、これを屈服させて和議を結んだ人物であると。『世界文化遺産 清昭陵』ここは2004年にユネスコの世界遺産(文化遺産)の明・清王朝の皇帝墓群の一部として追加登録された。墳墓の規模としては、清の関外三陵(他の二陵は東陵と永陵)のうちで最大規模。石畳を進む。『神橋』から、柳に囲まれた池に浮かぶ手漕ぎボートを。昔からの石畳は保護されていた。中央は死者の通る道と考えられ、翡翠?で出来ていると。この門が『石碑坊』。建立は1801年頃で、三楼の入母屋倣木の牌楼の彫刻は立派。柱の根元には四対の獅子と一対の神獣がいた。見事な彫刻が施されていた。順治帝あるいは康煕帝の時代に建てられたと。木製に見せかけて作られた石造建築であると。薄い門ですので、倒れないように両側からつっかい棒がしてあった。階段を上がったところにあるのが『正紅門』。ここからが世界遺産の昭陵で、入場は別料金になっているようであった。見事な龍の焼き物?北京の紫禁城にあるような九龍壁の如し。ただここの彫刻された龍は1頭だけ。それぞれの入口には見事な欄干彫刻の石の階段が。一番右側の入口が入場口になっていた。『正紅门』。『全国重点文物保護単位 昭陵』。瀋陽市人民委員会が設置した『昭陵』の石碑。1982年に国務院から全国重点保存単位に指定されたことを受けての石碑。よって世界遺産の登録される、ずっと前からのもの。入口から『大碑楼』が見えた。その『大碑楼』に向かう昭陵神道の両側には動物の石像が並んでいた。『華表(The Ornamental Pillar)』の表示があった石柱。『魔天柱』や『万雲柱』の呼び名もあるようです。頂上には天に向かって吠える獅子像が。『立馬(The Standing Horses)』の名前が記されていた石像。ズームで。『駱駝(The Camel)』の名前が記された石像。座り込んだフタコブラクダの像。『黒石(Black Stone)』が石材に使われていると。ホンタイジの戦に何度も従ったラクダがモデルのようです。『立象(The Standing Elephant)』の名前が記された石像。材料は、白石(White Stone)』と記されていた。これらの像が神道の両脇に各1頭ずつ並んで立っていた。そして『大碑楼』へ。『大碑楼』の『神功聖徳碑亭』 『神功聖徳碑』。神功聖徳碑を背負う亀。横から。後ろから。先ほどの『大碑楼』を抜けると現れるのが昭陵の中心部にある『方城』と『隆恩門』。『隆恩門』。この建物は四角の城壁の『方城』の上に立っており、この『方城』の床にはかつては金箔が敷き詰められていたのだと。『隆恩門』。『隆恩門』を横から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.21
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瀋陽故宮を後にし、瀋陽鋳造博物館にバスで向かう。『東西快速干道』から瀋陽北駅近くのユニークな形の『方圆大厦』ビルが見えた。『沈陽壺商会館(しんようつぼしょうかいかん)』1918年に杜重遠という人が日本へ留学して陶器を学び、1923年の冬にここ瀋陽(当時は奉天)の瀋陽北駅恵工街に陶器会社を作ったと。現在は、当時のまま瀋陽市文物保護単位として、2008年10月27日に瀋陽市人民政府が交付。『金融中心』と書かれたコイン型のモニュメント。『沈陽壺商会館(しんようつぼしょうかいかん)』前に『恵馨大厦』ビルが。『缓化东街』。右手に瀋陽北駅に向かう線路が。新幹線・和諧号が追い越す。この「和諧号」という愛称は胡錦濤元総書記(国家主席)の和諧社会に由来しており、日本語で「調和」「ハーモニー」を意味するのだと。哈爾浜路に架かる吊り橋型の跨線橋。跨線橋を進む。『西江街』ビル群を右手に。そして『北一西路』を進み『中国・工业博物館』に到着。中華人民共和国の成立後は、瀋陽鋳造工場と改名された後に瀋陽重型機械集団有限責任公司の砂型鋳造工場として2005年まで創業していた工場の跡地。無人となった工場内の施設をそのままに展示する瀋陽鋳造博物館として2007年に開業したが、2012年になって工業博物館としてグレードアップし2013年9月から対外的に開放したとのこと。重工業が国力そのものだった時代、日本が満州を手に入れたかった理由がここにあるということが想像出来る博物館なのであった。この中国工業博物館は、以前は「瀋陽鋳造博物館」と呼ばれていた。少し前のガイドブックには「瀋陽鋳造博物館」として書かれている。入口にあった巨大な獅子像。『中国工业博物館』の入口ロビー。ロービーには巨大な銅製のモニュメントが。『中国工業博物館紹介』「中国工業博物館は、中国工業の歴史を展示する総合的な博物館であり、瀋陽鋳造工場の生産現場から拡張することである。延べ床面積が6万m2、展覧面積が4.54万m2、8つの展覧館があり、2013年9月から対外的に開放した。展示する品物が豊かで、展示する形式がシンプルで、これは広範囲な市民及び観光客が工業遺産を理解し、認識し、鑑賞し、工業中身を解明し、工業遺産の保護の結果を享受する重要なプラットフォームである。これは愛国主義の教育を発展する、工業文化を普及する、大衆の心身を楽しめる精神の故郷である。」『中国工業博物館』展示案内図。製鉄の工程の「出鋼」の場面、そして労働者の姿か?「蒸気機関車」。巨大な機械が通路脇に。最初の展示場・『通史館」』に向かう。入口には歯車が象徴的に。『工业前奏』。最初の人物の名は?。ジェームス・ワット像。スコットランド出身の発明家、機械技術者。トーマス・ニューコメンの蒸気機関 へ施した改良を通じて、イギリスのみならず全世界の産業革命の進展に寄与した人物である。グラハム・ベル像。スコットランド生まれの科学者、発明家、工学者。世界初の実用的電話の発明で知られている。エルウッド・シャノン像。アメリカ合衆国の電気工学者、数学者。20世紀科学史における、最も影響を与えた科学者の一人である。懐かしき「氷削り機」。「タイプライター」1900年、ツェッペリン伯爵が、初の硬式飛行船ツェッペリン LZ-1を初飛行させる。1966年、『红旗二号导弾』。1960年代半ばに中国によって開発された中高高度の対空ミサイルの一種。そして近代の『シリコンウェハー』。現トヨタ自動車㈱社長『豊田章男』氏の姿も。「鋳造館 Foundry Museum」の展示室を見ていく。大きな製鉄工場がそのままに。巨大な鉄骨作りの建屋。「転炉」であろうか?労働者の姿も。そして自動車の歴史コーナー『汽车館』へ。人力車からスタート。三輪自動車の原型。そして四輪自動車へ。『红旗敞篷试制车』。『林肯加长车』1998年のリンカーン社製リムジン車。大夫、現代風の車に近づいてきた。米国製『威利斯』・Willis、1942年。軍用のジープであろう。工場内には引き込み用線路も保存されていた。『丰田皇冠豪华型3.0』。トヨタクラウンなのであろう。そして日本占領時代の資料展示コーナーへ。1905年の奉天の機関庫(上)と1906年満鉄奉天ビル(下)の写真。『日本侵占东北的重要棋子』。『残酷圧榨鉄西人民』の文字が。圧榨とは「圧力をかけ搾取する」こと。様々な日本占領時代の写真が展示されていた。そして工場を見学する習近平国家主席の姿も。そして現在の中国の工業地帯の姿が。百年の歴史が解る写真コーナー。その他にも「机床館 Machine Tool Museum」の展示室、屋外展示もあったが、時間がなく見学することは出来なかった。しかしながら、ここは1933年に建てられた森田鉄工所(建国後は、瀋陽鋳造工場)の廃墟を改装したものとのことだが、満鉄時代から近年までの工作機械や車両、写真などある意味では『負の遺産』を大規模に展示していることに驚きと感動の場所であったのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.20
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『西配館』ホンタイジ時期(1627~1643)に創建されたホンタイジの庶妃の寝室である。乾隆年間、皇帝が東巡して盛京に滞在する際にここで祭祀の供え物を作ったことがあった。入口には『后妃生活洋品展』と書かれた『扁額』の如き表示板が。瀋陽故宮は清の初代皇帝ヌルハチ、続くホンタイジ、順治帝が使用した宮殿というだけでなく、康熙帝、乾隆帝、嘉慶帝、道光帝が東北地方を巡回し祖先を祭る際に滞在した行宮(あんぐう)で、清の皇室の貴重な宝物が所蔵されている場所。国家文物局に登録されている同博物館所蔵の文化財は2016年9月末時点で10万5085点に上ると。『清 红木染牙三多花卉梳枚盒』『清 黒缎点翠串珠花女帽』『清 红缎平金双喜活计』『孝荘文皇后』『清 珊瑚小朝珠』様々な宝石。案内板。『永福宮』。『清 太宗・ホンタイジ』。『永福宮』次西宮とも呼ばれ、清太宗天聡年間(1627~1635)に創建されたホンタイジの荘宮の寝室である。崇徳3年(1638)に順治帝はここで生まれた。若き日の『清 太宋・ホンタイジ』か?33歳で病死したホンタイジの寵妃、宸妃(海蘭珠)の肖像画。『永福宮』案内。『鳳凰楼』前の広場。『鳳凰楼』扁額。『祈福』右は『西所』入口門、左が『西掖門』。『西掖門』『西掖門』扁額。『西掖門』を潜り『西路』に入る。『戯台』。『戯台』乾隆46年~乾隆48年(1781~1783)に創建され、乾隆帝と嘉慶帝はここで芝居見物を観賞したことがあった。『嘉蔭堂』。『嘉蔭堂』。乾隆46年~乾隆48年(1781~1783)に創建され、皇帝が東巡して盛京に滞在する際に芝居見物を鑑賞する場所である。皇帝は南を向いて座り、大臣たちも回廊に列席する。『東直廊』。『東直廊』。乾隆46年~乾隆48年(1781~1783)に創建され、皇帝が東巡して盛京に滞在し芝居見物を鑑賞する際に、大臣たちの席となる場所である。『扮戏房』手前の脇門に向かって進む。『清代宮廷钟表展』は『清王朝時計展』。『鐘』も時を知らせるのだ。清王朝の鎏金塔式時計が展示されていた。『清.镀金锒売藍表 瑞士制造』『清.铜镀金鸟音座仲 法国制造』『清.鎏金塔式钟 英国制造』。様々な種類の時計が。『清.象牙扇扇雕人 中国制造』。日本のからくり時計に似ていた。『清.铜鎏金花瓶盆景表 英国制造』。鎏金塔式時計は並ぶ。石製時計、上部に太鼓か?『世界文化遺产 清沈阳故宮』。『西路』の『扮戏房』を見る。『沈阳路』沿いに並ぶ土産物屋。『西大門』に向かう。『西大門』。『西路』券売所。『西路』入口。ここにも『沈阳故宮』の文字が。東に進むと再び『沈阳故宮博物館』が右手に見えた。右手に真っ赤な衣装の『シルバー』ダンス集団が演技中であった。アクティブシニアライフを楽しむ方々は何処も元気そのもの。『獨一麗茶館』沉阳路と朝阳街の交差点から。瀋陽故宮博物院を出て瀋陽路を東へ進むと、復元された撫近門(大東門)がデンと構え、道路をまたいでいた。瀋陽は満州族の故地にあり清帝国最初の都・盛京として、清代を通じて重視された。そのため城壁・城門の規模も雄大であり、門の扁額に満州文字が使われているのも特徴的であった。内城は方形、外城は円形というのも珍しい。中華の概念である“天圓地方”を実現したものとされる。例によって新中国成立後、大躍進期に土法炉を作る等の為城壁の煉瓦は利用され、基礎部分を残して完全に撤去された。現在は大東門・大西門のみ復元されているが、高さ・容積とも往時の威容を彷彿とさせるものがある。内城の城壁高3丈5尺(約11.2m)、周囲9里332歩(約4.85km)、8門を開く。康煕19年(1680)に造られた円形の外城は高さ7尺5寸(約2.5m)、周囲32里48歩(約18.5km)、同じく8門を開く。『瀋陽路』を進む。右手に地下鉄『中街』への入口が。そしてこの日の昼食会場へ。この日は焼肉屋でビビンバ料理を楽しむ。キムチ、野菜サラダ。ビビンバ。よくかき混ぜて。冷麺も。巻きずし、餅菓子も。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.19
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次に『銮驾库』で開かれていた「100年に及ぶ紫禁城の国宝展」を訪ねた。展示されている文化遺物は、瀋陽の紫禁城の10万点のコレクションから選ばれた100点の文化遺物で、磁器、エナメル、漆器、彫刻、絵画、書道、織物、刺繍などがあり、清朝初期には独特の歴史的文化的特徴があるのだと。皇帝の王室のオブジェには、中世と後期の清朝の宮殿芸術もあり、豊かな文化的意味合いと芸術的価値があると。『清 象牙雕兽耳活环盖瓶』は象牙の透かし彫り。『乾隆款象牙透雕群仙笔筒』。『書』。『水墨画』。これは帽子。現代でもかぶれるおしゃれな帽子。刺繍も美しく。帽子から長い尾?が。『清 乾隆皇帝大阅明甲』。『清 大紅缂八团金龙单袍』長さ137cm、ウエスト幅72cm、袖丈91cmと裾の120cm。今瀋陽の国立故宮博物院の国立二級文化遺物。 『清 品月色缎彩绣折枝桃蝶夹袍』清王朝の女性のガウン、月の色のサテン、刺繍、折りたたみ、桃、蝶、ローブ。『清 掐丝珐琅匂莲象牙三足盖炉』。『清 剔紅楼閣山水人物纹座屏』『清 乾隆款剔紅飞龙纹宴盒』この後は、暫しの自由時間になり、故宮内を急ぎ足で訪ねたのであった。故宮の一番奥の『磨房』近くの盆石。そして階段を上ると見えてきたのが『鳳凰殿』。瀋陽故宮の中でも最も高い建物で3層から成る。鳳凰殿の前は、清寧宮で、皇帝と皇后の居室となっていたと。『鳳凰殿』から『清寧宮』を見る。『清寧宮』は瀋陽故宮の内廷の中心に位置する宮殿で、皇帝と皇宮の居住空間、そしてシャーマニズム(薩満教)の才碑が行われる場所。オリジナルの扁額がそのまま残されていたようです。『清寧宮』の文字が。籃地だったようですが、すっかり色落ちしていた。清寧宮の見事な天井の絵画。太宗ホンタイジの天聡年間(1627~1635)に建てられた、ホンタイジとその妻端文皇后(1599~1649)が暮らしたのだと。別の場所から見上げて。藍色が印象的な天井の装飾光景。絵の中央には、龍と鳳凰の睨み合いの図が。梁の部分には濃い朱色で龍が向かい合う姿が。こちらの梁には華やかにピンクや赤の花と唐草文様が。清寧宮の内部。部屋にコの字に造られた台の下には、オンドルの温風が通されていたと。『万字炕』と呼ばれる建築様式とのこと。西側の壁には、神龕(しんかん、神棚や仏壇のようなもの)と神像(関帝像)が祀られているのだと。満州族は西側を上座とするため、神龕や神像西側に祀られているのだと。1643年ホンタイジはここで亡くなったのだと。道光帝(在位:1820〜1850年)の時代に記された文字額。清寧宮敬記の後に、道光巳丑期秋月の日付が。1929年、道光9年。『清寧宮』案内。再び『鳳凰殿』を見上げる。ここにも『奇岩』が。『颐和殿』。『颐和殿』内部。1746~1748年、皇太后が宮中で式典をする時や姫たちに会うために使っていた場所。そして再び『大政殿』前の広場に戻り、訪ねていなかった『十王亭』を訪ねる。『鑲白旗亭』大政殿と同じ時期に創建され、白旗官吏の事務室で、儀式を準備する場所でもある。『平定鸟什战图』。『正白旗亭』。大政殿と同じ時期に創建され、正白官吏の事務室で、儀式を準備する場所でもある。『乾隆帝及妃威弧鹿图』。弓矢。『平定准格尔回部战图』。『鑲黄旗亭』。大政殿と同じ時期に創建され、鑲黄旗官吏の事務室で、儀式を準備する場所でもある。様々な絵画が。『乾隆十门图』。『左翼王亭』。大政殿と同じ時期に創建され、左翼王の事務室である。漢文と満文の書。後金を建国し、後に清国初代皇帝と称されたヌルハチ・太祖が記した家臣への心得書と。『太祖康寅汗傳諭曰』のタイトルがありました。『八固山王設八大臣輔之以観察其心・・』と続きます。軍事組織を八旗に編成し、『七大恨』を挙げて明朝と戦い、戦場で受けた砲弾の傷がもとで亡くなったと。大政殿の東側に並ぶ石碑群。元時代の石碑モンゴル系の王朝である元が、支配していた頃の石碑で、瀋陽の名前が記録されているものとして貴重。『辽代石经幢、俗称大十面』『豫王府影壁』高さ2m、幅4.1m、厚さ0.5mで、遼東省の山岳地帯に広がる無傷の赤い砂岩から切り抜かれていると。『安达礼墓碑』。『安达礼墓碑』清2代目皇帝ホンタイジが崩御した際に、近衛兵だった「安達礼」が自ら副葬者になったのだと。再び『大政殿』。ズームして。皇帝の龍のシンボル、5本指をズームで。龍は中国神話に登場し、5本指の龍は皇帝にだけ許された。4本指が寺院、3本指が地方豪族などとされたようです。日本の龍は3本指で描かれることが多いようですが、中国との関係を示す名残かも知れません。『大政殿』内部。内部には玉座(宝座)と屏風が置かれていた。なお、現在置かれている玉座は,1970年代に北京故宮の皇極殿から移動したものと。その後ろには、乾隆帝御筆の扁額と対聯が掲げられていた。(乾隆22年(1757)筆)陶器で造られた壁の装飾。飛翔する二羽の鶴の姿。いくつかに分割された焼物。集合場所に戻り、ツアー仲間との観光再開。『盆石』と呼ばれるものであろうか。中国庭園では不可欠の奇石。江南地方などでは、穴が多く開いた太湖石が有名だが、それに比べれば少し見劣りする奇石の光景であった。『廊房』の敷地内に。『廊房』とは展示品から厨房のようである。別棟で石臼が置かれた石展房、挽き石が置かれた磨房などがあった。瀋陽故宮の台所という役目を担っていたのであろう。『廊房』の前・右手には『碾房』が。『磨房(製粉所)』粉挽き機か?屋根の曲線が美しい建物。馬の鞍のように、背の部分が丸くなった屋根。満州建築の特徴の1つのようです。レンガ塀の中ほどにはオンドルの煙突が。『煙突』清の太宗天聡年間(1627~1635)に創建され、瀋陽故宮の中で典型的な満州族の特徴を持つ唯一の煙突である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.18
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『崇政殿』の左右には、それぞれ『左翊門』、『右翊門』という比較的小さな入口があり鳳凰殿や後宮へと通じていた。『崇政殿』の右にあった『左翊門』。『左翊門』を潜ると左前方には『鳳凰殿』が姿を表した。『鳳凰殿』は後の自由時間にも訪ねたのであった。左が『東所』入口門、前方の『東掖門』に向かって進む、『掖』とは「宮門や宮殿の脇」の意と。『東所』は乾隆11年~乾隆13年(1746~1748)に創建された建物である。『崇政殿』の東に位置するため『東所』と呼ばれている。『東所』入口門から奥を見る。『東掖門』。『東掖門』の文字の扁額も。漢字の右横に、同じ読み方をすると思われる満州語が記されていた。北京の故宮などでも見かけた光景。ビニデコ(プラデコ)派手な赤い龍飾り 中国飾り(紅龍)も売られていた。左手奥に『大政殿』(八角殿)。太祖によって建てられた『大政殿』は、モンゴル族のパオをモデルにした八角二層の建物で、ここで式典等が執り行われていたと。『大政殿』の高さは約18m、八角形の建物に八角形の屋根が乗っており、釘を一本も使用せずに建てられているのだと。屋根は黄色の瑠璃瓦で、緑の瑠璃瓦で縁取りがなされていた。屋根の頂点には宝珠があり、そこから放射状に8本の屋脊(隅棟)が伸びていて、その上には走獣が乗っており、火災や落雷、風水害などから建物を守護する役割を担っていると。真正面の2つの柱には、それぞれ、頭を高く上げ、爪を振るい、真に迫った金色の竜がからみついていた。『大政殿』扁額、左には満文で。大政殿前には10の小殿が並んでいる『十王亭』があり、ここは大臣達の執務室であり軍隊の詰め所となっていた。旗と武器、衣装や壺など当時のものが数多く展示されていた。大砲の姿も。『十王亭』配置図。『十王亭』の一つ『正紅旗亭』を訪ねた。「大聖殿」と同じ時期に創建され、正紅官吏の事務室で、儀式を準備する場所でもある。」左が清太祖・ヌルハチ(努爾哈赤)、右が清太宋太极・ホンタイジ(右)。『清 正藍旗旗帜』。八旗は、清の始祖であるヌルハチが、満洲人の前身である女真(jušen)を統一する過程で、女真固有の社会組織を「旗」と呼ばれる軍事集団として編成、掌握したことに始まると。1601年にヌルハチがこの制度を創始した当初は黄(suwayan)・白(šanggiyan)・紅(fulgiyan)・藍(lamun)の4旗であったが、ヌルハチの統一事業の進展によって旗人の数が増えたため、各色に縁取り(「鑲」(金+襄)。「じょう」と読む)のある4旗が加えられ、1615年には下記の8旗が整備されたと。右上から左➡右下へ。鑲黄旗、正黄旗、正白旗、正紅旗、鑲白旗、鑲紅旗、正藍旗、鑲藍旗。『清 镶紅旗旗帜』展示されていた八旗の一部。鑲紅旗(手前)と正藍旗(奥)。『八旗甲冑』「八旗」とは清朝の軍隊システムのこと。左から三旗は、皇帝直属であり、皇城警護の兵士は左三旗の兵士。その後の五旗は、諸王(満州語でベイレ(貝勒))が統率していたと。『八旗甲冑』説明文。これは『鑲黄旗甲冑』のレプリカの頭部。『鎖子甲(さしよろい)』。この時代の甲冑の素材は鉄、皮革、絹布、紙などがあったが,絹布や紙は実用より彩色を重んじた儀仗兵などの装飾用であった。鉄はくふうが加えられ、『鎖子甲』もつくられた。鎖子甲は鎖のようにして鎧をつくったもので、柔軟性に富み、防御力も高く、大型の甲冑より軽量で実用性が高かったのだと。外に出て再び『大政殿』を見る。次に隣の『正黃旗亭』に入る。『清(后金)入关前主要战役』。『松錦之战作战示意図』「松錦の戦い」の明軍と后金軍の進路図と清朝の中国平定に協力した洪承疇(こうしょうちゅう)。『萨尔浒战作战示意図』と『萨尔浒古战场遺址』。『山海关镇东門』の写真と進軍ルート図『山海关之战作战示意図』。このあたりは歴史が不勉強なので????・・・・・。清朝第八代・道光帝(在位:1820〜1850年)時代の1841年に鋳造した大砲と。そして『大政殿』前での清代の舞踊劇が10時から始まったのであった。毎週、土曜、日曜、祝日は、この大政殿の前で午前10:00と午前11:00に行われているとのこと。演目は清文化の『海蘭珠歸嫁皇太極』のようであった。舞踊劇の内容を説明していたのであろうか?そして『大政殿』に八旗が姿を現す。『八旗』が整列。皇帝と皇后の入場。広場では踊り子が出番を待つ。皇帝と皇后(右)、第一夫人(左)?。皇帝の姿。清太祖ヌルハチであろうか。踊り子も中央に。皇后(正室)。こちらは第??夫人か?一本歯の下駄の如きもの・ポックリを履いて。こちらは第??夫人か?大政殿前の舞踊劇を暫し楽しむ。男性の踊り子。大政殿に並ぶ皇后、夫人達をズームで追いかける。そしてフィナーレへ。ヌルハチそして夫人たちが大政殿から広場に進む。そしてフィナーレ。時間は10:20。ネットにこの『舞踊劇👈リンク』の動画が紹介されていますので、リンクを貼らせていただきました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.17
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今日は7月16日、私の69歳の誕生日。昔で言えば『古希』。昔は『古希』の祝いは、数え年で行うのがしきたりでしたが、最近では数え年のなじみが薄くなっていることから、満年齢でお祝いする人が増えて来ているのです。因みに・『還暦』60 : 数え年 61歳のこと。干支(えと)が60年たつと一回りして、元に帰るから。・『古希』70 : 人生70歳まで生きることは古来から稀(希)な事であるという意味から。・『喜寿』77 :「喜」の字の草書体「㐂」が「七十七」と分解できるところから。・『傘寿』80 :「傘」の略字体の「仐」が「八十」と分解できることから。・『米寿』88 :「米」の字が八十八に分解できることから。・『卒寿』90 :「卒」の略字体の「卆」が「九十」と分解できるところから。・『白寿』99 :「百」の字から「一」をとると「白」の字になるところから。・『紀寿』100:「紀」の字が一世紀の「紀」に由来するから。「百寿」ともいう。 【https://www.ringbell.co.jp/giftconcierge/2201】より転載させていただきました。中国の代表的詩人、杜甫(とほ)の詩「曲江誌」の一節、『酒債尋常行處有 人生七十古来稀』「酒債(しゅさい)は尋常 行く処(ところ)に有り 人生七十 古来稀なり」(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもある。しかし七十年生きる人は古くから稀(まれ)である)に由来しています。もともとは『希』は『稀』の字だったのです。現代では、男女ともに平均寿命が伸びており、70歳まで生きることが当たり前になりましたが、当時は70歳を迎える人が少なかったため、この詩が生まれたのです。そして「還暦は赤」など、長寿祝いにはそれぞれテーマカラーがあります。そんな古希のテーマ色は「紫色」なのだと。今朝も、復習と学習の朝となりました。そして、長女はサクランボ、礼文島ウニを、長男はケーキ、そしてマレーシア土産のホワイトコーヒーを持って、孫を連れて家族で訪ねてくれました。------------------------------------------------------------------------------------------そして今日も『中国・東北地方7名所大周遊8日間』の続きです。『瀋陽故宮博物館』に向かって進む。故宮と言えば、昨年6月に訪ねた北京の天安門というくらい誰でも知っている北京故宮ですが、恥ずかしながら、今回この地を旅するまで、瀋陽の故宮についてはほとんど知らなかったのです。満洲族は、遼寧省東部の女真族が主となって女真族を統一、”文殊”菩薩の満洲語から名を取って”満洲”を名のった。また、元の後裔から大汗の印璽を受けて蒙古族の大汗も兼ね一大勢力となった。初代ヌルハチは、(後)金国としたが、二代ホンタイジが大清国に改めた。この二代の都が盛京(瀋陽)で、宮殿が瀋陽故宮だ。北京遷都後も盛京は満洲族の故郷として尊崇された為、文化財として今に伝承されているのだと。沉阳故宮导游全景图(瀋陽故宮導遊(ガイド)全景図)。瀋陽故宮は、図のように3つの区画に分かれる。右から東路、中路、西路の順に建てられた。何故か東路は他と中軸線が少し傾いているのだと。東路は、八角大の政殿と十王亭(左右翼王亭と八騎亭)が整然と並び初代ヌルハチが”大典”を挙行した。満洲族の八騎制度と漢族の建築技術を反映した独特の広場だ。中路は、東路の2年後に建て始めたもので、皇帝の政治活動や宴会、后妃の居住空間になる。南北中軸線に正門となる大清門、崇政殿、鳳凰楼、清寧宮が並ぶが、鳳凰楼からは、3.8m高くなり、シャーマン祭祀も見られる。西区はオンドルなどの満洲族の建築様式のある。東南の角には清朝の祖先を祭る太廟がある。西路は、劇台、嘉蔭堂、文溯閣、仰熙斎からなり、150年後の皇帝東巡の際に、四庫全書を収める場所として建てられた。入口は、西路からになる。地下鉄1号線懐遠門駅を降り、東に向かい城門を模した門(懐遠門)をくぐると瀋陽路に出る。駅から0.5km程で故宮に着く。中路のハズレには武功坊と文徳坊。入口両脇にあった巨大な石版彫刻。その間には大きな連絡歩道が設けられ、両側には清朝2代の歴史絵巻が刻まれていた。右側。ラッパを吹く人物。左側。甲冑を纏い馬に乗りいざ出陣。王ホンタイジと皇后であろうか?舞う女性と称える随臣。これらの巨大な石版彫刻の内容について詳しい方がいらっしゃいましたらご教示賜りたく。『沈阳故宮』と書かれた扁額のある門の前には『多彩非遣美好沈河(多彩で斬新に?)』と書かれたボードが。瀋陽故宮博物院の入り口・瀋陽路の門。屋根瓦などは葺き替えられたようですが、木製の扁額や飾り板などは年代を感じさせてくれた。『文徳坊』と書かれた扁額。漢字の上下には満州語の表記が。ここにも『沈阳故宮』と書かれた扁額のある門。結婚するカップルが記念撮影中。満面の笑顔で。空には蛸の形の凧が浮かんでいた。そして同様な門が再び前方に。『沈阳故宮旅游服务部(瀋陽故宮旅遊服務所)』は瀋陽故宮観光案内所か。瀋陽故宮のマンホール。『太廟』正門。『太廟』は中国皇帝が皇室の祖先祭祀を行う場所。清朝では盛京(瀋陽)と北京の2箇所に設けられている。瀋陽故宮の『太廟』は乾隆46年(1781)に撫近門(大東門)外から大清門東横に移築されたもの。現在はバリケードがあり非公開のようであった。『沈阳故宮博物館』が左手に。『奏乐亭(奏樂亭)』。日本の舞殿の如し。添乗員から入場チケットを貰い『大清門』から入る。南北中軸線に正門となる大清門は故宮への入り口で清代には午門とも呼ばれた。清の太宗天聡年間(1627~1635)に創建され、崇徳元年(1936)に正式に大清門と命名。文武百官や外国使節はここでハンタイジの出御を待ち、またホンタイジがここで臣下や外国使節に賞賜を与えるなど、多くの典礼がここで行われたと。『沈阳故宮博物館』の建築様式は崇政殿、清寧宮と同じく五間硬山式。外側の『沈阳故宮』の扁額は、戦後にかけられたもので、郭沫若の筆であると。門の左右には二匹の獅子が座っており、門を守護している。『大清門』と書かれた扁額。左は満州文字(満文)、右は漢文。『沈阳故宮博物館』前の広場。『清沈阳故宮』配置図。『全景図』。『沈阳故宮』案内。瀋陽故宮は、清朝の初代皇帝、太祖ヌルハチ(努爾哈斉)と2代皇帝、太宗ホンタイジ(皇太極)により建立された皇城。1625年に着工して1636年に完成しました。瀋陽故宮の総面積は約6万㎡あります。北京の「故宮」の12分の1の大きさではありますが、500以上の部屋を持つ70以上の建物が建ち並び、満州族の威厳と風格が感じられます。敷地内は大きく東、中、西路の3つに分かれています。入口を入ってすぐの東路正面に建つ大政殿は、かつて大典が行われていた場所です。黄色の瑠璃瓦の美しい八角二層のこの建物は、漢、満、蒙の3民族の建築的な特徴を兼ね備えた傑作といわれています。中路には故宮の中心となる建物が一直線に並んでいます。中央には玉座の置かれた崇政殿、その背後には三層の鳳凰楼、さらに奥には皇帝や皇后、皇族達が生活していた建物があります。盛大な宴会が催されていた鳳凰楼は故宮で最も高い建物で、楼上からは市内を一望できたといいます。皇帝の寝室だった清寧には、太宗ホンタイジが死去したという寝室が保存されています。西路には嘉陰堂、戯楼、歴代の重要書「四庫全書」を収めていた文溯閣などがあり、これらは北京遷都後に乾隆帝により建設されたものです。ヌルハチとホンタイジの宮殿であった故宮は、順治帝が都を北京に移した後も離宮として使用され、先祖の墓参りや東北地方巡回の際に皇帝が滞在していました。現在は瀋陽故宮博物館として公開され、建物内には優雅な家具、調度品や食器類が展示されています。大清門をくぐると正面に見えて来た『崇政殿』は瀋陽故宮の正殿。太宗ホンタイジはここで政治を行い、外国使節の朝見の儀式や饗宴もここで行われたと。天聡年間(1627~35)に完成、崇徳元年(1636)正式に『崇政殿』と命名された。北京への遷都後も、皇帝の東巡(東北への行幸)時にはここで政務や典礼を行った。『崇政殿』が現在の姿になったのは、乾隆十一年~十三年(1764~48)頃にかけて行われた『崇政殿』および宮殿中路の大規模な増改築の後であったと。『崇政殿』も硬山式と呼ばれる中国北方地区によく見られる建築様式で建てられているのだと。硬山式は日本建築の切妻造に近いが、左右の側壁が屋根の上端より少し高い位置まで延び、左右の軒先が外側へ張り出していない点が異なるのだと。『崇政殿』は間口が五間(柱4本、柱間に5つの空間)の五間硬山式で、大清門と清寧宮と共通の様式となっていると。屋根には他の建築物と同じく、黄色い瑠璃瓦を用い、緑の瑠璃瓦で縁取りされ、左右の隅棟には走獣が置かれていた。口を開いて水を吐き出している『鴟吻(しふん)』。大棟(屋頂)の左右両側にには『鴟吻』と呼ばれる神獣の像が置かれていた『鴟吻』は「龍生九子」、すなわち龍が生んだ九匹の子の一匹で古来、雨や水をもたらす神として崇拝されており、建物を火災から守る役割を担っていたと。そして龍の一族である『鴟吻』は、龍の化身たる中国皇帝が利用する建物にのみ置くことが許される高貴な装飾なのであると。また、大棟(屋頂)の左右両端は、側壁と屋根の前後の勾配の三面が交わる場所で、非常に隙間が出来やすいため、『鴟吻』の像を置くことによって密封し、雨漏りを防ぐという実用的な意味もあるのだと。尚、日本の「しゃちほこ」はこの『鴟吻』が変化したものらしいと。こちらは右側の『鴟吻』。左端にも『鴟吻(しふん)』が。左右の隅棟には走獣が置かれていた。入口左右の『斗拱(ときょう)』には首をもたげた龍の彫刻が色彩豊かに。中国皇帝のシンボル、龍のレリーフ像が柱に。上下2つに分けて焼成されていたが2頭であろうか。『崇政殿』正面。建物正面(南側)の軒下の柱は四角形の柱が用いられ、軒には斗栱(ときょう)と呼ばれる枡形の飾りが取り付けられていたが、これはチベットの仏教寺院によく見られる手法とのこと。入口左右の斗栱には、首をもたげた龍の彫刻が取り付けられていた。扁額の『崇政殿』。中央の『雲龍階石』。風化が進んで、ほとんど判別が付きませんが、『崇政殿』の石像のレリーフ。内部には玉座が置かれ、その両側には天空を舞う二匹の龍、後ろ側には金色の屏風があり威厳のある造り。玉座真上の天井には、『正大光明』の扁額が。ひときわ目を引く玉座の上に掲げられた『正大光明』の扁額は、清王朝第5代皇帝の雍正帝(ようせいてい、在位1722-1735)が考案した「儲位密建(ちょいみっけん)」の法で有名であると。彼は、後継者となる皇子の名を記した勅書を厳封した上で、この『正大光明』の扁額の裏に置き、自分の死後に皆で立ち会ってこれを開封し、次帝を立てるようにと定めた。皇太子が誰かをぎりぎりまで公開しないことにより、皇太子の堕落や、次帝をめぐるお家騒動を防止することを目的とした、実に巧みな制度であったと。右側から玉座を。『崇政殿』への階段を下りながら振り返って。『嘉量』貴重な品らしく、周りを鉄柵で囲ってあった。日本で例えれば、石燈籠の光景ですが、容積の原器とされる『嘉量』と呼ばれるもの。こちら『日晷(にっき)』は日時計。これらは、乾隆十一年~十三年(1746~48)頃行われた、崇政殿と宮殿中路(中央部)の増改築の際に置かれたものであると。宮殿正面に容器の原器と日時計が置かれている理由は、繰り返しになるが、これこそがまさに中華帝国と中国皇帝のシンボルだからであると。始皇帝が天下統一後に度量衡を統一したように、度量衡は古来から国家統一の象徴。つまり、国家の統一と皇帝の権威を象徴する重要な意味を持つのだと。麒麟?も触られて黒光り。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.16
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4日目(6月22日)のこの日も早朝起床、そして我が部屋の窓からは快晴の街並みが。眼下に見えたのが『沈阳北站(瀋陽北駅)』そして駅前広場。時間は5:39。市名・『瀋陽』は、「瀋水ノ陽」の意味で、市内の南部を流れる渾河の古名・瀋水の北に位置することから由来するのだと。瀋陽市の常在人口は825万人、従来より東北地方の最大規模の都市であり、東北地方の経済・文化・交通および商業の中心地。ところで『瀋陽』がどうして『沈阳』になるのであろうか?陽➡阳は『勿』に似た部分が省略されていることは理解できるが、『瀋』➡『沈』は???今回の旅行中に学んだ簡体字の主なものは「貝」➡「贝」、「頁」➡「页」、「头」➡「頭」、「東」➡「东」、「風」➡「风」「幾」➡「几」、「農」➡「农」、「聖」➡「圣」、「亜」➡「亚」、「華」➡「华」「衛」➡「卫」、「車」➡「车」、「園」➡「园」、・・・・・等々枚挙に暇なし。なぜ簡体字ができたかというと、中国は日本とは違い識字率が低かったから。中国政府は、より多くの人に文字を普及させるため繁体字を簡単にした簡体字を導入したのだ。中国内陸部では簡体字のみが主に使われますが、正式文書など公式文ではしばしば繁体字が使われると。しかし、私はこの簡体字の採用には大いに??なのであるが。古い漢字には、漢字本来の中身・意味が表現されており、その漢字の成り立ちが解るのです。日本においても、戦後この「旧字体」が簡略されましたが、現在の中国ほど激しい簡略化ではないので、日本が「旧字体」の漢字の成り立ち、意味を引き継いで守っていくしかないのではと思っているのです。ホテル前そして東側方面のビル群。『沈阳北站(瀋陽北駅)』前の広場は、緑も豊かに。葉の色合いも意識した植栽であること間違いなし。駅裏にも高層ビル群が。こちらはマンションなのであろう。そしてこの日も6時過ぎにホテルを出て『沈阳北站(瀋陽北駅)』周辺の早朝散歩へ。『沈阳北站(瀋陽北駅)』を正面から。瀋陽北駅は、1986年11月に建設が始まり、1990年12月22日に完成。駅主体の面積は6万m2で、駅の部分は3階建てになっており、4個のエレベーターと7個の高架鉄橋があると。瀋陽北駅は、中国東北地域で一番大きい鉄道運輸駅で、毎日の列車数が多く、最高時で230以上の本数が運行していると。その為、瀋陽北駅は中国東北第一の駅と呼ばれているのだと。瀋陽北駅から至る都市は、北京、天津、上海、太原、広州、福州、ハルピン、長春、大連、唐山など様々な地域に運行しているのであった。駅前に通ずる『友好街』を『惠工广场(恵工広場)』に向かって歩く。『阳光百货(陽光百貨)』の高層ビル。ショッピングモールであるようだ。有料駐車場の文字は『一类收费泊位』と。中国の自動車保有台数は2億台を突破し、毎年の自動車販売台数は3000万台近くになり、毎年確実に増加していると。しかし、駐車場は大幅に不足しており、控えめに見積もっても5000万台以上の駐車場が不足していて、この数字はさらに増加する見込みだと。『惠工广场(恵工広場)』のロータリー・信号のない円形の交差点「ラウンドアバウト」。『惠工广场(恵工広場)』の『友好街』入口のモニュメント。多くのビルの前には対の獅子(ライオン)像が。東アジアから東南アジア、南アジアから中東、さらには西欧に至るまで、実にユーラシア全域に拡散したシンボルはこのライオンなのである。『惠工广场(恵工広場)』の南側。昨夜にビルの下まで訪ねた、中国の古代貨幣をモチーフにした『方圆大厦』ビルが前方右手に。こちらの獅子(ライオン)像は阿吽像であった。「阿吽」は仏教の呪文の一つで、その由来としては、インドのサンスクリット語で始まりの文字が「阿(あ)」、終わりの文字が「吽(うん)」となっており、「宇宙の初めから終わりまで」を示しているのだと。駅前のバスターミナル。『方圆大厦』ビル近くまで行く。そして駅前の地下道を潜り『沈阳北站(瀋陽北駅)』舎に向かう。地下道には様々な観光用ポスターが。『国门名山 丹東鳳凰山』遼寧省丹東市鳳城市にある名山。「箭眼」(チェンイェン)と呼ばれる最高点の海抜が836m。遼寧省の四大名山(他は千山、医巫閭山、薬山)のひとつ。丹東はこの日の翌日に訪ねる都市なのであった。花崗岩でできた連山の絶壁に張り付く歩道。巨大な吊橋も。そして吊橋の中にも階段が。旅友Sさんにもぜひ歩いて欲しい吊橋なのであったが・・・。そして『沈阳北站(瀋陽北駅)』構内へ。時刻表と空席状況が表示されていた。自動券売機。ネット予約のチケットもこの機械で受け取るのであろう。こちらは有人の日本風・みどりの窓口。多くの中国人がきちんと列を作っていたが、中国人同士では横入りはないのであろうか?そしてその隣には直ぐに安全検査のゲートが。我々切符を持たないものは中には全く入れない仕組み。『实名验证(実名験証)』の文字も。中国には「中国大陆火车票实名制」と言われる制度があり、いわゆる和谐号などの鉄道(G、C、Dの頭文字を持つ便)に乗る際に実名による登録が必要になるという制度であるのだと。一説には「鉄道事故が起きた時に誰が死んだか分からんから、すぐに分かるように全員登録制にしている」という、まことしやかな噂もあるのだと。安全検査を通過すると、エスカレーターで待合室(スペース)に上がれるようであった。X線検査装置に荷物を入れる乗客たち。新幹線のX線検査は金属類については飛行機の国際便より厳しいと感じたのであった。やはり飛行機と異なり、新幹線車内でトランクからでも取り出せるからなのであろうか?瀋陽北駅前の広場のオブジェ。鳳凰の姿であろうか、ここが人口約 825万人以上の省都の玄関前。広場一面のタイルが濡れていて雨が降ったが如く。しかし散水車と洗浄車が朝の清掃の真っ最中であった。散水車がゆっくりと水を出しながら、動いていた。回転ブラシが前方に2個ついた洗浄車。瀋陽北駅前の広場全面が洗浄対象、徹底的な清掃作業なのであった。日本では、最近散水車は偶に見るが、回転ブラシ洗浄車はほとんど見ないのではとも。札幌や函館で昔『ササラ電車』は見たことがあるが。そしてホテルに戻り朝食を取り、8:30にこの日の沈阳(瀋陽)市内観光のスタート。最初に『張氏帥府』の観光に向かう。車窓には『方圆大厦』ビルが再び見えた。早朝散歩とは逆ルートで『惠工街』を『惠工广场(恵工広場)』に向かう。バスの中から高層ビルを。『惠工广场(恵工広場)』ロータリーを走る。時間は8:37。『中国銀监会沈阳干部培訓中心』ビル。『性の体験』とはどの様な看板???『広宜街』。『辽宇煤矿安全監察局』。『正阳街』を南に進む。『正阳街』の寺院の如き建物。道路の渋滞が既に始まっていた。『沈阳新恒基国际大厦』とその手前に復元された撫近門(大東門)も見えた。 『趙一荻故居』。張学良が夫人の為に建設した住居。瀋陽の『張氏帥府』の大青楼の外観ここは張学良旧居張作霖と長男張学良の官邸兼旧邸宅。張氏帥府はまたの名を「大帥府」もしくは「小帥府」といい、遼寧省瀋陽市で有名な観光スポット。1914年に張作霖によって建てられた。その後も増築によって、主に大小の青楼と西院の紅楼、そして張四小姐楼から構成されている。それぞれの建築デザインは中国伝統建築やヨーロッパの建築など多種多様。全国優秀近代建築群とされ、1985年には瀋陽市人民政府に市の文物保護に指定された。張親子ここで政務を執り、諸外国の要人と会談。内部に入ると歴史の波に巻き込まれる親子の姿を垣間見えることができるのだと。しかしこの日は外観のみで、中に入ることは出来なかった。1918年から1922年までに建てたこの建物はローマ様式で、耐火煉瓦となっていると。張作霖が日本軍に爆殺されて瀕死の重傷を負ったとき、この建物に運ばれたと。歴史を感じさせる小路。チケットオフィス。『張氏師府』入口。戦時中まで「奉天」と呼ばれていた瀋陽の軍閥、張作霖とその息子で中国統一に大きな役割を果たした張学良親子が住んでいた邸宅跡。彼らはここで関東軍の要人や外国からの商人との面会、政務を行っていた。瀋陽故宮の近くの瀋陽路にある『張氏帥府』の入り口に立つ『张学良将军』像。『張学良』は中国の軍人・政治家。海城県(遼寧(りょうねい)省)の人。字(あざな)は漢卿(かんけい)。張作霖の長男。父の爆死後、日本の反対に抗して、国民政府のもとで全東北の実権を握ったが、満州事変によって下野。外遊後、内戦の停止、抗日救国を要求して蒋介石を監禁する西安事件を起こしたため、禁錮刑に処された。 49年蒋介石の台湾逃亡に伴い張も連行され,90年まで自宅軟禁状態にあった。 94年名誉回復,同年ハワイに移住した。20歳の時訪日したが、同年生まれで当時皇太子だった昭和天皇と容姿が似ていると周囲に驚かれたのだと。なるほど・・・・!!『沈阳故宮博物院』と書かれた門。張氏師府西院紅楼群 一号楼九・一八事件(満州事変)後の建築された西院の紅楼群は6棟に及ぶが瀋陽市文化局が使用しているようで公開はされていなかった。敷地の右側にあったのが『張氏師府西院紅楼群 六号楼』この八ッ菊紋に似た紋章は?美味しそうなブドウが露天で売られていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.15
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バスは长春西站(長春西駅)に到着。ここから新幹線で沈阳(瀋陽)に向かうのであった。時間は13:11。バスを降り、トランクを転がして駅舎内に向かう旅友達。長春西駅構内。荷物のセキュリティーチェックに向かう。出発案内板。エスカレータで待合室に向かう。新幹線の出発時間は16:00、かなりの時間がありしばし待合室で。待合室の上にはレストランや喫茶店がありそうなので散策開始。駅前広場。明かり採りがあるが、地下は駐車場になっているのであろうか?その奥にはマンション群が拡がっていた。ここはタクシー等の待合場所。待合室の中には土産物屋も。コーヒーを飲める場所が1箇所あったが、専用カード保有者のみの会員制の喫茶店であったので入場出来なかった。線路が下に見えた。待合室の中にあったカラオケボックス。電話ボックスを大きくしたようなカラオケボックス、しかし2人が限界か。この日の瀋陽北駅(沉阳北站)までの私の切符。300kmの距離で約91.5元≒1500円。利用する便は北京行き16:00発の16両編成。そして漸く出発10分前の15:50前に改札開始。5番ホームで新幹線の到着を待つ。この新幹線の始発駅は『齐齐哈尔南(チチハル南』。齐齐哈尔南12:53発~ハルビン14:30~長春西16:00~瀋陽北17:27~北京22:22と約2000kmを約9時間30分で走っているのだ。新幹線D-30が定刻に入線し10号車の指定席に乗り込む。『长春绕城高速線』が下に。田園地帯がひたすら続く。『京哈高速』料金所。『四平東駅』を出る。山の上には風力発電が。『辽河』を渡る。『铁岭西站』を出る。『新开河』を渡る。そして瀋陽(沈阳)の街並みが見えて来た。『沈阳北站』に到着。乗降客の数は比較的少なかった。改札出口での切符確認はなし。駅の外に向かって進む。『沈阳北站』前に出る。2連泊のホテル『沈阳珀丽酒店』が駅前に見えた。ホテルに向かって徒歩で向かう。そして5分ほどでホテルに到着。現地添乗員王さんがチェックイン手続きを。ロビー。部屋の前の通路には一面に養生用の布が敷かれていた。絨毯のメンテ中だったのであろうか?しかし、もう少し汚れていないものを敷いて欲しかったのであったが。そして我々の部屋。時間は17:46。しばし休憩後は、バス似て夕食会場へ。街並みには高層ビルが林立。夕食は瀋陽料理の店『興隆軒』。餃子が人気の店と。店に入ると魚介類が。様々な魚も。この日は、この店の人気の餃子を楽しむ。焼餃子も。スープは味が薄かったが。そして水槽に泳ぐ生魚。店を出ると漸く暗くなり、時間は19:57。ホテルに戻り旅友とスーパーマーケットで瀋陽の大手スーパー「家楽福」(カルフール)を覗きに行く。カルフールは、フランス・パリ近郊ブローニュ=ビヤンクールにグループ本社を置き、世界各地にスーパーマーケットチェーンを展開する小売企業。「カルフール」とは、フランス語で交差点を意味する。このカルフールは以前、日本にもあったが、イオンに売却されたのでは?瀋陽北駅の近くにある有名なランドマークの建物『方圆大厦』は中国の古代貨幣をモチーフにした建物。吉野家もあった。果物売り場を除く。メロンが山積み。椰子の実であろうか?ドラゴンフルーツ。缶ビールのロング缶を4本そしてアメリカンチェリーを購入しホテルへ。『方圆大厦』のライトアップを楽しみながら。別の角度から。外見がとてもユニークであり、多くの企業に大変好まれている。日系企業も入ってるらしい。そしてホテルの部屋に戻る。部屋から窓越しに『沈阳北站』をズームで。時間は21:30前。そして缶ビールに片手にこの日は隣の部屋の旅友2名も誘って1.5時間ほどの反省会。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.14
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『偽満州国皇宮博物館』を後にし、『南广场(南広場)』を通過し『胜利大街(勝利大街)』を進む。『横浜正金銀行旧址』。 横浜正金銀行は旧東京銀行の前身。旧横浜正金銀行新京支店は、長春駅にほど近い勝利大街に残っていた。1920年の建築、正面に配された4本のイオニア式オーダーが目を引くのであった。旧横浜正金銀行といえば、この後大連にも歴史建築として残っていた。当時は中国の各地で外国為替業務を担っていたのだ。中国に21か所存在していたと。この建物の興味深いところは、玄関の「横濱正金銀行」という社名表示が当時のまま残っているという点。地上2階、地下1階、延べ床面積約1534㎡(465坪)。構造:煉瓦造。様式:ルネサンス様式。設計者:中村與資平。施工者:清水組。交通ルールを守らず、我が物顔で車線を歩く人々の姿。右手前方に『长春站(長春駅)』南口が見えて来た。1907年(光緒33年)11月3日:長春駅が貨物駅として開業。1907年(光緒33年)12月1日:旅客駅業務開始。1913年(民国2年):満鉄が32万円をかけた4,000平米の待合室が完成。1932年(大同元年)3月14日:長春市が新京市に改称したのに伴い新京駅と改称。1945年:第二次世界大戦で日本敗戦、満州国解体の為長春駅と改称。1992年5月26日:旧駅舎解体。1995年:新駅舎完成。少し進んで。『長春鉄路办事处』、ここは『旧满铁新京支社』。人民大街を南に進むと前方左手の建物の屋上にはロケットの如き物体が。『吉林省省直機関第一幼児園』『胜利公园』の毛沢東像。『北安路』。『中国人民銀行』人民広場の『苏军(ソ軍)烈士纪念塔』。人民広場横の『長春市公安局・長春市国家安全局』。そして昼食会場で長春の郷土料理を楽しむ。そして『神武殿旧址』の見学のためにバスを降りる。『長春市牡丹園管理所』とも。ここは牡丹の名所でもある。「旧関東軍司令部、旧東本願寺新京別院とともに長春に残る純日本式建築物の代表的存在。「神武」という名称から現地では神武天皇を祀った施設という誤解があるが、もとは1940年にできた日本式武道館である。竣工時内部は柔道場や剣道場、相撲の土俵があったが、現在では吉林大学の鳴放宮(講堂)として利用。設計は満州帝国武道会技師宮地二郎、施工は満州竹中組。」「紀元二千六百年」を記念して完成した「神武殿」旧址。神武殿旧址は1990年、長春市の重点文物保護単位(重要文化財)に指定されたものの、まもなく吉林大学が移転すると建物はひどく荒廃し、屋根には雑草が生い茂るありさまとなったが、二年前の修復作業によって旧観を取り戻した。しかし、日本帝国主義を象徴するこの建物をどう「活用」するのか、当局もまだ目処が立っていないのだと。牡丹園の華やかなにぎわいとは対照的に、訪れる人もまばらな旧神武殿の正門はこの日もぴったりと閉じられ、重苦しい雰囲気を漂わせていた。前庭の植栽の中にあった石碑。『吉林大学 四十周年校庆(創立)紀念』の文字が。『日本神武殿旧址』。園内には牡丹(ぼたん)・芍薬(しゃくやく)など約二百六十品種・一万一千株が、七種の色に大別されて植えられていると。満開になる5月下旬には一日およそ十万人の観光客が来園すると。この日は既に花は完全に終わっていた。バスに向かって路地を進む。この周辺は、岸信介が居住していた場所であると添乗員から。岸信介は1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。長春の雨水マンホール。『中国农业发展銀行(中国農業開発銀行)』。そしてこの日も『解放大路』沿い『文化広場』前を通過。右手には髪をなで上げた女性像が。三角形のモニュメントとその下に手を広げた男性像が。『新星字集団』ビル。『解放橋』を渡る。下には長春駅に繋がる鉄道線が。『解放大路を西に進む』。『吉林民政』ビル。『長春市工商行政管理局』。『市場監督管理』ビル。『長春市緑園区人民检察院』。景阳第街と和平大街の交差点には前日も見た赤いモニュメントが。景陽大路沿いにあった『長春市第八十七中学』。ビル前の歩道部分は駐車場になっていた。中国民生銀行(右)と融泰村镇银行(左)。西环城路との交差点を左折。南阳路を西に進み『長春西駅』を目指す。白いマスコット人形の如きものが道路の真ん中に。それともロボットのモニュメント?ハイテク工場がこの先にあるのか?長春西駅に近づくと路面電車が前方に、そしてその手前にはトラクターが。長春西駅から出て来た路面電車。長春有軌電車(长春有轨电车)と呼ぶ路面電車で1940年に新京交通株式会社として設立され、翌1941年11月に最初の路線を開業させた。中華人民共和国成立後には長春公交集団電車公司に移管されたと。長春西駅手前からのマンション群。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.13
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更に伪满洲皇宫博物院の見学を続ける。これは「緝熙楼(しょうきろう)」といわれる建物で、溥儀や皇后の婉容(えんよう)、第三夫人の譚玉齢(たん ぎょくれい)の寝宮だったそうだ。まずは2階への階段を上る。古い建物のこの階段には独特な、なにかを感じさせてくれるのであった。溥儀の『漢方薬庫』溥儀は、青年時より薬好きで、専用の薬局を設けていたのだと。『婉容皇后(えんようこうごう)の書斎』。「1931年暮れ、満洲事変勃発後、溥儀が日本陸軍から「大清帝国の復興である新国家(満州国)」の皇帝となるよう要請を受け受諾し、天津を脱出して満州へ移住。静園から溥儀が去ったことを知った婉容は、溥儀から満州に来るよう求められたが皇后の身分にも皇帝のもとへも戻る意思がないと断ったが、関東軍の命を受けた金璧輝こと川島芳子に「皇帝が大連で亡くなったため葬儀に出席してもらいたい」と欺かれ、満州に連れ出された。溥儀が2年間の執政を経て1934年3月1日に皇帝に即位すると、婉容もまた皇后となるが、皇后に相応しくないと見なす関東軍の意向により、公式の場に姿を見せることはほとんどなく、告天礼の儀式にも、即位式に参列することも叶わなかった。6月7日、訪満していた秩父宮雍仁親王による勲章伝達式に際しても、関東軍は婉容を謁見させたくなかったが、「伝達式には皇帝・皇后ともに出席すべし」との日本政府の主張により例外的にこれを受け入れた。婉容は勲一等宝冠章受賞の儀式でもその後の宴でも、さらに12日に行われた満州国皇帝による招宴の席でも、噂されていたような中毒症状を見せることもなく、健康そのものの様子で儀式に臨み宴の女主人役を務めた。しかし自由のない閉塞的な暮らしと皇后としての振る舞いも許されない状況の下でアヘンへの依存は高まり、1935年頃には新しい衣料を購入することもなくなった。溥儀の弟溥傑の妻であった嵯峨浩は、1937年秋頃の様子として、アヘン中毒の影響から婉容の食事の様子に異常な兆候があったと自伝に記している。」と。『婉容皇后の寝室』。結婚以来、一度も溥儀とベットを共にしなかった。その寂しさを紛らわすため、溥儀の家来と浮気。その結果、溥儀からの愛は無くなったと。『婉容の応接間』はアヘン吸引室。婉容は、満洲国時代になると、日本ぎらいもあって、アヘンにおぼれて、公式の場所にほとんど姿をみせなかったと。以前は第一夫人の婉容がアヘンを吸っている様子がロウ人形で再現されていたとのことだがこの日はロウ人形はなかった。。『婉容の応接間』西洋知識豊富・英語堪能、琴・書画ともに優れた婉容の応接間。しかし、アヘン中毒となった婉容に、来訪すべき客はいなかった。『理髪室』。日本人津田という人がおかかえの床屋さんだったようです。清朝皇帝は「龍髪」という習慣があり、切った髪を黄色い絹に包み、日付を書いて保存していたと。また、溥儀が日常使う注射器をここで消毒していたと。なんでもホルモン注射をしていた模様。『溥儀の書斎』このにも以前は、溥儀と語り合おう吉岡安直の二人のロウ人形が椅子に座っていたようであったがこの日はここのロウ人形の姿もなかった。読書・習字の場。吉岡安直の指導を受け政治活動を行った場所。『溥儀の寝室』。1932年から1945年までの寝起きをしていた部屋。『溥儀の寝室』のベッドの手前。『溥儀の仏間』神仏信仰は清朝歴代皇帝の伝統。溥儀は歴代清朝皇帝同様熱心な仏教信者。この仏間で読経、占い、運命判断、祭事などをみずから行っていたとのこと。『溥儀の浴室』。右側が浴室、左側がトイレであろうか。第三夫人の『譚玉齢(たん ぎょくれい)の応接室』。1920-1942。北京に満州族の貴族の子として生まれ、17歳の時、当時32歳の溥儀の側室となる。22歳で病死。他他拉貴人(たたらきじん)の名でも呼ばれる。温厚でおだやかな性格で、最も寵愛を受けたといわれているが、宮仕えの5年後わずか22才で謎の死を遂げており、溥儀はそれを後々まで日本軍による毒殺と疑っていた。「私の妻は…私の貴人は、非常に私との仲がよかったのであります。年は若くて23でありました。あるとき私の貴人は病気になりました。彼女は中国を愛し、即ち中国の国家を愛する人間でありました。そうして貴人は常に私に向って、今はやむをえないから、できるだけ忍耐しましょう。そうして将来時が来たならば、失った満州国の地を中国にとり返すように致しましょう、と語っておりました。しかしながら、私の貴人は日本人に殺されたのであります。」と、愛新覚羅溥儀の著・『わが半生』には書かれていると。偽満皇宮博物院における緝煕楼(しゅうきろう)の一階の東側では、溥儀や皇后、皇妃の生活写真が展示されていた。この時代は、カメラの普及も進んでおり、古い写真も数多く残されていたのであった。写真館の溥儀と婉容。1922年、正妻の婉容と結婚した溥儀(左)と婉容。溥儀と婉容。婉容。婉容は、北京で生まれたが、天津で育って英語を含めた西洋的な教育を受けていた。17才の時に、溥儀の皇后として迎えられたが、溥儀の同性愛的性向あるいは性的不能によって、夫婦仲は冷えていき、アヘンに手を出して、重篤な中毒に陥って行ったのだ。溥儀が満州国皇帝となると婉容も再び皇后になったが、アヘン中毒と日本人嫌いのため、公式の場にはほとんど姿を見せず、最後は身なりにも気を使わないような精神的錯乱に陥って行った。婉容は、満州国皇后時代に愛人を作り、娘を出産するが、生まれた子供は、すぐに彼女の前から姿を消してしまう。本人には、親族の手で育てられていると告げられたが、実際は溥儀の命を受けた従者の手によって、ボイラーの中に投じて殺害されたと。日本の敗戦後の逃亡の際に溥儀一行から置き去りにされて、共産党軍の手におち、吉林省延吉の監獄内でアヘン中毒の禁断症状と栄養失調のため、孤独の内に死亡したといわれているのだ。第2夫人の文繍(ぶんしゅう)。位階は淑妃。婉容が皇后に迎えられる前日に、側室として紫禁城に迎えられたのが、13才の文繍。紫禁城の中で、溥儀や婉容とともに過ごす日が続く。天津の日本租界に移ってから溥儀のもとから逃亡して、3日後に離婚の訴訟を裁判所に申し出ると溥儀が慰謝料を支払うことになって、離婚は成立して、文繍は平民に戻った。文繍は、私立学校の先生になったが、皇帝の側室であったことが世間に広まったことから退職を余儀なくされたと。1931年、溥儀との離婚を裁判所に申請して認可され、溥儀が慰謝料5万5千元を支払うことで離婚が成立した。この時の離婚の条件は、文繍が生涯結婚をしないというものであったと。最後は45才で、飢え死にに近い状態で亡くなったと。北京故宮長春宮の婉容。婉容の写真が並ぶ。溥儀と婉容そして二人の妹と一緒に。天津静园での溥儀夫妻。婉容。北京故宮にて自転車に乗る婉容。婉容の弟・潤麒と一緒に。日本公使館にて。天津にて溥儀の誕生日に時の写真であると。満鉄経営の湯崗子(とうこうし)温泉(現在の遼寧省鞍山市の湯崗子駅の東)の対翠閣(たいすいかく)門での溥儀夫妻(左)と1932年3月8日長春での溥儀夫妻。第三夫人の譚玉齢(たんぎょくれい)(中央)と愛新覚羅溥傑(満州国皇帝愛新覚羅溥儀の弟)の妻・嵯峨浩(左)。1943年の4番目の妻・李玉琴 (り・ぎょくきん)(右)と1957年の李玉琴 (左)。関東軍としては、満州国皇帝に世継ぎができる必要があった。そこで側室を迎えることを溥儀に勧めた。関東軍の手で集められた候補のうち、新京市内の料理屋の店で働く労働者階級の娘の15才の李玉琴が選ばれた。皇帝の側室というよりは、召使のような扱いで、廃人と化した皇后婉容を最後まで世話した。溥儀の収容所時代に、離婚することになたと。1982年の李玉琴 。そして溥儀の最後の妻(5人目)は李淑賢( り・しゅくけん)、看護婦をしており、戦後、溥儀と結婚する。溥儀の死後、その意志に基づき、彼の後半生の手記を書き上げた。1962年結婚。二人の結婚生活は仲睦まじかったと伝わっている。ちなみに、溥儀にとって生涯唯一の恋愛結婚でもあったと。『譚玉齢の応接間』1937年に溥儀と結婚。溥儀に愛されていたが1942年22歳の若さで急病にかかり死去。元は溥儀が食事をした食堂を、1937年以降、譚玉齢の応接間に改造。溥儀の妹達はよく来訪し、譚玉齢と雑談した。『譚玉齢の書房』元は溥儀の書房。1937年以降、譚玉齢の書房に改造。読書・習字だけでなく、琴を弾いたりした。また、溥儀に生活用品を編むこともあった。『譚玉齢の寝室』婉容はアヘン中毒になり、文繍は逃げ去っていたため、満洲時代になって15才の譚玉齢 を1937年側室に迎えた。溥儀との仲は良かったのだが、重い病に。清朝以来の習慣で漢方薬医に治療をさせるが、衰弱していく一方であった。この病気は御用係りの吉岡の耳に入り、日本人医師に診察させるよう勧めた。吉岡の言葉に反対できない溥儀は、日本人医師に治療を行わせる。栄養剤の注射と輸血を行ったその晩に譚玉齢は急死してしまう。譚玉齢は、愛国心が強く関東軍に反感を持っていたために、吉岡の指示によって暗殺されたという疑いがわいて来たと。溥儀は後の東京軍事裁判で、譚玉齢は吉岡に毒殺されたと証言したのだと。『西御花江園』入口。「西御苑は、偽満州国の初期に、吉黒榷運局の花園の敷地に造られたのである。敷地面積は2200m2以上である。園内にいろいろな草花と木が植えられ、東屋や築山が池に映って美しい景観となる。東御苑ができていないとき、溥儀と宴用はよくここへ遊び楽しみに来る」『西御花江園』案内表示。『勤民楼』溥儀が清王朝復活の大志を示すため「天を敬い祖を則り政に勤め民を愛す」という清王朝の家訓より命名。政務・式典・来賓接待・宴会を行った場所。ここにも入りたかったが、今回のコースには入っていない模様であった。『勤民楼👈リンク』に関心のある方は・リンクにアクセスしてください。『勤民楼』前庭部。『勤民楼』出口門は『迎晖門(迎暉門)』。『宮内府』、『興運門』に向かって進む。『宮内府』入口。暢春軒。溥儀の妹たちが暮らしたところで、寝室や応接室などがあった。溥儀の実父が訪ねてきた時にもここに滞在したとのこと。ちなみに、この博物院に展示されている家具はほぼほぼ全てレプリカで、本物は文化大革命時にすべて失われてしまったらしい。偽満州国では宮内府大臣の下に日本人次長を置いていた。次長は名義上は大臣の補佐であるが、人事・財務等のすべての行政権を持ち偽満州国政権を制御していた。総務処は職員の監督・指揮をする。各書類の保管や、宴会・賞与および職員の任免・賞罰等の事項を管理していた。正面に『興運門』の内側が。9:10で止まっている時計。溥儀が長春から逃げる時間で、時が止まっているのだと。『興運門』の表側。皇帝のシンボル「ランの花」の紋章。また、門に描かれている龍は皇帝の証であると。林の奥に多くの馬の姿が。奥には『御用乗馬場』があった。溥儀も実際に遊んだ乗馬場であると。そいて柳の並木の下を出口(入口)に向かって進む、黄色の花にはミツバチが。『紫椴』、『菩提樹の花』であるようだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.12
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偽満州国皇宮の配置案内図。①同徳殿 ②中和門 ③緝煕楼 ④勤民楼 ⑤宮内府 ⑥興運門 の順番に巡ったのであった。偽満州国皇宮(ぎまんしゅうこくこうぐう)は満洲国の首都新京(現在の中華人民共和国吉林省長春市)に築かれた満州国皇帝の宮殿。第二次世界大戦末期に対日参戦し満洲国に侵攻した赤軍(ソビエト連邦軍)が新京を占領していた混乱期に宮殿施設の多くが著しく荒廃したが、その後中華人民共和国政府が宮殿の一部を復元し、偽満洲国における日本軍の占領政策の歴史を展示するという趣旨の博物館「偽満皇宮博物院」として公開されている。2013年に全国重点文物保護単位に指定されたのであった。道徳殿の配置案内図。偽満州国皇宮内・①道徳殿を最初に巡った。一階の一番奥にあったのが『日本間・和室』日満の関係を表すために日本式の部屋を作っのだとた。溥儀は関東軍の高級武官・吉岡安直他と会見し日本料理をともにしたのだと。主に接待用に使われた日本間であったと。道徳殿の1階中央廊下。赤い絨毯が。『ビリヤード室(台球間)』。ビリヤード好きな溥儀が宮廷の学生とビリヤードをやって時間をつぶした。学生たちはわざと負けを認め溥儀の機嫌を取ったと。『ピアノ室(钢琴间)』。溥儀が弾いていたピアノ。「溥儀は北京故宮にいたとき、もうピアノ曲が弾けるようになった。道徳殿が落成した後、わざわざピアノ室を設置した。溥儀はたまにここでピアノ曲を弾いて傀儡皇帝としておこっても言えざる憂鬱と不満を当たり散らしていた。」『中国間』部屋の中すべてが中国伝統の家具。溥儀はここで休憩をし、皇族や清朝旧人と会見したと。様々なシャンデリアが。『便見室』溥儀が定期的に日本関東軍と会見し、偽満州国の様子を話していたと。溥儀の写真。『同徳殿 映画ホール』同徳殿も政治色・関東軍の匂いのする建物である。ここは映画「The Last Emperor」の舞踏シーンなどで使われたホール。甘粕元大尉役で坂本龍一が出演しているのだ。溥儀がときどき家族と日本の侵略戦争を美化した映画をみたのだと。映画ホールの天井のシャンデリアと壁の照明。映画が上映されるようであったが、残念ながら現地ガイドから次の場所に行くと。『叩拝間』参拝室とも言われて、溥儀が執務し日偽官吏を召見し来賓と会見し朝賀を受けた場所だが正式には使用されなかった。重要な祝日の時、溥儀がここで家族、「皇族」たち、及び身近な人のお礼を受けたところである。『広間』溥儀が祝日や誕生日に官使から祝福を受けた場所。映画ラストエンペラーにも使われたと。『道徳殿保護修繕紀實開幕式』の垂れ幕。「同徳殿」が竣工した1938年(康徳5年)の文字と保護修繕事業が2002~2017に渡って行われたのであろう。広間は日本語で、すなわちホールの意味である。溥儀は祝日と誕生日の時は日満と偽満の官吏から朝賀を受ける場所としてのみ利用した。太平洋戦争勃発後、溥儀は日本と偽満州政府によって行われた金属献納運動を支持することを表すために、金属製の宮燈四つ、献納して日本の引き起こした侵略戦争を支援した。『広間』の天井。純金が用いられ、1つ1トンにも及ぶ豪華なシャンデリアが4つ。ユニークな形状の照明灯。最後に『道徳殿』の案内表示板。『西厢房』であろうか?『緝熙楼』横。『緝熙楼』案内。『中和門』。『中和門』広場。『日本憲兵室』偽満州国皇帝の安全保護の組織。常時3~5名の日本人憲兵が居住。しかし、本当の目的は、溥儀の行動を監視し、日本関東軍に報告するための組織だったと。次に訪ねたのが『緝熙楼』。名称の意味は「時々刻々清王朝の回復を忘れない」。溥儀や(皇后)婉容・(妃)譚玉齢が住んでいたと。安全の為に一度に50人以上の入場はご遠慮くださいと。『緝熙楼』の広場前にあったのが『勿忘”九.一八” 江沢民』。九.一八忘れること勿れ。9.18とは日本で言う満州事変のこと。抗日愛国教育を推進した江沢民の署名入りであった。何故か、現地添乗員の説明はなかったのであった・・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.11
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この日の最初の訪問場所は『伪满洲皇宫博物院』。『汪伪政府伪駐満洲国大使館旧址 』汪兆銘政権は1940年から1945年にかけて存在した、中華民国の国民政府。行政院長は汪兆銘。首都を南京としていたことから、当時の日本では南京国民政府とも呼ばれた。中華民国南京国民政府の名で呼ばれることも多い。ここが汪伪政府の満州国内の大使館であったのだろうか。『汪伪政府駐伪満洲国大使館旧址 』。『伪满洲皇宫博物院』入口門を見る。門の前では団体が記念撮影中。『伪满皇宫博物院餐庁』。『伪满皇宮博物院』正門。入って左側には『御膳房』が。王家の紋章が刻まれた門を入るとすぐの所に、「偽満州国皇宮」とかかれた石碑があり、中国語で「日本の帝国主義が中国に侵略し……」という内容が書かれているとのことで、日本に対する敵愾心を顕にしているのだと。『東御花園』への入口門が正面に。『東御花園』への入口門から『伪满皇宮博物院』正門を振り返る。長春におけるメインの観光地、偽満皇宮博物院を見学した。ここはラストエンペラー愛覚覚羅(あいしんかぐら)溥儀(ふぎ)が1932年から1945年まで過ごした宮殿。ここはもともとは塩の専売公社だったところを仮宮殿として使用したもの。ゆくゆくは地質宮に立派な新宮殿を建てようとしていたようだが新宮殿が完成する前に太平洋戦争が開戦し、宮殿建築にまわす資金が充当できず建設がとまったまま終戦してしまったと。仮宮殿ということで、中は正直言ってそれほど広くなく、溥儀の生活はずいぶん窮屈であったのではと感じられたのであった。紫の花。『紫丁香』。ライラックの漢字名。ここが『偽満皇宮博物院』の正門。『偽満皇宮博物院』配置案内図。『東御花園』、『御用防空壕』、『建国神廟』案内図。『東御花園』と書かれた石碑。入口の門に大きく描かれていたのは、蘭(西洋の蘭ではなく、フジバカマという東洋の花)をイメージした満洲国の国章。5枚の花弁は、日本(大和)、満州、朝鮮、漢、蒙古の5つの民族を表していて、”五族協和”の建国理念がここにも示されていたのだと。『同徳殿』『東御花園』の噴水。『天照大神防空壕』入口。『天照大神防空壕』天照大神防空壕は1940年に、「天照大神」を供える「建国神廟」と同じ時期に造られたものである。鉄筋コンクリート造りであり、豪の中に「天照大神」の逗子を置いていた。偽満州国の末期に、空襲に見舞われるたびには、祭祀官は「天照大神」を豪の中に運んで、空襲を避ける。『建国神廟』の遺跡は礎石部分のみ残っていた。別の角度から。『建国神廟の遺跡』「「建国神廟」は、日本式の木造の神社であり、1940年に建てられたものである。「唯神の道」を核心とした思想支配を強化するために、同年7月、日本関東軍は溥儀を訪日させ、日本肇国の祖先とされる「天照大神」を偽満州国の「建国元神」として供え、さらにそれを信仰し祭祀することを、東北人民に強制するように意を授けた。1945年8月11日夜、溥儀が皇宮を逃げ出した際に、関東軍の放火で焼かれ、今は礎石だけ残っている。」境内に横たわっていた石碑類。『第一陣神社』。満鉄の最盛期に首都に建てた中学「新京1中」の校庭の南西にあった神社。祭神:天照大神、神武天皇、明治天皇創立年・鎮座年等:1936(昭和11)年5月5日『中華民国十二年癸亥4月・・・・』と刻まれた石碑。『一天四海皆帰妙法 日達』と刻まれた石碑。天下をして、一天四海をして、等しく救い上げねばならない。平和を作り上げねばならない。このことを実現させるために、南無妙法蓮華経は、仏様が末法に、時代を限って残された法門だ、ということが日蓮大聖人の宗教であるとの教え。当時の『建国神廟』の写真をウィキペディアより。『東御花園』の散策路を進んでいくと、観光客が立ち止まっている場所が東御花園地下にある防空壕。こちらが防空壕入口。説明板「御用防空壕は1939年に建設され、溥儀及びその家族が空襲を避けるためである。鉄筋コンクリート造、その中、すべての部屋には衝撃波を防ぐ鉄ドアを備え、また重型爆弾の直接攻撃を防ぐことができる。偽満洲国の家には溥儀がたまにかれの家族を連れてここに避難していた。」東御花園にあるプール。溥儀は泳げなかったのだが、プールサイドで休息するのは好きだったのだと。奥の広場の先には「嘉东殿」、『书画楼』の建物が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.10
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3日目・6月21日(金)のこの日も快晴の朝。6:30にホテルを出て近くを流れる『伊通河』岸の散策に向かう。ホテル『中日友好会館』を振り返る。ホテル正面。ホテル前の『自由大街』、未だ交通量は少なかった。ホテル近くにあった『幸福经开 双迎您』と書かれたモニュメント。「幸せな発展」のスローガンなのであろうか?中央分離帯には緑が溢れていた。そして『伊通河』の流れと川岸の住宅街。『伊通河』に架かる『自由大橋』。白の曲線美の美しい『自由大橋』。多くの釣人が早朝から。前方には堰が。電動式の堰。堰の上には遊歩道が。川沿いの公園(工事中)には中華風東屋が。この場所には何を植えるのであろうか?日本のワサビ田の如き光景。小川に架かるアーチ橋。馬の上で横になって眠る老人の像。中国の馬と人間の伝統的な関係を表現していると。公園の近くの幼稚園。高架は『軽軌4号線』。長春の環状線の様な役割を果たしていると。前方に『自由大路駅』。エスカレーターで駅構内へ向かう。改札口。この後、係の女性が出てきて、電車を利用するために改札を通過する一人ひとりに大きな刷毛の様なものでセキュリティーチェックを始めたのであった。カメラを構える我々に対する眼も厳しかったのであったが・・・・。電車が駅に入線。まだ比較的空いている模様。今気がついたのだが、運転席に人の姿が見えない!!無人運転なのであろうか?料金表か?『中国海?』ビル。『中国長城資産』ビル。そしてホテルに戻る。朝食会場へ。バイキング朝食を楽しむ。時間は7:32。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.09
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長春市の市内観光に出発。長春の現地ガイドは金?さん。長春市(ちょうしゅんし、チャンチュンし、中国語:长春市)は、中華人民共和国吉林省に位置する副省級市で同省の省都。市区人口約438万人・総戸籍人口約749万人(2017年)。吉林省政府が所在し、省内の政治、経済、文化の中心地となっている。1932年から1945年までは満洲国の首都とされ、新京と呼ばれた。 市内には長春第一自動車製造工場と長春映画製作所が所在し、中国における自動車工業と映画製作の拠点となっていると。長春駅前の『苏宁易购(Suning.com)』のユニークなデザインのビルか?巨大な中国のEC市場においてNo.4のシェアを誇るのが家電量販店を前身とする企業、蘇寧電器が運営する『苏宁易购 蘇寧易購(Suning.com)』。長春駅北口前の高層ビル群。2017年に開通した地下鉄1号線。『胜利公园(勝利公園 )』人民街の北部の西側に位置し、南は团结路(Tuanjie Road)、北は嫩江路(Nenjiang Road)、西は白菊路(Baiju Road)に隣接し、 長春駅 、吉林省党委員会、 省政府に近接している。正門には毛沢東の像が立てられていた。『中国共産党吉林省委員会』。日本の城を思わせる建物は『旧関東軍司令部』。もともと、関東軍司令部は旅順に設置された。1919年のこと。満州事変が起こり、旧満州国が設立した後、旧満州国の首都だったここ長春(当時の新京)に移設されたと。1934年のことであると。設計は関東軍経理部、施工は大林組であったと。そして超日本的デザインの建築物を吉林省の最高権力機関として使用しているのだ。右手にも天守の如き姿が。侵略の事実を伝える負の遺産として残していることは間違いないのではと思いますが、中国の方々、吉林省の方々は寛容というか何というか、頭が下がる想いも感じたのであった。当時の『関東軍司令部』の写真。 【https://www.gakushuin.ac.jp/univ/geore/research/2015a/sinkyo-headquatersofkantoarmy.html】より坂道を上り『吉林省松苑賓館』を訪ねた。『関東軍司令官邸』として使われていた建物であるとのこと。1931(昭和6年)8.1満蒙の緊迫した情勢の中で、菱刈隆大将の後を受けて関東軍司令官に就任した『本庄 繁』が住んでいたと。そしてその一ヶ月後に柳条湖事件が起こり、関東軍参謀たちによる謀略で満州事変が起こったのだ。緑に囲まれた環境抜群の場所で、たんなる宿泊施設ではなく、結婚式などにも利用されているようであった。1955年2月16日-20日 人大代表ダライラマが宿泊したとのこと。邸の横に回る。裏側。そしてこちらが現在の『吉林 松原 ホテル (吉林省松苑賓館) 』。レンガ積みに壁は蔦がからまり。『吉林省松苑賓館』入口。内部をドアのガラス越しに。『関東軍司令部附属用房旧阯』『吉林省国家安全庁』『財金中心』ビル。『人民広場』に向かってバスは進む。地下鉄1号線『人民広場駅』入口。人民広場ロータリーから『中国人民銀行』ビルを見る。『吉林省賓館(吉林省宾馆)』ドライバーが『人民広場』のロータリーを観光用に1周してくれたのであった。『人民大街』の長春駅方面を望む。そして『長春市公安局(旧満州国首都警察庁旧址)』そして『人民大街』沿いにある『長春市体育館』前を通過。『文化広場』とその奥に『吉林大学地质宫博物馆』。この博物館の建物の基礎部分は、過去に日本が作ったものであると。『文化広場』の中央には三角錐のモニュメントが。三角錐のモニュメントの上には鳥の形のモニュメントが。文化広場ではみんな凧を挙げていたのであった。『文化広場』には女性像も。『伪满洲国国务院旧址』偽満州国国務院旧址は新民大街2号にある、1936年に完成した満州国の最高行政機関。かつてはここに総務庁と参議院の建物があったと。 『偽満州国八大部』(満州国の国家機関のうちで、現存する8つの建築物)の要であった。現在は吉林医科大学教養課程キャンパスとなっていると。概観は、『川』の字に見える建物と、塔のような形で、灰色のガラス瓦を葺いた屋根でできている。西洋風の趣きを兼ね備えているので、これを『興亜式』と呼ぶと。また、設計は日本の国会議事堂を参考にしたのだと。『偽満洲国軍事部旧址』旧満州国軍事部は、長春・文化広場の南側に位置していた。旧満州国国務院の向かい側。1935年に竣工された旧満州国の軍務を掌った機関。もとの名前は「軍政部」であり、偽満州軍隊を指揮する重要な機関である。1937年に「治安部」を改名した。この建物は1970年に全体的に一層建て増やした。屋根部の形も建て直し、琉璃瓦を緑色に直し、巨大な装飾浮き彫り図案を添えた。現在は吉林大学白求恩医学部付属第一医院として利用されていると。『吉林电视台(吉林電視台)』はテレビ・ラジオ局。『満州国交通部跡』この建物は今新民大街7号に位置し、1937年から建て始めた。鉄筋コンクリート構造である。主体ビルは四層、両翼は三層、地下は一層である。今は吉林大学医学部の公衆衛生系教学ビルである。『吉林省電子技術研究所』?『偽満洲国司法部旧址』長春市新民大街6号に位置している司法部は1935に建った。この部は司法、裁判所、民事、刑事、戸籍及び他の司法などの事項を司っていた。全体には十字形をし、正門が西向けで、主体は三階、地下が一階である。真中には三階のタワービルが建てられている。タワービルの低層にアーチ型の窓があり、二、三階は長方形である。鉄筋コンクリート構造であり、総面積は16328平方メートルである。満州国法務省にあたる。現在は吉林大学医学院本館。 『偽満州国国務院』。日本の国会議事堂に似ていた。現在は、吉林大学白求恩基礎医学部となっている。竣工1936年。手前には銅像が。日中戦争中戦死したカナダ人軍医ベチューンの銅像、正面の松は溥儀が植えた松であると。何代目か?『偽満州国国務院旧址』。巨大な柱が4本。『原偽満州国国務院大楼简介』。現在の『吉林大学白求恩医学院简介』。エントランスの車寄せスロープ。『長春テレビ搭』は218m。バスに戻り『偽満州国国務院』を『解放大路』から。『解放大路』に面したホテル。こちらも『盛荣大厦』ホテル。『21世紀国際商務总部』『吉林大橋』を渡る。流れる川は『伊通河(いつうが)』。『伊通河』は伊通満族自治県の青頂嶺に源を発して、北へ長春市内、徳恵市内へと流れ、飲馬河に合流して間もなく松花江にそそぐ。全長342km。南北朝時代に夫余がこの川岸に王城を築いていると。吉林大路を東に進む。吉林大路沿いにあった『圣都大酒店』。东盛大街沿いの本場の中華街『坊盛吉』入口。东盛大街を南に進む。そしてこの日の夕食会場は『屯?阳向』長春名物 豆腐料理を楽しんだのであった。そしてこの日の宿の『中日友好会館』に到着。自由大街沿い、伊通河に近いホテル。ロビー内。フロント。「中日友好会館」という名前にかかわらず、日本語のできる従業員は見当たりませんでした。日本のODAで建設したという経緯があるホテルらしいが、裏話がいろいろあったようだが現場添乗員に聞き損なってしまったのであった。511号室の我々の部屋。この日も、部屋でビールとウィスキーで暫しの反省会後にベッドに転がり込んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.08
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バスに乗り、スターリン公園(斯大林公園)の見学に向かう。しかし、スターリン公園(斯大林公園)は既に早朝散歩で制覇済みなのであったが。途中バスの正面にハルビン駅(哈爾浜駅)の南口が左側に見えた。そして東口周辺は大規模な再開発工事が行われていた。霄虹橋を再び通過。 ハルビン駅北口前で右折して、地段街を通過し松花江方面にバスは進む。前日訪ねた『聖ソフィア大教堂』の前を再び通過。『金太陽精品商城』ビル。『石头(頭)道街』を進む。『ハルビン(哈爾浜)市兆麟小学校』。『原希尔科夫公爵私邸(兆麟小学)』旧日本人学校『桃山小学校』。松花江と太陽島を結ぶロープウェイを再び。多くの中国人の『シルバーダンス』。女性グループが仲良く。松花江右岸のロープウェイ駅に入るゴンドラ。そして暫しの自由時間になり、4人の方はロープウェイで太陽島を往復すると。我々は、街並み散策に。そして広場脇の『ゲテモノ』の串焼き売り場を発見。正面にはなんと「サソリ(蝎子虫)の串焼き」が。別の角度から。上のものは蚕の蛹であろうか?「セミの幼虫」か?この幼虫は?俗に「中国人は足の四本あるものは机以外全て食べる」と言われているように、中華料理では様々なものを食材にしてしまうほどの研鑽を積み重ねています。そして、六本の足がある昆虫もまた、食材の例外ではないのです。「ムカデ(蜈蚣)」「友誼西路」を西に進む。前方には高層マンション群が見えたが、7~8割は空き家で投資の対象になっているのだと。左手には「上江街」と高層アパートが。「MY・PARTY电音工厂(電音工場)」。「友誼西路」脇のモニュメント。様々なマンションが。左手は「兴(興)江路」途中、ロシア&東北民芸品店に立ち寄る。ここも今回のツアーの予定に入っているのであった。「椴树雪蜜 LINDEN SHOW HONEY」はユーカリ蜜であろう。中国で販売されている蜂蜜は水飴に香料で香りを付けただけ、転化糖などの合成物を添加して、人為的に模造はちみつを作ったものも多く、中国国内で流通しているハチミツの多くは、何等かの手を加えられている、と言われています。中国は世界第一位のハチミツ生産国ですが、輸入大国でもあり、各地から上級品を買い付け輸入しています。中国の消費者は、中国産のハチミツを信用せず、大抵中に何か入っているか、水飴に色を付けたものというように考えているようで、輸入品を購入する機会が増えていると言います。500gで約1100日本円と確かに安いが、中身は????「中国産 乾燥黒木耳(きくらげ)」。『音乐公园』の赤いモニュメント。音楽の都と言われるハルビン市。モニュメントには楽譜が。この写真のオリジナルを我が妻に見せると、この楽譜の曲は『中国国家 義勇軍行進曲👈リンク 前奏と途中の歌の中の一部』であるとのこと。松花江岸にある公園内の遊歩道の正面玄関と建築物。灯台であろうか。友誼西路を更に進む。そして昼食はもちろん中華料理をターンテーブルで。時間は13:07。そして次の訪問地『長春』には新幹線で移動する為、ハルビン駅(哈爾浜駅)北口へ。ハルビン駅(哈爾浜駅)北口正面。駅前の『伊維尔教堂(聖イヴェール教会)』。1907年建立の軍用のロシア正教会なのだと。ハルビン駅(哈爾浜駅)北口の大時計。十二弁の菊花紋の如く見えたが考えすぎか?セキュリティー検査入口ではチケッとパスポートを提示する必要があった。トランクのセキュリテイ検査が実施され、私がトランクに入れていた、100均で購入して持参したチーズカッターナイフと鋏は没収されたのであった。セキュリティー検査は空港よりも簡単とのことであったが、成田空港では通過したものがひっかかったのであった。出発時間まで待合室にて待機。ここはチケットの持っている人のみ入れる場所なのであった。時間は14:21。出発便電光案内ボード。利用便はD-136、15:35発。牡丹江駅発吉林駅行き。LED電光掲示板見た目では常時点灯しているように見えますが、実は超高速で点滅を繰り返しています。(この高速で点滅する現象をフリッカーと呼びます)。よってシャッタースピードを速くしなかった為に映像が途切れてしまいました。黒竜江省のハルビンから吉林省の長春まではおよそ270km。私のチケット。もちろん二等座。金額は81元≒1350円。東海道新幹線の東京-浜松間に相当する距離がこの値段で移動できるのであった。ちなみに列車番号の先頭に「D」がつくのは在来線の線路を走るタイプの新幹線(秋田新幹線などのイメージ)で、所要時間が若干長く、D136の場合は所要時間が約1時間30分となっていた。チケットには英文でフルネーム、パスポート番号の一部(下2桁のみ**)、改札口NOも印刷されているのであった。中国の鉄道は基本的に列車改札で、時間になるまで改札口が開かなかった。それで、列車出発の20分前、改札開始まで改札口近くで待機していたのであった。D列車はホームを在来線と共有しているので、改札も自動ではなく有人。改札を通過し2番線ホームへエスカレーターにて下りる。エスカレーターが下る途中、1番線ホームに安重根が伊藤博文を暗殺した場所が解るとのことであったが、場所を特定できなかったので1番ホームに向けてとりあえずシャッターを押す。エスカレーターを降りた後方との事であったが、ネット情報によると実は斜め前方なのであった。 『https://www.youtube.com/watch?v=2GamxJgDknY』よりこちらの四角のプレートが埋め込まれた場所が伊藤博文が倒れた場所であると。 『https://www.youtube.com/watch?v=2GamxJgDknY』よりこの写真はイタリアから導入した新幹線車両CRH5であろうか?2号車の乗車位置に向かって進む。日本と違い、中国ではホームには安全ゲートは付いていなかった。そして定刻にD-136、15:35発に乗り込む。大きい荷物を持って乗車する場合、荷物の置き場を確保しなければならなかった。今回の新幹線では荷物置き場(上下二段、2~4個収納できる)は列車の連結部近くにあった。この荷物置き場は予約できず早い者勝ち。思いの外静かで車両の揺れも殆どなかった。時速243km/hを表示。両側に田園風景がひたすら続く。『新洋丰(豊)肥业(業)』の大型サイロであろうか?長春の街並みが見えて来た。『德惠西站(駅)』は長春駅の2つ手前の駅。そして定刻に長春駅に到着。全員が降りる前に乗ってくる乗客が数名いたのであった。『长春站(長春駅)』案内板。駅構内案内表示。そして長春駅の前で待っていてくれた大型観光バスに乗り、夕飯会場へ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.07
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2日目のハルビン市内観光に向けて8:30にホテルをマイクロバスで出発。霁虹街を東に向かって進む。ハルビン駅の前を通って、駅の右脇にある『霁虹桥』を渡る。南崗区と道里区にまたがる 起工:1926年、竣工:1927年。歴史は「中東鉄路(東清鉄道)」時代に遡り、築百年以上を数える。一時期、音をとって継紅橋と呼ばれたこともあるとのこと。霁虹桥の方尖碑に1926の文字が。哈爾濱市文物保護単位に認定。見事な欄干の造形。ハルビン駅への線路が下方に。『哈爾浜医科大学第四臨床医学院』この旅行の全行程を案内してくれた王さん(左)とハルピン市内観光添乗員の蘇さん(右)。ハルビン駅前に紅軍街が通っていた。南東に200mほど進むと右側にハルビン鉄道局外経貿公司の建物が街路に沿って建っていた。ここが、哈尔滨の『旧日本総領事館跡』杉原千畝は外務省に採用され、ハルピンの日本総領事館にロシア係として勤務していたのはこの場所だったのだろうか?場所は紅軍街108号。現在は『哈爾浜鉄路運輸法院』。『哈尔滨鉄路 対外経貿有限公司』のプレート。1924年創建後、南満州鉄道ハルビン事務所として使用されたが、1936年に総領事館として再使用されたのだと。『南満州鉄道株式会社 哈尔滨事務所旧址』のプレートが左に。『历史建筑(歴史建築)』の銘板も。1924年建築開始、1925年落成、1936年日本総領事館になったと。『哈爾浜鉄路運輸法院』を振り返る。『民益街』との立体交差。『哈尔滨鉄路局 哈尔滨通信段』と書かれたプレート。中国語『段』は区.部門とのこと。紅軍街の中央分離帯には花々が。『红博广场』から『北方世貿中心ビル』。『红博广场(旧大広場)』の旧ニコライスキー寺院跡のモニュメント。ハルビン旧大広場(現、紅博広場)の中央寺院跡。中央寺院は戦後もしばらく残存していたが、1966年の文化大革命で惜しくも破壊された。今は唯一背後の博物館の建物のみが健在だと。広場の地下には地下鉄が走っていると。『松雷商業大廈』。东大直街の『秋林(ちゅうりん)公司』。ハルビンでは有名な食品会社がやっている百貨店。大列巴という人の頭くらいの巨大なパンが有名であると。『華邑童装世界』は ハルビン市の靴店。『圣安口腔』医院ビル。右手に『ハルビン聖心天主教堂(はるびんせいしんてんしゅきょうどう、中国語簡体字: 哈尔滨圣心天主教堂)』。中国黒竜江省ハルビン市南崗区にあるカトリックの教会であり、司教座聖堂。正式にはハルビン・イエス聖心主教座堂(簡体字: 哈尔滨耶稣圣心主教座堂)と呼ばれ、黒龍江教区の中心的な存在であると。『プロテスタント教会』。『歴史建築』、1916年建築。内部では聖歌が歌われていたので暫し聴き入る。『ウクライナ教会』。住所は、ハルビン市南崗区東大直街268号。『历史建筑(歴史建築)』、1922年建設開始、1930年完成。元々は東正教聖母帲幪教堂、現在は聖母守護教堂。1922年建、1930年重建、鉄筋コンクリ柱梁煉瓦造り。『圣母守护教堂(聖母守護教会)』は1981年に『黒竜江省文物保護単位』に指定されていた。当聖堂にはハルビン聖母守護教堂、ウクライナ教堂、ウクライナ教会、聖母守護教会、聖母帲幪教会、中華東正教会ハルビン教会などの別称・表記が存在する。日本語のみならず中国語でも表記には様々なものがあると。左手に『ウクライナ教会』、右手に『ハルビン聖心天主教堂』。再びバスにて『红博广场(旧大広場)』の『旧ニコライスキー寺院跡』のモニュメントの横を通過する。『红博广场(旧大広場)』には旧ソ連紅軍との協力を称える像も建っていた。『哈尔滨』駅東口が正面に。そして『哈尔滨 旧ヤマトホテル』を訪ねた。『龙门贵宾楼酒店』哈爾浜駅前に位置する、かつては満鉄が経営したヤマトホテルで、もっと以前は東清鉄道(ロシアが満州支配していたときの満州北部の鉄道)の直営ホテルだった建物。ステンドグラスの如き美しい色合いの車寄せの屋根。1903年(明治36年)、ハルビン駅前に東清鉄道ホテルとして建てられた。日露戦争が勃発するとロシア軍の野戦病院や軍司令部として使用され、終戦後はロシア軍将校クラブ(1907年~)、中東鉄路理事会館(1921年~)として使用された。1935年の北満鉄路買収により満鉄の所有となり、1937年(昭和12年)2月1日に客室数56室(浴室付き45室)のホテルとして開業。この改修工事は北満鉄路技師のスピリドフ・セルゲーウィチが担当した。戦後は哈爾濱軍事工程学院、鉄路医院を経て1968年よりハルビン鉄路局招待所として使用されたが、1996年にハルビン鉄路局が経営するホテル龍門大厦に統合・改修され、1997年より龍門大厦貴賓楼として営業している。『歴史建築』旧東清鉄路管理局旅館、旧ロシア哈尔滨領事館。1901年建設開始、1903年落成。正面入り口。内部の回転ドア。回転ドアの前からロビー正面を。ロビー正面に見える大理石の階段。当時の写真。ホテルロビーの左右とチェックインカウンターにホテルの歴史資料が多数展示されていた。東清鉄道ホテルとして落成されてから、哈爾浜鉄道局による経営による現在まで114年の歴史を誇り、1937年から1945年はヤマトホテルであった。歴史資料写真をズームで。当時の名だたる宿泊者の写真であろうか?1937年、愛新覚羅溥儀の弟、溥傑(ふけつ)は日本人女性、嵯峨浩(さが・ひろ)と結婚したのだ。(ピンボケですいません)日本人の結婚式の写真。ホテル内にあった模型で当時の様子を再現したもの。別の角度から。ホテル内通路。ヤマトホテルの大食堂。現在の名前は伏爾加饗庁。壁の絵画。バーラウンジとカウンター。廊下は、アカデミー賞受賞映画「ラスト・エンペラー」をほうふつとさせるような雰囲気。再び回転ドアを内側から。一度、宿泊してみたいホテルなのであったが・・・。そして隣りにあった小さな建物の上には巨大な樽が2個鎮座していた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.06
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前方左側手前に松花江に架かる『濱州鉄路橋(ひんしゅうてつろきょう)・松花江鉄橋(しょうかこうてつばし)』そしてその後ろに『松花江大橋』が。松花江岸には多くの釣人が。『松花江大橋』を渡る中国・新幹線。在来線も通過。川岸の遊歩道にあったのはトナカイの像であろうか?白は冬の氷祭りを意識したものであろう。船上レストランと日本では余り見かけない巨木の柳並木が続いていた。振り返ると巨大な噴水の最頂部まで虹が上昇していた。こちらは白鳥か?『濱州鉄路橋・松花江鉄橋』。濱州鉄路橋は1900年から建設が始まり1901年に完成した。1027mの長さがあり、東清鉄道で最も長い橋梁であった。2014年4月に哈爾浜-斉斉哈爾間高速鉄道の橋梁・松花江大橋が完成し、鉄道橋としての使命を終えた。2016年には中東鉄路公園とともに歩行者専用橋として整備された。鉄橋を支える石の橋台は日本人によって作られ、鉄材はワルシャワから運ばれたと。石が上流方向にやや突き出ているのは、春先の流氷への対応であると。美しい姿の隣の『松花江大橋』。鉄橋を支える石の橋台は日本人によって作られ、鉄材はワルシャワから運ばれたと。当時の国際都市ハルビンを彷彿させるのです。石が上流方向にやや突き出ているのは、春先の流氷への対応とのこと。『濱州鉄路橋』へ上がる階段が前方に。『濱州鉄路橋』へ上がり鉄路橋を対岸に向けて歩く。線路が敷設されている中央が遊歩道となっており、両側には自転車や小型バイクが通れるようになっていた。歩道の途中には休憩、展望用のベンチも設置されていた。鉄橋のたもとの説明板には、この橋『満州鉄路橋』・松花江橋梁はについて次のように記されていると。元は中東鉄道西部線(浜州線)の第一鉄橋。中東鉄道沿線では橋脚幅が最大の単線の鉄橋。当時は「第一松花江大橋」と呼ばれていた。ロシアの橋梁専門家、中東鉄道局橋梁主任技師「リエンドフスキー」が自ら監督し、技師「アリエクシエルオフ」が建設の責務にあたった。1900年5月着工。1901年10月開通。鉄橋の長さ949.185メートル。鉄橋の石の橋台に「1900」という数字が見えます。この橋の建設が始まった1900年を指します。ウラジオストク→綏芬河(すいふんか)→ハルビンと続く東清鉄道は、この鉄橋で松花江を渡り、さらにチチハル、満州里、チタ、そしてモスクワへと続いて行ったのだと。東清鉄道で最も長い橋梁であった。2014年4月に哈爾浜-斉斉哈爾間高速鉄道の橋梁が完成し、鉄道橋としての使命を終えた。2016年には中東鉄路公園とともに歩行者専用橋として整備された。1901年当時の建設写真。こちらも同様。竣工時の写真。美しい曲線美の、隣の『松花江大橋』。1910~15年の写真。1940年当時の写真と戦後1962年の解体途中の写真。『松花江』の上流側を見る。『松花江』はアムール川最大の支流で、長白山系の最高峰、長白山(朝鮮語名:白頭山)の山頂火口のカルデラ湖(天池)から発し、原始林地帯を貫き吉林省を北西に流れ、吉林省長春の北で伊通河が合流する飲馬河をあわせて松嫩平原に入り、白城市(大安市)で嫩江をあわせて北東に流れを変える。嫩江合流までの松花江は、満州国時代から1988年までは第二松花江と呼ばれていた。この区間は長さ795km、流域面積78,000平方kmである。嫩江の長さ1,370km、流域面積290,000平方kmよりも小さい。嫩江合流後、しばらく吉林省と黒竜江省の境の東北平原を流れてから黒竜江省に入り、ハルビン市街区のすぐ北を流れる。その後牡丹江などの大きな支流をあわせて三江平原の湿地帯に入り、ロシア国境の黒龍江省同江市付近でアムール川に合流する。長さは1,927km、流域面積は212,000km2である。冬季は凍結し、春になると雪解け水によって最大流量に達する。松花江の長さは、中国で3番目、①揚子江、②黄河、③松花江であると、後に現地添乗員の王さんから。『松花江』の上流側手前を見る。右岸にはハルビン市街の高層ビル群が林立している。『濱州鉄路橋』の途中には透明なアクリル板で松花江の水面を見下ろせる場所も。そしてこれから先は鉄骨部分は全て撤去され、線路面のみが歩道として復元されていた。我々もこの場所までとし、引き返したのであった。対岸は満州里方面。鉄骨部分の美しい影が水面に。旅友と記念撮影。『松花江大橋』の下部からは2010年全線開通した『松浦大橋』が見えた。松浦大橋は全長4.027キロメートル、双方向8車線で両側には幅2メートルの歩道も設置されているとのこと。斜材ケーブル108本から構成される「逆扇型」の二面ケーブルは、橋主体の476メートルの鋼コンクリート合成梁、橋主体の橋面、橋の最大積載車輌を合わせた合計3万トンの重量を支えており、268メートルのメインスパンは中国の大規模な斜張橋としては第8位に位置すると。この日は流れも静かで多くの中洲も姿を表していた。先頭の電気機関車が。そして『和谐』の文字が。最後尾。『中東鉄路・橋梁篇』。東清鉄道(とうしんてつどう)はロシア帝国が満洲北部に建設した鉄道路線。満洲里からハルビンを経て綏芬河へと続く本線と、ハルビンから大連を経て旅順へと続く支線からなる。時代に合わせて中東鉄道、東支鉄道、北満鉄路あるいは北満鉄道と呼ばれていた他、ロシア側でも呼称は数度変更されている。『濱州鉄路橋』を引き返す。線路横の屋根は、この奥の高層住宅の防音対策であろうか?旧鉄橋の地上部分も『中東鉄道公園』になっていた。ここでは「滨(濱)州鉄路橋」と記されていた。浜州とは、「哈爾浜」と「満州里」のことで、現在は2つを「滨州線」が結んでいるのだと。昔の駅の再現。駅の先には『滨州鉄路橋』が復元されていた。列車を待つ人々の姿の像。ベンチに座り列車を待つ母子像。『中東鉄道公園』内に展示されていたのが『黃継光号』その後ろに、ハルビン駅を模した『中東鉄路印象館』の姿が。名前は新中国の国民的英雄-『黄継光』から1956年に命名。『中東鉄道公園』紹介の石碑。中国語、英語、ロシア語で説明されていたが日本語はなかった。とりあえず英語版を撮影したが・・・・。『中東鉄路紀念塔』正面から。『兆麟公園』入口。友誼路のバス停の時計は未だ7:30過ぎ。『哈尔滨市江沼小学校』の正面。ホテルに戻り朝食会場へ。バイキング方式の朝食を楽しむ。時間は7:45。饂飩の如きものも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.05
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『中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅・2日目は5時前に起床。日の出の時間は4時前で、窓のカーテンを開けて外を見る。この日も晴天、時間は5:20。ヨーロッパの宮殿の如き建物は、松花江(しょうかこう)ロープウェイ乗り場の建物。5:30に部屋を出て松花江岸の早朝散歩に旅友Sさんと向かう。部屋の前の通路。中央大街では早朝から清掃の方々の姿が。この後の中国国内の朝の清掃作業には驚きの連続なのであった。 KFC(ケンタッキー・フライド・チキン)の店。松花江に近づくに連れて高層ビルも目だって来た。右手に『哈尔滨市江沿小学校』。場所は哈尔滨市道里区中央大街西头道街57号。石畳も一旦ここで終わっていたが。前方に『人民防洪勝利記念塔』が僅かに姿を現す。『歩行街』を友誼道に向かって歩く。友誼道の下の地下道を進む。地下道の階段を上ると正面に見えたのがスターリン(斯大林)公園内の『人民防洪勝利記念塔』。1958年に建設された記念塔。13mの円柱塔と7mの古代ローマ式半円形回廊からなり、塔の底部には11の半円形の溜池がある。1956年の大洪水と闘った全市民の功績を称えたもの。塔の頂上には農民や職人、知識人が心をひとつにした勇ましい様子を表現する彫像が飾られていた。『哈爾浜市不可移動文物 哈爾浜市人民防洪勝利紀念塔』。塔の根元を取り巻く段々になった池があって、赤い線と文字が出ているのを見つけた。それぞれの池の高さが、1932年と1957年の松花江の洪水の高さだと。下の池の高さが1932年8月12日の洪水の水位、その上の池の高さが1957年9月6日の洪水の水位であったと。そして更にその上には、1998年8月22日の洪水の水位120.89mが、その時の最高流水量16600m3/sと表示されていた。『人民防洪勝利記念塔』を取り囲む噴水広場。中国の黒竜江省の中心都市、哈爾浜(ハルビン)市を流れる松花江(しょうかこう)(ソンホワチアン)の南岸沿いに広がる、幅50m、緑豊かな全長1750mの細長い公園。1953年に建設された。園内には、松花江に沿って続く遊歩道があり、彫塑(ちょうそ)が配置されている。この公園では、夏はボートや釣り、冬は凍結した松花江でのスケートが楽しめると。斯大林(スターリン)公園。元々は『江畔公園』という名だったロシアと仲が悪くなった後でもそのままの名前というのが中国らしい?松花江(しょうかこう)と100年の歴史を持つ松花江鉄橋(旧橋)の隣に松花江大橋が架かる。冬季には-30℃にもなり完全凍結し真っ白な世界に変身する『松花江』であると。ズームで。上流側を望むと松花江を渡る観光ロープウェイ・「松花江索道」の姿が。江岸から『人民防洪勝利記念塔』を見る。川の中には大きな噴水が1本。早朝水泳を楽しむ人の姿が。対岸の松花江の中洲の太陽島にあるロープウェイの駅のある建物。船上レストラン。こちらの船上レストランには中国国旗がはためいていた。いずれも太陽島への渡し船乗り場も兼ねていた。幼児の像と早朝ダンスを楽しむ人々の姿が。緑道下には江畔のレストラン。別の早朝ダンスのグループ。踊る像。緑道は早朝からモップで清掃されゴミひとつ落ちていなかった。渡し船乗り場。皆さん楽しそうに音楽に合わせて。三角屋根の江畔餐庁。対岸の白き橋。屋外で卓球を楽しむ人々。私もやりたかったが・・・・・。白き花が。クマノミズキの花であろうか?こちらは体操のグループであろうか?斯大林街沿いにあった『哈爾濱友誼宮賓館』裏口近くにあった門。『友誼門』と書かれた扁額。中心街から約3km、松花江程近くに建つホテル。緑の瓦屋根は故宮を思わせる外観。正面は『哈爾浜友誼宮西餐庁』。こちらは裏側であるようだ。友誼宮はホテル、結婚式場、宴会場等を揃えた大きな建物です。建物は友誼路から大堂、主楼、後ろが西餐庁、右に迎賓楼、迎賓閣、左に四季庁、貴賓楼、友誼会堂。多くの建物を持っています。後ろの庭園の先には友誼門があり、その先は松花江が流れています。歴史建築は1956年建と比較的新しくバロック建築で無く方中国伝統建築風格です。鉄筋コンクリ柱梁煉瓦造り、珍しい建物です。こちらが正面。【https://www.tripadvisor.jp/Hotel_Review-g297433-d455933-lReviewHarbin_Friendship_Palace_Hotel-Harbin_Heilongjiang.htm】より『友誼会堂』。そして前方右にこちら側の松花江索道(ロープウェイ)の駅のある建物が。ロープウェイのゴンドラ入口を見上げる。まだ運転は開始されていなかった。時間は6:04。そして見上げると、松花江方面から巨大な白き噴水が。噴水の高さは50m近く上がっているであろうか?早朝から花壇に花を植える方々。6時前からこの日の仕事が始まっているようであった。ベコニア、マリーゴールドの植え付け中。見事なモニュメント。本物の植栽ではなさそうだが。『一帆風順(いっぽう ふうじゅん)』の文字が。意味:ひとたび風を受ければ全て満帆となる。解釈:今が悪くても悲観せずに風が満ちるのを待とう。 また、ただ待つのではなく、自分から働きかけよう と。噴水の飛沫が風に流されてこちらに。歩いて行くと虹が姿を表した。『人民防洪勝利記念塔』前まで戻る。この噴水広場も、散水車が走り清掃中であった。虹の位置が次第に移動し、噴水の柱から曲線状に。ズームで。虹を追いかける。『少先隊員之歌』と題した作品。『少先队呙之歌』。「少先」とは少年の意であろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.04
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更に中央大街の夜景を楽しみながらハルビン駅方面に進む。『東風街』。黄色い三角屋根が付いた建物がデパート『中央商城』。『中央商城』。ハルビンといえば、毎年1月から2月まで氷祭りが行われ、雪像や氷の彫刻などが展示されることが知られているが、これは氷ではなく人工水晶の像であるようだ。『金安国際デパート』。『現・大安商厦』1階は有名な餃子屋さん?『旧ユダヤ国民銀行』。1923年造のルネサンス様式。『霞曼街』。『現・松雷国際商厦』雰囲気のあるドーム屋根であるが改装工事中。パトカーであろうか?『黒天鵝生活館』。人出もかなり増えてきていた。『旧協和銀行』。1917年。マンサード屋根のあるフランス・ルネサンス様式。噴水の後ろに『LOVE』の文字が。『L❤VE』。『人民同泰』薬店。1921年の建物。現在は「薬」の名前だけを残したデジタル機器、カメラなどの店になっている模様。『旧アグロフ洋行』所在地:中央大街21号 竣工:1923年 地上3階建であったが、1951年に増築され4階建となった。木骨レンガ造りの折衷主義建築。『旧ハルビン市公署』。所在地:中央大街32号。夜の石畳を再び。『中央大街』入口ゲート。经纬街のロータリーに在った照明モニュメント。様々な色と模様が次々と。横断歩道を渡るとアメリカンチェリーを売る出店が。そして暫く歩くとハルビン駅が姿を表した。『哈爾浜』の文字も。時間は20:38。『哈爾浜站』。ハルビン駅は、中華人民共和国黒竜江省ハルビン市南崗区にある駅。以前は松花江駅と呼ばれ、通称は秦家崗駅である。ハルビン西駅と並ぶハルビン鉄路局管内の特等駅である。『哈爾浜・HARBIN RAILWAY STATION』。北広場から『哈爾浜站』正面を。黒竜江省の省都の駅、立派な駅舎だ。ハルビン市の人口は1064万もあるそうだ。『哈爾浜站』構内。中に入るといきなりセキュリティーゲートがあり、これ以上は利用客以外は入れないのであった。翌早朝の出発便の案内であろうか?そして北口広場脇の『伊維尔教堂』ズームで。こちらは駅の西側で、地図によると『安重根義士記念館』は東側。どうにも『哈爾浜站』の東側に回る道が見つからないので諦めて戻ることに。『中央大街』入口門ゲートまで戻る。『中央大街歴史文化街区 保存建築分布図』。屋台のオネイサンも頑張っていました。ショッピングエリア・『EURO PLAZA』。再び雪の結晶を。再び『中央商城』。満月が上空に。『天鵝之恋』と第する人工水晶の像。「鵝」はガチョウのこと。並木のイルミネーションを楽しみながらホテルに進む。赤➡青➡緑➡白と変わっていくLED。『モデルンホテルハルビン(哈爾濱馬迭爾賓館)』。そして21:30過ぎにホテルに到着。その後、成田空港で購入したウィスキーでこの旅行初日の反省会を行い、爆睡。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.03
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『旧ラヴィノヴィキ大楼、旧遠東銀行』。所在地:中央大街111号竣工:1949年 折衷主義建築。『塔道斯西餐厅』。ハルビンで最も初期のロシア風西洋料理で、100年の歴史を持つ有名な白人レストラン。現在『塔道斯西餐厅』には多くの店が入っている模様。『中国建設銀行』は現代の建物か?『联谊饭店旧址』1907年建設。 黄金の像。場所:中央大街127。『P.A.ベルクウェキ(Birkwiky)ビル』。『歴史建築』1907年建設、1915~1920増築。右手が「西三道街」。今宵の宿・『金谷大厦』が見えて来た。西四道街入口の『中植大酒店』。1924年建設の『旧華栄』ビル。屋根には三体の黄金像が。西三道街入口の『中我商品城』。『金谷大厦』。西ニ道街角・『金谷大厦』前の建物は新しい建物か。白とピンクの高層マンション。『中央大街』の散策を終えバスに乗り夕食会場へ。右手に宿の『金谷大厦』が見えた。『兆麟公園』入口。『中国农业发展银行』ビル。旧日本人学校『桃山小学校』中央大街から東へ数百mの場所にある兆麟公園に接して「兆麟小学校」が建っていた。ここは1923(大正12)年に旧南満州鉄道と在住日本人の出費によって建てられた日本人学校「桃山小学校」だったところ。今も立派な正面玄関の建物が保存されていた。そしてロシア料理の夕食の店へ。泡の殆ど出ないハルビンビールを楽しむ。肉入りシチュー・ボルシチ。銘々皿に取り分けて。ブロッコリーのクリーム煮。そしてホテルに向かってバスは走る。漸く暗くなってきた。時間は19:05。そして今宵の宿・『金谷大厦』に到着。フロントロビーの壁の彫刻モニュメント。ホテルフロントロビー。そして9Fの我々のツインの部屋。窓からの夕景。街にも灯りが灯り始めた。そしてしばしの休憩後に夜の『中央大街』の散策に向かう。オレンジ色にライトアップされた歴史ある建物が続く。まだまだ店舗は営業中。『金太阳购物广场・Golden Sun Shopping Plaza』。『スポーツショップ』。スポーツブランドが集まるビル。『乔丹』はマイケル・ジョウダンのこと。サックスを奏でるストリートミュージッシャン。ズームで。『旧ハルビン市役所』。『中国建設銀行』。『西六道街』。再び先ほど見たバイオリンを奏でる女性たちの像。ネオンも益々カラフルに。馬迭爾賓館付属劇場の建物の側面。並木には様々な色に変わる電球が。『馬迭爾賓館(MODERN HOTEL)』。石畳の路面にも雪の結晶の如き模様が動きながら。 ・・・戻る・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.02
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ハルビン市内観光の最初の訪問場所・聖ソフィア大教堂に向かってバスは進む。「北麟街」と「北头道街」の交差点付近。 ホテル『王府井泛乐城』。『聖ソフィア大教堂(中国語: 圣·索非亚大教堂)』に到着し見学開始。住所:88 Toulong St, Daoli Qu, Haerbin Shi, Heilongjiang Sheng, CHINA 150010(中国語: 中華人民共和国黑龙江省哈尔滨市道里区透笼街 索菲亚教堂)聖ソフィア大教堂(中国語: 圣·索非亚大教堂)は、ハルビンにあるロシア正教会の聖堂。1903年3月に、東清鉄道が開通すると共に、ロシア帝国の軍隊はハルピンに侵入した。1907年に聖ソフィア大聖堂は帝政ロシアの兵士の軍用教会として創建されたと。1923年9月27日に、再建儀式を行い、それから約9年間に渡る拡張工事が行われ、今のような絢爛豪華で精緻な建築になったのだと。ハルビンを象徴するロシア建築であると。中国の中に西洋風の大聖堂、しかも屋根の形などは確かにロシアっぽい。聖ソフィア大聖堂はビザンチン様式の影響を受けた建築物と言われています。この聖ソフィア大聖堂の写真だけ見せて「どこの国?」と聞けば「中国」と答える人より、「ロシア」と答える人の方が多そうなイメージが。高さ53.35メートル、建築面積721平方メートルあり、典型的なビザンチン建築の一つ。現在の煉瓦建築になったのは1932年と。1996年11月に、この聖堂は中国重点文物保護文化財に指定された。1997年6月に、修復された聖ソフィア大聖堂はハルピン市の「建築芸術館」として公開中。聖ソフィア大教堂の横奥のホテルの建物?にも玉ねぎ型ドームが。聖ソフィア大教堂(中国語: 圣·索非亚大教堂)の中国語の説明板。教会内はハルビン市建築芸術館として公開されており、「東北のモスクワ」、「東方のパリ」とも呼ばれていると。ロシア特有の玉ねぎ型『クーポラ』。その他に「玉ねぎドーム」「クープ」「クーポル」「葱坊主」「ルーコヴィッツァ」などとも呼ばれている。玉ねぎ屋根は、ロシアの教会の典型的かつ独特なフォルムはどこから生まれたのか。これは、イスラム・モスクの屋根を真似たもの、ローソクの炎型をイメージしたものなど諸説あるが、西洋の教会建築の流れを汲んでいるという説が有力。ビザンツ(ビザンティン)からの建築技術は、宗教の布教活動とともにロシアにも浸透。屋根はドーム型にする(天国の象徴)というビザンツの建築スタイルを教会にも踏襲、ドーム型の屋根を持つ教会が建築されるようになったのだと。広場横の石製の街路灯の下部の彫刻プレートと聖ソフィア大教堂(動画から切り取り)。立派な石製の『街路灯』。鉄骨製のモニュメント『塔廊』。聖ソフィア大教堂の天井からは大きなシャンデリアが吊り下げられているのだと。これは外に展示されていた写真パネル。天井ドームを見上げた姿であると。こちらも写真パネル。哈尔滨市道里区の『透笼街』。バスの車窓から『中國太平保險控股有限公司』のビル。高層マンションの屋根にも玉ねぎ型『クーポラ』が。そして次に繁華街である『中央大街』の中央付近に位置した『馬迭爾賓館(MODERN HOTEL)』を訪ねた。モデルンホテルハルビン(哈爾濱馬迭爾賓館)は1906年に建てられたフランスルネッサンス建築の建物を使用したオールドホテル。レストランの他、プール、テニスコートなど施設もそろっているのだと。ホテルの内部に入る。通路の両側には様々な歴史物が陳列されていた。モデルンホテルハルビン(哈爾濱馬迭爾賓館)は1906年にロシアのユダヤ人『Joseph Caspe(ジョセフ・カスペ)』によって創立開業。Joseph Caspe夫人・マリア。クラシックなホテルの雰囲気がいたるところに。ホテル開業当時に使われた大きな古時計。日本でも知られている『郭沫若』氏の写真。文学者・歴史学者・政治家として日本と中国の架け橋となる活躍をした人物。昭和3年から約10年間にわたり、市川市の須和田で家族とともに暮らしたのだと。「郭沫若」の他にもエドガー・スノー、溥儀、14世ダライラマ、宋慶齢などの著名人も宿泊したことがあるとのこと。レストランには多くの客が。このホテルは、フランスのアールヌーボー様式の建築様式に属し、全体的な形はシンプルではっきりしており、窓、バルコニー、欄干の壁、ドームの姿は非常に豊か。『馬迭爾賓館(MODERN HOTEL)』の正面玄関。レストラン入口も兼ねているようであった。『全国重点文物保护単位(ぜんこくじゅうてんぶんぶつほごたんい)』全国重点文物保護単位は、中華人民共和国の文化遺産保護制度の一つ。中華人民共和国国務院が制定した文化遺産保護制度のうち、国家級の文化遺産に対して制定される名称。現在4296件がリストされていると。そして「黒竜江省級文物保护単位」でもあると。『馬迭爾賓館(MODERN HOTEL)』の向かいには『旧・マルス、現・華梅西餐庁』が。所在地:中央大街112号木骨レンガ造り・折衷主義建築風格。かつて「カフェ・マルス」という喫茶店だった建物が、 現在「华(華)梅西餐厅(庁)」(Huá méi xī cān tīng)という名で ロシア料理レストランになっていた。ロシア料理店、朝焼き立てのパン、ボルシチが美味しい店とのこと。1925年に建設の建物なのであろう。中央大街には多くの観光客が。右手が『西七道街』。馬迭爾賓館劇場の建物の側面。『中央大街』を松花江に向かって歩く。中央大街(ちゅうおうたいがい)は、中華人民共和国黒竜江省ハルビン市道里区にあるハルビン市役所公認の、アジア最大の石畳の目抜き通り。ロシア統治時代は「中国人街」(ロシア語でキタイスカヤ)と呼ばれた。南北の直線の通りで全長1450m・幅21.34m(内、車道の幅は10.8m)。南端は経緯街(十字街)、北端は松花江防洪記念塔。ロシア統治時代の建築物が数多く残され、「東方のパリ」とも称される西洋風の街並みが一直線に北の松花江に向かう。道をはさみ、欧州風建築物が建ち並び、その数は71棟。ほかに、ルネサンス式、バロック式、折衷式など中国でも珍しい多種多様な市指定建築物が13棟、保護建築は36棟ある。現在の花崗岩で敷き詰められた道は1924年に建設されたものである。その後も改築が重ねられ、現在は中心通りは歩行者天国となり、その後の中国の都市の通りの手本となった。西七道街にあった『馬車の像』。観光客が幼児を乗せて記念撮影にTRY中。国に関係なく、いずこも同じ心温まる光景。「中央大街」、「西七道街」の案内表示板。中央大街に繋がる東側の道は、松花江川から「西頭道街」~「西十五道街」まで順番に名付けられていた。しかし中央大街の東側の道であるが何故か『西』の頭文字が。『西』に進むと中央大街に出ることが出来るからか?『馬迭爾賓館(MODERN HOTEL)』を振り返る。紅専街の角にあったのが日本人水上俊比左開業の『旧松浦洋行』(現新華書店)。旧松浦洋行は、ハルビンの中央大街の真ん中辺りに建つかつての日系商社。1918年の竣工。中央大街では目立つ5階建て。赤いドームも目を引いたのであった。中央大街では唯一の旧日系ビルとのことだが、設計はロシア人建築家であると。木骨レンガ造り、優美なバロック様式。この旧松浦洋行、NHKの「世界ふれあい街歩き」で紹介されたのを見た記憶が。目についたのは、様々な彫刻が作されていたシンメトリーのコーナーファザード。コーナーに正面玄関を設け、上部にテラス、真鍮?の手摺が。両脇には縦長の窓がリズミカルの並んでいた。裸婦が俯いて。こちらの男の像も下を俯いて。下から見上げることを意識して制作されたのであろう。『歴史建築』『中央书(本、書)店』。絵を書く画家とその絵を見つめる婦人の像。中央大街の光景が描かれていたのであろうか?そしてその後ろに金色に輝く椅子。細かな幅10.8mの石畳が続いていたのであった。ロシアのエンジニアKomtrachokが1924年5月に設計し監督し、通りのための正方形の石を舗装。石は花崗岩で刻まれ、幅10cm、長さ18cmであると。緑の建物は『旧秋林洋行道里支店』『歴史建築』。もともとはフランス籍ユダヤ人サムソノフスキー兄弟の創設した商会であったが、1915年、南崗区にある秋林商行で大成功を収めたロシアの富豪イワン・チューリンが買い取り、秋林洋行道里支店を開設した。1937年以降は何度かオーナーが変わったが、それ以降1945年以前はソ連が管理し、1953年に中国に移管された。『全国重点文物保护単位』そして『哈爾浜市文物保护単位』。『西六道街』。左手に『遠東銀行』、建1919年、木骨レンガ造り・折衷主義建築風格。楽器を奏でる像。雨がポツポツと降り出して来た。『旧万国洋行』。黄色が目立つ『旧万国洋行』。『歴史建築』。1922年建設。木骨レンガ造り・折衷主義建築風格。雨の合間に、西五道街にあった『旧ユダヤ病院』に。現在はハルビン市眼科医院であるようだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.07.01
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンク6月19日(水)から8日間の旅程で、いつもの旅友Sさんと『中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ行ってきました。『中国・東北地方』とは『旧満州』地域のこと。日本で満洲と呼ばれる地域は、満洲国の建国時の地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲。この地域は、北と東はアムール川(黒竜江)、ウスリー川を隔ててロシアの東シベリア地方に接し、南は鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原(内モンゴル自治区)と接している。南西では万里の長城の東端にあたる山海関が、華北との間を隔てているのです。今回訪ねた都市は、ハルビン(哈爾浜)、長春(旧新京)、瀋陽(旧奉天)、丹東(旧安東)北朝鮮国境を流れる鴨緑江に架かる鴨緑江断橋、大連、旅順。旅友Sさんがいつものように朝8時前に我が家に愛車で迎えに来てくださいました。そして国道1号線に出て、戸塚料金所から横浜新道に入る。左手の首都高速方面に進む。狩場本線料金所を通過し首都高速神奈川3号狩場線方面へ。左手前方に横浜ベイブリッジが見えて来た。鶴見つばさ橋を通過。左手に羽田空港・新管制塔が。2010年に供用が開始されたD滑走路は、旧管制塔(背の低い方)からかなりの距離があるため発着する飛行機を視認しづらくなり、さらに高い管制塔が必要になった。そこで同年、現在の新管制塔が完成。その高さは約115.7メートル。首都高速湾岸線・習志野本線料金所を通過。そして東関東自動車道・成田空港ICにて降りる。成田空港第1ターミナルに向かう。成田国際空港第1ターミナルが見えて来た。時間は9:45過ぎで自宅から2時間弱で到着。そして待っていてくれた駐車場係員に車を預けターミナル内に。集合場所は、第1ターミナル4F出発ロビー北ウィングGカウンター。10時にカウンターに行くと既に添乗員の方が待っていてくれた。そして阪急交通社受付カウンターで今回の添乗員の男性から説明を受け、eチケットとその他書類そしてガイドレシーバーを受け取りチェックインカウンターへ向かう。添乗員の男性は鹿児島出身のMさんで、なんとなく山路徹(やまじ とおる)に似ていたのであった。実際の年齢を後で知りました(無理やり聞いた!!)が、10歳近くは若く見えたのであった。山路 徹は、日本のジャーナリスト。株式会社APF通信社代表取締役。 元妻はタレントの大桃美代子。前妻はタレントの麻木久仁子。この他、大桃との結婚前にも一般女性との結婚歴があると 「ウィキペディア」から。今回のフライトの「中国南方航空」チェックインの長蛇の列に並ぶ。チェックインカウンター。そしてスーツケースを預け、チェックイン完了し、搭乗チケットを入手。円を中国元に両替した後、出国カウンターへ。手荷物検査(Security Check)、出国審査(Immigration)も無事通過し搭乗ゲート14番へ。FLIGHTは中国南方航空12:50発CZ-6086便のハルビン(HARBIN)行き。機種はエアバス321、飛行時間は3時間と。この時点の現地の天気は雨との情報。利用する飛行機が到着。そして乗り込み定時過ぎに出発。座席は主翼の上ながらも窓側の『45A』この日の成田空港は晴れ間が。そして離陸後1時間も立たずにビールが到着。最初はビールはないとCAから言われたが、なんとか1本GET。国際便を利用して、ビールがないと言われたのは初めてでビックリ!!そして質素?な機内食が出てきた。そして日本海を横断しロシア領に向かって機は進む。この日の飛行コースをスマホから。ロシア領上空から進路を西に変更し、中国領土上空を長春方面に向かう。ウラジオストック手前で日本海に浮かぶ島が見えた。機窓からの景色を楽しむ。エアバスA321の翼端の立った部分・ウィングレット (winglet)。「中国南方航空」の文字も確認できた。松花江の流れが下方に見えて来た。そしてハルビンの街並みが現れた。高層マンション群。蛇行して流れる松花江。住宅街。郊外には緑が拡がる。飛行場横の住宅街。そしてハルビン太平国際空港(ハルビンたいへいこくさいくうこう、中:哈尔滨太平国际机场)に着陸。時間は現地時間16:10前。1979年に開港。1998年5月28日 : 拡張後の国の検査に合格し、ハルビン閻家崗空港(中文表記: 哈尔滨阎家岗机场)からハルビン太平国際空港に名称変更。管制塔。右手にもレーダー受信設備のついた管制塔?も。駐機場所に向かって進む。ターミナルビルには『哈尔滨』の文字が。飛行機からバスにての移動となった。タラップを降りバスに乗る。再びターミナルビルが。そして指紋登録のある入国審査(Immigration)もなんとか完了し、トランクを受け取り待っていてくれた現地添乗員と合流。マイクロバスに乗り駐車場を出て、初日のハルビンの市内観光へ向かう。時間は17時前。今回の参加者は総勢11名、ご夫妻1組、女性単独参加者4名、女性2人参加1組そして男性単独参加者1名そして我々男性2名参加であることが、この後に解ったのであった。平均年齢は、少なくとも私より上であることは間違いなし。よって女性優位のシルバー(シニア)ツアーなのであった。中には満州・ハルピンで生まれた方もいらっしゃったのであった。マイクロバスのフロントガラス越しにハルビンの『机場高速道路』を。「哈爾浜欢迎您(ハルビンにようこそ)」の文字が迎えてくれた。木々を刈り込んで作ったが如き見事なモニュメントが道路脇に。像のモニュメントも歓迎してくれた。高層アパート群。中国の車のナンバープレート。『黒』は黒竜江省(こくりゅうこうしょう):直轄市・省・自治区を示す1文字の漢字『A』はハルビン市(哈爾浜市): 直轄市・省・自治区内のエリアを示すアルファベット1文字最後に『5桁の数字またはアルファベット1文字+4桁の数字』であると、後に現地の添乗員から。そして工事中の高架橋脚の支保工と足場パイプ。以前は竹や曲がった丸太が用いられていたが、この日に見たのは細いながらも真っ直ぐな金属パイプであった。 ・・・つづく・・・
2019.06.30
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日本への帰国のこの日は、4:05にホテルを出発。遅れる旅友もなく、ほぼ予定時間にホテルを出発。朝食は、ホテルが造ってくれたサンドイッチをバスの中で食べる。30分弱走り、リスボンのウンベルト・デルガード空港(Aeroporto Humberto Delgado)に到着。荷物を受け取り、ドライバーに感謝を伝える。そしてBAカウンタに向かいチェックイン。空港ロビーの柱には、空調用のダクトが囲みユニークな姿に。セキュリティー検査、出国検査も順調に進む。リスボン空港からロンドン・ヒースロー空港へは7:15発のBA499便。JL、AA、QRとの共同運航便。そして時間どおりでの離陸。機窓からはテージョ川河口に架かるリスボン・ヴァスコ・ダ・ガマ橋(Ponte Vasco da Gama)が見えた。橋はリスボン側から川の上で下りながら大きく右にカーブ。このテージョ川も水源はスペイン。アラゴン州テルエル県のアルバラシン山地がその始まり。スペインではタホ川と呼ばれているのだ。。そしてひたすら直線にて対岸に。リスボン近郊のサカヴェン (Sacavém) とモンチジョ (Montijo) を結ぶ。全長は17.2kmあり、ヨーロッパで最も長い橋として知られていると。今回のツアーでは対岸側を訪ねる機会はなかったが。朝日が機窓に射し込む。そしてロンドンに向かってひたすら北上。北海が朝日に赤く輝く。時間は9:02。そしてテムズ川の河口が見えて来た。ロンドン市内はこの場所から上流、河口から90kmの距離。機窓にはロンドン郊外の住宅街が見えて来た。テムズ川が大きく蛇行し、その懐(ふところ)にはO2アリーナの白い円球形の建物が。ザ・O2アリーナ(ザ・オーツーアリーナ、 The O2 Arena) は、ロンドンの娯楽施設「The O2」内にある多目的アリーナ。最大2万人収容。2009年の世界体操競技選手権、2012年のロンドンオリンピック、パラリンピックの会場のひとつにもなっていると。ロンドン橋が中央に。『ロンドン橋落ちた』という童歌(en:Nursery rhyme)によって世界に知られている、極めて有名な橋。1750年にウェストミンスター・ブリッジが架けられるまでロンドン市内でテムズ川に架かる橋としては唯一のものであったと。ロンドン橋はタワーブリッジとキャノン・ストリート鉄道橋の間に位置する。市内のシティとサザークを結び、プール・オブ・ロンドンの西端に位置する。橋の南側にはサザーク大聖堂とロンドン・ブリッジ駅が、北側にはロンドン大火記念碑とバンク・アンド・モニュメント駅がある。そして大観覧車のロンドン・アイ、テムズ川、ウェストミンスター橋そしてビッグベンがはっきりと見えた。2013年の4月に、当時ロンドンに勤務する独身であった長男を訪ねて、この地を妻と訪ね、3人で歩いた場所が眼下に拡がっていたのであった。イギリスの首都ロンドンにあるウェストミンスター宮殿(英国国会議事堂)に付属する時計台の大時鐘の愛称・ビッグ・ベンをズームで。迷路に迷い込んだイギリスのEU離脱はどのようになるのであろうか?ハマースミスブリッジ(Hammersmith Bridge)。ロンドン、テムズ川にかかっている橋で、一番古い橋だと2003年に訪ねた際に知った。1824年にイギリス政府がテムズ川に橋をかけることを決行された1番目の橋。広いテムズ川に、十分な重さに耐えられるだけの橋の完成は難しく、1884年に漸く完成。そして着陸態勢に入りロンドン・ヒースロー空港へ。10:10に着陸し、ターミナル3からターミナル5へバスにて移動。ターミナル5内を移動。ターミナル5では柱間は長さ100メートルを優に超える構造。中央に出来た無柱の広々とした空間、建築部材の繋ぎ目部分が覆われる事なく露出されており、いたるところでジョイント部が見られたのであった。巨大な空間が拡がっていた。日本への便はBA005便であったが、出発ゲート表示がいつまでたっても出ないのであった。搭乗ゲートの表示を待つ旅友。添乗員が窓口に行き、情報を入手してくれたのであった。漸く搭乗ゲートも決定したBA005便、13:50発。そして搭乗へ。機体はB777。そして14:13に離陸。ヒースロー空港から北海を北上しデンマーク方向に飛行。最初の機内食を楽しむ。白海(WHITE SEA)上空を飛ぶ。食後は時差ボケ防止用に睡眠改善薬を1錠飲み、爆睡へ。旅友に起こされ朝食を。そして気がつくと機体は日本海を縦断し新潟に向かっていた。日本列島を横断し、成田空港に向かう。そして着陸体制に。成田空港・管制塔。そして無事到着し、入国審査もアッという間に通過し荷物受け取りへ。帰国時にタバコや酒が免税で買える成田空港 第2ターミナルに到着時免税店。そして無事にトランクも受け取り、お世話になった添乗員、旅友に挨拶しSさんの愛車で我が家に向かって東関東自動車道を走る。東関東道を首都高に向かって。習志野本線料金所を通過。横羽線が渋滞していたため芝浦方面経由に。レインボーブリッジを渡る。東京タワー。そして横浜新道へ。横浜薬科大学の校舎。そして我が市に。そして13:15過ぎに我が家まで送って頂いたのであった。ポルトガルそしてスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラを訪ねる6泊8日の旅であった。2008年に隣のスペインを訪ねたが、スペインと比べると、どうしても知名度は劣るが、歴史的価値の高い建築物や美しい街並みを数多く擁していたのであった。ただ、何度もブログの中で述べたが、見た目から派手で華やかというよりも、精緻かつシックで落ち着いた、歴史的郷愁を誘うような観光名所が多かったのであった。フランス・スペイン・イタリアといった世界的な観光大国が近くにある、というのもポルトガルへの日本人観光客が未だ比較的少ない理由ではとも。ポルトガルの観光名所のうち、ユネスコの世界遺産に指定されているのは、下記。そして今回訪ねた世界遺産は青字の6ヶ所とスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラの併せて7箇所なのであった。① アゾレス諸島のアングラ・ド・エロイズモの中心地区 - (1983年)② リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔 - (1983年)③ バターリャ修道院 - (1983年)④ トマールのキリスト教修道院 - (1983年)⑤ エヴォラ歴史地区 - (1986年)⑥ アルコバサ修道院 - (1989年)⑦ シントラの文化的景観 - (1995年)⑧ ポルト歴史地区 - (1996年)⑨ コア渓谷とシエガ・ベルデの先史時代の岩絵遺跡群 - (1998年)⑩ マデイラ島の照葉樹林 - (1999年)(自然遺産)⑪ アルト・ドウロ・ワイン生産地域 - (2001年)⑫ ギマランイス歴史地区 - (2001年)⑬ ピコ島のブドウ畑文化の景観 - (2004年)⑭ 国境守備隊駐屯都市エルヴァスとその防衛施設群 - (2012年)⑮ コインブラ大学 - アルタとソフィア - (2013年)2007年7月7日、ポルトガルの首都リスボン(Lisbon)で開かれた新世界七不思議の発表会で下記の如き場所が決定されたと。77か所の候補から主催者が21か所に絞り込んだ後、合計1億人近くがインターネットや電話で投票を行って決められたのだと。1. 万里の長城(The Great Wall)(中国)2. ペトラ遺跡(The pink ruins of Petra)(ヨルダン)3. リオデジャネイロのキリスト像(The statue of Christ the Redeemer)(ブラジル)4. マチュピチュ遺跡(The Incan ruins of Machu Picchu)(ペルー)5. チチェンイツァのピラミッド(The ancient Mayan city of Chichen Itza)(メキシコ)6. コロシアム(The Coliseum)(イタリア・ローマ)7. タージマハル(The Taj Mahal)(インド)そしてギザの大ピラミッドは特別選定となったと。ポルトガルではちゃっかりこれに便乗して独自に「ポルトガル七不思議」を同時に発表、今回のツアーで観光したものでは「ジェロニモス修道院(リスボン)」、「ベレンの塔(リスボン)」、「オビドス城」、「バターリャ修道院(1386年の着工から200年近くもの歳月をかけて完成した世界遺産)」、の4つが入選、残りの3つは「アルコバッサ修道院(1153年建立の世界遺産)」、「ギラマンイシュ城(10世紀の建築、町全体が歴史地区として世界遺産)」、そして「ペナ宮(シントラ)」であったと。上記以外でも今回訪れた「コインブラ(名門コインブラ大学の金泥装飾の図書館)」、「トマール(12~17世紀にかけて建築された世界遺産のキリスト修道院)」、「ナザレ(美しい海岸線を誇るリゾート地)」の他にも「エヴォラ(古代ローマやイスラム文化の面影を宿し、町全体が歴史地区として世界遺産登録)」など、興味深い観光地はまだまだあり、ポルトガルもまた機会があればもう一度訪れてゆっくり巡り歩きたい国であったのです。そしてポルトガルで出会った現地の人々は、皆のんびりとしていて、優しかったのであった。わからないことがあれば、嫌な顔をせずみんな丁寧に答えてくれたのであった。これも温暖な気候が影響しているのであろうか。「人の優しさ」と「物価の安さ」が印象に残っているのである。ヨーロッパの最西端に位置するポルトガル。日本人がこの国を観光で訪れる場合は、スペイン旅行のついでにということが多いのだと。しかし、思い起こせば、ポルトガルはヨーロッパで最初に日本と接触を持った国であり、「鉄砲伝来」等々、日本との縁(えにし)は古く深い。今、ポルトガルは財政危機に直面しているとのことであったが、前述のごとく人々は一様に親日的であり、ノスタルジーに似た温かさを感じたのであった。そしてロカ岬では、アジアの最東端・日本にいる私が、ユーラシア大陸の最西端に立っているんだなぁと思うと、感慨はひとしおなのであった。もそんないかにも「冒険」といった感じを味わえる旅であると感傷的になった自分がいたのであった。もし有り余る時間&金があるのなら、大西洋を越えてアメリカ経由で日本へ戻ってみたいとも。これが「地球一周の旅」!!それはまた、いつの日にか??とも・・・。そしてポルトガルは、最も早く大航海時代に乗り出した国であり、多くの植民地を抱えて、日本には、1543年には、火縄銃を所持した2人のポルトガル人が漂着し日本人に火縄銃を伝えたのであった。この時のポルトガル人が日本へ上陸した最初のヨーロッパ人。鉄砲は、その後、長きにわたる戦国時代に終止符を打つための要となったのであった。この後、通商を求める商人の動きが活発化し、商人と共に、宣教師フランシスコ・ザビエルを初めとする多くの宣教師も日本を訪れたのだ。両国間では、織田信長らの庇護のもと南蛮貿易が開始され、ポルトガルはマカオと九州を拠点に貿易を展開したのであった。そして1582年には天正遣欧少年使節団の派遣が行われたのだ。九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。1584年8月10日にリスボンに到着し、1590年に帰国したのだ。今回の旅で、この使節団が訪れたいくつかの教会を訪ねる事が出来たのであった。しかし1639年第5次鎖国令によりポルトガルとの国交が断絶。1587年、豊臣秀吉によりバテレン追放令が宣告され、自由な貿易は維持されたものの、宣教師は退去となった。江戸時代にもこの政策は踏襲され、ポルトガル人の寄港地は平戸と長崎に制限された。1636年の第4次鎖国令で、貿易に関係のないポルトガル人の入国は禁止され、ポルトガル人は長崎の出島に隔離された。1637年に島原の乱が起きると、幕府はキリスト教徒の結束をおそれ、1639年、第5次鎖国令によりポルトガルとの国交を断絶したのであった。その後も1647年にポルトガル国王が貿易再開のための使節団を派遣するなどしたが、幕府は貿易を拒絶したのであった。これらの歴史は高校の日本史で学んだのであったが、今回の旅行を機会にポルトガルとの歴史を更に詳しく復習してみたいと思っているのである。そしてポルトガル語由来の日本語も数多く在ることを学び直したのであった。 カルタ(歌留多)[カルタォン] cartão ボタン(釦)[ボタアォン]botão フラスコ[フラスコ] frasco カッパ(合羽)[カパ] capa シャボン[サバォン]sabão ビードロ[ヴィドロ]vidro タバコ[タバコ]tabaco コップ[コポ]copo まだまだ、ブランコ、ビスケット、バッテラ、カボチャ等々・・・・。最後に、31人の多人数のツアーであったが、寒くはなく、天候にも恵まれツアー仲間の皆さんは、親切そして賑やかで、楽しい旅であったのだ。ベテラン添乗員もヨーロッパ、スペイン、ポルトガルの歴史に大学教授の如くに詳しく大いに勉強になり、観光の手助けになったのであった。更にツアー仲間の皆さんは極めてpunctualであり、集合時間に遅れる方は皆無であった。ここまで私のポルトガル旅行記、いや個人的な『備忘録』にアクセスいただいた方々に感謝してこのブログを締めさせていただきます。ありがとうございました。さて次回の海外旅行はいつ、何処に?? ・・・完・・・
2019.03.21
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シントラ観光からホテルに戻り、再びオプショナルツアーの「ファドディナーショー」に参加。ホテルから再びバスに乗りファドの会場に到着。時間は19:37。会場は4月25日橋の北側方面にあった「Timpanas」。ポルトガルを旅するなら、是非一度は聴いてみたい民族歌謡・ファド。「運命」が語源とされるファドは、ポルトガルの人々の心に根差し、その旋律と歌声は聴く人の心に響くのであった。 「Timpanas」は民族舞踊とファドが楽しめる店だが、店はそんなに広くはなくてこじんまりとした感じ。そして20時になると食事が運ばれて来た。海藻入りのスープ。メインディッシュはポークソテーとポテト(美味)。ワインは飲み放題であったが、ビールは有料であった。食事が一段落し、周囲が静かになるとファドの開始。ショーは男女各二人のフォークロア(ダンス)男・女性のそれぞれの歌、ギターの競演。踊りも。かなりのご高齢のアコーディオン奏者のオバサン。ギター伴奏にてファド(FAD)の独唱が始まる。イタリアにカンツォーネ、フランスにシャンソン、アルゼンチンにタンゴ、ブラジルにサンバがあるように、ポルトガルにはファドがある。主に「Casa de Fado」と呼ばれる(または「Casa do Fado」)レストランなどで歌われる大衆歌謡で、主にポルトガルギター(ギターラ)と現地ではヴィオラと呼ばれるクラシック・ギター(スチール弦使用)、(時には低音ギター(ヴィオラ・バイショ)が加わる場合もある)で伴奏されるのだと。日本では、ファドは女性が歌うものとの認識が強いようだが、実際には性別に関係なく歌われる。また、ファドは暗く悲しいものだという誤解をもって紹介されることも多いが、我が町を賛美したり、街のうわさ話などを題材とした陽気なファドも数多くあるのだと。ファドツアーに参加した旅友もワインが進み、休憩中は賑やかに。デザート。因みに、「大航海時代に帰らぬ船乗りたちを待つ女たちの歌」という起源説は、1974年まで続いた独裁政権(エスタード・ノーヴォ)の文化政策の中で作られたでっちあげであると。アマリア・ロドリゲス⬅リンク(1920~1999)が国民的歌手として国内外で知られ、その人気は死後も衰える兆しを見せないのだと現地添乗員から。ファドは、日本ではそれほどポピュラーでないため、聴くには専門の店かコンサートに足を運ぶしかありません。しかし、ポルトガルではほとんどのレストランでファドを演奏しているので、楽に聴きに行くことが出来るのだと。ファドを歌う歌手は「ファディスタ(fadista)と呼ばれると。この日のファドも、一人のfadistaとポルトガルギター、そしてビオラの伴奏で演奏された。ファドの歌手には女性が多く、舞台にたつ際には全身黒い衣装を身にまとい、黒いショールを肩にかけるのが一般的なのであると。哀愁が漂い見事な声量のファドを楽しんだのであった。トイレから戻る途中からシャッターを。そして男女 2 組が踊る陽気なムードのフォークロア:ダンスが楽しめたのであった。打楽器には乳搾りの缶の如きものも。現地ではヴィオラと呼ばれるクラシック・ギター(スチール弦使用)。この会場、この演奏メンバーでの動画⬅リンクがネット上にありましたのでご紹介させていただきます。ポルトガルギター(ギターラ)。そしてフィナーレに向かって大御所?の男性がファドの独唱。2種類のギターが哀愁を奏でる。ファドはポルトガルの伝統音楽で、スペインのフラメンコによく似ていたが、踊りと一緒のフラメンコと違って歌だけであった。またフラメンコは、スペインの伝統音楽とはいえ、歌うのも演奏するのも、そして踊るのも、ロマである場合が多いのだと。ロマの音楽の大きな特徴として、テンポや強弱の激しい変化や交替、細やかなリズムや奔放な修飾、ソウルフルなヴォーカル、そして音高をすべるように移動するグリッサンドの多用などが挙げられる、とウィキペディアには。一方でファドには、そういう特徴はないようであったが、私の耳では???。そしてフィナーレの女性独唱。時間は22時前。そしてバスにて戻りホテルに到着。時間は22:30前。そして慌ただしく、シャワーを浴びトランクの整理を行い、翌朝の4時出発に備えてベッドに入ったのであった。 ・・・つづく・・・
2019.03.20
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「厨房(Cozaiha)」。もともと宮殿の他の部分から分離されて、その建設は15世紀前半にさかのぼりジョアン1世によるのもの。双子の煙突は極めてユニークな形状。19世紀末まではポルトガルとサヴォイの王国の武器庫となっていたと。入口上にある紋章は、ルイス1世(在位1861-1889)の王妃マリア=ピア・デ・サボイア(イタリア王ヴィットリオ=エマヌエーレ2世の娘)の紋章であると。左側がポルトガル王家の紋章で、右側の赤地に白十字がマリア=ピア王妃の実家サボイア(サヴォイア)家の紋章と。紋章の上にあるアルファベット「M」と「P」はMaria Piaの頭文字ということか?10以上ある薪コンロ、オーブン、動物を解体した調理台などがあり、煙突の真下には料理を温めておく保温棚があった。王室の宴会の準備に使用され、様々な銅や鉄の台所用品も展示されていた。手前にあるのは、丸焼き用の鉄串であろうか?そして周囲の壁は白一色であった。別の角度から。当時の保温庫。右手はオーブンの如き?高さ約33メートルの円錐形の煙突を王宮の台所内部から見上げる。この厨房は15世紀に造られたものであると。この煙突は、肉を焼いた臭いや煙を外に出す役目をしていたのであろう。空が見えたが雨は降りこまないのであろうか?厨房の隣にある「マヌエル様式の間」への入口。天井もユニーク。絵画と物入れ。正面から。「マヌエル様式の間」。マヌエル1世によって建てられた部屋であると。マヌエル1世(Manuel I、1469年- 1521年)は、ポルトガル王(在位:1495年 - 1521年)。傍流の六男として生まれながら、偶然が重なって平和裡に王位につき、さらにその治世においてインド航路の開設等の吉事に恵まれてポルトガル王国の黄金期を築いたことから、幸運王と称される。先王ジョアン2世の推し進めた中央集権化政策を継承し、海外交易による莫大な利益を背景に、ポルトガルの絶対王政を確立した人物と。天井には、眩いベネツィアングラスのシャンデリア。シャンデリアをズームで。中国からの陶器や、調度品など、当時の珍しい貴重なものが、沢山飾られていた。左側の銀製の鏡も見事。銀製の鏡とその下の暖炉。反対側。中庭。手洗い場であろうか。グロット(Grotto)という、昔のヨーロッパの城や大豪邸の中庭に設置されてる避暑のための小部屋のようなものであると。中庭の彫刻はロープをあしらったマヌエル様式のオブジェ。奥の部屋の壁には全面にアズレージョが。「風呂の洞窟」壁には噴水や庭園を描いたアズレージョが。正面から。タイルの壁に小さな穴があり、そこから水の噴流が風呂場に吹き出すようであった。今で言うシャワーのようなものか?天井。角の部分も面取りがされアズレージョが。土産物売り場。そしてシントラ王宮の見学を終え、広場に出る。王宮のテラスからみるシントラの街並み。山に張り付くように建つ上品な建物が美しかった。ここでしばしの自由行動時間に。城の如き建物が山の斜面に。シントラの王宮を振り返る。王宮前の広場の奥の正面に市役所の塔が。王宮広場前のレストラン。王宮の厨房から見た煙突が2本。ファッション アクセサリー店の建物に立つ塔。上部に鐘と時計が。この像は?メニューを持つオジサン。様々な人形が。オビドスで楽しんだ「Ginja」がここでも売られていた。ここでも一杯1ユーロ。狭い階段の両脇に土産物屋やレストランが所狭しと。店の壁にもアズレージョが。テージョ川に浮かぶキャラベル船であろうか?ポルトガル王?そして再び市役所のユニークな尖塔が見えた。4つ星ホテル・Tivoli Sintraの1階ロビーからガラス越しで「ムーアの城跡」を。ペーナ宮殿(Palácio Nacional da Pena)の見える場所を探したが・・・・。シントラ王宮前の街並み。サン・マルティン教会(St. Martin Church、 Igreja de São Martinho)を訪ねた。比較的質素な小さな教会であった。正面の祭壇。袖廊の上にも。祭壇前から入口を。反対側の袖廊の上にも。2階部分を見上げて。そしてサン・マルティン教会前のシントラ観光案内所 (Posto de Turismo Ask Me Sintra)。集合時間を待つ間にソフトクリームを楽しんだ。もう少し自由時間に余裕があれば、マリア2世の王配フェルナンド2世が建設したペーナ宮殿(Palácio Nacional da Pena)等も訪ねたかったが残念ながら・・・。そしてバスに乗り込み、ホテルへの帰路に。市役所前を通過。 シントラの新聞社・Tipografia Medina Sa。バルカル通り沿いのタワーが前方に。通信用のタワーであろうか?夕方の渋滞が発生。交差点でパーフォーマンスをする女性。そして前日の朝には塗装工事が行こなわれていたショッピングモール・Centro Comercial do Campo Pequenoのドーム。工事も終わりお色直しも完了。そしてホテルに到着したのであった。 ・・・つづく・・・
2019.03.19
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窓から外を見上げると、王宮前の山の頂にムーアの城跡が再び。見張り塔には旗が棚引いていた。窓の下には「皇太子の庭園(Jardim dos Principes)」が見えた。美しく幾何学的に刈り込まれた庭園の植栽。「紋章の広間」への壁の宗教絵画。「紋章の広間」への壁の宗教絵画。案内図。シントラ宮殿のハイライト観光の「紋章の広間」へと進む。「紋章の広間への廊下」。「紋章の広間への廊下」からの「紋章の広間」入口の彫刻も見事。マヌエル様式の豪華な門で部屋が仕切られていた。「紋章の広間への廊下」の壁にはドラゴンの紋章のタペストリーが。周辺にいちごや、ラズベリー?等々……植物がたくさん描きこまれていた。「紋章の広間」の入口横の絵画。マヌエル1世であろうか?次の、「紋章の広間(Sala dos Brasões)」はシントラ宮殿で最も見事な豪華絢爛の部屋。16世紀、ポルトガルの最盛期に君臨したマヌエル1世の絶大な権力をものがたる部屋。壁にはアズレージョで狩猟の光景が描かれているのだと。天正遣欧使節がこの王宮を訪れたときには、すでにこの「紋章の広間」は完成しており、使節もこの広間に通されたはず。壁と天井を埋め尽くす贅をこらした意匠に、遠く日本からやってきて、初めてヨーロッパの地を踏んだばかりだった彼らは、度肝を抜かれたに違いないのだ。大航海時代の覇者ポルトガルの財力を見せつけられたことであろう。部屋の中央に大きな机と椅子が。天頂はポルトガル王家の紋章。そして、その下に8人の王子の紋章が並んでいた。八角形の中に王室の紋章と竜が飾られていた。中央のポルトガル王家の紋章をズームで。コインを含んだ盾を十字状に5つ配置した紋章。また、ポルトガルの貴族の紋章が72個描かれていると。あのバスコ・ダ・ガマの紋章もあると。壁の凹んだ部分まで、びっしりと丁寧に、見事なアズレージョで彩られていた。アズレージョに囲まれた部屋。天使のアズレージョ。アズレージョを追いシャッターを次々と。ピンボケの写真も多く・・・。 そして次に「アフォンソー王 6世の部屋」彼はジョアン四世の子供だったのだが、子供のころに大病を患い、身体が不自由であったと。そのためか、政治家には向かず、不幸にも狂気に襲われ、1683年に死ぬまでの間、9 年間も弟によってこの部屋にに幽閉されていたのだと。宮殿内に鉄製のバーがある唯一の部屋。シンプルな内装のベッドチャンバー刑務所の床は、15世紀前半に建てられたイスラムのモザイクとタイルが混在していると。中国の調度品が数多く並べられた「中国の間(Sala Chinesa)」。シャンデリア。送られたマリア王妃。部屋の奥に飾られている白い置物は象牙で、18世紀にマカオから贈られたパゴダ(仏塔)。金箔を使った漆塗りの屏風。屏風はポルトガル語で 「 ビョンボ 」 と言うのだと。礼拝堂。この王宮で最も古い建物アラベスクの壁と床は、マヌエル王の王妃が、スペインのアルハンブラ宮殿を参考にして造らせたと。天井の幾何学模様はアラブ風。天井の飾りは「アルファルジュ装飾」と呼ぶのだと。天井に架けられている絵は、左手に地球を持つ神様を描いたもので、平和を願っているところであると。別の角度から。たくさんの鳩の絵がフレスコ画で描かれていたが、これ、全部微妙に向きが違うのであった。奥の十字架をズームで。十字架の下のアズレージョ。床のタイル。「アラブの間(Sala dos Arabes)」へ。もとは、ドン・ジョアン一世の寝室として造られた部屋であると。ジョアンⅠ世の長子ドゥアルテⅠ世は、この宮殿を非常に好み、長く滞在した。彼は、建物の使い方や、進化を了解するのに非常に価値のある記述を残している。この宮殿を好んだ証拠として他に、ドゥアルテⅠ世の嫡子アフォンソⅤ世はシントラで1432年に生まれ1481年にシントラで亡くなっていると。アフォンソⅤ世の子ジョアンⅡ世 は、シントラ宮殿でポルトガル王即位を宣言したと。「アラブの間」にある噴水。ズームで。アラビア人がこの水盤を中央に据えてパーティーをしたことから由来しているのだと。この王宮は、最初はムーア人リスボン総督の住居であったと。壁のタイルが美しかった。「客間(Quarto de Hóspedes)」。ジョアン一世が祈りの部屋、着替えの部屋として使用したのだと。ジョアン1世の天蓋付きの見事なBED。ソファーベッドと、左側の銀色の皿。なんと、ひげそり用の皿であると添乗員から。 ・・・つづく・・・
2019.03.18
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リベイラ市場での昼食の後は、世界遺産へのオプショナルツアーの「シントラ王宮(Palácio Nacional de Sintra)観光とシントラの街散策」に参加した。バスにて24 デ・ジューリョ通りをシントラに向かって進む。前方に4月25日橋が見えて来た。テージョ川の上部は鉄骨製のトラス構造であったが、陸上部はコンクリート製。長さは2,277 mで、この部分は上段がコンクリート製の6車線の道路、下段が鉄骨製の複線の鉄道となっていた。鉄道部は当初建設した時から構想はあったが、経費削減のため実行されず、最終的に完成したのは1999年。下段は現在は私鉄のFertagusとCPのアルファ・ペンドゥラールおよびIC(インテル・シダーデス)が通過しているのだと。再びテージョ川上部の鉄骨製の4月25日橋を。更に進むとセウタ通りそして上部は高速IP7。前方に再びアグアス・リブレス水道橋( Aqueduto das Águas Livres)が。世界で最も高い石造りのアーチで18世紀建造。潜った水道橋を振り返る。地下にもぐっているところも含めると全長18km。ブラジルのゴールドラッシュによる巨万の富をバックに18世紀に20年かけて造られたもの。高さ65mはフランス南部に在るポン・デュ・ガールの48mをしのぐ。現在は上水道としては使われていないが、歴史的建造物として保存され、上は遊歩道になっているとのこと。エイショ・ノルテ=スル道路・IP7をシントラに向かう。トゥデ・デ・ソウザ通りを進む。シントラ王宮(Palácio Nacional de Sintra)が車窓から。白い酒徳利の如きものが屋根から2本。ポルトガル国旗がはためく。シントラ王宮の手前でバスを降りる。円錐形の高い塔は煙突で、この独特の形状は王宮のシンボルにもなっている。建てられたのは14世紀だそうで、1910年まで王族が夏の離宮として使用していたが、ポルトガルが共和制になってからは国の文化財になっているのだと。シンチラ王宮に向かって坂道を登る。シントラ王宮前の「レプブリカ広場(Praça da República)」。王宮は外見だけを見ると「王宮」というイメージからはかけ離れた質素な感じがしたが、内部の部屋の装飾は煌びやかではないのですが豪華で素晴らしく、さすが海洋王国ポルトガルだと感じ、中に入る価値は十分あったのであった。見上げると山の上には「ムーアの城跡(Castelo dos Mouros)」が見えた。王宮正面の階段途中に在った噴水。そして王宮の入り口から広場を振り返る。再び王宮入口から「ムーアの城跡(Castelo dos Mouros)」を見上げる。シントラ王宮内配置図1千坪もの敷地に立っている建物の部屋数は130以上もあるとのこと。今回のツアーではその中の主要ないくつかだけを見て回ることになった。 【http://livedoor.blogimg.jp/g2009h/imgs/4/2/42507816.jpg】よりそして王宮内部に入り螺旋階段を上がってすぐの、玄関のような広間は「射手の間」。重厚でやや地味な雰囲気。マヌエル様式の広間を入口から。次に案内されたのが「白鳥の間」。天井とシャンデリア。天井には、生涯伴侶を変えず夫婦円満の象徴とされる27羽の白鳥が。どれもポーズが違っているのだと。そしてどの白鳥も首に王冠を飾っているところが王宮らしい。宮廷舞踏会場として用いられた大広間であったと。これは1662年、27才でイギリスのチャールズ2世に嫁いだ娘のカタリーナのためにその幸せを願って描かせたもの。白鳥の数は、嫁ぐ日の娘の年齢だったとのことだが、女性は10代で結婚するのが普通だった当時にあって、生涯伴侶を変えない白鳥に、父親として託するものがあったのであろうか?「白鳥の間」は「客間」であると。ジョアン1世であろう。ジョアン1世妃 フィリパ・デ・ランカストレであろう。イングランドの王子、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントとその最初の妃ブランシュの娘。白鳥の間の壁の装飾。1584年8月には、天正遣欧少年使節がこの部屋で、当時ポルトガルを統治していたアルベルト・アウストリア枢機卿に謁見しているのだと。細かなタイル装飾も。中国からの贈り物であると。お料理盛り付け用の食器であろうか。豚、牛、ワニをモチーフにした器。王宮中庭(聴衆の中庭)。この後近づいて。イスラム建築の復古がされたムデハラ様式と呼ばれるもの。中庭から台所の煙突が見えた。次いで、カササギ(鵲)の間(Sala das Pegas)へ。天井に描かれているのは136羽の鵲。口には「POR BEM」と書かれた布を咥えているのだと。これは、侍女にキスをしているところを王妃に見つかったジョアン1世が、「POR BEM」=「善意でキスしたのだ」と言い訳したことに由来していると。王妃は何も言わなかったが、噂は女官たちの間に瞬く間に広がったと。王は、「おしゃべり」の象徴であるカササギを侍女の数である136羽描かせたのだと。カササギ(お喋りの意)のモチーフと「POR BEM」(善意の接吻を意味する言い訳の言葉)の文字が書かれた布を咥えているカササギが天井一面を覆っていた。その足には王妃の出身であるランカスター家の紋章バラの花を掴ませたと。ジョアン1世はなかなかしゃれの分かる、ただ戦いに強いだけの王ではなかったようだ。カササギの間の壁の装飾。夏の離宮のはずであるが、大理石造りの立派な暖炉も。見事なアズレージョ。寝台が置いてある部屋は「ドン・セバスティアンの部屋」。在位1557~1578年のポルトガル王で、生涯独身で後継者を作らずに戦死したため、ポルトガルの王位継承を混乱させてしまった人。しかし国王が自ら戦場へ行って戦死するというのも、トップに立つ人間としてはどうかと。とは言うものの、現役時代は『現場主義』と言う言葉が好きであったが・・・。正面から。ベッドの長さが短いのは、急に備えて体を起こしていたのだとか、食べすぎて胃がもたれて横になれなかったのだとか、諸説有るのだと。絨毯の上には机とその脇に椅子が。世界で初めて作られたという、天球儀は黄金色に。見事な椅子。ややピンボケですが、あくまでも個人的な「備忘録」ですので、ご容赦を。壁にかけられた絵画。葡萄の葉のモチーフのアズレージョが貼られていた。近づいて。ドン・セバスティアンの肖像画。この王は王位を継ぐ者がいない時に王様が没した18日後に生まれたため「待望王」と呼ばれたと。ですが、残念ながら24歳で未婚のままモロッコで戦死してしまった。もともと彼の母親はスペインの出身だったため王がなくなった後ポルトガルはスペインの支配下に置かれてしまったと。「カエサル(シーザー)の間」壁全面に架かっているのはタペストリーなのであろうか?魚の置物がなんとなく東洋風。ズームで。ジュリオ・セザル(ユリウス・カエサル)が織り込まれているのであろう。王冠の間(Salad da Coroa)入口、しかし進入禁止。ルネッサンスの噴水のある「ダイアナの中庭」横の階段を上る。階段の壁にもぶどうの葉のアズレージョが。そして「ガレー船の間」まさしく船底の如き天井。壁から天井には大航海時代を思い出させる様々な姿の帆船が。ズームで。次の「紋章の間」へ行く途中の「神父の部屋」に、ポルトガルの家具が置かれてた。17世紀のスペインのものと推定される飾り戸棚だと。西洋のものと東洋のものが同じ空間に置かれているのは、貿易が盛んだったポルトガルならではか。正面から。これぞ、宝飾で飾られた装飾。エンリケ航海王子の人形であろうか?ワインの樽に乗っているのであろうか?樽にも魚?の脚が付いていた?様々な宗教画が。宗教画。誰の肖像画であろうか?これも誰の肖像画であろうか?回廊の壁際にはたくさんの陶器の手描きの絵皿がケースに入れて陳列されていた。 ・・・つづく・・・
2019.03.17
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徒歩にてリスボンの旧市街観光を終え、バスに戻り昼食会場の「リベイラ市場」に向かって進む。サパテイロス通りをテージョ川沿いのコメルシオ広場方面に。コメルシオ広場(Praça do Comércio)の前にテージョ川が大きく拡がる。コメルシオ広場は、ポルトガル・リスボンにある広場。『貿易広場』という意味であると。テージョ川近くにあり、いまだに元の名前テレイロ・ド・パソ(Terreiro do Paço、宮殿広場の意味)が有名である。これは、1755年のリスボン地震で崩壊したリベイラ宮殿があった場所のためである。テージョ川河口に向かって立つジョゼ1世(在位:1714~1777)の像。ジョゼ1世の治世の出来事には、1755年11月1日に発生し、住宅約1万2000戸が倒壊し6万人の死者を出したリスボン地震があると。テージョ川沿いから1本内側に入ったアルセリナ通りを進むと右手に、市役所の西側にある市役所広場(Praça do Municipio)が。右手奥にコルポサント教会(Igreja do Corpo Santo)が。コルポサント通り近く、コルポサント教会近くの建物群。テルセイラ広場に立つポルトガル軍最高司令官のテルセイラ公の像(Estátua do Duque da Terceira)。テルセイラ公爵はポルトガル内戦で大活躍した人物のようである。軍服を着用し川側を見て毅然と立っていた。銀行(Montepio Geral - Balcão Cais do Sodré)であろうか。そしてリベイラ市場 (Mercado da Ribeira)に到着しバスを降りる。リベイラ市場の正面入口に向かって進む。リベイラ市場正面入口、時間は13:12であったが時計は16:51??フードコート入口の床には旧市街の舗装工の像と同じリスボン市旗の船の絵のタイル画が。まずは2階に上がる。「リベイラ市場(Mercado Da Ribeira)」は、1882年開設の市場。2014年にリニューアル・オープンし、一部「タイムアウト・マーケット(Time Out Market)」というフード・コートとして賑わっていた。青果、魚介類、肉類など、隣の市場で売られているような新鮮な食材を使った料理がリーズナブルな価格で提供されていると添乗員から。そして2階の壁にはアズレージョであろうか青のタイルが。2015年の夏にオープンしたコンサートホールやギャラリーもあるとのこと。その入口であっただろうか?配置案内図。有名シェフや人気レストランのお料理を気軽に食べられるほか、SUSHIやスイーツの店など45店舗が入ったフードコートになっているのだと。2階からフードコードの見る。日曜~水曜は10:00~24:00、木曜~土曜は10:00~2:00オープンなので旅行者には便利であると。このフードコートの隣は、生鮮食品の市場になっていた。(6:00~14:00)中央に多くのテーブルが。各レストランのカウンターでオーダーと支払いを済ませると、ブザーを渡され料理ができると知らせてくれるので、その間に席を確保しておくシステムのようであった。フードコート中央を見る。「Time Out MARKET」の看板が中央に。24のレストラン、8つのバー、12のショップがあると。そして集合時間14:30までは自由行動で昼食を各自済ませて欲しいと。フードコート横には生花店が並んでいた。フードコートを旅友4人で散策。MANTEIGARIA SILVA。ポルトガル産の生ハムや郷土チーズをおいしいワインと一緒に味わうことが出来る店。多くの観光客が食事を楽しんでいた。鮮魚の切り身も。四角形状に店舗が並びその真中にテーブルが並んでいる仕組み。料理によっては、やはり日本のフード・コートと同じように「呼び出しベル」が渡されていた。ビールを楽しむ人も多かった。中央のテーブルは混雑しており、店も行列ができていたので我々は右手一番奥隅の穴場?のカウンター式の店に陣取る。コロッケの専門店 ・「CROQUETERIA(クロケテリア)」。店員のユニフォームの背中にも。(ピンぼけ)7種類のコロッケがあると。右はタラ& チョリソ(BACALHAU E CHOURIÇO )、左はイカ墨(CHOCO COM TINTA)。イカ(CHOCO)、マグロ(ATUM)、チーズ(QUEIJO)・・・のコロッケが並ぶ。ビールと3種のコロッケセットを注文、7.5ユーロであっただろうか。コロモもカラッとサクサクしていて美味しかった。そしてハンバーグを旅友Sさんとシェアー。昼食後は生花を楽しむ。ジャカランタの種も販売していた。買おうかと迷ったが、我が家では冬場は零下になる日があるので諦めたのであった。様々な花が。ハート型の巨大ブーケも。洋蘭の店。パンダ。そして、しばし外に出る。ドン・ルイス公園(Jardim Dom Luis)に立つ伯爵サダ・バンデイラ(The Marquês Sá da Bandeira)の像が。ポルトガルの政治家(1795~1876)。大理石の台座上に。ドンルイス公園の先には時計台のある建物が。1997年に設立されたInstituto Superior Ciências da Administração (行政科学研究所)は、リスボンにある私立の高等教育機関。公園のヤシの木が青空に突き刺さっていた。ドン・ルイス公園前の街並み。ここにもトゥクトゥクが。そして再びリベイラ市場内に戻る。生蟹が水槽の中に。リベイラ市場の寿司屋。カウンターにあった握り寿司。歴史モノのポートワイン。一番左の1933年産は1087.5€⇒136,000円そして14:30に集合場所に。 ・・・つづく・・・
2019.03.16
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ケーブルカーを降り、徒歩にて旧市街地の散策に向かう。アルティス アベニーダ ホテル(ALTIS AVENIDA HOTEL)が前方に。Altis Avenida Hotelは、伝統的なポルトガルの建築とアールデコの影響を受けたデザインが組み合わさった歴史的な5つ星のホテル。こちらは、ホテル アベニーダ パレス(Hotel Avenida Palace)。リスボン中心部のバイシャ地区、ロッシオ駅と地下鉄レスタウラドーレス駅のそばに位置するホテル。趣のあるヨーロピアンスタイルの建物で19世紀後期に建てられた歴史あるもの。レスタウラドレス(Restauradores)広場の舗装工の彫刻像。舗装工の手仕事による「ポルトガル式歩道(Calçada)」をリスボン市長が舗装工たちの活動に敬意を表し、「都市とコミュニティとしての我々のアイデンティティーを表す芸術」であるとし設置したのだと。彫刻家セレジオスチーニ(Sculptor Sergio Stichini )による作品であると。『Tribute from the city of Lisbon to the pavers who build the ground we tread』『リスボンの街から、我々が踏み歩いている地面を築き上げた舗装工への賛辞』と称賛の言葉が書かれていた。ポルトガルで有名な、小石を敷き詰めて模様を描き出した伝統の「ポルトガル式歩道」。白や黒の小石で波や幾何学模様を作る伝統技術は、15世紀までさかのぼると。同国の植民地だったリオデジャネイロやマカオにもこの技術は輸出されているのだと。リスボン市旗に描かれている船が描かれていた。そして観光用トゥクトゥク( TUKTUK)が出番を待っていた。見上げると先程展望台から見えたリスボンの象徴サン・ジョルジェ城が。マリア2世国立劇場(Teatro Nacional D. Maria II)を横から。そしてロシオ広場(ペドロ4世広場) (Rossio (Praca Dom Pedro Iv))に到着。正式名称はペドロ4世広場だが、ロシオ(公共広場の意)の愛称で呼ばれていると。バイシャ・ポンバリーナ地区にあり、中世からの歴史を持つ。かつては民衆の反乱や祝祭、闘牛、公開処刑が行われた。現在は、リスボン市民や観光客の好んで指定する待合い場所となっていると。広場の通称は、ポルトガル王ペドロ4世であり、のちブラジル初代皇帝となったペドロ1世にちなんでいるのだと。フランスから輸入されたブロンズ製の噴水。ロシオ広場に面して、カジュアルなレストラン、カフェ、ショップが沢山並んでいて店の前には「パステル・デ・ナタ」が大量に。こちらは「ボーロ・デ・ココ(bolo de coco)」。ココナッツたっぷりのケーキであると。中央の円柱の頂から広場を見下ろしている人物の像が。初代ブラジル国王となったドン・ペドロ4世のブロンズ像。頭の上には鳩が。ドン・ペドロ4世のブロンズ像を支える円柱の基部。マリア2世国立劇場(Teatro Nacional D. Maria II)正面。ロシオ広場に面した、ポルトガルでも一流の劇場。劇場は、1450年に建てられた古いエスタウス宮殿のあった場所(ロシオ広場北側)に建設。エスタウス宮は迎賓館の役割を担っていたが、16世紀に入りポルトガルが異端審問の熱に飲み込まれると、宮殿は宗教裁判所が設置された。エスタウスは1755年のリスボン地震で倒壊を免れたものの、1836年の火事で全焼した。ロマン派の詩人で劇作家でもあるアルメイダ・ガレットの功績に謝意を示し、女王マリア2世により宮殿跡地が新しい劇場のために提供された。建設は1842年から1846年まで行われ、イタリア人建築家フォルトゥナート・ローディによるネオクラシカル様式の劇場が完成した。劇場の建物は、リスボンに影響をもたらしたパラディアン建築の好例である。ファサードの主な姿は、6つのイオニア式円柱のあるポルチコ(屋根付き柱廊玄関)である(この円柱は、元のサント・フランシスコ修道院と三角形のペディメントから再利用された)。破風のティンパヌムは、アポロンとミューズの彫刻レリーフで装飾されている。ペディメントの上には、ルネサンス期の劇作家でポルトガル演劇の祖といわれるジル・ヴィセンテの像が。ペディメントとは西洋建築における切妻屋根の、妻側屋根下部と水平材に囲まれた三角形の部分の事。再び噴水を。公園の周囲には、多くのジャカランタの木が。花が咲けば・・・。噴水、ドン・ペドロ4世のブロンズ像、マリア2世国立劇場を一緒に。ロシオ広場を囲む建物群。アウグスタ通りの先に見えたのがアルコ・ダ・ルア・アウグスタ (Arco da Rua Augusta)。時計と、栄光の像と呼ばれるヴィリアトゥス、ヴァスコ・ダ・ガマやヌノ・アルヴァレス・ペレイラ、ポンバル侯の像が。勝利のアーチ (凱旋門) ・Arco da Rua Augusta (Triumphal arch)の先のコメルシオ広場(Praça do Comércio)に立つジョゼ1世像の姿も。コメルシオ広場はリスボンの海の玄関口であるテージョ川に面した約200m四方の広場。リスボン大震災前にはポルトガル王マヌエル1世(在位1495-1521)の宮殿があったため、テレイロ・ド・パソ(宮殿広場)とも呼ばれると。真っ白に塗りまくったストリートパフォーマー?の女性。フィゲイラ広場(Praça da Figueira)に到着。ロシオ広場のすぐ東、ジョアン1世の騎馬像が立つ広場。かつて欧州最大の市場があったが、1949年に解体。現在も多くの商店やカフェがあった。特に老舗菓子店、コンフェイタリア・ナシオナルは有名。広場のジョアン1世像。ジョアン1世(João I, o de Boa Memória, 1357年4月11日 - 1433年8月14日)は、ポルトガル王国アヴィス王朝の創始者でポルトガル王(在位:1385年 - 1433年)。ペドロ1世の庶子で、フェルナンド1世の異母弟。エンリケ航海王子の父に当たる。政治・軍事の多くに成功を収め、ポルトガルの全盛期の基礎を築き上げたことから「大王」と呼ばれているのだと。アウグスタ通りを右折しサンタ・ジュスタ通りを進むと前方に見えて来たのがサンタ・ジュスタのリフト( Elevador de Santa Justa)。サンタ・ジュスタのリフト (Elevador de Santa Justa)は、ポルトガル・リスボンのカルモ通りにあるリフト(エレベーター)。通称「カルモのリフト」(Elevador do Carmo)。カルモ広場の登り坂で、バイシャ・ポンバリーナの通りとつなぐ。リスボンの観光名所の一つ。サンタ・ジュスタのリフトを設計したのは、フランス系でオポルト生まれのエンジニア、ラウル・メスニエル・デ・ポンサルドである。建設は1900年に始まり1902年に終わったと。リフトは高さ45メートルあり鉄製である。ポルトガルではこの建築様式の典型である。テラスからはサン・ジョルジェ城、ロシオ広場、隣のバイシャ・ポンバリーナ地区の素晴らしい眺めが楽しめると。見上げると多くの観光客の姿があったが我々は登ることは出来なかった。再びロシオ広場(ペドロ4世広場)横まで戻る。カルモ通りの先にはサンタ・ジュスタのリフトからの空中連絡橋が。ロシオ広場でひときわ光っている有名なイワシの缶詰屋さん(O Mundo Fantástico da Sardinha Portuguesa)鮮魚が氷の上に美しく飾られた店。ファドを歌う像も。そして再び レスタウラドーレス広場のオベリスクが見えた。1640年にスペインの支配から解放された記念のオベリスク。 ・・・つづく・・・
2019.03.15
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ジェロニモス修道院の見学を終え、交差点を渡りプラサ・ド・インペーリオ庭園横を歩く。公園の噴水が勢いよく。先程訪ねたジェロニモス修道院そして南門を振り返る。バスに乗り込み、次の観光場所のケーブルカー(グロリア線)に向かう。右手にアフンソ・デ・アルブケルケ庭園 (Jardim Afonso de Albuquerque)が見えた。緑豊かな庭園で、公園の中央に名前の由来となったアフォンソ・デ・アルブケルケの柱像が建っていた。アフォンソ・デ・アルブケルケは、16世紀初期のインド総督だった人物。ゴア、マラッカ、ホルムズを陥落し、ポルトガルのインド洋支配を揺るぎないものにした人物。彼が居なければ、ポルトガルは、海上帝国にはなれなかったのであろうと。なお、この庭園は、19世紀までは河岸だったそうで、ここからポルトガル王マリア1世がブラジルに亡命するために、出航したのだと。アフンソ・デ・アルブケルケ庭園の海岸側の角隅近くにあった男性像を横から。再びベレン(フェリー)駅の灯台。右手に『旧セントラル・テージョ発電所』。国の史跡に指定されているセントラル・テージョ発電所の建物を利用した電気博物館(Museu de Electricidade)になっていると。建物自体が一見に値するほか、20世紀前半にリスボンの街への電力供給に使われていた機械類が見どころであると。そして車窓に4月25日橋、クリスト=レイ像が。4月25日橋を車窓から見上げる。インド通りを進むと正面にテージョ川の貨物港へ向かう陸橋が。国立東洋博物館(Museu do Oriente)。エストレラ大聖堂( Basílica da Estrela)。待望の男児ジョゼ王子を授かり満願の叶った女王マリア1世により建設された。1779年に建設が始まり、完成したのは1790年である(1788年にジョゼ王子は天然痘で夭折)。巨大な教会は大きなドームをもち、リスボン西部の丘の上に建ち、遠方からもよく見えると。後期バロック様式とネオクラシカル様式の混じったマフラ国立宮殿に、よく似た姿である。正面に2つの鐘楼と聖人像がある。エストレーラ庭園 (Jardim da Estrela)入口。エストレーラ庭園 の周囲を進む。アンシャンドレ・エルクラーノ通りをリベルダーテ大通り向かって進む。Monument to the Dead of the Great War。リスボンのリベルダーデ大通り(Avenida da Liberdade)にある第二次世界大戦の死者への記念碑。Restauradoresへの記念碑(Monumento aos Restauradores)。Restauradoresとは『復興者たち』という意味であると。リスボンの Restauradores広場の中心にある高さ30mのオベリスク。 1886年 4月28日に完成。1640年の60年間のスペインの統治からポルトガルの独立を記念したオベリスク。ベースの台座には独立と勝利を表す2人の天使が。左右の手に月桂樹を持つのは勝利と英雄そして自由を表していると。1663年6月8日はアメイシアルの戦い、1665年6月17日はモンテス・クラロスの戦いに勝利した日。そしてバスを降り再び全景を。7つの丘の街、リスボンの低い所と高い所を結ぶグロリア線(Elevador da Gloria)の乗り場に徒歩で到着。傾斜がきついのが有名なグロリア線。ケーブルカーを待っていると、日本からの添乗員が大声で、「泥棒がいるから注意してください」と。近くに若い女性三人がスマホで写真を撮る仕草をしながら歩き廻っていたのであった。三人は大声に、驚いたかアッという間に姿を消したのであっった。さすがベテラン添乗員と感服と安堵しきり、やれやれ!!。そして我々が乗るケーブルカーが到着し乗り込む。ケーブルカー内でもスリに注意と。それにしても車体全面が落書き?でラッピング。急な坂を登っていくと、対向車線から下りのケーブルカーが姿を現す。グロリア線の車両を横から見るとよくわかったが、車輪と車体の差が前後でかなり違うのであった。ケーブルカーの両端の駅自体が、坂道上下にあるために急傾斜を運行するのでこのような車体構造になったのだと。よってケーブルカー車内の床は運行中でもほぼ水平を維持しているのであった。ここは落書き天国の場所。アッという間に終点に到着し、ケーブルカーを降りる。目的地は終点駅の直ぐ上の『サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台』。リスボンの「モンマルトル」として知られているのだと。現地添乗員の研修生?が案内してくれた。グロリア線ケーブルカー終点のすぐ右手、緑豊かな小さな公園のなかにある展望台。パノラマ撮影にTRY。赤レンガ屋根の連なり、遥か前方に佇むリスボンの象徴サン・ジョルジェ城が一望できた。特に西日に輝く夕刻の眺めが美しいとガイドブックにあったが時間は12:05。かなり前ですが、消臭力のCMでミゲル君⬅リンクが熱唱していた場所、、、、といえば、お分かりになる方もいるのではないでしょうか。そして現在のミゲル君⬅リンク。サン・ジョルジェ城の歴史は古く、最も古い遺構は紀元前までさかのぼると。その後、5世紀の西ゴート族、9世紀のムーア人が今の城の元となった城壁を築き、その後1147年にポルトガルの初代国王アフォンソ・エンリケスがレコンキスタによりムーア人から奪還、その後改修して居城とした。最も高い要塞部分の北西には、中世の城があった。包囲された時代、もし要塞を攻撃され侵入されたら、城が最後の強固な抵抗の場所であった。四角形の10の塔があり、歩いて塔を上ると、360度の素晴らしいリスボンの眺めが楽しめると。サン・ジョルジェ城をズームで。その左手にはグラサ修道院教会(Igreja e Convento da GraçaIgreja )。ズームで。更に。緑の木々は松。、松は松でも日本に馴染みのある松とは木の形状が違っていた。もっさりと茂って見えるイタリア笠松や地中海松(アレッポマツ)という種類だと。すなわち成長した樹の上の部分は、平坦な王冠状ないし傘状に枝と葉が茂っていたのだ。そしてこの松からは、美味しい松の実が採れる種類もあるのだと。リスボン市内でも松の実が一杯入っているタルトを見たのであった。そして、以前訪ねたモロッコでも同じ種類の松の林を見た記憶が。サン・ジョルジェ城とグラサ修道院教会の間にサン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院(Church of São Vicente of Fora)の尖塔が見えた。アルファマ地区にある17世紀に建てられた修道院と教会。『デ・フォーラ』とは城壁の外側という意味であると。ポルトガル国内で最も重要なマニエリスムの建築物の一つであり、ブラガンサ家のポルトガル王たちの菩提寺であると。サン・ロケ教会 (Igreja Sao Roque)が展望台の近くに。ケーブルカーを登った左手に位置するイエズス会の教会。1584年にこの地を訪れた日本の天正遣欧使節団が宿舎として約1か月滞在したのだと。教会奥のサン・ジョアン・バプティスタ礼拝堂はイタリアン・バロック建築の華麗な装飾で有名と。多くのパステル画?が土産用に販売されていた。中央の絵はサン・ジョルジェ城とグロアリア線のケーブルカーが描かれていた。展望台広場には噴水も。ポルトガル人の書体デザイナー、作家、ジャーナリストで、新聞「DiáriodeNotícias(ディアリオ・デ・ノシシアス)」を創設したエドゥアルド・コエーリョ(Eduardo Coelho)の記念碑。記念碑は1904年に建てられ、彼の下に新聞配達の少年の像が。そして展望台を後にし、下りのケーブルカーの到着を待つ。帰りは「潔い頭」の運転手が私を運転席の中に入れてくれた。ブレーキを掛けながらゆっくりと急斜面を下って行ったのであった。対向車線のケーブルカーが登ってきた。終点が見えて来た。日本人観光客も混じって多くの観光客が待っていた。それにしてもフロントガラスは掃除すべし!!。レンズの焦点がそのゴミに・・・・。運転席の上に『栄光のエレベーター』の1885年から百周年記念メダル(1985)の碑が。表面(左)は正面から見たケーブルカー、裏面(右)は2本のケーブルカーがレール上で交差する姿が描かれていた。発行されたメダルは ブロンズ製、Ø80mm、230gであったと。 ・・・つづく・・・
2019.03.14
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ジェロニモス修道院配置案内図。右下の図で一番下の黄色の部分がサンタ・マリア教会。サンタ・マリア教会案内図。 【http://paroquia-smbelem.pt/smbelem_guiao_visita_jeronimos.htm】サンタ・マリア教会の内部に入る。ヤシの木に見立てた高い支柱には海洋をモチーフにした模様が彫られていた。聖母マリアに捧げられたという、身廊と二つの側廊から成る三廊式の教会。壁画や天井画、柱の装飾の凝っていて荘厳な雰囲気が。東側にある主祭壇にはキリストの生涯を描いた絵画が飾られ、中央にある銀製の聖遺物箱はインドから持ってきた銀で作ったと。キリストの生涯を描いた祭壇画。祭壇画は「ローレンス・サルセード(Lourenço de Salzedo)」の作品。ズームで。内陣の祭壇の飾り板は宮廷画家ローレンソの作。向かって左側にマヌエル1世と王妃マリア、右側に息子のジョアン3世と王妃カタリナの棺が安置されているのだと。西側に向きをかえると二層に分かれていて、上部の聖歌隊席には磔刑のキリスト像が飾られていた。天井の複雑に交差するリブが荘厳な空間を演出していると。ズームで。斜めから。ステンドグラス。側廊を歩く。Anthony Chapelの見事な黄金の祭壇。中央をズームして。カメラを縦に。絵画も。教会内に数あるステンド・グラスを追いかけました。中央部をズームで。教会内に数あるステンド・グラス。マリア像。マリア像に近づいて。教会内に数あるステンド・グラス。パイプオルガン。聖家族(Holy Family)の祭壇。側廊から反対側の側廊を写す。丸窓から日が差し込み反射していた。ズームで。中央はセバスティアン1世(D.Sebastião I, 1554年1月20日 - 1578年8月4日)王の棺。ポルトガル王国アヴィス王朝の王(在位:1557年 - 1578年)。「待望王」(o Desejado)と呼ばれていると。棺をズームで。セバスティアン1世王は1578年のイスラム教徒との戦いで死んだが、遺体は見つからず棺は空のままであると。象が背負っている棺は珍しいと。歴史を感じさせる絵画。セバスティアン1世王の姿であろうか?再び教会内に数あるステンド・グラスをカメラで追う。教会内に数あるステンド・グラスには「マヌエル1世」の姿が。マヌエル1世(Manuel I 1469年5月31日 - 1521年12月13日)は、ポルトガル王(在位:1495年 - 1521年)。傍流の六男として生まれながら、偶然が重なって平和裡に王位につき、さらにその治世においてインド航路の開設等の吉事に恵まれてポルトガル王国の黄金期を築いたことから、幸運王と称される。先王ジョアン2世の推し進めた中央集権化政策を継承し、海外交易による莫大な利益を背景に、ポルトガルの絶対王政を確立した とウィキペディアより。海外交易によって豊かになったマヌエル1世は、宮廷に芸術家や科学者を多く招き、パトロンとして彼らの活動を後援した。また、リスボンのこのジェロニモス修道院(1502年着工、1551年完成)やベレンの塔(1515年着工、1521年完成)、トマールのキリスト教修道院(1481年に回廊を増築)に代表される華美な建造物を新築または増改築した。これらには、アフリカ・アジアの珍しい動物や、珊瑚やロープなど海に関するものをモチーフとした装飾が過剰なほどに施された。このポルトガル独自の建築様式は、後に19世紀になって「マヌエル様式」と呼ばれるようになったのだと。中央をズームで。更にズームで。下部もズームして。即位した年にキリスト騎士団長となり、主に海外にある騎士団領を王領に併合し、王室財産を拡大したのだ。今の国旗にも取り入れられているエンリケ航海王子の紋章が中央に。教会内に数あるステンド・グラス。教会内に数あるステンド・グラス。ピンボケでした。教会内に数あるステンド・グラス。幼いイエスを抱く聖母マリアの母子像。マリアの着ている衣の青が一番美しく目の奥に残っている。教会内に数あるステンド・グラス。教会内に数あるステンド・グラス。教会内に数あるステンド・グラス。マリア王妃。教会内に数あるステンド・グラス。ポルトガル国章に表現されている真ん中に五個の青い盾を十字に入れた盾も描かれていた。再び側廊から。天井には胡椒の実をあしらった、彫刻が特徴的なマヌエル様式の装飾が。ここにも絵画が。教会の内部には、インド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマの棺の中央にはカラベル船が彫られていた。そして左にはキリスト騎士団の紋章(十字架)も。赤のカーネーションが胸に捧げられていた。ポルトガルの詩人カモンイスの石棺。筆と竪琴が彫られていた。反対側から。彫刻家Philippe de Vriesによって十字架につけられたキリストの彫刻が。最後に出口から再び。まだまだ、ジェロニモス修道院の、中庭を囲む55m四方の回廊等も見たかったが旅行日程表では入場しない予定になっていたので、サンタ・アリア教会だけでも入れたので良しとしなければなるまい。 ・・・つづく・・・
2019.03.13
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発見のモニュメントの観光終了後は再びバスに乗りジェロニモス修道院に向かう。右手にテージョ川のベレンフェリー乗り場(BELEM RIVER STATION)の灯台が。ここベレンから対岸のポストブランダンまでのフェリー乗り場。左手にジェロニモス修道院が一旦見えたが道路中央に分離帯があり、しばしそのまま直進。ジェロニモス修道院の全景をバスの車窓から楽しむ。そして高架橋を渡る。高架橋からベレンの塔を。ベレン灯台。発見のモニュメント。プラサ・ド・インペーリオ庭園 (Jardim da Praça do Império)近くでバスを降りる。徒歩にてジェロニモス修道院に向かって歩く。トラムの通る広い道路の向こう側にジェロニモス修道院が。ジェロニモス修道院は大きくて全体が写真に収まりきれなかった。青の時間が短い交差点を渡りながらジェロニモス修道院を。そしてトイレ休憩を兼ねて、パステイス・デ・ベレン(Pasteis de Belém)店に立ち寄る。パステイス・デ・ベレン(Pasteis de Belém)はリスボンで人気のエッグタルト(パルテル・デ・ナタ(Pastel de Nata))の老舗(1837~)の店。店内には多くの観光客がパルテル・デ・ナタ(Pastel de Nata)売り場に列を作っていた。通路の先にあったこのミニチュアはベレンの塔。トイレへの通路の壁にもジェロニモス修道院が描かれたアズレージョが。こちらにも。1669年当時のBELEMの姿であろうか。エンリケ航海王子とベレンの塔が。店内奥にはパルテル・デ・ナタ(Pastel de Nata)が山のごとくに。ネット情報によると、毎日平均10,000個売り上げる(最高は1日55,000個)と。添乗員が、全員にパルテル・デ・ナタ(Pastel de Nata)をご馳走して下さいました。外側のパイ生地は、レイヤーが薄くかなりパリパリ(かなりの高温で焼いている?)していて、その中に入っているカスタードクリームはふっくらしっとりと。甘さも押さえ気味で美味しかったがもう一つくらい味わいたかったのであったが・・・。店頭でパルテル・デ・ナタ(Pastel de Nata)を楽しむ旅友そして観光客。道路を観光用馬車が。そしてジェロニモス修道院の観光に向かう。ジェロニモス修道院はヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓および、エンリケ航海王子の偉業を称え、1502年にマヌエル1世によって着工され、1511年に回廊など大部分が完成したものの、その後、マヌエル1世の死やスペインとポルトガルの同君連合による中断等もあり、最終的な完成には300年ほどかかっていると。その建築資金は最初バスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料の売却による莫大な利益によって賄われ、その後も香辛料貿易による利益によって賄われたと。世界遺産「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」の構成資産のひとつである。修道院の名前のもととなった聖ヒエロニムスの生涯が描かれているジェロニモス修道院の南門は、「ポルトガルが誇るマヌエル様式建築の最高傑作」といわれていると。ベレンの塔には角の見張り塔などにムデハル様式といわれるイスラムの影響を受けた装飾も施されており、ポルトガルの歴史の複雑さを感じさせたのであった。更にこの旅行の2日目に訪ねたバターリャの礼拝堂が「未完」に終わったのも、このジェロニモス修道院建設のあおりを受けてのことだったとの説明もなるほどと頷ける建築物であったのです。海洋大国ポルトガルの誇りを見せつけるかのような彫刻は圧巻。1584年にジェロニモス修道院を訪れた天正遣欧少年使節団も、この南門の壮麗さに驚嘆したのだとか。24の聖人や高位聖職者が配置されているのだと。向かって左側の高位聖職者。向かって右側の高位聖職者。ファサード上部。左側の24聖人。右側の24聖人。二面の扉の間には、エンリケ航海王の像も据えられていた。南門ファサードの左側のドーム型の鐘楼。ズームで。19世紀に増築された西棟が延々と続く。西門手前の尖塔。西門ファサードの右側。そして西門から修道院内部に入る。西門はフランス人建築家ニコラ・シャントレーヌの作であると。上部は受胎告知、キリスト降誕と賢者の崇拝。 ・・・つづく・・・
2019.03.12
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