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市庁舎前のラエコヤ広場で自由時間に。我々二人はトーメの丘を目指す。事前にGoogle Mapで観光箇所をチェック済みであったので道に迷うことなく。建物の壁にタルトゥ大学本館のだまし絵が。昔のタルトゥ大学と街並が描かれていた。Lossi通りという狭い坂道を登ると、トーメの丘。しばらく登って行くと、左右に盛り上がった丘を連結している橋の下に出る。この橋は「天使の橋」と呼ばれていて、1838年に造られた。 タルトゥ大学の学長、G.F. パロットに捧げられたのだと。Lossi通りを南西に向かうと、再び橋が現れた。先程の「天使の橋」よりは大分黒ずんでいて、薄黒くて何とも陰気な感じで「悪魔の橋」と呼ばれていると。橋の完成は1913年。最初のエストニア共和国が誕生する5年前。「天使の橋」が大学の学長に捧げられたのに対し、この「悪魔の橋」はかつてのロシア皇帝アレクサンドル1世に捧げられた。さすがにまだロシア統治下だったので、献納の名目は「悪魔のようなロマノフ王朝の打倒を願って」ではなく、「ロマノフ王朝の300周年記念」だったようだが。 その当時からここでは歌のコンサートが開催されていて、天使の橋には女性が、そして悪魔の橋には男性が集ったと。ヨハン・スクデ(Johan Skytte)はスウェーデンの政治家(1577~1645)。ここタルトゥは、1621年より始まったスウェーデン・ポーランド戦争の結果、スウェーデン王国領になっていたのだ。トーメの丘の上には「大聖堂(トームキリク)」が。 ここがタルトゥのシンボル。現在は、東側(右)がタルトゥ大学歴史博物館に改修されていると。タルトゥ大学の歴史についての常設展示や特別展もあり、ミュージアムショップも併設されていると。 西側は、大聖堂の骨組みだけがそのまま残されていた。大聖堂の建設は13世紀の後半に始まったゴシック様式の教会の建設工事は難航したようで、日本の城にもある人柱伝説が残っていると。建設は15世紀にようやく完成し、タリンの「大聖堂」と同様、カトリックの聖地とされた。しかし16世紀の宗教改革で、タリンの「トームキリク」がルター派に鞍替えして引き続き聖地とされたのに対し、このタルトゥ「トームキリク」は打ち捨てられ、廃墟となった。 現在は塔が修復されて展望台になっているのだと。 西側の外部は破壊されてしまい、廃墟のようになっていた。 この木製の階段から塔に登れたのであろうか? トーメの丘の頂上には、エストニアゆかりの偉人たちの像が並んでいた。数ある像の中でも存在感があったのが、こちらの決意に満ちたというか随分と厳しい表情をしているのっぽの青年の像。足元の案内板によるとKristjan Jaak Peterson、19世紀初頭の詩人で、若くして亡くなった人だとか。彼が生前、思索しながらエストニアを放浪した時の姿を表現と。ビレム・ライマン(Villem Reimani)記念碑。エストニアの作家、農村教師。カール・エルンスト・フォン・ベーア は、哺乳類の卵子を発見したエストニア出身のバルト・ドイツ人発生学者、動物学者、人類学者、地理学者、探検家、博物学者。 タルトゥ大学(ドルパット大学)ギリシャ神殿のようなギリシャ式の円柱が並ぶ大きな建物。これが400年近い歴史を持ち、バルト地方最高の大学とされるタルトゥ大学(Tartu Ülikool、あるいはドルパット大学 Universitas Dorpatensis)。 スウェーデン王のグスタフ・アドルフが1632年に設立。当時のリヴォニアでは戦乱が続いたため、タリンに移転したこともあったが、後に戻って来たと。 19世紀に入ると大学としての本領を発揮し、特に医学や科学の分野で成果を上げた。現在の建物も、1806年に建設されたもの。内部では、リストやサラサーテなども演奏した豪華なホール(Aula)や、学生に懲罰を与えた部屋、ギリシャ・ローマ時代の彫刻などがあるタルトゥ大学美術館を見ることができると。 そして今回の旅行で、熊本から参加のMさんの娘さんがこの大学に短期留学していると。そして我が市内の大学に在学し、昨年8月から休学しこの大学に留学しているのであった。そして娘さんと8ヶ月の再会を果たしたのであった。 聖ヨハネ教会。ラエコヤ広場からRüütli通りを北に進み、四本目のLüübeki通りを左折すると、右手に煉瓦造りの教会「聖ヨハネ教会(ヤーニ教会、Jaani kirik)」が。 聖ヨハネ教会は、北ドイツ・リューベックの人々が14世紀後半に建設した教会。教会の内部に入ることが出来た。14世紀後半にリューベックの職人たちによって建てられた教会。塔に上れるようであったが人もいなく?時間も無く諦める。天井の流線型のアーチが美しかった。ファザードや壁、内装の随所に素焼きの塑像が飾られているのが美しかった。しかしたび重なる戦争によって多大な被害を受けたと。塑像の多くは数々の戦争で失われたため、残されたオリジナルの塑像は内部に展示されており、外壁に飾られているのはレプリカであると。 植物園の前の道路を隔てた場所には城壁跡が 。タルトゥ大学植物園(University of Tartu Botanical Garden)。1803年に設立され1810年の時点で4360種類もの植物があったと。エマユギ川にかかるアーチ状の歩道橋。 エマユギ川に浮かぶバイキング船と乗船場? タルトゥの戦争記念碑。1918年にエストニア独立宣言、1920年にここタルトゥにてロシアと平和条約締結。ピーター・ニコラウス・ジークフリート・フィールド像。エストニア語神学者、教育、公人エストニア暫定地方議会の 、 制憲議会と議会のメンバー。彼は、エストニア共和のの最初の教育大臣と。 文部教育省に建物の壁の像(右) 文部教育省に建物の壁の像(左) タルトゥの正教会(Tartu Dormition of the Mother of God Cathedral )入場は出来ずガイドブックにも記載の無い教会。 エマユギ川辺の公園に顔だけの銅像が。20世紀初頭の有名なエストニアの作家や脚本家、オスカー・ルツ、トゥーツの像。こちらには母と娘の像が。ラエコヤ広場全景。周囲の建物の色は落ち着いた雰囲気。 ラエコヤ広場に設置されているフレーム越しに。これぞ「絵になる街」。タルトゥ美術館は市庁舎広場に面した18世紀の傾いている建物。バークレイの家(Viltune maja Raekoja plats 18(Raekoja Square 18))とも。向かって左の壁は新しく基礎を造って建てたのに対し、川に面する右側は昔の壁の上に建てたため建物が傾いていると。地盤が軟弱なため木の杭では建物が傾いてしまったのだと。建物内には主に20世紀のエストニア絵画を所蔵すると。タルトゥ散策を終了し、リガまで約242kmのバス移動を開始。道路の両脇の白樺の林は青空に映えて美しかった。 再び見渡す限りの直線の高速道路をひたすら走る。 そしてリガの街に入ったのは18時前。 そしてこの日のホテル DAYS HOTEL RIGA VEF に到着。 最初はダブルベッドの部屋であったが何とかツインベッドの部屋に変えてもらう。 そして夕食後はまだ明るいのでホテル近くを散策。線路橋を渡る。 途中、愛車と同じ日産JUKEを発見し喜ぶ旅友のSさん。リガホーリートリニティ大聖堂。5個の大小ドームを持つラトビア正教会。 帰路のガード下にはトラムの基地が。 道沿いの体育館では室内でビーチバレーを楽しむ姿が。ホテルの部屋に戻り、3人で鰯の酢漬けで反省会後22時過ぎにこの日も爆睡。
2017.04.21
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2日目の朝は5時に起床。部屋のカーテンを開け外を見ると東の空が赤くなっていた。そして朝に見える下弦の月も。日の出は6時前。朝食前にホテルを撮影。Hotel Dzingelは緑豊かなノーメ地区に位置し、タリンの旧市街と旅客港まで車で15分程の幹線道路沿いの場所にあるホテル。ホテルの横の赤松の広場。そして7時過ぎにバイキングの朝食を楽しむ。出発は9:00とのことで旅友のSさん、熊本から単独参加の男性Mさんと三人でホテル周辺を散歩。ホテルの近くにあった石材工場の前にあった墓石。黒御影石?で40~50€近くの表示が。ホテル裏をタリン駅を出たディーゼル列車が。そして定刻の9時にタルトゥへ向けてバスは出発。E263号線は(英: European route E263) はエストニアのタリンから、ルハマを結ぶ、欧州自動車道路のBクラス幹線道路。ひたすら直線の道路が前方に。しかしまだ新緑には早く、花も少ない変化の少ない車窓風景が続く。途中トイレ休憩に立ち寄ったレストランは外見が変っていて風車小屋。添乗員の説明によると、かつてソ連時代にこの辺りは小麦の集団農場(コルホーズ)で、収穫した小麦をこの場所に集め風車で製粉していたと。ソ連から離脱した後に用がなくなり放置されていたのをある人が買い取りレストランに改造し商売を始めたとのこと。風車が目立つので客を呼び今では繁盛しているのだと。青空を背景に白樺の木?が美しかった。タルトゥ市内に入ると道路脇では大規模な重農機具の展示会が行われていた。Lai地区に入る。エマユギ川沿いのワバドゥセ大通りの文部教育省関連の下の写真の建物近くでバスを降りる。首都のタリンが政治・商業の中心であるのに対して、エストニア最古の大学があるタルトゥはエストニアの学問・文化の中心。公園の中を歩きこの日のランチに向かう。 ラエコヤ広場近くに立っていた父子?が手をつなぐ全身裸像。父子にしては身長に差がなさ過ぎか。この像は何を訴えていたのであろうか? 旧市庁舎に続く道。 昼食の店。 石の上にバターが。 メインデッシュは少なめ。 昼食後はピンクの可愛らしい色の建物市庁舎へ。左右対称の建物。市庁舎のあるラエコヤ広場は何世紀もの間、タルトゥの中心であり、その歴史は古くに遡ると。この広場は13世紀からの街の中心で、市場や井戸があり、罪人への公開刑罰も行われていたと。今のように3階建ての石造建築が並ぶようになったのは、18世紀後半に街を焼き尽くした大火災の後。 市庁舎(Raekoda)も1789年の建築で、当時のオランダの建築様式に影響されている。ネオクラシック様式の二階部分は、街の議事堂になっていた。地下は牢獄になっていた。現役の市庁舎として使われているが、中に入って展示物を見ることもできるのだと。今も広場ではクリスマスマーケットやハンザ・デーなど様々なイベントが開かれているのだと。 時間は13時と市庁舎の時計塔が。1998年には広場にキスをする学生の像とともに噴水が置かれ、町のシンボルとなっていると。傘を差しながらキスをする像が「キスの噴水」。
2017.04.20
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出発日の朝は旅友のSさんが我が自宅に愛車・JUKEで5:50前に迎えに来てくれました。そして成田空港に向かい出発。自宅から戸塚を経由して横浜新道へと進む。そして首都高速横羽線、東関東道、新空港道成田で下車し、成田の駐車場に向かう。駐車場に着く。車の受け渡しはこの場所ではなく、成田空港第2ターミナル前に係員がいるからそこでとの駐車場の事務の女性社員から。再び車を走らせ 第2ターミナル前に7:50前に到着。集合時間は8:30であり余裕の到着。待つこと数分で係員が到着し、28日までの10日間の駐車の手続きを行う。 阪急交通社のカウンターに向かい、今回の旅行のツアーコンダクター(添乗員)の女性と対面。 直ちに成田空港内のJALチェックイン、出国手続き等の説明をいつものように受ける。そして今後の集合は搭乗ゲート前とのこと。そしてJALカウンターで荷物を預ける。座席は既にWEBチェックインで後方の55A、55Cの並びの席を確保済み。ユーロへの両替を行う。今回訪れるフィンランド、バルト3国は全て通貨はユーロ。そしてリトアニアは2015年1月1日からユーロ通貨に。そして出国手続きへ。 免税店でウィスキーを購入し、92番ゲートへ出発の30分前の10時過ぎには到着。この日の飛行機はJL413便のヘルシンキ直行便。 機種はボーイング787-9。そして10:50には成田空港を離陸し所要時間10時間20分の空旅がスタート。左下車窓にハート形の栃木県・群馬県・埼玉県・茨城県の4県にまたがる渡良瀬遊水池(わたらせゆうすいち)が見えた。渡良瀬遊水地は、足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に渡良瀬川下流に作られた遊水池。2012年(平成24年)7月3日、ラムサール条約に登録。 日光・男体山上空を飛行し新潟に向かって本州を横断。 日本海上空に入り佐渡島上空を通過するが雲に隠れて見えず。 離陸後の約1時間強でビールにありつく。 そして飛行機はロシア上空へ入る。 そして今回の最初の機内食を楽しむ。 そして機窓には白い世界が拡がり始めた。ボーイング787の窓は、大きく、外から客室に入る明かりをボタンから調整できるタイプ。2枚の薄いガラスの間にジェルの層が挟まれていて、電流がジェルに加えられると化学変化によってジェルが暗くなるのだと。窓は全てネットワークで繋がっていて、客室乗務員が個々の窓や一部のセクション、全ての窓を一斉にコントロールすることができるのだ。蛇行する白い川はロシア連邦シベリア南東部にある山脈であるスタノヴォイ山脈近く。そして前方に白きブル川が見えて来た。成田から常に太陽と追いかけっこしている我が飛行機。 そして2回目の機内食はスープ。食べるスープをコンセプトにしたスープ専門店「Soup Stock Tokyo」の一品。ポヴェネツキー湾上空。こちらは巨大なビニールハウスが並んでいるのであろうか? そしてヘルシンキ空港に近づくと機窓には高速道路が。 そしてフィンランド・ヘルシンキ空港に着離したのは現地時間14:15過ぎと予定よりかなり早め。 荷物の積み込みは全手動。 そしてタラップを下りバスで移動。 やはり10℃以下の涼しい気温。 無事、トラブルも無く、全員入国完了し待っているバスに向かう。ヘルシンキ・ヴァンター国際空港はフィンランド共和国の首都ヘルシンキの北15kmに位置。フィンランド最大の空港であり、北欧のみならず、中欧や東欧や、アジア各都市へ向けた便のハブ空港として機能。また、日本と欧州を結ぶ最短飛行距離の空港である上に、乗り継ぎ所要時間も短いため、毎年多くの日本人観光客が利用する空港。 そしてバスに乗り込みヘルシンキ西港に向かう。今回のツアーはご夫婦5組、二人連れ男性2組、二人連れ女性1組、単独男性1名そして単独女性1名の総計18名のツアーであることが判明。平均年齢はもちろん60歳以上? 大型バスの中は18名+添乗員、現地ガイドでありガラガラ、ユッタリ。一人がけで後部座席を確保。途中、一時期携帯電話のシェアーで世界を支配したノキア社は2013年9月にマイクロソフト社が買収されたのであった。 4/26日の帰路に宿泊するHOLIDAY INN WEST RUOHOLAHTI の前を通る。 そしてヘルシンキ西港にバスは到着。 ここから船でバルト海を横断し、エストニアの首都タリンへ向かうのであった。利用便は TALLINK Silja Line 18:30発EUROPA便。総トン数:59,914GT長さ :201.8m幅 :32.5m吃水 :6.8m最大速度:39.8 km/hチケットを受け取る。指定席はなく、自由に船内のビュッフェレストランや、ソファーのテーブル席を利用できるのであった。 12階まである船。 片道€49とのこと。フィンランドよりも物価(特に酒類)が安いため、多くのヘルシンキ市民が船内での買い物やタリン市内へ買い物客として訪れていると添乗員から。トランクを荷物専用室に預け、船室外に出てベンチに座り日光浴と景色を楽しむ。 本格的な春の到来を待ちわびる数々のヨット。 そしてバルト海に沈む夕日。時間は20:37。 記念に旅友とデッキでツーショット。 22時にエストニアの首都タリン港に到着。往路は3.5時間のバルト海クルージング。 タリンは、フィンランドの首都ヘルシンキ、ロシアのサンクトペテルブルクと同じく、フィンランド湾に面する主要都市の一つ。また、中世ハンザ都市の一つとして栄えた港湾都市で、現在もバルト海クルーズの主な寄港地の一つである。。フィンランド南岸のヘルシンキからタリンまでは85km、同湾東奥の以前訪ねたロシア・サンクトペテルブルクまではタリンから350kmの距離。そしてこの旅行最初のホテルへ待っていたバスで向かう。 途中ライトアップされていたタリン旧市街の「聖オラフ教会」の塔が車窓に。現在では旧市街で最も高い塔(123.7m)。タリンの旧市街から4kmほど離れた郊外のホテルに到着したのは22:35。 ホテル名は「DZINGEL HOTEL」。フロントロビー。 我々の部屋は515号室。部屋の壁には絵も写真もなく極めてシンプルなツインの部屋。着替えて早速この日の反省会をウイスキーグラス片手に暫し旅友と二人で。そして翌日の早朝起床の為に爆睡。
2017.04.19
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンク今年も明日・4月19日(水)から4月28日(金)までの10日間、バルト3国へいつもの旅友Sさんと観光旅行に出かけます。 以下の写真は、今回のツアー会社の阪急交通社のパンフレット&HPから転載させていただきました。バルト三国(バルトさんごく)は、バルト海の東岸、フィンランドの南に南北に並ぶ3つの国を指し、北から順に、エストニア、ラトビア、リトアニア。 歴史的に、エストニアやラトビアは北欧諸国やドイツと、リトアニアはポーランドとのつながりが深く、また3か国はロシアとも深く関わってきた。 三国ともロシア帝国に支配されていたが、ロシア革命の後、1918年に三国とも独立を達成。しかし第二次世界大戦中の独ソ不可侵条約における秘密議定書を発端としてソ連とドイツによる占領が続いた。1940年にソビエト連邦に併合され、ソビエト連邦構成共和国であるエストニア・ラトビア・リトアニアの各「ソビエト社会主義共和国」として連邦政府の強い統制下に置かれた。1941年に始まった独ソ戦によりこの地域はナチス・ドイツの支配を受けたが、1944年から1945年にかけて再びソ連に占領された。戦後、ソ連は自らが得た戦前の旧ポーランド領の一部をリトアニアに編入し、現在に至るバルト三国の国境線が確定。日本とバルト三国の友好関係は、日本が1921年に当時のエストニア、ラトビアを及び1922年に当時のリトアニアを国家承認したことから始まります。1991年9月のソ連からの独立直後、日本は政府ミッションを派遣し各国の独立に対する支持を表明。そして2016年はバルト三国と日本が新たな外交を開設してから25周年にあたった。この20年の間、日本と各国は政治、経済、人的交流の面で関係を深め2007年には天皇皇后両陛下がエストニア、ラトビア、リトアニアを訪問しいずれの国でもあたたかい歓迎を受けました。(外務省HPより)今回のツアーはJAL往復直行便を利用し、成田から出発する限定28名のツアー。 成田から往路10時間20分でフィンランド・ヘルシンキまで飛ぶのである。 そしてヘルシンキ西港からタリンクシャトル でバルト海をクルージングすること約2時間でエストニアのタリンに到着。 タリン(Tallinn)は、バルト海東部のフィンランド湾に面するエストニア共和国の首都。フィンランドの首都ヘルシンキ、ロシアのサンクトペテルブルクと同じく、フィンランド湾に面する主要都市の一つであり、2011年の欧州文化首都である。また、中世ハンザ都市の一つとして栄えた港湾都市で、現在もバルト海クルーズの主な寄港地の一つである。初日は夜遅くタリン郊外のホテルに到着。 タリンの観光は帰路であり、翌日はタルツゥに向かってバス移動。タルツゥに到着後は市内観光しラトビアのリガに向かって更に移動しリガのホテルに宿泊。 3日目は世界遺産のリガ歴史地区観光。リガ大聖堂、聖ペテロ教会、ブラックヘッドの会館、三人兄弟、ユーゲントシュティール建築群、自由記念碑、中央市場等を観光予定。そしてカナウスに移動し宿泊。 リガ歴史地区は、ラトビア共和国の首都リガの旧市街と新市街が該当し、リガは同国最大の人口を擁しています。また、「バルト海の真珠」と讃えられる美しい港町で、ユネスコの世界遺産に登録。 町の始まりは1200年。同年、ブレーメン司教アルベルトによって聖堂や兵舎が築かれ、1255年には大司教座が置かれました。1282年に、北ドイツの有力な都市連合、ハンザ同盟に加わり、13~15世紀にバルト海東岸の商業の中心地として、ロシアと西ヨーロッパ地域を結ぶ交易によって繁栄しました。旧市街には、中世ドイツの商業都市の特徴が見られ、とりわけハンザ同盟時代の町並みがよく残されています。ほぼ中心部にあるリガ大聖堂をはじめ、聖ヨハネ聖堂、聖ペテロ教会堂は13世紀に建てられました。リガ大聖堂は、その後18世紀まで増改築が繰り返されたため、ロマネスク、ゴシック、バロックなど、さまざまな建築様式が見られます。4日目AMはカウナスの市内観光。旧日本領事館、大聖堂、ペルクーナスの家、旧市庁舎、カナウス城を観光予定。 特に第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くが、ユダヤ系であった。「日本のシンドラー」などと呼ばれることがある。 5日目は同じくリトアニアのヴィリニウス市内観光。大聖堂、夜明けの門、旧市庁舎、聖ペテロ・パウロ教会を訪ねる。リトアニアの首都ヴィリニウス、タリンやリガと異なり中世にポーランドの影響を強く受けたので、天を突くゴシック教会は少なく、その代りにカトリック教会が多数を占めています。今まで見てきた街の印象と異なるのはそのためでしょう。聖ペテロ・パウロ教会はバロックの街ヴィリニウスを代表する建物で、建物そのものは1675年に完成しましたが、内装に30年掛かったと。そしてギリシア神殿のようなファザードを持つ大聖堂は、中世期にリトアニアがキリスト教に教化されたシンボルともいうべき教会で、13世紀の創建。今のようなクラシック様式に改築されたのは18世紀になります。ヴィリニウス市内観光の後は、トラカイ観光。トラカイ島城は、リトアニアのトラカイ、ガルヴェ湖上に浮かぶ島の上に建てられた城の名称。城は時折、「小さなマルボルク城」と呼ばれる。石造の城の建設は中世リトアニアの君主ケストゥティス (Kęstutis) により始められ、1409年頃に彼の息子であるヴィタウタスにより竣工へと至った。6日目はシャウレイに移動し十字架の丘を散策。十字架の丘は、リトアニア北部、シャウレイの北12kmに位置する巡礼地。リトアニアの観光名所として有名。その発祥は分かっていないが、初めてここに十字架が建てられたのは1831年のロシアに対する11月蜂起の後であると考えられている。数世紀を経て、十字架だけでなくイエスの受難像やリトアニアの英雄の彫刻、聖母マリア像、肖像画、ロザリオなどもカトリック教会の巡礼者によって置かれるようになった。十字架の正確な数は分かっていないが、約50,000であろうと推測されていると。そして再びリガまで長距離バス移動し、到着後は自由行動。7日目はピルスルンダーレへ移動しルンダーレ宮殿を観光。 ルンダーレ宮殿はラトビアで最も素晴らしいバロック-ロココ様式の記念建造物の一つ。1736−40年にビロン公の夏の宮殿として、ロシアの宮殿を手 掛けたラストゥレリにより建てられた。彼の作品はヤルガヴァやサンクト・ペテルブルグでも見られると。2階建ての宮殿には138の部屋があると。観光後はタリンに移動。8日目はタリン歴史地区観光。アレキサンドルネフスキー寺院、聖カタリーナの小路、旧市庁舎を観光。アレクサンドル・ネフスキー大聖堂はトゥームペア(Toompea)の丘に建っている正教会の教会。帝政ロシアの一地方にエストニアが組み込まれていた1894年から1900年の間にミハイル・プレオブラジェンスキーによって典型的なロシア復古主義のスタイルに設計され建設された。アレクサンドル・ネフスキー大聖堂はタリンにあって最大かつ最重要の正教会のクーポル付き大聖堂。 そして帰路もバルト海クルージングでフィンランド・ヘルシンキに移動し最後の夜はヘルシンキ市内での自由行動。 9日目、最終日はOPツアーを申し込み済みでスオメンリンナ要塞を見学予定。スオメンリンナの要塞は、フィンランドの首都ヘルシンキ市内の6つの島の上に建造された海防要塞。ユネスコの世界遺産に登録されており、観光客のみでなく、地元民にとっても、美しい行楽地として人気がある。当初の名前はスヴェアボリ(スウェーデンの要塞)だったが、1918年に愛国主義的な理由からスオメンリンナ(スオミの城塞)と改称された。 バルト3国の旅行に当たり、バルト三国の歴史、杉原千畝に関して予習。 バルト三国についても図書館の本を借り読んで見ましたが、それぞれの歴史は当然異なり複雑で十分理解するには至らなかったのですが。 地球の歩き方も購入。 そして最終旅行日程表とガイドブックも送られてきました。ホテルの位置も確認し、朝の散歩コースをイメージ済み。 今回の旅行に当たり、10年用のパスポートを更新したのです。そしていつものトランクに荷物をパッケージング。気温は我が家周辺の1ヶ月遅れのつもりで衣類を準備。 しかし、昨日はタリンでにわか雪が舞っていた模様。そしてリュックもいつものように。 行ってらっしゃい!!私は相撲力士の元大関・把瑠都(ばると、本名:カイド・ホーヴェルソン )私の故郷はエストニアのタリンから車で約1.5時間・70km程東のラクヴェレと言う街。ラクヴェレ城という中世の城のある街。美人が多いことでも知られるバルト3国を多いに楽しんで来て下さいね。男が死ぬまでに行くべき美女大国ランキング トップ5は1位 バルト3国 2位 ウクライナ3位 スウェーデン 4位 タイ 5位 アルゼンチン ですよ!!一期一会の出逢いを良い思い出に!!。 【http://bbt.ac/estonia_bizideacontests/より転載】14日夕方には、今回のベテラン添乗員の女性から携帯にTELが。旅行中の午前中は寒いことが予想されるので、防寒の準備をと。そして16日出発72時間前にネットで今回のJAL便(Boeing 787)の窓側・通路側の並び2席を確保しました。これでトイレ等に気楽に行けるようになりました。 今回も旅友のSさんの愛車で成田空港まで。我が家に5:45前後に迎えに来てくれるのです。パッケージングもほぼ目処が付きました。それでは行って来ます。中世の街並み、一期一会の出会いを楽しんできます。
2017.04.18
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ミュンヘン国際空港まで、このツアー最後の移動の為、バスに向かって徒歩にて引き返す。旧市庁舎前の交差点の店の前にはミュンヘンとバイエルンのシンボル、二頭の獅子(ライオン)。 獅子はドイツのバイエルン地方を発祥とするヨーロッパの有力な君主・ヴィッテルスバッハ家(Haus Wittelsbach)の家紋なのだ。再びハイデルベルク聖霊教会 (Heiliggeistkirche)の前を通る。バスに乗車しミュンヘン国際空港を目指す。再びイザール川を渡る。 イザール川中州のドイツ博物館の前には巨大なスクリューが展示されていた。ドイツ博物館は、農業、鉱業、航空工学から、鉄道、機械、宇宙に至るまで、ドイツの科学技術を若い世代に引き継ぎ、学ばせるための博物館とのこと。直径6~7m近い大きな船のスクリュー。正面のフロントガラスにアリアンツ・アレーナ(Allianz Arena)が姿を現す。ミュンヘンにあるサッカー専用スタジアム。2006 FIFAワールドカップドイツ大会の競技会場とのこと。繭のような外観は半透明のプラスチック製特殊フィルムで覆われていた。アリーナ前の道路の反対側には風力発電が。 9号線を進むとミュンヘン国際空港の表示が現れた。 ここにも菜の花畑が拡がる。 そして92号線に移り更に進むと車窓にミュンヘン空港管制塔が姿を現した。 空港に着くと、今回のツアー会社のミュンヘン駐在の女性が迎えてくれた。 今回のツアーで約3000km?走破してくれたバスのドライバーに感謝とお礼の言葉を述べ、バスを降りトランクを受け取る。 ターミナルビルに入り、カウンターで搭乗手続きし荷物を預ける。きちんと整列し整然と順番を待つ日本人そして我がツアー仲間なのであった。ベルト、ジャケット等まで荷物籠に入れさせられたが、荷物検査も無事完了。出国のパスポート検査も無事通過。難民問題を抱えた中で、セキュリティーは厳しくなっていた。ここミュンヘン国際空港では、4/26にターミナルビルを運営するミュンヘン空港会社と、ルフトハンザ ドイツ航空とが共同出資で進めてきた新サテライトターミナル施設が開業したばかりと添乗員から。我々が搭乗するゲートLは開業直後の新サテライトターミナル2施設内。完全自動運転によるエネルギー節約型トレインで、乗車1分程で新サテライトターミナル2へ。搭乗ゲート・L09前での集合時間まで免税店を散策する。巨大なビール樽が販売されていた。 5L?のビール樽。お土産に買って帰る人がいるのであろう。『また来いよ』?と見送ってくれるオジサンの姿も。 30gで300~400ユーロ(35,000~50,000円)近くの世界三大珍味の1つ、土産用キャビアを発見。 購入したかったが、もちろんパス。『Just looking』、それにしても、何とも『興醒め』な話。帰路もドイツ航空ルフトハンザ便。 16:00発のLH714便。帰路もTOKYO(HND)到着便、このツアーを選んだ大きな理由の一つなのであった。 新サテライトターミナル2を離れて、スケジュール通りに飛行機は出発。 ミュンヘン空港からポーランド、リトアニア、ラトビアの上空を飛びバルト海へ。 最初の夕食。『かつカレー』が食べたかったが、私の席(55A)に漸く来たときには品切れと。やむなく鶏胸肉のグリルで我慢。茶蕎麦が付いていたが。 そして往路と同じ、ロシアの亜寒帯、永久凍土の大地の上をひたすら飛行。時差ボケ防止用の、いつもの帰路の機内での睡眠改善薬も旅の疲れもあってか、よく効きその後はひたすら爆睡。目を覚ますと飛行機はロシア極東のハバロフスク地方をオホーツク海に向かっていた。 間宮海峡(まみやかいきょう)の西を日本海に向けて飛行している事を確認。間宮海峡はユーラシア大陸(北満州・沿海地方、ハバロフスク地方)と樺太(サハリン島) との間にある海峡。そして軽朝食。 飛行機は日本海に入り新潟に向けて。 新潟から日本本土上空に入る。 雲のため、日本の大地の姿はほとんど見えなかった。会津若松の南上空。 そして定刻(10:35)よりも早く羽田空港に到着。 やはり海外旅行は羽田出発、到着が便利で良いのであった。 我々のツアー客の中にも、更に国内線に乗り継ぎ自宅に戻る方々も数名。入国手続きを完了しツアー仲間、添乗員への挨拶、税関検査、WIFIの返却を無事終え、駐車場への送迎車に乗る。旅友のSさんの愛車で湾岸道路を利用し帰宅の途へ。鶴見つばさ橋が前方に。写真の表示は4月28日であるが日本は既に4月29日。横浜ベイブリッジを通過し、羽田空港から1時間で我が家の玄関先まで旅友のSさんが送ってくれたのであった。 ドイツ、オーストリア、スロベニア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、モンテネグロの6ヶ国を訪れ、ほぼ同じ道を戻る10日間、移動距離約3000km?の弾丸ツアーであった。しかしいずれも、古き街、新しき街あり、湖あり、川あり、山あり、海ありの、海そして空の青、新緑の緑、山の石灰岩の白、雪の白、海岸の白、オレンジの屋根と色彩豊かな調和のとれた感動の世界遺産ありとバリエーションに富んだ見どころ多い魅力的な国々なのであった。総勢33名+添乗員、そして平均年齢、間違いなく60歳以上のアクティブ シニアの(片眼をうっすら瞑れば?)和気藹々の旅であった。 初めて訪れた『く』の字形の国クロアチアは、中世の面影残る石畳の歴史ある街と豊かな自然が調和した美しい国であった。アドリア海岸沿いは複雑な海岸線と入り組んだ湾が続き、非常に美しい景観を生み出し楽しませてくれたのであった。自然とアドリア海の輝く海、ドブロブニクのレンガ色の屋根で統一された見事な街並みは色彩豊かであり、想像以上のいつまでも思い出に残る絶景であった。 【旅行会社 HPより転載】バスの車窓から、そんな景色と青い海を眺めながらバスの旅を楽しめるのも、現在では治安のよいクロアチアならではの体験であった。現在に至る歴史は、クロアチア軍が、ユーゴスラビア軍と全面衝突しクロアチア紛争が発生し1995年まで続いたのだ。また1992年ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争にも介入し、セルビア人居住地域からセルビア人を排除し、これらの地域を国土とした独立国として現在に至っている事をあらためて知ったのであった。そしてこれらの現実の出来事は僅か20数年前の事なのであった。この地の人々は、今、民族の誇りの証として街や建造物の輝かしい姿を取り戻すべく地道な努力を日々続けている事を実感できたのであった。 プリトヴィッツェ湖群そしてクルカ国立公園は泳いでいる魚や湖(川)底がはっきりと確認できるほど水が澄み、また場所や時間によって、湖(川)面が緑色や青色に変化する光景は幻想的かつ神秘的で、見ごたえ十分、慌ただしい中でも心洗われる時間であった。 そしてアドリア海に面した世界遺産スプリット、トロギール旧市街、そしてモンテネグロのコトル旧市街は、過去と現在が交差する、そして歴史ロマン溢れる不思議な小さな街であった。そしてそれぞれの街には活気溢れる露天の土産店、青空市場が広がっていた。ここでは各種の花のハチミツや干しイチジクなど、土産にもなるアイテムが揃っていた。時間がたっぷりあれば、青空市場だけでも半日は楽しむことが出来るほどであった。 旅友のSさんをはじめ単独参加のオジサンとも親しくなり、部屋での晩餐も我を忘れるほど??楽しむことが出来たのであった。 そして次回は、1)フィンランド+バルト3国 2)ギリシャ、ブルガリア、ルーマニア周遊が旅友のSさんとの帰路の飛行機内での候補地に。南アフリカも一度は、いや一度だけ行ってみたい場所ではあるが・・・・・・??。 4月29日に帰国し、丁度1ヶ月間の旅行記、いや旅の備忘録のブログアップになってしまった。やや細かすぎる事は承知しているが、私の写真入りの個人的な備忘録としてご理解を。 【旅行会社 HPより転載】
2016.05.29
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マリエン広場(Marienplatz)に到着。東西、南北の交易路が交わり、ミュンヘンの街が誕生した時からの中心的な役割を果たしてきた広場。中世には市場が立ったり、騎士の馬上試合などの競技も行なわれたそうで、そのシーンは広場に面して建つ新市庁舎の仕掛け時計に名残をとどめていると。元々の名称は「シュランネン広場」であったが、1638年に広場中央に聖母マリア像が設置されて以来、「マリエン広場」と呼ばれるようになったとのこと。これが『新』市庁舎かと何度見ても。ケルン大聖堂と同じ色合いの歴史ある建築物なのであった。仕掛け時計のある新市庁舎は、高さ85mの中央にある尖塔が非常に印象的な新ゴシック様式の建物。 新市庁舎の先にはフラウエン教会が。ミュンヘンのシンボルとも言われている頂部が緑の2本の尖塔が見えた。玉ねぎ型の円蓋を持つこの2本の塔は、北塔が何故か約99mで、南塔が約100m。マリエン広場から旧市庁舎、現在は、おもちゃの博物館(Spielzeugmuseum)を見る。 新旧がまるで逆に見えるのであった。新市庁舎よりも新しい感じがするのは、実は第二次世界大戦で破壊されてしまい、立て直されたためなのだ。マリエン広場の出店。 紅白の色を意識した陳列か?真っ赤なイチゴの横には巨大な、大量のホワイトアスパラが。 何故か下向きに。見栄えが良い?それとも新鮮さが長持ち?流行?切断した下の箇所がタオルで被っているのがポイントか?店員に聞いてみたかったが・・・・。迫力ある中央正面壁面にはバイエルン王、寓話や伝説の英雄、聖人などの像が飾られているのであった。広場の中心にマリア像(Mariensäule)が。三十年戦争(1618年から1648年にかけて、ドイツを中心に行われた宗教戦争)によるスウェーデン占領からの解放を記念して建てた物と。マリア柱像の台座の四隅にフェルディナンド・ムルマンによって作られたプットの像が。4つのプットは、都市がいくつもの災難を克服する様子を象徴して、ライオンは戦争、コカトリスは疫病、ドラゴンは飢饉、ヘビは異端の街の克服を象徴。先端に立つ黄金のマリア像が青空に映えていた。 頂部の三日月の上に立つこの像は1590年に建立され、もとはフラウエン教会にあったものと。マリエン広場の仕掛け時計グロッケンシュピール(Glockenspiel)。建物の中央にある仕掛け時計は、11・12・17・21時に動き出し、仕掛け時計の音に合わせて約10分間ほど人形がクルクルと回りながら踊りだすのだ。 この仕掛け時計は2007年に復元され、以来、太陽光発電で動いているのだと。11時の仕掛け時計までカウフィンガー通り(Kaufingerstraße)からノイハウザー通り(Neuhauserstraße)を散策。東側のマリエン広場からドイツ狩猟漁猟博物館前のアウグスティナー通り(Augustinerstraße)までがカウフィンガー通り、その先西側のカールス広場までがノイハウザー通り。名前は変わるが、まっすぐな一本の道で歩行者専用のショッピングストリート。 ドイツ狩猟漁猟博物館。アウグスティナー通り沿いのなだらかな曲線を描くこの建物のグリーンの壁が美しかった。ミヒャエル教会。 1597年完成のこの教会の正面の三角形の切妻屋根は、あまり教会らしい印象を与えないが、アルプス以北の最大規模のルネッサンス様式の教会。正面には大きな「悪魔と戦う聖ミヒャエル像」とバイエルン地方を800年近く支配したヴィッテルスバッハ家の歴代の王の像が壁に施されている。ノイハウザー通りの入口「カールス門」 カールス広場からノイハウザー通りに入るところに立っている大きな門。元々は通りの名前と同じで「ノイハウザー門」と呼ばれていたと。1791年に選帝侯カールテオドールによって建て直され、名前もカールス門となったのだと。門の内側には、ミュンヘン小僧(Münchner Kindl)の可愛らしい装飾が施されていた。楽器を演奏する三人の子供のブロンズ彫刻。 夏になるとこの手前の広場の真ん中にある噴水が綺麗な虹をつくるのだ。何年前であろうか。ミュンヘン見本市会場で行われたIFAT(国際上下水処理・廃棄物処理・再資源化技術専門見本市)に参加した時にこのカールス広場に面したホテルに3泊したのであった。カールス広場そしてミュンヘン地方裁判所の姿は懐かしい光景であった。ノイハウザー通りの入り口にある噴水はBrunnenbuberl「嫌な奴の泉」。嫌がる子供に向かって水を吐き出しているのはギリシャ神話に登場する「サテュロス」という精霊だと。ドイツの彫刻家マティアス・ガスタイガーが1895年に作った作品とのこと。再びミュンヘンの代表的建築物のフラウエン教会の尖塔。建造は15世紀だが、2本の塔は16世紀にたてられたもの 中央にある鐘楼にはドイツ最大の仕掛け時計があり、11時に動き出したのであった。 いつの間にか多くの観光客がからくり時計の下に集まりカメラをそしてビデオを。人形は、ほぼ人間の大きさで合計32体で人形と鐘で1568年のバイエルン大公ヴィルヘルム5世とロートリンゲン(ロレーヌ)の公女レナーテとの結婚式の様子を演じていると。馬上槍試合では、バイエルンの青と白の旗を馬に付けた騎士が勝つのだ。そのあとビール樽を作る職人たちがくるくると踊りだして、何度見てもなんとも楽しいのであった新市庁舎前のマリエンプラッツの魚の噴水(Fischbrunnen)。マリエン広場での待ち合わせはたいてい『じゃぁ魚の噴水で!』とミュンヘンッ子は指定するのだと。出発まで僅かの時間があるとのことで、添乗員に案内され本場のビールを飲みに希望者だけで向かう。以前この地を訪ねた時は、ここ新市庁舎の地下にあるビアホールでビールを楽しんだ事を想い出したのであった。とにかく広くて、テーブルの形や広さ、雰囲気など様々。ビールの種類はもちろん豊富で、ビール以外のラインナップも充実していたのであった。徒歩で進んでいくとオーランドの家が前方に。ヤコブ・ハイルマンとマックス・リットマンによって構築されたドイツのルネサンス様式の装飾が施さた切妻風の建物。 ミュンヘンの旧市街地にある王室のビール醸造所として有名なホーフブロイハウス(HOFBRÄUHAUS)に入店。この店はビールの街ミュンヘンを代表する観光スポット。天井画が素晴らしかった。 ホワイトソーセージも食べたかったが・・・・残念。メニューの表紙も印象的。時間がないため生ビールを1杯のみ楽しむ。 その代わりにマリエン広場に戻り、広場に面したパン屋で旅友とサンドイッチを購入。 このツアー最後のミュンヘン市内観光を終えバスに戻るために来た道を戻る。楽しかった今回の旅行も終わってしまうと思うと名残り惜しく・・・・・・・。ミュンヘン旧市庁舎の屋根をズームで再び。 ミュンヘンを訪ねたのは3回目、4回目はあるのだろうかと・・・・・・・・。
2016.05.28
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9日目のオーストリア・ザルツブルクの朝も6時前に起床。テレビをONにすると6時のニュースが始まっていた。そして昨日のオーストリア内での大雪に対する報道が行われていた。大雪によるスリップ事故、渋滞が多くの場所で発生したと。 折しも梨の花が開花中で、これが大きな被害を受けたと農夫が嘆いていた。同時にワイン用のブドウの新芽も寒さと雪で黒変してこれも大きな被害となった模様。 この日の朝焼け。 早めの朝食を済ませ、8:00にドイツ・ミュンヘンに向けての約145kmのバスの移動を開始。形がエベレスト山に似た山・Hochstaufen(1771m)の姿を発見。バスの前方、そして横の車窓には白き山の姿が次々に現れる。Innsbruck(インスブルック)の表示板が。前回の夏季東京オリンピックと同年の1964年と1976年に冬季オリンピックを開催したことでも知られる街・インスブルック。 Anger村の教会。 青空を背景に次々に現れる白き山々の絶景を楽しむ。 牧草地に雪が残る場所を通過。 キーム湖沿いを走る。ドイツ・バイエルン州のローゼンハイムとザルツブルクの間にある淡水湖。しばしば「バイエルンの海」(Bayerisches Meer)といわれている湖。バイエルン最大の湖、キーム湖を過ぎて10分ほど先のFrasdorのウムラートシュハウゼン(Umrathshausen)村の教会。 イン川を渡る。ザルツブルクを流れるザルツァハ川は、オーストリア北西部でこのイン川に合流しその後セーヌ川となり黒海に流れ込むのだ。 デッテンドルフ(Dettendorf)村の教会。8号線をひたすらミュンヘンに向けて走る。 ブルンタール(Bruntal)村のSt.Nikolaus教会車窓には一面黄色の菜の花畑が拡がって来た。 ミュンヘン市内環状線(Mittlerer Ring-Ost)、ニュルンベルク(Nürnberg)の表示が。もちろんニュルンベルクはナチス政権が最初の大会を開催した都市であり、それゆえナチス政権要人を裁く「ニュルンベルク裁判」が行われたことでも知られる町。数年前に訪れたポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の光景を想い出しながら、『ドイツ』を走っていることを実感。インネレ・ヴィーナー通りの交差点からはトロリーバスの線路が見えた。 聖マリア教会ラマーズドルフ(St.Maria Ramersdorf)。14世紀に建てられたこの教会は巡礼教会としてバイエルンで最も古いものの一つ。後期ゴシック様式の教会。教会尖塔は大規模改修工事中。 イーザル川。オーストリアのチロル州とドイツのバイエルン州を流れるドナウ川の支流の河川。 ミュンヘン市内を流れる延長295kmの河川。これは寺院ではなく、ミュラーの公衆浴場(MüllerschesVollksbad)であると。ネオ・バロック アールヌーボー様式の建物は 、世界で最大かつ最も高価なスイミングプール、温水プールやサウナ等が楽しめるのだと。バイエルン州立民族学博物館(Staatliches Museum für Völkerkunde München)。ここはアジアやアフリカ、南北アメリカ、中近東、オセアニアの民族文化や美術工芸などを紹介している美術館。マキシミアン通りのオーバーバイエルン行政府(Regierung von Oberbayern)の建物 屋根の上には三つの像が。一番左の像をズームで。バスはマックス・ジョセフ広場(Max Joseph Platz)に入る。 バイエルン王家のヴィッテルスバッハ家の本宮殿、レジデンツ。現在はレジデンツ(Residenz)博物館・宝物館。バイエルン国立歌劇場(Münchner Opernfestspiele)広場の中央には、王座に座ったマクシミリアン1世の銅像が建っていた。そして広場の周りの建物の壁もカラフル。 バイエルン国立歌劇場と向かい合う賃貸住宅・Palais an der Operトーマス=ヴィンマー=リングでバスを降りミュンヘン中心部散策を開始。 『SHUNGA & KLIMT』 のポスターを発見。展示会はKLIMTが所蔵していた春画を一緒に公開しているようであった。KLIMTは尾形光琳を始めとする日本の琳派の影響を受けたと以前テレビでやっていたが彼の残した傑作『接吻』もこの様なSHUNGAの影響もあったのであろうと納得。正面にイーザル門(Isartor)、右手にファレンティン・ムゾイム(Valentin Karlstadt Musaum)イザール門はバイエルン公ルートヴィヒ(神聖ローマ帝国皇帝)が1330-37年ミュンヘンの街を拡大した際に城壁の東門として建設(1337年)。ミュンヘンの城門で今日、門塔の現存するのは唯一ここのみ。城門の壁画には“1322年アンフィングの戦いから凱旋するバイエルン公ルートヴィヒ”が描かれていると。そしてファレンティン・ムゾイムはうミュンヘン出身のコメディアンの記念館であると。タール(TAL)通りを進むと左手にハイリヒガイスト教会・聖霊教会(Heiliggeistkirche)。ミュンヘンで最も古い教会の一つ。時間は折しも10:10過ぎと一番時計が美しく見える時間。アナログ時計の広告は、どのメーカーの広告でもこの時間を指していますが、10時10分であれば長針・短針が被さらず左右対称でバランスが良く、また中央のロゴが隠れないからと聴いた記憶があるのです。タール通り(Tal)と手前は聖霊教会そしてその先にピーター教会の尖塔が。旧市庁舎タワーとおもちゃ博物館。旧市庁舎のタワーの中にあるかわいい博物館。風刺画家だったイヴァン・シュタイガーのプライベートコレクションをもとに、ヨーロッパ、アメリカ、ロシアなどの人形とおもちゃが展示されているとのこと。
2016.05.27
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自由時間が1時間強あったため、旅友とホーエンザルツブルク城に登る事を決断。ケーブルカーを目指して再びメイン通りのゲイライデガッセ通りを進む。モーツァルト広場はレジデンツ広場の隣に。中央にモーツァルトの銅像が建っていた。ザルツブルグで生まれたオーストリアの偉大な作曲家、アマデウス・モーツァルトに捧げられた広場。 モーツァルト広場を囲む時計台の建物の横壁の窓の外格子の模様は『ト音記号』 の如し。モーツアルトの歌劇「魔笛」の登場人物「パパゲーノ」の像。よって、この広場は「パパゲーノ広場」と呼ばれているのであった。 Kajetaner広場の噴水。ノンタラー・ハウプト通り(nonntaler hauptstraße)沿いのザルツブルク城を支える断崖の石の洞窟に設置された小さな礼拝所?墓地?。聖ERHARD教会。 更に進んでも城は山の上に見えるが、城に登るケーブルカー乗り場が見つからず。通りかかった青年に英語で尋ねると、ケーブルカー乗り場は反対側であり戻れと。 そして再び尋ねながら戻っていくと、漸くケーブルカー乗り場を発見したのであった。チケットを購入し慌ただしく乗車。それにしても案内板が少なく判りにくかった。ケーブルカー内部は斜めの車体に合わせるように、段々に席が設けられていた。乗客は少なかったが最後方に乗車。ケーブルカーが動き出すと窓から大聖堂が姿を現した。 そしてあっという間でケーブルカーを降り、さらに徒歩で坂道を登る。展望台からのザルツブルクの街並み。ザルツァハ川が中央を流れ、川の向こうが新市街、手前が旧市街。手前に大聖堂、中央にはフランツィスカーナー教会(Franziskanerkirche)の尖塔が見えた。登って来たケーブルカーの線路が眼下に。右上は交差のための複線箇所。駅にもなっている模様。 ホーエンザルツブルク城は、1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世の間に起こった叙任権闘争のさなか、教皇派の大司教ゲプハルト(ゲプハルト・フォン・ヘルフェンシュタイン1世)が皇帝派の南ドイツ諸侯に対抗すべく建築した防衛施設で、旧市街地の南端、メンヒスブルク山の山頂に立地する。 約50mの高台にあり、城壁は1.3キロに渡り、一番高い所で標高508mとのこと。紀元前より岩塩の交易によって栄えてきたこの町は、「ザルツ(塩の)ブルク(城)」と呼称されて来たのだ。中世において塩は「白い黄金」と呼ばれるほど貴重なもの。写真の巨大な円筒形の塔は北西側の稜堡にある鐘楼。その手前に、大司教が住んでいた宮殿へ登る階段があった。 再びザルツブルクの展望。川の左岸にあたる旧市街地は、岩壁と川との間の幅はわずか数百メ-トルしかない狭い地区。このわずかな空間に歴史的な建造物が詰め込まれているのであった。岩壁は城の自然の要塞となっており、また、岩壁の縁にある建物は、岩壁をくり抜いて利用しているのであった。この旧市街地が世界遺産に指定されているのであった。 このザルツァハ川は南から北へ流れ、ドイツとオーストリアの国境を流れ、イン川に合流し、イン川はドイツのパッサウ (Passau)でドナウ川に合流して、再びオーストリアを東に流れスロバキアとハンガリー国境そしてハンガリーを南下し、クロアチア、セルビアを通り、ルーマニアのドナウデルタにて黒海に注ぐ国際河川。すなわち計8カ国(ドイツ、オーストリア、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア)を東に流れ、黒海に注ぐ全長2,860kmの長さの大河。日本の南北の長さ(()沖ノ鳥島()から最北端()の択捉島()()までの緯度()の差)は2787kmでありそれより長い大河なのである。そして、このツアーの往路の最初の早朝散歩時に通ったザルツァハ川に設置されているユニークな構造の堰もカメラのズームで確認できた。宮殿の北面城壁は、急崖の上に直接築かれていた。それにしても強烈な崖。左下に見えた道は、歩いて登る道のようであった。時間に余裕があれば、せめて下城だけでも歩きたいところであったが・・・・・。 遠くに旧市街のはずれが。オーストリア国旗がはためく先には白き雪が残った標高1287mのGaisberg山の姿も。 更に階段を登りザルツブルク城内に。先には四角の塔も。 宮殿内に入る。歴史を感じる巨大紋章が城壁に掲げられていた。 ホーエンザルツブルク城内の大砲。眼下には市街地が広がっていた。 ゲオルグ教会。 1500年に大司教コイチャッハによりつくられた後期ゴシック様式の教会。軍人の守護聖人である聖ゲオルグに捧げられたものであると。中庭の中央にはラング・チステルネと呼ばれる地下貯水槽があるとのこと。中央の建物は兵器庫であると。 旧市街の奥の林の中には瀟洒な建物が散在。長閑な農村風景の如し。天然の岩の上に城壁が出来ている事を認識。慌ただしく城内観光を終え、再びケーブルカーに乗り城山を下りる。複線部分ですれ違う。下車駅舎が見えて来た。急勾配を下っていることが解ったのであった。 大聖堂横の広場には巨大な金の球が。世界遺産とは相容れない雰囲気なのであったが。球の上には人物(人形)が乗っておりザルツブルク城を見上げているのか?歴史上の人物でもなし?寓話の主人公でもなし?、現代の一般人の男の人形なのであった。 ネットで調べてみると『金の球は7年前?に突如出現、ザルツブルク財団のアートプロジェクトだそうだ。』と。振り返ると再びケーブルカーの線路が見えた。 同じ広場・カピテル広場の北側のレジデンツ広場の噴水とモニュメント。ローマのトレビの泉のミニバージョンの如し。再び集合時間に間に合うようにゲイライデガッセ通りを戻る。途中、菓子店 フュルスト(Furst)のモーツァルトクーゲル(Mozartkugeln) と名の付いたチョコレート菓子を「チョッコリ」見て写真を撮るだけ。 そして、ツアー仲間全員でバスでホテルに戻る予定であったが、旅友と単独参加のオジサン2人の4人で、ここで夕食を済ませ徒歩で帰りたいとツアー離脱を申し出。本来は認められない行為であったが、ホテルまでのザルツァハ川沿いのこの道はこのツアー2日目の早朝散歩で歩いた道であること、食事のみで再度の旧市街の散策はしないことを説明し、何とか添乗員から許可をもらったのであった。そしてバスでホテルに行くツアー仲間を見送り4人で軽い夕食に。添乗員が進めてくれたレストランに入る。肉料理を注文。ホワイトソーセージも注文。そしてビールの味も抜群であった。 夕食を楽しんだ後は、近くのスーパーに向かったが20時を過ぎており既に閉店。実は部屋に戻り4人で『最後の晩餐』を計画し、そのつまみを購入しようとしたのであったが。ザルツァハ川沿いをほろ酔い気分で、川沿いの夕景色を楽しみながらホテルに向かって歩く。 対岸沿いにあるザルツブルク復活教会。時間は20:20過ぎ。先ほど訪れたホーエンザルツブルク城にも夕闇が迫っていた。 Jesus Beauty Saloonの前に十字架のキリストの姿が。後方にはMülln教会が。今はアウグスティナー ビアハウス(醸造所)になっていると。約400年前に、アウグスティーナー派の修道院の僧侶達が作った醸造所が始まりと。対岸のザルツブルク復活教会、そしてザルツブルク城を振り返る。 列車のガード下を通過。右はウイーン、左はドイツ・ミュンヘン方面への線路。街路灯、ネオンの点灯したサン・ジュリアン・ファー通り(Saint-Julien-Straße )を歩く。 ユニークな外装のビル。 1階は柱のみの完全なる吹き抜け構造。ここオーストリアは地震の発生する国であるはずだが柱のピッチ、この太さで耐震上問題ないのであろうかとふと・・・・。このビルも、先日ユネスコの諮問機関から「世界遺産に登録することがふさわしい」とする勧告をもらった、日本の国立西洋美術館を設計したフランス人の建築家、ル・コルビュジエの設計????。そして45分ほどの徒歩で迷うことなく無事にホテルに到着。ツアー最後のこの日のホテルは、4月20日のツアー往路に宿泊したARENA City Hotel。フロントで荷物を受け取り、添乗員に無事の到着を報告し部屋に入る。そして4人で我々の部屋にて、このツアーの『最後の晩餐』を行ったのであった。
2016.05.26
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ザルツァハ川を渡り旧市街のグリースガッセ通りに出る。道路上に張られた架線から取った電気を動力として走るトロリーバスが走っていた。 グリースガッセの横断歩道を渡り、 少し右に行ったゲトライデガッセへ抜ける路地に日本料理「長野」が。中国人の経営で長野オリンピックの時に開業して長野と名づけたとか。ザルツァハ川に沿うようにあるゲトライデガッセ(Getreidegasse)は、ザルツブルクの旧市街にある通り。ガッセは、ドイツ語で「小さな通り」を意味し、その名の通り道幅は狭いが、ここが旧市街のメインストリート。17時前であったが比較的観光客は少なかった。路地が建設され始めたのは、ザルツブルクの街が司教区となった700年頃からといわれており、東西約320mの通りであると。ここの見どころはなんといっても看板。中世の趣を残すこの通り沿いには、高級ファッション店や宝石店などが並び、どの店にも手の込んだ美しい鉄細工の看板が設置され、目を楽しませてくれたのであった。あまりの美しさに、観光客は上を見ながら歩くので、観光客同士がぶつかるのだと。 洒落た看板が至る所に。各店舗のアンティークな店の看板に工夫の跡が見えたのであった。白い教会がコレーギエン教会。 ザルツブルク大学の付属教会で、モーツァルトの生家の裏側の通りにあり、教会前の広場は市場となっており、各種の野菜、花、アイスクリーム等の店が。各種野菜そしてたくさんのアスパラガス 、特に太い白アスパラが売られていた。ザルツブルク旧市街MAP。 ザルツァハ川を境に上が新市街、下が旧市街。旧市街が天然の山と川に囲まれていることが理解できたのであった。そして山の上にはホーエンザルツブルク城が。菓子店 フュルスト(Furst)。モーツァルトクーゲル(Mozartkugeln) と名の付いたチョコレート菓子は、今や世界に出回っているとのこと。ザンクト・ペーター教会(聖ペーター僧院教会)が正面に。 老木の菩提樹の幹の一部が金色に。何であろうか?金色の落書き? 尖塔の上部の形?トロフィー如き形のモニュメント。 気象協会の測候所のようであった。大司教が居住していた2つの宮殿が建つレジデンツ広場。コンサートやスポーツ イベント、フェスティバルが開かれる旧市街の人気の広場。 これはグロッケンシュピールがある建物。35個の鐘をつけた新宮殿(州庁舎)の鐘楼があり、「グロッケンシュピール」とよばれるカリヨンがあるとのこと。7時、11時、18時の1日3回、モーツァルトの曲を演奏するとのことであったが後30分ほど待てば18時の演奏を聴くことは出来たのであったが時間が・・・・。レジデンス広場の噴水。サウンドオブミュージックの背景にも出てくる有名な噴水。最下部の馬の彫刻も見事。彫刻は異なるが、パリのコンコルド広場にあった噴水の形(2カ所の円形受皿)と同じ形の噴水。1659年に作られた、バロック様式の大噴水。青空に向かって勢いよく噴水が。レジデンツ(レジデンツは「宮殿」の意味)。レジデンツの東側の入城門の装飾は、1710年にフランツ・アントン・ハラッハ大司教により建設された。大理石の門の上部には三人の大司教の紋章が掲げられているのだ。レジデンス広場から大聖堂の前のドーム広場への入口。ザルツブルク旧市街のドームとレジデンツを結ぶアーチ門の修道女像?。 1628年完成の大聖堂正面。現在の大聖堂はバロック様式の建物で、高さが81mある2本の塔が青空に向かって。塔の間にはキリストの像が立ち、その下には大聖堂の建築者となった2人の大司教「マルクス・ジティクス」と「パリス・ロードローン」の紋章が飾られていた。紋章の両脇には、旧約聖書に出てくる預言者「エリア」と立法者「モーゼ」の彫像が置かれ、その下には4人の福音史家が並んでいた。下部入口にも4体の大きな像が。左から「聖ルーペルト」、「聖ペテロ」、「聖パウロ」、「聖ヴィルギル」とのこと。ここも内部にも入りたかったが、時間が足りなかった。「大聖堂」の前にあるドーム広場の中央には、聖女マリアの像が立っていた。1771年、ジギスムンド・シュラツテンバッハ大司教の依頼で、ハーゲナウワ家の兄弟、ヴオルフガングとヨハンにより造られた。鉛で出来ており、マリア像は悪に対する無垢の勝利を表しているという。マリアの台座には、天使、悪魔、真実、教会の4つのシンボルを表す像が据えられていた。ツアー観光を終了し戻る途中に、レジデンツ広場の次のアルテン・マルクト広場に出る。聖フロリアン噴水の像。その周りにはカフェや銀行、ショップ、薬局などがあり、市民の憩いの場所。そして旧市街のメインストリートを戻ると左手に黄色い建物が。4階部分中央のメダリオン飾りの着いた下の小窓の部屋がモーツァルトの生家。モーツァルトは1756年1月27日にこの家で生まれ、1773年まで住んでいたのだと。モーツァルトは、21歳で故郷ザルツブルクを捨てウィーンに旅立つまで宮廷音楽家として仕えたと。17歳までここに住み、その後一家で新市街に引っ越したのだと。壁には『Mozarts Geburtshaus 』の文字が。ここも内部に入りたかったが、時間がなく諦めたのであった。
2016.05.25
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バスを降りミラベル庭園に向かう。ミラベル庭園入口近くには満開の藤の花が。この庭園は1年中花が咲いていて、ギリシャ神話の彫刻が立ち並び、噴水の美しい庭園。映画「サウンド・オブ・ミュージック」の中で、ジュリー・アンドリュース演じるマリア先生が子供たちと一緒に「ドレミの歌」を歌い踊ったところ。 ミラベル庭園の中門より入りザルツブルク・ミラベル庭園観光の開始。 女性像から水が出る噴水が。女性像の手や肩から、細い水が飛び出していた。 ミラベル庭園から見た丘の上のザルツブルク城塞とその手前に大聖堂。クアガーデン(Kurgarten)内の八角ドーム。 北側の門の両側にはユニコーンの像が座っていた。 パンジーと一緒に旅友とツーショット。 ペガサスの泉と後ろにはバロック博物館が。バロック時代の建築設計の図面や、教会、宮殿の中に飾られているバロック絵画の制作過程などが展示されていると。 当初カピテル広場と言う場所に設置されていたこのペガサスの像は1700年頃ここに移設。しかし、1818年の火災の後に撤去され、オークションにかかるなど数奇な運命を辿り再びこの場所に戻ってきたらしい。ペガサスの像の脚の間からザルツブルク城塞を。 庭園の中央の「ペガサスの泉」の周囲に、空気(wind)・大地(earth)火(fire)・水(water)を表す4つの像が。 空気(wind)。 大地(earth)。 火(fire)。 水(water)。庭園中央にある噴水越のザルツブルク城と手前の聖堂。 噴水越しのミラベル宮殿。映画「サウンド・オブ・ミュージック」にも登場したザルツブルクのミラベル宮殿。大司教ヴォルフ・ディートリヒの命の元、1606年に宮殿が建てられたが愛人のために造った宮殿ゆえに当初は愛人のサロメ・アルトの名前を取りアルトナウ宮殿と呼ばれていたと。 愛人のために宮殿を建てるとは大司教といえども何事だ!!との非難が集中し後継者である大司教シティカスが『ミラベル宮殿』へと改名したのだと。ミラベルとはラテン語で「美しい眺め」という意味。現在は市役所や図書館となっているとのこと。ミラベル宮殿とその右に聖アンデレ教会’Parish Church St.Andra)が。 あの「サウンド・オブ・ミュージック」のミラベル庭園の入口。 後方の並木の菩提樹も芽吹き始めていた。すれ違った外人女性が(私もこの地では外人ですが)Do-Re-Miの歌を歌っていました。♪♪Doe, a deer, a female deerRay, a drop of golden sunMe, a name I call myselfFar, a long, long way to runSew, a needle pulling threadLa, a note to follow sewTea, a drink with jam and breadThat will bring us back to Doe♪♪『シ』 は何故『Tea』なのでしょうか??ミラベル庭園を出るとマカルト広場に出た。ザルツブルグには、「モーツァルトの家」が二つある。一つはモーツァルトの生家で、ゲトライデ通りの「馬の洗い場」に近いところに。もう一つは「モーツァルトの住居」と呼ばれるもので、新市街のこのマカルト広場に。1773年から7年間、モーツァルト一家が住んでいた家。モーツァルト家の住居は2階。ここでモーツァルトは、最も恵まれた歳月を過ごしたのだと。「フィガロの結婚」もここでかかれたと。建物は、1944年に戦争で被害を受けたが修復されて、1996年に博物館としてオープン。併設されているオーディオ・ヴィジュアル博物館では、モーツァルトの作品を鑑賞できると。 オーストリア国旗は、市観光局が定めた歴史的に意義のある建物に掲げられていると。MOZART-WOHNHAUS(モーツァルトの住居)のプレートが掲げられていた。遊歩道Elisabethkai沿いには自転車に寄りかかり、空を見上げる男の像が。ザルツブルクの画家、彫刻家Lotte Ranftの作品。モーツアルトの住居の少し先にカラヤンの生家があった。 指揮をする彼の銅像が庭に置かれていた。 さすがにザルツブルクは音楽の都。 ザルツァハ川に架かるマカルト橋とその先に旧市街とザルツブルク城。ザルツァハ川が緩やかに流れていた。Maria Himmelfahrt, heiliger Augustinus, heiliger Alexius von Rom教会の尖塔が遠くに見えた。ザルツァハ川には遊覧船がゆっくりと。日本でもよく見かける南京錠がびっしりの光景がザルツブルクでも。新市街と旧市街を結ぶ歩行者専用橋・Makartsteg<マカルトシュテーク>のフェンスに無数の南京錠が。パリのセーヌ川にもポンデザールと言う橋があり、ここにも数え切れないほどの南京錠が欄干の金網に取り付けてあったが、今はどうなっているのであろうか?南京錠付の金網を撤去し、グラフィティアートが描かれたアクリル板に置き換えられいずれはガラス板が設置されると言うニュースを見たような気もするが?。
2016.05.24
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8日目のこの朝も、2人とも元気に早朝起床。早速早朝散歩に出かける。HOTEL OPATIJAは市内のメインストリートから1本通りを入った高台にあるホテル。クリームイエローの外壁がひときわ目を引く。周りを公園に囲まれた静かな環境。 ロビーは歴史を感じさせた。ホテルは本館と旧館があり旧館は古い感じ。もちろん、我々ツアー客は旧館?。前庭は見事に手入れされた迷路のような幾何学的曲線模様の植栽。 ホテルから階段、坂道を下り海岸沿いの交差点に。早朝のためか、未だ静かな街並み。 そして海岸に。前方にオパティアの街が拡がっていた。波は少し荒く岸壁に打ち付けていた。 ニオイシュロラン(匂棕櫚蘭)の白き花が真っ盛り。ニュージーランドが原産の「やし」に似た樹形。日本ではあまり見ない花。海を岸壁で囲んだ海水プール Slatina Beach。 なぜか姿に親しみを感じた像がアドリア海を眺めていた。20世紀に活躍したクロアチアの作家ミロスラヴ・クルレジャ(Miroslav Krleža)の彫刻。『おはよう、やあ 近くに来て座れや』 と船員風の帽子をかぶったオジサンが。お言葉に甘えてベンチに座り記念撮影。この美しい海辺に、オパティアのシンボルとなっている「乙女とかもめ」という像が。 ふと世界三大がっかり名所のコペンハーゲンの人魚姫の像を想い出したのであった・・・・。世界三大がっかり名所とは、有名観光スポットだけど、行ってみたらがっかりした場所の世界版。ブリュッセルの小便小僧、コペンハーゲンの人魚姫、シンガポールのマーライオン。この手前にカメラが設置されており、撮影しホームページにアクセスすると世界のどこからもその写真を見ることが出来ると。撮影しホームページにアクセスしたがクロアチア語で操作が解らず・・・・・。ホテルに戻り朝食後は8時に出発。この日はオーストリア・ザルツブルクまで400kmのバスの旅。このツアーで楽しませてくれたアドリア海もこの時で見納め。 6号線のクロアチア→スロベニアへの国境。 この日、4月27日はスロベニアでは抵抗運動記念日で国民の祝祭日とのことでスロベニアからクロアチアへの入国レーンは車が大渋滞していた。 我々もバスを降りパスポートを提出し入国審査を無事完了し再びバスに乗り出発。 10分ほど走ると木材加工会社LESONIT社の大きな工場が車窓に。久しぶりに見る大規模工場。 教会と墓地が静かに。 教会の尖塔の曲線が美しかった。 スロベニアの有名な観光地であるポストイナ鍾乳洞のあるポストイナ(Postojna)インターから高速E61号線に。ポストイナ鍾乳洞を訪ねるツアーもあるが、今回のツアーには含まれていなかった。尖塔が暗雲の空に突き刺さっていた。 Spodnje Gorjeにある『Fortuna』 で昼食。豚肉を楽しむ。 スロベニアからオーストリアの国境は両国ともシェンゲン協定によりパスポートはチェックはなくいつの間にか通過。しかし雨が激しくなりそして白い物が混じり始めた。そして往路でも通過したカラヴァンケン自動車トンネル(7.976Km)へ。 そして白い世界が始まってしまったのであった。 A11アウトバーンのオーストリア入国ゲートの手前の道路、そして屋根も真っ白。 雪が益々激しくなり視界も悪くなってきた。 除雪車も出動中。 樹氷の如き光景も。 アドリア海の夏から突然の冬景色。オーストリアに入り、FlachauwinklstraßeにあるLandzeitアウトバーン-レストランでトイレ休憩。レストラン前から見た白き山と岩肌。 寒さに負けじと旅友と缶ビールを購入し、しばし雪景色を車窓から楽しむ。 そして暫くすると平地には雪はなく緑の世界が戻ってきた。 ホーエンヴェルフェン城が左手の山の上に。ホーエンヴェルフェン城は、ホーエンザルツブルク城に並びヨーロッパ名城に数えられる城。この地に1077年ごろに建てられた街道の城塞。以来、難攻不落の要塞として、数百年もの間君臨し続けて来たと。 そして岩肌の厳しい山の姿が再び。 ホーエンザルツブルク城。街を見下ろすメンヒスベルクの丘に立つザルツブルクのシンボル的な城塞。1077年に着工し、その後、約700年間の間、増築を重ねて現在の形に。そして漸く400kmの移動を終えザルツブルク市内へ入る。シュヴァルツ通りの瀟洒な建物。 ザルツァハ川沿いからの市街と ホーエンザルツブルク城。
2016.05.23
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すると現地ガイドが別の道を案内する。その道は獣道の如き細い道。大丈夫かと訝しみながらツアー仲間と共に進む。 すると、工事中の現場が目の前に。我々の突然の進入に工事作業員は驚いた模様。現地ガイドと工事責任者が何かを会話。結局ベテラン現地ガイドの独自の判断?で更に遊歩道を進むことが出来たのであった。 右手には工事中の木道の橋が見えたのであった。未だ床板が貼られていない梯子の如き進捗状況であった。これが先ほどの通行止めの理由なのであった。 紅白の進入禁止のテープに囲まれた中を進む。 再び白き小段の滝に遭遇。 川を横断する木製の橋が眼下に。オレンジの屋根は水力発電所。夏になると観光客がどっと押し寄せ、この橋も渋滞するのであろう?。比較的落差、幅 共に大きい滝。 新緑に覆われた散策路に細かい霧となった水の粒子が漂い、爽やかな涼を感じさせてくれる空間と時間。 霧のように立ち昇る水の飛沫も見えた。 白の混沌とその後の緑の静寂。 この公園に生息するトカゲや蛇などの生態系の案内?注意喚起?のポスター。 吸い込まれて行くが如き水の流れと、その下の白のざわめき。 生い茂った新緑、澄んだ水の流れ、流れ落ちる滝の音、清浄な空気。マイナスイオンが体にまとわりつく快感。豊かな自然の中であらゆる感覚が解放され、心が洗い流されていく瞬間。岩肌に生きる苔も新たな緑を演出。 このような光景を眼前(自分の目と同じ高さ)に見る体験はやはり新鮮。奥入瀬渓流に似ている、とふと・・・。 木漏れ日も青、緑そして白き流れに射し込み美しかった。 真っ青なアドリア海とオレンジ色の屋根瓦の街並みが広がる海岸部の町とは雰囲気が一変。水と緑が織り成す絶景が訪れる人々を圧倒すること間違いなしの景観。ここはあまり知名度はないのか、『地球の歩き方』にも1ページをさいているのみだが、プリトヴィッツェに勝るとも劣らない、澄んだ湖いや川と多くの滝に囲まれた美しい公園なのであった。以前、中国・九寨溝を訪れたが規模こそ及ばないが、足下に水の流れを実感出来たのは同じ。当時は九寨溝にヨーロッパ系の観光客が少ないと感じたのであったが比較的近いここクロアチアのプリトヴィッツェ、クルカに観光客が訪れていた事を理解できたのであった。 現地ガイドの女性が何度も「湖ではなく川です」と主張していた青い川も見納め。確かに何も言われなければ青く澄んだ湖だと信じてしまう光景。 川に写真の真ん中の曲線の砂嘴の如き姿を見たのも初体験なのであった。サロマ湖の如き湖で見たことは何回かあったが。国立公園出口(入口)で帰路もトイレ休憩。そしてここから、この日の宿泊地オパティア(Opatija)まで220kmのバスでの大移動。33号線から高速E65への料金所を通過。 シベニク(Šibenik)を過ぎて左手に入り組んだ湾岸の街Biliceの教会の尖塔が見えた。 アドリア海のアドレティックブルーをくまなく見ようと必死に。マスレニッツァ(Maslenica)でアドリア海に別れを告げ、E65から山に入りE71を利用し、この日のホテルを目指す。石灰岩の奇形の山の姿。この山も太古には海底にあったのだ。アフリカプレートの圧力により海底から押し上げられたこの山。 頂上付近には樹木はなく石灰岩剥き出しの山が続く。 そしてこの日は予定時間を大幅に遅れ21:30にHOTEL OPATIJA に到着。 暗くなってのホテル到着はこのツアー2回目。そして慌ただしく夕食。 我々のツアーグループの席に置かれた予約席の札。『NIPPON』 の文字が。
2016.05.22
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バスを降りクルカ国立公園の幾重にも重なる滝や水の白き流れの観光に出発。クルカ国立公園はシベニクの北側に位置。総面積142km2、そのうち26km2は水面。ディナラ山中に水源を発するクルカ川が石灰岩の地層を侵食してできたカルスト地形で、切り立った渓谷や滝、細長い湖といった独自の空間を造っているのであった。ここの水も透視度は抜群。 緑の美しい藻が女体に流れる黒髪のようにやわらかく陽光に輝いていたのであった。私と旅友の影が邪魔。 私の頭の上に豊かな黒髪がなびいていた。現地ガイドが見学コースを説明。1時間半の散策コース。 小さな滝がいたる場所に。 不思議な色の湖のなかで、ここちよさそうにスイスイと泳ぐ魚(鱒?)たち。 マガモものんびりと。マガモの頭の緑が輝いていた。 作業小屋が設けられていたが、これは水力洗濯機との説明が。昔の水車小屋が今も残っていた。 地上も新緑、水中も新緑。そして空と水はエメラルドグリーン。スクラディンスキ・ブクと呼ばれる滝が見えて来た。 水は、石灰華が沈殿しているため、エメラルドグリーンに輝いていた。 ここは、ヨーロッパで最も美しい滝と言われる名瀑でもあると。オーストリアの皇帝でありハンガリー国王でもあったフランツ・ヨーゼフ1世も、その絶景を褒め讃えたと。白き泡の上で小魚が滝登りにTRYしている姿が。 正面から。澄み切った水の色に様々な光が乱舞してキラキラ光る様子は言葉を失う美しさ。ブクというのは日本で言う「轟き」のことだとのことで、 「轟の滝」とでも呼ぶのでしょうか。 下流には静かに流れるクルカ川の姿が。そして砂嘴の如き曲線が見えた。新緑の緑と滝の流れの白との混沌の世界。 水力発電所跡。当時の水力タービンの一部であろうか?クロアチアで初の水力発電所で近接するシベニクに1895年8月28日から電力を供給したと。ヨーロッパで最初 、そして世界で二番目のニコラ・テスラが発明したAC商用発電所。よってシベニクは世界で初めて水力によるAC電力供給を受けた街となったのだと。 公園の中では、クロアチア名物の乾燥イチジクなどを売る売店が。世界遺産にはなっていないので、この様な形で出来る商いか? 滝の下の川で水浴びする少年の姿が。真夏になればここに多くの老若男女の水着姿が見られるのであろう。 幾重にも分かれて流れ落ちる滝は『絵にも描けない美しさ』いや一大パノラマ ・ 大パノラマ ・ 素晴らしい光景 ・ 素晴らしい眺望 ・ 一幅の絵 ・ 美景佳景 ・ 美観 ・ 絶景 ・ 雄大な眺め ・ 壮大な眺め ・ 壮大な眺望 ・ 雄大な眺望えもいわれぬ美しさ ・ 圧倒される美しさ ・ 素晴らしい眺め ・ 雄大な景観壮大なパノラマ ・ 壮大な景色 ・ 壮観な風景 ・ 壮大な景観 ・ 奇観 ・ 偉観 ・ 異観景観 ・ 壮観 ・ スペクタクル ・ 素晴らしい景観 ・ 見事な景観 ・ 見事な景色書き足りないほどの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。細き滝が2本。 あまり注目されずに遊歩道の片隅に寂しそうに。更に遊歩道を進むと、突然通行止めの紅白のテープが目の前に。 現地ガイドは何も聞いていないと。通りかかった公園関係者に尋ねるとこの先の木道が工事中のため進入禁止なのだと。散策もここまでで引き返すのかと諦めかかったのであったが・・・・・。
2016.05.21
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昼食後はスプリットの街を通過し、次の観光地のクルカ国立公園に向かう。 街のマンションはベランダの外にブラインドがあり、日本人にとっては珍しい光景。 簾タイプではなく横引き戸しきなのであろうか?頂上が石灰岩の白き山とその下部には白き波模様の裾野。広いラウンドアバウト式の交差点には交通安全を祈るが如き像が。 トロギールの街並み。 そしてアドリア海のアドリティックブルーの海が車窓左側に拡がる。 8号線沿いのアドリア海の入り組んだ湾の水面には多くの浮きが。牡蠣の養殖場であろうか。 スプリット方面とその奥に、石灰岩ではなくこちらは雪を頂いた白き山々が。 Marinaのヨットハーバー。中央にホテル マリンスカ クラ。ここもアドリティックブルーの海の中の養殖場。 マグロの養殖場であろうか。実はクロアチアから年間2000トンものクロマグロが日本に輸出されていて、その量はクロアチアの対日輸出の約7割を占めていると。写真右には直径30〜50メートル程度?の覆蓋付の円形の生け簀が見えたのであった。Splitska にあるKremikマリーナ。 プリモシュテン(Primošten)の街のBESTな撮影SPOTでバスを降りる。一見すると島のように見える場所に街が造られ、大陸とは道路のみで辛うじて繋がっているという、ちょっと面白い形をしてる街。この街には城砦は見あたらなかった。中央には聖ユライ(Sv. Juraj)教会(聖ジョージ教会)(Crkva sv. Jurja)が。半島部の中央の、最も高い所に建っていた。プリモシュテンのランドマーク、素朴な鐘楼。 先端には白砂の海岸が拡がっていた。遠くの山も島なのであった。 白砂の海岸とアドリティックブルーの海。海の底まで見える透明度の高さ。 ディナル・アルプス山脈に降った雨や雪溶け水が石灰岩の隙間を通って浸透し、濾過され、これが大量に地下水としてアドリア海中に直接浸み出ているのだと。これぞ色彩の宝庫。青、エメラルドグリーン、緑、白、オレンジ・・・・・・・。シベニク(Sibenik)の手前の小さな島はKrbelica島。 海岸から100m以内の島はアドリティックブルーの海に囲まれて。 空の青の何倍も濃いアドリティックブルーの海。 松もアドリティックブルーの海と自分の影を覗き込んでいた。 半島の付け根の斜面に拡がるGrebašticaの街。 Novaのヨットハーバー。アドリア海沿いにヨットハーバーが次々と姿を現した。 シベニク手前でバスはアドリア海沿岸を離れ高台に登っていく。 そしてクルカ国立公園入口でトイレ休憩。この日の現地ガイドの女性がバスに乗り込み出発。 美しいクルカ川の本流が流れる自然豊かな国立公園。 そしてバスを降りクルカ国立公園の美しき水の流れの観光開始。
2016.05.20
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トロギールからスプリットに向かう。15分ほどすると左手に石灰岩が剥き出しの山が。トロギールからスプリットへ向かう途中バスの車窓からサロナ遺跡が左手に見えた。サロナ(往時はソリン)は、ローマ時代にダルマチア州の州都として栄えた町。ローマ皇帝ディクレティアヌスがスプリットに宮殿を築いたのは、彼がサロナの近郊の出身であったからだと言われ、また、スプリットが栄えたのは、異民族の侵入に悩まされたサロナの住民が、スプリットに避難してきたことが発端であったと添乗員から。Solin手前の1号線を更に進む。目指すSplitの文字が。 トロギールからスプリットまでは、バスで約45分の距離。スプリットの南東の城壁の隅櫓が見えて来た。スプリットはダルマチア地方で人口20万人を抱えるアドリア海沿岸で最大の港街で、旧市街は港に接し、ディオクレティアヌス宮殿の前にはスプリット港が広がっていた。停泊しているクロアチアのフェリーの白い船体がアドリア海に映えていた。スプリット旧市街は、ローマ時代の皇帝ディオクレティアヌスの宮殿の基礎を残しつつ、中世の人々が建物を増築したため、宮殿がそのまま旧市街になっていると。古代と中世の建物がまじりあった独特の街並みが魅力。 前方に拡がる光景は、ただの市街に建つ住宅のようにも見えたが、ディオクレティアヌス宮殿の城壁の一部。巨大なこの城壁は南北215m、東西180mの方形で、周囲を厚さ2m、高さ20mで囲まれているのだと。 そしてユネスコの世界遺産にも登録されている。 空と海の青に挟まれた白とオレンジのスプリットの新市街。海の先のなだらかな丘は「マリヤンの丘」。スプリット市民の憩いの場でビーチ、動物園なども。丘の上からスプリットの旧市街が一望できること間違いなし。海岸沿いの蘇鉄並木、ここも南国の如し。 城壁に沿ってプロムナードが拡がっていた。 街角の歩道にはスプリット市街模型が。宮殿の模型、これは現代いやいつ頃の姿なのであろうか? 古代ローマ帝国時代のディオクレティアヌス宮殿復元図(想像図)とのこと街角の案内板にあったもの。ヴィザンティン帝国→クロアチア・ハンガリー王国→ベネチアの保護下に。ベネチアの衰退と共にオーストリアとフランス交互に支配を受け、オーストリアの支配を受けた時代はスプリット経済発展の時代に。その後ユーゴスラビアの一部となり1991年にユーゴより独立しクロアチアの重要な港町へ。建物の中央にあるファサードから宮殿内に。非常に簡素な入り口。ディオクレティアヌス宮殿のここ南の門(青銅の門)からは、地下の通路となっており 鉄鋲の付いた鉄の門をくぐって、宮殿内に入って行った。当時は 城壁の中央にあるこの門に船が横付けでき、物品を搬入したのであろう。南の門(青銅の門)を潜ると、ペリスティル(Peristil)という中心部の列柱広場までは、各種土産物店が並んでいた。宮殿の南半分はもともと皇帝の私邸で、地下には宮殿の上部を支える柱が古代のまま保存されていた。 昔は隔離施設や倉庫搬入口として使用されていた場所。今は宮殿入口に最も近い門として多くの観光客が。そしてペリスティル(Peristil)と呼ばれる広場に出る。 かつては中央にディオクレティアヌス帝の石棺が置かれていたのだが、現在は残っていないと。左側には黒き「スフィンクス」の石像がポツンと置かれていた。ディオクレティアヌス帝がエジプト遠征時に持ち帰った物とのこと。周柱式と呼ばれる素晴らしいコリント式列柱で囲まれた中庭、ペリスティル。 鐘楼は13世紀に着工され、何度も中断しながら1908年に完成した60Mの建物。入場料を払うと、大聖堂の鐘楼に登れるとのことであったが・・・。観光客相手に古代ローマ人の服装で有料で写真撮影に応じる男達の姿も。 前庭内部は工事中で足場が周囲にかかっていた。かつてモザイクで装飾され円屋根があった天井を見上げると、丸く穴が開きちょっと不思議な空間。その大きな穴からは大聖堂の鐘楼やクロアチアの青空が綺麗に見えた。16世紀ごろまでは円屋根が残っていたと。青空に映える鐘楼。下から見上げるとすごい迫力。173段の階段を上ると、スプリットの町が一望できると。宮殿の壁は所々で修復中。ローマ遺跡でよく見かけるアーチ構造。 城壁が途中で壊されてしまっている場所も。 それとも現在修復中でしょうか?中世の人々が建物を増築した場所。 手前の八角形の建物はディオクレティアヌスの大聖堂。もともとディオクレティアヌス帝の霊廟として建てられてものの、在位中にキリスト教弾圧政策をとったことから、石棺が排除されて、7世紀に大聖堂として改築されたのだと。再度、城門(金の門)を潜る。こちらが当時の正門とのこと。当時は金の装飾が門一面に施されていたので金の門と呼ぶと。金の門をくぐり城壁の外へ向かう。北門は二重の門になっていて、1つを突破されても、もう一つの門で防御出来る構造か?宮殿の北側、北門(金の門)の正面に立つ巨大なグルグール・ニンスキ銅像左足の親指に触ると幸運が訪れると。グルグール・ニンスキ司教は10世紀に実在した人物で、それまでラテン語のみで行われていたミサにクロアチア語を導入し、スラブ言語の保護に貢献したとされるクロアチアの英雄のひとり。皆様が触るためか、親指は光り輝いていた。もちろん私も。 北門(金の門)を外から。北門(金の門)をズームで。門上に付いている彫刻の顔は真下を向いていた。グルグール・ニンスキ銅像とSt John教会の鐘楼。 旧市街はいずこも狭い路地が四方八方に。 広場に面して3つのアーチがあるゴシック様式の建物は、かつてのベネチア共和国庁舎で市庁舎のほかに、劇場、牢獄などもおかれていたとのこと。西門(鉄の門)時計塔。ナロドギ広場を行き交う人々を見守りながら、ひっそりと時を刻み続けいいた。表示板はドブロヴニクの時計塔と同じか。細い迷路のような小道が続く 。旧市街の宮殿部分の北側と南側を歩くと、おしゃれなカフェやバー、こじんまりした雰囲気のよいレストラン等が軒を並べていた。 自由行動時間を利用して、娘からのRequestの土産物・トリュフペーストを探しに。旅友も私に付き合ってくれたのです。そして狭い路地で、販売している店を発見し購入。旅友も私に釣られて?同じものを購入。トリュフと言えばフランス料理の高級きのこ。キャビアやフォアグラと並ぶ世界の3大珍味とも言われる高級食材のひとつ。トリュフ探しに「豚」を使うことは有名だが、なぜ「雄」ではなく「雌」豚が活躍するのか?それは、トリュフには雄の豚が交尾期に分泌する「性フェロモン」に似ている「臭い」が含まれているからなのだと。最近では訓練した犬が利用されているとも。店内の壁に貼ってあったポスターを撮影。観光を終え再びアドリア海岸沿いを歩く。 再びディオクレティアヌス宮殿鐘楼と隅櫓が右に。 スプリット旧市街の観光が終わりバスに戻り、市街地を通り近郊バスを降りレストランに向かう。スタンド付のテニスコートが。クロアチアといえば、旧ユーゴスラビア出身の名選手が多いのである。世界ランキング1位のノバク ジョコビッチ(現セルビア)、11位のマリン チリッチ(現クロアチア)等々。レストランKalafaticでランチ。 この日のイカのグリルは美味かった。 デザートも。 レストランの前はアドリア海岸のヨットハーバー。
2016.05.19
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この日も8時にホテルを出発しトロギール旧市街には約15分弱で到着。Fish market-Trogirの入口前を通過。 トロギールの街の手前には運河が。本土との間に横たわる美しいこの運河も、都市防衛のためにめぐらされた堀であると。運河には多くのプレジャーボートが繋留されていた。小さなこの島の中に、宮殿、教会、塔が多数、そして要塞もあるのだ。 本島との間の運河に橋(Trogir橋)が架かっていて、これが島への入り口。 『Grad Trogir』と書かれた案内板。世界遺産の Town Trogir であると。この日のトロギール現地ガイドの女性。トロギールは周りを城壁に囲まれた小さな島で、町の起源はギリシア時代までさかのぼるのだと。そして狭い島内には歴史的建造物がひしめいていた。そしてここでも狭い路地が張り巡らされていた。 トロギールは紀元前3世紀、古代ギリシア人が築いた植民都市。南北500m、東西1kmの小さな島。旧市街は更にその半分ほどの広さ。北門。 街の守護聖人 聖イヴァン・ウルスィニの像に守られた旧市街への入り口。かつては市街全体が城壁に囲まれてたものの、現在はその一部が残るのみと。守護聖人 聖イヴァン・ウルスィニの像が青空を背景に。 狭い路地を歩いて行くと、トロギールで一番の見所である聖ロブロ大聖堂が見えて来た。聖ロブロ大聖堂は建築が開始されたのが13世紀初頭、完成したのは17世紀になってから。 聖ロブロ大聖堂。 建築に年月がかかったため、さまざまな建築様式が組み合わさっているのだと。鐘楼の窓は1階がゴシック様式、2階がヴェネツィアンゴシック様式、3階が後期ルネサンス様式。鐘楼には登ることができるようであったが・・・・・。聖ロブロ大聖堂前広場の聖ロブロ像。 正面入口のロマネスク彫刻は、13世紀にマスター・ラドヴァンによってつくられたものでクロアチア中世美術の傑作。しかし、開館は9時から?のようで門は未だ閉まっていた。門の上部には下から上にかけて、イエスの生誕と生涯を表しているのだと。 イエス像か?時計塔に隣接するのは市庁舎(GRADSKA VIJECNICA)。13世紀から14世紀にかけて建てられた後期ルネサンス様式の堅牢な建物。大聖堂の建つ広場の奥には時計台が。 写真右の短い鎖に、かつては罪人が繋がれたとか時計塔の横にはロッジア(LOGGIA)。かつては裁判なども行われていた場所。南壁にはオスマン・トルコと戦って1520年に戦死した、郷土の英雄であるベリスラヴィッチ総督のレリーフが掲げられていた。 ロッジアという屋根付き集会スペースで、この地方の伝統音楽・クラッパ(KLAPA)が披露された。クラッパとは男性のみのアカペラ・コーラスで、イタリアの方言で “GROUP” という意味であると。歌詞は愛やワイン、海などをテーマにしたものが多く、歌詞の内容よりはハーモニーが重視されるとか。カメラをしばし録画モードに変えて撮影。 ロッジアの東壁には、税関としての正義、正確性などを象徴する、天秤を手にする聖母のレリーフが。そしてその前で、アカペラ・コーラスの男達がCDを販売。我がツアーグループの方々が購入されていた。ロッジアの天井の絵画。 47メートルの鐘楼を持つトロギールを代表する聖堂を再び。 南門イヴァナ・パヴラ広場から細い路地を抜けて、南門にやって来た。この先は埠頭。対岸はチオヴォ島(Otok Čiovo)。 運河沿いの海岸通りのドミニコ会修道院と蘇鉄並木。青空、青のアドリア海、南国の如き景観。手前は歴史ある小学校らしく現在も使用されていると。屋外のカフェテラスのガーデン パラソルは未だ開いていなかった。ドミニコ会修道院の鐘楼。 ピンクの小さな時計も確認できた。南門の先のカメルレンゴの砦。島の南西部にあり、15世紀、それまであった塔をヴェネチア人が改築して建てられたもの。オスマン帝国から街を守ると同時に、ヴェネチア支配に反抗する住民から身を守るためでもあったと。砦に上るとトロギールの街とアドリア海が一望できそうであったが・・・・。狭い路地を歩いて行くとマウントカーメル教会の鐘楼が顔を覗かせた。 再び聖ロブロ大聖堂前に戻る。門の前に立つ、アダムとイヴを背に乗せたライオン像。そして見学を終えTrogir橋を渡り、バスに戻ったのであった。 Trogirの小さな旧市街は、中世に作られた城壁や家々の建物がほとんどそのままの状態で残っていたが、歴史的にも貴重なもの。青い空、青い海そして赤煉瓦の屋根と白壁の街並みのコントラストが何とも言えず、いつまで眺めていても飽きない時間そして景観なのであった。
2016.05.18
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このツアー7日目も5時過ぎの早朝起床。 我が部屋のベランダからのアドリア海。そして旅友と二人で海岸まで日の出鑑賞に向かう。10分ほど歩いて海岸に出ると、東の空は益々赤みを増しつつあった。 昨夜の夕食時は日の出を見たいと何人かの旅友が話をしていたが、姿はなし。やはり旅の疲れが出てきたのか。元気なのは我々2人だけ?空には満月から3~4日目後?の居待月(いまちづき)が輝いていた。東の空が刻々とオレンジ色に。 そして青のアドリティックブルーの海も赤く染まり出した。そして山の端が輝きだした。 日の出の場所が山の端の上部の輝きで解ってきた。この頃、もう一人の旅友もカメラをかかえ、我々に合流。 そしてアドリア海に突き出た山の端からの日の出。時間は6:04頃。 刻々と変化していく空の色を楽しみながら、シャッターを押す。太陽が丸く姿を現し。一筋の陽光が水面に。 水面の陽光の輝きがみるみると幅を増してきた。 雲一つ無い空そしてオレンジ色に輝くアドリア海の世界。 水面をズームで。黄金色にキラキラと輝く別世界の如し。 そして少しずつ、空がオレンジ色から青空へ。 アドリア海の朝の絶景を堪能。光景と光を浴びると自然と旅の疲れはどこへやら、活力が湧いて来たのであった。ちょっと早起きすれば、元気いっぱいに異国の旅の1日をスタートできるのであった。そしてホテルに戻りながら、価値観を共有する?脚長オジサン3人で仲良く記念撮影。 そして朝食。 部屋に戻ろうとエレベーターに乗ろうとすると、扉の横に張り紙が。よく見ると、韓国人ツアー客のRoom No.リストが貼られていた。名前はハングル語と英語で。そして男女の区別まで。現在の日本人にとっては考えられない張り紙とその場所。個人情報など無関係、無配慮な異国の文化か。いや日本も10年前は同様であったのかも。 部屋のベランダから見ると、既にアドリア海は青きアドリティックブルーの海と山々は新緑の世界に変わっていた。 部屋の鍵。旧ユーゴスラビア時代を彷彿とさせる重厚感がある代物と感じたのであったが。
2016.05.17
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世界遺産・モスタル旧市街観光を終えてこの日の宿泊先のクロアチアのトロギールへバスで約160Km移動をスタート。M17号線から再びネトレヴァ川を渡る。 モスタル、サラエボに向かう線路が車窓に。そしてR245線で山を登っていく。 眼下に線路、ネトレヴァ川そして急峻な白き石灰岩の山並みが。山の麓に16世紀に建設されたZitomislic修道院と尖塔が見えた。R424号線沿いの聖Leopolda Mandića教会。暫く走りボスニ・アヘルツェゴビナから再びクロアチアに入る国境を通過。 ドライブインでトイレ休憩。折しも雪が降り出してきた。そしてこの場所は積雪数センチ。 近くの山の上にはクロアチア戦死兵士の慰霊碑が建っていた。高速E65号線でスピリットを目指す。Dusina付近の車窓左側には綺麗に直線的に区画された田園風景が拡がる。 そして車窓左側にアドリア海が姿を現した。 そして遠くにスプリットの街が。 夕焼けの中、内湾に浮かぶBarbarina島が中央に。 スプリットを抜けトロギールへ向かう。 左手にはスプリット空港。 アドリア海に浮かぶチオヴォ島(Otok Čiovo)の街並み。 そしてこの日のホテルに到着。HOTEL MEDENA。 ビーチからはほど近い、かなり広いホテル。ホテルのフロントは、いかにもユーゴ時代からあるような古い雰囲気。 部屋に入るが、ベッドがくっつき過ぎ。 ソファーの背もたれをベッドの隙間に突っ込み境界(防音壁)を作る。これぞお互いのリスクマネイジメントなのであった。 部屋にはベランダが設置されていた。『人』 の形をした2棟のホテル。ベランダからはアドリア海、そしてチオヴォ島の姿が。一休みして海岸まで歩いて見る。オレンジ色に染まる街並みと空、そしてスプリット空港を離陸した飛行機の姿が。 スプリット方面、そしてその後ろには雪を頂いた山もオレンジ色に染まってきていた。 静かなアドリア海の夕暮れ。 オレンジ色の屋根の色に近づく家の白い壁。 透き通ったアドリア海の海水。 そして部屋に戻り夕食は地下のレストランで。
2016.05.16
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バスを降り歩き出すと、左手にいきなり。写真の建物に残された無数の銃弾の跡には言葉を失ってしまった。紛争が収まった後,多くの建物は修復されたが一部は資金面で,また一部は負の遺産として残されているのだと。この後も、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の跡が色濃く残るモスタルの旧市街を歩いたのであった。(所々に砲弾を受けた壁のボツボツの跡が) 聖ペーター教会の鐘楼。紛争により破壊され、2000年に再建。高さは100m以上もあって、モスタルで一番高い建物。 モスタルの市街案内図。ネトレヴァ川に沿って開けた街。 ネレトヴァ川に通じる小川(Radobolja川)もこの日は水量豊か。 バザール。旧市街のスタリ・モストに続く道の両側はバザールとなっていて、各種土産品が道の両側からせり出して来ていた。しかしここでは、日本語での例のしつこい売り込みはなし。 バザールを更に進み振り返ると聖ペーター教会の鐘楼が遠くに。 スタリモスト橋上からネレトヴァ川下流側を見る。 スタリモスト橋上からネレトヴァ川上流側を見る。 中央には1618年に建てられたイスラム寺院 コスキ メフメット パシナ ジャーミャ. ジャーミー (Koski Mehmed-pašina džamija )。スタリモスト橋を渡り左折して進む。 それぞれの家屋の屋根は平たい石を瓦の如くに敷いていた。クロアチア系住民とムスリム系住民が街を流れるネレトヴァ川を挟んで対峙し、川にかかったこの橋がクロアチア系武装勢力によって破壊されたことで知られる。内戦で橋が破壊されたが、川から橋の大理石を拾い上げ、パズルのように再度組み合わせて再建したのだと。ボスニア紛争はムスリムとクロアチア人の対立を象徴する戦場がモスタルであったと。モスタルでは、この小さな橋をはさんでカトリック(クロアチア人)とイスラム(ボスニア人)に分かれて、三年間も撃ち合いが続いたのだ。また、モスタルにはセルビア人(正教会信徒)も住んでおり、その割合はモスタル全人口のおよそ20%弱にも上った。彼らはいわゆる「民族浄化」の被害を受け、そのほとんどがこの町を去ったと。 まずは昼食にこのレストランに。 ボスニア・ヘルツェゴビナが本場のCevapcici(チェバプチチ)。 皮なしのソーセージあるいは、葉巻型のハンバーグといった感じの“チェバプチチ”。店の近くからのスタリモスト橋、そしてその奥に急峻な石灰岩の岩山がそそりたつ。 モスタルの地名は木製の橋を守る「橋の番人」を意味するモスタリ(mostari)から来ているとされているのだと。橋の上の観光客は絶えることはなかった。 トルコ・イスタンブールで見かけた色彩豊かなランプが土産品として売られていた。 オスマントルコの支配が長く、街の雰囲気も売っているものもトルコそのまま。何故かマトリョーシカが土産物に。そしてトルコ風銅製?水差しも。イスラム寺院モスクで、礼拝の前に手足を清めるための水を入れる首の長い水差し。さらに、この日の私のリュックにも付けてある、いくつものガラスの小さなナザールボンジュウ (トルコの有名なお守り)をシルバーのチェーンでつないでいだものも多くの土産物屋で売られていた。ここモスタルにははトルコっぽい土産ばかりがいたるところで。橋の奥の小高い山の頂上には十字架が建っているのが見えた。この山の上からもこの橋に向けて砲撃が行われたのだと。スタリモスト橋は中心部が湾曲した橋で、全幅4m、全長30m 、川面からの高さは24m。 橋の上は凸凹があり、石も滑りやすそうだったので慎重に。いや滑りやすいので凹凸を?更にここモスタルの観光ルートの石畳は丸い石を敷き詰めてあるため、でこぼこで歩きにくかったのであった。この橋には、それを守る要塞化された塔が二つ備えられており、北東にあるのがヘレビヤ塔 (Helebija) 、南西がこのタラ塔 (Tara) 。この二つは「モスタリ」 (mostari) と呼ばれるが、その意味は「橋の護衛者たち」。 1992年-1998年の国章?が掲げられていた。金枠青地の盾に銀(白)のベンド(斜め帯)に6つの金(黄)の百合(フルール・ド・リス)を描いたもの。スタリモスト橋の1本南側にある“Stari Pazar”という橋も下部はアーチ構造。橋を渡りネレトヴァ川原におりスタリモスト橋を見上げる。この帰りに踏み石から滑り左足首を捻ったのであったが、翌日はやや痛みがあったが、持ってきたバンテリン液を塗りそのうちに痛みもなくなったのであった。 町の若者たちにとっては、橋からネレトヴァ川に飛び込むのが伝統になっていると。しかし、川は非常に冷たく、かなり危険な芸当。この慣例は橋の建造当初からあったらしいが、記録によって裏付けられるのは、1664年以降のことであるとのこと。1968年には公式な飛び込み大会が開催され、以降毎年夏に行われているのだと。さらに最近では観光客からお金を貰って飛び込む若者も出ているのだと。この日も手摺りを乗り越えた男が・・・、しかし飛び込むことはなかったのであった。石橋クリヴァツプリヤ(Kriva Cuprija)。ネレトヴァ川に西側から流れこむRadobolja川に架かっていた石橋。スタリモスト橋に非常によく似ており,小型ながら殆ど相似形。スタリモスト橋建設に先駆けてプロトタイプとして建設されたと云う説があるのだと。しかし建設年は1566年というからスタリモスト橋と同じ年。工法を含めて少しだけ先行させるパイロットプラントいやパイロットブリッジか?小川の両側にはこれも歴史を感じられた石積みの家屋。 この日のモスタル現地ガイドのナイスガイが見送ってくれた。 屋根の修復を行っている大工さん。隣の家の壁(左下隅)には多くの弾痕が。
2016.05.15
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この旅行、6日目の朝。我が部屋のベランダから、アドリア海の波がホテルの下の断崖に打ち付けていた。 そしてこの日の朝も、旅友と二人でチャフタットの朝景色を楽しみに出かける。厚い雲の下にチャフタットの旧市街が湾の向こうに。真ん中には聖ニコラス教会(Saint Nicholas Church)が。 現代のチャフタットは著名な観光地として多くのホテルやプライベートホーム、貸しアパートや貸し部屋が立地する他、海沿いにはレストランやショップが林立。フェリーによって近隣のムリニやドゥブロヴニクとも結ばれているとのこと。 ホテルに戻ると別のツアーのバスが出発直前。このバスのユーティリティーが表示されていた。WIFI、USB充電、トイレも使用できるバスのようです。 我々のツアーバスはドブロヴニクに来た道と同じアドリア海沿岸の道路を北に向かって引き返す。雨が降り出したが、ドブロヴニク新港には巨大な豪華クルーズ船が停泊していた。船にはP&O cruises の文字が。調べてみると船首の形、色模様からOceana号か?。こんな巨大な船に乗って来られたんじゃ、ドブロヴニクも混雑すること間違いなし。ドブロヴニク新港のドブロヴニク大橋を渡る 正式な橋の名前は Dr. Franja Tuđmana橋。設計者の名前であると。下は川ではなく湾が川の如く入り込んでいるのであった。再び2日前に見た Neumの街の聖イワン教会。再びネレトヴァ川デルタの耕作地の田園風景 8号線からネレトヴァ川枝流を渡る。 クロアチアからボスニアヘルツェゴビナの国境を通過。大混雑で通過に30分近くかかったのであった。 クロアチアのパトカーを発見。 8号線を北上し、ネトレヴァ川枝川を渡る。 ポチテリ(Počitelj )の要塞(Šišman Ibrahim-pašina džamija)モスタルの手前30km位のところにある小さな村で、紛争時、村は激しい爆撃で破壊されたとのことだが、今はかなり修復されていると。Šišmanイブラヒムパシャのモスクが要塞の下に 。これまでスロベニア,クロアチア,それとモンテネグロでもキリスト教会は数多く眺めてきたが,イスラムのモスクはあまり見かけなかった。それがヘルツェゴビナ(ボスニアヘルツェゴビナの南側の地方)に入るとミナレットに丸いドームのモスクを車窓からときどき見かけるようになった。イスラムの国に入ったんだな~と実感したのであった。Žitomislići修道院。 モスタルに近づくに連れ車窓にはワイン用のブドウ畑が拡がり始めた。 モスタルの街に入る。背後にはユニークな形状の石灰岩の山が聳える。 再びネトレヴァ川が右手車窓に。 モスタルの町の中を日の丸をつけた黄色いバスが走っていた。復興支援で送られたもので30台ほどが市内の路線バスとして運航していると。日の丸の下には「From the People of Japan」と書かれていた。聖ペーター教会 町の駐車場そばに建つこの教会、16世紀の半ばにカトリック系の教会として建てられたとのことだ紛争により破壊され、2000年に再建されたもので、鐘楼の高さは100m以上あると。大きな駐車場にバスを停め下車。モスタル観光を開始したのであった。
2016.05.14
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チケット確認場所(城壁観光入口)を通過し、城壁巡りのスタート。思った以上に急勾配の階段と石畳。 正面にゲートが。昔はここで警護の兵が見張っていたのであろうか。見下ろすと旅友が集団でチケット確認場所からスタートするところ。少しずつコトル湾が姿を現して来た。 そして先ほどバスで通った対岸の道の上の山々がはっきり見えて来た。 城壁上から眺めた街並みと手前に聖ニコラ教会そしてその奥にコトル湾とそれを囲む急峻な石灰岩の山の斜面。白き建物とオレンジ色の屋根が水面に映っていた。三角形の頂点に向けて糸杉が一本黒い影の如くに。 さらに城壁を登る。この近くから糸杉が増えてきた。 そして下から15分強でコトルの街を見渡せる絶景ポイントに到着。想像以上に急でくねくねと長い道のりだったが。コトル湾の最奥。 コトルの街の中心の三角形。 鏡の如きコトル湾。この日は豪華客船の姿はなかった。そしてコトル湾の入口方向。 そして展望台の反対側にあるのは、小さな教会。コトル旧市街を守る背後の山の急斜面に1518年に築かれた城壁上の救世処女教会。石造りの教会の内部を見たかったが・・・・・。 モンテネグロという国名は、「黒い山」を意味するイタリア語のヴェネチア方言が由来。国土の約60%が標高1000メートル以上の山地で、最も高い山は2522メートル、コトル湾に面して聳え立つ崖の高さが1300メートルにも達する場所もあると。旅人も全員到着を確認後、一休みして街に向かって引き返す。時間があればもっと上まで行きたかったが・・・・・。登って来たジグザグの階段が下に見えた。 階段とスロープを選択できる配慮か。 糸杉は手入れなしにこのような鋭角の樹形になるのであろうか。 下山して街に降り、皆で、カフェでアイスクリームを楽しみ要塞登りの体を休める。 そしてコトル観光を終え、海の門を出て、広場の噴水を眺めながらバスに戻る。 そして来た道を戻らずにコトルの新市街を走る。 珍しく比較的長いトンネルを通過する。暫くすると左手に飛行場が姿を現した。ティヴァト(Tivat)空港でティヴァトに所在する国際空港。この空港はモンテネグロで最大であり、国内に二つある公共の空港の一つであると。折しも飛行機が着陸。 ティヴァトの聖Crkva教会。そして帰路はLepetaniという街からフェリーにてショートカット。添乗員がチケットを購入に。時間は既に18:13。 このフェリーには大型バスのスペースはなく10分ほど次のフェリーの到着を待つ。 フェリーと言ってもコトル湾の一番短いところを通るので、乗っている時間はたかだか10分くらい。 疲れが貯まってきたのか、我がバスのドライバーもバスを降り船縁で潮風を浴びて黄昏れていた。向こう岸につきそうになると、そろって車に乗ってエンジンをふかして待つ。船が着岸したら、我先にと利用車が一挙に走り出すのであった。 そしてモンテネグロ国境の手前のショップでトイレ休憩。我々はビールを買い込みバスに持ち込み喉を潤す。山の斜面には雲が切れ夕日が。20時前には夕暮れが迫ってきたのであった。 そして定刻にホテルに到着。この日はOPツアーであったが世界遺産のモンテネグロのコトルを観光したのであった。湾の最奥にあり隠れ街の如きコトル、中世都市が最も良い状態で保存され、中世の匂いが漂う石畳の街。そして周囲を海と険しい山々と城壁に囲まれ港街。しかし海に面しているとは思えない、連山に囲まれた湖のようなアドリア海の湾。自然と街並みのコラボが美しい景観を作り出していて、これは、一見の価値ありであった。OPツアーに参加し、この街を訪ねたことに大満足であったのでした。そして世界遺産に登録されているのも納得したのであった。モンテネグロ・コトルはもっとゆっくりとノンビリと再び訪ねてみたい世界遺産の街であった。そして漸くこの日の長い一日が終わったのであった。
2016.05.13
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コトルは前方を海、背後に急な崖に囲まれた要塞都市。堅固な城壁に囲まれた旧市街は12~14世紀に形成され、中世の町並みを今に伝えている。コトル湾の奥深い入り江に位置し、1979年に世界遺産に登録。 シュクルダ川に架かる橋を渡りながら、城壁に入り込んだ海水の透明度に驚く。うねうねと曲がる城壁が石灰岩の山の裾野に延び山の頂上まで。 この山々も天然の要塞そのもの。この城壁は総延長4.5kmで、標高は最大260mまで達し、壁の最大高さは20m、厚みは2~16mあるとガイドから。広場を歩いていくとチケット売り場に。 旧市街に入るのは他に2ヶ所(川の門・北門、グルディッチ門)の入口があり、一番大きな門であるこの西門から入城した。「海の門」とも呼ばれ、海からの訪問者の正面入り口。このルネッサンス様式の門は 1,555年に造られたと。 門の上にはモンテネグロの横長の赤い国旗が掲げられていた。モンテネグロの国旗は、2004年7月に制定。1993年に制定された国章が中央に配置されていた。国章は、中央が聖マルコのライオン、その外側が双頭の鷲。アーチの上には、星印と再建された1944年11月21日、「21ーXIー1944」の日付が、さらにその上には、旧ユーゴことユーゴスラヴィア社会主義共和国連邦の紋章が刻まれていた。☆はユーゴスラビアのチトーの星か?さらに下部にはコトルの街の守り神『ベニスのマスク』が。コトルの街の配置図。コトルの街はこんなふうに三角形の形。長い辺でも250~300mくらいなので、広くはない。 城壁の一部となっている右壁には、ベネチア共和国の紋章である双翼の獅子像が刻まれていた。ベネチア共和国が統治していたいくつかのアドリア海岸諸都市の入り口には、大抵これがある。それぞれは、まったく同じではなく、似たような形をしているが、若干異なっている。この双翼の獅子を、それぞれ見比べてみるのも、面白いかもしれない。海の門を入ると広場、武器の広場(Square of Arms)に出た。正面には街の時計塔が。コトルのシンボルとなっている建物。ルネサンス式の4層構造となっており、1602年、ナポレオンの統治下に建立されたもの。この時期は、ベネチア統治期にあたり、塔の入口上部に、当時の州知事アントニオ・グリマルディ(AntonioGrimaldi)の名前が彫られている。塔は4層のそれぞれの階を外側からコーニスと呼ばれる蛇腹(装飾用の突出部)が区切っており、最上階には展望台が備え付けられている。実はこの時計塔、建立当初は時計が付けられていなかったとのこと。地震によって若干全体が西側に傾いているとのことだが言われてみないと気が付かなかった。1602年といえば日本では1600年の関ケ原の合戦から1603年の江戸幕府開府の頃。ドブロヴニクの時計塔とは異なり周囲の建物とほぼ同じ高さのずんぐり型。昔はこの広場で罪人が市民の前にさらされたり、処刑が公開して行われたと。現在、時計塔の前にあるピラミッド型の石柱は、その名残りで罪人のさらし台だと。ちょっと恐ろしい話。 臙脂色に統一された案内板がそれぞれの建物に掲げてあった。.入場口周辺の広場。Armory Squareというから、閲兵広場といったらいいだろうか。オープンカフェのある左の建物が旧総督邸。そして右側の緑のよろい窓は、旧市庁舎(Old Town Hall,1904)。この建物は建設当初(1762)から20世紀初頭に至るまで、軍用の食物貯蔵を目的として使用されてきた。しかし、フランス統治時代の一時期、劇場としても用いられた。そのため、コトルの人々はこの建物をフランス劇場、あるいはナポレオン劇場などと呼んでいる。ドブロヴニクと同じ狭い路地がこの街にも。 ピマ宮殿。1667年の大地震のあとに建設されたルネッサンス・バロック様式の建築物、正面のアーチ形の門やその上のバルコニー等に時代の特徴を感じさせている。 内部も当時の貴族の生活様式が伝わる間取りなど,大変ユニークだそうで,建築史的に価値が高いと。この日の現地ガイドの女性。現地ガイドへのワークシェアリングも、ここコトル観光でも徹底していた。 聖トリフォン大聖堂。806年創建、1166年に再建されたロマネスク様式のコトルで最も古い教会。街の守護聖人トリフォンが祭られている。2つの鐘楼があり,左には再建年の「1166」が,右には今年、再建後850周年記念?の「2016」の石のプレートが嵌めこまれていた。非対称は地震後の復旧予算の関係か。聖トリフォン大聖堂の、入り口上部に金のトリフォンの像が飾られていた。 内部を覗くと、煉瓦造りでピンクがかった広々とした身廊が続き、正面に15世紀の主祭壇が。そして主祭壇には多くのレリーフが。天井には所々にフレスコ画も残っていた。海洋博物館の建物の入口付近には大砲や錨が並んでいた。街中にあった公共の井戸。旧市街唯一の公共の井戸として使われ続けていたとのこと。聖ニコラス教会。 聖ルカ広場北側にかってのドミニコ会修道院跡地に建つ。 上部に正教会の八端十字架が立っていた。八端十字架(はったんじゅうじか、Eight-pointed Cross)は、ロシア正教会・ウクライナ正教会で頻繁に用いられ、ブルガリア正教会、セルビア正教会などのスラヴ系正教会でよく用いられる十字・十字架。「八端十字架」の名称は8箇所の先端部分が存在することに由来。ファサードの上には聖ニコラス(Sint Nicolas)のモザイク像が輝いていた。ところで聖ニコラスは日本語のサンタクロースと同一人物らしい。『聖ニコラス教会』の祭壇光景。数多くのイコンが壁一面に飾られていた。 聖ルカ教会。中央にドームがある小さな教会、1195年にカトリック教会として建設され、1657年にセルビア聖教会となったと。 「聖ルカ」と言えば日本でも例えば「聖路加病院」とか「ルカ伝」など名前だけは聞いたことがあるが、ここから来ていると知ったのであった。 聖ルカ教会の鐘。 ファサード最上部をズーム。大小3つの鐘が架かっていた。上部の石積、そして鐘は酸化して黒ずみ歴史を感じさせた。聖マリア教会。コトル最古とされる6世紀の教会跡に建てられた。入り口ドアのレリーフには聖オザナの生涯が綴られていた。 しかし街中はやたらと狭い道が多く中世の世界を感じることができたのであった。要塞・城壁の上り口。ここから上り坂になっていた。情緒ある石畳の路地を歩くと中世に生きているような不思議な思いが再び。
2016.05.12
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ドブロヴニクでの昼食、生牡蠣を楽しんだ後は、このツアー唯一のOPツアーの世界遺産・モンテネグロ・コトル(Kotor)への観光に15名の参加でバスで向かう。ドブロブニクからコトルへの道はひたすらバルカン半島のアドリア海沿岸を南下するルート。(下の写真の赤線のルートをドブロヴニクからコトルまで)コトルはアドリア海沿岸でも中世の古い町並みが良く保存されたユネスコの世界遺産。1166年に建てられた聖トリプン大聖堂、セルビア正教会の聖ルカ教会はロマネスク様式の建物で内部には多くのイコン(聖画)が飾ってある。そのほかには海洋博物館や中央広場の大時計(1602年)など多くの見所があり、総延長4.5kmの長さをほこる古代の城壁が市街地の上にそびえる街。バスで南下し始めると再び車窓にドブロヴニクの街並みが。 ドブロヴニクとアドリア海。小さな島はGreben島。 眼下にアドリアティックブルーの海が。 Cavtat手前のホテル アルバトロス(Remisens Hotel Albatros)が写真左。 そして暫く走るとクロアチア出口国境を通過。 そして次にモンテンネグロ入国国境を通過。 国境入口検閲棟の横で麻薬探知犬ならぬ探知猫?が見張っていた。 国境を越えて、しばらくすると右手に頑丈そうで見応えのありそうな要塞が見えた。ヘルツェグ・ノビ(Herceg Novi)のカンリ・クラ要塞(Kanli Kula Fortress)。カンリ・クラ要塞は、アドリア海からボカ・コトルスカ湾への入口という戦略上重要な地を占める16世紀に建てられた要塞で、刑務所などとしても利用されたと。尚、カンリ・クラとはトルコ語で「血の塔(Bloody Tower)」を意味する。 現在、カンリ・クラ要塞は野外劇場として利用され、数多くの音楽祭や演劇祭などが行われると。 ティヴァト湾とĐenovićiの街並み。 ティヴァト湾と遠くに白き客船が2隻。ティヴァト湾、リサン湾、コトル湾は時にはヨーロッパ最南部のフィヨルドとも呼ばれ、実際、オリエン山の標高の高い台地から流れるボケリ川が、海に浸食されて、川渓谷となっていてモンテネグロの重要な観光地となっている。ティヴァト湾の周囲には急峻な山々が。まるで以前訪ねたスウェーデンのフィヨルドに迷い込んだが如し。入り組んだコトルへの道をショートカットするフェリー乗り場があったが往路は利用せず。 ティヴァト湾からリサン湾、コトル湾に繋がる海峡の一番狭い場所を通過。 前方の山は新緑が溢れ水面にその姿を映していた。そしてその水面を白きヨットがのんびりと。これぞ絵になる風景。 入り組んだ湾とコトルへの道。そして帰路の道はフェリーでショートカット。リサン湾の中に小さな島が二つ。ひとつは修道院が建つスベティ・ジョルジェ(Sveti Dorde)と呼ばる島。この島は一般の人は上陸禁止になっていると。聖母マリア島(Gospa od Skrpjela)。15世紀頃、ある漁師がこの場所にあった小さな岩礁に聖母マリアのイコンが流れ着いているのを見つけ、その岩礁を聖なる土地として十字架を立てたのが始まりなのだとか。その後、町の 人々が岩礁の周りに岩などを沈めて少しずつ埋め立てて、現在のような島の姿となったと。島へは船で渡ることができ、絵画で埋め尽くされた内部を見学することができると。対岸のペラスト(Perast)の街と聖アントニー教会(St.Anthony's Church)。鏡の如き水面が続く。眠る暇もなく車窓のコトル湾の絶景が次々と姿を現す。そして山の中腹に城壁が姿を現す。長いドライブの後にコトルの街に近づいた事を確認したのであった。山の上まで続く城壁がまるで蛇が山をはうようにうねっていた。そして中腹には歴史を感じさせる石の教会が。その後ろには斜め左上に一直線に城壁が走っていた。そしてバスを降り、世界遺産のコトル観光をスタートしたのであった。
2016.05.11
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コトルへのOPツアー参加車は昼食までに1時間の自由時間があったため城壁巡りに旅友と。城壁への入り口は、旧市街内に3箇所あるが、ピレ門の脇、聖イヴァン要塞、聖ルカ要塞。城壁は全長1940mあり、高さは25mに達すると。遊歩道は約1時間ほど歩いて、周囲をぐるっと回ることが出来るのであった。入場料は100knのつもりでいたが、何故か値上がりした模様で120knでチケットを購入し聖ルカ要塞から遊歩道へ。正面に14世紀創建のドミニコ会修道院の尖塔が。 旧港にはプレジャーボートが停泊中。先ほどミニクルージングしたアドリア海の水面も静かそして透き通って海底の岩の姿が解る光景。 城壁上の遊歩道を登り、北東隅の塔から北東にどっしりし構えたレヴェリン要塞が。レヴェリン要塞は、1539年から建造をはじめ16世紀中頃に完成し、これをもって現在見る全要塞の完成がほぼ終わったのだと。 スルジ山へのロープウェイ。 天気が良くても強風が吹くと運行停止によくなると添乗員から聞く。昼間よりスルジ山からの夜のドブロヴニク旧市街は見てみたかったが・・・・。堅固な城壁が旧市街を取り囲んでいることが理解できた光景。 北側の城壁を西に向かって進む。ミンチェタ要塞からのアドリア海と城壁。 北側の城壁は一段と高くなっていた。これから行くミンチェタ要塞が遠くに。 こちらは、山側で特に防御が大事だが、まさに万全の構え。いつまでも眺めていたい光景。 赤い屋根が密集した旧市街は、これぞテレビなどでよく見るドブロヴニク。 真ん中に大聖堂、右に聖ヴラボ教会、左に時計塔。 ミニクルージングしたロクルム島の全景と手前に旧港と聖イヴァン要塞。 中国の万里の長城を小さくした如し。屋根が城壁に食い込んでいるが如し。 閉鎖された空間。地面には緑が。フランシスコ会教会の一部か。 散策してきた城壁の遊歩道を振り返る。ロヴリイェナツ要塞(Tvrđava Lovrijenac)が遠くに。 海に向かってだんだんと下っていく城壁。 ロヴリイェナツ要塞。海面から37mの岩山に立ち、海と陸の両方から街の治安を守っていたと。 ミンチェタ要塞。 城壁の下には学校?と変形バスケットコートが。この日は日曜日に為か、生徒の姿はなし。ミンチェタ要塞からロヴリイェナツ要塞を望む。直線の城壁を見ると、壁の厚さがよく判るのであった。ロヴリイェナツ要塞はまさしく断崖の上に建つ要塞。 ミンチェタ要塞下からアドリア海方面に延びる城壁、そしてアドリア海とロクルム島。 ミンチェタ要塞を振り返る。 ミンチェタ要塞の頂上でクロアチア国旗がはためいていた。 菜園もきれいに管理されていた。我が菜園はいかに?と頭をよぎる。屋根の瓦で歴史が解る光景。 同じ赤色の屋根でも色合いは違っていたのだ。紛争の影響で屋根が破壊された家々の屋根の赤と壊れなかった家々の屋根の赤が混在していたのであった。中央下にピレ門と緑の空堀その奥にロヴリイェナツ要塞。集合時間の関係で城壁の1周巡りは諦め、この先のピレ門出口(入口)で城壁を降り集合場所に再び向かったのであった。 そして軽めの昼食はビール片手にシーフードピザ。 希望者で、全てのガイドブックに載っている有名な「カメニツェ」に行き生牡蠣にTRY。この付近のアドリア海産のヨーロッパヒラガキという種類の牡蠣とのことでロープにぶら下げる垂下式と言う養殖方法で育てていると。皆で1個ずつ食べてみたが大きさも小さく、クリーミーさがあまりなかった。やはり牡蠣は岡山、佐賀、宮城、北海道・・・・に限るのであった。これでは海のミルクとも言われる牡蠣にはほど遠いと感じたのは私だけ?まあ、旅の想いでと話の種に、良し としようと。タコサラダもTRYしたかったが時間切れ。普段は決して生牡蠣は食べない我が旅友も、その場の雰囲気に負けてか?果敢に生牡蠣に挑戦したのであった。
2016.05.10
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ドブロヴニク旧市街の見学を終え、トイレ休憩の後はここ旧港からロクルム島(Lokrum)を1周するクルージングに出発。このミニクルージングは旅行会社としてのドブロヴニクツアーでの初めての試みと添乗員からの説明が。しかし集合時間になっても1名の女性が集合時間に来ないのであった。添乗員、現地ガイドが探しに行ったが、漸く10分後にその女性を現地ガイドが発見。さすがに現地ガイドは長い経験により日本人の行動パターンを熟知しているのであった。女性は自由時間と勘違いしたと。あんなに添乗員がクルージングの為の集合時間、場所を説明していたのであったが。ご本人はケロッとしていたが、見つかった事に安堵し涙を流すツアー仲間の女性の姿も。しかしながらやれやれ・・・・・・。 クルージングの貸し切り船がこれ。船の名前も『LOKRUM』船の両側に座席があり、向かい合って座る電車の座席の如き配列。船は予定より約15分遅れで出発。先ほど見学した、聖ヴラホ教会のドームが中央に聳え立つ。港を出発して港の出口にある聖イヴァン要塞のそばを通って海に出た。右にフランシスコ修道院の尖塔と後ろ左にミンチェタ要塞が確認できた。 赤く塗られた灯台が やけに目立った。自然な地形を利用した要塞の様子が、よく理解できた。この城壁は岩の上に。 断崖の上に建つロヴリイェナツ要塞を海から。 そして船の左側にはロクルム島(Lokrum)が視界に。ロクルム島はドブロヴニクの沖合約600mのアドリア海に浮かぶ島で、島の最高地点は海抜96m。オーストリア大公マクシミリアンは島にかつて別荘を所有していたと。修道院や植物園はマクシミリアンの時代から残っており、島の最高地点はフランスにより要塞が築かれているが後にオーストリアの人々はこれをマクシミリアンの塔と名付けている。左に見える塔らしき物がマクシミリアンの塔か?ベネディクト会修道院跡もこの山の中にあるとのこと。 実はこの島は、半分がナチュラリストの島とのこと。ナチュラリスト?とは、あまり聞きなれない言葉だが、実はヌーディストと添乗員から。船は、そのヌーディスト達が日光浴をしたり、泳いだりしたりしているエリアにドンドン近付いていったが、ひたすら目を凝らすも未だその姿はなかったのであった。 真夏になればこの岩場で多くの観光客が日光浴をしているのであろう。岩の上のその姿を想像しながら岩場の風景を楽しむ。 島の先端を廻り暫くすると、小さな港がありそこにはピンクの瀟洒な建物が。 大きな洞窟も見えた。 ビルジ山とその下の緩やかな斜面には街並みが拡がっていた。 そして麓の街の最先端がドブロヴニク旧市街。 再び断崖に建つドブロヴニク旧市街の城壁。 船長と船員もリラックス。でも常に前を向いていて欲しいのであった。 そのうち船の前方にイルカがいると船長から。残念ながら私はその姿を見ることができなかったが。右手にホテル グランド ベルベデーレが。 そして再びドブロヴニク旧市街。正面にフランシスコ修道院の尖塔と後ろにミンチェタ要塞が確認できた。 エメラルドグリーンのドームはイスラム教会ではなくDalmatia結婚式場と添乗員から。そして1時間のミニクルージングを楽しみ、旧港へ戻る。 ツアー仲間に数名の船酔いの女性も出たが幸い重症とはならずに。港には真っ赤な潜水艦の如き船も。船底がガラス張りになってて、海の上も下も見られるのだと船長から。船長がにこやかに見送ってくれた。これぞ一期一会。 波止場には猫がのんびりと日向ぼっこ中。動物写真家・岩合光昭氏のモデルにもなった猫なのであろうか?そして今回のミニクルージングのポスターを発見。 我々のミニクルージングのコースもほぼこれに同じ。
2016.05.09
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ヨーロッパの中世の都市は、どこもそうだが、網の目のように延びる路地が多く残っている。ドブロヴニクも同様で、プラツァ通りから路地が網の目のように延びていた。こういった路地を歩いて廻るのもタイムスリップした如くで楽しいもの。石畳も歴史が感じられ、角が丸みを帯び黒光りしていた。 スポンザ宮殿の高さ31mある時計塔。スポンザ宮殿はプラツァ通りの突き当たりにあるルジャ広場の左側に1516年にゴシックとルネサンスの複合様式で建てられた。この宮殿は貿易として栄えたドブロヴニクの物資等の保管場所として、税関・保税倉庫として使われていたと。1667年に発生した大地震でも倒壊しなかった数少ない建物。現在は古文書館として使用されていると。時計塔のユニークな文字盤。1444年に建てられたと。9時20分に近いことは理解できたが、この文字盤いや表示板からは20分が理解できなかった。こちらの時計表示は9:20であることはもちろん理解できた。市庁舎と時計塔の間には小型の鐘がいくつか。フランシスコ会修道院の尖塔を振り返る。 この街もメインストリートから脇に入った小道が魅力的。どの小道に入っても階段や個性ある店舗やレストランが。全ての路地をゆっくりと歩きたかったが時間が足りない。 ルジャ広場に面して建つ街の守護聖人・聖ヴラホを祀る聖ヴラホ教会。聖ヴラホは、地震で破壊される前のドブロヴニク旧市街の模型を手にしている。そのため、昔のドブロヴニクの姿を知る、貴重な文化資料としての価値もあるのだと。聖ヴラホの象はピレ門の上にもあったり、とよく見るといろんなところに飾ってあったのだ 教会のファサードの上にも守護聖人聖ヴラホの像が立っていた。 右に聖ヴラホ教会、そして左にスポンザ宮殿の時計塔。 時計塔の上部二は大きな鐘が。時計塔は600年近く前に建てられたもので今でも現役で、鐘のそばでブロンズ製の鐘つき人が鐘をつくのだと。スポンザ宮殿の一部。港近くに建てられた宮殿と名の付くこの建物はドブロヴニクが扱う貿易商品の管理を司る官庁いわば税関だったが17世紀以後はその役割が減って文化人サロンとなったらしい。16世紀にスポンザ公邸として建てられた、5連アーチの地中海風の建築物は、中身は驚くような立派さではないが、17世紀の大地震で倒壊を免れたこと、当館でドブロヴニクの歴史的な諸文書記録を保持できたことが、今のドブロヴニク再建の大きな資産となった点で意義ある建物なのであると。ルジャ広場の中心にあるのが右のこのローラント像、後ろに再び聖ヴラホ教会。この像は1418年に作製されたと、今から600年前、まだ美しく残っているのは驚き。このローラント像が剣を持っている右腕に注目。彼の手のひらから肘までは「ドブロヴニクの肘」と呼ばれていて51.2cmあり、当時の商売取引の基準として使われていたとのこと。例えば織物などをこの肘にあてて長さを計って確かめたりしたのだと。 ルジャ広場の片隅にオノフリオの小噴水が。ピレ門の近くにあるオノフリオの大噴水と同時期に造られたと。 小噴水から旧総督邸に向かう途中にマリン・ドルジッチの座像が。マリン・ドルジッチは、16世紀、ドブロブニクで活躍した文筆家で、ルネッサンス期最大の喜劇作家であり、フランスのモリエールと並び称されていると。 総督の邸宅。 総督邸は、15世紀の初めに当時の有名な建築家オノフリオ・デッラ・ツァッヴによって建設された。当初ゴシック様式の邸であったが、30年後火薬の爆発により被害を受け、ルネッサンス様式の補修がおこなわれた。さらに1667年の大地震の修復により、建物にバロックの装飾が加えられたと。なんと総督の任期は1ヶ月。その間この建物から公務以外では外には出られなかったと。理由は独裁や汚職を防ぐためだったと。毎週末、湯河原の温泉?に公費で通っていた何処かの知事に聞かせたい話だったのであった。入口の柱には精細なレリーフが施されていて、ひとつひとつ違う意匠になっていた。グンドゥリチェフ広場(青空市場)に建っていた詩人イワン・グンドリッチ像(ドブロヴニク出身)。 ドブロヴニク大聖堂のドーム。 プラッツァ通りの1本奥にあるプリェコ通りに聖ニコラ教会と上部に鐘が。右が旧総督邸そして正面にスルジ山。 ルジャ広場からさらに南に下り、広場自体の本当のどん詰まりにくると、ひときわ異彩を放つ大聖堂が見えて来た。ここが大聖堂だと思うのは、天井に丸いクーポラ(ドーム)が見えたから。この教会の正式な名前は「聖母被昇天大聖堂(Katedrala Uznesenja Marijna)」。1192年に創建され、17世紀にバロック様式で再建。有名なティツィアーノ作の『聖母被昇天』や宝物殿は必見。内部に足早に。イタリアの画家ティツィアーノが16世紀に描いた「聖母被昇天」。
2016.05.08
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8時にドブロヴニクへ向けてホテルを出発。昨日は雨のため見ることができなかったアドリア海沿岸の街並みを楽しむ。アドリア海に面したPlat地区付近の街並み。 そしてドブロブニク展望所でバスを降り写真撮影タイム。城壁に囲まれ赤い屋根の密集した部分がドブロヴニク旧市街。年間1千万人もの観光客が訪れるというヨーロッパ屈指の観光地は,四方が500mくらいの頑丈そうな城壁に囲まれ、アドリア海の紺碧を背景に白壁とオレンジ色の屋根が連なる。その街並みは「アドリア海の真珠」(pearl of the Adriatic)と呼ばれているのです。英国の作家バーナード・ショーは「ドゥブロヴニクを見ずして天国を語るなかれ」と讃えたとか。旧港には多くのプレジャーボートやヨットが停泊。 海側は断崖の上に城壁がそそり立ち、澄んだアドリア海に囲まれていた。 ドブロブニクの旧市街は立派な城壁にすっぽりと囲まれている。その長さは1940mと。 背後にそびえるスルジ山。再びバスに戻りドブロヴニク旧市街に向かう。旧港の全体の姿が見えた。 後ほどこの旧港からクルージングするのだ。ドブロヴニク旧市街のピレ門前↓でバスを降りる。 ドブロヴニク旧市街案内図。バスを降りると小広場には、男の足が獣の足の如く、下半身が毛で覆われていて何とも不思議な像。ギリシア神話のケンタウロス(半人半馬の怪物)の像?か。 ピレ門。バスの客はここから入城することになる。旧市街への入口となるこの門は西側に位置しており陸、海等からの攻撃に耐えられるよう強固な造りとなっており、14~16世紀にゴシック様式で建造された門る門の手前下の空堀も、なかなか大規模。 ピレ門の上には守護聖人聖ヴラホ像(Sveti Vlaho)。この聖ヴラホは、街の模型を手に乗せた像。316年に殉教した司教で、10世紀ごろから街の守護聖人として親しまれて来たと。ピレ門前の空堀に架かる橋は、跳ね橋になっていた。 当時は日没になるとこの門を閉じていたとのこと。西側を向けば、空堀と旧市街の最奥のボカール要塞(Tvrđava Bokar)が見えた。ボカール要塞は、ピレ門を守る役目を果たしたと。ドブロブニクの旧市街の西側に位置するロヴリイェナツ要塞(Tvrđava Lovrijenac)の光景。ボカール要塞と向かい合う、城壁外にある要塞ピレ門を潜る。 城壁がとても分厚く巨大で圧巻のスケール。最も分厚いところで城壁の厚さが5mもあると。門の裏側には跳ね橋を開閉する鎖と錘がぶら下がっていた。 ドブロヴニク説明のこの日の現地ガイドから説明を受ける。 ガイドによると街の起こりはローマ帝国以前からとも言われており、イタリア語でラグーサと呼ばれるこの街は中世の時代「ラグーサ共和国」として海洋貿易で栄え街を守るため堅固な城塞都市が築かれた。街は1806年ナポレオンが率いる軍隊に包囲され、ロシア・モンテネグロ艦隊の3,000発の砲撃によって共和国は陥落フランスの支配下に、更に1814年オーストリア=ハンガリー帝国によって支配されハプスブルク領ダルマチア王国となり、この支配は世界大戦まで続いた。第一次大戦後にセルブ・クロアート・スロヴェーン国が発足したときに街の名前がラグーサから現在のドゥブロヴニクに変更され、第二次世界大戦後ユーゴスラビアの一都市となったが1991年の6月にユーゴスラビアからクロアチア独立。街の旧市街は「ドゥブロヴニク旧市街」として1979年にユネスコの世界文化遺産に登録されたが、1991年の10月1日にユーゴスラビア人民軍(JNA)が攻撃を開始し、その後ドゥブロヴニク包囲が7ヶ月間続いたことにより大きな被害を受けたものの、現在では一部でその傷跡が残るものの見事に修復が行われ大勢の観光客でにぎわっているのだと。1438年に造られたオノフリオの大噴水はこの時には補修工事中であった。オノフリオはナポリ出身の建築家。ピレ門を入ってすぐの広場にある壁面に16のレリーフがあるこの噴水、市民のために15世紀にナポリの建築士オノフリオに依頼して造ったもので、ここから10キロメートル以上離れたスルジ山の源泉から送水していたと。ガイドの説明によると、この時代に下水道も造っていたと。中世から貿易港として発展した都市だけに、多数の外国人が出入りした。大きな問題は他国から未知の疫病を持ちこまれること。その防止策としても公衆衛生の意識が早くから発達していた証拠でもあると。また、伝染病対策として、流行地域からの船は1ヶ月間沖合に足止めするという制度を作ってもいたと。 噴水の絵が描かれたダミーの工事用フェンスの隙間から本物を撮影。こんなレリーフが16面あるとのこと。不気味な顔の悪魔(?)の口から蛇口が出ており,ここから貴重な生活用水が供給され,今もなお美味しい水として定評があり多くの観光客が飲んでいると。プラッツア通り(ストラドゥン通り)。 9時前の為か未だ人出はすくなかった。ピレ門の入り口から中心部ルジャ広場まで約300m続くドブロブニクの目抜き通り。通りの両側にはカフェや銀行、土産屋などが軒を並べていた。この場所は、最初は水路であったが、埋め立てて通りとしたのだと。狭い路地が網の目のように延びていて、地元の生活音が耳に届き、はるかな昔にタイムスリップした如し。 オノフリオ大噴水と向かいあってあるのが、救世主教会、別名 聖スパサ教会。ピレ門とフランシスコ会修道院の間に建っている救世主教会は、1667 年の大地震でも倒壊せずに残った数少ない建物の1つ。小さく控えめな建物はルネサンス様式の建築として有名で、この地域のほかの教会の設計に影響を与えたと言われていると。この建物の特徴は美しい装飾がなされた丸い窓。そのクラシカルな窓の下には、ラテン語で命が救われたことに対する感謝の念が書かれていると。さらに下には小さな天使の顔が彫られていた。その東隣には高い塔のあるフランシスコ会修道院が。ロマネスク様式の修道院で1337年に建造が始まり、15世紀になって完成。1667年には大地震で崩壊し、再建。回廊はダルマチア地方を代表する建造物で、フランシスコ会修道院の尖塔は後期ロマネスク様式。ここクロアチアは、人口430万人の9割弱がローマカソリック教徒とのこと。狭い路地を入ったところが修道院の入口。 入口とのことでしたが裏口のような狭い路地を入っていく。 さらに進むとフランシスコ会修道院の入り口に。 後期ロマネスク様式の回廊は、ダルマチア地方を代表する建築と。回廊の柱には当時の生活や土地柄を示す多くの装飾が施されていた。 内部には1391年創業というヨーロッパで3番目に古い『マラ・ブラーチャ薬局』が現在も営業中と。当時は修道士達が中庭で薬草を栽培し、薬を調合していたと。貿易都市として人の出入りの激しいここドブロヴニクでは、街の衛生と市民の健康管理が何よりも優先課題として徹底していたのだと。しかしこの日は日曜日で残念ながら閉店中。
2016.05.07
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この日の朝も、いつものように5時に起床し朝シャンに向かう。真っ白で清潔感のある洗面所。 シャワー室もガラス扉で囲まれており、シャワー水の飛散もなく水回りの処理も十分されていた。 アドリア海側には広いベランダ、そしてテーブル、チェアーが2台。 ベランダからのアドリア海。目の前に見えるMrcan島。しかし早朝のためかアドリア海を航行する船の姿はほとんどなし。 ベランダ直下。断崖にこのホテルが建っているのが理解できたのであった。そして二人でホテル周辺の散策開始。ホテル玄関。『HOTEL CROATIA』 の文字が。玄関前のタンポポの綿毛の如き噴水。 噴水の裏から。 ホテルの正面全景。 前庭は植栽と松が植えられていた。 チャフタット(CAVTAT)の美しい旧市街の街並み。中央に聖ニコル教会(Saint Nicholas Church)が。丸屋根が若干イスラム風か。 チャフタット(CAVTAT)はクロアチア、ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡にある町で、ドゥブロヴニクの南15kmのアドリア海沿岸に位置しコナヴレ基礎自治体の中心。チャフタットの旧市街は半島の付け根の街。アドリア海側に出てホテルの遊歩道を散策。晴れていればエメラルドグリーンすなわちアドリアティックブルーの海を楽しむことができたのであろうが。beach barのSirocco。さすが★★★★★のDLX HOTEL。屋外海水プールそして室内には屋内プールも。 9階までの客室と4階と5階の間がRECEPTION HALLでその下4階にレストランが。 サンテラスとリラックスエリア。 大ホール。 会議室&リラックスルーム。 ネット室。 そしてトイレも大理石に囲まれて。
2016.05.06
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プリトヴィッツェ湖群国立公園観光、そして昼食をすませ翌日の観光地ドブロヴニクに近いチャフタットのホテルに向けてバスにて470kmの長距離移動が始まった。プリトヴィツェの南、Korenicaから1号線そして522号線、E71を利用しE65の合流地点を目指す。秋吉台の如きカルスト地形が車窓に拡がる。 高原地帯をひたすら走る。 Gornja Ploča料金所。 パクレニッツァ国立公園の白き山々が車窓を駆け抜けていく。アドリア海が遠くに見えて来た。 アドリア海が深く陸地に入ってきていた。 天気が良ければエメラルドグリーンのアドリア海であったが。 E71はE65と合流。するとノヴィグラスコ海とアドリア海をつなぐ唯一の海峡を通過。 遠くにアドリア海の細長き島々。ちなみに、クロアチアのアドリア海海岸には面積1平方キロ以上の島が合計78、それ以下の小島が524、面積100メートル四方以下を岩礁に区分して、その岩礁が642、合計1244個もの島々があるのだと。シベニク手前のレストランでトイレ休憩。レストランの排水処理設備は回転円盤式生物処理。41年間の仕事柄、このような装置に今でも関心が。 ドブロヴニクまであと255kmの表示が。 E65号線(European route E65)は欧州自動車道路のAクラス幹線道路。スウェーデンのマルメから、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、再びクロアチア、モンテネグロ、セルビア、コソボ、マケドニアを経由してギリシャのハニアまでを繋いでいる道路。白き石灰岩の地肌が見える山々がますます増えてきた。 石灰岩の岩肌の渓谷。 左側の車窓には風力発電が立ち並ぶ。白い雲が筋状に棚引く。 バルカン半島を南に走っているのであるが、地図では半島には見えないのであった。以前訪ねたトルコ・イスタンブールのボスポラス海峡は北は黒海、南はマルマラ海で、マルマラ海とエーゲ海を繋ぐダーダネルス海峡とあわせて黒海と地中海を結んでいるのである。理由は黒海がなかなか海に見えないからだと理解したのであった。ネレトヴァ川を渡る。ネレトヴァ川はボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアを流れるディナル・アルプスの大規模なカルスト河川で東側部分はアドリア盆地に含まれ、アドリア河川流域に属する。総延長は230kmで、そのうち208kmはボスニア・ヘルツェゴビナ領内を流れ残りの22kmはクロアチアのドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡を流れる大河。雨が酷くなってきた。Pizinovac村の田園風景。ネレトヴァ川デルタの耕作地に放射状に水路の田園風景が拡がっていた。 アドリア海沿岸道路に出て Dubokaの街並み。 クロアチアからボスニアヘルツェゴビナの国境が見えて来た。これより7kmだけ隣国のボスニア・ヘルツェゴビナ。海との出入り口がたった幅7kmしかない国なので、その海岸は、さぞ物々しい警備でもされているのかと思ったが、クロアチアの海岸線同様、真新しいホテルの林立するリゾート地でもあった。この海へ向かって7kmの間の通貨はユーロ。 再びクロアチアに入りNeumの街に。 Neumの街の聖イワン教会(Crkva svetog Ivana) 強い雨の中、レストラン・スーパーでトイレ休憩。ここでも各種蜂蜜が販売されていたが安い!! ドブロヴニクの新港近くを通過するが雨が酷く窓の水滴が邪魔してなかなか外の風景に焦点が合わない。雨の中ドブロヴニクの街並みが右下に見えたがあっという間に見えなくなってしまった。明日の楽しみに取っておこうと・・・。そしてホテルに19:30に到着。470kmを2回休憩で7時間の大移動なのであった。ホテルはチャフタット(ツァヴタット CAVTAT)にあるクロアチア ホテル(Hotel Croatia)。旅行会社でDLXランクとうたっているだけあって快適な大型リゾートホテル。広いロビーは4階と5階の間にあり、今回はラッキーなことに海側の上層階。写真はロビーに掲げられていたものを撮影。まるで豪華客船の如き白の建物が断崖の上に建っているのであった。このホテルで2連泊してドブロヴニク、コトル観光が翌日の予定。フロントもDLXランク。 我々の部屋。 夕食はバイキングスタイル。 食べ散らかした後で撮影でした。 久しぶり?の本格的な肉、魚類を腹一杯楽しむ。仕上げにデザートも。
2016.05.05
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さらに上湖群に向かって歩を進める。カヴァノヴァツ湖上流部。 遊歩道の『トレイル』 は岩からの片持ちの構造。水面から30cm程度。水量が多くなり水面が上昇するとこの遊歩道も閉鎖されるのであろうか。年月を重ねるにつれてこの水の落差が大きくなっていくのであろうか。 公園に寄付をしたクロアチア出身のソプラノ歌手、ミルカトルニナの記念碑。 彼女は1897年のザグレブ公演の収益をすべてプリトヴィッツェの保護のために寄付したのだと。ミルカトルニナの愛した滝。 高さ6m前後。ミラノヴァツ湖からカヴァノヴァツ湖へ、階段のように段々と流れ落ちる様子が美しい。ミルカ・トルニナ滝(MILKE TRNINE SLAP ) 9月下旬~10月上旬になると、周囲のブナやカエデが鮮やかに色づくそうで、機会があれば秋の景色も見てみたいもの。 マイナスイオンも肌に感じられたのであった。 キラキラ輝く景色、ずっと眺めていたい。 白の混沌の世界。 ミラノヴァッツ湖。標高524m、広さ3ha、深さ18m。湖面は静かに鏡の如し。 湖面を覗き込む枝の姿も映していた。 オレンジ色の浮きはこの湖の最深部を示していると。ミラノヴァッチュキ滝。 ゴズイヤク湖からミラノヴァッツ湖への流れ。 この辺は奥入瀬渓流を思い起こす風景。コズイヤク湖畔に到着。出発直後の横断船が見えて来た。 この湖で泳いでいる魚や野鳥を見てるだけでも飽きずに楽しい。 30分ほど船待ちの自由時間の後、コズイヤク湖を横断船でスタート。プリトヴィツェ湖群の中で最も大きい湖はこのコズイヤク湖(Jezero Kozjak)。クロアチア語で「山羊の湖」という意味を持つとのこと。船はゆっくりとのんびりと進む。船からコズイヤク湖に直接落ち込む滝の姿。 こちらにも規模の大きい滝が湖に。 そして船でノンビリと湖の景色を眺めながらP1港で下船。 湖畔の高級ホテル。 湖畔を巡るエコロジーバス。 以前訪ねた中国・九寨溝の規模と景観そしてエメラルドグリーンの湖面の輝きまでには至らなかったが、天然の水の芸術を堪能した後は、バスにて昼食レストランに立ち寄る。 サラダ。 大量のマッシュポテトとビールが美味しかった。
2016.05.04
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朝食前に宿泊ホテルに前からホテルの全景を撮影。国道1号線沿いにあるこのHotel Macolaは、有名なプリトヴィツェ湖群国立公園から南東へ車で約20分、わずか10kmのコレニツァの町に位置するホテル。 フロントはこぢんまりとしていました。 ロビーにはポーズをつけた多くの各種剥製が。 ホテル前の道路を、プリトヴィッツェ湖群国立公園の姿をラッピングした大型バスが通過。 バスにてプリトヴィッツェ湖群国立公園の駐車場に到着。徒歩にて木製の歩道橋を渡り入口へ。 この日の入口は一番オーソドックスな入口1(Ulaz1)。 この日の現地ガイド。今回の旅行は、ほとんどが英語でのガイドを添乗員が通訳するシステム。 現地ガイドの女性からプリトヴィッツェ湖群国立公園の概要とこの日の観光コースの説明を受ける。裏側では韓国人グループが同様に。プリトヴィツェ湖群国立公園は、ボスニア・ヘルツェゴビナ国境に近いプリトヴィツェ湖群市(Plitvice Lakes municipality)に位置する。大小16の湖と92の滝がエメラルドグリーンの幻想的な景観を作り出しており、1979年にユネスコの世界遺産に登録。プリトヴィツェ湖群は一般にディナル・アルプス山脈と呼ばれる山地に点在するカルスト地形の1つで16の湖は、山間から流れ出てくる水が標高636mから503mまで、およそ8kmにわたって南北方向に流れる中で形成されており、上流の湖群と下流の湖群がある。チケットをもらい、入口1から下湖にくだり、上湖方面に向わずに湖に沿って遊歩道を下っていくと、小さな広場に出ました。ここから公園内最大の滝、落差92mのヴェリキ・スラップが見えて来た。 周囲の緑の空間もたっぷりしているので、多くのツアー仲間が記念撮影を。 大小さまざまな姿で流れ落ちる滝でつながれたそれぞれの湖が、緑の渓谷の間で階段上に美しい水をたたえている様子は、自然そのものの姿であるにもかかわらず、超自然的な力をも感じさせる景観。滝の向こう側の木道上を一輪車で砕石を運ぶ作業員の姿も。 1979年には世界遺産に登録されたが、1991年のクロアチア紛争における、クロアチア・セルビア間の最初の武力衝突である「プリトヴィツェ湖群事件」の舞台となり、1995年にクロアチア軍が奪還するまで、一時的にクライナ・セルビア人共和国軍隊によって占領されていたと。この間に、湖群一帯は損害を被り、「危機遺産」リストに載せられることとなったが、その後、銃撃を受けた建物の修復、クロアチア政府による地雷撤去が進んだとして、5年後にリストから外されたのだと。 プリトヴィッツェ湖群国立公園の観光ガイドに載っている光景が目の前に。なだらかな滝と滝の間に遊歩道が架けられていた。 しかしこの遊歩道を歩いている観光客の姿はなし。 遊歩道の上流にはガヴァノヴァツ湖、下流側はカルジェロヴァッツ湖。 上から見ると、この遊歩道は大きな木材で遮られ入場不可となっている事が解ったのであった。水量が多く木道が濡れている為か、手摺りが設置されていないための共に安全上の配慮かは解らなかったが。 シュプリャラ洞窟の案内板。 『WARNING! ENTER AT YOUR OWN RISK』の文字が。洞窟を下る極めて石段が出来ており、洞内に入ることが出来るのだ。私たちもガイドに導かれて石段を下りて行く。足元は濡れており、滑りやすい。階段を一歩一歩踏みしめるように、足元を確かめながら下に。100段以上の階段がジグザグに続いていた。漸く視界が開け、水面、水音が近く感じられ場所に。案内板の『自己責任で!』 の表記が理解できたのであった。水音が激しく辺りに響き、澄んだ水で木道の脇の水底まで覗けるほどだ。見ると小魚が群れている。いまいち快晴の空ではなかったが、日差しが出てきたようで、明るくなった山肌が水面に反射して眩いほどだ。 右側の遊歩道は通行止め。園内の最大の滝の下に行くためにはこの通行止めの遊歩道を歩いていくのであったが・・・。グループの男性からはブーイングの声も。 遊歩道は『トレイル』と呼ぶとガイドから。ネットやテレビの番組で見るとこのトレイルを観光客が数珠繋ぎになって歩く姿があったが、この日は季節も4月そして時間帯も早いせいかすれ違うこともあまりなく絶景を撮影するには最適な時期。 このトレイルは比較的新しく、補修が済んだばかりか。遊歩道の下30~50cm下に白き激しき流れが。 豊かな森、エメラルドグリーンに輝く湖から無数の白き滝が織り成す幻想的な景色……。空を見上げ『もっと光を!!』と叫んだのであった。湖群は、苔・藻などが光合成を繰り返す中で蓄積された「トラバーチン(石灰質科学沈殿岩)」によって形成されている。さらに、地質に含まれるドロマイトや石灰岩の色合い風合いの影響も加わり、湖はさまざまな色に変化するのだと。
2016.05.03
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ザグレブの市内観光を終え、バスでこの日の宿のプリトヴィッツェ地方自治体まで140kmの移動開始。前方にイエズス会の修道院聖堂が。 おもむろにゆで卵を食べ始めた旅友。 ザグレブの街と別れを告げ郊外へとバスは進む。 サヴァ川を渡る。スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアの各国を流れ、セルビアの首都ベオグラードでドナウ川に合流する大河。 アウトバーンA1の車窓には菜の花畑が。何故か菜の花畑が気になる私であった。 アウトバーンを降り、一般道1号線でプリトヴィッツェ方面に向かう。 スルンチツェ(Slunjčica)川とコラナ(Korana)川の合流点にある小さな村、ラストケ(Rastoke)村を通過。おとぎ話の世界に迷い込んだような素朴な風景。コラナ川がいくつかの滝となり目を楽しませてくれた。滝の上に散在する小さな村の住居。 道路はここで大きく右にカーブ。 添乗員が撮影ポイントと言ったがやや・・・・・・ズーム不足。 この村に宿泊し、ゆっくり早朝散策したかった場所なのであった。そして再び高原地帯をバスは進む。 今宵のホテルの看板を発見。 正面が★★★ホテル マコラ(Hotel Macola) 大きな熊の剥製が迎えてくれました。 部屋はやや狭し。 翌日観光するプリトヴィッツェ湖群国立公園の案内図。 そしてこの日の夕飯。サラダ。 ビール。 メインディッシュ。 何か忘れました。
2016.05.02
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丘を下り聖母被昇天大聖堂前の「カプトル広場」に到着。高い柱の先に黄金のマリア様を掲げたモニュメントが。 この日は大変天気に恵まれ、青い空が広がり、大聖堂の前の噴水に並んでいる、黄金のマリア様と3人の天使がまた、なんとも神々しく美しく見えたのであった。 大聖堂の前に歩を進める。先ずは104mと105m(なぜか1m違う)あるという高い尖塔。残念ながらこの時は右側の塔が修復中で、ダミーのカバーが掛かっていた。修復を完了し、ダミーカバーのない期間はいつ来るのであろうか? 左側の尖塔は修復が完了したのであろうか? 大地震の後再建されたこの建物は、ネオゴチック建築と。ゴシック・リヴァイヴァル建築とも呼ばれ、18世紀後半から19世紀にかけて興ったゴシック建築の復興運動。イギリスを発祥とし、18世紀後半にはフランス、ドイツに、その後イタリア、ロシア、アメリカに広がったのだと。大聖堂の入り口のファザードの彫刻はすごいの一言。 中央の像は、キリスト像。右手に持った本に『A』と『Ω』の文字が。これはヨハネの黙示録22章13節の『わたしはアルファでありオメガである。(最初の者にして最後の者)』を意味し、キリストを指すと。 中央のキリストの左右には、キリストの弟子ではなく、この地の為政者らしい二人の像であると。青銅製の正門の扉のすぐ上に飾られた白いレリーフ像。やや白さが周囲と違うのであった。周りの石像部分とは石室が違い、制作年代も違うのであろう。しかしその上部の彫刻は精巧・繊細そのもの。 1880年11月9日ここザグレブで地震が起きたのだと。その時にこの大聖堂もダメージをうけ、市内の時計も止まってしまったそうで、この時計も7時3分3秒で止まったまま。 自然の恐ろしさを忘れない為にそのままにしているのであろう。熊本地震のその後の状況はどうなっているのだろうかと頭によぎったのであった。左側のものが修復完了すると右側のようになるようです。 荘厳な大聖堂内部に入る。ルネッサンス様式、バロック様式など、混在した内部のようですが、よくわからず・・・。 ステンドグラス、祭壇、高い天井など、とにかくすごいの一語。 ステンドグラスの美しさは感動そのもの。中央に描かれた昇天したマリア(聖母)に、左側のキリストが冠を授ける構図であると。いつまでもたたずんでいたい空間。ズームで写真をとりまくりました。そして慌ててグループを追いかけたのでした。 主祭壇には第二次大戦当時大司教だったというステピナッツ氏の棺(実際の遺体は地下に収められているそうだ)があった。大聖堂には正面の主祭壇の他に,側面には幾つもの祭壇があり,蝋燭の明かりを灯しお祈りする多くの人の姿が見られた。 観音開きに造られた3枚セットの祭壇画の一つ。 この絵画もそうであるが,聖母被昇天大聖堂だけあってマリア様が主題の絵画や祭壇が多いようだった。これは大聖堂の名前にも使われている、聖母被昇天を描いた絵画であると。三面祭壇画の「ゴルゴダ」やグラゴール文字を伝えたキュリロスとメトディウスの祭壇もありました。 内部から立ち去りがたかったが、やむなく外に出るとザグレブの街並みを表したミニュチュアジオラマがここにも。 イェラチッチ総督広場に向かい振り返る。 イェラチッチ総督広場(Trg bana Josipa Jelacica)。 イェラチッチ総督はオーストリア・ハンガリー帝国時代のクロアチアの軍人で政治家で、現在のクロアチアで国民的な英雄。ザグレブの繁華街中央にある広場で共和国広場とも呼ばれるそうだ。旧ユーゴスラビア時代には騎馬像は撤去され,「共和国広場」と呼ばれていたが,1991年のクロアチア独立後,騎馬像とイェラチッチ総督広場の名称が復活。様々な色の新旧トラムが行き交う活気のある広場。 騎馬像の周りには多くの観光客が。 像を背にして左手にはツーリストインフォメーションが、後ろにはドラク(Dolac:青果市場)や大聖堂が、そして多くの店やレストラン、観光ポイントに行く為にこの広場は何度か通ることになるのです。 堂々としたイェラチッチ総督騎馬像が刀を振り上げた雄々しい姿で。 泉では子ども達が戯れていた。 そして自由時間には土産物屋を廻り、旅友のSさんと記念にクロアチアの国旗をイメージしたキャップ帽子を購入したのであった。
2016.05.01
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昼食を終え、徒歩にて市内観光を開始。イリツァ通りをイェラチッチ広場方面に向かい左折すると目の前にケーブルカーの姿が。世界一短いと言われるザグレブのケーブルカー「ウスピニャチャ(Uspinjaca)」はザグレブのお年寄りのために1890年に作られ、移動距離は66mと。乗車時間は30秒ほどとのこと。乗るのかと思っていたら我々はその横の階段をひたすら登る事に。片道4クローネ(Kn)、60円程度とのこと。ケーブルカーの終点、ゴルニー・グラードの丘駅のそばにそびえ立つこの建物は、13世紀に建てられた見張り塔でロトルシチャック塔(Kula Lotrščak)。毎日正午に打ち鳴らされる大砲(空砲)の音は驚くほど大きく、ザグレブの名物になっていると。窓から大砲の砲口が覗いていた。ザグレブの街の眺めを楽しむ。10Knでロトルシチャック塔にも登れるとのことであったが。さらに狭い路地を進むと路地の左手に、屋根が印象的な建物が見えて来た。赤、白、青のタイル模様が美しい建築物。正面奥の建物は、『聖カタリーナ教会』。ザグレブで一番美しいバロック様式の教会がカタリーナ広場に。聖マルコ教会(Crkva sv. Marka)。クロアチアの首都・ザグレブにあるカトリック教会で、旧市街のグラデツ(Gradec)の中心にある。もともとロマネスク様式で建てられ、14世紀には礼拝堂とアーチがゴシック様式で建設され、19世紀末にヘルマン・ボレ(en:Hermann Bollé)によりネオ・ゴシック式に改築されたのだと。屋根に有名な美しいカラータイルが。正面左側にはクロアチア・スラヴォニア・ダルマチア王国(Triune Kingdom of Croatia, Slavonia and Dalmatia)の紋章右側はザグレブの紋章。教会のファサード。何故か最上部右側の像の頭がなかったが。この日のザグレブ現地ガイドの女性。聖マルコ教会の裏側の屋根は紋章はなくモザイクのみ。聖マルコ教会の右手には国会議事堂が。そして左側には首相官邸が。国会議事堂と共に外見は思いのほか簡素。さらに進むと石の門が。何百年にも渡りザグレブ市民の暮らしを見守り続けてきた「石の門」。現在の姿は18世紀に造られたもの。門は中世の時代にすでに存在していたという記録が残されていると。1731年の大火で城壁と東門(現在の石の門)周辺が焼け落ちた際、焼け跡には,そこに掲げられていたキリストを抱く聖母マリアの絵(イコン)が無傷の状態で見つかったと。これはカトリックでしばしば見られる「奇跡」に相当するそうで,現在その絵は鉄格子で守られた小さな祠に掲げられていた。この絵は鉄格子で守られており覗きにくいためか,新たに立体像が傍らに据えられていた。そして両者は,お祈りに現れた人の捧げた花や灯明に囲まれていた。そしてロウソクや花を捧げて祈る人々が絶える事なく。キリストを抱くマリア像の像。見晴台からの聖母被昇天大聖堂(Zagrebačka katedrala)。丘の上に建ったザグレブのシンボル「聖母被昇天大聖堂」。聖母マリアが人生を終える時、天国へ肉体と霊魂を伴って昇ったという信仰に基づいて建築された、高さ100メートルを超える大聖堂。10年以上前にこの地を仕事で訪れたが、その時も同じ場所の補修工事が行われていた事を想い出したのであった。展望台の後方には巨大なクジラが飛んでる絵を発見。中心がピンクのマロニエの花が美しかった。
2016.04.30
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リュブリャーナ市内観光を終え、バスにて高速A2アウトバーンを利用してザグレブに向かう。 のんびりとした、そして新緑にあふれた車窓風景を楽しむ。グループの女性陣のうち何人かは爆睡中。 料金所を通過。この料金所は国境をまたがって長距離の移動をすることが多い観光バス等重量貨物車を対象に、インフラ利用に関する負担の公正の観点から、道路使用料金を支払う仕組みになっている模様。 ザグレブ(Zagreb)まで49kmの表示。車窓には黄金の景色が現れる。 菜の花畑が一面に拡がる。 再び高速料金所。 そしてクロアチア国境ゲート。 クロアチアは2013年に欧州連合に加盟しているが、ヨーロッパの国家間において国境検査なしで国境を越えることを許可するシェンゲン協定に入っていないため国境検査を受けなければならないのである。 バスを降り、パスポートを提示し入国許可の印をパスポートに押してもらい再びバスに戻ったのであった。そこにはクロアチア国旗がはためいていた。 再びザグレブに向かいバスは進む。クロアチアの有名スーパー『KONZUM』 の案内板。バスは順調にザグレブ市内に入ってきた。道路にはトラム(路面電車)が頻繁に通過していた。 街路樹のマロニエの花咲くザグレブの街。 ピンクのマロニエの花も所々に。マロニエの和名は西洋栃の木 (セイヨウトチノキ)。マロニエの名はフランス語名の Marronnier からきている。パリでも街路樹として植えられ、「マロニエの並木道」が有名。 クロアチア国立劇場前を通過。 イェラチッチ広場に近いイリツァ通りの路面電車(トラム)の線路横に停車しバスを降りろと。大胆なドライバーの決断。我々に、レストランまでの歩かせる距離を少なくするために親切心から街中心場所まで入ってきてくれたのであった。 慌てて添乗員が交通整理。なんと路面電車(トラム)の運転手は我々全員が下車するまでトラムを停車させ待っていてくれたのであった。そして私の目の前を通過する時に、私が感謝の手を振ると振り返してくれたのであった。 おかげでそのまま昼食用のレストランに入れたのであった。昼食はまずスープ。 黒ビールを注文。 そしてこの日は、ザグレブ風カツレツ(Zagrebacki odrezak)。。薄い肉でチーズやハムを巻きカリッと揚げたカツレツとのことであったが食べたのはハムカツ?
2016.04.29
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この日は8:45にホテルを出発しリュブリャーナ市内観光へ。実は昨夕の自由散策、この日の早朝散歩でほぼ既に見た場所なのではあるが。バスでホテルを出発し、あっという間に龍の橋を渡り直ぐにバスを下車。前日撮影した龍の姿。龍の橋 (Zmajski most)はリュブリャーナがオーストリア=ハンガリー帝国の一部であった1900年 - 1901年に造られたと。街のシンボルである龍が橋の四隅に配置されていた。その昔、ある探検隊が伝説の龍と戦い、打ち勝った場所とされているとのこと。こちらもスロベニア人彫刻家ヤコヴ・ブルダルの作品。慟哭の表情は理解できたが。三本橋(Tromostovje、トロモストウイエ)。Wikipediaによると『三本橋は、リュブリャニツァ川に架かっている橋であり、スロベニアの首都リュブリャナのシンボルの1つである。リュブリャナ中心地に位置。1280年からこの位置に木製の橋が架けられていた。そして1657年の火災の後、再建。この橋は、1842年にイタリア人の建築家ジョバンニ・ピッコによって設計された新しい橋に取り替えられた。ジョバンニ・ピッコが設計した石のアーチ橋は中央部に設けられている。そして、1929年にスロベニア人の建築家ヨジェ・プレチュニック(1872 - 1957)が歩行者専用の橋を両側に付け加える設計をした。この設計では中央と両側、計3本の橋があるので三本橋と呼ばれるようになった。この仕事は1932年に完成された。』この日の現地ガイドの女性。 三本橋とフランシスコ会教会(ピンク色の建物)。広場の中心地には、非常に有名なスロベニア人の詩人フランツェ・プレシェーレンと彼のムーサ・ユリヤの銅像が建っていた。ムーサと言えば、ギリシア神話の女神。音楽や文学を司る神。その女神がプレシェーレンに何かを彼の頭の上に掲げているが何を持っているのであろうか?そしてプレシェーレン像の下にも。彼の詩の一場面を表しているのか?リュブリャーナという名前の由来には諸説あるが、一番有名なのがスロヴェニア語のljubljena(最愛の)から来ているというもの。スロヴェニアは英語表記でSloveniaであり、世界で唯一国名にloveが含まれている国で、首都の名前が最愛のという意味なのだとのネット情報。静かな流れのリュブリャニツァ川。リュブリャーナ大聖堂とリュブリャーナ城、 白壁を背景に咲く藤の花とその影も美しかった。 リュブリャーナ城へのケーブルカーも動き始めていた。 丘の上のリュブリャーナ城の塔にひるがえるリュブリャーナ城旗。リュブリャナ大聖堂の2本の尖塔。バロック様式の建物で1996年,ローマ教皇も訪れたという場所。大聖堂の入り口の扉。威厳と歴史を感じたのであったが。これ実は1996年のローマ法王来訪時の時に作られたものとのこと。しかし1250年間におよぶスロベニアのキリスト教の歴史を表していると。ドアは全面青さびがふいており、その中で、人の手が触るドアノブだけがピカピカとてかり、異様に輝いているのがとても印象的。遠足か?小学生の団体の姿も。 聖堂内部。 ステンドグラスも美しかった。 リュブリャーナ大聖堂の裏門。 市庁舎前の泉。尖塔の下部は白の大理石の彫刻で飾られていた。市庁舎。 内部を見学。 建物の壁面いっぱいに浮き彫りにされたリュブリャナの市街地図が。ナルシストの語源となった美少年ナルキッソスの像。ナルキッソスについては次のような神話があるのだと。ゼウスと親しくしていたエコーという妖精(美しい少女の姿)がいた。エコーは、森で見かけ自分を無視した美少年(ナルキッソス)を復讐の女神に懲らしめるよう頼んだ。ナルキッソスは、水に映る自らの姿に恋するように神から罰を与えられたが、決して報われることのない恋にやつれ、森の湖のそばで力尽きて死んでしまい、可憐な白い水仙(ナルシス)の花と化した。このことから自らを美しいと見とれてしまう状態をナルシズムというのだと。新市街に建つリュブリャーナ大學。 三位一体聖堂正面。 再びプレシェーレノフ広場に戻る。 ピンクのフランシスコ会教会の屋根の上に置かれた像。 自由時間に市庁舎前に行くと先ほどの小学生が歌を歌いながら小劇を披露中。 子どもの姿は心和ませてくれるのであった。 市場にはガラス細工も販売されていた。 市内観光を終え、朝市を見学しながらバスに向かって。
2016.04.28
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線路の先に瀟洒な建物が。 ティヴォリ公園。公園内にあるプレチニクの設計した散歩道を歩いていくとティヴォリ城に辿り着く。近代美術館(Moderna Galerija / Museum of Modern Art)前の銅像。 何を表現しているのであろうか?手を挙げて前に進む人間の集団のようでもあるが。 アメリカ大使館前。警備の女性の許可をもらい撮影。 スロベニア外務省。 国立博物館分館(Narodni muzej Slovenije)。緑地公園に面したクリーム色の建物。1885年に建設された国立博物館。 国立博物館の緑地に立つ17世紀のスロベニアの啓蒙運動のリーダー、『VALVADOR』 の像。スロベニア国会議事堂(Parliament of Slovenia)。 エントランスの彫刻は見事の一言。 三位一体聖堂(Ursuline Church of The Holy)リュブリャニツァ川まで戻り川沿いを歩き再び3本橋まで戻る。 朝市を楽しむ。海外で朝市を覗くと、その国の人々がどの様なものを食べているのかが解り興味深いのである。日本より種類の多くの野菜・果物が並んでいた。大きな真っ赤なイチゴが売られていたので一箱購入。 各種履き物も朝市で売られていた。 朝市の建物の壁には南国を思わせる白黒の絵画が描かれていた。 そして約1時間半の早朝散歩を終え7:30過ぎにホテルに戻る。 そして朝食はバイキングスタイル。
2016.04.27
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この日も5時過ぎに早朝起床しシャワーを浴びる。そして6時前にリュブリャーナ市街への早朝散歩に。ホテルから10分かからずにリュブリャニツァ川に架かる龍の橋に到着。 龍はスロベニアの首都リュブリャーナのシンボルである。1895年のリュブリャーナ大地震によって崩落した肉屋の橋の代わりに、リュブリャーナ初の鉄筋コンクリートの橋として建設。1901年に開橋された当時、フランツ・ヨーゼフ1世の即位40周年(1848-1888)を祝賀する意味を込めて、祝賀橋(ドイツ語でJubiläumsbrücke)と命名されたが、4頭の竜の彫刻によって装飾されていることから、竜の橋と呼ばれるようになったと。そして山の上にはリュブリャーナ城が。橋の上や欄干には変わった彫刻が。何を表現しているのであろうか? こちらも不気味な顔のない彫刻。体に穴があいていたり、溶岩のようなものがまとわりついて・・・。さらに尻尾も。スロベニア人彫刻家ヤコヴ・ブルダル(Jakov Brdar)の作品と。 リュブリャニツァ川に架かる肉屋の橋。恋人たちが鍵をつけていると。恋が破れた時、女性は鍵を外すが、男は未練たらしく残すのだと。遠くに3本橋が見えた。スロベニア人彫刻家ヤコヴ・ブルダルの作品。 広場の朝市は準備中。 リュブリャーナ大聖堂の扉。素晴らしい教会の扉。中央の光っているノブと幾つかの丸い壺は慈悲の壺(水?)であると。 リュブリャーナ大聖堂外壁のピエタ像大聖堂南の外壁面のニッチ(彫像などを安置するための壁面に掘り込んだ空間)にゴシック様式のピエタ像が。15世紀の製作とのことであるが色彩豊か。ピエタ(イタリア語:Pietà、哀れみ・慈悲などの意)とは、聖母子像のうち、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリア(聖母マリア)の彫刻や絵の事。リュブリャーナ観光の中心地であるプレシェーレノフ広場から3分程のところにある旧市庁舎。クラシカルな建物の雰囲気が素敵です。前庭にはオベリスクが。1584年に建てられ、その後1717年から1719年にかけて後期バロック様式と古典様式を組み合わせた建物に改装された。破風の上に突き出るように造られた時計塔が。奥の双塔はリュブリャーナ大聖堂(聖ニコラス大聖堂)。プレシェーレノフ広場に面した、17世紀に建てられたフランシスコ会教会。周りのほかの建物が殆ど白色のなかピンク色なので目立つ建築物。正面外壁には『プロビデンスの目』が描かれたフランシスコ会教会。旧・新市街地を見下ろせる丘の上に建つリュブリャナ城。城の見張り塔には1848年頃から見張り番が住み込んでおり、火事の警告を知らせる役割など現在も担っていると。ウェディングホールやカフェ、リュブリャナの歴史について詳しく知ることができるミュージアムもあるとのこと。城へのリフトは9時から運転開始。ビルの谷間からの朝の陽光が。 リュブリャニツァ川の川面に朝焼けが映る。 リュブリャーナの街並みのミニチュア。 真ん中に3本橋、そして小高い山の上にリュブリャーナ城が。スロベニア銀行。オペラ座 (Opera in Balet (SNG Opera in balet Ljubljana))スロベニア国立美術館。プラヴォスラヴナ教会 (Pravoslavna cerkev)
2016.04.26
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「ブレッド城」は湖の北側に建っていました。バスで狭い坂道を上り約15分で、城の側にある駐車場に着いた。「ブレッド城」は、11世紀、ブリクソン司教によって造られた城で湖面から約100mの高さの断崖に建つ。城の最も古い部分は鐘楼で、ロマネスク様式で建てられており、他の部分はルネッサンス様式の建築。建物は2つの中庭を囲むように造られており、階段でつながっていた。2階には16世紀に造られた礼拝堂と邸宅があり、現在は博物館や、造幣所、レストランなどとして使われていた。城の展望台からは、ブレッド湖と周囲の山々を一望することが出来たのであった。駐車場でバスを降り登城すると、正面に城門が現れた。右上は登城道であると同時に、この登城道から登って来た敵を攻撃できるようになっていた。 跳ね橋を渡って急な坂道を上ると、城内への入り口へ。 城門は櫓門になっていた。 チケット売り場を通り城内へ入って行く道の両側は高くなっており、 正面には邸宅(現博物館)が現れた。この建物は博物館ショップであり、あまり城っぽくない建物。城の南面にはテラスがあり、1階部分はカフェテラスになっていた。時間さえ許せば、この場所で、湖をはじめとする絶景を楽しみながらゆっくりと時の流れを感じたいのであったが。 ここからはスロベニアそしてユリアンアルプスの最高峰、標高2,864mのトリグラフ山も見えた。(写真中央左)。トリグラフ山はスロベニア国旗に描かれている山。トリグラフは、スラブ語で3つの頭の意味。その名前のとおり、三連の山が印象的であった。添乗員によると、なかなか見えるチャンスは少なくラッキーであると。スロベニア国旗。旧ユーゴ時代は白、青、赤の三色旗に、中央に金で縁どった赤い星をおいた旧ユーゴ旗に似た図柄だったが、赤い星を取り除き、代わりに左肩に国章をはめ込んでいる。国章には、国内最高峰で3つの頂からなるトリグラフ山(2863m)をかたどったものに、アドリア沿岸部と河川を表す波形が描かれている。3つの星は、神聖ローマ帝国時代にこの地を治めたツェルイェ公領の紋章にちなんでいると。テラスからのブレッド湖の眺望。南西方向に見下ろすブレッド湖・聖母被昇天教会の建つ小島、その背後の山並みの景色は絶景。ブレッド湖のエメラルドグリーンの美しさ、周りの木々の新緑の美しさが余計に美しさを際立たせていた。先ほど船で行ったブレッド島と聖母被昇天教会。 アイアン細工のオブジェを売ってるショップ。 スロヴェニアの首都リュブリャナのトレードマークであるドラゴン像や白鳥、黒鳥が展示されていた。 城内にはワインセラーも。再び城の南面のテラスを上部より。 1階部分には井戸が残ってた。こんな岩山の上に井戸が掘られていたとは驚き、井土の深さは何m?。 「印刷工房」に入る。ここでは、グーテンベルク時代のような印刷を実演してくれていた。工房の2階には、この人物像の後ろにスロベニア初の印刷された本などが展示されていた。この人物の名前は忘れましたが。手すきの紙にブレッドの絵をプレス印刷し、それにシールする。なかなか面白い。ブレッド湖の湖畔の高台にある聖マルティヌス教会の姿も確認できた。 ドローンが城内を飛行していた。 ブレッド城の見学を終え、再びバスに乗りブレッド湖岸を散策。ブレッド市庁舎。秋篠宮ご夫妻がこの地を訪れた折り(2013.6.29)に植栽された桜の木であると。しばし湖畔からの絶景を楽しみながら自由時間を楽しむ。この「ブレッド湖」はボート競技には条件がいい場所で、何度か「世界ボート選手権」が開催されているのだと。 なるほど湖面には、コース用の浮きが幾筋も。土産物売り場のこの店にも各種蜂蜜が販売されていた。試食コーナーでしばし・・・・・。そして再びバスに乗り込み、この日の宿泊地のリュブリャーナへ向かう。湖畔には観光用の馬車の姿も。E61ターンバイク沿いの教会の赤い尖塔。料金所を通過。観光用バスは重量を確認している模様。この日のホテルは、ホテル パルク (Hotel Park Ljubljana)。旧市街の三本橋や龍の橋までは川をはさんで徒歩10分以内で行ける便利な場所。部屋も狭くはなくまあまあ。 チェックイン後、添乗員のNさんが希望者をリュブリアーナ新市街と旧市街の境にある人気スポットまでの散策に連れて行ってくれたのです。約1時間の散策を終えスーパーマーケットに立ち寄った後、ホテルに戻り夕食、そしてアルコールも入り爆睡したのであった。
2016.04.25
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満腹にならなかった昼食後は、再びバスにてブレッド湖畔に向かう。車窓から断崖絶壁の上のブレッド城がが姿を現した。湖畔でバスを降り船乗り場へ。ブレッド湖畔の案合板。 「ブレッド湖」はオーストリアとの国境に近い場所に。湖の遠くの方に見えているのがこのブレッド湖に浮かぶ小島「ブレッド島」。スロベニアは、アドリア海に面しているが海には「島」はなく、このブレッド島がスロベニアに唯一ある天然の島であると。この国では湖の中の島も島数に数えるらしい。日本では?湖畔から「プレトナ(pletana)」と呼ばれる小さな手こぎ船で渡るのであった。 このプレトナの船頭は、マリアテレジア(マリーアントワネット母)の時代からの世襲制で、ムリノ村出身の男性のみ漕ぎ手となることが出来るのだとガイドから。そしてモーターボートは環境保護のため禁止されていると。 二艘の手こぎ船でブレッド島を目指す。もう一つのグループが乗った船が先頭を進む。 中央の島の聖マリア 教会 は15世紀に建てられたと。 我が船の船頭。我々もライフジャケットの着用等は一切なし。 ブレッド城の後ろに見える山は、ヨーロッパ・アルプスの東南端「ユリアン・アルプス」 ブレッド島にに到着。 島への上陸前にブレッド島への現地ガイドが添乗員と打ち合わせ中。 シーズンには多くのカップルが、ひっきりなしにここで結婚式を挙げると。言い伝えによると、新郎が新婦を抱えて教会に通じる99段の階段を上りきったら、夫婦の願いが叶うのだと。失敗すれば、結婚式を挙げれない・・??ここで結婚式を挙げたい人たちは、男性は肉体作りに、女性はダイエットに励むのだと。ブレッド島にはかつてスラブ民族に伝わる愛の女神ジヴァの神殿があったことから、島にある聖マリア教会は愛の聖地となり、現在でも多くのカップルがここで結婚式を挙げていると。 聖マリア教会は聖母被昇天教会(Church of the Assumption of the Virgin)とも呼ばれていると。この教会の創建は8~9世紀頃で、今見る姿になったのは17世紀。ブレッド島と共にブレッド湖に影を落とす様子は、今でもスロベニアを代表する風景のひとつになっていると現地ガイドから。聖母被昇天教会の52mの塔。以前テレビのこの教会は冬場のブレッド湖が全面凍結した冬に石材を凍結湖面上を運搬し建設したと説明していたことを想い出したのであった。聖母被昇天とは、聖母マリアが人生の終わりに、天使たちと一緒に肉体と霊魂を天国に上がっていったという意味とのこと。 教会の入り口にはイエス様が。 ゴシック様式のメアリ女王の祭壇は補修工事中。 ゴシック様式のメアリ女王の祭壇。聖ドイツ皇帝 ヘンリー二世やその妻の像が。この教会は、明るく、あちこちに可愛らしい天使の姿も。教会の祭壇には「望みの鐘」と呼ばれる鐘がありました。鳴らすと願いがかなうと言われているのですが、もちろん私も鐘を鳴らす為に紐を引っ張ってみました。しかし、結構重かったのでした。聖母被昇天教会の52mの塔の木製階段を上る。階段の透かし彫りとこの透かしを通過する光の模様が美しかった。 塔頂からの ブレッド城とユリアン・アルプス。反対方向には、チトー元大統領別荘(現ホテル)も確認できた。丁度14時の鐘が二つ。鐘が鳴り出すと目の前の機械が動き出したのであった。 地上に降り、売店へ。多くの種類の蜂蜜が販売されていた。まるで巨大絵画の如し。 船着き場には鴨?が日向ぼっこ中。 帰路は別の船で。船のバランス上、座っている観光客の移動を指示。
2016.04.24
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旅行2日目、この旅行の最初の観光地のスロベニア・ブレッドへバスで向かう。ザルツブルグからブレッドまでは238km。A1アウトバーン入り口近くからの聖ANNA教会と工場の水蒸気白煙。この日は朝から快晴。A10アウトバーンをスロベニアぬ向かう。バスの車窓から白き山々の風景を楽しむ。山頂が平らな山も。 ザルツブルグから南へ50kmほど行ったところの人口3000人弱の町、Werfenの山の上に建つホーエンヴェルフェン城が車窓から。11世紀に建てられた中世のこの城は、映画「サウンド・オブ・ミュージック」にも登場していると。ホーホケーニヒ山周辺。 こちらは険しい頂の山が続いていた。 エベレストの如き形の山も。グロースグロックナー(Großglockner)であろうか?オーストリアにある山で、国内最高峰、標高は3,798メートル。ザルツブルク州、ケルンテン州、チロル州の東チロルにまたがる。この日は進行方向左の後方席に陣取る。青空に飛行機雲が。この旅行では多くの飛行機雲を見ることができたのであった。長いオーストリア→スロベニア国境に近くにあるKeravankeトンネルを通過すると聖Georgen教会が。 どの山も頂には雪が残っていた。 アイゼントラッテンのレストランでトイレ休憩。トイレは有料で、ここでは0.5ユーロ、コインを入れてゲートを通過し利用するのであった。オーストリア、アルプスの絶景ドライブ『グロースグロックナー山岳道路(Großglockner Hochalpenstraße)』案内板。 多くの土産物、チョコレートが並んでいた。 今回の我々のバス。スロベニア(SLO)ナンバーのかなり年季の入ったバス。今回訪問した国のナンバープレートの国識別文字は以下の通り。D:ドイツ (Deutschlandドイツ語 )A:オーストリア (Austria)SLO:スロベニア (Slovenia)HR:クロアチア (Hrvatska クロアチア語)MNE:モンテネグロ (Montenegro)BIH:ボスニア・ヘルツェゴビナ (Bosna I Hercegovina セルビア・クロアチア語)ランズクロン城(Burg Landskron)が山の上に。ケルンテン州の城で16世紀に14世紀の旧防塁の基礎壁の上に建築された城。A11アウトバーンのオーストリア出口国境を通過。 カラヴァンケン自動車トンネル通過の為の検査?で一時停止。 カラヴァンケン自動車トンネルを通過しスロベニア側入り口国境へ。 国境を無事通過しスロベニアに入国。 スロベニアに入りアウトバーンの名称もA1からE61に変わる。そしてアウトバーンを降りブレッド湖に向かう。 ブレッド湖畔近くのレストランでこの日の昼食。2階に案内される。屋根裏にはバイクが展示?保管?されていた。部屋のランプシェードは気に入った。鱒料理。味はこんなものでしょうか。 添乗員が日本からポン酢を持ってきてくれていました。そしてデザート。パンケーキ風のデザートが印象的。
2016.04.23
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長い時間の飛行機の疲れもなく、4時には2人とも早朝起床。 このホテルは、メッセツェントルム ザルツブルク エキシビション センターおよびザルツブルガリーナから徒歩 5 分の場所。3階建て、全 120 室の客室にはWiFi (無料)が装備。この日は9時の出発で時間があるため、早朝散歩を開始。 ホテル前の八重桜は満開。 陽光に山の岩肌が輝きだした。 白き山肌が時々刻々とオレンジの色を増していくのであった。 アウトバーン入り口料金所。 巨木には白い花が今が盛りと撓わに。 公園の中には卓球台が2台。ネットはアルミ製。屋外での卓球は風が邪魔をするのだが・・・。 ザルツァハ川(Salzach)に架かる巨大水門に出会う。この川はオーストリアとドイツを流れる河川。イン川の支流で、長さは225km。水源はザルツブルク州のKrimml近郊のキッツビュール・アルプス (Kitzbühler Alpen )。 白き山々を背景にゆったりと流れるザルツァハ川は絶景そのもの。オーストリアにいることを実感した時間であった。 水門を上流側から。日本にはない水門の形状。 陽光が増し川面に映る光景も時々刻々と変化。 水量は多いが静かに流れ、、川面も静かに鏡の如く風景を映していた。 空の青、建物の白、木々の花のピンク、土手の緑そして再び川面の青とBEST MIX。 いつまでも立ち止まっていたい時間と風景。岩山を背景に見える塔はミュルン寺。 遠く山の上にはザルツブルク旧市外の建築物が見えた。小川にも陽光が差し込み新緑が輝いていた。 自撮り。 そしてホテルに戻り朝食。再び青空を背景の八重桜。 このホテルは帰路の最終日の宿泊ホテル。ザルツブルク市内観光を楽しみ、再びこのホテルに宿泊するのであった。
2016.04.22
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ロシア南東部のシベリア連邦管区のブリヤート共和国とイルクーツク州・チタ州に挟まれた三日月型の湖であるバイカル湖の北方を目指して飛行。 ロシア・シベリア東部を流れるアルダン川の蛇行が美しかった。レナ川の右支流で、長さは2,273km。西シベリア平原の西北部に位置し、北極海の一部であるカラ海上空を目指す。 眼下には北極圏の白き風景が一面に。 一年のうち夏の2ヶ月以外は氷に閉ざされるカラ海を目指す。 白く凍結した高原か?カラ海に面したオビ湾上空。湾の一番奥にはオビ川の河口がある。湾の周囲はロシアのヤマロ・ネネツ自治管区で、湾の西はヤマル半島、東はギダン半島、タゾフスキー半島でタズ川が注ぐタゾフスカヤ湾が。 夕食を楽しむ。クリーミーアルフレドソース のラヴィオリ。ポーランドのブワディスワボボ上空。砂嘴(さし)の先に臨む海はバルト海。 そしてミュンヘンに近づく。 機窓からはカラフルな田園風景が拡がっていた。ミュンヘン近郊の街並み。 ミュンヘン空港を横に見て飛行機は旋回。 高速道路が眼下に。 そしてミュウヘン空港に到着。時間は現地時間17:20。 ドイツ全土に展開している3大スーパーの一つのEDEKAが空港ロビーに。無事出国手続きを完了し、待っていた大型バスにてこの日の宿オーストリアザルツブルクに向かう。ミュンヘン中央駅など市内中心部へ移動する鉄道(Sバーン)が横を走っていた。ガイドのバス内の説明で総勢33名のツアーであることを認識。夫婦7組、女性2人4組、男性単独6名、女性単独3名そして我々2人。 平均年齢65歳以上??。高速を利用しオーストリア・ザルツブルク(Salzburg)に向かう。 車窓から広大な菜の花畑が。 イルシェンベルク付近からの岩山。 白いのは雪ではなく石灰岩の岩肌。ドイツのアウトバーンには速度無制限区間といわれる区間と速度制限区間があるのです。大型トラックは80km/h、バスは条件にもよるが多くの場合100km/hが制限速度とのこと。このアウトバーンは片側3車線道路。もちろん車両は右側通行。 このアウトバーンの普通車の制限速度は120km/hであった。右に行くとインスブルック。インスブルックは1964年と1976年に冬期オリンピックを開催した都市。 教会の塔も夕日を浴びていた。 西の空がオレンジ色に。 そして日没間近。 ドイツ・バイエルン州のローゼンハイムとザルツブルクの間にある淡水湖キーム湖が左手に。キーム湖に沈む夕日。時間は19時前。 そして19:40前にホテルに到着。ホテルはアリーナ シティ ホテル ザルツブルグ( Arena City Hotel Salzburg)。フロントでチェックイン手続き中の添乗員。歴史に詳しく、良く勉強している気配りに長けた40代始めのベテラン添乗員。
2016.04.21
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【海外旅行 ブログリスト】👈リンクこの日4月20日から旅友のSさんとクロアチア、スロベニア6ヶ国周遊10日間の旅行に出発です。今回も10年間連続で旅友のSさんとでのツアー参加。出発地は羽田空港、以前の成田空港と比べて非常に便利なツアー。今年もトランクとリュックサックで参加。着替えは種類ごとに風呂敷に纏めセルフで詰め込みました。旅友のSさんが愛車のジューク(JUKE)で迎えに来てくれました。妻に見送られて8:30に出発。集合時間は羽田空港国際線旅客ターミナル3階の団体受付カウンターに10:35ですが早めに出発。戸塚から東海道を利用し横浜新道へ向かう。 首都高速湾岸線に車を進め羽田空港へ。前方に横浜ベイブリッジが見えて来た。 そして大黒ふ頭を通過し鶴見つばさ橋へ。 そしていつもの浮島町にある駐車場に約1時間で到着。ここで愛車は帰国までの10日間我々の帰国を待ってくれるのです。 係員が我々のトランクを送迎車に載せてくれました。 簡単な手続きを完了し、送迎車に乗り羽田空港国際線旅客ターミナルまで。 ターミナル3階には久月の特大鎧飾りが。そして多くの外国人が立ち止まりデジカメにて撮影していました。4F江戸舞台にも同様な装飾があり、早くも我々の帰国後のゴールデンウィークがやってきたような気分。団体カウンターに到着すると既に今回の旅行の添乗員が待ってくれており私の名前をいきなり呼んでくれました。やはり男2人での参加は珍しいのでしょうか?誰かが直ぐ解ったようです。近くにいた若い女性係員にも『男2人の参加は珍しいの?』と訪ねるとニコッと笑って小さく頷くのでした。搭乗までの手続きの説明を受け、チケットを受け取り今回の利用便のルフトハンザ航空カウンターへチェックインに向かう。もちろん今回もエコノミークラスでミュンヘンまで二人並んで仲良く。 搭乗口での集合時間まで時間があるので今年もロビー内を散策。そして今年は羽田国際線初めての「鯉のぼり」が登場。50匹ほどの鯉が、到着ロビーの高い天井に向かって盛大に泳いでいました。室内ですが空調用の風が流れている為か、気持ちよさそうに泳いでいたのです。今年もその下には「藤棚」の装飾が。藤(の造花)は去年と同じく精巧な造り。そして昨年より棚の数が充実していると感じたのです。何故か我が住む市の名前の為か、藤棚にはSENSITIVE(敏感)な私なのです。「江戸舞台」にも久月の鎧兜が。4階には、「和」と「江戸」をテーマにした飲食店とショップが並んでいます。メインストリートの江戸小路は江戸時代の街並みを再現。ショップには演芸場を模した店舗、中央にはイベントスペースの「江戸舞台」もあって、日本文化の発信にも一役買っているのです。 江戸時代、旅の始発点は日本橋。その1/2ミニサイズの日本橋が羽田空港に設置されているのです。まさに旅立ちは昔も今も日本橋。総檜(そうひのき)づくりの「はねだ日本橋」が羽田で旅行者の出発を待っているのです。我々もこの旅の出発点としてこの日本橋を渡ったのです。 はねだ日本橋を上った先にあるのが「お祭り広場」。 奥の壁には、いろいろな願い事が書かれた航空券型の多くの絵馬が展示されて(お供えされて?)いました。 その中にこんな絵馬も。海外旅行前に日本人が書いたのでしょうか?それともジョークなのでしょうか?楽に死ねる方法を探している時点で生にしがみついてるのではと感じたのですが・・・・・。出国手続きを完了し、搭乗口へ。12:35発のルフトハンザ・LH715+ANA・NH585の共同運航便。目的地はドイツ・ミュンヘン。慕尼黒は中国語? 利用便はエアバスA300。 座席は左側最後列の58A席。 ミュンヘンまでは11,518km、飛行時間11時間37分とのこと。定刻の12:35に出発。飛行機は新潟方面に向かう。 中央に見えたのは奥只見湖か? 40分ほどするとこのFLIGHTの機内食用メニューが配られた。 とりあえずビールを注文。ドイツビール・ヴァルシュタイナーを楽しむ。そして飛行機は日本海を横断しロシア・ウラジオストックの北方に向かう。 そしてこの日の最初の機内食を楽しむ。 ロシア上空に入り北極圏に含まれるサハ共和国方向に。時間は離陸後約3時間。
2016.04.20
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釜山タワーからの帰路はエスカレーターで鶏龍山を降りる。 ズングリした仏像に出会う。 色とりどりの提灯のようにぶら下がったものが。道の脇にはキムチ用の白菜が大量に積まれていた。 釜山市中区光復洞にある光復路(광복로 : カンボクロ)一帯は文化芸術とファッションの中心地。イルミネーションの準備が行われていた。 T字路には躍動する若者の像が。 南浦洞、大覚寺(テガクサ)の大雄殿。大雄殿の前には大きな黄金の涅槃仏が。基本的には、頭は北向き、顔は西向きとされる。これが後に、一般の俗人が亡くなった時に「北枕」とされる由縁となったのだ。大雄殿の内部には多くの仏像が。 釜山近代歴史館も月曜日のこの日は休館日であった。 地下鉄に乗り梵魚寺(ポモサ 범어사)駅まで行くが時間的に難しそうなので寺観光は諦め、再び地下鉄に乗り釜山駅へ戻る。ホテルに立ち寄り荷物を受け取り、釜山港国際旅客ターミナルに徒歩で向かう。ターミナル内のレストランで昼食。 そして出国手続きを完了しビートル号に乗船し定刻に出港。釜山南港大橋の下を。 蓬莱山の裾野に拡がる街並み。 裾野に貼り付く高層ビル群。 外海に出るとイカ釣り船?が。 船内はほぼ満席。 そして福岡港に定刻に到着し、タクシーと地下鉄で福岡空港に到着。ターミナルビルの鐘にはクリスマスのイルミネーションが。 数十万球のLEDを使った大型イルミネーションをロビーのガラス一面に施していた。 そして羽田空港からバスを利用し、今回の旅を振り返りながら帰宅したのであった。
2015.11.27
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3日目の朝は、朝食後にホテルをチェックアウトし、荷物を預け市内観光に徒歩で向かう。途中右手にコモドホテル釜山(Hotel Commodore Busan)が。釜山の中心南浦洞にある外観が特徴ある高級ホテル。 この日の最初の観光目的地に20分ほどで到着。周辺は「40階段文化観光テーマ通り」と名づけられ、当時の暮らしを表したオブジェ類や街路樹が並ぶ道に整備されていた。40階段は、1950年に起きた朝鮮戦争(韓国では6.25戦争)の避難当時多くの避難民がバラック小屋を建てて暮らし、釜山港から入ってくる物資を売買していた場所。また避難中に離れ離れになった家族との出会いの場所として人々の記憶に残っている場所。「40階段」 付近は、「40階段テーマストリート」 として整備されていた。路面電車の列車のオブジェには 「釜山停車場ストリート」 という表示が。実際、釜山でも昔はかなり広い範囲で路面電車が走っていたのだと。 釜山市内いたるところに葉ボタンが植えられていた。 「休憩するお父さん」 という銅像 「水がめを運ぶ子供」 という銅像 『ポン菓子職人と子供』の銅像。ド~ンと言う大きな音が聞こえてきそう。朝鮮戦争(1950~53)当時、釜山へと押し寄せてきた避難民たちがこの階段周辺でも暮らしていた。言うまでもなく石段の数が40あるので 「40階段」。避難民たちは日々どんな思いでこの階段を上り下りしていたのであろうか。 案内板中央には当時の写真が。階段の真ん中には「四十階段記念碑」とアコーディオンを弾く人の銅像が。 階段を上がってすぐのところには 「40階段文化会館」があったが、この日は月曜日で残念ながら休館日。 釜山タワーに裏側から坂道を登り到着。釜山タワー横の八角形の建物。内部は土産物売り場。 ハートの鍵だらけ。 釜山人はハートが大好き!!。 ピアノ型のミニべンチとハートマークのモニュメント。釜山の顔とも言える龍頭山公園(ヨンドサンゴンウォン)に立つ釜山タワー。高さ約120mとのこと。 展望台からは360度のパノラマが。釜山タワーから東側の眺め。釜山港が目の前に拡がりました。そして釜山南港大橋も。釜山港の沖には多くの船舶が停留中。 蓬莱山(395m)と、手前にはロッテデパートが。まだまだ開発が進みそうな地域も。 跳ね橋として知られる影島大橋。 釜山タワー前の広場を展望台から。月曜日でもありまだ閑散としていた。 龍頭山公園というだけあってか、龍の像が。李舜臣将軍は、腐敗が跋扈して正しき政治が行われ辛かった当時の李氏朝鮮の体制の中、ただ国を守るという初志貫徹を貫き大乱戦の中、命を落とす。1592年の壬辰倭乱、1597年の丁酉倭乱で、秀吉軍を打ち破った韓国の英雄で知られる人物。 鐘楼。
2015.11.26
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国立慶州博物館(クンニッキョンジュパンムルグァン)は慶州の観光を語る上で、絶対に欠かせない場所のひとつ。古都新羅の絢爛なる文化遺産を現代に保存する目的で設立。慶州地域の発掘調査によって出土した多くの文化財を保存展示。現在の国立慶州博物館は2万余坪の敷地に約10万点の文化財を所蔵し、そのうちの約2500点を広く一般に公開していると。入り口の門には真っ赤に紅葉したツタが這い美しかった。 1945年に国立博物館として開館し、1975年に現在の位置に移転したここ国立慶州博物館は、先史時代から朝鮮時代に到る遺物21万点あまりを所蔵してあり、その中で3000点あまりを展示していた。展示館は考古館、美術館、雁鴨地館、特別展示館、子供博物館などがあり、博物館の野外庭園にも多くの遺物が展示。展示館には先史時代の青銅器、銅鏡から5~6世紀の新羅焼、金銀装飾品、新羅瓦、宝剣、8世紀頃の土器、南山の石仏など見どころは多いのであった。特に古墳公園の天馬塚から出土された金冠と帯は必見で、きらびやかな装飾と天地五行を表したというデザインは目を見張らせたのであった。 正面に考古館が。今回は訪ねることが出来なかったが金春秋・武烈大王のお墓から発掘。崇福寺址(慶州市外東邑馬房里)にあった統一新羅時代(9~10世紀ごろ)の亀趺(碑文の台座)であると。 こういう亀が石碑を支えていて、石碑はなくなってしまったが、亀から彼の墓だと判明したと。韓国最古で最大の聖徳大王神鐘。 悲しい伝説に包まれ、博物館を訪れる人の涙を誘うのが、門の近くに建つエミレー鐘。最初に鐘を鋳造した際、どうしても音が響かないため、幼い女の子を人柱として作り直したのだと。出来上がった鐘は美しい音色を響かせたが、その音は「エミレー、エミレー(お母さんの古語)」と叫ぶ子供の音のようだったと。別名エミレの鐘、又は奉徳寺鐘として知らされたこの鐘は、統一新羅時代第35代景徳王(742~765在位)が亡なった父王聖徳大王(702~737在位)の冥福を祈るために、銅12万斤を入れて造ったが失敗に終り、その子である惠恭王7年(771年)に完成した大鐘。 考古館に入る。入り口には新羅歴史館の文字が。 こちらは1921年に民家を建てようとして偶然掘り出された金冠。 コンピューターグラッフィクで装飾具を身につけた王の姿。 天馬塚出土の金製冠帽。三国時代新羅5~6世紀の遺物とのこと。 大陵苑(テヌンウォン)の天馬塚(チョンマチョン)から出土した金冠と金帯。新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、黒海や中央アジアで作られたと。カザフスタンのある遺跡からも同様の剣が発掘されており、新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語るのだと。 これはなんだったのであろうか?王が被った帽子の鍔? 新羅時代の慶州の様子を再現した模型。 首飾り?それとも耳飾りか?先端に勾玉も。厳しいお顔の仏像か? 兵士の如き姿も。こちらも金の王冠。 金製の高坏。 李舜臣将軍?の肖像画。 こちらは誰? 野外庭園にある多寶塔が手前に。そして右手に高山寺跡三層石塔:この塔のあった高山寺跡は徳洞ダムの建設により水没地域になったため、この塔を1975年に国立慶州博物館に移されたと。二段からなる基壇、三層の塔身、そして覆鉢と仰花で構成された相輪部を持つ石塔。雁鴨池館(アンナッジクァン/안압지관)にも慌ただしく。雁鴨池館は月池(雁鴨池)から出土した遺物を展示。新羅円瓦の様々な文様。 雁鴨池のパノラマ模型。小さな仏像様が列んでいた。仏像2体。仏様の後光を表した光背が。 巨大な壺。 再び考古館を横から。 そしてこの日の世界遺産 慶州の1日観光を終了し釜山への帰路へ。途中、若き頃納入業務を担当した下水処理場の消化槽を発見し懐かしさで感激。この日の夜は焼き肉を楽しむ。釜山駅前の広場は美しくライトアップしていたのであった。WELCOM TO BUSAN の文字が。
2015.11.25
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世界遺産 慶州歴史遺跡地区 の石碑が車窓に。韓国の南東部、慶尚北道(キョンサンプット)に位置するここ慶州(キョンジュ) は、約1000年(紀元前57年~935年)の栄華を極めた新羅(シルラ)王朝の都があった都市。街のあちこちに数多くの歴史遺産が現存しているため、慶州は「屋根のない博物館」とも表されている。遺跡の種類により、南山(ナムサン)・月城(ウォルソン)・大陵苑(テヌンウォン)・皇龍寺(ファリョンサ)山城(サンソン)の5地区に分かれており、歴史遺跡地区内には計52の指定文化財が含まれている。2000年にはユネスコ世界遺産にも登録された。大陵苑は慶州の皇南洞にある古墳群の中でも最も大きい規模の古墳群。大陵苑には約400,000m2を越える巨大な敷地に味鄒王陵など23基の古墳が。また大陵苑には、味鄒王陵や天馬塚がある。およそ12万5,400坪の敷地に23基の古墳が保存されているのです。大陵苑古墳群の全体を示す案内図。 慶州は韓国を代表する文化都市である。約千年の間、新羅と統一新羅の都として大きく発展し慶州は、誰でも認める巨大な宝物庫。巨大な野外博物館として知られて南山を中心に都市複数の場所に様々な文化財が散在している。その理由は、新羅が長い歳月の間、都を一度も移動しなかったからであると。チケット売り場。 大陵苑の入口(門)。 大陵苑 扁額の文字も見事。 大陸苑内配置図。紅葉の中を進む。 紅葉の木下で写真を撮る韓国人の姿も。いずこも同じ光景。 韓国の国鳥 カササギであるとガイドから。 古墳群の中で被葬者がわかっているのは新羅第13代味鄒王陵(在位262年~284年)の古墳だけ。古墳はどれも大きく、新羅時代の王あるいは王族のもの見られているが、古墳の中には夫婦で合葬された双子山型の古墳もあるのだと。 黄色の絨毯が一面に。 山茱萸(さんしゅゆ)の赤い実が美しかった。早春に黄色の花が咲き、宮崎県の民謡「稗搗節(ひえつきぶし)」に「庭のサンシュの木・・・」と謡われている・・・とガイドから。宮崎県の民謡と驚くほど博識のガイドに脱帽。紅葉のトンネルを更に進む。 カササギの巣とその上には主の姿も。樹木に木の枝・わらなどを用いた球状の巣を作る習性があると。緑、赤、黄色の絨毯。 最奥の天馬塚が見えて来た。 大陵苑の中でもっとも有名な古墳がこの天馬塚。天馬塚という名前はこの古墳から天馬を描いた馬の泥よけが出土したことに由来。被葬者は不明だと。天馬図と呼ばれるこの泥よけは白樺の皮で作られており、翼の生えた白馬がたてがみを風になびかせて空を翔ける姿が描かれている。この天馬塚からはそのほかにも金冠や腰帯など1万1500点余りが発掘。天馬塚から発掘された金冠と天馬。【http://www.reallre.jp/tour/detail/detailType4.do?subcont_id=1983&ctgry_1dpth_cd=10600&url=%2Fkorinfo%2Flist%2Flist.do】より転載国立博物館でその現物が見られたが、いくつかは精巧な模造品が天馬塚内部でも公開されていた。また天馬塚の内部に入って突き当たりの壁は古墳の断面がわかるように作られており、新羅時代の古墳がどのようにできているかを学ぶことができたのであった。天馬塚の内部は残念ながら写真撮影、ビデオ撮影などは禁じられていた。 行けども行けども紅葉の連続。 皇南大塚は慶州市内でも最大規模の古墳。通常の古墳が円形であるのに対し、この古墳はふたつの古墳がくっついた瓢箪形をしているのが特徴。瓢箪形の古墳は夫婦がいっしょに埋葬されていることを意味。紅葉していない緑の柳も存在感を表していた。 落ち葉を片づける係員の姿も。 慶州歴史博物館への途中に瞻星台が車窓に。7世紀頃に建造され星の動きや月の満ち欠けの観察に使われたという東洋最古の天文台。この日に陵を訪ねた善徳女王の治世下に建造されたとの説があると。
2015.11.24
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昼食前に善徳女王(ぜんとくじょおう、ソンドンニョワン)稜に立ち寄る。車窓から小さな善徳女王稜の石碑を発見し慌ててカメラを構えシャッターを押したがややピンぼけ。ツアーガイドの説明によると『善徳女王』は、韓国にて2009年5月~12月2まで韓国MBCでテレビドラマとして放送され大人気を得たとのこと。 日本でもBSフジで『善徳女王 -The Great Queen Seondeok-』(-ザ・グレート・クイーン・ソンドク-)として、2009年10月から2011年1月で全62話で放送されオバチャンに大人気のドラマとなったと。 【http://www.bsfuji.tv/seondeok/】より転載。田園の中の駐車場に車を停め徒歩で陵に向かう。途中小川で貝を洗うオジサンの姿が。この小川で採れたタニシで食べるのだと。タニシは日本ではほとんど食べないが、韓国では食用に栽培されるほど人気がある食材であるとガイドから。それにしても大漁。そして案内板を見ながら松林の中に進む。 선덕여왕릉 ソンドッヨワンヌン(善徳女王陵)のハングル語が。善徳女王は、日本の飛鳥時代に新羅の第27代の王(在位:632年 - 647年)。韓国5千年歴史上初めての新羅の女王。善徳女王は息子のいない真平王の長女として生まれ、新羅最初の女王となった。在位16年の間に、瞻星台や芬皇寺を創建し、新羅最大の皇龍寺九層木塔を建立するなど新羅建築の金字塔を打ち建てた人物。【https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%BE%B3%E5%A5%B3%E7%8E%8B】より転載。目の前に比較的小さい陵が姿を現した。全周74mの円墳で、高さ6.8m、直径24mになるこの陵の外形は土を丸く積み上げた形態をなし、下部には陵を保護するために2~3段からなる自然石の石築が。説明板によると、太宗武烈王となった金春秋と、名将の金庾信といった人物を率いて三国統一の基盤を築いた。「三国遺事」には、‘私はこの日に死ぬので、その時は忉利天に葬るように命じたが、群臣たちはそれがどこなのか分らず尋ねると、女王は狼山の南側だと言ったた。その後に王が亡くなると、群臣たちは王を狼山南側の日当たりのいい場所に葬った。その後33年過ぎた文武大王19年(679年)、王陵の麓に四天王寺を創建し始めた。仏殿には四天王寺の上に忉利天があるといわれ、その当時に善徳女王の霊妙な神聖さが分った。’と記録が伝わっていると。特に装飾がなく、他の王陵に比べ規模が小さく質素そのもの。王陵の下の方には護国寺として知られている四天王寺址や神文王陵などがあった。 そして10分ほど走って昼食のレストランへ。 この日の昼食は「石焼きビビンバ」。そして昼食料金はツアー料金に含まれているのであった。 ビビンバは、朝鮮半島の混ぜご飯。専用容器にご飯とナムルや肉、卵等の具が載せてありこれを良くかき混ぜて食べたのであった。スープも美味。 そしてガイドの薦めもありチジミも追加オーダー。 イカ入りチヂミは薄く外側はパリっと、内側はもちっとした食感であり、タレにつけて食べたがこちらも美味しかったのであった。レストランには発見当時の石窟庵の写真が貼られていた。 仏国寺の古き写真も。 そして店先の布袋様?が笑顔で見送ってくれた。 我々のツアー車のナンバー。韓国の車のナンバープレートを見てみると、いろいろなタイプのものがあるこのでした。それは、最近10年もしない間に、3回も変わったとガイドから。昔は全て日本と同様に所属の地域名が記載されていた。しかし地域感情を刺激するということで、地域名をなくしたとのこと。それまでは緑地に白色文字であったがプレートの色が緑だと、番号が見にくいということで白に黒字へと変わったのだと。そしてレンタカー車の文字は『ㅎ』がついていると同じくガイドから。この車は호(ホ)であるが허(ホ)等『ㅎ』がついていることでレンタカーと解るとのこと。日本では『わ』がほとんどであるが。車は慶州の中心地に向かって進む。車窓からも見ても、このような古墳や遺跡が日常の生活に普通に馴染んでいてちょっと不思議な雰囲気な空間。 慶州の街は何となくホッとするものがあり、気持ちが落ち着けるのは、高層ビルや新興アパート群が無く、町を取り巻く自然と遺跡群のせいなのであろう。人の姿がない遺跡群の風景を楽しみながら車は進んだのであった。
2015.11.23
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石窟庵を後にし、坂を下り同じく仏国寺に到着。駐車場は既に満車状態で車を手前で降り徒歩で向かう。 1995年にはユネスコの世界遺産にも認定され、韓国が世界に誇る宝。仏国寺では6つの国宝を始めとして統一新羅時代に作られた貴重な文化財が多数あり、見所満載。 『佛國寺』と書かれた山門の扁額。 仏国寺案内図。 韓国仏教界の最大勢力である曹渓宗(大韓仏教曹渓宗)の寺。チケット売り場の裏の山の紅葉も見事であった。 山門から中に入ると左手に巨大な見事な松の老木が。 仏国寺本堂に向かって境内を歩く。左右は紅葉の真っ盛り。 天王門((チョンワンムン)。 天王門の左にある阿吽形相の仁王像。足下ではそれぞれ、悪魔を踏みつけていた。天王門の右にある阿吽形相の仁王像。 石橋の上から。 石垣で固めた盛土の上に伽藍が配置されていた。 大雄殿正面の紫霞門に掛かる石橋。751年の時から存在している遺構と考えられている。上段の16段が白雲橋、下段の17段が青雲橋。合わせて33段であるが、仏教で33は未だ仏の境地に達せずという意味であると。 横に廻り坂道を登る。道路脇は真っ赤なモミジの絨毯が。 大雄殿の脇の参道に出る。 左が木魚(もくぎょ)、右奥が雲版(うんぱん)。 大雄殿。彼岸世界を表す大雄殿の中には、仏国寺の本尊である釈迦牟尼像が安置されていた。大雄殿前から本尊である釈迦牟尼像のお顔を。多宝塔。高さ10.4m。新羅時代751年の作と推定されていると。四面に階段が設置されまた、塔下部は四本の柱で支えられている珍しい塔の形状。また塔の周りには石獅子が配置されていたが、現在では1体だけが残っていた。隣にある釈迦塔はこの日は修復工事中で仮設建屋の中。2匹の龍は大雄殿(テウジョン)の屋根の下に。1匹は魚を、口にくわえていた。もう1匹は如意珠を。隣の極楽殿。 極楽殿扁額。極楽殿と書いてある看板の裏側に、豚(猪)の彫刻が隠れていた。ガイドさんによると、この彫刻は観光客が発見したのだと。さらにもう1つ、極楽殿の正面に黄金の豚(猪)が鎮座。幸運をもたらす豚(猪)と呼ばれていて、観光客が次々に触っていた。もちろん、二人も丁寧に撫でて来たのであった。でもこの2週間前には大量の猪肉を楽しんだのであったが・・・・・・・。極楽殿の回廊の柱はエンタシス様式の柱。古代ギリシャ発祥でシルクロードの終着点である日本にも伝わり法隆寺回廊に見ることができる様式。 仏国寺は石組みが特徴的的で野面積みの石垣。礎石の黒い部分は1592年の文禄の役で、朝鮮に攻め入った豊臣秀吉軍によって全山の堂塔が焼失した時の跡だとの説明が。 仏国寺の境内の紅葉は見事の一言。京都のお寺にいるが如し。仏国寺写真のBEST SPOT。手前が安養門、その下に七宝橋と蓮華橋。 そして山門まで戻る途中も紅葉の林の中を。 緑から濃い紅色のBEST MIX。 以下 言葉は要りません。
2015.11.22
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