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中越沖地震のボランティア 地域集中、増えすぎ…教訓生かす自治体 7月21日8時 産経新聞おにぎりなど救援物資の食料品、大量に余って廃棄処分 7月20日22時 読売新聞救援物資として食料品を送るのは、要請されてからにするのが常識だと思うのだが・・。このような時には「ボランティアセンター」などをすぐに設置し、ベテランのボランティア・コーディネーターを派遣するシステム作りも必要だろう。大規模な災害などの時に一番必要なのは、「各分野のプロ」の配置ではないのだろうか。そのような人たちのリーダーシップがあってこそ、一般のボランティアが本当に役立つ活動ができると思う。それと同時に、必要な人や物を迅速に手当するのに一番役立つのは「お金」。支援する気持ちがあるのなら、まずは義援金を送りましょう。(という私は、まだ送っていない・・)
2007年07月21日
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昨日は、隣町の中学校での《総合体験学習》で、アジアの子ども達への教育支援活動についての紹介と、カンボジアの子ども達へ送る絵本への、翻訳シール貼り体験を紹介してきた。午前中の4時間全部を、講師は自由に使ってよいとのこと。中学生を相手に4時間ぶっ通しで何かを伝えるという経験は初めてなので、その間を飽きさせずに関心を持続させることのために、関係団体からビデオやパネル、自分がカンボジアに行った時の写真を拡大カラーコピーしたり、中学生でも分かりやすいようにと資料を作ったりと、自分なりに準備をして臨んだ。この中学校は生徒数が多く、今回の3年生の総合体験学習は10コースもある。その中で、私のコースを選択してくれたのは、30人。あまり時間がないので詳しくも書けないが、結果としては、想像以上に関心を持って一所懸命聞いてくれた。途中で、何人か居眠りをする子もいたけれど、最後に書いてもらった感想文に、「居眠りしてしまってゴメンナサイ」という文を見たときは、何だか嬉しくなってしまった。「もしも何か書きたいことがあったら、感想など書いてください。 書きたくない人は、無理に書かなくてもいいですよ。私のマンガでも書いて」と言って、15分ほど感想文を書く時間を取ったのだが、全員が何かを書いてくれた。A4の用紙を渡したのだが、かなりの分量の文章を書いた子もいる。私は、そのことにとても驚いたし、この4時間で何かが伝わったのだと、本当に嬉しかった。「今まで、アジアのことなんて全く知らなかった」「自分達があたりまえと思っていることが、当たり前じゃないんだと知って驚いた」「この絵本が、カンボジアの子ども達が喜んで読むのだと思うと、嬉しいような不思議な感じ・・」「子ども達が学校に行かずに働かなくてはならなかったり、兵士にさせられたりするなんて・・」「日本って、恵まれているんだと思った。その国で、自殺する人や鬱病が多いなんて・・・」そして最後には、ほとんどの子が書いている。「今日は、本当にありがとうございました」と。 (大人より礼儀を知ってるじゃないか)テレビなどがほとんどの家にある日本で、最近は「難民」「少年兵」「内戦」などの情報も色々流れているけれど、中学生達はほとんどそのようなことに関心を持つことがなく、結果として何も知らないままであることをあらためて感じた。カンボジアの子ども達の、絵本を読むときのキラキラした目と、今日の中学生達のキラキラした目が重なり合った。知らない世界を知る喜びを、この中学生達は間違いなく知っている。それを実感することが出来て、私の方が感謝したい。授業の前に、「今までボランティア活動をしたことがある人」と聞いたとき、30人中二人しか手が上がらなかった。でも、感想文には「こんなボランティア活動があるんだ」「私も、こんな活動ならやってみたい」「お金のかからない、私達にも出来るボランティアをもっと知りたい」「私も、大人になったら困っている国の人たちを助ける手助けをしたい」などと書いている子が何人もいた。このような子ども達の気持ちを、丁寧に掬い取って応援できる大人が、彼らの身近にいてくれることを願ってやまない。
2007年07月04日
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私は、数年前からカンボジアの子ども達の教育支援活動をしている。友人がその活動関わっていた縁で、カンボジアに視察ツアーに参加して、少しでもお役に立てたらと思い、自分の関わっていた活動とからめて始めたものだ。その縁が少しずつ広がり、地元の高校生ボランティアなどにも協力してもらい、またまたその縁で、来週は隣町の中学校の「総合体験学習」で、カンボジアの子ども達に送る絵本作りや、アジアの子ども達について話すことになってしまった。その資料作りのために、図書館やネットで色々調べた。それでつくづく感じたのは、私はアジアの現状がほとんどわかってないということ。カンボジアのことは多少わかっているが、その周辺の、タイ、ラオス、ミャンマー、ベトナム、さらに少し離れているがアフガニスタンなどについても知っているようで知らないことばかり。少し気合を入れて、もう少し勉強する必要があるなー。
2007年06月30日
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土曜日から孫達が来ていたのだが、前日の土曜日は残雪残る「滝野すずらん公園」のこどもの国で遊ぶ。残雪のため使えない遊具などもあるけれど、孫達は久しぶりの戸外や大型遊具などの遊びに、全身をゴムマリのように弾ませて、二匹の子犬がじゃれあい走り回るように、飽くことを知らず遊びまくっていた。日曜日は、天気も良いので市内のアスレチックがあるという公園に行く。自宅からは少し離れているので、この公園の存在は知っていたが、行くのは初めてだった。子供用の遊具やアスレチックだけではなく、大人用の「吊り輪」や平行棒などのようなものを組み合わせた健康遊具なども設置されていた。しかし、子供たちは使うことができるなら「大人用」であろうが何だろうが、よじ登り、ぶら下がり、飛び上がって遊んでいる。ひとしきり遊んだ後、築山の上の芝生に座って飲み物を飲んでいたら、すぐ脇に「ゆで卵の殻」が散らばっていた。「ここでゆで卵を食べたんだね。でも、こんな物落としてゆくなんて、ダメだねー」と言いつつ、手持ちのテッシュにそれを拾って包んでいた。すると、すかさず4歳の女の孫が、「あ、あそこにもゴミがある!」と、お菓子の小さな包み紙を拾ってきた。それが、孫達の次の遊びの始まりであった。「あ! あそこにも!」「あっちにも!」そう、公園は良く見ると小さなゴミがたくさん落ちているのです。最初は、一つずつ私達のところに運んでいたのだが、やがて「ビニール袋」を拾ってそれに集め始めた。築山の上から私達はそれを見ていて、「わー、すっかりゴミ屋さんになっちゃった」と苦笑するばかり。子供なのでこちろん軍手などははめずに「素手」でのゴミ拾いだ。「その手で、目をこすっちゃダメだよー」と叫ぶのが精一杯。二人のビニール袋がいっぱいになった時点で、さすがの私も「随分きれいになったねー。もう、十分。ありがとう」とストップをかけた。(お嫁さんは、本当はもっと早く止めさせたいような気配だった)でも、孫達は「えーっ! まだまだ一杯あるよー」と不満そう。しかし、実に悲しいことだが、この公園の隅々までゴミを拾うには、道具もゴミ袋もない。拾ったゴミを捨てようかとゴミ箱を探したが、この公園にもゴミ箱は設置されていなかった。以前は各公園にもゴミ箱があったのだが、そこに分別もせずに生活ゴミまで捨てる不心得者が増えて清掃が追いつかなくなり、「ゴミは持ち帰りましょう」ということになって久しい。それでもなお、孫達が「まだまだあるよー」という現状なのである。駐車場に行くと、来た時は気付かなかったのだが「吸殻」がたくさん落ちている。孫達もそれに気付き、「ワーッ! どうしてこんなに落ちてるの?」全くもう、なんと答えれば良いのやら。ここの駐車場は「公園の駐車場」だ。子連れの人たちもとても多い。我が子の目の前で、タバコのポイ捨てをやっているんだろうか。今までもそんなことを思うことは何度もあったが、孫達に「ゴミを平気で捨てるなんて、ダメな人たちがいるんだねー」と言うしかない現実が、とても情けなかった。それでも、「捨てるダメな人も多いけど、一所懸命お掃除してくれている人もいっぱい居るんだよ。 二人がお手伝いをしてくれて、おばあちゃんはホントに嬉しいよ」と、ご褒美の百円玉をそれぞれの小さな手に握らせた。思いがけないお小遣いに、二人は「やったー!」と大喜び。「でもね、これは二人が誰にも言われないのに一所懸命いいことをしたからだよ」と、お小遣い欲しさにこれからも公園のゴミ拾いをしないようにと釘を刺す。このおばあちゃんは、子供の純粋さも信じてますが、子供のずるさも信じているのです。大人の皆さん、自分のゴミはキチンと持ち帰りましょう。愛煙家の皆さん、タバコを吸うなとは言いません。マナーだけはキチンと守りましょう。駐車場の吸殻は、どう見ても「灰皿の中身をポイ捨てした」としか思えないようなものがありましたよ。
2007年04月22日
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午前中は、行政の子育て支援事業に関わる打ち合わせ会議。複数の部署と、その事業に関わる私達の組織とが一つのテーブルで話し合う。「行政と市民の協働」を進めるには、このような機会がとても必要なのだけれど、一般的にはこのようなプロセスを確立しているところは、さほど多くはないと思う。その意味では、私はこのような場を設けるわが町の行政に対しては評価している。行政とボランティアの関係のあり方は、お互いの立場からの率直な意見交換(時には、議論というよりケンカに近くなることも)の積み重ねが大切だと思う。それぞれの立場で、同じことでも見え方が違うし、それぞれが自分の主張が正しいと思うので、すんなりと「それがいい、それがいい」とならないのは当たり前のことである。このような場でとても重要なのは、それぞれの立場を考慮しながら話し合いを進めることができる、コーディネーターのような役割を担える人である。しかし、行政では「主管部局」が会議進行を進めるのが通常で、このような人にコーディネーターの資質がなければ、話がうまく進まないということがある。さて、今回の場合は、まずまずであったとは思う。しかし、行政の事業計画は、色々な要素が絡み合って予算化されるので、必ずしも現場のニーズにこたえた形にはならない。このような場合、ボランティアは行政の「お願い」で引き受けざるを得ないことが多いのだが、ここで唯々諾々無批判に引き受けるのでは、行政だってボランティア自身の主体性だって育たない。ということで、今回も、行政関係の話し合いの場で必ず繰り返される議論をすることになった。内心では、「いつもいつもこんなことを言いたくない」という思いと「行政の人からは、いつも同じことで文句をいう人と思われてるんだろうな」とか、「行政職員も、何か一つは無償のボランティア活動をしたらいいのに」などという思いが交錯していた。相手との関係を悪くしたくないという思いは結構強いタイプだと自分では思うので、このような会議は本当に疲れる。(気を使いながら自分の主張をするのは、私には頭も心もフル回転なことなのだ)自己完結的な活動だけに引きこもろうかと思うのは、そんな時である。
2007年03月01日
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私は、行政の○△□協議会のメンバーになっている。今の地方自治体は、どこでも「市民との協働」がお題目で、条例に定められている協議会や委員会だけではなく、事業ごとに検討委員会やら推進協議会などが山ほどある。それ自体には文句はないし、市民の意見を反映した自治活動を進めるためには、必要なことだと思っている。だから、出来る限り協力しようと思っているし、そうしているつもりだ。しかし、「市民との協働」を標榜する割には、自治体職員の意識は旧態依然だと感じることがある。結局は、「市民代表の意見を聞いてやってます」というアリバイ作りのために、委員は利用されていると思うこともままある。行政職員の意識変化が遅いだけではない。所属する委員だって、いわゆる「名誉職」として、唯々諾々と行政の言いなりになることでよしとする人もいる。行政サイドでは、そのようなメンバーが揃っていれば楽だし、「従来のやり方」も通りやすいと思うのが本音だろう。。仕事は楽にスムーズに進められるのに越したことはないから、その本音までも責める気はない、が・・。昨日、今日と、担当職員と協議会の委員長とやりあった。詳細は書けないけれど、一番情けなかったのは会長の言葉。「そんな難しいこと言わないでさ、何とか協力してやってよ」。(私は格別難しいことは言ってない。ただ、プロセスは大切だと言っているだけ)私は、この会長にはいつも会議でガッカリしている。だから、格別のショックではないが、「あなたの顔は、いつも市民ではなくて行政幹部を見ているね」と皮肉の一つも言いたくなる。自治体職員は、選挙で市民に選ばれた議員の言うことにはやけに気を使うが、同じ市民の意見を述べる立場の、単なる○○委員は、都合のよいように使えるものだと思っているんじゃないの?そして、委員の中にもそのような役割を果たすのが委員の仕事と、勘違いしている人もいるような気も・・。残念ながら、私はそういう素直なタイプじゃないんです。見損なわないでよ!
2007年02月07日
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朝から、二つの団体の会報作り。一つは先週末に作成しようと思っていたのだが、お正月明けのせいか原稿を忘れている人が二人いたため。一つは「毎月」、もう一つは二ヶ月に一度ほど作成するので、時々、同時進行になることがある。会報というのは、なくてはならないものではないけれど、会の全体の様子をメンバーに伝えたり、時々原稿を書いてもらうことで所属意識を高めたり、会のことを一般の人たちに伝えたりするために、結構役に立つと思っている。本当は、このような役割を時々交代したほうが良いのだが、なかなか引き受けてくれる人もいない。何年もやっているので「究極のマンネリ」に近いのだが、レイアウトは変わらなくても中身変わっているからいいかと、自分に甘く続けている。このような活動は、あまり苦労するとやる気も失せてくるので、このようにサッサと出来る程度が長続きのコツかもしれない。とりあえず、何とか終えてホッとしたところである。
2007年01月15日
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世話人をしている某会の例会日。子どものことなどで悩みを抱える母親達が集い、あれこれと語り合う会である。例会は、一人一人の近況報告やその時々の思いを話し合うことがメインなのだが、参加しているそれぞれが、様々な思いをくぐり抜けてきた一年であったことを再確認。私は、多少は客観的にみんなの話を聞くことができるので、みんなの話を聞いていると、一人一人がたくましくなり、ゆとりを持てるようになってきているのを感じる。まさに、「母親は子どもと共に成長する」ということをあらためて教えてもらっているような感じがする。必死に試行錯誤している時には、自分ではなかなか気がつかないけれど、一年前の自分の気持ちのありようを思い返したら、「私も少しは成長したかな?」と思えることも多い。一年では変化が実感できなくても、2~3年スパンで思い返したら、「どうしてあの頃は、あんなことにそれほど拘っていたのか?」「ちょっと考え方を変えたら、不安なんてそんなになかったはずなのに」などと、かつての自分に教えてあげたくなることもある。そんなことを気付きあえることが出来る場が、みんなそれぞれにとても大切なのではないだろうか。私も、自分の生活の80%は、「たてまえや役割」で生きていると思うが、この会に参加しているおかげで、自分のありのままをさらけ出したり、恥も反省も開けっぴろげにして、「素のままの自分」でいられる心地よさを感じることができる。誰か一人の力にでもなりたいと思って、成り行きで始めたことだけれど、今は自分を助けたり救ったりすることになっている。来年もまた、背伸びせずに無理せずに、できることをみんなと一緒にやってゆきたいと思う。そして、真面目だからこそ人一倍努力して、それゆえに傷ついたり疲れたり、さらなる悩みを抱えてしまうような、心優しき人たちが幸せな気持ちになれますようにと、心から祈らずにはいられない。(12月25日/記)
2006年12月22日
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午前中は、○○会の例会。午後からは、この会の自主研修会。朝8時50分に家を出て、帰宅は4時半。久しぶりに、びっちりと緊張しっぱなしの一日で結構疲れた。昼食時間は、午後からの講師の先生(本業は大学講師)と共に会食。私達の会の会長は元小学校の校長だったこともあり、昨今の教育関連問題が自然に話題となる。大学での学生の様子、大学生の就職問題学校現場の色々な話などなどと話は尽きない。先生達が悲鳴をあげるような学校ならば、最初にすべきことは教師の数を思い切って増やすことではないかと思うが、どうしてそのような話にならないのかとも。「この国は、どうなってしまうんでしょうねえ」そんなため息が、自然と出てきてしまう。かといって、私達がこの国を捨てて行きたい国も、具体的に見つからない。やっぱり、私達はこの場所で、子供達が健やかに育つようにと願いながら、地道に頑張ってゆくしかない。そんなことを、いつも確認してはいるのだが・・。日本語から「鼻濁音」が消えかかっているという。日本古来の「昔話」や「わらべうた」を知らない母親も増えているという。この国では、美しい日本語や伝承されてきた物語を自然に学ぶ場所があるのだろうか。押し付けられたものは、その場限りで忘れがちなものだ。時には、反発と共に拒否することもある。色々なことが考えさせられ、二重に疲れた一日となった。(16日/記)
2006年11月15日
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昨日の分科会で、重い資料の箱を持ち上げた時、腰に痛みが走った。いわゆる「ぎっくり腰」というのであろうか。しかし、我慢できないほどではないので何とか普通の顔をして帰宅したが、帰宅したら気がゆるんだせいか結構痛くなってしまった。夜中も、痛みが強くならないようにと願いながら用心して寝たり起きたりしていたのだが、願いが効いたのか、起床したら何とかなりそう。というわけで、今日は講演会を聞きに行く。無理をしても行きたかったのは、講師が二十年来の知人だったから。久しぶりに彼の話を聞いて、私自身の原点のようなものを思い出すことが出来た。ふと横を見ると、これまた十年ぶりくらいの知人と再会。名刺を交換したが、彼がずいぶん偉い人になっていてビックリ。まあ、年齢のことを考えたら当然といえる。たまにこのような場に出るのも、悪くはないな・・。しかし、最後に実行委員メンバーが壇上に上がったのを見て、「うーん、中高年ばっかり・・」と感じる。私自身その世代ではあるが、このような集まりを支えるのが中高年ばかりでは、ちょっと寂しい気がする。元気一杯の若いボランティアだって地域にはいるのだけれど、どうもここらあたりの団体活動は、異世代が一緒にワイワイと・・ということは難しいようだ。私自身は、組織的活動はどちらかというと苦手だし、自分よりは若い人たちと触れ合うことのほうが楽しい。(相手はどう感じているか知らない)今回、この集いに参加したのも、若い人から誘われた(頼まれた)から、それならばとイソイソと仲間入りしたわけである。その若者達も、今日は顔を見なかった。昨日の分科会が終わったので、責任は果たしたという感じだろうか。それも、ちょっと寂しいな・・と思いながら、若者が少ない会場を見回していた。
2006年10月15日
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千歳市で開催された「ボランティア愛ランド」の分科会で、私が手がけている活動の説明と体験などのお手伝い。久しぶりに若い人たちと一緒に活動することが出来て、とても楽しかった。会場では、なつかしい昔の仲間にも再会することが出来た。参加した人たちも、アジアの国への教育支援活動の一端に触れて、何かを感じてくださったようだ。これをきっかけにして、また新たな人とのネットワークを紡ぐことができれば嬉しい。
2006年10月14日
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朝から「今日こそやるぞ!」と、所属するボランティア団体の会報編集作業。何とか完成して、ホッとしながらこのブログを書いている。作業をしている間に、旧知の二人から電話が入る。一人は、ピアノ教師の40代後半のEさん。障害を持つ人たちや子供達にも、音楽を学んだり楽しんだりする機会を増やそうという活動をしている。彼女は自分自身も先天性の身体のハンディがあり、最近はそのせいもあって体調にも波があるらしい。それでも、その活動を少しでも広めるために地元でも何かしたいという。色々と話をして、私なりに考えうる方法や自分が出来そうなことを伝える。もう一人は、私よりも年齢が上のHさん。自宅を改築するにあたって、地域の子供達(特に不登校傾向の子など)が集まれるようにしたいとのこと。現在は札幌市内の大学院で勉強していて、自分の経験(元中学教師)や学歴を生かせたらと考えているようだ。彼女に対しては、私はあれこれと話をする中で、思いつくことを話すことしかないかも・・。彼女は、具体的に何かをしてもらうというより、自分の意欲を固めるために電話してきたような気がする。二人とも、自分を社会や地域の中で生かそうと前向き。私は、先日の日記に「向上心もほどほどに」と書いたけれど、前向きに頑張る人は大好きである。だから、熱意のある人には、自分がいやでない限り協力したいと思う。二人と話していて、つくづくと今の自分には「これをやりたい」と思うことがないな・・と思う。いやまてよ。私のやりたいことは、頑張っている人の協力や応援をすることなのかもしれない。これはこれで、前向きと言えるんだろうね。
2006年10月03日
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ピアノの先生をしている友達に誘われて、重度難聴のハンディを持つ藤田典人さんのピアノ演奏とお話を聞く機会に恵まれた。主催は「日本障害者ピアノ指導者研究会」で、様々な障害を持つ人たちにピアノを教えている指導者のセミナーであった。「難聴のピアニスト」とは聞いていたけれど、ここまで重度の難聴という障害を持ちながら、これほどの演奏が出来るということが信じられなかった。彼は、3歳の時に中耳炎による薬の副作用で、補聴器をつけても低音しか聞こえないという重度の難聴となった。それでも、テレビやレコードから流れる音楽の低音部の音楽にとても感動し、自分でもピアノが弾きたいと独学で練習をしていたという。楽譜を見て、自分の聞こえているのは音楽の一部分だったと知った時の驚き。それでも、一般の人のようにピアノで演奏してみたいという思い。楽譜を見て、一つ一つの音を指で覚え、グランドピアノのハンマーの動きで音を確かめ、練習した成果を健聴者の父親などに聞いてもらって確かめ、(その時はいつもケチョンケチョンに言われて落ち込み)それでも諦めずに「良い音」を求めての試行錯誤。ある時点から「独学では限界がある」と先生に師事したが、言葉でのコミュニケーションがとれないために挫折。その後に「要約筆記(聴覚障害者のために、話しの内容をつかんで筆記し、聴覚障害者に伝たえるもの)」と出会い、先生の言っていることが理解できるようになり、世界がとても広がったという。(今回も、要約筆記の人が傍らにいた)ユーモアや手話をまじえながら話すそれらり体験談は、本当に様々なことを教えてもらったような気がする。どんなに高い壁でも、それを乗り越えたいという夢と、そのための努力を怠らない限り、少しずつよじ登ってゆけるのだということ。そして、不幸な現実や次々にやってくる困難も、色々な人との協力関係の中で、思わぬ展開になったりしながらも、プラスに変えてゆく力が人間にはあるのだということ。彼のピアノの力量がどの程度のものであるかは、私にはわからない。でも、その音色を聞いていると「私は音が聞こえないけれど、目と心で聴いて心で弾く」という言葉の通り、何かが全身に伝わってくるような気がした。本当に不思議なのだけど、彼の熱情が音と一緒に伝わってくるのだろうか、その曲が流れている時に体が熱くなって汗ばんでくるのだ。そして、おしゃべりの時はその汗が引いてゆく。音楽に感動しているというのとは別のものが、私の身心を動かしているという感じだった。しかし、どんなに努力しても、彼は他の人との「合奏」は無理だろう。だって、他の人が演奏している音が聞こえないのだから。それでも、彼の演奏やお話で伝わる感動は、超一流のピアニストの演奏にはないものがある。だから、彼は間違いなく「ピアニスト」だと思う。
2006年06月10日
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10時から15時までは、世話人をしている自助グループの例会。私にとっては、過去と現在、そして近未来のことに思い巡らせながら、それぞれの人の気持ちに思いを寄せ、自分の言葉が刃にならなず、何とか応援メッセージとなるように、しかしごまかしや過度なおだてにはならないようにと、心と頭を「勝手に」使い続けた時間だった。私はカウンセラーではない。相談員でもない。それでも、その会の「世話人」としてどのような役回りをするのが最善なのか、そして「参加者の一人」である立場も、どのように明らかにしてゆけばよいのか、誰に頼まれているわけでもないが、勝手に必死に思いを巡らせる場なのである。勝手にやむを得ずやっていることであるから、そこで生じる私自身の心の痛みや迷いや不安は、すべて「自己責任」の範疇だ。スッキリしているから気楽だとも言えるが、その分だけ肩の荷が重いときもある。それが終わってからは、行政から委嘱される「○○協議会」に走る。こちらは、行政から頼まれたものであるから、事務局は行政にある。例会で心と頭が疲れていたせいか、事務局側のミスや怠慢にちょっと頭にくる。私は、ボランティアで汗水流している人のミスには鷹揚だが、給料を貰って仕事をしている人には厳しいのだ。「あんた達は、それが仕事でしょ!!」と叫びたくなってしまった。忙しかったなんて言い訳するな。やる気が無かっただけでしょ。協議会の委員は、行政の提案に対して「ハイハイ、ごもっともです。それでお願いします」とお墨付きを与えるのが仕事だと思っているからでしょ。どっこい、私はそのように考えるタイプではない。しかし、初めての顔合わせ、初めての会議で、そこまではっきり言える勇気が私にないことも事実。やんわりと、しかし相手や参加者にわかるように自分の考えを言うことに、またまた頭と心を使ってしまった。しかし、内心では不満や怒りが渦巻いているので、きっと私の言葉はきつかっただろうと思う。でもね、それをキチンと受け止めるのも、税金による給料を貰って働いている人達の仕事ですから、私はちっとも悪いとは思っていない。でも、一応は、会議終了後に「ちょっとキツイいい方になってしまって、申し訳ありません」と、頭は下げておいたけど・・。疲れた一日だった。(27日/記)
2006年05月26日
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5月09日の「思いがけない再会」で書いたYさんの家を訪問した。二番目の子どもが(十ヶ月)が、「少し発達が遅れている」と言われたというので、そのことについても多少はアドバイスができるかと思ったし、何よりも十数年ぶりの再会なので、その後の色々なことや、かつての仲間たちの動向も聞きたかったし・・。赤ちゃんについては、検診後に保健士さんからの電話もあったようで、「心配なら専門の相談機関をご紹介しましょうか?」と言われたとか。「遅れている」と言ったのは医師(多分小児科医だと思うが)とのことで、その時の顔の表情などでとても不安になったのだという。その後の保健士さんからの電話の様子からも、さほど重大な心配があるということでもないようだし、どちらかというと母親がどのように心配しているかと気にかけているようなので、我が町の保健士さんたちは頑張ってくれているなと感じて嬉しかった。その赤ちゃんとしばらく遊んだりしてみると、確かにあまり動く子ではなく、その分だけ運動発達が遅れているという感じだった。おっとりしたおとなしい子で、一人で機嫌よく遊んでいるタイプ。でも、声かけにはちゃんと反応するし、私の印象ではあまり心配はなさそう。とはいえ、私は専門家ではないので、「もしも心配なら、相談機関や子育て支援センターなどにも行ったらいいよ。 子どもは、色々なところで色々な人に出会ったほうがいいし、 何よりもあなた自身が色々勉強になるしね・・」と話す。そして、膝に抱いた状態でバランスをとらせることで筋力をつけたり、腹ばいで遊びやすい方法、立つ姿勢をしている時にどこを支えたら良いかなど、気がついたことを少し伝える。前日の日記に書いた「じゃれつき遊び」の大切さなども・・。(彼女はこの番組を見ていなかったので)そんなことをしているうちに、子どもは疲れて眠ってしまったので、(上の子は実家に預けてスタンバイしていたのだ)その後は昔話に終始した。彼女達が高校生だった頃、私は退職を考えていた。そして、退職後は大学の通信課程で学ぼうと思っていた。いよいよ退職する時、若いボランティアたちが送別会を開いてくれて、その時に私は「私にはやりたいことがあるの」と言ったらしい。しかし、具体的には話していなかったので、「みらいさんの夢って何だったんですか?」と真っ先に聞かれた。そんなことを覚えていたのか・・と、嬉しさと驚きとが交錯した。慶應の通信課程を七年で卒業したのだと話すと、「すごーい!!」と驚いていた。子育てをした後でも、やりたいことは出来るものだよと話す。こんな話が、今子育てで頑張っている彼女の励ましになれば、本当に嬉しい。彼女は、高校時代のボランティアがきっかけで、福祉専門学校に進学し、結婚前まではS市の老健施設で働いていた。だから、学生時代の実習や、就職してから複数の施設や病院での経験があり、それらを通して感じてきたことや、施設の実態についても話してくれた。某特養老人ホームでは、虐待すれすれのことが日常だったとかで、理想と現実のギャップに戸惑い、どのように自分を適応させれば良いかと悩みもしたようだ。それらのことは、私にはとてもよく理解できる。「人間って、慣れてしまうんですよね・・」との彼女の呟きが、とても重く感じた。病院や施設では「医師、看護士、准看、介護士、指導員」などと、職種によってヒエラルヒーがあると思うが彼女のような立場や若さでは、納得ができなくてもそれに歯向かうことはできなかったであろう。あの頃、理想や夢を抱いて福祉の道に進んだ若者達が、その後どのような道をたどっているのか、話を聞きながらとても複雑な気持ちになってしまった。ちょっぴり重たい話もあったけれど、話しているうちに忘れていたことが思い出されたりして、少し若返ったような気持ちになった半日だった。(5月12日/記)
2006年05月11日
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今日は、乳児検診会場での絵本読み聞かせボランティア。そこで、目がパッチリしたとっても可愛い子と絵本で遊んでいると・・。「あのー、以前にお会いしていませんか?」私は、赤ちゃんにばかり向き合っている傾向があるので、そのように声をかけられるまで、そのお母さんの顔をちゃんと見ていなかった。その上に、私は人の顔と名前を覚えるのが不得意ので、このように言われるととっても困惑する。「えっ? あ、そういえばどこかで・・、どこでお会いしてたかしら?」確かに、言われて見ると以前に会った事があるような気も・・。しかし、頭の中では火花が散っているのだが、ちっとも思い出せずに慌ててしまう。「あの・・、以前高校生の頃、ボランティアでお世話になっていたと思うんですけど」私の方はさっぱり思い出せなかったのだが、彼女の方ははっきりと私を覚えていたらしいような・・。このような時は、さっさと頭を下げて名前を教えてもらうに限る。彼女の旧姓や、当時の仲間たちの話を聞いているうちに、突然目の前の彼女の顔が、高校生の時の面影と重なった。「あー、思い出したよ! Yさん、そうだそうだ、Yさんだ」と私が叫ぶと、彼女も飛び上がらんばかりに「やっぱりそうだったんだ。懐かしいです!!」と、私の手を握ってきた。嬉しかった。こんなに懐かしそうに声をかけてくれたことが、本当に嬉しかった。他の元気な子達の脇で、ニッコリと微笑んでいた姿が思い浮かぶ。色々と心配したり、困らせてくれたりした子のことはよく覚えているが、彼女のように目立たないタイプの子は、どうしても印象に残りにくいのだ。何とか思い出すことができて、本当に良かった。その後、少しばかり話をすると、検診で「下の子が、少し運動発達が遅れ気味」と言われたとか。年子の子育てをしていて、どうしても上の子に手がかかるので、手をかけないことが悪いのか・・と、不安そうだった。そこで長話もできないので、電話番号を聞き、後日遊びに行くことにした。実はこの私、昔々には身心の発達が遅れた乳幼児に関わる仕事をしていたのだ。多少はアドバイスできるかもしれないと思い、後日彼女の家に遊びに行くことにした。検診では、特別なアドバイスはなく、「様子をみましょう」と言われたとか。 ちょっと見たところでは、格別問題がある子には思えず、単にマイペースでノンビリタイプということではないかと思うが、「遅れている」なんて言われたら不安になるに決まっている。その言葉を出すのなら、アドバイスやフォローもセットでお願いしたいものだ。帰宅してからあらためて電話をして、明後日訪問することになった。どんな話ができるのか、とても楽しみである。(子どものことについては、私はほとんど心配していない。 彼女を安心させるために行くようなものだと思ってる)
2006年05月09日
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3月28日の日記で、小学生の英語必修に思うを書いたのだが、私は英語を必修にするよりは、小学校の図書館活動を充実して欲しいと願っている。昨日の北海道新聞で、下記のニュースが掲載されている。以前から、学校図書館の充実を願っていた私には、とても嬉しいニュースだ。恵庭市内全中学に専任司書 生徒、関係者ら歓迎の声 2006/04/18 2003年から、十二学級以上の小、中学校に司書教諭の配置が義務付けられたが、ほとんどの学校は有資格者の教員の確保に精一杯で、学校図書館の活用やその内容が充実することには繋がっていないようだ。【関連記事】初心者目立つ司書教諭 札幌市内の小中学校 配置義務化で慌てて確保 同僚の理解不足も私は、乳幼児や子どもたちへの読み聞かせ活動にも少し関わっている。現在は、子どもの頃から本に親しんでほしいと、読み聞かせ活動などをしているボランティアグループが、各地にあると思う。学校図書館に専任司書が配置されれば、それらのグループとの連携も進むだろう。子供たちにとって、学校図書館が楽しい場所になり、自分の興味のある分野の良書を選ぶ手助けをしてもらえたなら、子ども達が本を読む機会もどんどん増えていくだろうと思う。何せ、専任司書のいない学校図書館は、司書教諭が忙しければ、図書室に鍵がかかっていることも珍しくはないのだ。北海道の地方自治体は、どこでも財源不足にあえいでいるが、そのような中でこのような施策を英断した恵庭市に拍手を送りたい。また、教育行政にこのようなことを決断させたのは、お母さん達をはじめとしたボランティアの活動が基盤であったことも重要である。子供たちにとって今何が必要なのか、それぞれの地域で真剣に考えて自分のできることから取り組んで行きたいものである。
2006年04月19日
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午前中は、所属する子育て支援ボランティア団体の役員会。総会に向けて、決算報告や予算案、事業計画について話し合う。本当は午前中で終わる予定だったが、色々な話に熱が入ることが多く、結局、お茶だけで午後二時までかかってしまった。総会議案のことでも色々議論したのだが、それよりも私の心に残ったのが、「地域住民の子育て支援のありかた」についてだ。この会の活動は、乳幼児期の母子と、乳幼児健診会場での絵本の読み聞かせや、子育て支援センターでの協力、育児サークルへの支援などが主である。メンバーの年齢は、30代から70代までと幅広いが、多分平均年齢は40代半ばであろう。そのような年代構成なので、役員の年齢は70代、60代、50代と、会員の平均年齢よりは高くなる。この会は、例会の時はとても和気藹々としている。育児や私達の活動の意味など、深い話も異世代が刺激しあいながら、お互いに学び合って話ができる珍しい会だと思っている。こんなこと、当然だと思うかもしれないが、実はとても難しいことだ。それぞれの世代によって、考え方や社会現象の見え方も、普通に想像するよりずっとずっとズレがあるものなのだ。その上に、高年齢になるとそれなりの経験知が確信となってくるので、若い人達の言葉が「宇宙人の言葉」に聞こえてくることもある。だから、ボランティア団体で幅広い世代が仲良く活動するのは、一般に考えるよりもずっと難しいのだ。というわけで、ある時期に出来たボランティア組織には、なかなか若い人が入ってくることが出来ず、グループの高齢化が始まり、やがて「高齢者の親睦団体」となり、お互いの健康・安否見守り活動(相互扶助)へと最初の目的からは随分違う組織になっていくこともある。前置きが長くなってしまったが、私達のグループの活動は、子育て中のお母さん(お父さん)と赤ちゃんを応援することだ。その手段として、「絵本の読み聞かせ」などをメインにしている。特に、役員である高齢メンバーは、最近の子どもをめぐる事件などに、とても心を痛めている。そんなこともあり、今日の役員会で、70代(私達のグループの最年長)の人が、次のような話をした。「最近は、『子どもを産んで失敗した』とか、『子どもがジャマ』と感じるお母さんが多いようだ。そんな気持ちの人が増えているから、育児ノイローゼや虐待、我が子を殺すなど、私達には考えられないことが起きる。新聞などで『子どもを産むと損する』などというような記事を読むと、本当に恐ろしい」私はその言葉を聞いているうちに、頭がカッと熱くなってくるのを止められなかった。なぜなら、この私自身が、20代の頃にはそう思うことが何度もあったからだ。長男は誕生直後から癇の強い子で、起きている時は抱いていない限り泣き続けた。働いていたので、産休の後の半年は実家の母に預け、6ヵ月からは保育園に預けていた。次の子どもはしばらくはいらないと思っていたのに、気がついたら妊娠していて情けないことに長男が1歳8ヶ月で次男を産んだ。産んでしまった以上は育てなくてはならない、という責任感は人並みにあったけれど、それだけに毎日は戦闘状態で、仕事・育児・家事に髪振り乱していた。そんな日々の中、何度も何度も、いや毎日のように思っていた。「この子を産んだのは失敗ではなかったのか」「私などが母親になるべきではなかったのだ」「この子達がいなければ、もっと仕事ができるのに」「この子達がいなければ、もっと自分の時間がもてるのに」そんな私の気持ちを知ってか知らずか、夫は子どもが生まれる前と変わらぬ生活をしている。残業もするし、つきあいで飲みにも行く。子どもが病気の時は、当然のように私が休まなくてはならない。パチンコや麻雀での気分転換も相変わらず。職場での親睦旅行も、忘年会・新年会も、夫は当然のように出席。私は、夫の思いやりで快く了解してくれない限り、欠席。出席できたとしても、二次会なんて夢のまた夢。夫が子守をしながら、私の帰りを今か今かと待っていると思うと、誘いを振り切って帰るしかなかった。飲み会などは元来好きなほうではないのだが、行けないとなると悔しくなるものである。そんな時にも、思った。「女は損だ。子どもを産んで損した!」その人が、「子どもを産むと損だと感じる人が増えているなんて、本当に恐ろしい」と言うのを聞いた時、私はその当時の気持ちが、フラッシュバックのように甦ってしまった。そして、言わずにいられなかった。「私は、そんな気持ちに何度も何度もなりながら、やっと子育てをしました。 私が息子を殺さなかったのは、子どもへの愛などではなくて、保育園に迎えに行った時などで、保母さんから我が子の可愛らしい言動を教えてもらい、『○○チャンは、とってもいい子だね』と言ってもらったり、母親としての自信を失っている時に『お母さん、大変なのはもう少しだよ。とってもいい子に育っているよ。辛いこともあるだろうけど、頑張ってね』などと励ましてもらえたから」。そしてさらに言った。「私は、ひょっとすると虐待まがいのことをしていたかもしれません。自分のことでアップアップだったから、子どものことに思いを寄せられないこともあったと思う。それでも、ヒステリーを起こしても、ひどい言葉で子どもを傷つけても、時には必要以上に叩いたりしても、子供たちは許してくれた。自分のやっていることが良くないとわかっていても、どうしようもない時もあった。『子どもを産まなければ良かった』と思う母親は、私のように30年前からいたのですよ」と。そんなことまで、言うつもりはなかった。でも、まるで当時の私を責められているような気がして、言わずにはいられなかったのだ。その人も、他の人たちも、私の言葉に少し引いてしまったようだったが、それでもそこから、「育児を支援するということは」ということで色々話し合えた。今は、私が子育てしていた時よりも、周囲の目が親に対して厳しくなっているように感じる時がある。茶髪にミニスカートで赤ちゃんを抱いている人を見た時、ただその身なりだけで心配してしまう年配者は結構多い。子どもが電車で騒いでいたり、泣いていたり、あるいは私達の主催する行事などでの親のマナー不足を、嘆く声も結構ある。しかし、赤ちゃんが1歳なら、母親としてもまだ赤ちゃん。それも、兄弟姉妹が少なくなっているから、初めて赤ちゃんに触れたような母親が多い。そんな母親に対して、批判の目ではなくて、もっと暖かい目でみてあげなくてはならないし、私のようにストレスで視野が狭くなり、我が子の愛らしさにも気がつけなくなっているような母親に、「あなたのお子さんは、とても可愛い良い子だね」という声がけや、「子育ては大変でしょう? でも、もうちょっとだから頑張ってね」というメッセージを、色々な方法で具体的に伝えてゆくことが、誰にでもできる子育て支援ということではないか・・と。思い返すと、ちょっと熱くなりすぎたと恥ずかしいけれど、今、私がこのような活動をしているのも、当時の思いが根底にあるから。色々な人に支えられて、やっと子どもを育てることが出来たと思うから、その人たちへの恩返しは、私も同じように次の世代にすることだと思う。過ぎてしまうと、子どもを授かって育てることができたことは、本当にありがたいことだと思うし、子育てから学んだことは一言では言えないほど沢山ある。そして、このような話ができる人たちと活動ができることも、とてもありがたいと思っている。
2006年04月05日
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「今日のこと」のテーマを選択したが、実は「昨日のこと」である。午前中は、子育て支援に関するボランティア団体の例会。今年度も終盤となり、その反省をふまえて来年度の活動への構想を話し合う。この会の活動は、行政と連携しながらの活動なのだが、そのことについて先月末、他市のボランティア研修会で実践報告をする機会があり、その時に感じたことや、ボランティアの立場として押えておかなくてはならないことを話す。大まかに、私は次のように考えているので、自分の確認のために書いておこう。○ボランティアとしての主体性を大切にする○そのためには、行政とは対等の関係であること。○対等な関係で連携するには、引き受けたことには責任を持つ。○「ボランティアだから・・(お金を貰ってないのだから)」という甘えは、ボランティアの命取り。ボランティア活動は、信頼関係と共通の目的意識で成り立つ。○それぞれ違う立場、異なる状況の中で活動するのだから、無理は禁物。活動の継続には、楽しさや喜びがなくてはならない。まあ、そんなことをお互いに時々確認しながら、無理なことやいやなことはハッキリと言葉に出して我慢せず、その代わり引き受けたことについては多少無理してもやろうということなどを、雑談のように話し合う。このようなことはボランティア団体としてはとても重要なことと思うが、案外、活動の中で流されてしまうことでもある。メンバーの中には、「もっとやりたい」という意欲のある人もいるし、「今の活動で精一杯」というような人もいる。それぞれの気持ちを素直に出しながら、お互いを認め合い、折り合いのつく活動を考えていかなくてはならないのだが、これが結構難しいものだ。それらのズレが人間関係に微妙な影を落とし、それが少しずつ心を疲れさせてゆき、活動そのものよりも、人との関係に悩んで活動から離れて行くことも多いのだから。会の中では年長者の部類に入る私の役割は、そのあたりの目配りにあるのかもしれないとあらためて思う。夜は、所属している教育行政の「○○協議会」主催の市民フォーラム。例会から帰宅してからは、その提言者としての準備に頭を使う。現在、行政のスリム化というか、国の行政改革の一環として、「民間にできることは民間で」という小泉首相の掛け声の下、公共施設の指定管理者制度導入が進められている。その目的や効果として、「経費節減、サービス向上」が言われているが、市民としてはどう考えるのかというフォーラムである。私は一人の市民として、またボランティア活動に関わるものとしての立場で、「公共施設におけるサービスとは何か」と話題提供することになっていた。実は、この役を割り当てられたのは、先週の会議においてである。この問題については、以前から何度も話し合いを重ねてはいたが、自由に意見を述べる会議に出席するのとはわけが違う。だから、この数日は色々と行政からの資料を読んだり、関係の本を読んだり、インターネットで情報を探したりと、自分なりに時間を費やして準備した。しかし、私に与えられた時間は「10分」。10分は、結構沢山のことが話すことが出来るけれど、言いたいことを初めて聞く人にちゃんと伝えるには十分な時間とは言えない。そんなジレンマを感じながら、時計を見ながら何とか時間内に話すことができた。フォーラム全体の雰囲気というか流れは、私たちの狙い通りと言えるだろう。あとは、それらの市民の意見を受けて、行政側がどう判断してゆくかということだ。しかし、この「指定管理者制度」は、多くの自治体は「行政改革・財政再建」の掛け声の下、トップダウンで決定され、市民はあとで報告されることが多い。わが町でも、すでに別の公共施設の一部はこの制度を取り入れている。そのようになるのか、また、今回のように市民が自ら考えてみようとなるのかは、どれだけ市民が公共施設の運営に関わっているかということだろう。何でも「それは行政責任だ」と、利用者としてだけの要求ばかりしている市民が多ければ、いつの間にか市民にとって大切なものを失うことになりかねない。そんなことを感じたフォーラムであった。さて今日は、後回しにしていた原稿を書こうと思う。
2006年02月16日
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先週は、市内の先生や子どもに関係する仕事をしている人たちの研修会で、一つの分科会の提言・助言の役目をいただいた。(子どものことに関する活動をする会の世話人として)現場の先生達とお話しする機会は非常に少ないので、多少緊張したし、私なりの心構えというか、抵抗感なく先生達に私の言葉を受け止めていただけるようにと気を使った。来週は、また別の活動のことで、他市で開催されるセミナーで活動報告をする。本来は別の人が報告する予定だったのだが、体調が悪くてしばらく休会するとのことで、ピンチヒッターなのである。こちらの方の準備もしなくてはならないのだが、その前にY会の「会報」作成をしなくてはならない。ということで、今日中に会報の編集作業をするつもり。朝からパソコンに向かい、気分転換に楽天日記を書いたりしながら、3分の1はできたかな・・。絶対に今日中に仕上げると自分に課している。夕方には、「完了」と追記したいと思う。(11時47分/記)【追記】とりあえず、集まっている原稿は編集し終わった。編集作業の途中で、依頼してあった原稿がひとつ届いていないことに気付き、電話確認。やはり、年末年始をはさんだので忘れられていたようだ。とりあえず目途はついた。次はいよいよ、来週の準備をしなくては。でも、今日はパソコンに向かいっぱなしだったので、もう疲れた。運動がてら買い物にでることにしよう。肩がゴリゴリだよー。(15:27/記)
2006年01月18日
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夫の姉たちを招待して、手打ち蕎麦を楽しむ会。三年ほど前までは、お正月やお盆に夫の兄姉たちとその家族が大集合していたのだが、ここ数年は参加者の高齢化とそれぞれの事情が重なり、年に1~2回、少人数で集まるだけになってしまった。メインはもちろん、夫の「手打ち蕎麦」。それと、私の「蕎麦がきのお吸い物」と「揚げたての天ぷら」。おやつは、「手作りの蕎麦かりんと」。というわけで、日中はそれで慌ただしく過ぎ、みんなが帰宅した夕方から、久しぶりに夫と二人で札幌に出かけた。クリスマス直前のせいか、札幌は人で溢れていた。大通りのホワイトイルミネーションもとてもきれいだった。初老の夫婦ではロマンティックとは程遠いけれど、きっと精一杯おしゃれをしてこの日に臨んだ人たちもいるのだろうなと、行き交うカップル達をほほえましく見ていた。明日からは3日間、孫達がまたやってくる。おばあちゃんを頑張ろうっと。(24日朝/記)
2005年12月23日
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先日のクラス会で、A君が話しかけてきた。彼は民間会社の営業マンで、時々自動車に乗っている姿を見かけたりする。高校時代は結構人気があった人だけれど、私自身には会話した思い出すらない。だから、出会っても会釈する程度で、お互いに立ち止まって話をする間柄でもない。だから、わざわざ私に声をかけてきたことに少し驚いた。お互い、同じ町に住み続けているため、私の近況については何となく知っていたようだ。高校卒業後、福祉畑をウロウロしながら仕事をして、退職してからも地域活動畑をウロウロしている私に、少しばかり疑問を持っていたらしい。ボランティア活動をしている人がよく言われる言葉から、その会話は始まった。「色々ボランティアやっているようだねえ、偉いと思うよ」こう言われると、いつものことながら戸惑う。相手によって、それへの返答は色々であるが、大抵は社交辞令なので、「ありがとうございます」程度で流す。だけど、前に座ってわざわざこう言われたら、きっと私のやっていることに関心があるのだろうと判断し、「うーん、偉いと言われると困るんだけど、成り行きでねえ・・」なんて感じで会話が始まった。色々話しているうちに、彼の関心は私の活動内容ではなく、なぜそのようなことをしているのか、その本当の目的は何かということらしいことに気がついた。そして、彼がある政党とつながっていたことも思い出した。彼が考える社会活動は、社会を変革する力になるものでなくては意味がなく、つまりは、組織的な動きをしなくては効果がないと思っているのではないか・・と。残念ながら、私は「きちんとした組織」が肌に合わない。目的によっては組織的に動くことが必要だし、そのためには色々なネットワークや組織を活用させてはいただくが、私自身は、組織の中での役割を持って動こうとは思っていない。いくつかの団体に所属はしているが、気持ちの上では「協力している」という感じだ。ましてや、自分で組織を立ち上げて社会に向かって行動するような意図はない。私が役立てる場があって、そのことがイヤではなかったら、できることは協力してゆこう。それが私の正直な気持ちだ。それによって誰かが喜んでくれたら、あるいは少しでも何かの役に立ったら、それで私は十分なのだ。・・・しかし、彼にそう言っても、そのことがなかなか理解されないもどかしさがあった。明確な目的なしに無報酬で、その場その場で請われるままに動くなんて、結局は優雅な奥様の自己満足と思っているのか、あるいは、他からの賞賛を期待する名誉欲によると思っているのか、彼はそのあたりの私への疑問をはっきりとは言わないので、私も想像するしかないのだが・・。私だって、何でも行き当たりばったりではない。自分の願うこと、これは必要だと思うことを基準に選んでいるつもり。でも、その願いや必要なこととは、言葉で説明しようとすると難しいので言えない。私ももどかしいけれど、彼もまた釈然としない様子だった。そして、何かを言いたい様子でもあったけれど、私はどんなことがあっても政治的な活動と組するつもりはないので、適当に話を切り上げてしまった。あれから何日か過ぎたけれど、私のようなスタンスは、他人から見たらそんなにわかりにくいのだろうか。まあ、みんなにわかってもらおうなんて思ってもいないけれど、せっかく聞いてくれた人にちゃんと説明できないとは、私もまだまだだなあ・・。
2005年07月23日
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8月末に、ある行事をすることになっている。その実現に向けて、市の助成申請をしたり、実行委員になってくださる人にお願いに回ったりをしてきた。今日は、その第一回目の実行委員会。経過報告や事業計画、予算などを説明し、今後の準備などについて皆さんと話し合うことが出来、やっと本当のスタートができたという感じである。その後、某団体に協力依頼のための説明に行く。こちらも、予想以上に良い感触で、ホッと一安心。5月の行事の時に、私が使える人的資源を全部使ってしまったので、また8月に同じ人や団体に協力をお願いするのはとても気が引けていたのだが、幸いに別のネットワークとつながることが出来た。この行事の成功がかすかに見えてきた感じがする。
2005年06月30日
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街頭募金で詐欺をしていたというニュースがあった。寄付金や募金を騙った詐欺は結構古くからある話しで、特に「戸別訪問募金」には怪しいものが多い。そのようなけしからぬ人が多いため、募金活動一般の信頼度も低いと思っている。しかし、当然ではあるが、この募金や寄付金を主たる財源として活動しているNPOやボランティア団体も多い。世の中は公的な仕事だけで成り立っているわけではなく、一般市民の支え合いによって、血が通い心の通う人間社会になってゆく。そのような活動の多くは、人々の募金や寄付金によって支えられているのだ。人間の「手弁当」の活動には限界がある。継続的で信頼度の高い活動をするためには、何らかの財源が必要であり、そのために公的機関の補助金制度がないわけではないが、民間団体にとって活用しやすい助成金制度は少ないうえに、最近の「補助金カット」の流れの中で、一番しわ寄せが行きやすいのが「助成金」だ。民間団体は自助努力を迫られ、やむを得ず「活動資金獲得のための事業」や、「寄付金」を募ることになる。それが嵩じてくると、資金獲得のための活動に振り回されて、「本末転倒」になってしまうことだってある。それでも、その活動を必要としている状況があったなら、「財源がないので、やーめた」と言うわけにもいかず、ボランティア団体のメンバーは苦悩することが多い。だから、人の善意を逆手に取った詐欺は、二重にも三重にも罪深い。私自身、寄付金や補助金を財源とする民間福祉団体で働いていたこともある。寄付金集めの苦労は、身に沁みて知っているつもりだ。一円たりとも不明金を出さないことが、寄付金の信頼性を確保することだから、募金活動期間は神経が磨り減る思いをしていた。何せ、当時は「硬貨計算機」がなかったから、小銭を手作業で集計していたのだ。毎日、集計金額と銀行に届けた金額がピッタリすることを、八百万の神々に祈り続けたものだ。その次には、集めた寄付金の配分の仕事がある。これは、ボランティア団体からの申請を受け付けて配分する仕事だ。申請書類をチェックして配分決定会議にかけるというような一連の仕事だが、結構細々と面倒なことも多かった。寄付金集めと配分だけではなく、行政に対しての「補助金申請」や「報告事務」をしたこともある。これもまた、神経の使う仕事だった。補助金を出す方は、常に申請する方より権力を握っている。頭に来る事だってたくさんあったけれど、ケンカするわけにもいかない。その仕事を辞めた時には、本当に心が晴れやかになったものだ。さて、現在も多少のボランティア活動をしている私は、当然「自主財源確保」のための活動をすることもある。しかし、募金(カンパ要請)活動は極力したくないと思っている。また、各種助成金制度の活用も、本音ではあまりしたくない。というのは、どうしても「助成金の目的」にあわせて事業計画をしなくてはならないからだ。こちらの目的と補助金制度の目的がピッタリ合致していることって、そんなに多くはないのだ。しかし、どうしても補助金の助けを借りなければ実施できないこともある。そんな時は、覚悟を決めてその作業をする。実は今も、ある行事のために助成申請をしているところだ。一度目の申請でクレームがつき、もう一度書き直した。公的なお金からの助成金なので、しっかり審査するのは当然なのだが、どうも審査のピントがずれているのではないかと感じた。審査委員は市民の代表なのだけれど、行政から委嘱状を貰った瞬間に、どうも行政寄りの視点になるのではないか。本来審査すべきなのは、その事業の目的と計画の妥当性であろう。さらに今回のことで感じているのは、書類だけの審査の限界である。私の申請書の書き方の甘さは反省しているのだが、事務局に説明したはずのことが、どうも通じていなかったようだ。書類だけではなく、申請団体が審査委員会で直接説明できる機会があれば、今回のようにお互いに二重手間になることはなかったのではないか。そしてまた、行政職員にも審査委員の多くにも、自らボランティア活動の経験があり、活動費確保に苦労した体験のある人は少ない。ボランティアを騙って詐欺をするような人も、本当のボランティアではないことは言うまでもない。しかし最近は、福祉団体の職員が時々寄付金の使い込みなんかもしてしまうから、苦労を知っている人が悪いことをしないとも限らず、本当に頭を抱えてしまう。ともあれ、今は再審査待ちの状態である。何とかあまり削減されずに助成金がほしいけれど、どうなることやら。
2005年06月06日
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「今日のこと」をテーマに選んで書くけれど、実は「昨日のこと」である。10日前に終了した行事の「反省会&打ち上げ」が昨夜開かれ、この行事のために取り組んできた約三ヶ月が無事終了。実行委員会形式で行ったため、今回の集まりでこの会は解散である。とはいっても、これによって紡がれたネットワークは、また違う形で生かされるだろうと思う。今回のことで一番嬉しかったのは、地元の高校のボランティア部員が仲間に入ってくれたこと。残念なことに、現在わが町のボランティアセンターは充分に機能しているとは言えず、高校生のボランティア活動もなかなか広がらず、一時的な「イベント協力要員」になりがちでのようだ。実際、今回のこともその範疇ではあるのだが、反省会の中で高校生達の感想を一人一人聞いてみると、「僕たちのためにお弁当を用意してもらったことや、一緒に色々話しができたことが、とても嬉しかった」「色々な人の優しさ触れて、自分も役に立てたと思って嬉しかった」などという言葉がたくさん聞かれた。大人たちもまた、「高校生の明るさに、元気をもらった」「私たちとこんなにちゃんとつきあってくれる高校生がいることを知って、嬉しかった」などと、若い人達と一緒に活動できたことを喜ぶ声ばかりだった。そのような言葉を聞きながら、これが人間同士の社会の本来の姿だなあ・・と、行事の成功よりも、このように異世代が協力できたことに、心からの喜びを感じていた。ボランティア活動をやりたいと思う子ども達は、特別いい子だと思うかもしれない。でも私は、決してそうではないことを知っているつもりだ。今回も、ボランティア部員に誘われて手伝ったという子も来ていた。その子は「このような活動が出来て、本当に嬉しかったです。 私は別の部活に入っているので両方はできないんですが、何かできることがあったら声かけてください」と言っていた。異口同音に出てくる言葉は、「楽しかった、嬉しかった」である。私は、この「楽しさ、喜び」がボランティア活動の原点だと思っている。それがなくては、「自発性、無償性」なんて出てこない。良いことをしなくてはいけないというように強制された「ただ働き」を決してボランティア活動と勘違いしないで欲しい。ボランティア活動の「喜び、楽しさ」は、他者や社会に役立っているという実感から生まれる。それは何によって証明されるのか。他人からの「ありがとう」に尽きる。心からの「ありがとう」の言葉は、どんな人の心も暖かくするものだ。その言葉の本当の意味を知った人は、自分も素直に「ありがとう」と言えるようになる。今回のことで言えば、大人たちは高校生達が協力してくれたことが、掛け値なしにとっても嬉しかった。彼らの明るい笑い声に、大人たちはとても幸せな気持ちになれた。そして、この子達がこのまま社会や人間に関心を持ち続けてくれるようにと願い、そのために「自分は何ができるか」と考えた。大人たちができることは、「ありがとうね」を異口同音に若者達に浴びせ、ちょっとしたおお菓子やお弁当を用意し、いっしょに作業やおしゃべりをしながら今の高校生の生活について聞き、感心したり納得したり、「大変だねえ、頑張って!」と言うことだった。高校生達は、そんな大人たちの言葉で自分達の存在価値を実感し、必要とされているという喜びを感じ、そんな大人たちの思いを「優しさ」と受け止め、「ありがとうございました。嬉しかったです」と、これまた異口同音に言っている。そんな様子を見ながら、私は本当に幸せだった。このような場の中に、自分がいることができる幸せ。まだまだ私も、このような役割を果たせるのだと言う幸せ。本音を言うと、この一ヶ月あまりは、普段していない「気配り作業」に、少々疲れてきていた。実際に、「私は隠れうつ病じゃないか?」と感じるほど、睡眠の乱れに体力を消耗してもいた。早く反省会が終わってホッとしたいと、寝て起きたら「全て終わっている」という状態を夢想したりもした。そして今も、これを打ちながらも、結構続いていた事務作業のせいによる、ひどい肩凝りと軽い頭痛にため息をついたりもしている。それでも、やっぱり私は幸せ者だと思っている。そして、何とかあの高校生達が、地域社会と継続的に繋がる活動ができないものかと、あれこれと考えたりしている。
2005年05月25日
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色々なことが重なっていたので、遅れていた会報を作成。それを印刷して発送するという一連の作業で、ほぼ一日が過ぎた。明日は別の会の例会なので、なんとしても今日終わらせたかったのだ。何とか仕上げて、ホッとした。それにしても、今日は寒い一日。とうとう、一日中ストーブを点けっぱなし。春らしい陽気は、昨日だけのことだったのか?今年の農作物の生育状況が気にかかる。
2005年05月17日
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この一ヶ月準備をしてきた行事が、無事終了。このことでは、本当に色々な人にお世話になった。新たな人との出会いや、懐かしい人との再会もあった。今までのつながりが一層強まったこともあるし、色々な意味でたくさん得たものが多い一ヶ月であった。これからは「後始末」の作業があるけれど、とにかく目的は達成できたので本当にホッとしている。お世話になった全てのみなさん、本当に有難うございました。
2005年05月14日
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今日で、来月のイベントに関係してのお願い行脚は一通り終了。あと2団体へお願いに行かなくてはならないが、代表者が今週は不在のため、来週訪問することにしている。今日の午前中は、学校をまわってきた。市内の二つの高校からは、ボランティア部員が協力してくれているので、そのことについてのお礼と、行事の趣旨などについての説明をしてきた。これをきっかけに、高校生達の活動がより地域に開かれて、様々な人達との出会いのチャンスが増えれば何よりだと思っている。私は、学生のボランティア活動は、「人との出会いと関わり」が一番重要だと考えている。私が最初に高校生ボランティアと関わり始めた頃(15年以上も前になる)は、まだまだ若者達のボランティア活動は人気はなかった。だから、学校を通してボランティア活動への参加を呼びかけても、「ボランティア? それ、何?」というような感じで、好奇心の強い高校生何人かが、わけもわからず紛れ込んできた。私たち大人は、「この子達を逃してはならじ」と、ちょっとしたことにでも感謝の言葉を惜しげもなく浴びせ続けた。今の子ども達は、心からの「ありがとう」を言われる体験は少ない。ましてや、その時にやってきた高校生達は、自ら「俺達、どうせバカだから」なんて言うような子で、大人たちから多少批判的に見られがちな子達だった。そんな高校生達が、色々な職種や立場の大人や障害を持つ人たち、あるいは老人ホームなどのお年寄り、知的障害者施設人たちと出会う中で、劇的に変化してゆくのを目の当たりにした。子どもが「社会化」してゆくためには、多様な人達との出会いと、対等な関係でのコミュニケーションがいかに重要なのか、私はあのころの高校生達に教えてもらった。そんな出会いがやがて彼らを「ボランティア活動」にのめり込ませ、進路の目標が見えていなかった子達は、ドドーッと福祉関係の専門学校に進学した。私は、福祉分野で働く若者達を増やしたいと思ったことは一度もないので、みんなが「我も我も」と福祉専門学校を目指す姿を、多少戸惑いながら見ていた。やがて介護保険制度が始まり、福祉関係の職場も拡大し、彼等の多くは今も福祉の世界で働いている。彼らが作った「ボランティア同好会」がやがて「ボランティア部」となり、学校の先生達もバックアップをするようになると、今度はなぜか、いわゆる「良い子」がボランティア活動をするようになってきた。現在は、最初から「将来は福祉の仕事がしたいから」という子も多いようだ。それはそれでいいのだけれど、私は、最初の頃のハラハラするような子ども達が目を輝かせて活動に取り組んでいた姿が、とてもなつかしい。そして、今はあのようなタイプの高校生は、どこでどのような大人たちと繋がっているのだろうと思う。そして、本当はあのように目標が定まらず、多少大人に対して斜めに構えているような子達に、ボランティア活動を通して人とのつながりの面白さや、それぞれ違う価値観をもつ人たちがゴチャゴチャしながら生きている社会に触れ、自分なりの考えや願いを探って欲しいと思うのだ。でも、今の状態は「良い子がやってるボランティア」という感じで、危なっかしい子は入って来れないだろうなあ。
2005年04月14日
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午前中、某ボランティア団体の例会。年度末なので、今年度の反省や次年度の活動計画について、色々な話が飛び交う。同じ会で活動していても、それぞれの思いはみんな微妙に違う。この会は、私のように個人的に参加している人もいれば、別のグループ(組織)の代表として参加している人もいるので、視点や目的意識もそれぞれである。例会が終わるやいなや、父の白内障の手術のために眼科に走る。先週、片方の目を手術し、今日はもう片方の手術日であった。付き添い役の私の役割は、二時間にわたって15分ごとに目薬をすること。父も暇なので何かと話しかけてくるのだが、何せ耳が遠いので、父との会話は声の小さい私は結構疲れる。帰宅したのは4時半頃。間もなく息子が仕事の帰りに立ち寄ったので、少しばかりおしゃべり。息子と二人だけで話すのは、考えてみたら随分久しぶりのことだ。ということで、今日は一人っきりになることの少ない一日だった。
2005年03月16日
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今日は、2ヶ月ぶりに「子育て支援関係」のボランティア活動。赤ちゃんのつぶらな瞳に笑いかけられたり、柔らかくてプクプクした体に触れると、それだけでとても幸せな気持ちにさせてもらえる。「最近の親は・・」とか、「今の若い母親は」なんて言葉もよく聞くが、少なくてもこのような場所で出会う若いお母さん達は、一所懸命子育てに頑張っているなと感じて、嬉しくなる。そういえば、今日は19歳で二児のママに出会った。「大変だろうけど、頑張ってね。いい子に育ってるよね」というと、ニコニコと「ハイッ!!」と答え、動き回る我が子を、ミニスカート姿で追いかけていた。あと数年したら、姉と弟にしか見えなくなるだろうなと思いつつ、「頑張ってね」と心の中で呟いた。同じ月例でも、成長の度合いなどは子どもによって随分違う。もちろん身長や体重だって違うので、うっかりと不用意な言葉でお母さんを心配させることのないようにと、それだけには気をつけている。そして、できるだけ赤ちゃんの可愛らしいところ、良いところをみつけて、「可愛いねえ!」「いい子だねえ」と誉めるようにしている。我が子を誉められて嬉しくない親はいない。そしてそれは、お母さんの子育ての苦労を、幸せに変えてくれるのではないかと思っている。しかし私は、決してお世辞はいわないことにしている。本当に「可愛い、いい子だなあ」と思っていなければ、それは嘘になってしまうし、失礼なことなのだから。慎重な子、好奇心旺盛な子、ニコニコと笑顔の絶えない子、人見知りの激しい子、親から離れない子もいれば、興味の赴くままにすぐに親の視野から消えてしまう子。それぞれが、それぞれの「個性の芽」を伸ばそうとしている。この子達が、みんな幸せな人生を送ることが出来ますように。この子達が生きている間、この日本が平和でありますように。60年前に起きた「東京大空襲」のような惨禍に遭わないように・・。いつも、あどけない幼子達と触れ合う時には、そんなことを祈らずにはいられない。
2005年03月10日
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10時半頃から、5月に計画している行事のことについて、今後の日程や計画原案について仲間と話し合いをする。まずは、核となる私たちのモチベーションを高めることが大切だ。具体的な計画案を検討することを通して、やる気が出てくる。私はもともと「不精で非活動的」なタイプだと思う。そんな私でも、「これはやらなくちゃ」と思うことができたら、モゾモゾと動き出すことが出来る。さらに、上手にお尻を叩いたりおだてたりしてくれる人がいると、「頑張っちゃおうかな」なんて思ったりする。私は「おだてられて木に登ろうとする豚」なので、そのような相棒がとても大切なのだ。今日話し合った人は、その点で私には最高の相棒である。目標が定まり、具体的にやることがハッキリしてきたら、あとはそれを行動に移すこと。それを一つ一つこなしていったら、いつか目標に近づいていくものだ。これは、何ごとにおいても同様だと思う。「これがやりたい」と自分が思うことが一番大切なことで、他からの強制ではやる気は出ないし効果も上がらない。自分の目標に一歩ずつでも近づいていくという喜びなくして、誰がお金にもならない努力や苦労をするものかと思う。午後からは、○○推進計画検討会議。行政がらみの委員会である。喧々諤々の話し合いがいよいよ形になってきた。最近は行政のやり方も少しずつ変化していると感じている。今日の会議も、市民の立場からの具体的な意見が出されて、お互いにとても勉強になった。この会議は、自分の意見がきちんと受け止められていると感じて、たとえその意見が通らなくても何だか気持ちがよい。市民の要望は多岐にわたって限りがないが、予算には厳しい限りがある。そのところを埋めてゆくのが、市民同士の知恵と行動である。知恵と行動を出し合っていこうという気になること、つまり「モチベーション」を高めるために大切なのは、自分がどのようにしたいのかというビジョンを持つことだ。それがはっきりしていたら、自ずと自分に何が出来るのかと考えるようになる。そのような気持ちになってゆくためには、まず自分の考えや願いを誰かがきちんと受け止めてくれることから始まる。逆に言えば、誰かの思いをキチンと受け止めるということだ。お互いの願いの中に共通するものが見出せれば、立場の違いを超えて協力し合えるはずである。これもまた、色々なことに共通することだろう。
2005年02月08日
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昨年、4月にイラクで拘束されて「自己責任論」でバッシングされた高遠さんは、現在もイラク復興のボランティア活動をしている。もちろん、イラクに直接入国はできないけれど、ヨルダンなどで現地の仲間達と連絡を取り合いながら活動をしているのだ。日本にいる間は、その報告会に全国を駆け回っている。彼女の「イラク・ホープ・ダイアリー」は、右下の「お気に入り」の中に入れてあるので、関心のある方はご覧になっていただきたい。今日は、2月2日の日記「情報はフェアか?」をコピーしておきたい。「情報はフェアか?」現在、行っている報告会は『命に国境はない』というタイトルで、写真と映像を使って主にファルージャのことをやっています。後半部分で、ファルージャの緊急支援、ファルージャ再建プロジェクト、バグダッドの子ども自立支援プロジェクトの進捗状況をお伝えしています。イラクの選挙が終わった。どこも、「選挙、よかったね!」という雰囲気。でも、その直前まで「自爆テロ」のニュースしか見せられていなくて、私はかなりイライラしていた。報道が不公平すぎる。片方の報道だけを聞いて、イラクの現状を把握できるはずなんてない。そんな状態で、いきなり「選挙成功!」というニュースを見せられても、私は信じられない。みんなが信じても、私には信じることはできない。なぜなら、私はニュースではなくてイラク人を見ているから。選挙は終わったけど、占拠は終わっていない。選挙報道の陰で、新たな場所が次々に「占拠」されていっている。そのことを知ってほしい。報道の壁が築かれている時、もっとも凄惨で、陰湿なことが行われているのだということを知ってほしい。でも、選挙の翌日から突然、電気がいつもよりたくさん来たり、飲める水が出るようになったらしい。よかったね。このまま、ハリウッド映画みたいにハッピーエンドにならないかな。報告会で流している映像は正視に耐えないものもあります。でも、それが現実。そして、この殺戮に私たちは黙って生活をしているだけで、「賛成」していることになっています。だからきっと私たちには、その恐ろしい映像を見る責任があるのかもしれません。私は、感情的になって「映像を見てくれ!」と言うつもりはありません。これは、情報のひとつです。戦場にあるもう一方を見てください。情報量をフェアにしたい、そう強く思っています。その後で、みなさんに冷静に判断していただければと思います。あるニュース番組で、解説者の方が、人口3万人のファルージャの人が8000人も投票したということはすばらしい結果だ、というようなことを発言していたと聞きました。ファルージャの人口は3万人ではなく、30万人です。 これからの報告会の予定は下記の通り。1月27日 静岡県 産業経済会館 18:301月29日 東京都 文京区民センター 14:002月1日 北海道 (札幌カトリック社会委員会) 18:302月3日 北海道 池田町 18:002月4日 北海道 江別市民会館 18:302月5日 北海道 札幌 しんきん健保会館 13:002月14日 ピースボート乗船(報告会、ワークショップなどをする予定)3月3日 帰国3月5日 北海道 釧路 生涯学習センターまなぼっと多目的ホール 13:303月6日 北海道 札幌サンプラザ 12:303月8日 北海道 稚内文化センター 18:303月10日 北海道 室蘭 3月11日 北海道 旭川 18:30 旭川文化会館3月12日 北海道 千歳(一般入場不可) 3月13日 北海道 恵庭3月14日 北海道 士別市中央公民館 19:003月16日 北海道 北見市民会館 18:303月19日 愛知県 守山 14:003月20日 群馬県 前橋3月26日 奈良県 大和郡山市 13:00 奈良県 奈良市3月27日 奈良県 生駒市3月30日 神奈川県 4月2日 大阪府4月3日 埼玉県 ミューズ 18:304月9日 東京都4月17日 北海道 札幌 13:005月3日 長野県 諏訪市文化センター 12:305月14日 東京都
2005年02月03日
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札幌を中心とした「戦禍を語り継ぐ会」が主催の講演会に参加した。この会は、札幌近辺の浄土真宗の若手僧侶が中心となった会で、毎年12月8日の日米開戦の日に、戦争体験者の話を聞く集いを18年前から開いている。私がこの集いに参加するようになったのは、十年ほど前からだろうか。たしか、「731部隊」の証言の話という記事を新聞で見て、参加したと思う。いつもは、札幌市内の寺院の本堂で開かれるのだけれど、今回は高遠菜穂子さんが証言者ということで、「かでる2・7」の大ホールで開催された。高遠さんの話を直接聞くのは、初めてである。イラクで単独でボランティア活動をしている人ということで、一年ほど前から関心は持っていたように思う。だから、彼女達3人が拘束された時にはとても心配だったし、その時に日本人が「自己責任」とその家族も含めてバッシングした時には、いても立ってもいられないような気持ちになり、日記にも書いたりもした。解放され帰国した彼女が体調を崩していることを知り、陰ながら心配だった。解放された直後「それでもイラクの人を嫌いになれない」と涙ぐんだ彼女の姿に、私は彼女が本当にイラクの人たちと心を通わせた活動をしていたのだと確信した。それなのに、一部の心無い人達は、そんな彼女の言葉にさえも非難をしたので、私は日本人の心がいかに冷たくなっているかと思い、暗澹とした気分になったことを思い出す。前置きが長くなってしまったが、彼女の講演について書こう。彼女は講演に先立ち、緊張した面持ちで、あの事件の時についての心配をかけたことに対するお詫びと、応援してくれたことへの感謝の言葉を述べた。彼女は今まで、何度この言葉をいい続けたのだろうと思った。そして、何度も同じ言葉を言ってもこのように緊張している彼女の姿に、誠実さを感じた。その証言は、たくさんのファルージャを中心とした写真やビデオを紹介しながらのものであった。それは、私たちがマスコミで見るものに近いものもあったけれど、米軍の無差別攻撃で亡くなった子ども達の死体や、その身元確認作業、埋葬の状況など、思わず目をそむけたくなるものばかりであった。昨年のバクダッド陥落直後から、NGOなどに協力して医薬品や支援物資の移送や必要な物資の情報収集の活動のために、何度もファルージャとバグダッドをイラク人仲間と往復していた高遠さんは、たとえ多少危険であろうと、イラクに戻って支援活動をしなくてはという気持ちになったことは、とてもよく理解できた。ファルージャは日本における京都のように、モスクが多く敬虔なイスラームの人たちが住む町で、その神聖なモスクを米軍は「テロ掃討作戦」の名の下に破壊しているという。アメリカ軍の兵士達は、「イラクは無差別テロをする武装勢力の巣窟」のように言われており、その上に基本的なイラクの常識や言葉も知らないから、そのことによって罪もない人たちが殺され、米軍への憎悪という悪循環に陥っているという。その具体的な事例を聞くにつけ、無知ということがどれほどの悲劇をもたらすのかと、あらためて痛感した。また、米兵の中には、あの刑務所での虐待事件のように、本当に鬼畜同様のふるまいをする人もいる。戦争という状況は、人々の(特に若者)の心理状態を狂わせててしまうから、多分一人一人の兵士は普通の状態ならば決してそのようなことはしないのだろう。今現在も、イラクではそのようなことが日常のこととして行われており、罪のない一般の人たちが命を奪われ、人間としての尊厳などかけらもないように打ち捨てられ、放置されているという。今は各国のジャーナリストもイラクから締め出されているので、現地の人に日本製の「ハンディカム・ビデオ」を渡して、それを手に入れて報道しようとしているらしいが、アメリカ軍がそれを許すはずもない。だから、それが見つかったらすぐに刑務所行きか、命を落とすかなのである。命の危険を犯してまで、現地の人が映像を外部に出そうとするのは、イラクの現状を世界の人に知って欲しいという必死な思いの表れだろう。高遠さんが紹介してくれたビデオも、そのように撮影されたものだという。彼女は、このところ毎日のようにこの写真やビデオを使って講演を続けていて、「私はイラクの人たちの死体をさらしものにしているのではないか」と辛くなるという。しかし、「自分がしなくてはならないことは、イラクの事実を伝え続けること」と思いなおしながら、毎日講演行脚をしているという。そして、彼女は家族に「もし私にもしものことがあったら、それを公開して欲しい」と伝えてあるそうだ。その覚悟で、彼女は活動を続けているのだ。現在彼女は、拉致されたとき以来のカンパ金などで、「イラク再建プロジェクト」「子どもの自立支援プロジェクト」を立ちあげ、イラクの友人達と連絡を取り合ってプロジェクトの推進をしているという。もう少しで、100%日本の人たちの資金によって、学校の再建がされるという。ストリートチルドレンの自立支援活動も、今のところ順調らしい。彼女のような活動によって、かろうじてイラクの人たちの「親日感情」は保たれているのではないかとすら思った。ネットで彼女のHPを探したら、イラク・ホープ・ダイアリーという、高遠さんの日記を見つけた。今回お話になったことも、詳しく書かれている関心のある人は、ぜひ読んで頂きたいと思う。集いの第二部は、「イラク戦争で犠牲になった全ての命への追悼法要」であった。これは、詩とシンセサイザーとお経によるもので、僧侶達がシンセサイザーの音楽に合わせて読経をするものである。最初にこの集いに参加したときは、お寺の本堂でシンセサイザーとお経が始まってびっくりしたが、これがなかなかいいのである。例年は本堂のご本尊に向かっての読経なのでとてもしっくりするのだが、今回は会場の関係もあり「本尊」を置くわけにもいかず、色々と知恵を絞ったのであろうが、ちょっとぱかりの違和感はあったけれど、これはやむを得ないことだろう。それでも、若い僧侶達がこのような取り組みをしていることには、いつもながら心が洗われる思いがした。今回朗読された詩の一部を紹介しよう。我々のことばの回復を(詩創作 打本顕真)(前略)みずからのいのちを盾に突っ込んでいくイスラムの青年や女性の抵抗を「自爆テロ」と断罪する何を我々はもっているというのであろうかそもそもテロとは何であろうかテロとレジスタンスの線引きを我々はどれほど明晰にしてきたであろうか(中略)砲弾の下を逃げまどう子どもたちの姿が見えてはいるか劣化ウラン弾による被爆によって白血病に冒され治療も受けられずに死んでいくアフガンやイラクの人びとの苦悩が見えてはいるか?(中略)我々はまず我々の論理とことばを回復しなければならぬテロとは何か自己責任とは何か人道復興支援とは何かどうすることが本当の国際協力になるのか操作されたものではなく我々の目と足で確かめた我々の論理とことばを取り戻さねばならぬ世界の人びとと尊敬と信頼をもって共に生きるためにそこから始めなければならぬ
2004年12月09日
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先日、若者対象のボランティア交流研修会で、初めての講演体験をした。以前からの知り合いに頼まれたので無下に断ることが出来ず、私なりに精一杯準備をして、緊張して臨んだ。一時間は、写真などを多用して、自分の体験や出会った人達の話をし、後半は質問用紙に書かれたことに答えるという形をとった。思いがけずたくさんの質問や感想が寄せられて、私の話が共感を持って受け止められ、また色々な質問を喚起する内容であったことを確認し、ホッとした。もともとボランティア活動に関わっている人たちだったから、私の言葉も「ボランティア活動の先輩」の話として、共感をもたれたのだろうと思う。さて、今朝はやはりボランティア活動に関わっている知人から、高校生を対象にしたボランティア研修会の案内がメールで届いた。その内容を見ながら、どうもこの手の研修会は、マンネリ傾向にあるのではないかと感じた。私が話をさせていただいて言うのもなんだけど、ボランティア活動について勉強するような研修は、参加者にとってはあまり魅力がないのではないかと思う。特に、ボランティア活動を推進する仕事をしているような人の話は、あまり面白くないことが定番だ。それよりは、実際のボランティア活動の苦労話や感動体験、あるいは障害を持つ人たちの体験談など、自分達とは違う視点や生き方と直接触れ合うような研修が良いと思うのだが・・。たとえば、ボランティアのキーワードにもなる「無償性、自発性・共生」なんてことも、どれ一つとっても現実の生き方や活動の中では矛盾をはらむものである。その矛盾にしっかりと向き合ってこそ、そのことの大切さと、大切にすることの困難さがわかるものだ。向き合うためには、その間でもがいている人の率直な話を聞かなくては始まらない。そんなことを常々感じていたので、私は自分の話の中では、意図的にそのような話をしたつもりだ。(でも、まだ中途半端だったと思う)特に学生達は、指導され教えられることにはうんざりというのが正直なところではないか。それよりも、社会の偏見や差別に苦しんでいたり、大人になっても様々に悩み迷いながら、それでも希望や夢や感動を失っていない人たちに、一人でも多く出会わせてあげたい。そのような出会いとの感動から、若者達は自分で何かをつかみ取るに違いないと信じている。
2004年10月02日
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来週、ちょっとした講演をすることになってしまった。今までも、「事例発表」「提言」「体験談」程度のことはしたことがあるけれど、いわゆる「講演」なんてものは初体験。そのような柄ではないのでお断りするのが今までだったけれど、今回は「やってみようかな」と思うところがあったので引き受けてしまった。というわけで、その原稿作成をしている。相手は若い人達なので、こんな「おばさん」の話に関心を持ってくれるかどうかがとても心配。テーマは、「ボランティア」に関すること。今までの私自身のボランティア体験と、そこで感じてきたこと(主に感動)を伝えたいと思っている。でも、原稿を書いていて次第に気が重くなってきた。やっぱり私、こんなことは「ガラじゃない」。人前で話したりすると、偉そうになりそうで怖い。でも、思っていることは言いたいし、言えば身の丈を越してしまいそうだし、あらためて「講演」をする人たちを尊敬してしまう。多分、こんなことは最初で最後のことになるだろうけど。あー、今日の天気と一緒で、私の心もどんより・・。
2004年09月22日
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仕事をしていた頃関わっていた「高校生ボランティア」の5人と、何年かぶりにおしゃべりをする機会があった。当時は生意気で多少ヤンキーがかった少女達だったが、今ではすっかり「親ばかママ」になっている。みんな子育て中だが、お盆の里帰りにあわせて子連れで集まったので、私もその輪に加わらせてもらった。当時の私は、市民のボランティア推進のための仕事をしていたので、高校生のボランティア研修、日々の活動のコーディネイト、ノーマライゼーション啓発活動関連のイベントの企画・運営などの事務局的な仕事をしていた。彼女達は、若者のボランティア活動発掘のために地元の高校と連携をとりながら開催した、福祉施設でのワークキャンプや高校生ボランティア研修会などを通して、福祉ボランティアの世界に紛れ込んできた高校生達だった。一般的にボランティア活動をする若者達と言えば、真面目で優しい若者と想像するだろうが、なぜかあの頃ボランティア活動に入ってきた子の中には、限りなく非行の世界に近い子達が何人もいた。そのことの理由を書くと長くなるので、今日の思い出話だけを書いておこう。私「あの頃は、ホントにみんなにはハラハラさせられたよね」A「そうそう、夜の会議などが終わったときには、必ず『まっすぐ家に帰るんだよ』が口癖だったよね。実は帰ってなかったりして・・」B「うんうん。でもね、制服のままうろついて補導されたら迷惑かけると思って、その後遊びに出るときは着替えたりして、私達なりに気をつかっていたんだよ」私「えー! そうだったの? そのせいか、当時事務所に苦情などはなかったなあ。私は、みんながまっすぐ帰宅していたからだと思ってたのに」C「甘い、甘い!(笑) だけど、みらいさんが心配してくれてるってことは、ちゃんとわかってたから、ボランティア活動するところではちゃんとしなきゃって思ってたんだよ」私「ところで、どうしてみんなはボランティア活動にあんなに夢中になってきたの?」A「うーん、やっぱり面白かったからだろうね」私「何が面白かったんだろう」B「色んな人と出会って、色んな話を聞くことが面白かったよね」C「そうそう、車椅子のMさんが鉄人みたいだったし、彼が事故って障害者になった話なんか、マンガより面白かったしね」A「大の大人が、ボロボロ泣く姿なんて、見たことなかったし・・」B「それに、私達を誉めてくれる大人に会ったのも初めてだったしね」C「老人ホームに行って、ご飯食べさせてあげたおばあちゃんに『ありがとう』って言われて、私達が嬉しくてワーワー泣いちゃったり・・」私「それなのに、ヤンキーの部分はそのままだったわけだ。宿泊研修で脱走したりさ・・」D「ハイ、それは私です。でも、あれには私なりにちゃんとした理由があったから・・」私「それでも私は、何だか裏切られたようにも感じたよ」D「わかってる。悪かったと思ったよ。だからあれからは、私、みらいさんのしもべになったじゃん」私「それもそうだね。あれからは、何でも言うこと聞いてくれたもんね。今でもだけど・・」私「あの頃の体験が、今に生きてる?」全員「そりゃそうだよ。あの頃があるから、今があるって・・」私「たとえば、どんな時に感じる?」E「うちの子ね、言葉が遅いとやら、知的に遅れ気味とやら、検診のたびにひっかかってしまって。でも、みんなが心配するほど、私は焦らなかったんだよね。色んな人がいるってことわかってるし、もし障害があってもそれで不幸だって限らないって思ってるし・・。結局なんでもなくて、今はご覧の通りのやんちゃ坊主だけどさ」A「私はね、あの頃、学習会で『中絶』について色々聞いて、ショッキングなビデオを見たから、この子を産んだと思うよ」全員「あれは、結構衝撃的だったよね。でも、あれを見せてもらって本当に良かったよ。今思えば私達、本当にあぶなっかしかったもんね」私「あの研修をやる時は、かなり勇気が必要だったよ。でも、みんなの様子を見ていたら、セックスが子供を作る行為なんだとわかっていないような気がしたから、思い切って企画したんだよね。だけど、あのビデオはちょっと刺激的過ぎて、私も後で少し批判されたし、少し配慮が足りなかったかと心配もしたの。ちゃんと医療関係者の講義とセットにはしたけどね・・」全員「あれは、絶対に今の若者達にも見せた方がいいと思うよ」まあ、このように書いていけばエンドレスになってしまうが、あの多少ヤンキーがかった高校生達が、今はたくましい母親として生きていることを、本当に嬉しく思った。若い頃に色々な人たちと出会って語り合った体験は、彼女達の言葉を聞くまでもなく、その成長の糧になっていることは確かである。その出会いも、「継続的な人としてのつながり」になったからこそ生きているのであり、単発的に「車椅子介助」だけの体験ばかりであるなら、こうはならないと思う。そんな体験をいくら重ねても、障害者や老人は気の毒でみじめな人であり、「ああはなりたくない。私は健常者で良かった」レベルにとどまり、弱い立場の人たちを蔑視する感情が強化されることにもなる。そして、若者達には「心配しながら見守る」人の存在がとても大切なのだとも・・。私は当時、本当にハラハラしながら、ただ「事件が無いことを祈り」、そのためにみんなの良いところを必死に探して誉めるようにしていただけなのだが、そのことが「みらいさんに迷惑をかけてはいけない」という彼等の心理的ブレーキとして働くようになった。当時の私にはそこまでの深慮遠謀はなかったのだが、今回のおしゃべりでそれをあらためて教えられ、若者に対しては「罰」だけで制御しようとすることの愚かさを感じることが多かった。「だから若者にボランティア活動を」などと、教育関係者のような言葉を私は言いたくはない。ボランティア活動の喜びや意味を知らない大人が、即効性をねらって善いことをさせようとする胡散臭さは、若者は敏感に嗅ぎ取るものだ。または、大人の見える評価だけを狙って、ずるく立ち回る若者を育てることにもなりかねない。今回は、日中集まれる女性ばかりと会ったのだが、今度は当時の男子達にも会いたいものだと思う。
2004年08月16日
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もう、随分前のことであるけれど、その時期は忙しかったり他のことが重なったりで、書かぬままに終わっていたことがある。今日は、とりたててネタもないので、ちょっと書いておこう。我が町で、市民の実行委員会による「通学合宿」というものが初めて実施された。「通学合宿」とは、「子どもたちを特定の期間、公的施設等で集団宿泊させながら学校へと通学させることにより、異年齢の集団活動や生活体験活動を行うこと」と、鳥取県教育委員会の通学合宿についての説明http://www.pref.tottori.jp/kyouiku/shougai/tuugaku/tuugaku1.htm には書かれている。鳥取県では教育行政が通学合宿を奨励しているようだが、このあたりではまだ行政主導で実施されているところはないのではないだろうか。(gooやyahooで検索すると、通学合宿を実施している市町村を探せると思うので、興味のある人はそちらで詳しくどうぞ)。要するに、生活体験や異年齢の子供達との体験が少なくなり、何でも大人に世話してもらうばかりの子ども達に、宿泊施設で合宿生活をしながら通学させると言う取り組みである。炊事・洗濯・その他色々、生活に関することは基本的に子供達が行い、大人はそのサポートや相談役をするということであった。私も、今の子供達にはこのような体験がとても大切だと考えていたので、ボランティアとして2日間だけ参加した。市内の「青少年研修センター」が会場で、そこから学校に徒歩で通える範囲の子ども達四十人近くが参加した。私は、登下校の引率と、夕食のための買い物・炊事・後始末をサポートしたのだけれど、実に色々なことを考えさせられた。一番感じたのは、「今の時代の子ども達には、このような体験が大切だ」ということ。食事のメニューを考えることが、色々な要素(予算、栄養バランス、炊事のための手順や時間などなど)があるということも、実際に自分でやってみなくてはわからないことだ。単純に「芋の皮を剥く」という作業だけでも、ナイフ・包丁・ピーラーなど、使う道具も使用上の注意もそれぞれ違う。そんなことの一つ一つが、小学生(4~6年生)にとっては、とても新鮮で新しい知識と技術であり、子供たちが想像以上にそれを面白がっていた姿を見て、こんな楽しいことを子供たちにさせていない大人の責任を感じてしまった。もう一つ、とても大きな「大人側の責任」を痛感した。今の大人は、本当に「待つことが下手」なのである。たとえば、登下校のサポートの時のことである。いつもとは違う通学路を使うため、地域の人たちが登下校の引率をした。それは子供たちの安全を守るために大切だと思うけれど、とにかく小学四年生以上である。信号や交差点での注意の仕方、歩道の歩き方など、そんなにいちいち事前に注意することはないと思うのだけど、役員の人たちは注意をするのが自分の役割と思っているのか、交差点が近くなると「さあ、交差点だよ。左右を確かめて!」と甲高い声が飛ぶ。子供のことであるから、1.5キロの道のりを自衛隊員のように隊列を組んで歩くはずもないし、誰かとすれ違うとか、自転車が来たのならともかく、「はい、チャンと二列に並んで! ホラホラ、はみ出してる」なんて、言う必要があるのかなあ・・。と、私は最後尾を黙ってついて歩いていたのだけれど、大人の注意喚起の声がやけに耳について、大きな声ではいえないが「うざかった」。私は、自炊初日と最後の日にボランティアに入ったのだが、初日はとにかく全てに時間がかかり、夕食予定時間より一時間遅れで食事にありついた。幸か不幸か、その時のボランティアスタッフは私と似たような感覚の人たちだったので、時間がかかっても子供たちが「自分でやる」ということを大切に考え、(指を切るなよ)と心の中で祈りながら、(こんなにノロノロやっているなら、切ったとしても重傷にはならんワイ)と、ここはジッと我慢をと少しばかりの手伝いにとどめた。班単位での食事作りだったので、「今度は、もっと早くから始めた方がいいね」などと話してその日は終わった。そして、次の夕食サポートの日、私は所用があって、買い物に付き合えなかった。その日は宿泊最後の日だったので、サポートしてくれたボランテアも加わっての交歓会が開かれることになっていて、その分だけ食事も多めに作ることになっていることはわかっていた。だから、大急ぎで会場に着くと、子供たちの姿がない。そして、調理室には大勢のボランティアが忙しそうに食事作りをしている。「え? 子供たちは?」と聞くと、「今日は沢山作らなくてはならないし、子どもたちにやらせていたら時間がかかるから、子供たちは盛り付けだけ」というではないか。はあー???? そういうことになるの?私は今回の実行委員ではなくて、単なるボランティァなので、実行委員が決めたことに文句を言うつもりはない。色々なことを考えて、それが良いと決めたのだろうし、多分子供たちもそれで納得したのだろう。しかし、本当にそれでいいの?子供の自主性や自立性を育てるために企画した事業は、多少不都合が生じても、その目的のためにじっと我慢することが大切ではないだろうか。自分で考え、自分で実行し、自分で失敗して反省する。それを子供たちに体験させるために、通学合宿を行ったのではないだろうか。本当に困った時にサポートするために、大人が傍についていてやるのではなかったか。手を出さずに見守るということは、実は大変な我慢とエネルギーが必要である。危険を避ける技術や能力も、実は危険すれすれの体験をしなくては身につかない。家庭ではなかなかそれが出来ないからこそ、このような場でそれを体験させようとしたのではなかったか。私の見るところ、そのような意味での大人側が考えたり反省したりすることがとても大切だと思うけれど、どうなるのであろう。しかし私はどんな形であれ、子どもが家庭から一定期間離れて、色々なことを体験することは文句なく大切なことだと考えている。このような時代では、市民の実行委員会がこのような行事をやることは、とても大変なことである。私は、「指を少し切る」くらいはいいことだと思うけれど、そこに「責任問題」を持ち出す人も少なくはない。しかし、本当の大人の責任とは、子どもが育つために必要な体験をさせるということであろう。何も事故がないのが当然で、ちょっとでも何か起きると「責任は誰にある」と追求されるから、このような手間暇かけて危険も伴う事業は学校も行政も避ける傾向にある。色々書いたけれど、今回の実行委員の人たちの勇気と熱意と行動力には、心から敬意を表したいと思っている。
2004年07月13日
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以下の二つとも、昨日の出来事なのですが・・☆その1○○委員連絡協議会の定例会に出席。実は、10年間引き受けてきた○○委員を、11月の任期で退任することに決め、すでに事務局には届けを出していた。しかし、会長を始めとして、委員仲間には一切そのことは言わずにいた。この○○委員は、ほとんどが私より年輩の人が多く、病気や仕事、家庭の事情で退任する以外は、定年と言われる70歳頃まで続ける人が多い。そんな中で、10年続けたとは言え、みなさんよりまだまだ若い私が退任するということが、他の人たちにどのように感じられるのかという危惧があり、誰にも言わずにいたのである。退任しようと思った理由は色々あるが、一番の理由は「(一般的な意味での)しっかりした組織的活動」が原則といえる役割であることだ。大きな声では言えないが、私は「組織」というものが苦手である。それが何によるものかということについては、昨日の秀0430さんの日記に書かれているので、読んでみていただきたい。しかし、昨日はとうとう退任予定者が明らかにされたので、例会会場に行くやいなや、役員の人に「どうして辞めるのさー」と言われたりした。しかし、ここは低姿勢でひたすら「わがまま言って申し訳ありません。これからも、別の意味で協力させていただきますから」を繰り返すしかない。もっとイヤミを言われたりするかと内心は覚悟していたのだが、私が複数の地域活動をしていることはみんな知っているので、「忙しいんだろうね。残念だけと仕方ないね」なんて、勝手に解釈してくれて助かった。(本当は、そんなに忙しくなんてありません。PCに向う時間も一杯あるし・・、でもここは誤解されるままに・・)←《したたかな私》とにもかくにも、私が所属している中で最もしっかりした組織からは、これで脱出できることになった。あとは後任の選出があるのだが、実はこれも、ひそかに意中の人を事務局には伝えてある。自分が嫌な事を人に押し付けるのは嫌いではあるが、私がイヤでもそれをイヤとは思わない人も当然いる。だから私は、この一年くらいの間、この組織を不快と思わず、しかし真面目に誠実に取り組んでくれると思える人をひそかに探して、ターゲットを絞っていた。だが、その人はとても謙虚な人でもあるので、引き受けてくれるかどうかは、まだわからない。半年ほど前から、「実は、私の後をやってほしいの・・」と気持ちを伝え続けてきた。しかしその人には、「私は組織が嫌いだから」などとは言ってない。「私は飽きっぽいから、意欲的に活動できるのは10年が限度なの」と言っている。(これも本当のことであり、私は十年くらいで大体煮詰まって、二度も退職and挫折をしている)こうやって書いていても、私は実に「裏表のある人間」だなと思う。しかし、自分の意志や思いを実現していくには、戦略もしたたかさも必要ですよね?思えば、随分私もしたたかになったものだ。これを「年の功」というのだろうか。☆その2上記の例会終了後、帰り支度をしているとAさんから「ちょっと話があるの」と呼び止められた。この時期に「ちょっと話が・・」となると、私にはピンとくるものがある。彼女はこの委員の中では若い部類で私とも年齢が近く、この会の中では仲良くしている人である。明るくて親切で、何かを頼むと快く引き受けるタイプなので、好感を持っていた。さて、その「ちょっとした話」とは。お察しの通り、選挙がらみである。「実はね、私K党の応援をしてるの・・」彼女の手には、某新聞の切抜きがあり、そこには私が関わっている活動に関係する記事が載っていた。子育て支援に関係するその事業を、K党では力を入れているのだと言う。「もし、まだどの党に投票するか決めていなかったら、考えて欲しいと思って・・」。(ラッキー! 私は期日前投票をしたばかりだ)と、内心キッパリと断れる理由があると思ったが、次の瞬間腹立たしくなってきた。(この私が、まだどの党に投票するかどうか、考えていないとでも思ったの!?)はっきり書くが、私はK党をまったく信用していない。K党を応援しているということは、この人は○△会であろう。ならば、私も言いたいことがある。良い機会だから、私がこの党に対してどう考えているか言おうと思った。「あなたの党は『平和の党』だと言っていたから少しは期待していたのに、やっていることはそれと違うんじゃない?私は、今の政治で一番不安に思っているのは、憲法のことと多国籍軍参加問題なの」それから少し意見のやり取りをしたのだけれど、当然ではあるが彼女から明確な反論はなかった。「多国籍軍については、私も納得できないのだけど・・」と言っていたが、それでもなお、その党を支持する理由については語らなかった。私も、それ以上彼女を困らせるつもりもないので、「だから私は、まだ投票をしていなくても、申し訳ないけど期待にはこたえなかったと思う」と言うにとどめておいた。彼女は、本当に善意の人だと私は思う。そんな彼女の言動を支えている指針は、○△会にあるのかもしれない。そのことを私は否定するつもりはないし、信仰の大切さも理解しているつもりだ。しかし、そのことがどうしてK党を無条件で応援することになるのかが、私には理解しにくい。私は日頃、政治的な話をすることはとても慎重にしている。この町で、政治色のレッテルを貼られると、とても不自由になってしまうからだ。それに、今の私はどの政党をも明確に支持できずにいる。しかし、投票はしてきた。基準は、「憲法九条を守ることと、多国籍軍参加反対」である。それにブレーキをかけられるようにと祈りをこめたけれど、さて結果はどうなるだろう。
2004年07月08日
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月に一度の、不登校やひきこもりなどで悩んでいる親達を中心とした「語らいの場」を開いている。私はその集まりの世話係というところであろうか。一言で不登校といっても百人百様であるが、共通しているのは、「学校に行かなくなった子供」や「ひきこもり傾向」になった子どもを見ている親は、とても辛い思いをするということだ。子どもに何か困ったことが起きた場合、大抵「親は何をしている」という目で見られる。「学校に行かなくなった」にも関わらず、教師からも「ご家庭での甘やかしが・・」なんて目で見られたり、「家庭から出られないのだから家庭の問題」なんて言われたりする。こうなると、親は親で「学校で何かあったのでは?」と詮索したり、子どもを問い詰めたりすることも多い。そして学校からも親からも問い詰められる子どもは、ますます縮こまってしまうというパターンも稀ではない。母親も百人百様だから、昨今のニュースで散見するような無責任な親も、鬼婆のような親もたまにはいるかもしれないが、私は6年間毎月、不登校や引きこもりの子に悩むお母さん達の話を聞いてきたけれど、そんなひどい母親に出会ったことはない。みんな子どもを愛し、子どものことで悩み、自分の何がいけなかったのかと自責感に苦しみ、自分の頭で考えうることをなりふり構わずやってみて、あらゆる相談機関をかけまわり、やがて精神的に疲れ果て、「子どもの現状には何の役にも立たないような、母親達の話し合いの会」に、藁をもすがるようにやってくる。このような会に参加したからといって、劇薬のように子どもが変わるはずはない。ただ、同じような悩みや苦しみを共有する人に出会い、多くを語らずとも「その気持ち、わかるよ」と受け止められ、「苦しいのは自分だけではない」と思った時、母親の顔が別人のように変わることは稀ではない。今日も、新しい人が一人やってきたのだが、最初の緊張した顔と震えるような声が、数時間後には笑顔と笑い声に変わっていた。自分のことはなかなかわからないものだけれど、人のことになるとよく見えることは多い。良かれと思ってやったことが、実は子どもへのプレッシャーになっていたり、折角の子どもからのサインを、「甘やかしてはいけない」と我慢したために子どもの反抗へのきっかけになったり、本当に親稼業というものは大変である。誰もが手探りで必死なのだ。それが多少ピントはずれになったとしても、誰が責められよう。最近の私は、親の話し合いの場にいるよりも、子ども達のボランティア活動に付き合っていることのほうが多い。カンボジアの子供たちに絵本を送る活動なのだが、日本で出版された絵本に現地の訳文シールを貼る作業で、小学生でも出来る。何も話さずに黙って作業をしても良いし、作業を中断しておしゃべりになってももちろん良い。今日の参加者は四人だったので、この絵本が現地でどのように活用されるのかというビデオを見た。一冊の絵本がボロボロになるほど読まれている様子や、学校でしか本を手にすることが出来ない子ども達が、飢えたように絵本に群がる様子。そして、先生の絵本の読み聞かせを、食い入るように見詰める子ども達の目の輝き。また、幼くても働き手となり、学校に行きたくても行けない子供たちが多いことなどなど・・。ビデオを見る前に、「カンボジアでは、子どもの人身売買が問題になっているんだって」と先日見たテレビの話をすると、中学生の女の子が「えっ? 子どもって、何か役立つんですか?」と驚いたように聞いた。普段は無口で、自分からはあまり話さない子が、とっさに声に出してくれたことに私は嬉しかった。だから、私の知ってる範囲での説明をしたのだが、真剣に聞いていてくれた。彼女は、そのビデオも、身じろぎもせずに見ていた。終わったあとも、何も語らず黙っていた。帰る時に、「疲れたかい?」と聞くと、戸惑うような笑顔を見せながら「うん」と小さく頷いた。この数時間、彼女の心は、きっと現実の自分の悩みのことではないことで動いていたはずだ。いつか子供たちにわかって欲しいことがある。人は、自分以外のことに思いを寄せ、心配したり哀しんだり喜んだりできることが幸せなんだよと。少なくても私は、誰かのために心を使っていることが幸せですから。つまりはそれが、自分のために生きるということです。
2004年06月25日
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北海道内のあちこちで、鮭やヤマメなどの稚魚を放流する活動が行われている。私達の町でも「山女(ヤマメ)を守る会」があって、毎年山女や鮭の稚魚を放流したり、川の清掃などをしている。これは、市内を流れる「母なる川」が、山女が元気に生息する清流でありつづけてほしいということと、かつてのように秋になると鮭が群をなして戻ってくるようにとの願いをこめてのことである。市内の小中学校で孵化した稚魚を水槽で育ててもらい、川で生きることが出来るほどに成長した時に放流する。その地道な活動のせいで、一時は汚れていた川も徐々に綺麗になってきた。さらに、一時はコンクリートで固めた護岸工事で川遊びも出来ない状況だったのだが、そのコンクリート護岸を再工事して、昔ながらの水草が生えるような自然を生かした護岸へと転換され、川が町の人たちの憩いの場へと変わりつつある。それもこれも、心ある市民の自腹を切っての活動と、そのことを通して多くの市民や行政を動かしてきた賜物である。・・ところが。以前は稚魚の放流日時を事前に市民に知らせて活動をPRしていたのだが、最近は「コッソリ」と行うようになっているのだという。その理由は、放流した稚魚をすぐに網ですくってしまう人がいるからとのこと。稚魚は自然繁殖したものではなく餌付けされているので、放流してしばらくはその場所にとどまっているのだという。それを狙って、釣りをするならまだしも、網ですくってしまうとは・・。私は、「子どものしわざか?」とまず思った。実は、息子が小学3年生で初めて放流体験をした日の放課後、友達と川に行って稚魚を獲ろうとしたのをたまたま通りかかった先生に見つかり、こってりとお目玉を喰らってションボリと帰ってきたことがあるのだ。しかし、現在網ですくっているのは、何と大人だという。私が次に連想したのは「天ぷらで食べたかったのかな?」。以前、学校訪問をした時に水槽に泳いでいる稚魚を見ていた時、ある先生が「美味しそうに育ってきました」と言ったのである。私は、水槽に泳ぐ稚魚を見て「美味しそう」と発想することに少しビックリしたが、釣りをする人ならばそう感じるのかもしれないと、それなりに納得した。(しかし、間違っても子どもの前で、そんな冗談を言って欲しくないとも思った)だが、今回の話は、食べるためでもなかった。何と、稚魚は花の良い肥料になるのだと言う。花を美しく咲かせるために、せっかく育てて放流した稚魚をすくって土に埋める!?思いもよらぬことに、私の心は凍りつきそうになった。花を愛でる心と、他の人の心をこめた行為を平気で踏みにじる心が、一人の人間の中に共存している。一方の命を大切にしながら、一方の命を切り捨てる。それが人間というものだと言ってしまえばそれまでだが、何とも心が冷えるような話ではないか。このような大人が増えている社会が、子どもの心や社会に反映しないはずがない。
2004年06月03日
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久しぶりに老人ホームでのお手伝い。作業の合間を縫って、入所している叔母の部屋に行ってみたが、前回来た時には何とか流動食を口から食べていたけれど、今は鼻からチューブで直接胃の方に流し込む状態。当然、私の声かけにも反応はなく、何だか切なくなってしまった。そう思いながら廊下に出ると、中学時代の同期生が車椅子を押してやってくる。「あらー!」と声をかけると、彼女もビックリした様子。聞くと、お母さんが春先から入所しているので、面会に来たのだという。考えてみれば、私の両親だっていつ車椅子生活になっても不思議ではない。在宅で介護をすることの大変さは、私も祖母を見ているのでよーくわかる。今はなかなか特養にも入所できないと聞いているので、彼女には小声で、「入ることが出来て良かったね」と耳打ちすると、少し控えめながら「うん」と頷いた。もちろん、お年寄りにとっては住み慣れた我が家で最後まで生活したいことだろう。たとえ手厚く介護してくれたとしても、施設はやはり施設だ。とくに、このホームはもう三十年近く経っているので、個室化はされていない。同部屋の人が気になることも多いだろうし、入所者の身体的状況も高齢化に従って重度化している。つまりは、一人一人の介護に手が掛かるから、職員はみんな忙しく走り回っていて、落ち着いてお年寄りの話し相手をする時間もない。結局、ほおって置かれると同様の状態になりやすい。やむを得ないとは言え、お年寄りの気持ちを思うと何とも切なくなってしまう。それでも、在宅介護での家族の身体的・精神的負担を考えると、「入所できて良かったね」と言ってしまう状況も多いのだ。そんな中での少しの救いは、職員に若い人が増えたこと。その中には、高校生の頃から知っている若者も数人いる。高校のボランティア部でお年寄りや障害者と出会い、福祉の仕事をめざした若者達だ。高校生の頃に考えていた老人ホームでの仕事と現実とは多少の違いはあるだろうけれど、みんな笑顔で仕事をしている様子を見て、ホッとすると同時に嬉しくなった。若い人の笑顔や優しい声かけは、お年寄りの元気の素になるだろう。その中でも中堅になりつつある一人の青年に「元気そうね? いくつになった?」と聞くと、「元気ですよー、もう30です」という。その笑顔は高校生の頃と変わらぬように見えるけれど、もうそんな年になったのかー。私が年をとるわけだ。ひょっとするといつの日か、彼におむつ交換される日が来るかも・・と想像すると「ゲッ!」という感じで、「このホームにだけは入らないでおこう」と思ってしまった。
2004年05月20日
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朝刊を見ると、また日本人ジャーナリストが拘束されたようだ。三人の拉致問題で日本がこれほどワーワー騒いでいて、極論したら世論が二分されているわけで、イラクのレジスタンスであれ身代金目的であれ、この日本人を利用(活用)しない手はないと思うだろう。やっと小泉首相も、「テロ」と言わず「抵抗勢力」と多少の配慮をした物言いになってきてはいるが、彼のお得意の「冷静な判断」をするならば、今のイラクの状況は「戦後」ではなく「戦時中」であることは明らかなように思われるのだが・・。三人の被害者家族が連日のように会見を開くことが出来るのも、言い換えれば日本はまだ「戦争状態にはない」という証であるが、このような被害者がどんどん増えてきたならば、メディアも追いかけきれなくなるだろうし、何よりも数の上からそれぞれの命の意味はどんどん軽くなっていくのであろう。そして、「被害にあっているのはあんただけではない。国益や正義のためなら、多少の犠牲はやむなし」という論調が強くなったとするなら、それはまさしく戦時下状況ということになるのではないだろうか。もうすでに、「自衛隊は復興支援に行っている」という言葉も、何だか虚しい響きを漂わせてきている。原点に立ち戻って欲しい。日本は戦争に加担することを憲法で禁じている国なのだ。自国の防衛のためにだけ活動できるのであって、他国の紛争に加わることは絶対にあってはならないのだ。もう一つ、つぶやきたいことがある。高遠さんたちの活動について、「志はわかるが、なぜ危険なイラクなのだ? 日本にだって活動の場はあるではないか」という意見も、時々見られる。こう書く人は、彼らの行為を一応は認めながらの発言なのだと思うけれど、それはボランティア活動をしている人の気持ちを知らない人、もっと言えば、本当のボランティア活動をしたことがない人の言葉だろうと思わざるを得ない。一度でも、自分の中の突き上げる思いに動かされて、損得抜きでボランティア活動をして、その時に出会った人々との心の交流の喜びを味わった人ならば、高遠さんや今井さんの行為を理解できるだろう。私は、何かのボランティア活動に関わるきっかけは、「出会い」だと思っている。それは人との出会いかもしれない。一枚の写真かもしれない。テレビの映像かもしれない。いずれにせよ、その出会いによって自分の心が突き動かされて、身体を動かさずにはいられなくなったから、結果として関わることになるのだと思う。そこに共通するものは「感動」である。その感動を知った人ならば、彼らの行動を単なる無謀と切り捨てることはできないだろう。高遠さんや今井さんは、イラクと出会ってしまったのだ。今井さんはまだ若いから何とも言えないけれど、多くの紛争地域で活動をしてきた高遠さんは、この時点でイラクに入国することを不安に感じなかったはずはない。でも、「イラクの子供達と約束したから・・」と、彼女は出発した。私にはその気持ちがとてもよくわかる。人間同士として心が通じ合い喜びを分かち合った仲間がそこに待っていると思ったら、彼女は出発せずにはいられない人だったのだ。そんな彼女の気持ちはわかるような気がするけれど、私にはできない行為でもある。私はもっともっと自己防衛本能が強くて、危険が怖くて、たとえ約束を破ることにどんなに心が痛んでも、自分の命を守る方向に動くだろう。どちらが良い悪いではない。それぞれの体質・気質が違うということだけだ。このような状況の時にたとえ約束を守れなくても、彼女のイラクの仲間達は責めはしないだろう。そんなことも重々わかっていながらも、彼女は行かずにはいられない人だったのだ。私はそんな三人を、日本人として誇りに思っている。今井さんのお父さまが、外国人記者に「なぜ息子さんがイラクに行くことを止めなかった?」と聞かれ、それまでの経緯を説明し「息子を誇りに思う」と答えて、記者を感動させたという。それがまっとうな人間の感覚ではないのか。私は自衛隊のイラク派遣には反対だったし、今は自衛隊がまともに復興支援できる状況にないと思うが、自衛隊の皆さんの志もまた尊いと思っている。そして、この状況でイラクに居続けなくてはならない隊員を、気の毒だと思う。(以上、午前中に記す)【もう二つ追加・・】(午後三時半に記す)北朝鮮から拉致被害者5人が帰国して、もう一年半。それなのに、彼らの状況は何も変わっていないという。北朝鮮で25年間家族との再会を待って、帰国してまた家族を待ち続けて・・、想像することも恐ろしいような日々を送っている。本当に国は「精一杯」やっているのだろうか・・。鷺沢萠さんの死は、やはり自殺だったそうだ。最初に新聞記事で「心不全で・・」と書いてあったのを見て、ひょっとすると・・と感じていた。才能も美貌も兼ね備えて生まれても、それが単純に幸せとはならないのが人間の複雑なところだ。でも、とても残念である。ここを乗り切ったらきっと新しい地平が開けて、また違う作品が生まれたのではないか。生き続けるよりも死んだ方がよほど楽に思う日は、長い人生の中では多いことだろう。でも、人間は相当なことでも乗り越えられるものなのだ。彼女の死に触発されて、迷っている人が「私も・・」と思わないことを祈る。どうしても死にたい時は、身近な誰かに「死にたい気分なの」と伝えて欲しい。そう言われた人は、「何言ってるの、ガンバレ」なんて言わずに、「私を哀しませないためにだけでも、とにかく生きていて欲しい」と言ってあげて欲しい。「あなたが死んじゃったら、私は本当に辛い」・・と。本当は人間は自分から死にたくないものなのだ。自分が生きている価値がないと思い込むから、「死ななくちゃ」と思ったりする。たった一人でも自分を必要としてくれる人がいると実感したら、何とかもう一日だけ生きてみるかと思うかもしれない。身近な人が自殺したなら、それは想像以上に辛いことなのだ。
2004年04月15日
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今日は、所属している団体の会報の編集をした。原稿の締切日は先週末だったけれど、今朝までに二人から原稿が届いていなかった。私も昨夕までは孫達が来ていたので編集作業ができなかったこともあり、朝一番でこの二人に電話で原稿の催促をした。実は、先週中にこの二人からは「忙しくて原稿が遅れそうだ」と連絡があったので、「月曜日の朝までに届けばいいですから」と、締め切りの延長を許可していたので、今朝の電話は再確認のつもりであった。ところが・・・一人は「あー、ごめんなさい。午前中に必ず・・」というので、私も快く了解した。さてもう一人は・・、もうあきれて絶句状態。今日までの多忙さの言い訳と同時に、「今からでは書くのが無理・・」とかなんとか・・。挙句の果てに「もっと早くお断りしたらよかったのですが・・」。思わず「冗談ですか?」と聞き返したくなった。もう少し上手な言い訳を言ってくれたなら、あるいは先週の電話ではっきりと「書けない」と言ってくれたなら、私は自分で原稿を書いたかもしれない。しかし、今日に至って、それも私からの確認の電話でその言い方はないだろう。専業主婦の忙しさなんてタカが知れている。それは、現在は専業主婦(もどき)の私が断言する。確かに家族や地域のあれこれに雑用を押し付けられはするけれど、自分の裁量でやりくりもできるのが主婦である。何日も前に約束をしたことを守ることが出来ない理由なんて、よほどのことでなければ人を納得させることはできないのだと、自分を戒めて欲しい。だから私はきっぱりと「とにかく、今日中に何とかしてください。夜中までお待ちしてますから」と、彼女の哀願を断った。今は午後8時。まだ彼女の原稿は届かない。ひょっとするとこのまま・・・。それならばそれでいい。穴埋めはせずに、他の記事のスペースを少しゆったりとさせ、カットでも入れて会報を作るつもりだ。出来ない約束はしないでほしいと、イライラしながら思う。少しは反省していることを願っているが、さあ、どうだろう。そうそう、もう一人は約束どおり、昼食時間を過ぎた頃に原稿を届けに来てくれた。「ファックスで良かったのに、わざわざ届けてくださったの?」という私に、「遅れてしまって本当にごめんなさい」と、お菓子のお土産つきだった。おかげで、私のイライラの半分は解消されたのだった。【補記】午後9時過ぎ、待っていたファックスが届いた。早速その原稿を空けておいたスペースに打ち込み、無事に予定通り会報は完成した。(短時間で打ち込める程度の分量の原稿なのである)。明日は、これを数人のメンバーにチェックしてもらって印刷することになる。無事に届くとゲンキンなもので(またはお人よしとも言う)、「お忙しいところ無理をさせてしまいました」と、お礼さえしてしまった。(もちろん、社交辞令ではある)お陰で今夜は安心して眠ることが出来る。ヤレヤレ・・。
2004年03月29日
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今日は、子育て支援関連のボランティアグループの一員として、N町のボランティア団体との交流研修会に出席するためにN町にでかけた。同じような活動とは言っても、その地域によって方法や体制が違うし、構成メンバーの個性によって雰囲気も随分違うものだ。真面目に取り組めば取り組むほど自分達の至らなさを感じてしまい、「まだまだ、ダメだ」と思い、落ち込んでしまうこともある。反対に、相手との比較の中で「自分達の方が良くやっている」と感じた時には、何となく優越感を感じて驕りの気持ちが芽生えることもある。しかし、どちらも程度によってはスパイスのように自分達の活動への励みや意欲につながるかもしれないけれど、過度にそれを感じてしまうと、思わぬ落とし穴にはまることもある。私は、ボランティア活動はそれを通して何かに気付き合うことが一番大切だと思っている。周囲に関心を持ち、自分で出来ることを見出し行動につなげて、相手と自分の喜びに繋がること。それは、どんなにささやかなことであっても良いのだ。自分だけの喜びであっても、自己犠牲によって相手だけを喜ばせることも、どちらも片手落ちだと思っている。もちろん、活動を続けるということはそのようなきれいごとではないし、グループという形態での活動は、人間関係や様々な話し合いと実行の繰り返しであり、時々「なんでこんなことしてるんだ?」と思うことも稀ではない。それでも、色々な苦労や悩みを乗り越えながらみんなで何かが出来た時には、それが自分だけの喜びではなく広がりのある喜びであるだけに、ジワジワとした感動も味わうことが出来る。そして何より、そのような場でこその人との出会いがある。私は、年々面倒なことが億劫になり、楽ちんに穏やかに暮したいという気持ちが強くなっているけれど、時には面倒なことも引き受けなくては、日々がつまらなくなってしまうようにも思う。長々と書いてしまったが、つまりは、今日の出会いもなかなか面白く、私にとっては有意義な一日になったということである。N町の皆さん、本当にありがとうございました。
2004年03月25日
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今日は公立高校の合格発表の日。合格を手にした子ども達にとっては最高に嬉しく心軽やかな日であり、新しい高校生活に夢を一杯にふくらませている日であろう。しかし、そのように期待と意欲に満ちて校門をくぐった高校生の2.3%が、様々な理由によって退学してゆく。また、退学までには至らなくても、不登校状態にある生徒も少なくはないはずである。そのような状況をふまえ、地元の高校から「不登校の親の気持ちや、学校に望むことを聞きたい」という声がかかった。私は、不登校やひきこもりの子どもを持つ親達の話し合いの会に参加しているので、その一員として仲間と共に高校に行き、先生達の前で日頃から考えていることなどをお話してきた。実は、学校から「親の会の話を聞きたい」と言われるのは、非常に稀なことなのである。常日頃は、色々な機会をとらえて、こちらの方から「親や子どもの気持ちは、こんな場合もあります」と、やや押し付け気味にお話しするのが精一杯なのである。だから、高校から「教職員の校内研修でお話して欲しい」といわれた時にはとっても嬉しかったので、喜んでお引き受けしたわけである。とはいえ、高校の先生達がズラリと並んでいる前に出ると、とても緊張してしまった。五人がそれぞれの役割分担で話をしたのだが、声が詰まったり震えたり、用意したレジメのどこを読んでいるのか見失ったりと、素人講師ならではのたどたどしさはあったものの、それぞれが飾り物や建前ではない真実の心の一端をお話できたように思う。また一つ、ネットワークの輪が広がった。様々な立場の人が必要に応じてふんわりとつながり、大きくそして長い目で子ども達を見守っていきたいものだ。そしてまた、孤立することで悩みを深めてしまう人が、一人でも少なくなるように。
2004年03月16日
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今日は、某ボランティアグループの役員会だった。年度末、新年度を控えているので、次回の会議に向けての打ち合わせである。この会は、色々な団体や個人の寄り合い所帯なので、事務局担当者は色々と気を使って疲れることが多いらしい。どんな小さな会でも、気の合った人ばかりで和気藹々とというのは、非常に稀である。どんなにいい人ばかりでも、十人いれば十通りの考えがあるし、中にはとても個性的な人も必ずいる。私達の会もその例には漏れず、通常以上に気を使う必要のあるメンバーがいる。でも、今日も色々と会の運営上での対応策を話し合いながら、そのような人がいることでとてもみんなの結束が強まっていることに気付いた。少々浮き気味のその人には大変申し訳ないけれど、物事を進めていく上で「仲良しグループ」で楽しんでいるだけでは、会はズルズルと「自己満足」の世界に入っていく。だから、少し厳しい人、細かい人、人間関係を時々混乱させる人の存在は、決して困ったことだけとはいえない。でも、生身の人間である私達は、直面する「困ったこと」を何とか避けたいと思うあまりに、往々にしてそのような人をそれとなく避けるようになってしまう。これがエスカレートすると、「シカト→イジメ」に近くなるのだろうと思う。上手にストレスを発散しながら、多様なタイプの人と一緒に何かをしていくということは、なかなか難しいものだと思う。
2004年03月12日
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ある勉強会で発表というか報告をすることになり、今日はその資料を作成している。実は以前に、元になる資料をワープロで作成してあったので、今まではそれに関する資料が必要な時には、ワープロでアレンジして使っていた。しかし、ワープロの資料ではパソコンで添付して送信したりできないので、これを機会にWordで作り直そうと思ったのだ。しかし、原稿があるのだから簡単だと思いきや、「図表」で思いのほか手間取っている。私は、文章だけならば結構早く打てるのだけれど、図表はまだ本格的に作成したことがない。午前中から、マニュアル本片手に試行錯誤、悪戦苦闘の数時間が経過している。老化が進行しつつある頭は、一度やったことでもすぐに忘れてしまう。情けないというか、悲しいというか、自己嫌悪との戦いでもある。しかし、それでも何とか必要なことだけは少しずつ身についていくものだ。とにかく、今日中にその資料を作ることが今日の私のノルマである。
2004年02月13日
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今日は、子育て支援に関係するボランティア団体同士の交流研修に参加。目的が同じ活動であっても、地域性やそこに関わる人たちの考え方や個性によって、そのやり方や方向性も変わってくる。久しぶりに交流研修に参加して、そのようなことを改めて実感した。団体によってこだわっている部分が少しずつ違うので、多分お互いに「この部分では、我が方のやり方がよい」なんて、内心では思っているような感じがした。私などは無責任な「その他大勢」というか、「枯れ木も山の賑わい」に近いので、「まあ、それぞれ良いと思ってやっているんだから、それでいいんじゃない?」という気分で聞いていた。年をとることのメリットは、多少のことにはこだわらなくなってくることかもしれない。言い換えれば、いいかげんになってくるというか・・。子育てに対しても、「こうあるべき」なんてものは、ほとんどなくなってくる。良かれと思って頑張ったことが逆効果になったり、しまったと思っていたことが思わぬ効果をもたらしたりなど、子育てに関することには方程式はないようなものだ。いけないことがあるとするなら、「正しいこと」ばかりを強要することかもしれない。その意味では、あまり理論ばかりになってしまうことのほうが危険であろう。それに関わる私達のようなボランティアは、何よりも子どもや親と接することを楽しみ、そこから感じる喜びや感動から、忘れそうになる何かをお互いに気付きあうことだろうと思う。その原点さえ押えておけば、あとは自由に好きなようにやっていいのだろうと思うのだが、いい加減すぎるだろうか?
2004年02月12日
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私達の若い頃は、「キレル人」というのは誉め言葉だったし、今でも良い意味で使われることはもちろんある。しかし、最近は「キレル」と言えば感情を抑制できず危ない人というような意味で使われることが多い。いつの頃からこのような傾向になったのだろうと、ふと考えてしまった。最初に「あいつはキレやすいから危ない」という言葉を身近に聞いたのは、もう15年以上も前のことだった。その頃、仕事で高校生のボランティア活動の世話役のようなことをしていて、ある福祉イベントの最中のことであった。主に、市内の二つの高校の生徒達が一緒に協力していてくれたのだが、両校のリーダー的な男子生徒が、あまりうまくいっていなかった。しかし、お互いにそれなりに我慢したりしながらやっていたらしいが、ある出来事で片方の子が我慢できずにケンカになってしまった。このようなことは、大勢の高校生が何かやる時にはありうることなので、私は単なる調整に入ったのだが、一方の男子生徒はいわゆる「キレタ」のか、プイッと挨拶もせずに出て行ったのである。私は、そのうち冷静になったら戻ってくるだろうと思っていたのだが、他の高校生達は「あいつはキレやすいから、ほおっておくのは心配だ」と口々に言い、彼がキレた時の言動のあれこれを御注進してくれる。それを聞いているうちに私も多少不安になってきたのだが、「大丈夫だよ。彼は今日のことで、それほどのことにならないと思う」と作業を進めさせ、同僚にはこっそりと「事務所に物品をとりに行くついでに、車で探してみて」と頼んだ。すると簡単に近くの公園で見つかり、同僚はさりげなく「ちょうど良かった」などと彼を誘い、一緒に物を取りに行って戻って来たのだ。しかし、当人同志は当然バツが悪いので、別々の場所で行動してその日は無事に終了した。次の日、出て行ったほうの高校生が事務所を訪ねてきた。「昨日は、忙しい時に心配かけてすみません」と、謝りに来たのだ。私はその彼の行動と、仲間達が「キレやすい」という言葉とのギャップに戸惑った。もちろん、仲間達がそんなことを言っていたとは言えなので、「急に出て行ったから、みんなも心配していたんだよ」と伝えた。彼は神妙な顔で、「あのままあの場所にいたら、俺、どんなことするか分からなかったから・・」と言う。私は「偉いよ、ちゃんと自分の感情を押えられたじゃない。でも、今度出て行くときは、大人の誰かにちょっと耳打ちしてね」と言い、ちょうど誰かが差し入れてくれたお菓子を一緒に食べた後、彼はスッキリしたような顔で帰っていった。その会話の中で、彼は「○○さん(私のこと)には、絶対に迷惑かけられないと思った。だから、我慢できた」と言ってくれたのだ。私は特別に彼を可愛がっていたわけではない。彼がキレやすいことも知らなかった。しかし、彼らが一所懸命協力してくれることを、常に「ありがとう」とは言うようにしていた。ひょっとしたら、その私の感謝と信頼の言葉のシャワーが、彼のどこかでブレーキになっていたのかもしれない。さて「キレる人」と「キレやすい人」、言葉はとても似ているが、意味合いはかなり違う。言葉が同じということは、頭の中での「キレル」という構造も、かなり近いのではないだろうか。ほんの少しのコントロールができるかどうかが、プラスになるかマイナスになるかの差なのかもしれない。そのブレーキの作用に大きな役割を果たすのは、「人間のことば」のような気がしている。いわゆるキレル人の言葉が、時折鋭すぎてグサッとくることがある。そのような言葉のシャワーを浴びていると、心がだんだん鈍感になってくるような気がする。私自身、時々自分の言葉がきついように感じることがある。何か嫌なこと、納得できないことを語る時には、どうしてもそのようになりがちだ。暖かい言葉、感謝の言葉を、意識的に使いたいとふと思う。
2003年11月08日
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その日まで、あと2週間。今日は、最後の実行委員会であった。北海道各地から集まった実行委員が、それぞれの分科会や役割について、最後の打ち合わせをした。なにしろ北海道は広く、かつ実行委員は本州の人もいるので、全部の実行委員が顔をあわせるのは当日である。思いつく限りの調整や準備はしているけれど、当日は様々な思いもよらないことが起きて慌てるのではないかと、かなり不安である。一つの分科会の世話人代表の立場でもこのように不安なのだから、事務局を始めとした中心メンバーの気苦労は大変なものだろう。一日の会議を終了して帰宅すると、何だか疲れてしまって頭痛もする。全国からの参加者がそれぞれ満足していただけるようにと、今は祈るばかりである。
2003年07月27日
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