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「僕の姉ちゃん」吉田善子監督・脚本 黒木華(ちはる)と杉野遥亮(順平)との、両親が海外赴任している間のいっときの二人暮らしの話。原作益田ミリ。4コママンガらしい、クスッと笑えるエピソードを重ねながらも、今時の若人の本音と頑張りが実によく見えるシリーズ。 黒木華の「弟よ‥‥」から始まる上から目線の説諭が的を得ていてクスクスしてしまう。順平のいじられキャラが、またハマってる。 あっという間に10話(約5時間)を観てしまった。 (解説) 年の離れた姉弟が束の間の二人暮らしをする日々を描いた益田ミリの人気漫画「僕の姉ちゃん」を、テレビ東京にて実写ドラマ化! 原作は、雑誌『anan』で長期連載中の「僕の姉ちゃん」(マガジンハウス刊)。姉・白井ちはるを黒木華、弟・白井順平を杉野遥亮演じます。追加キャストとして久保田紗友、若林拓也、平岩紙、渡辺大知、遊屋慎太郎、片桐仁、監督・脚本を吉田善子、オープニングテーマにハンバート ハンバートの「恋の顛末」、エンディングテーマにOKAMOTO’Sの「Sprite」が決定したことは既報の通りですが、本日9月24日(金)から!ついにAmazon Prime Videoにて、全10話一挙配信します! 先日解禁した予告動画だけでも反響の大きかった本作。本編では、黒木華演じる姉・ちはると、杉野遥亮演じる弟・順平の、かわいくてやさしい世界を存分にお楽しみください!姉・ちはるの数々の名言もきっと心に刺さるはず!思っていても普段は口に出せないような気持ちを、辛口のちはるが徹底的に代弁してくれます。 そして、映画や舞台で主演を飾る豪華な共演者にも注目!これまで解禁したキャストに加え、第33回サンダンス映画祭短編部門グランプリを受賞した『そうして私たちはプールに金魚を、』やWOWOW『FM999 999WOMEN'S SONGS』での主演が記憶に新しい湯川ひな、映画「あみこ」で主演を務め、数々の作品で独特の存在感を放つ女優の春原愛良、所属する劇団「阿佐ヶ谷スパイダース」の「桜姫」で主演を飾り、日本舞踊家の家元として今年2月に三代目藤間紫を襲名、女優と日本舞踊家の二足のわらじで活躍中の藤間爽子も出演しています。 その他にも一つ一つ考え抜かれた衣装に、美術に、音楽…隅々まで作りこまれている『僕の姉ちゃん』。一度入り込むと抜け出せない素敵な世界が広がっています。読んだ人の心を掴んで離さない原作と、実力派揃いのキャスト、作りこまれた演出が生み出す『僕の姉ちゃん』をお楽しみください! 2021年10月12日 Amazonプライム ★★★★
2021年10月23日
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「座頭市物語」 ある思惑があって、早いけどこの前観た映画をこの作品だけ早く紹介する。 傑作。1962年作品。 既に座頭市の腕は知れ渡っていて、食客として賭場に入り、そして去ってゆくという形は出来上がっている。全ての渡世者作品(女に惚れられて振って去ってゆくことも)の形を踏襲しながらも、隅々まで神経の行き渡った「心理戦」が素晴らしい。座頭市が盲目なので、一段とピリピリとした画面になっている。なかなか見せなくてやっと披露する最初の居合抜きは、正に目にも止まらない。どう撮影したのだろう。そしてロケかセットかわからないけれども、リアルな美術も素晴らしい。当時の時代劇スタッフの底力が判る映像。 おたねが突然座頭市に告白するのは、現代にリライトするのならばもう少し説明が必要だけど、元はヤクザの兄貴の女だったのだからあり得ると見なければならない。一切濡れ場はないが、月夜の帰り道で座頭市に顔を触らせて微かに唇に触れさせるのは、かなりの熟練した女と見なくてはならない。実際かなりエロい場面である。それを清純派とも言えないけれどもそそとした美人の万里昌代にやらせる監督の強かさ(おたねは続編・4作目でも続投する‥‥万里昌代は68年を最後に銀幕から引退している)。ヤクザの出入りで、庶民が迷惑を被る、どちらのヤクザも、食客を利用する事しか考えていないなど、ヤクザに対する見方が厳しい、むしろコレがテーマだとも思える。「めくら」という単語が30-40回は出てくる脚本で、もはやテレビでは決して放映できないが、もっと知られるべき傑作である。 (解説) 勝新太郎が盲目のヤクザを演じて大ヒットし、合計26作品が製作された「座頭市」シリーズの記念すべき第一弾。原作は子母沢寛の随筆集『ふところ手帖』に収録された短編『座頭市物語』で、これを犬塚稔が脚色し三隅研次が監督した。勝新太郎と天知茂の名演技、伊福部昭の音楽など、見どころが満載。 (ストーリー) 貸元の助五郎は居合抜きの腕前を見込み、坊主で盲目の座頭市を食客として迎え入れた。市は結核に冒された平手造酒という浪人と知り合うが、彼は助五郎のライバル笹川親分の食客となってしまう。二人は酒を酌み交わしながら、ヤクザの喧嘩で斬り合うのはごめんだなどと話した。助五郎たちと笹川一家の緊張が高まる中、造酒が血を吐いて倒れてしまう。 2021年9月14日 TOHOシネマズ岡南午前10時の映画祭 ★★★★★
2021年09月19日
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今月の映画評「風の電話」 夏は亡き人を思い出す季節です。人はどうやって「喪失感」と付き合っていくのだろうか。 東日本大震災のため9歳の時に岩手県大槌町で両親と弟を亡くし、広島に移り住んでいた高校生のハル(モトーラ世理奈)が、叔母の入院をきっかけに東北に向けて旅します。 旅の終わりに、ハルは「風の電話」の存在を知ります。線はどこにも繋がってないけど、亡くなった人と話ができる電話があるそうなのです。これは大槌町にある実在の電話で、これまで三万人もの人が訪れているそうです。全然不思議なことじゃないと私は思います。古来より、我が国には挽歌の伝統があります。鳥や風に託して亡くなった人に言葉を送ってきました。ハルは両親に向けて長い電話をしました。実際はモトーラ世利理奈のアドリブ、一発撮りの長回しだったそうです。 女子高校生のヒッチハイクなんて荒唐無稽だとか、偶然が重なりすぎるとか、そういう批判はおそらく重々承知の話だったと思います。不思議な話の中に真実がある。厄災を背負って旅に出て、偶然の出会いの中で少女は大事なことに気がつきます。 生きていりゃハラが減る。生きていなけれゃ思い出す人がいなくなる。生きているから、支え合う。そういうことを、少女は徐々に納得するのです。 三浦友和、西島秀俊など、達者な役者が喪失を抱えたままの男として出てきました。特に、福島の年寄の怨念・情念をそのまま演ったかのような西田敏行の場面は圧巻でした。 (2020年諏訪敦彦監督作品、レンタル可能)
2021年08月13日
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今月の映画評「糸」 歌は世に連れ、世は歌に連れ。 一世を風靡した歌でなくても、ふとした拍子に思い出す歌が、その人の人生を癒し、励まし、前を向かせることがあります。 平成時代が始まった時に生まれた蓮(菅田将暉)は、13歳の時に虐待で家出していた葵(小松菜奈)を助けるために北海道の町を出ようとしますが、1日で警察に捕まってしまいます。その時に葵の手を離したことが、ずっと蓮の後悔になり、青年になって再会した時にはぎこちない別れをするのです。そのあと、2人の運命は別々に進み、リーマンショックや東日本大地震などを挟みながら展開していきます。 「なぜ めぐり逢うのかを私たちは なにも知らない/いつ めぐり逢うのかを私たちは いつも知らない」中島みゆき「糸」の歌詞がラストを予感させます。大切なのは物語中でこの歌と、もう一つ中島みゆき「ファイト」が2回繰り返されるのです。歌は、時と場所を得て繰り返し繰り返し歌われることで、初めて価値を持ちます。 特に、葵が2回目の「糸」を想いもかけない場所で聴きながら、泣きながらカツ丼を掻っ込む場面は最高です。また、重要なセリフと行動も、この作品中、時と場面を変えて3-4回繰り返されます。そうやって想いは繋がってゆく。 時にはサイコパス、時には熱血教師を演じて来た菅田将暉が、今回は涙もろくて誠実な青年を違和感なく演じました。小松菜奈の成長著しい演技も見ものです。(2020年瀬々敬久監督作品、レンタル可能)
2021年07月18日
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「鬼平犯科帳」令和3年6月9日サンテレビ観賞 先日たまたま観たら、「密偵たちの宴」だった。 主要登場人物総出、それぞれの役割が全部出た、作品のテーマ自体が1番出た屈指の傑作、そして相模の彦十が江戸家猫八、大滝の五郎蔵が綿引勝彦というもう2度と観れない至福の1時間。 「急ぎ働」をきちんとお縄にして、なおかつ業つく金貸に密偵たちがあっと言わせ(どうやって金蔵の鍵を手に入れたのか、スッカリ忘れていた)、最後は鬼平が総てを掻っ攫ってゆくラスト。密偵たちのみんなの一人一人の「お頭は恐ろしい」と言う表情が、もう2度と観れないのかと思うと、ホントに愛おしい一編だった。 因みに 鬼平犯科帳DVDコレクション 36号 (おみよは見た、密偵たちの宴) [分冊百科] (DVD付) という商品があって、Amazonで販売されている。 蛇足だけれども、ラストはこうだ。 平蔵(中村吉右衛門)はそのまま帰るかと思いきや、「あ、そういえば、五郎蔵、鍵は元のところに返しておけよ」と言って部屋を出る。その間は、やはり映像のものです。確か、相模の彦十(江戸家猫八)を目を丸くし、大滝の五郎蔵(綿引勝彦)はむっつり黙り込み、小房の粂八(蟹江敬三)は口をぽかんと空け、伊三次(三浦浩一)は向こうを向いて黙り込み、おまさ(梶芽衣子)は「たから言わんこっちやない」という表情。そのあと宴は、「潰れるまで飲もう」とやけ酒になる。そのあと、1人江戸の夜の道を帰る平蔵がふと振り返って、お茶目に舌を出したところで終わりです。
2021年06月13日
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「生きているだけで、愛」 ネトモの紹介。 「個人的にはあちらの方が、最優秀メンヘラー賞Death!(笑)」 完全躁鬱で、完全病気なんで、早く治療しろよ、というのが先になって入り込めなかった。 趣里が完全スッポンポンになって力演しているのだけど、菅田将暉が器用に受け身演技しているのだけど、これよりは「愛がなんだ」の方が身近なだけに良かったな。 (解説) 生きてるだけで、ほんと疲れる。鬱が招く過眠症のせいで引きこもり状態の寧子と、出版社でゴシップ記事の執筆に明け暮れながら寧子との同棲を続けている津奈木。そこへ津奈木の元カノが現れたことから、寧子は外の世界と関わらざるを得なくなり、二人の関係にも変化が訪れるが……。 原作は2006年に劇作家・小説家の本谷有希子が発表した同名小説。過剰な自意識に振り回されて自分自身すらコントロールできず、現実との折り合いが上手くつけられない女性の葛藤を疾走感あふれる文体でコミカルに描き、新たな恋愛小説の道を切り開いた。映画ではそんな原作のエッセンスを受け継ぎつつ、男性である津奈木のキャラクターを独自に膨らませるなどして、より二人の関係性にフォーカス。リアルとバーチャルが混在する社会で、他者とのつながりを求める現代の若者たちの姿を、エモーショナルなラブストーリーで綴る。 自分にも他人にも嘘がつけず、真っ直ぐすぎるゆえにエキセントリックな言動に走ってしまうヒロインの寧子には、「ブラックペアン」での好演も記憶に新しい趣里。舞台では圧倒的なオーラを発し、テレビドラマでも際立って爪痕を残す彼女が、自身のキャリアの代名詞になるであろう人物に命を吹き込んでスクリーンに鮮烈に焼きつけた。繊細な危うさと感情豊かな力強さを体現した演技力はまさに圧巻で唯一無二のものである。寧子の相手、津奈木役には今年第41回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞に輝き、名実ともに若手俳優の頂点に上り詰めた菅田将暉。本作の甲斐真樹プロデューサーとは同映画賞で新人俳優賞を受賞した『共喰い』以来の再タッグとなるが、閉ざされた心情と生き様を抑制の効いた受けの芝居に滲ませ、優しさと無関心がない交ぜになった男の肖像を等身大の存在感で魅せるという進化を披露している。また、その元・恋人で津奈木を取り戻そうとする安堂に「ホリデイラブ」でのサレ妻キャラも話題になった仲里依紗、寧子が働くカフェバーの店長夫妻に田中哲司、西田尚美、津奈木の上司に松重豊、同僚には『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』の石橋静河らが扮し、二人を取り巻く奇妙な「普通」を形作る。 今の日本映画界の流れに一発のカウンターを仕掛ける本作のメガホンを取ったのは、これが劇場長編映画デビュー作となる関根光才。CMやMVディレクターとして培った映像センスをともないつつ、フィルムの質感にこだわり、生身の人間に宿る心のなまめかしさとざらつきを16mmのカメラで撮影。初監督ならではの初々しい感性と確かなビジョンで、儚くも熱い愛の美しさをとらえ、処女作としてパーフェクトなスタートを飾った。さらに世武裕子によるエンディング・テーマ「1/5000」は詩人の御徒町凧も共に作詞を手がけ、作品の余韻をじんわりと彩る。 愛することにも愛されることにも不器用で関係が成就する前に自ら壊してしまうような女。他人と距離を保つことで傷つきも傷つけもしないけれどすべてをあきらめているような男。完全に破綻して見える二人が一緒にいるのは、歪な自分を受けとめてくれる相手がお互いに必要だったから。その内側に透けて見えるのは、私という存在を誰かにわかって欲しい、誰かとつながりたいという強烈な叫びだ。それを愛と呼ぶならば、まず自分で自分を受けとめなければならない。生きている限り、自分と別れることはできないのなら、せめて一瞬でも分かり合えたと思える瞬間を信じたい。だからどうかありのまま愛することを許してほしい、「あなた」を、そして「私」自身を。 2021年5月19日Amazonプライム・ビデオ視聴 「天使のいる図書館」 小芝風花の2度目の主演映画ではあるが、残念ながら大和高田市、葛城市、広陵市の観光映画のようになってしまった。まぁ某映画のように酷くはないが、ご都合主義と極端な設定と安易なエンドで、どうかなあと思う。香川京子の最後の出演映画かもしれない。 見どころ 『魔女の宅急便』などの小芝風花を主演に迎え、奈良県葛城に実在する図書館を舞台に描くハートフルな人間ドラマ。赴任したばかりの新人司書が、地域住民との交流を通して風土や土地の歴史を体得しながら人間として一回り大きくなっていく姿を映す。『桜ノ雨』などのウエダアツシ監督がメガホンを取り、脚本を『百瀬、こっちを向いて。』などの狗飼恭子が担当。悠久の歴史を刻む里の春夏秋冬の風景に見とれる。 あらすじ 新卒のさくら(小芝風花)は、奈良県葛城にある図書館の司書として働き始めるが、毎日が緊張の連続だった。ある日、彼女は図書館にやって来た利用者と一緒に探し物をすることになり、自分が勤める地区の隅々まで足を延ばすようになる。やがてさくらはたくさんの地域の人々と知り合い、これまで知らなかった地元の魅力に気付いていく。 2021年5月23日Amazonプライム・ビデオ視聴 「火口のふたり」 荒井晴彦節炸裂の一作。 確かに、久しぶりに会った2人が五日間ヤルだけのお話である。 その間に、2人の人生観と行き違いもわかるし、集団的自衛権やら秘密保護法やら原発やら変な単語も使われる。 でも、全然前衛的でもなければわかりにくくもない。 丁寧に男女のキビを扱った普通の作品だったと思う。 富士山が爆発したら戦争みたいになる、という賢治の感想は、コロナ禍の現在同じようになっているので、ほとんど2年後の日本を予言したような作品でもある。このような日本になったので、2人は、秋田の地できっと2人で暮らしてることだろう。 瀧内公美の魅力満載。柄本佑も上手い。上手いなあ、2人芝居で上手く作品に昇華する。こういう映画もあるんだ。 【イントロダクション】 直木賞作家・白石一文 初の映画化 本作は、09年「この胸に深々と突き刺さる矢を抜け」で山本周五郎賞、10年「ほかならぬ人へ」で直木賞を受賞し、幅広い世代から絶大な支持を得る白石一文による著作の初の映画化となる。 映画化を快諾したという白石氏は、「『赫い髪の女』や『遠雷』の頃から荒井晴彦さんの脚本に魅せられてきた者のひとりとして、その荒井さんから映画化の話をいただき、一も二もなくすべてをお任せすることにした。 しかも今回は自らメガホンを握って下さるという。原作者としてこれに優る光栄はない映画界の伝説ともいうべき荒井晴彦さんの手で、その光がよりなまなましく、妖しく観る者の心を照らし、身の内に眠っていた「おとこ」や「おんな」が強く喚起されんことを切に願っている。」と語り、映画化へ向けて期待の言葉を寄せている。 『ヴァイブレータ』『共喰い』『海を感じる時』日本を代表する脚本家・荒井晴彦監督作 数々の作品で、男と女のエロティシズムを表現し、キネマ旬報脚本賞に5度輝く、日本を代表する脚本家・荒井晴彦。本作は、『身も心も』、『この国の空』に続き、脚本・監督に挑んだ渾身の一作。「死とエロスが匂いたち、相米慎二監督も惚れ込んだという秋田の西馬音内盆踊りと、男女の恋を絡めた映画を作りたかった」と語り、物語の舞台を福岡から秋田へ変更し、全編秋田ロケを敢行した。また、写真家・野村佐紀子によるモノクロームの写真の数々によって、主人公のふたりの過去を鮮やかに蘇り、映画ならではの抒情的な世界観を作り上げることに成功した。さらに、登場人物たちの感情を代弁するかのような下田逸郎によるメロディアスな楽曲が、男と女の深淵へと迫る物語へと見事に昇華させている。 柄本佑・瀧内公美 ふたりだけの日常、ふたりだけの会話、ふたりの身体の言い分 主演を務めたのは、『きみの鳥はうたえる』などで数々の賞を受賞し、今日本映画界で欠かせない存在となった実力派俳優・柄本佑と、廣木隆一監督の『彼女の人生は間違いじゃない』での演技が評価され、活躍の場を広げている新鋭・瀧内公美。出演者はこの2人のみ。数年ぶりの再会をきっかけに、抑えきれない衝動の深みにはまっていく危うい関係を、大胆かつ濃密に演じきった。 他愛のない会話、食事、セックスを繰り返し、「身体の言い分」に身を委ねるふたりの日常の中の性愛。 「世界が終わるとき、誰と何をして過ごすか?」という究極の問いを、観る者に突きつける衝撃作が誕生した。 【物語】 十日後に結婚式を控えた直子は、故郷の秋田に帰省した昔の恋人・賢治と久しぶりの再会を果たす。 新しい生活のため片づけていた荷物の中から直子が取り出した1冊のアルバム。 そこには一糸纏わぬふたりの姿が、モノクロームの写真に映し出されていた。 蘇ってくるのは、ただ欲望のままに生きていた青春の日々。 「今夜だけ、あの頃に戻ってみない?」 直子の婚約者が戻るまでの五日間。 身体に刻まれた快楽の記憶と葛藤の果てに、ふたりが辿り着いた先は。 【クレジット】 出演 柄本佑 瀧内公美 原作 白石一文「火口のふたり」(河出文庫刊) 脚本・監督 荒井晴彦 音楽 下田逸郎 写真野村佐紀子 絵蜷川みほ タイトル町口覚 特別協力あきた十文字映画祭実行委員会 よこてフィルムコミッション 秋田フィルムコミッション研究会 2021年5月21日Amazonプライム・ビデオ観賞
2021年05月28日
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「ワンナイト・カップル」(韓国2016) 思い詰めたら突き進むタイプの女の子と、考えすぎて逃げてしまう男の子の機微を、思った以上に丁寧に描いていた。 ハン・イェリの存在感が良い。こんな娘いるかもしれないと思わせる。 見どころ 慰めあうだけの関係がいつしかお互い気になる存在になっていく、そんな心の変化に胸がときめく。純愛とエロティックが同居したテンポの良い展開で、恋の素晴らしさを実感。 ストーリー 元恋人の結婚式に出席したジョンフンとシフ。失恋の痛みをわかちあう2人は、酒に酔った勢いで一夜を共に過ごしてしまう。そしてシフは、コーヒークーポン券のスタンプを貯めるまでこの関係を続けようと提案。恋愛に疲れた2人の不思議な交際が始まった。 キャスト・スタッフ 出演 ユン・ゲサン ハン・イェリ パク・ビョンウン パク・ヒョジュ チョン・スヨン 監督 ハ・ギホ 脚本 ハ・ギホ 2021年4月7日 Amazon prime ★★★★ 「一度死んでみた」 佐藤健、妻夫木聡、志尊淳、古田新太、竹中直人、池田エライザ、野口聡一さんなどのエキストラ出演。真鍋かおり、柄本時生、西野七瀬、などの脇役出演。かなりの遊びが凄い。ちゃんと伏線回収しているし。 でも、話自体はあまりにも定番。残念ながら、傑作にはなり得ていない。 【キャスト】 広瀬すず 吉沢 亮 堤 真一 リリー・フランキー 小澤征悦 嶋田久作 木村多江 松田翔太 加藤 諒 でんでん / 柄本時生 前野朋哉 清水 伸 西野七瀬 城田 優 原 日出子 真壁刀義 本間朋晃 / 野口聡一(JAXA宇宙飛行士) 佐藤 健 / 池田エライザ 志尊 淳 / 古田新太 大友康平 竹中直人 妻夫木 聡 【スタッフ】 監督:浜崎慎治 脚本:澤本嘉光 音楽:ヒャダイン 2020年作品 2021年5月12日Amazonプライム・ビデオ視聴 「ファブル」 佐藤浩一が「普通の生活をさせてみて、腕が落ちたらそのまま生かし普通に馴染ませよう、人を殺したならば処分する。それが俺の責任だ」と、本心をあそこでいうか? 続編では、その設定はどうなるんだろ。 そもそも、ファブルはどこから拾ってきた子供なのか? 【キャスト】 岡田准一 木村文乃 山本美月 福士蒼汰 柳楽優弥 向井理 木村了 井之脇海 藤森慎吾(オリエンタルラジオ) 宮川大輔 佐藤二朗 光石研 / 安田顕 / 佐藤浩市 【スタッフ】 原作:南勝久「ザ・ファブル」(講談社「ヤングマガジン」連載) 監督:江口カン 脚本:渡辺雄介 音楽:グランドファンク 主題歌:レディー・ガガ「ボーン・ディス・ウェイ」(ユニバーサル ミュージック) 2019年作品 2021年5月12日Amazonプライム・ビデオ鑑賞 「愛がなんだ」 今1番注目している今泉力哉監督2018年作品。 恋愛依存症?の岸井ゆきのを主演に、ダメ男の成田凌、彼が恋するガサツ女の江口のりこ、岸井の親友でいつまでも男をパシリとして扱い恋人としない深川麻衣、そしてパシリであることに満足している、ある意味岸井の合わせ鏡の役割を持ち、ラストで変貌する若葉竜也。 3組5人のメンヘラ恋愛模様が、ある意味とても痛い。 「ホントに1番愛していたのは自分でした」というわかりやすいラストにしていない。しかも、はっきりしたラストにもしていない。 あゝこんな恋愛しかできない女の子や男いるよね、なかなかでした。 2021年5月13日Amazonプライム・ビデオ視聴
2021年05月22日
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長い前振りをします。 毎月某労組機関紙に映画評を連載している。いつもは締め切り間際(時には締め切り過ぎて)でないと完成しないのに、下に載せた映画評は先週初めになんと3週間前に書いた。相当不安だったので、コレでわかるでしょうか?とお伺いを立てた。編集長は40代なので理解してくれると思いきや「エヴァは一切観てないのもあるけど、何書いているのかさっぱりわかりません」と、初めて掲載がバツになった。そうか、ロスジェネ世代、皆んながエヴァを一度ぐらい見たわけではないのだ。という当たり前のことを、私は勘違いしているのを悟った。もう1000文字貰っても、エヴァのストーリー・世界観を説明する自信は私にはないので、粛々と掲載は諦めた。 つまり、下の映画評は幻の映画評なのです。でも個人的にお蔵入りは悔しいので、ここに発表します。実は他のSNSにもちょこちょこ公表している。そこの反応は芳しくない。私は密かに「わからなくても、雰囲気だけは察して、言いたいことは少しは理解してくれるのでは?」と思っていたが、どうやら「今年のマイベスト5入間違いなしの傑作」は、いつもの1人相撲で終わりそうだ。 何故今回こんなに公表を急いでいるのかというと、「世の中のエヴァ評では、何処にも指摘していないことを私が発見した!!」と思ったからである。誰かに言われる前に何処かに発信したかったからである。それは映画評の最終段落のことである。 映画を観たらわかるのであるが、「おまじない」という言葉は、前半部分でさりげなく「何回も」使われている。 「のろい」から「まじない」へ エヴァにかけられた様々な呪い(のろい)は、 「さよなら」という「お呪い(おまじない)」によって、今回見事なエンディングを迎えた。 庵野監督は8年間も脚本を検討してきた。過去「槍によってやり直す」というダジャレ的な台詞さえも大きな意味を持って使ってきた。今回も「シンジを信じる」という大切な台詞でダジャレを使っている。前半部分の「おまじない」という台詞は、あの場面以上の意味を持っていたはずである。 ダラダラと前振りでした(ここまでで約900字)。あと1000字近くの映画評は訂正せず、以下の通りです。 映画評「シン・エヴァンゲリオン劇場版」 現在公開中の「シン・エヴァンゲリオン」を映画館で観ようという提案です。理由は、今年の興行収入一位を獲得するかも知れない作品だからでも、映画館の迫力はテレビ画面では味わえないからでもない。もちろん、そういう面もあるけれども、皆さんに「時代」を感じてもらいたいからです。映画が終わった後に、観客の人々の年齢、表情を観て欲しい。 深夜テレビでアニメの再放送を観て以来、約25年の付き合いの作品にやっと終止符が打たれました。私の世代で夢中になった人は多くはなく、おそらく30代から40代までが第一世代であろうと思う。それはそのまま、就職超氷河期の失われた20年を体験したロスジェネ世代と被ります。インターネットが進み、世の中はどんどん便利になっていくのに、社会格差は広がっていった時代です。 「エヴァ」の世界観とストーリーを説明するのは残念ながら無理です。出来うることならば、過去の劇場版5作を観てから臨んで欲しいけれども無理ですよね。最初の3分41秒で新劇場版3作のダイジェストがあるので、台詞だけでなく映像でその雰囲気を味わってください。今回のお話は最終場面以外は極めて常識の範囲内のストーリーなので、ほぼついていけるように作られています。なんとかなると思います。皆さんなら。 前半は、東日本大震災で被災した村と見紛うような「立ち直りつつある日本」が描かれます。後半は極限までAI化された世界の究極「バトル」が描かれます(途中「ATフィールド」とか「リリス」とかいろいろややこしい用語が頻出しますが、雰囲気で押し切ってください)。その後、碇ゲンドウ博士と、その息子碇シンジの物語に集約していくラストは、かなりわかりにくいです。でもファンはスッキリすると思います。 過去、最初の劇場版ラストを観て、「こんな大風呂敷を敷いて、結局1人の個人のコンプレックスが世界を滅すのかよ!」とかなり腹が立ちました。それも、今回はいろいろ回収されます。 「シン」は、「真」でもあり、「深」でもあり、「新世紀」でもあり、「死んじゃった、エヴァンゲリオン」でした。これが、「シン・ゴジラ」を経た監督の「進化」なのだと思う。 「さよなら全てのエヴァンゲリオン」 エヴァに夢中になった人々は、厨二病という言葉も産み、そしてエヴァの呪い(のろい)に少なからず囚われてきました。けれども知ってる?呪いって「まじない」とも読むんだよ。そうなんだ、最終話は「さよならというおまじない」の物語だったんだ、と私は腹落ちしました。 (2021年鹿野秀明監督作品・公開中)
2021年03月22日
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「殺さない彼と死なない彼女」 家族で楽しめるお正月映画を去年の作品で探したのですが、見つかりませんでした。そこで、我が郷土が生んだ岡山の奇跡、桜井日奈子さんの最高傑作を紹介したいと思います。 ホントは観てもらいたい作品(「ジョーカー」「存在のない子供たち」「僕たちは希望という名の列車に乗った」)もないわけではないのですが、全部暗いんです。でも、これは日奈子ちゃんが「死にたい、死にたい」と言っている割には明るい作品です。おばあちゃんも子どもも、楽しめます。 私事ですが、職業訓練学校に通っていた頃、同級生で中学校出のヤンチャくんが、挨拶のように「死ね」とか「マジ殺す」という言葉を発していてビックリしたことがあります。この映画の主人公鹿野なな(桜井日奈子)も、リストカットを繰り返し「死にたい」が口癖の高校生です。ひょんなことから付き合うことになった小坂れい(間宮祥太朗)は、挨拶のように「死ね」と言います。ゲーム世代の子供たちには、こういう言葉が日常語になっているんですね。お孫さんを持っている方、そうなんですよ! この他に、あと二組の高校生が登場しますが、彼らの話が並行的に進んでいきます。このうち大和撫子(箭内夢菜)は八千代(ゆうたろう)に、高校入学時から10数回「好き!」という一言告白を繰り返すけれど、振られるのも繰り返します。もう一組の地味子(恒松祐里)ときゃぴ子(堀田真由)という、名前通りの地味系と発展系の高校生の実態も、ゆるゆるとしたユーモアで描かれます。 それにしても、彼らは「死ぬ」とか「好き」とか、語彙が少なすぎると、観ていてイライラしてきます。もっと本をよめ!とオジサンは言いたい。 でも、そんな時に大きな事件が起きます。そして、3組の男女の物語の相関関係も見えてくるという仕掛けです。やがて「深い言葉」の連鎖が起こるのです。ユーモア作品から一転涙涙の感動作になるという、稀有な作品でした。大人には高校生の単純な言葉の裏の気持ちを、若者には「生」の大切さを緩やかに伝える佳作です。 桜井日奈子の棒読み台詞は、この作品に関しては、役柄上の必然だと思います。温かく来年も若者の未来を見守りたいと思うのです。 (2019年小林啓一監督作品レンタル可能)
2020年12月22日
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昨日良い記事を見つけた。 映画つくりは総合芸術である。 そのことをまざまざと思わせる記事だった。 撮影監督にここまでフォーカスするインタビューは、映画専門雑誌にはあったのかも知れないけど、私は読んだことなかった。 どんなふうにして男前に、一人前になっていくのか。キチンと書いていた。 特に、「単騎、千里を走る」の撮影をしていた時の高倉健のエピソードが良い。 「木村大作は日本を代表する撮影監督だから、助手も一流じゃないと駄目なんだ」その言葉が、1人の助手を一人前の撮影監督に変えた。 ホントに高倉健は、表も裏もなく、誰にでも、「誠実に」接していたのだ。 作品で評価される俳優は多くいる。 けれども、必ず作品と共に人間として評価される俳優はほとんどいない。そういう俳優を映画スターというのである。 映画と働く 第5回 撮影監督:山田康介「作品至上主義、作品がよくなるのならなんでもいい」 https://news.yahoo.co.jp/articles/8d040bb1e84adbde005bae70d94fb32b9ea76e00 山田康介さん 1本の映画が作られ、観客のもとに届けられる過程には、監督やキャストだけでなくさまざまな業種のプロフェッショナルが関わっている。連載コラム「映画と働く」では、映画業界で働く人に話を聞き、その仕事に懸ける思いやこだわりを紐解いていく。 第5回となる今回は「神様のカルテ」シリーズや「僕等がいた」前後編、「シン・ゴジラ」に参加した撮影監督・山田康介の取材を実施した。「セブン」に衝撃を受けて業界を目指し、さまざまな出会いを経てキャリアを積んでいった山田。雪山での木村大作との逸話や、高倉健から教えてもらったという“心得”を明かしたほか、山田の相棒的機材・ステディカムを扱い始めた経緯も語ってくれた。 取材・文 / 田尻和花 題字イラスト / 徳永明子 ■ 「なんでできないんだ」と悔し泣きした日々 ──まず、カメラマンを志したきっかけを教えていただけますか? 祖父の趣味だったスチルカメラを借りて撮ったり、Hi8 (ハイエイト)という家庭用ビデオカメラで弟を主役にドラマを撮ったりしたのが原点ですね。ほかにも富士山からの景色を祖父に見せようとカメラを持って登山したり。自発的に映像的なことをやろうと思ったのは中学生ぐらいが最初です。 ──映画はもともとお好きだったんですか? 家の目の前がレンタルビデオ屋さんだったんです。両親が共働きだったので、夏休みは「子供たちだけで暇つぶしにビデオでも借りなさい」って言われていて。小学校1年生くらいからジャッキー・チェンが大好きで、出演作を観るようになりました。毎回ジャッキー・チェンの映画を借りに行ってずっと観ていましたね。もともとアクション映画や香港映画が好きで、「男たちの挽歌」に中学生のときすごくはまったんですよ。男くさい感じがすごくかっこよかったですね。 ──銃撃戦もすごいですよね。 そう、どんだけ弾が出るんだよっていう(笑)。それで高校生になるとわりと劇場に観に行くようになって、大きいスクリーンで観る醍醐味を味わいました。劇場で高校3年生のときに観た「セブン」に衝撃を受けたんです。撮影監督が意図して作った世界観というものを感じて、撮影を志したいと思うようになりました。 ──高校卒業後には日本映画学校(※現・日本映画大学)に入られましたね。 進路を迷っていて、でも漠然と映画の仕事をしたいなと思っていました。日本大学芸術学部の映画学科や大阪芸術大学のようなところに行くのかなと考えていたときに、(福岡県の)久留米の映画館に日本映画学校のパンフレットがあるのを見つけて。今村昌平さんが創始者だというのもあって、気になったんです。青春18きっぷで福岡から東京まで丸2日かけて鈍行で上京してガイダンスを受けて、この学校だったら実習も多いし勉強するにはいいんじゃないかなと思いました。日芸も行ったんですけど門が閉じられていて、中を見たかったんですが入れませんでした(笑)。 ──日本映画学校に入っていかがでしたか。 とにかく友達とものを作るのが楽しかったですね。履歴書の「組んでみたい映画人」のところに李相日と書きましたが、日本映画学校に入って最初に友達になったのが李さんだったんですよ。たまたま同じゼミになって仲良くなって、バイト先も紹介してもらって同じところで働いて。当時DCR-VX1000という高価なハンディカムを李さんが買って、ガンダムのプラモデルでコマ撮りして遊んだりしていましたね。そのつながりで「青~chong~」にも参加しました。学校の実習ではみんなでめちゃくちゃ失敗もしましたけど、映画作りって楽しいんだという部分がそこで培われました。 ──卒業後は東宝映画に入社されていますが、どのような経緯だったんでしょうか。 埼玉のいとこが通っていたサッカー教室の友人のお父さんが、東宝の電気室にいらっしゃったので「映画志してるんなら何か紹介してあげるよ」と言われて、東宝の撮影所に見学に行ったんです。当時の技術課長さんに撮影所を案内してもらって、そのときはそれで終わったんですが、1年後くらいに「モスラ2 海底の大決戦」の製作が入って、「人足が足りないから手伝いに来ないか」と誘いを受けました。ちょうど夏休みだったので現場に行って。それが東宝の仕事に足を踏み入れた最初の瞬間でした。 ──それが終わってからはどうでしたか。 次は「催眠」という映画が製作に入るので、ここでも見習いが欲しいと呼ばれました。「モスラ2 海底の大決戦」は途中からの1カ月しか参加しなかったんですが、「催眠」は最初から最後まで付いてみないかと。卒業間際に現場アシスタントとして3カ月くらい入って、機材を運んだりハレーション(光暈)を切る作業をしました。毎日本当に怒られて、こんなに怒られるか?ってくらい本当に怒られたんですよ(笑)。それに全然寝る時間もなくて。 ──忙しいときは2~3時間くらいでしょうか? 本当にそうですね。撮影が終わるのが夜中の25~26時くらいでそこから家に帰って、1~2時間寝たらすぐ起きて現場へ行って……。一番下っ端なので機材室にも一番早く行かなきゃいけないですからね。眠くて頭はぼーっとしてるけど求められることは高度なので全然付いて行けなくて、毎日毎日怒られて悔しかったですね。「なんでできないんだ」と思って、「トイレ行ってきます」と言ってトイレで泣いてから戻ったことも覚えています。 ──大きな経験でしたね。 「催眠」はスケジュール的にも体力的にも精神的にもきつかったですね。「催眠」の最中に卒業したんですが、現場が終わったときに技術課長さんから「お前今後どうする?」と言われました。「契約社員で入る?」と誘っていただいたんですが、けっこうきつかったので「仕事覚えるのも遅いので向いてないと思います」って言ったんですよ。そうしたら「そんなの続けてみないとわからないじゃん」と返されて、「確かに」と(笑)。それでそこからずっと東宝で撮影部助手を続けました。 ──過酷な現場を乗り越えたからこそ、お声が掛かったんですね。当時はまだ会社お抱えのカメラマンさんはいたんでしょうか? もう1人もいなかったですね。もともと東宝には撮影技師(カメラマン)はたくさんいたんですが、社員技師を抱えず助手だけという方針に変わったんです。僕が入ったときは技師は誰もいなくて、助手の先輩が2人いらっしゃったのでその方々にいろいろ教えていただきました。 ■ 立山連峰の雪の中を行ったり来たり ──山田さんは木村大作さんの助手をやってらっしゃいましたが、木村さんに付くまでのいきさつを教えていただけますか。撮影部はサード(※フィルム装填や機材周りの整理を行う)、セカンド(※フォーカス送り、現場の仕切りを行う)、チーフ(※光の露出を計測を行う)、そしてカメラマンとステップアップしていくシステムですよね。 僕はセカンドになって仕事がなんとなくできるようになったというあたりで、木村さんが撮影監督を務める「赤い月」に付く話をいただいて初めてご一緒しました。27歳くらいでしょうか。 ──巨匠とのお仕事ということで、忘れられないエピソードも多そうです。 そうですね、いっぱいありすぎて……(笑)。でも特に「劔岳 点の記」は忘れられない現場でした。木村さんはすごく上の方ですし、「赤い月」のときは名前も呼んでもらえないくらいだったのですが、「劔岳 点の記」では最初の段階から参加させていただいて、スタッフ全員仲間という感じで進んでいきまして。資金を集めるためにプロモーション用映像を木村さん、助監督、プロデューサー、撮影助手の先輩、僕で撮ることになりました。「せっかくやるんだから吹替の画を撮ろう」ということで、ゆくゆく劇中で使うであろう衣装や小道具を一式全部借りて、着物の着付けも覚えて、それを持って立山連峰に行ったんです。1カ月くらい山の中でした。 ──現場ではどんな役割をされたんですか? 主演の浅野忠信さんと僕の背の高さが同じくらいだったので、役衣装を着て吹替をしました。木村さんに「お前ちょっとあそこに行って来い」と言われるのですが、まっすぐ行けば近いように見えても実はすごい急こう配になっていてもう大変なんです。雪に足跡も付けたくないので回り込んで、豆粒ぐらいのサイズになるまで遠くへ行って。そこから「よーいスタート! 歩け!」と声を掛けられて何度も歩いたのですが、登山靴を履くと画でバレるので、足袋でやりました。雪でビチャビチャに濡れて本当に凍傷になるんじゃないかと思いましたが、意外と大丈夫でしたね(笑)。 ──濃密な時間を過ごされたんですね。山田さんがチームに呼ばれたきっかけはあったんでしょうか。 「赤い月」「憑神(つきがみ)」で木村さんとご一緒して、そのあと参加した「単騎、千里を走る。」でものすごい失敗をしてしまったんです。でもその後も呼んでいただいて。あの失敗をきちんとした仕事でお返ししたいという思いがあったので、「劔岳 点の記」をやると聞いたときは「ぜひやらせてください」と手を挙げました。 ■ 助手も一流じゃないと駄目なんだ ──「単騎、千里を走る。」ではどんな失敗が……? 高倉健さんがクランクアップされてセットをバラしたあとに、僕のフォーカスが駄目だったということが判明したんです。「高倉さんをもう1回呼びましょう」となったときは本当に死にたいと思いました。ピントがぼけててもその素材を使うこともあることにはあるんですが、木村さんは許さない。それで僕としては救われたところもあります……。高倉健さんが入られるのを、死ぬ思いでセットの外でずっと待っていました。高倉健さんがいらっしゃって「しょうがないけど、また何度も失敗するのはよくない。大ちゃんにも『怒れ』って言われたからなあ……」と言って、後ろを向いて「ふざけんじゃねーよお前!」とセットの壁をバンと叩いて入っていったんです。 ──場を収めるために怒ったふりをしてくれたんですね。 はい。僕は胸が苦しくなりながらそのあとに入って行って、中にいた人たちも「相当怒られたんだろうな」って感じですごく緊張していて。そのあと高倉健さんは「木村大作は日本を代表する撮影監督だから、助手も一流じゃないと駄目なんだ」とおっしゃって、僕にとってそれがすごく大きかったです。作品に対する責任はカメラマンだけじゃなく助手にとってもすごく重いもので、作品を左右することも大いにある。あの一件でいろんなことを学びましたし、本当に転機になったなと思います。 ──いいお話ですね……。そうした経験を経て、山田さんが仕事をするうえで決めていることがあれば教えてください。 作品至上主義というか、作品がよくなるのならなんでもいいと思っています。よくなるんだったらこれは入れたほうがいい、よくならないんだったらやめたほうがいいというふうに常に考えるようにしています。 ──監督とは方向性のすり合わせをされると思いますが、どういうふうに話し合われるのでしょうか。 僕らの共通言語は映画です。例えば「シン・ゴジラ」のときだったら、「実相寺昭雄監督の『ウルトラマン』のような感じで撮ってほしい」とか、「前半の会議室は『日本のいちばん長い日』の会議室っぽくしてほしい」とか。イメージを共有しやすいんですよね。 ──自分の色が一番出せたと思う作品はありますか? 「連続ドラマW そして、生きる」「劇場版 そして、生きる」ですね。なるべくカットを割らず、観客の視線を誘導しながら物語を進めていく手法を取りました。観客を違和感なく物語の中に引き込むことがこの作品ではできたかなと思っています。 “生っぽく”というか、その場で起きることを瞬間的に閉じ込めるつもりで撮っていこうと月川翔監督と決めていたんです。 ──なるほど。また、三木孝浩さんとは何度もタッグを組んでいらっしゃいますね。 そうですね、ここ何本かはスケジュールがなかなか合わなくて実現していないんですが。最初は「僕等がいた」でご一緒したんです。年齢が近いということもあって、今まで聴いてきた音楽も似ているし、どういうものが欲しいかをよくわかり合える間柄。作品に入る前に音楽のプレイリストを作って、「この作品はこういう雰囲気でやりたい」と最初に渡されるんですよ。俳優さんにも共有されるので、あまり見たことがない演出だなと思います。 ──ほかの監督との仕事で印象に残ったエピソードはありますか? 劇団ひとりさんが監督を務めた「青天の霹靂」では、序盤に主人公が「過去にタイムスリップしたんだ」と気付くシーンがあるんです。そのシーンをワンカットにしたいと。主人公を全速力で走らせたいという要望もあったので、ステディカムでぐるっと回り込んで、主演の大泉(洋)さんを映しながら画を引っ張っていって、そのままクレーンに乗ってから広い画角にして……という撮影になりました。何回もリハーサルをして、これはものすごい大変でしたね。 ■ 駅のホームから始まったステディカム撮影 ──山田さんの撮影はステディカムを使用することが多いそうですね。 「僕等がいた」を撮ったときが最初なんです。駅のホームを人物が走るシーンがあったんですが、JRからは「カメラ用のレールをホームに敷いてはいけない」と言われていました。ホームの幅がものすごく狭かったので、ステディカムを使って自分でやってみようと思ったのが始まりですね。通常であればステディカムをレンタル会社で借りる際にオペレーターも一緒にお願いするんですが、ステディカム撮影の海外研修を受けた東宝の先輩に教えていただいていた経緯もあって、そこから自分でもちょっとずつやっていくようになりました。 ──ステディカムを操れるカメラマンはたくさんはいないんでしょうか? みんながみんなできる、というわけではないかもしれないですね。僕も一度ちゃんと学ぼうと思い、ステディカムの販売代理店Tiffenのワークショップがアメリカで年2回くらいあるのでそれを1回受けました。帰ってきてから機材を買ったんです。 ──お持ちの機材は自前なんですか!? ちなみにおいくらほどするんでしょうか……。 めちゃくちゃ高いですよ……。細かい機材も含めると1000万円くらいいきますね。 ──高級外車が買えるくらいですね……。ではステディカム以外で、相棒のような道具があればご紹介ください。 まずはアングルファインダー。リングでミリ数を合わせて覗くと、そのレンズの画角がわかる単眼鏡です。レンズ選びに使うほかにも、撮影用のレールを敷いたあとに「もうちょっと寄りたかった」と敷き直すことにならないよう、これでアングルを確認しています。これは(第40回)日本アカデミー賞で最優秀撮影賞を獲ったときに、お祝いでいただいたものです。現場で一番使うのはiPad Proですね。台本も全部ここに入れているので、連ドラでも10冊持ち歩く必要がなくなりました。あとはクラウドに入れてもらったラッシュ(※編集前の映像素材)も毎日確認することができるので。現場ではこれだけ持ち歩いてます。 ──今日は、カメラマンを目指している人にお薦めしたい1冊も持ってきていただきました。 「マスターズ・オブ・ライト アメリカン・シネマの撮影監督たち」ですね。学生の頃から持っているもので、バイブルです。撮影部でこの本を持っていない人はいないんじゃないかな。学生時代と今読むのでは受け取り方が全然違います。本で撮影監督が話していることが今になってよくわかるというのが多々ありますね。今もたまに開いて読んでいます。 ──尊敬する映画人には、撮影監督のロジャー・ディーキンスを挙げていただいていますね。 昔から好きなんです。彼が撮影監督をよく務めているコーエン兄弟の映画も好きで、作品ごとに自分の色がありますよね。一番いいルックになるよう変換していくことができる人だなと思うんです。「1917 命をかけた伝令」は長回しで撮られていますが、僕は普段ステディカムで撮っているので、あれがどれだけすごいことかというのもすごくわかるんですよ。複雑で長いワークですし、エキストラもいっぱいいますしね。例えば、フランス人の女性が赤ちゃんと一緒に隠れて暮らしている部屋に主人公が入ってくるシーン。彼が女性と会話している間にカメラが背中側から主人公の顔に回り込むんですが、キーライトになっている暖炉の火の前を横断しているのに影が出ないんです。どうやっているのかわかんないんですよ(笑)。照明弾のライティングもすごく計算されていて、1個1個のことがすごいです。 ■ それってフェアじゃない ──今回のコロナ禍で映画業界も大きな打撃を受けました。文化支援要請の声も上がりましたが、これから日本で映画を撮っていくうえで、もっとこうなってほしいという点はありますか? もし国にお願いしたいことがあるとすれば、もっとロケがしやすい状況にしてほしいということですね。この場所でロケをしたいと思っても、許可が下りないことがめちゃくちゃいっぱいあるんです。韓国で高速道路での撮影をしたいとなったら、国が支援して高速道路の交通止めをしてくれるんですね。でも日本では高速道路で撮影するなんてまず許可が下りない。もちろん迷惑をかけてしまうこともわかってるんですけど、そうやって最初からこれはできませんよとなってくると……。本当はこの場所がよかったけど、違うどこかでという工夫って、結局代案でしかないのでやっぱりイコールにはならないんですよね。もう少し理解が欲しいなというのはあります。行政がいいと言っても、警察には駄目だと言われたりもしますから。 ──あちこちに許可申請が必要なんですね。 そうなんですよ。許可をもらうにしても、申請先がいくつもあったりするので、その連携がうまく取れてロケをしやすい状況になればいいなと思います。東京都内は本当に厳しいので。 ──ここで撮りたいという場所はありますか? 渋谷ですかね。撮影監督で参加した「サイレント・トーキョー」では相当な予算をかけて(栃木県の)足利にスクランブル交差点のセットが作られたんです。でも、もし渋谷でできたらいろいろともう少し楽だったとは思います。渋谷ではまったく撮れないので、予算がある作品だったらこういう形でできますが、予算がない作品だとできないってなってきちゃいますよね。それってフェアじゃないというか、もう少しいろんな作品に可能性ができればいいのになとは思っています。 ──では最後に若い方へメッセージがあればいただけますか? スマホでも映像が簡単に撮れるようになりましたし、昔よりは撮影のハードルは下がりましたよね。手軽に撮れるとはいえ、フィルム時代のRGBしか動かせないような時代のノウハウから学べば、今のツールがより使えるようになりますし、もっと楽しくなると思いますよ。 ■ 山田康介(ヤマダコウスケ) 1976年5月21日生まれ、福岡県出身。日本映画学校(現・日本映画大学)卒業後、東宝映画に入社。「単騎、千里を走る。」「劔岳 点の記」などの撮影助手を経て、「神様のカルテ」で撮影監督デビューを果たす。「シン・ゴジラ」で第40回日本アカデミー賞の最優秀撮影賞を受賞した。そのほかの参加作品に「僕等がいた」前後編、「羊と鋼の森」「フォルトゥナの瞳」などがあり、2020年12月4日に「サイレント・トーキョー」が封切られる。現在はフリーとして活動中
2020年12月04日
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残りの2作品を紹介する。 「喜劇 愛妻物語」 足立紳の初めての監督作品だということだけで観た。「喜劇」と冠している。冠しているが、これはリアル夫婦物語、かつ下ネタ映画であった。 まさか終始これで通すとは、最後はもっと凄い展開があると期待していた。 確かに最後の泣笑い演技は良かった。また、水沢あさみの赤パンツを何度も大画面で拝めたのは、男としてありがたかった。でも、それだけの映画を、初監督作品で作っちゃダメでしょ?そんなに生活切羽詰まっちゃってんの?もう女房孝行しているでしょ?と足立紳が心配になってきた。 【ストーリー】 映画『百円の恋』(2014年)の足立紳が、自身初の自伝的小説「喜劇 愛妻物語」を原作に自らメガホンをとり映画化。売れない脚本家・豪太(濱田岳)とその妻チカ(水川あさみ)は倦怠期の夫婦で、娘のアキ(新津ちせ)と3人で暮らしている。豪太はセックスレスに苛まれ、日々妻の機嫌を取ろうとするが、チカはろくな稼ぎがない夫に冷たい。そんなある日、豪太のもとに“ものすごい速さでうどんを打つ女子高生”の話を脚本にしないかという話が。豪太はもともと自分が考えていたこの企画を実現させ、あわよくば夫婦仲を取り戻すために香川への取材を兼ねた家族旅行を提案する。しぶしぶ豪太の取材旅行に付き合うチカ。しかしその取材対象には、既に別の映画企画が決まってしまっていた。大喧嘩の後、学生時代の友人・由美(夏帆)の家を訪れるチカ。一方豪太はアキを連れて海にやってくるが、スマホに夢中でアキを見失ってしまう。 【公開日】 2020年9月11日 【映倫情報】 PG12 【上映時間】 115分 【配給】 キュー・テック/バンダイナムコアーツ 【監督】 原作・脚本・監督:足立 紳 【出演】 濱田岳/水川あさみ/新津ちせ/夏帆/大久保佳代子/ふせ えり/光石研 ほか 2020年9月28日 岡山イオンシネマ ★★★ 「映像研には手を出すな!」 まぁ出来は8割くらいかな。 プロローグに浜辺美波を起用しておどろおどろらしさを思いっきり演出したのに、その回収がとうとう出来なかった。ピュー子の役割って、もしかしてアレだけのため?最初の大仰な大生徒会の臨時会議の内容と結果は、結局何だったの?その繋がりをきちんと作れば、アニメ版とは全く違う傑作が出来たのかもしれない。監督は、途中で何や何やらわからなくなった?それとも厨二病が落ち入る袋小路に入った? でもまぁ、若い子たちが、一生懸命「キャラ」を演じていて、みんなそれなりになりきっていた。監督、もうちょっとどうにかして! STORY アニメ好きで想像力豊かだが人見知りの浅草みどり(齋藤飛鳥)と、彼女の友人で金もうけが好きな金森さやか(梅澤美波)が入学した芝浜高校では、413の部活動と72の研究会・学生組織を大・生徒会が運営していた。そこで彼女たちは、カリスマ読者モデルでアニメーター志望の新入生・水崎ツバメ(山下美月)と出会う。意気投合した三人はアニメで最強の世界を作り上げるため、映像研を設立しようとする。 キャスト 齋藤飛鳥、山下美月、梅澤美波、小西桜子、グレイス・エマ、福本莉子、松崎亮、桜田ひより、板垣瑞生、赤楚衛二、鈴之助、出合正幸、松本若菜、山中聡、浜辺美波、高嶋政宏 スタッフ 原作:大童澄瞳 監督:英勉 上映時間 113分 2020年9月30日 MOVIX倉敷 ★★★★
2020年10月07日
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「あの日のオルガン」 1944年。警報が鳴るたびに防空壕に避難していた品川の戸越保育所では、幼い園児たちの命を守るため保育士たちが保育所の疎開を検討していました。さまざまな意見を持つ親たちを説得してようやく受け入れ先が決まり、埼玉の荒れ寺で疎開生活が始まります。 倉敷市出身の平松美恵子さんが実話をもとに脚本を書き監督しました。昨年2月ムービックス倉敷の観客は、ほぼ満杯の観客で応えていて、山田洋次監督の愛弟子作品らしく涙と笑いに包まれていました。 戦争映画や疎開映画は幾つかありますが、疎開保育園を正面から描いたのは、これが初めてです。未就学児童なので、村の子供との軋轢はない代わりに、保母さんがほとんど親代わりで約5-6人で53人の子供を面倒を見ています。食糧の調達、おねしょ問題など相当な苦労があったのだと思います。そして、そんな幼児と別れたくない親と子どもの葛藤も描かれます。 疎開日当日の感想。「今日見たことを覚えておきましょ。今日聞いたのは、空襲警報じゃなくて、みっちゃんのひくオルガンと子どもたちの歌声だけ。私たちには健康な体とほどほどの脳味噌がある。それ使って、私たちの文化的生活を作りましょう」戦時下でも、理想を胸に幼児教育をしていたのです。 新米保母のみっちゃん役の大原櫻子がとてもいい。見た目はもうホントに近所の中学生から駆り出された子供としか思えない。そういう彼女が、幼児の世話を命がけでする。彼女が子どもに慕われたのは、みっちゃんが子どもだからではありません。彼女が計算づくではなく本気の笑顔と言葉で接していたからだと思います。子どもはすぐに見抜くのです。 疎開保育園のリーダー楓役の戸田恵梨香もとてもいい。凛々しく、子どもたちの将来を第一に考え、冷静さを持ちつつも、勝負どころではたぎるような熱さを爆発させる「怒りの乙女」を見事に演じ切っていました。戦が終わって子どもたちを全員見送ったあとの最後の慟哭に、安堵・悔恨・解放感・全てが入っていました。 その他佐久間由衣、三浦透子、堀田真由、福地桃子などの次世代若手女優が大挙して出演しています。面白い笑い、さみしい笑い、悲しい涙、心温まる涙、様々な感情を引き起こすいい作品だったと思います。(2019年作品レンタル可能)
2020年08月17日
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開催が延びていた高畑勲展に行ってきた。アニメ制作に興味ある人だけでなく、アニメ映画が好きな人は必見の展覧会だったと思う。セル動画や絵コンテを展示して、昔のアニメを懐かしむ構成ではなく、60年代に高畑勲の演出が、如何に画期的で革新的だったかを明らかにするものであった。その革新性は、「アルプスの少女ハイジ」でも、「赤毛のアン」でも「火垂るの墓」「おもいでぽろぽろ」そして「かぐや姫の物語」でも、常に塗り替えられていったのである。「日本のアニメーション」を知るためには、この展示会は多くのことを教えてくれるのに違いない。 1968年「太陽の王子 ホルスの大冒険」で、高畑勲は初めて演出を任される。複雑なヒロイン造形、大群衆シーンの躍動感、アイヌの民俗叙事詩をモチーフに描く壮大な物語、スタッフの集団創作を可能にした緻密な企画意図の膨大な説明書などを見てもうもう圧倒された。いくつもの表や図を使って集団認識の共有を図っている。しかし時代が早すぎたのか、この映画はこけてしまう。高畑勲と宮崎駿は東映動画を去って、テレビの名作シリーズで新境地をつくる。 1973年、高畑勲、宮崎駿、小田部羊一は「ハイジ」のロケハンでスイスやドイツを訪れている。名作を生活感溢れる演出で一年かけてじっくりと作ったテレビシリーズの始まりである。原作のさまざまな改変を行なって、高畑・宮崎コンビはハイジの物語を「発見と解放の喜び」をファンタジーとしてまとめることに成功する。実際私は、社会人になった後に、DVDでずっとこれを見て辛い時期を文字通り救われた思い出がある。因みに冒頭、高原に着いた途端ハイジが着膨れの服を脱ぎ捨て下着姿で坂道を駆け上るシーンは、高畑勲が付け足した。 展示の中では、ここだけ写真撮影OKで、ハイジの世界を正確にジオラマにした部屋があった。おそらく、何処かの展覧会で作られたジオラマの流用なのだろうが、力作だった。汽車が動いていた。 「赤毛のアン」では、高畑勲は「痩せてギョロ目でソバカスだらけで赤毛」の少女を、登場時に可愛く描くことをさせず、やがて次第と美しくなってゆくという難しい課題を作画の近藤喜文に課した。しかも原作のアンのお喋りは、一切削らなかった。そういう演出によって、個性的な思春期の少女と育ての親を、「ユーモア」として描くことに成功させた。高畑勲によるシリーズ構成のためのメモの何という緻密さか。 高畑勲は絵コンテを描かない演出家として有名らしい。絶対書かないわけではなく、いくつか展示されている。確かにうまくはない。マルとして頭を描いていることも多々ある。宮崎駿は動画を描ける。しかし、設定と企画意図のノートは、おそらく高畑勲が圧倒していただろう。そうやって2人は切磋琢磨したのだ。 高畑勲は「ジャリン子チエ」(1981)から、日本を舞台にアニメを作り出す。「ゼロ弾きのゴーシュ」(1982)「柳川堀割物語」(1987)を経て、1988年「火垂るの墓」が作られる。原作を何処まで読み込むか。提示されたノートなどの資料は、我々に多くのことを教えるかもしれない。詳細なロケハンと共にリアルな作品が美術の山本二三、作画監督の近藤喜文・百瀬義行らと作り込み、永遠の夏の平和アニメのアイコンとなった。この作品では、色彩設定を場面場面で替えていった。「おもいでぽろぽろ」(1991)では、「山形編」でリアルさを出すために唇の動きさえアニメでリアルに再現した。一転「平成狸合戦ぽんぽこ」(1994)では、もう溢れかえるような設定画にお目にかかる。百瀬義行と大塚伸治による大量のイメージボードは、狸の生態や、化ける方法とそのレパートリーに関して、一生懸命にやっても人間にはほとんど効果がない「しょぼい感じ」を出すことを目指したらしい。なるほど!そうだったのか! そしてセルアニメを否定して、線で人物と風景を同時に描いて動かした「かぐや姫の物語」(2013)を遺して監督は逝ってしまった。
2020年08月03日
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今月の映画評です。「天気の子」 異常気象が続いています。パンデミックのコロナ禍も続いています。平成に育った若者は、生まれた時からずっと、バブル崩壊、大震災、就職超氷河期、原発問題等々と不安の中で過ごしてきました。私のような還暦にもなろうする世代には違う世界が見えているのかもしれません。 今回は、昨年の最大ヒット映画を紹介します。新海誠監督の前回アニメ「君の名は。」(250億円突破)は、私は若者受けする伏線回収方式を「あざとい」と思ってあまり評価しませんでした。監督は今回、その成功体験はバッサリやめて、ストレートに自分の世界観を出したようです。 私のアニメ・マイベストは現在も、宮崎駿監督の「もののけ姫」です。「このままでは世界は滅亡する」という宮崎監督の独特の文明観を、当時の技術をぶち込んで、奇跡的にもストーリー的にきちんと着地させた傑作でした。 新海監督の方は、既に文明は危機に溢れていて、その中でどう生きるのか、ということの方に関心があるのだな、と感じました。しかもその背後に、万葉集や柳田民俗学の教養が見え隠れします。その眼差しは、遠く過去から、そして宇宙にまで広がっていています。なんか、このままスクスク育っていって欲しいなと感じるアニメ作家です。そういうわけで、新海誠と言えば、絵の美しさや音楽の使い方に評価が集中しているようですが、その面があるから説得力があるのですが、私は別の見方をしました。 さて、物語は今年のように大雨が続く東京で、100%晴れ女の異名を持つ陽菜が、家出少年帆高と共にいっときだけ晴れ間を見せるアルバイトを始めます。やがて天気の巫女たる陽菜が、異常気象を止めるには「ひと柱」にならなければならないことが判明します。ひとりの命か、大災害か。若い2人の選択は如何に?という話でした。 新海監督は当然2年前の真備の大水害のことを知っていますから、「批判は当然」と思って公開に踏み切ったようです。画面には、東京都心の半分が水没しているような場面も出てきます。ある老女は言います。「東京のあの辺は元々は海だったんだよ。ほんの2百年前まではさ」。そう言えば、と私も思いました。古代吉備地域は元々は海か干潟でした。弥生時代から大雨が降って、それを克服して大きな都を作ったのです。この物語には、「もののけ姫」とはまた違う若者の未来があるのではないか、とも思ったのです。(2019年新海誠監督作品、レンタル可能)
2020年07月18日
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5月に観た映画は、ナント一作でした。我ながらビックリです。なんか、一回止めると勢いがついてしまって(笑)。でも、そろそろ生活を立て直さないと。 「酔うと化け物になる父がつらい」 その日、シネマ・クレールは下手をすると私ひとりで鑑賞するところだった。予告編終了間際にもう1人のお客がやってきた。コロナ禍における単館上映館の厳しさを、私はみんなに知って欲しいと思う。感染予防は、それなりに採っているように思えた。 さて、表題作である。実は何でもよかった。1ヶ月近い、無鑑賞で禁断症状が出ていたので、とりあえず知っている俳優が出るのはこれしかなかった。思わず涙するとは思わなかった。 監督、片桐健滋。菊池真理子のマンガが原作。アル中一歩手前のお父さんのもとで、育ってきた姉妹のお話。 (ストーリー) 田所サキ(松本穂香)は、父のトシフミ(渋川清彦)、母のサエコ(ともさかりえ)、妹のフミ(今泉佑唯)と4人で暮らしている。どこにでもある、至って普通の家庭。よその家庭と違っていたのは、父がアルコールに溺れていることと、母が新興宗教の信者であること。田所家毎晩の一家団欒は、酔った“化け物”の介抱。毎朝家を出て仕事に行く時とは別人になって帰ってくる父を迎える日は、壁に掛けたカレンダーに赤いマジックで×印をつける精一杯のいやがらせをするのがサキの習慣だった。 週末や夏休みも、記憶にあるのは酔った父の姿。プールに行く約束をしても、飲み仲間たちが家に押し寄せ、リビングはたちまち雀荘になってしまう。そんな中母はというと、せっせとお酒を作りながら、祭壇に向かって勤行。翌日、父は二日酔いでプールに行く約束はもちろん果たせず、酔っ払って床でクロールをしていた。クリスマスにサンタさんがやってくることを期待しても、2階のベランダから入ってきたのは酔って化け物になった父だった。 おもしろいって魔法の言葉で、嫌だったことが全部笑い話に変わった 高校生になったサキ。相変わらずお酒に溺れる父だったが、母はそんな生活に限界を迎え、父の誕生日に家族の前から消えてしまう(←ナント自殺でした)。母がいなくなってしまったことで自分を責め、自分の気持ちに蓋をしていくサキ。お酒を飲むことをやめた父は、サキとフミのために晩御飯も作るようになる。しかしそんな日々も長くは続かない。新作ワインの解禁とともにお酒も解禁してしまう父。綺麗だったカレンダーにも赤い×印がだんだんと増えていき、再び毎日のように酔っ払って帰ってくるようになる。 再び訪れる“化け物”との日常の中、サキが唯一楽しめたのは漫画を描いている時間。酔っ払った父のエピソードを描いた漫画は、親友のジュン(恒松佑里)やその友達にも好評で、サキにとって心の拠り所になっていた。 お父さん、私、今になって気づいたよ 高校を卒業したものの、自分の進路を見つけられないサキ。父の飲酒はエスカレートし、毎日記憶をなくすほどアルコールに溺れていた。いくらお酒をやめてと訴えてもまるで聞かない父に対して無関心になろうと決め、寂しさを恋愛で埋めるサキ。しかし、付き合った彼氏はとんでもないDV男だった。「こんな自分でも好きって言ってくれる」と、自分の感情に蓋をして全てを受け入れ続けるサキ。ついにはプロポーズを受けてしまうが、自分は愛されていないということに気がつき、別れを決断する。 恋愛や漫画に没頭し、父のことは考えまいと無視して過ごしていた数年の間に、病が父を蝕んでいた。医者が言い渡した余命は半年。突然でありながら、あっけない病気の発覚に何も考えられないサキ。そんな彼女に妹と親友が寄り添い、支えるが、父が借金を作っていたことを知り、今まで抱えていた気持ちをぶつけてしまうー。 子供の頃は普通だと思っていた両親が、実はダメ親だった。それと、どう折り合いをつけるか。憎めるのか。愛せるのか?という作品でした。 ここまで酷くはないけど、酒に潰れてよく帰ってくる親父は多いだろうし、文句なくお父さんの言いなりになって、ある日突然家出したり、病んだり、自殺する母親も多い?かもしれない。振り回される長女とマイペースの次女も、リアル。無関心でいよう、というのは長女の防衛戦略だけど、あのままでは破綻していただろうね。親友の「一人で抱え込まないで」という言葉がやはりなによりも大事。 何故泣いたかというのは、秘密です。 2020年5月11日(月) シネマ・クレール ★★★★
2020年06月15日
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「縄文にハマる人々」(DVD) コレは買った。決して我が街の上映館には来そうにないドキュメンタリー映画なので、買う方がはやいと思った(私がDVDを買うのは異例です)。 縄文時代とは何かについて、学術的説明はほとんどない。学者が出てくるのは、後半の方から。御大・小林達雄教授もやっと出てきたと思ったら数分話して終わりだった。無数の土器や土偶、有名どころの博物館(国学院大学、つがる市、是川、山形県立・東北歴史・井戸尻・馬高・新潟県立・十日市、等々書ききれない、無数に出てくる)、遺跡(亀ヶ丘、山内丸山、その他色々)は出てくるが、作成年代や出土遺跡、それにまつわる学術的意義などの説明はほとんどない。興味を持てば、実際に行って見ろ!と誘導する作品。私も、こんなにも縄文博物館が充実していることに驚きと羨望を隠せない。それに引き換え、西日本の弥生ときたら! たくさんの人々が出てきて、ともかく縄文愛を語る語る語る語る。「水曜日のカムパネルラ」のコムアイが、まるで縄文の女神のように「なんでもアリだよ」という風な声で、ナレーターをつとめてくれている。 どうしてハマるのか? ・驚愕の理論も可能 ・今は失われた知恵 ・1万年以上の平和 ・なんだか凄そう ・未来への指針になる ・ハマる場所 ・用途不明なモノが多い ・世界最古を競いあえる ・縄文グッズが豊富 ・時代を超越した造形力 ・自然に逆らわない ・なんて器用なんだ ・時々想定外の大発見がある ・岡本太郎的な視点 「考古学って、真実を明らかにする学問ではなくて、分かる範囲で推論していくしかない」 途中から、監督はかなり内省的になって難しく哲学的になっている。まぁそれも、縄文。(山岡信貴監督、2019年発売) ※弥生時代ファンの私としては、この「自由さ」が少し羨ましい。昨今の縄文ブームも羨ましい。これをキッカケに縄文にハマる人が増えて、その幾人かが弥生にもハマってくれると少し嬉しい。私は私の道を行く。
2020年06月13日
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「アヒルと鴨のコインロッカー」 二度見必至の傑作。中村義洋監督の出世作なのに、公開時見逃し、その後レンタルで借りて寝落ちして、その後原作を読んでもう観た気になっていた。 1週間前にfire TVstickがやっと手に入りAmazon primeで初めて最初から観た(2007年作品、岡田将生が少年の様に初々しい)。 原作を正確に(それは原作を隅々まで忠実にという意味ではなくて)、映像化していた。 あゝ大学入学で引っ越したばかりの頃、訳の分からない先輩がいて、社会も丸ごと迫ってきて、世界が広がって見えたなあ、などと思い出した。 原作を読んでいたはずなのに、まるきり騙された。俳優以外には低予算で作られた作品。濱田岳と瑛太と大塚寧々と関めぐみの4人芝居であるけれども、見事に騙された。心地よい騙され方。ずっと「アヒルと鴨とコインロッカー」と勘違いしていた。「アヒルと鴨のコインロッカー」だったのだ。一字違いで大違い。神様と相対するのは覚悟がいる。他人事じゃない。 後で出てくる松田龍平が、のちに瑛太と松田龍平のコンビで復活して、過去を語らないけど、飄々と仕事をこなしていったのは(「まほろ駅前多田便利軒」)、偶然ではなかったということか?大森立嗣監督は、2人を「来世で蘇らせて」「助けたかった」のだ。 コインロッカーの中で鳴り続ける歌が、これはホントにあったことなんだと神話化する。2年後、中村義洋監督は傑作「ゴールデンスランバー」を撮る。 (解説) 隣人の奇妙な計画に巻き込まれた青年が、事の真意を知るまでを描いた青春ミステリー。原作は伊坂幸太郎の同名小説。出演は「シュガー&スパイス 風味絶佳」の濱田岳、「どろろ」の瑛太、「ハチミツとクローバー」の関めぐみ。監督は「ルート225」の中村義洋。2007年5月12日より、宮城県仙台市内先行公開。
2020年05月29日
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今月の映画評「新聞記者」 薄暗い内閣調査室の中の無数の所員が延々とパソコンに向かってカタカタカタカタやっている。内閣情報調査室官僚・杉原(松坂桃李)は、葛藤しながらもニセ世論作りのためのフローチャートを作っていました。 「こういう仕事増えましたよね」 官僚のひとりが呟きます。 「犯罪者でもないのに、公安が尾行して俺たちがスキャンダルをつくる仕事」 上司の多田参事官(田中哲司)は 「これも国を守る大事な仕事だ」 とうそぶきます。 悩む杉原はかつての上司に悩みを語ります。 「神崎(高橋和也)さん、言っていましたよ。官僚の仕事は国民に誠心誠意尽くすことだったって」 「過去の自分に責められるのは辛いな」 「杉原、俺のようにはなるなよ」 そして神崎は謎の自殺を遂げて、物語が動き始めるのです。 この内閣調査室の現状については、ウソかホントはわかりません。けれどもここまで突っ込んで描いた作品は今までありませんでした。SNSで現政権反対勢力を揶揄したり、フェイクニュースで埋まってしまうことがよくあります。まさかその震源地があそこなのだろうか、などと想像できる場面でした。一方、新聞記者・吉岡(シム・ウンギョン)は、切り込んだ記事を書いても「ベタ記事」とされてしまいます。そして告発情報をもとに、政府の恐るべき陰謀を暴こうと動き出すのです。 現政権批判は、「前川事件、詩織さん事件、文書改竄、森本問題」を彷彿させるものが出てきます。また、森本事件文書改竄に関わって自殺した財務局職員赤木さんの手記が今年3月に公表されましたが、正に同じような構造がこの映画でも展開されます。 ただし、ベトナム戦争時の機密文書を扱った米国作品「ペンタゴン・ペーパーズ」と比べると、こちらは純然たるフィクションとして作りました。私は、それに徹するならばラストはもう一捻り足りない。エンタメ的な仕掛けがほしい。韓国映画ならば、必ずあと二転三転ぐらいはやる。と、思っていました。邦画で、昨年のマイベストに選ばなかった理由です。 この映画の一番の驚きは、こんな作品でさえ、封切り時にテレビが一切タイアップをかけなかったことです。この見事な忖度社会。この作品が今年の日本アカデミー賞の主要部門(作品賞、主演男優賞、主演女優賞)をとると、一転、岡山県のシネコンは全館で上映という変り身も見せました。それでも、コロナ禍もあり、未だ観ていない方も多いでしょう。観ておくべき作品だと思います。(2019年藤井道人監督作品、レンタル可能)
2020年05月17日
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映画評「洗骨」 昨年観た邦画ではマイベストです。監督・脚本は照屋年之(ガレッジセール・ゴリ)さんです。初めて作品に接しましたが、とても老練なつくりでした。郷里に帰った家族が絆を確かめ合う、という縮めれば身もふたもないないストーリーですが、実はそうではなくて、日本人が遠い新石器時代から延々築いてきた営みを振り返る壮大な叙事詩にも見えました。あるいは、良質な喜劇にも。 「風葬」は、酸性土壌の本土では古墳時代以来絶えて無くなった風習ですが、沖縄の離島、粟国島(あぐにじま)では残っています。風葬された死者は、肉がなくなり、骨だけになった頃に、縁深き者たちの手により骨をきれいに洗ってもらい、ようやく「この世」と別れを告げることになるそうです。 新城家の長男・新城剛(筒井道隆)は、母・恵美子(筒井真理子)の「洗骨」のために、4 年ぶりに故郷・粟国島に戻ってきます。妻と子供は何故かついてきませんでした。実家には、剛の父・信綱(奥田瑛二)がひとりで住んでいます。生活は荒れており、恵美子の死をきっかけにやめたはずのお酒も隠れて飲んでいる始末です。そこへ、名古屋で美容師として活躍している長女・優子(水崎綾女)も帰って来るのですが、優子は妊娠していて、1人で産むと言い張ります。 奥田瑛二が、ホントにダメダメなオヤジを演じていています。途中まではありきたりな展開なのですが、優子の恋人(鈴木Q太郎)が登場した辺りから、笑いの「間」が絶妙に処理されていて、監督の芸人としての面目躍如たるものがあります。 「何故洗骨するのか、わかった。ぼくたちは、自分自身を洗っていたんだ」という作品を観なくてはわけのわからない長男の呟きは、実際そうなんだと思うし、沖縄の人でなくてもきちんと伝わります。証拠に映画館の観客の半分は、最後にはみんな泣いていました。全国の日本人の中にも風葬習俗は深層意識の中にあるのではないでしょうか。三回忌などの法事の習慣、村のはずれに結界を持つ田舎の村の構造、多くの部分で私たちは風葬を受け継いでいると思います。‥‥すみません。民俗学や考古学が大好きな、私の趣味満載のレビューになってしまいました。(2019年日本作品 レンタル可能)
2020年04月17日
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「Fukushima50」という映画がもうすぐ公開される。もちろん映画の評価は観てからするが、その前に、映画原作本や映画ノベライズ本を見て、世の人たちの感想を読んで気になったことがあるので、メモする。 これは「小説 Fukushima50」を読んである人の感想である。 「菅直人こそ、未曾有の大惨事をここまで悪化させた張本人である」 この認識を、多くの国民が持っていることに驚いた。全文を読めば分かるように、彼は必ずしも現在の自民党政権をそのまま支持するような人物ではない。それでも、そのように本に書いている「事実?」を見て、「思いを新たにしている」のである。 もう1人、これはノベライズではなく、原作本を読んでの感想だ。 彼も「菅がまだ存在していることに腹が立つ」とまで言っている。 私はかつて民間が出した「福島原発事故独立検証委員会調査検証報告書」を読んだ。かなり大部の書であったが、それを読んだ限りでは、確かに当時は「エリートパニック」があり、それが事故を更に酷いものにしていたと思う。その時のエリートは、官邸もそうだったが、最大の元凶は、東電本部だった。事故の1番詳しい情報を、官邸に伝えていなかったのである。この映画や原作は、そのことをどう伝えているのか?それを読んでどうして、東電本部の一言も読者は言及していないのか?それが私は気にかかる。 それと、もう一つ大事なのは、そもそも事故が起きたのは「人災」であるということ。「安全神話」を牽引してきた東電と自民党政権の責任が1番大きい。 原発事故は、「正に神風が吹いた」から大事にならなかった、「正に連鎖崩壊が起きなかった」から、日本壊滅まで行かなかったのである。ホントに僥倖以外の何者でもなく、もう2度とこれは望めない。もちろん、その下には、この作品の本筋であろう身を挺した50人がいたのだろうと思う。しかし、それを見て森を見なかったらいけない。 世の人たちの「思想コントロール」がとても怖い作品にならるのではないか?と私は危惧している。
2020年02月21日
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実は3日間旅をしていました。記事アップは2日ぶり。家を空けるのを大ぴらにしない方がいいのかな、と思うようになりました。ここまでブログをやると、見る人が見れば、もう家を特定できてもおかしくはない、と思ったからです。山大新聞会の同窓会です。なんやかんやあったので、また旅レポートします。ちょっと憂鬱です。新聞会の先輩たち方はみんな、私の文章にダメ出しをする「権利」があるからです。3回ぐらいで毎回長文書いてサッサと終わらそうかと思い始めました。 閑話休題。今月の労組機関紙に連載している映画評です。 「万引き家族」 私は、映画は、だけでなく芸術作品総ては、直に自分の目で見ないと「批評」しないことにしています。絵画もそうですが、映画も直接観ないとわからない事がたくさんあるからです。残念ながら最近、観ないで褒めたり貶したりする人が多すぎる。「主戦場」然り、「従軍慰安婦像」然り。 この映画は、DVで可哀想な少女を貧困家庭の父親と息子がつい拾ってしまう所から始まります。そして、万引きや年金不正受給をしながら、家族みんな幸せに暮らそうとした話です。 カンヌ映画祭パルムドールを獲ったからなのか、家族を非難する炎上騒ぎは起きませんでしたが、本当はこれらは明らかな違法です。可哀想だからといって両親から隠せば誘拐になります。家族をどのように、評価するのか?それは観た者だけが言及する権利を持っています。多分人によって変わると思う。物語の真実は、たいていは揺れて微妙な処にあると、私は思っています。だから、祖母(樹木希林)、夫(リリー・フランキー)、妻(安藤サクラ)、叔母(松岡茉優)、息子?の祥太(城桧吏)そして拾われた少女のゆり(佐々木みゆ)たちは、そういう微妙な監督の要請にきちんと応えて絶妙な演技をしていたと思います。 また彼らは、ちゃんと罪にも向き合っていました(リリー・フランキーだけは疑問符がつきますが)。それだけではない。樹木希林が海を見ていたとき、安藤サクラが「何なんだろうね」と涙を拭ったとき、松岡茉優が無人の引き戸を開けたとき、城桧吏がけじめをつけたとき、佐々木みゆがラスト「外」に何かを見つけたとき、彼らは何かをつかんだような気がします。 あ、それから、日本の貧困に対するセーフティネットの欠如の告発もありました。老人の年金受給が2ヶ月で12万円もない。日雇い労働者が明らかに仕事中事故をしても、労災が下りない。長年勤めている非正規労働者の首切りが平然と行われる。こういう社会ががさりげなく描かれていました。SNSでは「政府から助成金もらっているのに、そんな告発映画作っちゃダメだろ」といっとき話題になりました。「忖度」意識も極まれりですね。改めて言いますが、そんなことをいう若者(だけじゃなく大人も大勢いるけど)の殆どは、作品を実際に観ずに言っています。映画の批判は、作品を観てからにすべきです。 (2018年監督・脚本・編集:是枝裕和作品、レンタル可能)
2019年09月16日
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今月の映画評です。 「葛城事件」川崎殺傷事件というなんともいやな事件が起こりました。明確な殺意を持って、20人をも切りつけ、そして自殺をはかった犯人。その数日後に農水相元事務次官というエリートが、「息子が同じような事件を起こすかもしれない」と言って殺すという事件も起きました。そのような時に思い出したのが、この映画です。観た時、ものすごくいやな気持ちになりました。葛城稔という青年が、死にたくて死刑にしてもらいたくて無差別殺傷事件を起こした、その顛末を描いた作品です。そこに至るまでの家族の数年間を描いています。青年の父親を三浦友和が演っていて、家父長的なその抑圧が稔に事件を起こさせたかのように描いています。父親は一切法律に反することはしていないし、暴力もほとんどふるいません。けれども、ホントにいやな男なのです。中国料理店で店員にクレームをつける場面でそれが見事に表れていました。あんまり嫌すぎて、この作品を忘れたくて、その年のベスト10にも数えませんでした。あれから3年。こんな事件が起きると、直ぐに思い出す。やはりものすごく力のある作品だったなあと思うのです。今回の2つの事件と、この作品が似ているわけではありません。断じて似ていません。でも、この作品を紹介するのは、引きこもりといい、家庭内暴力といい、父親の抑圧といい、本人たちでないとわからない実情が描かれているからです。「死ぬのならば1人で死んでくれ」とか「お父さんは正当防衛だ、殺されても仕方ない」とか、軽々しく呟いてはいけないと思うのです。映画は本人たちでないとわからない心情を想像する力をくれます。シネマ・クレールで観ていて、中途で1人の老人が退館しました。父親のせいで葛城稔だけが壊れていくのではなく、長兄も妻もぐにゃぐにゃに潰れていくのが見えてきた頃でした。その先に無差別殺傷事件が描かれるのは必然でした。私も出て行きたかった。そんな気持ちになったのは初めてです。でも、座っていました。後悔しました。葛城稔役に若葉竜也、妻役に南果歩、長兄役に新井浩文、稔に押し付け獄中結婚をした若い女性に田中麗奈が演じています。登場人物で1番まともなのが、現実には犯罪を犯した新井浩文だったというのは、何かの符号なのでしょうか?(2016年赤堀雅秋監督作品、レンタル可能)
2019年06月16日
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連載中の映画評はお休み。ちょっとしたレポートを載せました。「千日前は映画の街だった」今年の春に新市民会館工事が始まれば、この商店街の看板はもちろん、商店街そのものの風景は大きく変わると言われています。私は2月のとある日、今は寂れているこの十数メートルほどの街を歩きました。今回はいつもの映画評はやめます。今急げば、もしかしたらその最後の「名残り」を見ることができるからです。若い人はご存知ないでしょうか?ほんの18年前までは、まだ此処に6館ほどの映画館が存在していました。もっと前に遡れば、9館以上あったのです。今一館だけ現役で残っている岡山日活(平成元年開業)を除けば、この街で最後の邦画封切館は岡山松竹(昭38-平18)でした。現在は駐車場になっています。最後の上映は、やはり岡山を舞台にした寅さん映画でした。洋画の封切館もその前年に次々と姿を消しました。三館(三スクリーン)が営業していた複合ビルは、現在ではマンションになっています。SY松竹文化(昭47-平17)、岡山千日文化(昭57-平17)、文化シネマ2(昭62-平17)です。そして、千日前を代表する70ミリの大スクリーンを持っていたOSテアトル岡山(昭和37年開業)は、平成12年11月に閉館しました。「職場の仲間とウエストサイド物語を観た」と昨日のことのように語るお歳を召した映画仲間もいます。名画との出会いは、その前後の記憶と共に強烈です。便利なシネコンがやってきた後は、観る前に買っておいた木村屋のパンを食べながら一日中粘って映画のハシゴをする、というような事も既に一切出来なくなりました。現在駐車場のテアトル岡山とその隣にあった白鳥座(昭25-60)の街頭看板は、奇跡的に残っていました。しばらく千日前貸ホールとして大衆演劇などをしていた所には、岡山オスカー(昭50-63)という映画館がありました。北側のパチンコ屋隣に金馬館(昭20-33)がありました。昭和30年代、お正月の千日前は、溢れるように観劇の人が歩いていたようです。そういう伝統の街に、今度は文化の発信拠点市民会館が出来るそうです。建物が出来たら、ぜひ映画の企画もやって欲しいと思います。
2019年03月24日
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「歩いても歩いても」今日は先月亡くなった樹木希林さん出演の作品を紹介します。この一ヶ月いろんな番組が作られていますが、私は女優に絞って書きたいと思います。樹木さんが主演をつとめた作品を、私は今まで二回紹介しています。ゆっくりと呆けてゆく役をリアルに演じた「わが母の記」(13年5月号)と、ハンセン病患者の人生を垣間見せた「あん」(16年2月号)です。実は私には、その年のマイベストワンに決めながらもDVDが出ていないために、みなさんに紹介出来ていない作品が二つもあります。「約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯」 (13)では樹木さんは死刑囚の母親役を、淡々と生きる夫婦のドキュメンタリー「人生フルーツ」(16)ではナレーションを勤めています。機会があれば必ず観てください。ふたつとも凄い作品なんです。有名無名を問わず、主役端役を問わず、樹木さんは的確に出演作を選んでいます。2005年に自身がガンを患って摘出手術をして以降、樹木希林は個性派俳優から大女優に変貌したと私は思っています。ガンの経験をたった一年後に活かした作品があります。私が1番最初に樹木さんを見直した作品「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」(07)です。後半の抗ガン剤治療に七転八倒で苦しむ主人公の母親の姿は、鬼気迫るものがありました。そしてその直後に樹木さんは全く違うタイプの役に出ているのです。是枝裕和監督が長男の命日に集った家族の1日を描いた「歩いても歩いても」(08)です。愛しながらも、シコリがあって素直になれない家族の気持ちを見事に写し取った秀作です。主演は阿部寛、女優は夏川結衣でしたが、脇役が主演を食った典型的な映画だったと私は思います。樹木希林は、最初穏やかな母親として登場します。でも、長男を亡くす原因になった子供を15年経っても許していません。夫の浮気を何十年も忘れない、ぞっとする演技もあります。清濁併せ持つ普通の母親の姿を見せて、今観ると凄みさえあります。今年初共演の黒木華が「樹木さんは役を生きている」と評していましたが、私もそう感じています。ガンや内田裕也との長い別居生活をも自分の中で咀嚼消化して、人生を役の中に刻みつけた気がします。遅れて来た平成の大女優でした。(2008年作品レンタル可能)
2018年10月17日
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岡山での展示は24日で終わりましたが、高倉健展をレポートします。23日に行きました。高倉健に思い入れはほとんど無い。けれども、日本を代表する俳優の回顧展を近くの美術館で開く。映画のファンであり、博物館フェチでもある私は行くべきだと思った。博物館フェチとして図録も買ってしまった。予算オーバー(3500円)だったが、フェチとして仕方ない。高梁市成羽美術館は、安藤忠雄設計である。これで来るのは3回目なのだが、今回は大幅に展示替えしていて、3回も迷った。迷わすのが目的の設計なのだから仕方ない。この特別展では、205本の出演映画作品の映像を全て、順番に映し出している。デビュー作 は「電光空手打ち」(1956)である。まさかの姿三四郎張りの空手映画。最初から主演だった。以降、ほとんどの作品は主演か、それに準ずるものだ。イケメン俳優として前面に出して、当時石原裕次郎が同期としての他社からニューフェイスで売り出していて、高倉健は東映の看板としてデビューした。1956年だけで11作に出演している。背の高いハンサム男の佇まい。私は、大根と言われても仕方ない演技だと思った。57年10作、1958年13作に出演。この頃はまるでテレビドラマのように作品が作られる。美空ひばりとは何十となく共演している。吉永小百合もそうなのだが、ホント美空ひばりは映画スターだった。1958年、観客動員数は最高を数えた。以降映画は下り坂になる。最初の頃から、愚連隊、軍人、ヤクザ的な男、一方では背広を決めた金田一耕助や学生服姿、会社員等の真面目な男。ともかく最初から堅物というイメージで通っている。演技はやはり、表情のバリエーションはあまりない。昨今のアイドルの方がバリエーションはある。そして、ラブシーン(キスなど)は恐ろしいほど無い。高倉健が極端に嫌ったらしい。晩年と違う所は、よく動き、よく喋る。よく喧嘩する。1963年は八割がたヤクザ、ギャングものだった。1964年。遂に「日本侠客伝」シリーズが始まる(全11作)。表情が生き生きしてる。堅物で朴訥ではあるが型にはまらず最後に怒りを爆発させる高倉健に、世の労働者は共感したのだろう。藤純子とこの時から共演。助演は歌舞伎俳優の萬屋錦之介。型の歌舞伎から高倉健の大きな代替わりだった。1965年。日本侠客伝続編にも出て、「飢餓海峡」、「宮本武蔵」などの話題作にも出ていた。この年から「網走番外地」始まる。1966年。しかし、網走番外地って、こんなに作られているんだ(全10作)。1966年。「昭和残侠伝唐獅子牡丹」。完全に「パターン」を作っている。1968年。異色作も二作あった。佐藤純弥監督の外国映画みたいな「荒野の渡世人」、西口克己原作の時代劇「祇園祭」。あとはヤクザもの。1969年「非牡丹博徒花札勝負」藤純子の非牡丹シリーズ始まる。この年侠客、ヤクザものはなんと11/12作に及ぶ。1971年。「任侠列伝」のチラシを見る。この作は鶴田浩二が主演で高倉健は2番目。次が藤純子。この三人が三枚看板とチラシに書いている。しかし、藤純子は1972年に引退する。この頃から任侠もの自体が作られなくなってゆく。10年以上任侠ものが作られ、さすがに「飽きられ」てきたのだ。1973、4年。「ザ・ヤクザ」外国の脚本の厚い表紙付きの脚本がすごい。「ゴルゴ13」で使用された型と同じサングラス展示。興味深い。この年は半分は侠客ものではない。明らかに「転機」である。高倉健も時々ヤクザでも拳銃を使っている。そして高倉健は、76年に東映を卒業する。まるでアイドルの卒業のようだ。出演作のカラーもガラリと変わる。1976年から78年で5作品だけ。しかしヒットした。これで名実ともに映画スターになったと私は思う。即ち「君よ憤怒の河を渡れ」(76)「八甲田山」(77)「幸福の黄色いハンカチ」(77)「野生の証明」(78)「冬の華」(78)である。この頃から映画は、豊富な予算と大規模な広報戦略を伴う大作主義に移るが、高倉健はその中の最重要俳優だった。高倉健の抑揚のない朴訥な喋りが、演出にマッチした幸せな作品群である。「幸せの黄色いハンカチ」の脚本を見た。細かい所で、勇作のセリフ「こいつと一緒にならなかったら俺は二度と幸せになんかなれない」を「幸せになれんかもしれん」と自然の言葉に直していた。このあと、年一本ペースで映画出演。「南極物語」(83)の過酷なロケ。きちんとした役作りをしていた。少しの表情の変化が、多くのことを物語る幸せな時期。この時期に至っても惚れ惚れするほどのイケメン俳優である。実はリアルタイムで映画館で見始めたのは「鉄道員」(99)からだ。思いもかけず泣いた。大根だと思っていた高倉健で泣けたのが我ながらショックだった。佇まいだけで、全てを語っているように思わされた。この時初めて高倉健をすごいと思った。日本ではあまりヒットしなかったが「単騎千里を走る」(06)はとても良かった。後期は、5年10年7年6年と次回作の間隔が空く。2012年「あなたへ」が遺作である。2014年、没年83歳。1972年、京都東映撮影所で「望郷子守唄」の撮影が行われていた時、テレビでは浅間山荘の中継が映されていた。楽屋でメイクをしながらテレビを見ていた高倉健は、助監督の関本郁夫に向かい「こんな日に撮影なんて出来ねぇよな」とつぶやく。小沢監督に伝えて、この日の撮影は中止になったという。高倉健は連合赤軍の思想に共鳴していたわけではない。ただ、極寒の浅間山麓で冷水を浴びながら闘う者たちを暖房の効いた控室で見ていることに耐えられなかったのだと、関本は証言する。(伊藤彰彦「映画俳優高倉健」)それはおそらくホントだろうし、私は十分に信じることが出来る。高倉健が高倉健として映画スターになったのは、そういう「優しさ」だろうと、私は205作のフィルモグラフィーを観てそう思うである。
2018年09月25日
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後半の四作品です。特に「沖縄スパイ戦史」はこの時点マイベスト出ました!「沖縄スパイ戦史」とりあえず、いまのところこの作品がマイベストワンです。戦後73年目の夏。ギリギリのタイミングだった。当時14歳から18歳の少年たちが証言をするのは、1年遅ければ何人かが語れなくなったかもしれない。絶妙のタイミングだった。当時、軍人に協力した住民たちがいなくなったからこそ、口を開き始めた人もかなりいたと思われる。必要なタイミングだった。今沖縄南西諸島に次々と配備されるミサイル基地。自衛隊基地が出来てしまえば、「軍隊は住民を守らない」だけではない。有事が近づけば「住民を利用」し、「住民を監視」することが、正にその場所で、たった70数年前に起きた。しかもたった1年足らずで。純粋な中学生ぐらいの子供を徴用する。スパイとして有効に使えるだけではない。子供を人質に使えるのである。陸軍中野学校の恐ろしいほどの、これはスパイ戦術ではない、人非人の戦争技術である。おそろしい。有事法制で、特定秘密保護法で、しだいと可能になっている。昔の再現なんてあり得ない、という保証はどこにもない。自衛隊の最高法規「野外令」を見る限り、沖縄の出来事を一切反省していないのは明らかである。波照間島の住民を1/3、500人近くを強制移住させてマラリヤ感染で死亡させた山下(偽名)も、一切反省の言葉を語らなかったではないか。波照間島の碑文が強烈である。「山下(偽名)のことを赦しはしても、決して忘れない」。公の碑文にこんな文句を見たのは、私は初めてだ。また、住民をスパイ疑惑で、軍人に密告したと思われる人が雄弁に語ったフィルムを、この映画は記録している。「あの時代は、殺さなかったら殺される。貴方とは認識が違う!」恐ろしい。過去の話ではなく、現代のこととして、とてつもなく恐ろしいドキュメンタリーが出来上がった。岡山では、一週間の上映期間しかなかった。ほとんどの日本人は観ていないことになる。大勢の「日本人」に観てほしい。(解説)第二次世界大戦末期、米軍が上陸し、民間人を含む20万人余りが死亡した沖縄戦。第32軍・牛島満司令官が降伏する1945年6月23日までが「表の戦争」なら、北部ではゲリラ戦やスパイ戦など「裏の戦争」が続いた。作戦に動員され、故郷の山に籠って米兵たちを翻弄したのは、まだ10代半ばの少年たち。彼らを「護郷隊」として組織し、「秘密戦」のスキルを仕込んだのが日本軍の特務機関、あの「陸軍中野学校」出身のエリート青年将校たちだった。1944年の晩夏、42名の「陸軍中野学校」出身者が沖縄に渡った。ある者は偽名を使い、学校の教員として離島に配置された。身分を隠し、沖縄の各地に潜伏していた彼らの真の狙いとは。そして彼らがもたらした惨劇とは……。長期かつ緻密な取材で本作を作り上げたのは、二人のジャーナリスト。映画『標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』で現代の闘いを描き続ける三上智恵と、学生時代から八重山諸島の戦争被害の取材を続けてきた若き俊英、大矢英代。少年ゲリラ兵、軍命による強制移住とマラリア地獄、やがて始まるスパイ虐殺……。戦後70年以上語られることのなかった「秘密戦」の数々が一本の線で繋がるとき、明らかになるのは過去の沖縄戦の全貌だけではない。映画は、まさに今、南西諸島で進められている自衛隊増強とミサイル基地配備、さらに日本軍の残滓を孕んだままの「自衛隊法」や「野外令」「特定秘密保護法」の危険性へと深く斬り込んでいく。2018年8月25日シネマクレール★★★★★http://www.tongpoo-films.jp/OSS_B5_H14_Z.pdf「グッバイ・ゴダール」題名になっているのだから、彼女とゴダールが別れるのはもちろん、その理由さえも途中までで明らかであり、なんの驚きもない。ゴダールをリスペクトしながらも、カリカルチャしているのは予想出来るのであるが、なにしろ私はゴダール作品を一作とも観たことがない。よって、批判しているのか、からかっているのか、わからない。また、それがわからないので、日本よりも遥かに本格的だと聞いていたフランス五月革命について、批判しているのか、冷めた目で見ているのか、それが正しいのかもわからない。当然ゴダールのとる態度もわからない。もう一つの見所は、当時のファッション、音楽、映画についてだろうが、どれだけ再現性が素晴らしいのかもわからない。もう一つの見所は、「映画とは何か」ということだろうと思う。一つの自動車の中での6人の延々800キロに及ぶケンカの場面は、いかにも映画らしいシチュエーションであり、裸になる必然性が台詞に出た途端に2人が完全ヌードを披露するのは、正しく必然性を伴うだろうが、映画文法の使い方である。上手いと思う。しかしだからと言って、素晴らしいことにはならない。私にとって素晴らしい作品は、あくまでも共感出来るテーマが如何に緊張感持って2時間前後の枠の中に納めさせるか、ということだからだ。それによってのみ、私は映画の魔法を感じる。この作品のテーマを「映画とは何か」だとすれば、いろんな点でわからないことが多すぎ、判断出来ないということになる。主演女優の魅力はあった。(解説)ジャン=リュック・ゴダール監督作『中国女』で主演を務め、彼の妻となったアンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝的小説を映画化。若くしてゴダールと出会い、ミューズとなったアンヌが彼と過ごした刺激的な日々を描く。アンヌ役に『ニンフォマニアック』シリーズなどのステイシー・マーティン、ゴダール役に映画監督フィリップ・ガレルの息子ルイ・ガレル。『アーティスト』などのオスカー監督ミシェル・アザナヴィシウスがメガホンを取った。(あらすじ)パリで哲学を学ぶ19歳のアンヌ・ヴィアゼムスキー(ステイシー・マーティン)は、映画監督のジャン=リュック・ゴダール(ルイ・ガレル)と恋に落ち、彼の新作『中国女』で主演を務める。新しい仲間たちとの映画作りやゴダールからのプロポーズなど、初めて体験することばかりの刺激的な日々にアンヌは有頂天になる。一方パリでは、デモ活動が激化していた。(キャスト)ルイ・ガレル(ジャン=リュック・ゴダール)ステイシー・マーティン(アンヌ・ヴィアゼムスキー)ベレニス・ベジョ(ミシェル・ロジエ)ミシャ・レスコー(ジャン=ピエール・バンベルジェ)グレゴリー・ガドゥボワ(ミシェル・クルノー)フェリックス・キシル(ジャン=ピエール・ゴラン)監督・脚本・製作ミシェル・アザナヴィシウス2018年8月25日シネマクレール★★★★「カメラを止めるな!」最初の全体の1/3のノーカットワンテイクのゾンビ映画は、正にB級ゾンビ映画であって、この後どんな仕掛けが来ても(「この映画は2度始まる」というのが作品の謳い文句)、この1/3がある限りダメだな、と思っていたのだが、一応それさえも伏線だったというのは、まあまあのアイデアでした。ともかく話題の作品なので、チェックするのが私の義務です。結果は、悪くはないんだけど、今年を代表する作品かというとそうでもない。というとっても中途半端な評価になりました。どうしても、低予算の限界というのがあって、クオリティは低くならざるを得ないのです。でも300万ではなくて、一千万近くかけたぐらいのクオリティは持っています(あの大阪のおばちゃんプロデューサーはよかった)。よくがんばっている。演技(特に劇中主演女優の演技)、ロケハン(もっと仕掛けが欲しい)、脚本等々少しだけ詰めが甘い部分がある。(解説)監督&俳優養成スクール・ENBUゼミナールの《シネマプロジェクト》第7弾作品。短編映画で各地の映画祭を騒がせた上田慎一郎監督待望の長編は、オーディションで選ばれた無名の俳優達と共に創られた渾身の一作だ。国内では「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2018」でゆうばりファンタランド大賞(観客賞)を受賞。無名の新人監督と俳優達が創った”まだどこにもないエンターテインメント”を目撃せよ!監督 上田慎一郎出演 濱津隆之、真魚、しゅはまはるみ、長屋和彰、細井学、市原洋、山﨑俊太郎、大沢真一郎、竹原芳子、吉田美紀、合田純奈、浅森咲希奈、秋山ゆずきhttp://kametome.net/index.html2018年8月30日TOHOシネマズ岡南★★★★「検察側の罪人」思いもかけず骨太だった。アイドル映画の欠片もなかった。木村が悪ぶった善人という何時もの役割じゃない、闇を深くする役割をしていつもの大根役者の悪い所があまり見られなかった。正義とは何か。検察はストーリーを作って、罪人を仕立てる。それが検察のやり方である。そう教え込めれた沖野は、しかし最後は反対の方向に行く。「こうやって冤罪は作られてゆくのね」立花さんが呟き冤罪の構造そのものをくっきり浮かばせた。骨太の映画だったという所以である。映画的な行き過ぎの趣向は、そのおまけみたいなものだろう。原田眞人監督だということを失念していた。しかし毎年毎年自ら脚本まで書いて、よくも作るものだ。いかにも映画的な映画でした。顧みれば、原田眞人監督はいつも「正義」をテーマにしている。「八月の1番長い日」「関ケ原」如りである。(解説)ある殺人事件を巡り、2人の検事の対立を描く。都内で発生した殺人事件。犯人は不明。事件を担当する検察官は、東京地検刑事部のエリート検事・最上と、刑事部に配属されてきた駆け出しの検事・沖野。最上は複数いる容疑者の中から、一人の男に狙いを定め、執拗に追い詰めていく。その男・松倉は、過去に時効を迎えてしまった未解決殺人事件の最重要容疑者であった人物だ。最上を師と仰ぐ沖野は、容疑者に自白させるべく取り調べに力を入れるのだが、松倉は犯行を否認し続け、一向に手応えが得られない。やがて沖野は、最上の捜査方針に疑問を持ち始める…。監督 原田眞人出演 木村拓哉、二宮和也、吉高由里子、平岳大、大倉孝二、八嶋智人、音尾琢真、大場泰正、谷田歩、酒向芳、矢島健一、キムラ緑子、芦名星、山崎紘菜、松重豊、山﨑努2018年8月30日TOHOシネマズ岡南★★★★http://kensatsugawa-movie.jp/sp/index.html
2018年09月16日
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今月は高畑勲追悼になりました。金曜ロードショーでこの作品をやります。ぜひ見てください。 「かぐや姫の物語」4月に岡山市出身のアニメ監督、高畑勲氏が亡くなりました。直前の2月にも赤磐市で、氏は病をおして講演をしたそうです。この『かぐや姫の物語』の背景に、郷里で土と共に生きた永瀬清子の詩の影響があったことなどを話したそうです。原作は「竹取物語」。竹から生まれたお姫様が月に戻ってゆくお話です。日本人ならば、ほとんどの人が知っていますね。けれども、原作をきちんと読んだ人はほとんどいません。かな文字で書かれた日本最古の物語は、単なるお姫様物語ではなく、批判精神旺盛で謎に満ちたお話になっているのです。高貴なはずの宮廷の中の人々を、欲望や愚かさに染まった世界に描く。そしてかぐや姫は、ある罪を得たために地上に生まれたことになっていました。罪とは何だったのか?監督は大胆な脚色を試みます。先ずは生まれてたった半年で成人に成長した姫の少女時代を、自然児として描きます。鳥虫けもの草木花、そして春夏秋を美しく描き、木地師の捨丸との交情を丁寧に描いたあと、竹取の翁は天から授かりものの姫を「幸せに」するために都に家を建てて突然引越すのです。劇中なんども歌われる印象的なわらべ歌があります。特にその後半はかぐや姫だけが(なぜか)知っていたとして、このように歌われます。「回り巡れ巡れよ遥な時よ、巡って心を呼び返せ。鳥虫けもの草木花、人の情けを育みて、まつとし聞かば今かへりこむ」ー自然に親しみ、人の心を取り戻し、愛しい人が本当に私を待ってくれているならば、すぐにでも帰ってきます。ラスト近くに明かされるその歌の真の意味が、どうやら姫が月から地球に降り立った本当の理由らしいのですが、正直、一回観ただけでは観客の私たちにはピンと来ません。アニメだから描ける詳細な時代考証、大胆な筆使いによる心理描写。高畑監督は、毎回同じタッチでは映画を作りませんでした。いつも実験作と言われるものを作って来ました。今回2回目を観て、私はやっと監督の描きたかったものが、単なる恋愛譚でもなければ、権力批判でもなく、壮大な自然賛歌であり、人間賛歌だったことに気がついたのです。言うなれば地球賛歌です。傑作でした。監督は次は平家物語を構想していたらしい。岡山空襲で奇跡的に生き延びた監督のつくる、戦争と平和の物語をホントに観たかった。心からご冥福をお祈りいたします。(2013年作品、レンタル可能、18日にはテレビ放映あり)
2018年05月16日
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3月に観た映画は10作品でした。久しぶりに二桁に乗った。比較的いい作品が多かったようにも思う。三回に分けて紹介する。「15時17分、パリ行き」終わってみて、主人公たちは事件の当事者本人たちだったのに気がつく。全く違和感がない。むしろ、ストーンなどは10キロ以上のダイエット場面(実際は太ったのか?)をやっていて、俳優魂さえ感じる。私は、94分間の上映時間をフルに事件発端から終わりまで時系列に映すのかと想像していた。違っていて、3人組の子ども時代、そして事件直前までの若者らしい旅のエンジョイを丁寧に写していた。そこでわかるのは、彼らはホントに「普通の若者」だということだ。驚くほどに。むしろ、中学生時代は、毎日校長室に呼び出され、ADDだから薬を飲めといわれ、私ならば社会的問題にするようなことを言われる。でも普通の若者に彼らは育つ。親が良かったのかもしれない。けれども、彼らはいざという時に、やるべきことをした。そのことがヒーローの本当の実態なのだ、ということも、描く。更に言えば、保守派のイーストウッドらしく、キリスト教の最良の教えを全面に出した。傑作じゃないけど、とても良い映画だった。見どころ:クリント・イーストウッド監督が、2015年8月に高速鉄道で起きた無差別テロ事件を映画化。列車に乗り合わせていた3人のアメリカ人青年がテロリストに立ち向かう姿を描く。事件の当事者であるアンソニー・サドラー、アレク・スカラトス、スペンサー・ストーンを主演俳優に起用し、当時列車に居合わせた乗客も出演。撮影も実際に事件が起きた場所で行われた。あらすじ:2015年8月21日、554人の客が乗るアムステルダム発パリ行きの高速鉄道タリスに、武装したイスラム過激派の男が乗り込み無差別テロを企てる。乗客たちが恐怖に凍り付く中、旅行中で偶然乗り合わせていたアメリカ空軍兵スペンサー・ストーンとオレゴン州兵アレク・スカラトス、二人の友人の大学生アンソニー・サドラーが犯人に立ち向かう。2018年3月6日ムービックス倉敷★★★★「嘘八百」映画とは、元々まがい物を如何に本物らしく描くか、が問われるモノである。だから、これは監督と脚本家の人生を描いているとも言える。前回の「百円の恋」は見事だった。まんまと快く騙された。今回は、どうかな、という点が1、2ある。それならば良いではないか?と言われそうだが、快く騙されるためには、1つでもあればダメなのである。ホントは5点満点で3点だった。でも、エンドロールで取り返した。そうだよね、いくらなんでもあんな多額の現金もって外国へ行けるはずがない。ただ、大の男2人がそのことに気がつかないというのは、如何なものか?いや、気がついて見逃したのだ。だから「あいつがやっと男になった」と言ったのだ。と解釈は可能かもしれない。と思ったところで、「快く騙され」つつあることに気がつく。もう一つ納得いかないのは、本物の箱と但書があるのならば、2度と使えないはずなのに、どうしてわざわざ偽物を用意するのか、どうしてもわからない。武正晴と足立紳のコンビの色はこれで行くのか、変えて行くのか、見守りたい。「夢を目指してどん底生活から一発逆転を目指す男たち、というコンセプト」まだ時代から求められている気がする。(解説)中井貴一×佐々木蔵之介、日本が誇る俳優の豪華W主演が実現!あの千利休の幻の茶器が、茶の湯の聖地で発見された。その真贋や、鑑定額や、いかに─?! 日本中を沸かせる世紀の骨董ロマンが、2018年の笑い初めにふさわしい「開運!お宝コメディ」になった。この茶器を巡って大騒動を巻き起こすのは、日本映画界を代表する俳優、中井貴一と佐々木蔵之介。いずれも人気実力ともに抜群で、ジャンルを問わない演技派だが、中井貴一は『グッドモーニングショー』、佐々木蔵之介は『超高速!参勤交代』『超高速!参勤交代 リターンズ』とヒットを飛ばしたコメディ映画主演の記憶が新しい。その二人が満を持しての本格共演。騙し騙されつつの出会いから、一世一代の大芝居を打つ痛快コンビの結成まで、がっぷり四つの丁々発止が見逃せない。脇を固めるのは友近、森川葵、前野朋哉、堀内敬子、坂田利夫、木下ほうか、塚地武雅、桂雀々、寺田農、芦屋小雁、近藤正臣らひと癖もふた癖もある超個性派俳優陣。芸達者たちのトボけたやりとりや愉快なてんやわんやに大笑い。大人による大人のためのコメディ映画が誕生した。『百円の恋』の監督と脚本家の注目タッグがさらにパワーアップ!本作は大阪・堺を舞台にしたオリジナルストーリー。『百円の恋』で2016年日本アカデミー賞優秀作品賞・最優秀脚本賞を受賞した、いま最も注目を集める武正晴監督と脚本家足立紳の再びのタッグに、更なるパワーを加えるのは、NHK連続テレビ小説「てっぱん」などで活躍する脚本家で堺親善大使を務める今井雅子。リアリティのあるストーリーテリングに、お宝鑑定好きにはたまらない骨董トリビアを散りばめ、強欲うずまく人間たちの化かし合いを二転三転させながら、ときにホロリとさせる人情話を盛り込んで、最後は思いもかけないどんでん返しに持っていく手腕は見事という他ない。実力はあるものの不運続きの人生をおくる、負け組の男二人が仕掛けた一発逆転の大勝負。日本映画界屈指の才能が年明けに送り出すのは、嘘八百からまさかのマコトにたどり着く、胸のすくような開運エンターテインメントなのである。2018年3月1日シネマ・クレール★★★★「希望のかなた」独特のゆったりとしたリズムで描かれる、北ヨーロッパの難民事情と人々の暮らし。フィンランドの人々の心の動きを出来るだけ映像として現さないやり方は、確かに日本の抑制の効いた映画にあったと思う。監督の日本好きは、明らかにやりすぎのすしバーや、すしの学習のために、なぜか藤沢周平の文庫本を2冊も買ってゆくことで知れる。イラクとシリアの若者の友情も、政府の「戦争状態にない」という裁定も、ネオナチの3回にも及ぶ意味のない暴力(しかもユダヤ人め、というわけのわからない非知性を見せる)も、本気かユーモアなのかわからない監督の独特な映像世界に助けられる。ヘルシンキなんて、ホントにあんな街なんだろうか。まるで昭和40年代の日本のように思える。(解説・物語)社会への深い洞察に満ちた、アキ・カウリスマキの新境地。無償のやさしさと辛辣なユーモアが、世界を覆う不寛容を打ち砕く。2017年のベルリン国際映画祭で観る者すべての胸に深い余韻を残し、批評家のみならず観客からも圧倒的支持を受けたアキ・カウリスマキ監督『希望のかなた』。同映画祭で見事、監督賞を受賞したカウリスマキは、前作『ル・アーヴルの靴みがき』で“港町3部作”と名付けたシリーズ名を自ら“難民3部作”に変えて、今や全世界で火急の課題となった難民問題に再び向かいあいました。シリア難民の主人公カーリドは、“いい人々のいい国”だと聞いていたフィンランドで、無情にも難民申請を却下され、ネオナチからのいわれのない暴力にさらされます。これは、やむなく故郷を離れた難民たちが、希望を求めた土地で実際に直面する現実です。そんな酷薄な現実にさらされるカーリドに、ヴィクストロムをはじめとする市井の人々が救いの手をさしのべます。カウリスマキ映画ではおなじみの、社会の片隅でつつましやかに生きる、少しばかり孤独をかかえた人々のちいさな善意が、カーリドの願いを叶え、魂を救うのです。『希望のかなた』は今、世界が忘れかけている“当たり前”の人間性を、辛辣なユーモアと無償のやさしさをもって描いたヒューマンドラマ。カウリスマキからのメッセージは、不寛容がはびこる世界に生きる私たちの、心のより所となることでしょう。主人公カーリドを演じるのはシリア人俳優シェルワン・ハジ。ヴィクストロム役のサカリ・クオスマネンをはじめとする個性的なカウリスマキ組の常連たち、そしてカウリスマキの愛犬ヴァルプとのアンサンブルを見事にこなし、映画初主演ながらダブリン国際映画祭で最優秀男優賞を受賞しました。また、物語に絶妙にシンクロするフィンランドのベテランミュージシャンによる演奏シーンの数々や、痛烈な“わさびネタ”も必見です。2018年3月1日シネマ・クレール★★★★「ブラックパンサー」この映画の落とし所を支持する。アベに観させてやりたい。しかしながら、いくら荒唐無稽SFと言いながらも、何千年も、「超文明」を育てながら、旧石器文化に由来するアフリカ文化をそっくり真似た都市つくり映像は、あまりにもアフリカを馬鹿にしていないか?太鼓ではなく、アフリカの気候に合わせた全く新しい音楽が作られなければいけないし、ヨーロッパとの交流が密かにもたれてあったとするならば、それなりの服装をしなくちゃならない。脚本で言いたいことはよくわかる。アベンジャーズに移ったら、これらの志がなくならないか、心配(見どころ)マーベルのキャラクターで、国王とヒーローの顔を持つ男を主人公にしたアクション。超文明国ワカンダの国王だった父親を失ったブラックパンサーが、国の秘密を守るため世界中の敵と戦う。監督は『クリード チャンプを継ぐ男』などのライアン・クーグラー。『42 ~世界を変えた男~』などのチャドウィック・ボーズマンがブラックパンサーにふんし、『それでも夜は明ける』などのルピタ・ニョンゴらが共演。(STORY)アフリカの秘境にあるワカンダで産出される鉱石ヴィブラニウムは、全てを破壊してしまうほどのパワーを持つ。歴代の王は、悪用されないように鉱石の存在を極秘にしていた。若くして王になったティ・チャラ(チャドウィック・ボーズマン)は、謎の男エリック・キルモンガー(マイケル・B・ジョーダン)がワカンダに潜入しようとしていることを知り……。(キャスト)チャドウィック・ボーズマン、マイケル・B・ジョーダン、ルピタ・ニョンゴ、ダナイ・グリラ、マーティン・フリーマン、ダニエル・カルーヤ、レティーシャ・ライト、ウィンストン・デューク、アンジェラ・バセット、フォレスト・ウィテカー、アンディ・サーキス(スタッフ)監督・脚本:ライアン・クーグラー脚本:ジョー・ロバート・コール2018年3月12日Movix倉敷★★★★
2018年04月11日
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楽天ブログは、毎日よく読まれた記事のベスト5を教えてくれる。時々、自分で書いてすっかり忘れていた記事が出て来て、自分でその文章に感心することがある。重松清「その日のまえに」の場合もその一つであり、その感想に導かれて、最近それを原則とした映画を見た。まだ見ていないと思っていたからであるが、実は最後まで見ると一回見て、なおかつ記事に書いていることが判明した。そこで、前回の記事と今回の記事、二つ並べてみることにした。先ずは、前回の記事、9年前の記事である。(以上の文は18.03.19に記入)『その日のまえに』どこも まっしろ2009年01月13日カテゴリ 邦画(09~) (121)日曜日に見た『青い鳥』の場合は、村内先生は石川啄木詩集の愛読者であった。いじめというリアルな現実の前には、啄木のほうが確かにあっているような気がする。例えば、気の変わる人に仕えてつくづくとわが世がいやになりにけるかな打ち明けて語りて何か損をせしごとく思ひて友と別れぬ(映画の中では一首も紹介されなかったが)そんな歌の中の現実が、これから向かう学校の現実の真の姿を探す手助けにもなっただろう。同じ原作者のこっちの映画の方は、結局宮沢賢治が大きくクローズアップされた。どちらの原作にも、実は啄木も賢治も出てこない。けれども、この二人が脚本に使われたのは偶然ではないだろう。岩手県出身の二人の詩人はどちらも言葉の天才で、東北の重く垂れ込める空が、どちらも登場人物の心像風景にぴったり合うのだろう。監督 : 大林宣彦原作 : 重松清脚本 : 市川森一出演 : 南原清隆 、 永作博美 、 筧利夫 、 今井雅之 、 勝野雅奈恵原作は既に読んでいる。けれども、冒頭から明るい音楽とともに始まる。ずいぶんと原作とは違うタッチで描かれる。ガンで死ぬ人たちの話であるが、泣かす映画にしてしまっては、確かにつまらない。人はその日のまえにどのようにすごし、その日をどのように迎え、その日のあとをどう生活して行くのだろう。映像と見せるためには、むしろ泣くのはほんの少しでいい。あとは淡々とした明るいタッチの方がいい。肝心の心の部分を、宮沢賢治の『永訣の朝』が代弁する。けふのうちにとほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよみぞれがふって おもては へんに あかるいのだ(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)(略)ああ あの とざされた 病室のくらい びゃうぶや かやの なかにやさしく あをじろく 燃えてゐるわたくしの けなげな いもうとよこの雪は どこを えらばうにもあんまり どこも まっしろなのだあんな おそろしい みだれた そらからこの うつくしい 雪が きたのだ(略)詩に託して、雪の岩手県の映像が流れる。その静かな白さが、私には心地よかった。原作は去年一番泣いたものだった。映画は泣きはしない。けれども、死を迎えるということはこういうことなのだ、と静かな気持で納得できる映画であった。(以上の文は09.01.13記入)以上が9年前の映画の感想。この半年前に、私は父親を亡くしている。だからこそ、小説を読んで大泣きし、映画を観てこのようにしんみりしている。それから、9年後にDVDで観て何を思ったか?以下がその感想だ。「その日のまえに」(2008)大林宣彦監督作品10年前のDVDを観る。永作博美のガンの発病と、夫の南原清隆の葛藤を縦軸に、幾つかの生死の物語を描いた作品。多くは重松清の原作に依ってはいるが、クラムボンの「永訣の朝」がずっと流れたり、迎え火の代わりの花火大会に、全ての死者を集合させたり、大林宣彦監督らしい演出も目立つ。演出があまりにも大林宣彦監督監督していて、原作読了時のように泣ける映画にはなっていなくて、なんか乾いた笑さえ出てくる。この時は元気だった今井雅之や峰岸徹が、そのあと少ししてガンで死ぬなんて、この時にはみんな思いもしなかったに違いない。また、大林宣彦監督自身がガンに侵されながらも、克服して10年後に作品をものにするなんて、思いもしなかったに違いない。(以上の文は18.03.01に記入)この湿度の違い!どちらの感想がより読ませるか、と言えば、私は9年前を挙げる。もちろん、どちらの感想もわかりにくいという欠点はある。しかし、映画からどちらがより豊かなものを得たか?で比べれば、あまりにも明瞭であるからだ。と言われて、現代の私はもう少し絞り出す。大林宣彦監督は、お涙頂戴にワザとしなかった。本来ならば、発病の発端があり、告知があり、紆余曲折を経て死亡(ここで観客を泣かす)、そして最後の手紙の場面へと移る(「忘れてもいいよ、」という言葉で余情をつくる)のがセオリーだと思う。しかし、映画では、何度も時制が行ったり来たりする。実はこれは、最初の場面から既に終わっていて、その先の南原の回想から始まっていたのだ、と見るのが最も分かり易い観方ということになる。これは日本文学の伝統である。構造がないのである。「その日のまえに」をいくら私たちが映画で観たとしても、必ず終わってみれば、「その日のあと」の物語になるだろう。それならば、最初から終わっていた方が、ホントの「その日の迎え方」になるだろう。と、監督が考えたとしても、無理はない。結果的にはヒットしなかった。永作博美を自分の妻として、勘違いできないからである。とし子という名前にして、永訣の朝を何度も歌わせ、わかりにくいその詩に、とし子の死を重ね合わせる。という凝った演出に、共感したものだけが、この映画に満足しただろう。(以上の文は18.03.12に記入)
2018年03月19日
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今回の映画評は「この世界の片隅に」です。「お前だけは、この世界で普通でまともであってくれ」すずの幼なじみの水原さんはそう云って戦場の海に帰って行きました。本編の最後にすずは、夫の北條周作に向かい「この世界の片隅で、私を見つけてくれてありがとう」と言います。いや、私たちこそありがとう。こんな世界を見つけてくれて。何度観ても発見がある。正に映画です。ちょっとぼんやりしたところのある少女すず(声・のん)が、広島から軍港呉の町に嫁に行った戦前戦後のことを描いたアニメです。機会があれば、映画館の大画面で観て欲しい。DVDで見るのならば、隅から隅まで画面の片隅にも気を配って欲しいと思います。私が2回目に観たのは、広島の映画館でした。その前にすずの実家の江波を歩いていたのですが、江波の旧広島地方気象台(現気象館)がさりげなく描かれていて感動しました。あるいは、戦争終盤の呉の町を俯瞰で写したときに、家々の屋根に所々黒い穴が空いています。あれは、焼夷弾の穴に違いないと思います。普通の人は絶対に気がつかなくても、確実に当時の風景や生活を再現しようという、監督の執念を感じました。戦争は、たくさんの大切なものを奪っていきました。とっても絵が上手かったすずの右手、5歳ながらも軍艦の名前を全部覚えていた利発な姪の少女、広島の両親や妹の許嫁、鬼(おに)いちゃんこと南洋戦線で散ったすずの兄、初恋の幼なじみ、ひとつひとつの店の名前や住人まで調べて描かれた広島の街や呉の町。その全てが、戦争や原爆で消え去りました。それを劇的に悲しく描くのではなく、誠実に画面をつくることで提示するのです。それでも、遂には北條家の人々の笑顔までは奪うことはできませんでした。白タンポポが主流の呉の町に、一つふたつ咲いている黄色いタンポポは、すずです。根付いて風にそよぐ風景が、この作品のテーマです。本篇が終わったあとに、おまけがあります。クラウドファウンティングで一定額以上出資した個人・団体の名前を紹介する場面に、すずの失われた右手が、遊女白木リンの儚い半生を描きます。最後にその右手が観客の私にさよならをした時に、それまでなんとか堪えていた私に滂沱の泪を流させました。傑作でした。(原作・こうの史代、2016年片渕須直監督作品、レンタル可能)
2018年03月14日
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今月の映画評です。「湯を沸かすほどの熱い愛」去年の1月に、岡山ではイオンシネマだけで公開されたので観ていない方は多いかもしれません。全国公開は2016年。「シン・ゴジラ」や「この世界の片隅に」等の豊作年に埋れて目立っていませんが、傑作です。先ずは女優2人がいい。銭湯の女将双葉役の宮沢りえは、ガンで余命3ヶ月と宣告されます。彼女は数時間泣き崩れますが、立ち直ります。唯一病気を知らせた夫に対しては「私は少しの延命のために生きる意味を見失うのは、絶対にイヤ!私には、まだやらなければならないことがある」と言って、命を削りながら閉店休業だった銭湯の再開等々の懸案事項をこなしてゆくのです。赤い色が好きで、終始「強い性格」を通しますが、時折見せる「弱さ」の表情が秀逸です。娘の安澄役の杉咲花は、高校で制服を盗まれたりしてイジメにあいます。「逃げちゃダメ」という双葉に対して、「わかってないよ 。お母ちゃん!私は立ち向かう勇気はないの。私はお母ちゃんとは全然違うから」「何にも変わらないよ。お母ちゃんと安澄は」このあと安澄はイジメを克服して「やっぱりお母ちゃんの遺伝子少しだけ残っていた」と、2人抱き合うのです。この前半のエピソードだけでも感動ものなのですが、実はこの2人のセリフが、後でもっともっと深い意味を持ってゆくのです。ネタバレするので、詳しくかけませんが、唸る脚本でした。子役出身の杉咲花は、最初子供の様な表情で登場するのですが、作品の中でみるみる大人びた女性になっていきます。彼女は女優としても見事に成長しました。優しいけど頼りない、1年行方不明だった夫(オダギリジョー)。その元妻(篠原ゆき子)。お母さんに捨てられた九歳の女の子(伊東蒼)。母親の病死をずっと娘に伝えられない、やもめの探偵(駿河太郎)。人生に立ち向かえないヒッチハイクの若者(松坂桃李)。そして安澄。双葉以外はみんな「逃げて」いました。双葉のお陰で、ギリギリ立ち止まります。そして、この「湯を沸かすほどの熱い愛」という題名が、作品冒頭ではなく、作品最後に出てくる演出にも、大きな意味があります。監督と脚本は、これが長編第一作目という中野量太。楽しみな監督が増えました。(2016年作品、レンタル可能)
2018年02月18日
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この4日間、〆切地獄に沈んでいました。のたうち廻っていたわけではなく、何もすることが出来なくて、無為に時が過ぎるのを眺めて、地獄に落ちていたわけです。それでも、いつかは「始める」時がやってくる。韓国のことわざに시작이 판이다 と云うのがある。「始まりは、半分だ」始めることさえ、できたならば、もうそれで半分は達成している、という意味です。韓国語の先生が、「初心忘れるべからず」と似ているということで教えてくれた。私の場合は「遅筆病」として、「始まりは、九割だ」という意味を持つ。実際、50時間以上無為に過ごして、5時間で仕上げた。情けないが、なんとかヤマを超えた。あとは来月5日までにもう一本原稿を書かなくてはいけない。あっ、この間にUPした記事は全て、ずっと前に仕上げていた記事です。もうストックが無くなったので、こんな駄文を書いています。序でに云うと、その「無為の時間」の時に、ネットビデオで「深夜食堂」を観た。良かった。(解説)安倍夜郎の人気コミックを原作に、深夜しか営業しない小さな食堂で織りなされる人間模様を描いて好評を博したテレビドラマ「深夜食堂」シリーズの劇場版。繁華街の路地裏にある深夜営業の食堂「めしや」には、マスターの料理と居心地の良さを求めて毎晩たくさんの人々が集まって来る。誰かが店に忘れていった骨壷をめぐって常連たちが話に花を咲かせる一方、愛人を亡くし新しいパトロンを探すたまこは、店で出会った青年と意気投合する。また、無銭飲食をきっかけに住みこみで働くことになったみちるは徐々に店になじんでいくが、ある事情を抱えていた。テレビドラマ版に続いて主人公の寡黙なマスターを演じる小林薫をはじめ、多部未華子、オダギリジョー、高岡早紀ら実力派キャストがそろう。監督はテレビドラマ版も手がけた「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」の松岡錠司。スタッフ監督松岡錠司原作安倍夜郎撮影大塚亮照明木村明生美術原田満生キャスト小林薫(マスター)高岡早紀(川島たまこ)柄本時生(西田はじめ)多部未華子(栗山ちはる)余貴美子(塙千恵子)筒井道隆(大石謙三)菊池亜希子(杉田あけみ)田中裕子(塚口街子)オダギリジョー(小暮)不破万作(忠さん)綾田俊樹(小寿々)松重豊(竜)光石研(野口)安藤玉恵(マリリン)須藤理彩(ミキ)小林麻子(ルミ)吉本菜穂子(カナ)テレビのシリーズと同じセットを使っているので、映画館で観るのはどうかと思うが、台湾の街で、この映画が人気あるのが分かる気がする。世の中からほんの少し外れた人たちが、深夜の食堂に集まり、あまりベタベタせずに、しかし思いやって生きている。台湾の街にもありそうな食堂である。人は優しさだけでは生きていけないが、優しくされなければ、優しくしなければ、生きてはいけない。
2017年11月27日
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〆切よりも、二日遅れで投稿した労組機関紙連載の今月の映画評です。幸いにも、落とさずに済みました。ありがたや。「太陽の蓋」 原発事故にインスパイアされた「シン・ゴジラ」が、夏映画の話題をさらって暴れまくっていた頃に、ひっそりとシネマ・クレールで上映されて静かにフェイドアウトしていった、日本最初の本格的な原発事故映画がありました。この作品も頻繁に閣議や危機管理センターの場面が出て、現代ポリティカル映画になっています。フィクションだと謳ってはいますが、菅直人(三田村邦彦)や枝野幸男(菅原大吉)などの政治家の名前は全て実名で出ていていることに、事実に即して作っている製作者の自負を、私は感じました。私はゴジラと共にこれがコインの裏表の作品だったような気がしてなりません。 しかし、この作品は残念ながら、傑作とはなりませんでした。不要な台詞や場面があったり、テンポが悪い。なおかつ、製作者の想いかもしれないが、民主党(当時)の事情に時間を割きすぎている。しかも、最大の悲劇を免れたのは、たまたまだったのか、それとも何かあったのか、1番大事な場面が描かれていません。それでも私はこの作品を皆さんに紹介したい。民主党プロパガンダ映画ではない。「人はすぐに忘れるものだ」「まだ何も終わっていない」ウソは描かれてなく、誠実な作品だと思います。去年何故か、全てのテレビ局は一切宣伝しませんでした。これが日本人の民度なのかもしれません。私は、こういう作品を記憶することで、反原発運動も豊かに出来ると思います。 いま、国民のどれほどが、あと一歩のところで、第四号基がメルトダウンし、東京を含めた250キロ圏内が全滅するところだったと知っているだろうか。太陽の蓋をコントロール出来なくて、そして今もコントロール出来ていないことを知っているだろうか。 東京電力(映画の中では東日電力)の隠微体質は、この映画の中で幾つも幾つも出てきます。国民のどれだけの人が、電源車が到着してもプラグが合わなくて、冷却機が作動しなくかったことを知っているだろうか。その他、東電が情報を遮断して官邸対応が後手後手に回ったことを認知しているだろうか。 「シン・ゴジラ」のテンポで作れば、この2倍の情報量と緊密したドラマが作れるかもしれない。やがて作るべき本格的なエンタメ原発事故映画のために、今はこの貴重な作品を一人でも多くの人が見て欲しいとも思う。 実はDVDには、特典映像として3つの各数分のスピンオフドラマがついていました。これが下手をすると本編よりも少し良い。(佐藤太監督2016年作品レンタル可能)
2017年08月16日
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「クリーピー 偽りの隣人」 去年観た映画の中で、1番の問題作を紹介します。観たのはちょうど去年の今ごろ。結局、秋の始りの頃まで、この作品のことが頭を離れませんでした。映画的には、決して傑作というわけではありません。黒沢清監督の特徴なのですが、省略があまりにも多くて想像力も膨らませるけど、わかりにくい処もあります。私的には肝になる人心コントロールの道具が安易過ぎる気もしました。 これは、ある連続殺人事件を扱った作品です。犯人は最初からあまりにも怪しいので、ここでネタバレしますが主人公(西島秀俊)の隣人(香川照之)です。隣人が誰をどうやって殺したか。簡単にいうと、マインドコントロールで被害者が被害者を殺すのです。そこがこの作品のクリーピー(おぞましい)処であり、なぜ殺したのかを考えると、最もおぞましくなります。観た直後、少し気になって原作の基になった事件を扱ったノンフィクション本を読みました。それがひと夏かけて、この作品のことを考え続けたきっかけになりました。それは「消された一家 北九州・連続監禁殺人事件」(豊田正義 新潮文庫)です。映画では、犯人の娘とされていた澪(藤野涼子)は、時々「あの人父親じゃありません」とはいうものの、自然に親子の振る舞いをしていたし、毎日学校にも通っていました。そこまでマインドコントロールができるものなのか?私はこれだけは映画的「ウソ」だと思っていました。しかし本書を読むと、この事件の生き残りで通報者17歳の少女は小学校と中学校に「通学」していたのです。そして、詳細は省きますが、事実として親子、親戚同士が殺しあっているのです。 映画は、いかにもフィクションみたいに推移して、あっけないラストを迎えます。けれども、その終わりからとんでもないリアルな闇が覗いている事に気がつく。実はそんな映画なのです。 関連書を読んで、私はマインドコントロールが可能ないくつかの法則がある事に気がつきました。密室性、絶対的な権力者、思考能力をなくさせる環境、それぞれを疑心暗鬼にさせ密告を奨励し孤立化させる仕組み、罪の意識の植え付けと殺人に無感覚になる価値観の変換。それらが整うと、人は人を平気で殺すのです。 そういう環境は、過去、日本でも歴史的につくられたことは無かったでしょうか。そうです、戦前の日本が正にそうだったのではないかと、私は思いました。 「クリーピー」は、去年の最もホラーな作品でした。(2016年作品、レンタル可能)
2017年06月19日
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14日の日曜日午前中に録画した番組を観て作ったのが、この具だくさん味噌汁です。各界で活躍するヒーローやヒロインたちが子供時代に食べてきた家庭料理を軸に、家族の愛を描くドラマトークバラエティー。NHK岡山が、2017年度の新番組として季刊放送するらしい。第1回タイトルは『辰吉丈一郎』ご存知のように、彼は岡山県倉敷市児島の出身である。しかも、私よりも10歳歳下だから、私が23歳で社会人になったときに、彼は児島の中学校で有名なガキ大将をちょうど始めた頃になるだろう。「46歳の今も世界王者への返り咲きを目指して現役生活を続ける不屈のプロボクサー辰吉丈一郎を迎える。故郷・児島から大阪へ修業に旅立つまでの15年間の子供時代を男手一つで育て上げ、52歳の若さで亡くなった父・粂二。母がいないことでイジメにあって苦しんでいた丈一郎にボクシングを教えた粂二が、その無骨な手で毎日作り続けた"ごちそう"によって不死鳥ボクサーのカラダは作られた。丈一郎が愛して止まない亡き父のレパートリーとは?!( ※ 辰吉丈一郎の吉の字の上半分は士ではなく土。丈の字の右上には点が付く。)」と、ホームページには書かれている。ひとつが、具だくさん味噌汁であり、ひとつが卵焼きだった。米は鍋で炊いた。私が作った味噌汁(写真)は、この番組で辰吉が作ったそれとは違う。具には、麩、玉ねぎ、じゃがいも他のいろんな具が入っていた。しかしいいのだ。要はあり合わせの野菜やタンパク質が取れればいいのである。特徴は、その切り方にあった。必ず子どもが食べやすいように、薄く切っていた。無骨だけど繊細。それはそのまま辰吉の血と肉になった。残念ながら、辰吉がいた15歳までを、私は児島の方面に仕事に出向かなかった。私が30歳代で児島方面で仕事をしていると、辰吉が世界チャンピオンに何度も返り咲いた頃で、「辰吉は味野中学校で、ものすごいヤンチャしてたんだぜ」という噂は聞いた。辰吉は中学校卒業後、先生の勧めで大阪に出向いてボクシング修行をすることになった。長屋形式の借家で、時には自分は飯を食べずに辰吉を育ててきた粂二は、先生の勧めを直ぐに引き受けたらしい。その気持ちを辰吉が汲むのは、ずいぶんあとになっての事になる。辰吉は、根っからのファイターチャンピオンだった。負けても、網膜剥離になっても返り咲いた。その頃粂二は、「俺の役目は終わった」とばかり辰吉の誘いを断り岡山を出る事もなく、飯も作らず、毎日酒と缶コーヒーを飲んでいたという。辰吉がチャンピオンになっても、粂二は周りに威張ることはなかったが、時々辰吉の中学校の友達には「丈一郎はすごいけど、わしもすごかろうが。わしがミルクつくってオムツかえて、全部しよったんで。信じれんじゃろうが。こんなかっこしとっても、する事はしてきとったんで」と言っていたらしい。98年、チャンピオンベルトを失った翌年、粂二死去。辰吉は誓う。「チャンピオンになるまで、お父ちゃんの骨を墓に入れない」。それから18年、今でも現役に拘っている。
2017年05月16日
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「あん」 昨年岡山ではイオンシネマだけで上映された作品なので、観た人は多くないかもしれません。ただ異例のロングランヒットを続け、アンコール上映さえ行われました。 どら焼き屋の雇われ店長千太郎(永瀬正敏)の店に、桜が満開のある日に徳江(樹木希林)というヨボヨボの老女が「時給三百円でもいいから働かせてくれないか」と頼んで来ます。最初断った千太郎も徳江の作ったあんこが美味しくて採用。その粒あんが評判を呼んで店は繁盛しますが、徳江が実はハンセン病だという噂が立って、客足が一挙に途絶えます。 もちろんこの病は伝染する事はないので、患者が食べ物を作っていたからと言って心配する事はないのです。けれども、この作品は差別反対をテーマにはしていません。なんとなく世間に引け目を感じて伏し目がちに悲しい目をして生きている人は、実はハンセン病患者以外にも多くいると思う。千太郎も刑務所からの出所して来た男でした。物語が進むにつれて、哀れな老女だった徳江と、いわれ無い差別に憤る千太郎の立ち位置が逆転して行く様が見事でした。 「店長さん、美味しいときは笑うのよ」 「私たちはこの世を見るために、聞くために、生まれてきたんだ。だとすれば、何かになれなくても、生きる意味があるのよ」徳江さんの長い人生で掴んだ結論には普遍性があると私は思います。人間としての尊厳とは何か。それが「あん」の美味しさに凝縮するという面白さ。監督は河瀬直美です。ドキュメンタリータッチの作風を嫌う私の映画仲間もいるのですが、今回はドリアン助川の原作つきのせいか、とても緊張感のあるドラマになっていてびっくりしました。 それにしても、最後の主演作かもしれない樹木希林の演技は凄まじく、永瀬正敏の涙を見せない泣きは絶品でした。樹木希林の孫娘内田伽羅の存在は、この作品世界を濁りのない目で見る視点を作っていたと思います。そして、「釣りバカ日誌」で優しい妻を演じていた浅田美代子が、今回は悪人じゃないけどとっても嫌らしい女性を演じていて、とっても感心しました。 ラストは、また満開の桜の樹の下で終わります。(2015年作品、レンタル可能)
2016年11月23日
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映画のパンフは買わないことにしている。当たり外れがあまりにもあることが一つ。いちいちパンフを買っていたら、年間映画予算11万円を遥かにオーバーするからが、一つ。もう一つは、映画を観た記念は、私にとっては自ら毎回書いている映画評をキチンと保存し、ブログやFacebookでアウトプットすることでさらに磨きをかけることで十分出来ていると思っているからである。 でも、「スターウォーズ・フォースの覚醒」と「シン・ゴジラ」は買った。この10年間で買ったのは、この二冊だけだ。どちらとも発行部数はかなりあるから、希少価値は追い求めてはいない。純粋に「ミーハー的な興味」からである。どちらも満足した。 庵野監督の2015年4月1日の製作時のコメントより、少し抜粋する。 (略)過去の継続等だけでなく空想科学映像再生の祈り、特撮博物館に込めた願い、思想を具現化してこそ先達の製作者や過去作品への恩返しであり、その意思と責任の完結である、という想いに至り、引き受ける事にしました。 今しかできない、今だから出来る、新たな、一度きりの挑戦と思い、引き受ける事にしました。エヴァではない、新たな作品を自分に取り入れないと先に続かない状態を実感し、引き受ける事にしました。 (略)ゴジラが存在する空想科学の世界は、夢や願望だけでなく現実のカリカチュア、風刺や鏡像でもあります。現在の日本でそれを描くという無謀な試みでもあります。(略) 実際ここに宣言した事を、監督はやり切った。拍手したい。 詳しいあらすじと多くの写真、そしてプロダクションノートで構成された、このパンフは、来年おそらく書くであろう900字あまりの映画評のための基礎資料になる。 その時には「庵野監督は"最初の宣言通り"シン・ゴジラを"一度きりの挑戦"としなくてはならない」と書くつもりだ。シン・ゴジラの続編は、私でもいくらでもプロットが思い浮かぶけれども、どれもが「第二のエヴァ化」に向かうとしか思えない。決してやってはいけないのだ。庵野監督におかれましては、全力でエヴァ完結編に取り組んで欲しい。
2016年10月05日
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8月15日になると、ニューギニアで亡くなったとという母親の兄(私にとっては伯父)のことを思う。とっても優秀でやさしいお兄さんだったと云うことぐらしいしか、母親からは聞いていない。南方戦線で亡くなった兵士のほとんどが餓死だったと聞いたのは、それよりもずいぶん後のことである。母方の家は二人の兄が戦死して、一人の弟がずいぶん後に帰ってきた。一人の妹と病気がちになった両親の面倒を12歳になったばかりの母親が一身に背負った。母親が亡くなって初めて聞いたのだが、両親のうち父親は自殺したらしい。そんなことんなで、「野火」は私にとっては特別な作品である。今月の映画評です。「野火」 「観て良かったと思います。でも、もう二度と観たくありません」去年の夏、映画サークルの感想の中で、1人の若い女性がそう言いました。その言葉が、この映画の内容を端的に表していると思います。フィリピン・レイテ島の悪夢の戦場を描いた、昨年戦後70年目の戦争映画渾身の一作です。 冒頭、肺病の田村一等兵(塚本晋也)は部隊と病院との間を二往復たらいまわしされます。それはまるで「上からの命令は絶対」の現代の会社人にも当てはまる理不尽な仕打ちでした。しかし、すぐにその事態は、米軍の機銃掃射によって終わりを告げます。戦争は「日常的な人間関係」をも壊すのです。 そこからは現代人の理解を超えた、非人間性の世界が描かれます。現地人を撃ち殺す兵士、頭を打ちぬかれ飛び散る脳漿、地面に転がる片腕、飢餓で幽鬼になる多くの兵士、サルと称して食人をする兵士。 大岡昇平原作に忠実であっても、田村の独白で話が進む原作とは違い、映画では目の前に鮮明な地獄図が広がります。「俺が死んだら、ここを喰ってもいいよ」と腹を見せる伍長(中村達也)や、何を考えているのかわからないおっさんこと内田(リリー・フランキー)など、共演者も鬼気迫る演技を見せます。「お前も絶対俺を殺して喰うはずだ」と迫る永松(森優作)の顔のアップのあとに、果たして田村はどうしたのか、原作も映画もハッキリは描いていませんが、私は帰国したあとの場面を見せたことで、監督の解釈はハッキリしたと思いました。しかしそれさえもどうでもよくなりました。「野火」はインテリの田村が果たして食人をしたのか、がテーマだとずっと思っていたのですが、そうではなくて、この作品全体が見せる「生き地獄」こそが大岡昇平や監督の見せたかったものだと思いました。 もう観たくはない、けれど一度は観なくちゃいけない。塚本晋也監督は、私と同じ歳でした。20年間準備してきたらしい。この時代だからこそ、使命感に駆られてつくったらしい。私の世代は、小さい頃から戦争体験者の話を直に聞いてきた最後の世代です。監督の気持ちはよくわかります。 部屋を暗くして観ないとよくわからない場面があります。また、戦場と対比的に描かれる、南国の鮮明な白い雲と青い海、緑の山々の自然が印象的で、そこだけホッとします。同時にとても哀しくなります。(2015年作品、レンタル可能)
2016年08月15日
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今月、県労会議機関紙に連載している映画評に載せた作品はこれでした。世にある「不当に評価されている作品」の一つの典型だと思います。映画評「予告犯」昨年のマイ評価では、実は邦画年間ベストワンでした。傑作です。けれどもあまりもの周りの低評価に、つい邦画三位に落としてしまいました。後悔しています。私は周りの批判にここで反撃したい。監督は『ゴールデンスランバー』の中村義洋。私的に一度もハズレがない大好きな監督です。「勘違いするな。俺は自分のためにやっているんじゃない。明日の予告を教えてやる」そういうネット動画が突然立ち上がります。法では裁けぬ悪や罪をネット上で暴露し、その対象への制裁を予告しては実行する謎の予告犯シンブンシたち(生田斗真、鈴木亮平、濱田岳、荒川良々)の物語です。CMではその設定だけが流されたので、こういう「私設警察」は「正義か悪か」というテーマだと勘違いした人が多かったようです。実際は全然違う話でした。ブラック企業、貧困ビジネス、貧困の連鎖、メディアと世論、それらの「現代社会」の問題を告発する、しっかりとした社会派作品でした。サイバー犯罪対策課課長の吉野絵里香(戸田恵梨香)が、彼らの主張と対立する存在として登場します。吉野も貧困出身でした。しかし努力で東大を出て今の地位を勝ちとった女性です。「自分の境遇を社会のせいにするような奴は反吐が出る」と言う。そんな吉野も次第に理解してゆくのです。ブラック企業に入ってしまって一度職歴に空白を持つと、二度とまともな雇用に戻れない現実がある。予告犯は云う。「頑張れるだけ、幸せだったんですよ、貴女は」。このくだりは原作にはない映画オリジナルです。自己責任論が飛び交う社会に対して、一石を投じる内容でした。それでも、現実のネットの作品評価は厳しかった。「あの(真の目的の)ために、あんなことまでするのはリアリティがない」。詳しいことは書けませんが、最後の二転三転が不評でした。私は言いたい。あなたたちは彼らの絶望がわかっていない。生きてゆくのに必要な経済的な展望、そして人間としての尊厳。それが閉ざされた時に選んだのがあの計画でした。想像力を持って観て欲しい。「あなたにはわからない。大きなことじゃなくても、動くんです、人は。それが誰かのためになると思えば」絶望から生まれた小さな希望。私は分かった、つもりです。(2015年作品、レンタル可能)
2016年07月18日
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県労会議機関紙に掲載された今月の映画評です。「百円の恋」 去年観た映画で、ベスト2の作品を紹介します。負けっぱなしで百均のように安っぽく見られる人生。そんな女が、百円ショップから始まった初めての恋だけど、恋を原動力に再出発する話です。恋だけは百円ほど安くはない。 私は一生懸命頑張る女の子の話に弱いんです。安藤サクラは女の子じゃないけど、32歳ならば私にとってはギリギリ女の子みたいなもの。 冒頭にぶよぶよに太った彼女が出てきます。 その役者魂、見事です。実家で自堕落な生活を送るニートの一子(安藤サクラ)は妹とのケンカをきっかけに家を出て百円ショップで働き始めます。この店が、また負け犬の吹き溜まりのような店。そんな時、ボクシングジムで練習する狩野(新井浩文)と出会い、不器用な恋が始まるのです。 一子が狩野に恋をする理由は、実はよくわかりません。でも恋が生き方を変える原動力になるのはよくわかります。狩野と同じボクシングを始めてみたり、手料理も作り出す。狩野は引退試合にも負けていたせいか、そういう彼女の変化にいや気がさして去ってゆきます。失恋してから、一子はボクシングに打ち込み、プロ資格をとるのです。 この時の安藤サクラの頑張りが鬼気迫ります。しかもインタビューを読むとたった10日間で絞ったという。いくら役の上だといっても、すごいです。是非、映像で確かめて欲しい。 安藤サクラは名俳優や名監督を家族に持つサラブレッドの家系です。しかしこの作品では彼女は、700人以上のオーディションを勝ち抜いて自力で主演を獲っています。そんなハングリーさがよく作品に出ている。日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を獲ったのも当然です。 クライマックスはガチのボクシングの激しい試合でした。完全ボクシング体型と技術を持った彼女の「痛い」試合を観ることが出来ます。 そして、ラスト。ある方向に歩いて行くんだけど、作品的には必然かもしれないけど、私は完全に親心になっているから「オイオイ、そっちはダメだよ」と心のなかで叫んでいました。 脚本は第一回「松田優作賞」グランプリの足立紳。監督は武正晴。(2014年作品、レンタル可能
2016年03月16日
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今月の映画評はコレです。「妖怪大戦争」 お正月映画として何を紹介しようかと悩んで高畑勲「かぐや姫の物語」を用意していたのですが、書けば書くほど難解なモノになってきたので、急遽先日亡くなられた水木しげるさんゆかりの「妖怪大戦争(2005)」にしようと思います。これだと、完全エンタメで家族で楽しめます。 ひょんなことから「麒麟送子」に選ばれた少年が妖怪たちと力を合わせ、人類を滅ぼそうとする魔人(豊川悦司)と戦う姿を描いた冒険ファンタジーです。 水木しげるさんの原作ではないのですが、プロデュースに関わっていて、荒俣宏、京極夏彦、宮部みゆきたち妖怪大好き作家たちが全面協力している(出演までしている)ので、映画「ゲゲゲの鬼太郎」よりも遥かに「妖怪愛」に溢れていると感じました。妖怪たちが「人間に媚びていない」のです。妖怪大将ぬらりひょんは、人類の危機に立ち上がりそうになりますが、拒否します。結局妖怪たちが魔人たちと戦うことになるのは、もっと他のとんでもない理由からなのです。 ところで、ぬらりひょんには今は亡き忌野清志郎、主人公のお爺さんに故・菅原文太が出演。今から考えれば凄い配役となっています。主人公タダシの神木隆之介君はまだ10歳ちょっとの頃で、とっても可愛い。その他、何百人と登場する妖怪たちは、一切CGを使わずに、みんな着ぐるみで化けています。誰がどんな妖怪になっているのか、見つけるのも大きな愉しみです。そもそも妖怪の名前わかるでしょうか?主な妖怪だけでも、猩猩、川姫、川太郎、小豆洗い、一本タダラ、大天狗、砂かけ婆、ろくろ首、雪女、豆腐小僧、大首、油すまし、姑獲鳥が出てくるのですが、わかるでしょうか?子どもと一緒に名前を当てに行くのも楽しいですよ。 至る所に、おごる人間に対する戒めが隠されています。曰く『過去を知らなければ未来はない』『復讐するのは人間の証し。私はそこまで穢れたくない。だから、人を救い、人を赦す』 そして最後に水木しげるが扮する妖怪大翁が登場して含蓄ある言葉を発して悠然と去っていきます。『勝ち戦?ばかいっちゃいけませんよ。戦争はいかんです。腹が減るだけです』 この台詞は水木しげるさんに自由に任されたそうです。南方戦線で九死に一生を得た水木さんの偽らざる想いだったのでしょう。(2005年作品、監督三池崇史)
2015年12月18日
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「超高速!参勤交代」 去年の邦画の中では、もっともバランスの取れた娯楽作品でした。大笑いはないけれど、それなりに笑えて、それなりにきちんと歴史考証していて、サービス満点の殺陣もあり、実力派俳優は勢ぞろいしていて、合格品のエンターテイメント作品でした。そして、こういう言い方は形容矛盾かもしれませんが、社会派時代劇でした。 通常でも8日かかり、莫大な費用がかかる参勤交代を5日で行うよう幕府から無理難題を押し付けられた東北の小藩が、奇想天外な作戦の数々でピンチを切り抜けようとする様を描いています。 エンタメなので、困難は幾度とあれども最終的には参勤交代は成功します(ネタバレごめんなさい)。主人公の藩主・内藤政醇(佐々木蔵之介)は、弱者や貧乏人の気持ちも良く理解するでき過ぎの藩主です。江戸城到着遅参の責めを負わせて、廃藩にしようとした老中・松平信祝(陣内孝則)の企みが潰え、ボロが明るみになった敵役に対しての、ラストの決着の付け方が、私的に気に入りました。中央集権国家の江戸時代でも、理不尽な裁きは許されない。佐々木蔵之介は見栄を切ります。 敵役の老中だけではなく、老中の失点を利用して派閥争いに勝とうとしている大老(石橋蓮司)にも、皮肉な一言を、本来そんな事を言える立場ではない女郎の深川恭子に言わせています。あくまでも目線は、弱者や貧乏人に置いているのです。 普通の作品は、ここくらいで十分メッセージが伝わります。でも本木克英監督はあともう一つどうしても言わせたい一言があったようです。将軍吉宗(市川猿之助)に対して内藤政醇は無理やり言質をとります。それは「磐城の土を殺してはならぬ。とこしえに」でした。これは自藩の安堵を保証させると共に、原発事故を想起させる台詞でした。これ位くどいくらいのメッセージは、現代の東北の置かれている現状から見ればまだ足りないくらい。と、監督は考えたのかもしれません。あれ程何度も伝えないと、お上には伝わらないのかも(あれでも伝わらないかも)しれない、と。 来年にはまさかの続編「超高速!参勤交代リターンズ」が公開決定⁉(2014年ブルーリボン作品賞受賞作品、レンタル可能)
2015年10月18日
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先月の映画の記事を紹介している途中ですが、昨日観た映画の感想は「急を要する」と判断したので、ここに紹介します。 「図書館戦争 ザ・ラスト・ミッション」 まさか、ほとんどが戦闘場面の映画になっていようとは思わなかった。 「自衛隊協力映画」(須藤遥子 大月書店)によると、最近はこういう自衛隊が全面的に協力する作品には、自衛隊内部で「基準」があり、明文化されているという。その中には、なんと「自衛隊色を表面に出さず」という基準もある。それは、作品の完成度がなければそもそもプロパガンダになり得ない反省から来ているのである。その他、装備を借りるのはなんと「原則無料」なのである。だから、脚本の検閲もある。 図書隊は生真面目なほどに「専守防衛」を守っている。どんなに危険でも、相手が発砲して初めて応戦するのだ。この原作が書かれた時には、まさか集団的自衛権が認めらるなど露ほども思っていなかったに違いない。しかし、映画化に当たってそれをキチンと描くこと自体にメッセージを感じざるを得ない、というこの時代とはなんなのだろうか。 メディア良化法自体が違憲法なのだが、それが通ってしまっている近未来の日本が舞台である。「そんなバカな」という気持ちがあって、「権力が本を取り上げるのならば、小さな抵抗戦術があってもいい」という素朴な気持ちで、対抗武力組織を考案したというのが原作である。 憲法9条がある国で、戦争出来る法律が通ってしまった某国のようなものである。では、それに対抗するために、例えば沖縄の施設を守るために、武力抵抗も許される、という法律も地方自治体法で許されたとして(公務員は憲法遵守の義務があるから不可能ではない)、「地方施設隊」が創設されたようなものである。そして、具体的に自衛隊と地方施設隊とが応戦するようなものである。 では、そういう武力での応戦は意味があるのか。「ない」というのが、映画を見るとよくわかる。 いくらリアリスティックに戦闘場面を描いても、小説ならばまだしも、実写映画にしてしまうと、嘘くさく思えるのは、やはり憲法に規定されている表現の自由を守るには、武力では「基本的にダメ」なのだという「真実」があるからなのだろう。 ああいう戦闘場面で、人が死ぬ場面が一つもないのが無理なのだ。そもそも、あれだけ派手に銃が使えるのならば、当然手榴弾も使える。モノの10分で戦闘は良化隊の勝利で終わっただろう。 奇しくも、沖縄では沖縄県の尊厳と自然を守るために、辺野古の海の埋め立て承認取消しが、沖縄県知事の名の下に「法律に基づいて」行われ、政府はそれに対し「強行突破」すると宣言した。映画の話ではない。ホントの話だ。 しかし、県知事が選んだのは武力での応戦ではなかった。でもこのままでは、国の権力によって突破される可能性が高い。映画でも松坂桃李くんが言っているように「無関心の世論」が1番の問題なのだ。だからといって松坂くんがやったように図書隊をいったん解体して政府内の駆け引きで一部言論の自由が実現しても、今までの沖縄の轍を踏むだけだろう。弟の福士蒼汰くんは言う。「兄貴は人を信じない。俺は人を信じるだけ、兄貴より強い」そういう映画の結論が現実になって欲しい。つまり、オール沖縄だけではなく、オールジャパンの世論の力が辺野古問題を解決するのだ。 胸キュン場面が少なかった。しかも、結婚までいたらなかった。原作ファンとしては、それはないだろ、と思う。 ■ あらすじ 年号が昭和から正化になってから33年、関東図書隊のタスクフォース所属の堂上篤(岡田准一)と笠原郁(榮倉奈々)は、日々理不尽な検閲から図書を守るため奮闘。彼ら図書隊は、全てのメディアを取り締まりの対象とするメディア良化委員会と激しいつばぜり合いを展開していた。読書と表現の自由を守るべく体を張る彼らを、予想外の戦闘が待ち受けていて……。 ■ 解説 岡田准一と榮倉奈々の共演で、有川浩の人気小説シリーズを映画化して好評を博した『図書館戦争』の続編。本作では前回の図書防衛バトル「小田原・情報歴史図書館攻防戦」から1年半後を舞台に、図書隊とメディア良化委員会との前代未聞の戦闘の行方を追い掛ける。前作に引き続き佐藤信介が監督を務め、田中圭や栗山千明ら豪華キャストも再集結。榮倉演じるヒロインの成長はもとより、激しいアクションも見どころ。 ■ キャスト 岡田准一、榮倉奈々、田中圭、福士蒼汰、西田尚美、橋本じゅん、土屋太鳳、松坂桃李、栗山千明、石坂浩二 ■ スタッフ 原作: 有川浩 監督: 佐藤信介 脚本: 野木亜紀子 in movix倉敷 2015年10月14日 ★★★★☆
2015年10月15日
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戦争法の委員会採決は今日にずれ込んだ。横浜での地方公聴会には市民が詰めかけ、国会議員が霞が関に行けないようにした。どのように議事を運営するのか、理事会で決めるのだが、野党国会議員が頑張ってくれて、決まるのが次の日に持ち越した。 9時開会と同時に鴻池委員長がまたもやだまし討ち的に、理事会ではなく委員会を始めようとしたので、国会生中継もあることもあって、理事会に差し戻したのが9時半ごろ。 10時現在、戦争法の行方は混沌としているが、もし強行採決されたとしても、来年の参院選まで10ヶ月間もある。何が。落選運動が出来る期間が、である。 昨日、倉敷市議会では、請願が否決されたが、その時の保守議員の反対理由があまりにもひどかったらしい。市議会の落選運動も始めたい。 我々は諦めない。民主主義を諦めない。 私と塚本監督が同年代だということを、この間初めて知った。彼は高校生の時に「野火」を読んで、ずっと映画化を模索して来た。 この前彼の「野火」を観たあと、いつものように映画語る会で感想を述べあった。ある若い女性は「もう二度と観たくないけど、観て良かった」と、この記事にあることと同じことを言った。 あらすじを言っても意味がない。この映画は体験する類の作品だと思う。その監督が、戦争法についても、まともな考えを持っていることがわかり嬉しかった。今日の朝日新聞の記事をコピーする。(下線はKUMA0504編集) (にっぽんの現在地)戦争するということ この夏、「野火」を公開した映画監督・塚本晋也さん 2015年9月17日5時0分(朝日新聞) 安保関連法案の国会審議が大詰めを迎えている。安保政策の大転換にとどまらず、「戦後日本」に変容を迫るものともいえる。戦後70年の今、日本社会はどの地点にあり、今後どこに向かうのか。識者への連続インタビューで考えたい。まずは、人間の本質を鮮烈な映像美でえぐり続け、このほど大岡昇平の戦争文学「野火」を自主製作、監督・脚本・主演を務めた塚本晋也さんに聞いた。 ――自費を投じて作られた映画「野火」は、7月に公開されるや大きな反響を呼び、各地で上映が続いています。「二度と見たくないけど、見てよかった」など、寄せられている感想も独特ですね。 「日本中の映画館に足を運び、お客さんと対話するよう心掛けているのですが、多くの方は、すぐに感想を言えないんですね。言葉に詰まり、もう一度見ますとか、後でゆっくり考えますとか、1カ月考えてやっと答えがでましたとか、言葉にならない思いをなんとか言葉にしようとしてくれている。『泣けた!』では終わらない、そのプロセスと時間の長さはとても大事で、作り手として望んでいたことでもあります」 「肉が裂け、ウジがわき、内臓が飛び出し、手足が千切れ、脳みそが砕け散る。大岡昇平さんの原作にできるだけ忠実に、『肉体の死』を容赦なく、叫ぶように描きました。大義もヒロイズムもない戦争の悲惨さや痛みを、理屈ではなく身体で感じてほしかったからです。そしてできれば、感じたことの内側にさらに深く踏み込んで、自分の頭で考え続けてほしい。戦争とは何か。戦後70年を迎えた日本でいま、何が起きようとしているのかを」 ――悲惨極まりない戦争の実相を描いているのに、涙を流す余地がまったくありません。 「戦争を描くなら、加害者の目線で描かなければならないと、ずっと思ってきました。10年くらい前、『野火』を撮るために、フィリピン戦を経験した元日本兵へのインタビューを重ね、多くの資料にあたった。捕虜をやりで突けと言われ、やりたくないと思いながらドーンと突いた瞬間、腹のあたりに今まで感じたことのない、ある充実した手応えを感じた、そこからは殺すことが平気になって――そんな話をたくさん見聞きしました。加害者は、涙とは無関係の世界に行ってしまう。戦争の一番の怖さはそこにある。加害を描かなければ、戦争や人間の本質には届きません」 「加害の記憶は、多くの方が口をつぐんだまま亡くなられるので、なかなか継承されません。それをいいことに、加害の事実をなかったことにして、戦後日本の方向性が大きく変えられようとしている、恐ろしいと思ったのが、『野火』を作った原動力のひとつです」 ■ ■ ――安倍内閣は、安全保障関連法案を「平和安全法制」と名付けました。戦争のイメージをできるだけ遠ざけたいという意図を感じます。 「戦争とは結局、殺すか、殺されるか。極めて肉体的なものですが、安保関連法案の国会審議を聞いていても、戦争の現場で痛い目にあった人たちの存在は忘れさられているとしか思えません。その痛みの実感をどうにかして取り戻さないと、『戦争は平和である』的な政府の論法にズルズル引きずられてしまいます」 「ものすごいスピードで物事が進められているのは、深く考えてもらったら困るからでしょうか。徴兵制はあり得ないとか、戦闘には参加しないという政府の言葉はどうやって信用したらいいのでしょうか。自民党の憲法改正草案には、国家のためには個人の人権は軽く扱わせて頂きますよということが、ちょっと難しい言葉で書いてある。テクノロジーの発達で戦争の方式は変わっても、そこに根付く精神が戦前と変わらなければ、同じようなことが起こり得ます。『戦争は絶対悪だ』という線を手放してしまえば、限定的だとか後方支援だなんていう境目は、いずれ押し流されてしまうのではないでしょうか」 ――しかし、「大事なものを守るために戦う」というヒロイズムには、「戦争は絶対悪だ」以上の訴求力がどうもある。安倍首相は「国民の命を守るため」と法案の意義を強調しています。 「ヒロイズムで戦争をとらえるのは間違いだと、はっきり言えます。実写でもアニメでも、戦争を暗示させる作品が描くのは幻想としての甘美な死で、肉体の死では決してない。命を捧げて、何かを守る。死によって、その人の生は意味あるものとして肯定される。主人公の内面に寄り添ってそのプロセスを感動的に描き上げれば、観客がカタルシスを覚えることはあるでしょう」 「だけど、考えて欲しい。目の前に銃を突きつけられ、数秒後に死ぬという時の自分の感情を。銃を相手に突きつけて、数秒後に殺すという瞬間のことを。きっと、こう思うのではないでしょうか。『他に方法はなかったのか?』。こうなる前に、戦争を回避する方法はなかったのかと」 ――「野火」を撮ったのは、そういう風潮への反発ですか。 「反発と言うより、焦りです。この20年、『野火』を映画化したいと言い続けてきましたが、とても難しかった。最初は金銭的な理由で断られていたのが、次第に予算と関係なく断られるようになりました。ボロボロになった敗軍兵が飢えて人肉を食べたなんていう映画を作るわけにはいかないという、暗黙の自粛なんだなと」 「戦争は絶対悪だというのは、戦後日本の当然の前提だったはずです。それがいつの間にか、大きな声でそう言うことをためらわせる時代の空気というか、無言の圧力が生まれている。だからこそ、戦争の愚かさを圧倒的に描いた『野火』を、この時代にぶち当てたい、そうしないと気が済まないという使命感のようなものにも駆られ、まったく何もないところから自主製作に踏み切りました」 「映画が公開される前から、そんな映画を作るなんてけしからんという声もありました。反日という声もあったそうです。驚く以前にあきれてしまいました。クロかシロか、敵か味方か、そんな極端なカテゴリーのどちらかに簡単に放り込まれる。つまんないですね。作り手は自由に表現し、観客は自由に解釈する。その往還が社会を豊かにするのに、気に食わない表現は潰してしまっても構わないという風潮が強まっていると感じます」 ■ ■ ――クロかシロどころか、「野火」の日本兵は、誰と、どこで、何のために戦っているのかすらよくわかりません。 「敵を一切映しませんでしたからね。仮に予算が潤沢だったとしても、敵を描くつもりは最初からなくて、米兵が映るのは、死にゆく日本兵にたばこをあげるとか、いいことをしているシーンにとどめました。敵を撮れば、どうしたって被害者感情が喚起され、憎悪が生まれます。だけど僕は、この映画ではそれをしたくなかった。弾は戦場にいる敵から飛んできているのか? 戦争をすると決めた人から飛んできていて、僕らはいつもそれにやられているのではないか。そんな思いを込めて、弾は闇の向こうから突然降ってくるという表現にしました」 「敵を仕立て、それを怪物のように描き、これだけ被害を受けたのだから仕方がない、大切なものを守るために名誉をかけて闘う、そして苦戦の末に勝利する。そういうハリウッド映画が、子どものころから大嫌いでした。敵もただの人間なのに、悪魔化するのはおかしい。だけど、現在の日本の政治の論法は、ハリウッド映画と同じ構造ですね。仮想敵を作って、あいつが悪い、あいつは怖い、だから抑止力を高め、戦いに備えなければならないと」 ――しかし多くの人は、そう言われると説得されます。「殺すのも殺されるのも嫌だ」という原初的な物言いが、歯止めになるでしょうか。 「身体性を伴った原初的な物言いだからこそ、強いのではないですか。『国際環境の変化』といった知識に根ざすよりも、人を殺すのは絶対に嫌だという直観に根ざした方が強いし、結果的に間違いが少ない」 「これは映画監督の大林宣彦さんが言っていたことですが、何が正義かは教育が教えてきた。それは時代やそのときの政治で大きく変化することがある。でも正気は、教えられるものではなく、確実に自分の中にあるものだと。『これが正義だ』と教えられて人を殺してしまったとしても、それを正義だとは言い切れない正気の目線が、頭の上の方で常に自分を見ているはずです。それに無理に逆らわないこと。原作の『野火』の主人公も、戦争で死ぬのが当たり前だとはまったく思っていなくて、いつも状況から一歩距離を取っている」 「時代の熱狂や共同幻想から距離をおかないと、正気を保つことはできません。自分の正気と対話しながら、物事を深いところで把握する。嫌なことは嫌だと言っていく。その積み重ねが、いつか事態を覆す力になる。僕はそう思いたいです」 (論説委員・高橋純子) * つかもとしんや 60年生まれ。89年に「鉄男」で劇場映画デビュー。ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門の最高賞を受賞するなど国際的評価も高い。
2015年09月17日
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「南京!南京!」(明日上映)はずっと観たいと思って願いが叶っていない作品である。理由は簡単で、いわゆる社会派作品として観るに価するという噂(というか受賞作品として評価されている)を聞いたからである。 かつて「南京1937」という作品があった。地方都市の岡山でも、いまは無き岡山グラウンドで普通に上映された。 「南京1937」 製作国 香港 中国 製作年 1995年 公開年月日 1998/05/02 (解説) 日中戦争下の南京で日本軍が行ったいわゆる“南京大虐殺”を描いた実録歴史ドラマ。監督は「太陽山」のウー・ツゥニュウ。製作は「フェイス/オフ」など監督として著名なジョン・ウー。製作総指揮はワン・インシャン。脚本はシュー・ティエンション、リャン・シャオシェン、ホン・ウェイチェン。音楽は「悪魔を憐れむ歌」などハリウッドでも活躍するタン・ドゥン。出演は「ロアン・リンユイ 阮玲玉」のチン・ハン、「シャブ極道」の早乙女愛ほか。 早乙女愛が久しぶりにスクリーンに登場した。中国人と結婚した日本人妻の役を熱演した。南京虐殺はあった。しかしその規模は明らかにしていない。大きな穴に大量の死体がある場面、街を徘徊しての虐殺、ごう姦の場面などが映った。松根大将は知的な人物に描いている。まだこの頃は日中経済交流はそれぞれ上向きで、反対する意見は一部あったが、明らかな右翼など無視出来る勢力だった。 いつからこんな日本の一部でしか上映出来ない国になったのか。「親日は韓国内では生きていけないそうだ」とか嫌韓派は宣伝するけど、それと同じようなことが日本でも起こっている。 当日券もあるそうです。東京は遠く、私は行けないが、行ける方がおられたら、是非とも感想を聞きたい。純粋に「社会派作品として」どうだったのか。 南京・史実を守る映画祭 http://johnrabe.jp/ 私たち南京への道・史実を守る会は、「南京・史実を守る映画祭」と題し、 2007年の南京事件70周年を期して制作された映画の上映会を行って来ましたが、 この度、東京・亀戸のカメリアホールへ場所を移し開催します。 上映内容は、陸川監督『南京!南京!』、F・ガレンベルガー『ジョン・ラーベ〜南京のシンドラー〜』。いずれも数々の映画賞を受賞し世界的に注目を集 めた作品です。 また、映画上映に合わせてシンポジウムも行います。パネラーは、ジャーナリ ストの岩上安身さん、映画監督のヤン・ヨンヒさん、大阪府立大学の永田喜嗣さ ん、司会は『世界』編集部・熊谷伸一郎さんにご登壇いただきます。 是非とも、皆様お誘いあわせの上ご参加ください。 「南京・史実を守る映画祭」実行委員会 南京・史実を守る映画祭 http://johnrabe.jp/ ■日時 2015年3月14日(土) ▼第1回(映画+シンポジウム)1800円 12:00開場 | 12:30上映 | 15:00シンポジウム 『南京!南京!』(陸川監督、2009年、中国、133分) ▽シンポジウム 岩上安身さん (ジャーナリスト、IWJ(インディペンデント・ウェブ・ ジャーナル)代表) ヤン・ヨンヒさん(映画監督、『ディア・ピョンヤン』『かぞくのくに』など で数々の映画賞を受賞) 永田喜嗣さん(大阪府立大学、ジョン・ラーベ研究者) 司会 熊谷伸一郎さん(『世界』編集部) ▼第2回(映画のみ) 1500円 17:00開場 | 17:30上映 『ジョン・ラーベ 南京のシンドラー』(F・ガレンベルガー、2009年、独・ 仏・中、134分) ■チケット購入方法 インターネットまたは電話にてご予約いただき、セブン・イレブンでの発券とな ります。代金はチケット受け取りの際にセブン・イレブンでお支払いただきま す。ご予約時に発行される払い込み番号をセブンイレブンのレジにて提示するこ とでチケットが発券されます。 必ずご予約後1週間以内に発券してください。1週間を超えるとキャンセル扱い となります。 WEB予約 http://johnrabe.jp/ 電話予約 0120-240-540 カンフェティチケットセンター 平日10:00〜18:00(発券手数料あり) ■場所 カメリアホール(亀戸文化センター3階) ■交通 ・JR総武線・東部亀戸線 亀戸駅より徒歩2分 ■お問合せ 「南京・史実を守る映画祭」実行委員会 info@jijitu.com http://johnrabe.jp/
2015年03月13日
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一昨日の日曜日、こういう映画を観ました。 「山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」 敗戦3ヶ月前の1945年5月に、三つの村の村長(つまり国策)に説得されて、慈昭たち長野県下伊那郡会地村の人々は満州とソ連の国境近くに渡る。ソ連が攻めて来て、村の人々は逃げ回り、慈昭は妻と2人の娘と離れ離れに。九死に一生を得て故郷に帰った慈昭は、日中友好協会会員として、平岡ダム建設のために強制連行された中国人の遺骨返還運動に力を注ぐ。その後、彼の元に中国残留孤児からの一通の手紙が届く。心を動かされた彼は政府と交渉するが、厚生省は満蒙開拓団は軍人とは違うといい、外務省は日中国交がないのでダメといい、法務省は残留孤児は死亡扱いだといい、国の責任を一切認めなかった。 山本は言う。 「我々は騙されていた。しかし、騙すのにも、騙される者がいないと出来ない。騙される者にも、責任はある。」 これは、原発事故の福島の人たちだけでなく、秘密保護法が成立し戦争法制が整えられようとしている現代にも当てはまることである。 二度と我々は騙されてはいけないのだ。 現代プロダクションが日中友好協会その他の寄付を元に、総力をあげて作った、現代に訴える力作である。戦中編と戦後編のバランスも良く、開拓団の群像も力演揃いで、涙も絞り、怒りも湧く作品に なっていた。 監督 山田火砂子 出演 内藤剛志、渡辺梓、磯村みどり、市川笑也、奥寺康彦、常盤貴子
2015年02月17日
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まだ連載している機関紙に掲載前ですが、あえてこの時期に発表します。米倉斉加年さんの遺言とも言えるセリフをお読みください。 年末になって、高倉健と菅原文太という二大映画スターが急逝しました。そのどちらかの作品を今回の題材に選ぼうとしてツタヤに行ったら、案の定、高倉健さんの「幸福の黄色いハンカチ」も、命をコマのように扱う広島ヤクザ戦争に反戦の意思を込めた菅原文太の「仁義なき戦い」も、倉敷の平田食事センターでロケをした「トラック野郎天下御免」も貸し出し中でした。 それでふと隣の棚をみると、去年の正月映画「小さなおうち」が出ていました。山田洋次監督の最近の現代ものの中では、この作品がベストです。というわけで、この作品を借りて見ていて、はたと気がつきました。「そうか、これは米倉斉加年さんの映画出演の遺作だったのだ」主演映画こそは少ないものの、山田監督の「男はつらいよ」シリーズでは5作にわたって出演している名バイブプレイヤーでした。ここでは、戦前に女中のタキ(黒木華)が仕えていた平井家の坊ちゃんの晩年の姿を演じていました。 「小さいおうち」は昭和11年から18年にかけての東京山の手、おもちゃ会社常務の家族で起きたことを描いています。山田監督が初めて不倫劇を描いたということで有名になりましたが、そこに主題があるわけではありません。南京が陥落してデパートで大売出しが始まり喜ぶ主婦たち、東京オリンピック需要を見越して皮算用にいそしむ会社の幹部、戦争なんてすぐに終わる、近衛首相は頭がいいからアメリカと戦争をするはずがないと楽観視していた社長や常務。それらの情景が、なんと現代と似通っていることか。米倉さん演じる平井恭一氏は云うのです。「いやな時代でした。日本人誰もが何かしら不本意な選択を強いられていて、いや、強いられてする人もいれば、自ら望む人もいて、それが不本意だったことすらも気がつかない、そういう時代でした」山田監督の想いが過去を描くことではないのは明らかです。 話の筋として、山の手奥様の時子(松たか子)と会社の部下板倉さん(吉岡秀隆)とタキとの三角関係の様相を示し、戦前のことなので秘密は秘められたまま晩年のタキ(倍賞千恵子)まで持ち越されてしまいます。いちおうその秘密は明らかになるのですが、なぜタキが秘密をずっと抱き続け独身を通したのかは明らかにされません。ところが今回、二回目を見終わって私は確信しました。タキは板倉さんではなく、時子に恋をしていたと思う。映像を観ると、タキの視線はすべて時子に向かっていました(判断は観た人に任せます)。しかし、晩年の恭一は苦しみながら死んだというタキに向かいこう呟きます。「君の小さな罪はとっくの昔に許されているんだからね」そう、戦争という「大きな罪」の前では。(2013年作品レンタル可能)
2014年12月11日
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今月の県労会議に載せて貰った映画評です。 「そして父になる」 是枝裕和監督の作品はこれまでも「歩いても 歩いても(07)」「空気人形(09)」と度々取り上げてきました。私の好きな日本人監督のひとりです。去年全国公開された邦画に限れば、私はこの作品を1番に推しています(邦画のマイベストワンは「約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯」なのですが、DVD化されそうにないので、ここでは紹介できません)。 是枝監督はテレビのドキュメンタリー番組出身です。よって俳優の自然な演技を重視します。特に子どもの扱いは秀逸で、「誰も知らない(04)」では柳楽優弥をカンヌ映画祭男優賞に導きました。この作品でも、野々宮慶多役の二宮慶多くん、斎木琉晴役のファン・ショウゲンくんの存在感は主役たちを喰っていました。大人たちも負けていません。日本アカデミー助演賞を受賞した相手の夫婦役のリリー・フランキー、真木よう子はもちろんのこと、主人公野々宮の妻を演じた尾野真千子も、わずかな台詞や所作からどんな人生を送って来たのかが垣間見えるものでした。 よく映画仲間からは「主役の福山雅治は大根だ」といわれますが、この作品の彼はあの不器用さ自体が役にはまっていたと思います。彼は学歴、仕事、家庭といった自分の望むものを自分の手で掴み取ってきたエリート会社員という設定です。自堕落な父親に頼らず全て自分の力で勝ち取ったのだと思っています。そしてそれを子どもにも求めようとしているのです。でも本当に彼はひとりで勝ちとってきたのか。継母や妻の力があったのではないか、彼は父親として本当に子どもと向き合ってきたのか、今回のことをきっかけとして鈍感な彼にも感じる処が増えてゆきます。 さて、本筋は子どもの取り違えという出来事に遭遇した2組の家族を追うドラマでした。子どもが6歳という微妙な設定。子どもが青年だったら、自分で親を選ばすのが筋でしょう。けれども今回は親に選択の決断が迫られます。親子関係に「なる」ために必要なのは、果たして「血」なのだろうか、「時間」なのだろうか。 回答を、作品は描いているわけではありません。ラストも「よくわからん」という人もいました。あれは「血も時間も」選んだのだと私は思ったのですが、皆さんはどう思うか。あとからじわじわくるタイプの作品でした。(2013年日本作品レンタル可能)
2014年09月20日
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NHKの火曜日のドラマ「サイレント・プア」全9回)が終り、録画を見終わった。そこで描かれている「声なき貧困」を誠実にドラマにしようという態度には、感心したし、とりあえず全回観てみた。結論としては、あまり注目されていないけど、町の民生委員とか社会福祉協議会の仕事を初めてドラマにしたという意味では、意義があるかな、と思った。ドラマ的には、ご都合主義の部分はあるけど許せる範囲ではある。しかし、その全体評価に関してはもう少し間をおきたい。微妙な問題を扱っているからである。 以下少し展開する。 NHKのホームページより サイレント・プア――声なき貧困。いま、そんな「見えない貧しさ」が社会に広がっている。それに立ち向かうべく新たに全国各地に登場したのが、コミュニティ・ソーシャルワーカー(CSW) という仕事だ。 里見涼(深田恭子) は東京下町の社会福祉協議会CSWとして、今日も愛する町を駆けまわる。 涼が出会うのはゴミ屋敷の主、引きこもり、ホームレス、若年性認知症など、懸命に生きながらも現代の社会的孤立の淵に沈んだ人たち。彼らに手を差し伸べ、それぞれの人生にふれていく涼だが、そんな涼自身にも独りで抱え続ける絶望的な孤独があった。 人は何度でも生き直せる――この信念で走り続けた涼がその先に見出したのは、自らが手を差し伸べてきた人や町に支えられ、新たな生へと踏み出す自分自身の姿だった。 これに関して、四月にウェブコメンテーターのみわよしこさんのブログにこんな記述があった。 ここ数ヵ月で盛んに報道されている「中間的就労」「コミュニティ・ソーシャルワーク」のモデルケースの1つとなったのは、豊中市・豊中市社協でもある。番組サイト内「番組のみどころ」ページにも、豊中市がモデルであることが明確に示されている。しかし筆者は、「このドラマで描かれているのは、豊中市で地道に積み上げられてきた取り組みの内容そのものなのだろうか? 少なくとも地続きではあるのだろうけれども」という疑問と違和感を抱いている。しかし「いつか豊中市で現地取材を行ってみたい」と思いつつ、未だ果たせないでいる。 筆者の周辺では、引きこもり経験者には「最もされたくないタイプの支援」「余計なお世話、気持ち悪い」と評する声が多い。統合失調症を抱える精神障害者の1人は「こんなことをされたら病気が悪化する、やめてほしい」と怒りを示す。また、貧困問題に取り組む支援者たちからは「自助努力や共助を強調しすぎ」という声もある。その声には筆者も共感する。 筆者自身は「人間ドラマとしては評価してもよいのではないか」と思うし、深田恭子の好演ぶりには好感を抱いてもいる。しかし、「これがコミュニティやコミュニティ・ソーシャルワークということで、いいのかなあ?」という引っ掛かりが残る。その引っ掛かりを言葉で明確に表現するためにも、なるべく早く豊中市で現地取材を行い、現場の人々の声を聞いてみたい。 ーー全部を観て、私も同じ感想を抱かざるを得ない。もちろん「中間的就労」が全て悪いわけではないだろう。必要としている人は多いに違いない。それが、このドラマで描かれるように自立への第一歩となれば素晴らしいと思う。でもホームレス対象にしたブラック企業の実態も知っているだけに、低賃金労働の温床にならないかとも心配する。 実際に引きこもりをしている人々にとって、里見が何度もドアの前に足を運ぶ描写を「もっともして欲しくない支援」だと思うのも、もっともなことである。しかしそれは一話完結のドラマとしては、仕方がない描写だと思っている。描き方が浅いのを批判するのではなく、引きこもりやホームレス、ゴミ屋敷の当人たちに、なかなか溶けない「心のわだかまり」があることを、視聴者が発見することが重要なのだと思う。 介護保険が改悪されて、要支援からヘルパーやデイケアサービスなどの公的介護が外され、ボランティアにまかされようとしている。里見たちの「仕事」が、その動きに拍車をかけるものにならないようにせつに願いたい。
2014年06月04日
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今月の県労会議機関紙の映画評です。 「横道世之介」 1987年、長崎の港町から18歳の青年(高良健吾)が大学入学のために上京します。最初の新宿駅の場面に、斉藤由貴の顔をアップにした大看板が出てきます。彼の名は横道世之介。一度聞いたら忘れられない名前だけど、その名前以外は極めて普通の学生生活が始まります。当時の髪形や流行音楽、食べ物などや街の景色、下宿生活を忠実に再現、懐かしさに溢れています。でも、単なる世相映画ではありません。それだけならば、退屈極まりない作品になったでしょう(上映時間は160分もあります)。 時制が1987年から突然2003年に移ってしまうショットが何回か出てきます。その辺りから時間が気にならなくなりました。むしろ、このままずっと「なんでもない彼らの日常」を見ていたいという気持ちになるのです。世之介は全く嫌味のない、何時の間にか友だちになってしまっているような男です。むしろ彼の周りの方が特異な人が集まっていたと思う。子供が出来て学生結婚をする男女(池松壮亮、朝倉あき)、ゲイであることを隠している美青年(綾野剛)、謎のパーティー女史(伊藤歩)、成金お嬢様。そんな彼等から世之介は「思い出すと自然と笑みが出て来る人」として、みんなの記憶の中に残っているのです。人の生きている意味なんて、世之介以上のものはないのではないか、と私は思いました。大学時代に出会った仲間たちから、私はどんな風に思われているんだろう。嫌な奴と思われていたなら、嫌だな。全然記憶に残っていなかったら、もっと嫌だな。 韓国が作れば、英雄伝になったかもしれない。日本人が作るからこういう話になったのだ、ともいえるかもしれません(意味は、観ればわかります)。 この作品は、世間離れをした成金お嬢様の翔子(吉高由里子)と世之介とのラブストーリーでもあります。二人の初々しい「おつきあい」がとっても楽しい。私は翔子と世之介が最後に別れたとは解釈していません。写真を巡るエピソードから、16年間会っていなかったのは確かだろうとは思うのですが、どちらも独身で、喧嘩別れもしていなかっただろうと思うからです。皆さんはどう見るか。マイベスト9位でした。 (2013年沖田修一監督作品、レンタル可能)
2014年04月17日
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