全406件 (406件中 201-250件目)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次3日目の朝(9月26日)も5時過ぎに早朝起床し6:30からの朝食を済ませ、豊橋駅近くのホテルを出発。豊橋駅前東口のペデストリアンデッキ。この日も晴天で暑くなりそう。そして豊橋駅から二川駅まで前日乗り遅れた6:48の東海道線を利用。降車駅の二川駅改札前ではキリンのステンドグラス風窓が出迎えてくれた。キリンのステンドグラスは、駅近くに豊橋総合動植物公園があるからか?二川駅は1896年(明治29年)4月7日に開業した。二川駅をはさむ、東海道本線の浜松・大府間が開通したのは、駅開設の8年前にあたる1888年(明治21年)のことである。この時、江戸時代に東海道の宿場町(二川宿)として栄えた渥美郡二川村・大岩村の両村には、宿場の町並みのすぐ南側に線路が敷設されたものの、隣の吉田宿(現・豊橋市、豊橋駅を設置)とは異なり駅が設置されなかった。二川周辺には多くの村があり人・物資の利用が見込める、隣の豊橋駅・鷲津駅とは距離があるとの理由で、翌1889年(明治22年)二川では駅設置の請願を行った。この請願は成功しなかったようだが、1893年(明治26年)に再度請願運動が行われ、これは成功したようで駅開業の運びとなった。駅開設時に建設された木造駅舎は100年以上の長きにわたって使用され、東海道本線では最古の駅舎となっていた。しかし老朽化により改修が必要となり、1998年(平成10年)から橋上駅舎・南北自由通路の開設、駅前広場の整備、駅南方にある豊橋総合動植物公園へのアクセス道路新設などが一体となった「二川駅周辺整備事業」が開始された。この事業により2002年(平成14年)2月に橋上駅舎が完成、4月には南北自由通路の供用開始がなった。時計塔の時間は7:00前。『火打坂交差点』まで歩き、旧東海道はここを直進するのであったが、『岩屋観音』を訪ねるために交差点を直進せず左折する。前方に『岩屋緑地』が見えた。 岩屋緑地は弓張山地の大蔵山と岩屋山に造られた公園で大蔵山には展望台、岩屋山には観音像が建てられていた。豊橋市地下資源館(とよはししちかしげんかん)の前を通過。豊橋市地下資源館は、愛知県豊橋市大岩町字火打坂19-16にある、地下資源や鉱石、エネルギーの博物館。視聴覚教育センターにはこのプラネタリウムが。東海道岩屋山古道案内板。右手に『岩屋観音』石碑。『玉糸の元祖 小渕志ち銅像 入口』と刻まれた石碑。この豊橋が蚕都(さんと)と呼ばれ、製糸業がさかんであった頃、質のよい生糸の作り方を発明した人物・「小渕志ち」。二川の本陣資料館の近くには、製糸工場跡の碑が残っているのだと。小渕志ち(おぶちしち、1847年(弘化4年) - 1929年(昭和4年))は、三河地方の絹製糸工業に多大な貢献をしたと伝えられる人物である。1847年に群馬県南勢多郡石井村(現・前橋市富士見町石井)で生まれた。1862年、15歳のころから製糸業に従事し、糸引き座繰りの技術をマスターする。その後、17歳で結婚するが、夫・斉藤米吉は酒や賭け事に明け暮れる男で、15年の結婚生活の末離婚を余儀なくされる。その後再婚したものの、精神を病んで行くあてもなく各地を放浪していたが、糸引き座繰りの技術を見込まれて愛知県二川町(現・豊橋市)に土着。高い技術を生かした仕事で見る見る間に財を成し、1879年に製糸工場を創業した。その後、玉繭という屑繭から玉糸と呼ばれる高品質の糸を作ることに成功し、大きな利益を上げる。また、自社の経営のみならず三河地方の製糸業の発達に尽力し、同業組合の結成を促進するなど、大きな功績をあげた。この先から『岩屋観音堂(岩屋堂)』境内か。正面に『弘法大師・鯖大師(さばだいし)像』。『岩屋山観世音菩薩』と書かれた紅白の幟が立ち並んでいた。奥にあったのが『地蔵堂』。小さな石のお地蔵さんが祀られていた。再び『弘法大師・鯖大師(さばだいし)像』。太子の左手には鯖が。この『鯖大師(さばだいし)』の由来は昔、弘法大師がこの地で野宿をしていた際に通り掛かった馬子(馬に食料を積んで運んでいる商人みたいな者)に塩サバを所望したところ、口汚く罵られ断られた。その後馬子の馬が苦しみ出し動かなくなった。馬子は慌てて「さっきの僧は実は偉い人(空海)だったんじゃね?」と引き返しサバを差し出し馬を治して欲しいと懇願した。空海が加持水(仏様の慈悲と智慧が加わった水)を馬に与えると馬は回復し、サバは加持祈祷し海に放つと生き返り泳いで行った。この馬子は空海の弟子となったのだと。『二番札所 千手 亀見山 岩谷堂』「松かせに 戸ざ々ぬ御代のいはやどう 三河にひとつ 名の高き山」『鐘堂』『鐘堂』の近くには『弘法堂』が。『弘法堂』内部の掛け軸。岩屋観音の石仏群。山頂の青銅製の『聖観音立像』を見上げる。天平2年(730)、行基がこの地に赴いたとき、その風景に見せられて千手観音像を刻んで岩窟に安置したのが起源とされています。以来、東海道を往来する旅人たちの信仰を集めました。岩屋山頂の聖観音立像は明和2年(1765)に建立されましたが太平洋戦争中に供出されてしまい、現在のものは昭和25年(1950)に再建されたものです。岩屋山の南側にある観音堂の天井板には、恩田石峰をはじめ当時の吉田(豊橋の旧名)画人による絵が描かれています。 また、岩屋観音周辺は公園として整備され、春はさくらまつりが開催されにぎわうのだと。写真の如く、山頂の岩の上で風雨に曝され、雨天には濡れて立つため、濡れ仏(ぬれぼとけ)と呼ばれた時期もあったようだが。大正12年(1923年)、ドイツ人の医者のベルツ博士のハナ(花)夫人により、岩を登るための鉄の柱と鎖が寄進されたのだと。残念ながらこの観音像とベルツ夫人の鉄鎖は昭和19年(1944年)、太平洋戦争で供出されてしまったと。『岩屋観音堂』観音堂は、天正13年(1585年)の岩屋山火災で焼失し、元文3年(1738年)に再築されるまでの記録は不明であると。その後は修築や再築を繰り返して文政8年(1825年)に再されたのが現在の『岩屋堂(観音堂)』。寄棟造り、桁行3間、梁間4間の建物である。格天井板32枚は後世のものだが、これには恩田石峰をはじめ、当時の吉田画人による絵が描かれているとのことであったが・・・。「岩屋観音堂は、天平2年(730)行基が諸国巡行の際に千手観音像を刻んで岩穴に安置して開いたといわれます。江戸時代には、街道をゆきかう人々から多くの信仰を集め、ことに備前岡山 藩主池田綱政はこの観音を崇敬し、元禄から宝永(1688~1710)にかけて、観音経・黄金灯籠・ 絵馬などを寄進しました。山上に立つ聖観音像は、吉田大橋の掛け替え工事を担当した江戸下谷の大工茂平と善右衛門の二人が工事の難しさに困り果てて観音堂に参籠し、霊夢によって吉田橋を 完成させることができた恩返しとして、明和2年(1765)下谷講中が建てたもので、現在のもの は昭和25年(1950)に、再建されたものです。当堂を詠んだ和歌、俳句は多く、香川景樹、古市木朶等の歌俳は有名であり、また歌川広重の東海道写生画の中に、当山を描いたものが数点あります。当堂は古来より真言宗の寺院でありましたが、明治維新後は大岩寺の境外仏堂となっています。」扁額には『岩谷堂』と書かれていた。岩屋堂は行基は天平2年(730)諸国巡業中に約33cmの千手観音を刻み祀ったと。『観音堂』内部 正面。右側に賓頭盧様(左)と大黒天(右)が並んでいた。天井。『岩屋観音堂』堂内部。本堂の右側は岩屋になっている。奥は深くなく、見えている部分だけだ。寺の開基は、行基が諸国を巡ったときこの岩屋に千手観音を彫って安置したのが始まりだと。岩山のところどころには僧形の仏が安置されていた。『岩屋観音堂』からの立岩街道方面の眺め。『岩屋堂のスギ』。 豊橋隋一の太さを誇り、同市のシンボルであると。幹周:403cm、高さ:24.1m、推定樹齢300年以上。崖下には五重石塔が。寺務所の下には『瑠璃王龍神堂』。参道には萩の花が。こちらが『岩屋観音堂』への正式なルートなのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・-----------------------------------------------------------------------------------------------そして今日から、いつもの旅友Sさんと『秋彩ルーマニア・ブルガリア8日間』の旅に行って来ます。カタール航空にて成田➡ドーハ➡ソフィアへの長時間移動の格安ツアー旅行です。ブルガリア・ルーマニア2か国・6つの世界遺産を含むハイライト観光。ルーマニアでは故チャウチェスク大統領が1,500億円を投じて造らせた贅を尽くした「国民の館」も訪ねます。建築物としてはペンタゴンに次ぐ世界第2位の大きさを誇るルーマニア議会の議事堂。久しぶりに10年来の旅友の女性2名も一緒に参加され、賑やかな旅行になりそうです。阪急交通社からの最終書類も受け取りました。今回の女性添乗員からの電話もあり、26名の多人数のツアーであるとのこと。最終旅行日程表も送られてきました。今回のツアーは成田空港出発、羽田空港到着という初めての体験のツアーです。今日は旅友Sさんが愛車で我が自宅に迎えに来てくれ、羽田空港に向かい駐車場に車を駐め、リムジンバスにて成田空港に向かう予定です。そして継続中の『旧東海道を歩く(新居宿~御油宿)』は留守の間も毎日分を予約してアップしていきますので引き続きアクセスをお願いいたします。行って来ま~~~す。
2019.10.24
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次二川宿の旧東海道をJR二川駅方面に更に進む。暫く歩くと右手にあったのが『西問屋場跡』碑。左手にあったこの民家は、現在もお住まいなのであろうか?交差点左角にあったのが『大岩郷蔵跡』。郷蔵は年貢米などを蓄えておいた村の共同の蔵。二川宿内には二川村、大岩村にそれぞれ1ヶ所あったと。そして旧東海道を右に折れ、『大岩神明宮』を訪ねた。『大岩神明宮』由緒 案内板。社伝によると、当神明宮は古く文武天皇2年(698)岩屋山の南山麓 「かささ」 に巌根の庄大岩の里人に依って創建祭祀されたと伝えられている。また、古来より武門武将の崇敬篤く、織田信長は陣太鼓を寄進して戦勝を祈願し、徳川家康は御朱印社嶺三石五斗を安堵した。境内には、文化4年(1807)の秋葉山常夜燈のほか金比羅神社などの境内社があった。一の石鳥居。『手水舎』。『拝殿』。『拝殿』前でお参り。『拝殿』内部。文武天皇二年(698年)岩屋山南に勧請したのが最初で、のち保延元年(1135年)大岩村が本郷に移ったときに遷宮し、天正十一年(1583年)元屋敷に移り、さらに正保元年(1644年)、大岩村が現在地に移村したのとともに移っている。江戸時代には、黒印地二石を受け、その格式はかなり高いものであった。現在では大岩の氏神となっていると。『神馬』。多くの『境内社』が。『大壁神明宮』。『金比羅神社』。『立派なお牛様』そして再び旧東海道に向かう。豊橋市『手筒マンホール』。吉田城と手筒花火をモチーフに華やかな印象をデザインした下水道マンホール蓋。豊橋市『船マンホール』。朝日のなかを船が出港する姿から人・緑・街をデザインした下水道マンホール蓋。左手にあったのが『立場茶屋跡』碑。街道に戻って交差点の先を進むと、左手の化粧品店 「OZAKI」 の前に立場茶屋跡があった。『立場茶屋跡』碑。そして漸く『二川駅前』交差点が前方に見えて来たのであった。左折すると、この日のゴール地点の『二川駅』が。『JR二川駅』。駅前広場の『時計塔』、時間は予定通りの16:30前。『二川宿案内地図』。『東海道 二川宿』案内板。「古来より交通の要所であった二川は、慶長六年(1601)、徳川家康による街道整備にともなって宿駅として設置されました。開設当時は二川村と大岩村の二か村で一宿分の業務をおこなっていましたが、正保元年(1644)に両村は現在地に移転して、二川村と加宿大岩村となり、東海道五十三次中三十三番目の宿駅として業務をおこなうこととなりました。天保十四年(1843)には、本陣・脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠屋が38軒、人口は1,468人で、家数は328軒でした。現在も、本陣をはじめとして、江戸時代の宿場町としての景観を残しています。」二川宿『絵図』。江戸時代の「二川宿」の絵図と旅籠配置図。この絵図は実際はもっと西(左)まで続いているのですが、小さくなってしまいますので、大岩寺よりも西側はカットしトリミングしました。宿場の北側には左から『大岩寺』、『松音寺』、『八幡神社』、『妙泉寺』が描かれ南側には宿場に沿って『宇六田川(梅田川)』が描かれている。こちらもトリミングしました。1843年(天保14年)の記録では、二川宿には38軒の旅籠屋があったといわれ、当時の東海道の宿場の平均旅籠屋数56軒に比べて小規模な宿場だったとされる。二川駅 改札口。豊橋駅行きのJRで。時間は16:29。そして豊橋駅に到着。中央通路にあった『羽田祭 大筒台花火』。『羽田八幡宮例大祭(羽田祭)』ポスター。豊橋市の『三大祭』の一つと言われる羽田八幡宮の祭事。 五穀豊穣を祈願して豊橋駅周辺の20ヵ町の氏子達が勇壮な手筒花火約800本を10/5~6の2日間かけて奉納するのだと。東三河地方独特の手筒花火は、火薬を詰めた1本4~5kgの手筒を男衆が、からだの脇に抱えもって行われる花火。 ふりそそぐ火柱と火の粉、すさまじい爆音、大迫力の手筒花火なのだ。『羽田祭 大筒台花火』を正面から。手筒本体は竹齢3年以上の孟宗竹で内径 12~13cmのものをゴザや南京袋を巻きその上から縄を巻きつけていきます。火薬は黒色火薬で硝石、硫黄、炭粉、鉄粉を 焼酎で練って詰め込むが隙間が出来たりすると暴発するのでしっかり慎重につめる。底には底抜き用のハネ薬を詰めると。こちらが『JR、名鉄改札口』。そして豊橋駅ペデストリアンデッキ。人と環境に優しい乗り物である『市内路面電車』は、豊橋の顔としての側面をもつ街のシンボル。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.23
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次商家『駒屋』の『二川宿本陣資料館』に立ち寄る。旧道沿いに主屋そして中央が主屋入口そして右に脇門が。脇門は明治末期から大正期にかけて、離れ座敷や茶室へ客人を招き入れるために建設された。商家『駒屋』の『二川宿本陣資料館』は入場無料。商家「駒屋」は、主屋・土蔵など8棟の建物からなり、二川宿で商家を営むかたわら、問屋役や名主などを勤めた田村家の遺構です。豊橋市内に数少ない江戸時代の建造物で、当時の商家の一般的な形式を良く残していることから、平成15年5月に豊橋市指定有形文化財となりました。豊橋市では、平成24~26年度の3か年で、すべての建物について江戸時代から大正期の姿に改修復原する工事を行いました。商家「駒屋」の公開により、二川宿は本陣・旅籠屋・商家の3か所を見学できる日本で唯一の宿場町となりました。主屋は木造平屋・一部二階 面積179.12㎡建築年代:文化11年(1814)、安政2年(1855) 修繕構 造:木造平屋建て一部二階建て解 説:商家「駒屋」は、江戸時代に米穀商・質屋を営みました。この建物は 間口九間、奥行き七間の大きさで、東側にミセニワ、オクニワ、中通りに ミセ、ナカミセ、ダイドコロ、西側に、オクミセ、ブツマ、オクノマの各 部屋が並んでいます。商家『駒屋』の建造物。『離れ座敷(はなれざしき)』内部。木造平屋 面積95.78㎡明治末期から大正期にかけて、来客用に建設されたものと。主屋と結ぶ渡り廊下も同時に造られ、西側に中庭を、東側に浴室、便所、洗い場を併設。『離れ座敷(はなれざしき)』の前の通路を奥に向かって進む。右手に『茶室』が。左手に『南土蔵(みなみどぞう)』。土蔵造二階 面積71.42㎡記録によれば、田村家では安永3年(1774年)と天明元年(1781年)に土蔵を新築しており、どちらかが南土蔵と考えられます。間口2間1尺、奥行5間で、敷地内の3棟の土蔵のうち、これだけが出入り口を南側に向けているため、間口が3間余であった頃の敷地形状に沿って建設されたものと判断できます。その奥に『中土蔵(なかどぞう)』。土蔵造二階 面積82.70㎡安政3年(1856年)に建設された土蔵。すでに敷地幅が6間余あったので、幅2間半、奥行5間の規模とし、また品物を出し入れしやすいように出入り口を東側に設けたと。右手に『管理棟』。南土蔵ギャラリーにて『ニッポンの前掛け展』を令和元年9月1日(日)~10月4日(金)開催中。『ニッポンの前掛け展』ポスター。日本伝統の仕事着の「帆前掛け」は、昭和30年代から40年代をピークに豊橋から全国に広まったのだと。豊橋伝統の帆前掛け工場【エニシング】が二川に新設されたことを機に、戦前から愛用された物の他ヨーロッパやシンガポールなどで人気があり使われている商品20種類を展示。前掛けとエプロンは何が違うのか?ウェストで紐を締めるエプロンと違い、前掛けは腰骨位置(ベルトの少し下くらい)の位置でしっかりと締めることにより、骨盤が安定し、「重い物を持つときの腰への負担を軽減させる」という【腰を守る】役割があるのが大きな違いであるのだと。そのため、酒屋や米屋、味噌屋など、重い物を持つ職業の人が好んで使っていたのだと。武者絵や中日ドラゴンズの前掛けも。こちらは海外のものか?最奥正面に『北土蔵(きたどぞう)』、そして右に広場。土産物屋にはハチミツも販売されていた。11/3(日)には『第29回 二川宿本陣まつり』の『大名行列』が行われると。江戸時代に二川宿を行き来していた吉田城主松平伊豆守信明の行列をモデルに時代風俗絵巻を再現。市民から選ばれた松平伊豆守、雅姫、琴姫や近(きん)温(じゅ)、奴、腰元などが宿場町の面影が残る二川宿のまちなみ練り歩きくと。そして『茶室』と枯山水の庭。茶室は木造平屋 面積22.86㎡明治期に建設されたと。4畳半の茶室に3畳の水屋2間が付いている。水屋とは、茶室に隣接して設置される設備。茶事の手前に必要となる茶道具や水などを用意するための場所で一般の住宅でいう台所。そして再び商家『駒屋』の『二川宿本陣資料館』を振り返りながら後にする。商家『駒屋』横に延びる瀬小道。東の枡形と交差し、ここから松音寺門前に続く。路面が石畳できれいに舗装され、古道の雰囲気を醸し出していた。右手にあったのが『二川宿まちなか公園』。巨石に『二川宿まちなか公園』と刻まれていた。この付近に『東問屋場』があったのだと。モール化が望まれるのであるが・・・。この民家には『旅籠中村屋』と『和泉屋』の札が。ここに旅籠があったことを示すもので現在住んでいる方とは無縁なのであろう。右手にあったこちらも普通の民家の入口。しかし、塀には『脇本陣』案内板が。「脇本陣は本陣の利用が重なった場合、その補助的な役割を果たしました。その格式は本陣に次ぐものであり、本陣と同様にその経営は宿場の有力者があたり、二川宿の脇本陣は、松坂家がつとめていました。文化4年(1807)以前には、この地に後藤家・紅林家の本陣がありましたが、文化4年本陣職が紅林家から馬場家に移った際に、本陣建築のため、もと街道の南側にあった脇本陣はこの地に移りました。脇本陣の建物は間口7間(約13m)、奥行19間(約35m)、屋敷は93畳でした」本陣、脇本陣は大名など身分の高い武士が宿泊していたのだと。そして左手の『二川宿 馬場本陣』前に。こちらは『旅籠屋清明屋』旅人は草履を脱いで奥へ案内されたのです。道路から写真を撮る。武士や一般庶民を宿泊させた食事付きの宿屋を旅籠屋と呼び、江戸時代に入って発達し、宿場の中央に軒を並べていた。次第に接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠と飯盛女を置かない平旅籠とに分かれていたと。二川宿本陣の部屋を道路から覗く。以前2009年にこの場所を訪ねた時は、この部屋で皆でお色直しをして記念撮影したのであったが・・・。この時の『ブログ』👈リンク です。速いもので10年前なのです。『二川宿 馬場本陣』を旧街道から。「本陣とは江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の途中、宿泊休憩した施設です。宿場の中央に大きな間口を占め、門・玄関・上段の間を備えた堂々たる建物でした。二川宿の本陣は、後藤五左衛門が中町の北側で勤めていましたが、再三の火災のため没落し、寛政五年(1793)以降は紅林権左衛門に本陣職をゆずりました。しかし、文化三年(1806)十二月の火災により紅林も再起すことができず、文化四年以後明治三年(1870)の本陣廃止まで馬場彦十郎が現在地において経営しました。馬場家本陣は、文化年間の間取図によると間口十七間半(約32m)、敷地面積は五二五坪(約1,733m2)、建坪は一八一坪余(約598m2)と宿内一の建物でした。現在も享保年間建築の土蔵、宝暦三年(1753)建築の主屋、文化四年本陣開設時に建築の玄関棟・表門が残り近世交通史上貴重な文化財となっています。豊橋市では、昭和六十年本陣当主の馬場八平三氏より本陣敷地建物の寄付を受けたことを契機とし、本陣の保存と活用を図ることとし、昭和六十二年史跡に指定するとともに、昭和六十三年より三か年事業で、現存部分の改修及び明治以降取り壊されていた書院棟の復元工事を実施し、江戸時代の姿を再現しました。」そしてここが『豊橋市二川宿本陣資料館』駐車場入口。江戸時代の交通路「東海道」にあった、「二川宿」に関する情報を中心に、当時の旅行者の風俗等をまとめた、豊橋市の市営の資料館。資料館掲示板。土蔵の奥にある、土蔵と同じなまこ壁の建物が資料館。本陣にもここから入る。(入館料¥400)。この日は外からのみ。駐車場には『高札場』が復元されていた。時間は15:50過ぎ。高札とは、幕府の法令・禁令といったものを板書したもので、こういった人の集まる場所にこれらを掲げたのだと。ここが『豊橋市二川宿本陣資料館』入口。こちらが旅籠に入る方向。『豊橋市二川宿本陣資料館』前にあったのが国登録有形文化財の『西駒屋』国登録有形文化財の『西駒屋』。西駒屋は、東駒屋の分家で、東駒屋は、駒屋の分家だと。西駒屋田村家住宅主屋( にしこまやたむらけじゅうたくしゅおく)は東海道二川宿に位置する町家で、醸造業を営んでいた。街道に南面して建ち、床上部を二列六室とする。東列は店、中の間、台所、西列は奥店、仏間、奥の間が並んでいたと。床上部正面に出格子をたて、上下階とも軒を出桁造とする。宿場の風情を醸す町家。そしてこの先中村屋前で旧街道はS字にカーブしていた。『高札場跡』と『秋葉山常夜灯』が左手『中原屋』の前に。高札場とは、宿場の入り口や中心の目立つ場所に幕府からの禁制や通達事項などをしるした高札を掲げた場所をいう。日坂宿や二川宿、草津宿には復元された高札場がある。『中原屋』は1918年に創業し、現在に至る和菓子屋。『中原屋』の隣りにあったのが『古美術』と書かれた店。しかしカフェのようでもあったが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.22
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『二川宿』の散策を始める。『二川宿案内所』の建物・『川口屋』を再び。豊橋市のマンホール。朝日の中を出港していく船と人々や町が描かれている。合流マンホール蓋。右手に『妙泉寺』入口。『南無妙法蓮華経』と刻まれた石塔が右手に。『日蓮宗 妙泉寺』。参道には、桜並木が。参道脇の民家の大きな『てるてるぼうず』。10月12,13日に行われる『二川八幡神社例大祭』のポスター。『山門』。山門は薬医門。左右に袖塀付き。山門を入った境内の左側には1798(寛政10)年建立の『紫陽花嫁』と呼ばれる松尾芭蕉句碑。『阿ちさゐや(あじさいや) 薮を小庭の 別座敷』晩年元禄7年(1694)、芭蕉が生涯最後の旅に出る前、江戸深川の門人の屋敷で開かれた送別の歌会で詠まれた句。 手の込んだ庭ではなく、自然のままにされた別座舗の庭に咲いていた紫陽花の美しさを捉えた一句です。送別の歌会を開いてくれた門人への感謝と、おそらくこれが今生の別れとなるだろうという寂しさを、紫陽花の美しさと儚さに込めた芭蕉の想いが感じられます。台座には、建立世話人9名が刻まれており、当時の二川宿における俳句の隆盛がしのばれると。『本堂』。『妙泉寺』。「妙泉寺は日蓮宗の寺院で、前身は貞和年間(1345~50)に日台上人が建てた小庵でした。その後、衰微していたのを寛永から明暦(1624~58)頃観心院の日意上人が信徒の助力を得て再興し、信龍山妙泉寺と改称したうえ、身延山から離れて遠州吉美村の妙立寺末となり、さらに万治三年(1660)旧地今田中より現在地に移転して、山号を延龍山に改めたといわれます。江戸時代には黒印地二石を受け、その格式はかなり高いものでした。また、寺子屋を開いたり、大通行の際の休泊所にもなっていました。当寺所蔵の鰐口は、永享五年(1433)につくられ、後に半面が慶長二年(1597)に再鋳された珍しいもので、豊橋市有形文化財に指定されています。境内には、寛政十年(1798)に建立された芭蕉句碑である紫陽花塚があります。」『當山歴代之墓』『永代供養塔』『日蓮大菩薩』と刻まれた墓石。『春乙桜(はるおとざくら』。『妙泉寺の鰐口』所蔵の鰐口は永享五年(1433年)鋳造だが半面は慶長二年(1597)に再鋳されており市文化財に指定されている。そして再び二川宿の旧街道を歩く。歴史を感じさせる連子格子窓の民家が右手に。『江戸屋長左エ門』。飲食店の名前としては珍しい 和食、創作料理、居酒屋。東海道『二川宿』案内板。 → 二川宿本陣資料館 350m → 商家「駒屋」 80m右手奥に『二川八幡神社(ふたがわはちまんじんじゃ)』。一の石鳥居、朱の二の鳥居、拝殿が見えた。「社伝によれば、永仁3年(1195)鎌倉の鶴ケ岡八幡宮から勧請したのが創立と伝えられます。毎年8月10日に行われていた例祭の湯立神事は、幕府から薪が下付され、幕府役人をはじめ各所から集まる人々で境内は混雑を極めたといわれます。この例祭は現在では10月10日に、神輿渡御の神事がおこなわれています。江戸時代には黒印地二石を受け、その格式はかなり高いものでした。現在では二川の氏神になっています。境内にある秋葉山常夜燈は、かって二川新橋町の街道桝形南にあったもので、文化6年(1809)に建立されたものです。また、二川宿の人々の寄進による燈籠二対が今に伝わっています」『由緒』。「神社の創立は永仁三年(七〇〇年前)鎌倉鶴ケ岡八幡宮より勧請し奉ると伝えられる。慶長六年(三九四年前)伊那備前守より神領高二石を寄進された名社であり鎮守地が東海道二川宿の要衝となるにつれて諸人の往還頻繁となり公儀役人を始め遠近各地より崇敬賽者が夥しかった。例祭には特殊神事として御輿の渡御に従い氏子中より山車子供御輿などの供奉があり町内神賑を極める。」一の石鳥居。参道両側は白塀と玉砂利。二の朱の鳥居。境内三の鳥居前の1809(文化6)年建立の『秋葉山常夜灯』。『悠仁親王殿下御誕生記念碑』とその後ろに手水舎。悠仁親王殿下(ひさひとしんのうでんか)は秋篠宮文仁親王と同妃紀子様の第1男子。手水舎の巨大な龍。そして『拝殿』。拝殿の屋根の見事な鬼瓦。『二川八幡神社の末社、境内社』。『若宮神社』『稲荷神社』。『津島神社、三峰神社』『護国神社』。『井戸』「その昔、この八幡神社にも「湯立て神事」がありました。境内に湯釜を据え付け、この井戸から厳かに汲み上げられた水を沸かしました。この湯の周りで神主さまが祝詞を一心に唱えました。白装束姿の地区の長老がこの清められた湯を授かり、神殿や境内の各所、それぞれの町内に向って湯を振り掛ける所作を十三回、繰り返したとか。「この湯を飲むと身も心も清めることができる」と集まった人々に釜の湯を配っていた。この神事は、四年に一度の閏年に町内の平穏を願って行われました。」先代の扁額であろうか?そして小川に架かる旧街道の橋を渡る。川の名は『二川』なのであろうか?町には旅籠、商家の東駒屋・駒屋など江戸時代の面影を残していると思われる建物も、所々に見ることができた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.21
コメント(2)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に白須賀宿を二川宿に向かって歩を進める。右手に『庚申堂』入口鳥居が。天和元年(1681)に立山長老に建てられましたが、現在の建物は、天保十二年(1841)に再建されたものです。この地方にある庚申堂の中では最も大きく、堂々たる鬼瓦が目を引きます。境内には、見ざる、聞かざる、言わざるの三匹の猿の陶像があります。須弥壇(しゅみだん)の上には厨子が固く扉を閉ざしています。この厨子は六十年に一度開帳される秘仏で、地域では今もこれを守っています。以前は尼僧がいたが、今は無住であると。この地方最大の庚申堂。庚申堂前には庚申信仰による「見ざる、言わざる、聞かざる」の三匹がいたが白須賀の庚申堂には実はもう一匹猿がいるのだと。論語(孔子)の「礼にあらざるもの視るなかれ、聴くなかれ、言うなかれ、行うことなかれ(=せざる)」、または、庚申信仰(庚申の夜は身を慎んで徹夜し女性を避ける)の「同衾せざる」から来ているのだと。『見ざる』。庚申信仰とは、60日又は60年ごとに巡ってくる庚申(かのえさる)の日に営まれる、夜籠もりを中心にする信仰行事。庚申さまといっても、猿と結びついたのは後のこと。『言わざる、聞かざる』。右手にあった『火除け地跡』碑。火除地(ひよけち)とは、火事での延焼防止のために設けられた防火地帯。江戸幕府は多発する火事に悩んだが、1657年の明暦(めいれき)大火後に設置。江戸城用の火除明地、一般市街地には広道(ひろみち)・広小路(ひろこうじ)、広道に土手を築いた火除土手として設置された。町医者『玄斎堂』跡。跡見花蹊の遠い親戚にあたる遠江の医師 「跡見玄山」がこの地で開業医した院であると。民家の美しい『マンビテラ』の花。キョウチクトウ科の花で花色は赤紫やピンク、白などがポピュラー。葉は硬めで鈍い光沢があり、特徴的なシワが。夢舞台東海道道標『境宿』。ここに一軒の茶屋があり、だんごにそてつの餡を入れた餅を柏の葉で包んで売っていた。これを「さるが番場の勝和餅」といい、広重や北斎の浮世絵にも名物として登場すると。売っている店を歩きながら探したが見つからなかった。二川宿の本陣に出ている店で売っているようであったが。『白須賀マップ』を再び。ここが西から来ると『白須賀宿』の入口。『高札建場跡』碑。安藤広重の東海道五拾三次之内・二川『猿ケ馬場』 広重の描いた「猿ケ馬場」は、白須賀宿を西に出たすぐのところ、境川の少し手前にあった。従って、二川宿まではまだかなりある。この地は柏餅が名物で、広重の絵にもあるとおり「名物柏餅」の看板を掲げた店が何軒かあったが、現在は何もない。3人の女性は瞽女(ごぜ)(三味線を弾き、歌を歌うなどして銭を乞う目の不自由な女性)である。『成林寺』入口。『法華宗 久松山 成林寺』の『本堂』。湖西市境宿にある法華宗陣門流の寺院で、開山当初は久成坊と呼ばれていた。境宿村の開創もこのころだろうと。これより『白須賀宿』、二川宿まで5.8km。県道173号線と旧東海道との合流地点。県道173号に合流した所左手に『村社 笠子神社』が。かつては海岸部にあったこの神社も度重なる津波の影響でこの地に移されたと。国道1号と合流し、この先で「愛知県豊橋市」に入る。今年になって箱根西坂を下り三島宿を通って白須賀宿まで静岡県内22の宿場を歩いてきたが静岡は長かった。あと21宿歩くとその先が三条大橋だ。『境橋』かっては遠江(静岡県)と三河(愛知県)の境をなした境川に架かる橋。現在は静岡県と愛知県の県境。長~~~い静岡県の旧東海道歩きを克服し愛知県に漸く入る。この先に国道1号線。畑の中にポツンと一体の仏像が。この場所で交通事故等があったのであろうか?国道1号線と合流。国道1号線を暫く歩くと右側に『一里山の一里塚(東細谷一里塚)』。右には地蔵菩薩が二体と供養塔が。一里塚正面には,秋葉社と地蔵尊の祠があった。豊橋では、一里山の一里塚と言っているが、地名をとって『東細谷一里塚』とも呼ばれている。「豊橋市指定史跡 一里山の一里塚 昭和五十年十一月八日指定慶長九年(1604)徳川家康は、江戸日本橋を起点として東海道・東山道・北陸道に主に榎を植えた一里塚を築かせ、これを全国に普及させた。一里塚は、三十六町を一里とした里程標で、旅人にとっては里程や乗り賃支払いの場合の目安となり、日ざしの強い時には木陰の休所ともなった。江戸時代には、道中奉行の監督下で吉田藩が松並木とともに保護維持にあたったが明治以降その必要性も次第に失われ荒廃にまかせられた。この一里塚は、もと道路を挟んで左右に一里塚があったが、南側のものは破壊されて屋敷の一部となり、僅かに残った痕跡も大正末期頃にはまったく滅失してしまった。現在、幸に保存されて残るこの塚は東西十一米、南北十四米、高さ三米で、旧東海道の面影を残す極めて稀な遺跡の一つである。」『秋葉神社』『津嶋神社』の祠の内部を格子の間から。この写真撮影前に、足元の石に引っかかり、バランスを崩し転倒。左足の脛(すね)を擦りむいたが僅かの出血で大事に至らなかったのであった。まだ小さいがキャベツ畑は拡がっていた。この付近の小石混じりの赤土は、小石に保温効果がありキャベツ栽培に向いているのだと二川宿の土産売り場のオバちゃんからこの後に。畑の中の林の中に『豊清神社』があるのだろう。豊橋市豊清町茶屋ノ下の歩道橋が前方に。この近くに昔は茶屋があったのだろう。歩道が工事中とのことで、一車線規制の車道を歩く。ファミリーマートでトイレ休憩し、アイスクリームを楽しむ。そして負傷した脛の手当を自分で。更に二川宿に向かって進む。右手の新幹線線路と併行して国道1号線を進む。旧東海道はこの先『二川南ガード』を右に曲がるのであった。新幹線ガード下を潜る。新幹線ガードを振り返り、旅友の姿を確認。『梅田川』に架かる『筋違(すじかい)橋』を渡る。『梅田川』。愛知県豊橋市・静岡県湖西市を流れる本流の二級河川。そして梅田川の先に見えるのが山頂に岩肌を晒す奇岩・『立岩』が見えた。再び振り返ると、新幹線の線路が浜名湖に向かて続いていた。そして更に東海道線の線路を渡る。踏切を渡り終わり線路沿いに進むと貨物列車が通過。そして前方に『二川宿』の姿が目に飛び込んで来た。東海道三十三番目の宿場、『二川宿』。見付跡など宿場口を示す建造物は残っていないものの、まっすぐに伸びる旧街道と街道沿いの軒の並びに往時を偲ぶことができるのであった。交差点の角に『二川宿案内所』の建物・『川口屋』が。時間は14:44。ここには地域のイベントに関するパンフレットや二川宿についての案内図などが配布されていた。また、往時の写真なども展示されているので、二川宿に入るとまず立ち寄ってみると良い。川口屋の角に、『二川一里塚跡』が。江戸日本橋から数えて72番目の一里塚である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.20
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『おんやど白須賀』を出ると直後の左手に「多数の石碑」が並んでいた。『県営圃場整備の碑』湖西市立白須賀小学校近くのプール前の緑地の石碑群であった。宿場の有名の顕彰碑等であると。『白須賀宿マップ』。白須賀宿は、元来、汐見坂下の海岸沿いに町並みがあったが、宝永4年(1707)の地震・津波により大きな被害を受け、この後汐見坂上の台地へ宿場の移転がおこなわれた。移転後の町並みは、十四町十九間の長さがあり、道幅は2間であった。 東から東町・橋町・伝馬町(東・中・西)・高見町・西町があり、この中に本陣1・脇本陣1・旅籠屋27軒、人口は天保14年(1843)の調査では、加宿(かしゅく)境宿新田を含めて2704人、総家数は613軒が軒を連ねていた。宝永5年(1708)に移転したことにより、汐見坂から境宿新田までの限られた地域に宿割をしたためか、間口は平均3.7間であり、元町の4.3間より狭くなっていると。湖西市立白須賀中学校正門前を通過。左手に『潮見坂公園』石碑。夢街道東海道道標『白須賀宿 潮見公園跡』二川宿まであと7.6Kmだ。正面に『白須賀宿石碑群』。大正時代に公園として整備されたが現在は学校が建ち碑だけが残されてしまったようだ。『潮見坂公園跡と石碑群』織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰るとき、徳川家康が信長をもてなした場所だそうだ。ここ潮見坂上には、明治天皇が明治元年10月1日にこの地で休憩されたのを記念に、建てられた明治天皇御聖跡碑をはじめ、白須賀出身の国学者夏目甕麿と、息子加納諸平、正直者の藤屋五平、義僕平八郎らの顕彰碑や忠魂碑が建てられていた。また、ここから旧道を東へ百メートルほどいった所に、元白須賀町長の山本庄次郎、医師で地域の文化振興に尽くした石川榮五郎らの石碑も建てられていた。『明治天皇御遺跡地記念碑』。明治元年9月20日、明治天皇東幸のため京都を出発。木戸孝允も供奉。道中の10月1日、三河国の白須賀にて天皇が初めて海を見られたことを受け、木戸は日記に「今日 輦輿元白須賀に被爲至始て 至尊大洋を 叡覽被爲遊暫御途中に 輦輿を被爲止れ從是皇威の洋外相輝ん始なりと感泣に不堪也」と碑の下に。『遠江八景「潮見晴嵐」』遠江八景は、浜名湖の見事な風光や景観の中でも特に秀でた八景を選び抜いている。「舘山秋月」は舘山寺と内浦、「弁天夕照」は舞阪、「浜名暮雪」は新居の今切口、「潮見晴嵐」は白須賀の潮見坂、「瀬戸夜雨」は猪鼻湖の瀬戸、「五山晩鐘」は大福寺、摩訶耶寺、方広寺、龍潭寺、初山宝林寺の名刹五山、「寸座落雁」は寸座と佐久米、「細江帰帆」は引佐細江、というようにそれぞれに特長的な景勝の地や水面に光を当てており、古代から今に流れている時間の妙も重なっているのだと。『忠魂碑』。他にも白須賀出身の国学者夏目甕麿と息子の加納諸平、正直者の藤屋五平、義僕平八郎らの顕彰碑も建てられているのであった。『潮見晴嵐』。見事な駿河湾の光景。『明治天皇御偉跡』碑。遷都の時立ち寄られた時の様子が木戸孝允によって記述されていると。湖西市立白須賀小学校 正門。道路の右手に小さな神社が。そして白須賀の街並みに入る。天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によれば、白須賀宿は、江戸日本橋から70里22町(約275キロメートル)の距離で、町並みの長さは東西 で14町19間(約1.5キロメートル)、宿内の人数及び家数は、加宿境宿村を含めて2,704人、613軒でした。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋が27 軒あり、宿場としては中くらいの規模でした。現在でも、格子戸のある古い民家や、間口の狭い家並みなど、江戸時代の面影を残していた。十数分歩くといよいよ「格子戸のある古民家」(左)が並ぶ、かつての宿場街に入って行く。ここでは当たり前に格子戸の家が並んでおり、たっぷり堪能することができるので、ゆっくり、のんびり歩きたかったが・・・・。曲尺手(かねんて)の東側から鷲津停車場往還が分かれる。分岐点に明治四十五年(1912)建立の鷲津停車場往還道標が。その先に『曲尺手(かねんて)』が現れる。所謂『クランク』。『曲尺手』は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りて挨拶するしきたりであった。しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭にとっては一番の失態である。そこで、斥候(前衛武士)を行列が見えない曲尺手の先に出して、行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄りのお寺に緊急非難をしたのだと。『白須賀郵便局』。更に旧東海道を進む。右手が旧東海道 白須賀宿 『大村本陣跡』。『本陣跡』石碑。『大村本陣跡』。「前略、ここは、本陣の大村庄左衛門家跡で、元治元年(1864)の記録には建坪百八十三坪畳敷ニ百三十一畳、板敷五十一畳とあります。大村家は、江戸時代を通じて白須賀宿の本陣として栄え、その主人は代々庄左衛門を襲名し、白須賀の名主のほとんどの期間を務めた家です。この本陣は、明治元年(1868)の行幸と還幸、翌ニ年(1869)の再幸のときに明治天皇が休憩された所でもあります。」伊能忠敬の測量隊も泊まったそうだ。4~50m先・民家の前にあったのが『脇本陣跡』碑。「桐屋」と称した三浦惣次郎脇本陣だった。そして夢舞台東海道道標『白須賀宿 問屋場跡』。二川宿まであと6.7Km。『酒屋 沢瀉屋(おもだかや)』がこの場所にあったと。脇本陣跡碑先の交差点向こう側に『夏目甕麿(みかまろ)邸跡・加納諸平誕生地碑』が塀の一角に立っていた。 聞いたことが無い名前だが、国学者・歌人として国学の普及に努めた人物と。白須賀生まれの国学者 夏目甕麿 は通称嘉右エ門、萩園と号した。酒造を業とし、国学を内山真龍 に学び、のちに本居宣長 の門に名を連ねた賀茂真淵 の「万葉集遠江歌考」「鈴の屋大人都日記」等を上梓出版して国学の普及につとめた。著書に「古野の若菜」等数編がある。文政五年(一八ニニ)没。子供の加納諸平 は甕麿の長子、柿園と号した。若くして紀州和歌山の本居大平のもとに寄寓。乞われて加納家の養子となり、のちに紀州候に召されて国学を講じ、国学所総裁となる。諸平には「当代類題和歌選集」のほかに柿園詠草拾遺等の家集をはじめ、数多くの著作がある。安政三年(一八五九)没。『夏目甕麿(みかまろ)邸跡・加納諸平誕生地』の全景。右手に『神明宮』入口。階段を上って行く。『拝殿』。不漁で困った漁師に集めた上納金を融資し期限過ぎても漁がなく、困惑する漁師一同に代わって自害し住民を救った代官の話が残されていると。斜めから。『火防の槇』。「東海道白須賀の宿は、津波の難を恐れ、宝永五年(1708年)潮見坂の下から、坂上へ宿替えをした。それまでの坂下の白須賀を、元宿と呼ぶのはこの為である。宿場の移転以来、津波の心配は無くなったが、今度は冬期に西風が強く、たびたび火災が発生し、しかも大火となることが多かった。これは当時、殆どの家の屋根が、わら葺きであったことにもよる。そこでこの火事をくい止める為に、生活の知恵として工夫せられたのが火防で、人々は「火除け」とか「火除け地」とか呼んで大切にしていた。火防の広さは、間口二間(3.6M)奥行四間半(8.2M)で、常緑樹で火に強い槙が十本くらい植えられ、元は宿内に三地点・六場所の火防があった。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.19
コメント(0)
先日、10月14日(火)早朝に、我がブログアクセス数も300万回を超えました。皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。200万回通過時から延べ450日になります。200万回通過時と同様ですが、これからも毎日の出来事を『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを書き続けて行きたいと思っています。文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』として日々のブログを書き続けて行きたいと思っているのです。本日の我がブログへのアクセスありがとうございます。--------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次『旧東海道を歩く』の白須賀宿の散策を続ける。『郷社 内宮神明神社』石鳥居下から、階段、拝殿を。民家前に『高札場跡碑』と『一里塚跡碑』(右)が並んでいた。 『高札建場跡』(左)幕府・大名が、法令や禁令・通達を板札に墨書した高札を掲示した場所を高札建場または、単に建場といい、宿場・渡船場・問屋場など人の目につきやすい場所に設置されました。白須賀宿にはここ元宿と東長谷に一箇所ずつ設置されていたほか、加宿である境宿村にも一箇所設置されていました。『一里塚跡』(右)一里塚は徳川家康が最初に手掛けた東海道の整備事業のときに設けられたものです。 慶長9年(1604)から江戸日本橋を基点に一里(約4km)ごとにつくられました。 塚は旅人の目印のためにつくられたもので、街道の両側に高さ2mほどの盛土をし、榎・しい・松などが植えられました。この辺りでは一里塚のことを一里山と呼んでおり、石碑にも「一里山旧址」と彫られています。この一里塚は江戸から70番目の「白須賀一里塚」。70里ということは日本橋から275km。旧街道を先に進むと右手の筋角に 「潮見観音 蔵法寺」 の立て看板があり、入って行くと突当りに曹洞宗の龍谷山蔵法寺があった。蔵法寺には「潮見観音」という有りがたい観音様が祀られているのだ。遠州灘を行き交う船は必ず帆を下げ観音様の名前を念じて通り過ぎることになっていたのだと。蔵法寺『山門』扁額には『龍谷山』と。『本堂』。蔵法寺は、西暦790年頃(奈良時代末から平安時代)に、真言宗の寺として開基されたが、江戸開幕前の慶長3年(1598)に曹洞宗の寺として開基され、その後、慶長8年(1603)には家康公から23石を賜り、寺勢は盛んとなりなんと寺領は街道を跨って遠州灘の海岸まで達していたといいます。江戸時代を通じて、将軍代替わりに際しては、寺の住職は朱印状書き換えのため江戸に参府したといいます。本堂には、本尊の地蔵菩薩とともに、10年に1度の御開帳となる潮見観音が安置され、境内には三十三観音が祀られている。『潮見観音』。『潮見観音像』。山上から遠州灘の大海の潮を見るということから、『潮見観音像』と呼ばれています。また海上安全を願う漁民の習わしとして、遠州灘を行きかう船は必ず帆を下げ観音様の名前を念じて通り過ぎることとされていました。そのためまたの名を「帆下げ観音」とも呼ばれています。本尊は明治の末頃まで潮見坂の途中にあった観音堂にありましたが、今は蔵法寺の本堂に安置されています。境内には銅製の潮見観音像が建立されていた。『潮見観音縁起』「承応3年(1654)3月10日当蔵法寺前の、遠州灘の海中より漁師の網にかかって御出現された観音様で、お丈は1尺9寸(57.6cm)でその後堂内に安置され、毎年供養されて居りました。 宝永4年(1707)10月4日遠州灘一円に大地震があり、その時起きた大津波に一瞬にして元町宿は悉く浪に呑まれ大被害を受けました。そのとき坂の上に逃れて、その地に現在も住んでいる子孫も多く居ります。その前夜徳川幕府参勤交代で岡山藩城主池田綱政公当地本陣に宿泊中で、夜半観音様が夢枕にお立ちになり、「この地に大地震あり、早々に立ち去れ」とお告げがあったので、夜半急ぎ一行は本陣を出立し危うく難を免れることが出来ました。綱政公は観音様のご加護に感謝し邸内に潮見観音の御分身を祀り、子々孫々現在の池田牧場まで続いて居ります。又、同地の長泉寺にも白須賀観音として、御分身が祀られて居ります。」『宝篋印塔』。『水子地蔵尊』。『水子地蔵尊』。「六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)で苦しむ衆生を教化、救済されたり流産または堕胎した胎児や、幼くして亡くなった子供が、賽の河原で苦しんでいるのを救われる子供を守る菩薩さまで、慈悲の相をされた阿弥陀如来の分身であられる。」『安産 子安地蔵尊&子育て 三十三観音』。境内の『稲荷神社』。『正一位稲荷大明神』。夢舞台東海道道標『白須賀宿 潮見坂下』。蔵法寺の先の右手の山道が『潮見坂』の入口となる。かなりの急坂を必死に登って行った。それにしても、人通りもない急坂の山道。坂を登りきった先に小・中学校があったが、この坂道を子供達は毎朝登っているのであろうか?それともこちら側は別学区?そして太平洋・駿河湾・遠州灘が眼下に現れた。潮見坂よりの景色は昔と変わっていないようだ。西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や富士山が見ることが出来る場所として、古くから旅人の詩情をくすぐった地であり、今でもその眺望は変わらず、訪れる人を楽しませてくれる。 浮世絵で有名な安藤広重もこの絶景には、関心を抱いたようで、遠州灘を背景にその一帯の風景を忠実に描いている。潮見坂は、汐見坂・塩見坂・観潮坂とも書き、東海道屈指の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されています。西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や富士山をみることができる場所として古くから旅人の詩情をくすぐった地でした。永享四年(1432)には、富士遊覧に出かけた室町幕府六代将軍足利義教がこの地で休息をとり公卿の飛鳥井雅世らとともに歌会を開きました。江戸時代には、浮世絵師の歌川広重も遠州灘を背景にその一帯風景を鮮やかに描いています。」息急き切って坂を登り切ると左側に『おんやど白須賀』の休憩所があった。冷たいお茶の接待があったので上り坂の疲れをとることが出来たのであった。ここは、東海道宿駅開設400年記念として建設され白須賀宿の歴史文化や旅人の交流休憩施設となっているのだと。白須賀宿の歴史文化に関する知識を広めるとともに、散策する人々の交流休憩ホールとして、新たな文化、交流の発信拠点として活用されています。展示概要1.宝永4年に宿を襲った津波の記録2.白須賀宿の文化人3.和紙人形による潮見坂風景の再現4.白須賀宿昔語り5.企画展示 他10月6日(日)に開催される新居関所の特別見学会・講演会のポスター。『歌川広重作 東海道五拾三次 白須賀』。白須賀という地名の由来は、「白い砂州の上に開けた集落」であるといいます。峠の上から遠州灘を一望できる潮見坂は、富士山が見える西方の限界といわれた景勝地でもあります。この宿場は渥美半島の村々へ通ずる道の出発点でもあり、賑わっていました。大名行列の一行が黙々と坂を下って来る様子が道の勾配を感じさせ立体感を出しています。資料館の中は『ジオラマ』があり和紙人形の潮見坂風景が楽しめた。入り口から中庭を抜け、展示室に入ると正面一面に、津波の記録コーナーが。1498年の明応地震(めいおうじしん)の津波の跡も確認できると。『東栄鑑』には「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ波シトナル、是ヲ今切ト号ス」、『遠江国風土記伝』には「湖水変為潮海矣」とあり、かつて淡水湖であった浜名湖が、津波により太平洋とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大したと伝えられている。宝永4年(1707)に白須賀宿を襲った津波は、宿場を全滅させる深刻な被害をもたらした。翌年には津波の被害を避けるため、幕府の助成金を得て、汐見坂下の元町から台地上の現在地へと宿場を移転した。宿場だけでなく、渥美半島の遠州灘に面した海浜沿いの村々も台地上に移転している。宝永4年の津波は、それまでにない大きな被害をもたらした。そして展示室内をしばし散策。『関札』。関札とは、大名や旗本、公家などが宿泊・休憩する際に、利用月日、名前・官職名、休泊の別を墨書きし、本陣門前や宿場の出入口などに掲げた木製の札のこと。左:閏三月四日 尾張中納言休右:三月廿六日 松平出羽守休『白須賀宿の文化人』。『甲冑(かっちゅう)』。潮見坂付近からの『発掘品』と『浮世絵』。白須賀宿は元々、汐見坂下の海岸沿いにありましたが、宝永4年(1707)の津波被害により翌年に今日の汐見坂上の台地へ移転してきました。近年、大津波以前の宿場や村々の様子が海浜にある遺跡の発掘調査でわかってきたそうです。そして挿絵入りのいろいろな地元『白須賀の昔話』👈リンクが紹介されていた。『潮見観音』👈リンク。承応三年(1654)3月のことでした。白須賀の蔵法寺前の海が突然明るく輝きだしました。村人は、舟をこぎだして海中の光るところを探ってみましたが、何もありません。それからしばらくしたある日、信心深い漁師の網に60cmぐらいの木像の聖観音様があがってきました。喜んだ村人たちは、蔵法寺境内に観音堂をつくってお祭りし、「潮見観音」と申し上げました。海中から出現された観音様というので、遠州灘を通る舟は帆を下げてご加護を祈願しました。別名、「帆さげ観音」とも言いました。50年後の大津 波のあった宝永四年(1707)、10月4日の前日に、備前 岡山の池田綱政公が参勤を終えての帰り、白須賀宿に泊まっておりました。その夜、観音様が綱政の夢枕に立って、「 潮見観音である 。いま、御身に災害が迫っている。早くこの地を去られよ。」とのお告げがあり ました。綱政は早朝出立して坂上にたどり着くと、大津波が押し寄せ白須賀 宿は全滅してしまいました。綱政とそ のお供衆は潮見観音のおかげで一命が助かったそうです。『袈裟切り地蔵』👈リンク。戦国時代の終わりのころのことでした。白須賀の潮見坂の石地蔵が夜な夜な化けて出るそうなという噂が立ち、日が暮れると通る者はありませんでした。ある年の秋の日暮れどき、潮見坂の宿(ある本には二軒茶屋とある)に泊まった若い浪人が、旅籠の主人からこの話を聞いて、「その化け物の正体を見てやろう」と、人々がとめるのも聞かずに出て行きました。やがて、浪人は潮見坂の上の地蔵の前に立って、しばらく地蔵をにらみつけていました。6体並んだ地蔵さまは、いつまでも見つめていても身じろぎひとつせず、静かなものでした。「今宵は、化け物はお休みかな」と、ひとりごとを言いながら、大胆にも浪人はそこの石を枕にして、道ばたに寝ころんでしまいました。およそ、30~40分間も眠ったかなと思われたころ、「アハ、アハ、ハア」と大声で笑う声に、浪人はハッと目をさましました。浪人がとび起きて身構えると、真ん中の石地蔵が一丈余もある一つ目入道になり、真っ赤な舌を出して笑っているではありませんか。「おのれ!ついに現れたか!」と叫んで浪人は抜き手も見せず、化け物のすぐ横ざまの石地蔵にハッシと斬りつけました。「アアーッ」という悲鳴を残して、化け物は消え去り、やがてあたりは元の静けさに戻りました。夜更けて旅籠に帰った浪人から、この様子を聞いた宿の主人が、翌朝早くに、下男や近所の人々と一緒に潮見坂に行ってみると、六地蔵のうちの1体が、ものの見事に肩から胸にかけて袈裟切りになって倒れていました。それからは、こんな化け物の話はなくなりました。人々は倒れた地蔵さまをおこして祭りました。いつのころから「袈裟切り地蔵」と呼ばれるようになり、災難除けの地蔵として信仰を集めるようになりました。『猿ヶ番場の勝和餅』👈リンク。「勝和乃由来」という古記録(白須賀宿三桝屋文書・跡見家所蔵)に、勝和餅の由来譚が掲載されています。ここに読み易い表現に書きかえて誌しておきます。そもそも、この猿のばばの柏餅と申すのは、天正18年(1590)秀吉卿が小田原へ御進発の時に、ここに馬を留められて、御床几(折りたたみ式の簡単な掛け)をお立てになられました。当時、この辺は椎の木山で、家はこの茶屋が一軒だけでした。家には93歳の老爺と82歳の老婆夫婦が住んでいました。生業らしい仕事もなかったので団子にそてつの飴を入れて餅にして、木の葉に包んで売っていました。この餅を秀吉卿に差し上げると、「この餅は何というものか」とお尋ねになられましたので、「これは、せんく開餅と申します。その昔、後醍醐天皇の御時、赤松円心という御方が この餅を戦場へお持ちなされたと承っております。そてつの飴が入っておりますから、腹持ちがよいと、先祖が書き誌しております。私どもも、これによって生命をつなぎ、長く安楽に暮らしております」と申し上げました。秀吉卿は、「めでたい餅であろうぞ。長命のめでたいことはよく判ったが、お前はよくも猿に似ていることよ」と、しきりにお笑いになりました。その時、津田隼人殿と富田左近将監殿が婆に向かって、「今度の合戦に御勝利を得られたならば、御褒美が下されよう」…略…この年八月秀吉卿は勝ち合戦で御帰国の節、またまたこの所に床几を御立てなされて、婆に御褒美をくださいました。そして、「今度は、この餅を『猿がばばの勝和餅』と申せ」と仰せられました。『清正公さま』👈リンク。白須賀の海が荒れ、地引き網の舟が転覆して一人の若者がおぼれてしまいました。町中が大騒ぎしておったところへ、九州の殿様の行列が通りかかりました。話を聞いたお殿様が、一人の家来を介抱につかわしました。家来の侍は、「まだ、助かる。私どもが本陣に着くまでに必ず息を吹き返すから安心しなさい。息を吹き返したら知らせるように。」と 言って、護符を置いて立ち去りました。行列が本陣に着いたころ、若者は侍の言うように息を吹き返しました。家人の一人が侍に知ら せると、侍は自分の手のひらに菜種油を注いで灯芯を立て、火をつけました。そして、「これが命をとりとめた火でござる。」と言われました。若者は命が助かったお礼に、九州にある清正公(加藤清正)の神社に参拝して、その分霊をいただいてお祭りしたということです。『片葉の葦』👈リンク。昔、都で恋仲になったお姫様と男がありました。しかし、しばらくして男は事情があって都を離れてしまいました。お姫様は、男の居所をあれこれ捜しましたがわかりません。そのうち、風の便りで男が新居の関にいることを知りました。居所がわかれば、じっとしていられません。御姫様はどうにもいたたまれず、胸をふくらませてその男を訪ねて行きました。ところが新居に着くと、夢にまで見た愛する男は、すでにこの世の人ではなくなっていました。亡き骸は、新居の橋本というところにある高師山の紅葉寺に葬られていました。お姫様は泣き崩れてしまうのを必死にこらえ、丁重に供養して都へ引き返そうとしましたが、白須賀元町の八幡様の辺りまで来ると、我慢できずにとうとう「帰るのはいや」と言い出しました。お姫様は、お供の者がどんなになだめても聞かず、路傍の葦の葉を固くつかんで離しません。お供の者は、仕方なくお姫様を無理矢理引っ張って連れてきました。そのとき、つかんでいた葉がとれて、片側だけ葉がなくなりました。お姫様はとれた葉を握ったまま、引きずられるように都に帰って行きました。それからというもの、そのあたりの葦の葉は、お姫様の悲しい思い出が通じたのか、それとも八幡様が哀れに思われたのか、なかよく並んで片方ばかりに向いて出るようになったということです。『豆石』👈リンク。昔、東海道での難所の1つといわれた潮見坂に、珍しい豆石というものがありました。そして、これを拾った人には幸福が訪れると伝えられ、街道を往来する多くの旅人は、潮見坂にやってくると、この豆石を探し求めたそうです。ある時、わがままなお姫様が江戸から京への旅に出ました。しかし、東海道の長い道中のため、旅の疲れから途中で駄々をこねてはお供の者は、そのつどいろいろとなだめながら連れてまいりましたが、潮見坂にさしかかると、長くて急な上り坂のため、いよいよ動こうとはしませんでした。そんなお姫様に、「この潮見坂には豆石というものがあります。そして、これを拾った人はみんな幸福になれるといわれています。どうかお姫様もよい人に巡り会って幸福になれますように、豆石をお探しになってみたらいかがでしょうか。」と、お供の者が言うと、お姫様も、「そうか、これはなかなかおもしろい。それでは、わたしもそれを拾って幸福になりたいものだ。」と、早速喜々として豆石を求めて坂を登ったと伝えられております。また、ある時、初老の夫婦連れが京見物のために江戸から上ってきました。二人は長旅の疲れも出て、新居宿からは駕籠に乗って吉田宿(豊橋)まで行くつもりでした。ちょうど、潮見坂ののぼり口に来たところで、2つの駕籠が止まり地面に降ろされました。2人は何事かと思い駕籠かきに尋ねました。すると、「ここは白須賀宿の潮見坂といって、世にも珍しい豆石というものがあります。そして、この豆石を拾うとだれにも幸福がやってくるといわれます。そこで、お客さんにも幸せになっていただくよう、これから歩いて豆石を探していただきたいのです。」と言い、坂上まで歩くことをすすめました。そこで、2人は、「それなら私たちもそれを拾ってもっと幸せになってみたい」と、手を取り合って坂をのぼっていきました。潮見坂は当時難所でしたので、駕籠かきもこのように豆石の話を客にすすめては、この坂で自分たちの疲れをいやしたといわれています。木戸孝允日記銅板。明治元年9月20日、明治天皇東幸のため京都を出発。木戸孝允も供奉。道中の10月1日、三河国の白須賀にて天皇が初めて海を見られたことを受け、木戸は日記に「今日 輦輿元白須賀に被爲至始て 至尊大洋を 叡覽被爲遊暫御途中に 輦輿を被爲止れ從是 皇威の洋外相輝ん始なりと感泣に不堪也」と記している。当時の旧東海道の浜名湖、白須賀宿地図。白須賀凧。冷たいお茶を何杯も頂き、この『おんやど白須賀』を後にしたのでした。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.18
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『浜名旧街道』を進むと夢舞台東海道道標『湖西市 紅葉寺跡』が左手に。橋本宿碑から7~8分、右側の高台に「紅葉寺跡(もみじでらあと)」(左)があった。紅葉寺はもともとは紅葉山本学寺という曹洞宗の寺で、地蔵菩薩を本尊として祀り、白須賀にある蔵法寺の末寺でした。明治期に神社が行った取調べの記録によると、鎌倉幕府四代将軍源頼経が上洛の際にこの地の長者の家に滞在した際に頼経の世話をした長者の娘が、後に鎌倉に召し寄せられ、頼経の死後にこの地に戻って出家し、正嘉二年(1258)に頼経の菩提を弔うために建立した寺が紅葉寺とされています。紅葉寺と本学寺との関係は、江戸時代に書かれた『浜名橋考』によると、「足利義教公橋本の寺に入らせ給ひて風景を愛し、紅葉を賞し給ひしより紅葉寺と云う名あり、其後頽廃せしを本学といふ僧再建して今は本覚寺といふ」と記されています。紅葉寺の前辺りから「松並木」が続くが松並木の左側には田園風景が広がり、なかなか良い雰囲気が出ている。『紅葉寺跡』への階段を上る。『紅葉寺』と刻まれた石碑。『紅葉寺跡』「この寺は紅葉山本学寺といい、室町幕府六代将軍足利義教が永享44(1432)に富士遊覧のときに立ち寄って紅葉を観賞したので紅葉寺 といわれている。 建久元年(1190)の源頼朝上洛のおり、橋本に宿泊した頼朝の寵愛を受けた長者の娘がのちに出家して妙相と名のり、 高野山より毘沙門天立像を勧請して建てた寺といわれている。」紅葉寺と本学寺との関係は、江戸時代に書かれた『浜名橋考』によると、「足利義教公橋本の寺に入らせ給ひて風景を愛し、紅葉を賞し給ひしより紅葉寺と云う名あり、其後頽廃せしを本学といふ僧再建して今は本覚寺といふ」と記されています。現在寺の建物は残っていませんが、石段や供養塔などが整備されています。階段を上がると境内の石仏群、歌碑?が右手に。正面から。そして境内には多くの大粒の銀杏が落ちていたので、足で銀杏の実を取り出し持っていたビニール袋に厳重に密封して持ち帰ったのでした。そして帰宅の翌日に妻が殻を割り焼いてくれました。白須賀に続く松並木を進む。畑にあったこの赤い実は何であろうか?オクラの花に似た薄いピンクの花が咲いていたが。ローゼルであろうか。その実はジャムや塩漬けとしても食用となるとのことであるが。ポーチュラカの花であろうか。和名はハナスベリヒユ(花すべりひゆ)。浜名旧街道の松並木の途中左側にあった石碑は『藤原為家と阿仏尼の歌碑』。★風わたる 濱名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟 前大納言為家★わがためや 浪もたかしの浜ならん 袖の湊の浪はやすまで 阿佛尼「藤原為家(11198~1275)鎌倉中期の歌人で定家の二男、初め朝廷に仕え父の没後家系と学統を継いだ。承久の乱後「千首和歌」で歌人として認められ「続後撰和歌集」 「続古今和歌集」の勅撰集を始め多くの私家集を編んだ。 歌風は温和、平淡。この歌は「続古今和歌集」巻第十九に収められている。阿佛尼( ? ~1283)朝廷に仕えた後藤原為家の継室となり、夫の没後出家し鎌倉下向の折「十六夜日記」をなした。この歌は同日記にあり、当時のこの辺りを豊かな感性でとらえている。よって為家・阿佛尼の比翼の歌碑とした。」田園地帯をひたすら歩き浜名の街並みに入る。左手にあったのが『立場跡』碑。『立場跡』「旅人や人足、駕籠かきなどが休息する茶屋を立場といって、江戸時代、東海道の各所に設けられていた。この立場は、新居宿と白須賀宿の間に位置し、代々加藤家がつとめてきた。立場では旅人を見ると湯茶をすすめたので、ある殿様が「立場立場と水飲め飲めと鮒や金魚じゃあるまいに」という戯歌(ざれうた)を詠んだという話が残っている。」次の訪問寺・『東新寺』に向かって旧街道を進む。両側に民家が立ち並び、往時の街道を偲ばせていた。『東新寺』入口。『本堂』。山 号■松林山寺 号■東新寺住 所■静岡県湖西市新居町浜名2660宗 派■臨済宗方広寺派本 尊■聖観世音菩薩札 所■浜名湖岸新四国八十八ヶ所霊場第64番札所東新寺の創建年代等は不詳であるが、境内には弘法大師・観音菩薩などの石仏がある。本堂の隣には神社が。石仏群。歴史を感じさせる民家。街道右手の山が迫ったところの段上に新しい秋葉山常夜燈の建つ秋葉神社があった。秋葉神社の創建年代等は不詳であるが、社殿には金刀比羅宮が合祀されているのだと。この先に『明治天皇御野立所阯碑』が左側に立っていた。「明治元年(1868)9月20日、岩倉具視らを従え、東京へ行幸のため京都を出発した明治天皇が10月1日、豊橋から新居へ向かう際に休憩した所である。明治天皇は、その後、新居宿の飯田本陣に宿泊し、10月13日に東京に到着した。」そして右手には巨大ながけ崩れの現場が。怪我人等はなかったのであろうか?右手に『火鎮神社(ほづめじんじゃ)』行信結社の裏山に火鎮神社があり、行信結社の脇から石段の参道がある。火鎮神社の創建年代等は、火災等による史料焼失により不詳であるが、徳川家康の崇敬を厚く受けたと伝えられ、宿場町であった白須賀宿の鎮守といわれている。『山門』。『本堂』。『火鎮神社(ほづめじんじゃ)』 ・鎮座地 湖西市白須賀5942番地 ・御祭神 火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ) 品陀和気命(ほんだわけのみこと) 徳川家康公 ・例祭日 十月十四日 ・由 緒 本神社は三座を祀り、由緒正しき神社なりしが、応永年間(1394~1428) 海瀟及安永年間(1772~81)社家火災の為め、古文書散失し、由緒を 詳に能はざるも、徳川家康の崇敬厚く、除地壱町四方余、丸太船壱双の 御墨付きを賜り、地方一般の崇敬を蒐めて、御隆盛を極む。大正十四年一月九日 村社に列せられ同年同月十四日神饌幣帛料供進社に指定せらる。『白須賀宿マップ』白須賀の須賀とは砂浜を意味します。その名の通り宿場は潮見坂下の海辺にあった。宝永4年(1707)の大地震による津波で主馬の大半が流出してしまい、翌年坂上の現在地に移った。それから坂上が白須賀になり、坂下の宿場跡を元町というようになった。本陣1軒、旅籠27軒、人口2704人。夢舞台東海道道標『白須賀宿 火鎮神社』。二川宿まで10.1kmと。『風力発電』。街道を進むと右手の山に大きな白い風車が回っていた。この風車は、浜名湖カントリークラブ(浜名湖CC)の風力発電である。民家の戸袋も芸術作品。鯉の滝登りの姿であろうか。更に『白須賀宿』を西に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.17
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次次に訪れたのが近くにあった『池田神社』石鳥居は一部がなくなっていた。長久手で戦った徳川方の武将、永井伝八郎直勝には、荒井(今の新居)の地に笹瀬弥三郎なる懇意の者が在った。大将首を上げた直勝は懇ろに弔うべしとて首実検の後、弥三郎に頼み、その屋敷の一角に地の神と称し首塚を築かせた、これが池田神社の始まりとか。『池田神社 由緒』「天正十二年(1584)小牧・長久手の戦において戦死した池田信輝の首を徳川家康の家臣であった長田伝八郎(後の永井能登守)が浜松城の家康のもとに首実験のために赴く途中に、笹瀬家に逗留し、無事首実験を終えた後に笹瀬家の屋敷内に首を埋葬し首塚を立てました。その後、永井能登守が祠を建立し、笹瀬家にこれを祀るように命じたのが始まりです。延宝八年(1680)の高波や宝永の災害で祠が流出し、現在地に移りました。中略、平成三十年の台風二十四号による、社、鳥居とも倒壊した。その後社、木製鳥居が岡山の池田厚子氏の要請により、令和元年に地元関係者により再築された。」傍にあった『鷲栖院』を訪ねた。『曹洞禅宗 天正山 鷲栖院』と刻まれた石碑。参道を上って行く。『山門』『本堂』。鷲栖院は貞和(1345~1349)以前の創立といわれ、創建時は天台宗の寺であったと。天正元年(1573)に再興して新福寺末寺になった。慶長十九年(1614)に開山堂を建立し宝永六年(1709)に諸堂を改修していると。名 称■鷲栖院(じゅせいいん)山 号■天正山住 所■静岡県湖西市新居町新居1739宗 派■曹洞宗本 尊■聖観世音菩薩札 所■浜名湖岸新四国八十八ヵ所霊場第62番札所扁額には『鷲栖院』と。『本堂』内部。『六地蔵』。『佐橋甚平衛(さはしじんべえ)の墓』。「佐橋甚兵衛吉次は、今切関所が幕府直轄時代の正保4年(1647)から明暦3年(1657)まで、第6代・7代の関所奉行だった人。禄高1270石を知行し、橋本村に屋敷を構えていた。明暦3年74歳で没し、自ら開基となった祐念寺に葬られたが、のちにここ鷲栖院に移された。」祠には多くの石仏が安置されていた。右手に『若宮八幡宮』一の鳥居が。社殿。その横には素朴な『猿田彦神社』。社額には『猿田彦神社』。20mほど先、左にあったのが『新居一里塚跡』。『一里塚碑』。「一里塚は、江戸の日本橋を基点として街道の両側に一里(4㎞)ごとに土を盛り、その上に榎などを植えた塚。 里程の目印として、旅行者にとっては馬や駕篭代の計算などの>目安となった。慶長九年(1604年)二代将軍秀忠が一里塚を築かせたといわれ、東海道では百四ヶ所あった。ここには左(東)に榎、右(西)に松が植えてあった。『新居西町公民館』が右手に。『棒鼻跡』。「ここは新居宿の西境で、一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形をなしていた。棒鼻とは、駕篭の棒先の意味があるが、大名行列が宿場へ入るとき、この場所で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになったともいわれている。」棒鼻の先で旧東海道は左に大きく曲がっていた。『棒鼻跡』を振り返る。久々に見る夢舞台東海道道標。『湖西市 橋本 新居宿加宿』。白須賀宿まで3.5kmと。「新居宿加宿」とあるので、このあたりも宿場町が形成されていたのであろう。「国道1号線」をしばらく進み、「橋本西交差点」を右に入って行った。『風炉の井(ふろのい)』「尾崎家所有敷地内にあるこの石積井戸は、深さ2m、口径は最大1.8mあり、既に完全に埋められてしまっていたが、昔はもっと深かったのだと。「この石積井戸は、深さ22m、口径は最大1.8mあり以前はもっと深かった。言い伝えによると建久元年(1190)源頼朝が上洛の折、橋本宿に宿泊した時にこの井戸水を茶の湯に用いたとされる。」次に『教恩寺』を訪ねた。立派な『鐘楼門』が右手に。文明六年(1474)に寄進された梵鐘は明応の津波で流された後、天正年間になって砂浜に埋もれていたものを発見され、火災に遭った寺の再興に役立てるために森町の一宮(現在の周智郡森町)に譲られました。その鐘には「遠州敷知郡橋本村教恩寺 天正十二年甲申二月八日以買得一宮来」と刻まれており、現在は袋井市の正福寺にあり県指定文化財となっています。教恩寺は正安二年(1300)の創立といわれています。文明年中(1469~1486)鎌倉公方足利持氏より寺領を与えられ、天正年中(1573~1591)に火災に遭って焼失しましたが、古い由緒をもつ寺として徳川家光より慶安元年(1648)に朱印地を与えられ、叙位任官色衣勅許の寺格を有し、明治維新まで続きました。現在の本堂は応賀寺の下寺だった堂宇を明治六年(1873)に移築したもので、山門は新居地区では珍しい楼門二階建です。境内には名松「見返りの松」があり東海道を旅する人々が宿を離れて名残を惜しんだ松とされていました。また境内の「大イチョウ」は、根元に大枚の金子が埋められているということで「橋本が困ったらイチョウの下を掘れ」という言い伝えがありました。しかしながら現在は、両木とも枯死しています。山 号■槁本山寺 号■教恩寺住 所■静岡県湖西市新居町浜名1126宗 派■時宗本 尊■釈迦牟尼仏札 所■浜名湖岸新四国八十八ヶ所霊場第63番札所『歴史の道すたんぷぽいんと』道路脇の民家の庭には美しい赤い実の植物が。『トウゴマ』であろう。『トウゴマ』の葉は掌状で亀裂が深く入っています。真赤なトゲトゲのある『トウゴマ』の実。そしてこちらは『酔芙蓉』。八重の酔芙蓉はまだ白く。時間は9:37。この地域の開拓記念碑であろうか?ここからが『浜名旧街道』。道の南側に松並木が点々と続いていた。この「旧東海道」、大正時代からは「国道1号線」として重要な道路として存在していた。しかし、江戸時代からあった松並木は、昭和50年代に発生した全国的な松くい虫の被害によって、この街道の松も全滅した。そこで、昔の面影を再現すべく昭和62年に植栽・復元したものだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.16
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道に戻ると右手にあったのが『寄馬跡』。『寄馬跡(よせうまあと)』「江戸時代の宿場 には公用荷物や公用旅行者のために人馬を提供する義務があり、東海道の宿場では常に百人の人足と百匹の馬を用意した。しかし、交通量が多い時には助郷 制度といって、近在の村々から人馬を寄せ集めて不足を補った。この場所は、寄せ集められた人馬の溜り場になったところである。」更に旧東海道を南に進む。右側のスーパーに売っていた可愛らしい粒の揃ったジャガイモは「三方原ばれいしょ」。「静岡県西部、三方原台地特有の土地によって、デンプン質が多く、ホクホクとした食感と特有の甘さがある」と側にいたおばあちゃん達から。再び旧東海道を右に入ると『神宮寺』が道路脇右手に。『神宮寺』は、応永二年(1395)仲翁和尚による開山と伝えられる寺。江戸時代後期までは代々の住職がありましたが、嘉永元年(1848)から東福寺が兼務するようになったと。『開所稲荷大明神』も。そして『諏訪神社』への入口へ。右手に大きな石灯籠が。『日露戦役紀念碑』。『諏訪神社の欅(ケヤキ)』「諏訪神社は、建御名方命(たけみなかたのみこと)を祭神とし奉納手筒花火で知られている。この神社は、たびかさなる災害を受け、宝永五年(1708)に現在地へ遷座した。このケヤキは、諏訪神社の御神木といわれ、樹齢は四百五十年を経過する。根廻り7.5m、目通り5.5m、樹高16mの巨木である。」『諏訪神社』の参道の右手の坂を登って行くと右側にあったのが『素盞鳴神社(すさのおじんじゃ)』。通称「お天王さま」と呼ばれているのだと。『諏訪神社』の参道からは新居マリーナ近くの『サンマリンブリッジ』が見えた。『諏訪神社』の一の石鳥居。『諏訪神社』。「由緒:当社は景行天皇19年(約千九百年前)の創立と伝えられる古社である。当初は新居宿の総氏神、猪鼻湖神社として猿田彦大神を奉斎し、浜辺に鎮座していたが、数度の天災により宝永5年(1708)現在地に遷座となる。現神社名は井口嘉末なる者が信州より移り住み、天正年間(1590年頃)諏訪大明神の御分霊を合祀したことから、いつしか諏訪神社と称するようになった。」祭礼の際に建てる幟旗の支柱が左手に格納されていた。参道の『石灯籠』。二の鳥居と拝殿が見えて来た。『手水場』の水は湧水であろうか。『拝殿』。今年の『新居諏訪神社奉納煙火祭礼(遠州新居手筒煙火)』👈リンクは荒天の為中止になってしまったと。『拝殿』に架かる『社額』。左手にあったのが『八所神社』。境内社:市杵島神社(左)と神輿庫?(右)。そして次の訪ねたのが『東湖山 龍谷寺』。起源は貞和元年(1345)気賀の庄、石川氏が開基となり、楠正成公に仕えた後に仏門に入った龍氏(石峰和尚)が遠江国、入野村(現浜松市西区大平台付近)に東に佐鳴湖を望む地を見て、山号を東湖山、寺号を自分の姓一字を入れて龍谷寺としたことに始まる。この地では3代で絶し、その後永正元年(1504)4月、雲谷和尚がこれを産海村(現浜松市西区雄踏宇布見)に移す。この地では6代で絶する。寬文5年(1665)新居宿出身で山崎の安寧寺住職であった萬牛和尚は、大勢の檀信徒の山崎への往来の苦労を考え、東に湖を望む荒井の地(現新居高校東付近)へ嗣ぐの絶えている龍谷寺を再興して開山となった。萬牛和尚は、さらに海を埋め立てて境内地を広げた。その辺りの土地は『龍谷寺堀』と言い、現在でも地名が残っている。その後、寶永4年(1707)10月4日大地震来襲。三度の津波に見舞われ新居宿は全没する。翌年、当山2世 江国和尚が現在の地に再興する。当山は現住職で15世。現在の堂宇は14世 玄雄和尚が再建した。『東湖山 龍谷寺』参道。『南無大神遍照金剛』と書かれた幟が参道両脇に。『山門』。 屋根の上の両端にあった桃の形をした留蓋瓦(とめぶたがわら)を初めて?見ました。扁額には『東湖山』。もともと東に佐鳴湖を見る所にあったことから山号を東湖山と称しているのだと。『本堂』。 山 号:東湖山 寺 号:龍谷寺 宗 派:臨済宗妙心寺派 本 尊:聖観世音菩薩 創 建:貞和元年(1345) 開 山:萬牛紹昌和尚 創建当時は現在の浜松市入野町にあったが、 寛文5年(1665)当地出身で山崎(雄踏町)の 安寧寺住職であった萬牛和尚は、新居から山崎への 信徒の往来の苦労を思い、東に湖を望むこの地へ 嗣の絶えている東湖山龍谷寺を再興し開山。 宝永4年(1707)の大地震で諸堂が崩壊。 翌年、第二世の江国和尚が現在地に再建する。 札 所:浜名湖岸新四国八十八ヶ所霊場第65番札所『本堂』に近づいて。本堂扁額には『龍谷寺』と。『鐘楼』。『法雲閣』。扁額には『法雲閣』。子安弘法大師(四国香園寺子安弘法大師御分身)と延命地蔵菩薩が祀られている堂。『六地蔵』。境内には多くの石仏が。小路(しょうな)脇にあった石灯籠。旧東海道を左手に折れて進むと五叉路の角にあったのが『夫婦井戸』。『愛の井戸ポンプは縁起のいい「夫婦井戸」』。海に近い新居宿で人々が暮らす課題は飲み水の確保。海水が混じらない真水を汲むことができる井戸は、地域で共有されていた生活に欠かせない飲み水は各自で組み上げている家もあったようですが、「夫婦井戸」には2台のポンプが設置され、地域の住民が争うことなく利用する共同井戸。少しでも便利に水を利用できる工夫と思われた。『五叉路』。その前の公園の時計と石灯籠。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.15
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次ここからは、今回の「旧東海道を歩く」の9月25日のブログである。-------------------------------------------------------------------------------------------------続いて歩を進めたのが寺社巡り。『寺道』を進むと新居宿の西端には、寺や神社が林立するエリアがあった。最初に訪ねたのが瑞龍山『新福寺(しんふくじ)』。この後訪ねた『臨海院』と共に天台宗の寺として開山されたが、その後、曹洞宗へと改められたと。『新福寺』はもと天台宗の寺で、創設年代・由来は不詳ですが真達公の開創と伝えられている。天正元年(1573)に三ヶ日金剛寺の直伝竜察和尚がこの地に至り、曹洞宗に改め、草創開山に。慶長元年(1596)三ヶ日金剛寺吉山宗豚和尚を請待して開山と仰ぎ、慶長十八年(1613)初代代官彦坂文右衛門の帰依により、諸堂の改修が行われた。宝永四年(1707)の大地震で諸堂が半壊したが、翌年寺を現在地に移転再興したのだと。『山門』。山門の両側には、多くの石仏がズラッと安置されていた。山門に向かって振り返る。『百観音』石仏とのこと。『鐘楼』。『本堂』。名 称■瑞龍山 新福寺(しんふくじ)住 所■湖西市新居町新居1341宗 派■曹洞宗本 尊■釈迦如来札 所■浜名湖岸新四国八十八ヵ所霊場第68番札所扁額には『瑞龍山』の文字が。本堂前には『鬼瓦』が保存されていた。『六地蔵』。六地蔵とは、釈迦の入滅後から弥勒菩薩が出世するまでの無仏時代に出現し、六道の全てに姿を現すことのできる唯一の菩薩であり、六道の全ての生き物を相手に教えを説き、救いの手を差し伸べてくれると信じられている。亡くなった肉親・知人たちが、六道のどこに生まれ変わっていよううと、その人を救って頂けますようにと願って六地蔵が作られたのだ。本堂の左隣りにあった『瑞龍神社』。朱の鳥居には『瑞龍神社』と書かれた扁額。『三界萬霊塔』。稚児を抱く姿は慈母観音像、子安観音像であろうか?そして槙の生け垣に囲まれた寺道を更に進む。次に訪ねたのが『隣海院』。・宗派 曹洞宗 新居山(しんきょさん)隣海院・本尊 薬師如来・創建 永享8年(1436)・開山 進外能迪和尚・沿革 永享8年(1436)真達将公和尚が日ケ崎村隣海院を開創し、 慶安元年(1848)曹洞宗に改宗すると共に、進外能迪和尚を迎え、 日ケ崎山隣海院となる。 宝永4年(1707)大地震の大津波により、諸堂が流出、翌年当地に移転、 日ケ崎山を新居山と改める。文化7年(1810)の大火災により諸堂が焼失したため、 各所の修理改築を行った。 山門は火災を免れ、最も古い建物として残り、「ジキジキ像」が祭られている。 位牌堂には山岡鉄舟(1836~88)の額、鐘楼堂東には鉄舟の歌碑、観音堂には 三十三観音像がある。『山門』。山門は宝永年間建立の四脚門で、梁上に「ジキジキ様」と呼ぶ憤怒像の彫刻があった。梁を支える真っ赤な健気な姿は参詣者の邪心を祓うと言われているのだと。『ジキジキ様』の名前の由来等はネットで調べましたがよくわかりませんでした。以前にここを訪ねた三宅裕司がテレビ放映された際に、明らかにしていなかったのだろうか?ネット情報によると座像の作者・年代等は不詳。鬼とも猿ともつかぬ異様な形相をしている。元々のジキジキ像は傷みが激しいため、本堂に移され現在は代わりに同院出身の彫刻家見崎泰中氏の複製になるジキジキ像が安置されている。ヒノキの寄木造り、高さ52cm。平成11年町文化財に指定されている。ふんどし姿の後ろ姿を。こちらが本物のようだ。平成11年 旧新居町有形文化財に指定されたと。 【http://sotozen-navi.com/detail/article_221173_1.html】より山門の見事な彫刻。『鐘楼』。『本堂』。『本堂』前には巨大な蘇鉄が対で。『本堂』内部。『本堂』からの渡り廊はアーチ型。『水子地蔵堂』様々な石碑、石仏が。寺道界隈の見事な石垣の上に白い塀が。名前のごとく寺社が密集している地域で、新福寺、隣海院、本果寺、諏訪神社、普門寺…、など、古刹が何軒かを訪ねることが出来た。これも事前予習のお陰。臨海院の南側に法華宗陣門流の『正興山本果寺(しょうこうざんほんかじ)』があった。『本果寺』は、もとは真言宗の寺院であったが、元中7年(1390)本興寺の末寺となり、法華宗に改宗した。徳川家康をはじめ代々の将軍より朱印を下賜され、有栖川宮御祈願所を拝命し、位牌を安置していると。朝の清掃をされていた住職から、『法華宗』とは日蓮を開祖とする宗派のうち、勝劣派の諸門流が形成した宗教法人の多くによって用いられる名称であると教えて頂きました。『南無妙法蓮華経』と刻まれた石碑。脇門奥には人物像が。『?藤慶三翁之像』、判読できません。 ・宗派 法華宗 陣門派 正興山 本果寺 ・本尊 十界互具 大曼荼羅 一塔両尊四士高祖日蓮大聖人 ・創建 元中7年(1390) ・開山 速誠院日才大徳(そくじょういんにっさいだいとく) ・沿革 もとは真言宗のお寺であったが、元中7年(1390)本興寺の末寺となり、 法華宗に改宗した。宝永4年(1707)の大津波により大破、惣町移転となり、 翌年現在地に移転した。 徳川家康(1542~1616在職1603~05)をはじめ代々の将軍より朱印を賜り、 有栖川宮御祈願所を拝命し、位牌を安置。松山新田の開拓者野口休可の墓や無縁供養の 「めぐみ観音」を祀る。俳匠大野林火の句碑があり、「お経に化けた鯛」の伝説もある。 平成12年(2000)「一字一石経」の経塚に、「あけぼののお鐘」が建立された。『山門』。山門は黒塗りの医王門で、乗馬のまま通行できることから武家用門ともいわれていると。『正興山』と書かれた扁額。参道の坂を上る。坂の両側には『南無鬼子母神十羅刹女』と書かれた赤い幟が。鐘楼堂。「あけぼのの鐘」と呼ばれていると。正面から。平成十二年、一字一石経の経塚に建立されたと。天に向かって突き出た見事な相輪がある鐘楼堂(宝珠・竜車・水煙は金色)。あけぼの鐘の天井をズームで。観世音菩薩、毘沙門天王、不動明王、帝釈天王、弥勒菩薩他20体の御絵像が配置されていると。『本堂』。宗派 法華宗 陣門流 正興山 本果寺本尊 十界互具 大曼荼羅 一塔両尊四士高租日蓮大聖人創建 元中七年(1390)開山 日才大徳徳川家康はじめ代々の将軍より朱印を賜り、有栖川宮御祈願所を拝命し、位牌を安置、俳匠、大野林火の句碑があり、「お経に化けた鯛」の伝話もあるとのこと。『本堂』内部。本堂の屋根の最頂部には越屋根が。『正興山 』の文字がここにも。御朱印を頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.14
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『特別史跡 新居関所』を訪ねたのは、前回の「旧東海道を歩く」の5月24日。このブログは、その時のものである。-------------------------------------------------------------------------------------------------関所前の国道301号線を渡ると、左奥に進むと焼き肉、ホルモン屋の角にあった表示には「ここを水路が通り、関所へ出入りする船が行き交っていました」と。同じ角にあった『味楽酒房 豊水(ほうせん)』の店の入口の壁には『新居関所』の姿が。『東海道 三十一番 新居宿』「東海道は江戸日本橋より大阪高麗橋までです。大津宿追分を右に行き、京都三条までは東海道五十三次。大津宿追分より左に行くと、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿、大阪高麗橋までが東海道五十七宿となります。」東海道五十三次を制覇したら東海道五十七宿まで足を延ばしたいのであるが。『無人島漂流者 不屈精神を伝える』。江戸期 新居人 鳥島に生きた二十一年 享保4年(1719)~元文4年(1739)。生存:三人 死亡:九人この碑は、新居関所と街道をはさんだ反対側の一角にあった。石碑には12名全員の名前が刻まれており、不屈の精神を伝えるとともに鎮魂の願いが込めらているのだと。石碑の『裏面』。筒山五兵衛の船・『鹿丸』の運行・漂流ルートと漂着し21年間生き抜いた『鳥島』が示されていた。「江戸時代中期の享保三年(一七一八)新居宿泉町筒山五兵衛船は、遠州今切湊を出帆した。 翌四年の秋、奥州宮古から房州へ向う途中、銚子沖で嵐にあい遭難、太平洋を南方に流され、絶海の無人島、今の鳥島に漂着した。 乗組員十二人の内九人が死亡、残る三人が都合二十一年を生き抜いて、元文四年(一七三九)救出された。 無人島生活日本最長であった。 八丈島に着いた三人は、江戸城に召し出され、八代将軍吉宗に謁見、異境のアホウドリの島での生活をじかに聞かれてその様子が詳しく語られたことで江戸中の評判になった。 このことが、徳川実記に記されている。 三人は褒美を頂いた後、新居から親族の出迎えを受け、東海道を丁重に駕篭で送られてきた。 関所では、役人や郷里の人々の歓迎を受け、領主松平伊豆守と地元の人々の手厚い保護を受け後々まで安穏に暮らした。 死亡した水主(かこ)九人は、小笠原父島にある咸臨丸墓地に幕府の調査船咸臨丸乗組員西川陪太郎や小笠原島初期の入植者とともに手厚く祀られている。 この建立場所「矢来道」は旧東海道沿い泉町の一角で、昔のお関所構内を仕切る「矢来(柵)」があったとこである。」新居関所の復元された『大御門(おおごもん)』。正面から。「大御門は、明六ツ(午前6時頃)に開き、暮六ツ(午後6時頃)に閉じました。大御門の前には、高札を置く枡形広場があり、東海道へつながります。大御門の大きさは、高さ5.8m、幅4.6mです。城門と同じ屋根付きの堂々とした高麗門です。礎石建ちではなく、地表より2.7m以下に礎石をすえ、柱を埋めた堀立柱(ほったてばしら)の門です。」。新居関所の出入り口に当たる「枡形広場」に江戸時代後期の掲示板「高札場」が復元されていた。高札は、宿場内の住民に定書を告知する「宿高札」と、関所近くの今切湊に出入りする船に向けた「浦高札」の二種類が。絵馬のような五角形で上部に「笠木」が付いたものが。宿札は六枚。浦高札は二枚掲示され、宿高札は新居宿から白須賀宿まで馬で荷を運ぶ際の料金を定めた「駄賃札」や、渡船の重量制限を記した札など。キリシタンを密告した場合の報酬など書かれた札、親子や兄弟の忠孝を呼びかける札など、いずれも正徳元年(1711)に発令されたもの。交差点から『大御門(おおごもん)』を再び振り返る。そして右手奥にあった復元工事中の『女改之長屋』を振り返る。『女改之長屋』とは江戸時代、新居関所では「入り鉄砲に出女」と言って、交通の往来を厳しく取り締まっていた。特に女性の取り調べは厳しく、取り調べを担った「改め女」とその家族が居住した建物が『女改之長屋』。長屋は2家族が住んでいた木造平屋で、こけらぶき屋根、壁は土壁と、江戸時代の庶民の家の造りであるとのこと。現在復元工事を実施中で、2020年に公開予定とのこと。『新居宿まち歩きマップ』。 【http://a-machinet.org/map_annai.htm】より新居宿の幕末期泉町通り(東海道)の軒割。『留万株式会社』は現在は機械工具卸売店。国道301号線を西に進む。『髪結い 時五郎』「関所に程近いこの場所にある髪結いでは関所改めを受けた女性たちの髪を結い直したとも云われています」『紀伊国屋 平兵衛』「疋田弥五助(本陣)の分家で西の新家(紀伊国屋弥左衛門)、東の新家(紀伊国屋平兵衛)と呼ばれていました。」右手に『中山屋』は現在は「カメラのマツミヤ」。『旅籠屋(船割宿) 中山屋孫次郎』江戸後期、孫次郎、和十郎父子二代にわたり今切湊改修に尽力しましたが、彼岸は叶いませんでした。今切りを望む高台にタカボタ地蔵を建立。新居関所から旧東海道(国道301号線)の左側に『旅籠 紀伊国屋 資料館』の看板が。この空き地は『旅籠屋(船割宿)筑後屋 次郎左衛門』「船割宿(ふなわりやど)は、特定の藩の御用を行う旅籠のことで、今切渡船や関所通行の段取りなどを行っていました。」。『旅籠 紀伊国屋 資料館』。江戸時代、徳川御三家の一つ紀州藩の御用宿を務めた縁から紀州屋と名乗った。宿内最大の旅籠屋の一つで、平成13年に再生整備を行い旅籠資料館として開館した。『旅籠屋(船割宿) 紀伊国屋 弥左衛門』「新居名物のうなぎの蒲焼きの味が評判でした。昭和30年代まで旅館業を営み、新居宿と共に歴史を刻んだ旅籠です。」。反対側から。「新居宿旅籠紀伊国屋は紀州の出身で、江戸時代の初めに新居に来て、茶屋を営んだという。はじめは小野田姓を名乗り、後に疋田弥左衛門に改めた。旅籠屋としての創業時期は不明だが、元禄十六年に御三家のひとつ紀州藩の御用宿を勤めるようになり、正徳六年に「紀伊国屋」を名乗ることを許されたという。その後、享保十七年に帯刀御免、延享二年に五人扶持を賜り、江戸時代後期には敷地内に紀州藩の七里飛脚の役所があった。紀伊国屋は、明治七年の泉町大火で焼失し立て替えられ、昭和二十四年まで旅館業を営んでいた建物はその後増築したが、一部に江戸時代後期の旅籠屋の様式を残していたことから、街道文化を伝える施設として活用するため、東海道四〇〇年祭にあわせ、再生整備工事を実施した。」。旅籠 紀伊国屋資料館のセット券で中に入る。正徳6年(1716)紀伊国屋の屋号を掲げ、新居宿の大旅籠として昭和期まで営業。江戸時代の旅籠様式を随所に残しており往時の宿場文化を伝える資料を展示している。入口から奥の部屋を見る。『新居宿旅籠 紀伊国屋』説明板。火鉢のある部屋から裏庭を見る。鎧兜が飾られていた。奥庭の木々も綺麗に手入れがされていた。復元した紀伊国屋の夕食(左)と当時の蒲焼き(右)。『風呂場』。水戸黄門に登場したかげろうお銀(かげろう おぎん)役の由美かおるの写真が。この場所での撮影が行われたのであろうか?『便所』。たたき土間には『釜場』が。1&2階間取り図。江戸時代後期の紀伊国屋は、間口五間(約九メートル)の平屋造りで、部屋数12、裏座敷2、総畳数63と、25軒前後あった新居宿の旅籠の中で最大規模を誇っていた。明治7年(1874)の大火により焼失、二階建てに建て替えられ一部増築されたのだと。階段を上り2階へ。各部屋は障子や襖で仕切られてた部屋割り。『寺みち』と書かれた絵画額。『客の間』。『宿部屋』が続く。部屋の隅には『角まくら』や『箱まくら』が。階段を降ると『裏庭』が。この後に訪ねた『旧芸者置屋 小松桜』案内板。『東海道五十三次宿場名物』この日までに、何箇所のものを味わったのであろうか?宿部屋の前には縁側が。裏庭を別の角度から。様々な展示物が並んでいた。そして『旧芸者置屋 小松桜』を訪ねた。浜松で新聞屋を営んでいた松井米吉が、明治34年頃、旅籠屋紀伊国屋の裏手にあった建物を買収して置屋を開業し、大正初期に現在地に移築した。平屋建てから二階建てに改築後、置屋兼小料理屋として営業を再開し、二階部分は御座敷として遊べる構造としたと。1階の部屋には『寿 令和』と書かれた白の文字板が。男の子のすこやかな成長と健康を願い飾られる五月人形と座敷幟(ざしきのぼり)と呼ばれる五月飾りなども展示されていた。2階の階段上から1階を見る。2階に飾られてあるこの写真は小松楼にいたと思われる芸者さん達。懐かしい桐ダンス?火鉢そして鏡。花鳥風月の水墨画が描かれた屏風。ミシンや丸テーブルや火鉢も。中央にあるのは古い時代の写真焼き付け器でしょうか。東海道五十三次。2階の襖(ふすま)には何やらお経のように文章が沢山書かれていた。小松楼とは大正時代初期から昭和初期にかけて存在した芸者置屋兼料亭だった。新居の地は明治以降、鰻の養殖と製糸業で栄えて、近くに芸者置屋11軒あり芸者も50人以上いて栄えたとか。昭和初期に廃業した小松楼は、建物が残っており交流館として展示施設となっていた。建物には芸者置屋兼料亭として機能した当時に使用していた三味線などの商売道具の楽器が所狭しと並んでいた。当時の芸者さんたちが笑顔で。こちらは新居宿の芸者さんたちの集合写真?そして再び旧東海道に戻ると右手に『肥後屋』。『旅籠屋(船割宿)肥後屋作右衛門』「新居の旅籠の中で最も畳数が多かった肥後屋、全部で115畳ありました。大店らしく家業を継ぐものへの家訓も書き残してあります。」同じく右手に『井筒屋』。『井筒屋清太郎』。「慶応三年、本陣武兵衛に続きここ井桁屋にも「お札降り」があり、「ええじゃないか」騒動は遠州以東へも伝播して行きました。」泉町交差点に向かうと左手、こちらは旅籠伊勢屋長吉跡。今は金松酒店に。新居町で「蓬莱泉」「開運」「おんな泣かせ」や「新居関所」などの地酒や、「魔王」「青酎」「人夢可酒」などの焼酎や各種お酒、各種名産品などを取り揃えているようだ。そして泉町交差点を渡り左折すると、空き地の隅に『疋田八郎兵衛本陣跡』の石碑と説明板。『疋田八郎兵衛本陣跡』「新居宿に三軒あった本陣の一つ。天保年間の記録によると建坪193坪で、門と玄関を備えていた。八郎兵衛本陣には吉田藩のほか、徳川御三家など約120家が利用した。疋田家は、新居宿の庄屋や年寄役を務めた。」『泉町』交差点。そして戻ると泉町交差点正面にあった『飯田武兵衛本陣跡』交差点を渡って『飯田武兵衛本陣跡』。『本陣跡』碑と案内板。『飯田武兵衛本陣跡』「飯田本陣は、天保年間の記録によると建坪196坪で、門構え玄関を備えていた。飯田本陣には小浜、桑名、岸和田藩など約70家が利用した。明治元年(1868)の天皇行幸の際に行在所となり同年の還幸、翌2年の再興、明治11年(1878)の巡幸の際にも利用された。その行在所の建物は明治18年(1885)、奥山方広寺に移築された」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.13
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『特別史跡 新居関所』を訪ねたのは、前回の「旧東海道を歩く」の5月24日。このブログは、その時のものである。次回でも良かったが、早朝の訪問が想定されたため、中に入れない可能性が大なので5月24日の帰路に立ち寄ったのであった。-------------------------------------------------------------------------------------------------新居関所は、正式には今切(いまぎれ)関所といって、慶長5年(1600年)に設置された。創設当初は浜名湖の今切口に近い場所にあったが、地震や津波などの災害で2度も移転をしいられ、現在地は3度目の場所であると。下図が新居関所・新居宿の『移動の歴史』👈リンクです。『関』が新居関所です。上記リンクに丁寧に説明されていました。現存する建物は、嘉永7年(1854年)の大地震で大破し安政2年(1855年)より建て替えられ、同5年に完成した。江戸時代には面番所・書院・番頭勝手・給人勝手・下改勝手・足軽勝手・女改め長屋などの施設があった。このうち現存する建物は面番所・書院・下改勝手・足軽勝手であると。昭和30年(1955年)に国の特別史跡に指定され、さらに昭和46年(1971年)に解体修理工事、平成14年(2002年)に渡船場・護岸整備を行い、全国で唯一現存する関所建物として大切に保存されている。なお、昭和51年(1976年)に新居関所を中心とする江戸時代の交通資料や湖西市(旧新居町)の歴史に関する資料を収集し、調査研究する施設として新居関所史料館が開館し、昭和62年(1987年)に新装オープンしている。現在、大御門、女改め長屋、船会所等の復元整備が進められている。『新居関所 まちあるきマップ』新居関所&関所資料館の入口。入館料金の\310を払って入場。新居関案内図。関所内平面配置図。もっと詳しく。『面番所』を東から。『面番所 書院』。「書院書院とは 本来読書などの学問をするための部屋であった。江戸時代以降には公式の対面などを行う表向きの施設をさすようになった。関所の書院は、八畳間で簡素な造りであった。」建物の中に入ると、まずはじめに目に飛び込んできたのが鎧兜(甲冑)。面番所の上番所(二十畳)。人形などで再現された当時の役人による検問の様子が見られた。関所内に配備された数々の武具は、規則に従わない者を武力で取り締まる為のものであり、通行者を萎縮させる目的もあったとのこと。『関所面番所(おもてばんしょ)』。「この建物は、東海道を往来する旅人を取り調べる関所役人が控えていた建物で、面番所といいます。嘉永7年(1854)の地震により倒壊したため、翌、安政2年(1855)に建て替えられました。構造は、入母屋造り、本瓦葺きで東西に十一間、奥行七間、これに三方三尺のまわり縁側がつき、内部は向かって右の部屋を上の間(十畳)、中の部屋を上番所(二十畳)、左の部屋を下番所(二十五畳)という部屋割りです。明治2年の関所廃止令後、明治6年から大正5年まで小学校として、その後、昭和26年まで新居町役場庁舎として使用されました。全国で唯一現存する関所建物として昭和30年に国の特別史跡に指定されました。」『番頭(ばんがしら) 五味六郎左衛門』。面番所には、関所役人の姿が人形で再現されていた。20畳の面番所にいた『番頭 五味六郎左衛門』。ただ一人、座布団を敷いて座っていた。『番頭 五味六郎左衛門』は、目鼻たちの整った、きりっとした美男の役人。その先は、給人の中山勘太夫と石原幸正。『給人 中山勘太夫』。『関所常備武具』関所常備武具は、関所役人の所定の取り調べに従わない通行人の不法行為を未然に防止する対策として備えられていましたが、幕藩制社会の確立に伴い、関所の権威を通行者に誇示するという役割、いわゆる飾り用として関所に常備されていました。時代によって、この数量は異なるが、基本的には。次の武具が置かれていたと。弓二十五張り ・鉄砲二十五挺 ・矢箱ニ荷 玉薬箱ニ荷 ・長柄十本『給人 石原幸正』『関所 通行手形』『少女壱人乗物壱丁従播州赤穂江戸・・・・・浅野・・・・天和弐壬戌正月二日 船渡 今切 女改中』の文字が。関所には改め女(俗に改め婆)がいて、関所を通る女性を調べた。改め女は、関所勤務の母親が務め、関所構内に住んでいたと。『関所役人』「新居関所創設(1600)より元禄十五年(1702)までは幕府直轄として関所奉行が任務に当たっていましたが、元禄十五年以降、関所の管理は三河国吉田藩へ移管されました。吉田藩管理下としての関所役人は、番頭・給人・下改・賄役・番所足軽・往還女改之女など計四十人前後が交代制で任務にあたっていました。旅人の関所通行は、明六ツ(六時頃)から暮六ツ(十八時頃)までで、原則として夜間は通行できませんでした。」『下改 神田栄次郎』『下改 山本忠佐』は出張中?であった。『足軽 及部藤太夫』。右から刺又(さすまた)、袖搦(そでがらみ)、突棒(つきぼう)が置かれていた。壁には、明治から昭和にかけて政治評論家・史論家などで活躍された墨跡が掲示されていた。『東海古関』は徳富蘇峰(1863~1957)が故郷である熊本に向かう途中、新居関所へ立寄り、この四文字「東海古関」を書き残したのだと。蘇峰90歳の書であると。面番所の下番所(二十五畳)側から。裏庭の松は美しく刈り込まれて。新居関所の関所役人は、40人前後の規模で、交替制であった。具体的な役職は、偉い順に、番頭(ばんがしら)下改(したあらため)賄役(まかないやく)足軽(あしがる)番所勝手足軽(ばんしょかってあしがる)往還女改之女(おうかんおんなあらためのおんな)に分かれており、開け六つから暮れ六つ(今の午前6時から午後6時)迄勤務したのだと。隣接する関所史料館には、江戸時代の交通や新居町の歴史に関する史料が展示されていた。『新居関所資料館』入口。『関所絵図』。舞坂宿から今切の渡しで新居関へ。『諏訪神社奉納 煙火(手筒花火)』。新居宿では、江戸時代より奉納後の手筒花火は家内安全・商売繁盛などを願い、厄除けとして玄関などに飾って来ているのだと。1階には「街道と関所」「海の関所新居」として主要街道と関所の分布、新居関所の変遷と役割等を紹介。2階は「旅と宿場」として旅の様子を描いた浮世絵版画、各地の名物、新居宿の紹介・庶民の暮らしの道具類の展示。しかし写真撮影禁止であった。『面番所』を『新居関所資料館』前から見る。再び『面番所』を正面右から。炭太祇(たんたいぎ=1709~71)の句碑。「木戸しまる音や新居の夕千鳥」。『面番所』を正面から。敷地内にあった『高札場』。ここには、次のように書かれた高札が掲げられていた。 一 関所を出入り輩 乗物の戸を開かせ、笠 頭巾を取って通すべきこと 一 往来の女 つぶさに証文引合わせて通すべきこと 附 乗物にて出女は 番所の女を差出して相改へきこと 一 手負死人 并 不審なるもの証文なくして 通へからさること 一 堂上の人々 諸大名の往来かねてより其聞にあるは沙汰に及はず 若(もし) 不審のことあるにおいてハ 誰人によらず改むへきこと 右の条々 厳密に可相守者也(相守るべきものなり) 仍如件(よってくだんのごとし) 正徳元年五月 日 奉行『荷物石』「これは旅人が関所で取り調べを受けている時に荷物を置いた石です。当時は、二つの荷物石が面番所の西側に並んで置かれていました。」奥から『面番所』を振り返る。夜間はライトアップされるようだ。京都側の『大御門』を『面番所』側から見る。『面番所』の左奥にあるのが『下改、足軽勝手』。『下改、足軽勝手』手前。『面番所』の横には籠が。そして手前には復元された『渡船場』が。渡船場から関所を臨む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.12
コメント(1)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は、今回の『旧東海道を歩く』の2日目の9月25日(水)。5:30過ぎに起床し、出発の準備をし6:30の無料朝食を楽しむ。そして豊橋駅に向かう。豊橋駅東口駅前広場のペデストリアンデッキが前方に。そして豊橋駅からJR東海の各駅停車を利用して新居町駅に到着。新居町駅 駅舎。駅前には『湖西市案内図』が。湖西市(こさいし)は、静岡県の最も西に位置する市。旧浜名郡の一部で、1972年に市制施行。歴史、漁業、自動車工業、農業の町。旧東海道沿いには新居宿は:新居関所、旅籠紀伊国屋、小松楼といった施設があるのだ。この日の新居町駅から二川駅までのルート。新居町駅を出て右に行くと、公園のところに種田山頭火(たねださんとうか)の句碑があった。JR新居町駅から西へ約100メートルの場所。山頭火は、語や五・七・五などの約束ごとにとらわれない『自由律俳句』(じゆうりつはいく)の代表的な俳人。波乱万丈な人生を歩んだことでも知られており、心のあるがままに詠まれた作品は多くの人に親しまれているのだ。『浜名街道 水のまんなかの道がまっすぐ 山頭火』「種田山頭火(1881~1940)は大正・昭和の初期の俳人。明治15年山口県に生まれる。本名は正一。荻原井泉水に師事。俳誌「層雲」に俳句を発表。大正13年、仏門に入る。尾崎放哉に傾倒、妻子を捨て庵を結び、一笠一杖の乞食行脚で各地を遍歴、禅味ある自由律の独自の句を残した。この作品は、二度目の遠州路を旅した昭和14年4月、当時の浜名街道を直截に詠んだものである。句集「草木塔」に所載。」3個の鐘のぶら下がった石碑も。国道301号線を西に進むと、前方に『浜名橋(はまなばし)』が。振り返ると石灯籠には『浜名橋』と。奈良時代の浜名湖。今は汽水湖として豊富な栄養素から養殖などの水産業がさかんな浜名湖であるが、もともとは海と砂州で隔たれた淡水湖あった。 浜名湖の古名は遠津淡海(とおつあわうみ、遠江)といって、都に近い琵琶湖に比べて、「遠い淡水の海」という意味であった。 遠江(浜名湖)からは浜名川が砂州に沿って西流したのち外海に流れ出ていた。862年、浜名川を渡す「浜名の橋」が架けられ、東海道の交通が整備される。 橋が架かっていた場所が「橋本」の地名となり、現在も残っている。右手にはJR東海の線路が。貨物列車が通過。浜名湖から駿河湾への早い流れが。浜名橋の歩道には歌川広重の様々な東海道五十三次の浮世絵が。『歌川広重 東海道五拾三次(隷書)荒井』。1849頃の作品。左手前に新居関所の船着き場が、遠くに関所に向かう舟、そして白き富士山の姿が。『歌川広重 東海道五拾三次(行書)荒井 海上壹リ半舟渡之図 』。『歌川広重 東海道五拾三次 人物東海道 荒井』。『歌川広重 東海道五拾三次(保永堂版)荒井 渡舟ノ図 』舞坂から4キロ海上の渡しを行った浜名湖の西岸の宿場。舞坂の今切の渡しから荒井に向かう、浜名湖の舟渡しの風景です。遠くに見える向こう岸には箱根と並んで厳しい、規模の大きな関所が待っています。ふき流しをはためかせ、二本の毛槍を高々と飾り立てた船は大名一行で、お供の船が続いて渡っていました。遠くに関所の建物が見え、間もなくのんびりとした短い船旅が終わろうとしています。『二代歌川広重 慶応年間(1855~1867) 東海道五拾三驛 阿ら井』隷書東海道と同じ構図、手前に新井関所の船着場の姿が。後ろに富士山の姿も。『安藤広重 東海道五拾三次 荒井(狂歌入り東海道)』狂歌 朝霞帝波音 見渡せば 遠つあふみも なみだたで 名にしあらゐ(い)の 関も戸ざゝず今切(いまぎれ)の渡(わた)しの、荒井側の船着き場を描いています。画面左に見えるのは、今(いま)切(ぎれ)の関所です。今切の関所は箱根の関所と並び、取締りの厳しい関所として知られていました。湖西市消防団第10分団結所。そして新居関所の駐車場前に。正面に『新居関所』が見えた。『新居関所 まちあるきマップ』。『新居関所 船着き場跡』。宝永5年(1708年)現在地に移転したものである。もと浜名湖口に面し、船着場もあったのであるが、いまは埋立てのため、地形は一変して旧観を偲ぶよすがもない。関所の正面の門『大御門』。大御門は木造瓦ぶきで、高さ5.8m、門扉の幅4.6m、奥行き2.9m。本柱2本の後ろに、本柱を支える控柱を1本ずつ立て、切り妻屋根を載せた「高麗門」と呼ばれる様式だ。関所の正門の役割で、発掘調査で分かった史実に基づいて市が1年がかりで復元した。『新居関所周辺事業』案内板現在、女改之長屋が復元工事中であった。旧新居町 マンホール。江戸時代の東海道の関所で、唯一当時のまま残っている関所。関所の門の下に町の木・松と波と千鳥も描かれている。『大御門』の先の交差点を右折して東海道線、新幹線のガードを過ぎ暫く進むと左手にあったのが『北屋敷跡』石碑。元禄9年(1696)に新居関所(東海道の関所、日本4大関所、国指定特別史跡)の役人の役宅がこの地に移されました。当初は幕府直属の与力や同心が居住しましたが、元禄15年(1702)以降は吉田藩(愛知県豊橋市今橋町・藩庁:吉田城)の管理となり、吉田藩から派遣された役人が居するようになります。敷地内には役宅などの建物が12軒、足軽長屋2軒があったとされます。現在、その施設の遺構は失われ石碑だけが建立されていた。折り返すと前方に新幹線ガードが。工事中の『女改之長屋』前には『女改之長屋とは?』の案内板が。「■女改之長屋とは? 江戸時代、新居関所では「入り鉄砲に出女」と言って、交通の往来を厳しく取り締まっていました。特に女性の取り調べは厳しく、取り調べを担った「改め女」とその家族が居住した建物が「女改之長屋」です。 長屋は2家族が住んでいた木造平屋で、こけらぶき屋根、壁は土壁と、江戸時代の庶民の家の造りです。現在復元工事を実施中で、2020年に公開予定です。■新居の関所はいつできたの? 新居関所は、1600年に、現在の新居町港町付近に徳川家康によって創設されました。 新居は渡船の発着点であったことから、重要な交通ポイントとして考えられ、関所が設置されました。 その後、災害により2度移転し、現在の面番所建物は、1854年の地震後に改築が行われた日本で唯一現存する建物です。■新居関所の建物の特徴って? 箱根関所(神奈川)・碓(うすい)氷関所(群馬)・福島関所(長野)と見比べてみると、新居関所だけにある建物があります。それは女改之長屋・船会所(ふなかいしょ)・渡船場(とせんば)です。 こうした違いは関所の機能や立地環境によって、生まれたものです。 箱根関所では女性の取り調べは江戸から出る女性だけでしたが、新居関所では入る女性も取り調べました。そして、渡船で浜名湖を渡ったので、渡船の段取りをする船頭の会所があったのです。■特別史跡とは? 文化財保護法で指定・保護する有形の文化財(本興寺本堂など)は重要文化財。そのうちの「たぐいまれなる国民の宝たるもの」が国宝です。 同じように、記念物という種類に区分される史跡のうち、「学術上の価値が特に高く、わが国の文化の象徴たるもの」が特別史跡に指定されます。 金閣寺の園地や中尊寺境内なども全国62件の特別史跡のうちのひとつです。」工事中の『女改之長屋』。内部はこれから。長屋の工事は2020年3月までに終え、翌4月に一般公開を始める予定だと。尚、『新居関所に関して面白いページ』👈リンクに出会ったので紹介させていただきます。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.11
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次可睡斎を後にして国道1号線(浜松バイパス)を利用して新天竜川橋を渡る。左手には旧東海道に架かる天竜川橋。左手に浜松駅手前にある『浜松アクトタワー』が。そして浜松城公園無料駐車場に車を駐め浜松城に向かう。スターバックスコーヒー浜松城公園店脇を歩く。そして急な坂道を登り浜松城内へ。赤い鳥居は『稲荷神社』。浜松城の本丸には『若き日の徳川家康公の銅像』という徳川家康の像が。そして浜松城天守が現れた。徳川家康は29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごした。有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事で、特に元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦は、関ヶ原の合戦以上の激闘であったと伝えられている。家康にとって、浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代だったと。『天守門』。再び『浜松城 天守』。昭和33年(1958年)に復興天守として天守台の上に鉄筋コンクリートで造られた。天守台より一回り小さくなっている。浜松城には天守台があるが、実際には江戸時代を通じて天守が築かれることはなかったと。天守閣下広場の顔ハメ看板(かおはめかんばん)には、左から徳川家康、井伊直虎、井伊直政が。浜松城の石垣は、ほとんが戦国時代当時のもので、自然石を組み合わせた野面積み(のづらづみ)という工法。天守閣への入場料金は大人200円。但し、70歳以上は無料とのことで、続日本100名城のスタンプを旅友のSさんに依頼する。私は、天守閣下広場で待つ。天守閣下広場からの天守門。浜松城の第二代城主、堀尾吉晴は城の中枢である天守曲輪に天守を建築したと言われているが、この天守は古図などの資料から、江戸初期には喪失していたと考えられる。天守曲輪入口の天守門は幕末まで維持されたが、明治6年(1873)に解体され、払い下げられた。「安政元年(1854)浜松城絵図」には安政地震による浜松城の被害状況が示されており、天守門でも櫓の壁が一部潰れたものの、深刻な被害を免れた事が記載されている。絵図には天守曲輪の外周を土塀が囲んでいる様子も描かれている。天守門は、門の上部に櫓が載る櫓門と呼ばれる形式がとられている。天守門のように櫓が両側の石垣上にのびる渡櫓(わたりやぐら)は、石垣を多用した西日本の城に多く見られる。天守門(復元)の概要は次の通り構造:木造・櫓門・入母屋造り・本瓦葺き建築面積:78.01m2 延床面積 56.74m2門部:正面柱間4.09m、冠木(正面梁)上端高4.12m櫓部:桁行10.91m(36尺)、梁間5.00m(16.5尺)高さ:10.28m(門下から櫓屋根の大棟上まで)土塀:造塀瓦葺き 門の両側約9mずつ天守閣下広場から浜松城公園 本丸南広場を見る。『天守閣』と『天守門』。スタンプを依頼した旅友は天守最上階の展望台に。続日本100名城のスタンプを頂きました。天守閣の下部には石垣の上に張り出した『石落とし』が。登ってきた敵に石を落としたりして攻撃するための仕組み。天守閣の屋根には鯱瓦が。これは本丸に残る銀明水という『井戸』。「この井戸は、銀明水と呼ばれていたという。浜松城には、天守台に一つ、天守曲輪の埋門(うずみもん)のそばに一つ、本丸に一つ、二の丸に三つ、作左曲輪に四つ、計十本の井戸があったという。天守台の井戸は、再建の時に残し、今は天守閣の地下室にある。直径一・三m、深さは現在一mほどになっており水はない。」井戸の中を覗く。天守台そして天守閣を別の角度から。幟には『三つ葉葵』。この日は平日の為か、天守閣の展望台には観光客の姿は少なかった。天守台の石垣にはかなりの隙間が。割れてしまった石も。一見崩れやすいように見えたが、奥が深く内側に小石や砂利を詰めてあるため、水はけもよく堅固であると。算木積みはされておらず、叩き割ったままのゴツゴツした石がそのまま積み上げられた野面積み。かなり独特な雰囲気だ。主要な石材は浜名湖北部産の堆積岩の模様。『八幡台』。天守台の北西隣にある石垣で、天守台よりも高い。かつては城を守る神社が祀られていたと。『ようこそ出世の待ち 浜松へ』今の私には、必要ない文字列。浜松城公園 入口。『浜松市戦災被爆者慰霊碑』。「昭和十六年(一九四一年)十二月八日太平洋戦争に突入したわが国は緒戦に勝利を収めたもののやがて戦況は逆転し同二十年八月十五日遂に降伏のやむなきに至った、この間浜松市は三十回余りに及ぶ空爆艦砲射撃を受け市の大半が廃墟と化し死傷者も八千人を越えた。特に昭和二十年六月十八日の敵機による焼夷弾投下は熾烈を極め市の中心部は一瞬にして紅蓮の炎に包まれた恐怖の一夜が明け死を免れた人々が肉親を求めて彷いあるいはあとかたも無いわが家の跡を茫然と眺める悲惨な姿は言語に絶するものであった、しかし戦争が終わってすでに三十四年戦前をはるかに越える豊かで平和な暮しは人々をしてその念頭から死の街と化した郷土の惨状や往時の苦難やまた戦災死者の方々への痛恨の情を日ごとに稀薄なものにしていく、かかる時市民の間からこれを何らかのかたちで後世に遺そうとの議が興り市各界の方々からも深いご理解による浄財が寄せられここに浜松市戦災被爆者慰霊碑を建立して悲惨な戦争の絶滅を期し三千有余名の戦災死者のご冥福と世界の恒久平和を祈念するものである」『浜松城公園歴史ゾーン 整備計画』浜松城公園歴史ゾーン整備計画が現在進められている最中。井伊直虎、直政と徳川家康についての解説もパネルに展示されていた。そして国道1号線・浜松バイパスを浜名湖に向かって進む。前方左手には雲の間から夕日の光が放射状に。車窓からの夕日を楽しむ。浜名バイパスを『浜名大橋』に向かって進む。『浜松市西部清掃工場』。雲の合間から陽光が刻々姿を変えながら。『浜名大橋』から、浜名湖の海水の出入り口で、遠州灘が繋がっている今切口手前から今切新居堤(今切口東堤)付近を見る。前方に渥美半島の山々の姿が。そして新居弁天ICで浜名バイパスを降り、海浜公園駐車場に車を駐め、徒歩にて浜名バイパス下を潜り海岸まで歩く。西の空は、だんだんとオレンジ色に染まり始めて来た。『浜名大橋』が見える浜名湖方面には未だ青空も。5月24日に旧東海道を歩いた際に、舞阪近くから見た『浜名大橋』構造形式は、PC5径間連続有ヒンジラーメン箱桁橋である。橋梁全長631.8m、有効幅員9.0m。最高地点は海抜31 m。中央支間長は240 mにおよび、桁橋としては建設当時には世界最大支間であり、2004年(平成16年)の鳥取県境港市と島根県松江市との間にかかる、江島大橋開通まで日本最大の支間長を誇った。 浜名湖および遠州灘の海岸線沿いにあるため、工事および耐震の関係上大きな構造になっている。 弁天島からの眺望は非常に雄大で、ライトアップをしようという意見もあったが、近隣で行われているシラス漁の関係、また、アカウミガメの上陸・産卵を妨げるという理由で不可能になっている。波打ち際近くに陣取り西の空の変化を楽しむ。しかし次第に雲の量が多くなり夕日の姿が隠れてしまう。そして更に雲が増え太陽はほぼ姿を隠してしまったのであった。そして豊橋駅前のホテルに18:30過ぎに到着し、初日の大移動は無事終わったのだ。ホテルにチェックイン後に、近くの居酒屋でこの日の反省会を行ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.10
コメント(2)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『潮騒橋』を訪ねた後は静岡県袋井市久能にある曹洞宗の寺院・『可睡斎』に向かう。国道150号線を利用して進み、西同笠交差点を右折し県道241号線、県道41号線、県道413号線をひたすら走る。そして前方の永楽町交差点を左折し県道58号線を『可睡斎』方面に進む。そして『可睡斎』に到着。総門の前には『徳川家康公深きゆかりの禅寺』と刻まれた石碑が。東海道一の禅の修行道場である可睡斎は悠久六百年の歴史を刻む、徳川家康が名づけた古刹。現在は、曹洞宗・専門僧堂として多くの雲水(修行僧)が修行をしている名刹。 山号は萬松山(ばんしょうさん)。総門は新築工事中であった。『秋葉総本殿 可睡斎 総門 新築工事』この日見た時は補修工事である、と思っていたが、写真を見ると『新築工事』と。何故、新築なのかとネットで調べてみると、昨年・2018年の台風24号でこの総門が全壊してしまったのだと。総門は高さと幅が共に10m弱で瓦葺きの木造、伊勢湾台風(1959年)時にも倒壊しその後に再建されたのであったが。上の写真を見ると、いかにもバランスの悪い構造。下の写真のごとく前に倒れても不思議ではないと感じるのであるが。倒壊した総門の姿を静岡新聞から。 【http://blog.livedoor.jp/pom2-pom2/archives/26293757.html】より実は以前訪ねた際に撮影した総門の姿。境内案内図。江戸時代には「東海大僧録」として三河国・遠江国・駿河国・伊豆国の曹洞宗寺院を支配下に収め、中心的な権威を持った遠州三山の1つ。本堂への階段を登る。この寺を訪ねるのは初めてと思っていたが、旅友のSさんから以前訪ねたことがあると。帰宅して、我がブログで探すと、2012年11月末の香嵐渓紅葉ツアーの帰りに立ち寄っていたのであった。しかし未だにハッキリとした記憶がないのである・・・。境内の端の参道横には『酒塚観音』と書かれた紅白の幟が並んでいた。本堂の階段下には大きな石灯籠が両側に。右側には立派な石垣が。階段を上ると正面に『山門』が。禅宗寺院の七堂伽藍の一つで、寺院の正式な入口。古くは寺の南と東西に面して3つ、あるいは参道に沿って3つ設けられたことからも三門または、山門と書かれた。また一つの門でも、空(くう)、無相(むそう)、無作(むさ)の三解脱門(さんげだつもん)の意味で三門(山門)とされた。また可睡斎のこの山門は、昭和10年(1935)に当時、建築界の重鎮、特に寺社建築の泰斗であった伊東忠太博士に設計依頼していたが、完成にまで至らず、76年の歳月を経て、伊東忠太博士の設計図を基に平成22年(2010)に落慶した。扁額には『萬松山』と。「金剛力士は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。開口の阿形像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の二体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には、仁王(本来は二王と書く)の名で親しまれている。彫刻師は岐阜県美濃の大橋祐瑞師。日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かける。像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕にし、吽形像は怒りを内に秘めた表情にするものが多い。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表している。」向かって右手に阿形像。左手に吽形像。山門をくぐっていると、天井には鮮やかな方位板が。しかもこれ、方位や干支、そしてその方向にある町や山まで何里あるのか、が書かれていたのであった。『山門』案内板。「禅宗寺院の七堂伽藍の一つで、寺院の正式な入口。古くは寺の南と東西に面して3つ、あるいは参道に沿って3つ設けられたことからも三門または、山門と書かれた。また一つの門でも、空(くう)、無相(むそう)、無作(むさ)の三解脱門(さんげだつもん)の意味で三門(山門)とされた。また可睡斎の山門は、昭和10年(1935)に当時、建築界の重鎮、特に寺社建築の泰斗であった伊東忠太博士に設計依頼していたが、完成にまで至らず、76年の歳月を経てこの度、伊東忠太博士の設計図を基に平成22年(2010)に落慶した。金剛力士は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。開口の阿形像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の二体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には、仁王(本来は二王と書く)の名で親しまれている。彫刻師は岐阜県美濃の大橋祐瑞師。言語は「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」の意。日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かける。像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕にし、吽形像は怒りを内に秘めた表情にするものが多い。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表している。」右手にあったのが『瑞龍閣』。木造二階建、妻入り、入母屋造桟瓦葺で下屋を廻らし、正面に唐破風玄関を構える。一階は大振りな座敷飾を備えた六間取、二階は大広間の周囲に畳廊下を廻らし、各室ごとに異なる主題に因む欄間や絵襖で華やかに飾る。規模雄大で優美な内装をもつ迎賓施設。『本堂』が正面に。可睡斎は聖観世音菩薩(しょうかんのんぼさつ)をご本尊とし、高祖承陽大師(こうそじょうようだいし)と太祖常済大師(たいそじょうさいだいし)を両祖とすると。『総受付』。境内左手には『輪蔵』が。現在の秋葉信仰の秋葉三尺坊大権現を祀る。「輪蔵とは、仏教の法宝である経典(総称を「大蔵経」または「一切経」と称す)を収め置く、寺院建築において古来より重要視されてきた堂宇であり、由緒名刹寺院には欠くことのできない大切なものです。可睡斎の輪蔵は、平成18年の伽藍修復工事の一環で移築した際、建築当時の棟札が出てきた。棟札の記述によると、輪蔵建築の発願者は、可睡斎48世日置黙仙禅師、後の大本山永平寺の第66世貫首猊下である。日置禅師の意志を受け継ぎ、大正8年輪蔵を上棟したのは、可睡斎49世秋野孝道禅師、後の大本山総持寺独住7世貫首猊下であります。輪蔵を考案したの傳大士(ふだいし)様(中国南北時代、斉の東陽の人 497年から569年)は、明るい将来には、「大蔵経」に親しむにありとして、当時、文字を知らぬ人、修学する環境にない人々にも、広く仏教と縁を結ばせる為に、輪蔵(8角の書架が中心にある軸で回転できるもの)を考案したと伝わる。扁額には『可睡斎輪蔵堂』と。「輪蔵」を時計回しに1回転させると、「大蔵経」を修学するのと同じ功徳を得られるとされ、経蔵に対する信仰が深まった。」と。再び『本堂』正面に。『本堂』への階段の途中から。扁額には『護国殿』と。ズームで。『坐禅堂』。右手に『五重塔』、左手に『慈母観音』。『坐禅堂』は文殊菩薩を祀る。修行僧の坐禅及び生活の場所。坐禅体験をすることができるのだと。『可睡斎の由来』。11代目の住職仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚は、幼い徳川家康とその父を戦乱の中から救い出しかくまいました。その後、浜松城主になられた徳川家康は、親しく和尚を招いて旧恩を謝し、その席上でコクリコクリと無心にいねむりをする和尚を見て徳川家康はにっこりせられ「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚、眠るべし」と申されました。それ以来仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚は「可睡和尚」と称せられ、後に寺号も東陽軒から「可睡齋」と改められました。また、仙麟等膳和尚の時代、徳川家康公の帰依を受けて、天正11年(1583年)に東海4ケ国(駿河、遠江、三河、伊豆[1部])の僧録司となりました。『位牌堂』。『開運大黒殿』。全国の秋葉信仰の総本山となる『秋葉総本殿』の『御真殿』。秋葉総本殿は、日本で唯一の火防パワースポット。可睡斎(かすいさい)は、多くの雲水(修行僧)たちが修行をする曹洞宗の専門僧堂であるとともに、秋葉三尺坊大権現さまの御身躰を祀る火防(火伏せ)をはじめ、人々の幸せを祈願する一大道場として知られています。『秋葉三尺坊大権現』階段中程の両脇では『天狗像』が睨みをきかせていた。こちらは階段右の烏天狗。今から千三百年の昔、越後蔵王権現堂の十二坊の一つである三尺という僧坊で厳しい修行を重ね、秘密奥義を極めて神通力を得、観世音菩薩三十三化身の一つ。迦褸羅身(カルラシン)を現じられた。こちらは階段左の烏天狗。『御真殿』。扁額は金色に輝く『秋葉総本殿』の文字が。『秋葉総本殿 可睡斎』。『秋葉三尺坊大権現』と書かれた大きな提灯。『威徳殿』と書かれているのであろう。可睡斎御真殿「秋葉總本殿」に祀られている秋葉三尺坊大権現は、大天狗や背に翼を持つ烏天狗の姿で表されることが多く、御真殿内の天井や梁には奉納された天狗や烏天狗の面がたくさん掲げられていた。ズームで。赤い顔に長い(高い)鼻が天狗、嘴がカッパに似ているのが烏天狗。天狗を描いた凧も。天井。『御真殿』前から階段下を見る。こちらが『不動尊奥之院 出世六の字穴』方面入口。秋葉山の御真殿から奥の院へ向かう山道に徳川家康にまつわる「出世六の字穴」があります。戦国時代、徳川家康は武田信玄との戦いにおいて遠江・森・袋井方面へと攻めてきた武田勢に追われ、この寺のほら穴に隠れて命拾いをした。その後、家康は浜松城主となり、やがて駿河城、江戸城などを築き国を平定し、江戸幕府を開いて将軍となった。その出世の故事になぞらえ、当齋のほら穴は、家康公の威徳を称えていつしか「権現洞」と、また「出世六の字穴」とも呼ばれるようになった。『秋葉総本殿三尺坊大権現』と書かれた大きな幟。参道脇には木製の超特大一本歯の下駄が。保存されている『鬼瓦』。『遠州三山紅葉」めぐり』のポスター。三山とは法多山、油山寺、そしてこの可睡斎。山門前の境内にあった『おさすり地蔵』。一さすりで福を招き二さすりで徳を授かり三さすりで満足を戴くと言うことで、どんどんさすらないといけないのである。そして帰路の右手にあったのが『活人剣碑』。碑は東京芸大学長で金工作家の宮田亮平氏が制作。高さ4・4mの銅・ステンレス製で、高さ2.1mの基壇に据え付けられていた。『甦った「活人剣」』『活人剣』は、日清講和条約交渉時に、清国全権大臣李鴻章が暴漢に襲われた事件に由来する記念碑である。この事件は当時、国の威信を揺るがす大事件として知られている。初代の活人剣碑は1898年に可睡斎に完成した。日清戦争集結に向けた下関条約交渉時に暴漢に銃撃された清国全権李鴻章を陸軍軍医総監佐藤進が救った際、李から軍服帯剣の理由を問われた佐藤が「これは人を生かす活人剣だ」と答えた逸話に基づく。戦争犠牲者の慰霊と平和祈願を目的とし、日本を代表する彫刻家の高村光雲が制作したが、第2次世界大戦中の金属供出で失われていた。市民団体「袋井まちそだての会」と、佐藤が第3代堂主を務めた学校法人順天堂、、可睡斎の3者が再建委員会を設立し、市民に募金を呼びかけて再建したのだと。治療にあたった佐藤進陸軍軍医総監と負傷した李鴻章が互いに信頼する間柄となり、親交を深めたことは殆ど伝えられてこなかった。それが、それが今回「活人剣」碑に刻まれていることが分かり、改めて光を当てることができたのだと。そして階段を降りようとすると、下から法螺を吹きながら階段を上る修行僧の一団が。そして山門を潜る。老僧の姿も。『白山堂』。永平寺開祖道元禅師が宋の天童如浄禅師につて開悟され帰朝される前夜、碧巌録を筆写していると、白山妙理大権現が現れ助勢された(一夜碧巌)禅師はその奇瑞を歓び帰朝後終生白山妙理大権現を祀られたと。『弁天堂』。可睡斎の弁天様は、水行池から放生池を経て水が流れる水路のほとりにこの弁天堂が建てられここに祀られているのだと。『酒塚観音』案内板。途中のこの石碑は?『酒塚観音』の紅白の幟。少し登った所にひっそりと、『酒塚観音』。お酒を飲む方は、ぜひお参りをとの事。『酒塚観音』。御朱印をいただきました。帰りに烏蒭沙摩明王を祀る『大東司(トイレ)』の『見学』に行くつもりであったが忘れてしましました・・・・・・・残念!!よってネットから写真を。 【http://www.teradanet.com/blog2/%E5%8F%AF%E7%9D%A1%E6%96%8E%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%80%E3%81%AE%E6%9D%B1%E5%8F%B8%E3%80%8D1280】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.09
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次横須賀城を後にし、戻る形になったが『潮騒橋』に向かって進む。車窓から目に入るのが、地域独特の強風「遠州の空っ風」を利用した風力発電の為に設置されている巨大な風車群。『高松川水門』とその後ろに巨大な風車群。菊川左岸支川の高松川の合流点に、菊川本川による洪水や海からの津波・高潮による高松川への逆流防止施設として、平成4年度に高松川水門を建設したのだと。潮騒橋があるのは静岡県掛川市国安。旅友のSさんから静岡県掛川市に「逆アーチ型」の珍しい橋があるとの情報を聞き向かったのであった。静岡県道376号浜松御前崎自転車動線(太平洋岸自転車道)の自転車歩行者専用道路橋で、世界初の連続上路式PC吊床版橋として、1995年(平成7年)に完成し、1994年(平成6年)に土木学会田中賞、PC技術協会賞、静岡新聞社賞を受賞した。吊床版橋として国内最長を誇る。遠州灘が見渡せる眺望で有名。 まさに逆アーチ型!潮騒橋の構造形式は、4径間連続上路式PC吊床版橋という世界的にも例を見ない新しい構造形式の橋で、吊床版橋としては日本国内最長の橋であると。この橋は長さ232m、幅3m、近くのマリーナに出入りする船舶が橋の下を通過する為、航路高は9.5mも確保されていると。ちなみに、上路式吊床版橋は吊床版の上に鉛直材を介して路面となる上床版を載せた構造の『吊床版橋(つりしょうばんきょう)』であると。『橋の概要』。世界で唯一のアーチが4つある『吊床版橋(つりしょうばんきょう)』であると。大東総合運動場手前の風力発電設備。汚水マンホール。2005年、旧大東町は掛川市、小笠郡大須賀町と合併、掛川市の一地区となった。マンホールには、「潮騒橋」と「町の木・松」「町の花「水仙」、それに町章が描かれていた。潮騒橋に近づいて。潮騒橋の特徴。PCとはプレストレスト・コンクリート (Prestressed Concrete) の略称。Pre(プレ)前もって、stress(負荷)をかけるという意味から、直訳すると「あらかじめ応力を与えられたコンクリート」となります。PCの技術を用いることによって、コンクリートの最大の弱点(圧縮には強いが引張には弱い。)を克服することができるのだと。吊床版橋の日本国内実績表。潮騒橋は静岡県建設技術センターにより設計され、住友建設・ピーエス・若杉組JVにより1995年に完成。橋梁として高く評価されており、土木学会より土木学会田中賞作品部門が授与されているのだと。潮騒橋は1級河川『菊川(きくかわ)』に架かる橋。『菊川』は静岡県掛川市東山の粟ヶ岳周辺に源を発し南流。途中菊川市の中心部を縦断し、掛川市国安から遠州灘に注ぐ。24の支川とともに菊川水系を構成している。古代においては大井川は(古大井川)の流路のひとつとして大井川とつながっていたが、その後上流から運ばれた土砂の堆積と地盤の隆起により牧之原台地が形成され、これにより大井川が北に進路を変えたために大井川から分離してできた川であると考えられているのだと。橋は幅3mで歩道橋の如し。潮騒橋は、太平洋岸自転車道の菊川河口に掛かっていて、歩行者と自転車専用の橋。堤防の階段を下りて橋の下から見上げてみると、吊橋は上から吊ってある橋ばかり見て来たので、橋の下側をこの迫力満点のアーチ部分が支えている事に不思議さと違和感を感じてしまったのです。目の前には遠州灘が180度拡がっていた。高い橋の上から眺められる雄大な大海原の景色は実に最高。 橋の上の旅友の姿。高いところは嫌いなはずなのにブログ取材は精力的。それとも「山羊や煙」と仲良しなのであろうか??(笑)晴れた日には、橋のたもとにちょうど太陽が沈んでいくのが見どころであると『ネット』情報から。 【https://co-trip.jp/article/307931/】より菊川の上流側を見る。『高松川水門』をズームで。ところで、この様な橋の構造にどの様なメリットがあるのかは全く理解できない私である。ネットで調べてみると、この様な説明があった。『上路式吊床版橋は、図に示すように、地盤または岩盤上に固定支持された橋台1a,b又は橋脚間に、高張力の鋼材を内包したコンクリートの吊床版2を張架し、その上にほぼ鉛直な支柱3a~fを立設して上路桁4を支持する構造形式であり、この上路桁4の上側が橋面となるものである。上記吊床版2は、支間長に比べて極めて厚さが薄い部材であり、橋の軸線方向に埋め込まれた鋼材の引張抵抗力によって橋台又は橋脚の間にたわみ(サグ)を生じた状態で吊支持される。吊床版橋は、橋台または橋脚間に張架された吊床版の上面を橋面とするものが一般的であるが、このような構造では吊床版のサグによって橋の軸線方向に大きな勾配ができ、車輌等の走行には適さない。このため、このような吊床版橋は主に歩道橋に採用されている。これに対し、上路式吊床版橋は上路桁を有するので縦断勾配を任意に設定することができるとともに、サグを大きくすることができるので吊床版に作用する張力を小さく抑えることができ、吊床版内に配置する鋼材及び吊床版を支持する橋台のアンカー等を低減して橋全体の構築費用を少なくすることが可能となる。また、このような構造形式は、一般的な桁橋等を比べても、断面が小さい部材で構築することができ、支保工、ケーブルクレーン、大型の重機などを使用せずに急速施工ができるため、積雪量の多い寒冷地における渓谷等の施工条件が極めて劣悪な場合にも合理的な構築ができるという特徴を有している。』と。 解ったような、解らないような・・・・・。上側にアーチがある通常のアーチ橋と比較すると、どの様なメリットがあるのでしょうか?鉄骨構造ではなく、外面的にはコンクリート構造で、ただ、重しをぶら下げているだけにしか思えない化学屋??なのです。全くの素人の私が理解できるように、どなたか、もっともっと易しく説明していただける方の書き込み、ご指導をお待ちしています。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.08
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)を後にし、次の訪問場所の『諏訪原城跡』に向かって進む。国道1号線を進み、島田金谷バイパスの新大井川橋を渡る。そして、途中折れる道を間違ったが何とか『諏訪原城ビジターセンター』に到着。時間は12:08。続日本100名城に選定された国指定史跡諏訪原城跡。今年の3月23日に、ガイダンス施設「諏訪原城ビジターセンター」がオープン。施設には諏訪原城内の杉やヒノキを一部使用している。ところがこの日は『休館日』。続日本100名城スタンプを頂きに訪ねたのだが・・・・。『諏訪原城ビジターセンター』横に『屋外の城内入口にもスタンプあります』の表示板を発見する。あったあ!!スタンプを何とかGET。『国指定史跡 諏訪原城跡』。この場所は今年の4月3日に訪ね『ブログアップ済み』👈リンク。そして次に訪れたのは、これも続日本100名城の『高天神城』のスタンプの置いてある静岡県掛川市下土方267−1にある『大東北公民館』へ。『ようこそ 高天神城へ 続日本100名城 公式スタンプはこちらです』高天神城の絵図。この高天神城跡も今年の5月22日に訪ね『ブログアップ済み』👈リンク。スタンプを押す旅友。スタンプを頂きました。掛川市二の丸美術館にて、展覧会『難攻不落の山城 高天神城と 江戸の華 横須賀城』が行われていると。「掛川市内に古代から近代にかけて作られてきた様々な城のうち、戦国時代から江戸時代にかけて重要な役割を果たした高天神城と横須賀城を紹介します。高天神城は、徳川と武田が雌雄を決するまで攻防が続けられた戦乱の城です。横須賀城は高天神城攻略を目的とした徳川の付城として築城された後、江戸時代には横須賀藩を治める政治の中心として明治時代までその役割を全うした城です。平成30年度展覧会「掛川城と高知城 山内一豊と歴代城主ゆかりの遺品」より継続し、郷土の戦国から江戸時代に焦点を当てた展覧会です。また、駿府城・掛川城・横須賀城出土瓦も特別展示します。」と。そして次に急遽『横須賀城跡』を訪ねることに。県道38号線を進む。掛川市 大須賀浄化センターの風力発電装置であろうか。そして『横須賀城跡』に到着。戦国時代末期、この地方は西の徳川勢力と東の武田勢力との境界地帯となって攻防が続いた。天正6年(1578年)徳川家康は家臣の大須賀康高(初代城主)に命じて高天神城攻略の拠点として横須賀城を築かせた。天正9年(1581年)高天神城は落城と共に廃城となり、横須賀城が遠州南部の拠点として位置づけられた。以後、明治維新で廃城となるまでの288年間20代の城主を数える。明治元年(1868年)20代城主西尾忠篤は明治維新の動乱のなか、安房国花房(現千葉県鴨川市)に移され、横須賀藩は静岡藩に含まれることとなった。横須賀城は明治2年8月に廃城。さらに明治6年には城内の土地、建物、石垣、樹木まで民間に払い下げられたが、城跡消滅の危機に住民から保存の声が上がり、昭和56年5月8日付けで国の史跡に指定された。『国史跡 横須賀城跡』。「初期段階の横須賀城の主郭部分と考えられる松尾山と本丸は、小笠山丘陵の先端部に山城として築かれ、近世中期までに二の丸等の平城部分が拡張付加されて、現在の横須賀城が完成したと考えられている。近世中期までは城の手前まで海が深く入り込み、三方が入江と沼や深田に囲まれた天然の要害の地であった。また、この入り江には横須賀湊(みなと)があり、物流の拠点にもなっていた。築城当時、この入り江は同じ市内にある掛川城の外堀となっている逆川の河口だったと考えられており、当時、横須賀城と掛川城は船で直接行き来することができたと考えられている。掛川城が陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は小笠山の南を通る浜筋道の押えであると同時に海上交通の押えであったと考えられる。」と。横須賀城(別称松尾城)は、平山城として、山城から平城に移る中間期の特徴を備え、中世城郭と近世城郭のふたつを併せ持っている。また、普通ひとつしかない大手門が、この横須賀城には東西にあり「両頭の城」といわれたほか、「玉石積み」とよばれる丸い河原石を用いた石垣も、特徴としてあげられると。天竜川より運ばれた玉石垣を用いた築城法である。見える場所は全て「玉石積み」とよばれる丸い河原石を用いた石垣。『本丸南下門跡推定値の遺構』。「この区域は、天守台方面へ至る玄関のような重要な部分に当たり、自然の尾根や谷を巧みに利用して門や塀などの施設により厳重に固められていた。一帯は平成3年度と4年度に発掘調査が行なわれ、その成果と当時の絵図などの資料を基に、平成7年度から平成8年度にかけて、復元整備工事が行われました。」全て発掘済みの後、埋め戻されたのであろう。西の丸方向。天守台・土塁・城跡碑。再び風力発電をズームで。『本丸跡土坑群』。土坑は様々な用途で使われる穴で、発掘調査では17~18世紀の陶磁器が出土したと。『横須賀城阯』碑。『天守台跡』。江戸時代には三層四階の立派な天守があったようだが、1707年の東海地震で崩落してからは再建されなかったのだと。『天守台の遺構』。「横須賀城の天守は建て坪40坪余、4層の建物と記録されています。ここからは礎石と礎石を抜き取った穴がおおよそ2mの間隔で碁盤目状に27箇所検出され天守跡と考えられます。天守台周囲には低い石垣があり、東南隅には入口と考えられるスロープがあります。建物跡東側には、砂利敷きされた平滑面があり、北側には防御のため土塁がありました。天守台の周囲からは天守に使われた瓦が多量に出土しており、西側からは鯱瓦の頭部が、南側からは尾の部分が出土しました。」『天守台の遺構』。「横須賀城の天守は建坪40坪余、4層の建物と記録されている。ここからは礎石と礎石を抜き取った穴がおおよそ2mの間隔で碁盤目状に27箇所検出され天守跡と考えられます。天守台周囲には低い石垣があり、東南隅には入口と考えられるスロープがあります。建物跡東側には、砂利敷された平坦面があり、北側には防御のため土塁がありました。天守台の周囲からは天守に使われた瓦が多量に出土しており、西側からは鯱瓦の頭部が南側からは尾の部分が出土しました」天守は残っていませんでしたが、天守台から天守の規模を実感できたのであった。史跡・横須賀城跡復原模型。本丸周辺。二の丸、西大手門側。『横須賀湊と横須賀城』。「江戸時代中頃まで、城のすぐ前から北西裏にかけて遠州灘から深く入り込む入江があって、横須賀城を天然の要害としていました。入江には横須賀湊があり、大きな船も寄港し水上交通と物流の拠点となっていました。また、この入江と外堀を区切る形で中土居と呼ばれる土手があり、横須賀から袋井に通じる街道となっていました。小笠山を挟んで立地する掛川城が、陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は海辺の道と海上交通の要衝である遠州灘の押さえとして重要であったと考えられます。城前のこの入江は、宝永4年(1707)の宝永大地震による地盤隆起によって干し上がり横須賀城周辺の様子は一変するとともに湊も使えなくなり、横須賀城と城下町は軍事と経済面で大打撃を受けたと考えられる。湊が使えなくなった以後は西方の太田川河口の福田湊まで運河が造られて小舟が行き来しました。」『演習横須賀城歴代城主』。『横須賀城の大きさなど』、『横須賀城の歴史』。「戦国時代末期この地方は西の徳川勢力と東の武田勢力との境界地帯となって攻防が続いていました。天正2年(1574)遠江国の要である高天神城が武田氏の手に落ちました。天正8年(1580)徳川家康は、家臣の大須賀康高に命じ高天神城を奪還するための拠点として横須賀城を築かせた。康高が初代城主となり、以後、明治維新に廃城となるまで288年20代の城主を数えました。」『本丸南斜面中断の遺構』。遠くに遠州灘が。本丸南下二の門跡を上から。この二の門は城内で最も大きな櫓門であったと推定されている。さらに発掘調査では、門の台座石垣の基礎となる石の列や虎口につながるスローブ状の石段が出土したと。丸石の石垣は他でも見た記憶が無いのではと。黒い石垣の石は発掘されたものであろうか?こちらは天守への階段。彼岸花が咲いて。見事な玉石垣。本丸の東側の斜面。河原石だけで作られている、他の城跡では見られない石垣の形状。日本の城ではないような錯覚を。『三日月池北側中断の遺構』。本丸南側の遺構。虎口に向かって右手の台座石垣には、雨水などで石垣が崩れないようにした排水溝の暗渠(あんきょ)が設けられていた。その上にある赤茶色の石は発掘調査で出土した石らしい。現在は危険防止のため暗渠の口を扁平な石で閉じられていた。それにしても、この『横須賀城』も続日本100名城に選ばれても良かったのではとも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.07
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次次に訪ねたのが『吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)』室町時代、連歌の指導者であった禅僧の宗長が草庵を結んだことに始まり、今川氏や徳川氏といった時の有力者に庇護されつつ今に至る歴史ある寺であると。吐月峰の名は、その庭園から見える月が裏山の竹林より急に姿を表す様に見えた為、"峰が月を吐く"ことからその名が付いたのだとか。その名の通り、裏には立派な竹林を配した庭園があり、拝観料を払って見学が出来た。東山、天柱山、丸子富士など美しい自然を取り入れた借景園は国の名勝・史跡に指定「吐月峰紫屋寺は、今川六代当主義忠と七代当主氏親に仕えた連歌師・宗長が、永正元年(1504)五十五歳で草庵を結び余生をおくったところである。この頃は,禅宗の影響で孤独閑寂の生活を楽しむことが流行し、宗長自身もここに京都銀閣寺を模した庭園を築き、四季の風物を眺めて暮らしていたという。風雅な庭園は、本堂の正面はるか南方にある。“丸子富士”や、庭から西方にそびえる“天柱山”などの美しい自然をたくみに取り入れた借景園と、庵の背景となる枯山水の庭園は国の名勝・史跡に指定されている。庵の前庭には、北斗七星をかたちどって配置した“七曜石”や宗長が月の出るのを座って待ったという“月見石”などがある。その月見石の背後に師の宗祇と並んで宗長の墓がある。当寺は、京都の嵯峨から移植したという竹林に囲まれ、宗長の手工に始まるという竹細工が今も民芸品として即売されている。なお、寺宝に後水尾天皇御真筆の短冊、足利義政から賜った芦屋釜(文福茶釜)、頓阿法師作柿本人麿像及び一節切(ひとよしぎり)の笛などの文化財が保存され、公開されている。」名勝及史跡『柴屋寺庭園』。柴屋寺の山門には『文福茶釜の寺』と。昔話によく聞いた「分福茶釜」は群馬県館林市の茂林寺の茶釜。汲んでも汲んでも湯が付きないので不思議に思ったら狸の化身だったと言う話だ。ここ柴屋寺の「文福茶釜」は、足利義政公が茶を点てる時に使った言われる静岡市伝説ですが門外不出であると。山門横には大きなモミジの木があり、紅葉シーズンには風情を感じる光景を楽しめそうであった。句碑。たなびくや 千里もここの 春霞 氏親梅匂ふ かげしたいつつ 柴屋寺 宗長永正元年(1504)9月、今川氏親が関東に出陣の折、三嶋神社に願をかけ、凱旋の後 宗長が千句詠んだ「三嶋千句」の碑にも歴史を偲ぶものが。『山門』。「天柱山 吐月峰柴屋寺 由来静岡市駿河区丸子泉ヶ谷にある柴屋寺は室町時代の中期永正元年(1504年)連歌師柴屋軒宗長が草庵を結んで閑居(かんきょ)した所であって吐月峰の名によって天下に知られた天下の名勝であります。この泉ヶ谷の地は応仁戦乱の頃持舟、宇津山、賤機山などと共に駿府の外城として丸子城があり今川氏親は今川氏の内訌(ないこう;内乱)の難をこの丸子城にさけて十余年を過ごしたのであります。現在の柴屋寺は当時の丸子城内の一部であり、青年連歌師宗長は氏親ともに暫くこの城内にあって自然の風詠に戦塵を忘れたと伝えられています。氏親は駿府城に帰って(長享元年・1487年)国守となった後もしばしば柴屋軒をたずね、なお公財を捨てて堂宇を建て始めて柴屋寺と称えたのであります。 徳川家康はこの寺に朱印地を賜い堂宇の朽ちるを惜しんで懇ろに修復したのであります。その庭園は宗長が自ら禅味と詩魂を打ちこんで築いたものといわれ、本堂の西に小池を造り東北方から湧出する岩清水を引いてこれに注ぎ池畔には樹石を配して西方にそびえる天柱山を巧みに取入れた借景庭園であります。」 『吐月峰柴屋寺由来略記』。以下抜粋。「吐月峰柴屋寺の庭園は宗長法師自作にして京都東山銀閣寺の庭園を擬したるものなり。東方には東山の月、園中、宗長法師の月見石あり、南方丸子富士を望み、西北には天柱山あり。これらはすべて庭園の築山なり。宗長法師閑居以来月の名勝地となる。常に文人墨客の杖を曳かれたる勝地なり。昭和11年9月文部省より静岡県名勝及史蹟庭園に指定せらる。」山門を入ると右手にあったのが『吐月峰柴屋寺 保存顕彰會』記念碑。事務所で拝観料300円を支払う。寺の住職夫人?が宝物拝観所を案内してくれた。史跡庭園宝物拝観所入口。風雅な庭園は本堂の正面はるか南方にある「丸子富士」や庭の西方にそびえる「天柱山」など美しい自然をたくみに取り入れた借景園と、庵の背景となる枯山水の庭園は、国の名勝・史跡に指定されています。庵の前庭には、北斗七星をかたちどって配置した七曜石と、宗長が月を出るのを座って待った月見石などがあります。その月見石の背後に師の宗祇と並んで宗長の墓があります。柴屋寺は京の嵯峨から移植したと言われる竹林に囲まれ、宗長の手工に始まるという竹細工が民芸品として即売されています。寺宝には後水尾天皇御真筆の短冊、足利義政から賜った芦屋釜(文福茶釜)、頓阿法師作柿本人麿像及び一節切の笛などの文化財が保存され、公開されています。左手は北斗七星をかたどった池であるが、書院からだと北斗七星の様子が理解しにくい。こちらの月見石に座り正面の山にある竹林の上から昇る月を愛でたのだそう。竹がワサワサと揺れると、まるで竹が月を吐き出すかのごとく見えることから、吐月鉢柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)とも呼ぶのだと。『座禅石』。家康公が手向けた槇の木だと。『常春松』。本堂からの丸子富士が。昔はあの山の頂上までが柴屋寺の領地とされていたのだと。周囲には竹林も。茶室近くにも小さな池が。池の先に茶屋が。『茶室』。内部は撮影禁止と。茶室の名は「待月」と。茶室に面した池泉庭園の奥には、分かりにくいが枯滝があった。庭園では、今でも毎年仲秋の名月を愛でるお茶会が開かれ多くの人が訪れると。 宝物は全てガラスケースに入れられ、これも撮影禁止となっていた。下記の如き宝物が。ネットから足利義政公より賜う「文福茶釜」。「ぶんぶく茶釜物語」は、群馬県館林市にある茂林寺の「分福茶釜」伝説が有名ですが、ここ柴屋寺の「文福茶釜」は静岡市伝説です。漢字は、茂林寺⇒「分福茶釜」、柴屋寺⇒「文福茶釜」と異なるのです。 【https://sakamichi2.exblog.jp/21720802/】よりこれもネットから。武田信玄公からの 高麗茶碗。 【https://sakamichi2.exblog.jp/21720802/】よりヲランダ製古時計。 【https://sakamichi2.exblog.jp/21720802/】より宗長は、この寺で下記の如き歌を詠んだと。そして書院の見学を終え『宝物拝観所』を外から。扁額には青字で『吐月峰』と。残念ながら庭園は散策できず、書院から座って観賞する池泉観賞式庭園の柴屋寺。国指定名勝ではあるが、植栽が豊かになりすぎ?庭園の魅力を感じにくいのは残念。ここが本堂であろうか?仏壇も確認できた。その隣の部屋には床の間らしきものも。本堂全景を見る。本堂の屋根の先にラクダの背中のような形をした天柱山(てんちゅうざん)がみえる。柴屋寺の山号(さんごう)は、この天柱山からきている。ただ、木の生長に借景となる天柱山が見えにくくなっている。御朱印を頂きました。そして、吐月峰柴屋寺より更に奥にあり、山を背にひっそりと佇む寺『歓昌院』に車で向かう。正面に『千手観世音菩薩薬師如来安置』と書かれた柱が。ここが『千手観音院』への入口。800年ほど前、奥大井小猿郷(榛原郡旧 笹間村)にあった菩薩であったが、旅の僧の 夢枕に立ち、泉ケ谷歓昌院に移りたいと切望したと。移動後、再び小猿郷に戻 された時は、様々な災厄がおこったことから、またこの地に戻り今に至るのだと。その手前には、『純粋ハチミツ』と書かれた村本養蜂店の看板が。『歓昌院』参道入口。参道の坂道を上って行く。『地蔵堂』。『うなぎ供養之碑』。静岡市蒲焼業組合が、平成7年(1995)7月に建立したと。参道左側には『五百羅漢』が。知人に似た羅漢様はいないかと。『六地蔵』。『山門』。『本堂』。室町時代に創建された曹洞宗のお寺。駿河国三十三ヶ所観世音菩薩霊場の第13 番札所であり、丸子宿の宿泊が混雑した場 合宿泊を引き受けていたと。ご本尊は千手観世音菩薩。本堂の扁額には『天桂山』書かれていた。曹洞宗 天桂山 歓昌院。右手は寺務所であろうか。この建物も昔は料理店であったのだろうか?静岡丸子の名物とろろ汁が評判の懐石料理店『待月楼』。大正八年創業、森や竹林に囲まれた約1000坪の敷地に建つ数寄屋造りの料亭が待月楼。今から約500年前の室町時代、連歌師宗長が結んだ草庵、吐月峰柴屋寺の茶室の名が「待月」であり、「待月楼」の名はその茶室に由来。贅沢な空間と時間、旬の素材を使った懐石料理と伝統のとろろ汁の組み合わせは、世代をこえて喜ばれていると。日本の伝統を伝えつつ新しい風を取り入れた空間の中で、心行くまで四季の味と、自然のもてなしを楽しめる店と。静岡丸子の名物とろろ汁を楽しみたかったがこの日も残念ながら・・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.06
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次途中、国道1号線・静清バイパスの丸子藁科トンネルを過ぎて静岡市駿河区丸子にある『誓願寺』に立ち寄る。『丸子城跡~歓昌院坂 ハイキングコース』」になっている誓願寺。『戦国時代「今川」「武田」の山城、『丸子城跡(まりこじょうし)。』「この丸子城は今川・武田戦国大名によって標高一三六米の三角山を中心に尾根沿に南北五〇〇米にわたって多くの曲輪を階段状に築いてあります。今川氏の時代に築いた山城を活用し、武田氏の国家的事業をもとに武田流山城を導入し現在の丸子城を完成させたと言われています。東海道の大動脈を抑え駿府方面が見通し駿府の防衛拠点としての要城でした。自然を巧みに利用して築城された丸子城は当時の遺構がそのまま現存することでも有名です。その存度は県内中の山城随一で全国的にもあまり例を見ない貴重な歴史的文化遺産です。国の文化財に価する遺跡であると注目されています。お城といえば天守閣を想像しますが、この城は中世の山城で「砦」としての防衛拠点でした。遺構 本丸跡・木戸口・掘割・竪堀・曲輪・土塁」丸子川に流れ込む小川に架かる木橋の先に誓願寺の山門が見えた。『大鑪山 誓願寺』。山門前の白線は、決してここに車を停駐車させないためか?延命地蔵尊(右端)と太鼓坊地蔵堂(中央)。小さな祠の中の太鼓坊地蔵は、高さ約75cm。当時、誓願寺に太鼓を叩くのが得意な禅粛という修行僧がいた。だが、病弱で若くして亡くなったため、不憫に思った師匠の同寺一三世達源和尚が、世の人々の無病息災と長寿を願って祀ったのがこの地蔵である。以前は村の入り口の丘の上に、この僧の故郷である尾張国(愛知県)の方向を向けて置かれていたという。「此の地蔵尊は天明8年(1788)の建立なり。誓願寺第十三世達源和尚の徒弟禅粛首厘は太鼓坊と云われる太鼓打ちの名主然し病弱で若くして此の世を去った。達源和尚は首厘を不憫に思い世の人々が三悪趣を離れ百病根を断ち長壽であるようにと願いをこめて首厘の故郷の方向に向かって建立せしものなり」誓願寺山門。創建は建久三年(一一九二)。源頼朝が両親の追善菩提のために建立したと伝えられており、祖師堂には「武皇嘯源大禅定門」と記された頼朝の位牌が祀られている。当初は浄土宗の寺だったといい、本尊は今も阿弥陀如来である。ちなみに、現在の本尊仏は元和九年(一六二三)に寄進されたものだと思われる。天文二三年(一五五四)、今川家と武田家による丸子城の争奪戦の飛び火で誓願寺は全焼した。しかし、丸子城を押さえた武田信玄が、甲斐国(山梨県)恵林寺の快川紹喜和尚の進言によって同寺を再興し、宗旨を臨済宗に改めた。中興開山は文益瑞奎和尚。慶長一九年(一六一四)、京都方広寺の梵鐘の銘文をめぐって、豊臣家と徳川家康との間に不和が生じた。この時、申し開きのために駿府を訪れたのが、豊臣家の重臣片桐且元である。だが、家康は且元がすぐに駿府にはいることを許さなかったため、且元はしばらく同寺に滞在したという。結局、豊臣家は且元の努力もむなしく、慶長二〇年(一六一五)五月八日に大阪夏の陣で滅亡した。その二〇日後、且元も自害し、誓願寺に葬られた。現在も誓願寺に残る片桐且元夫妻の墓は、且元の甥の片桐貞昌(石州)によって立てられた。貞昌は四代将軍徳川家綱の茶華道の指南役をつとめた人物で、石州流茶華道の流祖。誓願寺の本堂裏にある回遊式庭園の作者でもある。同寺は、武田家関連の古文書や片桐且元の遺品、石州流の茶華道具などを所蔵しているほか、天然記念物のモリアオガエルの生息地としても知られている。扁額には『大鑪山(おおだたらさん、だいろざん)』と書かれていた。参道には『だるま大師の像』が。『だるま大師の像』を奉納された方の熱い思いが書かれていた。「元気に喝ッ 平和祈願頑張るぞ!!」『七転八起 だるま大師 摩訶般若波羅蜜多心経』。階段の先にあったのが『本堂』。階段上の可愛らしい像。『本堂』。本堂の正面左側の建物には花頭窓が。本堂の扁額には『誓願禅寺』と。ガラス戸の隙間から本堂内部を。本堂右の建物。寺務所内部。御朱印を頂きました。「無量寿佛」と書かれているのであろうか?本堂の先代の大きな鬼瓦。笹竜胆(ささりんどう)の紋が。竜胆は源頼朝の紋とされ、清和源氏のシンボルともされている紋。そして本堂裏の片桐且元(かたぎりかつもと)公の墓』を訪ねた。方広寺大仏鐘銘事件弁明のため、誓願寺に滞在した豊臣家重臣 片桐且元公の墓。豊臣家寄進の方広寺梵鐘に彫られた「国家安康」の文字が家康の名を二つに分断したものであり、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願ったものだ、けしからん!と徳川方が難癖をつけたあの「方広寺大仏鐘銘」事件。片桐旦元公の墓石(左)。こちらは(右)は夫人の墓石であろう。徳川家康に申し開きするため駿府を訪れ、1ヶ月近くこの誓願寺に滞在。しかし家康には会わせてもらえず、そうこうしているうちに大阪から淀君の使者として大蔵卿がやって来た。家康は大蔵卿とは面会し、安心するよう言って帰すのであった。結局、片桐は「臣下の礼」「大阪城退去」「秀頼か淀を江戸に人質」と徳川側から無茶難題を出されて大阪に帰るのであったが、大蔵卿の話と真逆の話すぎて裏切り者扱いされ、大阪城から追放されてしまったのであった。豊臣のために頑張ったのに気の毒すぎ。誓願寺の墓地。『近藤 勇之墓』と刻まれた墓石。故海軍・・・の文字があり勿論別人。本堂横から『丸子城跡』のある山を見る。誓願寺から道を隔てて前の遊歩道(東海道自然歩道)を登っていくと約15分で城の南端に出ると。稲荷神社の奥を登っていくと、 城の北東部に出る。丸子城は北部が今川氏時代、南部が武田氏時代に築城された城で、通称「北城」「南城」と呼ばれている。 それぞれの特徴がでている興味深い城であるとのことであったが・・・。境内の観音像。この赤い実の植物は何であろうか?ハマナスの実に似ているが?巨岩も境内に。美しい老松。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.05
コメント(1)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次「旧東海道を歩く」も5月24日に静岡県湖西市新居町新居にある『新居関』まで辿り着いていたが、その後旧満州への海外旅行そして夏場の熱中症を避けるため「旧東海道を歩く」も一時中断していたが、9月24日(火)~26日(木)まで2泊3日で新居宿~御油宿間を歩いて来た。早朝7時に茅ヶ崎に住む旅友のSさん宅をSさんの愛車で出発。空には秋のうろこ雲の姿が。国道134号線の相模川を渡る『湘南大橋』手前。富士山の山頂には小さな笠雲が湘南大橋から見えた。西湘バイパス・西湘二宮IC近くからの二子山と小田原の街そして相模湾。そして富士山の右手には巨大な幾重にも巻かれたような不思議な形の雲『吊るし雲』も出現し、神秘的な景色となっていた。『吊るし雲』は普通の雲と違い、風で流されるものではなく、同じ場所に留まっているように見えた。ネットで調べてみると、この朝は富士山周辺では、湿った西よりの風が強めに吹いていたと。この湿った風が富士山を乗り越えたり回り込んだりして、風下側に空気の波が起こり、その空気の波のところで発生しているのが吊るし雲であると。風が昇る場所で雲が出来て、風が降りる場所では雲が消えていくという現象を絶え間なく繰り返すことによって、同じ場所で雲が止まって見えるのだと。また、その前日は台風17号が日本海を通過していき、日本列島は暖かく湿った空気に覆われたことから、この朝は湿度が高く(水蒸気が多く)より赤く染まる朝焼けが見られたと。この朝の絶景は、台風が残したうれしい置き土産と言えそう。神奈川県立生命の星・地球博物館。46億年にわたる地球の歴史と生命の多様性を展示した自然系博物館。巨大な恐竜や隕石から豆粒ほどの昆虫まで、1万点にのぼる実物標本を楽しめる博物館。箱根新道を進む。七曲りの途中、箱根旧街道の石畳の下を通過。国道1号線、山中城1号トンネル手前。左手には山中城跡がある場所。国道1号線からの三島の街並み。そして奥には伊豆半島の山並み。富士山の笠雲を再び。外部からはなかなか全景を見せてくれない三島スカイウォーク。そして旧東海道に面した静岡県三島市三ツ谷新田7にある『松雲寺』に立ち寄る。この寺からは富士山の勇姿のベストスポット。1644年に本山 玉澤妙法華寺21世日叙の弟子松雲院日明が開山。1656年に創立。徳川尾張家、徳川紀伊家や参勤交代で東海道を往還する西国大名たちの寺本陣となる。幕末には、徳川第14代将軍家茂公・徳川第15代将軍慶喜公も休息する。明治時代には、明治天皇の小休息所として度々御成になられる。この寺は4月にも訪ねてていたので「その時のブログ」👈をリンクで。富士山の裾野には雲が湧き出して来ていた。『参杉明神』「昭和33年9月26日狩野川台風のため、境内の樹齢約400年の大杉3本が折損す。永年の恩に報ゆるの意を以て、神号を捧げてこれを祀る。」樹齢400年の『ナギ(梛)』の木。三島市松並木手前。そして右手に『三嶋大社』。更に国道1号線を進むと、右手の富士山は時間と共に雲に隠れて行った。そして続日本100名城の『興国寺城』に立ち寄る。興国寺城は、根古屋と青野の境にある、篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれている。この城は、戦国時代に関東一円を支配した北条氏の祖である伊勢新九郎盛時(北条早雲)の旗揚げの城として名高い城である。興国寺城跡案内図。この場所は、「5月22に訪ね既にブログアップ」👈リンク を済ませている。『本丸』跡は発掘調査後に埋め戻され広場になっていた。先日の台風17号?の強風で旗は無残な姿に。尾の美しいトカゲを発見。ネットで調べてみると『ニホントカゲ (日本蜥蜴)』。尻尾が青く光るなんとも美しい色合い。『興国寺城跡』「興国寺城跡は愛鷹山の山裾が浮島沼に向かって張り出した低い尾根上に立地しており、山の根を通る根方道と浮島沼を横断して千本浜へ至る江道・竹田道との分岐点にあたり、かつては伊豆・甲斐を結ぶ交通の要衝であった。城郭の遺構をよく残しているのは古城と呼ばれるこの地域で、浮島沼と谷戸に三方を囲まれ、深田足入と呼ばれる天然の泥田堀に守られていた。古城は土塁と空堀によって区切られた本丸、二ノ丸、三ノ丸の3曲輪から成る主郭部と大空堀の北側に付属する外曲輪によって構成されている。本丸北側土塁は一段高く築かれ、中央部の南面には石垣が積まれ、天守台と呼ばれる平坦部になっており、発掘調査によって2棟の建物址が検出され、礎石が残されている。西端も狭い平坦部が設けられ、西櫓台と呼ばれている。本丸は四方を土塁によって囲まれ、南は空堀で区切られていたが、現在南側土塁は崩され、空堀も埋められているが、ほぼ旧状をしのぶことができる。この部分に入口が設けられており、土橋また木橋があったと推定される。本丸の東南には土塁上に平坦部が設けられ、石火矢代と呼ばれていた。ここからは本丸土塁の裾を通って大空堀に抜ける小道が残されている。二ノ丸は土塁がほとんど崩されており、三ノ丸との境界がはっきりしないが、かつては土塁によって囲まれ、空堀によって区切られていた。南側土塁中央に入口があり升形が設けられていた。三ノ丸は南部を県道が横断し、宅地となっているが、南・東の土塁は部分的に残され、ほぼその範囲を知ることができる。かつては東南隅に大手口の虎口が設けられており、西北隅にも入口が設けられていた。周囲の深田足入と呼ばれた泥田堀はほとんどうめられているが、ところどころに小さな池や沼として残され、その思かげをしのぶことができる。」『穂見神社』。伝聞によると、安政4年巳正月に施主15人が山梨県高尾の本社「高尾山穂見神社」から分祀したとされている。安政の大地震が発生し、大津波のため塩害により凶作が続き五穀豊穣を願い、農業神である「高尾山穂見神社」を建立したとされる。『穂見神社』前から本丸跡を見る。高い土塁の上が天守台。本丸跡の遥か先には伊豆半島の山並みが。この城跡は「ぬまづの宝100選」に選ばれており、平成29年4月に日本城郭協会が選ぶ「続日本100名城」に選定されている。「続日本100名城」のスタンプを頂いて来ました。スタンプの右側には『初代城主 北条早雲碑』が。沼津バイパスからの富士山頂の笠雲。富士由比バイパス・新蒲原駅近くからの薩埵峠方面を見る。薩埵峠をズームで。ここ『薩埵峠』👈リンク は3月8日に訪ねたのであった。この日も、富士山が美しく見えれば立ち寄る事も考えたが、振り返ると残念ながら富士山の姿は完全に雲に隠れていた。展望台も見えた。興津川に架かる富士由比バイパス・興津川橋を渡る。 ・・・つづく・・・
2019.10.04
コメント(2)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日の「旧東海道を歩く(品川・第1京浜北側・東大井~南品川)」で最後に訪ねた場所。北番場参道通りを第1京浜方面に向かうと正面に岩が積み上げられた大きな丘が出現。これが都内最大の高さを誇る15m超えの富士塚『品川富士』。そして第1京浜を渡る横断歩道からの『品川神社』入口。品川神社を訪ねる前に、神社の近くにある『清徳寺』を訪ねた。正門から『清徳寺』を。境内は狭く民家の庭の如し。『清徳寺文書』。徳川歴代将軍の朱印状正文とその関係のもの、他。板木が2点、その他の文書が7点と、これらを収めた朱印箱2点の30点からなる。とくに朱印状正文が現存するのは東京区部では珍しいのだと。こちらが清徳寺『本堂』。山号は福聚山。鎌倉時代の元徳2年(1330)に創建された禅宗寺院で、開山は鎌倉・建長寺も30世、仏寿禅師 枢翁妙環(すうおうみょうかん)(?~1354)と考えられる。天正9年(1591)には、徳川家康から10石の寺領を賜っていると。旧東海寺の城内にあり、東海寺の建立に際して、近隣の多くの寺院が移転を命ぜられた中で、清徳寺は沢庵の宿寺となっていたため、元の場所に残されたと伝えられると。 寺の本堂前に高さ2mほどの石碑が建っていた。『無外坊胡麿仁者蕉禅創業之地』と。柳下胡麿という人物は 明治時代の俳人。俳号は「無外坊」。“蕉禅派”という流派を起し、蕉禅新聞を発行した。 著書に『蕉禅道句大鑑』等があるという。それ以上の詳しいことは不明だが、この石碑は 胡麿がここ清徳寺において 蕉禅派を創業したことを記念して建てられたものと推定されると。なお、鎌倉の建長寺には、『蕉禅俳諧五哲記念碑』という碑が見られると。境内の小さな祠には地蔵様が。こちらも境内の小さな石祠。狐に帽子、衣類は珍しいのであった。本堂を脇門から。そして再び品川神社前の第1京浜・北品川三丁目交差点まで戻る。第1京浜の先が京浜急行線の高架。そして『品川神社 御由緒』。「今からおよそ八百年程前の平安時代末期の文治三年(一一八七)に、 源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座洲崎神社)の天比理乃咩命を 当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。やがて、鎌倉時代末期の元応元年(一三一九)に二階堂道蘊公が、 「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明十年(一四七八)に、 太田道灌公が「素盞鳴尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。慶長五年(一六〇〇)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を 祈願され、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿) などを奉納されました。また、寛永十四年(一六三七)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社が その鎮守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う) となり、元禄七年(一六九四)・嘉永三年(一八五〇)の二度の社殿の焼失の際には 時の将軍の命により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護を受けました。時代は明治に移り、同元年(一八六八)十一月には明治天皇様が、 新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために当社を含んだ都内の十の神社を 「准勅祭神社」と定められ、御勅使が御参拝になられ御祈願をされました。大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、 昭和三十九年(一九六四)氏子各位のご協力により現在の社殿が再建されました。」鳥居の左横には東海七福神の立派な『大黒天』像が建っていた。『元准勅祭 品川神社』と刻まれた大きな社標。「准勅祭社」とは、明治元年11月8日に定められた、東京近郊の主だった神社12社。勅祭社とは、勅使が参向して祭祀が執行される神社のことで、武蔵国一宮の氷川神社など全国に鎮座する17社を指す。准勅祭社とは、これに準ずる社格です。明治3年9月1日には准勅祭社の制度は廃止され、それぞれ府県社、郷社となったと。そして『一の鳥居』の両柱に龍が。鳥居の柱にまとわりつく龍。向かって左が昇り龍。右が下り龍。東京三鳥居の一つらしい。残りの二つは、高円寺境内の稲荷社と馬橋稲荷神社の鳥居であると。巨大な『狛犬』(左)。巨大な『狛犬』(右)。品川神社 配置案内図。品川神社『二の鳥居』。50数段の石段を上がりきると、二の鳥居が。その先に三の鳥居と拝殿が見える。『富士 浅間神社』。『祝 八名勝 入選碑』昭和7年に当品川神社が東京八名勝の第三位に入選した記念に建立したと。『恩賜養老杯碑』。左は『千客萬来 商売繁盛』、右には『大いなる 希望に歩め 春立つ日』立春初詣東海七福神めぐり発祥の碑。『包丁塚』。『包丁塚の由来』。「抑もここ品川の地は 往昔より江戸出入りの要宿にして近代となりてその地域広大となるも、まことに殷賑をきわめ、ゆえに調理をなりはいとする店多く、またそれらに使用されし包丁数知れぬなり。このたび品川区鮨商組合連合会発足二十五周年を記念し、ここに縁りの地品川神社の神域に包丁塚を建立、調理に役し、使い古されし数多包丁を納め、とわにその労を謝すと共に、同じくそれら包丁により調理されし鳥獣魚介の類、はた又惣菜等等を慰霊し、併せて業界の発展を期し とこしえに連合会の隆昌を願うものなり。」『御嶽神社』。御嶽神社の鳥居。品川神社『三の鳥居』。『神楽殿』。『本殿』。『阿那稲荷神社』前の朱の鳥居がつづく。朱色の鳥居の列をくぐっていくと、その列から外れるような場所に、阿那稲荷神社の上社があり、朱色の鳥居の列は、上社の右手斜め下へと続いていた。『祖霊社』。大砲の弾のようなものも、隣りに。『阿那(あな)稲荷神社』上社。社殿内部。『阿那(あな)稲荷神社』下社。正面に、「大国主恵比須神社」「天王白龍弁財天社」「八百萬神社」が並んで鎮座。社殿前の『手水舎』。『品川神社文書』『品川拍子』『品川神社石造鳥居並水盤・品川神社石造燈籠・神輿一基』。『寶物殿』。『社務所』。御祭神は・天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと、天太玉命の后神。祈願成就・航海安全の神。 源頼朝公御勧請。)、・宇賀之売命(うかのみたまのかみ、お稲荷様。農業・商業・産業繁栄の神。 二階堂道蘊公御勧請。)、・素盞嗚尊(すさのおのみこと、天王様。風水害除け・疫病(病気)除けの神。 太田道灌公御勧請)。板垣退助の墓に向かう。元は東海寺塔頭だった高源院(こうげんいん)の墓地にあったが、関東大震災のあと、高源院が世田谷区に移転した時に、墓だけがここに残った。墓は夫人の墓と並んで建っている。板垣は、明治7年、日本で最初の政党である愛国公党を結成。日本に国会の開設を促し、自由民権運動の父と呼ばれる政治家。自由党(現/自由民主党)の初代総裁を務め、晩年は、社会事業にも尽くした。墓の傍らに、遊説中に刺客に襲われた際に言ったと伝えられている有名な言葉「板垣死すとも自由は死せず」が刻まれた石碑が建っている。「自由民主党/総裁佐藤栄作書」と刻まれていた。そして、石段を下る途中、右手に品川富士に続く登山道の入り口が。富士信仰に基づく富士山に模して造営された人工の山や塚で富士山から運ばれた溶岩を積み上げて造ったものだと。なかなか富士登山が出来ない人も、ここに登れば富士山と同じご利益があるのだと。品川神社の富士塚は高さ15メートルで都内最大規模。その登山道は江戸時代の富士信仰をそのまま今に伝える貴重な史跡で品川区指定有形民俗文化財。右手の孔(祠)の中には厳しい顔付きの修験道の行者の姿が。富士塚への登山道に入るとすぐに「一合目」の標石、そのすぐ先には「二合目」が見えた。さらにその先の石段が「三合目」からはじまり、中頃に「四合目」、石段の上部には「五合目」の標石が立っていた。「五合目」から「六合目」は、段差がないフラットな登山道の中間地点。視界が開けて束の間の休息に。「六合目」から先は、神社の石段感が無くなり、富士塚らしく雰囲気がガラッと変わるのであった。ここから先は、狭く勾配が急になり、足場も石段と比べると不規則な為、踏み外さない様に慎重に進みたいところ。そして品川富士の山頂に到着。山頂は3~4メートル位の円形広場。見事な眺め!!。頂上には5色の吹き流しが青空を背景に棚引いていた。品川神社前の第1京浜を見下ろす。そして品川神社を後にして、品川駅に向かう。左手に曲がると『御殿山通り』が。御殿山の地名のおこりは、太田道灌の館があったからとも、また江戸時代に将軍の別邸があったからともいわれている。この通りが御殿山を横断する通りであることから「御殿山通り」となったと。左手に『品川女子学園』そして校歌が。『新八ツ山橋』を渡る。下には、東海道新幹線、東海道線、山手線が走る。そして品川・港南地区の高層ビル群。そして品川駅から東京駅に向かったのであった。 ・・・完・・・
2019.09.06
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次再び第1京浜を離れて、山手通りをJR大崎駅方面に進む。右手には品川区立品川学園の校門が。更に進むと東海道線のガードが見えて来た。そして前方に見えたのが東海道新幹線。右手に『史跡 官営品川硝子製作所跡』。『品川区指定史跡 官営品川硝子製造所跡』所在:品川区北品川4-11-5 第一三共株式会社前指定:昭和53年11月22日(第8号)日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは、明治6年(1873)に東海寺境内に創設された興業社である。興業社は、明治9年(1876)に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり全国のガラス工業の発展に貢献した。明治18年(1885)には西村勝三らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため、明治25年(1892)に解散した。昭和36年(1961)に官営時代の建物は取り片づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は明治初期の貴重な建築物として、愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。」そしてその手前に『東海寺大山墓地』の案内板が。沢庵和尚墓(国史跡)・賀茂真淵墓(国史跡)・渋川春海墓(品川区史蹟)・西村勝三墓・井上勝墓」と書いた案内板。東海道本線の線路下の道を真っ直ぐ進む。左側の敷地は「北品川変電施設新設」の工事が始まっていた。すると前方に歴史を感じさせる石碑が現われた。『東海寺開山 澤庵禅師墓通』と刻まれていた。側面に「明治13年9月 舊(旧)佐嘉藩士 喜拾(きしゃ)主 福谷藤吉 福谷金吉」と。そして階段を登っていくと左手に『澤庵禅師 墓』が。小堀遠州が築造したと伝えられる、大きな自然石を置いた沢庵の墓。「沢庵」👈リンク1(1573~1645)は、江戸時代初期に活躍した禅僧で、名は宗彭(そうほう)、沢庵は道号。但馬国出石(いずいし:現、兵庫県豊岡市)に生まれ、幼少のころ出家して禅を学び、各地を修行して信望を集め、慶長14年(1609)大徳寺の153世住持となった。寛永6年(1629)紫衣事件で流罪となり、出羽国上山(現、山形県上山市)藩主土岐頼行に御預けとなる。三年後許され、その後は三代将軍徳川家光に重用される。寛永16年(1639)家光によって創建された品川・東海寺の開山に迎えられ、晩年を送った。正保2年(1645)12月没、73歳。沢庵👈リンク2 は禅僧として大成しただけでなく、兵法、儒学に通じ、書画、詩歌にもすぐれ、茶道に造詣が深かった。」これは墓石、力石?『夢塚』。沢庵は、弟子に「老僧遺戒之条々」という遺言を残し、正保2年(1645)に夢の一字を書いて亡くなったのだと。「この墓所は、旧熊本藩細川家家臣及びその一族の墳墓地で、第十八代細川家当主細川護熙殿より平成二十三年五月、宗教法人東海寺へご寄付して頂いたものです」と。線路沿いにも名もなき多くの墓石が。『渋川春海 墓』。「渋川春海は、寛永16年(1639)に京都で生れ、14歳で父の跡をついで幕府の碁所(ごどころ)となり安井算哲(やすい・さんてつ)(二代)と称した。囲碁の研鑽の一方で天文・数学・暦学を学び暦学者となった。その頃、日本では中国の宣明暦(せんみょうれき)を使っていたが、2日の誤差があったので、春海はみずから計算して新しい暦を作った。これが貞享元年(1684)に官暦となり翌年から用いられ、貞享暦(じょうきょうれき)として後の太陰暦の基本となったのである。貞享暦は日本人の手で作られた初めての和暦であり、春海はこの功によって、幕府最初の天文方に任ぜられ、本所(ほんじょ)(墨田区)に、宅地を拝領した。春海は、屋敷内に司天台(天文台)を設けて天体の観測にあたった。これが江戸で最初の天文台である。春海は正徳(しょうとく)5年(1715)10月6日に77歳で亡くなり、この地に葬られた。」そして『鉄道記念物 井上 勝 墓』と刻まれた石柱も。『井上 勝 墓』「初代鉄道頭井上 勝1843(天保14)年~1910(明治43)年“鉄道の父”と称される井上勝は、萩藩士の三男として生まれた。15才から長崎、江戸で学び、1863(文久3)年井上馨、伊藤博文らとともにイギリスに密航し、鉄道と鉱山技術を学ぶ。日本の鉄道建設に最初から関わり、1871(明治4)年には初代鉄道頭となり、1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道を完成させた。その後、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任して、東海道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げた。外国から導入した鉄道を、日本の鉄道として発展させた功績は多大である。生前、自らの墓所として東海道本線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向からであったと伝えられている。」そして大きな黒御影の墓石に多くの花束が添えられている墓石を発見。歌手の『島倉千代子』の墓であることを知る。ご本人が亡くなる前に都内の寺に黒い御影石で墓を造られ、ピアノをイメージしたデザインの墓を用意していたという。「こころ」の文字が大きく刻まれ、横には生前に決めていた戒名が彫られていた。戒名は「寶婕院千代歌愛大姉(ほうしょういん・せんだいかわいだいし)」 。背面には俗名の「島倉千代子」と並び、「島倉忍」の文字が並んで刻まれていた。「島倉忍」については、このブログで説明するのは辛いので、『このリンク』👈リンクを参照願います。合掌!!。『賀茂真淵(かものばぶち)墓』の鳥居中央に自然石の墓、右手に「贈従三位 賀茂真淵卿之墓」、左手に「賀茂縣主大人墓」と碑。江戸中期の国学者・歌人。そして再び第1京浜に戻り散策を続ける。新馬場駅の裏にある『本照寺』。『本堂』元は真言宗寺院で東福山と号していたが、1548年に日純上人が日蓮宗に改め、東光山と改号したと伝えられていると。入母屋造り屋根平入り、切妻向拝妻入り。そして『北馬場参道通り』を歩く。江戸時代には東海道品川宿の馬場として栄え、品川神社の参道として賑わった道。正式名称:は京急新馬場商店街振興組合、通称: 北馬場参道通り商店街。京急新馬場商店街(新馬場参道通り)に並ぶ看板建築。麺屋「まる」と休み処「品川宿参道」、見事な三軒長屋の看板建築だ。しかし、一番右の洋服屋?であった店はシャッターを下ろしていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.05
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次その6で訪ねた場所。太龍寺を後にし、碑文谷道の煉瓦塀を楽しみながら進み、しばらくして右折し更に進むと右手にあったのが『清光院』。臨済宗大徳寺派の『清光院』は、慶安3年(1650)に肥後国字土藩(熊本藩支藩)の藩主、細川行孝が母を開基として建立したと。もとは東海寺の塔頭のひとつでしたが、明治維新後に独立したと。正面の山門は大きな木材を使った冠木門。入口には『しながわ百景 清光院と奥平家墓地』の案内板が。品川区指定史跡「奥平家墓地」は、瓦積の土塀に囲まれた598㎡のという大名墓地としては都内有数の広さで、89基の墓碑があると。奥平家は徳川家譜代大名で、4代昌能の時代に清光院に墓所を定め、以後代々の藩主らが葬られていると。参道を入っていくと正面に比較的新しそうな『唐門』が。『本堂』。第二次大戦で焼失したが、戦後再建されたものであると。『枯木倚寒巖 沢庵叟』と「沢庵禅師」が書かれた扁額。『枯木倚寒巖(こぼくかんがんにより)とは「私は冬の巌の枯れ木のように、私の心は少しも動ずるとことはない」と言う意味であると。本堂前の枯山水の庭。東屋。境内庭園から唐門、本堂を見る。本堂の後ろには高層マンションが。庭園のお地蔵様。ここにも。石碑の文字は?お稲荷さん風の社も。『奥平家墓域』は、裏のしおり戸を入り左手に向かって進むとあった。『奥平家墓域』は品川区指定史跡第5号奥平家は徳川家譜代の大名で、初代定昌(のち信昌と改名)は徳川家康の長女亀姫を妻とし、美濃国(現岐阜県)に10万石を領した。その後、何度かの転封ののち、豊前国(現大分県)中津藩主となっている。清光院に墓所を定めたのは4代昌能のときで、以後代々の藩主らが葬られている。瓦積の土塀に囲まれた598㎡の墓域は都内の大名墓域としては有数の広さで、慶長19年(1614)に没した二代からの墓石88基がある。奥平家は譜代大名で、中津(大分県)藩主であった。中には3メートルを超える巨大墓も。墓地の入口門。大きな墓石が数えきれないほどに。別の角度から。歴代住職の墓であろうか?目黒川を越える要津橋(ようじんばし)を進むと右手にあったのが『東海寺』。臨済宗大徳寺派の東海寺は、萬松山と号す。東海寺は、寛永15年(1638)徳川家光が沢庵宗彭を招聘して開山した。寺領5,000石、境内地4万7000坪を賜った別格本山格の寺院で、臨済宗大徳寺派の江戸触頭。明治維新で廃寺となったものを、かつての塔頭玄性院が旧跡を引き継いで現在に至っている。『東海寺』の脇門から入ると正面には『鐘楼』が。『鐘楼』。鐘楼にある東海寺梵鐘は元禄5(1692)の鋳造で総高198㎝、口径106㎝。五代将軍綱吉の母、桂昌院が将軍家光の冥福を祈るために寄進したもの。本鐘は元禄5年(1629)住持天倫宗忽(じゅうじてんりんそうこつ)が撰文し、名工といわれた幕府の御用鋳物師である椎名伊予守良寛によって造られたもの。撞座は竜頭の側面方向に2ケ所、乳は乳の間ごとに縦横5箇ずつ配列されている。仏殿は昭和5年(1930) の建築、小規模ではあるが本格的な禅宗建築である。正面入口の上に『世尊殿』と記した木額をかけている。本尊は木造の釈迦三尊である。中尊の釈迦如来坐像は等身大の立派な像で、東海寺の開創にあたり、根来寺(和歌山県、新義真言宗)から移されたものと伝えられている。『青山家墓』丹波篠山藩主青山家の墓。現在の東海寺は、もとの塔頭玄性院が引き継いだもの。玄性院は、寛永16年に老中堀田正盛が建立したもの。そのため、ここには堀田家、堀田正盛の墓が。堀田 正盛は、江戸時代初期の大名、老中格、老中、大政参与。武蔵川越藩主、信濃松本藩主、下総佐倉藩初代藩主。堀田家宗家初代。 堀田正吉の長男。母は稲葉正成の娘。 母は正成が最初の妻との間に儲けた女子であり、正成の2度目の妻が春日局であるため、正盛は春日局の義理の孫にあたる。『樋口家累代之墓』。『南無大慈大悲観世音菩薩』と刻まれていた。ここは歴代住職の墓であろうか?『池田謙三翁追悼碑』。球体型の墓石も。こちらが、今は閉ざされている正面山門(境内側から)なのであろう。『庫裡』、『客殿』であろうか?左手に『子どもの森公園』通称「かいじゅう公園」。たくさんの恐竜が出迎えてくれた。恐竜以外にもなかなか趣向を凝らした、魅力的な公園。公園の交差点を右折して、第1京浜方面に進むと右手に先ほど訪ねた『東海寺』の入口が、そしてその先には先ほど見た山門が見えた。そして、右手のタワーコート北品川のビルの1階のオープンスペースには様々な浮世絵が展示されていた。『高輪邊繪圖』。名所江戸百景『品川御殿やま』。「品川の御殿山は、古くは太田道灌、江戸初期には徳川家康が御殿を構えたくらいだから、それは美しい丘であったのだろう。8代将軍吉宗により一般に開放されて桜の名所となるが、ここは風流人の好む月見の名所でもあった。広重は、ここで桜を何枚も描いたのはもちろん、観光ガイド「絵本江戸土産」などで、諸説ある「月の岬」は、この御殿山であると示唆している。それほどまでに、ここは彼にとって思い入れのある場所であり、遺作となるこの江戸百景でも、本当は、美しい御殿山を描きたかったはずだ。しかし彼は敢えて、地層が露出した無骨な崖を描いた。」 所江戸百景『高輪うしまち』「寛永11年の増上寺、同13年牛込、市ヶ谷見附の工事に京都から牛車を呼び寄せました。都市づくりに必要な牛車は、そのまま江戸に残り、上高輪の野原に用地が与えられ、牛町と呼ばれていました。遠くに見える、お台場近くには大小の船が浮かび、中央には七色の虹がかかり、砂浜に捨てた西瓜の皮が色鮮やかで、雨後の爽やかさが伝わってきます。」江都八景 品川秋月「「江都八景」は、江戸の8つの景「墨田暮雪」「真乳夜雨」「飛鳥落雁」「品川秋月」「両国夕照」「洲崎晴嵐」「佃島帰帆」「不忍晩鐘」を集めた画帖形式の作品。「品川秋月」では、嘉永6年(1853)に沿岸に御台場(砲台)を築くために切り崩された御殿山が生々しい姿をさらけ出している。画面奥の海上に表れた細長い堤防のようなものがその御台場。豆粒のような人物や海上の小舟などまで描き出す繊細な表現は、手にとって間近で楽しむ画帖ならではの効果的な描法である。」この広場な建築基準法に基づく総合設計制度により設けられた公開空地であると。『品川宿を歩く』案内板。広重作『東海道五拾三次 品川』現在の品川駅は、昔は海の中であったことがわかる絵図。そして旧東海道は海岸沿いにあったのだ。 ・・・その5・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.09.04
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次目黒川沿いを第1京浜に向けて歩きながら、旧東海道、荏原神社方面を振り返る。第1京浜を青物横町駅方面に歩くと左手にあったのが『妙蓮寺』。恵日山と号す。『妙蓮寺 典籍』「当寺の典籍は、文書6点を含む17点で、享保年中から明治に至る間(1720-1885)に作成された写本、稿本(手書きした本)類である。いずれも顕本法華宗の教義・門流・先師に関するもので、特に典籍の「宮谷檀林林玄能歴代本山法主記」のように、現在では孤本となっているものもある。また、文書の中には、創建(弘安8年=1285)以来から品川地域では大寺であった同宗の天妙国寺に関する史料が含まれているのも興味深い。これらは、顕本法華宗の宗門研究にとって大変貴重な史料である。」『本堂』。総本山妙満寺11世寂光院日遵上人が長享元年現在地に創建した。2世中世院日存上人は、日遵上人の弟子で妙満寺14世に列せられ、「本亦対論用意抄」の著述を残した学者でもあった。3世心了院日泰上人は、日遵上人の弟子であり妙満寺16世である。千葉県千葉市中央区浜野の本行寺を興し、酒井定隆を教化した。酒井定隆は、土気城主となった際に領地七里四方を法華に改宗させた。そのことから日泰上人を称して七里法華弘通の開基と仰いだ。25世日寛上人時代(寛政年間)に檀徒木倉屋細井又兵衛は弟子市兵衛と共に、本堂並びに祖師堂山門を建立し、堂塔の整備につとめた。現在の本堂は寛政年間建立の本堂を中に組入れた近代建築である。『高木正年先生之像』。日本初の全盲代議士。旧姓は細井。明治15年東京府会議員選挙に立候補して当選。明治23年第1回総選挙に民権派として立候補して当選。過労がたたって明治29年失明するが、地元民の圧倒的な支持を受けてその後も当選を重ね、熱心な普選論者として通算13回の当選を果たした。婦人公民権の実現、盲人の生活・職業の保護などに尽力した。こちらが妙蓮寺の『山門』。第1京浜を渡り、『本光寺』を訪ねる。山門の横には、大きな松の雪吊りが。『山門』。『木像日蓮聖人坐像(品川区指定文化財)』「この日蓮聖人坐像は像の高さ68.5cmの堂々たる肖像彫刻である。本像は像内に納入された文書および法華経8巻によって造立の経緯と開眼年代が明らかで、京都上行寺の祖師像であったことが判る。このように造立の経緯のわかる彫刻は区内には数少ない。また像自体については、面部が後世の補作となっている点こそ惜しまれるものの、量感に満ちた体躰や袂先の表現、着衣に見られる緻密な唐草盛り上げ文様など中世の祖師像の表現をよく伝える江戸時代初期の貴重な作品である。」『本光寺五輪塔』。『鐘楼』。瓦葺きの重厚なもの。『本堂』。山号は経王山。往時は真言宗といわれ室町時代日什(にちじゅう)により法華宗に改宗し、経王山本光寺と改称したという。徳川家光が本光寺を訪れ、本光寺18世・日啓と増上寺・意伝が東海寺・沢庵宗彭(たくあんそうほう)の立会いのもと念仏無間の問答(品川問答)をした。近年、アルゼンチンに流出していた上行寺の祖師像が本光寺へ遷座された。本堂は昭和43年に建てられたコンクリート造りのもの。庫裏は細工の細かい木造の建物が使われている。『立正』と書かれた扁額。『三重塔』。裏手の墓地には、昭和60年に再建された三重の塔が建つ。そして本光寺山門から少し奥へ入った所には、本光寺の塔頭であった清光寺がある。「もと本光寺境内鬼子母神堂であったが、本多日生の雑乱勧請排他思想により鬼子母神を厨子に封印し本光寺に還帰、そのお堂が清光寺の本堂となったと伝えられるが詳細は不明。このほか本光寺住職の隠居所であったという説もある。」『本堂』。開創年代不明。開山不祥。三派合同以前は顕本法華宗。本堂は大正12年震災で倒壊し、大正15年再建。本光寺の塔中寺院三ケ寺の一つ。そして、その裏手に回り込むように入って行ったところに『大龍寺』があった。その門前、なにやら道路に妙な段差が付いていて、これは何かの跡だなと思っていたら、品川用水の跡であるという。黄檗宗のお寺、『大龍寺』。『星野東吉碑』。この花の名は?『本堂』。黄檗宗の大龍寺は、瑞雲山と号します。大龍寺は、長徳寺を開山した覺阿が時宗寺院の明王山東光院として寛正4年(1463)創建したといいます。元禄16年(1703)黄檗宗の僧百泉己が衰微していた当寺を黄檗宗寺院の瑞龍山大龍寺と改め、中国僧慧林を開山に迎えたと。時宗時代に作られた閻魔堂は、その時、同じく時宗の長徳寺に移されたと。この扁額の文字は?『水子地蔵尊』の影も美しく。『圓珠稲荷』『不休地蔵尊』『寺務所』。『紙本墨画淡彩蘆葉達磨図、絹本着色羅漢図双幅、紙本墨画淡彩蘆葉達磨図』。いずれも品川区指定有形文化財。『木像釈迦如来及両脇侍像、伽藍神倚像』。こちらも品川区指定有形文化財。大龍寺を出て進むと煉瓦積みの塀が続いた。これが、「京浜工業発祥之地」と云われる「工場跡の煉瓦塀」なのだと。『小野稲荷大明神』。幟には正一位小野稲荷大明神と書かれていた。 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.09.03
コメント(2)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次次に訪ねたのが『常行寺(じょうぎょうじ)』。常行寺は京浜急行「新馬場」と「青物横丁」の間、旧東海道に面している。京浜急行「北品川」から「青物横丁」にかけてのおよそ2㎞ほどの間には28もの寺院があり、その多くは江戸幕府の命により集められたものである。江戸の東海道入口という要所にあたり、そこを守る軍事目的、あるいは府内の都市計画による府外への移転といったことによるもので、常行寺ももとは東大井4丁目、今の立会小学校、区立大井公園付近にあったとされる。『山門』には『熊野山』と書かれた扁額が。山門前には『城南小学校創立之地 開校 明治七年十二月五日』と刻まれた石碑が。常行寺の隣には城南小学校があるが、これは北品川の品川小学校に対抗し、南品川地域の住民が立ち上がり、常行寺の本堂と大師堂を使用して第二中学区第八番城南小学校として明治7年(1874)に開校したものである。そのため常行寺は城南小学校の前身となっている。『熊野山父母報恩院 常行寺』天台宗の寺。常行寺の正式名称は「常行三昧寺」。慈覚大師円仁様が父母の恩に報いるために常行三昧を修する目的で建立した寺である。大師が横川中堂を建立された後、母の病重きを知り、平坦な東海道を急ぎ故郷の下野へ向かう途中、品川大井村で母の死去を知らせる使者に出会い、その地にて堂を造り常行三昧を修して母の冥福を祈られた。熊野山父母報恩院常行三昧寺と名付け、村人達にも彼等の両親の菩提を弔うよう説いた。これが常行寺の開基で、大師が使者に会った嘉祥元年(848)10月16日を開山の日としている。境内とその先に本堂。山門をくぐり境内に進むと、煉瓦積みの御堂が。レンガの御堂の中には、お地蔵様が。更に境内を進むと、また御堂も左手に。御堂内部。『本堂』。現在の本堂は享保年間(1716-1736)に再建されたものと伝えられている。天台宗(山号)熊野山常行三昧寺報恩院・平安時代の嘉祥元年(848)に創建されたと伝えられ、もとは大井村にあった。・長保年間(999~1004)には武蔵(現東京都・埼玉県)・相模(現神奈川県) 両国に末寺500余を数えるほどに栄えたというが、その後衰退し、無住の期間が長く続いた。 その後、大永7年(1527)に再興、承応2年(1653)に南品川に移る。・本堂は、寄棟造の建物で享保年間(1716~35)に再建された。(後略)(しながわ観光協会HP)『常行三昧寺』と書かれた扁額。『寺務所』。ハッサクであろうか?鈴なり。更に歩を進め訪ねたのが『海徳寺』。『軍艦千歳殉難者之碑』。脇に大砲の銃身が添えられていた。堂内には地蔵様が三体。左に『水子地蔵』。右に『誠和地蔵』。中央に『浄行菩薩』『本堂』。現在の本堂は、江戸時代の中期、寛延4年(1751年)に完成したもので、区内でも屈指の古い建物である。本堂内部。『自覚山』と書かれた扁額。本堂の正面の軒には、力士像が。その下には龍が。そして『ホームラン地蔵』。台座には『和夫地蔵尊』と刻まれていた。知る人ぞ知る!その人の優しい人柄を感じさせる『心温まる逸話』(☚リンク)だ!元巨人軍の王貞治選手が新人のころ、ある心臓病の少年に「ホームラン王」になることを誓った。その少年は残念ながら14歳で亡くなってしまったが、王選手は記録達成ごとにその少年の墓に参っている。もちろんホームラン世界記録を樹立した時にもその報告に訪れている。バットを大切に右手に握りしめ、左の手にボールを持った『ホームラン地蔵』がその少年の墓である。『智月和光童子 昭和三十七年一月二十七日 俗名 岩崎和夫』と刻まれていた。『天上天下唯我独尊の釈迦生誕像』。信長塀の如き美しい塀に囲まれて。著名な彫刻家、長谷川昂の作品であると。『シコノボタン』の花であろうか?シコンノボタンは長短のオシベが共に紫色。目黒川沿いにある脇門から出る。北参道のこの冠木門は、大正14年建造の表門を移設したものと。次に訪れたのが『蓮長寺』。実相山道場院と号す。蓮長寺は、中老日法が開基となり、師日蓮聖人を勧請開山として弘安年間(1278-1287)に創建したと。『本堂』。旧本山は池上本門寺、池上・芳師法縁。日保作の藪の祖師、伝伝教大師最澄作の毘沙門天像を祀る。続いて『本栄寺』に。『山門』、宝光山と号す。日蓮宗の寺。『本堂』。当山は宝光山と称し、天正2年(1574)6月17日日栄上人が建立した。慶長8年10月徳川家康が寺領1000坪を寄進し、堂宇を建立する。明和年間戸越村斉藤本家から一子が出家して当山に住み、当時斉藤氏が山林一町歩を寄進し、其処を本栄寺山と称し、附近に鐘塚があり、斉藤氏一門の墓地がある。無縁仏塚。そして次に訪ねたのが道路の反対側の『心海寺』。真宗大谷派寺院の心海寺は、普海山と号す。『本堂』。心海寺は、徳川家康に仕えていた本田忠峯(法名峯山)が、小田原の役で負傷したため仏門に帰依、正保4年(1647)に創建したと。『鐘楼』。そして『本覚寺』へ。『山門』。天台宗寺院の本覚寺は、照高山円教院と号す。本覚寺は、元亀3年(1572)に創建、僧晃慶が中興したといいます。左には本覚寺『庫裡』が。『本堂』。本尊は来迎三尊阿弥陀如来尊。『大光普照殿』。 ・・・その3・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.09.02
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次再び訪ねた場所を〇で。『海晏寺』を後にし、再び交差点を渡り右に折れ坂道を登っていく。『旧仙台坂(くらやみ坂)』の標識。江戸時代(1603~1867)に、この坂の中程から上にかけて仙台藩伊達陸奥守(だてむつのかみ)の下屋敷があったことから、東大井四丁目と南品川五丁目の間のこの坂は仙台坂と呼ばれていた。しかし、現在は青物横丁に抜ける坂道が拡幅され交通量が増加したために、その坂の方を、一般的には仙台坂と呼ぶようになり、こちらは旧仙台坂と言われるようになりました。『旧仙台坂(くらやみ坂)』の途中から、現仙台坂を覗き込む。手前の先はトンネルになっていた。坂の途中の碑だる手には緑豊かな巨木が。『仙台坂のタブノキ』。「本樹は目通り幹囲 4・6メートル、樹高20メートルで推定樹齢約300年、樹勢旺盛で美しい樹容をみせている。」坂上には現在も仙台味噌の看板のかかった味噌蔵があった。正確には、八木合名会社仙台味噌醸造所のようです。入口横には大きな木の樽が飾ってあった。グリーンベルトから仙台味噌醸造所を振り返る。東大井『仙台坂上』周辺案内図。大井町方面に向かい手前を右折すると『ゼーム坂』と書かれた標識が。JR大井町駅から第一京浜(国道15号線)に出る道にあるこの坂は、もと浅間坂(せんげんざか)と呼ばれていて、非常に急な坂であった。明治時代、この坂下付近に住んでいたJ.M.ゼームスという英国人が私財を投じて緩やかな坂に改修した。それ以来この坂はゼームス坂と呼ばれるようになったのだと。J.M.ゼームス(1839~1908)は、幕末にジャーデン=マディソン商会の長崎支社の社員として来日し、明治5年(1872)に海軍省に入って、測量調査や航海術の指導を行った。生前から仏教に帰依し、その墓は山梨県身延町の久遠寺にあると。『ゼーム坂』を進む。『三越 ゼームズ坂 マンション』と刻まれた銘板。このマンションのある場所にかつてゼームスの屋敷があり屋敷にあったケヤキの木が今も残っていると。そして『ゼーム坂』を左に入ると、右手にあったのが『高村智恵子終焉の地』の碑が。そして黄色いレモンが7個。何故、ここにこのような祈念碑があるのか、じつは彼女が入院していたゼームス坂病院があった場所であり、彼女はその病院で亡くなったからである。詩集「智恵子抄」として有名であった高村光太郎の妻であった智恵子は、福島県の裕福な造り酒屋の娘として生まれ、日本女子大を卒業した後、絵画を学ぶ中で光太郎と知り合い結婚。しかし、その幸せもつかぬ間のもので、父の死や実家の没落などが重なり次第に精神を病むようになり昭和10年に、ここゼームス坂病院に入院した。入院してからの智恵子は、創作意欲を吐きだすかのごとく切り絵に没頭して1000点もの作品を残したとされる。だが、病には勝てず3年後にこの病院で生涯を終えたのであった。下に埋め込まれた銘板によると、智恵子の身長と同じ高さの石碑を平成7年に建てたと。この碑には、光太郎が智恵子臨終の際に詠んだ「レモン哀歌」が刻まれていた。「そんなにもあなたはレモンを待ってゐたかなしく白くあかるい死の床で私の手からとつた一つのレモンをあなたのきれいな歯ががりりと噛んだトパアズいろの香気が立つその数滴の天のものなるレモンの汁はぱつとあなたの意識を正常にした・・・」。智恵子が死ぬ数時間前にレモンを口に含んだ時の様子が光太郎のこの詩に見事に現れている。また、訪れたこの日にも、写真のように区民の有志の方々によりレモンがお供えされいた。そして碑の下には『高村千恵子詩碑』。『ゼームス坂通り』を更に進む。左手手前に見えたのが『天理教都南分教會』。この角を右折する。左手にあったのが『松下稲荷神社』。江戸開府前後の慶長年間に、天妙国寺門前の松の大木の根元に京都伏見稲荷神社を勧請し祠を祀ったのが起源の「松下稲荷神社」。現在は線路やら第一京浜やらで分断されているように見えますが、天妙国寺が広大な境内を有していたことが判るのだと。肝心の神社の方は「ガレージに収められている」かのような雰囲気。とはいえ、都心の一等地の中、地元の方々が大切にし、次の世代に残そうと努力されているのであった。第1京浜を上り『海蔵寺』を訪ねる。海蔵寺は永仁6年(1298)に荒井道場という時衆道場として開かれたと。江戸時代には、鈴ヶ森で処刑された罪人や引き取り手のない遊女などを葬ったため、別名「投げ込み寺」とも呼ばれていた。境内には慶応元年(1865)に建立された「津波溺死者供養塔」や、大正4年(1915)建立の「京浜鉄道轢死者供養塔」、昭和7年(1932)建立の「大正葵亥震火大災・死各霊供養堵」などがあり、この海蔵寺が長い間、投げ込み寺としての性格を保っていることがわかると。そして、本堂裏手の墓地に所在するのが別名「首塚」とも呼ばれる「海蔵寺無縁塔群」。入口に掲げられていた『海蔵寺無縁塔群(首塚)』「山門を入って右手奥の塚は江戸時代、品川にあった溜牢(牢屋)でなくなった人々の遺品を集めて、宝永五年(一七〇八)に築かれたものです。鈴ヶ森刑場で処刑された人の遺骨の一部も埋葬され「首塚」と呼ばれるようになりました。また、この塚にお参りすると頭痛が治るということから古くより「頭痛塚」とも呼ばれています。この塚には天保の大飢饉(一八三三~三九)で亡くなった二百十五人を祀る「二百十五人塚」も合葬されています。このほか、当寺院には慶応元年(一八六五)に建立された「津波溺死者供養塔」や大正四年(一九一五)の「京浜鉄道轢死者供養塔」などがあります。いずれも引き取り手のない死者や不慮の死をとげた者の霊を供養してきたため、本寺は俗に品川の「投込寺」と言われました。」墓地の奥の『海蔵寺無縁塔群(首塚)』。境内の『寶藏稲荷神社』。『大正癸震火大災横死者霊供養』台座の碑文によると、町役場が品川海岸に漂着した数十体の遺体を海蔵寺に合葬して毎年追弔してきたが、昭和七年十月にこの地が東京市に併合されたことを機会に品川区の各宗派の寺院によって犠牲者回向のために釈迦如来像が建立されたと。『本堂』。時宗寺院。深廣山無涯院と号する。 藤沢遊行寺二祖他阿真教上人の創建と伝えられる。 『深廣山』と書かれた扁額。向拝虹梁上の欄間には見事な龍の透かし彫り彫刻。水引虹梁上の蟇股の龍。そして『天龍寺』に向かう。『山門』。『本堂』。曹洞宗寺院の天龍寺は、瑞雲山と号す。天龍寺は、越前宰相忠昌の母清涼院殿(寛永17年1640年逝去)が開基となり、一庭氷見和尚が天正9年(1582)当地に創建したといいます。一庭氷見和尚はしばしば徳川家康にに呼ばれ、江戸城登城に不便だったことから、下谷に功徳山天龍寺を建立、そのため当寺は一時荒廃したものの、総寧寺哲尊が江戸宿寺として利用、再興したと。歴代住職の墓か。多くの無縫塔(卵塔)が。台座の上に卵形の塔身を建てたもの。『護国地蔵尊碑』。次に訪ねたのが第1京浜を渡った場所にある『願行寺』。参道の脇は緑豊かに。本堂を横から。『法界堂』。『究学』碑。境内には承応元年に造立された『しばられ地蔵』が鐘楼の下に。縄で縛られた地蔵様。今から307年前の承応元年にここへお迎えされた。「願行寺のしばられ地蔵」として新編武蔵風土記にも記されている。宝暦(210年前)から天保(130年前)にかけて松平土佐守奥方が代々帰依してお堂を修建した。地蔵菩薩の誓願は病や災難や貧に苦しむ者の身代わりとなって苦労を引き受けてやる(代受苦)ということ。だから自分はいつも縄でしばられて功徳は気の毒な人に分け与えておいでになる。願掛けをする者はお首を一つそっと持ち帰って毎日お願いして願いが叶ったらお首を二つにしてお返しをする。心から慈悲にすがる者には霊験あらたかであった数々の話が伝えられている。『本堂』。浄土宗寺院の願行寺は、即成山光明院と号します。願行寺は、後に鎌倉光明寺第8世となった観譽祐祟日祐上人が寛正3年(1462)に創建、江戸時代には、当寺の住僧諦譽上人東流和尚がしばしば江戸城に呼ばれたことから、馬喰町に地所を拝領、同名の寺(現駒込願行寺)を建立したといいます。『願行堂』と書かれた扁額。そして『新馬場駅南口(旧・南馬場駅)』。高架下の道路に面した辺りに「南馬場」駅があったようです。 現在は、この先の北馬場と統合され新馬場駅となり廃止されています。 南口の改札口は道路からかなり奥まったところに設置されていした。 この改札口が曲者で、さらに品川よりまで歩いてプラットホームへの階段(エスカレータ)となるようです。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.09.01
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『梶原稲荷神社 』を後にし第1京浜に向かって進む。途中、急な下り階段が。『犬坂』と書かれた柱が。坂の頂上付近が急勾配なため、階段とスロープが設置されており、階段より下側は曲がりくねった坂となっていた。犬坂の由来は不明だが、俗称の「へびだんだん」は、その曲がりくねった様子から来ていると。また、坂の頂上付近の急斜面地には元芝公園があり、この公園は遊戯施設中心の公園となっていた。そして『東京消防庁 大井消防署』前を通過。消防署の角を左折すると登坂が。周辺案内板。『木の芽の坂(このめのさか)』。立会小学校の南側に位置し、かつての間部下総守下屋敷横通りで、反対側は崖になっており、その奥に泉があったと。若葉のころが美しかったのでこの名が付けられたと。また坂の近くにある大井公園は、幕藩時代には仙台藩の下屋敷となっており、校地には山内容堂の墓所があった。鮫洲駅前の大井公園内にある『山内豊信(容堂)の墓』を訪ねる。『旧・越前鯖江藩間部家下屋敷跡(元・陸奥仙台藩伊達家下屋敷跡)』。第一京浜(国道15号)跨ぐ歩道橋の場所を左折し、大井公園を訪ねた。坂道を挟んで大井公園は左右に分かれている。まず右側の公園に行く。入口前に『旧・越前鯖江藩間部家(さばえまなべけ)下屋敷跡(元:陸奥仙台藩伊達家下屋敷跡)』と書かれた品川区教育委員会案内板が立っていた。この地より高台に向かう一帯には越前国(現・福井県)間部下総の守の下屋敷があった。もともとは、万治元年(1658)に仙台藩伊達家が麻布(現・港区)下屋敷を返上して、新たに大井村に拝領した下屋敷であった。この屋敷内には高尾太夫の器を埋めたという塚があり、その上にはひと株の枝垂梅があったと伝えられている。元文2年(1737)年、鯖江藩大崎屋敷と伊達家品川屋敷の一部を交換し、間部家の下屋敷となった。その後、一部は再び伊達家の所有となったと。安政2年(1855)頃の鯖江藩間部下総守詮勝(あきかつ)は5万石の家禄があり、上屋敷は常盤橋御門内(現・千代田区大手町)にあったと。そして左手には『山内豊信(やまうちとよしげ)(容堂)墓』の案内板。左手の細い道を進むとアルミ製の大きな扉が。ここは午前9時から午後5時まで見学可能と。更に階段を登る。すると右側に墓石群が現われた。山内豊信は土佐高知藩主で幕末から明治のはじめにかけて幕府と朝廷の斡旋に尽力したとある。この場所が大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていたことからここに葬られたようである。ここに下屋敷のあった仙台藩や鯖江藩と直接の関係のある人物では無いようである。墓は大きな円墳に墓石を配した珍しい形となっていた。『贈従一位山内豊信公之墓』と刻まれていた。裏には「明治五年六月二十一日薨」と。「山内豊信 は容堂と号した。文政十年(一八ニ七)に分家の山内豊著 の長子として生まれ、嘉永元年(一八四八)に宗家を継いで第十五代の土佐国高知藩主となり、人材を登用して藩政の刷新に努めた。一方、国政についてもいろいろと論議し、策を建てて多難な幕末期の幕政に大きな影響を与えた。進歩的で強力な言動は幕閣に恐れを抱かれ、一時、大井村の下屋敷に蟄居させられたが、文久二年(一八六ニ)に再び政治の場に復し、大政奉還をはじめ幕府と朝廷の間の斡旋に力を尽くした。明治元年(一八六八)に維新後の新政府の内国事務総長となったが、翌年引退し、明治五年に四十五歳の若さで亡くなった。遺言によって大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていた現地に葬られた。」と。手前の「島津常侯墓」は島津家から輿入れした13代豊熙の正室の墓。裏面には「従四位下山内豊熈朝臣室 明治十三年十一月十六日逝」と。これは、第13代土佐藩主山内豊熈公の正室・候姫(こうひめ)の墓石。候姫は、薩摩藩主島津斉興公の娘だから、「嶋津常候之墓」とある。山内家合祀の墓も。侯爵山内豊範妻栄子之墓。山内豊範公は第16代藩主で、土佐藩最後の藩主。ここ品川の地に、山内豊信公と、坂本龍馬さんがいたとは…。なかなか興味深い歴史散策となったのであった。「山内豊信(容堂)墓」を参拝した後は鮫洲駅前の歩道橋を渡り、更に品川駅に向かって進む。『鮫洲八幡神社』を訪ねたが、この神社は前回訪ねた(☚リンク)事を思い出す。日本橋まで10kmの表示。『泊船寺』を訪ねた。入口には『泊船禅寺』と。こちらは裏口のようであった。『境内』『本堂』。山号の「天林山」の扁額が。室町時代の永徳2年(1382)に開かれたといわれる。江戸時代の初期、1680年代に住職を勤めた千巌宗億(せんがんそうおく)が俳人、松尾芭蕉と親交が深く、境内に牛耕庵(泊船堂、芭蕉堂)を建てて芭蕉を迎えたと伝えられる。文化年間(1804~18)には、俳人2世とかくさいさんど杜格斎山奴(白牛禅師)がこの寺に住んだことから、たびたび句会が開かれるなど、芭蕉を慕う多くの俳人が集まるようになったと。境内には『いかめしき音やあられの檜傘』の芭蕉の句碑が。そしてこちらが『泊船禅寺』の山門。『六地蔵』。そして次に道路の反対側にある『海晏寺(かいあんじ)』を訪ねた。建長3年(1251年)開山。本尊は聖観音菩薩、山号は補陀落山。この寺は、鎌倉時代幕府5代執権北条時頼が開基となって宋から渡来した禅僧蘭渓道隆の開山により曹洞宗の寺院として創建されたと伝えられる。本尊の観音像は、品川沖でかかった鮫の腹から出た物と伝えられ、一帯の「鮫洲」という地名の由来ともなっている。かつては多くの末寺を有したが衰退し1593年(文禄2年)徳川家康が天叟慶存を招いて再興し、現在の曹洞宗の寺院となった。江戸時代「御殿山の桜」とならび紅葉の名所として知られていたと。寺の名称は、「世の中が安らかで穏やか」という意味の「四海安平(しかいあんぺい)」に依る。岩倉具視(いわくらともみ)、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)など歴史的著名人の墓がある。『本堂』。『海晏禅寺』と書かれた扁額。『江戸名所 品川 海晏寺 紅葉見』。『鐘楼』。大木の後ろには『寺務所』が。『牢光堂(ろうこうどう)』。堂内のモニュメントには、「倶會一處(くえいっしょ)」と「天地興我同根 萬物興我一體(天地と我と同根、万物と我と一体)」の文字。「倶会一処」とは、『仏説阿弥陀経』に出てくる「倶(とも)に一つの処(ところ)で会(あ)う」というご文(もん)で、同じ阿弥陀さまのお浄土でまた共に会わせていただくという意味。「天地興我同根 萬物興我一體」は、この世界のあらゆる存在と自分とは根源が同じという意味の禅語。多くの立派な墓石が並ぶ。俳人『白井鳥酔墓』案内版。白井 鳥酔(1701-1769)・江戸時代中期の俳人。『白井鳥酔墓』『石碑・石仏群』鐘楼脇には、たくさんの石碑・石仏などが並んでいた。『出世弁財天』。『富士山元大菩薩』。その他、様々な石仏が。『石碑・石仏群』の手前には「砲弾」も。「砲弾」の隣には閻魔様も。ここにも2個の砲弾が。何故、この場所に?岩倉具視の墓がありますが、お参りは出来ないようであった。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.08.31
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『旧東海道を歩く』も日本橋からスタートし既に静岡県・浜名湖の先にある『新居関所』まで5/末に辿り着いています。次回再開はもう少し気温が下がった9/中くらいからでしょうか。ところで、以前、都内を訪ねた折に、以前訪ね残った品川宿周辺を立会川駅から品川駅に向かって逆コースで歩き、これをブログアップしていませんでしたので、今回アップ4させていただきました。----------------------------------------------------------------------------------------------------昨年の10月26日(金)に『旧東海道を歩く(品川~川崎)』を歩いたが、その折には旧東海道の両側「近く」の神社仏閣は訪ねたが、旧東海道の北側を走る国道15号線(第1京浜)の北側は全く訪ねなかったので、今年1月9日(水)に大崎に出かけた折、午前中に自宅を出発し京浜急行・立合川駅から国道15号線(第1京浜)沿いの散策を始めた。訪ねた場所を〇で。『立会川(たちあいがわ)』。東京都目黒区および品川区を流れ東京湾に注ぐ二級河川。全長7.4km。昭和20年代までは魚やザリガニが棲むきれいな小川であり、子供たちの絶好の遊び場であったが、現在では大部分が暗渠となり、道路(立会道路)や、緑の豊富な遊歩道、公園などになっている。まずは立会川駅近くにある、『天祖諏訪神社』を訪ねた。裏門から境内へ入る。左手には『厳島神社』が。そして天祖諏訪神社の境内。『手水舎』。『拝殿』。拝殿正面。お札、お守り販売所。『由緒』。古くより立会川を挟んで並び祀られていたとされる天祖神社と諏訪神社が合祀された神社である。旧天祖神社は建久年間(1190~1198年)の大井郷之図や「神明社」の記述が見られること、旧別当寺の海賞山地蔵院來福寺(現・東大井3-13-1)の創立が990(正暦元)年であることなどから、平安末期から鎌倉初期には創建されていたと推測される。また、旧諏訪神社は1631(寛永8)年以前の創建と見られており、旧松平土佐守下屋敷の海岸寄り(現・立会川駅東側付近)にあったとされる。御祭神は天照大御神・豊受大神・建御名方刀美神・小碓命。こちらが『天祖 諏訪神社の正面 一の鳥居』。昔のこの付近周辺の地名が書かれた提灯であろうか?『東海七福神の福禄寿』。『東海七福神』のポスター。そして『天祖 諏訪神社』を後にし、立会川駅方面に戻ると広場にあったのが品川区立北浜川児童遊園に建つ坂本龍馬のブロンズ像・『坂本龍馬像』。2010年に京浜ロータリークラブより寄贈されたもので、龍馬が立会川にいたと思われる20歳頃の顔を再現。かつてこの辺りには土佐藩の鮫洲抱屋敷があった。この屋敷内には浜川砲台が築かれ、若き坂本龍馬もこの地で守備についたと。龍馬にとって浜川砲台は、人生のターニングポイントとなる大切な場所であったと。立会川駅が前方上方に。そして第1京浜を渡る。そして訪ねたのが『旧・土佐高知藩山内家下屋敷跡』。現在の品川区立浜川中学校を含む広大な地域一帯が、かつて土佐高知藩山内家の下屋敷であったと。上屋敷は現在の千代田区丸の内にあったと説明板に。国道15号線沿 浜川中学校に標識が建っていた。そして、1869年(明治2) 、京急立会川駅近くのこの土佐藩下屋敷で当時の品川縣知事古賀一平が 品川縣ビール醸造の工場(62坪) を設立し醸造開始したと。幕末の殿様、 呑ん兵衛の容堂公は、さぞ喜んだことであろう。明治10年、工場閉鎖。詳細記録なし「幻のビール」であると。これが復活した『品川縣ビール』である。 【http://teishoin.net/blog/003151.html】より更に奥に進み急な坂道の階段を進む。裏側から『大福生寺(だいふくしょうじ、大井聖天)』に入ると右手にあったのが『寶性地蔵菩薩』。説明文が私には難解。正面に廻り山門である山王鳥居。神仏習合の名残りであろうか。別名「大井聖天」と言われ大聖歓喜天を祀っています。本堂には大聖歓喜天と観世音菩薩が祀られている。また東海三十三観音霊場の札所十六番。東海三十三観音霊場は東京都品川区から神奈川県横浜市鶴見区にかけての東海道沿いの寺院で構成される観音霊場。ちなみに札所初番は曹洞宗大本山の鶴見の総持寺。『大福生寺(大井聖天)』の歴史と年中行事。『寺の歴史』「天台宗に属し、比叡山延暦寺を総本山とする。品川区大井関ヶ原町1202番地、俗称土佐山(松平土佐守下屋敷所在)に在る所より土佐山聖天、又は大井聖天と俗称す。当山は東叡山寶観大僧正の法裔、宇賀神寶海和尚の開基にて同師、明治14年日本橋蛎殻町(水天宮の近所)に一寺を建立し、三宝山神護院大福生寺と称す。同19年6月に堂宇の落慶を見、その後同24年当地に移転され、今日に至る。」『本地仏の歴史』「本尊十一面観音(立像3尺6寸8分)大聖歓喜天(5寸5分の金像)2尊を安置す。歓喜天は慈覚大師入唐の尊像にして京都蘆山寺に秘蔵せられしを享保年間、妙法院門跡。円恕大僧正護持となり、明治10年同門跡、藤本道盈師より当寺開山宇賀神寶海和尚が懇願され将来せられしもの也。又十一面観音は聖徳太子の御作にして徳川三代将軍家光公の信仰厚く牛込矢来の長安寺に安置せらるが明治維新廃仏毀釈の際、寶海和尚を受けて当山の本地仏として奉安せり。特に大聖歓喜天は現在まで歴代の住職によって永年、日々祈願されし本尊である。その他、聖観音、薬師如来、愛染明王、妙見菩薩、四天王、鬼子母神、十六善神」。『護摩堂』金色不動明王、五大明王などを祀ると。護摩堂右の『福生稲荷』。大きな『石碑』には、何が書かれているのであろうか?『大福生寺』を後にし、次に向かったのが『来福寺』。正面に『来福寺』山門。真言宗智山派寺院の来福寺は、海賞山地蔵院と号す。来福寺は、正来福寺は正暦元年(990)に智弁阿闍梨が創建したといい、文亀元年(1501)に納経塚から経読地蔵を安置し、これを本尊とすると。御府内八十八ヶ所霊場26番札所、玉川八十八ヶ所霊場74番札所、東海三十三観音霊場2番札所。『御府内八十八ヶ所霊場26番札所』の石柱。山門を潜り境内へ。『宝篋印塔』。「一香一華を供え、塔を礼拝する者は、重罪も消滅し、菩提を得る~」と。遅ればせながら、私も右回りに、三回巡拝しましたが・・・・。『弘法大師像』。『弘法大師像』説明文。境内には俳人 雪中庵蓼太の句碑(左)、饅頭の祖 林浄因の碑(右)が。左の句碑は「世の中は三日見ぬ間に桜かな」と刻まれており、蓼太の死後間もなく弟子たちが建てたもの。饅頭の祖 『林浄因の碑』。林浄因(?~1359)は、室町時代初期に中国から日本に饅頭の製造法をもたらした人で、菓子の塩瀬家の元祖。碑は大正14年(1925)東京丸の内の塩瀬総本家らが発起人になって建立されたと。『本堂』。海賞山地蔵院来福寺は平安時代、正暦元年(990)創建の真言宗の寺。高台にある静かな寺でかつては品川の海が望めたと。本尊は土中の読経を聞いて掘り起されたと伝えられる「延命地蔵」で、別名 経読地蔵とも呼ばれていると。ここ来福寺には阿波商人の墓が。寛永年間(1624~44)から明治までの約200年間に、来福寺に葬られた阿波国(現徳島県)の藍商人の墓66基を、明治2年(1927)に整理して合葬したもの。江戸時代を通じて、品川湊を中心に阿波の藍商人が活躍していたことがわかると。境内にはガラス窓の大きい建物も。こちらは寺務所か?『慈母水子観音像』。『慈母水子観音像建立発願文』。著名人の奉納した桜の木。「安倍晋三」の文字が。境内には多くの石仏、墓石、石碑が。そして次に『梶原稲荷神社』を訪ねた。梶山氏館跡の一部と考えられている土地。狭い参道を進んで行くと、様々な種類の狐の姿が。「今を距たる772年前(建久3年)梶原兵三景時、征夷大将軍源頼朝の命を奉じて、武蔵国大井村鹿島谷に萬福寺を建立し、その境内に守護神として稲荷を勧請して梶原稲荷と尊称した。元応元年10月、萬福寺は兵火により焼失し馬込村に移りたるに依り、焼ヶ残りし稲荷祠は梶原屋敷内に奉遷されて、後、柴村来福寺に奉納され、その追福のため同寺へ松櫻などを植え寄進した。この梶原塚は、桓武天皇5代の裔、常陸少椽良茂より5代の孫、鎌倉權五郎景正の子孫梶原日向守、亦梶原助五郎一族を祀る古墳である。従来、この稲荷祠は南浜川櫻井源兵衛氏の所有なりしが、大正14年1月より地元、元芝、関ヶ原に居住する信仰者に管理を委任され、地元民の協力に依り社務所を建設し維持管理に当って今日に至った。梶原氏は鎌倉權五郎景正、梶原兵三景時、梶原源太景季と代々武勇の誉高く、子孫皆よく栄え、又、古来この地に火災、災難等無きは、梶原稲荷の御守護によるものなりと伝えられ、住民皆襟を正して尊敬し。昭和38年浄財に依り大修理を加え、神徳をたたえて信者集い祭祀を厳修した。昭和39年2月15日初午の日 梶原稲荷講」。 ・・・つづく・・・
2019.08.30
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『東海道舞阪宿脇本陣』を後にし。旧東海道に戻ると右手奥に津波の避難タワーが見えた。タワーは鉄骨構造で、屋上の海抜は約12.6m、収容人数は約150人だと。そして前方には、浜名湖の湖面が見えて来た。突き当りの交差点手前左側にあったのが『西町常夜灯』。「 舞阪には往還道路沿いに三つの常夜灯があるが、ここは正面が両皇大神宮、西面が秋葉大権現、東面が津嶋牛頭天王、南面が文化十年二月 吉日、願主西町中、と彫られており、この常夜 灯は文化十年に建立されたことがわかる。舞阪宿では文化6年(1809)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀をしている。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。 」『東海道夢舞台「舞阪宿」』道標が『西町常夜灯』案内板の隣に。道路を渡った左側にあった『舞阪宿の渡船場、本雁木跡(ほんがんげあと)』。「江戸時代、舞坂宿より新居宿までの交通は渡船であり舞阪側の渡船場を雁木といった。雁木とは階段状になっている船着場のことをいい本来は「がんぎ」と読むが舞阪では「がんげ」といっている。 ここは東海道を旅する人が一番多く利用した本雁木跡で東西15間、南北20間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていた。またここより新居へ向かう船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は午前4時、夕方の最終船は午後4時であった。」旧東海道は右折して真っ直ぐ浜名湖湖岸沿いに延びていた。我々は旧東海道を離れて湖岸の岸壁に向かうと右手に『常夜灯』が。『舞阪魚市場入口』から見た国道1号線『浜名大橋』。岸壁を進むと左手に『史跡 北雁木(きたがんげ)』と『常夜灯』が。「ここは浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦三年(一六五七年)から寛文元年(一六六一年)にかけて構築されました。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されています。両側の石垣の白い部分は昭和二十八年の台風で石垣が崩れたため積みなおしたものです。雁木とは階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔からいっています。舞坂宿には三ヶ所の渡船場がありましたが、一番南側は主に荷物の積み降ろしをした渡荷場。真ん中は旅人一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれています。この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅十間(約十八メートル)の石畳が水際まで敷きつめられています。」『史跡 北雁木(きたがんげ)』の先は石畳の坂になっており浜名湖の湖面に通じていた。かつての石垣・石畳の一部も残っており、往時を偲ぶことができたのであった。『東海道五十三次 舞阪 今切真景』の絵画か?こちらが本物。舞坂から次の荒井までは舟渡しで、海上一里を行く「今切れの渡し」といった。今までの徒歩での陸路の旅とは異なり、束の間の憩いのひとときでもあったようだ。冬の舞坂の港の図であるが、水面に突き出た山、手前には大きな帆、更に手前の沢山の杭が遠近をよく表わす。遠景には冬の白い富士山、青い海が爽やかに描かれている。国道1号線『浜名大橋』をズームで。防波堤の先にはこれから歩く『弁天橋』が見えた。北雁木跡の斜向かいに『那須田又七顕彰碑』が建っていた。「那須田家の先祖は、豊臣氏に仕えていましたが、大阪の役の後、舞坂で農業を営むようになりました。又七は、天明4年(1784)の生まれで、子供の時から聡明でした。勉学に励み、16歳で舞坂宿問屋場の書記となりました。その後、村役人・宿役人を長く勤めました。産業振興に努め、海苔養殖の基盤を作りました。飢饉の時には、私財を投じて救済事業を行いました。その人望と功績により名字帯刀を許され 「袱紗刀爺」 (ふくさがたのやや)と呼ばれました。嘉永3年(1850)66歳でなくなりました。安政5年(1858)その業績を永く伝えるため、顕彰碑が建立されました。」そして再び旧東海道を進むと、『弁天橋』手前左にも『常夜燈』が。台座下部に「京に五拾七里ニ拾六町 舞阪宿」 のプレートが貼られていた。赤い欄干の『弁天橋』を渡る。南浜名湖に浮かぶ弁天島のシンボルタワーとして高さ18mの大鳥居が造られたのは昭和48年と。再び国道1号線をズームで。構造形式は、PC5径間連続有ヒンジラーメン箱桁橋。橋梁全長631.8m、有効幅員9.0m。最高地点は海抜31 m。中央支間長は240 mにおよび桁橋としては建設当時には世界最大支間であり、2004年(平成16年)の江島大橋開通まで日本最大の支間長を誇ったと。弁天橋東側から弁天島温泉のホテル・マンション街を見る。江戸時代には,今切の渡しで舞坂宿から新居宿まで一里半(約6km)の距離を約二時間の舟便によっ渡ったが、現在では国道1号で渡ることになる。『東海道五拾三次之内 荒井』舞坂の今切の渡しから荒井に向かう、浜名湖の舟渡しの風景です。遠くに見える向こう岸には箱根と並んで厳しい、規模の大きな関所が待っています。ふき流しをはためかせ、二本の毛槍を高々と飾り立てた船は大名一行で、お供の船が続いて渡っていました。遠くに関所の建物が見え、間もなくのんびりとした短い船旅が終わろうとしています。舞坂から赤い弁天橋を渡ると弁天島である。そこは、温泉や海水浴、つり、潮干狩りなどが楽しめるリゾート地となる。浜名湖を眺めながら弁天橋を歩いたのであった。この時は、干潮であり海に向かって流れる湖水。正面が「今切口」の所で、遠州灘とつながっている。上を国道1号線バイパスの『浜名大橋』が「今切口」を越えて行くのであった。浜名湖は約500年前の地震で太平洋とつながり塩水が入り込み、汽水湖に変わったのだ。今切口という名前は「いつ切れた?」「今切れた」という会話から「今切口」と名づけられたとか?次回はこの『浜名大橋』を車で渡りたいのであった。干潮の時間で鳥居の基礎も顕れて。『田畑家の弁天島別荘跡』1898年浜松に生まれ、1889(明治22)年の東海道線全線開通に伴って、浜松の資産家たちは弁天島に別荘を持つようになり、造り酒屋であった田畑家も弁天橋のたもとに別荘を造りました。水泳ニッポンの父田畑政治(たばたまさじ)は幼少期から浜名湖で自然に泳ぎを覚え、水泳に親しむようになりました。朝日新聞の新聞記者として活躍したのち、朝日新聞東京本社の代表取締役就任。同時に日本水泳連盟や日本体育協会などの要職に就く。水泳選手の育成にも尽力。長い道のりを経て戦後の日本にオリンピックを誘致した功労者。亡くなるまで(享年85)水泳に限らずスポーツ振興に生涯を捧げた。まさに水泳ニッポンの父・タバタマサジ。大河ドラマでは後半の主人公として阿部サダヲが演じるのだと。弁天橋を渡り、緩やかなカーブに。国道301号線に合流する左手にあったのが『辨天神社』。弁天神社は、江戸時代の宝永6年(1708)今切の渡しの安全を祈願して創建されたと。『弁天島と天女』。「昔、弁天島のこの辺りは砂州が新居の橋本辺りまで続き、白砂青松(はくさせいしょう) 「天の橋立」 のような風景が広がっていました。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りました。村人は大変喜び、社を建てるからここに留まって欲しいとお願いしました。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原へ立ち去って行きました。それから長い年月が経ち、この辺り一帯は大きな災害に見舞われ、洲埼の一部であった弁天は湖に取り残されて島となりました。その後、舞坂と新居の間は渡船で行き来するようになりましたが、江戸時代の宝永6年(1709)今切渡海安全のため、この島に弁天神社が建てられました。人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきました。御祭神は「市杵島姫命」といい、海上・交通・家内安全・商売繁盛など諸願成就の神として多くの人に信仰されています。」石鳥居の『扁額』。『手水舎』。昔、弁天島のこの辺りは砂洲が新居の橋本まで続き、白州青松「天の橋立」のような風景が広がっていた。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りた。村人は大変喜び、社を建てるからここにとどまってほしいとお願いした。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原に立ち去って行った。 それから長い年月がたち、この辺り一帯は大きな災害にみまわれ、州崎の一部であった弁天は海にとり残されて島となった。その後、舞阪と新居の間は渡船で行き来するようになったが、江戸時代の宝永六年(西暦一七〇九年)今切渡海安全のため、この島に弁天神社が建てられた。人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきた。御祭神は「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」といい、海上・交通・家内安全、商売繁盛など諸願成就の神として多くの人に信仰されている。 なお、境内には浜名湖弁天島を詠んだ正岡子規、茅原崋山、松島十湖の文学碑があった。朱の『弁天神社拝殿』。『正岡子規 句碑』『天の川 濱名の橋の 十文字』。『松島 十湖句碑』。『月や風や夏しら波の海と湖』さらにJRに沿った旧東海道を進む。弁天島駅前交差点を通過。『弁天島駅』ホームが右手上に。いつまでも、国道1号線バイパスの『浜名大橋』を追いかける。中浜名橋東からJR東海道本線、新幹線の線路を見る。『中浜名橋』。新幹線が通過。『中浜名橋』の専用歩道を歩く。そして中浜名橋を渡ると、浜松市から湖西市に入る。橋を渡り終わると、右手にキャンピングカーの大きな展示場・フジカーズジャパン 浜松店がありしばし散策。この先の旧東海道歩きの自宅~起点・終点までの移動・現地での宿泊手段として欲しいのであったが。その先、右手にあったのが『新弁天神社』。日本橋から272kmのポスト表示。ここは既に『新居町』そして3つ目の橋『西浜名橋』が見えて来た。こちらも専用歩道橋を歩く。東海道本線には貨物列車が。『湖西市案内図』そしてこの日の目的地・『新居町駅』に到着。車の置いてあるホテルのある鷲津駅まではJR東海道線13:40発を利用した。そしてJR東海道線車窓からのサンマリンブリッジを見る。そしてホテルで待っていた旅友Sさんの愛車に戻り、帰路についたのであった。実は、時間は早く帰路につけたため、途中『新居関所跡』そしてその先の『泉町』交差点までを散策したが、これは次の『旧東海道を歩く(新居宿~)』にアップすることといたします。 その5 に戻る。 ・・・ 旧東海道を歩く(浜松駅~舞阪宿~新居町駅) 完 ・・・
2019.06.27
コメント(2)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次舞阪宿を浜名湖岸に向かって進む。宝珠院前に立つ『仲町常夜灯』「文化6年(1809)舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をしました。火防(ひぶせ)の山、秋葉信仰の高まりと共に、仲町の願により4年後の文化10年(1813)5月吉日に、この常夜燈が建立されました。両皇大神宮・秋葉大権現・津嶋牛頭天王の銘が刻まれ、高さは台座ともで2.7mあります。なお、西側の石の祠は、秋葉山を祀ってあります。ちなみにここ宝珠院は、明治6年(1873)舞阪町に初めて小学校が開かれた所です。」 寶珠院の山門。山門横の『六地蔵』。『本堂』。明治六年(1873)舞阪町に初めて小学校が開かれた所であると。山 号 海上山寺 号 宝珠院住 所 浜松市西区舞阪町舞阪1927宗 派 臨済宗方広寺派本 尊 延命地蔵願王菩薩札 所 浜名湖岸新四国八十八ヶ所霊場第61番札所次に『養泉寺』を急ぎ足で訪ねた。入口右には『常夜燈』の如き建物も。『本堂』。伝承によれば寛永年間(1624~43)の開創という。延宝年間(1673~81)の検地帳に所載されていることから、信憑性は高そうだ。18世紀中ごろ編纂の『遠江國風土記傳』には「曹洞宗、入野村宗源院末、在天派」。文久2年(1862)の『宿内軒別畳数坪数絵図面』によれば、当時の規模は本堂7間×5間5尺、庫裡4間半×11間。総畳数71畳、総坪数は77坪8分5厘だったと。名 称 海福山 養泉寺 所 在 静岡県浜松市西区舞阪町舞阪1907-1宗 派 曹洞宗創 建 寛永年間(1624~43)本 寺 宗源院(浜松市中区蜆塚)開 山 風山大威和尚本 尊 釈迦如来扁額には『海福山』と書かれていた。『六地蔵』。旧東海道に戻りやや戻ると旧東海道(往還道路)案内板が設置されていた。『旧東海道(往還道路)案内図。』旧東海道(往還道路)沿いには多くの神社仏閣や本陣、脇本陣が並んでいた事が理解できた。現在地は『養泉寺』の角の『現在地』。『東海道五十三次之内 舞阪』。舞坂から次の荒井までは舟渡しで、海上一里を行く「今切れの渡し」といった。今までの徒歩での陸路の旅とは異なり、束の間の憩いのひとときでもあったようだ。冬の舞坂の港の図であるが、水面に突き出た山、手前には大きな帆、更に手前の沢山の杭が遠近をよく表わす。遠景には冬の白い富士山、青い海が爽やかに描かれている。『東海道五十三次宿駅名』現在は31番舞阪宿(日本橋より30番目の宿場)、荒井宿へ海上54町(5.9km)。そして次に『岐佐神社』を訪ねた。『岐佐神社御由緒』 「御祭神 蚶貝(ささがい)比売命 蛤貝(うむがい)比売命 御由緒 平安時代に書かれた「延喜式神名帳」に遠江六十二座。敷智郡六 座の一つとして 記載されており、千年以上の古社である。明応7年(1498)の地震津波では、 浜名湖の湖口が切れて「今切」となり、舞澤(舞坂)の郷は、人家と共に水中に 埋没した。満目荒涼たる砂丘上の柳の根本に「岐佐大明神」の小祠を見つけ、 住民は社殿を建立して祀った。これが現在の御鎮座の地である。 無事難を逃れた住民は、付近の松原に部落を作り、現在の舞坂待ちのもとをなした。 これを「三十六屋敷」という。天正2年(1574)以来、数次の本殿・拝殿 再建の棟札を保存している。慶長6年(1601)伊奈忠次公より、御神領3石、 慶安元年(1648)徳川家光公より御朱印状により、神領5石を奉献され 明治維新に至る。 明治6年(1873)郷社に列し、大正9年(1920)神饌幣帛供進社となる。 現在の社殿は大正元年(1912)の造営である。」『社殿』。『赤石の由来』 「古事記に登場する「因幡の白兎」に続くお話です。大国主命は兄弟達と恋争いの末、八上比売と結婚の約束をします。恋に破れた兄弟達は、大国主命を手間山に呼び出して殺そうとはかり、「山の上から猪を追い降ろすから、山の下で捕らえろ」と言いつけて、真っ赤に焼いた大石を、転がり落としました。この大石を抱きとめた大国主命は、大やけどを負い、命を落としました。これを知って悲しんだ母神は、天上の神皇産霊神(かみむすびのかみ)に命乞いをされます。神皇産霊神は、娘神で岐佐神社の御祭神である「蚶貝比売命・蛤貝比売命」に言いつけて、大国主命の治療に当たらせます。蚶貝比売命(赤貝の神)は貝殻を削って白い粉末を作り、蛤貝比売命(蛤の神)は、粘液を出して練り合わせ、どろどろした母乳のようなものを作り、大国主命の全身に塗りました。すると火傷はすっかり治り、大国主命は雄々しい姿によみがえったのです。出雲神話と岐佐神社とは、このようなかかわりがあり、ここに「赤いし」が祀られています。御祭神が海に関係するところから、水産・漁業の神であると共に、この神話に因んで、火傷・病気にも霊験あらたかと信仰を集めています。」そして再び旧東海道に戻り進むと、右手にあったのが『本陣跡』。「2軒の本陣のうち、歴史的にも規模の上でも優位にあったのが、宮崎伝左衛門家。文久2年の「宿内絵図」によると、「間口11間2尺、奥行き20間3尺、建坪130坪、畳敷160畳、板敷23坪5分、土間18坪6分、御本陣伝左衛門」とある。宿村大概帳には「本陣西町凡建坪158坪、門構、玄関付」と記している。江戸時代多くの諸侯が宿泊し、明治初年明治天皇が4回にわたって小休している。文化年間の火災で母屋焼失、その後再建されたが、明治期に入り本陣家の瓦解に伴い、土地建物の大半を売却。昭和10年頃までは一部残存していたが、現在は遺構・建物など全くない。」そして『東海道舞坂宿脇本陣 』を訪ねた。『東海道舞阪宿脇本陣』「舞坂宿は、慶長9年(1601)東海道宿駅制度設定に伴い、開設された五十三次のうち、江戸から三十番目の宿駅で、弘化2年(1845)の資料では、人口1,204人・戸数265戸でした。また本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向かい側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)がありました。脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として使われました。建物は母屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現構で間口5間・奥行き15間ありました。現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では、唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。平成7年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟瓦に「天保九年五月吉日 横山村瓦師政右衛門」の篦書が発見され、書院棟が天保九年(1838)の建築であることが判明しました。」本陣跡の斜め向かいに最近復元された脇本陣があり、無料公開されていた。ここまで歩いて来た中でも脇本陣がこれだけ立派に復元されて、昔の面影を残しているのは珍しいのであった。入口の見事な檜皮葺の唐破風。坪庭から奥を望む。『廊下』。『炊事場』。『奥の間』。『上段の間』。『前庭』。『上段の間』。様々な旅人の姿が描かれていた(1/2)。様々な旅人の姿が描かれていた(2/2)。『歌川広重 東海道五十三次』の紹介。坪庭を再び。『駕籠』。2階から入口の見事な檜皮葺の唐破風を見下ろす。『源馬徳右衛門本陣』を『脇本陣』2階から見る。「「宿村大概帳」には、「本陣、西町凡建坪90坪、門構、玄関付」文久2年の「宿内絵図」では「陣徳右衛門間口8間半、奥行14間5分、惣畳数86畳半、惣坪数100坪5分」現在建物なし。1軒おいて東側が宮崎本陣跡。」旧東海道・舞阪宿を歩く旅人の姿、そして脇本陣のジオラマ。説明員の机。『文久2年(1862)の舞阪宿絵図(宿の西端部分)』再び坪庭とその奥の部屋を望む。 その4 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.26
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『東本徳寺』入口に『髭題目碑』と『清正公三百年祭記念碑』が立っていた。『清正公三百年祭記念碑』槇に囲まれた参道を歩く。『山門』。『本堂』。行学院日朝上人の開基になります。芝生の緑と、青空。そして本堂、綺麗な境内。『永代霊塔』『逆境を嘆くことなかれ、強敵に磨かれ人は鍛えられる』・・・しかり!!。東本徳寺の裏手には、西本徳寺があった。入口に『髭題目碑』と『海中出現 釈迦牟尼佛安置碑』が立っていた。『本堂』。海中出現の釈尊の立像が祀られている。寺伝によると、鎌倉時代の仁治2年(1241)4月8日、遠州灘の浜において漁師の網にかかって引き上げられたという。本堂を斜めから。村人たちが堂を建てお祀りするうちに歳月が流れたが、630年を経て、平成15年に建設計画が立てられ、平成21年に本堂・位牌堂が完成したと。西本徳寺は東本徳寺と開創時の由緒は全く一緒、身延山第十一代行学院日朝上人が南北朝期の永徳元年(1381)に開いたとされている。日朝は日蓮宗の名僧で伊豆の人である。本堂の見事な彫刻。『万霊供養塔』。『浄行菩薩像』『馬郡跨線橋南』交差点を進む。交差点の先に大きな石灯籠が見えた。右手にあったのが『春日神社、津島神社』。『春日神社』石鳥居。『手水舎』。『春日神社』拝殿。『春日神社「鎮座地 浜松市馬郡町一八八ニ-ニ』 祭神 武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比売神 例祭日 十月中旬 由緒 往昔永徳元年(1381)秋甲州行脚の沙門律師日朝当地へ廻国の折神仏深理と 悟し民族挙って一社を建立を願ふに依りて後小松天皇の御年應永二甲戊年 (1395)八月十五日春日大明神の神札を奉祀勧請す後天正十二年(1584) 以来数度の改築あり慶安元年(1648)十月二十四日徳川三代将軍より 朱印六石下賜あり代々拝領す明治六年(1873)三月村社に列す仝七年末社を合祀す 昭和八年(1933)七月十八日本殿、拝殿、幣殿改築遷宮以後現在にいたる。 末社 若宮神社 八幡社 山宮神社 天王社(例祭日 七月十四日)」応永2年(1395年)奈良の春日大社より祭神を勧請し建立された春日神社。狛犬に代わり雌雄の狛鹿を置く。いかにも春日社らしい。右は『雄の狛鹿』。左は『雌の狛鹿』『拝殿』の奥に朱の『本殿』。『境内社』。これが『津島神社』と思っていたが違うらしい。境内社『拝殿』。跨線橋南交差点から県道49号線に入り、舞阪駅南入口交差点を過ぎるとすぐ、700mにわたる舞阪のみごとな松並木が始まった。よく整備されており、これまでで最高の松並木。その松並木が始まる所に、『夢舞台・東海道「松並木」』の標柱が立っていた。約700mの両側におよそ340本ほどの松が残っているのだと。『東海道松並木』。常夜燈を模したものであろうか。汚水マンホール蓋もひたすら『松』。松への薬剤散布の管理TAGのようであった。進行方向右手には干支(えと)で時刻を表す石像が。左手には東海道五十三次の宿場の碑が続いていた。車の少ない時にシャッターを。枯れて伐採された松の株、中が空洞になっていた。道路側は『東海道 五拾三次内 舞阪 三拾之宿 平成三年』歩道側は『今切のレリーフ(左) 舞坂 今切真景(右)』「舞坂宿は、日本橋から67里(264,9km)品川宿から数えて30番目の宿である。東海道の陸路は、舞坂で一度切れて、ここから新居宿まで海上一里半船を頼りとして渡ることになる。浜名湖は、かつて遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応7年(1498)の地震により切れて入海となった。その切口を「今切」と呼ぶ。地震による被災から復興して「今切渡船」の発着地となり、舞坂は交通の要地となった。」『東海道松並木』「この松並木は、慶長9年(1604)徳川家康の命により街道を整備し、黒松を植えたのに始まる。正徳2年(1712)には舞阪宿の東端「見付石垣」より馬郡境まで、8町40間(約920m)道の両側の堤に、1,420本の立木があったという。その後、寿命や台風で倒れる一方で、その都度補植など行ってきたが、昭和13年(1938)国道付け替えの際。堤を崩し両側に歩道をつけ今日の姿になった。現在700m、株数約330本旧東海道の面影を良く残している。」道路側は『舞阪宿』。往時の東海道を偲ぶ松並木。やはり旧街道に松並木は似合う。松並木の途中にあった『舞阪橋跡』。「ここは江戸時代、舞阪宿唯一の橋である舞阪橋がかかっていました。北に西長池という大きな池があり、南から松並木を横切って昭和10年頃まできれいな水がながれていました。天保14年の東海道宿村大概帳には次のように書かれています。字 舞阪橋 土橋 長7尺 横3間 橋杭4本立て弐組是は前々より御普請所にて、寛政10年御代官辻甚太郎掛にて御普請これあり、この証拠書物は宿方にあり、文化14年にも御普請これあり、もっとも土橋のため保持に難あり宿役で板橋に掛換えをした。」『浪小僧』(左側)。松並木が終わった所にあり、小太鼓を抱えた可愛い小僧が四角い石の上に座っていた。傍に公衆トイレもあった。「むかし、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていました。魚が取れない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに、海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言うので、海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。 ~遠州七不思議より」『MAISAKA(舞阪) MAP』。ここは新町交差点の手前。新町交差点で終わる東海道松並木。そして新町交差点で国道1号線と合流するが、直ぐに別れ旧東海道は左側に。道路の分かれ目の先端には『東海道⬅舞阪宿』の表示板があった。そして道路の前方両側に石垣が。『見付石垣』宿の東外れに位置していると。『史跡 見付石垣』。「この石垣は舞阪宿の東はずれに位置している。石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永六年(一七○九年)の古地図には既に存在している。 見付は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここに六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。」『東海道舞阪宿一里塚』碑が右側に。近寄って。『一里塚跡』碑が左側に。「江戸幕府は、交通政策に重点を置き、諸国に通じる街道を整備し、慶長9年(1604年)、主要街道に一里塚を築くようお触れを出した。これにより、日本橋を起点として1里(約3.9km)ごとに、道の両端に土を盛り、その上に榎や松などを植えた一里塚が整備されていった。一里塚は、旅行者の目印になるとともに、馬や駕籠の賃銭を支払う目安にもされた。舞阪の一里塚は、日本橋から68里(約267km)に位置し、松が植えられていた。」『宿内軒別書絵図面』文久二年東海道舞坂宿宿内軒別書絵図面現在地付近。写真中央付近に『壱里塚』、『秋葉山常燈明』の文字が。『一里塚跡』手前には『新町 常夜燈』が。「舞阪には往還沿いに3基の常夜燈がある。舞阪宿では、文化6年(1809)元日、宿場の大半を焼く大きな火事に見舞われたことから、これをきっかけに火防の秋葉信仰が広がり、常夜灯を建て秋葉講を組織して火の恵みに感謝するとともに、火の用心を誓いあった。常夜燈の竿石の四面には両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天王、建立年月が刻まれている。新町の常夜燈は、文化12年(1815年)正月に建立されたもので、灯りをともして悪霊の侵入を防ぎ地域を鎮めるとともに、闇夜を照らす道しるべとして守られてきた。月詣りやのぼり立ては、今も地域の人たちに受け継がれている。」 その3 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.25
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道257号線の高塚駅入口交差点を通過。高塚駅は浜松市南区内に設置されている唯一の駅。高塚駅とは反対に写真の方向・南方向に2kmほど進むと海岸に出る。そして国道257号線は分岐し、右側の分岐を進むと旧東海道・県道316号線。分岐の中央にあったのが、『東海道夢舞台道標・浜松市『篠原』』。浜松宿 宿境まで一里十三町舞阪宿 宿境まで一里十五町国道257号線と別れて旧東海道を進む。『立場跡』。真新しい『立場跡』案内板。「立場は、慶長六年(1601)東海道に宿駅伝馬制度ができた時に、宿場と宿場の中間の休憩の施設として設けられました。ここは立場本陣とも言われ、大名等身分の高い人達が多く休憩しました。明治元年(1868)に明治天皇が御小休されたという記録ん「御東幸御小休帳」や文化年間の「御大名様御小休帳」が残されています。筋違いには、道中案内記にも載っている茶屋「浅田屋」がありました。現在この辺りの字名は立場といいます。」次に右手の『神明宮』を訪ねた。入口で境内樹木の消毒を行っていた神主の方が、説明して下さいました。格式ある「神明造り」の『拝殿』。『本殿』。「祭神 天照大神 豊受姫大神 由緒 当神社は、「伊勢神鳳抄」に記される。「篠原村神戸九町三反」に当たり 建暦二年(1212)浜名湖中ノ島の小島神明島に鎮祀せられたが、 地震津波等により永正年間(1504~12)に当地に遷座された。 徳川幕府により御朱印五石を拝受、村民の崇敬を得て今日に至る。 天正八年(1580)の棟札が現存。 社殿 昭和7年に建立。神明造り。伊勢神宮正殿を根本とする様式。 柱は丸柱で両妻に棟持柱が独立。破風枝は長く突き出して左右に交わり 先端は千木となる。 棟の上に竪魚木が六本。屋敷の勾配は四十五度、床は高欄。 灯籠 五対一基ある。そのうち一対は江戸の伊丹屋善助又三山の鈴木十四郎の 寄付。他に明治三十五年、三十九年、征露軍人三十四名の名前が刻まれている。 拝殿扁額 「神明宮正二位勲一等公爵九条道實勤書」とある。」『篠原の一里塚跡』(日本橋より六十七里)前。「徳川幕府は、慶長九年(1604)東海・東山・北陸の三街道に方五間(約9m四方)の一里塚を築くことを命じました。江戸日本橋を基点とし、一里(三十六町=約四キロ)毎に街道の両側に一里塚が築かれました。東海道宿村大概帳に「壱里塚 木立左松右榎 左右の塚共篠原地内」と記されています。(左側とは南・右側とは北を指す)当時の旅人は、一日十里(約40キロ)を歩くのが普通であったといわれていました。」両側に住宅街が続く旧東海道。『高札場跡』。「藩は一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるため、村の中心または目立つ場所に高札場を設けた。高札には親孝行・忠孝の奨励や賭博の禁止など生活の規範のものとキリシタンや徒党の禁止などがあった。高札の文面は簡易な仮名交じり文が用いられていた。明治政府も高札を使ったが、明治六年(1873)太政官布告をもって廃止された。高札のあったこの辺りは、札木という地名になっている。」道路脇に小さな社が。(この後も同じような社をいくつか見掛けた)。古い建物の『柳本診療院』。浜松市西区篠原町の旧東海道沿いに建つ柳本診療院は、昭和2年(1927年)に建てられたとされる木造二階建ての擬洋風(洋風を真似した様式)の建物。この診療院を開業した柳本満之助は、豊橋出身で日露戦争で軍医として従軍した後ここ(現浜松市西区篠原町)で開業。現在は閉院しているようですが、そのモダンな外観は大変印象的で、目を楽しませてくれたのであった。玄関屋根の鬼瓦には「Water」、「MIZU」の文字が刻まれているようであったが、その意味は?そして左手に浜松市立篠原小学校の校庭内の大きな石碑が。浜松市立篠原小学校『正門』。篠原村立篠原尋常小学校、篠原村国民学校の歴史を持つ小学校であると。こちらも校庭内に。『長里橋』を渡る。前方右手に現れたのが『愛宕神社』。安全祈願の社か?この手前右奥にも同様な社があった。『愛宕神社』正面に石鳥居が。坪井町東端に鎮座する愛宕神社。『愛宕神社』「鎮座地 浜松市西区坪井町一番地の六」 祭神 軻遇突智命(かぐつちのみこと)、素盞鳴命(すきのをのみこと) 由緒 当社の創立は文禄元壬辰年(一五九二)、坪井郷新田村開発当時に、氏神として 京都愛宕神社から御分霊を奉斎し、 慶長六辛丑年(一六○一)二月、徳川家康公が 鷹狩りの折、御祈願をしたとの古老の言い伝えがあり、 武将の崇敬が厚かった 坪井郷の内、新田の氏神として崇敬され由緒不詳ながら、神社宝物として 棟札八枚が現存する。」 『拝殿』。『愛宕神社』横にあった『光雲寺』。『臨済宗愛宕山 妙心寺派 光雲寺』。庭先の槇も見事に手入れがされていた。生垣の槇も見事に。『明治天皇御東幸野立所跡』。「明治元年」(1868)9月20日、明治天皇は岩倉具視以下三千余人を従え京都を出発し、二十三日間を懸けて東海道を下り東京へ進みました。行列は十月ニ日に、新居から舞阪へ船で渡り坪井村の杉並木の中のこの辺りで歩を止めて短い休憩(野立と言う)をされました。当日は今の暦では十一月十五日にあたり、記録によれば天気は快晴でした。行列はこの先の篠原村立場本陣で小休され、浜松へ向かいました。」明治天皇は、下図の如く駕籠に乗られた移動であったようだが、それにしても23日間で京都から東京までの移動は信じられないのであるが。『明治天皇の東京行幸フランスの新聞雑誌(英語版)『ル・モンド・イリュストレ(フランス語版)』1869年2月20日刊行号内の挿絵。』【https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E8%A1%8C%E5%B9%B8】より右手に『稲荷神社』。『郷社 稲荷神社』社号標。『稲荷神社 由緒案内』一.祭神 稲荷大神 宇加之御魂之大神 佐田彦大神 大宮売大神一.由緒の概要●永享十二年(一四四○)伏見稲荷より勧請したと言われる。 ●天正十六年(一五八八)九月十八日拝殿再建の棟札が現存すると言い伝えられている。 ●現在の拝殿は大正十一年に建てられた。境内の森の木が建築材として利用された。 村内の大工数名が建築に携わった。境内入口の門柱にその人達の名前が刻まれている。 ●慶安元年(一六四八)時の幕府から朱印五石が禄(与えられる)された。 ●境内に入ると立灯篭が左右に見える。文化年間と刻字されている。 ●両部鳥居と稲荷鳥居が続いている。 両部鳥居は朱色に塗られ、四本の稚児柱と呼ばれる控柱で 支えられている。稲荷鳥居は石造りで文化十三年丙子年(一八一六)十一月吉日 遠州屋傳兵衛奉献 江戸小船町傳次郎と刻まれている。 ●稲荷の名のごとく、元来農耕神であるが、中世以降から漁業神また産業神、商売神として 崇められ、近郷からの参詣者も訪れるようになった。」『稲荷神社』境内。『社殿』。『常夜燈』と『坪井村 高札場跡』。「一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるために、村の中心または人通りの多い往来などに高札を掲示した高札場が作られました。高札には親孝行、忠孝の奨励やバクチの禁止など生活の規範のものとキリシタンや徒党の禁止などがありました。高札の文面は簡素で庶民にも理解しやすい仮名交り文が用いられていました。明治政府も高札を使いましたが、明治六年(1873)に廃止されました。近くの元庄屋にはキリシタン札などの高札が永年保存されていました。」「坪井西」バス停を過ぎ暫く進むと、再び右手のここにも常夜燈が。『忠魂碑』。坪井西バス停の先右側に入った草地に石碑が立っていた。 『史蹟引佐山大悲院観音堂聖跡』。「この地に永く安置されていた観世音菩薩は、引佐細江の観世音と言い、高さ一尺二寸五分(約三十八センチ)の立像で、定朝法橋上人の真作であると伝えられる。 第六十八代後一条天皇の治安元年(一○二一)定朝上人諸巡行の途中山住神社(水窪町)に山籠もりされた時神託を感じ、引佐細江の里に行き老杉の元で一心不乱に大悲十句の秘文を唱え祈りつづけられた。 七日七夜の三更(午前0時前後)老杉の頂が光り輝き、忽然として聖観世音菩薩が応現された。 その慈悲に感激し、ありがたさの万分の一をも残そうと老杉を伐り、聖観世音菩薩の尊像を一刀三礼して彫り上げ、国下安民五穀豊饒のため引佐の地に堂宇を建てて、安置し奉った。 第七十六代近衛天皇の久安五年(一一四九)八月下旬に天災地変あり、山崩れや洪水によって田野は流れ、山川村里は一時に大海となった。 この時、菩薩の霊訓によってこの地に遷し、草庵を造り安置申しあげた。 仁安の頃(一一六六)多田満仲五代の孫、従五位の下、伊賀守源光行公の紀行に、筑紫(九州)の人、頼み事があって鎌倉に下るとき参詣して、 望み叶うならば御堂を建立申そうと祈願し、目的を達してお礼に堂を新しくしたとある。 それ故に光行公も詣でて、多くの人々の願望成就のしるしを見、大悲大慈の恵は広く、深く、たのもしく思われて歌を詠んだ。 たのもしな 入江に立つる 身をつくし 深き志るしの ありと聞くにも 右の一首、光行公が観世音を前に詠まれたと東海道名所図会に見える。 第句十代後宇多天皇の弘安年中(一二八三)佐夜の中山(掛川菊川の境)の化鳥退治のために勅命を受けた上杉三位高実公が下向の折りも当観世音にご祈願なされ、成就速やかであったなど伝わる。 また、寛文十二年(一六七二)四月二十三日、新居宿の住人片山権兵衛紀州熊野浦にて難破したが、大悲の感応を得て助かった。 その礼謝としてお堂を建立、寄附した。 以上は、延宝五年(一六七七)五月八日、如意寺四代利州艱禅和尚の書き遺された観音由来を略記したものである。 その後も東海道を往来する人々にご利益ある観音として聞こえ、文化年間(一八○四~一四)江戸の商人遠州屋源人、相良屋茂七など多くの人から大般若経六○○巻が奉納された。 今も、毎年一月十七日の大般若法要で目にすることができる。 観音像は、昭和四十二年(一九六七)以来、如意寺に安置してある。 」バス停『馬郡観音堂』「馬郡東」バス停付近の旧東海道を振り返る。『馬郡村 高札場跡』「一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるために、村の中心または人通りの多い往来などに高札を掲示した高札場が作られました。高札には親孝行、忠孝の奨励やバクチの禁止など生活の規範のものとキリシタンや徒党の禁止などがありました。高札の文面は簡素で庶民にも理解しやすい仮名交り文が用いられていました。明治政府も高札を使いましたが、明治六年(1873)に廃止されました。このすぐ近くには「札木さ」と呼ばれている家があります。」馬郡町自主防災隊倉庫の横の鞘堂にも秋葉燈籠が納まっていた。 その2 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.24
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道・国道257号線を浜名湖方面にすすむ。浜松市若林町歩道橋の手前、左に折れると「可美公園」へ。国道沿いの生け垣は、手入れされた槇の木が。諏訪神社手前、右側には『忠魂碑』が。「陸軍中将従三位勲一等大久保春野書」と書いてあったが。『みたらしの池』。「水神様をおまつりした人工の池が、現在の可美小学校が建設 される昭和二十二年(一九四七)一月ごろまで、「みたらしの池」と いわれ可美小学校の運動場の南西のあたりにあった。 池が埋め立てられてしまったので、たいへん信心深い、土地持ちの 丸山森三郎氏が、新しく水神様をおまつりする池を現在の 不動尊(成徳寺)の南側に造った。しかし、現在はその池 も埋め立てられてしまい、今ではその面影はない。 当時、可美小学校の校内運動会の時に雨が降ると、みた らしの池を埋めたせいなどともいわれた。」『浜松市・可美村合併記念』碑。平成3年に合併したと。『可美村民憲章』碑も。そしてその先にあったのが『諏訪神社』。境内の参道を進む。『諏訪神社(旧名諏訪明神)』。若林町西端に鎮座する諏訪神社。大永4年(1524年)内田六郎兵衛なる者が長野・上諏訪社より勧請して建立、明治中期頃まで内田家が代々神主を務めた。当初の社名は諏訪明神。鳥居を潜る。明るい青が印象的な『社殿』。拝殿奥の『本殿』。『秋葉神社』。『秋葉常夜灯籠』増楽町に残る秋葉燈籠。鞘堂に納められその姿は見えなかった。「天正二年(1574)、家康公は「火の神」アキバ神社を浜松高町に建てた。一方、春野の深山に通ずる諸街道を秋葉街道と名付け、旅人の安全を祈願し、街道の要所に常夜燈の設置を奨励した。このとき、建てられた常夜燈が現在に残る秋葉燈籠の始まりである。はじめのころの灯籠は、旅人の脚下を照らすための素朴なものだったが、火を尊ぶ心から木灯籠、そして石灯籠と造り替えられ、現在のようなりっぱな灯籠になった。現在、増楽町に残る常夜燈楼だけが、可美地区に残る唯一の秋葉灯台である。」『佐鳴予備校可美校』前を通過。そして歩道橋手前の右手にあったのが『村社 熊野神社』。『境内』。『熊野神社(旧名伊豆権現)』「一、祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 事解男命(ことときおのみこと) 速玉男命(はやたまおのみこと) 一、別社 若宮社 祭神 大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)(仁徳天皇) 一、大祭 十月十日 旧九月十五日なりしも大正中頃教育的見地からより各字統一す 一、由緒 当社は大正15年4月1日火災に罹り、社殿等焼失したればその由緒詳かならず。 伝ふる所に依れば、名門出身紀伊國熊野神社の神官故ありて諸国遍歴の砌当地に 足を止め居を定め、祭神を奉祀したるに始まると云う。古来熊野三社大権現と 称したれども、明治2年六所神社と改称、同7年熊野神社と改め、同12年 村社に列せらる。」『社殿』。ジーユー(GU) 浜松可美店の角にあったのが『領地境界の標柱』。「江戸時代、宝永二年(1702)に高塚(当時は高塚村)は堀江領になったが、増楽(増楽村)以東は浜松領であった。これはその領地の境を示すために建てられた標柱)である。かつてはここより西側にあったようだが国道拡幅により現在の地になった。堀江領側にも傍示石と称する境界の標柱があったようである。」浜松藩井上河内守の領分であった敷智郡増楽村と、ほりえの大沢右京大夫の知行地であった敷智郡高塚村との境界に建立されていた。東海道の左右に一基づつあった。「従是東濱松領(これよりひがしはままつりょう)」と刻まれた高さ1.5mの石柱。『スズキ入口』バス停を通過。バス停手前の『領地境界の標柱』の角を東海道線の方向に向かい線路を渡った場所にはスズキ歴史館👈リンク、スズキ㈱本社があるのだ。『堀江寮境界石』宝永2年(1705年)高塚村は旗本大沢氏の堀江領となり明治維新まで続いた。この辺りに堀江領を示す領界石があったらしい。解説板によれば、高塚町の東端、国道257号の南側に住んでいた高橋長兵衛家の前庭に境界表示の礎石があるとのこと。『高塚村高札場跡と秋葉燈籠跡』。「東京国立博物館に所蔵されている東海道分間延絵図によると、当時の高塚には、高札場が秋葉燈籠の東側(現在の小野田吉平氏宅)付近にあった。江戸時代には、どこの村にもそれぞれ高札場があり、木板の札を村の中心で人目にたつところに建て、切支丹禁制、火災防止、徒党を組むことの禁止、犯罪人の罪状などを書いて村人に布告を徹底させた。」浜松市南区高塚町の交差点角にあった『麦飯長者跡』。「昔、高塚に小野田五郎兵衛という長者がおり、明治維 新(一八六八)のころまで、誰彼の区別なく、街道を行 き交う人々に湯茶を接待し、空腹時には麦飯を食べさせ ていた。いつとなく、麦飯をくださる長者さまというこ とで「麦飯長者」といわれるようになった。 五郎兵衛の善行が浜松城下にも知られ、小野田の姓が 許され、村役人、庄屋を務めた。そのため、小野田家は 代々、五郎兵衛を名乗ってその歴史を今に伝えている。 」さらに国道257号線を進む。舞阪まで7kmの表示が。次の歩道橋の下、右手にあったのが『郷社 熊野神社』。一の鳥居を潜り進む。『郷社 熊野神社』正面。『熊野神社』案内板。「当社は、後三条天皇の延久年間に創建されたと口伝され、 紀州和歌山の熊野本宮の神主が、諸国行脚の途中でこの地に足を留めて祭祀したと伝えられ、熊野三社権現と称えられた。 ある時、神主が「高い丘を作って人々を救え」という不思議な夢を見たので、村人と図って神社の裏山に土をもりあげた。 その後「安政の大地震」が起こり、津波の為多くの死者が出たが、この里の人々はこの丘に避難して難を逃れたと伝えらる。 又一説には、大津波の犠牲者をこの地に葬り沢山の砂を浜から運んで(浜垢離の起源)高い墓を築いたと。 大きな墓(つか)であったので大墓、後に高い塚~高塚と呼ぶようになり、地名になったと伝えられる。」「由来紀州(和歌山県)熊野本営の神主さんが諸国行脚の途中、此の地に足を留めて祭祀したのが始まりであると云われている。 或る時此の地の神主さんが高い丘を作って人々を救へと云う不思議な夢を見たので、村人とはかって神社の裏山に土を盛りあげた。 その后安政の大地震が起り津波のため多くの死者が出たが、高塚の人達は此の丘に避難して被害を免がれたと云伝へられている。 又一説に大津波のため住んでいた人達が殆んど死んでしまった。 村人は津波の犠牲者を此の地に葬り沢山の砂を浜から運んで高い塚を作った。(今でも浜垢離と云う習慣として残っている。) 大きな墓であったので大墓後に高い塚ー高塚と呼ぶようになり地名になったと伝えられている。」『社殿』。扁額『熊野神社』。社殿内部では朝の儀式が行われていた。よって社務所は無人で御朱印は頂けなかった。『御神木』「雲竜椎(うんりゅうしい) 樹齢500年(推定)位の椎で、当熊野神社の歴史をじっと見守ってきたとことが 考えられます。丁度雲に坐って昇天する龍の面影を留め骨と皮で尚神殿をお守りする様相が 偲ばれる処から、御神木として本年度より登記致しました。」「昇天松 樹齢400年(推定)位の黒松で真直ぐに天空に向かって伸びる姿は、当神社境内でも その枝振りと共に一際立派で仰ぎ見る人達に崇高な感動を与えて呉れます。 遠く南遠州灘を望み、北方に赤石の山脈を見下ろす、御神木として何時までも此の処に 住む人たちを守護って戴きたいと思います。」境内には『稲荷神社』も。扁額『古札納付所』であろうか。そして旧東海道に戻ると道路の正面反対側にあったのが海岸に向かって延びる『源十道路(げんじゅうどうろ)』。「この道路の名前の由来は、現在、道の東に住んでいる高橋登氏と西に住んでいる高橋みち氏の「ひおじいさん」(三代前)の高橋源十氏の名前をもらって、名付けられたものといわれている。」とあったが、歴史的な意味は??そして次に訪ねたのが『高蔵寺』。所在地:浜松市南区高松町4706。『六地蔵』。『本堂』。臨済宗方広寺派の寺。扁額には山号の『如法山』と。『福徳稲荷大明神』奉納された幟が並んでいた。小さな祠も。 その1 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.23
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日・5月24日(金)は早朝に起床。部屋の窓から浜名湖を見る。日の出前で刻々と浜名湖がオレンジ色に染まって来ていた。そしてこの日の浜名湖の先の山の端からの日の出。時間は4:45過ぎ。しばらくカメラを構えながら日の出の光景を楽しむ。浜名湖も赤く染まり赤い光の帯が。そして光の帯の中に小舟が。そしてあっという間に丸い太陽が姿を現す。浜名湖には多くの小舟が浮かんでいた。何の漁をしているのであろうか。オレンジ色に染まった水面に光る帯をズームで。光の帯に向かって小舟も動き出していた。燃え上がるが如き水面のカオス。そして6:30からの無料の朝食を楽しむ。宿泊した鷲津駅前のホテルを振り返る。7時過ぎの電車で鷲津駅からJR線で浜松駅に戻る。『ようこそ『技術立国発祥の地』湖西市へ』が鷲津駅前に。湖西市は豊田佐吉・喜一郎がうまれたまちであると。豊田佐吉は豊田紡織(現 トヨタ紡織)、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所(現 豊田自動織機)を創業、トヨタグループの創始者である。豊田喜一郎は豊田佐吉の長男でトヨタ自動車創業者。トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)社長(第2代)、社団法人自動車技術会会長(第2代)などを歴任した。トヨタグループ創業者豊田佐吉の誕生120年を記念して、佐吉の誕生の地に1988年10月にオープンした『豊田佐吉記念館』があると。この日の『旧東海道を歩く(浜松駅~新居宿)』のコース。ひたすらJR東海道線、新幹線に沿って歩き、浜名湖を越えて行くのであった。浜松駅まで約20分の移動。そしてこのひの旧東海道歩きのスタート。浜松アクトタワーを振り返って。浜松市水道のマンホール。出世大名 家康くん と出世法師 直虎ちゃん。時計は7:32を示していた。新幹線沿いを進みこの先を成子交差点方面に右折。この成子交差点付近には『西番所』があったとのことであるが、石碑や案内板等は見つけることが出来なかった。「成子」交差点を通過。直線道路が続く中、新幹線のガードを潜る。ガードを抜けると八丁畷(はっちょうなわて)と呼ばれる、まっすぐな道が八丁(約800m)程続く。松並木が続く美しい所だったのだそうだ。「八丁畷」というと、川崎宿を出た先にもあった。そしてバス停『よろい橋』を通過。ここは今から約900年に比叡山延暦寺と鴨江寺の僧兵が対峙した言わば古戦場。戦死者を葬ったとされる千塚(血塚とも)がどこに築かれていたのか今となってはわからないと。平安の昔に思いを馳せてここを歩く。浜松市中区から南区に入る。前方に『鎧橋』。平安時代末期、比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めた時、鴨江寺側の兵は辺り一帯の田に水をはり、鎧を着てこの橋の守りを固めて戦ったところから鎧橋の名がついたと。下を流れる『堀留川』。『鎧橋』と書かれた木柱。『鎧橋(よろいばし)』。「平安時代末期(八百年~九百年前)戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺(かもえじ)を攻めた時、鴨江寺側の軍兵は、この辺一帯の水田に水を張り、鎧(よろい)を着て、この橋の守りを固めて戦ったので、その後、鎧橋と称したという。その時の双方の戦死者およそ千人を鎧橋の北側に葬り、千塚(または血塚)と言ったと伝えられている。」『八丁縄手』「森田から東若林へ続く旧東海道の長い畷を「八丁縄手(畷)」と読んでいる。八丁縄手と呼ばれるようになった時代は明らかではないが、近くに「八丁」や「縄手」などが古い地名として残っているので、直線に延びた長い見事な松並木の道が、何時となく土地の人々の間で「八丁縄手」と呼ぶようになったということである。伊場の坂下にあった鴨江寺の鳥居が、ここから望見された昔は、「鳥居縄手」とも呼ばれていた。」『若林一里塚跡』鎧橋の先の左側にある岡本眼科クリニックの看板の脇に若林一塚跡があった。「・・・・、ここは江戸日より66里、昔は土手のある松並木が続いて(八丁縄手)、榎は街道を行く旅人の道標でした。」東若林の交差点を進む。交差点先の先の両側にあったのが『二つ御堂』。奥州平泉の藤原秀衡公とその愛妾によって天治年間(1124-26)に創建されたものであり、北堂は愛妾が秀衡が京で病気の為亡くなったとの誤報を受けて建立したもので、境内には二つ御堂解説と馬頭観音・弘法大師像・高札場跡標柱が建っており、御堂の西側には秀衡の松がある。右手にあったのが二つ御堂の内の北堂・『阿弥陀堂』。北堂・『阿弥陀堂』。『二つ御堂』、『高札場跡』、『馬場観音』の案内板が並んでいた。「奥州平泉の藤原秀衡と、その愛妾によって、天治年間(1125年ごろ)創建されたと伝えられている。京へ出向いている秀衡公が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上る途中、ここで飛脚より秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提をともらうために、北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。一方、京の秀衡公は、病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝の気持をこめて、南のお堂(薬師如来)を建てたという。現在の北堂は、昭和三十年改築、阿弥陀如来・地蔵菩薩・毘沙門天が、南堂は、昭和十二年新築、薬師如来・不動明王・大日如来が祭られている。毎年十二月十四日、供養が行われている。」『高札場跡』「この付近に柱を立てて高札を掲げた高札場がありました。村の人々に法令やおふれを周知させるために書かれた木札を高札といいます。明治三年(1870)ごろ廃止されました。」『馬頭観音』「宝冠に馬頭をいただき、憤怒の相をした三面八臂の観世音菩薩である。交通b運搬、農耕等のため極めて重要であった馬の供養と結合して、江戸時代の庶民の信仰を集めた。」この石仏は??北堂・『阿弥陀堂』裏の墓石群。二つ御堂(北堂)の道路を挟んだ向かい側に二つ御堂(南堂・薬師堂)が建っていた。南堂は、秀衡が愛妾への感謝の気持ちを込めて建立したもので、御堂には薬師如来・不動明王・大日如来が祭られており、境内には明治天皇御野立所記念碑が建っていた。『南無薬師瑠璃光如来』の幟。南堂・『薬師堂』から北堂・『阿弥陀堂』を見る。南堂・『薬師堂』左には『明治天皇御野立所記念碑』が。北堂・『阿弥陀堂』の横にあったのが『村社 八幡神社』。正面から鳥居その奥に社殿(拝殿)を見る。境内参道を進む。扁額には『天照皇大御神、大雀命、倭健命、大山津見命、加藤清正公』と。『拝殿』。八幡神社の創建年代等は不詳であるが、山城国(京都府)の石清水八幡宮より勧請したと。ご祭神は品陀和気命(応神天皇)である。若林の松並木。『名残松』。街道を先に進むと左側に東海道の松並木標柱があり、前後にまばらに『名残松』が立っている。写真は、振り返って撮影したもの。右手には『可美小学校跡』可美市民サービスセンターの場所が可美小学校の旧地。「明治六年 高塚学校として創立。 大正三年 可美尋常小学校となる。 昭和二十二年 可美村立可美小学校となる。 (増楽町に移転) 昭和二十九年 跡地位可美村役場となる。 平成三年 浜松市に合併。 可美村役場は可美市民サービスセンター 」『天皇皇后両陛下行幸啓記念』碑も。 ・・・つづく・・・
2019.06.22
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次次に訪ねたのが『五社神社・諏訪神社』。隣接して鎮座していた五社神社と諏訪神社とが、昭和35年(1960年)に法人格を一つとして五社神社・諏訪神社と称したものである。合併の後に神社本庁の別表神社に加列された。現社殿は昭和57年(1982年)の再建である。両社ともに徳川秀忠の産土神とされたことから、子守り、子育ての神として人々の崇敬を集めていると。朱の大鳥居の扁額『五社神社 諏訪神社』。『五社神社 諏訪神社 由緒』「五社神社曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建した事に始まると伝えられる。後、徳川家康公、浜松城主となり天正7年(西暦1579年)4月7日、秀忠公誕生に当り産土神として崇敬し、現在地に社殿を造営し天正8年(西暦1580年)遷座す。寛永11年(西暦1634年)家光公上洛の砌、社参し朱印300石を奉る。その節改めて社殿の造営がなされ、寛永18年(西暦1641年)竣工す。「お江戸見たくば五社諏訪ごろじ お江戸まさりの五社や諏訪」と謡われ戦前まで国宝建造物に指定されていた社殿がこれである。諏訪神社延暦10年(西暦791年)、坂上田村麻呂が東征の砌、敷智郡上中島村に奉斎と伝えられる。弘治2年(西暦1556年)に曳馬城下、大手前に遷座される。秀忠公誕生に当り、五社神社と同じく産土神として崇敬され、天正7年(西暦1579年)徳川家康公、社殿を造営す。元和元年(西暦1615年)、秀忠公、社地を杉山に改め、更に寛永11年(西暦1634年)、家光公、社参し朱印300石を奉ると共に現在地に社地を遷し、寛永18年(西暦1641年)竣工す。国宝建造物に指定されるも、昭和20年(西暦1945年)戦災により五社神社と共に消失す。五社神社 諏訪神社昭和37年(西暦1962年)、両社が合祀され、新たに五社神社諏訪神社として発足する。 【五社神社諏訪神社HPより】」『光海霊神(うなでりのみたま)の碑』。賀茂真淵が、師の森暉昌(もり てるまさ 荷田春満の弟子、五社神社神職)を顕彰して明和四年(1747年)に建立に建立した碑。この碑は現在、ここ五社神社・諏訪神社にあるが、第二次世界大戦中1945年6月18日の空襲により碑の上部が破損している。「賀茂真淵大人がその師、五社神社神主森暉昌大人の功業を記したる漢文体の誌銘なり。真淵大人の心情を遺憾なく吐露せしものなり。森暉昌大人は諡号を「光海霊神」と称す。近世国学の創始者荷田春満大人の門流にして賀茂真淵大人若年の学父とも尊親したる碩学なり。この碑は明和4年5月建立せらる。惜しむらくは昭和20年6月18日戦火により上部損壊せしも真淵大人の本意はここに歴然として存す。」『拝殿』へ向かって進む。『手水舎』。「徳川3代将軍家光公 寛永11年7月当社に参詣あり。時の浜松城主高力忠房を普請奉行として、社殿を修造せしむ。完成の後、本手水鉢寄進す。この手水鉢は花崗岩を素材とす。四方に枠取りなく素朴なる形式と水穴深く角を正確に掘たるは、古式に属し、貴重な文化財なり。正面に次の如く刻す 奉寄進 五社大明神 寛永十五年戊寅年五月吉日 高力攝津守従五位下 平忠房高力忠房は2代将軍秀忠の寵を得、元服の際 「忠」の一字を賜り 忠房となのる。温厚篤実なる人格は、領民に敬慕されたり。」『拝殿』。五社神社は、太玉命、武雷命、斎主命、天児屋根命、姫大神の五柱の神を主祭神とし、ここから「五社神社」という社名になっている。元々は太玉命を祀る神社であったものに、春日大社の祭神四柱を勧請して現在の五柱となったものと見られている。戦国時代初期の曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建したのに始まるといわれる。後に徳川家康が浜松城主になり、天正7年(1579年)に三男長松(後の徳川秀忠)が誕生すると当社を産土神とし、現在地に社殿を建立して天正8年(1580年)7月に遷座、社領15石を寄進した。慶長15年(1610年)に秀忠から100石が寄進された。寛永11年(1634年)の家光上洛の際、東照宮(徳川家康)を勧請し、200石が加えられ、以降、300石の朱印地を領することとなった。明治6年(1873年)に県社に列格した。かつての社殿は寛永18年(1641年)に家光の命で再建されたもので、大正3年(1914年)に特別保護建造物(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されたが、昭和20年(1945年)6月18日に第二次世界大戦の戦災(浜松空襲)により全焼した。焼失した社殿は、拝殿・石の間・本殿が一体となった権現造であった。-御祭神-[五社神社] 太玉命 武雷命 斎主命 天児屋根命 姫大神 (相殿) 応神天皇 舎人親王 菅原道真公 徳川家康公『狛犬』(右)。『狛犬』(左)。拝殿の『扁額』。諏訪神社は、延暦10年(791年)に坂上田村麻呂が東征の折に敷智郡上中島村(現在の浜松市天神町)に奉斎したのに始まるとされる。幾度かの変遷を経て、弘治2年(1556年)に神託により浜松に遷され、五社神社と同じく徳川家の崇敬を受けた。寛永11年(1634年)の家光上洛の際に、五社神社と同じく東照宮を勧請し、社領の加増を受け、以降300石の朱印地を領することとなった。寛永18年、家光の命により現在地の五社神社社殿の隣に社殿が造営され、遷座した。旧社殿には元和元年(1615年)と寛永18年(1641年)の棟札があった。この社殿は様式的にみて、元和年間建立のものを寛永年間に移転改築したものとみられる。この旧社殿は昭和13年(1938年)に当時の国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されたが、昭和20年6月18日に戦災により全焼した。権現造の社殿のほか、透塀、唐門、楼門を含む4棟が旧国宝に指定されていた。-御祭神-[諏訪神社] 建御名方命 八坂刀売命 事代主命 (相殿) 徳川家康公拝殿の内部。同行の旅友は昭和二十二年生まれ。『五宝稲荷社』。拝殿前から鳥居方向を見る。『社務所』。御朱印を頂きました。『浜松復興紀念館』の裏手を通る。浜松市は太平洋戦争において艦砲射撃を含め、実に27回に及ぶはげしい空襲を受け、市街地の大部分が焦土と化しました。戦後いち早く着手した復興土地区画整理事業も、昭和58年3月中央工区の換地処分を最後に長期間にわたる事業が終了いたしました。浜松復興記念館は、この事業の完成を記念して昭和63年に開館しました。ザサシティー浜松のトルコサンドウィッチ「ケバブ」の専門店『Mega Kebab』で一休み。伸び~~る伸び~~るトルコアイスクリームを楽しむ。光の芸術。浜松駅前モール街店を散策。「カルミア」か?遠鉄電車(赤電)新浜松駅前。新浜松駅前カリヨン『友愛の鐘👈リンク』。1日6回、定時に曲が鳴るのですが、四季によって奏でる曲が変わるというのが特徴的。『浜松アクトタワー』浜松駅北口前をエスカレーターで地下に降りると、階段の左:西側は滝と噴水のあるサンクンガーデンになっていた。蓮田修吾郎(金沢/1915-2010)作の巨大なモニュメント『伸びゆく浜松』。滝が涼しげに。地上を見上げる。浜松駅前地下広場と周辺施設を結ぶ接点で、空の見える解放された半地下空間。半地下から上部へかけて立体的に都市景観をとらえるダイナミックな空間構成がすばらしく、全国的にみてもユニークな施設であると。浜松市のゆるキャラ・出世大名「家康くん」の「モザイカルチャー」のある噴水前。「モザイカルチャー」とは花や緑を組み合わせて、色や特徴を生かしながら形にする作品。骨格に土を詰め込み、表面に植物や花を植えてこしらえる。00年のモントリオール大会から使われ始めた新しい言葉で、「モザイク」(寄せ集めの模様)と「カルチャー」(文化)を組み合わせた造語であると。再び『浜松アクトタワー』を。時間はまだ14:47。駅の中央通路には、『リニア中央新幹線の開業に向けて』のパネル展示が。品川から名古屋まで最速40分と。しかし、未だ名古屋以降のルートは未決定?山梨リニア実験線を走行するL0(エル・ゼロ)系。浜松市のゆるキャラ・出世大名「家康くん」人形もお土産に販売中。『浜松駅南口のカリヨン👈リンク』の下の大きな大理石の球。噴水の水圧で浮き上がりゆっくりと自由に回転していました。『元祖 日本で二番目に大きいたい焼き』。『二番目商法』?ちなみに、日本で一番大きいたい焼きは、60cm、3.5kgらしい。 その12 に戻る。 ・・・旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松) 完・・・
2019.06.20
コメント(0)
今日から、いつもの旅友Sさんと『歴史を感じる 中国・東北地方7名所大周遊8日間』に行ってきます。『中国・東北地方7名所』とは日本では『旧満州』とも呼ばれるハルビン(哈爾浜)、長春(旧新京)、瀋陽(旧奉天)、丹東(旧安東)、本溪、大連、旅順で、これらの都市を8日間で巡る旅です。ハルビン(哈爾浜)は我が亡き父が、終戦の2年前に行っていた場所なのです。図書館で本を借り、少しばかりの予習も。昨日、添乗員の男性から電話連絡が在り、ツアーは11名と予想より少なかったのです。今回もトランクとリュックで参加します。今回の宿泊ホテルは、幸いどこも街中にあるようですので、早朝散歩で朝の街の姿も楽しみたいと思っています。--------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)の続きです。『二の丸』「本丸の東に位置して土地も一段と低い。ここは城主の家と浜松藩の政治をおこなう政庁があり、江戸時代を通じて藩の政治の中心であった。広さはおよそ五〇〇〇m2(一五〇〇坪)、主な建物は表御殿(藩の政治をする所)と奥御殿(城主の家)であり多くの部屋があった。」現在は市役所と元城小学校体育館が建てられている。」本丸の東どなりにあり、土地も一段と低くなっている。本丸との間には空濠があり東側に2代将軍秀忠が生まれた御誕生場がある。この二の丸と、これに付属する北側と東側に広場があり、周囲を低い石垣でかこむ。二の丸には城主の居館があり、また浜松藩の政庁も設けられて江戸時代を通じて藩政の中心であった。『本丸』「天守閣が城の象徴なら、本丸は本拠。普通の城は天守閣を囲むように本丸が配置されているが、浜松城は、斜面を階段のように利用したため、天守閣と本丸が東西に線上に並んでいる。本丸は、天守閣の東、天守台より約17m下に設けられた。南面に鉄門がある。ここには富士見櫓と菱櫓があり、鉄門の西の石垣には多門が設けられ厳重な構えになっていた。」『若き日の徳川家康公像』を再び振り返る。『家康在城時の浜松城Ⅰ』「『武徳編年修正』によると、1569年(永徳12年)5月7日に、「愼君引馬ノ城へ帰リ玉ヒ城ノ名ヲ浜松ト称スヘキ由」tぴう記述があり、家康が城の名を浜松に改称したと考えられます。これにより近世都市「浜松」の名前が定着しました。家康が正式に浜松城に移った時期は、文献によってずれがありますが、1570年(元亀元年)とされています。その後、1577~1582年(天正5年~10年)に浜松城の普請が行われています。家康は、前身の引馬城を徐々に拡張しながら、時間をかけて浜松城・・・」『家康在城時の浜松城Ⅱ』。「今川氏の滅亡によって、遠江は家康と甲斐の武田氏との戦場となります。家康は浜松城を本拠地として、各地の城を補修、新築しながら、その勢力を急速に拡大していきました。一方、武田軍は、駿河や東三河方面から遠江に侵攻して、各戦いにおいて勝利を重ねながら、浜松城に迫っていました。1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦いでは、城の北西部にある犀ヶ崖付近まで武田軍に攻め込まれ、家康は命からがら浜松城に逃げ帰ったと伝えられています。当時の浜松城は武田氏との戦いにおいての出撃点であり、防御の要となる重要な城であったと考えられています。」『家康在城時の浜松城Ⅲ』。「家康在城期の浜松城は、石垣や瓦葺きの建物がない、戦国時代の実用的な土づくりの城であったと考えられています。イメージ図では、堀と土塁、木製の柵をめぐらせた曲輪を配し、簡素な物見櫓と板葺き屋根の建物を表現しています。これまでの発掘調査により、家康在城期とされる異物が元城町王将宮、作左曲輪、清水曲輪から出土していますが、旧元城小学校内で発見された井戸跡からは、瓦片が出土しており、家康が瓦を使った建物の造営に着手していた可能性も考えられます。」『家康在城時の浜松城Ⅳ』。「堀の特徴堀の規模は、幅9.7m、深さ1.7mであり、近代以降に削り取られた地盤の高さを考慮すると、本来の深さは、3m程であったと推定されます。堀の斜面には石垣がにことから、いわゆる「土づくり」の構造であったことが分かっています。」『新たに発見された石垣 発掘調査により判明』「この石垣は、2014年(平成26年)に行った発掘調査によりはっけんされました翌年には石垣部分の全面検出を行っています。発見された石垣には、天守台と同様に自然石を利用して積み上げられた野面積であり、石を横長に配し、横に目地(つなぎ目)が通るようにする布積みといわれる石積み技法がみられます。この石垣の状況から、堀尾吉晴在城期(1590年代)とされる遺構と考えられます。遺構の保護をはかりながら、2018年(平成30年)に整備を行いました。整備の主な手法は次のとおりです。・石垣上部に同じ石材を貼り付け、風合いを整える。・石垣下段に盛土を行い、基礎部分の劣化を抑える。」『浜松城の変遷Ⅰ』。「①今川氏支配下による引間城の時代(16世紀前半)浜松城の前身は、15世紀頃に築かれた引間城です。引間城は引間宿の西側に並ぶ丘陵地に築城されました。築城時の城主は不明ですが、16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていました。この城は、4箇所の曲輪を複合した方形の構造をしており、現在も浜松城公園の北東部にある元城町東照宮境内にその名残を留めています。」②徳川家康による浜松城築城期の時代(1580年頃)1570年(元亀元年)、今川氏の滅亡によって、徳川家康は三河の岡崎から浜松に移りました。引間城は浜松城と改称され、甲斐の武田信玄の侵攻に備える前線基地として拡張、整備されました。浜松城は、軍事施設としての実用的な城であったと創造されますが、家康在城期の城の具体的な記録や絵図は残されていません。近年の発掘調査によりその姿が解明されつつ有ります。『浜松城の変遷Ⅱ』。「③堀尾吉晴による織豊系城郭化の時代(1590年~1600年)1590年(天正18年)の小田原合戦後、豊臣秀吉によって家康は関東に威風され、その後、秀吉の重臣であう堀尾吉晴が城主となりました。吉晴は豊臣氏の権威を示すために、当時の最新技術である高石垣や豪壮な天守を備えた織豊系城郭に造り変えました。現在、浜松城に残る石垣は、吉晴在城時に築かれたものと考えられています。④徳川譜代による近世浜松城の時代(17世紀前半以降)1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで家康が西軍に勝利すると、浜松城は徳川譜代の大名が治める城となりました。戦乱の時代が終わり、浜松城は行政施設としての体裁が整えられました。豪壮な天守は17世紀前半に失われたとみられますが、三の丸の拡張や大手門の新設などが城下町の整備と一体となって行われました。」浜松城公園 本丸南広場より浜松城の勇姿を見る。ズームで。『本丸南の空堀』。「この堀は、天守曲輪を含む本丸一帯の防御機能を高めるために設けられた空堀でした。この堀の特徴は、空堀の中央部に土手(中土手)に設け、起伏(高低差)をつくり出すことで、敵の侵攻を鈍らせ、鉄砲や弓矢での攻撃をしやすくしたつくりであったと考えられています。さらに、本丸に近い北東部には袋地のような箇所を設け、堀の奥まで侵攻した的が塀沿いに移動してきたところを三方(前方、左右)から攻撃できるように工夫をされていたと考えられています。なお、この堀は公園南側の道路の下にあると考えられていますが、その大きさ(範囲)については、明確になっていません。」三方ヶ原の戦いで敗れ、浜松城に逃げ帰った家康公が、鎧を脱いでこの松に掛けたという伝説から、この名が付けられました。この松は浜松城内の堀の近くにあったといわれています。「元亀3年(1572)家康は三方原の合戦から城に帰り、大きな松の木陰で休んだ。そのとき鎧を脱いでその松に掛けたことから、鎧掛松と呼ばれている。この松は昭和56年に元城町の人々の手により植樹された三代目。初代は浜松城内の堀のそばにあった。また当時鎧掛松近くの清水で合戦により疲れた馬の体を冷やしたところは馬冷といって、その地名が今も浜松町内に残っている。」『連尺』交差点手前が『浜松城大手門跡』。この付近の道路中央部に、浜松城の正門つまり大手門があったのだと。南面する間口8間(約14,6m)奥行4間(約7,3m)の瓦葺の建物で常に武器を備え、出入りが厳しく取り締まられていたと。『浜松城大手門跡』碑。「この付近の道路中央部に、浜松城の正門つまり大手門がありました。南面する間口8間(約14.6m)、奥行4間(約7.3m)の瓦葺きの建物で、つねに武器を備え、出入が厳しく取り締られていました。 」。『高札場跡』前。『高札場跡』谷島屋書店前rあった『高札場跡』碑。『谷島屋書店』と刻まれた石碑の文字は島崎藤村の筆によると。「昭和13年(1938)連尺町本店が古風な土蔵造りから洋風の近代店舗に生まれかわり、文豪、島崎藤村の手になる大文字が大理石に刻まれて店頭高く掲げられました。 この文字について藤村は「筆を執るまでに永い時間を費やしたが、ある朝大木のたたずまいを見て心がきまり、短い時間で書き上げた」と語れました。 それから7年後、戦火によって砕かれましたが、昭和47年(1972)藤村生誕100年と谷島屋創業100年を記念して、遺された写真により縮尺復刻したものです。 島崎藤村の「簡素」な風格をよく伝えています。 」と。「この付近の車道中程に、柵で囲い柱を立てて高札を掲げた高札場がありました。城下・宿場の人々に法令や犯罪人の罪状などを周知させるために書かれた木札を高札とか制札といいます。」『佐藤本陣跡』「大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。ここは、浜松の本陣6ヶ所の内のひとつ、佐藤家の本陣跡で。建坪がおよそ225坪(約745㎡)ありました。」『佐藤本陣跡』の直ぐ先にあったのが『江馬殿小路跡』。『江馬殿小路跡』の説明板。「今の連尺町・伝馬町・肴町の町境にあった小路で、幅は一間半(約2.7m)あった。 肴町に魚市場があった頃は大八車の往来が盛んで、両側には飲食店を扱う店があり、一名”うまいもの小路”ともいわれていた。 映画監督木下恵介氏の生家尾張屋もこの小路中程の南側にあった。 古文書「曳駒拾遺」によると、飯尾豊前守連龍が曳馬城にて浜松を治めていた永禄の頃、家老の一人江馬安芸守泰顕の屋敷が今の五社小路の下あたりにあったことから、 この屋敷の脇道を江馬殿小路と呼ぶようになったという。 また、江馬殿小路は俗称沼殿小路とも呼ばれた。 終戦後の区画整理で住宅が南によったためになくなってしまったが、ここにあった老舗の中で肴町の桝形、弁いち、伝馬町の柳川亭、千歳町の井口堂、高町の久の秀 などは今も伝統の味を伝えている。 」三菱UFJ銀行前、地下に潜る階段手前にあった『川口本陣跡』。「大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。ここは、浜松の本陣6ヶ所の内でもっとも新しくできた川口家の本陣跡です。建坪がおよそ163坪(約540㎡)あったといいます。」浜松信用金庫(はましん) 伝馬町支店前にあったのが『杉浦本陣跡』。元亀元年(1570)家康入城と共に名主役に、慶長6年(1601)伝馬制が定められた時、問屋役を命じられた。室町後期から続く古い家柄。『杉浦本陣跡』石碑の脇の道路入口に。「大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。ここは、浜松の本陣6ヶ所の内でもっとも古い杉浦家の本陣跡です。建坪がおよそ272坪(約900㎡)ありました。」『川口本陣跡』の対角線方向、伝馬町交差点の角には『梅屋本陣跡』が。「大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。ここは、浜松六本陣の内梅屋家の本陣跡で建坪は180坪(約600㎡)でした。国学者賀茂真淵(本名庄助)は梅屋敷の婿養子でした。」『本陣跡』石柱。この後、伝馬町交差点を西に向かう。浜松市中区伝馬町交差点付近のビルの壁画。アルゼンチンを代表する英雄、チェ・ゲバラとマラドーナ。なぜこの二人?サッカー王国静岡県なのでマラドーナはともかく、浜松の街角にゲバラは??。栄町交差点を通過する。この周辺は完全にモール化されていた。右手にあったのが『金山神社』。短い参道。『拝殿』。金山神社の『絵馬と献額』。「献額」とは実物を額装して、神社に奉献する事。例えば、刃物、鏝、鋏、針等を使っていた職人さんが、種々の事情で仕事を辞めた時、奉納するのだと。『金山神社 沿革』。美濃の南宮大社は記紀時代よりなる、重要文化財にもなっている有名な神社で、御祭神の金山彦神(かなやまひこのかみ)・金山姫神(かなやまびめのかみ)は鉱山の神様。鉱業・鍛冶など、金属に関する技工を守護する神である。当然この金山神社の御祭神も同じ金山彦神・金山姫神である。道路の反対側に白き建物が。『木下惠介記念館』。木下惠介が浜松市出身の映画監督であることから、同市に設置されている。記念館は、浜松市指定有形文化財「旧浜松銀行協会」に設置されている。第一展示室には、木下惠介の書斎が再現されており、過去の映画作品も閲覧することができる。第二展示室では、木下惠介の生い立ちをたどる写真や映画ポスターなどが展示されている。そのほかに、建物の設計者である中村與資平の資料室(中村與資平資料室)もあると。五社公園(浜松市役所の跡地)への階段を登ると右手に『行幸記念碑』が。『浜松市公会堂・児童会館跡』。ズームで。ネットから。 【https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/koho2/pr/fb/konjyaku/11.html】よりU字型のモニュメント。『ステンレスの樹 清川泰次』であると。 その11 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.19
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『遠江分器稲荷神社』を後にし、二俣街道を北に向かって進み左折すると左手にあったのが『松下之綱屋敷推定地』碑。「松下屋敷は戦国時代の国人領主、松下氏が居を構えた場所で、別名「頭陀寺城」とも呼ばれています。屋敷の敷地は100m四方ほどありました。この屋敷の主であった松下之綱(ゆきつな)には、織田信長に仕える前の豊臣秀吉公が奉公したと伝わります。」S字カーブの途中にあったのが『霜垂口(しもだれくち、下垂口)』「古城(引間城)の東側の城門でしたが、浜松城の増築以後も浜松城の北東の城門として維持されてきました。浜松城の天守台の向きからも、当初はこちら側が城の正面にあたっていたと想像されます。なお、道路の食い違いは、浜松城下で唯一現存する貴重な防御上の遺構です。」前方に『浜松城の天守閣』が姿を現した。ズームで。右手に『東照宮』と刻まれた石碑。東照宮の鳥居と社殿をズームで。浜松城前の県道132号線に出る。右手にホテルコンコルド浜松が見えた。『東海道五拾三次之内 濱松 冬枯ノ図 安藤広重』街道脇に立つ大きな杉の木の根元で、焚き火をしながら暖をとっている旅人たち。焚き火から立ち上る煙が黒から白へと変化している様子を良く表現している。刈入れの終わった田んぼの中に立て札のある松林があるが、これは「颯々松(ざざんざのまつ)」と呼ばれた旧跡で、その昔将軍足利義教が松の下で酒宴を催した際に「浜松の音はざざんざ」と謡い、以来ざざんざの松として有名になったという。「ざざんざ」とは、風の音を表しますが、広重の描いた内容は全くの無風の好対照の情景です。画面右奥に見えるのが浜松の宿場で、浜松城の天守閣も見える。この「颯々松」はこの場所から直線距離で北東6~700m離れた、遠鉄電車の八幡駅近くにある「浜松八幡宮」近くにあったとのこと。左に曲がり浜松市役所方面に進む。市役所手前を右折して坂道を上って行った。突き当りを左折。右手に『浜松城公園ご案内』。安政年間の浜松城および城下町の様子と、現在の浜松中心部との比較ができる浜松城公園周辺案内図。ここを右に曲がり坂を上っていくと天守閣方面に。浜松城は、三方ケ原台地の東南端にあって、徳川家康が築いた。家康は天文11年(1542)三河国岡崎城内に誕生し、父は松平広忠。母に生別、駿府に少年時代を過ごすが、岡崎に戻り、永禄11年(1568)に三河から近江に入り、各地を転戦して引馬城をはじめ諸城をしたがえると共に、元亀元年(1570)長子の信康に岡崎城をゆずって、自らは浜松城へ移り、駿遠経営の本拠と定めた。家康は、29歳から天正14年(1586)45歳で駿府城(静岡市)に入るまで、在城17年に及んでいる。有名な姉川、長篠、高天城、小牧・長久手の戦いもこの期間に行われ、特に元亀3年(1572)の三方ケ原合戦は、家康の生涯における難戦で、関ヶ原合戦以上の戦いであった。家康にとって、この浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築く試練の年でもあった。当時の城郭は、南北500m、東西約450mで、三方ケ原台地の斜面に沿い、天守閣・本丸・二の丸・三の丸がほぼ一直線に並び、梯郭式の築城法に属している。その他作左曲輪(さくざくるわ)、出丸等もあった。この浜松城は、豊臣の家臣、堀尾吉春氏によって天守が築かれたといわれているが、江戸に幕府が開かれてからは、代々の諸大名にこれを守らせ、浜松藩制約260年の間に再任を含めて25代の城主が在城した。在城中に老中に5人、大阪城代に2人、京都所司代に2人、寺社奉行に4人(兼任を含む)が登用されており、中でも水野忠邦は、天保の改革でよく知られている。そのことから、浜松城が出世城ともいわれるようになった。明治維新以来、城郭は壊され、すっかり荒廃していたが、昭和33年春浜松市民の努力が結実し、旧天守閣跡に、新天守閣が再建され、昭和34年6月1日市の史跡に指定された。『浜松城公園園内マップ 園内のみどころ』。『鉄門(くろがねもん) 浜松城の要となる門』「鉄門は、文字通り扉や柱などの門の一部に鉄製の部材を使っていた門であったと考えられます。本丸への正面出入口として重要な門であり、天守門と同様に門の上部に櫓を有する櫓門でした。江戸時代前半の絵図(左上)には、門の内側に枡形(四角形)の虎口(侵攻してきた敵を前後左右から攻撃できるようにした空間)が描かれ、高い防御機能を持っていたことがうかがえます。1872年(明治5年)まで鉄門は存在していましたが、その後の払い下げ等により失われています。なお、鉄門の推定位置については、東側の歩道路面にあるプレートにより確認する事ができます。」『天守門』そして『天守門への階段』を支える石垣を見上げる。『当時の石垣』。天守前広場に入る所に積まれている石垣。「これは、四百年前の家康築城の頃の面影を残す貴重な石垣です。登ったり石を引き抜くことは絶対にしないで下さい。」『地震の際には、すみやかに石垣から離れてください。』と。『天守門』を見上げる。浜松城の中枢にあたる天守曲輪(てんしゅくるわ)の入口に建つ天守門は明治6年(1873年)に解体されましたが 市により 櫓が載る建物である天守門の再建を行い 2013年〜2014年に掛けて天守門が原位置に復元されています。『天守門』「浜松城の天守門は天守曲輪の大手につくられた門で、安土桃山時代(16世紀末)に建てられ、江戸時代に改修が繰り返された後、1873年(明治6年)に取り壊されました。2009年度および2010年度の発掘調査で見つかった礎石や、19世紀の絵図などをもとに、2014年(平成26年)3月に復元されました。総工費は1億7000万円で、三浦正幸先生が復元図を作成されたそうです。高さ9.4m、幅11m、奥行き5mの巨大な櫓門で、門の上にある櫓には武器や食料を保管し、籠城戦になった際にはここから攻めて来る敵を弓矢や鉄砲で迎え撃てるようになっていました。天守がなくなったあとも、そのまま明治維新まで残されていたと考えられています。」『門脇(もんわき)の鏡石(かがみいし)』「天守門の石垣正面は、左右ともに隅に巨石が用いられている。この巨石を鏡石と呼ぶことがある。かつて城の壮大さや城主の権力を見せるため、門の両側や周辺に意図的に大きな石を用いたと言われており、彦根城太鼓門櫓や、岡山城本丸、松本城太鼓門の石垣等に類例がある。巨石を用いた部分は算木積(石垣の角部を強固にするために、長い石材の長辺と短辺を左右交互に振り分けて積む積み方)になっていない。また、横長石も不揃いで、算木積とはいえない部分もある。天守を見上げる。『天守の礎石(そせき)』「浜松市では平成21年度から天守門跡の発掘調査を行い、建物の痕跡を確認した。「安政元年(1854)浜松城絵図」の天守門が描かれている場所からは、長軸1.0〜1.4m、短軸0.9〜0.7mほどの扁平な礎石が4箇所と、礎石の抜取穴(ぬきとりあな)2箇所が発見され、門柱の配置や門扉の大きさが確認された。また、建物の屋根瓦や鯱瓦(しゃちがわら)の一部、土塀の瓦も多数確認された。門の両脇の石垣上部からは、壁から剥がれ落ちた漆喰の痕跡も見つかっており、江戸時代の天守門の姿を明らかにする際の参考にした。礎石に載る門柱6本は、不整形な両脇の石垣の開きに沿うように配置される。このような柱の配置は、桃山時代から江戸時代初期の櫓門にみられることから、天守門は、幕末まで古式な城門の特徴を継承していたことがわかる。天守門の復元工事では、本来の礎石配置を忠実に再現し、地下の礎石のほぼ真上に、新しい礎石と門柱を配置した。石は築城時の石垣に用いられたものと同じ浜名湖北部産の珪岩(けいがん)である。」『浜松城の石垣(野面(のずら)積み)』「浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすいように思えますが、四百年の風雪に耐え、いまなお当時の面影を残しています。この石垣は野面積みといい、自然石を上下に組み合わせて積む方法で、慶長(1596年~1615年)以前はこの方法が多く用いられていました。石の大きい面を内側にして長く押し込み(牛蒡積み)、その内側に小型の栗石を1~1.5mほど詰め、さらに砂利を入れてあるので水はけもよく、水圧で崩れることがありません。石垣表面の隙間には詰め石をし、外観は乱雑ですが、堅固に造られています。浜松城は、特に天守台と天守門趾付近の石組みが硬く、石も大きなものが使われています。また、突角部には長方形の石材を小口と側面が交互になるように配した算木積み法を用いています。石垣の斜面は直線的で、57度~78度の傾斜をしています。石垣に用いた石材は珪岩と呼ばれる物がほとんどで、そのほか石灰岩、結晶片岩などが見られます。珪岩は浜名湖北岸の山々でみられ、現庄内地区の大草山や根本山、対岸の湖西市知波田付近で切り出され、左鳴湖東岸まで船によって運ばれ、そして、浜松城まで運ばれたと推定されます。この石垣がいつの時代に築かれたかについては正確な資料がないのでわかりませんが、二代城主堀尾吉晴の頃(1590)と考えられています。」『浜松城跡』「浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(一五七〇)六月に入城し、十七年間在城した。東西六〇〇メートル、南北六五〇メートルの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。ここは、その天守曲輪の跡である。家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。石垣は、野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。」天守を天守曲輪から見る。『天守曲輪(くるわ)』井戸の傍に説明板が立っていました。曲輪というのは、城や砦を石や土で囲んだ所をいう。ここは丘陵の西のはしの最も高い所にあり北東と南東の方向にはり出した菱型(東西56m・南北68m)に近い形をしている。周囲は低い土塁(土でつくったへい)があり、その下に石垣をめぐらしている。東に天守門、西に埋門(うずみもん)があり、内部は広場となっていた。江戸幕府を開いた初代将軍・徳川家康公が29歳から17年間も在城していた城。後には、この浜松城主になることが幕閣への登竜門とさえ言われていたとされており、別名出世城と呼ばれる。天守閣は三層四階構造で、昭和三十三年の再建である。天守台にあるハートの石浜松城の天守台にはハートに見える形をした石があり、その石探しがちょっとしたブームになっているこの真ん中の石だそうです。ななめになってますが、いわれてみればハートに見えなくもない。『天守門』 「浜松城の第二代城主、堀尾吉晴は城の中枢である天守曲輪に天守を建築したと言われているが、この天守は古図などの資料から、江戸初期には喪失していたと考えられる。天守曲輪入口の天守門は幕末まで維持されたが、明治6年(1873)に解体され、払い下げられた。「安政元年(1854)浜松城絵図」には安政地震による浜松城の被害状況が示されており、天守門でも櫓の壁が一部潰れたものの、深刻な被害を免れた事が記載されている。絵図には天守曲輪の外周を土塀が囲んでいる様子も描かれている。天守門は、門の上部に櫓が載る櫓門と呼ばれる形式がとられている。天守門のように櫓が両側の石垣上にのびる渡櫓(わたりやぐら)は、石垣を多用した西日本の城に多く見られる。天守門(復元)の概要は次の通り構造:木造・櫓門・入母屋造り・本瓦葺き建築面積:78.01m2 延床面積 56.74m2門部:正面柱間4.09m、冠木(正面梁)上端高4.12m櫓部:桁行10.91m(36尺)、梁間5.00m(16.5尺)高さ:10.28m(門下から櫓屋根の大棟上まで)土塀:木造塀瓦葺き 門の両側約9mずつ」マンガ『センゴク』の画も展示されていた。(三方ケ原合戦の様子が描かれていると)『天守台』「浜松城の天守台は、一辺21mのややいびつな四角形をしていて、西側に八幡台と呼ばれる突出部が付いている。また東側には、付櫓と呼ばれる張り出し部分があり、現在は復興天守閣への入口として利用されている。浜松城の天守は第二代城主堀尾吉春の在城期(1590頃)に築かれた説が有力だが、17世紀の絵図には天守が描かれていない事から、江戸時代前期には天守が失われていたと考えられている。昭和33年(1958)に作られた現在の復興天守閣は、天守台の大きさと比べると小さいものである。かつての浜松城は、築城時期等から大きな屋根を持つ下層部の上に小さな望楼が載せられる「望楼型」であった説が有力である。その規模は天守台の大きさから推測すると現在よりも一回り大きい三重四階で、巨大な天守だったと考えられる。」浜松城天守入口。内部は資料館として使われており、徳川家康をはじめとした当時のゆかりの品々を見学することができます。『徳川家康の3D像』。2015年、徳川家康公400年記念事業として制作された30歳前後の等身大家康像。 「手相・しわ・毛穴」まで再現され、今までにない家康公の姿を披露しているのだと。『歯朶具足(しだぐそく)』(右)徳川家康が霊夢により作らせた具足で御夢想形あるいは御霊夢形とも称されています。兜に歯朶の葉形の前立がついていることから歯朶具足とも呼ばれました。『金蛇美具足(きんだみぐそく)』(左)総体が金泥または金箔でいろどられているために金蛇美具足と言われています。桶狭間の戦いのときに、19歳の松平元康(後の徳川家康)が着用したものと伝えられています。これも、徳川家康の武将姿の絵画であろうか?天守入口前から天守門を見下ろす。『井戸』天守前広場に入った所にあった。「この井戸は銀明水と呼ばれていたという。浜松城には、天守台に一つ、天守曲輪の埋門のそばに一つ、本丸に一つ、二の丸に三つ、作左曲輪に四つ、計十本の井戸があったという。天守台の井戸は、再建の時に残し、今は、天守閣の地下室にある。直径1.3m、深さは現在1mほどになっており水はない。」『八幡台』。天守台の北西にあたり、五段の石垣により天守台より高く、面積はおよそ40㎡(12坪)あり、浜松城の中で最も高い所(419.9m)であります。城を守る神社(多分、八幡大菩薩)をお祀りした所だといわれてます。八幡大菩薩は武士の守り神として信仰されました。『門下の排水溝』「平成21年度からの発掘調査で、門下に瓦を用いた排水溝が発見された。丸瓦を使用して排水溝を狭くしている部分があることから、かつて礎石が存在していた時点には、排水溝が造られていたと考えられる。土層断面から、瓦の排水溝埋没後に礎石の抜き取りがあったことがうかがえる。排水溝は西側の雨落溝から屈曲し、南側の石垣に沿って配列されている。排水溝に使用された瓦は、江戸前期までの古い特徴をもつもので構成されているが、この排水溝がいつの時代に造られたものかは、正確には特定できていない。」再び天守を。『若き日の徳川家康公の銅像』「この銅像は1981年(昭和56年)に建てられました。「徳川家康公は天文11年(1542年)三河国岡崎城内に誕生した。父は松平広忠、母に生別、駿府に少年時代を過ごしたが、岡崎に戻り独立の一歩を踏み出した。元亀元年(1570年)遠江国へ進出、浜松に築城し、ここを根拠として着々と地歩を固めた。その間17年、武田信玄のために大敗を喫した三方原合戦、正室築山殿嫡男信康を一時に失うような家庭危機に遭遇したが、隠忍自重よくこれを克服し、東海を制圧、その領国は遠江・三河・駿府・甲斐・信濃の五か国に及び、海道一の弓取り武名を馳せるにいたった。そして常にこれを支えたものは浜松の地の利と人心の和であった。浜松より駿府へ、さらに江戸に移り、江戸幕府を開き、二百六十年余の泰平の基礎を固めたが、やがて駿府に退隠、元和2年(1616年)薨じた。乱世を生きぬいた努力と忍苦の75年であった。像は浜松時代の若き日の公の姿。手にしたのは勝草と呼ばれためでたい歯朶である。」 その10 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.18
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次琵琶橋の先、旧東海道・国道152号線を進むと、右手に『蒲神明宮(かばしんめいぐう)』の一の鳥居が。社殿はここから700m程先にあった。蒲神明宮は、藤原鎌足の子孫である越後守藤原静並公が伊勢大神のご神託を受け、蒲の生い茂るこの地一帯を開発し、大同元年(806)この地に伊勢神宮の御神体を分霊して創建した浜松市最古の神社である。境内には、厳島神社・五社稲荷神社・天王社など多くの境内社があると。『国史現存 蒲大神』と刻まれた石碑。浜松市東区神立町71-1にご鎮座する『蒲神明宮』藤原鎌足十世(ふじわらのかまたりじっせい)の孫、越後守静並(えちごのかみしずなみ)が伊勢神宮の神託を受け、この蒲の地を開拓し、美田(みた)550町歩(ちょうぶ)を神宮に寄進し蒲御厨(かばみくりや)となし、神明宮を創設したと伝えられている。以来、静並の子孫が神官と御厨(みくりや)の支配者を兼任し、蒲氏(かばし)を名乗った。明治6年、蒲神明宮と改称され今日に至っている。鳥居を潜り『蒲神明宮』に向かって歩き出し、「六間道路」を渡って進むがスマホ地図で確認すると、まだまだ先にあることに気が付き、この日は諦めて同じ道を戻ったのであった。拝殿(内宮)の写真。次回に訪ねたいと。 【https://www.wincl.wedding/hotel/detail2569/】よりそして再び旧東海道に戻り進み東区から中区に入る。更に旧東海道を進むと、街道に面して右手に臨済宗妙心寺派の『北野山龍梅寺』があった。龍梅寺の創建年代は不詳であるが、承応年間(1652-54)に創建されたと言われ、境内には、焼き餅を供えれば願い事を叶えてくれるという「焼餅地蔵菩薩」、東海道を通行中に急病で亡くなった松平伊豆守信祝の娘光の墓もあると。『臨済宗妙心寺派 北野山龍梅禅寺』と刻まれた寺標とその先に『山門』が。『山門』。山門の『北野山』と刻まれた扁額。『六地蔵』。『本堂』。創建は江戸時代初期とされ、東海道に面した禅寺として地域はもとより街道を往来する人々からも参詣されてきた。宗旨宗派は臨済宗妙心寺派で、インドの達磨大師さまから中国の臨済禅師さまを経て、妙心寺開山無相大師さまへと受け嗣がれてきた一流の禅を宗旨・教義としています。山号・寺院名 :北野山 龍梅寺宗旨・宗派 :臨済宗 妙心寺派住所 :静岡県浜松市中区天神町3-43 『本堂内部』。見事な天井画が並んでいた。『寺務所』。『焼餅地蔵菩薩』『堂内部』。提灯の模様が美しかった。『焼餅地蔵菩薩像』。なんとなくすらっと長身な御地蔵様なのであった。お顔をズームで。餅を持ってるとか焼いてるとか・・・。ヤキモチ焼いてイライラしている様子はなく、おだやかな表情、笑っているような・・・。由来書がなかったので、NETで調べてみると下記の記載が。「今は昔、三方原の片隅に小さなお地蔵さまが立っていた。誰が建てたのかはだれも分からない。村の人たちは、「原のお地蔵さま」と呼んで大切にしていた。ある日、近くに住んでいる農民の夢の中にお地蔵さまが出てきて、江戸の町へ連れて行って欲しいと言った。ふたつ返事で引き受けた農民は、次の朝、荷車にお地蔵さまを乗せて江戸へと向かった。しかし、天神町の竜梅寺の門前まで来た時に、急にお地蔵様が重くなり、一歩も進むことができなくなった。困った農民は竜梅寺にお地蔵さまをまつってくれるように頼むと、快く引き受け、お堂を建ててくれた。それから、竜梅寺のお地蔵さまへお願いすると願い事がかなうと評判になり、人々は願いをかなえてくれたお礼にと、焼いたやきもちを供えるようになったので「やきもち地蔵さま」と呼ばれるようになった。」と。『焼餅地蔵菩薩』の赤い幟が隙間なく並ぶ。モミジ葉も陽光を浴びて緑に輝く。そして再び旧東海道に戻ると前方に高層の『浜松アクトタワー』が姿を表した。右手に『浜松酒造㈱』が。裏にあるのが工場のようであった。1871年(明治4年)、現在地で、中村家が酒造業を興した。1998年(平成10年)、南部杜氏の修行した増井美和が入社、2009年(平成21年)、浜松酒造・静岡県初の女性の杜氏が就任した。2015年(平成27年)経営権が中村家から戸塚家へ譲渡され、現在当主・戸塚敦雄が、「出世城(しゅっせじょう)」、「葵御紋(あおいごもん)」ブランドの日本酒と、銘柄「出世城」の焼酎を醸造販売する老舗酒造メーカーである。「空樽 1樽 どれでも 500円」と。植木鉢等に欲しかったが・・・。浜松東警察署の先にあったのが『馬込一里塚跡』。「江戸日本橋より六十五里(約260㎞)の所。道の両側に五間(約9m)四方の土を盛り上げて塚となし、松・榎などを植え、旅人の目標とした。塚は明治10年(1877)頃には取り壊されたという。「馬込一里塚」の名称は静岡県史跡名勝天然記念物調査報告第三集(昭和2年)にみられる。また資料によっては「向宿一里塚」ともいう。この辺りは中世には宇間郷向宿、江戸時代は向宿村、現在は相生町という。」天神町交差点横奥にはNTTのタワーが。浜松市中区板屋町を進む。そして『東鎧橋(ひがしよろいばし)』を渡る。『浜松アクトタワー』が今度は左手に大きく。『浜松城』まで2.2kmとの表示が。浜松城標識の隣の電柱の下の木柱が『浜松宿外木戸跡』であったのであろう。『馬込川』に架かる『馬込橋』を渡る。この付近に「東番所」があり、いよいよ浜松宿が始まるのだ。東海道53次の29番目の宿場である浜松には、かつて本陣6、脇本陣0、旅籠94軒があったと。本陣が6軒もあるのは浜松宿と箱根宿だけであったと。馬込川の上流側を見る。『松江交差点』を渡る。浜松市中区中央3丁目を進む。ビルの間にあったのが『新組 新町屋台置場』。浜松まつりで引き回される御殿屋台の倉庫であろう。ネットで調べてみると、下の写真が格納されているようであった。 【https://www.instaguz.com/post/2057870456704196188_2875688331】より。右側に『夢告地蔵』(左)の堂が見えた。TBSの日曜ドラマ「仁」にも登場した、安政5年のコレラの大流行で死んだ人たちを供養するために建立された地蔵尊で遺族の香華が絶えなかったという。この地蔵様は江戸時代末期のものだが、廃仏毀釈で地中に埋められてしまった。ところが「助けてー、助けてー」と町民の夢枕に。 かわいそうにと掘り起こされてこの地に安置されたのだと。『夢告地蔵👈リンク』。『大日如来青面金剛三猿』と刻まれた石碑も。浜松市中区板屋町を進む。『アクト通り北口』静岡唯一の超高層浜松アクトタワー(212.77m)から北に伸びる、緑豊かな大通りの名称。階段を降りていくと、浜松駅、アクトシティー方面への地下道に繋がっている模様。『アクト通り』案内板。『遠鉄電車』の高架橋の下を通過。旧東海道を先に進むと、遠州鉄道鉄道線の高架下に『万年橋』があった。現在は暗渠となっている新川を跨ぐ橋であるが、幕末に河井次郎八が石造りの太鼓橋に架け替え、この時に長い歳月に耐えられるようにとの願を込めて 「万年橋」 と名付けられた。現在の橋は、昭和58年に架け替えられたものであると。田中屋の角を右折して旧東海道を離れて進む。そして右手にあったのが『徳川家康家臣 本多忠勝屋敷推定地』。『稲荷通り』と書かれた石柱も。「本田忠勝(天文十七年~慶長十五年 1548~1610)は酒井忠次・榊原康政・井伊直政とともに徳川四天王。江戸時代(十八世紀)に編纂された「曳駒拾遺」に「本多平八郎忠勝は分器稲荷社の西の家也と云へり」と記されている。」その先にあった『遠江分器稲荷神社』に立ち寄る。永禄禄11年(1568年)創建と伝えられている。旧境内850坪余り。分器宇賀大神とも号し約1500年前、22代清寧天皇の御代に天竜河原開墾の為、鎮座。徳川家康公が三河から浜松に入った時に倉稲魂神を祭神として社が構えられたという説や、昔この辺りが伊勢神宮の神領であった頃に創建され、坂上田村麻呂が東征の際、勝利を祈願したとの説も伝わっているそう。明治7年には三組町の秋葉神社に合祀されましたが、明治11年に再興が許されています。戦火前の社殿は徳川家康公の命により慶長9年(1604年)に建てられましたが昭和20年6月18日の空襲で消失しました。現在の社殿は戦後に再建されたもの。浜松まつりの田町の凧絵柄は、分器稲荷の神紋である宝珠から生まれたものなのだそうです。『拝殿』拝殿前には金色のキツネさんが。稲荷神社なので境内には、狛犬ならぬ金色の狛狐の姿も。他にも、色んな種類の狐の置物があった。更に近づいて。奉納された多くの幟。『本殿』。 その9 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.17
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次立場跡を過ぎると、左手に数本の『名残松』が疎らに(まばらに)立ち並んでいた。街道が緩やかに右にカーブするところ浜松橋羽郵便局手前の左筋に『南無妙法蓮華経題目碑』が建っていた。天竜川駅入口交差点が見えて来た。『東海道案内板 ようこそ浜松「東区」へ』『金原明善生家』、『金原明供養塔』、『法橋の松』、『蒲新明宮』が紹介されていた。現在地は『天竜川駅入口交差点』。まずは、天竜川入口交差点の北西角にある『六所神社』に向かう。この周辺一帯は橋羽(はしわ)と呼ばれていたと。『六所神社』。浜松市内にはこの『六所神社』が20箇所以上あるのだと。境内左手にあった『秋葉山常夜燈の建屋』が。中には何もなかったが火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)が祀られているとのこと。「伊耶那岐神(いざなぎのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)は多くの神をお生みになられました。しかし、伊耶那美神(いざなみのかみ)は火の神である火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)をお生みになった際、御陰(みほと:女性陰部)に大火傷を負ってしまい病床に就かれてしまいました。病気でお苦しみになりながら病床で嘔吐し、糞尿を垂れ流してしまいます。ところが嘔吐物から鉱山の神二柱、大便からは土の神二柱、尿からは水の神と生成の神が成りました。」と。 由緒書きと手水舎。由緒書きは文字がかすれて解読不能。正面に『社殿』。六所神社の創建年代は、永禄年間(1558-69)であるが、その後、慶安元年(1648)に再建された。境内には、「お宮の松」 と呼ばれる直径3m、樹高17m、推定樹齢260年前後の黒松があったが、昭和54年(1979)10月19日の台風20号による被害のため伐採されたと。静岡県内には「お宮の松」 が熱海そしてここ天竜川町にあったが、他にもあるのだろうか?そして天竜川駅に向かって歩き、『妙恩寺』を訪ねた。左手に『黨山草創六百年紀念』と刻まれた石碑と『山門』。山門右側には案内板が。『妙音寺由来』日蓮宗長光山妙恩寺.妙恩寺は、鎌倉時代の応長元年(1311)日蓮大聖人の孫弟子日像菩薩を開山とし、金原法橋左近将藍を開祖として出来た、遠州最初の法ヶ道場である。妙恩寺には、三方原の戦いに負けた家康が逃げ込んできたという伝説がある。境内には、清正堂・開山堂のほか金原善明の供養塔がある。こちらにも『妙恩寺』。「日蓮宗の古刹。応長元年(1311年)開創。東海道沿いの寺道に妙号石碑がある。かっては周辺まで塔頭(たっちゅう)寺院が並んでいた。今川家・武田信玄・徳川家康にかかわる寺宝がある。境内には、金原明前の供養塔などがある。」山門の扁額には『長光山』と。『鐘楼』。『手水舎』『本堂』。本堂内部。内陣と外陣の狭間、浄土を透かし見る本堂の格子戸が見えた。『清正堂(せいしょうどう)』。家康公お手植えの柘植の木が右手に。扁額には『清正公(せいしょうこう)』と。『清正堂(清正公堂)1/2』妙恩寺の12代目の住職が加藤清正の子であった縁で、清正公が祀られていると。『清正堂(清正公堂)2/2』『金原善明の供養塔』金原明善は江戸時代の名主の家の出身であるが、金原氏は江戸時代以前はこの地の豪族であった。ここ妙恩寺は明善の先祖である金原左近将監、法号法橋が開基である。『開山堂』開山は日蓮上人の法孫・日像上人。日像といえば、京都で最初の日蓮宗道場である、妙顕寺をはじめ、妙蓮寺、宝塔寺を開山した上人であると。扁額には『御開山』と。『開山堂』永代供養墓の『常経殿(じょうきょうでん)』扁額には『常経殿』と。『常経殿』。六角形の『宝蔵』。宝蔵には日蓮上人直筆の本尊や御書の断片、日像上人の画像や戦国武将たちの判物なども納められていると。寺紋は『丸に出二つ引き』。寺で家康を匿った時、飯茶碗に二本の箸をのせて差し出したことから、賜ったとされる紋。『寺務所』。堂宇の配置、手入れの行き届いた境内に古刹の風格を感じたのであった。そして次に『法橋のマツ』を訪ねた。『法橋のマツ』「この松は、天竜川町日蓮宗妙恩寺の開基 金原法橋(左近将監)遺愛の松で、広大なその前庭にあったものであると伝えられている。地上2mの幹廻りは約5m。往時の枝張は東南より西北まで約18m、東西約12mである。樹高はおよそ14mである。樹齢は700年以上といわれている。」『法橋のマツ』を見上げる。『金原法橋庭前之松』と刻まれた石碑。少し離れて全体を。石碑『天然記念物金原法橋庭前之松』。支えられながらも、必死に生きていました。現在の姿は樹皮が失われた部分もかなりある。残念ながら、樹勢はあまり芳しくないようであったが、頑張ってほしいのであった。道端にはタチアオイ(葵)の花が。濃いピンクのタチアオイ。『東海道』と刻まれた石碑。旧東海道・県道312号線を更に西に進む。旧東海道に戻って、一本の名残松のある比較的広い十字路を越えると、右手に『浜松アリーナ』が。浜松アリーナは、各種スポーツ大会の会場、国際的な競技大会や各種文化イベントにも利用可能な多目的ホールである。更に旧東海道を進むと交差点右手にあったのが『六軒京本舗』。店のHPには「東海道は天竜川の渡しを西に越え、浜松宿に入る手前に、蒲畷(かんまなわて)十六丁の松並木があり、この地を六軒といいました。幕末の頃この地に元祖京次郎の妻まつが茶店を出し、夏の副食品として紫蘇巻を作り売り出したところ、東海道を往来する旅人に大変喜ばれ、以来六軒京の紫蘇巻として当地の名物となるに至りました。現在は、紫蘇巻の他に小菊巻・銘茶・椎茸等の副食品を中心として、幅広く皆様から喜ばれますよう努力しております。」と。道路沿いの赤紫蘇色(あかじそいろ)の塀が和を感じる美しさであった。更に進み旧東海道を左手に折れ、『子安神社』を訪ねる。『村社 子安神社』。『子安神社』子安神社は、この地の庄屋伊藤家の祖先が、寛永12年(1635)浅間神社の分霊を祭り、家の守護神としたことに始まるが、伝説には源範頼が娘の無事出産を願って創建した話が残されている。『社殿』。扁額?には『祭神 木之花咲耶姫命』と書かれていた。社殿内部。『子安町 屋台置場』。旧東海道が国道152号線に合流する子安交差点の左側に『東海道夢舞台「植松原」』が。植松から永田(現浜松市東区和田町)にかけての旧東海道は蒲畷(かばなわて、かんまなわて)と呼ばれる松並木の畷道であったとのこと。更に進み子安交差点から100m程先の、芳川に架かる『琵琶橋』を渡る。芳川の上流側。上流側の『琵琶橋』の欄干には鳥の姿が。下流側の欄干には菖蒲(あやめ)?の姿が。『びわばし』の文字が。 その8 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.16
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次松林寺を後にし、更に浜松城に向かって進むと、直ぐ右手に黒い塀が重々しい『金原明善(きんぱらめいぜん)生家』があった。金原明善は、明治時代に、私財をなげうって水害で悩む天竜川流域の治水に尽力した人物。『金原明善翁生家』と刻まれた石柱と生家の門。現在は明善記念館 ( めいぜんきねんかん )として金原明善の遺品や資料を展示し、彼の業績を紹介していた。現在は、一般財団法人『金原治山治水財団』が金原明善生家<・明善記念館を運営していると。金原 明善(天保3年6月7日(1832年7月4日) - 大正12年(1923年)1月14日)は、明治時代の実業家。遠江国長上郡安間村(現浜松市東区安間町)出身。浜名郡和田村村長。天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した。明善記念館は、その偉業を顕彰するために、1960年、生家の前を通る旧東海道を隔てた南側に、建築家十代田三郎(そしろだ さぶろう:1894-1966)の設計で建てられたものです。記念館には、治山治水や植林事業で使った測量器具、地図、請願書、公文書、私信、遺墨などが多数収蔵・展示され、当時の難事業の様子を知ることができます。展示室は1階と2階回廊部分に分かれ、1階には天竜川流域の治山治水、植林事業の計画書や申請書、実際に測量や植林に使用したさまざまな道具類や愛用したカバン、91才の最後の山林視察で使った籠などを見ることができた。2階の回廊には、親交のあった多くの著名人からの手紙や、明善直筆の遺墨などが展示されていた。大きな和室が続く。名善自筆の屏風。読んで内容が理解できれば最高であったが・・・・。この部屋でビデオ鑑賞。金原明善の生涯を画いた映画が製作されたと。金原明善は、幕末、明治に渡って活躍した浜松の偉人。社会企業家の草分けと言えるその実績と業績は、現在でも学ぶところが多々あります。金原明善とは如何なる人物なのか。なぜ、偉人として浜松史にその名を残しているのか。今また見直され、注目されている明善の生き方が紹介された『金原明善の生涯』👈リンクのビデオを鑑賞した。床の間のある和室には欅の一枚板のテーブルが。厚みもあり、重厚感と高級感が十分に。金原明善の写真。金原明善の業績は大きく分けて次の4つ・天竜川治水事業・天竜川流域の植林事業・北海道開拓・更生保護事業金原明善は、天竜川にほど近い現在の浜松市東区安間町で生まれました。農民でしたが、いわゆる富農と言われるような比較的裕福な家の生まれのようです。「あばれ天竜」と呼ばれていた天竜川の氾濫に悩まされ、全財産を投げうって天竜川の治水に努めます。1877年には時の内務卿大久保利通に謁見がかないます。内務卿とは今で言うと総理大臣のようなものです。天竜川の治水事業実施を嘆願します。金原明善は嘆願がかなわなければ死ぬ覚悟でこの謁見に臨んだそうです。金原明善の、全財産を投げうって天竜川の治水に努める熱意と事業家としての資質を認めた大久保利通は、金原明善の嘆願を受け入れ天竜川の治水事業を許可しました。この他教育にも力を入れていたようで、この自宅の2階を教室にして授業を行っていたと。名善書の掛け軸。『富在山林』:山林に冨在り『私心一絶萬功成』:私心というものがなければ万功は成るが、これに反して少しでも 私心があると、万功は望むべきもない。の文字が。『江戸時代の東海道:安間、中野町、天竜川西岸地区 絵図』田中茂助との写真。田中茂助は、林の下刈用の鎌の改良を命じ【金原鎌】をつくりあげた東京の鍛冶職人の棟梁。1877年(明治10年)、全財産献納の覚悟を決めた明善は内務卿大久保利通に築堤工事実現の為に謁見した。明善自身も一介の田舎農民が内務卿への謁見は叶わないと思っていた。ところが快く大久保利通との謁見は実現した。それは長年、誠実一途に天竜川の治水工事に奔走している明善の話が大久保利通の耳に入っていたからである。そして、近代的な治水事業が始まった。それは、主に堤防の補強・改修をはじめ・天竜川を西洋式の測量器を使用して全測量・鹿島村から諏訪湖に至る高低測量・天竜川河口から二俣村に至る実測量・駒場村以下21箇所の測量標建設・自宅に水利学校を開き、治水と利水の教育を行う。を実施した。後年の天竜川における治水計画の基礎となったと。『名善翁胸像』。大正11年に金杯を賜った時の絵画であろうか?様々な栄典・授章・授賞を頂いたと。位階1888年(明治21年)3月31日 - 従五位1914年(大正3年)10月8日 - 正五位勲章等1888年(明治21年)6月9日 - 金製黄綬褒章1902年(明治35年)2月22日 - 勲六等瑞宝章1915年(大正4年)11月10日 - 勲四等瑞宝章1923年(大正12年)1月14日 - 紺綬褒章明治天皇、昭憲皇太后に拝謁。明治10年、昭憲皇太后に拝謁し歌を賜ったと。昭憲皇太后の紹介文も。明治11年に明治天皇に拝謁し画を賜ったと。大正11年、更生保護事業の功で金杯を賜る。明善の事業経営の基本方針は1.身を修め家を斉えて後、始めて報効の道は開かれる。2.事業には必ず資本を必要とする。この資本は質素倹約を基調として求むべきものである そしてその事業が大きくなるに従ってしの資本は共同出資方式にならねばならぬ。3.事業の発展進歩はその事業に携わる人々にある。そしてこの人物の育成は教育に 俟たねばならぬ。明善は、「金は値打ちのない場所(町)で儲けて、値打ちのある所(田舎)で遣え」という金の活用法を実践した事業家でもある。名善から5代目の方が丁寧に説明してくれたのであった。歴史を感じさせる、天井、壁、照明であった。別屋には懐かしい井戸の姿も。30分ほどの慌ただしい滞在であったが『金原明善生家』を後にする。『金原明善生家』の角にはこれも歴史を感じさせる大きな『石造りの蔵』が。金原明善翁は安間町に住みながら、掛塚湊を出入りする廻船を持っていた。そんな船が伊豆から運んで来た伊豆石で造られた蔵が、金原明善翁生家の横手に残っていた。腰壁をなまこ壁で飾った漆喰土蔵などに比べ、特に飾り気がないように見える石蔵だが、窓の上にはアーチ状に石が積まれていた。そして、アーチの中央にはキーストーン(要石)が嵌め込まれていたのであった。小路の奥にあったのが『普伝院』。更に旧東海道を進む。ここは浜松市東区安新町。この道が『姫街道』の安間起点の場所。写真の左右方向が旧東海道で、奥方向が旧本坂通り。『本坂通(姫街道)安間起点』「この地点は本坂通(姫街道)の起点であり、もと「□□(従是)鳳来寺」と記された道標があり、本坂通(姫街道)が鳳来寺道でもあったことを示している。この道標は、現在は百五十メートル西にある天竜公民館の敷地に移されている。この起点の西には、江戸から六十四番目の東海道 安間一里塚 が東海道の両脇にあった。この一里塚 は本坂通(姫街道)の一里塚も兼ねていたが、現存しない。「東海道宿村大概帳」には、安間新田地内 壱里塚 左右之塚共木立榎」と榎が植えられていたことが記されている。」県道312号線と合流地点手前、『安間一里塚』碑が右手前方に。『安間一里塚』江戸日本橋から64里(約251km)、京都三条大橋からは54番目(約262km七里の渡しを27.5kmとして)にあたる安間一里塚跡。両塚とも現存していなかった。そして旧東海道(県道314号線)は県道312号線と合流。合流地点には『旧東海道』と書かれた木柱が。合流地点を振り返る。旧東海道の安間川(あんまがわ)に架かる『柏木橋』を渡る。『安間川』下流側。上流側には国道1号線の高架橋が。浜松市東区薬師町の旧東海道を進む。前方の国道1号線(浜松バイパス)下を潜る。所々に松並木が姿を現す。『東海道の松並木』「旧萱場村から植松村まで東海道筋のうち町家が並ぶ場所以外には、松並木が整備された。江戸時代を通じて、沿線の村々によって維持されていた。更に進行方向左手のみに松並木が続く。『立場跡』。「宿場と宿場の間に設置された休憩所、旅人や駕籠かき、馬子が一休みした。多くの場合茶屋があって土地の名物を販売していた。ここは、見付宿と浜松宿の間に置かれた。藤棚があって旅人を楽しませたと伝わる」。根本近くで大きく横に這っている松の木を振り返る。 その7 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.15
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道・県道314号線の東区中野町を西に向かって進む。『石垣清一郎 生家』案内板が左手に。「明治18年中野町に生まれた清一郎は与謝野晶子が主宰する新詩社「明星」に参加した浪漫派歌人で、「秋の風 都へ帰る学友の 待合室のトランクに吹く」の叙情歌で知られる。昭和2年に県会議員となり、昭和21年より中野町村村長を務めた。清廉にして豪快、篤実な村長として人々に親しまれた。嵐山光三郎は昭和17年、中野町の石垣家に生まれ、清一郎より文学の薫陶を受けて少年時代を過ごした。嵐山の作品には天龍川や清一郎がしばしば登場する。中野町は嵐山のワンダーランドなのである。 嵐山光三郎 記」嵐山光三郎氏はテレビ・『笑っていいとも!増刊号』(フジテレビ)に編集長としてレギュラー出演した事を想い出したのであった。現在は石垣内科医院になっている模様。石垣内科医院の前の家も立派な門が。邸宅の角にあった石造りの庭。その横には大きな駐車場が。しばらく歩くと右手の路地入口にあったのが『軽便鉄道軌道跡』。軽便鉄道は、建設費・維持費の抑制のため低規格で建設されたと。軽量なレールが使用され、地形的制約の克服に急曲線・急勾配が用いられ、軌間も狭軌が採用されることが多い。このため、運行時は最高速度が低く輸送力も小さく、軌間が違う場合は積み替え・乗り換えの不便が生じる。産業の未成熟で限定的な輸送力しか必要としない地域に建設される事例が多い日本における軽便鉄道は、法規的には「軽便鉄道法」に基づいて建設された鉄道を指すが、一般的には国鉄線や軌道法に基づいた軌道線をふくめて、軌間1067mm(3フィート6インチ)未満の営業鉄軌道を軽便鉄道とする。広義には軌間1067mm未満の森林鉄道・殖民軌道・鉱山鉄道など、鉄道法規の規定によらない低規格の鉄道も含まれる。「軽便鉄道は明治42年から、浜松~中野町の11駅間を走っていました。馬込川沿いの木戸から東海道の南側を走り、この地点で道を北側に横切り、道沿いの家屋の裏側を通って終点(今の中ノ町自治会館)へ着きました。「けいべん」と親しまれたこの列車は、ラッキョウ型の細長い煙突を持ったミニSLで、客車一輛を引いて家並の軒先すれすれを、のんびり走っていました。 昭和3年以降は軌道自動車(ガソリンカー)に変わり、昭和12年に廃線となるまで、沿線住民の足として愛されました。」『馬込川を渡る軽便鉄道』の往時の写真。軽便鉄道の線路が在った場所は、小さな狭い路地に変わっていた。そして右手に、白塀に囲まれた大きな寺院が姿を表した。『松林寺』の文字が瓦屋根のある白壁の上に。『奥山大権現』と刻まれた大きな石灯籠。奥山方広寺の鎮守の神様が「奥山半僧坊大権現」。この跡訪ねた境内には『半僧坊堂👈リンク』があったのです。『松林寺』『松井禅寺』と刻まれた寺号標。鶴翁山松林寺は奥山方広寺の開山である無文元選禅師(後醍醐天皇の息子)が天竜川に近いこの地に足を運んだ折に、草庵を建てて禅師を迎えたとされ、その草庵がやがて松林寺になったといわれている臨済宗方広寺派の禅刹である。寺は江戸時代の元禄年間(1688〜1704年)と享保年間(1716〜1736年)の2度火災に遭い伽藍とともに古記録、古文書類が焼失したため正確な寺史は明らかではないが、歴代の徳川家将軍から朱印を受けていたということである。ご本尊は地蔵菩薩で、この他、薬師如来が祀られており、「寅薬師」として地域の人々の厚い信仰を受けている。ご利益は諸病全快である。また、境内にある弁財天に手をあわせると商売繁盛、習い事の上達にご利益があるそうだ。しかし何故、『松林禅寺』ではなく『松井禅寺』と刻まれているのであろうかとこの時は思ったのであったが、調べてみると、『井』に見える文字は『林』の下図の如き草書文字であり一部の斜めの黒(影?)が見えていなかったようだ。「松林禅寺臨済宗方廣寺派に属する名刹で、 江戸時代には中ノ町村に属していた。 境内の薬師堂は、徳川家光が浜松城主に命じて建立させたものと 伝えられている。この寺は、元禄、 享保の二度にわたって炎上してい るが、薬師堂は焼失をまぬがれて 現在に至っているといわれている。 また、境内には奥山大権現や、 「航空兵顕彰碑」なども所在する。 」『山門』に向かって歩く。参道の両側には枯山水の景色が見事に。山門の床には、かわいらしいお地蔵様が。『手水舎』。『本堂』山 号■鶴翁山寺 号■松林寺住 所■静岡県浜松市東区中野町331宗 派■臨済宗本 尊■薬師如来札 所■遠江四十九薬師霊場第8番札所本堂正面。本堂内部。禅宗寺院の坐禅中に用いられる鐘が。しかしどの様に使われるのか調べてみました。「除夜の鐘とかでイメージする大きな鐘とは違い、こちらは小さい鐘です。坐禅では、この鐘を三回たたく止静鐘(しじょうしょう)、二回たたく経行鐘(きんひんしょう)、一回たたく抽解鐘(ちゅうかいしょう)と放禅鐘(ほうぜんしょう)という四種類の意味があるのだと。・止静鐘(しじょうしょう) :坐禅のはじまりの合図、止静鐘が鳴ったら、基本的には 坐禅堂の出入りはしてはいけません・経行鐘(きんひんしょう) :坐禅中に鐘が二回なったら、経行を始める合図・抽解鐘(ちゅうかいしょう):坐禅と坐禅の間に坐禅堂を出て、少し休憩することを意味・放禅鐘(ほうぜんしょう) :坐禅終了の合図とのこと。坐禅堂は三黙道場の一つ、つまりしゃべってはいけません。言葉を使わない代わりに、このような鳴らしもので伝える」のだと。詳細は『坐禅中になる木版と鐘はどうして鳴らすの?』👈リンクを参照下さい。薬師堂前の枯山水の波心庭(はしんのにわ)。薬師堂前の境内。『薬師堂(医王堂)』。薬師如来を祀る薬師堂は、徳川家光の命で建立された。代々の将軍自ら信仰し、御朱印を授け遠州一円の住民の安全と無病息災を祈願した。元禄時代の建築であり、屋根には雌雄の鬼の顔をした瓦が乗せられ四方を凝視している。徳川家康の寅年にちなんで寅薬師とも言われ、寅年に御開帳する。ご本尊の地蔵菩薩は木造で、行基の作と伝えられている。扁額には『医王堂』と。「薬師堂(医王堂)ご本尊は薬師瑠璃光如来 その両脇には日光菩薩、月光菩薩 十二神将が祀られており一千余年前の名僧行基菩薩の御作といわれ心身の健康の守護のみ仏であり万病即快の現世利益の如来さまです。徳川三代将軍家光公は時の浜松代官に命じて別堂(現在の薬師堂)を建立させ、代々の将軍自ら信仰し御朱印(ふち米・お守料)を授け遠州一円の住民の家内安全無病息災を祈願なさしめられた。」戸時代に2回の火災に遭っているが薬師堂だけは焼失をまぬがれているのだと。『庫裏』であろうか?白塀の蔵。再び薬師堂前の波心庭を。『六地蔵』。『七重石塔』。『墓地』。『庚申堂 十王堂』。『合祀 庚申堂 十王堂』「庚申様昔村人の願いにより祖順和尚により建立(271年前)され病魔悪鬼を除き五穀豊穣を願う神とされている十王像閻魔様を中心として冥界にある亡者の罪業を裁断する十人の主であって当山十三世乾堂和尚(143年前)により発願建立一般には木造が多いが当山は石像であり稀に見るあらたかな十王様である。」境内の庭には大きな池があり、大きな鯉が。『出世弁財天』。「七福神の一神。女子の福の神として音楽を司る女神。商売や芸能、技術の上達等、利益があるといわれています。」『百度石』。赤い頭巾、涎掛けの地蔵尊。道路に近い境内には日露戦役忠魂之碑、日独戦役記念碑、大東亜戦役忠魂之碑等々多くの戦役忠魂の石碑が並んでいた。その奥に在った『半僧坊堂』。「当山の鎮守様であり、方広寺の開山無文元選禅師が中国から帰国するとき海がひどく荒れ無文元選禅師の乗った船を守護された神です。住民の厄難消除、海上安全、商売繁盛、所願成就の権現として霊験あらたかです。」再び『奥山大権現』の石灯籠。 その6 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.14
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次県道261号線(磐田細江線)の天竜川に架かる『天竜川橋』を磐田市側から見る。この『天竜川橋』には歩道が無いため、更に上流に向かい歩き、国道1号線(浜松バイパス)に架かる『新新天竜川橋』に向かう。『新新天竜川橋』の歩道を歩き、天竜川を渡る。天竜川に架かる橋としては、最下流から6番目の位置にある。国道1号の新天竜川橋付近は近隣の地域でも屈指の渋滞ポイントであり、渋滞が慢性的に発生し、問題となっていた。また、新天竜川橋には歩道(自転車歩行者道)が無かったため、天竜川を横断するためには路側帯を通行するしかなく、非常に危険な状態であった。この2点の解消を主な目的として、新天竜川橋の拡幅工事が1995年(平成7年)に開始された。総事業費は約460億円。1995年(平成7年)より、従来の片側2車線の計4車線道路から片側4車線の計8車線道路への拡幅工事(新天拡幅)を行い、下り専用橋として供用を開始した。橋長は912 m。日本橋から249.2m地点を通過。日本橋から京都・三条大橋までの旧東海道の距離は、いろいろな数字があるが、126里6町1間(495.5km)の数字もあり(https://350ml.net/labo/tokaido/kyori.html)495.2/2=249.75kmであり、この先550mが中間点。隣の『天竜川橋』の手前側の磐田市部分は塗装更新済みであるが、浜松市側は未だであり白への変色が目立つのであった。そして橋上で浜松市東区中野町に入る。原付は『流出して下さい』の表示に違和感あり。天竜川に架かる橋の上の表現としては気になったのであった。そして中間地点を通過し『250km』地点に到達。ようやく旧東海道の前半線を制覇し、後半戦に入ったが、しかし未だに静岡県を脱出できないのであった。『新新天竜川橋』をほぼ渡り終わり、道路下にある小さな公園への階段を降りる。『東海道案内板』。『「東海道」江戸と京のどまんなか 浜松市東区中野町マップ』。堤防の下の道を進むと、六所神社、旧東海道 船橋 木橋跡に行けるとの案内が。『天竜川橋』の浜松市側からの入口を見る。そして、中野町マップに従い、堤防の下の砂利道を進む。暫く進むと左手に堤防上の道・県道314号線に上がる階段があり、ここから六所神社の境内裏側に入れたのであった。県道314号線沿いにあった大きな石碑を見上げる。『六所神社(ろくしょじんじゃ)』の境内に入り、鳥居の外にいったん出て六所神社を撮影。『六所神社』社殿。三柱の海神と三柱の航海の守り神の六柱の神様が祭神として祀られている。神社名 六所神社鎮座地 浜松市天竜区春野町領家327御祭神 天兒屋根命 大日靈貴命 譽田別命 中筒男命 大山袛命 武甕槌命御由緒 伝え云ふ 建治二年八月十八日尾張国中野郷より 勧請すと御朱印五石七斗拝領す 境内はもと寺裏にありしを明治七年遷座す その折当地に鎮座せし島津神社と北裏に 遷座せし上下神社を合祀 大正十二年六月二十七日 賀陽宮恒憲王殿下御参拝あり 第六十回伊勢神宮式年遷都に伴ひ 御正殿の古材を使いまして昭和五十年十一月 社殿他皆改築す。そして再び鳥居をくぐり境内の外に出ると、左手の階段横にあったのが『船橋 木橋 跡』。「江戸時代の天竜川には江戸防衛の理由から橋が架けられていませんでした。東海道の蓬莱は、この上流にある「池田の渡し」の渡船で行われていました。明治元年、天皇御東幸の際には、舟を並べ、板を敷いた仮設の舟橋が2日間だけ架けられました。その後同7年には本流の舟橋と(中)州の木橋からなる最初の橋がこの場所に完成し、街道の往来は格段に便利になりました。しかし舟橋は洪水により度々流されたので同9年に完全な木橋に架け替えられました。この「天竜橋」は昭和8年に現在の鉄橋ができるまで使用されました。」往時の『天竜橋』の写真。この後屋敷を訪ねた金原明善が明治11年3月に完成したのが幅3.6m、長さ約1160mの木橋「天竜橋」昭和初期の天竜橋と後方天龍川橋(天竜川文庫所蔵)。堤防上を走る県道314号線からかっての『天竜橋』があった方向の天竜川を見る。川面に面する場所に、何か柱と案内板が写っていたのでネットで調べてみると下の写真の如き『量水標』であったようだ。『量水標』とは川の水位を目で観測するための装置とのこと。『水天宮寄付』と刻まれた石碑。『船橋之碑』『明治大帝玉座跡』碑。中野町六所神社北側天竜川堤防沿いに「玉座迹」と記された碑と「明治大帝御聖蹟」の石柱が建っていた。明治天皇が北陸東海地方の巡幸の中で、明治11年11月1日に天竜川堤防修築のため設立された「治河協力社」の建物内で休憩した。その際、天竜川の治水に尽力した功を賞して金原明善夫妻に拝謁を賜り、紅白縮緬を下賜された。建物は明治25年に焼失したが、明治31年、建物跡前面に「玉座迹」が建碑された。また、明治天皇巡幸の地として「明治大帝御聖蹟」が昭和3年に建てられた。『明治天皇玉座迹の碑』史跡 明治天皇 中野町御休所跡所在地 浜松市東区中野町説明 明治十一年、北陸東海巡幸の際十一月一日、当所でご休憩された。 御座所は金原明善の設立に係る治河協力社の建物内で明善夫妻を御謁見された 当時の建物は明治二十五年十月消失し建物跡の前面に玉座迹の碑を建立した。」『明治天皇玉座迹の碑』前から天竜川下流を見る。遠くに東海道本線の鉄橋が見えた。『天竜川木橋跡』、『舟橋跡』の2本の標柱があった。対岸の豊田町(現磐田市)側に『天竜川橋跡碑』があったが、実際に木橋があった場所がここということになる。『金刀比羅神 水天宮』石碑。水運の安全を守る「金刀比羅神」と暴れ天竜川を恐れての水難除けの「水天宮」の石碑『賀陽宮(かやのみや)殿下参拝祈念』碑。賀陽宮は、明治中期に久邇宮朝彦親王の第2王子邦憲王が、父宮がかつて称していた宮号を受け継いで、新しく創設した宮家である。六所神社の前のT字路には様々な石碑、案内板が。「六所神社」下にある「旧東海道」説明板。「ここ中野町は、東海道のちょうどまん中であることからその名前がついたと伝えられています。 十返舎一九の東海道中膝栗毛にも、「舟よりあがりて建場の町にいたる。 此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」と記されています。 この辺りは、川越しの旅人や商いをする人、天竜川をなりわりの場とする人々で活気があふれていました。」『中ノ町道路元標』。足元にある標石は「道路元標」と呼ばれ、市町村の起終点を示したもの。 大正九年施行の旧道路法により、各市町村に一箇所の設置が定められた。ここにある「中ノ町道路元標」は中ノ町村の起点を示すもので、 当時の規格に忠実に作らている。 市町村の数と同じ1万2244基が設置されたが、全国に現存するものは1600基ほどと言われ、静岡県内ではおそらく唯一の、たいへん貴重なものであると。『旧東海道』。六所神社を背にして、真っ直ぐ延びる旧東海道を西に向かう。右手空き地に案内板が。『中野町銀行 跡』。「中野町は、江戸時代には東海道筋の川越しの集落として、多くの旅人たちで賑わいました。また、明治から大正時代には、天竜川の船運を利用した木材や鉱石の流通基地として隆盛を極めました。明治15年、この場所で「竜西社」が結成され2年後に「中野町銀行」が誕生した。その後、西遠銀行と合併し、遠州銀行を経て、今の静岡銀行に吸収された。昭和49年まで建物があり、現在は地面に埋もれたレンガに、かすかに当時の面影を見ることができます」同じく右手にに大きな『天竜川橋紀功碑』が。『天竜川橋紀功碑』「天竜川に橋を架ける作業に功績のあった浅野茂平の業績を刻んだ石碑である。浅野茂平は、明治元年の明治天皇東行に際して天竜川に舟橋を架けて安全な渡河に功績を残したほか、明治7年には舟橋を再度完成させ、天竜川を挟んだ東西流通の活性化に大きく貢献した。その功績は今も語り継がれている。石碑は明治27年に建てられた。」『中町(なかちょう)通り』と書かれた木柱と『伊豆石の蔵』案内板。『伊豆石の蔵』。「この蔵は、明治時代に伊豆半島から切り出された伊豆石で造られた蔵です。江戸時代より、天竜川流域は船運を利用した交易で、伊豆や江戸と繋がっていました。伊豆で採れた石は、火に強い建築材料として、蔵や塀に使われました。これらの建造物は、掛塚をはじめ天竜川筋のまちや、浜松市内にも数多く残っており、当時の交易や繁栄の名残を今に伝えています。この蔵の壁の石は流れるような縞模様や海を思わせる緑が美しく、数ある伊豆石の蔵の中でも大変秀逸で貴重なものです。」『東橋』と書かれた木柱のある信号のない交差点。『東橋(ひがしばし)』。『東橋跡』「かつてここを流れる小川には、土橋が架かっていました。 中野町村では一番東の橋であり、東海道を往来する旅人は、皆この橋を渡りました。明治後期から、中野町は天竜川の船運による木材の集積地として栄えました。 堤防沿いには19軒の製材所が建ち、ここから東の横町に至る通りには、旅館・芸者置屋・小料理屋・洋食屋・玉突き・カフェーなどの店が軒を連ねていました。この東橋が、中野町繁華街への入り口でもあったわけです」 その5 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.13
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『池田の渡し歴史風景館』を後にし、天竜川に向かって歩くと道路角にあったのが『池田橋の跡』碑。明治16年(1883年〉、幅2.72m、長さ765mの当時日本初の有料木橋が掛けられた。現在は「池田橋跡の碑」が建てられていた。昭和8年に取り壊され、現在は対岸に渡るには下流の天竜川橋と新天竜川橋を使っている。池田の渡し場は上中下の3箇所があり、この写真の付近は「上の渡し」であった。普通は下流の「下の渡し・中の渡し」を使い、増水時に「上の渡し」を利用したのだと。池田は、古東海道時代は物流も盛んで、宿場として栄えていた。江戸時代は、渡し場として栄え、茶屋や宿屋もあった。かつての天竜川は暴れ川で、平安時代は池田の東側を流れていたと。15世紀末に池田の西側に流れが変わり、その後も流路を変え続けたのだと。堤防下にあったのが『家康の天竜池田渡船場の許可証』が。「遠州天竜池田渡船之事 一、河上・河下雖為何之知行、地形於可燃地船可通用之事一、棟別参拾五間寺方共仁、此屋敷分扶持与出置、井拾二座二付役等竹木不可見伐之事一、於分国中、夏秋両度升を入、致勧進之由申上之間、可為先規事右条々、有河原昼夜令奉公之条、停止諸役、永為不入免許畢、然者彼拾人之者共、為雑色分上者、聊不可有非分、於背此旨輩者、急度申出之上、可加下知者也、仍如件、 天正元 癸酉年 十一月十一日 家康 花押 船守中このお墨付きを要約すると、一、天竜川川筋で誰の領地にかかわらず、適当な場所で渡船を行うこと。一、そのかわり渡船方三十五軒と行興寺の家屋敷の税を免除し、渡船差配人である「十二座」の 者の役を保証してその屋敷の竹木を保護する。一、遠江国内で今までどおりに年二回渡船運営等に必要な費用を集めることを許す。右の条々は昼夜渡船に携わることに対する報奨であり、さらにいろいろな役目を免除して長期にわたって干渉しない。船守の十人に対して、乱暴な行為を禁止する。このことに背いて訴えられた者は、処罰する。 御墨付きは、今から約430年前(1573年)、徳川家康が池田の渡船関係者に与えた天竜川渡船権の許可証です。武田軍が攻めてきた時、常に家康側の味方となって協力を惜しまなかったことから、与えられたとされています。これにより、天竜川の渡船権は、池田の渡船にかかわる人だけが持つようになりました。」堤防上の道路・県道343号線(上野部豊田竜洋線)に上がり天竜川の上流側を見る。東名高速道路をズームで。下流側には国道1号線・浜松バイパスそしてその奥に県道261号線。堤防の下部の遊歩道には写真入り案内プレートが。『天竜川を上り下りした帆かけ舟』。「江戸後期から明治に入り、渡船がなくなった後、帆掛け船等により、天衆側上流部へ生活物資(米など)を送り、上流部からは木材・鉱石(銅など)を陸揚げし、人車軌道(トロッコ)にて中泉駅(現磐田駅)まで運搬するための中継点として活躍しました。しかし、昭和になり、道路の整備やトラック運送が発達し、川にはダムが出来て、今までの船で物資を輸送することもなくなり、それと共に見かけなくなりました。」『有料だった池田橋』。「時代が江戸から明治へと変わり世の中が変化したように、天竜川の渡船も橋へと変わりました。旧豊田町でも天竜橋・池田橋が明治初期にでき、このうち池田橋はこの付近にかけられました。この橋は木橋で『橋銭』をとる有料橋であり、大人三銭、小人二銭でした。昭和八年に旧国道の天竜川鉄橋が完成したことにより、廃止されました。」『江戸時代の天竜池田渡船』。「江戸時代に入ると、大きな川には政治的な理由等により、橋をかけませんでした。渡船賃は、武士等の特別な人を除き一人当たり十二文かかったそうです。天竜川は、渡船による川越でしたが、水位が七尺(約2.1m)を超えると川留になり、その間旅人で旅籠屋がにぎわったそうです。」『旧豊田町指定文化財 遠州一言村十景之図「天竜夕照」』。なんと刻まれていたのであろうか?『常夜燈』であろうか?県道343号線下に在った常夜燈?祠の中を覗いてみれば良かったのだが・・・。十一番、十二番、十三番と刻まれた石仏像。『池田の渡しの秋葉山常夜燈』西法寺公園の藤棚も巨大。『遍照山西法寺跡』。「ここには『遍照山西法寺(へんしょうざんさいほうじ)』という寺院がありました。」西法寺は、今から約770年前の鎌倉時代の貞永年間(1232年)に創立された真言寺院で、本寺は高野山普門院、本尊は不動明王でした。真言宗は平安時代に空海(弘法大師)によって開かれたもので、遠州では袋井市の法多山、油山寺、磐田市の医王寺、浜北市の岩水寺、浜松市の鴨江寺、龍禅寺。三ヶ日町の摩訶耶寺などがあり、いずれも古い時代より続く大きな寺院です。豊田町の寺院も多くは真言宗により創立されました。しかし、鎌倉時代に広がった新仏教は、奈良・平安時代以来の貴族中心の信仰から庶民信仰の仏教へと大きく変化し、その流れの中で、町内寺院もほとんどが曹洞宗と時宗に改宗されました。江戸時代に書かれた『遠淡海地志(とおとうみちし)』によれば、この時代の町内四二カ寺のうち、曹洞宗三九、時宗二で、真言宗は西法寺の一カ寺のみとなっています。おそらく、西法寺は、鎌倉時代に広がった庶民仏教とは一線を画し、武士層など比較的経済的に恵まれた人々の信仰を集めていた寺院だったのではないでしょうか、現在では、お寺は浜松市に移り、五戸の檀家衆のうち豊田町内三戸の檀家衆によって法灯が守られています。 」豊田熊野記念公園、ここにも大きな藤棚が。『熊野伝統芸能館』に立ち寄る。紫そして白の藤棚や能の写真が。この絵画は??『伊藤深水画 仕舞熊野 』。『能装束』池田宿の長者で、平宗盛に寵愛され都に伴っていた。 平家物語「海道下り」本文中ではこのようなエピソードが述べられている。宗盛に寵愛された熊野は、故郷の母が病気のため宗盛に暇を請うが許されず、かえって花見の伴を言いつけられる。 酒宴が始まっても心の浮かぬ熊野は舞を舞うが、にわかに雨が降ってきて花を散らすのを見て、 この歌『いかにせん都の花も惜しけれど馴れし東の花や散るらん』 (都の花も惜しまれますけれど、こうしているうちにも、 馴れ親しんだ東の花が散るのではないでしょうか) と和歌をよむ。 これを聞いた宗盛は熊野の心を哀れに思い暇を与えた。このエピソードを典拠につくられたと言われているのが謡曲『熊野(ゆや)』である。『熊野伝統芸能館』前の広場の先に大きな藤棚が拡がっていた。磐田市熊野伝統芸能舘の能舞台。謡曲『熊野』は名高く、藤棚を借景とした屋外型の能楽堂。舞台の老松・若竹は、皇太子殿下御成婚奉祝記念能の際に、老松・若竹の描画を担当された谷勝郎氏の制作で、揚幕は東京の観世能楽堂と同じ様式のもの。藤棚には一輪だけ花が。『西法寺大子堂』、花の時期にはこの藤棚の下には、観光客がごった返していたのであろう。開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。紫の藤との二色を楽しめるようです。 【http://shizuyashizu.jugem.jp/?cid=19】より開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。別の場所からも。 【http://shizuyashizu.jugem.jp/?cid=19】より『誓渡院』に立ち寄る。『曹洞宗 済縁山』。『誓渡院』。『本堂』。済縁山誓渡院は永正元年(1504 年〉の開創で、当時lま誓渡庵と号した。曹洞宗である本尊は地蔵菩薩。本堂には護法拈茎帝釈天、池田渡船船玉大明神を奉っている。新四国八十八ヵ所第五番札所である。境内の『安養地蔵菩薩』。『粒見堂観音』前には火の見櫓が。そしてこの脇が『天白神社』入口。昔懐かしい「火の見櫓」『粒見堂観音』永享6年(1434年)妙法寺二代目僧侶が天竜川に聖観観音の尊像が浮かぶ夢を見て、その通り尊像が発見されたという。当時の村人らが穀物(粒)の喜捨を乞い「粒見堂」を建立した。」『粒見堂観音』堂内部。天白神社脇入口。『石鳥居』。扁額『天白神社』。『手水舎』。『社殿』。猿田彦命を御祭神とする、池田村の鎮守で、祭りの際、天竜川を境に東西に別れ行われる喧嘩角力が毎年行われていると。神社の起源は、奈良時代の女帝・孝謙天皇の頃。鎮守は猿田彦命。江戸時代には池田宿大明神とも呼ばれていた。マンホール蓋には藤の花が。天竜川堤防の下に石碑が。ここが『中の渡船場』だったようだ。『天龍川渡船場跡碑』『板塀の家』。『常夜燈』。 その4 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.12
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次天竜川治水祈念公園を後にし、この日は国道1号線の新天竜川橋を渡ったのであるが、実は前日に国道1号線の北側にある池田地区をこの日の時間節約の為に訪ねていたのであった。古くから池田地区は、渡船場が三つあり天竜川を渡る交通の要となっていた。現在、天竜川の堤防に渡船場跡を示す石碑が建てられていた。周辺には、池田の渡しにゆかりのある「豊田池田の渡し公園」や「池田の渡し歴史風景館」が。歴史風景館には、「池田の渡し」の長い歴史を物語る品々が多数展示されており、徳川家康が池田の渡船衆に与えたとされる朱印状のレプリカなどを見ることが出来たのであった。まず最初に訪ねたのが『熊野の長藤』。『熊野(ゆや)の長藤』前の県道262号線(豊田竜洋線)の道路脇に在った小さな祠に安置された石仏。謡曲「熊野(ゆや)」で有名な熊野御前(ゆやごぜん)の墓がある『行興寺』入口。ここに国と県指定の天然記念物のフジが合わせて6本あるのであった。「記一、当寺は、今より八百年の昔、延久元年の創建にて、謡曲で有名な、熊野(ゆや)御前の旧跡で あります。一、当寺には、熊野御前の守本尊厄除十一面観世音(恵心僧都御作)、熊野御前とその母、 侍女朝顔の墓墳がそのまま昔を物語っております。一、毎年四月二十九日より五月五日まで熊野御前の例祭をとり行います。一、境内には、その昔、熊野御前が堂側に植えて愛育された藤であると称される紫房五尺以上に 垂るる五百坪に余る藤があり、昭和七年文化庁より「熊野の長藤」として天然記念物に 指定されました。見頃は、年により相違があるが平年四月下旬から5月上旬であります。一、謡曲「熊野」奉納の方には、寺則により謡曲奉納の証印を押印いたします。 右 旧跡 熊野寺」『熊野の長フジ』国指定天然記念物 一本県指定天然記念物 五本国指定は、境内西北隅に位置し、幹は根元より分かれてニ支幹となっている。根元で約1.8mもある。本堂前の境内にある五本のフジは県指定であるが、国指定に劣らないフジの巨木である。ともに、樹齢は定かでないが老木であることは間違いない。花房が1m以上にも伸びて、紫色の美しい花をつける。一般的には「熊野の長フジ」と呼ばれている。そのいわれは、平安時代の終りごろ、熊野御前が植えたとの伝承がある。熊野御前については謡曲熊野や平家物語にも登場する、親孝行で有名な美女である。」『行興寺』本堂前の見事な藤棚。残念ながら、今年の藤の花は既に終わっていて、花後の手入れも完了していた。県指定天然記念物熊野の長藤(計5本) 指定:昭和47年9月26日指定樹齢:約300年(推定) 樹勢:根廻 2.4m 樹高 2.5m特徴:花房の長さ 最長1.5m、平均90cm 花色 紫そして左に『熊野御前の歌碑』。高さ143㎝、幅57㎝。熊野御前は、平安時代の末期に池田荘の庄司の藤原重徳の娘として生まれた。この歌碑には、平宗盛を想う心と、母を慕う心が詠われている。熊野御前は、平清盛の三男・宗盛に見染められ、京にのぼりお仕えしていた。そんな折、母病いの報が届く。花見の宴で熊野は舞を舞いながら、歌を詠んだ。雨に散る桜に、母の病状を重ねた歌に宗盛は心を痛め、帰郷を許したという。【いかにせむ 都の春もをしけれど なれしあずまの 花や散るらむ】宗盛の死を知った熊野は、尼となり33歳でその生涯を閉じた。開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。 【https://s.webry.info/sp/58094028.at.webry.info/201505/article_1.html】より開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。 【https://s.webry.info/sp/58094028.at.webry.info/201505/article_1.html】生まれ故郷がここ池田である『大橋葉蘭』の句を刻んだ句碑が。高さ173㎝、幅100㎝。大橋葉蘭は、明治35年(1902)に、池田に生まれた。昭和14年(1939)に原田濱人によって俳句結社が主宰され、同人誌「みづうみ」が創刊されるが、そのあとを受けて主宰となる。昭和57年、同誌500号を記念し、句碑が設置されたと。【ひとの手に 綿虫移し いとませり】【汗かいて 昼寝の吐息 業尽きず】【老どちが 浄瑠璃に泣く 夜永かな】本堂脇の『熊野(ゆや)の墓』。開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。 【https://shifu-dsuki.com/shizuokakeniwatashiyuyanonagafuji.html】より。『謡曲「熊野」と行興寺』「近江国池田の宿の長 熊野は、平宗盛(清盛の次男)の寵愛を受け、京都清水の桜見物に出掛けます。熊野は病母から届いた手紙で見舞いに赴きたいと思い、宗盛に暇を乞いましたが、聞き入れられず、やむなく宗盛に同行しました。花の下の酒宴が始まり舞を舞った熊野は、俄の村雨に散る花に寄せて故郷の病母を気遣い【いかにせん 都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん】と和歌を詠んだのを見て宗盛も哀れに思い、暇を与えたのです。熊野はこれも清水観音のご利生と喜んで故郷へ帰って行きました。熊野は藤の花をこよなく愛し、行興寺本堂側に熊野が植えたと伝えられる老木あり「熊野の長フジ」と称せられています。」『荻原井泉水 句碑』。高さ194㎝、幅64㎝。荻原井泉水は、明治17年(1884)に東京都港区に生まれた。本名は、幾太郎(のち藤吉)。俳句機関誌「層雲」を主宰し、大正3年には初の句集『自然の扉』を刊行する。季語無用を主張し、自然のリズムを尊重した、無季自由律俳句を提唱する。門弟に、尾崎放哉や種田山頭火がいる。熊野の墓に詣でた際に詠った句が、層雲浜松支部の会によって建てられた。【藤の長房や 天龍は長き流れなり】。歌碑「天竜の 川風熊野の 藤揺らす ひろこ」開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。 【https://www.jalan.net/kankou/kw_%8CF/page_7/】よりスマホに今年の花の写真を映しながら撮影。開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。 【https://blog.goo.ne.jp/suishaalbum/e/58507fd243144e63fe5e91796143db36】より開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。 【https://blog.goo.ne.jp/suishaalbum/e/58507fd243144e63fe5e91796143db36】より『五重塔』『国指定天然記念物 熊野の長藤』 国指定樹は、境内西北隅に位置し、幹は根元より分かれて多支幹となっていた。正面に回って。『国指定天然記念物 熊野の長藤(1本)』 「昭和7年7月15日指定樹齢:約850年(推定) 根廻:2.9m 樹高:2.5m特徴:花房の長さ1.5m(最長)にも及び、花の咲き終わった後に葉が繁るのが特徴である。」開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。 【https://jpinfo.vietnhat.tv/e31992.html】より来年の花の時期の四月下旬から5月上旬には是非来ようと旅友と話をしながら『熊野の長藤』を後にし、県道262号線(豊田竜洋線)から境内の藤棚を振り返る。道路脇の社。右側には『常夜燈』がここにも。そして左にあったのが『池田の渡し歴史風景館』。1000年も前から続いていたと記録される、天竜川で行われていた池田の渡し。徳川家康が池田の渡船衆に与えたとされる朱印状のレプリカなどが展示され、池田の渡船の歴史が入館無料で分かりやすく紹介されていたのであった。『池田の渡し歴史風景館』内部に入る。内部にはジオラマ風に池田の渡しを再現していたが、残念なことに川の水がビニールひもで再現されていたのであった。人形はかなりいい感じなのであったが・・・・・。舟の中の様子。荷物を運ぶ舟。『大通行と定助船・定助人足』と『天竜川池田渡船の終焉』。『徳川家康が池田の渡船衆に与えたとされる朱印状のレプリカ』『東海道五拾三次之内見付 天竜川図 歌川広重』「東海道の中間地点である。見附の西、天竜川の急流を舟で渡る風景である。手前の舟の大きさと中洲の向こうの小さく描いた舟、さらに霞にけむる遠影の拭きぼかしの技巧によって空間の広さが描かれている。たばこをくわえて立つ船頭、そしてしゃがんで客待ちしている船頭の浅瀬に立てた竿が構図を引き締めている。」『歌川広重 人物東海道 五十三次 「見付」』『歌川広重 隷書東海道 「見附・天竜川渡舟」』『東海名所 改正道中記 天龍川仮橋 見付 はま松迄四里 歌川広重(三代目)』「明治8年(1875)制作。江戸時代的風景と明治の文明開化による風俗とが混在して描かれる。従来の風景は「浜松 名所ざざんざの松」、「舞坂 今切海上」である。「あら井 浜名の湖」も江戸時代的であるが、関所は描かれていない。対照的なのが「見附 天龍川仮橋」である。明治7年(1874)に天竜川の両端に欄干の付いた仮橋が設置され、川の中央部分は船橋で繋がれたが、その東側の仮橋が描かれているのである。人力車や傘も新しい要素といえよう。」これも広重の作。『天竜川池田渡船のはじまり』。『徳川家康と池田渡船』。『あばれ天竜』。『天竜川池田の渡船場』。『渡船の運営』。『旅人の渡船賃』。『熊野御前』。「綺麗な衣装をまとった熊野御前が、扇の上に枝を乗せて座っている。平宗盛に別れを告げようとしている場面であろう。誰の作で、いつのものかわからないそうであるが、掛け軸仕立てになっている」天竜川と池田の渡し 年表。更に続く。往時の『池田村』絵図。下が天竜川。渡しは池田村が管理し、乗船場は絵図にあるように3箇所あったようだ。渡船の様子を伝える写真が。天竜川国道(小立野~仲ノ町間)鉄橋完成の往時の写真。 その3 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.11
コメント(1)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次松並木の残る街道をしばらく歩き続け、『森下南』交差点手前の交差点から国道と分かれて旧東海道を左手に入って行った。旧東海道『森下南』交差点を直進する。天竜川に向かって旧東海道を進む。豊田町の東海道には「東海道と歴史の道」という新しい道標『豊田町駅』が出来ていた。この「東海道と歴史の道」の途中の一言坂は見付宿から池田渡船への近道で、姫街道の一部であった。元亀3年10月、一言坂では上洛を目指す信玄と迎え撃つ家康が戦った。多勢に無勢の家康は撤退を余儀なくされ、退却する本隊を助け、本田平八郎忠勝が獅子奮迅の戦いをした。「一言坂の戦い」である。武田の軍勢はこの働きを目の前にして、「家康に過ぎたるものがふたつあり唐の頭に本田平八」と詠って、揶揄半分に称えた。「唐の頭」は「唐の頭の兜」のことである。国道一号線沿いに「一言坂の戦跡」の石碑が出来ている。先には『藤と香りの道』、戻ると先程立ち寄った『宮野一色一里塚』との表示。「東海道と歴史の道ー森下起点案内この道は昔の東海道です。ここから東の方を見ると、かつて この道沿いに植えられていた松並木の名残りがおわかりになる でしょう。磐田市では、ここを起点に現在の県道413号一言坂付 近までの約3キロの道を「東海道と歴史の道」と定め、いくつか のサインを設置しました。途中には江戸時代に東海道を旅する 人たちの休憩地となった「一里塚」もあります。どうか、時間を 超えて歴史の空気の中をゆっくり歩いて下さい。 」そして右手には大きな石鳥居が姿を表した。『郷社 若宮八幡宮』。『郷社 若宮八幡宮』と刻まれた社号標。「若宮八幡宮 鎮座地:磐田市森下699 名 称:若宮八幡宮<通称:郷社(ごうしゃ)> 御祭神:大雀命(仁徳天皇)、誉田別命(応神天皇)、 息長足姫命(神宮皇后) 特 記:1873年(明治6年)に、近隣28ヶ所の神社を統合して 誕生した郷社で境内に遷宮し奉った神社が祀られていました。」文字がかすれて解読不能であったが、上記の内容が書かれていたのであろう。拝殿に向かって進む。参道左手の広場の小さな丘には『西之島学校跡』と刻まれた石碑が。「明治3年(1870年)西之島の豪農、熊谷三郎馬は静岡藩士大久保侗(おろか)を招いて私塾を開いた。初めは自分の家で、次は近くの徳蔵寺、そして西之島学校へと発展した。当時は授業料は受益者負担であった。「いい学校を作ろう」を合言葉にして「縄ない資金」を奨励し、寄付を願って森本の大工斎藤源平衛を東京、大阪へ派遣して学ばせ、洋風三階建の本館を建設した。」と。『手水舎』。『拝殿』。明治七年一区一郷に村社設置の御達しにより当時浜松県第二大区第三小区内二十九ケ村の神社を合祀して郷社若宮八幡宮と称した。50年近く経ていますが色白な岡崎式狛犬、子狛犬もしっかり彫られていた。『扁額』。『拝殿内/本殿』。横から『本殿』を。境内社は本殿前両脇に整列して並んでいた。立派な屋根付きの土俵があり、例祭での奉納相撲は有名だとか。神輿舎であろうか。『境内掲示板』。掲示板内には『令和元年 御大礼』の案内が。境内に、「藤と香りの道」として「郷社ポケットパーク」の碑があり、下記の話が書かれていた。『藤と香りの道 郷社ポケットパーク 第三場(出会いの場)』「熊野が、あいさつにあらわれたのは、そのときでした。宗盛の顔にほほえみがうかびました。熊野が天竜川の土手で、母のために蓮華の花をつんでいた夕ぐれ、そばを通った若い侍がこの宗盛だったのです。宗盛は、熊野の美しさに見とれてしまいました。そして、できることならもういちどあいたいと思っていたのでした。」『若宮八幡宮大鳥居造営記念』碑。平成二年の文字が。東海道夢舞台道標『豊田町 長森立場』「長森立場(たてば)江戸時代、宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村(間村)には、立場という旅人や人足、駕籠かき、伝馬などの休憩所が設けられていました。 明治時代以後は人力車や馬車などの発着所、またその乗客・従業員の休憩所となりました。 ここから数十メートル東へいった所に、立野村字長森の立場があったと伝えられています。 立場は、掛茶屋、立場茶屋などと呼ばれる茶屋をかね、旅人たちはお茶を飲んだり、名物の餅などを食べて休憩しました。また、馬もここで湯や麦などを補給しました。長森かうやく 「長森かうやく」は、江戸時代の前期万治年間(1658~1660)から、山田与左衛門家で作り始められた家伝薬で、冬季にできる「あかぎれ」や切り傷などに抜群の効能があるとして、近隣の村人は元より、参勤交替の大名行列の一行や東海道を上下する旅人たちの土産品として大変な人気を博しました。 山田家には今でも江戸時代に作られた桜の木の一枚板の大看板があります。この看板は、高さ一・四メートル、幅七三センチメートル、厚さ三・五センチメートルという立派なもので、これには「御免 御むそう 長もりかうやく 本家 山田与左衛門」と刻まれており、中央の上には十六弁の菊の紋章も刻まれています。 こうやくの製法は、当時の主人山田与左衛門が夢枕にたった神様のお告げによって始めたとつたえられ、当主が代々受け継いできましたが、現在は作られていません。製法は極秘中の極秘とされ、たとえ妻であっても明らかにされることは許されませんでした。 昔の歌に 「諸人のよき評判や長森の 諸病に菊の五もんかうやく」と詠まれています。 」。豊田町 防火水槽 マンホール蓋。『天竜橋跡碑』信号を渡りその先の田園に囲まれた道を右折し進み、左折すると右手には『天竜橋跡の碑』が建っていた。『天龍橋碑』。 この碑は明治になって架けられた「木橋」を説明した物で、当時の橋は橋銭(有料)を徴収していたという。 「天竜川は明治の初年まで長い間渡船によって通行をしていたが、明治六年(1873)架橋の第一段階として船橋の計画が中野町村側から出され、翌明治七年二月源平新田から中野町村に船橋が完成した。明治九年になりこれが木橋に架け換えられ、極めて便利な交通路となった。全長六四六間(1163m)巾二間(3.6m)、天竜橋も池田橋と同じように長い間「はしぜに」を徴収していた。昭和八年、国道に現在の鉄橋が完成したので、池田橋とともに名物の木橋は廃止され、取り除かれた。この橋の位置を末長くとどめるため、昭和四十八年三月、教育委員会はこの碑を建てた。(なお、天竜川船橋の記念碑は橋の西側の中野町に建てられている。)」。前方に天竜川の堤防が見えて来た。堤防に上がると、右手前方に天竜川に架かる、静岡県道261号磐田細江線『天竜川橋』が見えた。左手には、東海道本線の鉄橋・天竜川橋梁が。県営事業の一つとして1933(昭和8)年6月に架けられた全長919.5m、幅員7.3mのワーレントラス橋。道路橋としては日本で3番目に長いトラス橋であり、橋台の取り付け護岸は架設当時のままの石積が残っている。現在の天竜川橋が架けられるよりずっと昔の1874(明治7)年、船を横に並べてつなぎ、その上に板を渡して橋とした船橋が天竜川に架けられた。その後、1876(明治9)年に全長646間(約1,175m)、幅員2間(約3.6m)の木橋が賃取橋として架けられており、天竜川橋の前身となっている。ワーレントラス橋とは橋桁にトラス(三角形に組んだ構造)を利用した橋で、斜めに入れられた部材の向きが交互になっているものをいうと。天竜川橋は1967(昭和42)年まで国道1号線として東西交通を支え、その後は県道261号磐田細江線として、現在でも多くの人に利用されている。『天竜川治水紀念公園』を訪ねる。天竜川治水記念碑のあった場所には現在、この界隈にあったらしいいくつかの記念碑が集められており、その中になんとも意味深な形態の造形物が。天竜川橋『紀功碑』。明治になると、天竜川渡船の独占は無くなり、池田の対岸である中野町の浅野茂平が架橋に尽力した。明治七年に橋が完成し、その功績を称えたもの。その下の左右にも様々なプレートが。昭和40年に祈念碑が建立され、公園が整備されたようですが、平成14年国道1号線新天竜川橋の架橋に伴い、その姿を消したことが記載されていた。この石碑は?ピラミッド型の『天竜川治水を祈念して 1965 竹山祐太郎書』碑。 その2 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.10
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次次に『中泉歴史公園』を訪ねた。『中泉歴史公園』はJR磐田駅から徒歩10分程の場所にある公園で、かつては当地の武将・旗本・代官として、今川家〜徳川家に仕えた「秋鹿家」のお屋敷があった場所。現在残るこじんまりとした池泉回遊式庭園はその遺構。この屋敷は近代には「中泉遊廓」となり、この池泉回遊式庭園は料亭「開莚楼」の庭園にもなったとのこと。その後現在は「中泉歴史公園」として整備・公開されていると。『徳川家康と中泉御殿』徳川家康の鷹(たか)狩り好きは良く知られているが、JR磐田駅南側に「御殿遺跡公園」がある。天正15(1587)年ごろ、家康は中泉府八幡宮神主の秋鹿(あいか)氏から献上されたこの地に鷹狩りの際に使う中泉御殿を築いた。天正18年になると、家康は豊臣秀吉の命で関東への国替えとなるが、中泉の1千石は、その後も「在京賄料地」として安堵(あんど)され同御殿も廃止をまぬがれた。本拠の江戸と大坂を結ぶ東海道のルートを、中泉御殿を経由するように変更。鷹狩りの休憩・宿所としての使用だけではなく、秀吉死後の関ケ原の戦いでは同御殿から出陣、大坂冬の陣でも軍議が開かれるなど、軍事的に活用されたことが指摘されている。当該地は平成4、5年に発掘調査を実施し、大規模な堀と土塁が発見された。古絵図を見ても、大池を背後にした広大な敷地は、まさしく城郭構えであることが分かる。「御殿」は家康没後に廃止され、建物は近隣の寺院などに払い下げられた。その表門が同市見付の西光寺に移築され、主殿と裏門は同市中泉の西願寺などに移築されたと。遠江国は幕府幕府直轄領となった。家康の死後、中泉御殿の北東に隣接する地には、「御陣屋」と呼ばれる中泉代官所が造営されていると。『二代将軍 徳川秀忠公』と書かれた幟。大阪冬の陣を終えて帰還する元和元年二月七日、此処秋鹿屋敷に本陣を置き父家康公と対面したと。園内には秋鹿家の歴代当主が愛した庭園が整備・保存されていた。鮮やかな新緑が拡がっていた。注目すべきは公園のベンチ。なんと遊廓時代に妓楼の門柱として使用されていたものをベンチとして再利用しているのだと。旧東海道に戻り浜松宿に向かって歩く。右手の中山米店脇の筋入口に『弘法大師堂 磐田郡新四國 二十五番札所』と書かれた石柱が。先に進んで行くと小さな弘法堂が。『お弘法さま』と刻まれた石碑。奥には日魯大菩薩が安置された祠が。『ニオイバンマツリ』の花であろうか?花が紫から白へ花色が変化し、さわやかな芳香がある花。左手に、今年創立69年になる『磐田キリスト教会』。右手の『中泉交流センター』。中泉交流センター入口には『旧東海道』と刻まれた石碑も。交流センター前には『江戸時代の中泉絵図』が。こちらは『大正時代の中泉』。『中泉軌道👈リンク』という鉄道が走っていたようだ。夢舞台東海道道標『中泉』。豊田町 宿境まで六町見付宿 宿境まで二十三町旧東海道はこの先で県道261号線と合流。左手のフェンスの中に小さな祠が。この祠の前の坂が「大乗院坂」といいこと。この坂の途中に、あったお寺が「大乗院」とのこと。坂の北の台地一帯は「御林」と呼ばれ、明治22年に開業した「中泉駅(現在の磐田駅)」のホームが、このあたりに設置された工場でで作られた赤煉瓦で築造されたとのこと。小さな祠がありました。『大乗院坂界隈』。「旧東海道のこの坂を「大乗院坂」という。この坂の途中に山伏の寺「大乗院」があった。そこに祀られていた地蔵菩薩像・阿弥陀如来像とも現存する。大乗院北の台地一帯は「御林」と呼ばれ、明治22年に開通した中泉駅のホームは、この地(現 千寿酒造)に設置された工場で作られた赤煉瓦をもって築造された。磐田の「煉瓦発祥の地」である。この北側の道(細江線)は開通した中泉駅より豊田町池田までの「中泉軌道」跡である。昭和25年5月19日の「空襲」によりこの坂の南北に4発の被爆があり、8名の死者をだした。現在地の東二十米の位置に推定樹齢約二百年、樹高二十三米、目通周三.六五米の黒松の「大松」があったが、昭和二十七年に伐採された。」合流地点から旧東海道を振り返る。『くろん坊様』「黒坊大権現は、旧東海道筋で、現在地の西約百米(現磐田化学正門)の田んぼの中にあった祠を移したもので、咳や熱病の神様とされています。インド人の旅僧が手にかけられて金品を奪われてしまったので、土地の人々が手厚く葬ったものといわれており、毎年十一月三日が縁日とされています。 磐田化学工業㈱大松の会」磐田化学工業㈱が管理されている模様、現在では『くろん坊様』は差別用語では?合流後の県道261号線を進む。左手には、若い頃何度か訪れた磐田化学工業㈱が。そしてその先には高砂香料㈱も。祝川に架かる『一言橋』を渡る。武田信玄との「一言坂の合戦」のとき敗色濃厚だった徳川家康が、当地にある一生に一度、一言だけ願いを聞き届ける観音様(「一言観音」)に戦勝を願ったところ、急に戦況が有利になったとの伝承がある、らしい。「一言観音」は、この少し北側に位置します。「一言坂合戦」の史跡等は、国道一号線・「一言」付近にあるようです。そして『万能橋』交差点を直進。下を流れる『寺谷用水』。左手にあったのが『名残松』が。名残松の直ぐ先の変則十字路の右手筋に道標が建っていた。右は 「見附」、左は 「宮之一色一里塚」、道標の奥へ向かう方向には 「一言坂戦跡」 とある。一言坂戦とは、元亀3年(1572)徳川家康が武田信玄との戦いで、浜松城へ退却する途中一言坂で追いつかれたときの戦いである。道標から程なく右手に『宮之一色一里塚跡』が。ここは江戸日本橋から数えて63番目の一里塚であり、現在の一里塚は昭和46年に復元されたものであると。「江戸時代になると、東海道や中山道などの街道が整備され、これにより多くの人々が安全に旅することができるようになり、荷物も多く、早く届けられるようになりました。一里塚は、旅人に距離を知らせるために一里(約4キロ)ごとに、街道をはさんで両側に一基ずつ作られました。一里塚の上には、榎や松などが植えられ、その木蔭は多くの旅人の休憩する場所となりました。また、かごや荷物を運ぶ料金の目安としても利用されたようです。ここ宮之一色一里塚は、東海道の起点である江戸(東京都)日本橋から数えて63番目の一里塚です。現在の一里塚は昭和46年に復元されたものです。当時は、西に間の宿といわれた池田宿と天竜川の渡船場を、東に見附宿をひかえて、さぞ多くの旅人や荷物が行き交ったことでしょう。一里塚の西に点在する松並木がその名残を今に伝えます。」 説明文の右に、「旅人の様子を描いた図」、下には「東海道と歴史の道」が描かれていた。『一里塚の跡』石碑。『東海道と歴史の道』。別の角度から。昭和46年に復元された一里塚。前方左手に常夜燈が見えた。『宮之一色秋葉山常夜燈』。一里塚跡の先、左手筋の入口角に秋葉山常夜燈が建っていた。この常夜燈は、文政11年(1828)に建てられたもので、竜の彫り物があるので 「竜燈」 とも呼ばれている。風除けに燈籠の周りを板で囲み、上部は明かりが漏れるように格子になっている。「この常夜燈(灯籠)は平成八年部分改修しました。その棟札から文政十一年(一八二八年)に建てられたものとわかりました。 竜の彫り物があるので「竜燈」と呼ばれ数ある灯籠の中でも大変貴重なものです。 風よけに灯籠の周りを板で囲み上部は明かりが漏れるように格子になっています。「陸の灯台」として暗闇を照らしていたことでしょう。 毎年自治会の代表が可睡斎にお参りし「秋葉総本殿」のお札をこの灯籠に奉納しています。 地域の安全と火防の守り神として多くの人々から慕われ崇敬されています。 旧東海道、一里塚、松並木、秋葉灯籠のある宮之一色へようこそ。よい日・よい旅を・・・。」見事な龍の彫り物。更に旧東海道を進む。道路を左折して『松向寺』を訪ねた。『神宮山 松向山』の『山門』。『本堂』 静岡県磐田市宮之一色413にある曹洞宗の寺。松向寺は、元和5年(1619)の創建で、現在の本堂は元禄14年(1701)に建立された。境内には子育地蔵尊・延命地蔵尊などがある。永代供養塔?境内から山門を。『うなぎ』の文字が気になったがグッと我慢。松向寺を出て、豊田川を越えると左手に名残松が数本立っていた。こうした案内碑を随所で見かけた。しかし、「東海道松並木」も「並木」というほどにはいかず、道路沿いに足元をアスファルトで固められた「松」がポツンポツンとあるだけ。磐田市立豊田南小学校前を通過。つづく その1 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.09
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次『旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)』の前日・5月22日(水)は浜松までの車による移動日であった。途中、静岡県にある「続日本100名城」を訪ねながら進み、浜松駅南側のビジネスホテルに宿泊。そして翌朝5月23日(木)の我々の部屋からの眺望。この日も快晴。前夜入室したときに撮影したツインベッドの部屋。この日も早朝6:30前にホテルを出発。浜松駅南口。アクトシティ浜松(アクトシティはままつ)は、JR浜松駅北東の浜松市中区板屋町および同区中央三丁目にあり、市有施設と民有施設によって構成される複合施設群である。2009年(平成21年)現在、静岡県内で地上高のもっとも高いビルである「アクトタワー」を擁している。外観は、音楽の町・浜松を意識して、ハーモニカをモチーフにしている。地上高212.77m、地上45階、地下2階、塔屋1階の高層建築物で1994年(平成6年)8月開業。駅前南口広場のモニュメント、 カリヨン「鐘の調べ👈リンク」。かつては7、10、12、15時といった感じの時刻にメロディーを奏でるカリヨンであったそうであるが、現在は・・・・???。浜松駅JR線のりばから入り、東海道線上り電車でこの日のスタート地点のJR磐田駅に戻る。電車で天竜川を渡る。走ること10分で早くもJR磐田駅に到着。階段の壁にはジュビロ磐田のエンブレムが。「ツキ・ヒ・ホシ・ホイホイホイ」と鳴くことから“三つの光の鳥 =三光鳥“と名づけられたというサンコウチョウ。クラブキャラクターであるサンコウチョウのシルエットと、その鳴き声にちなんだ月、日、星を中心に配し、親しみやすさを感じさせることを主なテーマとしてデザイン。上下の青い帯は、ホームタウンの磐田市を流れる天竜川と、 大井川、安倍川、富士川など県内の大河を象徴。エンブレムとすることで、クラブの歴史や伝統をも表現しているのだと。駅前ロータリーと磐田駅舎。磐田市イメージキャラクター「しっぺい」。平成23年に、磐田市を広くPRするためのイメージキャラクターを公募し、全国から1,210点もの作品が集まったと。その中から市内に伝わる霊犬伝説「悉平太郎(しっぺいたろう)」をモチーフにした「しっぺい」が市のキャラクターに選ばれたのだと。何と言っても目を引くのが駅前の大木。樹齢700年を超えるという楠の大木が衰えることなくこの日も青空を背景に聳えていた。そして右側にはステンレス製の七重の塔が。高さ8.5m、台座の御影石には国分寺軒瓦のデザインが施されているのだと。商工会議所などの後押しもあり、磐田を象徴するものとして、天平のイメージで作られている駅舎に呼応するように造られたと。夜には、LED七色の光でライトアップが行われると。天平のイメージで作られている駅舎。天平時代の文化をこの地の「国分寺」七重の塔などの史跡にみることができるからと。この日の旧東海道のルート図。そしてこの日に最初に訪れたのは、JR磐田駅から数分の磐田市中泉にある『満徳寺』。鐘楼がある大門(二重門)が聳え立っていたが、扉はまだ閉まっていて中に入れず。時間は6:56。山 号:光恩山寺 名:満徳寺宗 派:浄土真宗(真宗大谷派)本 山:東本願寺開 基:教裕上人が永禄7年(1564年)に一向宗と徳川家康 との間で勃発した一向一揆により、三河から現在の 中泉の地に移ったと伝えられている。本 尊:阿弥陀如来そして次に訪ねたのが、『大乗院 三仭坊 (だいじょういん みひろぼう)』。千三百年続く磐田の小さな山伏寺。真言宗醍醐派の寺院で、また修験道(山伏)の祈祷道場でもある。階段を登り本堂に。階段の途中右手には『ヤマボウシ(山法師、山帽子)』が可憐に。多数が球状に集合した花、そしてその外側に大形白色の総包片が4枚あり、花弁のように見える。本 尊:『大青面金剛(庚申様)』、『三仭坊大権現』と刻まれた石柱が両側に。過去に二つの寺院が一つになった経緯で本尊はニ体、遠州の七坊でると。階段の上には明神鳥居(大正3年建立)と手水舎が。参道に鳥居がある珍しい寺。約220年前建築の『大乗院本堂(庚申堂)』。室町期の作と伝えられる本尊庚申様、脇仏として、役行者、理源大師、弘法大師などを安置。桁の木口が彫刻で隠され、朱色の模様も鮮やかであった。『大乗院本堂(庚申堂)』内部。『三仭坊本堂』。三仭坊大権現を本尊、脇仏として不動明王、聖観世音菩薩などを安置。『天女の壁画』。『大乗院本堂(庚申堂)』脇の奥の『六地蔵』そして手前の四角い池に浮かぶ小さな社殿・『弁天社』。小さな池の睡蓮の花。『六地蔵』。『三仭坊本堂』側にあった小さな祠に安置された石仏群。境内の大きな蘇鉄が2本。『本家帰りの蘇鉄』。家康も戦勝祈願に訪れ、見事勝利をおさめた折に送られた「蘇鉄」の子孫が今も境内に植えられているのだと。『三仭坊本堂』を横から。次に訪ねたのが『西願寺』。西願寺『本堂』。宗派:真宗大谷派。本尊:阿弥陀如来。『弘誓山』と書かれた扁額。『鐘楼』。西願寺の『山門』を境内側から。屋根には軒丸瓦と軒平瓦が。西願寺の『山門』を外から。白塀に囲まれて美しい姿。左手には鐘楼が。西願寺山門(旧中泉御殿裏門)は切妻、本瓦葺き、一間一戸、薬医門、安土桃山時代の城門建築の遺構として貴重な事から平成17年(2005)に磐田市指定有形文化財(建造物)に指定されています。角度を変えて。『旧中泉御殿 裏門 市指定文化財』。「西願寺の山門は、旧中泉御殿の裏門を移築したものである。旧中泉御殿は、徳川家康が浜松城市であった天正12年(西暦1584年)に現磐田駅南の地域に別荘として建築され、以後約30年間使用され、寛文年間に廃止された。この間、家康が鷹狩りを兼ねて休養に来磐している。後に主殿と裏門は西願寺に移され、主殿は本堂として使用されていたが改築され現存しない。平成17年11月21日、市指定文化財として指定されている。」と。 ・・・つづく・・・
2019.06.08
コメント(0)
今年も早くも6月に入りました。今年の5月は連日の猛暑。5月26日は全国各地で気温が上昇、北海道佐呂間町で気温が39.5度に達し、5月としては全国観測史上最高気温を記録したのでした。北海道で5月に猛暑日となるのも初めてとのことでした。最高気温が35℃以上の日を猛暑日、30℃以上の日を真夏日、25℃以上の日を夏日と言うのです。さてこの6月は東日本では、平年より高い確率が70%、雨量は平年並みとの予報ですがどうなるのでしょうか?今日からの土日は7月並みの暑さとのことですが。さて、旅友から今年も梅の実を2kgほど頂きました。早速、今年も梅酒を仕込みました。早速丁寧に水洗いし、竹串を使って梅のヘタ(ホシ)を取り除きました。つまようじは折れやすいので、竹串や鉄砲串がおすすめ。ヘタを取らずに漬けるとエグ味がでることがあるとのことで、きれいに取りました。梅酒を美味しく作るコツはヘタをしっかり取ることだと。そして水をしっかり拭き取りました。ホワイトリカーをスーパーで1.8Lを2本購入。氷砂糖も購入。そして仕込み。梅と氷砂糖を交互に容器の中へ入れました。5L瓶に2本仕込みました。3ヶ月程度であっさりとした梅酒が楽しめますが、半年から1年が飲み頃。さらにじっくりと熟成させることで、コクと深みのある美味しい梅酒になっていきます。待てば待つほど深みが増すといわれる梅酒なのです。瓶の中に残っていた梅酒と梅を取り出しました。もちろんこの梅もカジッて楽しんでいます。そして梅酒を楽しんでいます。----------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして旧東海道を歩く(掛川~見付)その12・最終回です。旧東海道である天平通り(県道56号線)をJR磐田駅に向けて進む。右手にあったのが遠江国分寺跡。遠江国分寺跡の東側面を入口とする『参慶山 国分寺』参道。『特別史跡 遠江國分寺跡』。遠江国分寺跡は奈良時代に造られた国分寺の跡で、現在は史跡公園となっていた。『遠江四十九薬師霊場御案内』磐田地区地図』。「前略 遠江四十九薬師霊場は享保年間に開創され、300年の間広く人々に信仰され、生きる力と光を与えて今日に至り、遠江最古の霊場であります。(中略)薬師如来の霊験利益は昔から普く人の知る所でります。聖武天皇勅願のここ国分寺を第一番として、東は袋井地区より北遠に及び中部は磐田地区に、西部は浜松地区、各霊場四十九カ所に奉安されてありますので、皆様の参詣巡拝を念願申し上げます。」『文化財の道しるべ 遠江国分寺跡』「奈良時代の中泉と見付には、遠江国府や遠江国分寺、国分尼寺、大宝院廃寺などが置かれました。天平13(741)年、全国に国分寺と国分尼寺を建立するよう詔が出され、遠江国分寺の建設が計画されました。隣接する府八幡宮は遠江国分寺と同じ頃、創建されたと伝えられています。 遠江国分寺・国分尼寺は、古代「大之浦」を臨む景勝地に両寺の金堂・講堂の建物中心線を同一にして、国分寺の北側釣200mに国分尼寺を配しました。遠江国分寺は、金堂を中心に七重塔・講堂・中門・回廊など(伽藍)を築地塀などによって囲み、その範囲は東西180m、南北250mに達し、また、周囲にも関連した施設がいくつか建てられていたものと考えられます。現在、七重塔の跡や金堂跡には礎石が残っています。中世になると国分寺は衰退しますが、その後国分寺の一隅に薬師堂が建てられました。遠江国分寺跡は昭和26(1951)年に発掘調査され、昭和27年に国の特別史跡に指定されました。」『手洗石』薬師堂脇にある手洗石。もとは国分寺の礎石だったという。「この手水石は今から1250年前の奈良時代に聖武天皇の勅願で建立された国分寺の礎石をくり抜いて造られたものです。金堂跡の礎石にも同じ材質のものがあります」駅前通りに面した入り口から進んで行った。観音菩薩などの石造物。『遠江四十九薬師霊場 第1番札所 国分寺』。遠江国分寺跡の一角にある弁慶山国分寺が右手に。『特別史跡 遠江國分寺跡』配置図。 【http://www001.upp.so-net.ne.jp/toutoumi/kokubunji-keidai.htm】『講堂跡』が右手奥に。中央よりやや東北側にあるのが講堂跡。「基壇 間口29.4m、奥行18.3mの基壇が築かれているが、規模は未調査のため不明である。」未調査とあるが、何か調査に制限があるのだろうか?『金堂及び石段跡』。「基壇は間口33.6m、奥行21.3m、高さ50cmの規模を測り金堂の基礎となる。金堂は礎石及び根石から間口27.6m、奥行14.4mの重層入母屋瓦葺きであったと推定される。本尊を安置した主要な仏殿。石段は正面中央に幅4.5mで7段のうち3段が残されていたが、今は埋め戻してある。」『中門跡』。「中門は金堂から54mほど南に位置している。基壇は間口16.5m、奥行10.8mの規模と推定される。基壇の上に中門が建てられていたが、門の大きさや構造は不明である」『遠江国分寺跡』。『遠江国分寺の推定復元模型』。『南大門跡』。「南大門は中門から17.4mほど南に位置している。この付近は開墾により、基壇まで破壊されているため、規模は不明。瓦が特に多く出土することから、南大門の位置と推定する。」『特別史跡 遠江国分寺跡』「調査 昭和26年に発掘調査され、金堂、講堂、塔、中門、回廊、南大門、土塁跡(後に築地塀と判明)の位置及び規模が明らかになった。しかし、まだ多くの未調査の部分が残されている。」『史跡 遠江國分寺跡』。本国分寺に関して詳細に興味のある方は『わたしたちの国分寺公園』⬅リンクを参照願います。『特別史跡 遠江國分寺跡』を後にし、天平通り(県道56号線)に出て少し戻ると右手にあったのが『府天満宮』。巨大な鳥居が迎えてくれた。『府八幡宮』。「八幡宮は、奈良時代に桜井王が遠江国司として赴任したとき、国内がよく治まるようにと、建立したと伝えられています。《静岡県指定文化財》 楼門(江戸時代) 昭和三十年指定 寛永十二年(一六三五)に建立された記録があります。入母屋造りで、建物全体に深みと 美しさのある純和様建築の随身門です。昭和五十八年に建立当時の杮葺きの屋根に 吹き替えられ、平成二十六年から平成名十七年に部材の劣化に伴い、大規模な 保存修復弘治を実施。《磐田市指定文化財》 中門(江戸時代) 平成十七年指定 寛永十二年に建立され、その後文化年間(一八〇四~一八一八)に再建された 記録があります。楼門は純和様建築ですが、中門は禅宗様式であり対照的です。 江戸時代の建物群の中では新しい技法を残す門です。《本殿及び拝殿付幣殿(江戸時代) 平成十七年指定 棟札によれば、本殿は元和三年(一六一七)、拝殿と幣殿は寛永十二年に建立されました。 本殿は三間社流造り、拝殿と幣殿は入母屋造りの建物です。拝殿と幣殿は 正徳四年(一七一四)に再建され、今日に伝えられています。木造随身像(江戸時代) 平成二十六年指定 楼門が建立された前後の江戸時代初期に製作されたと考えられています。 着色はほとんど剥落していますが、部材などの補修はなく、当初の姿をそのまま残し、 楼門に安置されている貴重な随身像です。 なお、この他に、ふだんは公開されていなせんが、磐田市指定文化財に、瑞花鳳鸞八稜鏡 (奈良時代)・僧形八幡像(平安時代)・女神像(平安時代)・秋鹿朝重奉納絵馬 (江戸時代)内田重貞奉納絵馬(江戸時代)があります。」大鳥居の扁額『府八幡宮』。右側に手水舎。『府八幡宮』見取図。『府八幡宮』案内板。「祭神 應神天皇 仲哀天皇 神功皇后境内小宮 若宮八幡 武内社 天満宮配祀 加茂神 吉野神 貴船神 日吉神 稲荷神創建文徳天皇の仁寿三年(八五三)九月二十一日鎮座沿革当宮は勧修寺 の南、八幡山眺望の山麓に存立往古の歴史を継承する村社にして、別名吉利倶八幡とも伝えられております。本宮の造営は昌泰三年(九〇〇)真言宗山階派の大本山勧修寺の鎮守として奉祀されたとも云われ、その建立には醍醐天皇 が(御母である藤原胤子寛平八年(ハ九六)六月二十一歳で死去)皇大后を追贈また追悼を祈願するため御寄進あらせられた由緒深い歴史あるお宮さんです。長禄二年(一四五八)三月足利将軍義政公より当官之修復造営科として神田等御寄進があった。以後治世は麻の如く乱れ応仁元年(一四六七)八月、世に応仁の乱 と呼ばれる大乱が洛中洛外で始まり当宮もこの兵火により末社、神宝、旧記等もことごとく焼失、幸いにして勧修寺に八幡縁記並びに相撲絵記等貴重な古文書が残っていたので事蹟の一端はそれによって辛うじて知る事ができる。中世が終わって天下統一を果した豊臣秀吉 公は、当宮を崇敬するも慶長三年八月、伏見城において薨去され、その遺命により豊公の御遺徳を偲んで五大老の一人徳善院僧正前田玄以(寺社奉行)によって金燈籠一基、木造灯籠二基及び神田十二石の寄進があった。降って江戸時代に至り元和三年(一六一七)八月常陸の国松岡の城主戸澤右京亮政盛公社殿を造営す、寛永十二年(一六三五) 勧修寺大僧正寛海長吏より禁中、仙洞、国母、将軍等の奉加帳を具して当宮の屋根等の修理を行う現木殿は元禄八年(一六九五)に新庄城主戸澤能登守政寔公によって再建されたものである。この時の大工は後に勧修寺宸殿等の造営を手掛けている事から元禄復興の一環として再建が行われたものと考えられる。その後享保十九年(一七三四)と安永八年(一七七九)に修理が行われており、その修理内容は不明であるが、向拝部分はその細部様式から見て享保の修理に際して改変されたものと推定される。現在の本殿は昭和六十二年五月一日に京都市有形文化財 に指定されその価値は高い。 」『楼門(ろうもん)』寛永12年(1635年)に建立され静岡県の文化財に指定されている。本来ならば江戸時代初期制作の木造随身像2体が楼門左右に鎮座されているのだが、解体修理中?の為かお姿はなかった。『中門』。拝殿前にある中門は楼門と同時期の建設だが、文化年間(1804年~1818年)再建の記録があるのだと。『拝殿』。寛永12年(1635年)の建立で、現建物は正徳4年(1714年)の再建。拝殿最奥にある本殿が元和3年(1617年)の建立で、府八幡宮で最古のようだ。御祭神は八幡宮ではお馴染みの三柱。・足仲彦命 (仲哀天皇)・気長足姫命 (神功皇后)・誉田別命 (応神天皇)拝殿の奥に本殿(写真右)とその裏の『末社』。『ボケ封じの宮(武内社)の御案内』。『武内社』。八幡様の忠臣、武内宿禰命を祀っている。中央の末社。左側の末社。『神宮寺跡』石碑。社務所前にある神宮寺の『築地塀』。社務所辺りに明治元年(1868年)に廃寺となった神宮寺跡。この築地塀だけが残されているのだと。『府八幡宮』を後にし、更にJR磐田駅に向かう。左手に『旧東海道』の石碑が。『商工会議所前』交差点を過ぎる。この交差点周りにも人の数は少なかった。磐田市の消火栓マンホール蓋。Jリーグジュビロ磐田のマスコット、ジュビロくんが描かれた消火栓の蓋。例によって(横浜マリノスのマスコット「マリノス君」と同様)、チーム名やキャラクター名は入っていない。ジュビロくんは静岡県の県鳥「サンコウチョウ」が元になっているとのこと。『中山雅史』選手のサインと足跡のプレート。そしてJリーグジュビロ磐田の選手であった多くの人物のものが次々に。遠江 国分寺の在りし日の姿も。前方にJR磐田駅が見えて来た。『天平の泉』のモニュメント。Jリーグ・ジュビロ磐田のマスコット『ジュビロくん』。歴史の街をイメージした磐田駅。駅前には巨木が。そしてその手前には、磐田市イメージキャラクター『しっぺい』。市内に伝わる霊犬伝説「悉平太郎(しっぺいたろう)」をモチーフにしたのだと。大木に近づいて。『大クスノキ』であると。『善導寺大クス』。「この大クスは、かってこの地にあった善導寺境内にあったもので樹齢は700年と推定されています。大きさは樹高18.3m、根周は二段に盛り上がり地面と接する部分で32.9m、胸高直径は2.87mを測ります。」再びJR磐田駅の全景を。そして磐田駅ホームへ。17:42発の熱海行きを利用して帰路につき、自宅に21:45過ぎに到着したのであった。 その11 に戻る。 ・・・完・・・
2019.06.01
コメント(0)
『旧東海道を歩く』ブログ 目次見付宿の中心となる地域を貫く道筋を(見付)宿場町通りと呼んでいる。この通りは綺麗に整備され、電信柱や電線は地下に埋設され、すっきりとした街並みとなっていたのであった。綺麗に整備された宿場町通りには、商店が並んでいた。しかしここも人通りは非常に少なく、静岡駅周辺以外の静岡の街の寂しさを感じたのであった。見付十七小路『玉良小路』「小路名称の由来は、昔この付近に玉良神社があったためといわれていますがはっきりしません。また玉良(たまら)とも(たまよし)とも読みます。どちらが正しいのかわかっていません。」その先に置かれている立派な門は、かつて宿場時代にここ見付の脇本陣を務めた『大三河屋門』。もともと三河屋は旅籠だったようですが、文化2年(1805)に脇本陣になっていると。市指定文化財『旧見付宿脇本陣大三河屋門』。「江戸時代、宿場には街道を往来する大名や公家が宿泊する施設として、本陣が決められていました。脇本陣は、本陣を補うための宿泊施設で、本陣に次ぐ規模、格式を持っていました。大三河屋は、はじめ旅籠屋でしたが、文化2年(1805)に脇本陣となりました。 この門は、2本の本柱上に冠木をわたし、その上に梁と切妻屋根を載せています。武家や商家の屋敷の門には棟門が使われますが、脇本陣の玄関を飾るためか、小さいながら薬医門の形をした門です。 屋根は桟瓦葺きの切妻造りで、大棟の両先端には小型の鯱を配置し、大棟両端から降棟が付けられ、その先端部には獅子を表した飾り瓦である留蓋が置かれています。降棟によって、重厚で落ち着きのある印象を与え、由緒ある脇本陣の格式と伝統をかもし出しています。 かつて見付から中泉の中津川家に移築され同家の門として使用されていましたが、平成17年、市に寄贈され、平成19年に移築復元しました。」次に訪ねたのが同じく右手奥にあった『日蓮宗 本山 本立山 玄妙寺』.山門。「日蓮宗の由緒寺院本山で、日什上人により、南北朝時代の元中2年(1385)に開創されました。当時の名は、日什上人の改名前の名前・玄妙に由来しています。本堂に祀られている日蓮上人像は、江戸時代の元和9年(1624)の作です。」本堂。扁額は『本立山』と。寺務所。『子育・水かけ地蔵』国の登録有形文化財の『経蔵』。そして『玄妙寺』のすぐ北に在ったのが『慈恩寺』。山門の薬医門には『遠江四十九薬師霊場』と書かれた札が。組物、冠木が装飾のきれいな虹梁であった。境内に入ると、この時期でも真っ赤に染まったモミジが。慈恩寺。棟門(むなもん)と呼ばれる正面の門を潜る。そして入母屋造りの本堂へ。本尊は聖観世音菩薩。その他に、元瑠璃光寺(明治2年の梅屋火事で焼失し、慈恩寺に合併)の本尊・薬師如来、多聞寺(明治初年の廃仏毀釈で廃寺)の毘沙門天を祀り、遠江四十九薬師第四十九番札所になっているのだ。境内には早くも藤の花が咲いていた。六地蔵尊か。何故か四十六番の文字が。動物の墓も。そして見付十七小路『玄妙小路』。「少路の東側に玄妙寺(お命講)があることから玄妙少路といいます。少路の奥手には京都妙心寺末寺の慈恩寺があり、寺の雲板は市の文化財に指定されれいます。」さらに見付十七小路『多門小路』。「小路の先に多門寺の入口跡があることから「多門小路」とよばれています。この名称は「多聞寺」及び「多聞小路」と記される場合もあります。」『西坂の梅塚』。東海道見付宿の地図とベンチや椅子も置かれていた。「見付東坂町、西坂町にそれぞれ一本の梅の木があり、通称東坂の梅の木・西坂の梅の木と呼ばれている。これを梅塚という。 この梅塚は、昔、陰暦八月始めに、一筋の白羽の矢が町家の棟高く突き刺され、この家を年番と申し、娘を怪物の犠牲に備えた家の前にそのしるしとして植えたものだといい伝えている。そして西坂梅塚はその最後のものであったという。矢奈比売(やなひめ)神社例大祭神事「御斯葉下し」(みしばおろし)には、町内一三箇所に榊立を行ない、洗米を献じ神官が祝詞を奏上するが、東坂・西坂両方の梅塚もこの一三箇所内にあり、同じように神事を行っている。」JR磐田駅まで1.7kmと。『これより 姫街道』。宿内の距離がわずか1キロしかありませんので、見付の宿場はまもなく西の端に行き着く。旧街道はこの先で鋭角的に左へと大きく折れ曲がっていた。その折れ曲がった角から細い道筋が延びていた。この道筋が「姫街道」と呼ばれる東海道の脇往還道。姫街道とは浜名湖の今切渡と新居の関所を嫌う者が、見付または浜松から浜名湖の北岸を迂回して本坂峠を越え、御油または吉田に出た東海道の脇往還(約60キロ)の一つ。なぜ新居の関所を嫌ったかというと幕府の出鉄砲、入り女の政策により女性の出入りを厳しく取り締まっていたため、旅をする女性達は東海道を避け、ここから本坂越えの脇往還を通ったのだと。そしてこの脇往還が「姫街道」と呼ばれるようになったのだと。こちらが『姫街道』入口。そして「見付西大通り」と呼ばれる旧東海道でJR磐田駅方面に南下する。暫く歩くと右手に在ったのが『遠州 見付宿 木戸跡』木戸とは、古代~中世では、柵・城郭といった防御施設の門をいう。戦国期の京都では、町を防御するため町境の道路上に設けられた。近世になると、各地の都市で両側町の道路の両端に設置された。木戸には番屋が付属し木戸番が居住した。木戸の機能は第一に治安維持であり、夜間と打ち壊しのような緊急時には閉ざされた。重要な町共同体施設のため、町入用によって維持された。そして木戸跡からほんの少し行った右手に山門を構えるのが『西光寺』。この表門手前には大きな看板が置かれていた。看板には「平成24年 NHK大河ドラマ第五十一作「平清盛」平家ゆかりの地」と「中宮 東福門院源和子(まさこ)献納 遺愛ゆかりの寺宝」と書かれていた。「中宮東福門院源和子(まさこ)」は徳川二代将軍秀忠公とお江との間に生まれた五女で時の後水尾天皇の后となった中宮で上洛の折に阿弥陀三尊と共に日限地蔵尊を当寺に奉納したのであると。西光寺の表門(薬医門)。この門は徳川家康が「別荘」として中泉村(磐田市中泉)に築かせた中泉御殿(のち中泉代官所)の門で、ここから移築したものと伝えられていると。1789年建立『鐘楼堂(山門)』山門であるが、鐘楼堂と一緒になった作りで、真下から見上げると、頭上には鐘があり、鐘の音が上から降ってくる感じがしそうなのであった。山門を潜り境内へ。『東福山西光寺由来略縁起』。「この寺は東福山西光寺といい、阿弥陀如来をご本尊とする時宗の古刹。文永2年(1265)真言宗の傾木和尚によって創建、建治・弘安年間(1280年前後)この地を訪れた時宗の開祖証誠大師一遍上人(1239~89)を迎えて改宗、時宗の修業道場となる。元和7年(1621)に焼失、慶安元年(1648)三代将軍徳川家光公(1604~51)より御朱印32石8斗余りを与えられ、寛政3年(1791) 境内地9,160坪に及ぶ記録されている。見付宿の西坂に光堂山蓮光寺があり明治44年(1911)西光寺と合併、薬師如来坐像をはじめ多くの仏像がこの寺に移された。本堂内にお祭りする日限蔵尊は、元和のはじめ(1615)に後水尾天皇(1579~1632・第108 代天皇在職1605~32)の皇后で、東福門院と呼ばれた源和子より寄付されたもので、昔から霊験あらたかな尊像として信仰者が多く、11月14 日の大祭及び毎月14日の例祭には参拝の方々で賑わう。西光寺は遠江四十九薬師第四十八番霊場で、病気平癒を願う人々で栄えている。(要旨)」本堂。『鴨川道場東福山西光寺』。時宗の古刹で、遠江四十九薬師霊場の四十八番札所として、病気平癒(びょうきへいゆ)を願う巡礼の人々から長く信仰されて来たと。遠くからも威容を誇る御神木の大クス。『西光寺の大楠(おおくす)』説明板。楼門脇には樹齢500年といわれる大クスとナギの木があり、いずれも磐田市の天然記念物に指定されています。大クスは頂部が葉のつきが悪くなっていますが、樹勢は旺盛とのこと。○良縁を結びたいときは、大楠東側にある小さな社(熊野権現)の前から、 奥のナギの木に向かって願い事を念じ、そのあと大楠に同じ願い事を念じて下さい。○悪縁を切りたいときは、ナギの木が(大楠に隠れて)見えない場所から、大楠に向かって 願い事を念じ、そのあとナギの木に同じ願い事を念じて下さい。 ○大楠に止まった黄金色の虫を見つけると願い事が叶います。西光寺は磐田のパワースポットであると。此処にもペットのお墓が。再び旧東海道に戻ると、西光寺入口には『西木戸』の表示が。 その10 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.31
コメント(0)
全406件 (406件中 201-250件目)