全47件 (47件中 1-47件目)
1

「シルクロードの重要な地点」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「蘭州」の写真を公開しています。中山橋を渡る前に「天下黄河第一橋」の石碑を見た。中山橋は天下に名だたる黄河の最も上流に、架かっている橋という意味も含め第一橋との事。蘭州は白い帽子を被った回族の人達を多く見かけた。蘭州は古くからシルクロードの重要な地点とされ、秦の昭王の時代に隴西郡の地となったが三国時代に、移転され、唐代には隴西郡の名称が消滅する事となる。漢代に金城郡が設置される事となったため金城の名が、蘭州の古名となったが、隋代に蘭州が設置されて、現在の蘭州の名称になった。清代には甘粛布政使が駐在し、中華人民共和国成立後は、元満鉄の日本人技術者とソ連の援助によって、宝鶏からの鉄道が開通する事となる。写真は、中山橋を渡りきり対岸の白塔山公園より撮影。
2009.07.31
コメント(0)

「黄河増水時にも問題ない」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「蘭州」の写真を公開しています。蘭州黄河沿いを歩いて行くと前方に橋が見えてきた。黄河の上に架かるその橋の名前は蘭州中山橋と呼ぶ。中山橋の麓には明代に建てられた浮き橋の、「黄河第一橋」の跡が残っており石碑もあった。 中山橋は1907年に完成し第一橋と命名されたが、1942年に中国革命の父孫文の中国名孫中山にちなんで、中山橋と改名し以前は車の往来もあったが、現在では文化遺産保護の為、全面通行禁止である。中山橋は蘭州市の中心部からチベット仏教寺院の、白塔山に向かう黄河にかかる重要な橋であり、黄河に架けられた最初の鉄橋として知られている。元々は明代に各地で作られた船を並べた浮橋として、市民の生活を支えていたが清の光緒年間に鉄橋が、架けられてのち黄河増水時にも問題なく現在に至る。
2009.07.30
コメント(0)

「信頼関係を築く事こそ大切」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「蘭州」の写真を公開しています。蘭州水車園を出て更に中山橋の方へ進むと、左手に西遊記の登場人物像が見えてくる。西遊記は、16世紀の明の時代の伝奇小説で、唐僧・三蔵法師が白馬に乗り、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を従え、天竺へ経を取りに行く物語である。私自身、西遊記は小学校時代より良く見た物語である。登場人物やその名前も知っていたので、中国へ来てより、中国人と西遊記の話になると話に花が咲いたものである。唐代に天竺より仏教の経典を持ち帰った三蔵法師の、旅の記録を元に、道教、仏教の天界に仙界、神や龍や、妖怪や仙人など虚実が入り乱れる伝奇小説である。物語は玄奘三蔵の生き様と孫悟空の活躍を描きながら、三蔵一行が天竺まで経典を求め旅に出て果たすまでを、描いたものであるが、玄奘三蔵や唐の太宗皇帝以外は、当然の如く物語はフィクションであり、史実とは違う。唐代では誰人も中国を出る事を禁止されていたが、三蔵は国法を破ってまで天竺へ経典を取りに行った。天竺往復の旅は西暦629年から645年の17年間掛かった。17年間の旅で天竺への行きは15年半の歳月が掛かり、帰りは1年半で帰って来れたが、理由があった。行きは各国の国王からの要請で何ヶ月も滞在しながら、仏教を教え、また次の国へと、しかし帰りはその国王が、三蔵を守るため兵士を出し国境まで送り次の国王へと、膨大な経典と共に無事に送り届けたのである。玄奘が天竺へ行く前にも多くの僧侶が天竺を目指したが、途中で災難に会ったか誰も帰り着く事が出来なかった。玄奘一人だけ無事に帰り着けた訳は、急いでいても、やはり時間を掛けて行く先々の国王の要請どおりに、家臣達に仏教を教えコミュニケーションを取って行った。大切な事は急ぐ事より、信頼関係を築く事こそ大切である。
2009.07.30
コメント(0)

「中国より遅れる事500年」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「蘭州」の写真を公開しています。蘭州水車園へ入ったが、入園料は4元(60円)で、ガイドの入園料も出そうとすると、ガイドから、ガイドは入園料要らないわよ!と言われ、自分の分のみ、購入して中に入ったが、入り口を潜るとトウモロコシが、沢山販売されていて、後から許可を取り撮影した。入り口を左に折れると大きな水車の姿が目に入って来た。水車の起源は古く紀元前より水車がつくられ、最初は、穀物を粉にする石臼を動かすために水車が考えだされた。三国時代が来る前の後漢の時代に水車を利用した。三国時代の時代には、水車の動力によるローラーで、穀物をひきつぶす石臼や、水車を利用した磨り臼が、使われ、唐から宋の時代には、水車に灌漑で水を汲む、バケツ状の水車が発達し、一般に普及し稲作に貢献した。日本に水車が伝わったのは、中国より遅れる事500年後の、610年ごろだが「日本書紀」には、聖徳太子が高句麗の僧、曇徴(どんちょう)を斑鳩宮に招いて、法隆寺に止住させた。その曇徴が、製粉を目的とした臼を作った。829年には平安時代初期の公家である桓武天皇の皇子の、良峯安世(よしみねのやすよ)が灌漑用の水車を諸国に、作らせ、水車を使って水田に水を汲み入れさせた。江戸時代中期に入ってから、水車は本格的に精米用の、動力源として利用され、現在でも利用されている。
2009.07.29
コメント(0)

「羊の皮を風船のように」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「蘭州」の写真を公開しています。8年ほど前に黄河を訪れた事があるが、その時の黄河の河の色は黄河の名前の如く、雨の後の川の土と入り混じった黄色であった。写真の黄色いゴムを膨らませた物は羊の皮で出来ており、羊の皮に空気を吹き込み、それを複数個組み合わせて、つなぎ合わせて作った筏の事で、この上に乗り遊覧する。昔、黄河に橋が無い時代に、筏を使って黄河を、渡ったが、現在は蘭州の観光用使われている。一回遊覧するのに20元(300円)で、安全のために、救命胴衣を着け筏に乗る事が義務付けられている。私は黄河ではないが、以前に羊皮遊覧をした事があり、今回は団体ツアーで予約もしていなかったので、遊覧はせず、ガイドに先を急ぐように促した。
2009.07.28
コメント(0)

「魏の曹操も欲しかった馬」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「蘭州」の写真を公開しています。1日千里を走るという名馬「赤兎馬」は中国三国志に、登場する汗血馬でもあるが、魏の曹操が軍隊を、繰り出してまで手に入れたかった名馬だという。蘭州一帯で馬のブロンズ像を沢山見かける。蘭州駅を出て、携帯に連絡のあった場所でと思ったが、先に撮影を続けていたのと、ガイドは私を探すのとで、余計に離れてしまったが、蘭州ラーメンをご馳走し、何とかその場を凌いだという感じになった。タクシーで蘭州シンボルの「黄河母親像」まで直行。2年半前に修復されたという事で、綺麗な外観だったが、思っていたより小さな、黄河母親像だった。 縦6m、横2.2m、高さ2.6mと中国のガイドブックを読んで、写真のみで判断しており、期待のみ膨らんでいた。「黄河母親」は1986年に製作され、23年が経過している。「黄河母親」の意味は、優しい母親は黄河で、男の子は、黄河の水を飲んでいる我々であるということが言われている。この「黄河母親」の彫塑は蘭州で一番有名な彫塑である。
2009.07.27
コメント(0)

「採算が取れないようだ」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「蘭州」の写真を公開しています。青海省の省都西寧から夜行列車に乗り、甘粛省の省都蘭州へ着いたのが朝7時だった。蘭州は黄河とシルクロードが交わる拠点として、発展してきた街であるが、回族も多くいる。蘭州の人口は260万人ほどで,工業都市としても有名。街は黄河を挟んで細長いし、東西に長い。南側に市街地,北側には白塔山がある。黄河をまたぐケーブルカーが白塔山と結んでおり,黄河と蘭州の街の景観を眺めることができる。列車を降りると、白い帽子を被った回族の人が多くなる。駅の売店では、度数が48度もある白酒が売られている。写真を撮影していた為に、ガイドの女性から携帯へ電話が入る。私一人のために、女性ガイドが一人付き、採算が取れないようだ。蘭州駅の外へ出ると、馬の像が目に入り写真を撮った。
2009.07.26
コメント(0)

「強制執行も出来ないまま」 「中国上海写真ライフ」では、青海省「西寧」の写真を公開しています。青海省西寧を去る日の朝、6時45分にモーニングコールを、頼んでおいたものの、6時半に目が覚めシャワーを浴びた。西寧駅へ向かう為にホテルにタクシーを頼んでおいたが、予定の時間より20分早くフロントより連絡があった。西寧駅には8時過ぎに着いたが、予定より相当早かった。駅構内の写真を撮影するために、全く知らない中国人に、荷物を見ていてくれるように頼んだが、やはり心配だった。急いで撮影を終え、私の荷物の上に自分の荷物を乗せて、心配そうに私の方を見ている中国人の方へ行った。その人に礼を言って「この像はとても凛々しいですね」と、話した後「馬の表情も実にリアル」と言うと「もう直ぐに、壊されますよ!」との回答に、また荷物を預かってもらい、取り壊すという中国語の「拆」の字のアップを撮影した。中国では家であろうと、公共物であろうと「拆」の字が、書かれると、日本のように居座りは出来ない。強制的よりも居座れば公安に逮捕されてしまう。最近になり、居座りをする家も出て来て、強制執行も、出来ないまま話し合いで解決されているようである。「拆」の読み方は「チャイ」、ピンインでは「chai1」本当の意味は、家を取り壊すという意味ではなく、解体するという意味であり、分解すると言う意味である。西寧駅の改札を通り過ぎ、列車の待つホームへ降りた。次は甘粛省の蘭州市へ向け出発する。
2009.07.26
コメント(0)

「もう少し繊細な神経で」 「中国上海写真ライフ」では、青海省「青海湖」の写真を公開しています。色あせた青海湖と彫った所へ、真紅の塗料で、塗ってあったものの、どのように見ても繊細さに、欠けた塗り方に残念と思う。確かに大らかに日々を送る人達の生活には私自身、羨やむばかりであるが、もう少し繊細な神経をもって、青海湖の文字を塗ってほしかったものだと思った。とりあえず写真を撮り、青海湖の水際を歩いたが、歩道脇のブロンズ像の鑑賞と撮影に時間を取られてしまい、あまりゆっくりと時間を掛けて歩く事が出来なかった。バイクの修理をしている人が居たので話しをした。一般の湖や河川では遊覧船があり、湖巡りがあるが、この青海湖では湖を巡る遊覧船はあるのかと聞いた。遊覧船で30分の湖巡りが出来るし、モーターボートも、申し込めば自分で操縦できるようになっているとの事。乗船券は一人70元(1050円)で30分の遊覧が出来る。モーターボートは一人53元で、20分ほど操縦できるが、20分なんて短すぎるのではと、更に聞くと皆さんは、次の予定があるので、あまりここで時間を費やすと、旅行会社より苦情が来てしまった事があり、5分を超えると、超過料金になるとニコニコしながら説明してくれた。「雪域聖湖」なぜこのような石碑があるのかと考えて見た。この青海湖は標高3500mに存在しており、冬季になれば、降雪は当たり前で、チベット族の人達も雪を聖域ととらえ、宗教的な見地から「雪域地域」と石碑に彫られたのかも? 「地下核実験施設の跡地」 「中国上海写真ライフ」では、青海省「西寧」の写真を公開しています。青海湖の北東にある中国で最初に地下核実験が行われ、また成功した場所の写真だが、途中疲れで寝てしまった為、着いた矢先は、一体何処に着いたのか分からなかった。1964年10月、東京オリンピックに沸き立っている最中、地下核実験が行われ、後に世に知れ渡る事となる。通称「青海原子城」といい、放射能の影響がない今日、青海湖の観光コースに組み込まれている場所である。写真は地下核実験施設の跡地であり、地下実験が、この場所で行われた事が伺えるような凹みが見えた。深さが何メートル下で核実験をしたのかは分からない。だが放射能が実験後でも残った事は事実だろう。初めはコンクリートで囲まれた部屋が何なのか、分からなかったが、カメラを向けてシャッターを切ると、後ろから「これはトイレだから撮らない方が」と、そこがトイレと言う事が分かったが、入る気はしなかった。1995年5月に核施設は機能を停止し、今では跡地に、記念碑が建てられているだけの殺風景な所だった。だが、ここは本来は金銀灘とよばれる美しい草原で、中国の代表的な民謡が生まれた場所で1キロ以内に、チベット族が暮らす建物が並んでいるのが印象的だった。
2009.07.25
コメント(0)

「ブロンズ像の作品群」 「中国上海写真ライフ」では、青海省「西寧」の写真を公開しています。最近の日本の状況はあまり分からないが、こちら中国での、観光地や遊歩道また公園では、ブロンズ像の作品が多く、見られるようになり、その像の作品から受ける作者の気持ちや、人々の生き方や土地の歴史や、その情景を思いながら、写真を撮る事が妙に好きになり時間を費やすようになっていた。わらを積み上げた上に座った母親が、子供の衣服の繕い物をし、その母親の斜め前で子供が右足を上げてダンスしているのか、貧しい生活の中にも、幸せな一面が出ている作品だった。武道を子供に教えようとしているのか、その斜め前で、無邪気に弓を持って、矢を放とうとしている場面。下は、母親が何かを捏ねている前で、何かボールを蹴ろうと、している場面なのか、それぞれ両親と子供の姿を描いている。孫娘が剣舞の練習をしている後ろで座って指導しているのか、何となく満足げな表情をして、その情景が上手く出ている。このブロンズ像の作品群が置かれているのは青海湖へ行く、歩道の右側に造られていたが、もしこの作品群がなかったら、何とも殺風景な感じしか受けないだろうと思った。中国人3人の観光客は、この作品群を横目に青海湖と先を急ぎ、私のみ取り残されたので、この後の時間は矢継ぎ早となった。 「泣き顔が笑顔になりポーズを」 「中国上海写真ライフ」では、青海省「西寧」の写真を公開しています。「蔵族」とは「チベット族」の事である。「チベット」の事は「西蔵」と呼ばれている。写真は青海湖蔵族民俗文物展という博物館であるが、最終時間がなくなり、中には入らなかった。 青海湖の周りにも多くのチベット族が暮らす。名前を挙げると海北蔵族自治州、海南蔵族自治州、海西モンゴル族蔵族自治州、海東地区などある。写真はチベット族の祈りを捧げるところと聞いた。湖の水位も徐々に低下しているとの事だった。水位の低下で生態学的な危機になっている。その水位の下がる原因は、温暖化なのかと思ったが、周辺の放牧や土地の開拓の行き過ぎのようである。蔵族民俗博物館の入り口にチベット族の少女が、立っていたので手招きをすると私の方へやって来た。写真を撮らせてほしいと、3元を手渡し撮影したが、5歳ほどの少女が涙を流し自分も撮ってほしいと、言う事を聞かないので、致し方なく二人撮った。お金を同じように手渡すと今までの泣き顔から、笑顔になりポーズを取るので可笑しくもあった。だが、このような幼い頃からお金を稼いでいるのかと、思うとこちらまでが切ない思いでシャッターを切ったが、1人より2人の方が、写真になっているのでは思った。下はチベット族の人が経営する土産物屋。
2009.07.24
コメント(0)

「中国の中でも貧しい省」 「中国上海写真ライフ」では、青海省「青海湖」の写真を公開しています。中国青海省にある湖は、中国最大の塩水湖であり、海抜3205メートルの高地に湖がある事自体に、ここまで来た価値があるような気がした。青海湖は青蔵高原北東部に位置し周囲360キロで、琵琶湖の周囲が241キロで、その大きさが分かる。中国では、観光地の等級にAAAAなどとAを使う。一般の知られた公園などではAAとAが二つほどである。国家級の観光地ではAAAAとAが4つある場所が多い。世界遺産になると、AAAAAとAが5つある。青海省は中国の中でも貧しい省のひとつである。青海湖への道には漂白された晒し木綿に、赤・青・黄など華やかな色遣いで染色された旗が、規則的に掲げられていてとても綺麗に感じた。 「間もなく青海湖付近」 「中国上海写真ライフ」では、青海省「青海湖」の写真を公開しています。中国語ピンイン読みで書くと「pi2xiu1」、だが中国語で書くと文字化けして楽天ブログでは、書くことが出来なかったが、今までにも多くの、更新できない文字がありシステム上仕方ない。初めの写真は中国での龍の9番目の息子である神話から、日本語で言う麒麟の絵であるが、かなり抽象的に、描かれた麒麟の絵であると思いながらシャッターを切った。麒麟の画像をラベルに載せているキリンビールがある。麒麟麦酒(キリンビール)のラベルを見ればよく分かるが、日本風にアレンジされた絵である事が伺える。古来より麒麟は神聖な生き物であるとされ、鳳凰、亀、龍と共に「四霊」と総称されている。中国では麒麟は貴金属店や宝石店などに飾られている。写真は、北京オリンピックのマスコットが撤去されずに、置かれており、記念としてこのままなのかとも思った。
2009.07.23
コメント(0)

新疆ウイグル自治区ウルムチ「青海」 「中国上海写真ライフ」では、新疆「ウルムチ」の写真を公開しています。
2009.07.22
コメント(0)

「今日では絶滅の危機に」 「中国上海写真ライフ」では、青海省「青海高原」の写真を公開しています。青海高原をひた走り、途中着いた土産物店で車を降りた。平地では30度近くある温度にもかかわらず、3500mの高地では、10度という気温の低さに、強い風も相まって体感温度は7度ほどと身体が震えた。ヤクは四川省の高原で見かけたが、体重は400キロ以上で、体長は3mほどあり、角の長さは80Cmほどある。野生のヤクは重さ1トンにまでのものまで有るとの事。今日では絶滅の危機に瀕しており、チベット高原でも、数百頭で中国国家一級重点保護動物に指定されている。 ヤクの家畜化は古く、3000年前にチベット人によって、家畜化に朝鮮し成し遂げたと伝えられている。天空のヤクは、夏は植物の植生限界領域に住み、冬を迎える前に3000m位に下りて生育している。昼食を取った後、裏側の庭へ行ったところ、妙なものが置かれていたので関心を持ち眺めていた。間もなく「やかん」の口から沸騰したお湯が沸々と、太陽光ソーラーの上に落ちた時は驚いた。
2009.07.22
コメント(0)

「侵略・占領死亡推定数」 「中国上海写真ライフ」では、青海省「西寧」の写真を公開しています。ダライラマ14世は、1935年チベット北部の小農家の、9人目の子供として生まれ、家は貴族階級でもなく、生家はチベットなら、どこにでもあるような、なんの変哲もないありふれた民家だったという。1962年にはチベット内の2,500の僧院から15万人以上の、僧侶の内、14万人が追い出され、残された僧院は、70箇所のみになってしまったという。1950~1976年の間の侵略および占領の直接的な推定、死者数が報告されたが、その死者数に驚く。刑務所や強制収容所での死亡推定数は17万3千人。処刑人数は15万7千人、 餓死推定人数は35万人。戦闘や暴動中に死亡した推定人数は43万3千人。拷問により死亡した推定人数が9万3千人で、自殺が9千人。合計104万人を超えた推定死亡人数であり驚く。1991年、ロブサン・テンジンは亡命したが、チベット代表者議会の議員に指名された後、満場一致で、議長に選ばれ、1996~2001年にはカム地区から、亡命したチベット人を代表する議会の議長であった。2000年には、ダライ・ラマ14世は亡命中のチベット人が、自ら政府の指導者を選ぶべきであると決断する。2001年以降、ロブサン・テンジンは、チベットの自治権に、対する支持を獲得し、中国政府と自治権の交渉を行うという、ダライ・ラマ14世の提案に対する認識を広めるために、精力的に飛び回っているが中国中央政府の圧力も更に増している。
2009.07.22
コメント(0)

「過去・現在・未来・三世」 「中国上海写真ライフ」では、青海省「西寧」の写真を公開しています。「転生」とは、すべての生命が死んだ後、別の生き物に、生まれ変わるという事だそうだが、何となく理解できる。だが、彼らの精神は常にあり、彼らの霊魂は永遠に不滅で、彼らは一代また一代と伝えられていき、一人の活仏が死んで、人間の世界を離れれば、もう一人の「化身」がまた人間の、世界に降りて来て、その事柄を継承するとある。その事を「転生」と呼ぶようであるが、チベット仏教では、「新しい化身の誕生」という意味と理解され、一代、また一代へと継承され、永遠に中断することはないとの事。どうも私には理解し難い内容であるが、生命は永遠であり、身体は朽ち果てる時が訪れようとも生命は、また別の、身体に育んで行くと信じ理解している。記憶と言うものは人が死んでも覚えているとの考えには、賛同できるし、また同じ生命であっても生まれる時に、産道を通る苦しみに、それまでの記憶を忘れ去るとの、考え方も理解できるそうな気がするが、別の化身が、降りて来るという思想には、ついていけれない。写真の場所は青海省西寧のザンプリンカチベット仏像を、展示している記念館であるが、チベット寺院ではない。過去・現在・未来の釈迦仏像が展示されていたが、撮影禁止で厳重に見張られ、3階に安置してある仏像は、撮影出来なかったが致し方ない。
2009.07.21
コメント(0)

「円満で幸福な理想郷」 「中国上海写真ライフ」では、青海省「西寧」の写真を公開しています。活仏の転生制度の活仏の意味が分かる人はいるだろうか?活仏の意味は「転生者」であり、また「化身」と言うこと。さらに活仏といラ称呼の起源は、明朝の皇帝が当時の、チベット地方で政権を握った法王を封じこめたことに始まり、チベット仏教(ラマ教)の教義上において、この世の衆生を、教え導くために、化身として姿を現したとされるラマを指す。チベット語の語義で仏祖の人間世界における化身ということは、なんとなく分かったような?仏法を継承し、人間世界の不平と、苦難を取り除き、衆生が輪廻の苦しみから離脱する事を援助し、円満で幸福な理想郷に達するという事だそうである。「転生」とは、すべての生命は、死んだ後、別の生き物に、生まれ変わるという事だそうだが、何となく理解できる。たとえ僧侶であろうとも、一個の具体的な人間として、当然、普通の人間と同じように死ぬということであろう。
2009.07.20
コメント(0)

「西寧は標高2295mの高地にある」 「中国上海写真ライフ」では、青海省「西寧」の写真を公開しています。西寧市は中国西南部、青蔵高原にある青海省の省都で、青海省の政治・経済・文化・情報の中心地となっている。しかし、日本人の何%の人が青海省が何処にあるのか、知っているだろうか?逆に知らない人の方が多いと思う。なぜならば、このように書く私自身、中国へ来た15年前当時は、知らなかったし、青海省が何処か分からないので、その首都である西寧が何処にあるのか分かる筈もなかった。しかし、地図を見たり旅行したりする中で中国の、地図が書けれ、省の境界線も書く事が出来るようになった。そして、その私が書いた各省境界線の中に省の名前を、中国人に書いてみなさいと言っても書ける人は少ない。西寧は標高2295mの高地のため、年間の平均気温は5.6度と、最も気温が高い7月の平均気温でも18度と、気温の低いところであり、人口は約206万人弱である。青海省全人口518万人であるのに対して、西寧の人口が、人口206万人弱と省全体の40%に当り、青海省全体の、人口密度が少ない事がわかる。その中に漢族、回族や、チベット族、モンゴル族などの民族が住んでいる。西寧の人口の8割を漢民族が占めるが、イスラム教徒の、回族が数多く暮らしている。街中を歩くと白い帽子を被った、回族の人々をよく見かけるし、レストランも清真と書いた、イスラム料理の店が多くあるが、チベット族も多く生活する。中国の広東省の広州や福建省福州またその他省都の中では、規模の小さい街で中国の他の省都より30年以上遅れているし、人の動きや街も全体的にのんびりしていると言う感じがする。街をのんびり歩いていると、いろんな民族に出会えるし、慣れれば、それほど不安感は感じず楽しい街だと思った。通りで物を買い、店番をしている娘に1元硬貨3枚を手渡すと、このお金は使えないよと一言言って奥の母親に持って行く。このお金は使えるから問題ないと苦笑いしながら出て来た。母親曰く、1元硬貨はこの辺では流通していなく、あまり見ないし、また貴方が土地の人ではないようなので、貴方が差し出した硬貨が使えないと思ったと語った。中国内陸部で流通しているのは、一円札で一円硬貨は、殆ど見ないと言っても言い過ぎではなかった。
2009.07.19
コメント(0)

「後ろに付かれると不安」 「中国上海写真ライフ」では、青海省「西寧」の写真を公開しています。西寧には回族が多く居住し、殆どイスラム教徒である。ホテルから東関のモスクへ歩いて行く街の至る所で、回族特有の白い帽子を被った人達を見掛けた。東関大街にある大きなモスク(清真寺)に着き撮影をした。モスクの出口付近や周りに沢山の教徒達がおり、私の撮影している後ろからモニターを除き見していた。異教徒に限らず、後ろに付かれるほど不安な事はない。モスクに入ろうとしたその時に、ちょっと待ってと、中国語で手を振ってきたので、やはり中には入れないのかと、一瞬思ったが、チケットを買わないと中へ入れないと、言いながら、チケット売り場を指差すのでホッとした。モスクの入り口付近に座っている回族の人は礼拝用絨毯を、持っている人もいたが、そんなものが必要なのかと思った。モスクの中へ入ったが、中には4名ほどの回族しかいなく、私が勝手に中に入って歩き出すので、横に管理者が付いた。管理者に何故人が居ないのだと聞くと、礼拝が終わったので、皆、外に出て次の礼拝の時間まで仕事をしていると語る。私は写真を撮って良いかと聞いてみると更に幹部に、聞きに行ったようで、4人の回族と私だけになり静かになった。私はレンズを向け本堂のような場所を勝手に撮影した。
2009.07.18
コメント(0)

「人口は860万人ほど」 「中国上海写真ライフ」では、青海省「西寧」の写真を公開しています。回族を中国語ピンイン読みでは、hui2zu2と書く。 人口は860万人ほどで、唐の時代西暦680年ごろに、移住したアラビア人、ペルシア人が源流である。 居住地域は寧夏回族自治区をはじめほぼ、中国全土に住んでいるが、青海でも多く見かけた。言語は、若い人を初めとし中国語を使っている。アラビア語とペルシャ語に精通している人もいる。唐の時代の7世紀ごろから、アラブとペルシアの商人が、中国南東部沿海の広州、泉州などに居住しはじめたが、13世紀初、戦争のため中国西北部に移住させられた。その結果、ペルシア人やアラブ人が、ウイグル族や、モンゴル族の人々と溶け合い、回族となったとの事である。回族の人々はイスラム教を信奉し、モスクを囲んで、居住しており、一日5回の礼拝を怠らず実行している。写真はモスクの中に入った所に置かれている置物。
2009.07.17
コメント(0)

「青海西寧モスクへ向かう」 「中国上海写真ライフ」では、青海省「西寧」の写真を公開しています。今回青海西寧から甘粛敦煌へ行き、新疆ウイグル自治区の、ウルムチへ旅行したが、ウイグル暴動前だったので、どの街でも平和な様子の写真が撮れている。西寧にはイスラム教徒である回族が多く居住しており、町のいたる所で回族特有の白い帽子を被った人達を見掛ける。私は東関大街にある大きなモスクに行ってみる事にした。モスクへはクアラルンプールへ行った時に、イスラム教の信者のみしかモスクの中へは入れない。衣装を変えてでも中に入りたいと何度もお願いした事を、昨日の事のように思い出すと何となく足取りが重くなった。それは、変装したから入れるものではないですよ!と、結局は、モスクの神聖な所から中へは入る事が出来なかった。しかし、ここは青海西寧でありモスクとはいえ、違うのではないか、簡単に入れるのではないかと思い歩いた。街を歩いて行くと白い帽子を被った回族の人達とすれ違い、何とか写真をと思ったが、面と向かっては、カメラを向ける勇気がなく、後ろからシャッターを切った。東開清真寺(モスク)へ行く途中で、回族の結婚式に出くわし、外で回族の皆に挨拶している時に、撮影の許可をお願いした。だが、かたくなに拒否をされたが、日本から旅行で来たので、記念に何とか撮影させてほしいとお願いした写真である。モスクへはチケット購入して中に入る事ができる。回族の人が見守る中、恐る恐る入って行った。回族の人も中国語を話すのでコミュニケーションは問題なし。
2009.07.15
コメント(0)

「旧日本軍により撤去される」 「中国上海写真ライフ」では、上海影視楽園の写真を公開しています。中国に天主堂が建てられ出したのは、17世紀または、18世紀初頭以来の歴史があり、清末の時代に建てられ、現在に至るものが古い教会で北京にある。中国で最も古い天主堂は1999年にポルトガルから、中国へ返還されたマカオにあるの17世紀の大聖堂だろう。2005年に世界遺産に登録されたが、私は1995年に行った。上海にも天主堂はあるが、写真の天主堂とは概観が違う。現在の上海にある天主堂は中国で初めて西洋建築の手法を、取り入れた教会としても有名で、1910年に建設された。上海徐家匯にかつて多くの文化人が住んでいたのも頷ける。写真の女神像は、第一次世界大戦戦勝記念女神像と呼ぶ。第一次大戦で戦死した欧米居留民を記念して1924年に、建設した平和の女神像であるが「新・上海灘」の撮影にも、平和の女神像がバックに使われている。だが、1924年に建てられた場所に、この女神像はない。現在では、上海影視楽園の天主堂から100mの位置に建つ。女神像の跡に、上海第一代目市長、陳毅像が立っている。1948年は国民党との戦いで上海解放!南京が解放され、中華民国から中華人民共和国にり、陳毅は蒋介石を見送った。1924年当時、華僑の人達の寄付により女神像が建てられた。だが、第二次大戦中、旧日本軍により撤去されてしまった。
2009.07.15
コメント(0)

「信仰の自由は制限がある」 「中国上海写真ライフ」では、上海影視楽園の写真を公開しています。中国では宗教の自由は1954年の憲法で、宗教信仰の自由を持つと規定されている。だが、日本で言う所の信仰の自由は制限がある。私が中国に来た1994年当時私の通訳者はキリスト教の、信者であり、日曜日ともなれば近くの教会へ出向き、私の中国の宗教観が大きく変わり共産党員に、中国の信教の自由について聞いた事がある。その時の通訳はキリスト教信者の通訳者だったので、少し緊張したし、年配の彼も緊張していた。返ってきた返事は、国家安定のため、中国の国情に、調和しないものは、規制をかけられると言われた。キリスト教の中国での歴史は、1549年に2年半の期間、フランシスコ・ザビエルは自ら中国宣教を試みたが、果たせず病没し、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが、ザビエルの遺志を継いで中国宣教の実現を図った。ミケーレ・ルッジェーリは1579年にマカオに到着して、中国語を学び3年後にはマテオ・リッチがこれに加わった。実に430年~450年の歴史で1億人ほどの信者数になった。だが法輪功はわずか10年ほどの期間で1億人に達したので、中国中央が弾圧逮捕に乗り出したのかもしれない。
2009.07.14
コメント(0)

「蘇州川の上に架かる外白渡橋」 「中国上海写真ライフ」では、上海影視楽園の写真を公開しています。上海の紹介写真のトップに挙げられる場所は、外灘から浦東を望んだ写真ではないだろうか。写真は上海世博会を前に点検修理する前の、外白渡橋を撮影した写真である。外白渡橋は、1907年に建設され蘇州河と黄浦江の、合流地点に掛けられた鉄鋼橋で、長さは104mある。102年の歴史を持つ橋であり、様々な歴史を刻んできた。中国のテレビドラマ「清深深雨濛濛」で「趙薇」が橋から、飛び降りたモデルになったのが、この「外白渡橋」である。その撮影は、外白渡橋をモデルに造られた写真の橋で、行われたが、ドラマで見た橋より低く感じられた。 実際の外白渡橋を渡り終えると、その向こう側には、旧日本租界の「虹口」があるが、第二次大戦以前には、多くの日本人が住んでいた。今もその面影はある。日清戦争の時代から第二次大戦前までの上海は欧米や、日本の租界となり「魔都」といわれるほど魅力があった。そんな「魔都」の時代は、中国の屈辱の歴史の上に成り立ち、我々はもとより、日本政府首脳も忘れてはならない事である。
2009.07.13
コメント(0)

「一番長く時間を費やした場所」 「中国上海写真ライフ」では、上海影視楽園の写真を公開しています。1999年に一般に公開された上海影視楽園は上海松江区に、位置し映画やドラマの実物大風景セットを備えた大型の、屋外スタジオで1930年代のオールド上海の街並みを中心に、いろいろな場面用の建物が用意されている。上海影視楽園では実際に映画やドラマの撮影に使われ、映画作成側は使用量と屋内外セットを負担し撮影後、セットは全て元通りにして返却し次の映画製作者が、困らないようにとの最低限のルールを守る。写真の場所は上海影視楽園に3回訪れた中でも、一番長く時間を費やし撮影しまた回想に耽った場所である。1930年代の南京路から路地に入った所で趙薇や古巨基の、テレビドラマの「情深深雨蒙蒙」の趙薇の家の前である。北京映画撮影所製作が撮影し中央テレビから全国に放送。この場所で趙薇や古巨基が出会い抱き合ったその時に、雨が降り出す48回全てのオープニング場面が印象に残り、その場所を探すのが、第一回目に訪れた目的だった。見つけた後は、カメラがどの位置に置かれたか研究した。1930年代の上海の建築で今では解体され少なくなった、上海新天地で石庫門を利用し博物館になっており、中に入れば1930年代の世界にタイムスリップできる。しかし、上海では石庫門も解体され少なくなってしまった。
2009.07.12
コメント(0)

「中国の凧の起源は」 「中国上海写真ライフ」では、上海世紀公園の写真を公開しています。 凧揚げと言えば正月に揚げた思い出がある。日本の凧は長方形の凧の下側に新聞紙を切って、作った尻尾を糊でつなぎ合わせ凧揚げをしたものである。中国の凧の起源は紀元前400年の頃だと聞いた。凧は古代中国で発明され世界各地に伝わったとも・・。 日本と同じように中国でも凧は、竹ヒゴと紙で作られている。中国では公園などで季節に関係なく凧揚げをしている。それも年配者が一心不乱に凧揚げをしているが、カイトと呼ばれるようなビニール製の丈夫な凧が主流。また公園では犬の散歩が多くなったと感じる。その昔は、中国では犬の肉が重宝がられた時代もあった。最近では犬の肉を食べる事への反対運動が起こっている。上海世紀公園の中を歩いて来たが出口が近づいてきた。地下鉄は公園の両端に駅を造り何れの駅からも入れる。写真は「上海科技館」の駅で土地が広いのか、かなりゆったりとしたスペース空間が心を和ませてくれる。 「人力車が街の雰囲気つくる」 「中国上海写真ライフ」では、上海影視楽園の写真を公開しています。断定は出来ないが浙江中路と南京東路の交差点の信号機。南京路を横切る浙江中路で幾度かタクシーに乗った。奥のビルは永安百貨だろうか、現在も同じ位置に建つ。私も数え切れないほど、この百貨店に買い物に行った。人力車は1870年代半ばより中国を中心にブームに。日本で人力車からイメージする映画といえば、「無法松の一生」ではないだろうか。しかし、この人力車は京都など祇園をも連想させる。1930年代の南京路の風情を現す人力車。1930年代の上海を舞台にした連続テレビドラマの、「情深深雨蒙蒙」でも人力車の思い出が残る。 「不要な小道具の処理」 「中国上海写真ライフ」では、上海影視楽園の写真を公開しています。浙江省横店影視城では大掛かりなセットが造られ、香港映画史上に残る映画を作製してきた。映画「西遊記」なども横店影視城で撮影されたが、映画に使われた小道具の処理に困っているようである。製作者側は不要な小道具の処理をどうするべきか、真剣に会議を開き、その処理方法を決定しても、その決定事項を受け継ぐ下請け業者の意識が薄い。そのため、上海影視楽園でも多くのセットに使われた、小道具が乱雑に捨てられて、時と共に忘れ去られてしまう。今では、誰もが関心を持たないようにまでになっている。写真は1930年代の裁判所のセットである。上海影視楽園でも他の映画村でも消火栓が設置され、撮影中の故意の火災や残り火による出火に対処している。中国は木造住宅は稀で、殆どレンガ造りの住宅で、日本に比べ火災出火率は低いが消火栓の設置義務は、かなり厳しくルール決めされている。写真は仙華堂と薬局のような名前であるが醤油卸しの店。中国の醤油も品数が沢山あり、日本のような味の醤油を、探すのに苦労している。上海でも同じであるが醤油に、黒酢が入っているもの、餃子の醤油のようなものが、多く出回っており、買って来ては公開している。
2009.07.11
コメント(0)

「大道芸人のショーは」 「中国上海写真ライフ」では、上海世紀公園の写真を公開しています。 上海浦東にある上海世紀公園では普段の入園料は、10元(150円)であるが、大道芸人などのイベントが、入ると、そのギャラ支払いの為80元(1200円)となる。この日も80元の入場料価格が掲げられており、私でさえ、どうしてそんなに高いのですかと、聞いたほどで、散歩に来ただけの中国人にとっては、本当に高すぎるのではないかと思った。大道芸人のショーは世紀公園の入り口より2/3ほど、入った所のショーホールや芝生を敷き詰めた広場で、行われていたが、私の関心は大道芸人の子供だった。ヨーロッパやアメリカより出稼ぎに来ているのか、中国に長期滞在して子供は中国の学校へ登校しているのか。いろいろな思いが交錯しその子供を追った写真であるが、寂しげな表情の写真が多かったのも私の心に残った。更に歩いて行くと軽快な吹奏楽の音楽がそよ風に乗り、聞こえてくると何となく足早になるもので可笑しかった。吹奏楽のなる方へ行ってみると、足に長い竹馬を付けて、一生懸命にトロンボーンやサックスホーンを吹いていた。そして、また頭を過ぎった事柄は、この人達はその昔は、母国で売れていたが、人から忘れ去られるうちに、遠く中国にまで来て、演奏しているのかもと・・・。だが、彼らの楽しそうに演奏する表情やダンスに、そのような事も忘れ、動きの早い彼らを追うのがやっとだった。脚の下に1.5mほどの長さの竹棒を足しているので、演奏している最中はバランスをとるために前後に動き、更には皆とのバランスをも保ちながら息のあった演奏と、ダンスで入園者たちの拍手を浴びていた。
2009.07.10
コメント(0)

「花から花へと舞う蝶々」 「中国上海写真ライフ」では、上海世紀公園の写真を公開しています。 「上海世紀公園6」では、上海の様変わりの早さに驚くと、書いたものの、この様変わりは中国沿岸地域の都市で見える。上海では2010年5月1日から始まる世界博覧会へ向け、驚くほどの速さで工事を進めてきている。地元上海に住むものが、驚くほどであるから、偶に来られたお客様が驚くのも無理はないと思った。写真は花から花へと舞う蝶々の姿を撮影したが、10枚の更新写真の撮影に40分ほど掛けて撮影した。
2009.07.09
コメント(0)

「花から花へと舞う蝶々」 「中国上海写真ライフ」では、上海世紀公園の写真を公開しています。 「上海世紀公園6」では、上海の様変わりの早さに驚くと、書いたものの、この様変わりは中国沿岸地域の都市で見える。上海では2010年5月1日から始まる世界博覧会へ向け、驚くほどの速さで工事を進めてきている。地元上海に住むものが、驚くほどであるから、偶に来られたお客様が驚くのも無理はないと思った。写真は花から花へと舞う蝶々の姿を撮影したが、10枚の更新写真の撮影に40分ほど掛けて撮影した。
2009.07.08
コメント(0)

「もう少し、のんびりしたい」 「中国上海写真ライフ」では、海南島の写真を公開しています。亜龍湾ビーチでの撮影をしたのち集合場所のホテルへ、急ぎ行ってみたものの、30分ほど早く来てしまい、ホテルのプール脇のビーチバーで休憩した。酒が飲めなくなってよりバーやクラブには、お客様の接待でしか寄り付かなくなったが、その事も、手伝って昼間に見るカクテルバーっぽい、シーサイドバーがまぶしかった。上海は真冬のマイナス温度状態の中であるが、海南島は28度のさわやかな風を運ぶ夏模様の中を、二人乗り自転車でヤシの木々の間を走るのもいい気分。もう海南島へは5回来ていると語ってくれた人も居たが、私にもう少しの時間とお金があればと思ったりもしたが、何もかも忘れて、もう少し、のんびりしたいと思った。
2009.07.08
コメント(0)

「平和的なデモに多くの死者」 「中国上海写真ライフ」では、新疆ウルムチの写真を公開しています。 下記の記事は2009年7月7日01:30のニュースから抜粋。私はまだ5月末に新疆ウルグイ自治区にいた。その時には平穏なウルムチの風景が撮れている。中国・新疆ウイグル自治区ウルムチで多数の市民と、武装警察が衝突した騒乱で、新華社通信は6日、150人が死亡、1000人が負傷し1800人を拘束と伝えたが、実際には400人以上が死亡し中国側で人数規制しているよう?死傷者数はさらに増える見通しであり、更に、1949年の建国以来、当局が認めた少数民族の、騒乱では最大級の規模とみられる。昨年3月のチベット暴動では死者約20人を出した。 新華社によると、ウルムチで5日夜にあった騒乱では、バスやタクシーなど約260台の車両が焼かれ、約200軒の商店が破壊された。地元警察当局は騒乱に関与した疑いで数百人を逮捕。この中に少なくとも12人の扇動者がおり、さらに約90人の行方を追っているという。 今回の騒乱は海外の者が指揮し国内の者が行動を起こした、典型的で計画的、組織的な暴力・破壊・略奪事件と断定した。 広東省の工場でウイグル族の出稼ぎ労働者が襲われた事件や、民族的な差別に抗議するため、約1万人が5日夜、ウルムチの4カ所で平和的なデモをしたが、参加者が武力鎮圧を受けた。 私は青海から藍州(敦煌)へ、そして今回デモ鎮圧で多数の、死傷者が出た新疆ウルムチやカシュガル方面へ旅をした。ウルグイ人の若者とも一緒に食事をした後、彼らの神聖な、モスクへも案内され、写真も撮らせて頂いた。新疆では石油が取れる事でも有名で写真は石油採取機であり、このような風景は8キロに渡り、まだまだ石油が取れる。少数民族の人達が中国の国旗を手に掲げているにもかかわらず、そのデモを武力で鎮圧し多くの死傷者を出した事に対して、真相を必ず明かして報道して頂きたいと願うものである。
2009.07.07
コメント(0)

「春の到来を祝う花」 「中国上海写真ライフ」では、海南島の写真を公開しています。写真の花はブーゲンビリアであり、南国地方では、何処にでも咲き乱れているポピュラーな花である。ピンクの花は「フイリソシンカ」中国雲南省では春の到来を、この花を食べて祝うと友人の「さなちゃん」より情報頂く。調理の方法は生で食べたり、茹でたり炒めたりと色々。 上の赤い花は「ピーコックフラワー」ということだった。写真は風に揺れるハイビスカスの花だが至る所に咲いていた。
2009.07.06
コメント(0)

「だが目的は花の撮影」 「中国上海写真ライフ」では、上海世紀公園の写真を公開しています。 上海世紀公園へは地下鉄1号線の辛庄駅から、人民広場まで行き地下鉄2号線に乗り換えたのち、上海科技館か世紀公園駅を出るが2駅の距離は1.6km。世紀公園は1997年に開園し上海でも規模は大きい。公園の中には遊園地もあり、意外な感じがした。園内には2人乗りの自転車が置かれており、一人乗り自転車を探したが元々置いてはなかった。公園内を一周回るならやはり自転車を借りたほうが良い。私も自転車を借りたものの、目的である花の撮影に、時間を取られてしまい歩いた方が良かったと思った。
2009.07.06
コメント(0)

「中国駅前広場事情1」 「中国上海写真ライフ」では、上海世紀公園の写真を公開しています。 上海浦東にある世紀公園に行くために、地下鉄1号線の辛庄駅までバスで行った。いつもは通り過ぎる光景を撮影しアップした。辛庄駅前で果物やネックレス等売っていたので、撮影したが撮影された方はあまり良い気はしない。この撮影はそれぞれ1元(15円)を手渡し撮影している。それでも顔は写してもらっては困ると向こうを向いている。中国の何処の都市の駅でも同じ風景が見られる。市場で仕入れた商品を売った差額で生計を立てるが、果物の値引き率は少ないが、その他は値引き率が高い。
2009.07.05
コメント(0)

「真っ赤なビーチパラソル」 「中国上海写真ライフ」では、海南島の写真を公開しています。亜龍湾ビーチのさらさらな白い砂浜の上をゆったり歩いた。前方にコカコーラの真っ赤なビーチパラソルが見えてきた。真っ赤なビーチパラソルと海の青さと空に浮かんだ雲と、真っ白な砂との色のコントラストにも癒される。亜龍湾ビーチの横にはホテルが立ち並び海外からの、観光客も肌を露に日光浴をしており、その写真も撮影したが、女性のためにここでは写真をアップしていない。このリクライニング・シートに暫しの時間腰を下ろした。ゆったりと座っていると時折そよ風が頬を撫ぜながら通り過ぎた。
2009.07.05
コメント(0)

「太陽の光が燦燦と」 「中国上海写真ライフ」では、海南島の写真を公開しています。貝殻館の中はクーラーが効いていて寒いほどだったが、外へ出て太陽の暖かさにホッとする。私は温度差アレルギーで直ぐに鼻炎になってしまう。冬場は比較的アレルギーもおさまっているが、夏場の外からエアコンの効いた室内が駄目である。亜龍湾ビーチでは、一人で行動できたので気を遣う事がなく、自由に撮影が出来た。貝殻館を出て左へ降りるとそこは、亜龍湾海岸で、太陽の光が燦燦と注ぎ。心癒された。亜龍湾海岸はプライベートビーチで、地元の人も、簡単には入れなくなっており、治安面でも問題ない。
2009.07.05
コメント(0)

「夜の金馬碧鶏坊」 「中国上海写真ライフ」では、雲南昆明の写真を公開しています。夕方の昆明金馬碧鶏坊を見た後、金碧広場斜め前の、大型スーパー店でショッピングをして時間を潰した。ショッピング後、夜が来るまで橋香園で時を過ごした。橋香園は過橋米線の美味しさであまりにも有名である。橋香園は一般の大食堂と貴賓席とに分かれていた。一般に25元までは相席にて食事を取るが26元以上は、貴賓席にて一人ででも過橋米線を食べる事が出来た。過橋米線は写真撮影禁止になっており、この旅行では画像は、撮れていないが、次の昆明旅行の時に撮影できた。夜になりライトアップされた金馬碧鶏坊を撮影した。
2009.07.04
コメント(0)

「金碧広場より街並みを望む」 「中国上海写真ライフ」では、雲南昆明の写真を公開しています。金馬碧鶏坊が建つ金碧広場より金碧路越しに、ビルを撮影したが、大きな液晶スクリーンが印象的。パラパラと雨が降り出したので金碧路を渡り、金碧広場向えの大型スーパーへ入った。時刻は夕方で雨なので写真が青み掛かっている。皆雨の中を足早に通り姿が写真から読み取れる。
2009.07.04
コメント(0)

「功夫とはカンフーの意味」 「中国上海写真ライフ」では、上海影視楽園の写真を公開しています。カンフー武術道場の物置小屋へ入ってみたが、相当前の撮影に使った道具も乱雑に置いてあった。入り口の取っ手に古き昔を感じ撮影してみた。撮影に使われたのか、竹と縄で作られたミニチェアーである。少し壊れかけだが、これも懐かしい思いを抱かせてくれた。黒っぽい太鼓に、なめし革を張り金色の鋲打ちがしてあった。バチで敲いてみたところ、盆踊りの時に敲いた低く響く、音ではなく、太鼓が少し小振りなのか甲高い音がした。戦いのシーンで武将達が使う剣などが雑然と、保管されているのを持ってみたが意外と重たかった。功夫とはカンフーとか中国拳法のことを指して功夫と呼ぶ。また下工夫と功夫の発音は同じだが中国語で書けば、学習や研究に身を入れる事や、努力する意味になる。
2009.07.04
コメント(0)

「カンフー道場のセット」 「中国上海写真ライフ」では、上海影視楽園の写真を公開しています。1930年代の上海南京路を中心に当時のデパートを再現し、路面電車も運行させ、そこに立つと古の上海がよみがえる。 カンフー道場と書かれた門の両脇には獅子の像が、置かれていたが心なしが凛々しいオス獅子増である。 その1930年頃の上海の街並みをゆったり歩いていると、カンフー映画の道場のセットに出くわし中に入ってみた。 中に入ってみると大道具や小道具が所狭しと置かれていた。この中は武術道場とでも言うのか、ここでも多くの作品が、撮影されており、門の横に撮影中は関係者以外入場禁止の、たて看板があったが、門を潜り中に入ると、結構広く感じた。 カンフー道場の稽古シーンの撮影に使われるのか、いくつもの桶が吊られておりその傍には井戸があった。またカンフー映画に出てくる修行の場の小道具が設置し、舞台の中央の壁には武道の武の字が大きく描かれていた。写真はカンフー練習用のマシーンの木人である。 「映画に使われた小道具」 「中国上海写真ライフ」では、上海影視楽園の写真を公開しています。上海は中国の映画発祥地とされ、中華民国時代に通算で、180を数える映画制作企業があったと言うことである。1930年代の上海南京路周辺にはフランスや日本など各国の、租界地が開設された経緯から上海に映画制作所が設けらた。武術道場の中に入って右側に大きな水かめが、幾つも置いてあり、その上には汲み桶とでも言うのか、沢山吊るしてあったが一体何の撮影に使った道具なのか。カンフー映画の小道具の代表である「木人」だが、練習のため木人の腕部分に巻かれた縄がほどけていた。私も若い頃に帰ったように、木人で始めゆっくり、段々腕の動きを早くしていったが翌日、腕が少し紫色になり、カメラを持ち上げる時に痛みが走るほどだった。桶に水を汲み、その水の入った桶でカンフーの練習。この井戸は映画にも使われた事があるのだろうか。汲み桶をアップにして撮影するとまた面白い写真に、しかし、興味のない人には余り面白くないかも知れない。道場の奥右側に井戸が掘ってあり中を覗いたところ、テトラポットのようなものが投げ込まれていた。あまり綺麗な井戸水だが井戸の風景などを撮影した。道場の舞台の前に映画のセットで使用された小道具。松明や燃料を入れ火を点け気勢を上げるカットだろうか。舞台の下には、どの映画のセットに使われたのか、丸太を組んだ台の上に鍋状のものが置かれていた更に一段下には、大きな水かめが置かれていたが、各所に俳優が付き何か演技をしたのかとも思った。
2009.07.03
コメント(0)

「絞りはアンダー気味に」 「中国上海写真ライフ」では、海南島の写真を公開しています。11年前に海南島へ来た時は、海口から入り三亜へ抜けた。今回は上海から三亜へ入り、海口へ向かって旅をした。海口が良いという人もあれば、三亜と言う人もそれぞれである。三亜で有名なのは亜龍湾であり、亜龍湾ビーチの美しさに、何枚もシャッターを切ったが海岸での撮影では、光の乱反射が思ったよりきつく、アンダー気味に、セットすると雲の色が飛ばずに澄むかもしれない。写真は亜龍湾風情の豆電球スタンドでカメラの絞りを、換えながら撮影した四枚のうちの一枚だが、こんな時、もう少し明るいレンズがほしいと思う。
2009.07.03
コメント(0)

「レンズをガラスに近づける」 「中国上海写真ライフ」では、海南島の写真を公開しています。貝殻博物館の中は観光客で賑わっていた。世界の海から収集した貝殻が並べられていた。撮影が許可されている展示品などでガラス張り時に、フラッシュを極力避けるが暗いレンズの場合には、手振れを起こしてしまうので脇をしめシャッターを押す。展示会場の室内は明るく展示品はスポット証明のため、ガラスに人影が映ってしまう事が往々にしてある。これを避けるためにレンズをガラスに近づけて撮影する。色々な貝殻を利用して小物が作られ販売されていた。手作りで、貝殻の大きさや目や口の置き方で、それぞれの表情が違い見ていても飽きなかった。
2009.07.02
コメント(0)

「フラッシュは避ける」 「中国上海写真ライフ」では、海南島の写真を公開しています。中国のハワイとして冬でも泳げることで、北京や上海からも多くの中国人が訪れている。写真は亜龍湾広場に造られた貝殻博物館の中。世界の貝殻が収集され、綺麗に展示されていた。貝類を中心として、自然の造形美を味わえたが、全てがガラス張りになっており手では触れなかった。シャッターを切っても切っても切りがない。また露出の値を考えセットし、フラッシュは避ける。多くの人がフラッシュを当てているがガラス反射を、起こして画像は思ったように写らない。
2009.07.02
コメント(0)

「ドリアンの一種か」 「中国上海写真ライフ」では、海南島の写真を公開しています。南国のホテルでは湿っぽい感じのする部屋が多いと、感じていたが、今回泊まったホテルでは感じなかった。私の上海からの旅行は全て一人旅であるが、ベットは、いつもツインであり、二人分のベット料金を支払う。ツインベットの片側のベットの上に旅行バッグを、思いっきり広げて、片側のベットで寝る事が好きである。写真はドリアンと思うがどうだろうか?ドリアンの果実は、臭いが強烈なため、中国では飛行機内への持込みが禁止され、公共の建物やホテルも、持ち込み禁止にしている所が多い。
2009.07.01
コメント(0)

「金馬坊と碧鶏坊」 「中国上海写真ライフ」では、雲南昆明の写真を公開しています。写真の坊は昆明市内に建つ金馬碧鶏坊は明朝年間に、建てられたが、明代と言っても1426年から10年間掛かった。金馬坊と碧鶏坊は向かいあって立っているので、初めて見た場合はどちらも同じように見えてしまう。この金馬碧鶏坊の建物は、文化大革命で破壊され、1999年5月に現在の金馬碧鶏坊として再建された。高さ12m、幅18mで昆明の民俗特色を持ち、夜ともなるとライトアップされて綺麗な姿が見れる。
2009.07.01
コメント(0)

「獅子に掛けられたリボン」 「中国上海写真ライフ」では、雲南昆明の写真を公開しています。元時代に建てられた麗正門は「太陽に近づく楼」と言われ、清代に「近日楼」と改名したが、その近日楼の向え側に、レストランがあり、その玄関先に掛けられた赤提灯の写真。この獅子はレストランの入り口左右に置かれており、写真を撮ろうとしてウエイトレスから制止されたが、女性支配人から許可を得て撮影した写真である。この獅子の首に結ばれた赤いリボンだが、この日は、結婚式披露宴があるとの事で、掛けられていた。ちなみに、上下雄雌の見分けはつきますか?写真は、近日楼の前に造られているブロンズ像の前で、写真撮影していたので便乗したが、この日は肌寒い日で、それを気にしながらシャッターを切っていた。
2009.07.01
コメント(0)

「清代に近日楼と改名」 「中国上海写真ライフ」では、雲南昆明の写真を公開しています。東寺塔と西寺塔で400mの距離をはさんで東西に建つ。寺は戦火で消失し、現在は寺塔だけが立っている。街並みは昔を再現するように1998年に造られた。 元時代の麗正門は雄大で広角レンズで撮影しないと入らない。地元では、太陽に近づく高楼と言われ、元々昆明古城にあった。麗正門は清代に近日楼と改名し、門の上に近日楼描かれる。
2009.07.01
コメント(0)

「スムーズに行動できた」 「中国上海写真ライフ」では、雲南昆明の写真を公開しています。2年半前に来た時も自由行動で全く同じ場所を散策。しかし、今回は円通寺で時間を使いすぎたので、その分、自由行動の時間が少なくなっていたが時間配分は分かっていた。私は一人で見て回った。その方がスムーズに行動できた。他の観光客たちは記念撮影に余念がなく1カットに、かなりの時間を掛けていたが、私は3カット10秒ほどで済ませた。他のツアー客の人達が私を見つけて時計を見ながら、集合場所へ遅れないようにしてくださいよと話しかけて来た。私は、この辺の風景や像は撮影しましたから先に行きますよと、東西寺文化街の400mほどの通りを急ぎ足で向かった。
2009.07.01
コメント(0)
全47件 (47件中 1-47件目)
1