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にほんブログ村 「高見彰七がいきなり大手建設メーカと手を組んで、 大観音建立というビッグ・プロジェクトに携われたのはなぜか?」「高見彰七調査隊」の皆さん、謎は解けましたか?コメントでは、かなり良い御推理がされていたかと思います。それでは、謎の答えです。〇観音像の建つ場所について 愛知池は恵日山青峯山観音寺の土地の一部を 買収して造られた巨大な人工池です。 池の造成で観音寺の私有地が、池の中に小島として残りました。 しかし池の中の小島を私有地とするのは、 将来、池の拡張の支障となるため、 池の外に観音寺の管理地が移されました。 現在、観音像はこの移転地に建てられ、 小島は野鳥の巣となっています。〇なぜ観音像は建立されたのか? 調査隊の皆さんのコメントにもありましたが、 愛地池の造成はビッグプロジェクトでした。 その工事の際に事故で亡くなられた方がおられ、 その供養のために観音像が建てられることとなったそうです。〇なぜ観音像の作家として高見彰七氏が選ばれたのか? 昭和35年の愛知池の観音像建立の頃、 高見彰七氏のご自宅前には250体の観音像が並び、 観光バスが来るほど有名になっていました。 高見彰七氏は観音像の作家として、 愛知池近隣でも知られていました。 そのため観音寺を通じて、愛知池の犠牲者の供養のために 高見彰七氏が大観音像を「寄贈」されたとのことです。 観音像は発注されたのではなく、高見彰七氏の「寄贈」でした。〇高見彰七氏と建設メーカとの関連は? 高見彰七氏は観音像を寄贈し、建設メーカが設置施工しました。 高見彰七氏と建設メーカの間に、 特に関連があったわけではありません。若干、複雑でしたが、如何でしょうか。観音像は「寄贈」という点がポイントです。今後も「謎」に関しては推理形式を採ることがあると思います。謎解きをお楽しみください。【 バスクチーズケーキ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.23
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にほんブログ村 愛知県の愛知池にある大観音。この大観音は、私にとって大きな謎でした。作家 高見彰七、施工 鹿島建設㈱の大観音。昭和35年、仏像製作10年の農業が専門の彰七が、いきなり大手建設メーカと協業できたのはあまりに不自然です。如何にして、大観音建立のプロジェクトを任されたのか?大手建設メーカと、どの様な縁があったのか?考えるほど、謎が深まります。今回、この謎も解明できました。しかし、すぐに答えを示すのも、楽しみがないでしょう。みなさんも、「高見彰七調査隊」の一員として、ぜひこの謎を推理なさってください。推理のお題は、「高見彰七がいきなり大手建設メーカと手を組んで、 大観音建立というビッグ・プロジェクトに携われたのはなぜか?」です。答えは次回の記事で掲載します。【 冬のぶどう 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.20
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にほんブログ村 今回も民家敷地内の観音像を、撮影許可を頂いて紹介します。背景などはAI処理、トリミングしていますので、違和感がある箇所もあるかと思います。やや経年を感じさせる風化が進んでいます。お顔もややわかり難くなっています。高見彰七作品リンク集2「観世音菩薩像」にNo.30として登録します。リンク集2 (No.30) ・所在地: 豊田市 民家 ・製作年月: 不明 ・作家銘: なし ・特徴: 高さ105cm, 胸部幅30cm, 胸部厚さ20cmこの観音像には像の前面/背面の境界に、縦に明瞭なヒビ割れがあります。高見観音の製法は、1)前面,背面を別々に半割りの像として作り、2)その後、前面,背面を接合して一体化して立像としたということが、ご親族の情報から確認できました。観音像の観察から推定していた「半割り接合製法説」は正しかったことがわかりました。半割りであれば接合面を下にして、像を造形できます。一方で、接合面が弱く、ヒビ割れなどの劣化が進み易くなります。モルタルを使いコンクリート像を作ることは、一見、容易なようで、実際は難しいことがよくわかります。【 元祖 くず餅 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.18
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にほんブログ村 今回ご紹介する新発見の高見彰七作品は、重要な意味を持っています。民家の敷地内にありますので、詳細は省かせて頂きます。撮影許可などを頂いての画像掲載となります。まずはご覧ください。一見して高見観音とわかります。ただ服装の表現などが、多くの高見観音とは異なります。微笑みは少なめで、お顔も下膨れのふくよかなお顔ではありませんが、高見観音で見かける表現です。実はこの観音像、高見彰七作品であって、高見彰七作品ではありません。今までこの作風の観音像も含めて、私は高見彰七作品としてきました。しかしこれは、「高見正美」氏の作品です。高見正美氏は、彰七氏の御子息に当たります。高見彰七氏と正美氏の親子は、時に協同で作品の製作に携わった様です。今回ご紹介の観音像は、高見正美氏単独での作品例です。思えば高見観音を私が4分類に整理した時、第2分類の観音像の作風は一定ではなく、その理由に悩んでいました。もちろん製作活動での試行錯誤と捉えることはできますが、彰七氏と正美氏の両者の手が加わっていたということであれば、より納得ができます。【第2分類】 「高見彰七作品 第2分類」いずれにしても「高見彰七としていた人物はふたりいた」というのは、私にとっては衝撃の新事実でした。まずは従来通り、高見彰七作品リンク集2「観世音菩薩像」にNo.29として登録します。リンク集2 (No.29) ・所在地: 豊田市 民家 ・製作年月: 不明 ・作家銘: なし, 高見正美作品 ・特徴: 高さ120cm, 胸部幅25cm, 胸部厚さ15cm今後、リンク集を活用して、明らかに高見正美氏の作品と判明した作品があれば、その旨を表記したいと思います。次回はさらに新発見の作品の紹介をしつつ、また別の重要な情報をお伝えしたいと思います。【 福寿柿 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.15
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にほんブログ村 今回以降お伝えするのは、高見彰七のご親族3名の方からのヒアリング結果です。最も御詳しい彰七氏の御孫さんにたどり着くのにやや手間取りましたが、皆さん丁寧にご対応下さり、ヒアリング継続中です。まず、新情報1件目です。高見彰七の活動期間が判明しました。80歳で他界されましたが、79歳まで製作活動を続けていました。活動期間を年表で整理します。没年、昭和45年。製作活動は、昭和25年から44年の19年間。この期間に、あれほど多数の作品を製作されたわけです。しかも当初は木彫りの仏像を製作していましたので、コンクリート像の製作期間は更に短くなります。ここで奇妙なことに気付きます。没年以降に建立された観音像もありますが、これは移設でしょうか。実はそこには驚愕の新情報が隠されていました。そのお話は次回以降でお伝えします。【 かぼちゃ バウム 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.13
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にほんブログ村 驚愕の新情報の前に、高見彰七作品、新発見のご報告から。この作品は以前から確認していましたが、民家敷地内にあるため、許可を頂く関係で掲載が遅れました。大きく重そうな狸です。民家ゆえ、背景は一部AI処理しています。比較的状態は良さそうです。やや野性味があり、みよし市の大狐にも似ています。リンク集3 (No.7) ・所在地: 豊田市 民家 ・製作年月: 不明 ・作家銘: なし ・特徴: 象嵌あり ・寸法: 高さ 110cm神馬,稲荷大狐以外の動物は、初めての発見例でしょう。次回は、まず問題提起の新情報から。【 とんぼ玉 たぬき 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.11
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にほんブログ村 高見彰七について、幾つもの新情報が得られました。その中には、すべての前提をくつがえす、驚愕の新情報もあります。私自身、大混乱で、なにからお伝えすべきか迷います。情報を整理しつつ、まずは新発見の高見彰七作品からご紹介したいと思います。新発見の作品にも、皆さん驚かれることでしょう。そして新情報は、謎を解くことにもなりますが、さらなる混乱を生むことにもなります。次回以降の記事にご期待ください。【 ショコラクリスタル 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.09
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にほんブログ村 浅野祥雲と1歳違いで同世代だった高見彰七。それなのに知名度がある浅野祥雲に比べて、高見彰七が忘れ去られてしまったのはなぜでしょうか?むしろ、作家銘すら残さないコンクリート像作家が忘れられるのは自然なことだと私は思います。浅野祥雲の知名度の高さが特殊なのです。そこで、なぜ浅野祥雲の知名度が高いのかを考察したいと思います。以下はその理由と思われる点です。1)浅野祥雲の作品は、多色に塗装された作品が多い 多色に塗られた人物像は表情がユニークに見えます。 そのため、テレビ番組でも取り上げられました。 一方、今日残る高見彰七の観音像は大半が塗装が残っていません。2)浅野祥雲の作品は、まとまって観られるスポットがある 関ケ原ウォーランド、五色園、桃太郎神社などでは、 浅野祥雲の作品をまとまって観ることができる。 高見彰七の作品は基本、分散している。 妙楽寺の58体は廃棄を免れているにすぎない。3)大竹敏之氏の貢献が大きい 大竹敏之氏は浅野祥雲について詳細に調べ、 書籍を出版されています。 様々な浅野祥雲のPR活動を行い、さらに五色園の浅野祥雲作品の 定期的な再塗装活動もしています。 これらの活動は浅野祥雲の知名度向上に 大きく貢献していると思います。実は私も以前に、大竹敏之氏が説明役の五色園見学会に参加しています。その際に私は大竹敏之氏の著書を購入して、サインも頂いています。マニアックな見学会で参加者も限られていました。Xで私のコンクリート像関係の投稿に「いいね」を下さる方の中には、あの時の見学会の参加者もおられるのでは?と思ったりもしています。【 浅野祥雲大全 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.07
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にほんブログ村 高見彰七について色々とわかってきました。そこで一度、重要な事項を整理します。1)高見彰七は昭和25年頃から、夢に見た観音像を追って、 観音像の製作を開始した2)高見彰七は農家の人であり、プロの作家ではない3)昭和31年にはみよし市の大狐、昭和35年には愛知池の大観音など、 代表作と言える大型作品も製作している 「みよし市の大狐」 「愛知池の大観音」4)昭和36年には道路沿いに並ぶ250体の作品とともに、 当時71歳の高見彰七が全国誌で紹介される5)その後、昭和46年の昌福寺の観音像まで、 作家活動が確認されている 「昌福寺の観音像」6)道路沿いの250体の作品群は、平成2年頃に安全上の理由から撤去7)そのうち58体は妙楽寺に置かれている8)宮口神社の神馬、森下交差点の観音像など、 その後も作品の廃却が続いている9)多くの作品が各地に移設されて四散し、現在捜索中 現在まで約110点の作品が発見されているにすぎない10)長野県での作品の確認例もあり、作品の分布は愛知県に留まらない11)高見彰七は知名度が高いコンクリート像作家・浅野祥雲より 1歳年上の同世代の作家であったが、 今日ではほぼ完全に忘れられてしまった約20年間ほどの活動で、高見彰七は多くの作品を残しました。一時期は高い知名度があった高見彰七ですが、その後、急速に人々の記憶から消えました。人の記憶の儚さには驚くばかりです。【 大須 栗りん 栗三秋 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.04
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にほんブログ村 愛知県 鞍ヶ池公園東の矢並町にある八柱神社。その八柱神社の神馬の続きです。この神馬には台座がありません。しかし銘板があります。昭和29年と読めます。その横に書かれているのは、奉納者のお名前です。神馬のお顔、たてがみ、尾、脚の造形や大きさから、高見彰七作品で間違いないと思います。調査中、地区の方にお会いしました。神馬は昨年(2023年)に再塗装したばかりで、まさにお会いした方が再塗装されたそうです。地区の方には製作年などのご確認をお願いしました。少し時間はかかるものの、町内会の折に記録を確認くださるそうです。記録でも製作年が昭和29年であれば、製作年を登録します。その場合は、みよし市の大狐像より古く、製作年が判明したものでは、最古の高見彰七作品となります。(みよし市の大狐像は昭和31年2月建立)地区の方には、永くこの神馬を保存くださるようにお願いしました。また、かつて道路沿いにあった250体の高見彰七作品は地区の方もご存知で、当時は有名だったとのことです。ところで、この矢並八柱神社の神馬を見ていて、あらためて先日の茨城県 八溝山の神馬がよく似ていると感じました。八溝山の神馬についても、もう少し検討したいと思います。【 レゴ 名馬8体セット 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.11.02
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