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「砂漠に取り残されてしまったら」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省敦煌「月牙泉」の写真を公開しています。宗教は阿片との見解を下していた中国共産党は文革時代に、清華大学附属中学の学生を筆頭とした紅衛兵組織により、寺廟などの宗教施設を徹底的に破壊した。歴史と言ってしまえばそれまでだが、国宝級の寺院や仏像が、破壊された事は、中国の各地を回って見て本当に残念に思う。後漢時代に建立され中国最古の仏教寺院であった洛陽郊外の、寺や後漢時代から残る貴重な文物の数々は全て破壊された。住職や住民達は仏像を守ろうと小さな仏像は壁の中に隠し、文革の嵐から仏像を守ったと実際に聞いたことがある。再度建立された現在の寺には探しても住職の影さえなかった。時々砂嵐が止み月牙泉の砂丘滑りで中国人女性の叫び声が、聞こえて来たが、私たちのグループなのかどうか分からない。このまま砂漠に取り残されてしまったらという不安も過った。そんな事を考えていた時、後ろから「一人で来たのか」と、寺男風の老人が私に話し掛けて来たので非常に驚いた。私は言葉を失い「トイレってあります」と思わず聞いていた。おじさんは指でトイレの方向を指して「あっちにある」と、教えてくれたので、そのトイレへ向かい中へ入った。トイレの写真を撮るほどではないが思ったよりも綺麗だった。トイレから出て来ると、寺の片隅に座っていた寺男風の人は、立ち上がり私の方を見ているので「この寺は新しいですね」と、分けの分からない事を言うと、以前の寺は文革で破壊されたと、一言だけ言うと「私は家に帰るがアンタはまだ居るのか」と、私はその人と一緒に小高い丘から降りて、皆の居る方へ、歩いて行き、電気自動車が止まるところまで送ってくれた。
2009.08.31
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「月牙泉の小高い丘には寺院」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省敦煌「月牙泉」の写真を公開しています。「オアシス」とは「住みか」という意味であり最初に、用いたのは古代エジプト人だが、語源はギリシャである。世界各国にも多くの砂漠が存在しオアシスも存在する。敦煌は砂漠のオアシス都市として世に知られている。鳴沙山の麓に泉があり中国沙漠第一泉の月牙泉がある。三日月形の月牙泉は古代より敦煌の目とされてきた。古来より時を刻みながら、毎日5トンの水が湧き続けて、今まで砂漠の砂に埋もれてしまった事がないが、このまま砂漠化が進めば50年後には埋もれる危機にあるという。過去2千年以上の時を刻み、またシルクロードに立ち寄った人々の心を潤してきたオアシスが、あと50年の命とは・・。古来より神聖な場所として月牙泉の小高い丘には寺院が、文化大革命時代に古き文化を新しい文化へと破壊された。その後、世界文化遺産の候補に上がる声と共に再建立された。私は寺の中心地点に立ち、いにしえのその昔多くの人が、破壊された寺を眺めていたのではと思いながら撮影した。だがガイドにはこの方向へ来る事は伝えてあったが、砂嵐の音や風で舞う砂も緑の木々や三日月の泉に遮られ、寺院の中はまた違った空間の雰囲気に包まれていた。
2009.08.30
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「イメージとしては神秘的な感じ」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省敦煌「月牙泉」の写真を公開しています。鳴沙山は、その昔「神沙山」と呼ばれていたようである。鳴沙山の砂はサラサラの茶色の砂ではなく、よく見ると、赤、黄、緑、黒色などの何色もの土砂が堆積しており、私が訪れた時には、砂嵐が特に激しく尾根の砂が嵐で、吹き飛ばされ、まるでナイフで削り取られているようだった。鳴沙山は敦煌より南へ6キロほど下がった所に位置する。砂漠化は今尚進んでいるが、800キロ平方mにわたる広大な、砂の山々が陸続と続いているとの事でそれを鳴沙山と呼ぶ。鳴沙山という名前は砂山を人が降りるときに沙が鳴る所から、名前が付いたのかは不明だが、砂嵐の鳴る音はすごかった。この日、砂嵐ではなく穏やかな日であったならば駱駝に乗って、目的地の月牙泉まで優雅に楽しんだのかもしれないが、この嵐では、その想いも叶う事はなかった。鳴沙山中腹より、砂漠の中のオアシスである月牙泉を撮影したが、砂嵐のお陰か、イメージとしては神秘的な感じで撮影できたのではと自讃する。月牙泉は、鳴沙山の谷あいに湧く三日月形の泉で長さ200mあり、幅50mで深さ5mの砂漠のオアシスで一度も枯れたことがない。泉のほとりには楼閣が有ったが文化大革命で破壊されてしまった。文化大革命後15年を過ぎた頃に復興されて今の寺の姿になった。月牙泉の上に復興された寺にも、砂嵐の中一人でたどり着き、撮影した画像があるので、明日以降写真を公開したい。 「目の前の景色を一人占め」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省敦煌「月牙泉」の写真を公開しています。私と同じようにホテルから参加したツアー客が何処に、行ったのかも分からず集合時間も聞き逃した私は少し、焦ったが私一人を残して去ってしまう事はないと信じて、いつもの悪い癖である一人歩きが始まってしまった。ガイドにとって、何より一番心配な事は外国の旅行客が、一人でフラフラ何処かへ行ってしまう事なのではあるが、また血が騒いでしまった。一枚目の何でもない石碑に、第一泉と彫られ赤のペンキで彫られた跡を塗られている。観光写真の快晴の時に見る画像と今回のような砂嵐の中で、見る石碑とでは感じ方が違った。初めて訪れた砂漠のオアシスで、シルクロードの本の表紙にも載る様な月牙泉であるが、砂嵐の中一歩一歩砂の中を歩き、やっと水中カメラを、構えて撮った第一泉の写真である。砂漠の中のオアシスで一度も枯れた事のない月牙泉だけあり、月牙泉の小高い原っぱに入ると一面の緑に心動かされた。砂嵐の中でやっと辿り着いた砂漠のオアシスにホッとすると共に、人の声が聞こえず、不安な気にもなったが、目の前の景色を、一人占めしたような錯覚にまで陥った事も隠し切れない事実だ。
2009.08.29
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「寝る前に童話の本を」 「中国上海写真ライフ」では、敦煌鳴沙山「月牙泉」の写真を公開しています。鳴沙山と彫られた石を撮影しようとカメラを構えていた。その後ろを10頭ほどの駱駝の列が通り抜けたので、慌てて後ろへ下がり駱駝の全貌を撮影しようとしたが、左右に中国の観光客が立っており仕方なく望遠側で撮影。私は3歳半から9歳半まで3軒の親戚を回りながら育った。その時に親戚のおばさんより、寝る前に童話の本を、親戚の子供と一緒に、よく読んで聞かせてくれた中に、月の砂漠の話しと駱駝の話しだったが、家族の居ない、私にとって夢のような物語だったし子供心にも、行って見たい気持ちが逸った事を今でも鮮明に覚えている。実際の月の砂漠の話しは日本の海岸での話しで、砂漠の字が、月の沙漠と「沙」の字になっている。2頭の駱駝に乗った王子と、姫の像は千葉県の御宿海岸には海岸の浪打の音を聞きながら立つ。何となく月の砂漠からイメージする国がアラブの国のような、気がしてならないが、保育園に上がる前の幼い心に、焼きついた思い出が蘇って来たのは確かである。子供の頃の想い出に浸る間もなく、砂嵐の猛攻撃が容赦なく頬を、たたきつけ、痛みさえも感じる中で、一人列から離れて、色々な場面の景色を撮影して回った。あまり離れないで下さいと、ガイドの声が聞こえたが、砂吹雪でその声も直ぐに消え失せた。ウインドブレーカーのフードの紐を締めると周りの音が静まり、自分の世界だけが砂漠の中にあるような錯覚にまでなった。
2009.08.28
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「足から頭まで完全に防備」 「中国上海写真ライフ」では、敦煌「月牙泉」の写真を公開しています。一枚目の写真を見て驚いた人もいるのではと思う。何となくインフルエンザの消毒に行くために、足から頭まで完全に防備をした姿であるし、撮影している私も全く同じ格好をしている。旅行する前にネットで鳴沙山の状況を調べていた。鳴沙山は市内から近いのでチャーターの必要はなく、タクシーで行って(10元ほど)、帰りも同じく、客待ちしているタクシーで帰って来れば良いとの事。しかし、私は現地の中国人ツアーに申し込んだ。もし自分一人でタクシーで行っていたら、このような、写真の装備も考え付かなかっただろうし、強い砂嵐の、情報も全く知らなかったので、中国人と一緒で、ホッとしたような、何となく助かったような気もした。カメラはCANON5Dとレンズ3本、また事前の砂漠情報で、水中カメラを寸前に手に入れ持参した為、砂嵐の中で、ツアーに参加した中国人のようにレンズが回り難いという、アクシデントには遭わずに済んだが、鳴沙山と月牙泉の、為だけにカメラを購入した事は浪費のような気もした。
2009.08.27
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「四面の壁面には壁画」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省敦煌「莫高窟」の写真を公開しています。「莫高窟」の出口でカメラを旅行客に返している所を、見た私は急ぎ出口へ急ぎカメラを頂くと「莫高窟」の、外観を柵から身を乗り出して撮影した石窟であるが、石窟の中の様子は残念ながら撮影出来ていない。366年に鳴沙山の東に夕日を浴びて輝く千仏の姿を感じ、石窟を築き修業したとの事であるが、そんな簡単に岸壁を、彫れるものではないと思いながら代表的な石窟を見学した。366年から1366年まで石窟は掘り続けられ石窟の数は、最終1000個までになったが現在は492の石窟が保存されている。古い時代の石窟は中心部にあり、両端部へ行くに従い新しい、石窟が集中しているとの事で、どの石窟も正面奥の上に、塑像が並んでおり、また四面の壁面には壁画が描かれていた。造られた時代によって、石窟の構造や仏像の顔やポーズが、それぞれに違っていると説明を受けたが中国語の理解度は??左端を歩いて来る女性が敦煌「莫高窟」の専属ガイドである。大学を卒業して2年になる24歳の女性で、ガイドをするために、石窟の彫られた時代背景や仏僧画、仏の生涯を伝える絵や、伝統的な神話・伝説の内容を絵、また仏教史跡画などの内容を、覚えるのに時間が掛かったとの事で、今でも勉強を続けている。
2009.08.26
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「心洗われる思いがした」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省敦煌「莫高窟」の写真を公開しています。敦煌「莫高窟」を象徴する朱紅色の楼閣「九層楼」の中を、今回始めて見たが、大仏が中にありその大仏を覆う楼閣と、いうことは分かっていたが、実際に中に入ってみて驚いた。誰もが知る奈良の大仏様の高さは14.7メートルである。私が始めて奈良の大仏を見たのが小学校の修学旅行で、こんなに高い仏像をどうやって作ったのだろうと、相当長い間見ていた記憶があるが、それよりも遥かに高い。まだ訪れていないが四川省の楽山大仏は71mで世界一。アフガニスタンで爆破されたバミヤン西大仏が55m。四川省の栄県大仏37mで、敦煌の大仏は34.5mである。奈良の大仏を始めて見たときは12歳の時で、世の中の、何たるかも分からない時で大きく見えた事は確かである。私は12歳の何も知らない無垢な時に敦煌の大仏を見ていたら、さぞ衝撃的に心に刻まれていた事だと思う。3歳半で母を、無理心中で亡くし、その後、紆余曲折の人生を歩んできたが、敦煌の大仏を見て心洗われる思いがした。ただ、カメラを、没収され撮影禁止で中の画像が無いのが心残りである。
2009.08.25
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「敦煌の映画を見た時」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省敦煌「莫高窟」の写真を公開しています。敦煌の街より車で30分ほど走ると世界文化遺産の敦煌、莫高窟へ着いた。敦煌へは中国へ来た当時より是非にも、行って見たかった所であったので望みが叶い嬉しかった。敦煌に関しては中学や高校時代にも地図で見ていた。学生時代には仏閣や仏像に興味を持つようになると、写真ではなく敦煌の石窟をどうしても見てみたかった。自分で工場を始め100人近くの従業員を抱える頃には、敦煌の事など全く頭に浮かばなかったが、西田敏行の、敦煌の映画が放映されると真っ先に映画館へ見に行った。井上靖の原作の敦煌の映画を見た時には感動した。2回映画館へ行ったしテレビでも放映したので、もしも、中国へ行くような事があったら真っ先に敦煌へ行きたいと、その頃には、ただ漠然と思っていたが、4年後には、中国行きが現実のものとなったが、広東省で遠過ぎた。広東省に居る頃には毎日のように中国の地図を見ていた。地図を見ると行きたい所ばかりだったし実際旅の計画を、立てる頃には休み日数の制限を受け、中々思うような、旅が出来なかったが、今回敦煌へ来れて本当に嬉しく思う。
2009.08.24
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「後進に道を譲る5」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「敦煌の街」の写真を公開しています。「嘉峪関」より5時間の道のりをバスで敦煌へ向かった。夕方敦煌の街へ着いたが、何故か辺りは明るかった。時計を見ても中国時間7時近かったので暗くなってもと、思ったが、この辺りまで来ると日本との時差が3時間あり、暗くなるまでに時間があり、何となく得した気分がした。街は思ったよりは綺麗に掃除されホテルより少し歩くと、ロータリーの中央に琵琶を弾く天女の像が立っている。莫高窟の石窟の壁画にある反弾琵琶の図を彫刻にしたもので、下の写真の反弾琵琶を弾く天女は敦煌のシンボルである。その後、何人もの演奏家が背中で琵琶を弾こうと試みたが、誰人も背中で琵琶を弾く事ができなかったエピソードもある。 「後進に道を譲る4」のつづきより私の左眼球内よりの鮮血出血が気になり病院へ行ってきた。毎回思う事ではあるが、中国の病院は患者が多い。私は眼科の中でも専門の医師を頼んで診察して頂いた。診察結果は「結膜下出血」との事で、目薬とビタミンEの、薬が出され、医師よりは10日間ほどすれば治るとの事。原因は何かと聞いた所、ハッキリとは分からないとの事を、話しながらも、疲労から来る左眼球の出血だろうと思うと。何か思い当たる節が有りますか?と逆に質問された。思い当たる節が、この3週間有り過ぎて、何が何だか自分でも、正直分からない。しかし、壮年に多く発生するので注意が、必要で安静にしているよう言われたが、心は焦る。つづく
2009.08.23
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「後進に道を譲る4」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「嘉峪関」の写真を公開しています。今日は、私の後の仕事を引き継ぐ若い二人を連れ、日本料理店へ行って来たが、一人が気分が悪くなり、長居をせずに帰ってきてしまった。私にとっては久方ぶりの日本料理ではあったが、気分が悪くなった一人が中国人の刺身を食べる様子を、興味深げに観察していた所、刺身を食べるのに醤油と、油をたっぷり入れた中に刺身を付けて食べていた。日本では刺身に油を付けて食べる習慣はないが、こちら中国では油がなければ食べられない人もいる。私は「郷に入れば郷に従え」の言葉を持ち出し説明した。しかし、気分が優れずに焼き魚にしたが駄目だった。帰りの車の中で、部長はインドネシアへ行けて良いですね。などと、思った事をそのまま口にする若者たちに今後4ヶ月で、この二人をどうやって教育すれば良いかと考えながら、帰宅したが、この二人はインドネシアでは長続きしないという、本社の見解にも頷け納得できたが前途多難である。つづく
2009.08.22
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「後進に道を譲る3」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「嘉峪関」の写真を公開しています。私よりインドネシアは若手に任せても良いのでは?と、尋ねたところ、若い者では直ぐに嫌になり辞めてしまう。そこで、経験豊富な貴方なら問題ないだろうと決定した。私に打診もなく先に決定されてもと言いかけて、その言葉を、飲み込んだ。現在のサラリーマンの世界で文句を言えば、この時とばかり解雇されてしまう事になってしまうからだ。私から言葉の問題が一番心配である事を伝えたところ、普通の人は食事とか生活の事を心配するのに言葉ですかと、今度は専務に電話を代わって、勉強好きな貴方なら問題ない。言葉に関しては、こちらでは何も心配していないとの事。小さい会社でも派閥があり、専務派と新社長派と・・・。私は何か事が起こると専務に良くは思われなかったようで、その事から言うならば、私は新社長派に属するのかも知れない。今回の事で、上海から新社長まで電話を入れたが、今回の、インドネシアは大切なプロジェクトで何とか手を貸してくれと、どの道、逃げられないと悟った私は、1週間ほど前に本を購入し、インドネシア語の勉強に入ったが、左眼球より出血し真っ赤に、染まり左目が重苦しくてたまらない。つづく
2009.08.21
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「後進に道を譲った2」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「嘉峪関」の写真を公開しています。インドネシアへ行き新しく工場を立ち上げるとしても、私の一番心配になるのが、やはり言葉の問題である。中国へ来て既に1年間を越え、15年目に入った。中国語はいつも学習をして来たために通訳なしで、全く問題ないが、インドネシアではこうは行かないだろう。今回のような更迭にも似た移動は考えても見なかった。私が会社を経営していた時点では、サラリーマンが、こんなにも精神的に辛い思いをしなければ、ならないとは、思ってもみなかった事である。やはり、その立場に立ってみなければ何も見えないと、今回ほど痛切に思った事はなかったが、本社より、「シンガポールが嫌なら辞めて頂いても良いですよ」と、言われた時には、さすがに笑ってしまった。つづく
2009.08.20
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「後進に道を譲る1」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「嘉峪関」の写真を公開しています。先日、日本より後進に道を譲ってはどうかと打診された。まだ働ける事は分かるが、ある日突然辞職されても、会社としては困ってしまうので、どうだろうか?との内容。私は今辞職になった場合、何をするべきか考えていないし、あまりにも急な話なので考えさせて欲しいと返事をした。だが、その返事に対して直ぐに返答が来た。上海を後進に譲ると言っても最低3ヶ月間は後進の教育に、当たらないと、若い者がいきなりでは、直ぐに会社を、辞められても困るので、ぜひ教育に当たってほしい。ある程度、やれると判断したら、あなたにはインドネシアへ、新規立ち上げの仕事で行ってもらう予定でいる。だから今後何をするのかとの心配は要らないとの回答。つづく
2009.08.19
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「雄雌の区別がハッキリしない」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「嘉峪関」の写真を公開しています。「威宣中外」と書かれた大きく厚い木の板が、軒下に掲げてあり、写真を撮ったが意味が分からない。中外とは東西の意味で、東西に威勢よく広がる意味か。中国では建築物の屋根の先が尖り反り返っている。その上には、色々な神話の中の動物が並んでいる。これは魔除けとして古来より迷信化され来ている。750年前の獅子像であるが、現在の凝った彫り方ではない。簡単に彫られていると言えばそれまでだが、また現在の獅子像とは違い雄雌の区別がハッキリしない。現在の獅子は子供をあやしている雌獅子像と、鞠で遊ぶ雄獅子像とに分かれている。入口の獅子を撮影した後で振り返ると、かなり古い建物が、建っており直ぐに駆け寄り撮影したが、文字が薄れて、ハッキリと見えないが、道教の教えが記されている。またその頃の武将の絵が壁の下側に描かれていた。
2009.08.07
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「建築物は皆古く風化しかかっていた」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「嘉峪関」の写真を公開しています。嘉峪関を中国語のピンインで書けば「jia1yu4guan1」日本語で読んだら「かよくかん」と読むのだろうか?嘉峪関は「A」が「AAAAA」と5つ並び世界遺産にしても、おかしくは無いと思うが、国家級保護に名を連ねる。中国人のツアー客は、先ほどの奇石展示場で買い物。沢山の石を購入していたが、私には理解できない。売っているから買うと言うのは理解できる。だが、4キロほどはあろう石を購入して「重たい」と、嘆いている姿も、気の毒と言うより哀れな感じだ。私達は万里の長城最西部に位置する関所を見て回った。万里の長城で要衝であった嘉峪関は嘉峪関市の、南西6kmに位置し西寄りの最も狭い土地にある。建築物は皆古く風化しかかっているから感動した。
2009.08.06
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「こんな所までもお金次第なの」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「嘉峪関」の写真を公開しています。蘭州の観光は取り敢えず終了し、その夜の列車に、乗ることにし、駅のホームで待つ事1時間ほどして、駅員が「30元(450円)で先に列車に乗れるよ」と、拡声器を手に急ぎ足で行過ぎたので隣の女性に聞いた。「先にお金を払えば早く列車に乗れますよ」と、話していたが「お金出して先に行きますか?」と、今度は女性から聞かれたが、こんな所まで、お金で格差をつけるのかとも思ったが、手には、30元を握り締めている自分に苦笑していた。その寝台車も翌朝には万里の頂上の最西部に、位置する「嘉峪関」に着いた。最西部の関であり、この駅の名前や街の名前も、万里の長城の関である「嘉峪関」から付いた。「嘉峪関」の駅前で暫しの間、歩き写真を撮った。駅前広場でも蘭州駅と同じように馬が像にしてあり、人がその馬の上にまたがったブロンズ像であった。何とも凛々しい姿の武将と躍動感溢れる馬像だった。 「青い河を眺めながら歩いた」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「嘉峪関」の写真を公開しています。「方古歩行街」と書かれた嘉峪関へ向かう手前で、観光目的の旅行者用に造られた歩道で降りた。何処にでも売られているような光景だった。簡単な道案内図が立てられていた。5月半ば過ぎで天気は上々で、30度を超える気温に、汗ばんだが、私にはちょうどよいと思いながら歩いた。この嘉峪関では、私を入れ8人のツアー客だった。ガイドは20歳ほどの女性で中国語しか話せなかった。奇石の展示売り場では、南京の雨花台の雨花石に、似た石も売られており懐かしささえ覚えた。私は嘉峪関の予備知識は殆どなかったので聞いても、しっくりこなかったが、万里の長城の最西端との事で、ガイドの横に付き、青い河を眺めながら歩いた。
2009.08.05
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「偽物作りは何処にも負けない」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「蘭州」の写真を公開しています。白塔山公園から下りて来て瓢箪彫刻品の販売店に、立ち寄りガイドと店の夫婦に挨拶した。店主は「どうでしたか?」私は「一人だったので、見逃した箇所があったかも知れません」と話すと、「白塔は見れましたか?」「はい」「白塔が見れたら、それで十分ですよ」と元気付けられた感じだった。一枚目の写真は、中山橋から蘭州市内へ戻ろうとし、白塔山公園の方へ振り返り撮影した一枚である。上下の写真は、銀行の前に置かれた雄雌の獅子像。ポピュラーな中国獅子像とは違い抽象的な、獅子像に何度も左右に行ったり来たりした。一般の獅子像と言えば威厳がある感じだが、この獅子像は何度見ても見飽きない感じがした。少し歩くと歩行者天国があるとの事で進んだ。一瞬、ここは蘭州かなと思わせるほどに、上海南京路の道並みに似ていた。歩行者道路の両側に建つ店の構えやデザインも、斬新な感じで、14年前とは大きく変貌していた。商社時代に南通市南大街付近のマンションに、住んで各工場への活動をしていた時代があった。近くに「大娘水餃」の一号店があったが、蘭州では、159店舗目であり、ファーストフードチェーンの、この店は「早くて安くて上手い」と評判の店である。「三希堂古玩城」と言うショップの写真を撮った。少し中を覗き見したが、大きな掛け軸が並び、その一角には骨董品が並べられ、全体感はかなり、質の高い物が売られている感じがした。街で売られている偽者の骨董品にも類似していたが、偽物を作る技術はどの国にも負けない中国である。 「民族、皆平等の精神で」 「中国上海写真ライフ」では、青海省の「肺ペスト」に関してちょっとコラム。青海省海南チベット族自治州は私が旅に出向いた所だ。今回、発生した肺ペストですでに3人が死亡した。更に9人が隔離治療を受けているとのニュースが流れた。また治療中の9人のうち1人は危篤状態で、1人は咳や、痰、また胸痛などの症状が出ているという。 話には聞いていた貧しい所、青海省は訪れてみて、初めてその暮らしぶりに驚いたほどである。私は中国生活16年目に入り、色々な所を見聞きした。そんな私でさえ、中国の貧富のあり方を思った。貧しい地方の伝染病のトップはペストとコレラである。1910年から1911年、中国東北部で肺ペストにより、6万人以上が死亡し、また、1920年から1921年にも、肺ペストの大流行が起こり、約1万人が死亡した。第一次・第二次大戦の前ではあるが、今回中国では、少数民族は勿論の事、貧しい暮らしを虐げられている、漢族の皆さんにも存分なる追跡管理と検診・検疫を実施を、成し遂げて頂きたいものである。特に今回肺ペストが発生した地域はチベット族の村々で、力で抑え付けるのではなく、民族、皆平等の精神で、少しでも感謝を抱く行動を取って頂きたいものである。------ブーザン@上海-------
2009.08.04
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「風化し形を留めていない」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「蘭州」の写真を公開しています。白塔山公園の頂上にはチベット寺院の白塔寺がある。その白塔寺はチベット高僧がチンギスハーンの孫を、訪ねて来たが、蘭州にて命尽き果て、元の命により、白塔山にチベット寺院を建立しチベット僧が供養した。白塔山から少し降りた所より黄河と中山橋を撮影した。登って来る時にも足を休めるために石段途中で、何度も立ち止まっては、黄河と中山橋を眺めた。だが、上に登れば登るほど高さが増すのは当然だが、高さが増すに従って感激度も比例して増した。写真は白塔山公園へ登ったのとは違うルートで、下りてきた所にある寺院のようで、この少し上は、全て鍵が掛けられており、生活空間はなかった。更に石段を下りた所にある獅子の像を撮影した。獅子の頭は風化し形を留めていなかった。一般に風化といえば600年ほどから始まるが、この石像の風化は相当前から始まっているようだ。元の時代に建立されたものなら750年ほど前で、それ以前に立てられていたのではないかと思う。「力強い牛」という意味を書いた「牛の像」の所へ、戻って来たが、ここは白塔山公園二階の広場である。中国での牛の存在は大きく人と牛が共存し、また、役牛として農作業では運搬役・牛車として使われ、また牛糞は乾燥して燃料とし、焼いた後の灰は、時に薬になり、鍋や釜を磨く材料になった。
2009.08.03
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「不安に駆られ余計に疲れる」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「蘭州」の写真を公開しています。蘭州市から中山橋を渡り、白塔山公園まで来た。白塔山公園の中腹に禅寺の法雨寺があり、山頂にチベット寺院の白塔寺がある。私は久しぶりに友人に会ったガイドの事を思い、一人で白塔山へ登ってきたものの登り口の、ガイドの道案内図をノートに控えず登ったため、何となく、この道で良いのかなど不安に駆られた。法雨寺の中に入り、禅寺にある四天王像を探したが、小さく建てられた寺では、見つからなかった。大雄宝殿の中に安置してある釈迦像にレンズを向けた。本堂内は思ったより暗いのでカメラセットした。カメラの絞りのみ変更し連続シャッターは変更せず、撮影した釈迦像の一枚の絵であるがピンとはイマイチ。この一枚で、私の後ろに立った寺の係りの人から、大きな声で「こらっ!」と怒鳴られて一枚しかない。次にはいよいよ白塔寺の写真を編集更新する予定。
2009.08.02
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「溢れる笑みが一杯」 「中国上海写真ライフ」では、甘粛省「蘭州」の写真を公開しています。白塔寺の境内に入る弦楽器を演奏している人々と、その演奏を聴きながらなのか食事をしている人々の、光景を見て急ぎシャッターを切ったり、彼らの中へ、入り込み幾分興奮気味に撮影している自分に苦笑。演奏している中国人の表情は皆溢れる笑みが一杯で、中国を作って来た彼らの楽器を見ると、真新しいとは、言えない年季の入った楽器で手馴れた演奏振りである。楽団を退役した人達が集っているようにもみえた。私は彼ら演奏している輪の中心で撮影している為、皆と目が合ったが、それでも笑みを絶やさず、演奏し、傍らではご婦人達がグループで懇談会をし、更に遠くを見ると、4・5人で剣舞をしていた。歌を歌う人が楽団の演奏に合わせて歌っていた。公園は階段を上がった直ぐの広場に沢山の椅子が、それぞれのテーブルを中心に並べられており、持ち寄ったお菓子類がテーブルの上に雑然置かれている。すでに帰った人達が捨てた菓子袋を見てみても、中には半分以上残っているから勿体無さを感じる。階段を登って上の寺へ行こうと壁を見ると、これから、私が旅をするルートの大まかな地図が貼ってある。蘭州付近と敦煌や嘉峪関もあり部分的に撮影したが、精彩糸路と魅力甘粛と書かれた文字もアピールしてあり、意味は「すばらしいシルクロード」と「魅力の甘粛省」本当に甘粛省は斜めに細長い省と言う事が分かる。
2009.08.01
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