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1月分の記録が書ききれなかったので、2月分と纏めて書きます。突然姿を消した女の正体・・その女の過去は、時代の激流に呑みこまれた家族の歴史でもあったんですね。何だか、色々と考えさせられる作品でした。杉村三郎シリーズ第3作目です。今回は、驚愕のラストが待っていました。作中にマルチ商法が出ていましたが、マネー犯罪は、自分のみならず家族や友人をも不幸にしてしまうんですね・・NHKでドラマ化された宮尾登美子さんの小説。土佐の一絃琴に魅せられた女達の思いが、文面からひしひしと伝わってくるようでした。何かに向かってただ邁進する人の姿は、素敵ですね。なんとも後味の悪い小説でした。無計画に男と遊んでは避妊もせずにポコポコと子供を生む母親を忌み嫌い、家を出たはずの男が、付き合った女と避妊もせずに無計画にセックスして妊娠させた挙句、結婚したくないって逃げ出して、挙句の果てに殺人まで犯して・・もうどうしようもないほどのDQN男に惹かれる女の方もねぇ・・男に騙されていることにも気づかずに未婚の母になって、男が惨殺した人間を目の当たりにして、男を突き飛ばして殺して・・一番の被害者は、このDQNカップルから生まれた子供ですね。両親共に殺人犯で、無計画でどうしようもない馬鹿ときた。女の弟と両親がまともで常識を持った人間だから、良い子に育てばいいですね。それよりも、このDQN女をかばったオッサンが殺人犯扱いされる理不尽さも救いようがないですね。事の発端を作った夫婦もなぁ・・ギャンブル癖がある夫に、ブランド物のバッグや服を買いあさる見栄っ張りな妻。こっちもお似合いの馬鹿夫婦ですね。一人息子がまともでよかったよ。とある企業の食肉偽装と、中野の居酒屋で起きた殺人事件・・全く接点のない事件の繋がりが徐々に明らかになるにつれ、大型ショッピングモールによって商店街が崩壊し、“町の顔”が消えている地方の現状も明らかになっていきます。フィクションじゃないような気がするなぁと、読み終わった時思いました。チーム・バチスタシリーズ最終巻です。全然読んでいないんですけどね・・まぁ、最終巻とだけあって、ラストまで波乱尽くしの展開でした。面白くて、あっという間に読み終えてしまいました。
2014年01月25日
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連載3本を同時進行で更新するのは、結構疲れました。昨日漸く『翡翠の君』を完結させたので、残り2本の作品の更新を頑張りたいと思います。
2014年01月25日
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※BGMとともにお楽しみください。「初めまして、高田敏明です。」「初めまして、長谷川眞琴と申します。」「眞琴さんは、箏の先生をされているんですよね?」「ええ。敏明様はなにをされているのですか?」「僕はまだ学生で・・」「あら、そんな事気にしませんわ。わたくしだってこの前まで女学生だったんですもの。」「そうですか・・」 敏明と会った後、歳三は眞琴を自分の部屋に呼び出した。「この縁談、進めていいんだな?」「ええ。わたくし、高田様のことを気に入りました。」「そうか・・」歳三はそう言うと、千尋の仏壇の前に座った。「千尋、眞琴の花嫁姿をお前ぇと見たかったな・・」「お父様・・」歳三の背中が小さく震えていることに気づいた眞琴は、そこへそっと顔を寄せた。 数ヶ月後、眞琴と敏明は結納を交わし、後は祝言を挙げるのを待つだけだった。「眞琴、これをお前ぇにやる。」「それは、お母様の・・」「千尋が・・あいつが俺に嫁いで来た時に、髪に挿していた鼈甲の櫛と簪だ。」「ありがとうございます、お父様。一生大切にいたします。」眞琴はそう言うと、歳三から千尋の形見である鼈甲の櫛と簪が入った桐の箱を受け取った。「何だかこっちまでわくわくしちゃうねぇ、あたしももう一度嫁に行こうかねぇ?」「まぁ、雅代様ったら。」 実家の床の間に置かれた衣桁に掛けられてある白無垢を雅代と眺めながら、眞琴はそう言って笑った。 眞琴と敏明の祝言は、紅葉映える秋の日に行われた。「眞琴ちゃん、おめでとう。幸せになってね。」「ありがとうございます、雅代様。」「眞琴、そろそろ出発しねぇと祝言の時間に間に合わねぇぞ!」「わかったわ、お父様。」 白無垢を纏い、唇に紅をひいた眞琴は、まるで天から舞い降りた天女のように美しかった。「幸せになるんだぞ、眞琴。」「わかりました。」「きっと、千尋も空からお前ぇの花嫁姿を見ているだろうよ。」「ええ・・」“いぶき”を出発した花嫁行列を見る為に、近所の住民達が集まって来た。「あれ、眞琴ちゃんじゃないかい?」「いやぁ、あんなに小さかった眞琴ちゃんが綺麗になって・・」「幸せにお成りよ~!」馬に乗った眞琴は、住民達から祝福の言葉を受けながら、彼らに笑顔を浮かべた。 眞琴が嫁ぎ先である高田邸へと着くと、そこには黒紋つきの羽織袴姿の敏明が玄関先で彼女を待っていた。「眞琴さん、これから宜しくお願いします。」「わたくしの方こそ、宜しくお願い致します。」眞琴はそう言って敏明に頭を下げると、彼に手をひかれながら高田邸の中へと入っていった。 高田邸の大広間で祝言を挙げた眞琴は、そっと髪に挿している鼈甲の簪に触れた。今この瞬間にも、千尋が自分の花嫁姿を見てくれているような気がした。「どうしました?」「いいえ・・」「余り緊張しないでください。」敏明はそう言うと、眞琴の手をそっと握った。―完―にほんブログ村
2014年01月24日
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「内藤さん、わたしもあなたに話したいことがあるんです。」「話、ですか?」「ええ。単刀直入に申し上げますが・・眞琴さんをわたしの娘にしていただけないでしょうか?」「それは、どういう意味ですか?」「わたしが長谷川流の家元を継いでもう十年余りになりますが、残念ながらわたしは幼い頃に罹った病が原因で、子が出来ぬ身体となってしまったのです。」「そうですか・・」「眞琴さんは、今までわたしが教えた生徒の中で、優秀な子です。それに、人を見る目もあります。あの子になら、長谷川流を任せられます。」「今夜、娘に話してみます。」「ありがとうございます、では宜しくお願い致します。」光顕は歳三に向かって頭を下げると、そのまま茶室から出て行った。「まぁ、先生がわたくしにそんな話を?」 その日の夜、歳三は眞琴を自分の部屋に呼び出し、光顕が自分の跡を眞琴に継がせたがっていることを彼女に話した。「お前ぇはどうしたいんだ、眞琴?嫌なら断ってもいいんだぞ?」「わたくしは、三つの頃から光顕先生の下で箏を習ってきました。箏を習う内に、その道を極めるのも良いのではないかと、最近思っているのです・・」眞琴はそう言うと、姿勢を正して歳三の前に座った。「お父様、わたくしは長谷川先生の養女になります。長谷川先生の養女となり、先生が守ってこられた長谷川流の跡を継ぎたいと思っております。」「そうか、お前ぇがそう言うのなら、俺は何も反対しねぇよ。もし今ここに千尋が居たら、あいつも反対しねぇだろう。」「ありがとうございます、お父様。」「眞琴、光顕先生に失礼のないようにな。」「わかりました。」 こうして、眞琴は長谷川光顕の養女となった。「眞琴先生、お客様がお見えです。」「わかりました、今行きます。」 光顕の養女となって数ヶ月が過ぎ、長谷川姓となった眞琴は、彼とともに暮らしながら、筝曲教室の講師も務めていた。「お待たせいたしました、長谷川眞琴と申します。」「君が土方君の娘さんだね?」「失礼ですが、あなた様は・・」「ああ、これは失敬。僕は君のお父さんの古い友人で、大鳥圭介というんだ。」「お父様のご友人が、わたくしに何かご用ですか?」「用ってほどでもないけれど・・上がってもいいかな?」「ええ、どうぞ。客間までご案内致します。」 数分後、長谷川家の客間に入った大鳥は座布団の上に眞琴と向かい合って座ると、一枚の釣書を彼女の前に置いた。「これは?」「実は君に、縁談を持って来たんだ。」「まぁ、わたくしにですか・・ですが大鳥様、わたくしはまだ修行中の身です。結婚などまだ先のことで・・」「眞琴、そうつれなく言うものではないよ。大鳥さんのお話だけでも聞いておやりなさい。」「お義父(とう)様・・」客間に入ってきた光顕はそう娘を諌めると、彼女の隣に腰を下ろした。「眞琴のお相手は、どなたなのですか、大鳥様?」「明治政府高官のご子息で、高田敏明様とおっしゃる方だ。現在英国留学中で、日本に帰国次第君と一度お会いしたいとおっしゃっているんだが・・」「ですがわたくしは・・」「眞琴、一度だけでも会ってみなさい。」「わかりました。」 大鳥が眞琴に縁談を持って来てから一週間後、眞琴は縁談相手の高田敏明と、横浜のホテルで会う事になった。にほんブログ村
2014年01月24日
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「お母様、薬湯をお持ちいたしました。」「ありがとう、眞琴。」 その日の夜、眞琴が薬湯を載せた盆を持って千尋の寝室に入ると、千尋はゆっくりと布団から起き上がり、何かを読んでいる最中だった。「何をお読みになっているのですか、お母様?」「今まで書きためていた日記ですよ。」「そうですか・・見てもよろしいですか?」「ええ。」眞琴が千尋の日記に目を通すと、そこには日々のささやかな出来事や家族への想いが綴られていた。「眞琴、もしわたくしが死んだら、あの長持の中を開けなさい。」「わかりました、お母様。」「お父様のこと、頼みますよ・・」千尋はそう言うと、眞琴に優しく微笑んだ。 数日後の朝、彼は静かに息を引き取った。「お母様、こんなに早くお亡くなりになられるなんて・・」千尋の遺体に取り縋って泣きながら、眞琴はまだ温かい彼の手を握った。「雅代さん、お父様は?」「部屋で塞ぎ込んぢまっているよ。まぁ、無理もないねぇ・・」眞琴はそっと、千尋の顔を覆っている白い布を取った。彼の死に顔は、とても穏やかなものだった。 千尋の初七日の法要を終えた後、眞琴はふと長持を開けてその中にある物を取り出した。それは、生前千尋がつけていた日記帳だった。 一冊目の日記帳に目を通した眞琴は、そこに書かれてある衝撃的な事実を知り愕然とした。(お母様は、男性でありながらお父様と夫婦として暮らしていた・・) 眞琴はページを捲る手を震わせながら、歳三と千尋が戊辰の戦を生き延びたこと、会津の戦場で知り合った女性の出産に立ち会い、その子を眞琴と名付けたことなどが書かれてあった。『眞琴には、実の父親の存在を知らせたくない。いや、寧ろ知らない方がいいだろう。あの男は父親でありながら、眞琴を捨てたのだから。』「お父様、お話があるの。」「何だ?」「わたしの実の、お父様は何処の誰なの?」「どうして、それを・・」歳三はそう言うと、眞琴が握っている千尋の日記帳を見た。「お母様の長持の中から見つけたの。ねぇお父様、わたくしは・・」「お前ぇは何も心配するな、眞琴。」歳三は眞琴を抱き締めると、彼女を落ち着かせる為に彼女の背を優しく撫ぜた。 千尋の四十九日の法要が終わった後、光顕が内藤家を訪れた。「先生、お忙しい中母の為に来て下さってありがとうございます。」「いえ・・わたしの方こそ、告別式に参列できなくて済まなかったね。」光顕はそう言うと、眞琴と歳三に頭を下げた。「長谷川先生、後でお話したいことがあるんですが、宜しいですか?」「ええ、構いませんよ。」 歳三は光顕とともに、“いぶき”の母屋にある茶室へと入った。「お話とは、何でしょうか?」「娘から、物騒な話を聞きましてね・・あなたが、見知らぬ青年に脅迫されているのを見たとか。」歳三の言葉を聞いた光顕は、突然大声で笑い出した。「それは誤解ですよ、内藤さん。眞琴さんが見かけた青年は、わたしの遠縁の従弟ですよ。」「ですが、家を取り戻すと・・」「それも誤解です。確かにわたしが住む家は、元はその従弟の父親のものでした。しかし、彼には事情があり、あの家を手放すことになったのです。」「そうなのですか・・」 歳三はそう言うと、光顕が点(た)てた茶を飲んだ。にほんブログ村
2014年01月23日
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17年前、吉原・黄尖閣の牡丹太夫を砒素(ひそ)で毒殺したのは、かつて牡丹太夫が振袖新造(ふりそでしんぞう)であった頃に牡丹太夫から熱湯をかけられ、顔に醜い火傷を負った黄尖閣の下男・六郎だった。 六郎はかつて翡翠と呼ばれ、いずれ黄尖閣一の太夫となるといわれていた。だがその才能に嫉妬した牡丹が、六郎に些細な言いがかりをつけて彼に熱湯を浴びせた。その所為で顔に酷い火傷を負った六郎は、太夫となることを諦め、黄尖閣の下男となった。 六郎失脚後、牡丹太夫が黄尖閣の看板を背負うことになり、六郎は間近で太夫として輝く牡丹の姿を毎日見る事になった。そしていつしか彼の中では、牡丹に失脚させられた積年の恨みが募ってゆき、それは憎悪となって爆発した。 六郎はあの日、牡丹に砒素入りの茶を飲ませる前に、毒味と称して自分も毒入りの茶を飲んだ。だが砒素入りの飴玉(あめだま)を毎日舐めて砒素に耐性がついていた六郎は中毒を起こさなかった為、彼を信用した牡丹は何も疑わずに毒入りの茶を飲み、そのまま死んだ。「と、事件の真相はこんなものです。」「人の恨みっていうのは、恐ろしいもんだなぁ・・」「ええ。六郎は牡丹を殺してはじめて、安らかな気持ちになったと供述しております。恐らく彼は牡丹が生きている限り、一生彼への憎しみを抱えたまま生きていくのが嫌だったんでしょう・・」 山田が去った後、一人になった歳三は溜息を吐いて冷えた茶を飲んだ。牡丹太夫は才能こそあれど、その才能をひけらかし、周囲に尊大な態度を取って敵を作っていた。もっと彼が謙虚であれば―ライバルである六郎を卑劣な真似をして蹴落とすようなことをしなければ、彼は命を取られるようなことはなかっただろう。「お父様、もうお客様とお話は済みましたの?」「ああ。眞琴、稽古はどうだった?」「先生は今日もわたくしのことを褒めてくださいました。けれど、稽古が終わった後、先生に会いに来た方が何やら物騒な話をしていて・・」「物騒な話?」「ええ。何でも、先生の家はかつて自分の父親の家だったから、父親が生きている内に返してもらうとかなんとか・・お父様、警察を呼んだ方がいいのでは?」「放っておけ。先生とその人との間の問題に、お前ぇが口を挟む資格はねぇ。」「ですが・・」「お父様の言う通りですよ、眞琴。」「お母様・・」母屋から離れに戻ってきた千尋がそう言って自分を見つめていることに気づいた眞琴は、そっと目を伏せた。「眞琴、あなたはもう女学校を卒業したのですから、これから己の道を見つけなければなりませんよ。」「わかっています、お母様。ですが、これからどうすればよいのかわたくしにはわかりません。」「焦らなくてもいいのです。今はただ、己に出来る事を為せばいいのですよ。」「わかりました、お母様。」「もうこんな時間ですから、お昼にしましょうね。」千尋がそう言って台所へと向かおうとした時、彼は胸に鋭い痛みが走り、流しの前に蹲った。「お母様、しっかりしてください!」「千尋、今医者呼んで来るからな!」 町医者が“いぶき”の離れに来たのは、歳三が離れを飛び出して数分後のことだった。「心臓が少し弱っているね。余り無理をさせない方がいいよ。」「わかりました。先生、お忙しいのに診察に来て下さってありがとうございました。」歳三はそう言うと、町医者に向かって頭を下げた。にほんブログ村
2014年01月23日
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「それではお母様、行って参ります。」「気をつけるのですよ。」 眞琴が光顕の元へと向かうと、彼は眞琴の女学生姿を見て嬉しそうに目を細めた。「眞琴さん、女学校卒業おめでとう。」「ありがとうございます、先生。今日もご指導、お願い致します。」「わかったよ。それじゃぁ先週のおさらいを・・」光顕がそう言って稽古を始めようとした時、稽古場に女中が入ってきた。「どうしたんだい?」「旦那様にお会いしたいという方がいらっしゃって・・」「今は稽古中だ、お客様に待っていただくように言いなさい。」「はい・・」女中はそう言って光顕と眞琴に頭を下げると、稽古場から出て行った。「お客様がいらっしゃるのでしたら、わたくしは失礼致します。」「別に会わなくてもいい客だ。さてと、稽古を始めようか。」 稽古の後、眞琴が光顕と稽古場で茶を飲んでいると、そこへ一人の青年が入ってきた。「先生、今日こそ僕のお話を聞いて頂きますよ。」「くどい、君の話なんぞ聞きたくない。帰りたまえ。」「そうは参りません。」青年はそう言うと、光顕の前に腰を下ろした。「先生、こちらの方はどなたです?」「眞琴君、君が気にするような人ではないよ。今日はもう帰りなさい。」「はい。先生、お茶を頂いてありがとうございました。わたくしはこれで失礼致します。」眞琴がそう言って光顕に頭を下げると、青年の執拗な視線を浴びた。「わたくしに何かご用ですか?」「いいえ・・」「先生、またお稽古、宜しくお願い致します。」「気を付けて帰るんだよ。」 眞琴が帰った後、光顕は青年の方へと向き直った。「君は・・いいや、君のお父上は、一体何故この邸に執着するんだ?」「それはこの邸が、かつて我が家のものだったからです。僕は、父が生きている間にこの邸を取り戻したいだけです。」青年はそう言うと、光顕を見た。「一度、君のお父上とお会いして話をしてみよう。」「わかりました。では僕はこれで失礼致します。」 眞琴が帰宅して“いぶき”の母屋に入ると、そこには雅代と見知らぬ男が何かを話していた。「雅代様、ただいま戻りました。」「あら眞琴ちゃん、お帰り。」「そちらの方はどなたです?」「こちらの方は、山田庄治さん。あんたのお父さんの古い知り合いだってさ。」「初めまして、内藤眞琴と申します。父なら離れにおります。」「そうですか。あなたが、内藤さんの娘さんですか。」洋装姿の男―山田庄治はそう言うと、眞琴を見た。「離れまでわたくしが案内致します、どうぞ。」「わざわざ済まないね、ありがとう。」 眞琴が山田とともに離れへと向かうと、歳三が愛刀を磨いているところだった。「お父様、お客様がいらしております。」「俺に客?」「ええ、山田様とおっしゃる方です。」「山田?」「お久しぶりです、土方さん。山田です、覚えておられますか?」「山田か・・元気にしていたか?」「ええ、お蔭さまで。」「お父様、わたくしお茶を淹れて参ります。」眞琴がそう言って離れから出た後、歳三は山田の方へと向き直った。「どうして俺がここに居るってわかったんだ?」「大鳥さんにあなたの消息を尋ねたら、ここの住所を教えて頂いたんです。さっきの方は、娘さんですか?」「ああ。といっても、眞琴は俺の実の娘じゃねぇけどな。それよりも山田、ここに何をしに来た?」「吉原の黄尖閣で牡丹太夫を殺した犯人が、捕まりました。それを土方さんにご報告したくてこうして伺いました。」「そうか・・」にほんブログ村
2014年01月22日
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「旦那様、内藤ご夫妻がお見えです。」「そうか、客間に通してくれ。」来たか―石田はそう思いながら、先程読んでいた新聞から顔を上げた。彼が客間に入ると、来客用のソファには歳三と千尋の姿があった。「いらっしゃいませ、内藤さん。今お茶を・・」「結構だ。」歳三はそう言うと、石田を睨んだ。「あんたが眞琴の実の父親ということは、千尋から聞いてる。それに、この前“いぶき”に渡世人を送りこんで眞琴を拉致しようとしたのも、あんただよな?」「何を根拠にそんな出鱈目(でたらめ)を・・名誉棄損で訴えますよ?」「俺が証拠もなしにあんたにそんな事を言うと思っているのか?」自分を見つめている歳三の紫紺の双眸が、怒りに満ちて鋭い輝きを放っていることに石田は気づいた。「眞琴はお前ぇらには渡さねぇ。それだけをあんたに言いに来たんだ。」歳三はそう言った後、千尋とともにソファから立ち上がり、客間から出た。「待ってくれ、わたしは・・」「あんたが東京帝国大学の教授になれたのは、あんたの奥さんの父親のコネがあったからなれたんだろう?この事をあんたの舅に言いつけたら、どうなるかわかっているよな?」 玄関ホールから外へと出て行こうとする歳三達の後を慌てて追った石田は、そんな言葉を歳三に投げつけられ、まるで金縛りに遭ったかのようにその場から動けなかった。「お願いだ、義父にはこの事を言わないでくれ。」「じゃぁ、あんたの悪事を世間に公表しない代わりに、あんたは眞琴を諦めるんだな。それが、条件だ。」「そんな・・」「あんた、奥さんとの間に息子が居るって聞いたぜ?眞琴以外にも自分の血を分けた我が子が居るんだから、眞琴に執着しなくてもいいだろう?」歳三はそう言うと、自分に怯えている石田の顔を覗きこんだ。「わかった・・条件を呑もう。」「そうか。」歳三は石田に微笑むと、そのまま彼に背を向けて千尋とともに石田邸を後にした。「あれで、あの方が眞琴を諦めるでしょうか?」「さぁな。諦めてくれといいんだが・・」また石田が眞琴を拉致しようと妙な真似をするのではないかという不安に駆られた歳三と千尋だったが、それは杞憂に終わった。「綺麗だねぇ、眞琴ちゃん。まるでお姫様みたいだよ。」「ありがとうございます、まさよさん。」 七五三を迎えた眞琴は、雅代がこの日の為に誂えてくれた振袖に袖を通すと、嬉しそうに雅代に礼を言って彼女に頭を下げた。「可愛いなぁ、本当にお姫様みたいだ。」歳三はそう言うと、眞琴を抱き上げた。 七五三のお参りに行った後、歳三達は写真館で家族写真を撮った。「やっぱり何度見ても、眞琴は可愛いなぁ。」「旦那様ったら・・」振袖姿の眞琴を見ながら何度もそう呟く歳三を見て、千尋はそう言って苦笑した。「まぁ、放っておいておやりよ。歳三さんにとって、眞琴は可愛い娘なんだからさ。」「そうですね・・」 千尋はそう言うと、雅代と互いの顔を見て笑い合った。 14年後―1891(明治24)年3月、17歳となった眞琴は女学校を卒業した。「千尋、女学校卒業おめでとう。」「ありがとうございます、お母様。」「眞琴が女学校卒業かぁ・・あんなに小さかったのになぁ・・」歳三はそう言うと、美しく成長した娘の姿を見て溜息を吐いた。にほんブログ村
2014年01月22日
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「なんだ、てめぇ!?」母屋に入ってきた歳三を睨みつけた男は、そう言うと雅代の喉元から匕首を話さずに、彼を睨みつけた。「それはこっちの台詞だ。てめぇ一体何者だ?」「ふん、そんなのお前ぇには知ったこっちゃねぇだろう、今から死ぬ奴にはよ!」「へぇ、そうかい・・だったら、こっちも容赦しねぇぞ。」男は雅代を突き飛ばすと、歳三に向かって匕首を振り翳した。歳三は咄嗟に身を屈めると、男の向う脛を蹴りあげた。「畜生、舐めやがって!」痛さに顔を顰めた男はそう叫ぶと匕首を投げ捨て、腰に差していた長ドスを抜いた。 男は獰猛な獣を思わせるかのような目つきで歳三を睨むと、上半身裸になった。すると彼の背に彫られた鮮やかな龍の刺青が戸口から漏れる微かな陽光に照らされて、蒼い輝きを放った。「いくぞ・・」歳三は男と間合いを取ると、男が先に攻撃を仕掛けてくるのを待った。「おい、何ぼけっとそこで突っ立ってやがる?まさか、今更俺が怖いんじゃねぇだろうなぁ?」「てめぇ、馬鹿にするんじゃねぇぞ!」男は歳三の挑発に乗り、勢いよく彼に突進してきた。その隙を狙った歳三は、素早く身体を反転させ、男の後頭部に拳を叩き込んだ。「ぐえっ!」蛙が地面に踏みつぶされるかのような声を出した男は、そのまま地面に倒れた。「ふん、ざまぁねぇな。」歳三はそう言うと、しずの身体を縛めている荒縄を切った。「ありがとうございます。」「雅代さん、無事ですか?」「ああ。」「この男と面識はありますか?」「ないよ。さっき突然来てね、眞琴ちゃんは何処だって聞いて来たんだよ。」(こいつの狙いは、眞琴か・・) 昨日千尋から聞かされた話を思い出した歳三は、この男を送りこんだのは石田だとにらんだ。「おい、起きろ。」 男を“いぶき”の母屋の外れにある土蔵に監禁し、歳三はそう言うと男に頭から冷水を浴びせた。男は歳三の顔を見て彼から逃げようとしたが、天井から両足首を荒縄で縛られて逆さ吊りにされているので動けなかった。「なぁ、俺は何もお前ぇを取って食おうとしている訳じゃねぇんだ。ただ、誰に頼まれて此処に来たのかを教えて貰いてぇだけなんだよ。」そう男の耳元で甘い声でそう囁く歳三だったが、男は歳三が悪魔に見えた。「俺は何も知らねぇ・・」「ふぅん、そうか。なら、お前ぇが吐くようにするまでのことだ。」歳三はにっこりと男に微笑むと、五寸釘を彼に見せた。「おい、何する気だ!?」「別に。」 数分後、土蔵の中から男の絶叫が聞こえた。「また、あれをしましたか・・」「あれって何だい?」「いえ、ただの独りごとです。雅代さん、しずさん、お怪我はありませんでしたか?」「ああ。歳三さんが来てくれなかったら、あたしら二人ともあいつらに殺されていたよ。」 土蔵で歳三による苛烈な拷問を受けた男は、歳三に自分に眞琴を拉致するよう指示した者の名を告げた。にほんブログ村
2014年01月21日
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翌朝、千尋と歳三は雅代に、眞琴の実父に会った事を話した。「そうかい、その石田って人、本気で眞琴ちゃんを引き取ろうとしているのかい?」「ええ。ですが、あちらに眞琴は渡せません。三年前、あの男は眞琴を捨てた癖に、今更眞琴を引き取って育てたいなんて・・何かを企んでいるに違いありません!」「まぁ、眞琴ちゃんを余り一人にさせないことだね。箏の先生の家に行く時は、うちのしずをお供につければいいよ。」「申し訳ありません、雅代さんにご迷惑ばかりお掛けしてしまって・・」「困った時はお互い様だろう?それにね、あたしは眞琴ちゃんのことを実の孫のように思っているんだよ。」雅代はそう言うと、千尋に微笑んだ。「かあさま、いってまいります。」「気を付けて行くのですよ。」「では千尋さん、行って参ります。」「しずさん、どうか眞琴のことを宜しくお願いしますね。」「はい、わかりました。眞琴お嬢様、参りましょうか。」 光顕の元へ箏の稽古に行く時は、しずが眞琴を送り迎えする事になった。「先生、今日も眞琴お嬢様の事、宜しくお願い致します。」「わかったよ。稽古が終わり次第、“いぶき”さんに連絡するからね。」「では、わたしはこれで失礼致します。」しずはそう言って光顕に頭を下げると、長谷川邸から出て行った。「せんせい、きょうもよろしくおねがいいたします。」「眞琴ちゃん、今日も宜しくね。」光顕は眞琴に微笑むと、そっと箏の前に座った。 稽古が終わり、光顕はしずが眞琴を迎えに来るまで彼女とお手玉をして遊んでいた。「先生、すいません。」「いえいえ、時々こうやって眞琴ちゃんと遊んで童心にかえるのもわたしにとってはいい刺激になります。」「せんせい、ありがとうございました。」 しずに手をひかれて長谷川邸から出て来た眞琴を、建物の陰から一人の男が見ていた。「女将さん、ただいま戻りました。」「お帰り、しず。眞琴ちゃん、お腹空いたろう?おやつにしようか?」「はい!」「じゃぁ、手を洗っておいで。しず、眞琴ちゃんを厠へ案内しておやり。」「はい。」しずと眞琴が厠へと立った後、“いぶき”の中に一人の男が入ってきた。「いらっしゃいませ。」「女将、ここに眞琴という女の子がいるな?その子は今何処に居る?」「さぁ、そんな子は知りませんねぇ。失礼ですがお客様、お名前は?」「とぼけるな、女将!早く眞琴の居場所を教えろ、さもないと痛い目に遭うぞ!」男はそう叫ぶと、雅代の喉元に匕首(あいくち)を突き付けた。「女将さん、どうなさって・・きゃぁ~!」眞琴の手をひいて厠から戻ってきたしずは、雅代に匕首を突き付けている男の姿を見て悲鳴を上げた。「騒ぐな、女!騒ぐとお前も痛い目に遭わせるぞ!」「眞琴お嬢様、早く離れにお逃げ下さいませ!」男に気づかれぬよう、しずは眞琴を離れへと逃がした。「どうした、眞琴?どうして泣いているんだ?」「へんなおとこのひとが、おもやに・・」「千尋、眞琴を頼む。俺は母屋に行って来る。」「旦那様、これを。」千尋はそう言うと、歳三に彼の愛刀を渡した。「お気を付けて。」「ああ。」 歳三が母屋へと向かうと、そこではしずが柱に身体を縛りつけられており、雅代は匕首を持った男に人質に取られていた。「てめぇ、何者だ!」歳三はそう男に叫ぶと、愛刀の鯉口を切った。にほんブログ村
2014年01月21日
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「降りる時は、お足元にご注意ください。」 馬車が石田邸に着いた後、先に馬車から降りた執事はそう言いながら、千尋と眞琴を邸の中へとエスコートした。「旦那様、内藤様を連れて参りました。」「そうか。」「失礼致します。」 石田邸の客間に入った千尋は、ソファに石田と見知らぬ女性が座っているのを見て、その女性が石田の妻であることに気づいた。「かあさま、この人だぁれ?」眞琴はそう言うと、不安げな顔をして千尋を見た。「この方は、お母様のお知り合いですよ。さぁ眞琴、ご挨拶なさい。」「はじめまして、ないとうまことともうします。」「君が眞琴ちゃんか、可愛いねぇ。」石田は眞琴を見て嬉しそうに目を細めると、隣に座っている妻の方へと向き直った。「あなた、こちらの方はどなたなの?」「内藤さん、こちらは妻の文子だ。」「内藤千尋と申します。」「上田、眞琴ちゃんと暫く一緒に遊んでいてくれないか?」「わかりました。眞琴様、わたくしと一緒に遊びましょう。」「かあさま・・」「上田さんの言う事をよく聞きなさい。石田さんとのお話が終わったら、すぐに迎えにいきますからね。」千尋の言葉を聞いた眞琴は少し不安げな顔をしながらも、上田とともに客間から出て行った。「わざわざわたくしをここに連れて来たのには、何か訳がおありなのでしょう?」「ええ。実は眞琴を、わたくしどもに引き取らせていただけないかと思いましてね・・」「奥様は、それを承諾されたのですか?」千尋がそう言って石田の妻・文子を見ると、文子は静かに頷いた。「ええ。あの子とは血が繋がっていませんが、この人の娘ならわたくしの娘と同じことです。どうか千尋さん、眞琴ちゃんをわたくしどもに引き取らせてください。」「お断りいたします。わたくしは眞琴を実の娘のようにこの三年間育てて参りました。三年前眞琴を捨てた石田様には、あの子を渡すことはできません。」「僕はあの子の実の父親ですよ!娘を育てる権利が、わたしにはある!」「権利という言葉を使う前に、父親としての義務を果たされていらっしゃらない方が何を言いますか?」千尋がそう言って石田を睨むと、彼の隣に座っていた文子が千尋に分厚い封筒を手渡した。「これはなんですか?」「眞琴を三年間わたくしどもの代わりに育ててくださった謝礼金です。」「これは受け取れません。」千尋はそう言うと、文子に金が入った封筒を突き返し、そのまま客間から出て行った。 眞琴は、上田と居間で遊んでいた。「眞琴、帰りますよ。」「はい、かあさま。」「ご自宅までお送り致します。」「いえ、結構です。」 石田邸から帰宅した千尋は、歩き疲れて眠ってしまった眞琴をそっと布団に寝かせた後、溜息を吐いた。「どうした、何かあったのか?」「旦那様・・」歳三の顔を見るなり、千尋は涙を流しながら彼に抱きついた。「千尋、どうしたんだ?」「実は・・」千尋はしゃくり上げながら、眞琴の実父に会ったことを歳三に話した。「そうか、そんな事があったのか・・」「旦那様、あの人達には絶対に眞琴を渡したくありません。」「俺もお前ぇと同じ気持ちだ。」にほんブログ村
2014年01月20日
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「本日の稽古はここまで。」「せんせい、ありがとうございました。」眞琴がそう言って光顕に頭を下げると、彼は眞琴の小さな頭を撫でた。「さてと、稽古が終わったところだし、皆で饅頭でも頂くとするか。」「では、わたくしがお茶を淹れて参ります。」先程千尋と眞琴を稽古場まで案内した女中が、そう言って稽古場から出て行った。「あの方は・・」「ああ、あの人は鈴香さんといって、先代の頃からうちに仕えている人だよ。」「そうですか。先生、眞琴のことをどうぞ宜しくお願い致します。」「こちらこそ、宜しくね。それにしても、眞琴ちゃんは小さいのに礼儀正しい子だ。きっと君の教育が行き届いているからだろうね。」「まぁ・・」千尋が光顕の言葉を聞いて照れ臭そうな笑みを口元に浮かべた時、稽古場の戸が開いて一人の女が入ってきた。 年の頃は三十代前半といったところだろうか、艶やかな黒髪はお団子にして鼈甲の簪を挿して纏めており、薄紫色の着物は彼女の美貌を際立たせていた。「先生、お久しぶりでございます。」「おや文乃(ふみの)さん、随分早く来たんだね。」「ええ。」女はそう言ってしなを作ると、光顕の前に座った。彼女のしぐさを密かに観察しながら、千尋は彼女が花柳界の人間であることに気づいた。「そちらの方は、どなたです?」「ああ、本日からわたしが稽古をつけることになった内藤眞琴さんのお母様だ。千尋さん、こちらの方は神楽坂の芸者さんで、文乃さんだ。」「初めまして、内藤千尋と申します。」「文乃と申します。」文乃と名乗った女は、そう言うと千尋をじっと見た。「わたくしの顔に何かついていますか?」「いいえ。ただ、町人の奥様にしちゃぁ立ち居振る舞いが洗練されているなぁと思いましてねぇ。もしや、旗本か何かの奥様だったとか・・」「それは、詳しくお教えできません。」「そうですか。すいませんねぇ、野暮な事を聞いちまって。先生、稽古は昼からお願いしますね。」「ああ・・」「それじゃぁ、また来ます。」文乃はそう言って光顕に頭を下げると、稽古場から出て行った。「先生は、あの方をご存知なのですか?」「ああ、文乃とは長い付き合いでね。話せば長くなるかな。」「そうですか・・」「先生、お茶がはいりました。」文乃と入れ違いに、稽古場に茶を載せた盆を持った鈴香が入ってきた。「では先生、失礼致します。」「気を付けて帰るんだよ。眞琴ちゃん、またね。」「せんせい、さようなら!」 千尋と眞琴が光顕の家を出て雑踏の中を歩いていると、突然一台の馬車が二人の前に停まった。「内藤千尋様ですね?」「そうですが、あなた様はどなたです?」馬車から出て来た男を見た千尋が彼にそう尋ねると、男は石田家の執事だと名乗った。「旦那様が、あなたにお話があると・・申し訳ありませんが、旦那様の為にお時間を割いていただけないでしょうか?」「・・わかりました。」千尋はそう言うと、自分を不安そうな顔で見ている眞琴の手をひいて石田家の執事とともに馬車の中に乗り込んだ。「どちらに行かれるのですか?」「石田家です。」執事はそう言うと、窓から顔を出して御者に馬車を出してくれと合図を出した。にほんブログ村
2014年01月20日
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「とうさま、かあさま、おはようございます。」「おはよう、眞琴。昨夜はよく眠れましたか?」「はい!」 翌朝、離れで千尋達が朝食を囲んでいると、離れの戸が開いて雅代が入ってきた。「おはよう、千尋さん。」「おはようございます、雅代さん。」「今日から箏のお稽古の日なんだろう?箏は千尋さんがまこちゃんに教えるのかい?」「いいえ、良い先生を見つけましたから、先生のお宅に眞琴とともに通うつもりです。」「そうかい。その先生が優しい人だといいねぇ。」「とんでもない。優しいのは旦那様だけで結構です。」千尋がそう言うと、彼の隣に座っていた歳三が不快そうに顔を顰(しか)めた。「なんでぇ、そんな言い方じゃぁ俺がいっつも眞琴を甘やかしているように聞こえるじゃねぇか?」「あら、それは事実でしょう?この間だって・・」「そこまでにしておきなよ、二人とも!」雅代が千尋と歳三の間に割って入ると、二人は気まずそうな顔をして俯いた。「眞琴、先生には失礼のないようにね。」「わかりました、かあさま。」「眞琴、初めてお会いする方にはどんな挨拶をするのですか?」「“初めまして、ないとうまことともうします。”」「良く出来ました。」 朝食を食べた後、千尋は眞琴を連れて神楽坂にある箏の師匠の元へと向かった。「ここが、せんせいのおたくですか、かあさま?」「そうですよ。」『長谷川』と書かれた表札の前で千尋は一旦立ち止まると、玄関の戸をそっと叩いた。「すいません、どなたかおられませんか?」「はいはい、暫くお待ちくださいな。」家の中から誰かが走ってくる足音が聞こえたかと思うと、玄関の戸が開いて千尋と眞琴の前に一人の女性が現れた。「今日、先生にご挨拶をと思い、こちらに伺ったのですが・・」「そうですか。先生からは聞いておりますので、どうぞ中へ。」 女性に連れられて、千尋が眞琴の手を引きながら長い廊下を歩いていると、稽古場と思われる部屋の中から、箏の音が聞こえた。「先生、内藤さんがお見えです。」「そうか、入っていただきなさい。」「失礼致します。」 女性とともに稽古場に千尋が入ると、そこには三十代後半と思しき男性が箏の前に座っており、彼の隣には一人の少女が座っていた。「初めまして、内藤千尋と申します。こちらは、娘の眞琴でございます。眞琴、先生にご挨拶なさい。」「ないとうまことともうします。これからどうぞごしどうごべんたつのほどよろしくおねがいいたします。」眞琴がそう言って男性に頭を下げると、彼は大きな声で突然笑い出した。「まぁ、何と可愛らしい生徒さんだ。眞琴ちゃんは幾つだい?」「ふたつになります。」「そうか、そうか。眞琴ちゃん、小腹が減っているだろう?先生が饅頭(まんじゅう)を買ってきたから、あとで食べるといい。」「ありがとうございます。」「まぁ先生、ご親切にどうもありがとうございます。」「いえいえ、礼を言うのはこちらです。」男性はそう言うと、再び大きな声で笑った。 眞琴の箏の師匠は、長谷川光顕(はせがわこうけん)と名乗った。にほんブログ村
2014年01月19日
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「千尋さん、あんたにお客様だよ。」「お客様ですか?」「こんな時間に来るなんて、非常識な方ですね。」「何でも、火急の用だってさ。」「お客様はどちらに?」「客間に居るよ。」「わかりました。少し着替えて参りますので、お客様には少し待っていただけるように言ってくださいませんか?」「わかったよ。」雅代はそう言うと離れを出て、母屋の客間へと向かった。「すいませんねぇ、千尋さんは今着替えているところで、もう少し時間が掛かるかもしれません。」「そうですか・・」客間の座布団に正座している洋装姿の男は、そう言うと冷えた茶を飲んだ。「お客様、新しいお茶を淹れて参りましょうか?」「いえ、いいです。」「そうですか・・」雅代はちらりと男を見た後、客間から出て行った。「女将さん、あいつ・・」「しず、お客様に“あいつ”呼ばわりするんじゃないよ。」「すいません・・」雅代はそう言って女中のしずを睨むと、彼女は慌てて雅代に頭を下げた。「女将さん、あたしあのお客様の事を知っています。」「何だって?しず、あんたあのお客様が誰だか知ってんのかい?」「ええ。あのお客様は石田様っていって、東京帝国大学で教鞭を取られている方ですよ。」「へぇ、大学の先生が千尋さんに一体何の用なんだろうねぇ?」「さぁ、知りません。」しずと雅代がそんな事を話していると、着替えを済ませた千尋が母屋に入ってきた。「女将さん、お客様はあちらにおられますか?」「ああ。」「失礼致します。」 “いぶき”の客間に入った千尋は、石田が座布団に座っているのを見て怒りに震えた。「石田様、一体わたくしに何のご用でこちらに来たのですか?」「内藤君、ぬいの娘を、君が育てていると聞いてね・・こんなことをお願いするのは厚かましいかもしれないが、一度娘に会わせて貰えないだろうか?」「こんな時間に訪ねて来て、何をおっしゃるのかと思えば・・」千尋は石田を睨み付けると、彼の手を掴んで彼を無理矢理立たせた。「もうこちらには来ないでくださいませ!」「内藤君、頼むよ・・」「あなたはぬい様をお捨てになったことをお忘れですか?さぁ石田様、奥様とお子様の元にお帰り下さいませ。」「内藤君・・」「しずさん、お客様のお帰りです。玄関先まで送ってさしあげてください。」「はい。」石田に背を向けた千尋は、そのまま母屋を後にした。「千尋さん、あいつが眞琴ちゃんの、実の父親かい?」「ええ。あの男はぬい様を手籠めにし、彼女の誇りを傷付けた最低な方です。」「まぁ・・それで、あいつは何て?」「眞琴に一目会わせて貰えないかと・・どんな神経をしているのやら。」千尋はそう言うと、溜息を吐いた。「雅代さん、ご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありません。」「謝らなくてもいいよ。もう遅いから、早くお休みよ。」「お休みなさい。」 千尋が離れに入ると、歳三が眞琴を抱いて布団の中で眠っていた。眞琴の小さな足が布団の端からはみ出ているのを見た千尋は、そっと布団を眞琴の足の上に掛けた。 彼女の愛らしい寝顔を見つめながら、千尋はそっと目を閉じて眠った。にほんブログ村
2014年01月19日
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外で千尋と歳三は眞琴と三人で羽子板を思いっ切り打ち合った後、“いぶき”の離れに戻り火鉢の前に座った。「寒かっただろう、眞琴?」「さむくなかった。」「そうか。じゃぁ、また一緒に父様と外で遊ぼうなぁ!」「うん!」自分に屈託のない笑みを浮かべる眞琴の頭を撫でながら、歳三は彼女の小さな身体を抱き締めた。「眞琴、おやつですよ。」「ありがとうございます、かあさま。」「食べる前に、手を洗いなさい。」「わかりました。」眞琴は小さな頭を千尋と歳三に向かって下げると、厠へと向かった。「千尋、あいつが良い子に育ったのは、お前ぇのお蔭だな。」歳三はそう言うと、千尋を抱き締めた。「旦那様?」「さっきは少し言い過ぎた、ごめん。」「いいえ、わたくしの方こそ厳しく言い過ぎました。眞琴の前で喧嘩をしてしまって、申し訳ないと思っております。」「なぁ、眞琴には何か習い事をさせるつもりなのか?」「ええ。あの子には箏(こと)を習わせようかと思っております。」「箏ねぇ・・俺は箏よりも、読み書きをはじめに習わせた方がいいかと思うんだが・・」「じゃぁ、読み書きも習わせましょう。わたくしが読み書きを教えますから、ご心配なく。」厠から眞琴が戻って来たのを見た千尋は、そう言うと彼女の方へと駆けていった。 三箇日が終わり、千尋はさっそく眞琴に読み書きを教える事にした。「さぁ眞琴、ここに“いろは”と書いてごらんなさい。」「はい。」眞琴は千尋から教わった通りに墨をすり、半紙の上に大きな字で“いろは”と書いた。「良く書けていますね。じゃぁ後十回位、この紙に“いろは”と書いてごらんなさい。」「かあさま、もうあきてしまいました。」「そんな事を言わずに、書いてごらんなさい。」千尋はそう言って眞琴に筆を握らせようとしたが、退屈した眞琴は畳の上に寝転がってしまった。「そうねぇ、同じ字ばかり書いたら飽きてしまうわよねぇ。少し休憩しましょうか?」「はい!」眞琴と母屋の居間で大福もちを千尋が食べていると、そこへ雅代が入ってきた。「珍しいねぇ、まこちゃん達がここに来るなんて。」「お邪魔しております、雅代さん。」「今日からまこちゃんに読み書きを教えているんだろう?どうだい、まこちゃんの様子は?」「はじめは嬉しそうに字を書いていたんですけど、暫く経つと退屈してしまって・・どうしたらいいんでしょう?」「余り根詰めない方がいいよ。読み書きなんて毎日ひとつずつ覚えていけばいいんだから。」「そうですね・・」千尋はそう言って溜息を吐くと、大福もちを頬張る眞琴を見た。 千尋が眞琴に読み書きを教え始めて、一週間が過ぎた。「かあさま、出来ました。」「良く出来ましたね、眞琴。」上手く字が書けたことを千尋から褒められた眞琴は、千尋に笑顔を浮かべた。「もうお風呂の時間になりましたから、かあさまと一緒にお風呂に入りましょうね。」「はい!」にほんブログ村
2014年01月18日
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1877(明治10)年元旦。“いぶき”の離れで、歳三と千尋は眞琴(まこと)とともに三度目の正月を迎えた。「新年明けましておめでとうございます、本年も宜しくお願い致します。」「宜しくお願い致します。」「さてと、初詣はもう済んだし、正月らしく雑煮でも食おうかね。」「ええ。」 千尋と雅代が離れに雑煮を載せた膳を運ぶと、そこでは歳三が眞琴の遊び相手をしていた。「かあさま、新年あけましておめでとうございます。」「おめでとうございます。」歳三の膝の上で遊んでいた眞琴は千尋の姿を見ると、千尋と雅代の前で正座して二人に新年の挨拶をした。「お利口さんだねぇ、まこちゃんは。ちゃんと新年の挨拶が出来るなんて、この年じゃあ普通考えられないよ。」雅代は感心したような口ぶりでそう言うと、眞琴の頭を撫でた。「眞琴はまがりなりにも武士の娘です。目上の者には礼を尽くせと、いつも厳しく躾(しつけ)ております。」「まこちゃんは今年で幾つになるんだい?」雅代の問いに答える代わりに、眞琴は指を「三」の字に広げた。「みっつになるのかい。じゃぁ今年は七五三だねぇ。」「ええ。産まれた時は小さくて、健康に育つだろうかと不安になりましたが・・大きな怪我や病気もせずにこうして育ってくれて、親として嬉しく思います。」 眞琴の頭をそっと撫でながら、千尋はそう言って彼女に微笑んだ。三年前、千尋の友人・ぬいが己の命と引き換えに産んだ眞琴は、まさに健康そのものだった。 千尋は眞琴に、武士の娘として必要な礼儀作法を徹底的に叩き込んだ。時代は変わっても、人として大事なことを幼時に教えなければ、眞琴の為にはならぬと思い、千尋は一度も眞琴を甘やかさなかった。だが千尋とは対照的に歳三は眞琴を溺愛した。眞琴が欲しい物を買ってやり、眞琴が駄々を捏ねるとすぐに菓子を与えた。「どうしたんだい、こんな目出たい日に溜息なんか吐いて?」「旦那様は眞琴に甘過ぎます。わたくしはあの子を立派な大人に育てたいと思って厳しく接しているというのに、旦那様はあの子をすぐに甘やかして・・あれでは、眞琴の為になるどころか、毒になります。」「男親ってのはね、そういうもんだよ。そんなに目くじら立てて怒る事ないじゃないか?」「ですが・・」 台所で千尋が雅代とともに洗い物をしていると、そこへ眞琴を抱いた歳三が入ってきた。「旦那様、わたくしにご用でしたらわたくしが離れに参りますのに・・」「なぁに、眞琴の菓子を取りに来ただけだ。」「旦那様、余り眞琴にお菓子をあげないでくださいませ。眞琴、暫く外で遊んでいなさい。」「え~」眞琴はそう言うと、渋面を浮かべた。「そんな顔をしても、お菓子はあげませんよ。外で思いっ切り遊んだ後に食べた方がお菓子は美味しいのですよ。」「千尋、最近お前ぇ、眞琴に厳し過ぎやしねぇか?まだ三つなのに・・」「幼い頃から礼節を教えるのが親の役目です。駄々を捏ねるたびにお菓子を与えてしまったら、あの子が味をしめてしまいます!」「二人とも、正月に言い合いをするのはお止しよ。まこちゃんも不安そうな顔をしているじゃないか。」ふと千尋と歳三が眞琴を見ると、彼女は歳三の腕の中で不安げな顔をして二人を見ていた。「そうだなぁ、雅代さんの言う通りだ。三人で羽子板でも打って遊ぶとするか?」「そうしましょう。」にほんブログ村
2014年01月18日
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ぬいの四十九日が過ぎた後、ぬいの娘・眞琴(まこと)を養女に迎えた歳三と千尋は、それまで住んでいた長屋を引き払い、“いぶき”の離れへと引っ越した。「雅代さん、これからご迷惑をお掛けしますが・・」「赤ん坊が泣くのは仕事さ。困った事があったら、あたしをいつでも頼っておくれよ。」雅代はそう言うと、千尋に抱かれている眞琴に微笑んだ。 眞琴を育てるといっても、子どもを育てるには今住んでいる長屋は狭すぎるし、何よりもどう育てればよいのかがわからない。歳三と千尋が途方に暮れている中、彼らに手を差し伸べてくれたのは“いぶき”の女将・雅代だった。「困った時はお互い様。丁度うちの離れが空いているから、そこに引っ越せばいいよ。」“いぶき”の離れに引っ越した千尋と歳三は、雅代達に引っ越し蕎麦を振る舞った。「こんなことしか出来ませんが・・」「いいよ。眞琴ちゃんがうちに来てくれて、家の空気が明るくなったねぇ。」雅代はそう言って蕎麦を啜りながら、網代籠の中で寝ている眞琴を見た。「何だか、眞琴ちゃんがうちの孫みたいに思えて仕方がないんだよ。だからあんた達の事を放っておけなかったのさ。」「そうですか・・」「ぬいさんは、残念な事になっちまったけど、最期にあんたに会えてあの子は幸せだったと思うよ。」「ええ・・」「これから、宜しくね。」「こちらこそ、宜しくお願い致します。」千尋はそう言うと、姿勢を正して雅代に頭を下げた。「それでは、行って参ります。」「気を付けてね。」“いぶき”の離れから出て女学校へと向かった千尋は、教室に入る前に一人の教師に呼び止められた。「内藤さん、あなたにお会いしたいという方がいらっしゃっています。」「わたくしに、ですか?」「ええ。校長室にわたくしと一緒に来て下さい。」 数分後、千尋が校長室に入ると、そこには一人の男がソファに座っていた。「石田さん、内藤さんを連れて参りました。」「ご苦労さま。君はもうさがっていいよ。」「では、わたくしはこれで失礼致します。」千尋を呼び止めた教師は、そう言って男―石田に頭を下げると、校長室から出て行った。「石田様、ぬい様は・・」「あの子は、元気にしているかい?」「ぬい様は、あなたの子を産んだ後お亡くなりになりました。一週間前にぬい様の四十九日の法要を終えたばかりです。」「そんな・・彼女が、妊娠していたなんて知らなかった!」「何をぬけぬけと・・ぬい様を孕ませたのは、あなた様ではありませんか!」千尋はそう言って石田を睨み付けると、ソファから勢いよく立ち上がった。「あれは・・」「魔がさしたとでもおっしゃりたいのですか?あなたの所為でぬい様は苦しみ、我が子を胸に抱くことなくわたくしの目の前で亡くなられたのですよ!」千尋は石田に腹が立ち、彼の胸倉を掴んだ。「ぬいさんが産んだ子は・・」「あなたはぬい様を捨てた方です、そのような事を教える訳には参りません。」「そんな・・」「このままお帰り下さい、石田様。もう二度と、わたくしの前に現れないでください。」石田は千尋の言葉を聞いて何か言おうとしたが、そのまま何も言わずに肩を落として校長室から出て行った。にほんブログ村
2014年01月17日
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朝だというのに、蝉が姦(かしま)しく鳴き、その声を聞いた歳三は汗を拭いながら寝床から起き上がった。「おはようございます、旦那様。」「おはよう。」「朝食の支度はもう出来ております。」「すまねぇなぁ、期末試験で忙しいっていうのに、俺の飯の世話までして・・」「わたくしはあなた様の妻です。これくらい、して当然です。」千尋はそう言うと、歳三の前に朝食の膳を置いた。「味噌汁はどうした?」「この季節は暑いだろうからと、味噌汁は作りませんでした。」「そうか。千尋、今日学校はどうした?」「学校は創立記念日でお休みです。旦那様、わたくしは図書館に行って参ります。」「気を付けて行けよ。」「はい。」千尋は白い繻子の洋傘を家の前で広げると、論文の資料探しをする為に図書館へと向かった。 ぬいが突然失踪して、半年もの歳月が過ぎた。だが未だ彼女の消息は掴めないままだった。一体彼女は何処に消えてしまったのだろうか―そう思いながら千尋が図書館への道を歩いていると、向こうから一台の馬車が猛スピードで走って来るのが見えた。その馬車の前に、一人の女が現れた。「危ない!」千尋は我が身の危険を顧みず、女を馬車から守る為に彼女の上に覆い被さった。馬の嘶きが辺り一面に響き渡ったかと思うと、馬車は千尋達の前で急停車した。「大丈夫ですか?」「ええ・・」千尋が女の顔を見ると、それはぬいだった。「ぬい様・・」「千尋様・・」ぬいはそう言って立ち上がろうとした時、下腹を押さえ突然地面に蹲った。「どうなさったのです、ぬい様?」「産まれるかもしれません・・」「何ですって!?」千尋がふとぬいの迫り出した下腹を見ようとした時、彼女の足元に水溜りが出来ていた。「誰か、産婆さんを呼んでください!」 千尋と近所の住民達によって産婆の元へと運ばれたぬいは、額に脂汗を浮かべながら産みの苦しみに耐えていた。「ぬい様、しっかりなさってください!」「こりゃぁ、難産になるよ。あんた、この子の知り合いかい?」「ええ。」「この子が弱気にならないように、しっかり励ましとくれ。」「はい、わかりました。」 ぬいは、稀に見る難産だった。産室は彼女の呻き声と、千尋と産婆が彼女を励ます声に包まれた。「さぁ、頭が出て来たよ!あと少しだ!」「ぬい様、息んでください!」ぬいは最後の力を振り絞り、新しい命を産み落とした。「元気な女の子だ、良かったね。」「ぬい様、おめでとうございます。」清潔な布に包まれた赤子を胸に抱いたぬいは、滂沱の涙を流した。「千尋様・・この子のことを、頼みます。」そう言った後、ぬいは静かに目を閉じた。「ぬい様、しっかりなさってください、ぬい様!」ぬいは、難産の末に亡くなった。「悔しかったろうな、ぬいは。娘を置いて逝くことになるなんて・・」「旦那様、わたくしこの子をぬい様の代わりに育てたいのですが、よろしいでしょうか?」「いいに決まっているじゃねぇか。」ぬいの遺児・眞琴(まこと)は、内藤家の養女となった。にほんブログ村
2014年01月17日
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二ヶ月前、いつものように陽炎楼の前で水撒きをしていたぬいは、自分を訪ねて来た大学教授・石田のズボンに水を掛けてしまった。「申し訳ございません・・」「いえ、大丈夫です。すぐに乾きますから。」「そういう訳には参りません、さぁ中へどうぞ。」「わかりました・・」 石田をぬいが女中部屋に招き入れたのは、自分が濡らしたズボンを乾かす為だった。「ズボンを脱いでくださいませ。」「はい・・」石田はぬいの前で躊躇いなくズボンを脱ぐと、突然彼女に覆い被さって来た。「何をなさるのです、離してくださいませ!」「ぬいさん、ずっと君の事を想っていたよ・・」ぬいは必死に抵抗したが、男の力の前で敵う筈もなく、そのまま彼女は石田に凌辱されてしまった。「・・そんなことがあったのですか。警察には?」「言いませんでした。ただ、春海さんには相談しました。」「春海さんは何と?」「強制的に妊娠したのならば、腹の子を始末した方がよいと・・憎い男の血をひく子どもを産むのは、屈辱以外の何物でもないと春海さんはそうおっしゃっておりました。」「そうですか。」千尋は、そっとぬいの震える手を握った。「ぬい様、この事は誰にも口外致しませんから、安心してください。」「ありがとうございます、千尋様・・」ぬいはそう言うと、袖口で涙を拭った。「今日のところは、陽炎楼に帰ります。暫く一人で、これからの事を考えてみます。」「そうした方がよいと思います。陽炎楼まで送りましょうか?」「いいえ、それには及びません。今日はお話を聞いてくださって、ありがとうございました。」ぬいはそう言って千尋に頭を下げると、そのまま座敷から出た。「千尋、ぬいと何を話していたんだ?」「それは秘密です。旦那様、お仕事頑張ってくださいませ。」「ああ・・」 数日後、千尋が女学校で華道の授業を受けていると、彼は誤って花鋏で菊の枝を切ってしまった。「申し訳ありません・・」「気にしなくてもいいですよ、内藤さん。失敗は誰にでもあることです。」「はい・・」千尋はそう言って教師に頭を下げると、再び花を活(い)け始めた。内藤家にぬいが失踪したという文が届いたのは、その日の夕方のことだった。「春海様、ぬい様は何処へ?」「それが、わたしにもわかりません。身重の身で、一体何処に消えてしまったのか・・」春海花魁は、そう言うと俯いた。自分がぬいを追い詰めてしまったのかもしれないと、彼女は自責の念にとらわれていた。「春海様、ぬい様が消えたのは、あなた様の所為ではありません。どうか、お気を確かにもってくださいませ。」「千尋様・・」 春海花魁の肩にそっと触れた千尋は、そう言ってそのまま彼女を背後から抱き締めた。ぬいが陽炎楼から失踪してから四日が過ぎたが、彼女の消息は杳(よう)として知れなかった。(ぬい様、どうかご無事で・・) 近所の神社に参拝した千尋は、ぬいの無事を祈った。にほんブログ村
2014年01月16日
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「菊千代(きくちよ)はどこだ、菊千代を出せ!」 座敷に歳三が入ると、件の客は畳の上で寝転がりながら袖にされた芸者の名を叫んでは泣いていた。「お客様、お水をお持ちいたしました。」「水など要らん、菊千代を呼んで来い!」「菊千代姐さんは今夜、他のお座敷に出ていてここには来ませんよ。」歳三はそう言って客に水を差し出すと、客は彼の手を乱暴に振り払った。「お客様、酔い潰れる前に帰った方がよろしいのでは?」「うるさい、お前に俺の何がわかる!俺は菊千代が来るまで帰らんからな!」男はそう叫んで歳三に徳利を投げつけた。 歳三は鬼のような形相を浮かべると男の胸倉を掴み、彼の身体を畳の上に転がした。「てめえ、客に向かって何しやがる!」「おい親爺(おやじ)、店に客扱いされたいって思うんだったら、店に迷惑を掛けるんじゃねぇ!うちは客商売だが、あんたみてぇな客はこっちから願い下げだ!」「何だと、この野郎!」怒気を孕んだ声で歳三にそう怒鳴りつけた男は、歳三に向かって拳を振り上げた。だが歳三は男の懐に飛び込むと、再び男を畳の上に転がした。「おい、大丈夫か?」「板長、こいつを縛っておいてください。俺は警察を呼んで来ます。」「おう、わかった。」 数分後、男は警察に連行された。「あんた、やるねぇ。あんな大男を簡単にのしちまうなんて、タダものじゃないね?」「まぁ、色々ありましてね。」「そうかい。俺も昔から喧嘩っ早くてねぇ、色々と悪い事ばかりしてきた。まぁ、やくざな道に進まずに済んだのは、ここの板長のお蔭かな。」「板長に恩があるんですね。」「ああ。俺にとっちゃぁ板長は、実の親父みてぇな人だ。俺ぁいつか、一流の料理人になるんだ。」「その夢に向かって、頑張ってください。」「おう、頑張るぜ。」 歳三が銀二とともに割れた徳利や猪口、皿の破片を拾い集めて座敷から出た後、渡り廊下に一人の女が歳三達に向かって歩いてくるところだった。その女は、吉原で千尋と陽炎楼の前に居た、ぬいだった。「ぬい・・」「あなたは・・」「隼人、知り合いか?」「ええ、まぁ・・ぬい、お前ぇこんな所に何をしに来たんだ?」「わたくしと食事をする為です。」ぬいの背後から千尋が出て来て、彼はそう言うと歳三を見た。「そうか。」「それではぬい様、参りましょうか?」「ええ。隼人様、失礼致します。」ぬいはそう言って歳三に頭を下げると、千尋とともに奥の座敷へと入っていった。「それで、お話とはなんですか、ぬい様?」「千尋様、わたくし、妻子ある男の子を身籠ってしまいました。」「まぁ・・お相手の方は、どのような方なのです?」「その方は、大学の先生で、よく陽炎楼に遊びに来ておりました。わたくしは彼の目当ては春海花魁だと思っておりましたが、本当はわたくし目当てで通ってくださっていたようでして・・」ぬいは言葉を切ると、溜息を吐いて茶を一口飲んだ。「ぬい様、わたくしでよければ話してくださいませ。ぬい様の身に何があったのかを。」「わかりました・・」ぬいは深呼吸すると、二ヶ月前陽炎楼で起きた事を千尋に話した。にほんブログ村
2014年01月16日
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「千尋さん、あなたにお客様よ。」「わたくしに、ですか?」「ええ。」千尋が教室から出て廊下に向かうと、そこにはぬいの姿があった。「ぬい様、どうされたのです?」「千尋様、今日あなたにお話したいことがあるのです。」「わかりました。」「じゃぁ、今夜この場所に来て下さいね。」ぬいはそう言って千尋に一枚の紙を渡すと、そのまま彼に背を向けて女学校から出て行った。「さっきの方、千尋様のお知り合いなの?」「ええ。」始業を告げる鐘の音が聞こえ、千尋は教室に戻った。「じゃぁ皆さん、さようなら。」「さようなら。」 放課後、女学校の正門前で詩織達と別れた千尋が深川の自宅まで歩いていると、彼は背後に視線を感じた。「こそこそと隠れていないで出て来たらどうです?」「ちぇ、ばれたか。」茂みの向こうから青年が現れたかと思うと、彼はそう言って舌打ちした後千尋を見た。「あなた、お名前は?」「俺かい?別に、名乗るほどの者じゃねぇぜ?」「さっきからわたくしのことを尾(つ)けていたようですけれど・・誰かに頼まれたのですか?」「それは俺の口からは言えないねぇ。」青年はそう言うと、口端を上げて笑った。千尋はじっと青年を睨んだ後、彼に背を向けて再び歩き出した。すると、青年も千尋の後をついてきた。「ついてこないでください。」「いや、帰る方向が同じなんだけど・・」「そんな嘘、わたくしに通用するとでも思っているのですか?」千尋はそう言って再び青年を睨むと、彼は両肩をすくめて溜息を吐いた。「そんなに警戒する事ねぇじゃねぇかよぉ。俺は別に、あんたに何かしようとしている訳じゃないんだし・・」「そうですか。ならば、今すぐわたくしの目の前から消えてください。」「わかったよ・・」青年は小声で何かを呟くと、そのまま千尋に背を向けて雑踏の中へと消えていった。「ただいま戻りました。」「お帰り。今日は変わった事はなかったか?」「女学校から帰る時、変な男に後を尾けられました。」「そいつに何か変な事されてねぇか?」「ええ。ただ、少し胡散臭い男でした。」千尋はそう言って襷掛けすると、台所で夕飯の支度を始めた。「料亭でのお仕事はどうですか?上手くいっていますか?」「まぁ、黄尖閣でやっている仕事と大して変わりはねぇけどな。それよりも千尋、もうすぐ試験だろう?余り無理するなよ?」「ええ。」 千尋と夕食を取った後、歳三が料亭に出勤すると、何やら座敷の方が騒がしかった。「何かあったんですか?」「酒癖が悪い客が、お気に入りの芸者に袖にされちまって今大暴れしてんだよ。」座敷での騒ぎを歳三がそれとなく板場で聞いてみると、板前の銀二がそう言って溜息を吐いた。「全く、迷惑なこった。」銀二がそう呟いている間にも、座敷の方からは皿が派手に割れる音が聞こえた。「銀二さん、俺がその客を大人しくさせてみせます。」「大丈夫かい、あんた?そいつ、腕っ節が強いから、あんたが座敷に行ったらふっ飛ばされちまうよ?」「大丈夫です。俺も腕に自信がありますんで。」にほんブログ村
2014年01月15日
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「誰かと思ったら、小菊(こぎく)じゃねぇか。」男はそう言うと、陰間に向かって下卑た笑みを浮かべた。「主様は、どなた様でありんすか?」「とぼけるな!お前ぇが牡丹殺したんだろ!?」男は陰間にそう怒鳴った後、彼の華奢な手を掴んで彼を人気のない場所へと連れて行こうとしていた。「おい、何してんだ!」歳三が二人の間に割って入ると、男はじろりと彼を睨んだ。「なんだ、てめぇは?」「俺は小菊の知り合いだ。こいつに何かしやがったら、警察呼ぶからな!」「くそ、覚えていやがれ!」男は舌打ちすると、乱暴に陰間を突き飛ばした。「ありがとうござんした・・助かりんした。」「お前ぇ、黄尖閣に居たよな?どうしてここに居るんだ?」「黄尖閣が休業して、わっちらは料亭や廓で芸を披露して銭を稼いでいるんでありんす。歳三様は何故ここに?」「俺も、黄尖閣が営業を再開するまで、この料亭で働こうと思ってな。まだ営業が再開するのには、時間がかかりそうだし・・」「そうでありんすなぁ。歳三様、少し変わったことはありんせんか?」「何でそんな事を聞くんだ?」「実は七日前・・牡丹太夫が殺される前に、黄尖閣の前でわっちは一人の男に声を掛けられんした。背が高くて、外套を着た粋な男でありんした。」「その男は、この前うちに押し入った奴かもしれねぇな・・」歳三は小菊の言葉を聞いてそう言うと、低く唸った。「歳三様、その男とはお知り合いで?」「いいや。小菊の方こそ、その男を知っているのか?」「いいえ。ただその男は、牡丹太夫と歳三様の事を聞いておりんした。」「そうか・・」家に押し入った男が、牡丹太夫を殺したのではないか―歳三がそんな事を思っていると、小菊がそっと歳三の袖をひいて人気のない場所へと彼を連れ出した。「どうした?」「あの人でありんす、わっちに話しかけてきたのは。」そう言って小菊は震える指で中庭を隔てた座敷の中で談笑している男を指した。(あいつ・・)その男は、長身で彫りの深い顔立ちをしていた。「おい、あんた!」「何だい君、勝手に入ってくるなんて真島(まじま)先生に失礼だろう!」歳三が彫りの深い顔をした男の座敷に入ると、彼の隣に座っていた眼鏡を掛けた男がそう言って歳三を睨んだ。「鈴木君、下がりなさい。」「ですが先生・・」「わたしは大丈夫だから。」「では、失礼致します。」眼鏡を掛けた男―鈴木は、歳三を睨み付けるとそのまま座敷から出て行った。「そこへ掛けたまえ。君はわたしに聞きたい事があってここに来たんだろう、内藤君?」「あんた、この前うちを外から覗いていただろう?」「そんな事はしていない。」「とぼけるんじゃねぇ、千尋がお前ぇのことを見ていたんだ!それに数日前、家に押し入ったのもあんただろう!」「落ち着きたまえ内藤君、わたしは神に誓ってそんな事はしていない。」「じゃぁ一体誰が・・」「君の家に押し入ったりしたのは、狩野の手の者だ。」「お前ぇ、狩野のことを知っているのか?」「まぁね。内藤君、この際だし、互いに腹を割って話し合おうじゃないか・・これから先の将来の事について。」彫りの深い顔をした男―衆議院議員・真島誠司はそう言うと、猪口の淵に残っていた酒を美味そうに舐めた。にほんブログ村
2014年01月15日
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牡丹太夫が何者かに殺害された事件から、一週間が過ぎた。黄尖閣で一番人気の太夫が殺されたとあって、吉原中は大騒ぎとなった。「牡丹が殺されるなんてねぇ・・気立ての良い子だったのに。」「芸達者だし、客あしらいだって上手かったのにねぇ、残念な子を亡くしたよ。」黄尖閣の近くにある蕎麦屋では、客達が牡丹太夫の思い出話に花を咲かせていた。「ねぇ、これは噂で聞いたんだけどねぇ・・牡丹って子、敵が多かったみたいだよ?」「それは本当かい?」「まぁ、あの子は器量よしだし芸の腕も一流だけど、キツイ性格の所為で何度か周りと衝突していたって、三郎さんから聞いてるよ。何でも、牡丹が新造振袖だった頃、自分を追い落とそうとしていた子の顔に熱湯を浴びせて大火傷を負わせたとか・・」「物騒なことをしていたんだねぇ、あの子。」「三郎さんも、あの子に手を焼いていたよ。“あのキツイ性格さえ直れば後世に名を残せただろうに”っていつも此処に来ては蕎麦啜ってぼやいていたよ。」「牡丹を殺した犯人、誰なのか判らないんだって?」「ああ。」 蕎麦屋から少し離れた所に、置屋“おきむら”があった。「珠洲(すず)、もうすぐお座敷の時間だよ、早く支度をおし!」「はぁい。」吉原芸者・珠洲はいつものように鏡台の前で手早く化粧を済ませると、三味線を抱えて自分の部屋から出た。「今日のお座敷は大切なお客様がおいでになるんだから、失礼のないようにね!」「わかってますよ。」女将の小言を右から左へと聞き流しながら、珠洲はそう言うと“おきむら”を出て、陽炎楼へと向かった。「あら、珠洲さんじゃありんせんか?」「今日も同じ柄の着物でありんすね。」珠洲が陽炎楼に入って座敷へと向かおうとした時、すれ違いざまに二人の遊女たちがそう言って彼女の身なりを笑った。「あんたらも、昼間からお暇なこったね。そんなんだからいつまで経っても穀潰しっていわれるのさ!」珠洲がそう言って遊女たちを睨み付けると、彼女達は怒りで顔を赤く染めながら珠洲に背を向けて走り去っていった。「ふん、小娘なんざあたしの敵じゃないんだよ。」珠洲はそう呟いて鼻を鳴らすと、客が待つ座敷へと向かった。「珠洲、待っておったぞ!」「旦那様、お久しぶりでございます。」珠洲は客に向かって愛想笑いを浮かべると、そっと彼にしなだれかかった。「旦那様、いつ奥様と別れてくださるんです?」「女房と別れるには時間がかかるって、この前も言っただろう?お前は辛抱強く待っていればいいんだよ。」「へぇ、わかりました。じゃぁ旦那様、あたしの三味線でも聞いてくださいな。」 珠洲はそう言うと、袋から三味線を取り出した。「じゃぁ千尋、今日も行って来る。」「お気を付けて。」 黄尖閣が休業している間、歳三は別の仕事を見つけた。「帰り、また遅くなると思うから戸締りはしっかりしておけよ。」「わかりました。」家の前で歳三を送り出した千尋は、家の中に戻ると戸の隙間にしんがり棒を二本挿し込んだ。 歳三が新しい仕事先である料亭へと向かうと、そこには黄尖閣で何度か見かけた事がある陰間の姿があった。陰間に声を掛けようかどうか歳三が迷っていた時、その陰間に一人の男が近づいて来た。にほんブログ村
2014年01月14日
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「隼人さん、これ牡丹太夫に渡しておいておくれ。」「はい・・太夫、何処か悪いんですか?」「胸が悪いんだってさ。」黄尖閣の下女から薬湯を載せた盆を受け取った歳三は、そのまま調理場から出て太夫の部屋へと向かった。「太夫、居ますか?」襖の向こうから歳三が牡丹にそう呼びかけたが、中から返事は返ってこなかった。「太夫、入りますよ?」恐る恐る襖を開けた歳三は、布団の上で牡丹太夫が口から血を流して死んでいるのを発見した。「親父さん、大変です!」「どうしたんだ、そんなに慌てて?」「太夫が・・死んでいます!」「何だって!?」 三郎は歳三とともに牡丹太夫の部屋に入ると、牡丹太夫の遺体はまだ布団の上にあった。「牡丹、何だってこんな事に・・」「親父さん、今警察を呼びました!」「そうか・・みんな、済まねぇが暫くここに残ってくれねぇか?」「はい・・」 牡丹太夫が殺害されたことで黄尖閣は暫く休業することになった。「旦那様、牡丹様が殺されたというのは本当なのですか?」「ああ。犯人はまだ見つかっていない。」「そうですか・・旦那様、昨夜わたくしが台所で夜食を作っていると、外で妙な男が家の中を覗いているのを見ました。」「妙な男?」「長身で、外套を着た男です。彫りの深い顔立ちをしておりました。」「そうか・・千尋、暫く一人で夜道を歩くんじゃねぇぞ、わかったな?」「はい、わかりました。」千尋はそう言うと、敷いてある布団に入って眠った。 その夜、家の中を何者かが歩きまわっている足音が聞こえ、千尋は目を開けて闇の中で聞こえる音に耳を澄ませた。千尋は伊達締めに巻いてある懐剣を抜き、音がする台所の方へと向かった。「何奴!」「・・畜生!」自分の顔めがけて笊(ざる)が飛んできたので、千尋は笊を咄嗟に避け、男の腹に白刃を突き立てた。「ぐあっ!」苦悶の叫びを上げた男は千尋を突き飛ばすと、戸を開けて外から出て行った。「待て!」男の血が滴った懐剣を握り締めながら千尋は男の後を追おうとしたが、男は闇の中へと消えてしまった。「千尋、何があった?」 翌朝、帰宅した歳三が荒れ果てた家の中を見ながらそう千尋に尋ねると、彼は懐剣を握り締めたまま身体を小刻みに震わせていた。「旦那様、男が昨夜、家に・・」千尋はそう歳三に告げた後、気を失った。「千尋、しっかりしろ!」 数分後、千尋が目を覚ますと、歳三が自分の手を握っていた。「旦那様、わたくしは・・」「医者は、軽い貧血だってさ。昨夜は怖い思いをさせて、済まなかったな。」「謝らないでくださいませ、旦那様。」千尋はそう言って布団から起き上がると、歳三に抱きついた。「わたくしは内藤隼人の妻です。あなたが留守の間、この家を守るのが妻であるわたくしの役目です。」「余り、無理するんじゃねぇぞ。」「はい・・」千尋は歳三の体温を感じながら、そっと目を閉じた。にほんブログ村
2014年01月14日
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4月―千尋は女学校に入学した。「良く似合っているぞ、千尋。」「ありがとうございます。」真新しい振袖と袴に身を包み、千尋は歳三に微笑んだ。「では、行って参ります。」 歳三に見送られ、千尋は赤坂にある女学校へと向かった。―あら、あの方・・―綺麗な方ね・・ 千尋が校門をくぐると、校舎の前に集まっていた女学生たちがそう言いながら自分を見ていることに気づいた。「新入生の皆さんは、講堂に入ってください。」教師の声がして、千尋は慌てて女学生たちとともに講堂へと入った。「新入生の皆さん、本日は御入学おめでとうございます。これから5年間、共に学び、互いに切磋琢磨し合ってください。」学校長の挨拶から始まった入学式はあっという間に終わり、女学生たちはそれぞれ自分達が学ぶ教室へと入っていった。(ここか・・)“1年藤組”とプレートが掲げられた教室の中に千尋が入ると、そこには既に数十人の女学生たちがそれぞれ思い思いに過ごしていた。千尋が自分の席を探していると、一人の女学生が彼に声を掛けて来た。「あなたの席は、あちらよ。」「ありがとう。」女学生に礼を言った千尋が窓際の席に腰を下ろすと、風呂敷を解いて一冊の本を取り出した。「それ、なぁに?」頭上から声がして千尋が本から顔を上げると、彼の前にはさっき自分に席を教えてくれた女学生が立っていた。「ちょっとした小説ですよ。」「ふぅん、そうなの。あなた、お名前は?わたしは、磯村詩織よ。」「内藤千尋と申します。」「内藤さん、ご出身はどちらなの?」「京から来ました。」「へぇ、そうなの。」「磯村様のご出身はどちらなのですか?」「わたしは、下総(現在の千葉県北部)よ。千尋さん、これから宜しくね。」「ええ、こちらこそ宜しくお願い致します。」千尋はそう言うと、詩織に右手を差し出した。「ただいま戻りました。」「お帰り。入学式はどうだった?」「良かったです。旦那様、これから忙しくなりますが、どうか家の事、宜しくお願いしますね。」「わかったよ。千尋、まだ昼飯食ってないだろう?俺が作っておいたぜ。」「ありがとうございます。」千尋はそう言って歳三に頭を下げると、彼が作ってくれた味噌汁と焼き魚に舌鼓を打った。「どうだ?」「大変美味しゅうございました。旦那様、お忙しい中、わたくしにご飯を作ってくださってありがとうございます。」「礼なんて要らねぇよ。夫婦として、当然の事をしたまでだ。」歳三はそう言うと、千尋に微笑んで彼を抱き締めた。「じゃぁ、行って来る。」「お気を付けて行ってらっしゃいませ。」 その日の夜、仕事へ出掛ける歳三を戸口で送りだした千尋は、歳三に夜食を作る為に台所へと向かった。包丁で野菜を切っている時、彼はふと外から強い視線を感じ、つま先立ちして窓から外を見た。 するとそこには、外套を纏った長身の男が立っていた。千尋が包丁を握り締めて外へと飛び出した時、男の姿はもうなかった。にほんブログ村
2014年01月13日
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翌朝、千尋が家の前で水撒きをしていると、そこへ大鳥圭介がやって来た。「久しぶりだね、荻野君。」「大鳥様、お久しぶりです。」千尋はそう言うと、大鳥に頭を下げた。「土方君は家に居るの?」「ええ。」千尋は桶と柄杓を台所の脇に置くと、部屋で寝ている歳三を揺り起こした。「旦那様、起きて下さいませ。」「何だよ、もう少し寝かせろよ・・」「大鳥様がお見えです。」「大鳥さんが?」歳三が欠伸を噛み殺しながら布団から起き上がると、戸口には自分に笑顔を浮かべながら手を振っている大鳥の姿があった。「大鳥さん、今更俺達に何の用だ?」「今日は君じゃなく、荻野君に話があって来たんだ。」「わたくしに、ですか?」「うん。君、女学校に行く気はないかい?」「男のわたくしが女学校になど、行けるものなのでしょうか?」「まぁ、その点については問題ないよ。」「そうですか・・」大鳥から手渡された書類に目を通しながら、千尋は横目で歳三を見た。「大鳥様、申し訳ありませんが、今女学校の学費を払う余裕はうちにはありません。」「学費も心配しなくていいよ。」「ですが・・」「千尋、行きたいんだったら行けばいい。」「旦那様・・」「一日中家に居るよりも、外に出た方が気晴らしになるだろう?」「そうですね。」「じゃあ、決まりだね。」大鳥はそう言うと、千尋に右手を差し出した。「これから宜しくね、荻野君。」「こちらこそ、宜しくお願い致します。」こうして千尋は、女学校に入学する事になった。「大鳥さんが学費の心配はねぇって言っていたが、本当なんだろうなぁ?」「大鳥様は嘘を吐くような方ではありません。」「そうだけど・・」「それよりも旦那様、もうそろそろ出ないとお仕事に間に合わないのではありませんか?」「そうだな。じゃぁ行って来る。」「行ってらっしゃいませ。」 戸口で歳三を見送り、家の中へと戻った千尋は、大鳥が自分の為に用意してくれた女学校入学の際に必要な書類に必要事項を記入した。「雅代さん、こんにちは。」「千尋さん、こんにちは。今日は来るのが早いねぇ。」「ええ。実は女将さんにお話があります。実は4月から女学校に入学する事になったので、お仕事の方を辞めさせていただきます。」「そうかい、それは残念だねぇ。まぁ、千尋さんがそう決めたんなら、あたしは何も言わないよ。」雅代は千尋の言葉を聞くと、そう言って彼の肩を叩いた。「これから忙しくなるね。」「ええ。」 “いぶき”の仕事を辞めた事を歳三に告げると、彼は一口茶を飲んだ後、千尋にこう言った。「女学校で、しっかり学んで来い。」「ええ。旦那様も、お仕事頑張ってくださいね。」「ああ、頑張るさ。」にほんブログ村
2014年01月13日
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「太夫?」「どうしてあたしの物になってくれないんだい、兄さん?」裸になった牡丹太夫は、そう言うと歳三に抱きついた。「俺には、妻が居ます。」「そんなこと、知っているよ。浮気なんて男の甲斐性なんだから、ここで働いている内はあたしと浮気してくれたっていいじゃないか?」「それは出来ません。」歳三はそう言うと、そっと牡丹太夫から離れた。「俺は浮気などしないと、自分に誓ったんです。」「へぇ、そうかい。残念だねぇ・・」牡丹太夫は溜息を吐くと、畳の上に放り投げた襦袢を羽織った。「すまないねぇ、わざわざこんなつまらない話をする為にあんたを呼び出しちまって。もう帰っていいよ。」「では、失礼致します。」歳三は牡丹太夫に頭を下げると、黄尖閣から出て行った。「千尋さん、またいらしてくださいね。」「ええ。ぬいさん、今日は本当にあなたにお会いできてよかったです。」 陽炎楼の前でぬいと別れの言葉を交わしながら、千尋は雅代とともに吉原の大門をくぐろうとした。「千尋、どうしてお前ぇ吉原に?」「旦那様こそ・・まだお仕事の時間ではないでしょう?」「俺はちょっと、用があってな。」「そうですか。旦那様、こちらは“いぶき”の女将さんの、雅代さんです。」「初めまして、内藤です。女房がいつも世話になっています。」「いいえ。千尋さん、あたしはこれで失礼するわね。」「はい、また明日伺います。」「それじゃぁね。」雅代は千尋と歳三に手を振り、そのまま吉原の大門をくぐって外へと出て行った。「千尋、何処か外で飯でも食って帰るか?」「ええ、そうしましょう。」 吉原から出た二人は、浅草の小料理屋で夕食を取った。「どうだ、今の仕事は上手くいっているか?」「ええ。旦那様はどうですか?」「かなりキツいなぁ。酔っ払いにも絡まれるから、楽な仕事じゃぁねぇな。」「この世に楽な仕事などありませんよ。」「そうだな。」歳三は千尋の猪口に酒を注ぐと、彼はそれを一気に飲み干した。「お前ぇ、可愛い顔して酒は強ぇんだな。」「ええ。」二人が食事をしていると、店に洋装姿の男が入ってきた。彼は店内を見渡した後、千尋と歳三が座っている席の方へとやって来た。「あなたが、内藤隼人さんですね?」「ああ、そうだが・・あんた、誰だ?」「わたくしは佐内亮介(さうちりょうすけ)と申します。少し外でお話しませんか?」「旦那様・・」「心配するな、千尋。すぐに済む。」心配そうに自分を見つめる千尋の手を歳三はそっと握った後、佐内とともに店の外へと出た。「俺に話ってなんだ?」「先程あなたの隣に座っていらした方は、奥様ですね?」「ああ、そうだが・・それがあんたに何か関係でもあるのか?」「わたしの主が、奥様に一度お会いしたいと申しております。」「お前ぇの主ってやつは誰だ?」「それは、申し上げられません。」「そうか。じゃぁ話は終わりだ。」歳三はそう言って佐内に背を向け、店の中へと戻っていった。にほんブログ村
2014年01月12日
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「旦那様、起きて下さいませ。」「千尋、どうした?」歳三が目を開けて布団から起き上がると、千尋が風呂敷包を抱えて戸の前に立っていた。「今から出掛けて参りますので、留守を頼みます。」「わかった、気を付けて行けよ。」「はい。」千尋はそう言って歳三に頭を下げると、家から出て行った。彼が出て行った後、歳三は戸にしんがり棒を挿し込み、再び布団の中へと戻って寝た。「こちらです。」「あら、良く出来ているじゃないか。」「ありがとうございます。」 千尋が浅草の呉服屋“いぶき”で風呂敷に入れた着物を女将の雅代に見せると、彼女はそう言って嬉しそうな顔をした。「いつも済まないねぇ、内藤さん。」「いえ。女将さん、何か困った事がありましたら、遠慮なくわたくしに声を掛けてくださいませ。」「内藤さん、これからちょっと付き合ってくれないかねぇ。」「はい、構いませんが・・」雅代が千尋を連れて来たのは、吉原にある陽炎楼(かげろうろう)という遊廓だった。「女将さん、ここに何かご用ですか?」「ここに、あたしの知り合いがいるのさ。千尋さんにも紹介しておこうと思ってねぇ。」「あら、誰かと思ったら雅代さんじゃないか?」雅代と千尋の前に、一人の花魁が現れた。「千尋さん、紹介するよ。この人が、陽炎楼の花魁、春海(はるみ)さ。春海さん、こちらはあたしが仕事を頼んでいる内藤千尋さん。」「初めまして、内藤千尋と申します。」「初めまして。あなたの話は雅代さんから聞いています。」「雅代さんに?」「ええ。千尋さん、あなたに今日会わせたい方が居るんです。」「わたくしに、会わせたい方ですか?」「ちょっとここで待っていてくださいね。」春海花魁はそう言うと、二階の部屋に上がっていった。「女将さん、わたしをここに連れて行った理由は何ですか?」「実はねぇ、ここで働いている女中が、あんたに会いたいって言ってきてねぇ・・」「どなたですか、その女中というのは?」「もうすぐ来ると思うよ。」 やがて二階から、春海花魁と一人の女中が降りて来た。「千尋さん、この方をあなたに会わせたかったのです。ぬいさん。」「千尋様、お久しぶりでございます。」「ぬいさん・・生きてらしたんですか!」春海花魁の背後に立っている女中の顔を見た千尋は、彼女が会津の籠城戦で共に戦った石田ぬいであることに気づいた。「千尋様も、五稜郭でお亡くなりになったとばかり思っておりました。生きていらして、良かったです。」「こんな所で立ち話もなんだから、四人で茶でも飲みながら話しましょうか?」「ええ。」 千尋とぬいが春海花魁の部屋で昔話に花を咲かせている頃、歳三は牡丹太夫に呼び出され、黄尖閣へと向かった。「太夫、お話とは何ですか?」「兄さん、あたしの事をどう思っているんだい?」「急にそんな事を言われても、困ります。」「そう・・」牡丹太夫はそう言って溜息を吐くと、歳三の前で裸になった。にほんブログ村
2014年01月12日
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「馬鹿野郎、こんな物を客に出せるかってんだ!」「すいません・・」歳三が調理場に入った時、板長に怒鳴られ、彼の前で一人の若い板前が項垂れていた。「ったく、才能がねぇならさっさと辞めちまえ!」板長はそう言うと、そのまま板前に背を向けて自分の持ち場へと戻っていってしまった。「あの、すいません・・」「あんたかい、新入りは?」「はい・・」「俺は板長の正だ。わかんねぇことがあったら何でも聞いてくれ。」「内藤と申します、宜しくお願い致します。」「おい、新入りに調理場を案内してやりな!」歳三の前に、先程板長に怒られていた板前が現れた。「初めまして、内藤と申します。」「俺ぁ光太(こうた)っていうんだ。あっちが猪口や酒瓶を置いておくところで、こっちが膳を置いておくところだ。洗い場は向こうにある。」「わかりました。」「さてと、それじゃぁ新入りさんよ、早速で悪いがあの膳を蘇芳の間に運んでおいてくれねぇか?」「はい・・」 給仕の仕事と聞いて、てっきり楽な仕事だろうと思っていた歳三だったが、膳を持って座敷と調理場を何往復もするのは骨が折れる作業だった。「隼人、少し疲れたろ?これでも飲んで精力つけな。」「すいません・・」光太から猪口を受け取った歳三は、その中に入っている水を一気に飲み干した。「さっき、板長から怒られていたでしょう?」「まぁ、板長が俺達に怒るのは愛情の裏返しなのさ。板長は自分が目にかけた奴には色々と怒るが、そうじゃねぇ奴には怒るどころか目を合わせてくれねぇ。」「そうなんですか・・」「まぁ、俺は親から捨てられて、路頭に迷っていたところをこの店の親父さんに拾われて、板前の修業をしているんだ。あの時、親父さんに拾われてなかったらどんな目に遭っていたか・・」「随分と、辛い目に遭ってきたんですね・・」「まぁ、俺や牡丹太夫なんかはまだマシな方さ。」光太はそう言うと、調理場の窓から見える小屋を指した。「あの小屋は?」「あれは、梅毒に罹った陰間が入って、あそこから出られる時は死ぬ時だけだって言われてる。死んだ後は無縁仏として一応葬られるが、墓なんぞ建てちゃ貰えねぇ。陰間どもの遺体は、寺の井戸に纏めて放り込まれるんだと。」「そうなんですか・・」「一つお前ぇさんに忠告しておくが、酔っ払いの中にはタチが悪い奴がいるから、そういう奴は適当にあしらっておけ。」「適当に・・とは、どういう・・」「まぁ、愛想笑いのひとつでも浮かべりゃぁいいさ。そいじゃ、俺ぁ仕事に戻るぜ。」光太は屈託のない笑みを浮かべながら歳三の肩を叩くと、調理場へと戻っていった。「隼人、これ菊の間に運んどくれ!」「はい、わかりました。」 仕事が終わったのは、翌日の寅の刻(午前5時)の頃だった。「ただいま。」「お帰りなさいませ。お疲れでしょうから、お布団を敷いておきましたよ。」「ありがとう・・」 帰宅するなり、歳三は千尋が敷いてくれた布団の上に寝転がると、そのまま泥のように眠った。にほんブログ村
2014年01月11日
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「井上、あの男・・内藤隼人は本当に兄上の仇なのか?」「旦那様、それはわたしの勘違いだったようです。」「勘違い?」「ええ。あの男の顔を初めて見た時、遠くから見ていたので彼が土方だとはわかりませんでしたし、土方は函館で戦死していますし・・」「ふん、この役立たずめ!」狩野はそう井上に怒鳴ると、大理石で作られた灰皿を掴んでそれを井上に投げつけた。「旦那様、もうわたしは用済みでしょう?」井上はそう言うと、ソファから立ち上がって狩野家の客間を後にした。「待て、まだ話は終わっていないぞ!」狩野の怒声を背に受け、もう二度とこんな所に来てやるものかと井上はそう思いながら雑踏の中へと消えた。「じゃぁ、行って来る。」「お気を付けて行ってらっしゃいませ、旦那様。」 数日後、歳三は玄関先で千尋に見送られた後、吉原・黄尖閣へと向かった。「兄さん、こんばんは。」歳三が裏口から黄尖閣の中へと入ると、彼を出迎えた牡丹太夫がそう言って歳三に抱きついた。「太夫、離してください・・」「いいじゃないか、減るもんじゃないし。兄さん、ちょいとあたしの部屋に来ておくれ。」牡丹はそう言うと歳三の手を掴み、自分の部屋へと彼を連れて行った。「あの太夫、俺は仕事に・・」「まだ店は開かないから、ここで茶でも飲んでゆっくりしていればいいさ。」牡丹は煙管に火をつけると、それを美味そうに吸った。「まぁそこに座って、あたしの身の上話でも聞いとくれ。」「は、はぁ・・」牡丹の前に腰を下ろした歳三は、じっと牡丹の顔を見た。 艶やかな黒髪に円らな黒い瞳―まるで天女がこの地上に降り立ったかのような、美しい容姿をしている牡丹と初めて会った時、彼が女だと歳三は信じて疑わなかった。「そんなに見ないでおくれよ、恥ずかしいねぇ。」「済まねぇ・・」「別にいいさ。」牡丹はそう言って手鏡を取って自分の顔を見た後、それを畳の上に伏せた。「今では自分の顔が好きになったが、子どもの頃はこの顔が大嫌いでねぇ。あたしのおっかさんはあたしが生まれてすぐに死んぢまって、おとっつぁんがあたしを男手ひとつで育ててくれたんだ。でも、そのおとっつぁんもあたしが7つの時に流行病で死んぢまってねぇ・・」「流行病?」「兄さん、コロリ(コレラ)って聞いたことがあるかい?」「ああ・・」「あたしのおとっつぁんだけじゃない、あたしの親戚もそのコロリで死んぢまって、まだガキだったあたしは、女衒に連れられて吉原の大門をくぐったのさ。」牡丹はそう一旦言葉を切ると、煙を吐き出しながら何処か遠い目をしていた。「この店に入った時、あたしは禿(かむろ)として当時店の売れっ子だった潮(うしお)太夫についたのさ。その人は貧農の生まれで、親に口減らしの為に売られたって言っていたよ。」「俺も多摩の豪農の家に10人兄弟の末っ子として生まれましたが、親父は俺がお袋の胎(はら)に居る時に死んで、そのお袋も俺が5つの時に労咳で亡くなりました。」「へぇ、そうかい。まぁ、ここに居る子達は親に売られた子が殆どでね。年季明けを迎えてこの店から出て自由の身になっても、帰る場所がないのさ。あたしもそうだけどね。」牡丹は煙管の中に残っていた灰を火鉢の中に落とした後、ゆっくりと立ち上がった。「さてと、もうそろそろ店が開く頃だね。兄さんは調理場の方に行って、先輩方に挨拶をしておきな。」「わかりました。」 歳三は牡丹の部屋から出た後、調理場へと向かった。にほんブログ村
2014年01月11日
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「どうぞ。」「有難う。」千尋から水を受け取った歳三は、それを一気に飲み干した。「酒に弱いあなた様が、泥酔するほどお酒をお飲みになられたのは、何か良い事でもあったのですか?」「ああ、仕事が見つかったんだよ。」「仕事?」「吉原の黄尖閣っていう遊郭で、給仕の仕事をすることになった。それでそこの太夫が、祝い酒と称して俺にしこたま酒を飲ませやがった。」「まぁ、それは大変でしたね。お仕事、見つかってよかったです。」千尋はそう言うと、歳三に微笑んだ。「お仕事はいつからですか?」「明後日からだ。」「そうですか。」歳三から仕事が見つかったということを告げられ、千尋はその喜びに浸っている間、井上の話を歳三に話す事をすっかり忘れてしまった。「旦那様、おはようございます。」「おはよう。昨夜は遅くに帰って、お前ぇに迷惑掛けちまって済まなかったな。」「いいえ。旦那様、暫く留守を頼みます。」「出掛けるのか?」「ええ。では行って参ります。」千尋はそう言って歳三に微笑むと、家から出て吉原へと向かった。「こちらが、黄尖閣様ですか?」「ええ、そうですが・・あなた様は?」「わたくしは、内藤隼人の妻の、千尋と申します。この度は主人を雇ってくださり、ありがとうございます。」千尋は黄尖閣の主に風呂敷包を手渡した。「これは?」「お寿司のお礼です。皆さんで召し上がってくださいませ。」「ありがとうございます。」「おとっつぁん、その方は誰だい?」 牡丹が自室から出て一階へと降りると、丁度店主が一人の女と話しているところだった。「牡丹、この方は内藤さまのお内儀様だよ。」「へぇ・・」牡丹はそう言うと、ちらりと店主の隣に立っている女を見た。昨夜ここに仕事を探しに来た男も美しかったが、この女も美しい。「初めまして、あたしはここの太夫の、牡丹っていいます。」「初めまして、千尋と申します。」「千尋様、ここで立ち話もなんですから、奥で茶でもどうです?」「いいえ。わたくしはこちらにご挨拶に来ただけですから、これで失礼致します。」千尋はそう言うと、店主と牡丹に頭を下げ、黄尖閣を後にした。「何だか、気取った女だねぇ。」「牡丹、そんな事を言うでないよ。」「あたしゃぁ、あんなお高くとまった女は大嫌いさ。」牡丹は吐き捨てるかのような口調で店主にそんな言葉を投げつけると、彼にそっぽを向いた。「あの兄さんはあんな女の何処に惹かれて所帯を持ったんだか。あたしはあんな女よりも何千倍もいい“女”なのに、昨夜は手も握ってくれなかったんだよ、あの兄さん。」「そりゃぁ、仕方がねぇだろう。あんな綺麗なお内儀様が居られるんだから。」「ふん、つまんないね。」牡丹はそう言って不快そうに鼻を鳴らすと、自室に戻った。「ったく、器量も芸の腕もいいのに、あの性格は一生かかっても直せねぇなぁ・・」黄尖閣の主・三郎はそう呟くと、一階の奥にある自分の部屋へと消えていった。 同じ頃、井上雄三郎は、赤坂にある狩野邸を訪れていた。にほんブログ村
2014年01月10日
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日が落ち、夜の帳が下りる頃になっても、歳三は帰って来なかった。千尋は針仕事の手を休め、行灯に火を灯した。彼が針仕事を再開しようとした時、戸の外に誰かが立っている気配を感じた。「そこに居らっしゃるのはどなたです?」千尋は台所の俎板(まないた)に置かれてあった出刃庖丁を掴み、外へと飛び出した。そこには、提灯を持った男が驚愕の表情を浮かべながら立っていた。「あなた、一昨日の夜もうちを見張っておりましたね?」「いえ、わたしは・・」「今すぐに警察を呼びましょうか?」「それは勘弁してください!」「ならば、あなたが何者で、何故うちを見張っていたのかをわたくしに話してください。そうすれば、手荒な真似はいたしません。」千尋がそう言って男を見た時、栗本がそっと戸を開け、自分達の様子を窺っていることに気づいた。「ここは人の目がありますので、中へどうぞ。」「すいません・・」男を先に家の中へと入らせた千尋は、栗本の家の前に立ち、戸を叩いた。「内藤さん、大丈夫かい?あの男と二人きりで・・」「大丈夫です。お騒がせしてしまって、申し訳ありませんでした。」「何かあったら俺を呼んでくれよ?」「はい、わかりました。では、失礼致します。」栗本に頭を下げた後、家に戻った千尋は、居心地が悪そうに部屋の隅に縮こまって座っている男を見た。「あなた様は、どなたです?」「わたしは、井上雄三郎と申します。」「では井上様、何故わたくし達を見張っていたのですか?」「それは、狩野様がわたしに、内藤さんを探れと命令されて・・」「狩野様が?」千尋はそう言うと、身を乗り出して男を見た。「今日の昼、狩野様がうちに来られました。」「それは、本当ですか?」「ええ。井上様、差支えなければ、狩野様が何故わたくし達を探ろうとしているのかをわたくしに教えて頂けませんか?」「ひとつお尋ね致しますが・・内藤さんのご主人の本当の名は、土方歳三様とおっしゃるのではないですか?」男の問いに、千尋は静かに頷いた。「実は、狩野様はご自分の兄上様の仇を探しているのです。」「仇、というのは?」「宇都宮の戦の折、狩野様の兄上様は、そこで土方歳三に討たれて亡くなったと聞いております。」「そうですか・・」千尋は男の言葉を聞いた後、溜息を吐いて台所へと向かった。「今お茶を淹れますね。」「いえ、結構です。内藤さん、この事はくれぐれも内密にお願い致します。」「わかりました。ですが、主人には知らせてもよいですね?」「ええ。では、わたしはこれで失礼致します。」「井上様、もう二度とこんな真似はしないでくださいませ。わたくしはあなたを一度見逃しましたが、二度目はありませんよ、いいですね?」「はい・・」千尋の言葉を聞いた男は、肩を落として長屋から出て行った。彼が立ち去った後、千尋は戸を閉め、しんがり棒を戸の隙間に挿し込んだ。そして布団を敷くと、そのままそこに横になって寝た。 外から突然大きな音がして千尋が起きたのは、丑三つ刻(午前2時)の頃だった。「お~い、開けてくれぇ!」戸の外から聞こえて来た男の声は、歳三のものだった。「お帰りなさいませ、旦那様。」しんがり棒を脇に退けて戸を開けた千尋は、自分の前に立っている歳三が泥酔していることに気づいた。「どうなさったのです、こんなに酔って・・」「土産(みやげ)だ、受け取れ。」そう言って歳三は身体を左右に揺らしながら、千尋に寿司の折詰を渡した。にほんブログ村
2014年01月10日
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「ここが、女将が言っていた遊廓か・・」歳三はそう呟いた後、目の前ではためく黄色の暖簾を見た。その暖簾には、「黄尖閣」という文字が白く染め抜かれていた。(外観は他の遊廓と何ら変わらねぇようだが・・まぁ、入ってみるか。)歳三は暖簾を捲り、黄尖閣の中へと入った。「おい、誰か居るか?」「いらっしゃいませ。」店の奥から、朽葉色の着物を着た老人が出て来た。どうやら、彼がこの店の主らしい。「さっき、“こいずみ”の女将さんから、良い働き口があるって聞いて、ここに来たんだが・・」「“こいずみ”の女将さんからそう聞きましたか・・」老人はそう言って歳三を見ると、口端を上げて笑った。それは何処か、底意地の悪い笑みだった。「おい爺、何企んでいやがる?」「いえ、わたくしは何も・・」「俺を騙そうたってそうはいかねぇぞ!」歳三はそう言って老人に詰め寄ると、彼の胸倉を掴んだ。「ひぃ!」「あの女将はあんたの店が他の遊廓とはちょっと違うとか抜かしていたが・・何がどう違うんだ?」「この遊廓は、男色専門の遊廓なんですよ。」「へぇ・・それで、仕事ってのは何だ?用心棒か?」「いえ、違います。客に酒や食事の給仕をして貰う仕事です。」「それだけであんなに高い給金が貰えるもんか!」「わかりました、正直に言いますから許して下さい・・」歳三の拘束から漸く逃れた老人は、ゼェゼェと荒い呼吸を繰り返した後、彼にこう言った。「実は、客に給仕をする他に、客の“お世話”もして貰う事になっております。」「ふん、そんなことだろうと思ったぜ!」歳三は老人をじろりと睨みつけた後、彼に背を向けて店から出て行こうとした。「お待ちください!」老人は突然そう叫ぶなり、歳三の手を掴んだ。「おい爺、俺にまだ何か用があるのか?」「あなたは、仕事を探しにここへ来たのでしょう?」「ああ。だがな、こんないかがわしい店で働けるかってんだ!」「そんな事をおっしゃらずに・・給仕の仕事だけでも・・」「しつけぇな、爺!」老人と歳三が激しく揉み合っていた時、二階からサラサラと衣擦れの音を立てながら、一人の女が二人の前に現れた。「おとっつぁん、そのお方は誰だえ?」「牡丹、この人はうちに仕事を探しに来たんだ。」「へぇ・・」女はそう言うと、切れ長の目でじっと歳三を見た。「なかなかの色男じゃないか。お前さん、何処から来たんだい?」「・・てめぇ、何者だ?」「あたしかい?あたしはここの太夫の、牡丹というのさ。」「女が何でここに居やがる?」「女ぁ!?兄さん、あんたの目は節穴かい?」女はそう言って歳三の手を取り、それを自分の股間へと宛がった。そこには、歳三と同じものがあった。「てめぇ、男か・・」「兄さん、あたしゃぁあんたの事が気に入った。ここで働いとくれよ、悪いようにはしないからさ。」男色専門の遊廓“黄尖閣”の太夫・牡丹は、そう言って歳三に笑みを浮かべた。にほんブログ村
2014年01月09日
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「失礼、わたしは狩野(かりの)といいます。内藤さんに少し用がありまして・・内藤さんは今どちらに?」「主人なら、外出しております。」「そうですか、では家で待たせて頂いてもよろしいでしょうか?」「いいえ、それは出来ません。あなた様がどのような方なのかわからぬまま、我が家に上がらせる訳には参りません。」千尋はそう言うと、水が入った桶を握り締めた。「随分と重そうですね、持ちましょうか?」「いいえ、結構です。」つり目の男―狩野の脇を通り過ぎた千尋は長屋の中へと戻り、彼の鼻先で戸を閉めた。「奥さん、開けてくれませんかね?わたしは怪しい者では・・」「狩野様、主人の帰りを待っていても無駄ですよ。お引き取り下さいませ。」「わかりました。」狩野が長屋の前から立ち去る足音を聞いた千尋は、安堵の溜息を吐いて針仕事に取りかかった。 一方歳三は、今日も仕事を探しに街を歩いていた。料亭の用心棒や、商家の帳簿つけの仕事など、自分が出来そうな仕事をしらみつぶしに当たってみたものの、どこも人手が足りていて、歳三を雇ってくれる所はなかった。(困ったなぁ、仕事を探して一週間にもなるってのに全然見つからねぇなんて・・)今まで、自分は金さえもらえればどんな仕事でもしたいという一心で仕事を探していたが、それだけではなかなか就職できないのかもしれない。何かが、自分には足りないのだ。その“何かが”が、歳三にはわからないでいた。 千尋は生活が苦しいことを知り、古着屋に振袖を売りに行ったり、内職の針仕事をしたりして家計を助けてくれているが、新婚早々彼に苦労を掛けていると思うと、歳三は早く千尋の為に仕事を見つけなければと焦っていた。「親父、蕎麦(そば)代ここに置いとくぜ。」「おうよ、毎度あり。」蕎麦代を机の上に置いて店から出た歳三は、仕事探しを再開した。「済まないねぇ、うちはもう人手が足りているんだよ。もう少し早く来てくれれば、何とかなったんだけどねぇ・・」「そうかい。」帳簿つけの仕事を募集している商家に歳三が向かうと、その求人は既に締め切られた後だった。「兄さん、あんたその様子だと、まだ仕事見つかっていないようだね?」「ああ。料亭の用心棒や帳簿づけの仕事を探しているんだが・・なかなか見つからなくてなぁ・・」「だったら、あたしが良い働き口を紹介してやろうか?」その商家の女将はそう言ってきらりと目を光らせながら歳三を見た。「良い働き口?何処にあるんだい?」「吉原にある、“黄尖閣(きせんかく)”っていう遊廓が、用心棒を探しているんだよ。まぁ、場所が場所だけに、物騒な仕事だけどね・・」「その黄尖閣っていうのが、何処にあるのか教えてくれねぇか?」「わかった。」女将は黄尖閣の住所と地図を書いた紙を歳三に渡した。「有難うよ。じゃぁ早速その黄尖閣とやらに行ってみるぜ。」「兄さん、黄尖閣は他の遊廓とはちょっと違うから、最初は面食らうかもしれないけど・・」「どういう意味だ、そりゃ?」「まぁ、行ってみりゃぁわかるさ。」 歳三は女将の意味深長な言葉を聞いて首を少し傾げてその商家から出た後、その足で吉原へと向かった。にほんブログ村
2014年01月09日
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新居への引っ越しが終わった後、歳三と千尋は夕食の蕎麦を食べながら、今後の事を話し合った。「仕事のあてはあるのですか?」「さぁな。まぁ明日から仕事を探すさ。」「そうですか・・では、わたくしも何か仕事を探してみます。」翌日、歳三は職探しを始めたものの、なかなかいい仕事が見つからなかった。「余り気を落とさないでください。」「わかった・・」歳三の仕事が見つかるまでの間、千尋が内職の仕事をして生活費を稼いだ。「済まねぇな、新婚早々、お前ぇに苦労させちまって・・」「こんなもの、苦労でも何でもありません。」「内藤さん、ちょっといいかね?」 数日後、千尋が内職の針仕事をしていると、栗本が長屋にやって来た。「栗本様、こんにちは。何かあったんですか?」「ああ。さっきねぇ、あんたの旦那の事を聞いていた妙な奴が居てねぇ・・」「妙な奴?」「洋装姿で、一丁前に羅紗の外套を羽織っていやがった。目は狐みてぇにつり上がっていて、気味が悪かったなぁ。」「そうですか・・」「旦那にも教えておいてやりな。それじゃぁな。」栗本はそう言うと、そのまま千尋に背を向けて長屋から出て行った。「妙な男が俺の事を聞いていた?」「ええ。栗本さんによれば、洋装姿で羅紗の外套を着た、目が狐のようにつり上がっていた男だとか・・」「そんな奴、知らねぇなぁ。千尋、俺が留守の間は戸締りをしっかりしておけよ?」「わかりました。」「もう夜も遅いし、寝たらどうだ?」行灯の火を頼りに千尋が針仕事をしていると、歳三がそう言って行灯の火を吹き消した。「そうですね。」「ずっと同じ姿勢しているから、こんなに肩が凝ってるじゃねぇか。」歳三はそっと千尋の両肩を両手で揉むと、バキバキという音がそこから聞こえた。「あんまり根詰めると、身体を壊しちまうぞ?」「そうですね、もう今日は休みます。」「お休み。」千尋が床に入ったのを確認した歳三は、布団に入って寝た。「旦那様、起きて下さいませ。」「どうした?」「誰かが、長屋の外に居る気配がするのです。」熟睡している時に千尋に叩き起こされた歳三は、欠伸を噛み殺しながら行灯を手に取ると、長屋の戸を開けた。 外には、誰も居なかった。「どうでした?」「誰も居なかったぞ。」「そうですか・・先程は確かに人の気配を感じたのですが、おかしいですね。」「気の所為じゃねぇのか?」「そうですね。」 二人が長屋の中に戻ったのを、羅紗の外套を着た男が物陰からじっと見つめていた。「内藤さん、おはよう。」「おはようございます、栗本様。」翌朝、千尋が井戸で水をくみ上げていると、そこへ三毛猫を抱いた栗本が通りかかった。「今日も寒いねぇ。」「ええ。」栗本と挨拶を交わした後、千尋が水を入れた桶を運んで長屋の中に戻ろうとした時、彼の前に一人の男が現れた。「君が、内藤隼人さんの奥方ですかな?」「ええ・・そうですが、あなたは?」千尋はそう言うと、狐のようにつり上がった目をした男を睨んだ。にほんブログ村
2014年01月08日
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祝言を挙げてから一週間後、千尋と歳三は高塚達に見送られながら、東京へと向かった。「これから仕事を探さねぇとなぁ・・それに住む家も。」「そうですね。」千尋はそう言うと、歳三に自分の愛刀が入った袋を差しだした。「これを売れば、当面の生活には困りませんね。」「いいのか?」「ええ。もう刀を振るう時代は終わったのです。」「わかった・・」歳三は千尋から刀を受け取った。 東京に着いた二人は、刀を売りに古道具屋へと向かった。「お客さんも元侍かい?」「まぁ、そんなところだ。」「最近多いんだよねぇ、暮らしに困って自分の魂を売る侍さん達が。」古希を迎えたであろう店主は、そう言うと千尋の愛刀を見た。「こりゃぁ上等なものだねぇ。100円でどうだい?」「いいぜ。」店主は刀の鯉口を切り刀身を見ると、それは陽の光に反射して銀色に輝いた。「かなり使いこんでいるようだが、いつも手入れを怠らなかったんだねぇ。刃零れひとつしていないよ。この刀、一体誰のだったんだい?」「わたくしの双子の弟のものでした。」「へぇ、そうかい。勝手に自分の刀を売られて、弟さんは良く怒らなかったねぇ?」「・・弟は、鳥羽・伏見の戦で討ち死にしてしまいました。戦が終わった後、弟の形見として後生大事にこの刀を持っておりましたが、最近では見るのも辛くて・・」千尋はそんな嘘を店主に吐くと、袖口で涙を拭う振りをした。「済まなかったねぇ、辛い事を聞いちまって。」「いえ・・」「この刀は大事に扱うよ。常世(とこよ)に居るあんたの弟さんが、化けてあたしの所に出て来ちゃ困るからね。」「ありがとうございます。どうか宜しくお願い致します。」 刀と引き換えに当面の生活費を手に入れた歳三と千尋は、晴れやかな顔をして古道具屋から出た。「お前ぇ、昔は嘘を吐くのが下手だった癖に、今は平気な顔をして人を騙して・・」「“嘘も方便”と言うじゃありませんか?あれくらい店主の同情をひかなければ、高値で買い取ってくれないと思いまして。」「ったく、機転が利く嫁を持って困るな。」歳三はそう言って舌打ちすると、千尋ととともに東京の街を歩いた。 当面の生活費を手に入れた歳三は、その金で深川にある長屋を借りた。「まぁ、狭い所だが二人で住むには充分だろう?」「ええ。余り荷物もありませんしね。」大八車に自分達の荷物を載せて長屋の前に立った千尋と歳三は、自分達の荷物を長屋の中に運び入れた。「あんた達、新しく引っ越してきたのかい?」「ええ。あなた様が、大家さんですか?」「ああ。見た所あんた達、夫婦に見えるけど・・何処から来たんだい?」「京から参りました、内藤と申します。」「へぇ、京から来たのかい。長旅で疲れただろう、中で茶でも飲んでいかないかい?」「お言葉に甘えさせていただきます。」千尋がそう言って長屋の大家・栗本の家に入ると、火鉢の近くで三毛猫が丸くなって眠っていた。「この猫は、大家さんが飼っていらっしゃるんですか?」「まぁね。夕飯の残りをやったら勝手にこの家に居ついちまってね。はじめは追い出そうとしたんだが、可愛くて情が移っちまって・・」「そうですか。触ってもよろしいですか?」「構わねぇよ。」 千尋はそっと三毛猫に近づくと、その背を軽く撫ぜた。千尋に背中を撫でられた猫は、嬉しそうに喉をゴロゴロと鳴らした。にほんブログ村
2014年01月08日
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1874(明治7)年1月吉日。歳三と千尋は、京都・上賀茂(かみがも)神社で祝言を挙げた。厳粛に祝言が執り行われている中、歳三は自分の隣に立つ白無垢姿の千尋を見た。この日の為に義兄・範久(のりひさ)から贈られた鼈甲(べっこう)の櫛と簪を挿し、唇に紅を差した千尋の姿は、まるで天女のように美しかった。「旦那様、わたくしの顔に何かついていますか?」「いや・・」「土方君、千尋君に見惚れていたんだろう?」「う、うるせぇ!」 祝言を挙げた後、千尋と歳三は高塚邸で知人や友人達を集め、ささやかな披露宴を行った。大鳥は千尋の白無垢姿に見惚れている歳三を冷やかしながら、酒を飲んだ。「さぁ、今夜は無礼講だ!どんどん飲むぞ!」「酔い潰れないようにしてくださいね。」「土方君、どうぞ。」「ありがとう・・」歳三は大鳥に礼を言うと、猪口に注がれた酒を一気に飲み干した。「旦那様、またそんなに飲んで・・」「いいじゃないか、千尋君!今日はめでたい日なんだから!」「そうですが・・」千尋はそう言って隣に座っている歳三を見ると、彼の顔は既に酒で赤くなっていた。「大鳥さん、花婿を酔いつぶしてはなりませんよ。」「わかったよ。この宴が終わったら、お楽しみが待っているからね。」「馬鹿野郎、変な事言うんじゃねぇ!」歳三はそう叫ぶと、大鳥の頭を平手で叩いた。「殴る事ないじゃないか!」「お前ぇが変な事を言うからだ、馬鹿!」「高塚さん、何とかしてくれよ!」「今のは完全にあなたが悪いですよ、大鳥さん。」高塚はそう言うと、茶を一口飲んだ。 披露宴が終わったのは子の刻(午前0時)を回ったところで、披露宴の会場だった客間には酔い潰れた客達が座布団を枕代わりにして高いびきをかいて眠っていた。「土方君、阿呆どもは放っておいて、千尋さんの元へ行っておあげなさい。」「わかりました。」歳三は入口で眠っている大鳥を軽く蹴飛ばすと、客間から出て千尋が待つ寝室へと向かった。「待たせたな、千尋。」「旦那様、まだしらふなのですね、良かった。」「何だよ、その言い方は?まるで俺がいつも酔い潰れているように聞こえるじゃねぇか?」「あら、もう土佐でのことをお忘れですか?あの時は本当に大変だったんですよ!」「もう止めようぜ、過ぎた事を蒸し返すのは。」「そうですね・・」千尋はそう言うと、そっと歳三に抱きついた。「ここには誰も入ってこねぇから、ゆっくりできるな。」「ええ。」その夜二人は、“夫婦”として初めて愛を交わした。翌朝、千尋が目覚めると、隣に寝ていた歳三の姿はもうなかった。彼が居た場所には、梅の枝に括りつけられている文が置かれていた。千尋がそっと文を開くと、そこには歳三の字で認(したた)められた和歌が書かれていた。後朝(きぬぎぬ)の文を贈られた千尋は、嬉しそうにはにかむとその文をそっと胸に抱いた。にほんブログ村
2014年01月07日
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翌朝、志村家で一泊した歳三と千尋が客間で朝食を食べていると、そこへ俊輔がやって来た。「内藤さん、昨日は済まんかった。」「別に謝らなくてもいいよ。俺だって飲み過ぎたと思ってんだからさ。」「俺が勇蔵を止めていれば、あんたが怪我をすることは・・」「もう過ぎた事を言うのは止そうぜ?」歳三はそう言った後、味噌汁を一口啜った。「二人とも、土佐を出て何処へ行くがじゃ?」「京にでも、行こうと思っております。」「そうか。気ぃつけや!」「お世話になりました。」志村家の者達に別れを告げた二人は、土佐を出て京へと向かった。「懐かしいですね・・」「ああ。良い思い出だけじゃねぇけどな。」千尋と歳三が三条大橋を歩きながらそんな事を話していると、向こうから一人の青年が歩いて来た。千尋達がその青年とすれ違おうとした時、青年が急に足を止め、千尋達の方を見た。「もし・・あなたは、土方歳三様ではありませんか?」「てめぇ、何者だ?何故俺のことを知っている?」「自己紹介が遅れました、わたくしこういう者です。」青年はそう言うと、一枚の名刺を歳三に差し出した。「政治家の秘書様が、俺に何の用だ?」「お二人に会わせたい方がおります。わたくしについて来てください。」青年―川島修悟は、そう言って再び歩き出した。 修悟に連れられて千尋達が向かった先は、瀟洒な洋館だった。「ここは?」「わたくしがお仕えてしている方のご自宅です。旦那様、土方様をお連れ致しました。」「そうか。」修悟とともに千尋達が書斎に入ると、机に座っている男がちらりと千尋達を見た。「あんた、誰だ?何で俺を知っているんだ?」「久しぶりだね、土方君・・もうわたしの顔を忘れてしまったのかな?」そう言うと男はゆっくりと椅子から立ち上がると、歳三の前に立った。「あんた・・」「どうやら思い出してくれたようだね。」「旦那様、この方はどなたなのですか?」「ああ、お前は知らないんだったな。京に居た頃、新選組とともに治安維持をしていた京都町奉行所の、高塚さんだよ。」「まぁ、そうでしたか・・初めまして、荻野千尋と申します。」「ほう、君が土方君の“奥さん”か。なかなかの別嬪さんだ。」京都町奉行所元与力(よりき)・高塚卓は、そう言うと顎鬚(あごひげ)を撫でて笑った。「高塚さん、俺と話したいことっていうのは、何だ?」「君達の生存を、一週間前に大鳥さんからの文で知ってね。土方君、明治政府の為に働く気はないかね?」「断る。俺はもう死んだ人間だ。明治政府の為に働くのはまっぴらごめんだぜ。」「君ならそう言うと思ったよ。仕事の話はもう終わりにして、夕食にしようか。」 書斎を出た千尋達は、ダイニング・ルームで夕食のフランス料理に舌鼓を打った。「土方君、君はこれからどうするつもりだい?」「まだ考えてねぇよ。まぁ、地道に汗水たらして働こうと思っているよ。」「そうか。なぁ土方君、君達は夫婦となったんだから、こんな事を聞くのは野暮だと思うが・・」「何でも聞いてくれよ、高塚さん。」「君達、まだ祝言を挙げていないのかい?」「ああ。挙げるにしても金がねぇからなぁ・・」「そうか。ではわたしが君達の為に一肌脱いであげようじゃないか。」にほんブログ村
2014年01月07日
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「千尋さん、亭主をちょいと借りるぜよ!」夕食後の酒盛りを始めた勇蔵が、そう言って酒で赤らんだ顔を千尋に向けた。「わかりました。それじゃぁわたくしはお春さんと“女同士”の話をして参ります。」「すいませんねぇ、騒がしい家で・・」春はそう言って千尋を部屋に通すなり、彼に向かって頭を下げた。「謝らないでください。」「今頃、勇蔵さん達は盛り上がっているでしょうね。」「そうですね。」千尋がそう言って春の方を見ようとした時、彼は部屋の壁に立て掛けられている箏(こと)に気づいた。「お春様、それは?」「ああ、これはわたしが嫁入りのときに持って来た箏です。最近は家事で忙しくて、弾く暇がなくて・・」「少し、見せて貰ってもよろしいでしょうか?」「ええ、どうぞ。」 千尋はそっと立ち上がると、壁に立て掛けてある箏を傷つけぬようにそれを畳の上に置いた。「かなり高価な物のようですが・・どなたの箏ですか?」「わたしの祖母のものだと母から聞いております。何でも祖母は箏の名手だったとか・・」「そうですか。三代にわたって受け継がれた箏なのですね。」「ええ。千尋様、一度弾いてみては如何です?」「そのようなこと、出来ません。お春様の大事な箏に触れるなど・・」「是非弾いてやってくださいませ、千尋様。こうして部屋の飾りになるよりも、誰かに弾いて貰った方が箏も喜びましょう。」「わかりました。」 千尋と春が離れの部屋に籠っている頃、母屋の客間では俊輔・勇蔵兄弟、そして彼らの母であるきくによる酒盛りが行われていた。「母上、もう年じゃゆうのにいける口やのう。」「年寄りじゃと馬鹿にするな!わしは娘の頃から酒を水代わりに飲んでおったんじゃ!」「そんなら俺は母上に負けんよう、飲まんとな!」「内藤さんも飲みや、遠慮はいらんき!」「うるせぇなぁ・・」自分の猪口から今にも溢れださんばかりの酒が注がれ、歳三はそう言って勇蔵を睨むとそれを一気に飲み干した。「すいません、厠はどちらに?」「此処から出て右に曲がったつきあたりにあります。」「そうですか・・」歳三が客間から出て厠に行こうとした時、彼はバランスを崩し、土間に顔を強かに打ちつけて倒れてしまった。「こりゃいかんぜよ、誰か医者を呼ばんか!」「お前がしこたま酒を飲ませるから、こんな事になるんじゃ!」「なんじゃ、お袋も内藤さんに酒を注いどったろうが!?」「何を言う、内藤さんに酒を勧めたのはお前じゃ!」きくはそう言うと、勇蔵の頬を平手で打った。「まぁた殴った!」「静かにせんか、馬鹿者!勇蔵、水持って来い!」「どうされました?」離れの部屋から出た千尋と春が母屋へと向かうと、土間では歳三が酔い潰れて伸びていた。「旦那様、しっかりなさいませ!」「あなた、またお客様に酒を飲ませたのですね!?」「済まん、わしは止めたんじゃが・・勇蔵が・・」「兄貴も俺の所為にするがか!?」「何じゃ、おまんの所為じゃろうが!」「やめぇ、二人とも!お客様の前で喧嘩すな!」きくは二人の息子の上に雷を落とすと、彼らに拳骨を喰らわせた。にほんブログ村
2014年01月06日
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フランスから帰国した歳三と千尋は、その足で土佐へと向かった。「二人とも、よう来てくれたのぉ!」「志村様、お元気そうでなによりです。」千尋がそう言って勇蔵に頭を下げると、彼は目を細めながら千尋を見て笑った。「こんな所で立ち話はいかんぜよ、早う中に入りや。」「では、お邪魔いたします。」 勇蔵の家に上がった千尋は、清潔で手入れが行き届いている客間に敷かれている座布団の上に腰を下ろした。「志村様は、お一人でこの家にお住みになっておられるのですか?」「いんや、こん家には嫂(あによめ)とお袋と、兄貴とで住んどる。三人とも今日は縁日に出掛けて留守じゃ。」「縁日ですか・・冬に縁日とは、珍しいですね?」「まぁ、わしらの近所にある神社は、夏も冬も関係なく縁日をやっとるぜよ。」「そうですか・・志村様、よろしければ連れて行ってくださいませんか?」「千尋さんが行きたいちゅうならわしは喜んで連れて行くぜよ!」「おい、亭主の俺を無視するんじゃねぇよ。」歳三がそう言って勇蔵を睨むと、勇蔵は舌打ちして溜息を吐いた。「まったく、嫉妬深い亭主を持つと大変じゃのう?」「おい、何か言ったか?」「いんや、何も言うとらん。」 勇蔵の家を出た千尋達は、彼と共に近くにある神社へと向かった。縁日は神社の周りを囲むかのように、簪や食べ物などを売る屋台が軒を連ねていた。「勇蔵、おまんそいつらは誰ぜよ?」千尋が簪の屋台で簪を見ていると、三人の元に精悍な顔立ちをした男が現れた。「千尋さん、紹介するがじゃ。兄貴の俊輔じゃ。兄貴、こちらはロンドンで知り合うた内藤千尋さんじゃ。」「初めまして、内藤千尋です。」「どうも、志村俊輔です。勇蔵、何処でこんな別嬪と会うたぜよ?」「そりゃぁ秘密じゃき。」「千尋さん、英国で弟が何かあなたにご迷惑を・・」俊輔がそう言って千尋を見ると、彼は千尋の隣に立つ歳三の姿に気づいた。「そちらの方は?」「こちらの方は、わたくしの夫の、内藤隼人様です。」「初めまして。」「なんじゃ、所帯持ちか。漸く勇蔵にいい嫁が来ると思うとったのに・・」俊輔はそう言った後溜息を吐くと、肩を落とした。「兄貴、自分の嫁は自分で見つけるぜよ。」「そう言うて、30過ぎになっても独り身でおるがか!この親不孝者!」「何も殴らんでも・・」俊輔から拳骨を喰らい、勇蔵は痛みに呻きながらそう言うと頭を擦った。 その日の夜、千尋と歳三は志村家の者達と夕食を囲み、楽しい時間を過ごした。「千尋さんは洋装がよう似合うとるのう。」「そうですか?」「じゃが、髪を割れしのぶに結ったおんしも可愛らしかったのう。」勇蔵はそう言いながら、昔の事を思い出していた。「こら、何鼻の下を伸ばしとる!」勇蔵の母・きくはそう彼に怒鳴ると、彼の頭を平手で叩いた。「お袋まで叩くこと無かろうが!」「おまんは口で言い聞かせても駄目じゃ!」「すみませんねぇ、騒がしい家で。勇蔵さんとお義母様は、顔を合わせば喧嘩ばかりしますき。」「いいえ。賑やかなご家庭で羨ましいです。」「いつも二人の仲裁に入らんといかんうちとしては、疲れる事ばかりじゃ。」勇蔵の嫂・春はそう言った後、溜息を吐いた。にほんブログ村
2014年01月06日
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「お久しぶりでございます、慶子様。お元気にしておられましたか?」「ええ。それにしても驚いたわ、千尋様が生きていらっしゃったなんて!」 オペラ座の近くにあるカフェで、千尋の義兄・範久(のりひさ)の妻、慶子はそう言うと千尋に微笑んだ。「慶子様も、パリに?」「ええ。それよりも千尋様、あなたの隣に居るのは土方様ではなくて?」慶子の視線が、千尋から歳三へと移った。「今は内藤と名乗っているよ。」「そう・・千尋様、是非うちにいらっしゃいな。範久様も、千尋様が生きていらっしゃる事を知ったらお喜びになると思うわ。」「それは出来ません、慶子様。」「あら、どうして?」「義兄上は明治政府の為に働いておられます。そんな義兄上の元に、逆賊であるわたくしが来ることで、義兄上に迷惑をお掛けしてしまいます。」「まぁ・・」慶子は千尋の言葉を聞くと、溜息を吐いた。「そう、あなたがそうおっしゃるのならば仕方ないわね。でも、範久様には会ってくださるわよね?」「ええ。」「それじゃぁ、後日あなた方が泊まっているホテルに伺いますわ。」「慶子様、お気を付けてお帰り下さいませ。」「千尋様、あなたと会えて嬉しかったわ。」慶子は椅子から立ち上がると、そっと千尋を抱き締めた後、カフェから出て行った。 数日後、千尋と歳三が泊まっているホテルに、範久がやって来た。「俺も会おうか?」「いえ、わたくし一人で義兄上にお会い致します。」「そうか・・」 千尋が一階にあるカフェへと向かうと、シャンゼリゼ通りを見渡せる窓際の席に、範久が居た。「義兄上。」「千尋、お前生きておったんか。」範久はそう言うと、千尋に微笑んだ。「話は慶子から聞いた。あの土方と夫婦として暮らしているそうやな?」「ええ。男二人で暮らすのはかえって怪しまれると思うので、夫婦としてなら誰も怪しまれないと思いまして・・」「そうか。日本に帰ったら、どないするつもりや?就職の世話くらい、してやってもええぞ?」「いいえ、お断りいたします。わたくしも副長も新政府から目の敵にされている新選組の者です。義兄上には迷惑をお掛けしたくないのです。」「お前がそう言うのやったら、わたしは何もせぇへん。千尋、身体にだけは気をつけろよ。」「はい、義兄上。」「これ、慶子とわたしからの結婚祝いや。」範久は千尋に漆塗りの箱を千尋に手渡した。千尋が箱を開けると、そこには鼈甲の櫛と簪が入っていた。「祝言の時に挿しや。」「ありがとうございます。」「千尋、お前とは血が繋がってへんけど、わたしは兄として、お前の幸せを遠くで願うてるで。」範久はそっと千尋の肩を叩くと、カフェから出て行った。「お帰りなさいませ、あなた。千尋様とお話は出来ましたか?」「ああ。結婚祝いに、鼈甲の櫛と簪を贈った。」「そうですか。中でお茶でも頂きましょうか?」「そうやな・・」範久は涙をハンカチで拭うと、慶子の後に続いてリビングへと入っていった。にほんブログ村
2014年01月05日
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『本当に俺達と仲良くしてぇのなら、船で会った時に俺達に声を掛けたらよかったじゃねぇか?あんたがもしあの時そうしていたら、俺はあんたを殴らずに済んだかもしれねぇんだ。』『それはそうだけど・・』『言いたい事があるならはっきりと言え。そうしないとまた殴るぞ?』歳三がそう言ってフィリップに向かって拳を振り上げようとすると、彼は恐怖に怯えた目で歳三を見た後、歳三の隣に腰を下ろした。『君達を驚かせてしまって、悪かったと思っているんだ。僕が何故、船で君達にシャンパンを奢ったのかを知りたくはないかい?』『ああ、知りたいね。』『それは・・ある人物が僕にそうするよう頼んで来たんだ。だから僕はその人の頼みを聞いてやっただけなんだ。』『ある人物ってのは、一体何処のどいつだ?それを詳しく言ってくれねぇと、俺はお前ぇを信用できねぇなぁ。』『それは、言えない・・』『そうか。じゃぁ仕方ねぇ、パリに着いたら俺達と一緒に警察に行って貰うしかねぇようだなぁ。』歳三の口から“警察”という言葉を聞いたフィリップは、恐怖で顔を引き攣らせたかと思うと、歳三の前に跪いた。『お願いだ、それだけは勘弁してくれ!』『じゃぁ今すぐに、俺達にシャンパンを奢るよう指示した人物の名を吐いちまうことだな。』歳三はそう言うと嗜虐的な笑みをフィリップに浮かべた。『わかった、言うよ・・』フィリップはゆっくりと立ち上がると、歳三にある人物の名を教えた。 パリ滞在一日目の夜、歳三と千尋はバレエ『白鳥の湖』を鑑賞する為、オペラ座に来ていた。貴族達の社交場であるオペラ座には、今夜も着飾った貴婦人達が美しいドレスを纏い、他愛のない話に花を咲かせていた。「楽しみですわね、今夜の公演。」「ええ。」「それにしても、あの方はどなたなのかしら?」そう言った貴婦人の一人が、ホールに入ってきた千尋を見た。千尋はワインレッドのドレスを纏い、胸元をエメラルドのネックレスで飾っていた。「今夜も綺麗だな、千尋。」「ありがとうございます、旦那様。」千尋はそう言うと、そっと歳三の胸元を飾る蝶ネクタイをさりげなく直した。「少し曲がっておりましたよ。」「ありがとう。」「今夜は素敵な夜になりそうですね。」「そうだな・・開演までまだ時間はあるが、早めに入ろうか?」「ええ。」 劇場に入った二人は、前もって義文が予約しておいてくれたロイヤル・ボックスへと向かった。そこでは舞台全体を見渡す事ができ、千尋は公演中オペラグラスを一度も離さずに舞台上で繰り広げられる幻想的な世界に魅了されていた。「楽しかったな、バレエ。」「ええ。やはり一度は観ておくべきだという堀田様のお言葉は間違っておりませんでしたね。」 千尋が歳三と共に劇場から出ようとした時、一人の女性が二人の元へと駆け寄ってきた。「千尋様、千尋様ではなくて?」「あなたは・・」「あなた、戊辰の戦で死んだとばかり思っていたけれど・・生きていらしたのね!」 その女性はそう叫ぶと、千尋に微笑んで彼の手を取った。にほんブログ村
2014年01月05日
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「瑩子さん、お国はどちらですか?」「会津です。」「まぁ、会津の方でしたか。ですが瑩子さんのお話を先程から伺っていると、会津訛りがありませんね。」「ええ。渡英する前に、家庭教師に付いていた方から訛りを消すようにと言われて・・異国で会津の言葉を喋っていても誰も気にしないと思いますけど、日本では違いますから。」そう言った瑩子は、何処か寂しそうな表情を浮かべた。 帝と徳川家に仕えて来た会津藩を、新政府軍だった薩摩・長州藩は鳥羽・伏見の戦の折に「錦の御旗」を戦場に掲げ、会津藩を一方的に「賊軍」とした。賊軍の汚名を着せられた会津藩は、新政府軍の猛攻撃を受け、国と名誉を失った。「あなた方が賊軍ではないことは、わたくしも主人も知っております。中将様は粉骨砕身して帝の為に尽くされました・・賊軍であるのは、帝に弓をひいた長州です。」「ありがとうございます、そんな事を言っていただけるだけで嬉しいです。」瑩子は千尋の言葉を聞くと、そう言って涙ぐんだ。「余り気を落とさないでくださいませ。いつか必ず、会津の名誉が回復される日が来ましょう。」「ええ・・その時まで、わたくしはどんなことにも耐えてみせます。」 レストランの前で瑩子と別れた歳三達は、廊下の角を曲がった彼女の背中を静かに見送った。「俺達の他にも、あの戦で辛いもんを抱えている奴がいるんだな・・」「ええ。戦が終わったからといって、全ての者が幸せになれるとは限りません。」 千尋達を乗せた船がフランスの港に着いたのは、ロンドンを出航してから数日後の事だった。「フランスに無事着いたな。」「ええ。今夜の宿は堀田様が取ってくださいましたから、野宿する心配はなさそうですね。」「ああ、そうだな。」港からパリ行きの汽車に乗った二人は、外の景色を眺めながらパリに想いを馳せていた。「旦那様、お昼にしましょうか?」「ああ、そうだな。」千尋と歳三は藤製のバスケットからサンドイッチを取り出し、それを食べながら車窓を眺めていると、突然車両の扉が開いて一人の青年が入ってきた。青年は誰かを探しているかのように周囲を見渡した後、千尋の姿を見て嬉しそうな笑みを浮かべながら千尋の前にやってきた。『やっと会えた、僕のオデット!』青年はそう言うと、千尋を抱き締めて彼の唇を塞いだ。「てめぇ、俺の女房に何をしやがる!」歳三は勢いよく座席から立ち上がって青年にそう怒鳴ると、彼の横っ面を拳で殴った。「旦那様、落ち着いてくださいませ。」「うるせぇ、これが落ち着いていられるか!」『痛いよ・・何も殴ることないじゃないか。』青年は歳三に殴られた頬を擦りながら、そう言うと立ち上がった。『人の女房に突然抱きついて破廉恥な真似をしやがって・・てめぇ一体何処のどいつだ!』『僕はフィリップ。船の中で君達と会ったじゃないか、覚えてないの?』『ああ・・レストランでわたくし達にシャンパンを奢ってくださいましたよね?』『やっぱり、覚えてくれていたんだね!』青年が再び千尋に抱きつこうとしたので、歳三は彼の脇腹を拳で殴った。『何で殴るんだよぉ・・』『お前ぇ、俺達に何の用だ?』『そんな怖い顔しなくてもいいじゃないか・・僕は君達と仲良くしたいだけなのに。』にほんブログ村
2014年01月04日
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「志村様、お気をつけて。」「ああ。千尋さんと歳三さんも、日本に帰った時には土佐に寄ってくれ。」「ええ、必ず伺います。」 翌朝、歳三と千尋は、日本へと帰国する勇蔵を見送る為に港へ来ていた。「そいじゃ、二人とも幸せにのう!」勇蔵は千尋に向かって手を振ると、船へと乗り込んでいった。「行っちまったな・・」「ええ・・」 勇蔵が乗った船が港から出航し、水平線の彼方へと消えてゆくのを眺めながら、千尋はそう言って歳三の手を握った。「わたくし達も、参りましょうか?」「ああ。」歳三と千尋はそれぞれ旅行鞄を持つと、フランス行きの船に乗り込んだ。「フランスで新婚旅行たぁ、随分と豪勢じゃねぇか。」「そうですね。」一等船室にある客室に旅行鞄を置いた後、二人は甲板へと上がった。そこは、カップルや家族連れで賑わっており、カップルが鴎(かもめ)に向かってフレンチフライを投げていた。「千尋、パリで何かしたい事はあるか?」「バレエを鑑賞したいですね。バレエは、全ての踊りの基本であると、堀田様から教えて貰いましたので・・一度、どんなものなのか観てみたくて・・」「そうか。じゃぁ一緒に観よう。」 船室へと二人が戻ると、ベッドの上に見慣れぬ薔薇の花束が置かれてあった。「この花束、誰が・・」「さぁな。船員に聞いてみるか。」歳三がそう言って花束をベッドから持ちあげた時、花束に挟んであったメッセージカードが床に落ちた。「“よい船旅を”だとよ・・差出人が書いてねぇから、何だか不気味だな。」「ええ・・船員さんに、花瓶を貰って来ます。」千尋がそう言って船室から出ようとした時、彼は誰かとぶつかってしまった。「大丈夫ですか?」「ええ。すいません、部屋を間違えてしまって・・」千尋とぶつかったのは、洋装姿の日本人の少女だった。「あなた、日本人ですか?」「ええ。わたくし、三船瑩子(みふねけいこ)と申します。あなたは?」「わたくしは、内藤千尋と申します。こちらの方は、わたくしの夫の、隼人様です。」「あなた方もフランスへ?」「ええ、新婚旅行に。三船さんは?」「わたくしは、パリの大学に留学へ行くところです。」「そうなのですか。慣れない異国の地で学ぶことは、色々と大変でしょう?」「ええ。わたくしの他にも女子留学生達が居りますが、言葉や文化の壁にぶつかって、失意のまま帰国した者もおります。」「そうですか・・あなた方のような志が高い若者達が世界で活躍できる日を祈っております。」「ありがとうございます、そう言っていただけるだけでも嬉しいですわ。あの、もしよろしかったらご一緒にお食事しても宜しいでしょうか?」「ええ、構いませんよ。よろしいですよね、旦那様。」「ああ、構わないさ。こうして会ったのも何かの縁だ。」 千尋達が瑩子と船内にあるレストランで食事を取っていると、彼らのテーブルに船員が三人分のシャンパンを置いた。『シャンパンは頼んでおりませんが?』『あちらのお客様からです。』船員がそう言って指した方を見ると、奥のテーブルに座っていたスーツ姿の男が千尋に向かって笑顔を浮かべながら手を振った。「お前の知り合いか、あの男?」「いいえ。」「まぁ、あいつの奢りだっていうなら、有り難く頂こうじゃねぇか。」「ええ・・」にほんブログ村
2014年01月04日
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千尋達が公園に入ると、そこは既に見物人で溢れ返っていた。「千尋、お前ぇが剣の遣い手だってことは知っているが、余り油断するんじゃねぇぞ?」「わかりました。」歳三から愛刀を受け取った千尋は、ゆっくりと博人が待つ中央広場へと向かった。「何だ、来たのか。怖気づいて来ないのかと思ったぞ。」「わたくしがあなたを恐れているのなら、決闘など申し込みませんよ。寧ろ、あなたが決闘でわたくしに負ける事を恐れて来ないのではないのかと思っていました。」千尋がそう言うと、見物人の間から笑い声が上がった。「そんなに僕を馬鹿にすることが出来るのは、僕と戦ってから言うんだな!」博人は怒りで顔を赤く染めると、刀の鯉口を切った。「それほど己の腕に自信がおありのようですね?ならばその腕前、見せて下さいな。」千尋は博人を睨みつけながら、刀の鯉口を切り、白刃を博人の前に翳した。「それでは、始め!」義文が決闘の開始を告げると、博人が奇声を上げながら千尋に躍りかかって来た。だが隙だらけの彼の攻撃を難なくかわした千尋は、そのまま身体を反転させると、遠心力を利用して彼の後頭部に剣の鍔(つば)を叩きつけた。博人は低い呻き声を漏らしながら、ゆっくりと地面にくずおれ、そのまま動かなくなった。「何だか呆気ない終わり方だったなぁ。」「ええ、そうですね。薩摩示現流の遣い手だと聞きましたが、こんなに弱いとは思いませんでした。」千尋はそう言うと、そっと気絶している博人の前に跪いた。「まぁ、決闘にはお前ぇが勝ったし、証人は沢山居る。あとでこいつが何を言っても、誰もこいつの言葉を信じねぇだろうよ。」「そうですね・・」 千尋が決闘で佐伯博人に勝利したという記事は、翌朝の朝刊に載った。“ヤマトの国から来たレディ、会心の一撃で男を倒す。”「こんなに大々的に報道されるとは、思いもしませんでした。」「東洋人同士の決闘は珍しいからね。でも千尋さん、君は何処からどう見ても西洋人そのものだけど・・」「わたくしは、異人の血をひいているのです。実の両親が誰なのかはわからずじまいですが。」「そうなのか。実の両親には会いたいとは思わないの?」「いいえ。今は、旦那様だけがわたくしの家族ですから・・会いたいとも思いません。」千尋がそう言って紅茶を一口飲んでいると、ダイニングに勇蔵が入ってきた。「おんし、聞いたぜよ!昨日あの佐伯の倅をのしたそうじゃのう?」「ええ。大口を叩いていた割には、あの方は大した剣の腕をお持ちではありませんでしたね。」「まぁ、あいつは昔から嘘吐きじゃからのう。おんしに公衆の面前で恥をかかされた腹いせに、自分がいかにすごいのかを周りに吹聴して回ったんじゃろう。」「志村様は、今日は何のご用でこちらに?」「おんし達に別れの挨拶をしに来たがじゃ。そろそろわしも日本に帰ろうと思うてのう。こん国で得た知識を、土佐の為に生かしたいがじゃ。」「そうですか・・いつ日本にお戻りになられるのですか?」「明日の夜じゃ。義文に宜しく伝えておいてくれ。」「必ず伝えます。志村さんがいらっしゃらなくなると寂しくなりますね。」「嬉しい事を言うのう。日本に帰るのをやめようかのう・・」勇蔵はそう言って嬉しそうな顔で千尋を見ながら、彼を抱き締めようとした。「人の女房に手ぇ出して痛い目に遭う前に、さっさと日本に帰ったらどうだ?」歳三が勇蔵に氷のような視線を送ると、彼は慌てて千尋から手を離した。「ったく、油断も隙もねぇな、あの野郎。」「旦那様、志村様の言葉を真に受けないでくださいませ。」 千尋は嫉妬深い歳三に苦笑しながらも、そう言って彼に微笑んだ。にほんブログ村
2014年01月03日
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「寒ぃなぁ・・」「ええ、そうですね。」「こんな寒い日にクリケットの試合なんざするこたぁねえだろうに。エゲレス人は変わっていやがるなぁ。」 歳三と千尋は、ある英国貴族が主催するクリケットの試合に招かれ、彼が所有する邸に来ていた。雪で覆われた中庭で、クリケットの選手達が試合に興じており、それを観戦する観客達は時折白い息を吐きながら選手達に励ましの声を送っていた。「邸の中に入ろうぜ。ここだと凍えちまう。」「そうですね。」千尋が歳三と共に中庭を後にしようとした時、観客席の隅の方から佐伯博人がやって来るのが見えた。「おや、奇遇ですね・・あなたとまたお会いできるなんて。」「あら、あなたは昨夜の・・」「佐伯です。これからどちらに行かれるんですか?」「邸の中に主人と戻ろうと思っているのです。」「そうですか。残念だなぁ・・」「あなたにお渡ししたい物があります。」「僕に渡したい物、ですか?」「ええ、気に入ってくださるといいのですが・・」千尋はそう言って手袋を両手から外すと、それを博人の顔面に投げつけた。「な・・」「あなたは今朝、夫の名誉を卑劣な方法で汚しました。その名誉に掛けて、わたくしはあなたに決闘を申し込みます!」「何のことですか?」「まぁ、とぼけるおつもりですの?あなたは今朝、わたくしの夫に剃刀が入った手紙を届けたでしょう?」千尋に睨まれ、博人は怒りで震えた。「名誉を汚したのはそっちが先だろう!公衆の面前で僕に恥をかかせたじゃないか!」「昨夜の出来事はあなたの自業自得です。」千尋と博人が口論している間に、英国人達が彼らの方を見ながら英語で何かを囁き合っていた。「千尋、本気でそいつと決闘する気か?」「ええ。旦那様、止めないでくださいませ。」「止める訳ねぇだろう。」歳三はそう言うと、千尋に微笑んだ。「思う存分そいつを叩きのめせ。」「わかりました。主人はこうおっしゃっておりますが佐伯様、どうなさいますか?」「どうって・・」「わたくしと決闘する気はおありですか?」「そ、それは・・」博人はキョロキョロと周囲を見渡すと、英国人達がじっと自分の方を見ていることに気づいた。「決闘するに決まっているだろう!」「そうですか。では決闘の詳しい日時については、後日こちらからご連絡致します。」 邸の中に歳三とともに千尋が戻ると、義文が険しい表情を浮かべながら二人の元へとやって来た。「君、佐伯博人に決闘を申し込んだんだってね?」「ええ。夫の名誉を汚されたのですから、当然です。」「あいつは薩摩示現流の遣い手だぞ。君に勝てる訳が・・」「芋侍など、わたくしの相手ではございません。」千尋はそう言うと義文の言葉を鼻で笑った。「内藤さん、千尋さんを今止めないと大変なことになるぞ!」「なぁに、心配いらねぇさ。あいつは天女のような顔をしているが、剣を振るえば般若のようにおっかねぇのさ。」「そうなのか?」「まぁ、それは自分の目で確かめてみるといいさ。」 数日後、千尋は佐伯博人と決闘する為、歳三とともにロンドン市内の公園へと向かった。にほんブログ村
2014年01月03日
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「さてと、そろそろ帰るとするか・・」「そうですね。」千尋がそう言って歳三とともに玄関ホールへと向かおうとした時、彼は突然気を失って真紅の絨毯の上に倒れた。「おい千尋、どうした!?」「どうしたんだい?」「千尋が突然倒れて・・」「落ち着いて、内藤さん。」義文はそう言うと、千尋の前に跪いた。「千尋は大丈夫なのか?」「ああ。どうやらコルセットをきつく締めすぎた所為で、気絶してしまったらしい。」義文が少しコルセットの紐を緩めると、千尋は低く呻いた後目を開けた。「千尋、大丈夫か?」「ええ。コルセットをきつく締めすぎてしまったみたいです。」「もう家に帰ろうか?」「ああ、そうしよう。」 三人が玄関ホールから外へと出て馬車を待っていると、そこへ千尋に言い寄って来た男がやって来た。「こいつだ、こいつが俺に暴力を振ったんだ!」怒りで顔を赤く染めた男は、そう叫ぶと歳三を指した。「お前ぇが人の女房に言い寄るからだろうが。しつこく女を誘う男は嫌われるぜ?」「うるさい、僕を誰だと思っているんだ!」「知らねぇよ、そんなこと。千尋、行くぞ。」「はい・・」千尋が歳三とともに馬車に乗り込もうとした時、男が千尋の腕を掴んだ。「何をなさいます、離してください!」「うるさい、俺が酷い目に遭ったのはお前の所為だ、責任を取れ!」「呆れた方ですね。夫に投げ飛ばされる前にわたくしの事を諦めたらよかったものを。」「黙れ!」男は千尋を殴ろうとして、右腕を大きく振り上げた。その隙を狙った千尋は、ヒールで男の足の甲を勢いよく踏みつけた。男が痛みで悲鳴を上げている間に、千尋は歳三と義文が待つ馬車へと乗り込んだ。「あの野郎、しつこかったな。一体何処のどいつだ?」「彼は、佐伯博人殿といって、外務省の佐伯大臣のご長男だよ。」「へぇ、大臣の息子か・・道理で偉そうな態度を俺達に取っていやがったんだな。」「あんまり彼とは親しくしない方がいいね。彼は社交界の鼻つまみ者だから。」「心配するな、俺はあいつみてぇなクソ野郎に興味はねぇ。」「そう。」 M侯爵邸でのパーティーから数日後、歳三が千尋とともに堀田邸のダイニングで朝食を取っていると、そこへ堀田家の執事・中岡がやって来た。「内藤様にお手紙が届いております。」「俺に文だと?誰からだ?」「佐伯様とおっしゃる方からです。」「ああ、あのボンボンか。」中岡から佐伯博人からの手紙を受け取った歳三はペーパーナイフで封筒の封を切って中から便箋を取り出そうとした時、指先に痛みを感じて封筒を床へと放り投げた。「どうしました?」「あの野郎、封筒に剃刀を仕込んでいやがった。」歳三は近くに置いてあったナプキンで止血すると、舌打ちした。千尋が床に落ちていた封筒を拾って逆さにすると、中から剃刀が出て来た。「卑劣な方ですね、こんな嫌がらせを封筒に仕込むなんて・・」「まぁいい、俺を怒らせたらどれだけ痛い目に遭うのか、奴に思い知らせてやる。」歳三はそう言うと、口端を上げて笑った。にほんブログ村
2014年01月03日
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「かなり上手いじゃねぇか。何処でワルツのステップを覚えたんだ?」「船の中で覚えました。何もすることがなくて退屈でしたから、甲板でステップの練習をしていました。運動不足解消にもなりますからね。」「そうか。俺もお前を見習わないとな。」歳三はそう言うと、千尋に微笑んだ。やがて楽団が奏でる音楽が終わり、歳三と千尋が踊りの輪から抜けると、数人の招待客達が彼らの元にやって来た。「あなた方、お名前は?」「どちらからいらしたの?」「二人とも、こんな所に居たのか。」友人と会話を終えた義文がそう言いながら二人の元へとやって来ると、招待客の一人である老婦人が彼を見た。「堀田様、奇遇ですわね。あなたとこんな所で会えるなんて・・」「お久しぶりです、奥様。こちらの方々は、僕の知り合いです。内藤隼人さんと、千尋さんです。」「まぁ・・遠目から見てお似合いな二人だなぁと思っていたら、ご夫婦でしたのね。」老婦人はそう言うと、歳三と千尋に微笑んだ。「折角夫婦で楽しい時間を過ごされていたのに、野暮な事をしてしまってごめんなさいね。」「いえ・・」「自己紹介が遅れましたわね。わたくしは、榊静子と申します。ここでは、英国に留学中の女子留学生達の身の回りのお世話をしておりますの。」「女子留学生?女子でも、異国に留学される方がおられるのですか?」「ええ。志が高い少女達が、遥々海を渡ってこの英国にやってきたのは昨年の春のことです。わたくしが彼女達の母親代わりとなり、身の回りの世話をしておりますの。」「そうですか・・異国で学ぶという貴重な経験は、彼女達にとって有意義なものとなるでしょうね。」「ええ。ですが、英語を話せない子が多くて・・途中で挫折して、帰国する子もおります。」静子はそう言って溜息を吐いた。「彼女達に、諦めずに学問に励めば自ずと道は開けると伝えてください。」「わかりました。では堀田様、わたくしはこれで失礼致しますわ。」「ええ、お気を付けて。」大広間から出て行く静子の背中を千尋が見送っていると、突然彼は誰かに肩を叩かれた。「君、一人なの?」「いいえ・・あなたは、どなたですか?」「名乗る程の者じゃないよ。ねぇ、僕と踊らない?」「連れを待っておりますので・・」「いいじゃないか、少しだけでも。」「困ります・・」千尋はそう言って男からの誘いを断ったが、男は執拗に食い下がってきた。「なぁ、いいだろう?」男がそう言って千尋の腕を乱暴に掴んだ時、男の身体が突然宙を舞った。「俺の連れに手を出すな!」「副長・・」歳三に投げ飛ばされ、床に背中を強く打ちつけて呻く男を大広間に残し、千尋は歳三と共に大広間から出た。「大丈夫か、怪我は?」「ありません。ですが副長、余り騒ぎを起こしては・・」「女房を無粋な男から守って何が悪いんだ?」歳三はそう言うと、千尋を抱き締めた。「副長・・」「おい、俺達が夫婦だってことを忘れたのか?そんな堅苦しい呼び方をするんじゃねぇよ。」「すいません・・では、何とお呼びすれば?」「名前で呼べ。」「では・・歳様。」「それでいい。」 千尋から名を呼ばれ、歳三はそう言って笑った。にほんブログ村
2014年01月03日
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「千尋の奴、遅ぇなぁ・・」「仕立屋が張り切っているんだろうさ。荻野さんみたいな美人には、なかなかそうお目にかかれないだろうからね。」「美人って・・あいつは男だぞ?」「美人は性別なんて関係ないさ。君だって、綺麗じゃないか?」「そりゃそうだけどよぉ・・」歳三と義文がそんな事を話していると、ダイニングに千尋が入ってきた。「お待たせしてしまって、申し訳ありません。」淡いブルーのドレスを纏い、真珠のネックレスをつけた千尋は、まるで人魚のように美しかった。「何か、おかしいところでも・・」「いや、お前ぇが余りにも綺麗だから、見惚れていたんだ。」「まぁ・・」羞恥で頬を赤く染めた千尋は、そっと歳三に向かって手を差し出した。「それでは、参りましょうか?」「ああ。」 義文と共に馬車でパーティー会場に向かった歳三達は、馬車の窓からロンドンの街並みを興味深げに眺めていた。「ロンドンに来るのは初めてかい?」「ああ。今まで異国に行ったことがねぇから、エゲレスがどんな国なのか興味があるんだ。」「そう・・そういえば、君は今まで京に居たんだっけ?」義文はそう言うと、じっと歳三を見た。「お前ぇ、俺のことを知っているのか?」「ああ。僕も宇都宮で君達と戦ったことがあるからね。それ以前にも、京で何度か君の部下達と刃を交えたこともある。」義文の言葉を聞いた歳三は、ビクリと身を震わせた。「俺達に港で声を掛けたのは、何か目的でもあるのか?」「別に。元新選組副長だった君とロンドンで再会するなんて嬉しいなって思っただけ。」「へぇ、そうかい。」「さてと、そろそろ降りる準備をしなくてはね。」「ああ。」三人を乗せた馬車はやがて、パーティー会場であるM侯爵邸に着いた。「パーティーに招待された奴らは、どんな奴らなんだ?」「主に明治政府の高官達かな。まぁ、君の顔を知っている者は余り居ないと思うけど・・」 義文と歳三が大広間に入ると、それまで談笑していた客達が一斉に彼らを見た。「何だか俺達、見られていないか?」「気の所為じゃないですか?」千尋がそう言いながら大広間に入ろうとした時、彼は小さな段差に躓(つまず)いて転倒しそうになった。「大丈夫か?」「ええ・・」歳三に抱き留められ、千尋は彼に礼を言いながら頬を赤く染めた。―ねぇ、あの方・・―素敵じゃない?―彼にダンスを申し込もうかしら?自分達の近くでそう囁いている女達の声が聞こえ、千尋は思わず身を固くした。「どうした?」「何でもありません・・」「なぁ、一緒に踊ろうぜ?」「ええ。」千尋は歳三の手を取ると、そのまま彼とともに踊りの輪に加わった。にほんブログ村
2014年01月02日
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「そん二人は誰ぜよ?」「港で会ったんだ。内藤隼人さんと、彼の小姓の、荻野千尋さんだ。内藤さん、荻野さん、こちらは僕の友人の、志村勇蔵だ。」「どうも。」「ほう、二人ともなかなかの別嬪じゃぁ!」志村勇蔵はそう言うと、千尋を見た。「おんし、祇園の茶屋で会うた舞妓じゃなかかえ?」「わたくしを、ご存知なのですか?」「わしがおんしのような別嬪の舞妓を忘れる訳なかろうが!」勇蔵はそう叫んで椅子から立ち上がると、千尋の手を握った。「おんしのことはよう覚えとるぜよ!祇園の茶屋で、桂さんに呼ばれて来た座敷でおんしに会うたんじゃ!」「まぁ、そうでしたか・・」千尋は苦笑いを浮かべながら、そう言うと勇蔵を見た。 彼はかつて、新選組の任務として舞妓に扮装し、攘夷派の会合に潜入したことがあった。その時会合に出席していた浪士の中に、勇蔵が居たのだ。「まさかおんしが男だとは思わんかったぜよ!戊辰の戦の時、洋装に身を包んでいるおんしを見て驚きで腰を抜かしたぜよ!」勇蔵はそう言葉を切ると、千尋から歳三の方へと視線を移した。「確かおんしも、鳥羽伏見の戦場におったのう?」「お前ぇ、俺を知っているのか?」「新選組の土方いうたら、わしらの間では有名じゃき。おんしは、五稜郭で死んだと思うとったが・・」「俺もあの時死んだと思ったが、エレゲスの兵士に命を助けられたんだ。」「そうか。戊辰の戦で刃を交えた者同士が、こうして同じテーブルで飯を食っているっちゅうのは、何とも奇妙じゃのう。」「ああ、俺もそう思うぜ。」歳三はそう言うと、グラスに注がれたワインを一口飲んだ。 その日の夜、歳三は寝室に入るなり、千尋をベッドの上に押し倒した。「何をなさいます?」「夜に二人きりですることといえばひとつしかねぇだろう?」「誰かが来たら・・」「そんな野暮な事をするような奴はいねぇよ。」歳三はそう言うと、千尋の唇を塞いだ。甘い時間を過ごした後、千尋がベッドから降りようとすると、歳三が彼の腰を掴んで自分の方へと引き寄せた。「何処行くんだ?」「喉が渇いたので、水を・・」「今夜は何処にも行くんじゃねぇ。俺の傍に居ろ。」「はい・・」 義文の邸に歳三と千尋が滞在して一週間が経ったある日のこと。「俺達にパーティーの招待状が届いている?」「ああ。」義文はそう言うと、蜜蝋が捺された招待状を歳三に手渡した。「パーティーに行くにしたって、着ていく服がねぇよ。」「そんな事だろうと思って、僕が仕立屋を呼んでおいたんだ。」「そうか・・」「実は、ひとつ問題があるんだけど・・」「問題?」「パーティーは、夫婦同伴で出席して欲しいと招待状に書かれてあったんだ。そこで、君と荻野君のどちらかが、女装してくれないと・・」「俺は御免だぜ。前に女装した時、エライ目に遭ったからな。」「そうか・・では、荻野君・・」「わかりました。」歳三と千尋が義文と昼食を食べていると、邸に仕立屋がやって来た。「荻野君、君が先に採寸して貰うといい。」「わかりました。」千尋はそう言うと椅子から立ち上がり、ダイニングから出て二階にある客間へと向かった。にほんブログ村
2014年01月02日
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