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カトマンズからポカラへ飛ぶ飛行機の中からもヒマラヤの眺めを楽しめたのだ。遠くアンナプルナ3峰(7556m)の頂上部が雲の海から顔を覗かせていた。晴天であればアンナプルナ山群がクッキリ見えるとのこと。そしてダウラギリ(Dhaulagiri 8167m)も。この時間はやや雲が多いながらも、白い山の頂も時々見ることが出来た。カトマンズから40分ほどでポカラ空港に到着。ポカラはラェワ(Phewa)湖に面した盆地にあるネパール第2の都市。風光明媚な景勝地、リゾート地という趣があり、アンナプルナ山群の登山、またアンナプルナ山麓のトレッキングの登山基地でもあるのだ。標高は833mで、年間降水量は国内最大であるとのこと。飛行機が遅れていることもあり、我々が飛行機からの荷物を待っている間に、我々が利用した飛行機は帰りのカトマンズへの旅客が搭乗を始めていた事に驚いたのであった。飛行機の整備点検が確実に行われているのであろうかと??。迎えの車でこの日のホテルへ向かう。ポカラで宿泊したのは、ホテル「STUPA」。フェワ湖近くに位置する、ユニークな石造りのホテル。客室からは、ヒマラヤ連峰やフェワ湖の素晴らしい景色を望むことができ、レストランでは、ネパール料理、中華、西洋、インド料理などの様々な味が楽しめるホテル。チェックイン後街に出かけて昼食。フェワ湖畔のレストラン・ブーメランの野外席で湖を眺めながらネパール料理の昼食を楽しんだのだ。昼食後湖畔を散策。 ペワ湖の真ん中にぽっかりと浮かぶ小さな島が。この島にはヒンズー寺院であるバラヒ寺院(Barahi Mandir)があると。2層のパゴダ形式の寺院で、シャクティ(女性の力)の守護神であるアジマ神の化身とされる猪が祀られているとのこと。ダサインの祭りの最中であることもあり、この寺のお参りに多くの参拝客が小舟で向かっていた。しかしこの小舟には、定員人数を大幅に超える人が乗船、直ぐに転倒しても不思議ではない数であった。と言うことで、我々4人は船着き場でこの光景を眺めるのみで、バラヒ寺院観光はリスク回避したのであった。その後は今回の旅行で初めての自由散策・買い物。Sさんは街の繁華街にある床屋で髪の手入れ。この旅行前からこの地での散髪を計画していた模様。このネパールの街のいたるところに床屋があるのです。日本のコンビニ並に300mに一店はあると思って良いのでは。路上の床屋も多いのであるが、2~3畳ほどのスペースにお客さん用のイスが3つほどの床屋も多くあるのです。理容師はふたりといったところ。ほとんどハサミ一本でテキパキと仕上げてくれるのです。しかし言葉は通じず?Sさんが丸坊主になってしまうのではと心配していましたが無事・・・・・・・・・。他の人たちはバラバラで土産物屋、本屋巡りで楽しんだのだ。そして再び4人でマッサージ屋へ。日本と違い1時間約1200円と超割安。タイ式マッサージを注文、ここでは言葉は不要、半分うとうとしながら旅の疲れを取ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.19
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エベレストの絶景に感動しカトマンズ空港に戻ろうとしているとき、スチュワーデスのアナウンスが。『カトマンズ空港が視界不良により滑走路が閉鎖になった為、○○空港へ着陸し天候回復を待つ』と。○○は全く聞き取れず何処なの??眼下には後で解ったことだが、ガンジス川の上流に当たる大きな川が見えた。約30分ほど飛行し、着陸態勢へ。窓からはカトマンズ空港とは異なる田園風景が見えた。そして着陸し滑走路の脇に駐機。着陸した空港はネパール第三の都市、ビラトナガル空港。ガイドブックの地図を見ると、この地はカトマンズから300km以上あるインド国境に近い空港であることにビックリ。全員飛行機から降ろされ、飛行機の脇でカトマンズ空港の天候回復と飛行機の給油を待つ。機長も我々と同様に飛行機を降り機側でくつろぎ始めた。機長の話によると、『今日はエベレスト周辺は気流が安定していたためかなりエベレストに近づくことができた』と。『君たちは非常ラッキーな客だ』と、『昨日はエベレスト近くまで飛行したが雲が多くエベレストの姿は見えず戻った』と。しかしカトマンズ空港は視界不良。山の天気は急変するのであろう。勿論、この空港への緊急着陸に対す侘びの言葉もあったが、これも彼にとっては珍しい事では無い模様。そして待つこと約1時間、漸くカトマンズ空港が再開されたとのことで、ビラトナガル空港を離陸しカトマンズ空港へ。お陰で?再び3度目の遠きエベレストの姿を確認出来たのであった。途中、記念にフライトNOと機長の名前の入った『ヒマラヤ遊覧飛行証明書』を貰ったのでした。そして40分程度で無事カトマンズ空港に着陸。しかし我々はこの日、エベレスト遊覧飛行の後ポカラ空港へ移動の予定。このポカラ便のフライトも遅れながらも予定時間が迫っていたため、我々4人だけは送迎バスを降りずにそのままポカラ行きの飛行機に向かったのであった。まるで4人だけ拉致され移送される状態となったのである。一人であれば、さぞかし不安であっただろうが4人となれば。辛うじてポカラ行きの飛行機に間に合い、飛び乗り次の観光地に向かったのであった。 ネパール旅行で、最も楽しみにしていたヒマラヤ遊覧飛行は、興奮そのものであった。雲も風もなく天候に恵まれ、ヒマラヤの山々を身近に見ることが出来、感動のフライトとなったのであった。そして思いも寄らぬ地までも連れて行ってもらったのっであった。また、下界に雲がない場所では、はるかに広がる大きな氷河や遠くチベット平原までもが見渡せ、ヒマラヤ以外の眺望も多いに楽しんだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.19
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この日も5時起床。待望のエベレスト遊覧飛行に向かうのであった。早朝のため、ホテルの朝食は間に合わないので前日、ガイドのシェッカルさんが朝食用にサンドイッチを注文しておいてくれたのである。車で30分ほどでカトマンズ空港、国内線ターミナルに到着。入り口は遊覧飛行の客、国内移動の客でごった返していた。Yeti(イエティ)航空の係員が、我々を優先して待合室に案内してくれた。これも恐らくガイドからの袖の下のなせる技ではなかったであろうか??もちろん待合室も搭乗客でごった返していた。そして搭乗口には便名の表示が出る仕組みにはなっておらず、係員が搭乗便をマイクで放送する仕組み。ダンボ耳で待っていると漸く搭乗便が呼び出された。何故か、いや恐らく搭乗前の、X線ではなくタッチ式の身体検査のスペースの都合上、男女が区別された別々の搭乗口から、バスに乗り込みプロペラ機へ。7時出発であったが、この日のイエティ航空の双発機はなかなか飛び立たない。ヒマラヤの山の状況のためか、7時の出発予定が一時間半近く待たされる。観光客18人乗り、これに添乗員と機長、副操縦士の総勢21人のプロペラ機。観光客は両窓側に9人ずつ座りヒマラヤの山々を楽しむのであった。8時半に漸く離陸。雲の中を上昇していき雲を抜けると、遠く白く輝くヒマラヤの山々が青空の中に確認出来た。飛行機はランタン・ヒマ-ルからエベレストのあるクンブ-・ヒマ-ルを往復するコ-ス。「エベレストが見られる」ことが完全に保障されているので、運航予定日が悪天候で欠航となる場合は、自動的に翌日(または、利用者の都合のよい希望日)に、追加料金等なしで振り替えてもらうことができるのだ。カトマンドゥ空港を離陸し、エベレスト近くまで飛んで行ったものの、雲が多く、あまりヒマラヤが見えないときなども、いったん空港まで引き返し、この日のフライトはなかったことにしてくれ、翌日以降の都合のよい日に振り替えてくれるという、良心的な対応もうれしいのだ。しかしもちろん旅行日程に余裕があっての話であるが。そして左手に連なる白きヒマラヤの山々を見ているとスチュワーデスのエベレストが見えてきたとの声。子供の頃から、世界最高峰のエベレストを是非間近に見てみたいと思っていたが、これが実現した瞬間であった。サンスクリットの「ヒマ・アラヤ」(雪の住む処)を語源とするヒマラヤ、カラコルムを含む広義のヒマラヤは8000m級14座、7000m級240座、6000m級1350座を擁する巨大高連峰群で、世界の高峰べストテンの8峰までがこのネパール国内か国境上にあるのです。ネパールツアーのハイライトはもちろん世界最高峰エヴェレスト(8848m)遊覧飛行。ネパール語ではサガルマータ、チベットではチョモランマ、西欧風にはエヴェレストの名を持つこの山は、いまでこそ専門家ならかなり容易に?登頂できる山となって神秘性は薄れたが、世界最高峰の威厳は変わらないのである。その内に乗客1人ずつコックピットに案内され、操縦席から目の前に迫る山々を眺めることが出来るサービスが始まった。運が良く、ちょうどエベレストに差し掛かったとき順番が来たのだ。コックピットからエベレストの勇姿とこれを囲む白銀の峰峰はさすがに圧倒的な姿で私に迫ってきたのであった。標高8848mの世界一の山は、周りの山々の中で群を抜いて大きく、堂々たる威厳。そしてエベレストとその横にはヌプチェ(7855m)とローツェ(8501m)の雄大な姿が間近に。なんとネパール人の?女性副操縦士が指を指しながらこれら3山の名を説明してくれたのであった。更に飛行機はエベレストに近づいた。ズームで撮影してみると、頂上に登頂した登山家が旗を振っていれば、その姿を確認できるのではと思うほど近い場所で、この世界最高峰の山と対面することが出来たのであった。こちらはエベレスト南東壁であろう。通常はこの山の背面に雲が出来るのであるが、この日は全く雲が作られていないのであった。席に戻るとスチュワーデスも窓から見えるヒマラヤの山を説明してくれるのだが、名前など聞いても、同じような山が多くて、よく分からないのであったが。そして写真を撮るのに夢中な私がいたのであった。そしてあっと言う間に30分程の朝日の輝いて神々しいばかりのヒマラヤ山脈の遊覧飛行が終わり、カトマンズ空港に戻りつつあったが、その時・・・・・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.19
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4時間のトッレキングの後、やっと辿りついたチャングナラヤン寺院は、ヒンドゥ教のヴイシュヌ神の化身であるナラヤン神を本尊にした寺院で、カトマンドゥ市内のパシュパティナ-ト寺院とともに知られているのだ。 チャング・ナラヤン寺院は323年に建立された寺院で、ネパールでも最も古いものになる。しかしながら、現在のものは火災の後、1702年に再建されているとのこと。世界遺産にも登録された寺院。カトマンズ市街から東へ13km、バクタプールからは北へ4kmの丘の上にあった。標高1541mのところにあるので、盆地の町並みが見渡せたのであった。チャングナラヤン寺院の入り口。5世紀頃のものと思われる寺院の石銘には、カトマンズ盆地で最も古い寺院の1つであると刻まれていると。この寺院は紀元初期のネワール様式の芸術と建築の格好の見本となっており、石、木、金属等で造られた工芸品の典型例を見ることができたのである。世界遺産であることを示す石碑。チャングナラヤン本堂。4世紀に造られたこの像は、ネパール紙幣の10ルピーにも載っている貴重なもので、ビシュヌ神がガルーダに乗っている姿を現していると。寺院の屋根を支える板材の方杖彫刻。優雅でありながら力強いその彫技は見事。特に知られているのは、方杖下部のエロティックな世俗的彫刻とのことで、探してみた。写真下は男1人女2人で"お戯れ"のシーン。女性は現代でもインドの民族衣装としておなじみの短い丈のブラウスを着け、左の女性はスカートを脱いで足下に敷き、右は膝上までスカートをずらしてのお戯れで状態。正面のトラナと言われる本尊を洗わした表札。4本の手の内上部左手に棍棒、右手に円盤を持ったヴィシュヌ神が神妃ラクシューミ(左)とガルーダを従え、半円状のトラナに納まっているとの説明が。 人顔のガルーダ像。ガルーダはヴィシュヌ神の乗り物。城内には6~7世紀のヴィシュヌ神に関する国宝級の石像が数基あった。この日訪れたチャングナラヤンの境内の石像は上の写真の如く、とりわけ多くの花びらや色で被われていた。 日本では、たとえ寺の本堂に安置されている仏像でも、重要な文化財である以上その姿を改変するのはもっての他。こうした国宝級の作品が野ざらしで、しかも日々供養によってその姿を変えて行くというのを目にするのは、新鮮な驚きであったのである。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.18
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ビュータワーでの壮大な白きヒマラヤ山脈の絶景に感動した後は、ナガルコットからチャングナラヤンまでの4時間程度ののトレッキングを開始した。粘土の渇いた様な、滑りやすい曲りくねった道を歩き始めた。このコースはチャングナラヤンまで下りが多く、我々のトレッキングレベルで十分対応可能と私が判断し現地のRamさんに、このコースのトレッキングを事前予約しておいたのである。途中多くの段々畑(棚田:陸稲と粟を栽培)が見られ、その中に民家が散在していた。途中の広場では子供達が例のブランコで遊んでいた。この様な山間の田舎の子供達の明るい表情を見ると足の疲れが吹っ飛んでいく気分になったのである。そして子供達の目が、我が家の近くの公園で遊んでいる日本の子供達より数倍も輝いていると感じたのは私だけではないはずである。トレッキングコースとは言え、民家の前庭を通るところが各所に。日本であれば民家の敷地に無断で入り込んで行き叱れる状況。民家の軒先には、保存食用であろうか、乾燥のためのトウモロコシが見事に積み上げられていたのである。あどけない子供達の表情、そして右の男の子はふるチン。途中、中学生くらいの男の子2名が私に近寄ってきて英語で『自分の村は貧乏なので図書館に本が非常に少ない。本を購入するためにお金が欲しい』と。今一うさんくさいので無視して歩いていると、今度は私の目の前に広げた手を。その手のひらには日本円の硬貨が。100円玉と50円玉の2枚。この硬貨はこの村では使えないし、カトマンズの街へ行っても両替できないのでネパールルピーに両替して欲しいと。日本人の誰かが本の購入用に寄付したのであろう。これには負けてしまって100ルピー2枚と交換。この時のためにトレッキングをしている日本人を探していたのであろうか。 1回の休憩を入れ2時間ほど歩きテルコットという地に到着。ここテルコットはミニトレッキングの開始地点。ここから歩く事2時間で目的地のチャングナラヤンに到着するのだ。テルコットにあったヒンズー教の寺院。この場所でしばらく休憩していると屋根にも多くの乗客を乗せた乗り合いバスが到着。ネパールでバスの屋根に人が乗っているのを最初に見た時は、アクション映画以外では初めてでビックリしたのであるが・・・・・・・・・・・・。しかし、車で観光地を移動中にすれ違う多くのバスにも、同じようにバスの屋根に座っている人がいたのでネパールでは普通のことのようだ。普段は穏やかなネパール人のワイルドな一面をみた気がしたのであった。そしてガイドによると、最近屋根に乗っていた乗客が樹木の枝に引っかかり転落し死亡したと。ネパールは公共交通がほとんどない。市民はもっぱら遠いところへは白タクを利用するのだ。白タクはこのようなバス、乗用車、オート三輪などいろいろ。白タクはカトマンドウ、ポカラ市内ではどこでも拾えて、どこでも降ろしてくれるとのこと。市内なら10ルピー(日本円12円以下)とのこと。よって、道路のあちこちに白タクが呼び込み駐車するので、道路は一車線完全にふさがれていたのだ。これも数十年前の日本の姿にそっくり。よって先程の2階席付バスも高原行きの白タクバスに違いない。そして2階席のバス料金は室内と同額との話もあった。いやネパールはこの時期でもかなり気温が高いので、ここが冷房の効いたビジネスクラスになるのであろうか?暫く歩くと民家の庭先で洗濯をしている主婦の姿が。裸足で足も洗剤で真っ白。おそらく金ダライに衣類をいれ裸足の足で踏みつけて洗濯しているのであろう。流石に私の記憶の中では足踏み洗濯の姿は初めて見るのであった。山道では主婦が羊の放牧の最中。山の斜面は芝刈りをした如く、綺麗に草が山羊により見事に食べられていたのであった。まるでゴルフ場のグリーンの如し。そして最後の坂を汗をビッショリかきながら登りきると、目的地のチャングナラヤンの街並みが丘の上に姿を現したのであった。ナガラコットからチャングナラヤンまで4時間弱の山道を歩いてみたが、標高2000mの高地まで段段畑が造成され、盆地では稲作と野菜、山地では大麦の栽培と羊などの牧畜が盛んに行われていたのであった。こんな高地の山頂まで段段畑になっているのには、感動と感心の連続であったのだ。トレッキングの山道ですれ違うオバちゃん達に手を合わせ『ナマステ!』と言うと、にっこりと笑い、オバちゃんもやや恥じらいながら?『ナマステ!』と答えてくれたのであった。彼女等の所作を見ていると、自然の時間の流れの中で日の出と共に起床し、日の入りと共に寝るといった、ゆるやかな時の流れに身をゆだね生活をしている様で、遠い昔の日本の懐かしい原風景を見ているように感じられたのであった。彼女等は素朴に同じ事を毎日繰り返す、変わりの無い日常の中に、幸せを見付けているのであろうか。ヒンズー教では毎月祭りや行事があると。これも素朴な生活に潤いを与える為の彼らの知恵ではなかろうかと感じながらのトレッキングであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.18
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ナガルコットはカトマンズの東32kmに位置し、バクタプル地区の中でも最も風光明媚な観光ポイントのうちの1つ。標高2195m。好天の時にはヒマラヤの白き山々とそこから登る素晴らしい日の出の眺望が見られることで有名なのです。日の出をゆっくり鑑賞できるよう、カトマンズから前日の夕方にナガルコット入りすることを計画したのです。ナガルコットはエベレストをはじめ、頂上に雪を頂いた東部ネパールのヒマラヤを眺める最高のポイントとしてどのガイドブックやブログにも。さらに東にはインドラワティ渓谷の素晴らしい眺めが広がっているのです。前日の夜はロッジで夕食を済ませ、別棟の部屋に戻り、部屋でこの日も宴会。この夜は曇っていたため夜の星空は楽しむことが出来なかった。この日も5時起床。部屋の窓を開けると、雲は多いがその合間に青空も見え、日の出が期待できたのだ。カメラを持ちテラスへ。時間と共に黄金色の朝日が周囲の雲を空く赤く染めてきた。 (写真の時間表示は時差3時間15分が設定できていませんでした)日の出で山並みが光り、日が昇るに連れて変っていく空の色を存分に楽しむことができたのであった。テラスの下の山並みには雲海が拡がり幻想的な朝の景色。ロッジの建物が朝日を反射し輝いていた。カメラを構えていると、先ほど待て隣で写真を撮っていたHさんがいない。朝焼けが益々増して見事になってきたので大声で呼ぶも部屋から現れない。結局見事な朝焼けと日の出をHさんは見逃したのであった。後で聞いてみると、一時雲が厚くなったため日の出は無理と判断し、部屋に戻り電気カミソリで髭剃りをしていたと。その音で私の呼び声も聞こえなかった模様。7千、8千メートル級の白き山々を見渡しながらの展望バルコニーで朝食。その景色の見事さにしばし言葉を失う。そして食事も忘れるが如く、デジカメで朝日に輝くヒマラヤの山々を撮りまくったのであった。ホテルの展望バルコニーから正面にヒマラヤ連峰が見え、180度に拡がる大山脈のパノラマは壮大・絶景の一言。どの山が何で・・とその一つ一つの正しい山の名は解らないが。 山々が連なっているのだ。高く目立つ山は、ランタン・リルン(7,246m)、カンチェンボ(6,297m)、クールカポリ(6,874m)、ドルチェ・ラクパ(6,990m)であろうか・・。西側には、その後ポカラから大きく見えたマチャプチャレ(6,993m)、東側にはエヴェレスト(8,848m)が見えるとのことだが・・・・。ホテルの屋上には太陽光発電パネルが朝日に光っているのを発見。これもまた太陽光発電所長として至福の瞬間であった。朝食後チェックアウトし、ナガルコット・ビュータワーへドライブ。徒歩でも1時間ほどでビュータワーに着くのだという。しかしこの日はチャングナラヤンまでのトレッキングが控えているため車を利用。それにしてもネパールのドライバーは、常に手をクラクションの上にのせ、隙あらばクラクションを鳴らしているのだ。これもこの地ネパールでの安全運転の為の必須技術?車が辛うじて行き違えるほどの幅のゆるやかな登り道。所々の高台には警備所らしい建物が見え、歩行者や車を監視している姿が。兵舎や訓練場も見え、警備が厳しい模様。駐車場から5分ほど山を登るとビュータワーに到着。ビュータワーは我々5人のみで独占状態。やはり早朝に来た甲斐があったのだ。ヒマラヤの山々を鑑賞するには日の出から2時間程度が勝負なのである。快晴の朝でも、その後は山には急激に雲がかかってきてしまうのである。中央の山はドルチェ・ラクパ(6,966m)いや山々が自ら雲を作り自分の姿を隠すのである。山々が雲の隠れ始めたので、ビュータワーを後に下っていくと、若い日本人夫婦とすれ違う。彼らももう30分早く来れば絶景にあえたのであるが・・・・・・・・・・・。山、朝日、夕日鑑賞は一時の時間が勝負と痛感。まるで白き山々が湖の湖面に映っているような錯覚を覚えたのであった。山の名前を入れてみたが、文字が小さくて見えない。左からガンチェンボ(6,837m)、シシャパンマ(8,013m)、ドームブランク(6,083m)ドルジェラクパ(6,988m)、ランポガング(6,722m)、レディースピーク(6,000m)パブリチャーチュ(6,660m)と思われる。カトマンズの汚れた空気とは非常に縁遠い、ナガルコットの新鮮な空気を肺の隅々までいっぱい吸ってリフレッシュしたのであった。そしてナガルコットは1泊ではなく少なくとも2泊が必要と痛感しながら、チャングナラヤンまでの4時間強のトレッキングを開始したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.18
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バクタブルに移動する途中、カトマンズの郊外、焼き物の街ティミに立ち寄る。ティミはカトマンズから東へ10Kmに位置し、カトマンズ盆地の真ん中に位置するので「マディヤプル」(真ん中の町)と呼ばれているのである。 ティミはネワール族の伝統的工芸で有名な町で、焼き物、彫刻品、人形、お面、手織り布など多様な生産がされているが、中でも素焼きの水瓶、土鍋など日用品で使う焼き物が有名。この街の周辺で良質の土が採れるからであるが、その土は周辺の田畑から掘り起こした粘土とのガイドの説明。道の舗装の壊れているところが、非常にぬかるんでいる事に納得。しかしこの日はダサインのお祭りと日曜日が重なっていたため焼き物を造る職人の姿を見ることは出来なかった。庭隅に並べられ天日干しにされた素焼きの植木鉢?ティミの街を後にして15分ほどでバクタブルのダルバール広場に着く。『バクタ⇒礼拝者』、『ブル⇒街』、よってバクタブルは礼拝者の街、信仰の街の意、そしてダルバールとはネパール語で「宮廷」を意味する言葉であるとこれもガイドからの説明。王宮前の広場としてカトマンズやパタンにも同様のダルバール広場があったが、3人の王が美しさを競って造っただけあって、この広場も見事な宮殿や寺院が建ち並んでいたのであった。★ニャタポラ寺院トウマディー広場にあり、18世紀初めにプパティンドラ・マッラ王により建立され、5重の塔を持ち、高さ30メートル、カトマンズ盆地にある寺院の中で最も位の高い寺とのこと。石段両側には下から、伝説の戦士マッラ・象・獅子・グリフィン・女神の像が一対づつあり、普通の人間の10倍の力を持つ伝説の戦士から上へ行くほど力が10倍づつアップするのだそうだ。ニャタポラ寺院の本尊は女神シッディ・ラクシュミであるといわれているが、扉は釘付けされており、一度も開けられたことがないとのこと。1934年の大地震の際にも、ニャタポラ寺院は最小限の被害にとどまったため、建築技術の高さが評価されているのだと。5段の基壇の上に立つと町を見渡すことが出来るとのことだが残念ながら上ることは出来なかった。いやガイドに上がりたいと言えば良かったのだが予習不足。4人のツアーなので、この辺がこのツアーの特権であったのだが。★旧王宮の中にある王の沐浴場★ゴールデンゲート写真は旧王宮への入り口の門、ゴールデンゲート、この門にはガルーダにまたがるカーリー女神やヴィシュヌ神などヒンドゥの神々の装飾が一面に施されていた。ゴールデン・ゲートは彫刻もすばらしいが、特に門の上のトーラン(破風)が、凝っている。そして正面の4つの顔で10本腕の女神がタレジュ・バワニ。マッラ王朝の守護神であると。ゴールデンゲート前には、ネパールの石像の中で最も素晴らしいといわれるマッラ王の石柱が旧王宮に向かって祈る姿が。 ★パシュパティナート寺院バクタプル最古の寺院と言われているパシュパティナート寺院は、屋根の支柱の彫刻が特徴的。シヴァの化身のひとつであるパシュパティを祀っていますが屋根の支柱にはチベット仏教の影響を受けたエロティックな彫刻が施されていた。 ヒンズー教はカースト制が強いが、神様の姿は随分と世俗的でSEX中の彫刻もあるのだった。★55窓の宮殿ゴールデンゲート右側の55窓の宮殿。1427年にヤクシャ・マッラ王の統治期間に建てられ、17世紀にブパティンドラ・マッラ王によって再建された3層の建物には、その名のとおり55の窓が。本当に55窓あるかは数えたわけではないが・・・。★ダッタトラヤ寺院1427年にヤクシャ・マッラ王の統治時代に建立され、1458年にビシュワ・マッラ王により、改築された寺院。1本の木から彫りだされたといわれているのだ。ヒンドゥー教の寺院で、本尊はヴィシュヌの化身であるダッタトラヤ。寺の正面には柱があり、その上にはヴィシュヌの乗り物であるガルーダの像が。また、入り口には、伝説の戦士のジャヤ・マッラとパッタ・マッラの力士像が一対。ダッタトラヤはブッダのいとこであるとされるため、仏教徒にとっても重要な寺院とのこと。★ 孔雀の窓ダットラヤ寺院の裏側、木彫美術館となっているプジャリ・マート左側面の窓。かつては僧院だった15世紀の建物で、孔雀の窓はネワール彫刻の最高傑作とされる見事なもの。ひとつの窓を作るためにどれだけの時間が掛かったのであろうか。このような窓が、よく今まで保存されたものだ。窓枠というより、美術品と呼ぶべき造形。バクタブルの観光後、車に戻る途中に私のカメラにポーズを取ってくれた少年と少女。ティカを付けた額と愛らしい黒い目が印象的。ネパールの子供たちの笑顔を見ているとこの国の貧困さが信じられないのであった。バクタブルから15km程の、この日の宿泊地ナガルコットへの山道を車は登っていった。途中、乗り合いバスが急な山道の側溝に脱輪し、多くの乗客達は大きな荷物を持って、このバスを諦め、山道を徒歩で登っていくのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.17
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次にカトマンズの東に位置するパシュパティナート寺院を訪ねました。ここはネパール最大のヒンズー教寺院あるばかりではなく、世界中のヒンズー教徒にとっても重要な寺院であるとのこと。もちろんヒンズー教を国教とするネパールでは最高の聖なる場所なのです。寺が面しているバグマティ川は、ヒンズーの聖地バラーナシのあるガンジス河に通ずる支流にあたるため、ここのガート(ガンジス川岸に設置された階段)で荼毘に付せば母なる大河ガンガーへと戻ってゆくのだ。ゆえに、自分の遺灰をこの川に流してもらうのが、ネパールのヒンズー教徒の最高の願望なのです。墓を作らぬヒンズー教徒は、死んだら地球と一体になるのだと。そのバグマティ川の中では身体を清めている者もあれば、洗濯をする女の姿も見受けられるのであった。川に沿って10基近くの火葬ガートが並んでいて、かつてはカーストの身分によって使用できるガートが決まっていたそうだが(上流ほど高い身分)、現在はそういう制度はなくなったとのこと。パシュパティナート寺院はヒンズー教徒以外は立ち入れないが、火葬場は入場料を払えば誰でも入れるのです。この日も遺体が黄色いシートに包まれガードの最上段に安置され、その廻りを家族や親戚の方と思われる人々がこの遺体を囲んでいました。そしてガードの最下段まで遺体を運び、バグマティ川の水で遺体の最後のお清めをしていたのであった。近くのガートにはこの遺体を火葬にすべく、木材が積まれその上には鮮やかなオレンジ色のマリーゴールドの花輪が飾られていました。終日立ち込めるカトマンズの霧は火葬場の煙であるとさえ言われているほど、この場所で毎日多くの火葬の儀式が行われているのです。橋をはさんだ下流ではもう一つの遺体が荼毘に付されていました。藁に火を付けこれを積まれた木材の下に入れ木材を燃やすのです。ガイドの説明によると、完全に燃えるまでには2時間以上かかると。サドゥと呼ばれる3人のの修行僧も座りながらこの儀式を見つめていました。川沿いに並んでいる火葬ガートを見下ろす場所には多くの観光客が、この火葬風景を見つめカメラを構えていたのでした。(そう言う私もその中の一人なのでした)日本では遺体など屋外でそうそう見るものではない為、不思議な感じが妙にしたのでした。そしてヒンズー教では、人間は何千回も生まれ変わりを繰り返すとされていると。つまり「死」というものが何千回も来るものであり、そう考えればそのうちの1回が来たからといって特に悲しむことでもないのであろうか。ガートの近くには遺族らしい人たちが集まっていたが、遠くからではあるがそう悲しんでいる風にも見えなかったのは私だけであろうか。近くのこの川の河原には、巨大な竹製の大きなブランコが縄で縛った手作りで作られ。これに乗り遊んでいる子供達の姿があったのでした。これはヒンズー教の祭り「ダサイン」のために設置されたブランコでその後いろいろな場所で、この姿を見ることが出来たのでした。日本の昔の正月は、凧揚げやコマ回しをして遊びましたが、これに通じる遊びであることが解ったのでした。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.17
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観光の最初にカトマンズの東約6kmに位置する世界でも最大級の規模を誇る仏塔(ストゥーパ)が建つユネスコ世界遺産に登録されている「ボダナート」を訪ねた。チベット仏教徒の主要な巡礼地で、チベットから多くの巡礼者が来ているという。入場門から仏塔が見える。高さ36m、もちろんネパール最大のチベット仏教の仏塔で、四方を向いている目玉が印象的。この目が「目玉寺」と呼ばれる由縁なのだ。見る角度や気分によって、微笑んでいる様にも怒っている様にも見える。風にはためいている万国旗のようなものは『タルチョ』といって、それぞれに経文が書かれているのだ。ボダナートの「ボダ(ボゥッダ)」は「仏陀の」「仏教の」「知恵の」を意味し、「ナート」は「主人」「神」などを意味するのだ。三重の基壇と直径27mの石造りドームからなり、塔頂からのタルチョが、独自の雰囲気を醸し出していた。仏塔の周囲には仏塔を取り囲むように360度にわたってチベット人が経営する土産物店やレストラン、ホテルが立ち並び、観光地特有の賑わいをも見せていた。この仏塔の周りを、毎朝、信者たちがマニ車を持って周囲を108回コルラ(ストゥーパを右手に見て回ること)するとのこと。仏塔の4段の台座は瞑想を、白いドームは全ての煩悩から開放された無の境地、目の描かれた塔は涅槃に至るまでの13段の階段を表現しているとも言われているのだ。同時に、台座は地、半円球ののドームは水、四方を見据える目が描かれた部分と13層の尖塔は空を表すといわれているのだ。仏塔の横では、お参りをする人のためにローソクが売られていた。初めてネパール・チベットに日本人が訪れたのは1891年のことで河口彗海というお坊さんで、原初的な仏典を求めてチベットに入国し、ダライ・ラマ13世に謁見。1903年に帰国し、「西蔵旅行記」を刊行した人物の記念碑。仏塔の横の土産物売り場の前には人だかりが出来ていた。近づいてみると、どの人だかりも現金を賭けた各種のゲームが公然と行われているのであった。ネパール式?サイコロ博打で、この祭りの時期に大人も子供も小遣いを賭けて遊んでいるのだ。それにしても堂々たる巨大なストゥーパであった。そしてストゥーパ自体が曼荼羅になっているのだ。チベットのラサからの商人や巡礼者は、ヒマラヤを無事越えられた事、また、帰りのヒマラヤ越えの無事をここで祈り、この「眼力」に救われたに違いないとの想いを深くしながら次の観光地であるパシュパティナートへ車を走らせたのであった。下の車が我が旅行の移動の車、そして手前が見事な安全運転で我々のカトマンズ世界遺産巡りを楽しませてくれたドライバー、そして後ろが日本語が極めて堪能な、そして博識でユーモアに富んだガイドのバイジャラさん。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.17
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ホテルに戻ると、既にトレッキング会社の社長のRamさんが、我々を迎えに来てくれていました。東京で会ってから3ヶ月ぶりの再会となりました。『ようこそ ネパールへ』と。朝食後にRamさんのご自宅へ招かれ、車で向かいました。この日は、『ダサイン』と呼ばれるネパールでの年間で最大の秋祭りの真っ最中。街並みは多くの人々と、道路脇には数多くの出店が並びごった返していました。主な祭りの期間が10日間あるので、10を意味するダサインと呼ばれるとのこと。この祭りの間、会社や学校は休みになり、ラジオやテレビからはダサインの音楽が流れてくるのです。ここカトマンズでは、子どもたちが凧上げに興じ、市場は農家の人たちが連れてきた水牛やヤギ、ニワトリなどで一杯になるのです。これらの家畜は各家庭で悪を制覇した女神ドゥルガに犠牲としてささげられるのだと。祭りのメインの日であるこの日の10月17日、ダサミには、人々は真新しい洋服を着て一族の長老の家に挨拶に出向き、ティカと呼ばれる真紅の印を額に付けてもらうのです。Ramさんのご自宅に到着し、部屋に招かれると、既に10人以上の親戚の方が一つの部屋に集まっていました。日本でいう正月のようなものらしく、毎日家族や親戚、友人が集まってお祝いをするのです。そして長老の女性から年令順に次々とティカをつけてもらうのです。赤い粉と米粒をまぜて、これを額につける ヒンドゥ教の儀式なのです。長老の女性の前にはこの儀式で使われる大麦の芽??を黄色く染めたものが飾られていました。ティカと一緒に、このジャマラと呼ばれるものを耳に乗せたり、髪にさしたりしてもらうのです。社長のRamさんもティカをつけてもらいました。そして可愛い子供も。Ramさんの家の手伝いをしている姉妹。そして我々4人にもティカを付けてくれたのです。ティカを受けるSさんの後ろ姿。ナマステの挨拶の時の如く胸の前で手を合わせ祈りながらティカを受けるのです。このティカは自然に落ちるまで取っては行けないとのこと。併せて老女から、袋に入った100ルピーの『お年玉』?とリンゴをいただいたのです。約1時間弱の儀式でしたが、この国の伝統ある神聖な儀式に参加させていただいたのです。初めはヒンズー教に無知な我々が、この儀式に参加して良いのか、そして、してはならない行動をしてしまうことで、ご迷惑をかけてしまうのではないかとお断りしたのですが、『NO-PROBLEM』とのRamさんの言葉に甘えさせていただいたのです。そして儀式の後は、ティカを受けた全員でご自宅の庭での食事会にも参加させていただいたのです。バイキングスタイルの本格的なネパール料理を、この旅のスタートに楽しむことが出来たのです。そして同時に歓迎のビールもいただきました。約1時間の食事会が終わり、ネパール観光の旅がスタートしたのです。車で最初の観光地であるボタナートに向かう車窓から見えた街並みは、ティカで真っ赤な額を誇らしげにした人々で溢れ、賑わっていたのでした。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.17
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6時に起床し身支度を調え7時にホテルを出発しタメル地区への早朝散歩。ホテルは旧王宮の近くのカンチ道り沿い。ホテルを出て暫く歩くと赤い3重の塔をもつ トリデビ寺院 が左手に。日曜日のそして日本の正月に当たるダサイン祭の為か、店はシャッターを閉め開いている店は未だ無し。しかしこの場所は、ネパールの首都カトマンズ市内で外国人観光客に一番人気のタメル地区。あか抜けして洗練されたレストランやホテル、それに観光地の証し「みやげ屋」の立ち並んでいる街並。観光客だけではなく、地元の人たちも買い物やビジネスにやって来るので昼間はいつも人が溢れる混雑した街なのである。電柱に絡みついている電線の数に驚く。ぐちゃぐちゃ電線。これでは毎日停電するのも解る。そして一軒のみが停電した場合の原因を探すのに時間が掛かることは十分理解できる。複雑に絡み合った電線が、生き物のように街中を行き交っているのである。狭い道路の横には既に野菜を広げて売っている。ミニトマト、短めのダイコン、そしてカリフラワー・・・・・・。生きたナマズを売っている店もあった。ネパールは海のない国、よって魚は殆ど売られていない。唯一海の魚の干物が売られていた。 コインの木。コインが打ち付けられた仏像。近くでみるとネパール・ルピーの硬貨がクギで幾重にも重ねられて打ち付けられているのが確認できた。ちょっと遠目からみると「いったいアレはナンだろう?」と想像もつけられないような形状。立派な由緒のある仏像とのこと。地元の人たちはひっきりなしにやって来て、仏像の中央部に右手を伸ばし祈っていた。何千枚?ものコインが釘付けされている。歯痛を治す神様が祀られているとのこと。散歩の道には多くの野良犬が屯したり、横に寝ている。ただし殆どの犬が吠えずに物静かなのである。しかし朝から元気に子孫を残そうと頑張っている我々と同じく4人組が。朝から誠にご苦労様なのである。既に道端で髪を切ってもらっている者も。手に載せたうどん粉の液体を油鍋に見事に注ぎ込み、リングドーナツが出来上がって行く。ただ、揚げ油が古そうだ...。1つ買って食べて見たかったが、胃もたれしそうな感じの為断念。でも、1個10円ならこの油でも仕方ないのかもしれないが。衛生面も若干気になるところではあるが、高温の油で揚げていて、中までしっかり火を通しているので、大丈夫な気もするが...。ネパールで過剰に衛生面を気にしすぎると、ローカルな旨いいものを食べ損ねるばかりか、生活ができなくなってしまうのではと感じた。もちろん、自分の身を守るための、必要最低限の衛生・清潔はこだわる必要があるが。タメルとダルバール広場の中間地点くらいにあったストゥーパ。このカトマンズを代表するストゥーパはネパール人の熱い信仰の対象であり、それ自体がマンダラの構造をなしているとのこと。描かれた目は四方を見渡すブッダの知恵の目であり、常に変わることなく世界を照らしているというから、崇高にして有り難い図像なのである。日本では常に仏様の顔も姿も荘厳で慈悲に溢れるものとして造形されるが国と民族によって変容する仏の一端を見たように思ったのは私だけであろうか。約2時間弱の早朝散歩を楽しんだが、ネパールには日本でおなじみのコンビニがないのである。海外でも良く見かけるセブンイレブンもファミリーマートもない。早朝散歩時は必ずコンビニでお茶を買っていた私としては、ちょっと寂しいのであった。それでも、外国人が集まるこのタメルには大きめの雑貨屋さんはあった。飲み物(アルコール類も含む)、お菓子、シャンプーやトイレットペーパーや洗剤などの日用品、チャウチャウ(インスタントラーメン)などが売られていた。日本のコンビニと違うのは、弁当類がないことと雑誌類がないことくらいであろうか。店の広さも、日本のコンビニと同じくらい(地方にあるコンビニ限定)ということは、かなりコンビニに近いということか。9時には今回の旅行をアレンジしてくれた、このカトマンズでトレッキングツアーの会社の社長であるRam氏が、ホテルに来てくれることになっていたため、ホテルに急いで戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2010.10.17
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンク今日からネパール旅行。『世界の屋根』ヒマラヤ山脈がはぐくむ壮大な自然と輝かしい文化の精髄に触れる旅である。今年は会社の先輩、後輩4人の男だけの旅である。4500万年以上前に、大陸だったインドがユーラシア大陸に衝突し、8000m級の山々がそびえるヒマラヤ山脈が形成されたのである。この山々に抱かれた肥沃なカトマンズの谷では、仏教とヒンズー教が融合した独特のネパール文化が発展し、街並みや暮らしの中に深く根付いているのだ。 早朝5時起床。9時の成田空港到着を目指して、前日会社からの帰宅後タクシー会社に早朝配車のTELをするも、3社とも何故か既に予約で満車であるとの回答。よって小田急線の駅まで徒歩でトランクを転がして行く事を決意。5時半に妻に見送られ自宅を出る。小田急線に乗り地元JR駅に到着後、成田空港行きのバス停に6時過ぎに到着。既に6:15発のバスに乗るために5人の外人がバスの到着を待っていた。バス乗車券を3700円で購入。バスに乗り込むと茅ヶ崎駅から乗車のSさんが迎えてくれた予定より早く8:20に成田空港第2ターミナルに到着。9時集合であったが既に76才のHさんは到着していた。もちろん今回もエコノミークラスでの旅。早速3人でチェックインの列に並び残り1名のIさんの到着を待つ。全員チェックイン、出国手続きを済ませ11:00発のキャセイ航空香港行きに搭乗。定刻に出発そして離陸。早速機内昼食が出た。そして昼食後機内から窓の下を覗くと、鹿児島県の薩摩半島の南端に位置する開聞岳と池田湖が見えた。別名薩摩富士とも言われている如く見事な円錐形の山容である。昔、池田湖には巨大水棲生物が存在していると噂され、ネス湖の未確認生物ネッシーになぞらえて「イッシー」と呼ばれていたことを思い出す。そして台湾上空へ。下には台中空港が。若い頃台湾出張時に移動に利用した懐かしい空港である。香港空港到着。巨大なハブ空港である。3.5HRのトランジット。4人で免税店巡りを行う。ホテルの部屋での宴会用に高級?ウイスキーを2本購入。空港待合室の横で開かれている香港の歴史や京劇の展示を楽しみ待ち時間を過ごす。そしてドラゴン航空のバングラデッシュのダッカ経由でネパール・カトマンズ行きに搭乗。予定どうり18:05発のKA192便でDhaka(ダッカ)へ。以前は香港からカトマンズへの直行便であったが、利用客を増やすためにこの10月からバングラデッシュのダッカ経由に変更となったのである。ドラゴン航空の機内夕食 鶏肉入りのパスタ。現地時間20:00にダッカ到着、そして機内に待つこと1時間半ほどでカトマンズへ向けて離陸。現地時間22:40に無事ネパール・カトマンズ空港に到着。ネパールと日本の時差は3時間15分。細かい15分と言う数字は何が目的?空港内にはWELCOM TO NEPALと画かれたエベレストの写真が迎えてくれたのである。荷物がなかなか出て来ず、そしてコンベヤーの不調もあり手間取ったが無事回収。『水戸黄門 ご一行様』と書かれたプラカードをもって、現地のトッレキング会社のバイジャラさんが迎えてくれたのである。車でホテルへ。そして現地通貨であるネパールルピーを各自1万円分バイラジャさんが準備してくれていたのである。心憎い気配りに皆感謝。深夜のため両替が出来ないのであった。左上から下に1000、500,100ルピー、 右上から下に50、20、10ルピー。車で30分ほどでホテルへ。チェックイン後早速部屋で宴会。そして7時からの早朝散歩を約束して、2:00に各自部屋に戻り就寝したのであった。 ・・・つづく・・・
2010.10.16
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11時間半の帰国のFLIGHTで成田空港に定刻に着陸した。そして何故か、切り取られていない大韓航空の搭乗券が私の手元に残っていたのであった。手荷物カウンターA5に向かう。荷物も無事帰国。それにしても日本は荷物の出が早い事を再認識。荷物を引き取り、お世話になった添乗員、ご一緒した皆様に挨拶の後、茅ヶ崎行きのリムジンバスにSさんと共に乗り帰宅したのであった。旅行中の3人の主なトラブル(明らかになっている?もの)は以下の通りか。(1)Hさん 睡眠不足による高山病、これに伴う下痢による食欲不振 ?????????????????????????(2)Sさん バスの中での財布落とし ?????????????????????????(3)Kさん イグアスの滝でのデジカメの水濡れに一時作動不良 寿司バーでの帽子置き忘れ ロス空港での搭乗券紛失⇒再発券⇒機内で発見 ????????????????????????? ロスからの帰りの飛行機の中、眠ることができないので、目をつぶって旅の始まりから反芻する。10日があっという間に過ぎてしまった気もするが、1日1日を思い返すと毎日が新鮮な驚きの連続で実に充実した日々であった。ペルー、アルゼンチン、ブラジルと眠る暇もなく走り回った旅であった。地球の赤道上1周を遙かに超える約42,000kmを10日間で移動する旅であった。しかしほんの一部をのぞき見たに過ぎない。まだまだ見たい所がいっぱい残っている。高山病が心配であったが今回の旅で少しは自信がついた。いままで海外出張や海外旅行の折りには、朝早起きして極力ホテルの近くの散歩や生鮮市場のぞいてみることをTRYして来た。生鮮市場はその国の庶民文化を垣間見るための一番手っ取り早くて、楽しい方法であると感じているからだ。生鮮市場はその地の文化独特の臭いが溢れて、ごった返して、活気に満ちて・・・・・・この雰囲気が好きなのだ。今回は時間に追われ早朝出発の連続であり、これが叶わなかった事が残念でならない。 日本人にとってペルーとは数年前まで、日系人のフジモリ大統領がいたということでなじみのある国。マチュピチュ、ナスカの地上絵、クスコをはじめとする、著名な世界遺跡のあるこの国を発展させたのはまぎれもなくフジモリ大統領ではなかったか。そんな歴史的、政治的関連のあるペルーだが、とにかく景色が美しかった。青い空があまりにも近かった。青い空があまりにも広かった。空気が薄い分だけ透明感がすごかった。天候にも恵まれたのであった。こんなに空を見上げたことがあっただろうか。風情のあるインディヘナ(原住民)たちもその情緒あふれる美しい景色に妙にマッチしていると感じたのであった。とりわけ、その昔インカの首都だったクスコは、その当時の面影が残り、行きかう人々も民族衣装に身を包んだインディヘナ、そしてその血を色濃く受け継いだメスティソ(白人とインディヘナの混血)と深く印象に残ったのであった。クスコのアルマス広場を歩いていると「ああ~南米そしてペルーにやって来たな~」という実感が溢れるように湧いて来たのであった。決して豊かではない上に恥じらいがちなインディヘナに対し、妙に親しみを感じた のは、数々の過去の冒険者を魅了し続けてきた雄大なインカの歴史の末裔だからであると確信したのであった。【イグアスの滝】大小300近くの滝が幅2.7km以上に渡って連なり、絶えることのない轟音が熱帯雨林にこだましているのを今も鮮やかに思い出すのである。我々人類の想像もつかない歳月をかけて、水と大地はこの滝を誕生させ、そして今もこの大瀑布が営々と岩を削り、滝壺を浸食させ続けているのであった。【マチュピチュ】ペルーの世界遺産として有名な遺跡マチュピチュ。マチュピチュとは老いた峰を意味。この遺跡は、スペイン人から逃れるために、あるいは復讐の作戦を練るために、11世紀半ばから繁栄したインカ帝国の人々が作った秘密都市だったと。マチュピチュにまつわる多くの謎は、未だに解明されていないのである。標高2,280mの上にあり、山からはその存在を確認できないことから"空中都市"とも呼ばれているのだ。一度は訪れたいと思っていた地『マチュピチュ』。インカの歴史を深く刻む1ページに触れたとき、おもわず鳥肌が立つような感動。そしてインカの精密な石組みはこの山にも確実に存在していたのであった。【ナスカの地上絵】神秘と大きな不思議の謎に包まれた巨大な地上絵。これを実際自らの目で見て、誰がいつ何のためにそしてどの様な方法で・・ を益々知りたくなったのであった。やがては誰かが何らかの形でこの疑問に終止符を打つのであろうか。そしてこのナスカの地上絵の研究に生涯を捧げ、砂漠に住み込み、ワラ箒で地上絵の線を掃き清め、研究と保存に努めたマリア・ライヘへの思いを馳せるのであった。 そして来年は何処へ感動の旅に出ようかと・・・・。ネパール、南アフリカ、トルコ、クロアチア、ロシア・・・・・・・・・。 EL FINGracias por acceso
2009.06.14
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久しぶりの和食を堪能した後は、リマのホルヘ・チャベス国際空港に向かう。LAN航空のカウンターでチェックイン。空港ロビー。リマ0:05発のLA600便でロサンゼルスへの8時間45分の飛行であった。空港ロビー内をしばし散策。Sushi(寿司)BAR を発見。時間待ちの間、空港のSUSHI BARでまたまたにぎり寿司と枝豆で反省会。そしてロサンゼルスから再度アメリカへの入国。行きと同様に厳しい入国審査を受ける。指紋検査では、既に往路時に登録されたせいか個人差があったようだ。私は往路と同様に全ての指の指紋検査を再度受けたのであった。大韓航空KE002便にチェックイン。ノースウェスト航空NW3972との共同運航便。搭乗便。機内。そして最初の機内食は往路と同じビビンバ。良く掻き混ぜて。そして2回めの機内食。そしてなかなか眠れないので、日本時間に合わせて睡眠誘導剤を飲み即爆睡。そして無事に成田空港に到着したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.13
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リマへの帰路の途中、水の流れている川を見つける。流石に川の周辺には緑が。そして遠くには緑なき荒野が拡がっていた。ハイウェイの道端に『KEIKO FUERZA 2011』の看板が点々と。人権侵害や汚職などで刑事訴追されているペルーのアルベルト・フジモリ元大統領の長女で国会議員のケイコ・フジモリ氏(32)が新党を結成し、2011年の大統領選挙への出馬をするとのこと。新党の名前は「フエルサ2011(Fuerza 2011)」で、自身が党首を務めるという宣伝ポスターなのであった。立候補の理由について「父が無罪で、国民も父を懐かしんでいると確信しており、世論調査でもそれが証明されているため」と説明、「正当な大統領候補がアルベルト・フジモリなのは明白だが」と。道端にはマリア像?の如き像が。LIMAまで276KM の表示板。パナメリカナ・スール自動車道をひたすら北上。途中、警察によるスピード違反検問に我がバスはひっかかった模様、停車すること20分。もちろん添乗員からの説明はなくリマへの道を進めたのであった。段々と夜が迫って来た。リマ市内に入り「カテドラル(リマ大聖堂)」(Catedral de Lima)を車窓から。夜のリマの名所をバスから眺めた。旧市街の中心にある「アルマス広場」(Plaza de Armas)。リマ市役所が見えた。そして夕食のため日本料理店『富士』へ。久しぶりのにぎり寿司の夕食を楽しんだ。この後日本に帰国までは機内食の連続であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.12
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いよいよナスカの地上絵に出発である。ホテルの中庭には美しいプールと椰子の木が。そして6:00に朝食後バスにて6:50に出発。久しぶりに出発時に外が明るいのであった。立派なヤシの木?観光バスにてナスカの地上絵のセスナ基地に向かう。20分で到着。駐機場にはセスナ機が朝日を浴びて出を待っていた。幸い観光客は未だ少ない。余り時間を待たずに乗れそうだと。2~3時間待ちは驚くことでは無いという。利用するセスナ機会社はAERO CONDOR社。待合室には時間が早く他のツアー客の姿はほとんど無く。ここにも、マリア・ライヘの図が。待合室で待つこと15分ほどで搭乗出来ることに。荷物検査を受ける。検査の後に滑走路横の駐機場へ。入り口でパイロットが待っていた。現地添乗員のアドバイスでチップを各自1ドル。上空でのサービスが違うという?そして搭乗機の前でパイロットを交えて記念撮影。パイロットはベテランそうで一安心。撮影者の私を含めて客5人での搭乗。私は最後部座席左側に座り、かなりのプロペラ音の中 離陸。下にパンアメリカン ハイウェイが見えて来た。緑の田園風景が眼下に。これが「ナスカの地上絵」の配置図であったが、頭に入っている訳でもなく。 【https://55096962.at.webry.info/201802/article_5.html】よりこのイラストを予習しておけばと今は反省。 【https://www.pinterest.dk/pin/726486983621694027/】より地上絵があるような、ないような時間がしばし続く。パイロットから「LEFT」、「RIGHT」と言われ、その都度左右下を見下ろすが・・・・。「不等四辺形」であろうか?ズームで。水の流れた跡が、ここは月面ではなく地球の表面。離陸後1分を待たずに『宇宙人』が見えた。他の絵と違って小高い丘の斜面に描かれていた。上空から眺めると、丸い目をした人間が右手をあげて「ヤー」と挨拶しているように見える不思議な絵だ。デジカメを構えたが、明るすぎて液晶画面がよく見えない。よって画面に地上絵が入っているのか、そして焦点が合っているのか全く判らないのであった。やはりこの様な時は一眼レフカメラでファインダーを覗きながらの撮影がBEST。もうシャッターを押しまくるしかないことを決断。飛行高度は150m前後であろうか。これが見えていたのであろう。 【https://www.travel.co.jp/guide/article/23497/】よりそして「滑走路」。500m、以上の長さか?次はクジラ。なぜ古代インカ人はクジラの存在を知っているのか。クジラはこのペルー海域にいたのであろうか。右斜め上に「クモ」の頭のみ写っていた。「犬」。右を向いていた。手足と尾がやけに長い。これは旨く?撮れていた。「猿」。丸い同心円状の尾の部分の上部が雨水の流れにより?かき消されてしまっている。平らな大地の上に「ハチドリ」が見えてきた。望遠で撮影。荒涼とした風景の中で、蜜を吸う長いくちばしをもった「ハチドリ」の姿が心を和ませてくれた。最も保存状態の良い地上絵の一つであることが判った。そしてふと我が家のミツバチ嬢たちを思い出したのであった。下向きの「コンドル」が見えてきた。両翼を広げたコンドルの姿は雄大である。ハチドリと同様、輪郭が鮮明に残っている地上絵の一つだ。「オウム」の嘴が写っていた。翼を広げたオウムと呼ばれているが、コンドルと呼ぶ人もおり、何を描いたかはっきりしない絵の一つであると。フラミンゴは旨く撮れた。砂漠の中に砂漠に立つミラドール(観測塔)。左に 木、右に 手 が見えた。ナスカ空港沿いの、パンアメリカン・ハイウエイ。そして着陸へ。かなり右に、そして左に旋回しながらの急降下の繰り返し。昨日のアルコールが残っていたのかやや酔いの症状が出てきたが、30分の遊覧飛行を大いに楽しむことが出来た。天気により、そして見る角度によりいろいろな色の地上絵が鑑賞できるのであろう。そして見えてくる絵の順番も座席の左右、そして当日の気流等により変わるのであろう。この日は快晴。初めはもっと太い線で見えると思っていたがかなり細い線で出来上がっていることを実感。いつまでもいつまでも大切に子孫に残しておきたい世界遺産であった。我々が乗った6人乗りセスナ機である。ナスカの地上絵・フライト(Vuelo)証明書をもらう。ナスカの飛行場の前の土産物の店。まだ観光客もまばら。店の間から出番を待つセスナ機が見えた。予想外に早くナスカの地上絵観光が完了したため、ナスカの街へ立ち寄った。バスのフロントガラス越しのナスカの街並みである。ナスカ広場公園の芝生も地上絵の猿の図柄に植栽されていた。こちらは「猿」か?日本からの添乗員もややお疲れぎみか?こちらは「手」か。リマからの現地添乗員のOさん。「ナスカカトリック教会」が広場の向かいに。ベンチにも地上絵の「クモ」と「コンドル」が。こちらは「ハチドリ」と「猿」。路地裏では数m下がった地下水路を利用して洗濯をしている主婦の姿があった。ここは洗濯場として公認されている場所なのであろうか?現地添乗員の知り合いがやっていると言う、インカの土器の製作工場へ立ち寄った。(高見山+フセイン)を2で割った顔の、人の良さそうなオジサンが、土器の製作工程を丁寧に説明してくれたのだ。7種類の釉薬(ゆうやく)を使って。オジサンの作品のインカのマスク。様々なマスクが。そして壺も。昼食は中庭に花の咲く小綺麗なレストランで。そして皆仲良く。前菜はオムレツ風。そしてメインはハヤシライス風。庭には名前は判らないがポインセチアに似た真っ赤な葉の木が目を楽しませてくれた。日本で販売されているポインセチアはこれを品種改良したものなのであろうか?さらに胸と頭の上が真っ赤な小鳥が。ネットで調べると、アカフウキンチョウに似ていたが・・・・。この巨大なサヤエンドウの如き実を付けている樹の名前は?ネットで調べてみると真っ赤な花の咲く「ホウオウボク(鳳凰木)」と呼ばれる樹であるようだ。そう言えば、昔、沖縄でも見た記憶が。食事終了後、リマへの450kmの帰路のバス移動の開始。料金所。ひたすらの直線のハイウェイ。地上絵観測塔 (ミラドール、Mirador)が姿を現した。ナスカの地上絵「LINEAS Y GEOGL IFOS DE NASCA」の文字が。パンアメリカン ハイウェイの横にある地上絵観測塔 (ミラドール、Mirador) に昇る。地上絵の研究家として有名なドイツ人女性考古学者、故マリア・ライヘ女史が地上絵の観察のために建てた20mほどのやぐらである。最大10人との表示が。櫓の上からは「木」と「手」の地上絵が真下に見えた。「木」。「手」。この様に見えていたのであった。「木」は展望台からは逆さ、手の片方は4本指。パンアメリカン ハイウェイはアルゼンチンの先端まで続いているのである。そしてこの道を反対方向にリマまで450kmをひたすら戻ったのであった。上空にはナスカの地上絵の観光用のセスナ機が音を響かせて飛行。我が観光バスを再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.12
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早朝5:30 誰一人遅れることなくバスに乗車し、クスコの空港へ向かった。まだまだ皆元気である。疲れたとは言いながら、見逃してはならじの貪欲さを持ち続けているのであった。我々3人もいわんやおやであった。空港にてチェックイン後待合室へ。我々のFLIGHT便は7:35発 LAN LPE024便。ところが7時を過ぎてもスポットに飛行機が到着しない。その内アナウンスがあり、濃霧によりリマからの便が着陸できずに上空を旋回中のため30分程度遅れる模様と。出発時間が7:35から7:50に変更の表示が。やむ無しと待っていると係官がパネル表示を更に取り替えた。『Delayed』の下に『Canceled』と。空港係員も忙しそうに。この後の我が添乗員のMさんのリアクションのすばらしさに感激。全員のパスポートとe-TICKETをとっさに集め出した。次の便を予約するのは早い者勝ちなのだ。そしてカウンターでなにやら真剣に交渉。お陰で2時間遅れの9:30 LP115便に登場できるとの情報。なにせツアーであるので18人全員が同じ便に乗る必要があるのだ。やれやれと一安心。この辺が添乗員の能力の見せ所であると実感したのであった。やはりこの便も1時間遅れの10:30に漸くリマに向かって離陸したのであった。そして約1時間でリマにある、ホルヘ・チャベス国際空港へ到着、ターンテーブルで荷物を待つ。時間は既に11:40を過ぎていたのであった。ホルヘ・チャベス国際空港を空港ロビーから。ペルーの首都、リマにある国際空港。空港名は航空黎明期のパイロットで、当時の高度記録を打ち立てたホルヘ・チャベスにちなむ。空港ターミナル。ペルーの案内板はスペイン語と英語を併記。添乗員に案内され、空港ターミナルの外へ。リマ空港で待つ現地添乗員には既に連絡が入っていた模様。スケジュールでは、リマ市内観光があったが約3時間遅れたので、一路ナスカへ向かう。バスに乗り450kmの移動が開始された。空港にはペルーの旗が快晴の中たなびいていた。リマはペルーの首都で、ペルーの人口のおよそ3分の1が生活する。人口800万人以上が暮らす南米有数の都市、ぺルーの首都「リマ」。リマの歴史地区にはキリスト教の文化遺跡が点在し、街を歩くだけでペルーの長い歴史を感じることができる観光地であったが・・・・・。ロータリーに各国の国旗が掲揚されていたが何か国際的なイベントが?バスの車窓から正面を。リマの教会を車窓から。バスは太平洋側を走る、パラグライダーが舞う太平洋海岸。はるかかなたには日本が・・・・・・・。昭和35年(1960)5月24日早朝来襲したチリ津波もここより南から日本へ。バスは海岸道路を南へ。途中バスの車窓から、アモール公園(Parque del Amor)内にある『恋人たちの公園』のモニュメントが見えた。激しすぎるのであった。海は太平洋。はるか日本まで海は続いているのだ。ユニークな外装のビルは「JW マリオット ホテル リマ」。海岸沿いの丘いや断崖の上にビルが建つ。海岸通りにあった三角錘のモニュメント。この付近はミラフローレス区。断崖絶壁の僅かな空地に高速道路が走っていた。そしてこの砂地とも思われる法面を、剥き出しの断崖上に大きなビルが建っているのであった。日本では考えられない光景であった。女性を見上げる男の像。太平洋岸の海岸、小さな船は釣り船か。海外沿いのチョリーヨス地区にある岬のモロ・ソラル(Morro Solar)山頂には鉄塔が林立。モロ・ソラルは、1881年のペルー軍とチリ軍の間のサンフアンとチョリーヨスの戦いの場所であることで有名であると。海岸沿いの砂山の上には市民住宅が建ち並んでいる。上まで道路があるのか、電気は?水道は?INSTITUTO NACIONAL DE SALUD(国立衛生研究所)と書かれたゲート。住宅が建ち並ぶ砂山が続く。高速道路料金所。未だETCは無く。砂丘の斜面には一面に植栽が。途中、時間に追われながらも『パチャカマック遺跡(Santuario Arqueologico de Pachacamac)』に立ち寄る。この建造物群は、ペルー海岸地帯の最も重要な先スペイン期の聖地であったとのこと。当時全国各地から常時巡礼者が訪れた場所とのことであった。パチャカマック遺跡は首都圏リマの中心より約40キロ南東のルリン川の谷にある約600ヘクタールの区域である。紀元200年頃より崇められていたこの世の創造神パチャカマック(Pacha Kamaq)にちなんで命名された。この場所はその後、スペインの侵略まで約1300年にわたり栄えたのだと。パチャカマックは、ケチュア語で、「パチャ」は「天地」、「カマック」は「創造者」と意味するのだと。インカ帝国に侵略される前にあった、イシュマ文化時代に作られたとみられるピラミッド。階段のあるピラミッドは15個あったのだと。砂漠地帯にあるので緑が無く。南北の一本の道がずっと続く。この道から多くの発掘物が出たと。壁は日干し煉瓦でできていた。まだまだ発掘調査中である様子。これもピラミッドであったのだろうか?「太陽の神殿」。「太陽の神殿 入口 Templo del Sol」。「太陽の神殿 入口 Templo del Sol」案内板。「太陽の神殿 入口 Templo del Sol」に近づいて。「太陽の神殿 入口 Templo del Sol」を正面から。巨大なサボテンも。この遺跡の見学のための遠足とのことで、現地の子供達も歓迎してくれた。子供達の笑顔は万国共通なのであった。広大な『パチャカマック遺跡(Santuario Arqueologico de Pachacamac)』。『パチャカマック遺跡(Santuario Arqueologico de Pachacamac)』案内地図。「ARTURO HMENEZ BORIA」と書かれた銅像。ペルーの医師、民族学者、画家、作家であるらしい。ツアー人数が17名のため中型観光バスでナスカへ移動したのであった。海の中にはパチャカマック島が。小型タンカーの姿も。砂の岬が太平洋に突き出ていた。パナメリカナ・スルー自動車道をひたすら進む。途中の車窓からは砂漠の中、白い小屋が連なっていた。養鶏場とのこと。砂漠の山をぬいながら、バスは走り続けるのであった。砂山を削って高速道路を施設。飛行機の遅れで、遅い昼食をとるためにレストランへ。飛行機が大きく遅れたため、レストランでの昼食は、別のレストランからの仕出し弁当に変わっていた。海鮮入りパエリアの如きもので、サラダ付きで非常に旨い。野菜サラダも付いていた。レストランでビールを購入しバスに持ち込み食前酒としたのであった。このような交通機関の遅れ等の非常時用に食事に関するリスクマネージメントも確立しているのだ。またまた感激したのであった。この辺が現地添乗員の腕の見せ所なのであろう。このレストランの前に巨大なサヤエンドウの実がぶら下がった木があった。幅30mm、長さ400mm。現地では『ポンセアニ』と呼んでいるとのことであったが『フラボヤント』か?赤い花が咲くネムノキ?そしてバスでの450kmの長旅も終わり、ナスカのホテル『HOTEL NAZCA LINES』に到着したのであった。時間は19:40。ホテル内には「ナスカの地上絵」の配置図が。マリア・ライヘが描かれていた。ナスカの地上絵の場所で測量をするマリア・ライヘ女史の姿であると。このホテルはナスカ研究の第一人者 マリア・ライヘが常宿としていた高級ホテルであるとのこと。ロビーの壁にはマリア・ライヘの写真や功績が展示されていた。そしてナスカの地上絵のパースを見ながら、いよいよ明日はナスカの地上絵の上を飛ぶのだと・・・・。そして夕食は、アスパラガスのスープと五目焼きそばの如きパスタ。名前は忘れた。アスパラガスのスープ。五目焼きそばの如きパスタ。アイスクリーム?ホテル内のプール。夕食に飲んだワインをもう1本購入し部屋でのワインパーティー。明日はどの様な光景が眼下に拡がるのかを語り合いながらの深酒となってしまったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.11
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更にマチュピチュの観光を続ける。ワイナピチュ登山への入り口まで行き、ここから引き返しながらの散策を進める。中庭越しにインティワタナが頂上に見えた。建物越しに、「日時計(インティワタナ)」を見る。遠く見張り小屋と街並みが一望できた。手前には「庶民の居住区」。「見張り小屋」の先にはマチュピチュ山が聳える。リャマの姿が。インカ帝国においては、重要な儀式の際に生贄として捧げられたといわれる。特に、真っ白な毛のリャマと濃いこげ茶(黒に近い)のリャマは生け贄用として珍重されていたらしい。マチュピチュ中央市街地の「貴族の館」入り口の門。何故か上部に木材が使われていた。貴族の住居は大きな石を隙間なく積み上げてあるが、庶民の住居は不揃いの小さな石が積み重ねてあった。いつの世も庶民は大変なのだ。この辺りで青銅器や土器が多く見つかったことから、この地域は「技術者の居住区」と言われている。そこに建つ小屋のひとつには、内部中央に丸い石がふたつあるが、利用目的ははっきり判っていない。ハイラム・ビンガムが発見した当時、彼のガイド役を務めた地元の少年がこれを石臼にして食事の準備をしたことから、石臼と呼ばれる根拠になったと言われている。最近では、これに水を張って直視出来ない神である太陽を、間接的に見るための水鏡であると説明したり、夜間の天体観測を行ったと説明したり、各種説明がなされているようだ。「技術者の居住区」に入ると、直径60cmほどの丸い石が並んでいた。「天体観測の石」とも呼ばれている。石臼という説もあるが、水を張って、鏡または反射鏡として使ったのではないかとも言われていると。出口門からアンデネス(段々畑)とマチュピチュ山を見る。「コンドルの神殿」。「コンドルの石」盗まない・怠けない・だまさないの掟を破ると刑が下されたと。「コンドルの神殿」を振り返る。コンドルを連想させるような建造物。神に祈りを捧げる神殿であったと。 囚人を閉じ込めた牢獄だったという説も。アンデネス(段々畑)とマチュピチュ山、中腹にはインカ道が見えた。石積みの壁の間を進む。リャマ達がのんびり草を食んで。貯蔵庫と手前にアンデネス・段々畑。再び白き山頂の山を。「水汲み場」。街の中には16の水くみ場があるという。すべてマチュピチュ住人の生活用水に使われた。畑にひかなかったのは、朝から立ち込める霧が十分畑を潤したから。この水の量から、マチュピチュの住人は多くても750人程度と推測されていると。石の壁から流れ出す水は、遠くの山から石の水路を使って引いているとされるが、水源は特定されていないのだと。石の階段に沿って水が流れていた。陵墓と呼ばれている、「太陽の神殿」の下部。「太陽の神殿」。陵墓の上が美しい曲線の太陽の神殿 マチュピチュのなかでもとくに精巧な建造物 。インカ族の3つの神聖な空間とされる 死者の世界・生者の世界・神の世界を表している と。神殿の中は工事中とのことで入れなかった。石をブラシで洗っていた。ここが「陵墓」の入口であったのだろう。こちらでも。右と左の石積みの精度が異なる場所。この上に上がりたかったが・・・。美しいカーブを描いた壁と日の出の方角を向いた窓が巨大な石の基礎の上に建ってた。ネット👈リンク より。「太陽の神殿」の正面側への入り口。下の部分の穴は歴代インカの墓という意味で「陵墓」(Tumba Real)と呼ばれていると。陵墓に向かって左側に進むと、女王の宮殿に通じる道があり、一枚岩の階段があった。マチュピチュ内に数か所ある一枚岩の段々であるようだ。階段を上った場所にあったのが、「女王の宮殿」と呼ばれる場所。そして再びワイナピチュ山と歩いて来た遺跡群を振り返る。居住街が一望でき、右側に「太陽の神殿」。左斜の階段を登っていくと、市街地入口の門に辿り着くのであった。ワイナピチュ山を挟んで左に「インティワタナ」、右に「3つの入口の家」方向。出口にだいぶ近づく。上部に「貯蔵庫」の一つ。マチュピチュにバスで登ってきた、曲がりくねった白い道が見えた。約3時間の散策で、マチュピチュ遺跡出口へ。ツアー会社から「登山証明書」2009.06.10 をもらう。約2時間半でマチュピチュのフルコース(赤+青のルート)を巡った。左斜め上が入り口、そしてワイナピチュの峰に向かい右の赤い道を。そして青の道を戻り、再び赤の道に入り帰ってきたことになる。昼食は唯一遺跡内にある「サンクチュアリーロッジ」にて。レストラン内は満席であった。遺跡内で昼食後、シャトルバスで下山の途に。ホテル「サンクチュアリーロッジ」の看板。シャトルバスでマチュピチュ駅(アグアスカリエンテス駅)に到着。インカ風模様生地など並べたショップを覗いてみた.総じて原色が多用され,ちょっと派手目,楽しい絵柄が目立つ.こうしてまた高原列車の駅に向かった。アグアスカリエンテス駅発、13:58発の高原列車に乗車。来る時は乗車券の合計は、39US$であったが、帰りは32US$と何故か安い乗車賃 :US$ 26.89Tax 19%: 5.11 Total : 32.00ウルバンバ川沿いの浄水設備。帰りの高原列車の車窓からもいくつもの遺跡が確認できた。ウルバンバ川と遠く雪を頂いているアンデスの山。白き山頂をズームで。民家そして吊橋が見えた。山肌に緑はほとんど無く。周囲の山もウルバンバ川に浸食され。約1時間半でオリャンタイタンボ駅へ到着。マチュピチュからの途中にあるインカの大要塞・オリャンタイタンボの村に立ち寄る。石畳の路地を歩く。道の中央に排水路が整っていた。村の中の小路で少年がインカの歌を歌ってくれた。そして村の小道で山羊を抱く女性。ある民家の中へ入れてもらった。ここではモルモットを食べているという。たくさんのモルモットが餌を飯でいた。室内の棚には祖先の頭蓋骨が祭壇に置かれていた。スペイン軍に侵略される中、ここオリャンタイタンボを要塞としたインカは一度も敗れなかったという。階段状のものは段々畑。これもインカを印象づける遺跡で、インカの壮大さを存分に物語ってくれていた。やはり対岸の山にある見張り小屋、あるいは穀物倉庫といわれる遺跡。段々畑の上に、オリャンタイタンボの要塞があり多くの観光客が登っていた。対岸の山にあるヒゲをはやした老人の顔を思わせる岩。自然のものか?それとも人工のものか?オリャンタイタンボの村を約30分観光後、バスに乗り込む。此処にもアルマス広場が有り、オリャンタイ将軍像が。遠く谷底に白い棚田が見えてきた! マラスの塩田だ。バスのドライバーが現地添乗員に説明してやれと。アンデスの渓谷から突如流れ出す湧き水は高濃度の塩水であったことから、太古の昔、これを渓谷の斜面に作った塩田で天日干にすることで、塩の生産が始まったと。一見、山の残雪のようにも見えた。海から遠く離れたアンデスで唯一生産された貴重な塩は、インカ帝国時代、その生産を帝国が一括管理して、広大な領土に分配ししていたと伝えられているという。ここ、マラスの塩田も見学したかったがバスは一路、クスコへ向けての峠越えへ。峠に向かう途中、雪を頂いたアンデスの山々。アンデスに沈む夕日で山々が赤く光り素晴らしい景色を見せてくれた。途中、車窓からピンクのビニール袋を竹の先につけ、家の軒先から通りに向けて掲げている家が所々に。これはこの家で自家製『チチャという名のトウモロコシのドブロク』を販売しているとのしるしとのこと。昔はレタマと言うエニシダの花を先端に付けていたという。そして峠越え。私の腕時計の高度計は3800mを超えた数値を示していた。峠を越えると、クスコの美しい夜景が見えて来た。モノトーンとも言える全部同じオレンジ色がかった黄色の光は、昼間拡がる煉瓦色の瓦屋根と同じく、すばらしい光景であった。この地は派手な照明やネオンサインは禁止されているとのこと。漸くクスコ市内のホテルに到着しチェックイン。この日はトリプルルーム。ホテルの客室前の廊下には、ここならではの絵画?がいくつも飾ってあった。夕食を食べながら、早速民族衣装に身を包んだインディヘナの演奏するフォルクローレの歓迎を受けた。ここで『コンドルは飛んでいく』を聴きながら遙々この地までやってきたな~~~~との満足と感激が。おもわずI'd rather be a sparrow than a snail, Yes, I would, If I only could, I surely would . . . hmm と口ずさんでいたのであった。夕食は高地のためアルコールは禁止と!!!料理は、ペルー名物の地鶏料理とスープであったが、メインディッシュは撮り忘れ。そしてまた、明日は4:00にモーニングコール、5:30出発との添乗員の声。いよいよ今回最後の観光地、ナスカの地上絵へのクスコから片道450km以上のバス移動が始まるのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.10
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南米の旅六日目のいよいよ今日は、待望のマチュピチュ観光である。昨夜は高度順応の為、クスコより標高の低い2800mのウルバンバにて宿泊。3000mを切ると高山病らしき弱い症状もだいぶ楽になった。ちなみにウルとはケチュア語でミミズを意味し、バンバは谷なので直訳するとミミズの谷の意。これはウルバンバ川の水の流れから由来しているそうだ。ここはインカ時代では聖なる谷とされていた。現在ではクスコの人々にとっての保養地。現在、人口約2万人の村、主に農業と観光で生計をたてているという。モーニングコールが3:15であったが、早めに起き日本から持参のカレーを食べる。我が腕時計は、標高 3040mを示していた。準備を完了しホテルの外へ出て、暗い中「HOTEL ROYAL INKA PISAC」の看板を見上げる。ホテル前には近郊の観光写真が。ホテルのロビーには、PISAQ(ピサック)からマチュピチュまでのルート図が描かれていた。数字はCUSCO(クスコ)からの距離、ピサックの32kmはクスコから。OLLANTAYTAMBO(オリャンタイタンボ)これからバスで、オリャンタイタンボへ向かうが、距離は、97-32=65kmか。MACHUPICCHU(マチュピチュ)オリャンタイタンボから高原列車でマチュピチュへの距離は、110.5kmとなる。ホテルの暖炉。ホテルを4:30に出発、バスは約1時間悪路の中真っ暗な山道をウルバンバ川に沿って走り、列車の出発点であるオリャンタイタンボ駅へ無事予定時間に到着。早朝出発のため旅友の皆さんはバスに揺られて爆睡重いスーツケースはバスに預け、必要なものだけを持ちバスを降りる。駅舎内には早朝のため人影は殆どなし。ペルーレイル(Perurail)の時刻表。オリャンタイタンボ駅のチケット売り場(BOLETERIA)。まだ早朝で人が殆どいなかった。駅前にはカフェがあり、既にOPENしておりピザ、エスプレッソを販売。ビスタドームと呼ばれる列車で、オリャンタイタンボ駅からマチュピチュのふもとにあるアグアスカリエンテス駅まで向かうのだった。山の上には満月が。時刻表を見るとクスコ ⇔ マチュピチュ間は、3本あり所要時間は約3時間。オリャンタイタンボ ⇔ マチュピチュ間の本数は、多数ある、所要時間は約1時間半。利用便は6:10発。座席は指定席制。進行方向右側後ろ向きが私の席。切符は乗車時回収されてしまうとのことなので、写真に撮った。金額はUS$39。もちろんディーゼル機関車。車両にもペルーレイル(PERURAIL)の文字が。列車は予定時間に出発、直ぐにチケットの確認に。オリャンタイタンボ駅を出発して、最初はのどかな畑の風景とか雄大なアンデスの山の景色が続き、右側もまんざら悪くないなと思っていたら、左側は、もっと絶景。そのうち右側は、崖ばかり。現地添乗員の了解をもらい、左側の空席に移動。左手のウルバンバ川の流れを満喫しながら、途中右手のアンデスの山々を楽しんだのであった。雄大なアンデスの山には積雪が。西の空には満月を過ぎた月、今日も一日天気が良さそうでひと安心。この駅で下車してインカ道へ向かう人が多くいるのであった。線路が単線のため、停車してオリャンタイタンボ行き列車を待つ。待っていたオリャンタイタンボ行き列車とすれ違う。列車はウルバンバ川沿いをゆっくりと進む。約1時間30分ほどで目的地のアグアスカリエンテス駅に到着。列車はここで折り返すのでディーゼル機関車は方向転換するのか。マチュピチュ村にある、標高約2000mマチュピチュ駅(アグアスカリエンテス駅)。駅前にある土産物屋の脇を抜けてバス乗り場に向かう。土産用ペナント。ケチュア語で「温泉」を意味するだけあって、マチュピチュ村の中央にはウルバンバ川が流れており、20分ほど歩いて山の中に入っていくと、露天風呂の温泉があると。アグアスカリエンテス駅からマチュピチュ遺跡へのバス料金。遺跡へのアクセスは専用シャトルバスで行くことになる。往復で14$と。まだ早朝の為かバス乗り場までの土産物屋は殆ど開店していない。山が幾つも見えたが、どの山の上にマチュピチュがあるのか?専用バス乗り場へ歩いて移動し、いざマチュピチュヘ!!バスは出発!最初は、川沿いの平坦な道を少し進み、橋を渡ったところに「Machupicchu」の看板。バスは、ハイラムビンガムロードと呼ばれる坂道を登り始めた。まるで日光のいろは坂状態。天気は快晴。バスの窓からは、アンデスの素晴らしい山々と青い空そして僅かな白い雲が見渡せ、絶景そのもの。そして、遂に待ちに待ったマチュピチュの姿が目前に現れたのであった。バスの中から思わず歓声が上がった。白人はこう言うときにもやけにうるさいのであった。バスは、マチュピチュの入り口に到着。ここで手洗いを済ませた。男性トイレは個別の便器はなく厠状態。前方にレストランが。その下がマチュピチュへの入口。最初に、『見張り小屋』へ向かう。この見張り小屋に向かうのがかなりの階段。しかし上り終わったそこには、マチュピチュの全景が。綺麗!!絶景!!!本当にガイドブックと同じ。山の上にこんな大きく美しい遺跡があるのが摩訶不思議。よく見る「空中都市マチュピチュ」が目の前に。山の中にぽっかりと浮かんで見えるような、景色は、まさに絶景。この景色が見たかった。この景色のために、はるばる日本から来たのだ。マチュピチュ遺跡 観光案内図。 【https://ameblo.jp/buron2000/entry-12038996429.html】よりマチュピチュ(老いた峰)は 「空中都市」または「失われた都市」と呼ばれている。15世紀前半スペインにより インカ帝国が征服されると スペイン軍はインカの都市をことごとく破壊し尽くしたが 標高2400メートルに造られたこのマチュピチュはスペイン軍に見つかることなく ほぼ無傷のまま残されたのだ。神秘的で幻想的で夢の世界。宮崎駿監督の作品「天空の城ラピュタ」のアニメはここマチュピチュをモデルにしたのだ。マチュピチュの総面積は5キロ平方メートル 、そしてその3分の2が山の斜面を利用した段々畑の農地になっている。岩は石切場から運んだことは理解できるが、農地の土はいったいどこから運んで来たのだろうか?まずは、貯蔵庫・コルカ Colca。この貯蔵庫・コルカ Qollqa (Colca) は、インカ帝国当時、とうもろこし、ジャガイモ、キヌアなどの穀物、乾燥させた肉や農具などが保管された場所であった。木造の屋根の部分は、当時の建設方法で、再建されていた。下側の屋根が復元された貯蔵庫とワイナピチュ。マチュピチュの街の最も高い位置にある「見張り小屋」を見上げる。「見張り小屋」は、下界からやってくる人々関所のような場所であった。Wayrana ウアイラナという3つの壁のみで建設された建設物となっている。太陽の光や、ほら貝の音などですばやく伝達していたとのこと。この隙間から見張っていたのであろう。「見張り小屋」の屋根。「見張り小屋」から見たワイナピチュ。マチュピチュの山の反対側にあるのがこの山。ワイナピチュの意味は『若い峰』とのこと。この山の頂上にはインカの建造物があり、周辺は段々畑に囲まれていた。望遠鏡で覗いてみるとこの山を登っている人が尾根づたいに見えたのであった。一日の登山者人数を制限しているとのこと。ズームでワイナピチュを。遺跡の発見はアメリカ人の考古学者ハイラム・ビンガム。1911年、ビンガムはインカの都市ビルカバンバの調査に来たところ、廃墟と化したマチュピチュを発見した。残念ながら、幻のビルカバンバではなかったが、いずれにせよすばらしい発見であったことには間違いない。見張り小屋から段々畑を見た。この一段を借りて野菜栽培が出来ればと・・・・。『インカトウ』農園と名付け、札を立ててみたくなった。「儀式の岩」。空中都市マチュピチュ遺跡から当時旅をする人などが旅路健闘を祈って、リャマなどの犠牲を捧げた石。周囲には墓地があったのだと。空中都市マチュピチュ遺跡に入るためにも犠牲を捧げたのではないかといわれていると。上部は平らな台のような岩。そしてその横には3段の階段が。これは、インカの遺跡には「3」を現すものが多くあるのが特徴で、「天上(宙)」「地上」「地下」という3つの精神的な世界観があったのだと。天と地上世界を結ぶ神が「コンドル」、地上世界を結ぶ神が「ピューマ」、地下世界を結ぶものが「へび」と考えられていたのだと。採石場とその下に段々畑が見える。段々畑はかなりの勾配である。市街地の入り口及び街の全景が見える。これがマチュピチュ市街地の「正門」。しっかりした大きな石により門が組み上げられていた。この正門を内側から見ると扉が取り付けられるように細工がされていることが分かると現地添乗員から。門の上部には縄を通すために使用しただろう輪が。門の左右には石に窪みが作られており、中にはやはり縄をかけることができるように石の棒が立っていた。これらを使用して縦棒、横棒で正門に扉を固定したのだと。同様の仕組みは同じマチュピチュ内の王女の宮殿の横の通路にも見ることが出来たのだ。上記の正門の扉の固定方法を絵付きで説明してくれた現地添乗員。「正門」越しにワイナピチュを見る。「正門」の内側。「正門」をくぐると前方にワイナピチュが堂々と。見張り小屋の下にはスケールの大きな段々畑・アンデネスがあることが解る。左手の山々を見ながら進む。段々畑・アンデネスを振り返る。「石切り場」には大きな岩がゴロゴロと。サクサイワマン遺跡は別の場所から石を運んできて建造されたのに対し、ここマチュピチュは遺跡内に石切り場が残っているのであった。手前から「石切場」、「神官の館」、「神聖な広場」、「主神殿」そしてその横に「3つの窓の神殿」を見る。「主神殿」をズームで。その手前に「聖なる広場」も。「居住区」。「居住区」。「居住区」。正面に「主神殿」そして多くの観光客の姿が。「中央広場、メイン広場」を人のいない瞬間に。民家の三角屋根とワイナピチュの勇姿。「神官の館」が正面に。「神聖な広場」。そして「主神殿」に到着。主神殿はマチュ・ピチュの中でもいちばん重要な神殿と言われており、3つの窓の神殿と広場に面している。壁には17個のニッチ(飾り棚のような意匠)が設けられており、ミイラが置かれたとも言われているが真相はとのこと。この地域の石組みに使われる石は、通常は多角形であることが特徴なのだが、主神殿の石組みの石はすべて四角形をしている。神聖な場所には、四角く表面が滑らかな石を使ったためだとも伝わっていまるのだと。「主神殿」の右側の石が下に傾いている。地盤沈下が発生しているとのこと。日本の大学の教授がこの地盤沈下調査を行っているとのことだ。途中地盤沈下測定のワイヤーが張られていた。「三つの窓の神殿」。これらの岩石は、綿密に磨き上げられ積み重ねられていた。「三つの窓の神殿」は、神聖な広場に面し、「主神殿」の隣にあった。名前の由来は、文字通り3つの窓があったため。三方を囲む壁のうち東側の壁に、台形の窓が3つ。両端には閉じられた窓が2つ。3つの窓は、夏至の日の出の位置を完璧に示しているともいわれているのだ。窓のある壁の向かい側には、「チャカナを模った岩」があった。「チャカナを模った岩」左右に3つの段を持つ岩は、冬至の日に、太陽の光を浴びた岩から延びる影が"チャカナ"と呼ばれるインカの世界観わ表すシンボルの形を作り出すと。「南十字星」。この長斜方形の形は南十字星を表しているとのこと。私の腕時計の磁石を近づけてみると、なるほど東西南北を正確に指していた。研究者の中には、ここで天体観測を行ったと考える者もいるようだ。北東方向の渓谷を見下ろす。西方向の街並み。「日時計(インティワタナ)」。突き出た角柱の高さは36cm。それぞれの角が東西南北に向いている。当時は太陽が消えないように、太陽を繋ぎとめるものとして、太陽信仰の重要な礼拝所であったと考えられていて、角柱の影の組み合わせで春分・秋分、冬至・夏至を判断したと推測されているとのこと。マチュピチュ遺跡市街区域で一番高い場所に造られたという点を考えると、当時のインカの人々が太陽に近い場所を神聖な場所と考えていたのであろう。ワイナピチュを再び。この山は断崖絶壁で急勾配のため、上級者向きの登山コースとなっているのだと。広場の先の段々畑は、花粉分析の結果数多くの植物を栽培していたことがわかっており、インカの人たちによる農業試験場だったのではないかと言われているのだと。遠く下にはウルバンバ川が流れていた。段々畑へ降りる急な階段である。山頂には白き雪が。民家の屋根の石積みが並ぶ。ワイナピチュ山の入口には小屋が。ワイラナ(準備室)。「聖なる岩」。向こうの山の形を写しているとか、猫を象ったとか色々言われているようだ。そう言われると、傾斜こそ違うが良く似ているようにも思えた。ワイナピチュ登山への入り口。ワイナピチュに登るのは登山人数の制限があるので、朝早くこないと登れない場合が多いという。傾斜の山へと続く建造物の扉と窓は東の方向を向いており、「貴族の居住区」をズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.10
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サクサイワマン遺跡からバスで坂道を下り市街地観光へ。リマクパンパ広場(Plaza Limacpampa)の モニュメント・ Qosqo a sus fundadoresリマクパンパとはアンデス地方の言葉で「大地の語り」の意味と。バスを降りてサント・ドミンゴ教会(太陽の神殿、Iglesia de Santo Domingo)へ。前の狭い路地を抜けてサント・ドミンゴ教会の正面にやって来た。スペインが造った教会だが、元はインカ時代のコリカンチャ=太陽神殿であった。スペイン人はインカ人が造ったコリカンチャの土台の石組を利用し、その上に教会を建てたのだ。インカ帝国の公用語であったケチュア語で「コリ」とは「黄金」、「カンチャ」とは「部屋」とか「囲い場」を意味すると。コリカンチャは黄金の太陽の神を祭ったインカ帝国最高の神殿。1533年フランシスコ・ピサロがクスコに入城し、壁などに敷き詰められていた黄金をすべて奪い去ってしまったと。サント・ドミンゴ教会の鐘塔。ここが観光用の入口。QORIKANCH(コリカンチャ)=太陽神殿 の文字が。16世紀、征服者のスペイン人たちは神殿にあった黄金製品を本国へと持ち去ったのち、上部を壊して教会を建てたと。その後の大地震でスペイン人の建てた部分は崩れたもののインカの石組みは残ったという。開口部は窓で、インカの精巧な石組。4部屋通した窓。最も小さな石組み。再び何故このような小さな石組? 皆が触るせいかここだけ黒く光っていた。ここの石組みも。祭壇。サント・ドミンゴ教会の中庭。真ん中に井戸があるが、この井戸はカテドラルの地下にある水源まで地下でつながっているとのことだ。昨年のスペイン旅行で訪れたアルハンブラ宮殿の中庭に酷似していた。サント・ドミンゴ教会の中庭をグルっと。中庭から鐘楼を見る。インカの世界観を表した黄金の壁画。インカの人々は文字をもたなかったため、絵にすることで表現した。三層に分かれており、上にある楕円のものが太陽の神だと。 黄金の壁画の説明板。サント・ドミンゴ教会から外を望む。サント・ドミンゴ教会の外庭。かつてここは金のリャマ、金の泉、金のとうもろこしなど、金でできたもので覆い尽くされていたと。更に左手。インカの建築物は地震に耐えるような見事な耐震構造になっている。例えば、壁はまっすぐではなく内側に10度傾いている、また、石を単に重ねていくのではなく石に凸凹の細工を施し、それをパズルのように組み合わせることにより、より強固な造りとなっているのだと。サント・ドミンゴ教会の周囲を散策。標高3400mの下での散策。外壁の前にあったこのクリスチャン クロスの如きモニュメントが。太陽崇拝の面影は今はなく、十字架が教会を訪ねる人を出迎えているのであった。クスコの街並みとそれを囲む山々。インカ帝国時代、政治と宗教の中心である太陽の神殿:コリカンチャ(コリ(Qori)=黄金、カン(kancha)=居場所 を現した)があった場所。当時この神殿には黄金が満ち光り輝いていたと言う。スペイン人は黄金を全て持ち去った後、石積土台だけを残し教会を建てた。クスコに大地震があったとき上部の教会は崩れ落ちたが、石積土台はビクともしなかったという逸話が残っているのだ。インカの石組技術をものがっているのだ。日本の木造建築でも用いている"貫"といわれる工法を石で行っていたのである。教会の所々で美しい石組みを見ることが出来た。教会の裏手では、現在でも発掘・復元作業が行われているとのこと。下の丸くなった石壁がインカのもの。その上にスペイン人が教会を建てたのである。石積みの技術の差が歴然としている光景なのであった。再び「ペルー万歳」と「国章」を見る。サント・ドミンゴ教会 全景。その右手の白き建物は単科大学等の宗教学校(C. E. P. Santa Rosa de Lima Cusco)であるようだ。宗教学校(C. E. P. Santa Rosa de Lima Cusco)が更に続いていた。手前のアルマス広場とサント・ドミンゴ教会。「アルマス広場」に面した「ラ・コンパーニャ・デ・ヘスス教会」。 第11代インカ皇帝ワイナ・カパックの宮殿だったとのこと。この教会は1650年の大地震で一度崩壊しているという。ズームして。クスコの中心地・「アルマス広場」の北東部に建つ「カテドラル(大聖堂)」は、インカ時代のビラコチャ神殿の跡に建てられたもの。1550年から建設がはじまり、完成に百年を要した。右の大塔には1659年につけられた南米で最大の鐘マリア・アンゴラがあり、その深い響きは、20km先にまで達するという。 「カテドラル(大聖堂)」前を通り昼食会場へ。「サント・ドミンゴ教会」の鐘塔を再び。昼食を楽しむ。食事を終え路地へ。石畳の路地を進む。インカの石組を楽しみながら進む。ここの石組みも、石を単に重ねていくのではなく石に凸凹の細工を施し、それをパズルのように組み合わせることにより、より強固な造りとなっていたのであった。路地にある「12角の石」インカの石組みの特徴は「カミソリ一枚通さない」こと。ここクスコの街中の道に残る石組みはまさにその象徴的存在。いったいどうやって造ったのか。12の角の複雑な切り込みだけでなく、その周りを固める石組みも注目である。幅が1メートルもある巨石で、それが緻密に計算されたように12角に加工され、隣り合う石とぴったりと合わさっていたのだ。インカ文明の石造技術の高さがうかがい知れる場所なのであった。更に路地を進む。スペイン風の見事な彫刻のベランダ。再び「ラ・コンパーニャ・デ・ヘスス教会」。クスコの「マクドナルド」です。 おなじみの赤地に黄色の文字ではなく黒字のマクドナルドの文字Mのみ。黒の地味な看板で営業をしているのは 景観保護のためとのこと。30分ほど「アルマス広場」で自由行動。久しぶりの自由行動であった。現地ガイドSさんが経営すると言う土産店で女性軍が土産を色々買っていた。女性軍の衝動買い?POWERには驚くばかりであった。 アルマス広場左:カテドラル、右:ラ・コンパーニャ・デ・ヘスス教会。「アルマス広場」の花も美しく咲いていた。アルマス広場越しに「ラ・コンパーニャ・デ・ヘスス教会」。クスコ観光終了後、今晩の宿のあるピサック(Pisac)の村に向かう。クスコから30キロメートルの山々の谷間に小さく拓けた村である。昔と変わらないインカの人々の生活を垣間見ることができるという。村の背後の急な斜面にある遺跡は、太陽の神殿や段々畑などがあり、マチュピチュの遺跡に似ていると。下を流れるのが、ウルバンバ川である。山の斜面に段々畑と「インティワンタナ遺跡」がある。インカ皇帝や地位の高い僧侶などが宿泊した場所で、神聖なる儀式が行われていたのではと。ウルバンバ川両岸には民家が。漸くホテル「ROYAL INKA HOTELS」に到着。外が明るい時間に到着したのはこの日が初めてであった。ホテルの中庭には色々な花々が咲き乱れ、我々の早期!!到着を歓迎してくれた。部屋に入る。ここにも「ROYAL INKA HOTELS」。ツインベッドの部屋。日本食が恋しくなり、日本から持ってきた味噌汁を飲むことにした。Sさんが日本から電気ポットをトランクに入れてきてくれていたのだ。南米のホテルには電気ポットが置いていないとの事前情報を掴んでいたのだ。さすがに旅慣れた吾人であった。ただしここは高度3000m。沸騰温度85℃。ややぬるかったが久しぶりの日本の味を満喫したのであった。もちろんワカメ、カップ&割り箸は私が持参したのである。久しぶりに部屋で寛げる時間が出来たので、ブラジルで購入しておいたワインで宴会。同行のMさんご夫妻も部屋に招待し多いに盛り上がったのであった。ホテルの中庭から南十字星が見えるというので千鳥足?で中庭に出てみた。この南十字星は、天の川の中に位置している。たくさんの星が輝いているので見つけにくかったが 現地添乗員の説明により、漸く肉眼でもハッキリ見ることのできた。明るい星4つで構成されているのが解った。日本では沖縄の一部でしか見えない星とのことだ。そしてまた明日は3:15モ-ニングコール、4:30出発の指示が下されたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.09
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早朝4:30出発。誰一人として寝過ごす人はいない優秀なツアー仲間。シングルに宿泊されている方は男女それぞれ1名。他はツイン又はトリプル。これが相互に起こしあっているのが良いようだ。バスでリマ空港へ。リマ空港へ到着、正式名称はホルヘ・チャベス国際空港。朝食はホテルからの簡単なサンドイッチとジュースを食べる。時間は6:15。荷物検査を受ける。クスコ空港行き 7:40発 LP019便にてリマからクスコへ向かう。利用するLP019便。定刻の7:40に離陸。約1時間15分のFLIGHT。眼下には一面茶色のアンデス山脈が拡がっていた。途中にスナック菓子が出た。男性アテンダントが配る。機窓からは木々の生えていない山の中に湖が点在している光景が目に入ってきた。山頂に雪が確認できた。高度を下げて来るとクスコが4000m級の山々に囲まれた盆地であることが着陸前の飛行機の窓からの景色で理解できた。そしてクスコの空港に着陸。正式名称はアレハンドロ・ベラスコ・アステテ国際空港。クスコの標高は3400m。富士山が3776mなので富士山頂にいるのと近い。この空港は標高3,360mにあり高山病の出る高さであるが幸い、誰一人として、高山病を訴える方はいなかった。皆極めてタフである。空港のホールでインカ音楽の歓迎を受けた。もちろん音楽CDの販売が目的。しかしこれを聞き入る時間もなく迎えのバスに乗車しクスコ市内へ運ばれる?。インカ帝国時代の謎の黄金の仮面も出迎えてくれた。空港ターミナルには我々用の観光バスが待っていてくれた。高度が高いので酸素が薄く息苦しい感あり、添乗員から「激しい動きはしないように!」の言葉が。周囲に見える山々は皆富士山以上の標高を持つ山。様々な土産を売る少年?がバスに近寄って。そしてバスはクスコの観光に向けて出発。正式名称アレハンドロ・ベラスコ・アステテ国際空港の管制塔を振り返る。インカ帝国は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が築いた国。文字を持たない社会そして文明であった。首都はここクスコ。世界遺産である15世紀のインカ帝国の遺跡「マチュピチュ」から、さらに1,000m程高い3,400mの標高にこのクスコがある。1983年12月9日、クスコの市街地は世界遺産となったかなり交通量の多い道路をバスは進む。市内を通過し展望の良い峠に向かいここから市内を一望。絶景かな~~~~。山の斜面に白く書かれた文字が二つ。左手に書かれているのは、VIVA EL PERU「ペルー万歳」と書かれています。右はペルーの「国章」が描かれています。一番上の丸く見えるのがオークの枝の冠であり勝利と栄光を象徴。盾の左上にはペルーを代表する動物であるビクーニャ。これはペルーの生態系を象徴、盾の右上には国花であるキナが。盾の下部には溢れだす金貨が描かれているのだと。これは豊富な地下資源を象徴。インカ民族は、ナスカの地上絵といい地面に文字や絵を刻み込むことに意味を見いだす民族なのであろう。この山の文字はもちろん近年の民族の仕業であろうが。クスコは、ペルーの南東クスコ県の県都。アンデス山脈中の標高3600mにあり、現在の人口はおよそ30万人であるとの現地添乗員の説明。クスコとは、ケチュア語で、「へそ」を意味すると。 インカ帝国の首都であり、文化の中心都市。現在でもペルーで有数の都市の一つ。クスコの町並みはピューマをかたどったものとの説があるが、現在のところ定かではないという。16世紀に、スペインの征服者フランシスコ・ピサロによってインカ帝国が滅亡した後、スペイン植民者がクスコを侵略したのだ。植民地化の結果は都市の建築を通して見ることが出来る。スペインの建物はインカによって建設された巨大な石の壁の上に作られてるという。これらインカ時代の石積みは、石と石の間は「カミソリの刃一枚通さない」といわれる巧緻さで有名だ。また、周囲にはサクサイワマン遺跡・ケンコー遺跡など、数多くの遺跡が点在し、この後訪れたのであった。アルパカがお出迎え。実は有料のアルパカ、原住民との記念写真スポット。近くの山の頂上には両手を広げたキリスト像が。絵を描く老人を発見。風景画ではなかったが、これも客寄せ用だったのか?この山々の姿に向かって描いていたが。別の絵も見せてくれたが、これも抽象画なのであった。遺跡案内地図。最初にケンコー(Queqo)遺跡に向かう。インカの祭礼場跡と言われている場所である。なにやら彫刻のような、劇場のような不思議な場所であった。インカ文明の下では、神は人間を作る前に巨人を作ったが、神の意に反した行いをするので石や岩に変えてしまったのだとの説明。このため石や岩は人間と同じ心を持っているとインカの人たちは考えたのだと。ここでも、多くの土産物が売られていた。ケンコーとはジグザグの意味で、岩の上にジグザグの溝が掘られていた。狭い石組みの洞窟の如き中に入って行った。岩を丁寧に刳り抜いて。 一枚岩の洞窟の中には石のベッドが置いてあった。ミイラを作る台であったらしいとの説明。裏側には天井に彫られた階段があったが、一体何を目的とした物なのであろうか?ミイラを作る台であったらしいと。洞窟から外へ出る。岩場を刳り抜いて広場に。隙間からペルーの国章が見えた。岩の裏側は礼拝広場の如くなっていて、かってはピューマの像であったらしいが、今は頭部が破壊された大きな岩が置かれていた。ここが神事が行われた円形広場のようだ。円形広場への入口。入口の円形の広場には大きな石が。朝日に照らされた「ピューマ岩」が、背後の石にピューマ型の影を投げかけると。ここでも土産が。ここも広場なのであろうか?次にはプカプカラ遺跡を訪ねる。ここは関所の跡で、これから訪ねるタンポマチャイへ行く人間を調べていた場所とのことだ。陶芸品のお土産。「プカプカラ(PUCA PUCARA)遺跡」案内板。続いてタンボマチャイ(TAMBOMACHAY)遺跡へ。ここは宿場の跡。当時は30km毎に宿場が作られていたという。この距離は荷を積んだリャマが1日に移動できる距離であったらしい。雨季・乾季にもかかわらず、一年中水が出ているのだと。絨毯であろうか。タンボマチャイ(TAMBOMACHAY)遺跡の坂道を上って行く。美しい色彩の絨毯が並んでいた。タンボマチャイの沐浴場。「小規模な谷の一方の斜面に石組みによって建設された沐浴場、もう一方の斜面に見張り台が残る。沐浴場は4段に分かれた階段状の構造で、下部の低い2段がプレ・インカ時代の遺構である。それよりも明らかに洗練された石組みがはっきり見られる上部の2段がインカ時代のもの。下から3段目の壁面には、インカ独特に技法によって、クスコの方向を指す皇帝の右腕がかたどられた石組みが見られる。同じく3段目の向かって右側には、皇帝の脱衣場とされるくぼみがある。」トウィキペディアより。沐浴場の名前のとおり絶えることの無く清水が湧きサイフォンの原理を知っていたため、これを利用してどこからか水を引いているとする説が有力である。向かって左側が男性用、右側が女性用の泉と呼ばれる。この時代から男女別浴であったとのことか。タンボマチャイの見張り台。クスコ近郊で「聖なる泉」として知られる遺跡・タンボマチャイは、サクサイワマン遺跡からさらに丘を少し登る標高3800mの遺跡。やや湾曲した谷のカーブの外側に当たる方の斜面に立つ見張り台からは、谷の出口にあるプカ・プカラに向かって視界が開けている。プカ・プカラに駐留する見張り要員との間で互いに旗信号を使用して連絡を取り、沐浴する皇帝を護衛する任務にあたった。精巧な石組みが。聖なる泉の水がインカ時代から絶え間なく流れているのだと。タンボマチャイの沐浴場近くの草原に咲く花はルピナスに似ていたが。赤子を連れての商売中。観光案内料金表か?サクサイワマンに向かって坂道を下る。再び「VIVA EL PERU」の文字と「国章」が見えた。このクスコ(QOSQOのプレートは?キリスト像の後ろ姿が。続いてタンボマチャイを訪れた。巨石を惜しみなく用いたインカ文明特有の堅固な石組みが階段状に3段ずつ、幅数百mの平地を挟んだ南北の丘に築かれている。インカの天上・地上・地下の3つを意識した独特の世界観が反映された結果、3段という段数が選択されたとのこと。格段は石で作られた階段で結ばれていた。城砦、宗教施設、その双方を兼ねた建造物だと。ここにはハナン・コスコ(クスコ)という重要な寺院があったとされ太陽(Inti)、月 (Quilla)、 星 (Chaska)、光線 (Rayo)などを崇拝していたとされてる。広大な遺跡の中に入ると、すぐに広場の西側に連なる石壁が目に飛び込んで来た。ジグザグになった巨大な壁に沿って少し歩くと、石組みの中に取り組まれた途方もないほど巨大な石の前に出た。見上げると私の背丈の3倍近くもある。推定360トンと言われる巨石である。それにしても空が近いのである。高地のせいか太陽に近い分だけ空に手が届きそうなのだ。空の透明感が増しているのだ。驚かされるのは、その重さだけではない。多面にわたる他の石との接合面は、密着しカミソリの刃どころか空気さえ入る余地がないのである。この石組みを建造した人々は、巨石を軽々と持ち上げる技術と同時に、硬い石を、薄刃で豆腐を横に切るように見事に切断しているのである。どの様な刃物と技術を駆使したのであろうか。想像の域を超越した光景であった。広場の枯草の中に茎が全く無い野生のタンポポの花が咲いているのを見つけた。地面に直に咲いているのだ。現地添乗員のSさんはこれを『首なしタンポポ』と名付けたと。高山での強風から身を守る仕業。 そして世界で最初に生まれたタンポポの首はどんなだったと思うかとの添乗員の問いかけ。このサクサイワマン遺跡では毎年6月24日にあの有名なインカの祭り(インティ・ライミ)が行われるとのこと。ブラジルのリオのカーニバルと並ぶ南米最大のお 祭りで、世界各地からの観光客でこのサクサイワマン広場は埋め尽くされるという。既にこの日のために、観光客用の観覧席を築く材料が運ばれ広場に保管されていた。この場所の観光後に旧市街に戻り大きな石組みの壁が続く狭い通りを歩くと12角の石の前へ。幅1m程度の大きな石であった。この石の意味は諸説あるとのこと。インカ王の子供が12人いたから、1年が12ヶ月だから・・・・・。それにしても意識して12角にした石なのであろうか?文字の持たない文明は何も語ってくれないのである。クスコのビール『クスケーニャ』の瓶にこの石がデザインされていた。ホテルのレストランのボーイに記念に、持ち帰りたいと言ったところ、特別に作らせている瓶であるのでNOと。更に食い下がったところ、あなたに限りOKとの返事が。よって遠路遙々日本に持ち帰ってきたのであった。物好きなアラカンオジサンであった。 ところが先ほどの12角の石を超える14角の石に案内された。30cm程度と小さいだけに12角の石を超える匠の技が必要であったはずであるが、何故かこの石は有名になっていないようだ。何故!!これも歴史は何も語らずとのことであった。石の孔は積み上げるために必要なのであったのだろう。この広場で、南米3大祭りのひとつ「インティ・ライミ」が行われる。冬至の日に行われるので、時期としては6月半ばすぎ。クスコの太陽の神殿から祭りは始まり、その後、サクサイワマン遺跡にて行われる。カラフルな民族衣装とアンデスの音楽が楽しめる。「インティ」とは太陽のことで、トウモロコシで造った酒「チチャ」を太陽にささげる。皇帝がいけにえのリャマの心臓をえぐり出し、太陽にさらし、翌年の収穫を占って幕を閉じると。石の表面は磨かれて僅かな曲面が作られていた。山の上には多くの通信用の鉄塔が。急な山肌に民家が貼り付いていた。サクサイワマン広場を別の角度で。サクサイワマン遺跡の案内板。ペルー・インカを象徴する花:国花「カントゥータ」(ハナシノブ科)。インカを象徴する花としては、同しインカ系のホリヒアても、国花としてカントウータを愛していると。その「赤」は、生贄として捧げられた血の色ともいわれるほどに、深紅なのだと。バスに乗り込み市街地に下る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.09
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カルロス・ペレグリニの像を車窓から。第11代アルゼンチン大統領。アルゼンチンで1985年から1991年まで発行された旧1万アウストラル紙幣に肖像が使用されていたと。ブエノスアイレスは、都市圏人口1300万人を誇る、南米有数の大都市。市内には、スペインコロニアル様式や、フランス様式の建物が多く見られ、南米のパリとも呼ばれる美しい町並みが続いていた。「オベリスク」共和国広場(Plaza de la Republica)にあり,1936年ブエノスアイレス創設400周年を記念して建てられたオベリスク。道路脇の街路樹に大きな実がついていた。現地語でパロボラッチョ(palo Borracho)と呼ばれる木、日本語訳すると「酔っぱらいの木」で並木になっていた。沖縄で「トックリキワタ」と呼ばれている木と同じ。実が徳利に似て来るので「酔っぱらいの木」と呼ぶと現地ガイド?が。コロン劇場(Teatro Colon)を訪ねた。パリのスカラ座、イタリアのミラノ座と並んで世界三大劇場とされる有名スポット。世界でもっとも音響効果の良い劇場の一つといわれ、ヨーロッパがシーズンオフとなる5~11月には世界的に有名なオーケストラや音楽家が訪れ、公演を行うとのことであった。まさにブエノスアイレスの高い文化レベルの象徴的存在であるとのこと。コロン劇場を7月9日大通り側から見る。ラバレ広場(Plaza Lavalle (Lavalle Square)側の「コロン劇場」は工事中。正面から。再び左手に『ファン・ラバレ記念塔』、奥の建物は『州政府事務所』・ラバージュ広場に建つ『ファン・ラバレ記念塔』を正面から。塔の上の像は独立戦争の英雄「ファン・ラバレ」。ラバレ広場から歩いて移動。大聖堂『カテドラル・メトロポリターナ』の横に建つ『ブエノスアイレス市議会』。正面壁面に『ESCVELA PRESIDENTE ROCA』昔の大統領の名前の付いた「大統領ロカ學校」。ビルの角の塔。塔の最上部。国家最高司法裁判所。国家最高司法裁判所の建物の列柱をズームで。そして大聖堂 (Catedral Metropolitana) 、16世紀末に原型となる聖堂が造られ、幾度にも渡る立て直しの末、現在の建物が完成されたとのこと。この大聖堂には、アルゼンチンを独立へと導いたサン・マルティン将軍の眠る霊廟が 安置されており、多くの観光客がそれをひと目見るため訪れるのだという。大聖堂入り口に毅然と並ぶ12本の円柱はイエス・キリストの12使徒を表現している とのことであった。中に入ると、ひんやりと静寂な空気が身を包み、広い会堂が、天窓からの光の中、おごそかに浮かび上がっていた。5月広場に面する大聖堂『カテドラル・メトロポリターナ』1753年に崩壊後、1823年に建て直された大聖堂。アルゼンチン独立の英雄、サン・マルティン将軍が眠る棺が安置されている。大聖堂は毎日開いており、入場料は無料で定期的に無料のコンサートが開かれている。大聖堂内。奥にフレスコ画。こちらにも。大理石像。主祭壇は19世紀に造られた木彫りの作品。上部にステンドグラス。こちらにも。ブエノスアイレス市議会の時計塔の時間は15:30。5月広場からカテドラルを振り返る。その奥にブエノスアイレス市議会の時計塔が。ブエノスアイレスの中心地といえば、5月広場周辺。16世紀に作られた町は、この広場を中心にして、徐々に栄えて行った。カサ・ロサーダ(大統領府)の正面に位置することもあって、革命、大統領の演説、大規模なデモなど、様々な歴史の舞台として重要な場所となった。周辺には、カサ・ロサーダの他にも、カテドラル・メトロポリターナという大聖堂やカビルドといわれるう市議会など、ブエノスアイレスの象徴ともいえる建造物が周りを取り囲んでいるのであった。アルゼンチン大統領府 (Casa de Gobierno) が正面に。アルゼンチン大統領府 (Casa de Gobierno) 、別名「カサ・ロサーダ(Casa Rosada-バラ色の家の意)」。建設時から現在まで歴代大統領の行政の場として役割を果たしてきた。建物がバラ色に塗られた理由は、19世紀後半のサルミエント大統領が、国のまとまりの象徴として、当時の2大政党のイメージカラー(それぞれ赤と白)を合わせたバラ色を選んだことによるという。その後塗りかえられて現在の色はオリジナルではないとのことだが、青いブエノス アイレスの空に映えて立つバラ色の大統領府は独特の華やかさを湛えていた。五月広場に立つアルゼンチン国旗考案者のマヌエル・ベルグラーノ将軍騎馬像と大統領府。五月広場 (Plaza De Mayo)から「5月の塔」。独立のきっかけとなった1810年の5月革命が起こった場所で、中央にはその翌年に立てられた「5月の塔」が。塔の座には「25 MAYO 1810」塔の上の像は、アルゼンチン独立運動の指導者の「マヌエル・ベルグラーノ将軍」で、アルゼンチンの国旗を作った将軍としても知られている。五月広場 (Plaza De Mayo)には多くの鳩が。2階建ての観光バス。露天商では「甘い落花生」を販売中。この後にバスで移動しボカBoca地区に向かった。道の先にオベリスクの姿が見えた。車窓から「Subte」・ブエノスアイレス地下鉄駅の入口が。バスを降り自由時間になり、ボカ地区を散策開始。ボカ地区案内図。ボカ地区内には鮮やかな家と歩行者用の通りがある「カミニート」があり、カミニートはアルゼンチン国外からの観光客に人気があるのだと。カミニートではタンゴアーティストがパフォーマンスを行ない、タンゴに関連した記念品が販売されていると。その他の観光スポットとしては、ラ・リベーラ劇場、多くのタンゴクラブ、イタリアン・バルなどがあるのだと。この木は?カミニートとは港沿いの下町、ボカ地区にある小さな通りのことだが、赤、青、黄、緑など、カラフルにペインティングされた家が並んでいたのであった。ここは外国人で訪れない人はいない言うほど有名な観光スポットであると。タンゴの発祥の地として紹介されている。中でもタンゴの名曲となったカミニートという小道はキンケラ・マルティンというアルゼンチン切っての名画家や有名な混血民族ガウチョ、小説の主人公ベガの銅像などアルゼンチンの近代が詰まっている。単にカラフルな家並みを見るだけでも楽しいのだ。最近は歩道も整備され、以前の下水臭い下町のイメージは少しずつ消えているとのことであった。狭い道路では、タンゴの街頭演奏や踊りを見ることができた。通りには土産物を売る屋台が並び、広場ではタンゴダンサーたちが客寄せをかねて踊ったり一緒に写真を撮ったりしているのも名物のひとつである。しかしこの日は残念ながら出会わなかったのであった。そしてまた、フェリアというのみの市が軒を連ねていた。この地はサッカーチームでマラドーナが活躍したボカ・ジュニオールスの本拠地でもあり、そのユニホームが殆どの店で売られていたのだ。鮮やかな色で塗装されたカミニートの家が続く。そして前方に見えたのが「ニコラス・アベジャネーダ運搬橋」建設から50年近く、一度も稼働していない「運搬橋」👈リンク。しかし今ではリアチュエロ川にかかる橋として、現在では観光名所の一つとして活躍しているのだと。VUELTA DE ROCHA(ブエルタ・デ・ロチャ)地区案内図。ボカ地区の、リアチュエロ川がちょうど入り江のようになっている、ブエルタ・デ・ロチャ(VUELTA DE ROCHA)のあたりは、昔はアルゼンチン随一の港として栄えていた。その後、レティロ地区にダルセナ・ノルテ港が出来て、港としては衰退しましたが、ボカの港町の雰囲気はいまだ残っている。現代でも、小規模ながらも、また、港としての機能を果たしているそうだ。馬に乗った騎士と群衆のレリーフ。「ニコラス・アベジャネーダ運搬橋」を車窓から。これぞ、鉄骨の塊。そしてその隣には新しい赤いニコラス・アベジャネーダ運搬橋(Nicolas Avellaneda bridge)。こちらは一般的な橋のようであったが。振り返って。ブエノスアイレスの市内観光を済ませ、エセイサ国際空港へバスで向かう途中、車窓から。ブエノスアイレスともお別れ。空港へ到着。空港ロビー内をLAN航空カウンターに向かう。20:10発のLA2428便にてリマまで5時間弱のフライト。2時間の時差があるため、到着は22:55の予定。搭乗後、1時間半で夕食の機内食。ペルーのリマに向かって海岸線に沿って北上する。そしてホテルに0:10着。今日もハードな移動であった。そして添乗員から、『明日、いや今日の出発は4:30、よってモーニングコールは3:15である』との一言が・・・・・・・。皆 お互いに目を見合わせ、励ましのアイコンタクト。重いトランクを引きずりながら、言葉少なく部屋に入って行くのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.08
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この日は南米の旅4日目、6月8日も早朝出発。バスでブラジルを出国し、アルゼンチンのイグアス空港へ。早朝にホテルを出発、国境を越え「イグアスの滝国際空港」へ向かう。ブラジル側国境検問所、そして「イグアスの滝国際空港」に到着。10:50発のLAN4023便でブエノスアイレスへの2時間弱のフライト。乗客の荷物を機内に積み込む空港係員の姿。スケジュールは10:50発であったが少し遅れる。ブエノスアイレスへ向けて離陸、所要時間約1時間50分。湖が眼下に。機内。左右に高速12号線が見えた。離陸後、眼下には大きなパラナ川が茶色く光り曲がりくねっているのが見えた。ブエノスアイレス近郊の水に囲まれた住宅地。街並みは整然と区画され、重厚な石の建物が並ぶ。そんな雰囲気に、人はここを「南米のパリ」と呼ぶ。またタンゴを生んだ町としても有名である。ブエノスアイレスの街に近づくと、眼下に立派なサッカー場が見えた。ここでディエゴ・マラドーナやガブリエル・バティストゥータなど多くのスター選手達が戦っているのであろうか。そしてホルヘ・ニューベリー空港(アエロパルケ空港)に着陸。手荷物は3番ターンテーブルから出て来ると。そして待っていてくれたバスに乗り込む。先程飛行機機内から見たサッカースタジアム。収容人員7万人のサッカー競技場。ブエノスアイレス空港へ着陸後、バスで昼食のレストランへ。昼食はアルゼンチン名物の『アサード料理』の食べられる店へ。アルゼンチン料理のメインはなんといってもアサード(スペイン語で「焼いた」という意味)とのこと。アサードは主に牛肉を炭火で焼いて作るのだ。はじめは弱火で徐々に焼き火加減をみながら気長に焼くとの現地添乗員の説明。最後に塩をふりかけるのがコツとのことだ。そしてパリジャーダ (Parillada)。臓物(レバー・腸・腎臓など)、豚肉、鶏肉やチョーリソ(豚肉のソーセージ)などを炭焼きしたものの盛り合わせを楽しんだ。すごくボリュームがあり大きなお皿に山の様に盛りつけられており完食は出来ないほどだった。そしてメインディッシュはロモ (Lomo)。牛肉のいろいろな部位をアサードにしますが、ロモはヒレ肉を炭火で焼いたもの。ボリュームがあり食べきれないくらいであったが完食したのであった。やや脂身が多かったのが気になったがこれもきれいに・・・。レストラン前にいたワンちゃん。昼食後はブエノスアイレスの市内観光に向かう。アエロパルケ空港の横を再び通過。片側8車線の道路の先に巨大な白きモニュメントが姿を現した。パレルモ地区にある「スペイン人記念碑(Monumento de los Espanoles」リベルタドール通りとサルミエント通りが交わるロータリーの真ん中にある大きなモニュメント。更に大通りを進む。「サンマルティン広場」に建つ騎馬像が「サンマルティン将軍像」。道路脇の公園に建つ像。公園の間に教会。途中車窓からたくさんの犬を連れた男の人が交差点にいた。なんと犬の散歩を商いとしている人がこの町には多いと。巨木は鉄柵に囲まれて。キリストを抱く聖母マリア像。この後レコレータ墓地へ。レコレータ墓地は、アルゼンチンで最も格式の高い、由緒のある墓地になっているのだ。ここには、歴代大統領や、有名人、実業家、貴族などが眠っていると言う。「レコレータ墓地の入口門」。周辺案内地図下が『レコレータ墓地』、上が『アルゼンチン国立図書館』。レコレータ墓地の配置図1822年に建設されたレコレータ地区にある墓地で、彫像が施された墓が並ぶ。特に独裁政権で名をはせたペロン大統領の妻、「エビータ」ことエバ・ペロンの墓が有名だ。他にも多くの著名人の霊廟があり、豪華な墓石は一級の芸術品といえる。ブエノスアイレス有数の高級住宅街にある墓地で、5.5ヘクタールの土地に、4,000以上の納骨所があり、そのうちおよそ90はアルゼンチンの国家歴史モニュメントに指定され保護されている。彫刻で飾られた大理石の墓など、アール・ヌーボー、バロック、ゴシック様式など様々な様式が見られ、建築的、芸術的にも高く評価されています。エバ・ペロンの墓の入り口にある男性のプレート。この男性は、エバの妹エリサの夫で「アルフレド・アリエータ(Mayor Alfredo J. L. Arrieta)」彼は1938年に軍を引退し、1946年から1950年に死去するまで、ブエノスアイレス州の上院議員を務めた人物。エバ・ペロンの墓入口。7m地下にエビータは 剥製処理をされて休んでいると。独裁政権で名をはせたペロン大統領の妻、「エビータ」ことエバ・ペロンの墓。人気があり、いつもバラの花が飾られているペロン大統領夫人 エビータの墓死去:1952年7月26日(33歳没)エビータの墓には多くの人が訪れており、御墓には慈善活動に熱心であった彼女を讃える多くのプレートがはめ込まれている現地添乗員から、ペロン大統領夫人 エビータについて説明を受けたのであった。EVA PERON エバ・ペロン1952 ~ 26 DE JULIO ~ 1982死去は、1952年7月26日(33歳没)。クーデタなどあり遺体はイタリア、スペインなどに"亡命"し,夫の復権後にアルゼンチンに戻り,レコレータ墓地に埋葬されたのが1982年.多くの大理石像が並び。リリアナクロッシアティ・デ・ザザザク像。墓地の天使に寄り添う旅友Sさん。アルゼンチンで最も古く権威のある高級墓地、いや宮殿、彫刻博物館の如き墓地は感動の連続なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.08
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昼食後は、いよいよブラジル側からのイグアス滝の観光である。遊歩道を悪魔の喉笛の対岸まで歩くコースである。いきなり「水のカーテン」と形容される壮大な滝のパノラマが拡がったのであった。ブラジル側のイグアスの滝は2段構造の滝が多くそれがイグアスの滝の大きな特徴になっている。滝の上には遊歩道も確認できた。ズームして。滝の下には船が2隻川辺に。そして客は皆下船して河原を歩いていた。ボートツアーの船も確認できた。展望台から滝をズームで追う。ハイビスカスの花と滝。ズームで。雨期ともなると大小の滝は200とも言われ、アルゼンチン側の景観は、大小無数の滝がかかっているのが大きな特徴であり、それを縫うようにして掛けられている遊歩道を歩きながらその景観を楽しむことができるのであった。ボートツアーの船が滝に突っ込んでいく姿を目撃。後ほど我々もこれに挑戦したのだ。前方はアルゼンチン側の『悪魔ののど笛』。虹も出て。水しぶきの白煙の中に展望橋が。美しい虹をズームで。川に突き出た遊歩道を先端の展望台まで進む。幸い風向きが逆のため、カッパの着用は無しですんだ。先端の展望台に着いてみるとこの滝のあまりの水の量、迫力により、滝に吸い込まれる錯覚に陥った。轟音を立ててもの凄い量の水が真っ逆さまに落っこちているのであった。太陽と滝の激しい水しぶきで方々に虹が出来ているのだ。そしてこの虹が滝の眺めを更に素晴らしいものにしてくれている。悪魔ののど笛意外にもその他無数の滝が光を浴びてイグアスの川に落ち込み、豪快な悪魔ののど笛、そして無数の滝の素晴らしい光景が同時に見えたのであった。この二つの絶妙な組み合わせは、十二分に、そこに立っているものを楽しませてくれたのだ。 轟音とともに目の前を落ちる滝。水、水、水・・・・・・・・・・・・・・である。 そしてまた悪魔ののど笛のズーム。雨期の水量を想像すると更に気の遠くなる白と青の世界であった。雨期にはこれが白と茶の世界に変わるのであろうか?そしてどちらが美しいのであろうか。白と青の質か。またまた白と茶の量か?滝の横に地上に上がるエレベーターが見える。そしてこれに向かって戻っていった。エレベーターで上がった展望台からは、先程行った遊歩道の先端が見えた。まさに落下する滝の先端の断崖の上に展望台があるのが解る。この後はオプショナルツアーで「ボートクルーズ」へ参加。ツアー料金は、約30分で $120 と少々高い。国立公園内のホテル前を通過。国立公園内ブラジル側からの遊歩道散策後、オプションのイグアスボートツアーに参加。オプショナルツアーの駐車場へ到着。ここからジープに分乗してボートツアーの船着場へ出発。ボートツアーの係員の少年は美男子。ジープに乗って数十分、舗装されていない道を走り川岸の船着場へ。ここで必要のない荷物、靴を置いて、デジタルカメラを水濡れ防止のビニール袋に入れ、レインコートを被りオレンジ色のボートに乗り込む。エンジンがかかりスピードUP。現地カメラマンがビデオ撮影して販売。前方の滝に向かって進む。急流の川岸の岩場には白波が。前方には大きな2段の滝が。カメラを構えるMさんご夫妻。ここも展望台の工事中なのであろうか?前方に「悪魔ののど笛」が姿を表す。イグアス川がブラジルとアルゼンチンの国境で、左:ブラジル、右:アルゼンチン。展望橋の観光客が手を振ってくれていた。たまにグアンと揺れたりおもいっきり風を感じてボートは滝に向かって進んだ。見上げると、先程覗き込んだ遊歩道の先端にある展望台が見えるではないか。滝に近づいてくるとスピード緩めてくれて鑑賞タイム。虹も見えた。そして滝の真下から滝に突っ込んでいくのであった。同乗の隣の女性は大きな叫び声で『行って・・・・・』、『もう一回行って・・・・』を繰り返すのであった。悪魔ののど笛のかなり近くまで入り込む大サービス。『もうやめてくれ・・・』の男の声も。そしてびしょ濡れになって帰路へ。全身、そして下着までビショ濡れのボートツアーであったが、あっと言う間の40分ほどを多いに楽しんだのであった。そして暖房の入ったバスでホテルに戻り夕食となったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.07
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アルゼンチン側からのイグアスの滝観光を終了し、アルゼンチン側のゲートを出る。そしてバスにてブラジル側に向かった。途中土産物屋に立ち寄る。紫水晶の大きな物がたくさん展示されていた。ここは水晶の産地でもあるようだ。併せてインカのバラと言われる石で出来たボーリングのボールの大きさの丸い置物が展示されていた。水晶で作られた盆栽風。こちらにも。様々なマスクも。ブラジル側では、当然のことながら、アルゼンチン側と売っているものが違う。通貨もペソではなく、レアルだ。マラドーナではなく、ロナウジーニョのTシャツが売られているのであった。そしてまたバスに乗りブラジル側の公園の入り口の建物から入場。建物が池に映り美しい光景を見せてくれた。中央の国旗はブラジル旗。イグアス観光はブラジル側からとアルゼンチン側からの2つがあり、どちらもそれぞれに魅力がある。ブラジル側の特徴はまず、イグアスの全景が見渡せること。イグアスの滝 観光料金表。館内に展示されていた写真、満月の夜には「ルナレインボー(満月に輝く虹)」が見られる可能性があると、満月の明かりで虹が出るのだと。野生のアライグマが餌を漁っていた。入場券を買い中に入り、レストランでバイキングスタイルの昼食。レストランの窓からは、遠く午前中に訪ねた悪魔ののど笛への遊歩道と、水が落ちこむ場所が見えるのであった。これがブラジル側の「悪魔ののど笛」であると。食堂の外のテーブルには、野生の?アライグマ(ハナグマ)が餌を漁りに来ていた。アルゼンチン側の「悪魔ののど笛」からも白煙が。アルベルト・サントス・デュモン(Alberto Santos-Dumont)の像。ブラジル出身の発明家。ヨーロッパの航空のパイオニアであり、主に飛行船の造船で有名。さらに、飛行機の公開実験にも成功しヨーロッパ初の飛行機製作者となっている。ブラジルでは飛行機の父、飛行機王と呼ばれるほど偉大な発明家であり、未完に終わったもののヘリコプターをも開発していたことで知られる人物。そして美しい蝶が手摺りの廻りを戯れているのであった。別の蝶も。キノコも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.07
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ここが悪魔ののど笛展望台。観光用に休日は水量を増やすとのことで、この日は日曜日で水量が多かったのであった。イグアスの滝とは、特定の滝の名前ではなく、周辺に点在する大小275の滝の総称である。雨期に流れ落ちる水量は、毎秒6万5,000トンにも達し、世界最大量を誇る。2段構造の滝が多くそれがイグアスの滝の大きな特徴でもあり、世界でも有数の自然景観となっているこの後に行ったブラジル側が展望台越しに見えた。まだまだ見つめていたい光景なのであった。そしてイグアスの滝の悪魔の喉笛ともお別れ。悪魔ののど笛駅からトロッコ列車で戻る。途中で下車して再び散策を。川にかかる遊歩道を戻り、今度はUPPER CURCUITという滝を上から眺めるルートに入った。アルゼンチン側の景観は、大小無数の滝がかかっているのが大きな特徴であり、それを縫うようにして掛けられている遊歩道を歩きながらその景観を楽しむ しむことができるのだ。(遊歩道は、滝を上から眺めるルートと下から眺めるルートの2つがある)。最初の UPPER CIRCUIT を歩き初めてすぐに、数百メートルにわたって無数の滝が 流れ落ちる景色に遭遇した。その光景を見た瞬間、これまた鳥肌がたって、「おーーっ」と言葉を漏らしてしまうと同時に感動した。しかし 5分程その光景に感動しているとその景色にもなれてしまった。しか し、またそこから移動して別の角度や別の滝を見ると、また5分程の感動が続きそれがまた当たり前の光景となるという繰り返しであった。滝をズームで。虹も至る所で。途中、対岸の島越しにも大きな滝を確認できた。ボートツアーに向かう船も何隻か見えた。LOWER CIRCUITの展望台が下部に見えた。雨水期にはこの展望台の廻りは流れ落ちる水に囲まれるのであろうか。そして真下に流れ落ちる滝が現れるのであろうか。あまりにシンプルで気の利いたコメントができない自分に驚いた。どこまでも続くそのスケールに圧倒される。イグアスの滝は最大落差こそ80 mと意外に少ないものの、驚くべきはその滝幅。約4kmにわたって大小300の滝が一度に流れる様子は、まさに圧巻。かの有名なナイアガラの滝が 最大落差54m、滝幅が約670 mというから、いかに大きいかがわかる。なかでもブラジル側の展望橋から見る滝は、手が届きそうなほど目の前に流れ落ちているので水しぶきがものすごいのであった。1億2000万年前から存在していたといわれているこの滝を前にして思う。時に先住民族から聖地として崇められ、16世紀には西洋からの来訪者を 驚かし、そして現在は訪れる観光客に感動を与える。そのような大自然こそ人間は永く護っていかねばならないと。広場にいたこの鳥の名は?カタラタス地域(Area Cataratas)の案内板。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.07
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平成21年6月7日(日) 6:00、ホテルからの日の出前の空。心配していた天気も快晴に近く、一安心。ホテルの中庭のプール。待ちに待った、そしてこれを見るために丸2日に渡る日本からの移動に耐えての期待に満ちた朝がスタートしたのであった。ホテルには昨夜は気がつかなかったが、多くの観光客用のバスが乗り込みを待っていた。2連泊のホテルはブラジルにある「Recanto Park Hotel」。ホテル前の道路。7:30にホテルをスタートしてイグアスの滝へ向かう。フラタニティブリッジとしてよく知られているタンクレドネベス橋(Tancredo Neves Bridge)を渡る。イグアス川を渡りブラジル➡アルゼンチンへの国境検問所に。「ようこそ イグアス国立公園(parque nacional iguazu)へ」。イグアスの滝は、アメリカのナイアガラの滝、ジンバブエとザンビアにまたがるビクトリアの滝とともに、世界3大瀑布のひとつとされている。ブラジルとアルゼンチンの2ヵ国にまたがる巨大な滝だ。その玄関口となるのが、フォス・ド・イグアスの町。1986年にユネスコの世界遺産に登録された。アルゼンチン側の「イグアスの滝」ゲートに到着。ここで現地添乗員の方(熊本よりの移民の方とのこと)が入場券を購入してくれた。現地通貨で60ペソ、日本円で1500円程であった。園内の入り口の説明板でイグアスの滝について現地添乗員が説明してくれた。イグアスの滝 案内図。このあと、トロッコ列車に乗りアルゼンチン側の「悪魔ののど笛」へ。案内書の係員が笑顔で迎えてくれた。園内の珍しい木々を眺めながら歩くこと5分程度で、トロッコ電車のCENTRAL駅近くに。トロッコ列車の駅であるCENTRAL駅に向かう。そしてトロッコに乗り、悪魔の喉笛駅(Estación Garganta del Diablo駅)に向かう。車両は、中で立って歩くことができないこぢんまりとしたものだ。先頭部に機関車が付いており、行きは機関車が客車をひっぱる牽引運転、帰りは機関車が客車を押して走る推進運転となっているようだ。客車内部は、進行方向に対して直角方向にベンチが並ぶ構造。途中、中間駅のCATARATAS駅で別の電車に乗り換えた。この駅は別の滝のビューポイントにアクセスすることができる駅との説明であった。更に終点駅に向けてジャングルの中を進んでいった。イグアス川に沿ってトロッコは進む。この辺のイグアス川は静かな流れ。終点のGALGANTA DEL DIABRO駅(悪魔ののどぶえ)駅に到着。北米・ナイアガラの滝、アフリカ・ビクトリアの滝と並んで世界三大瀑布の一つと称される南米・イグアスの滝。アルゼンチンとブラジルの国境上にあり、滝はブラジル側とアルゼンチン側の両方から見ることができる。アルゼンチン側のビューポイントには、このジャングル列車(トレン・デ・ラ・セルバ)と呼ばれる鉄道でアクセスできる。以前は道路によるアクセスだったが、環境への配慮から近年になって鉄道が導入されたとの事であった。「悪魔ののどぶえ」とはイグアスの最大の滝で、ここから滝まで約1.1キロ、さらに川の上にかかった遊歩道を歩くのであった。川幅が大変広く、いつまで経っても滝が見えない。しかし遊歩道を進むと「ゴゥオー」と大きな音が聞こえてきた。左前方には水しぶきが。亜熱帯性の密林の中を流れるイグアス川。遊歩道を更に進むと轟音が次第に大きく響き、小さな水滴も飛んで来るようになった。1キロメートルほど歩くと、ようやく滝が見えて来た。そして轟音も聞こえてきたのであった。帰りの観光客を見るとかなりの人がずぶ濡れになっているではないか。遊歩道の途中に休憩場所があったのでここでこの時のために準備し日本から遠路はるばる運んだ雨合羽をリュックから出し、着込んだのであった。更に隠し技のゴーグルを着用。これはメガネに付くしぶきを防ぎ目一杯滝を楽しみたいための自信の準備品なのであった。いよいよ『悪魔ののど笛』手前に到着。だんだんと悪魔の喉笛が見えて来た。展望台からは、滝の上から大量の水が落下するのを目の当たりにすることが出来、本当に迫力満点。水しぶきと轟音が凄まじかった。2週間前までは雨が少なかったため、水の流れが少なく日本からの観光客をがっかりさせたとのことだが1週間程度前に上流でかなりの雨が降り水の量を回復させているとのこと。幸運に感謝、感謝であった。しかし水が濁ってるためか、「ナイアガラの滝」のように滝の美しさは感じでられないとの感想も聞こえてきたが自然の偉大さにただ驚くばかりの凄まじさであった。右を見ても左を見ても、大量の水・水、そして轟音と水しぶきの世界であった。水しぶきの中、黒い点状の物が動き回っているのが確認できた。滝に突入する岩ツバメなのであった。かってこのイグアスの滝、とりわけ『悪魔ののど笛』を見たアメリカ大統領ルーズベルト夫人は『可哀想な私のナイアガラ・・・・』とつぶやいやと言われているのが十分理解できるのであった・・。とはいうものの私は未だナイアガラの滝を訪れていないのである。虹を描いてブラジル側へと流れ落ち、水しぶきをあたり一面に上げる壮大な滝の表情は変化に満ち、光の加減によってさまざまに変化する。鳥の飛び回っている姿がここからも。近くには、大きな虹が美しく光っているのが確認できた。そしてアルゼンチン国旗の下にもやや薄いが見事な虹がかかっていた。悪魔ののど笛に別れを告げて、遊歩道を戻りカッパも脱ぎ、別の遊歩道に向かった。イグアス見物はまだまだ続くのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.07
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空港ターミナルビルの前にあった植物の名は?葉はアロエやリュウゼツランに似ていたが。ミニゴルフコースであろうか?起伏の激しい道路をイグアスの滝に向かって進む。観光バスのタイヤに珍しい「空気圧調整装置」運転手に尋ねると運転しながら調整出来るのだと。そして三国国境地点展望台:イト・トレス・フロンテラス(Hito Tres Fronteras)<に到着。左から、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの国旗が。パラグアイの国旗は表、裏があるのだと。赤は正義を、白は平和を、青は自由を表している。パラグアイの国旗は、モルドバやサウジアラビアの国旗と同じように表と裏でデザインが違っているのだと。表側には国章。裏には自由の帽子(フリジア帽・隷従から自由への解放の象徴)とライオンが画かれていると。ブラジル~アルゼンチン 制限条約(Tratado de Limites)100周年記念プレート。ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの3国国境を流れるパラナ川。川向うはパラグアイ、右側はブラジル。イグアスの滝はブラジルとアルゼンチンの国境にあるが、右側から流れ込むイグアス川は滝から18km下ったこの場所で両国とパラグアイの国境を流れるパラナ川に流れ込んでいるのだ。この合流点は、3カ国の国境地点でもあるのだ。左手対岸はパラグアイ。ブラジル側の眼下には傘をかぶったような建物(Folum Do Americas Espaco)があり、そこで観光関係の会議が開かれると。パラナ川。パラグアイ側では土砂を船に積み込んでいたのであろうか。アルゼンチン側の国境の町ここプエルト・イグアスには三角錐のモニュメントが建っていた。左がパラグアイ、右がブラジル。パラナ川がゆったりと流れていた。目を懲らすと、遠くに、パラグアイの街並みが僅かに見えていた。パラグアイには、赤・白・青の3色の三角塔が見えた。この公園には色鮮やかな『ヘリコニア・ロストラタ』が咲いていた。「ヘリコニア・ロストラタ(学名:Heliconia Rostrata)は、ペルー~アルゼンチンなどの熱帯アメリカ原産で、オウムバナ科オウムバナ属の熱帯性常緑多年性植物です。花序が下垂性をしたヘリコニアということで、ハンギング・ヘリコニア(Hanging Heliconia)や、ロブスター(海ザリガニ)の鋏(はさみ)のような形をした苞(ほう)が特徴的なので、「ロブスタークロー(Lobster claws)」とも呼ばれます。苞は鮮やかな朱色で先端は黄色い。苞から花径が5~6 cmの黄花が咲きますが、苞ほど魅力はありません。ボリビアの国花とされます。」と。珍しい蝶。ここの見学を終わり、バスに戻る。いよいよアルゼンチンからブラジルへの国境を通過。アルゼンチンからの出国は極めて簡単で、現地添乗員が参加者全員のパスポートを集め代理で済ませてくれたのであった。アルゼンチンからブラジルに入る。そして『友愛の橋』を渡り、下を流れるイグアス川を見ながらブラジルへ入ったのでした。ブラジル入国手続きは、全員バスを降り、書類に必要事項を記入し個別申請、ここでブラジル査証の確認が行われたのであった。「ブラジルは初めてか?」の問いがあったが非常に簡単な入国審査であった。ブラジル側の国境検問所。ホテルに16時到着後、チェックイン後、部屋に入った。イグアス(ブラジル側)のホテル『HOTEL RECANTO PARK』我々は男三人のトリプルルームで、2連泊。しかしまだまだ休ませてはもらえなかった。バスにてアルゼンチンタンゴとサンバショーを見ながらの夕食の為、18:30に出発。夕食はブラジル名物の『シュラスコ』料理。シュラスコは、鉄串に牛肉や豚肉、鶏肉を刺し通し、荒塩(岩塩)をふって、炭火でじっくり焼いたブラジルをはじめとする南米の肉料理である。長旅の疲れも焼けた肉の香りに一気に消えて。バイキングスタイルのため皿にあふれるように載せて、多いに楽しんだのであった。サラダも。大好きなホワイトアスパラを楽しむ。そしてアルゼンチンタンゴ&サンバショウが始まった。最初は静かにアルゼンチン又はブラジル民謡?と踊りでスタート。次から次へと。そしてサンバショウが大きな音楽に乗りながらスタート。客も舞台に上がって。ここで眠気も一気に覚め食い入るように見つめ、写真を撮りまくる私であったが、我がグループの男性陣は皆同じであったと信じたい。しかしながら隣に座る女性陣はこのけたたましい程の大きさの音楽を、BGMとし、お腹も満腹となり、出発後40時間以上の超長旅疲れが一気に出た模様で、この音楽を子守歌として多いに眠っていたのであった。約1時間半のショーでフィナーレへ。時間は22:40前。そしてホテルに23時過ぎに戻り、ここで拷問から終に開放され、シャワーを大急ぎで浴びて爆睡したのであった。そしてまた翌日のモーニングコールが6時に枕元で鳴り響いたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.06
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そしてブエノスアイレス国内線空港・アエロパルケ空港に到着。正式名称はホルヘ・ニューベリー空港。再びイグアス空港へのチェックイン。これで目的地への最後の飛行機になるので参加者の皆さんも元気を取り戻してきた模様。アエロパルケ空港は、ブエノスアイレス市内に位置し、主にアルゼンチンの国内線や短距離国際線が発着する。再びLAN航空カウンターでチェックインしチケットをもらう。カラフルな大きなハートマークの風船。売店にはアルゼンチンで採れるもっとも高価な、インカのバラ(Rosa del Inca)と呼ばれる乳白色がかったピンク色の石が、指輪やブローチとして展示されていた。アンデス山脈に近い高度3000メートル以上の山腹にあるカピージャ鉱山でしかとれない貴重品という。またの名をロドクロシータ(Rodocrosita)と呼ばれ、ギリシャの言葉で「バラ色」を意味する。数百万年前に生成され、鉱山の中の鍾乳洞や石筍(せきじゅん)で採掘されているとの説明であった。インカ帝国の時代というから今から500年ほど前に鉱山が開発され、インカ時代のミイラがこの石を握っていたことで「インカのバラ」と呼ばれるようになったとのことである。インカ時代にはこの石には霊力が宿っていると信じられていたらしい。単一なピンク色ではなく、薄い明るいピンクから赤紫まで、乳白色の筋が入ったものが普通だが、筋のないもので色が濃く、透明感のある石は更に価値が高いとされ、特別にオルティス(Ortiz)と呼ばれているというのだ。昼食は空港の待合室での弁当。和食の弁当とは驚きであった。この地でもこの様な日本食弁当の需要があるようである。まさか我々の様な日本人旅行者だけのためのものではなかろうが・・・・・。弁当を楽しむ旅友二人。待合室で飛行機を見ながらの昼食、初めての機外食?であった。多くのアルゼンチン航空の飛行機が見えた。予定時刻の12:30出発のLA4026便で最初の目的地のイグアスへ離陸したのであった。利用するLA4026便。睡魔に襲われた旅友。管制塔。離陸直後の窓からはブエノスアイレスの緑も豊かな街並みが美しく見えた。かなりの高層ビルが林立している街であることが再確認できたのである。ラプラタ川河口上空を飛行。湿地帯上空をイグアスの滝国際空港に向けて飛行。ネグロ川が大きく蛇行、合流を繰り返していた。イグアスまで2時間弱の飛行であったが、途中の窓下には岩山の間を茶色く染まったウルグアイ川がうねって流れているのであった。そして機体が降下して行くにしたがい、次第に茶色の世界から緑の世界に変わって来た。そして田園風景が拡がる。そして着陸態勢に。終に最終目的地のイグアス空港へ着陸。空港ビルは赤煉瓦の倉庫のような建築物であった。空港待合室には私の到着を待ちこがれていた美人女性が2名。特徴ある衣装で出迎えてくれたので、直ぐに記念撮影。もちろん旅友Sさんもこれを黙って見ているはずは無かったのであった。この女性達に何の目的かを問うたところ片言の英語でカジノ店のPRであることが解った。これでトランプカードの縫いぐるみが理解できたのであった。旅友Sさんは鼻の下を長くして。外には再びバスが待っていて、これに荷物を載せ、いよいよ、そしてやっとのことでイグアスの滝に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.06
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リマ空港着現地時間:6月5日 23:52(日本時間:6月6日 13:52)ペルーと日本との時差は14時間で、サマータイムは実施していない。空港内のトランジットルートを進む。リマ空港でブエノスアイレス行きの飛行機を待つ間、土産物屋を覗く。インカ文明の臭いを感じるものが多く飾られていた。空港内の大用トイレのドアは下部が開放。約1時間半待ちでアルゼンチンのブエノスアイレス行きの飛行機に再び搭乗。アルゼンチンへは、LA 2427 B.AIRES(ブエノスアイレス)行き 01:25発。ロサンゼルスから乗ってきたLA 601便は01:05発で、チリのサンティアゴへ既に夜昼の時間感覚は失われていたのであった。待合室のベンチで登場を待つが睡魔とひたすら戦う。そして漸く搭乗開始。旅友たちも元気そうに搭乗。予定の1:25に離陸してチリ上空へ。リマから南米大陸を斜めに横断する約4時間強の飛行であった。着陸前の機窓には朝焼けが赤く輝き空を染めていた。ブエノスアイレス空港への着陸前の機内。ほぼ予定の時間の朝7時40分にブエノスアイレス空港に着陸。正式名称はミニストロ・ピスタリーニ国際空港(Aeropuerto Internacional Ministro Pistarini)だが、ブエノスアイレス市街地から南西に約25kmで所在地のエセイサからエセイサ空港(Aeropuerto de Ezeiza)と呼ばれることが多いのだと。入国手続きも無事完了し、空港ロビー内を移動。荷物も全員無事に到着しやれやれ。待っている観光用バスに向かって進む。ロビーを出てバスの待つ場所へ。ブエノスアイレス (Buenos Aires) は人口303万人(2007年)を擁するアルゼンチンの首都で、どの州にも属しておらず特別区として扱われるとのことである。建国以来アルゼンチンの政治、経済、文化の中心であり、南米有数の世界都市。アルゼンチンの縮図ともなっているとの添乗員の説明。また「南米のパリ」の名で親しまれ、南米の中で最も美しい町の一つとして数えられるという。空港から国内線の空港へバスで移動。既に空港にはバスが待っていた。既に犯罪人の護送状態の如き拷問感を実感しているのは私だけでは無かったはずである。到着ターミナル前。そしてエセイサ空港を出発し更に国内空港へ向かう。高速道路を走る。歩道橋はバリアーフリー?高層ビルも林立。高速道路料金所。市内には高層マンションも林立し、朝の活動を開始していた。更に高層アパート群が次々と。サッカースタジアム。エスタディオ・モヌメンタル・アントニオ・ベスプチオ・リベルティ。通称エル・モヌメンタル (El Monumental) 。鉄道の跨線橋。そしてラプラタ川が見えて来た。国内空港の横にはラプラタ川が流れていたが見渡す限り対岸の陸地が見えない。それもそのはず、河口部が全幅約275kmの三角江(エスチュアリー)となっていて、世界一の河口の幅であるとのこと。朝の光に水面が輝いていた。木製の桟橋上では早朝から釣り人達が。5~60kn先の対岸はウルグアイであるが陸地は見えなかった。ラプラタ川下流側南大西洋への河口の幅は275kmと。ラプラタ川沿いの公園の並木。釣り人が釣った魚の名は? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.06
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ロサンゼルス空港でのトランジットで約4時間半待ち。漸くLAN航空の我が便はリマに向かって飛び立った。ペルーのリマまでの飛行時間はまたまた約8時間35分と。そして機体は離陸に向けて移動開始。機内はほぼ満席。離陸後約1時間で1回目の機内食。ポテトのすりつぶしたもの・ハッシュドポテト?に牛肉のトマト煮の様なものであった。ポテトだけが非常に旨かったのであった。ひたすらカリフォルニア湾上空をカリフォルニア半島沿いに南下していることが解った。そして右手のガラパゴス諸島を通過していた。ガラパゴス諸島は、南東太平洋上にあるエクアドル領の諸島。エクアドル本土より西約900kmにあり、123の大小の島と岩礁からなる火山群島。現在も火山活動が続いている。Islas Galápagos は「ゾウガメの島」という意味。正式名称はコロン諸島。いよいよ生まれて初めて赤道を横切り、南半球に突入したのであった。LAN航空の空路。LATAMチリは、チリの首都のサンティアゴ・デ・チレを本拠地としているLATAM航空。グループの航空会社で、チリのフラッグ・キャリアでもある。二度目の機内食は質素。入国カードを準備する。ペルー西海岸上空を南下しリマ空港へ。ロサンジェルスからペルーのリマまで約8時間30分の飛行の後、定刻通りペル-のリマ空港へ着陸したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.05
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久しぶりのアメリカ入国。9.11テロ以来入国審査が極めて厳しくなっているとのことであったがその通りであった。まずは入国審査。入国書類は当然であるが、指紋検査が実施された。先ずは右手の親指を除く4本の指を機械の上に、そして次に親指だけを。この後左手も全くの同様に。よって10本全ての指の指紋がアメリカ国に登録されたことになったのである。更に顔写真の撮影。眼鏡を外せと。これによりパスポート偽造による入国は不可能になることを目的としているようである。漸く入国審査を完了し、次はX線検査。ズボンのベルト、靴を脱がされ、更に上着、ジャケットも脱げと。何とかアラームブザーが鳴ることなく通過でき、荷物も無事到着し米国入国となった。ここから更にLAN航空に乗り換え、ペルーのリマまで飛ぶことになる。LAN航空はチリ最大の航空会社で、世界有数の航空連合であるワンワールドの一員である。チリ国内やラテンアメリカ、北アメリカ、オセアニア、及びヨーロッパへの路線を運航している。また、アルゼンチン航空とともに南極経由でオセアニアへ路線を持つ数少ない南アメリカの航空会社であり、世界で唯一イースター島への路線がある会社でもある。現在日本路線の開設を申請中であるが、成田空港の発着枠の関係で実現していないとのことであった。ターミナルを徒歩で移動して、LAN航空カウンターへ。ようやくLAN航空カウンターに到着。そしてカウンターでLAN601便のチェックイン。チェックインも完了しLAN航空のチケットを手に集合。今回のツアーで最高齢者は80歳代の男性で一人参加なのであった。そして搭乗時間までしばしの間、空港ロビー内を散策。今回一緒に千葉から参加されたMさんご夫妻前年のスペイン旅行の後「スペイン旅友の会」を発足、今回の参加となったのであった。搭乗するLA601便。LAN航空にチェックイン後、出国検査。X線検査は入国時と同様、身ぐるみ剥がされてのものとなった。X線通過後身なりを整えていると、突然のけたたましいホイッスルの音が響き渡った。その場を動くなとの大きな叫び声が聞こえた。何事かと緊張したが1分程度後に再びホイッスル。何かの訓練であったらしいが詳細不明であった。我々の便はLA601便、リマ経由チリのサンチャゴ行きであった。待合室で搭乗を待っていると、今度は警備員らしき人が席の移動を指示。別の席に移ると、更に廻りの通路へ移動せよと。近くの喫茶コーナーに爆発物の如き不審物情報が入ったとのことでの避難命令であった。今度は訓練ではなさそう。周囲の通路で待つこと10分程度か。不審物が安全であることが確認されたのか避難解除出て元の席に。一時は緊張したがやれやれ。まだまだ道半ばである。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.05
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朝5時に起床。しばらく留守にするので、蜜蜂嬢達に挨拶に養蜂農園へ。既にJ1群は行動を開始していた。簡単に草削りを実施後自宅に戻る。小田急線の最寄りの駅までトランクを転がして行くつもりでいたが雨がポツポツ落ちて来たため、急遽9:30時間指定でTAXIを呼びJR駅へ。横浜からNEX19号 10:30発に乗車。Sさんも同じくこの電車に乗った。車内はかなりの空席。この時間に利用する人は少ないらしい。」途中東京駅で新宿方面からの車両を連結。もう一人の旅友Hさんもこの電車に乗っていた。成田空港第一ターミナル(北ウイング)に12時前に到着。出発ロビー4Fの『クラブツーリズム』カウンターへ。既にかなりの参加者が到着済み。ツアーディレクター(添乗員)の待つカウンターで受け付けを済ませ、e-チケットを入手後、大韓航空のカウンターでチェックインとトラクを預けた。その後集合場所に参加者全員が集合。添乗員のMさんから出国手続き等の説明あり。男性8人、女性9人、その内4組が定年後のご夫婦であることが判明。平均年齢約60歳?単独で参加の女性が5名そして我々3名と最高年齢の男性1名でのツアーである。入国審査を済ませ大韓航空待合室へ。トランジットによる飛行機乗り換えが数回あるため酒類の購入は出来ない。利用便は大韓航空01便。出発時間14:55のロサンゼルス行き。日本からの添乗員から最初の説明を聞く旅友達。出入国審査を受ける。ロサンゼルスまで利用する14:55発 大韓航空KE1便。DL7871のデルタ航空との共同運航便であった。27番搭乗ゲートから機内に。私の隣に座った集団は韓国/京畿大学の学生。ソウルから搭乗しロサンゼルスまで行きアナハイムで行われる食品工学の学会に参加する学生であった。定刻の14:55に出発。最初の機内食は、ビビンバ。。ご飯と具が別々になっており、チューブに入っているコチジャンをこれに混ぜてビビンバの出来上がりなのであった。飛行時間9時間45分の長旅であった。日付変更線も過ぎ、ハワイ上空も過ぎ米国本土へ向けて飛ぶ。夕食の機内食はオムライス。サンフランシスコに向かって飛行。そしてロサンゼルス空港到着現地時間:6月5日 8:40(日本時間6月6日 0:40)成田空港から約9時間45分のフライトなのであった。日本との時差はサマータイムの17時間で日本より遅れている。腕時計を現地時間に合わせた。計算は、日本時間より4時間引き、昼夜(PMとAM)を逆転させたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.05
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンク6月5日(金)から会社の先輩2名とイグアスの滝、ナスカの地上絵、マチュピチュへの旅に出た。一昨年の『九寨溝』、昨年の『スペイン』に続く3人での旅の開始である。【旅行日程】1日目 成田空港⇒ロサンゼルス空港(米国) KE001便 ロサンゼルス空港⇒リマ空港(ペルー) LA601便2日目 リマ空港⇒ブエノスアイレス空港(アルゼンチン) LA2427便 ブエノスアイレス空港⇒イグアス空港(ブラジル) LA4026便 イグアス空港⇒ホテル泊(ブラジル) BUS移動3日目 イグアスの滝(アルゼンチン側&ブラジル側)観光 BUS移動 ボートにて滝下部へ⇒ホテル泊(ブラジル) BUS移動4日目 イグアス空港⇒ブエノスアイレス空港 LA4023便 ブエノスアイレス市内観光 BUS移動 ブエノスアイレス空港⇒リマ空港 LA2428便 ホテル泊(リマ) BUS移動5日目 リマ空港⇒クスコ空港 LP019便 クスコ市内観光と遺跡観光 BUS移動 クスコ⇒ウルバンバへ ホテル泊(ウルバンバ)6日目 ウルバンバ⇒オリャイタイタンボへ BUS移動 オリャイタイタンボ駅⇒アグアスカリエンテス駅へ 高原列車で移動 アグアスカリエンテス駅⇒マチュピチュ遺跡へ 専用BUS移動 マチュピチュ遺跡 観光 往路と同じルートで帰路へ 専用BUS&高原列車移動 オリャイタイタンボ駅⇒クスコ ホテルへ BUS移動 ホテル泊(クスコ)7日目 クスコ空港⇒リマ空港 LP024便 リマ空港⇒ナスカ ホテルへ BUS移動 途中 パチャカマック遺跡 見学 ホテル泊(ナスカ)8日目 ホテル⇒ナスカの地上絵へ BUS移動 ナスカ地上絵をセスナ機上から見学 セスナ機 ミラドール(展望台)からの地上絵見学 BUS移動 ナスカ⇒リマへ BUS移動 リマ市内観光9日目 リマ空港⇒ロサンゼルス空港 LA600便10日目 ロサンゼルス空港⇒成田空港 KE002便 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2009.06.05
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いよいよ今日、イグアスの滝、ナスカの地上絵、マチュピチュへの出発です。昨年も6/6にスペインへ旅に出たのでした。1年ぶりの海外旅行です。いろいろと詰めるとトランクも一杯になりました。イグアスまで30時間の長旅です。成田までは、横浜から成田エクスプレス19号で向かいます。同行する他2人もこの電車に乗ります。今の心境は、谷村新司の『三都物語』の歌詞の如くです。胸さわぎの 旅は いま始まって時の流れのままに こころを遊ばせこの私は 誰を 訪ねるあてもなくまるで詩人のように 景色に染まってああ なんて街 それぞれ 美しいああ なんて人 それぞれ 生きている昨日 今日 明日 変わり行く私紅くいろづくときめきを誰に告げましょう風そよげば ひとり 胸抱きしめて愛の不思議を思う 吐息をもらしてこの泪(なみだ)は きっと 感じるよろこびね揺れる瞳に映る 季節に恋してああ なんて街 それぞれ 美しいのああ なんて人 それぞれ 生きているの朝に舞う夢黄昏(たそがれ)に出会いほんの一時(ひととき)のためらいを誰に言いましょう昨日 今日 明日 変わり行く私紅くいろづくときめきを誰に告げましょう「旅」の語源は家を離れる「他日」とか「外日」とか、よその飯を食べる「他火」とか言われるらしいが、正確なところは分かっていないらしい(語源由来辞典より)。「travel」はフランス語の「トラバーユtravail」に繋がっているらしい。求人雑誌名でわかるように仕事という意味もあるが、苦労するとか骨を折るとかの意味が含まれているのだそうだ。そういった意味で連想するのは「トラベルtravel」と「トラブルtrouble」が似ている気がすること。旅行にはトラブルがつきものなので、臭いぞと思うのだが、これは語源的には別物らしい。今回の『トラベル』が『トラブル』なく、思い出に残る実り多き楽しい旅であって欲しい。と言うことで暫くブログも、私と同じくリフレッシュ休暇です。愛読者?の皆様、帰国後の旅行記をお楽しみに!!!行って来ま~~~~~~~~~~~~~~す。 ・・・つづく・・・
2009.06.05
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スペインの旅八日目、日本に帰る日になった。延泊したため我々3人だけでの帰国。朝フロントにTAXIを予約しに行くと今日はTAXIがストに投入し14時までは動かないとの返事。一大事と町まで出る方法を尋ねると、近くのバス停から路線バスに30分ほど乗り、郊外線の駅へ行けと。慌てて荷造りしバス停へ。TAXIで空港まで行くと決めていたので、ホテルと空港との位置関係、移動ルート等は全く頭になかったのでややパニック状態に。バス停から宿泊ホテルを望む。バス停でバスを待つ旅友2人。バスは時刻5分間に来た。遅れてくるものと思っていたが早めに来ていて良かったと胸をなで下ろす。郊外線(RENFE)のBARBERA駅でバスを下車。そして切符も買わずにホームに入れたのであった。カタルーニャ駅まで20分程度乗車。この電車は落書きだらけ。窓にまで落書きがありさすが芸術の町であると、緊張感から解放されたせいか自ずと感じた。乗車駅でチケットを販売していなかったので精算窓口へ。しかし駅員から「一日乗車券を購入したら」とすすめられたのであった。しかし3名分の精算のみをし広場に上がる。空港行きのバス停へ向かうが、ここはなんと長蛇の列が出来ていたのであった。ニュース報道のカメラもきており約1時間並んでやっと乗り込みバルセロナ空港にたどり着いた。バルセロナ空港で税金を回収するために歩き回る。目立たない小さな窓のあるところが確認印を押してくれる場所である。これでは気の短い外国人は見つからずにあきらめて帰国すること間違いなし。これがスペインの国策ではないかと全員怒りまくる。予定のKLMフライトでアムステルダム・スキポール空港へ飛び立つのであった。バルセロナ発:KLMオランダ航空 KL1668便に搭乗。バルセロナを出発、オランダ上空へたどり着く。ノールトセイ運河が眼下に。ゴルフ場も見えた。ジャンクション上空を通過。トランシットでオランダのアムステルダム空港へ到着。そしてアムステルダム・スキポール空港で約3時間のトランジット。スキポール空港で最後の土産を買い込む。旅友のS氏は何故か??奥様に負い目があるようでプレゼント用品を、きれいなリボン付き包装を要求して購入。全員元気にJALのJL1412便に搭乗。乗客は殆ど日本人観光客。さすがハブ空港でありヨーロッパ各地を旅行した観光客が集まっていた。12時間の長旅を終え、無事定刻通り成田到着。心配していた荷物も無事出てきてまずは一安心してそれぞれ家路についた。日本と違い幾多の宗教戦争と多くの国や民族の影響を受けながら、地方ごとに独自の文化を育ててきたスペインの世界遺産を訪ねた旅。明るい親切なスペイン人にも触れることが出来、また優秀な添乗員や楽しいツアー仲間、すばらしい天候にも恵まれた、いつまでも思い出に残る9日間のおじさん3人の旅でありました。来年はまた3人でどこに行こうかな? ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2008.06.13
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スペイン旅行ツアーの最終日であるが我々3名は事前に1日延泊で申し込み済み。町までツアーのバスに同乗させてもらう。車窓から前日訪ねた「サグラダ・ファミリア大聖堂」を見る。カタルーニャ広場にてバスを下車。ツアー仲間も空港への出発まで、自由時間で散策に出かける。このあと9:30 に、我々3人と沖縄から参加されたMさん母娘の5人がツアーから離れることに。Mさん母娘は別便にて沖縄に戻るのだと。ツアーから離れるにあたって日本からの添乗員Sさんから「スリだけにはくれぐれも注意するように!」と注意されたが・・・・・。また親しくなった方との日本での再会を約束してバスを見送る。そしてオプショナルツアーの『モンセラット観光』が15時集合のためそれまでの時間は市内観光へ5人で出かける。カタルーニャ広場から、南西方向に歩く。「エスパーニャ広場」エスパーニャ広場は現在では多くの大通りが交わる主要な交差点になっていますが、歴史がある場所です。バルセロナを最も象徴的に表す1つであるこの広場は、1929年の万博のために作られた。沖縄から参加されたMさん母娘と一緒に歩いて来る。Mさんは今年旦那さんと南米へ百万円/人で行くと、我々も翌年南米(ペルー、ブラジル)へ行くことになったのだと。「エスパーニャ広場」から南にあるモンジュイック地区の『カタルーニャ美術館』方向へ。「カタルーニャ美術館」1929年のバルセロナ万博時に建造されたパビリオンを改装し、1934年にオープンした美術館。ロマネスク、ゴシック、バロック美術の貴重なコレクションを有する。なかでもピレネー山脈周辺の教会、修道院から移送した天井画や壁画、祭壇の装飾など、カタルーニャ独自のロマネスク美術の最高傑作を展示していると。向かい側のビルのガラスに映る我々の姿。レイナ・マリア・クリスティーナ大通りにある「マジカ噴水(Font Màgica de Montjuïc)」。ここで沖縄からのMさん達と別れる。エスカレーターでカタルーニャ美術館前へ。エスカレーターから振り返ると先程の「マジカ噴水」が。広場からは「エスパーニャ広場」を手前にバルセロナ市内が一望できるのであった。「カタルーニャ美術館」の高台から北方向に、「エスパーニャ広場」と市街を一望。前方にある高さ47mの2本のそびえ立つ塔はヴェネチアにあるサン・マルコの鐘楼から影響を受けたものであると。カタルーニャ美術館へ来た小学生か?「モンジュイック地区」バルセロナ万博開催前の都市整備によって、現在の姿に生まれ変わったモンジュイック地区。ミロ美術館やスペイン村など文化施設が集中し、丘の上から望む地中海の眺望は最高。「カタルーニャ美術館」の建物の4隅に建つ塔。次に美術館裏にある「バルセロナオリンピックスタジアム」まで坂道を上る。16年前の1992年のバルセロナ・オリンピックのメイン会場となったスタジアム。有森裕子、森下広一がマラソンでメダルを獲得したスタジアム。スタジアムへの入場は無料であった。スタジアム正面。別の角度から。スタジアムの西側に日本人建築家磯崎新氏の手による『サン・ジョルディ・スポーツ館』が建つ。塔は、「モンジュイック・タワー」。スペインの濃い青空に向かって真っ直ぐに伸びる凛としたデザイン。構造計算を駆使した3点の土台がタワーを支えます。タワーの傾斜は夏至の太陽角度に合わせた日時計として機能していると。正面から。上部を見上げて。再びカタルーニャ美術館方向を見る。マラソン大会か?多くの学生が。「サン・ジョルディ・スポーツ館」。オリンピック用の屋内競技場。1990年竣工。1992年に開催されたバルセロナオリンピックのメーン会場のひとつで、収容人員は約17,000人。広場の横にジャカランダが咲いていた。ジャカランダは世界三大花木(カエンボク、ホウオウボク、ジャカランダ)のひとつで、ノウゼンカズラ科の高木。ズームにて。こちらはアメリカ デイゴアメリカデイゴとはマメ科の落葉低木。長く伸びた花茎に、花径5㎝ほどの赤色の花をたくさん付けます。 マメ科の植物の花は、旗弁が上になって咲く場合がほとんどですがアメリカデイゴの花は旗弁が下になっているのが特徴的スタジアムから、「カタルーニャ美術館」へ再び引き返す。トーチを掲げる像。「カタルーニャ美術館」に更に近づいて。再び「カタルーニャ美術館」からバルセロナ市内を見下ろす。遠くに「サグラダ・ファミリア聖堂」の姿が見えた。カタルーニャ美術館前から北方向の「エスパーニャ広場」。右手に長楕円形のトーレ・アグバール (Torre Agbar) が見えた。バルセロナのディアゴナル通り、グランヴィア通りとメリディアナ通りの交差点にある超高層ビル。アグバール・タワーともいう。フランスの建築家ジャン・ヌーヴェルが設計した建築物で、バルセロナ水道局(Aguas de Barcelona、アグバール)が所有していると。カタルーニャ美術館前から東へ進み振り返る。「ミロ美術館」。ジョアン・ミロの作品を主に収めた、バルセロナのムンジュイックの丘にある現代美術館。個人美術館としては世界最大であり、バルセロナの人々からは「ミロからの贈り物」と呼ばれている。八重のブーゲンビリアがここにも。ケーブルカーに乗りモンジュイック城跡を訪れる左前方に「サグラダ・ファミリア聖堂」、右前方に長楕円形のトーレ・アグバール 。モンジュイックの丘から乗ってきたゴンドラを。頂上のゴンドラ昇降装置。「モンジュイック城」城壁のツタと庭園が美しかった。ゴンドラ乗り場の方向を見る。モンジュイック城入り口に大砲が。別の方向から。城門を入り城内へ入る。17世紀に建立された要塞のモンジュイック城は、兵器倉庫や獄舎などさまざまな用途に使用された。現在は一部が軍事博物館となっており、武器や軍服などが展示されていると。ここからはバルセロノナ港が眼下に見え青い地中海に豪華客船が何隻も停泊中。大型クルーズ船が2隻停泊中。ズームで。南方向には、埠頭がありコンテナが並ぶ。モンジュイック城の城門を出る。そして「モンジュイック城」を後にし、オプショナルツアーの集合場所のカタルーニャ広場に戻ることにする。モンジュイック地区の見学を終わり徒歩とTAXIでカタルーニャ広場に戻る。集合時間が14:45のため近くで両替、まだ時間があったので人ごみの中を『レイアール広場』へ。ところが、旅友のSさんが、OPの集合場所でリュックを開けようとしてリュックが空いていることに気づいたのであった。中を見ると財布を抜き取られ両替したばかりの金がないと・・・・・・。オバチャン2人の「スリ」にやられたのであった!!しかし15時から、モンセラットのツアー(我々3人と1名の日本人の4人)、ツアー代は、55€(約9,350円)に参加。マイクロバスで移動、途中車を止め撮影。バルセロナの北西に位置したカタルーニャの宗教的中心地となっている岩山である。この岩山からガウディーはカザ・ミラ等の曲線の建築物をイメージしたと伝えられている。モンセラットは聖なる岩山に抱かれたマリア信仰の中心地。切り立った岩山の前に建つ建物は「サンタ・マリア・モンセラット修道院付属大聖堂(Monaterio de Monserrat)」。中腹からバルセロナ方向を見るバルセロナへ来たら是非訪れたいモンセラットで、日帰り観光できるのであった。現地日本人添乗員(右側)に説明を受ける。山の中腹725メートルには修道院があり、今も巡礼者が後を絶たないと。迫りくる奇岩群はまさに大自然の奇跡。ガウディも足しげく通った場所、そして現在はパワースポットとしても有名。カタルーニャの宗教的中心地となっている岩山は、ガウディなどの芸術家がインスピレーションを受けたほど神秘的。モンセラットは標高1,241mの切り立った岩山。モンセラットとは「のこぎりで挽き切られた」という意味で、別名のこぎり山とも呼ばれると。様々な色のキャンドルが並ぶ。修道院へは無料で入れた。重厚感ある大聖堂は少年聖歌隊でも有名。地元カタルーニャ州の9歳から14歳までの約50名のメンバーで構成される少年聖歌隊は、入るのにも厳しい試験があるのだと。大聖堂の礼拝堂に安置されている「黒いマリア像」をネットから。イエス・キリストをひざに抱いた聖母マリアの木製像がケース内に収められていた。マリア像は右手に世界・全宇宙を象徴するといわれる球を持っている。一説では、この像は12世紀頃に作られ、当初は白かったものがろうそくのすすで黒ずんでしまったともいわれているが、真相は不明であると。 【https://item.rakuten.co.jp/gemsjapan/lp10365a-c6/】より大聖堂前。大聖堂前から一段降り、土産物店、広場へ。約1時間の散策でモンセラットを後にしてバルセロナへの帰路へ。帰り道は別のルートで下山、途中モンセラットの山並み。モンセラットから帰り、カタルーニャ広場で別れる。街中では雨が降ったのか、多くの観光客が。カタルーニャ広場に戻りレストランで夕食。最後は思い切りガイドブックに紹介されている店を選ぶ。この店の名物のエスカルゴとアムール貝ほかの貝盛り合わせを注文し大いに飲む。「エスカルゴ」。「アムール貝ほかの貝盛り合わせ」。夕食を終えてホテルに向かって。そして再びカタルーニャ広場に。この後、タクシーでホテルに戻ったのであった。日本が朝になるスペインが夜中の24時に、旅友Sさんは、日本にいる奥様へ電話し事情を説明しカードの停止等の手続きを依頼されたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2008.06.12
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翌朝、スペインの旅6日目も早朝散歩、バレンシアの宿泊ホテル『EXPO』八重咲きのハイビスカス。オレンジ。こちらもハイビスカス。塔が立っていたが。集合時間が近くなりホテルへと戻る。そしてホテルに戻る。手前の交差点角には新聞等の売店が。朝食後バレンシア市内観光。バレンシアは絹取引で栄えた地中海商業都市の一つで、その財力によりナポレオンの侵略や、フランコの独裁政治にも対抗でき、自由を守ったとのこと。バレンシアの見所は「カテドラル」「ラ・ロンハ」「中央市場」の3ヶ所。女性現地ガイドもバスに乗り込みバレンシア市内観光のスタート。世界遺産の「ラ・ロンハ」近くでバスから下車して市街地を散策。前方に「サンタカタリーナ教会の塔」が垣間見えた。バレンシアは陶磁器の街でもあり、ポーセリン・アートで有名なリヤドロ兄弟は、バレンシア近郊で生まれた。その直営店がバレンシア市内にある。ビルヘン広場( plaza de la Virgen)から「カテドラル(大聖堂)」と「エル・ミゲレテ(El Micalet)」を見る。ビルヘン広場には大きな彫刻と噴水があった。水の神と周りにバレンシアの8個の水源を現す女神たち。バレンシアにとって水は大切という象徴。バレンシアにとって水は大切という象徴とのことであるが、「ネプチューンの噴水」は休止中であった。大聖堂に隣接し、聖母広場に面したサーモンピンクの建物は、バレンシア市民にもっとも愛される「聖母デサンパラードの聖堂」。「バレンシア大聖堂」のゴシック様式の「ファサード」。「エル・ミゲレテ(El Micalet)」。愛称「ミゲレテの鐘」を持つ八角形のゴシック式鐘楼。14~15世紀の間に造られた石造りの鐘楼。1418年の聖ミカエルの祝日に大鐘が奉献されたことを記念し、ミゲレテの名が鐘に付けられた。それ以来、この塔はミゲレテの塔と呼ばれている。ミゲレテとは、バレンシア方言でミカエルの意味で、地元では親しみを込めてミカレット(ミカエルの愛称)と呼んでいる。50mの高さにある展望台まで207段の階段を上れば、バレンシアの街並みを一望できると。『カテドラル』は旧市街のシンボル。キリストの聖杯が安置されている旧市街のシンボル。かつてモスクがあった場所に、イスラム教徒からバレンシアを奪還したアラゴン王が教会として建設。ロマネスクにゴシック、バロックなど改修した各時代の建築様式が混在している。内部の礼拝堂には、イエス・キリストが最後の晩餐に使ったといわれる聖杯を安置。美しいメノウで作られた聖杯は15世紀にバレンシアまで運ばれた。1238年、ジャウマ1世により建設が始められた。中に入ったがミサの最中のため静かに退場。そして世界遺産の「ラ・ロンハ」スペイン第3の都市ここバレンシアにある正式名称「ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ」は、バレンシアが経済的に大きく発展した15世紀後半に建てられた「絹の商品取引所」。1996年にユネスコの世界遺産に登録された。バレンシア旧市街の中央部に在る「ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ」はイスラム王宮跡に1482年から1533年に掛けて作られたゴシック後期のフランボワイヤン様式による建物で、絹取引の貿易会館として作られた。スペイン語で「セダ」とは「絹」で、「ロンハ」は「貿易」であるとの女性現地ガイドの説明。単独で世界遺産に指定されたとのことですが日本からの添乗員からも疑問の声。建物も大きくなく何故?中央市場前に立つこの建物は「サンジョアンデルメルカット教会(Iglesia de San Juan del Mercado)」。その前に「中央市場(Mercado Central)」。中央市場の建築工事が始まったのは1914年で、施工から100年!もはや歴史的な建造物。総面積8160㎡、1200店舗以上が並ぶ、ヨーロッパでも最も大きな生鮮食品市場のうちの一つ。見事なドーム。中央市場内に1200店以上の店がある。野菜、肉、魚等庶民の台所が容易に想像できる場所。イベリコ豚がぶらさがっていた。建物の正面は市場とは思えない立派な作りであった。スイカ、アーティーチョークも。桃が売られていましたが日本では見かけない扁平型の桃が山積みされていました。一緒の旅友Sさんががアメリカンチェリーを買い配ったため、大いにツアー仲間から点数を獲得していました。このあと9時に中央市場を出発して、北東方面約350kmに位置する最後の訪問地バルセロナへ。メディテラネオ自動車道(AP7)をひたすら走る。直ぐに大きな川があったが。トイレ休憩でドライブイン『AUTOGRILL』へ立ち寄る。ツアーバスの前で旅友と一緒に。再び地中海が見えて来た。バンデリョス原子力発電所(Central nuclear de Vandellòs II)が右手に。1号機は廃炉となり、2号機は1080MWeの加圧水型原子炉。さらに3号機が計画されていたがこれは1995年9月2日に断念されたのだと。高速道路脇にあった『ラス・ファレラス水道橋(Aqüeducte de les Ferreres』。ラス・ファレラス水道橋はスペインで2番目の大きさを誇る別名 ”悪魔の橋”と言われている。タラゴナの中心部から約4km離れた場所にある、ローマ皇帝アウグストゥス時代の水道橋「悪魔の橋」。2層アーチ式で状態がよく、スペインではセゴビアに次ぐ規模の重要な水道橋。北を流れるガイア川から、タラゴナの街へ水を引いた当時は、全長が35kmもあったという。現在地はタラゴナ(Tarragona)。タラゴナはスペイン北東部に位置するカタルーニャ州の港町です。この町はローマ帝国時代にはタラッコと呼ばれており、当時の古代遺跡も多数。ここからバルセロナ方面への高速道路は2本に分かれていた。1本は山側を走るAP-7、もう一方は海岸線を走るC-32号線。我々のバスはそのままAP-7を進む。バルセロナが次第に近くなる。独自の文化を持つカタルーニャの中心都市、バルセロナ。サグラダ・ファミリア聖堂に代表されるガウディ建築や旧市街のゴシック地区など、趣深い建築物が待っているのであった。バルセロナ市街地に入り、車窓からガウディ建築を紹介された。バルセロナ市街地のレストランで昼食。先客で韓国人観光客が食事中でテーブルには持参のキムチが。我々のテーブルには梅干しはなし。前方に「バルセロナ凱旋門(Arc de Triomf)」が姿を現した。バルセロナ、シウタデリャ公園の近くにあるこの凱旋門は、1888年の万国博の時に、万国博の入口として建設されたもの。建築家ジュゼップ・ビラセカ・イ・カザノバスによる、当時流行していたネオ・ムデハル様式。レンガで作られた高さ約30メートルのこの門には、農業、産業、芸術、商業をイメージした様々な彫刻が施されていると。バルセロナ凱旋門はフランス・パリの白い石を使った凱旋門とは異なり、情熱の国スペインらしさが表れている赤いレンガで作られていたのであった。 車窓からガウディ建築の『カザ・ミラ』が左手に。ガウディがインスピレーションを得た、最終日に訪ねたモンセラットから切り出された石灰岩は、都市のなかに聖なる岩山を生み出したのだと。曲線がユニークな集合住宅である『カザ・ミラ』独特の形状からバルセロナ市民にラ・ペドレラ(石切場)の愛称で親しまれるガウディ晩年の作品。波打つ曲線のファザード、地中海の巨石を思わせる造形は、カタルーニャの聖地モンセラットの奇岩がモチーフ。断崖絶壁を想像させる自然主義的作品であり、曲線のみで構成されるユニークな形状は、ガウディのもっとも完成したスタイルが見て取れる。最上階にはガウディの作品を紹介する博物館になっており、屋上には兜をかぶった騎士を連想させる奇妙な煙突がそびえる。そしてサグラダ・ファミリアへ。着工から120年間を経過した現在でも建設中のスペインを代表する建築家ガウディーの代表作。彼の構想では、聖堂の外側にイエスの「生誕」「受難」「栄光」の3つのファザードが建ち、各ファザードは4本ずつ鐘塔を持つ。計12の塔はそれぞれ12使徒を意味する。また、4人の福音書家を表す4本の鐘塔の交差部上にイエスとマリアに捧げる中央塔が建てられ、計18の塔がそびえる壮大な教会は石に刻まれた聖書ともいえる。現在、完成しているのは地下聖堂と後陣「生誕」「受難」のファザードと8本の鐘塔のみ。ガウディの死後も工事は続けられ、2020年ごろ完成予定といわれていたがさすがに観光客が多く混雑していた。大きすぎてデジカメに収まらない。ファサードは、主に4本の鐘楼(塔)と、聖家族に捧げられた3つの門「望徳の門」「愛徳の門」「信仰の門」で構成され、ファサード壁面の彫刻にはキリストの誕生から青年期までの成長が、喜びや生気に満ちたシーンで表現されていると。唯一の日本人彫刻家、外尾悦郎氏の作品もあると。こちらは「愛徳の門」。愛徳の門は、救世主イエスの誕生を祝福する彫刻群で飾られているのが特徴。各彫刻では。イエスの誕生にまつわる様々なエピソードや、それに関連した登場人物たちが表現されていると。正面入口の下から頂上を見上げる。塔の前に立ち説明されたが遠くて分からず、ガイドブックから。黄色線内が、「聖母マリアの戴冠」。ガウディの友人の息子で彫刻家の「ジュアン・マタマラ」が手掛けた作品。神がマリアの献身的な愛に対して戴冠を行う姿が表現されています。向かって左がマリアの婚約者でイエスの養父の「聖ヨセフ」です。ズームして。「受胎告知」「イエスの生涯」。この彫刻「イエスの生誕」では、イエスの誕生に喜ぶ養父「ヨセフ」と、赤子のイエスを抱きかかえる「聖母マリア」の姿が表現されている。「東方三賢人の礼拝」エルサレムでイエスが誕生した際に、東方で星を見た三賢人が、その星を追って、エルサレムの「ヘロデ王」を訪れるという聖書の一場面を表現。「羊飼い達の礼拝」ベツレヘムの町の郊外で、夜通し羊の番をしていた羊飼いたちに、天使がキリストの誕生を告げた一場面を表現。そして「希望の門」左手のエジプトへの逃避の場面の下には、“希望の門”と名付けられた扉が。彫刻の多さに圧倒される。「信仰の門」生誕のファサードに向かって右側に位置する「信仰の門」は「聖母マリア」に捧げられた門。ファサードを飾る彫刻では、イエスの幼少期から青年期、更に聖母マリアを主題にした場面が表現。見上げる旅友。現状の全景が見える位置から。鐘塔には上れないとのことであったが幸運にもエレベーターに誰も並んでいないことを現地スペインガイドが発見。急遽上る希望者を募る。もちろん手を挙げる。再びファサードを見上げる。上部からはバルセロナ市内が一望でき銃弾の形をした水道局の建物も見えた。別の方向を見る。上部は建設用のクレーンが林立し完成まではまだまだほど遠いことが想像された。展望台から上部を望む。タワークレーンがセットされて。塔の内部から上部を見上げる。塔の中を歩いて下る。廻り階段を下る。塔の上から廻り階段を降り1階の作業場1階から見上げる、高い足場が積み上げられていた。手作業で部品を作成。日本人もいるとのこと。型があり細かいものを作っていた。作業場の片隅に完成図であろうか置かれていた。複雑な形状。ステンドグラス。外に出て、下から見上げた受難のファサード。「受難のファサードの彫刻」。受難のファサードの彫刻は、キリストの苦悩と悲しみがテーマとなっており、最後の晩餐からキリストの十字架磔刑までの場面が12の彫刻群で表現されていた。更にその遙か上には復活を遂げた「キリストの昇天」の彫刻も飾られていた。彫刻家の「スビラックス」は、ガウディの意図を最大限に汲み取りながらも、細部の作風に関してはガウディに囚われず、角張った縦長のフォルムで人物を表現し、自身の作風で仕上げたと。中央上に「十字架磔刑」、その下に「聖ベロニカと複音史家」。中央に「3人のマリアとキレネのシモン」、右に「ピラトの判決」。一階部分。方向を変えて。ズームアップ。「この人を見よ(エッケ・ホモ )」鞭を打たれてイバラの冠を被せられたイエスを罵倒し騒ぎ立てる群衆に向けて、ローマ帝国のユダヤ属州総督「ピラト」が「この人を見よ」という言葉を発した瞬間が表現されている。サグラダ・ファミリア聖堂の彫像は聖書の各場面を表現している。ツアーガイドであろうか。スペインを代表する建築家ガウディが設計した2026年完成予定の大聖堂。着工した1882年3月19日から137年が経とうとしているが未だに建設が続いている。行った時は2020年ごろ完成といっていたが。後6年位で完成するのであろうか。最後に見上げてバスに乗車。幻に終わった公園都市『グエル公園』グエルがスポンサーとなったガウディ最初の都市開発プロジェクト。約20haの土地に当初60戸の住宅を建設する予定だったが、グエルの死により計画は失敗に終わり、美しい公園が残された。緻密な計算で設計された広場横から続く石の柱廊。蛇をイメージしたという遊歩道。鳩の巣になっている。柱廊の下でギターを弾く人物。おとぎの国の家を思わせる建物が並ぶ。下の広場へ降り。公園管理者用に建設された事務所塔の先端にガウディ建築物の象徴、ダブルの十字架が鎮座する。ズームで。公園のシンボルである、モザイク造りのトカゲ。トカゲは水の守護者と言われている。丘の上に立つ塔。この建物は違うが、グエル公園内にはガウディが暮らしていた家が博物館として保存されている。ーーーーー アントニ・ガウディの一生 ーーーーーアントニ・ガウディはタラゴナ近郊の都市レウスで1852年に生まれた。バルセロナ建築学校に21歳で入学、苦学生だったガウディは、複数の建築家の助手として早くから現場で実践を学んだ。卒業後、後にパトロンとしてガウディを生涯支え続けたバルセロナの新興ブルジョアジー、エウセビ・グエルに認められ、斬新なデザインと構図美を持つ作品を発表、建築家としての地位を確立する。晩年はサグラダ・ファミリア聖堂の建設にすべての時間と情熱を捧げるが、1926年、路面電車にはねられて73年の生涯を閉じる。広場から遠くに地中海が見える。公園ではノカンゾウ(野萱草)が満開ユリ科ワスレナグサ属の野草で、一日花で食用にできる。多くの観光客が。17:37グエル公園を後にする。旧市街地を散策し各自で夕食へ。各自で夕食後集合して、宿泊ホテルへ『CAMPANILE』。時間は22時過ぎ。室内に入り水廻りをチェック。ツインルームに入り。我々は1日の延泊にしているので連泊となる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2008.06.11
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スペインの旅5日目は、アルハンブラ宮殿観光、昼食後、スペイン第3の都市バレンシアへ。グラナダの昼食会場、そして食事を終えバスへ。バレンシアまでは約450~500kmのバス移動。高速道路脇の山には洞窟が点在。山の手前には鉄道が走る。地中海に近く夏の暑さをしのぐために洞窟の住宅が目立つ。旅の疲れが出たか、バスの中は静かで皆さん爆睡中。車窓の風景を楽しみながら進む。山肌にはオリーブの若木が一面に。トイレ休憩のため高速道路のドライブインに立ち寄りトイレ休憩。ここのトイレの男性表示。赤色では日本人が間違う可能性大。巨大なイベリコ豚。今宵の反省会のためにワインを購入。オリーブの畑の先にはぶどう畑が。高速道路の料金所アリカンテ(Alacant)の街を通過。右手に地中海を見ながら進む。地中海の見える別荘地。地中海に沿って鉄道も走る。空、そして地中海も青。オズボーンの雄牛( Toro de Osborne)は、雄牛のシルエットを模した、全高14mの黒色の看板。シェリー酒の製造メーカー。白に統一されたマンションタイプも建つ。海の向こう(南側)はアフリカ・アルジェリア。トイレ休憩で、Aotglill SA へ立ち寄る。現在地はバレンシアまで約40kmの場所。サービスエリアを出発、この辺りはビルの建設ラッシュ。高層ビルが林立。湾に沿った大きな街並みが。右前方には禿山が。山肌に「クリェラ・CULLERA」とある。料金所を通過。バレンシア手前の下水処理場。バレンシアの宿泊ホテル『EXPO』へ到着。夕食は、バレンシアのホテル近くのレストランで、スペイン名物の ”パエリア” を食べる。この土地の名物料理パエーリャ。鶏肉とロブスターより小ぶりのエビが入ったもの。黄色い色は名物のサフラン。かなりのオリーブ油が入っているようで私にはもう少し具沢山でさっぱりしたものが欲しかった。これもツア-料金の影響か? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2008.06.11
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スペインの旅五日目は、グラナダのアルハンブラ宮殿へ。この日も、早朝起床し、朝食後に3人でホテル周辺の散策に向かう。花壇では薔薇が綺麗に咲いていた。道路脇の花壇にも花が植栽。イスラム建築が残る町並み。狭い路地に入ると。重厚な建物・グラナダ大聖堂。グラナダカトリック教会であったのだろうか。ドームをズームアップ。先程の塔を再び見上げる。建物前にユニークな形状の柱が。8時頃だが人通りが少ない。集合時間が8時半のためホテルへ帰ることに。そしてホテルを出発してアルハンブラ宮殿に向かって進む。アルハンブラ宮殿の前には地元の高校生も見学に。入場制限があり、団体は予約制で入門時間が決まっている。入場者数は一日に6,000人とか。入場は、8:30~17:00で、300名/回。壁面に「ALHAMBRA」の銘板。入場門前に置かれている大砲。予約時間で入場宮殿は4つに分けられており全てを見ると最低2時間を要する。入り口の博物館内に修復中のライオンが飾られていた。入場門を入るとすぐに、ルネッサンス様式が美しい『カルロス5世宮殿』一階が博物館になっている。演奏会があるのかステージがセットされていた。アルハンブラ宮殿から眺める街の景色。白い街は、世界遺産のアルバイシン地区であると。イベリア半島最後のイスラム王朝が栄えた都グラナダ。1492年、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)でその歴史に終止符を打つ。アルハンブラ宮殿は無血開城により今も多くの建築や文化が残っているとのガイドの説明。左手にベラの塔(夜警の塔)。宮殿内から世界遺産のアルバイシン市街地。大理石で作られた豪華な装飾。柱上部の見事な彫刻。透かし彫りの装飾が見事である。150本に近い大理石柱からなる回廊。柱上部に施された透かし彫りは見事の一言。柱の繋ぎ部には鉛が入れらてあり地震等からの倒壊を防いでいるとのこと。ライオン像が池の畔に立つパルタールの庭園。青空に映えて美しい。アラヤネスの中庭は東西7m、南北35mの水面が広がっていた。壁面に文字、説明が。コマレスの塔。コマレス宮のアラヤネスの中庭の北側に建ち、高さは45mある塔の下には「大使の間」がある。王宮内の獅子のパティオ。142本の大理石柱がライオンの泉を囲む獅子のパティオ。天井の鍾乳石飾りが素晴らしい二姉妹の間。繊細な透かし彫りが至る所に。アルハンブラ宮殿から眺める街の景色。白い街は、世界遺産のアルバイシン地区。薔薇を前景にサンタ・マリア教会が。ヘネラリフェ。アルハンブラ宮殿から徒歩で約10分程で、丘を登ったところにある夏の離宮。続いてヘネラリーフェ離宮へ向かう。糸杉の中庭は見事な造形美に刈り取られ、ふと自宅の生け垣の刈り込みが待っていることを思い出す。壁に囲まれた細長い中庭にはバラなどの花が咲き乱れ、絶え間ない噴水の音が涼しさを演出している。この噴水は土地の高低差を利用して自然に噴き上がっている。これは北アフリカの砂漠からやってきたイスラムの民に、オアシスに対する強い憧れがあったからとのガイドの説明。仕事をふと思い出す。水は約35km離れたシエラ・ネバダ山脈からひかれ、この離宮には、たくさんの水路や噴水が設けられ、水をふんだんに使っているので「水の宮殿」とも呼ばれている。いつまでも立ち止まりたい空間であった。ヘネラリフェからアセキアの中庭越えにアルハンブラ宮殿の全景を見渡す。サンタ・マリア教会方向を見る。糸杉のある美しい庭園。アルハンブラ宮殿近くのサッカースタジアムが前方に。土産物屋のリヤドロ:2,700€(約46万円)と高価。グラナダの市街地を歩く。昼食はスペイン名物の 「タパス(生ハム、スペイン風オムレツなど」。昼食後、バレンシアへ移動したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2008.06.10
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グラナダに到着、ホテルで夕食後、アルハンブラ宮殿の向かい、アルバイシン地区からさらに奥に入ったジプシー居住区の岩山の洞窟タブラオのフラメンコショーを見学。洞窟の壁に沿って椅子が並べられ、中央のスペースが舞台。我々以外にも多くの観光客が。ハードな旅程も何する事か。ツアーの友は皆元気に参加。最初の踊り子が中央に。ギタリスト、歌い手、ダンサーも同じ輪の椅子に座り、ダンサーはひとりずつ中央に出てクアドロ形式のショー。目の前で繰り広げられる踊りは迫力満点。ベテランダンサーの表情。身体全身から迫力ある歌声で。若い踊り子に続きベテランが登場。観客の手拍子が合っていないからやめろと。さすがはプロのわがまま?そして男性の踊り子が登場。飛び散る汗、間近で見るラスゲアード(Rasgueado)の華麗なテクニックに圧倒される。ラスゲアードは、ギターの奏法のひとつ。左手で和音を押さえ、右手の指の爪側で上から下に掻き鳴らすように弾く。フラメンコギターで多用される奏法のためフラメンコ奏法とも呼ばれる。踊りの途中休憩になり、ドリンク一杯付きを楽しむ。ダンサーの華やかな衣装だけでなく、表情や手の動きにも注目。衣装は黒と赤が多いのであった。日本人と思われる踊り子が登場し、汗びっしょりの熱演。飛び散る汗、間近に見るダンサーのテクニックに一同大いに盛り上がった。踊りが終わり〆のかけ声「オレ!」最後のダンサーが登場。ギターの激しく、悲しい音色はフラメンコの魅了のひとつ腰の振りも激しく響き渡るギターの音に合せて踊りも最高潮に。帰りにアルハンブラ宮殿の夜景を楽しみ興奮した心?を沈めホテルに帰った。長い一日。それにしてダンサー、ツアー仲間とも老若男女皆タフ!!!!。これにも感嘆。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2008.06.09
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この日の昼食はホテルでとり、再出発。>高速道路を東方向へ。今日も天気が良く気温も30℃以上に。バスの最前列で車窓風景を楽しむ。このあたりの南方向は、100km強でジブラルタル海峡へたどり着く。ジブラルタル海峡はヨーロッパとアフリカ、ふたつの大陸を、わずか14kmの幅で隔てる海峡。グラナダへの途中、Osuna(オスーナ)出口まで1000mとの表示板。車窓から白い壁の家が目立つ用になって来た。旅友の男性からのリクエストで急遽再度トイレ休憩。先程の休憩でビールを飲んだとか。一時間半走り目的地に近づく。白い村ミハスを訪ねる予定であったが、スペイン国内の大型車のストライキ突入の影響で急遽訪問地がモンテフォリオに変更されたのであった。オレンジとオリーブの林の高原の中をドライブ。山の斜面を削り取ったような村は、15世紀末に、頂上のアラブの城砦跡に造られたサンタマリア教会に向かって、白い家々が四方から一斉に這い登っているような景観でありここも素晴らしい。添乗員も初めての訪問地とのこと。切り立った山の上に建つ教会・サンタマリア教会。アンダルシアの白い村々の一つで、スペインで最も美しい村との呼び声が高い。白い村と言えばフリヒリアナ、ネルハ、ミハスなどが有名ですがモンテフォリオはまだまだ日本人観光客も少なく白い村の穴場的な存在だと。イスラムの歴史に溢れたサンタマリア教会の麓に白い軒並みが続く姿が美しかったのであった。村のモスクには数え切れないほどの岩ツバメが巣作りに励んでいた。山の裾野には張り付くように白い家が甍を並べていた。まだまだ日本人観光客は少なく、アンダルシアに点在している白い村や白い町の中では穴場的なスポットであると。自由行動でモンテフォリオの街を散策。白い壁に挟まれた急な坂を登りサンタマリア教会の方向へ歩く。白い壁と花。地面近くは積雪かと勘違いしそうなのだった。村の中の岩山の穴の中で子供達が明るく遊んでいた。サンタマリア教会を見上げる。家々がぎっしり連なる白い壁の村・モンテフォリオ。アンダルシア地方の建物が白いのは、昔の人々の夏の暑さ対策の知恵だと。ここで引き返し、石畳の坂を下る。再びモスクまで戻る。鐘楼であろうか。バスの待つ場所に向かうが、自転車レースの案内板『RUTA HIPONOVA』案内板には、左にレース写真、真ん中にルート、右に高低差等が表示されていた。そしてグラナダへ向かう途中、羊飼いが、牧羊犬を使い羊を誘導しているところに出会ったのだ。道路標識は「GRANADA(グラナダ)」。高速道路の法面にはエニシダが満開。途中夕食をとり、グラナダのホテルへは21時過ぎに到着したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2008.06.09
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宿泊ホテル「TRH LA MOTILLA」。ホテル前の街角にあるこの飛行機は?。オリーブの実。そして8時半にホテルを出発、この日は大河の恩恵で栄えた貿易の都そしてスペイン第4の都市セビリヤの観光。今日のバスの席は最前列が指定席。左前方にサッカーのスタジアム。ローマ時代からアンダルシアの中心都市だったセビリア。フラメンコや闘牛の本場として、またビゼーの『カルメン』の舞台として有名。グアダルキビール河畔に広がる旧市街は、素朴で温かい風景を見せてくれる。セビリアは8世紀から約500年間イスラムの支配下に置かれ、その影響を強く受けた。正面に「黄金の塔」が姿を現した。グアダルキビル川のセビリア港への外部からの侵略を防ぐためにムーア人建てたのが黄金の塔。つまり黄金の塔はグアダルキビル川を守る要塞としての役割をしていて、川から侵入しようとするものを見張っていたということ。グアダルキビル川の水面に映る塔が黄金に見えたことから、黄金の塔と呼ばれるようになったと。まずは美しい半円形対称なスペイン広場を訪問。広場の噴水は出ていなかったが橋の手摺り等にはセビリヤ焼きの陶器がはめ込まれ、スペイン各地の歴史を描いたタイル画のベンチが備えられていた。映画『アラビアのロレンス』や『スター・ウォーズ エピソード2』のロケ地として使われたことから一躍有名になたっと。1929年に開かれたイベロ・アメリカ博覧会の会場として、建築家アニバル・ゴンサレスによって造られた。右側半分を見る。右側の塔。左右対称の左側を見る。左側の塔。建物の中央。スペインの国旗がはためく。スペイン広場で美しいのは、ムデハル様式の壁面のタイル。半円の壁面にはスペインの各都市を象徴する歴史的なできごとと、その都市がどこにあるのかを示す地図が描かれていた。重厚なレンガ造りの建物との調和が見事。ア・コルーニャ(CORUNA)の文字が。ア・コルーニャは大西洋における重要な港。左側の塔下から右側の塔を見る。そしてバスに乗り込みサンタ・クルスへ向かう。ムリーリョ公園にはコロンブスの記念塔が聳えていた。柱の中程にはコロンブスが乗船したサンタ・マリア号がアメリカ大陸に舳先を向けていた。1492年コロンブスは新航路探索に向けてここセビリアから出発した。スペイン王室と契約を交わしたコロンブスはやがて新大陸航路を発見し「太陽の沈まぬ国」の基礎を築くことになるのであった。そんな記念塔が立ち、オレンジの大木があるこの公園はサンタ・クルス街の入り口にあった。バスを降りサンタ・クルスの街を歩く。アルカサルの北側に広がる旧ユダヤ人街。アンダルシア地方の典型的な家々が並び、花をあしらった白壁や鉄柵の奥に覗く美しい中庭などがあり、歩いているだけでも楽しい。Sevillarte自社工場で生産したセビリア焼きの陶器はどれもスペインらしい明るい色調。絵皿をはじめ灰皿、時計、小物入れなど手ごろな価格でアイテムも豊富であると。伝統的なセビリア焼き。伝統の手法ですべて手描きされている。小道の合間から、ひときわ高くそびえるヒラルダの塔が見えた。ホテル、レストランもあり広場にはカフェも。世界遺産であるスペイン最大の『カテドラル』を見学。世界第3の規模をもつゴシック様式のキリスト教聖堂とのこと。『ヒラルダの塔』は96mを誇りイスラム教→キリスト教の歴史を刻んでいる。後ほどこの塔へ上る。ライトアップされた夜景も見事だと。最上部をズームアップ。女神像は風により方向が変わるようになっていた。カテドラル前の広場へ。スペイン最大の大聖堂『カテドラル』ローマのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール大聖堂に次いで、世界第3位の規模を誇るキリスト教大聖堂。1248年にフェルナンド3世がセビリアを奪還すると、イスラム礼拝堂はキリスト教の大聖堂として使用された。ゴシック様式の大聖堂としてはヨーロッパで、16~19世紀に造られた75枚のステンドグラスは息をのむ美しさ。聖アントニオンの小祭壇に掛けられているムリーリョの『聖アントニオの奇跡』は必見。また、コロンブスの墓や名画、宝物など見どころはいっぱい。入口にも女神像が。カテドラルの中庭。聖堂内へ入り。カテドラルを彩る装飾品のなかでもとりわけ圧巻なのが、主祭壇と聖歌隊席。聖書の場面を1000体以上の彫刻と45のレリーフで表現した黄金色の祭壇は、天井まで届きそうなほどの圧倒的な大きさ。当時のスペインを構成したレオン、カスティーリャ、ナバーラ、アラゴンの4国王がコロンブスの棺を担いでいる光景。パイプオルガン。内部には黄金に輝く主祭壇、コロンブスの墓等があり、中でもステンドグラスの美しさには感動した。鐘楼であるヒラルダの塔へのぼる。緩やかにスロープがくるくると続き、塔の最上階まで続いていた。階段のない塔で、途中途中に何周したか表示があるのですが、一体何周したのか、忘れるほどに多かったのであった。『ヒラルダの塔』に登れば、『オレンジの中庭』が下に見えた。この南スペインには多くのオレンジが植えられていてオレンジの中庭と呼ばれる庭も多くある。丁度オレンジが生っていて、なんとも落ち着くいい雰囲気の庭であった。オレンジの庭をズームで。塔からは市内も一望でき遠くマエストランサ闘牛場の丸い建築物も確認できた。カテドラル前の広場。左奥にスペイン広場の塔が見えた。レンズを左側に振って。ヒラルダの塔から降りる途中に。カテドラルの中庭でオレンジの木を再び。カテドラルからバス乗り場へ。建物間の上には日除けのテントがやはり陽射しが強い。路面電車が走る市街地。路面電車の駅、観光用の馬車も多く。カテドラルの西側イスラム教支配時代のモスクを取り壊して建設されたカテドラル。鐘楼であるヒラルダの塔は唯一のモスクの名残り。カテドラルとヒラルダの塔。バスに乗り昼食会場へ、前方にヒラルダの塔。昼食会場へ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2008.06.09
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コルトバ市内へ向かう途中のサービスエリアのガソリンスタンドでガソリンの価格表示があった。日本よりもガソリンが高い。sin plomo(無鉛ガソリン)が210円/L程度である。そして何故かディーゼル油の方が高い。これはスペインと日本の税金設定が違うためか。そしてコルトバに到着。観光用の馬車が客を待っていた。キリスト教徒によって街が奪回されてから今日まで、イスラムの遺産であるメスキータ(モスク)を取り囲むようにコルドバの街が形成されていることからも、イスラム時代の栄華は忘れ去られることはないだろう。旧市街全体が文化遺産に登録されている。壁面に「AMADOR DE LOS RIOS(アマドールデロスリオス通り)」。アマドール・デ・ロス・リオス(1816-1878年)はスペインの歴史家。旧市街地を馬車が走る。遅い昼食会場へ。スープそしてパンは袋に入れられ。メインは肉料理。約1時間のランチタイムを終え外へ出る。広場のサン・ラファエル勝利記念像。そしてメスキータ入口へ。メスキータとは、スペイン語でモスクのことですが、一般的にコルドバの聖マリア大聖堂を指すようになったそうです。ここにはイスラム教の大寺院と、キリスト教の祭壇との二つの異なった礼拝堂があります。モスクの総面積は24,000m2、西洋のイスラム寺院では世界最大のものです。この中には最初1,013本の円柱がありましたが、中にキリスト教の祭壇を建てるため改修され、856本となりました。8世紀半ばにイスラム王国に支配された後、500年近くイスラム文化の頂点を極めた大モスク『メスキータ』を見学。このモスクにはイスラムとキリストの支配の歴史が融合した建築物とのこと。モスクのミナレット(尖塔)は93mの高さを有しキリスト教徒により上部に鐘がつけられ鐘楼へと姿を変えていた。左手がメスキータ内の中庭メスキータは、後ウマイヤ朝を創始したアブデラマン1世によって、785年に建設が始まり、その後歴代の王によって増改築された世界最大級のモスク。シュロの門から足を踏み入れると、約850本もの馬蹄形アーチが目の前に広がる。鮮やかなセピア色のアーチは、モザイクを駆使した唐草模様やアラビア文字で装飾され、荘厳な雰囲気。半円形のアーチは、赤い部分は煉瓦、白い部分は石で造られています。『円柱の森』と呼ばれる円柱が林立するメスキータ内部。二重構造のアーチが連なる『円柱の森』。写真はアブド アッラフマーン1世によりモスクが建てられた「最初の建築エリア(786-788年)」。赤レンガのアーチが続く様はまさに壮麗そのもの。天上を見上げて。列柱の彫刻を説明する現地ガイド。ステンドグラスも美しかった。アラベスク模様やモザイクが豪華なミフラーブの丸屋根。上部には八角形のドームがあり、僅かながら外からの柔らかい光を取りこんでいた。メッカの方向を示すミフラーブ。メスキータ内の荘厳な聖体顕示台。壁面のステンドグラス。教会横の説教壇。奥にキリスト像が。糸杉が立つ中庭へ出る。庭の美しさも有名で ”オレンジの中庭” は市民の憩いの場になっている。中庭からのアルミナールの塔。メスキータの横にあるユダヤ人街は、入り組んだ迷路のようで、狭い石畳の道の両側には、こぼれんばかりの花を競い合うが如く飾った白壁の家が並んでいた。ユダヤ人街にある花の小道を歩く。巨大なメスキータの周りを白壁に花を飾った愛らしい小道が囲んでいて、伝統工芸やコルドバ料理の店が軒を連ねていた。飲食店の中には「イベリコ豚」が。自由時間で、グアダルキビール川に架かるローマ橋へ向かう。グアダルキビール川の下流側。今は使用されていない水車。2千年以上にわたりコルトバの歴史の目撃者であるロ-マ橋を渡る。今尚通行量の多い16のアーチが連なる石作りの見事な橋である。コルトバを後にして、セビリアへ向かう高速道路の横が見渡す限りのひまわり畑。写真撮影のためドライバーが急遽道路脇の空き地にバスを止めてくれた。山一面がヒマワリ畑。そして出発すると反対側の畑は小麦畑か?到着したホテルの庭にはプール、その前で記念撮影の旅友二人。このあと夕食会場へ。夕食後、ツアー仲間のMさん母娘と我々の部屋でワインを二本飲み盛り上がったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2008.06.08
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この日はコルトバの市内観光。ホテルを8時15分に出発し一時間強走り、のどかな田園風景に溶け込む風車の姿が。別の丘には近代の風力発電の風車も並ぶ。アラビア語で「乾いた土地」を意味するラ・マンチャ地方。その中にある、コンスエグラには、雨の少ない土地でも育つオリーブ畑やブドウ畑が広がっていた。また、風車の村としても有名。小説『ドン・キホーテ』にも登場した白い風車は、のどかな村のあちらこちらに点在し、そのいくつかは内部を見学できるのであった。途中『ドンキ・ホーテ』ゆかりの白い風車の村コンスエグラに立ち寄った。丘の上は風もあり涼しく、コンスエグラの街並とラマンチャの乾いた荒野が一望のもとに見渡せた。せっかく風車まで行ったので、ドン・キホーテのマネをして体当たりをしたくなったが、まだ旅は始まったばかりですので風を体全面で受け取るだけに。風車の中で名物おじさんが土産物を売っていた。誰が教えたかけったいな関西弁を駆使して売り込みに懸命。おかげでサフランを土産に買ってしまいました。風車の動力で粉挽きが。歯車は木製で石臼を回して、小麦を粉にしてパンを焼く。風車の階段を上り窓から外を見る。目の前を風車がゆっくりと回り。丘から下り、トイレ休憩で土産物店へ立ち寄る。教会の前に空に向って延びる糸杉。糸杉と言えばゴッホの「糸杉」や「糸杉と星が見える道」の絵だが、今回の旅で私は初めて見たが、スペイン、ポルトガルには多いと。セルバンテスが泊まったという当時の旅籠はペルト・ラピセという村にあり、現在「Venta Del Quijote」と言うレストランになっている。概観や中庭にドンキホーテを思わせる雰囲気で「旅籠」だった名残りが今でも感じられた。店員と一緒に写真を撮ったら店の名刺を渡されメールで写真を送れとのこと。売店の女性。教会の前にもドン・キホーテのオブジェが。ドン・キホーテミゲル・デ・セルバンテスによって1605年に発表された小説『ドン・キホーテ』。騎士道小説の読み過ぎで頭がおかしくなった主人公アロンソが、自らを騎士ドン・キホーテと名乗り、従者サンチョ・パンサと年老いた痩せ馬ロシナンテとともに旅に出るのであった。その道中、自己の欠如や人間の美徳を取り戻していくこの物語は、中世の理想主義とリアリズムが融合した、ヒューマニズム作品の傑作として、文学的評価も高い。劇中、ドン・キホーテが風車を「巨人」と見間違え、勇猛果敢に戦いを挑む舞台が、ここカンポ・デ・クリプターナ。約20分のトイレ休憩の後にバスに乗り込む。九十九折の峠を越えて行った。道路の両側には岩肌が押し迫り。鉄道もある、制限速度は50km/h。山の斜面はオリーブ畑で延々と続く。山一面にオリーブの木、手前はヒマワリか?高速道路脇の斜面にもオリーブの木が。丘の上の小さな街並み。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2008.06.08
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昼食後バスにて高速を利用してトレド観光へ。途中トレドの全景が一望できる場所で写真撮影。エニシダが咲く、タホ川の上流側。タホ川の上流側のこの新アルカンタラ橋を渡り市街地へ。タホ川の左上に「アルカサル」アルカサルは、11世紀にイスラム勢力からトレドを守る要塞として建築。以後500年間カスティーリャ王国の首都トレドの軍事拠点になった。1936年のスペイン内戦の際、ここで激しい攻防が繰り広げられ、建物は崩壊。その後市民戦争博物館として再建されたが、2007年まで修復工事のため休館中であったと。三方タホ川に囲まれた町並みは、4世紀にわたってこの地を支配したイスラム教徒の華やかな文化が偲ばれる。高台にある左が「カテドラル」右は「アルカサル」。カメラを西に振り、90mの鐘楼を持つ「カテドラル」。タホ川は古都の南側を迂回しポルトガルへと流れる。もっとじっくりと撮影したいビューポイントであったが、撮影後バスへ乗り城壁内へ。新アルカンタラ橋を渡り城壁内へ入る。街並みの間に日除けのテントが。トレドは画家エル・グレコが愛した街で創作活動に励んだ地として有名。グレコが残したトレドの風景画と、現在の町並みとが変わらないことに驚かされる。見上げると建物の間から高い鐘楼。この建物は。高さ90mの鐘楼を持つ「カテドラル」(左)フランス・ゴシック様式のカテドラルを外から見学。大きすぎて写真に入らない。スペイン・カトリックの総本山としての威厳を実感。パリのノートル・ダム寺院と同じフランコ・ゴシック建築のカテドラルはトレドの街のシンボル。サント・トメ教会でエル・グレコの『オルガス伯爵の埋葬』を鑑賞後、土産物売り場の散策へ。この地方は陶器が有名とのこと。世界遺産に登録されている『トレドの旧市街』は、ローマ時代、イスラム支配時代、ルネッサンス期など、あらゆる時代の文化遺産を残す街並み。狭い石畳の通路を下る。エル・グレコは天上の世界を描き続け、クレタ島生まれのギリシャ人で、エル・グレコとはスペイン語でギリシャ人を意味する。その生涯を宗教画家として送ったグレコはトレドに定住し、神秘的な作風を確立した。ゴヤ、ベラスケスとともにプラドの3大巨匠として知られている。下から見上げると各窓に花を飾りが。窓辺を飾るゼラニウム。ユダヤ人住居地区建物の壁面に、「BARRIO DE LA JUDERIA 1492」とマークが。旧市街地の狭い通路を進む、エル・グレコはギリシャのクレタ島生まれ、30代半ばで仕事を求めトレドへやってきた。以後亡くなるまでの40年間を過ごしたといわれるエル・グレコの家もあったのだが。狭い通路を上る。トレドの高台から北東方向を望む。同場所から北西方向を見る。西方向のタホ川を見る。北側の「ビサクラ新門」、観光案内所もあった。一時間半の観光を終え、北側に降り立ち高台を振り返る。ここで名物の象眼金細工(ダマスキナード)の実演を見学。妻と娘にお手頃のペンダントを購入。マドリード市内へ戻る途中、夕食会場へ。夕食の白身の魚のムニエル。夕食を終え街中を歩く。ロータリーの噴水。世界に広がるリヤドロの魅力リヤドロの人形は、伝統的な技法を身に付けた彫刻家によって、ひとつひとつ形作られる。細部の小さな装飾から美しい彩色に至るまで、緻密な工程をたどって経験豊かな職人たちがその原型を芸術作品へと仕上げていき、120ヵ国を超える国々へと輸出されていく。リヤドロの芸術的価値は、世界中の美術館や博物館でも認められ、ロシアのサンクト・ペテルブルクにあるエルミタージュ美術館では常設展示されている。一個の値段が、当時は480€(約82,000円)と高価だった。再び夕刻のスペイン広場へ。文豪セルバンテス没後300年を記念して造られた広場。かつてはこの広場に兵舎があった。ドン・キホーテとサンチョ・パンサ像の上にはセルバンテス像。オリエンテ広場の前で旅友と。サバティーニ庭園を見下ろす。庭園の中を散策。手入れの行き届いた庭園。結婚式前の前撮りか。夕闇の市街地。王宮側からおオリエンテ広場フェリペ4世の騎馬像。アルムデナ大聖堂大司教区の守護聖母を祀る。1883年に着工したが、市民戦争の影響で工事が遅れ、1993年に完成したマドリードのカテドラル。ファザードは、正面に向って建つ王宮に合わせた新古典主義様式の装飾が施されている。時間が遅く中には入れず。王 宮小高い丘に建つ豪華絢爛な宮殿。マンサナレス川を見下ろす高台に建ち、1738年ブルボン王朝の初代国王フェリペ5世の命により建設が始まり、1764年カルロス3世の代に完成したバロック様式と新古典様式が調和した建物。「柱の間」の壁を覆うタペストリーや、赤いビロードが印象的な「玉座の間」などに王家の栄華がうかがえる。2500枚に及ぶ世界有数のタペストリーのコレクションは必見。ここも時間が遅く入れず。大きなパラソルの下で談笑するマドリード市民。花も美しく。交通整理のおまわりさん。有名ブランドのショップやホテルが軒を連ねるグラン・ビア通り。グラン・ビア通りの一角に「三越」。三越店内で迎えのバスを待つ。ホテルへ帰り、明日は8時15分出発のため早めにベッドへ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2008.06.07
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この日は9時にホテルを出発するためホテル廻りを散策、ごみ箱を覗いてみる。マドリードはイベリア半島の中央に位置するスペインの首都。今日は土曜日で人通りがないのであった。このモニュメントは?公衆電話で。街中の大きなゴミのトレーラー。そしてヨーロッパ三大美術館に数えられるマドリッドのプラド美術館へ。スペインの三大巨匠ゴヤ・エルグレコ・ベラスケスの作品展示が充実している。2時間弱の観光時間では選択と集中が鍵。現地ガイドの案内に従う。ゴヤの『裸のマハ』は鑑賞できたが『着衣のマハ』は外出中。人気者は超多忙の様だ。プラド美術館スペインが誇るプラド美術館は、王室コレクションの保存、公開を目的に1819年に開館。1868年の9月革命で共和制になるのに伴い、「プラド美術館」として国営化された。所蔵点数は1万点以上、その膨大なコレクションは代々王室によって収集されてきたプライベートコレクションである。また、盗品や略奪品が一切ないのが特徴で、この美術館の誇りとされているプラド美術館の前に立つ「GOYA」の像美術館内は撮影禁止のため、ガイドブックから。残念ながら「着衣のマハ」は他の場所で展示しているとのことでなかった。芸術をこよなく愛したスペインの歴代王室が収集した作品の中でも、エル・グレコ、ゴヤ、ベラスケスはプラドの3大巨匠として知られ、数多くの作品が所蔵されていた。プラド横の教会・サン・ヘロニモエル・レアル教会も外部から見学。道路脇に無造作に「日産の中古車」が展示中。値段は、168,000€、連絡先の電話番号も。2階建てオープンの市内観光バス。プラド美術館から徒歩にてバスの待つ場所に。街中のロータリー。サン・ヘロニモエル・レアル教会前で観光バスへ乗車。そしてスペイン広場へ。この広場は中世スペイン文学の巨匠セルバンテスの銅像が、その傑作の主人公であるドン・キホーテとサンチョ・パンサを前に従えて座っていることで有名である。これらの銅像は1927年につくられ、またこの広場は建設当時、欧州一の高さを誇った117m(26階)の Edificio de Espana、高さ124mの Torre de Madridの高層ビルによって囲まれている。騎上のドン・キホーテの銅像と高層建築のコントラストは、観光絵葉書の格好のテーマとされている。オリエンテ広場と王宮アーティストを魅了し続ける広場で、王宮の東側に位置する。ブルボン王朝の中でも賢王とされているカルロス3世によって完成された王宮。外観はネオ・クラッシック様式、内装は豪華なフランス風の宮殿。現在は、国賓のための晩餐会、大使の信任状奉呈式等国の公式行事に使われており、公式行事のない時には、約2,700ある部屋のうち約50室が公開されているとのこと。隣には、フェリペ皇太子が2004年に結婚式を挙げたアルムデナ大聖堂があった。オリエンテ広場の花も美しく。昼食会場へ向かう天気の良い日は屋外で食べたいがツアーはいつも室内。昼食後マドリードの南、約70kmに位置する『トレド観光』へ。女性二人連れの、Oさん、Uさんと親しくなり。
2008.06.07
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マドリ-ド・バラハス空港に22時前に到着。まだ明るい。空港建物の屋根は自然光を取り入れた、日本風の竹の曲線美を想像されるユニークな意匠構造。この後ツアー客1名の荷物が出てこないトラブル発生。調査を空港に依頼しホテルへバスで向かう。30分でホテル着。OBの方とツイン利用。トイレにあるもう一つの便器?は何用? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2008.06.06
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンク本日から14日まで有給休暇を取りスペイン旅行です。会社の先輩とOBの3名でJALPACツア-に参加。JALにてアムステルダム、イベリア航空でマドリードへ17時間の長旅です。利用便は12:45発のJAL411とイベリア航空7939の共同運航便最初の機内食です。アムステルダム空港でイベリア航空便に乗り換え。空港内のオランダサッカーチームのユニフォーム売り場。オランダの国色であるオレンジ一色の売店です。 ・・・つづく・・・
2008.06.06
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