わたしのこだわりブログ(仮)

わたしのこだわりブログ(仮)

2023年03月21日
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カテゴリ: 歴史の旅
今回は地図の紹介と併せて「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) 回となっています。


地図を見るのは子供の頃から好きで、今でも世界地図は数種持っていますが、世界を俯瞰(ふかん)して見たい私には一般的なメルカトル図法(Mercator projection)やモルワイデ図法(Mollweide-projection)の世界地図には不満があったのです。

双方の長所は緯度、経度の線が直角に表されているので 地理的な緯度や経度は解り易い。
​が、地球という球体を展開して表記している以上 、赤道から離れ北や南に向かう程に面積や距離は実寸とはかけはなれ、広がって表現されると言う短所がある 。​

つまり
国のサイズや形は実際とはかなり異なってくる。​​
と言う問題がどうしても生じてくる。
結局のところ、どのような表記をしようとも平面の地図に完璧な図は存在し得ないのだろうが・・。

さらに 不満は、 たいていの地図は南北の極が上下に固定されているので ​極地帯の距離感は普通以上にわかりにくくなっている点だ。
加えて、 日本の世界地図では日本が中心に据えられるという 点も気に入らない。​​

日本がどこに存在しているか? また、日本からの諸外国への距離間を知るには当然の配慮なのかもしれないが、両サイドに来るアメリカ大陸や大西洋、欧州は余計にゆがんで表現される。

世界をグローバルに捉えたい時に中心に見たいのは太平洋なんかではない。
だから子供の頃は ​平面の地図よりも地球儀をコロコロさせていた。​
地球儀って、必要ないようで、実は必要かもしれない。スマイル

困ったのは、ブログを始めて平面地図がほしくなった時だ。
以前、北極を中心にした地図の紹介をしたことはあるが、欧州を中心に据えた地図や大西洋を中心にした地図を探したいと思ってもなかなか見つからないのである。
今回のような大航海時代を紹介する時にポルトガル視点、スペイン視点、大西洋視点、モルッカ諸島視点などで見たいし、考えたいし、紹介がしたい。その度に視点の変えられる地図が欲しかった。

最近は、Googleのおかげで視点を好きな場所に変えて確認する事はできるようになったが、もっと広域に視点の変えられる平面世界地図があったらいいなと思っていた。​
​実は、 平面で視点の変えられる AuthaGraph projection(オーサグラフ投影)と言う手法で造られた地図を最近見つけたのだ。
​​​​​​​​​ AuthaGraph World Map(オーサグラフ世界地図)は北極を中心に切り取ったり、南極を中心に切り取ったり、南米を中心に切り取ったり、アフリカ大陸を中心に切り取ったりできる地図 なのである。
現段階では小さな図しかないけれど・・。私の不満がカバーできる地図なのだ。

今回は、このオーサグラフ世界地図​​​​​​​​(AuthaGraph World Map)を紹介しつつ、それを使ってマゼラン隊の世界周航を一筆書きで紹介しようと考えたのです。
​​​​​​​でも地図だけで絵は足りない。残念ながらモルッカ諸島の写真は無い。どうするか?

友人がパナマ運河就航の写真を提供してくれたので、それで行く予定でしたが、写真の中身に関して確認が終わっていないので、パナマの写真は別枠で次回にしました。
そんなわけで今回は、ほぼ地図のみでマゼラン隊に触れます。 m(_ _)m


マゼラン隊の世界周航と オーサグラフ世界地図

オーサグラフ世界地図( AuthaGraph World Map )とは
モルワイデ図法(Mollweide-projection)による世界地図
メルカトル図法(Mercator projection)による世界地図
オーサグラフ(AuthaGraph)の利点
「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off)  マゼラン
ポルトガルとスペインの競争から始まったアジアの植民地化
コロンブスの計画案を引き継いだスペイン
スペインによる太平洋の発見
マゼランが遠征隊長に抜擢された訳と重要人物
マゼラン艦隊の内紛問題
インテル・カエテラ(Inter caetera)とトルデシリャス条約線
 問題
東に進んだポルトガルの成功
Battle of Mactan の記念碑
世界周航と太平洋航路の確立
マゼラン亡き後マゼラン隊を率いたエルカーノ
アントニオ・ピガフェッタの著「最初の世界周航」
トランシルヴァーノのモルッカ諸島遠征調書
サラゴサ条約線
教皇勅書 スブリミス・デウス(Sublimis Deu)
マゼランのルート( Magellan Route )
モルッカ諸島の利権を手放した件
南米最南パタゴニア、マゼラン海峡


オーサグラフ世界地図( AuthaGraph World Map )とは
authalic(面積が等しい) & graph(図・グラフ) 
オーサグラフ(AuthaGraph)による世界地図

大陸が複数、描かれているのには訳がある。下方左から
グリーン・・南アフリカ を中心にした世界地図
オレンジ・・ブラジル を中心とした世界地図
ブルー・・・南極 を中心にした世界地図
レッド・・・北極 を中心にした世界地図
どこを中心に切り取っても、世界の大陸や海の位置関係がわかるようになっている地図 なのである。

オーサグラフ(AuthaGraph)は、ほぼ等面積の世界地図投影法 なのであるが、なんと日本の建築家が考案した地図なのである。​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​
​※ 1999 年、成川肇氏(Narukawa Hajime)によって発明。
※ 2016 年グッドデザイン賞、受賞。
※ 上の地図は購入したポスターから撮影。地図帳のようなものはまだ販売されていないようです。

オーサグラフ(AuthaGraph)による世界地図

星AuthaGraph(オーサグラフ)は、 球面を96個の三角形に等分し、面積比を保ったまま四面体に移し、四角形に展開して作った多面体を統計して作った地図 なのだそうです。
​故に、すべての海,陸の面積比はほぼ正確に表記され、かつ形の歪みも従来よりかなり低減しているという。
それは ネーミンが示すよう  authalic(面積が等しい)  graph(図・グラフ) 。
中心だけでなく、どの位置から見ても大陸は変形していない。
実に建築家らしい発想による地図ですね。

最も、地球と言う球体を平面に展開しての地図であるから、経緯度線が無いと大陸同士の緯度が計りにくいかもしれない。


​モルワイデ図法(Mollweide-projection)による世界地図​
​​​​​
​モルワイデ図法(正積図法)​
1805年、ドイツの天文学者・数学者カール・モルワイデ(Karl Brandan Mollweide)(1774年~1825年)が考案した地図投影法。

​地図の外周は、 長径2、短径1の楕円形で表現 。​
※ 比率は2:1
緯線は水平。
経線は中央経線以外は弧を描く。
図の中心は正積なのだろうが、中心から離れるほどに歪む
日本の国を見てもらえば、形が変形しているのがわかるし、南極のサイズが大きくなりすぎ。


​​​​ メルカトル図法(Mercator projection)による世界地図

中心(赤道)から離れるほど緯線の間隔は拡大 して行くので大陸のサイズも拡大。
本来、オーストラリア大陸とほとんど変わらない 南極が異常なビッグサイズに表現 されてしまう。北極圏のグリーンランドもしかり。

メルカトル図法(正角円筒図法) ​​​​
​​1569年、フランドル出身の地理学者ゲラルドゥス・メルカトルGerardus Mercator)(1512年~1594年)が採用した地図(アトラス)で知られた。
が、正角円筒図法自体は16世紀初頭にはすでに存在していたらしい
この地図は大航海の時代に向かい、 航海用の地図の図法として有効 であった。​​

星​​メルカトル無き後息子が継承して発表された世界地図は イギリスその他のヨーロッパ諸国とアジア・アフリカ・アメリカの諸図を加えた107図による地図帖形式 で販売。
その地図帖は、ギリシャ神話の天空を支える巨人の名をとり 「アトラス (Atlās)」と命名 された。
​​地図帖がアトラス(Atlas)と呼ばれるようになったのはそうした理由だ。


​オーサグラフ(AuthaGraph)の利点​
大陸の相互関係を見るならオーサグラフ(AuthaGraph)。位置関係は断然解り易い。

グリーンランド(Grønland) を挟んでカナダと北欧やロシア連邦が向かい合っている。
ロシア連邦(Russian Federation) アメリカ合衆国(united states of america) は近接している。
同じく、 英国 (United Kingdom) も思う以上にロシア連邦に近い。

本来地球上の大陸は北半球に密集している。それ故、人口は歴史的に北半球に偏ってきた。
​地球全体での陸地と海の比率はおよそ3:7​
北半球全体の陸地の面積比は39.4% 。南半球の陸地の面積比18.4%。​
​​ 北半球の陸地と海の比率 はおよそ4:6 → 2:3 の割合 になる。​​

極からの北半球
円周が赤道に相当。赤道より上(北半球)に大陸が集まっているのがわかる図。
極からの南半球


でも実際の大陸の位置関係は下のオーサグラフ(AuthaGraph)の方が正しい。
下の図はどの角度、どの位置からも地球をカテゴライズできる地図となっています。
地球は、6つの大陸(北アメリカ大陸、南アメリカ大陸、ユーラシア大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸、南極大陸)と3つの大洋(インド洋、太平洋、大西洋)からなっている 。​
オーサグラフ(AuthaGraph)では、あらゆる大陸や海洋との位置関係がわかる。

南極に行く船が南米から出航する。やはり一番近接しているからだ。
サイズで言うなら南極はオーストラリア大陸より少し大きい程度?
そしてブラジルやメキシコは、今までのイメージよりも大きいかもしれない。
いろいろ発見が出てくるねスマイル


​​​ 「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) マゼラン
先に地図ありき・・でした。
それにマゼラン隊の世界周航の航路を載せてみよう。と思ったのが始まりです。
そもそも「アジアと欧州を結ぶ交易路 」でマゼランの世界周航を載せるべきか? スルーしても良いか?

欧州各国の以後のアジア植民地化を見据えた時に、やはりマゼランは触れておかなければならない問題 でした。
​​​​​スペインとポルトガルがアメリカ大陸(中南米)を植民地にしようとも、 香料諸島の富は絶大 であり、あわよくば植民地に欲しい場所に代わりはなかったからです。​​

結果、 彼らの挑戦で世界が広い事を知る
同じ一つの球体の上で、別々の文明が存在していた事を知る。
時に友好的に、時に支配的に文明は交流する事になる。
今や飛行機でひとっ飛び、世界は近くになりつつあるけど、 その昔、命かけて世界をつないだ彼らの航海の意義は大きい。
​​​


ポルトガルとスペインの競争から始まったアジアの植民地化
ポルトガルはエンリケ航海王子(Prince Henry the Navigator)(1394年~1460年)の元、 ポルトガル国家としての事業で遠洋航海を始めた頃から香料諸島を目指していた。
だから、どこの国よりも先に外洋に出て目的を果たした


因みに、ポルトガルはその過程でマデイラ諸島、アゾレス諸島、カナリア諸島、ベルデ岬諸島を発見して植民地開発をしている。また、エンリケ王子は資金源をたくさん持っていたからポルトガルにお金はあった。
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 15 大航海時代の道を開いたポルトガル
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 16 イザベラ女王とコロンブス

星1497年7月リスボンを出航した ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年)は1498年5月インドに上陸。
ポルトガルは東周りでアフリカ大陸南端(喜望峰)を回りインド洋に出る航路を開いた のだ。
​​​​
一方、レコンキスタで出遅れたスペインには航海技術も船も、航海士もいない上にお金もなかった。
外洋への進出を願ったのは、国ではなく、国家という保証と名誉を求めた航海士と、ゆくゆく得るであろう利益をあてにした商人が持ち掛けた話だったから だ。

だから 資金のほとんどは航海士本人の借金とそれをバックアップした商人が用意 している。
※ コロンブスの時はフィレンツェに拠点を置くメディチ銀行とジェノバの商人がいた。
リンク ​ コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)

当初の スペインは基本、船は航海士の持ち込みで、出来高の一部をスペインに献上するという形で新大陸の冒険航海が行われていた

新大陸で利益を得た以降のスペインは多少事情が変わった?
※ マゼランの時はアウグスブルクに拠点を置くフッガー銀行とやはり商人がかかわっていた。

星マゼランの時に関しては、スペインが国として香料諸島のビジネスに参入したかったから?  商人 クリストファー・デ・ハロ の全額出資を断って、スペイン国が全て負担したらしい。

スペイン王(カルロス1世)でもあるカール5世(Karl V)(1500年~1558年)が神聖ローマ皇帝になる為の選挙資金をフッガー家から借金していた話は有名だ。
オーストリア・ハプスブルグ家はともかく、兼任しているスペイン王室自体はそんなに裕福ではなかったはずだ。また、フッガー家とスペイン王室のつながりはそこから始まっている。

後々、スペインが香料諸島の利権をすべて、それもかなり格安で売り払ったのも、結局お金が必要だったからだ。

ところで、メディチ銀行は 1499年 倒産していたので、代わるようにフッガー銀行が台頭してきたのかもしれない。
フッガー銀行は現在も残っている。フッガー家の事書いてます。
リンク ​ アウグスブルク 5 フッゲライ 1 中世の社会福祉施設
リンク ​ アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家


航海の話に戻ると、
結果、 ​スペインは特使のマゼランが西回りで 香料諸島をめざして 南米を回り太平洋航路を開き、アジアに到達(1521年)した。​ ​​​​
​​​※ マゼラン自身は香料諸島到達前に途中フィリピン、セブ島で死亡。​

マゼランを引き継いだマゼラン隊はその後、香料諸島であるフィリピン南方のモルッカ諸島(Malacca Islands)に到達 。たくさんのスパイスをゲット。
※ 欧州から西周りルートでも香料諸島にたどりつけると言う事を証明した。

だが、東から香料諸島に先陣していたポルトガルに見つかり、追われ、マゼラン隊は逃げるようにモルッカ諸島を脱出して帰国する事になる。​

その時点でマゼラン隊の船は2隻。
太平洋航路を戻るルートをとった(逃げた)トリニダード号はポルトガルに拿捕(だほ)され船舶は沈められた。
西に進み続け、インド洋航路をとった(逃げた)ヴィクトリア号のみが逃げ切り、スペインに戻る。
この時、 マゼラン隊は期せずして世界周航を果たした訳で、同時に世界が球体である事を完全に証明してしまった。

星 ​地球が球体と言うのは、また別の問題をはらんでいたが、それ以上に 欧州人は香料諸島以外にもあるアジアの可能性を見いだしていた 。​
​それは以降、 各国の航海術の向上を持って多くの国が競ってアジアを目指したからアジアは植民地ラッシュとなる のである。
​現在中国の特別行政区となっているマカオ(Macau)が1999年までポルトガルの海外領土だったのは当時の名残り。
マゼラン隊の偉業が間違いなく、きっかけとなった のである。​


コロンブスの計画案を引き継いだスペイン
​ところで、 ​なぜスペインは香料諸島をめざすに至ったのか?​
以前、「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 16 イザベラ女王とコロンブス」のところですでに書いてますが、 コロンブスの計画案は、西回りで大西洋を横断してのインディアスの発見と黄金の国ジパングの発見 だった。​​​
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 16 イザベラ女王とコロンブス ​​​​
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​
コロンブスがたどり付いた場所はジパングではなかったし、アジアでもなかったが、コロンブスはすぐそこにアジアがあると信じたまま亡くなった。
スペイン政府も当初は彼らがたどり付いた場所(中米)は、アジア東端の半島だろうと信じていたフシがある。
だが、中米と南米北西部の植民地化を進める中で、 ​新大陸(アメリカ大陸)は北と南の二つの大きな大陸でつながっていた​ 事がわかる。そこに切れ目はなかった。
※ 後にそこに運河を構築して大西洋と太平洋をつなげる事になる。次回パナマ運河やります。スマイル


スペインによる太平洋の発見
星 バルボアが黄金郷(エル・ドラード・El Dorado)を探している時にパナマ地峡を横断。そこには広大な海が広がっていた。
※ バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア(Vasco Núñez de Balboa)(1475年~1519年)​

1513年、バルボアが「南の海」と命名した、それこそが太平洋だったのである。
期せずしてバルボアは太平洋の発見者となった 。​

だが、この太平洋の発見により、 スペインはアメリカ大陸を越えるには、新たに航路を見つけなければアジアにはたどり着けない。と言う問題に当った。

その頃、 ポルトガルはすでに東周りでアフリカ大陸を越え、インド洋ににたどり着き、香料諸島に到達していた からスペインは ​​西回りで香料諸島に行く遠征隊の航海士を慌てて探していたのだ。


マゼランが遠征隊長に抜擢された訳と重要人物

そもそもは マゼランの友人が経験のある彼をスペイン王に推挙した​​
のである。

重要な推薦人と仲間
​​ ​デュアルテ・バルボーザ(Duarte Barbosa)(1480年~1521年)​ ​​
1500 年~1516 年の間ポルトガル領インドの将校をしていた彼はマゼランの妻の兄? (同じ年に生誕した義兄弟)​
​​​​バルボーザは マゼランを強く推挙し、 彼と共に航海に出る が1521 年4月、フィリピン、マクタン島の戦いでマゼランが亡くなった数日後、 ラジャ・フマボン(Rajah Humabon)の晩餐会で彼も暗殺されている
生誕年と没年までマゼランと一緒。

クリストファー・デ・ハロ(Christopher de Haro)(生没年不明)
​​​ブルゴス出身のカステーリャの金融家で商人 。もともとハロはフッガー家の元、リスボンに拠点を置いていた商人。陰謀によりポルトガル王の信用を失い1516年、活動をスペインに移し ていた。
1519年のマゼランの航海では 4分の1を彼が財政支援 している。
※ たぶんマゼラン個人の分の支援。
また、マゼランを推挙し資金提供しただけでなく、 後にエルカーノの遠征資金も提供している 。​​​

結局、マゼランは途中で亡くなり、エルカーノも太平洋上で亡くなったから資金回収はどれだけできたか? 冒険航海に資金を出すのはロマンだけど、リスクが大きすぎですねぽっ

​​フランシスコ・セラーン(Francisco Serrão)​​(生年不明~1521年没)
マゼランの従弟。セラーンは1511 年に香料島であるモルッカ諸島に到達。
テルナテ島(Ternate)で妻を娶り島に残った。
​​​セラーンはテルナテ島から マゼランに手紙で香辛料諸島の情報を送っていた
二人は結局会う事なく、 セラーンも、ほぼマゼランと同じ頃に暗殺されたと考えられている

ところで、 セラーンが居たテルナテ島(Ternate)はポルトガル配下である。
エルカーノ率いるマゼラン艦隊は隣のティドレ島(Tidore)にたどり着く事になる。
事もあろうに両島はもともと仲が非常に悪かったそうだ。
​​
フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)(1480年~1521年)
1550~1625年頃

所蔵 The Mariner's Museum Collection, Newport News, VA

実はすでに マゼランはポルトガルの元でヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年)が見つけたインド航路をたどりインドへ行っていた。さらに彼は遠征で香料諸島であるモルッカ諸島まで行っていた のである。

この経験を買われスペイン王はマゼランと契約した のである。
ただ、マゼランは間違っていた。「西周りの方が航路が短いからポルトガルよりも安いコストで香料が手に入る。」と、プレゼンしたらしい。
実際は、東周りルートで香料諸島に行ってはいたが、西周りルートの経験はもちろん無い。直面する太平洋航路がいかに長いか彼は全く知るよしも無かった。

アブラハム・オルテリウスによる太平洋の地図(1608年) ウィキメディアから借りました。

ブラバントの地図製作者、地理学者、宇宙学者アブラハム・オルテリウス(Abraham Ortelius)(1527年~1598年)
図は太平洋の海図である。オルテリウスは近代的な世界地図(アトラス)の製作者として知られる。​​
​​​​​​​​​​
Nao Victoria ナオ船ヴィクトリア号のレプリカ  写真はウィキメディアから

チリ、プンタ アレナス(Punta Arenas, Chile)ナオ・ヴイクトリア博物館(Museo Nao Victoria)展示
2011年建造
※ キャラック(Carrack)をスペインではナオ(Nao)、ポルトガルではナウ(Nau)と呼ぶ。

実際のヴィクトリア号には砲弾もそなわっていたはずだが、艦隊は当初、トリニダードを旗艦とする5隻の船とされ、ほとんどが「nao」(キャラック船 )であったが船の詳細は不明で、どの船のイラストも存在しなかったらしい。だから後世のレプリカは実物とは異なるのかも。

図はウィキメディアから


※ 大航海時代の帆船については「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人」のところで詳しく書いてます。

星 ポルトガル人のマゼランによるスペイン特使としての香料諸島への航海が始まる
ただし、ポルトガルに察知されないよう、 マゼランの直接指揮下にある船長以外には真の目的地を話さずスペインを出航 したのである。

1519年9月、5隻の艦隊を率いてマゼランはスペイン・セビリアを出発。

ヴィクトリア号 (Nao Victoria) Captain Luis Mendoza
・・キャラック船。旗艦。マゼラン亡き後、エルカノが船長としてスペインに帰還させた船。
トリニダード号 (Nao Trinidad) Captain Ferdinand Magellan
・・香料諸島から逃げ帰る時に拿捕。
コンセプション号(Conception) Captain Gaspar de Quesada
・・損傷が激しかった船はマゼラン亡き後、セブ島で沈めて処分。
サン・アントニア号(Nao San Antonia) Captain Juan de Cartagena
・・パタゴニア海峡で離反し逃亡。
サンティアゴ号(Nao Santiago) Captain João Serrão
・・サンタ・クルス川の河口 付近で難破。

船団員270名のうち、1522年にスペインまで帰還できたのは18名。
ただし、ほかの人員が全員亡くなったわけではない。逃亡やポルトガルに捕まった者も結構多い。
※ 捕まった者はポルトガル・ルートで本国に帰還している。


​マゼラン艦隊の内紛問題​
ところで、 スペイン王がポルトガル人のマゼランを抜擢した事自体が後の波乱の問題となった
マゼランは1519年9月、5隻の船を率いてセビリアを出港したのだが、南米のサン・フリアン湾(San Julian)で乗組員による暴動が起きる。謀反者は40人に上り処罰された。

マゼラン以外の船長や航海士はスペイン人である。そこそこやり手の船長らは自分が選ばれなかった事に腹を立てて後にマゼランの暗殺を企てたと言うもの。

実はポルトガル陰謀説もある。
スペインが西周りで香料諸島に来れないようじゃましてほしかった。と言うもの。それもあり得そうな話である。

かくしてサン・フリアン(San Julian)湾での反乱後、今度は マゼラン海峡の発見直前には食料船サン・アントニア号が脱走 した。
サン・アントニア号はスペインに帰還するのであるが、残されたマゼランらは、彼らが逃げたとは思わなかったらしい。帰国してから知る事になる。

だが 、サン・アントニア号の脱走のせいでスペインが西回りで香料諸島を目指している事がポルトガルに知れてしまった。 やはりスパイがいたか?​​​
太平洋を横断して東アジアに到達したエルカーノらが、香料諸島から追われたのはそれ故なのだ。

Nao Trinidad ナオ船トリニダード号のレプリカ

​重さ 150t、長さ 93 ft、26 ftのビーム、3 つのマスト、バウスプリットを備え、 メインマストの高さは82 ft。5 枚の帆と 5 つのデッキを備えている。
建材はイロコ(Iroko)  と松材。
※ イロコ(Iroko) はアフリカ南部の広葉樹。比重の割に硬度もあり安価。チークの代替材として船やボートで使われる素材。

トリニダード号 (Nao Trinidad)のレプリカはNao Victoria Foundation(ナオ・ヴィクトリア財団)により海事遺産の共有、歴史的な船の修復、建造など研究目的で建造されたらしい。
浮遊博物館として世界を周航して展示。乗船も可能。
上の写真はオハイオ州クリーブランド2022年のTall Ships Festivalの宣伝の時のもの。


インテル・カエテラ(Inter caetera)とトルデシリャス条約線 問題
​ポルトガルが東周りで香料諸島に。そしてスペインが西周りで香料諸島に到達しなければならなかった理由のおさらいです。
これも「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 16 イザベラ女王とコロンブス」の中「
世界を分割したトルデシリャス条約とサラゴサ条約」ですでに書いていますが・・。​​​​​​​​​
​​​​​​​​​​​​​​​
星 1493年、ローマ教皇アレクサンデル6世(Alexander Ⅵ)(1431年~1503年)の教皇勅書「インテル・カエテラ(Inter caetera)」により「教皇子午線」が決められ、スペインとポルトガルの権利域が確定された 。​

翌年(1494年)、両国は協議して「教皇子午線」を少しずらしトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)線を決めた 。​
西経46度37分の東側がポルトガル。西側がスペインに属する。
※ おそらくこの線は両国の利権的に納得の行くラインに子午線がずらされたものと思う。
このずれた事によりポルトガルは後々ブラジルの利権を大きく獲得する事ができた。

両国はトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)線を遵守しなければならなかったから、スペインは東には進めない。
現段階では東方面はポルトガルの領域で、西方面の領域は全てスペインの領とされた からである。

星すでに地球が丸い事はうすうす解っていたから、ポルトガルが先に香料諸島に到達してしまった以上、 スペインは西周りで香料諸島に到達して利権を行使(こうし)するしか方法が無かった のである。

以前紹介した図ですが


東に進んだポルトガルの成功
アフリカ大陸を南下して喜望峰を回り、東に北上したポルトガルはインド洋に到達。さらに東に進み彼らは香料諸島に到達する 事ができた。

​1499年バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)がインド航路を開いてからポルトガルは安定したインドへの航海ルートを確立していた。​
​先にマゼランもインドや香料諸島に行っていた事(8年駐留? 1513年帰国)に触れたが・・。

星ポルトガルは1513年までのわずか14年の間に欧州の香料貿易を独占 し、天下を取っていた。
直接仕入れる香辛料はヴェネツィアがアラブ人から購入していた時よりも安価。
イタリアの商人やドイツ商人(フッガー家)がこぞってポルトガルから商権を奪い合う事になる。
​つまり、 16世紀までその地位にいたヴェネツィアから一気に富を奪いポルトガルはトップの大海洋国に成り上がった のである。​


それ故、 スペインは、ポルトガル人の航海士フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)(1480年~1521年)を航海士に抜擢して西のルート開拓を急いだ
この当時、スペインはまだ航海技術が乏しく、航海士には引き抜いたポルトガル人を雇っていたのが現状。

スペインの看板を背負ったマゼランが(1519年9月)西回りでアメリカ大陸を超え、太平洋を横断しフィリピンに到達する。(1521年3月)そこがスペインが求めたアジアの東の果てであった。

海図の本「Eary Sea Charts」 から
Sea chart of Malacca,the Indonesian Archipelago,and the Philippines.
モルッカ、インドネシア諸島、フィリピンの海図
Petrus Plancius      Amsterdam.C.1595

地図にはスパイスも書き込まれている。
下はフィリピンと南方の香料諸島 モルッカ 諸島(Malacca Islands)を拡大。

不完全さは下の地図と比べると一目。 上が 1595年当時。地図としてはよくできている。
下は現在の地図 

ピンクで囲った所がいわゆる香料諸島。モルッカ諸島(Malacca Islands)である。
パプアニューギニアのすぐ西の海域ですね。


Battle of Mactan の記念碑
マゼランは太平洋を横断。目的の香料諸島が近い事を知りながら、不幸にもフィリピンで巻き込まれた戦闘の果て、命を落とす。
マゼランが命を落とした場所にスペイン統治時代の1866 年にモニュメントが建てられた。

フィリピン政府は2021 年の500周年記念で フィリピンのセブ島ラプラプ市にあるマクタン島 にある記念公園のマクタン神殿(Mactan Shrine)を整備。

以下写真2枚はフィリピンの観光局のものを利用させていただきました。
マゼラン記念碑(Mallelan's Marker)

高さ差30mの石のオベリスク
マゼランのキリスト教の布教活動 (1521年) を讃えたもので、1866 年のスペイン植民地時代に建立。

ラプラプ像(Lapu-Lapu Monument)

高さ20m 像はブロンズ
1521 年のマクタンの戦いでマゼラン率いるスペイン兵を破った英雄王の像。

マゼランの義兄弟のバルボーザ(Barbosa)は 1521 年4月、マクタン島の戦いの数日後、マゼランから初めてキリスト教の洗礼を受けたセブ島の族長ラジャ・フマボン(Rajah Humabon)が開催した晩餐会で暗殺された。


世界周航と太平洋航路の確立
船長マゼランはフィリピンのマクタン島(Mactan Island)において ラプ=ラプ王(Lapu-Lapu)(1491年? ~1542年)との戦いで 戦死 した。
だからこの時、 マゼラン自身は香料諸島に到達していないし、まして世界周航はしていない

だが、マゼランが隊長として率いた船(ヴィクトリア号)が、結果敵に世界周航を果たしたので、 マゼラン隊が世界周航を果たした と言うことになった。
最も、マゼランは東ルートで過去に香料諸島に来てはいる。理論的には彼は地球を一周しているのと同じ。

星この段階ではまだサラゴサ条約線は存在していない。
香料諸島の領有権をめぐり、ポルトガルとスペインにとっては、トルデシリャス条約線の180度裏にも線引きが必要になった のだ。
どうも、今回は教皇抜きに2国間で話し合いが行われた模様。
実際、線引きはしたが、フィリピンをスペインが取り、モルッカ諸島の利権はポルトガルと、後々棲み分けをしている。

マゼラン隊、マゼランとエルカーノが航海したルート図
※ 緑の枠内(フィリピン)、マゼランが亡くなった場所。

そもそも、もしポルトガルに追われて慌てて香料諸島を出る事がなかったなら、マゼラン隊は太平洋をもと来たコースをたどって戻っていたかもしれない。
そして、 もし両船が太平洋航路をとっていたなら、誰もスペインに戻る事はできなかったかもしれない。

ポルトガルに追われた彼らは東コースと西コースの二手に分かれて逃げた。
実際、 トリニダード号 (Nao Trinidad)は太平洋横断の東コースをとったが、向い風と嵐により断念して戻どった所をポルトガルに拿捕(だほ)された。

実は 太平洋越えのルートは 往路も距離があり大変であったが、それ以上に 復路が困難を極めた。
赤道を南下し、マゼラン海峡に到達する必要があったが、 向かい風で東に進め無かったのだ。
貿易風が東から西に吹いているからね。しょんぼり

星当時は帆船だから偏西風を見つけるまで誰も横断できなかった。
危険なコースとされ、マゼラン隊以降、挑戦が試みられたが太平洋を西から東に渡るのに成功するまで40年近く要した。
この 往路太平洋越えの開拓は1565年にアンドレス・デ・ウルダネータ(Andrés de Urdaneta)がマニラ=アカプルコ航路を確立するまで、なしえなかった のである。

参考に
太平洋航路を確立した(16世紀頃)のスペインとポルトガルの航路です。
ポルトガル航路に長崎が入ってますね。

ウィキメディアから借りたマニラ・ガレオンの航路図を合体してポルトガル航路(Portuguese Routes)とスペイン航路(Spanish Routes)に仕分けしました。

マニラ・アカプルコ航路は年に1回か2回の定期船となり1565年から19世紀初頭までの250年存在。
太平洋横断し、定期便を持つ頃にはスペインはNao(キャラック船)から積荷が多く積めるガレオン船(Galeón)に移行 。このスペイン貿易船はマニラ・ガレオンと呼ばれている。​
積み荷の大半は中国産だったそうだ。

因みに、ガレオン船(Galeón)は砲列を増やして戦闘に特化した戦列艦ガレアス(galleass)に発展する。
ガレアス船は1571年のレパントの海戦 (Battle of Lepanto)​​でヴェネツィア軍により登場。勝利に貢献している。
リンク ​ 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦


マゼラン亡き後マゼラン隊を率いた エルカーノ
星マゼラン亡き後、マゼランの隊の旗艦の一つ、ヴィクトリア号を率いたのはバスク出身の航海士ファン・セバスティアン・エルカーノ(Juan Sebastián Elcano)(1476年 ~1526年) である。


1521年12月、エルカーノ(Elcano)は香料諸島(Malacca Islands)に到達する。
しかし、​隣の島にポルトガルが来ていた事を知る。彼らに知られれば捕まってしまう。
​1522年2月? マゼラン隊は詰めるだけの香辛料を積んで逃げるように香料諸島(Malacca Islands)を出発する。​
先にも触れているが、来たコースを戻るべく太平洋に向かった船と、危険のあるポルトガル領域を通過してアフリカを回る二手に船は分かれた。
太平洋コースに向かったトリニダード号は戻ってポルトガルに捕まった。
ヴィクトリア号を率いてインド洋を横断したのがエルカーノ( Elcano) である。

ピガフェッタの著によればジョアン・カルヴァッジョ以下隊員50人が島に残留。帰国の船に乗ったのは47名とインディオ13名。
※ 上記、60名は、ヴィクトリア号だけ?  トリニダード号については語られていない。

エルカーノはポルトガルに見つからないよう インド洋での寄航は一切せず一気にアフリカ南端を目指した。
しかし、 喜望峰を越える為に9週間 洋上で? 風を待つ事になる。
寒さはひどく、船も浸水していたが、近辺はポルトガル領域。どこにも寄航しない道を選び天気が恵まれるまで待った。 2ヶ月食料の補給もできなかったから、この間に21人が死亡。

喜望峰の座標: 南緯34度21分29秒 東経18度28分19秒
船は喜望峰でも停泊せず、北上して北大西洋上のヴェルデ岬諸島(カーボ・ヴェルデ・Cape Verde)まで一気に航海。
※ 南半球から赤道を越え北半球に入る為に海流の関係で一気に北上はできない。

ベルデ諸島の座標: 北緯14度44分41秒 西経17度31分13秒
ここでやっと寄港し、食料調達をするも、ここもポルトガル領。 13人が抑留 された。
前帆柱が折れて修理の必要があったが、慌てて出港。
​​​​​
​​​​​​​ 食料が不足しても、船が破損しても補修ができず、船は半壊しながらかろうじてスペインに戻った のである。(1522年9月)

モルッカ諸島を出港した時点で船員は60人いた。船員はほとんどが餓死か病死。
ティモール島で逃亡した者、罪を犯し処刑された者、ポルトガルに捕らえられた者も多かったが、食糧が無くて餓死した者。病気になった者はもっと多く、無事に帰国した彼らもほぼ病気になっていた。
だから スペインのサンルカル(Sanlúcar)に入港した時点で居たのは18人。

2日後に船は華々しくセビリアに入港。
航行総距離14460レーガ(約81000km)。地球を西から東に一周した。

香料諸島で積んだ積み荷は18人を豊かにした。
エルカーノはカルロス王からは生涯年金と紋章を受ける。ローマ教皇にも謁見している。
その後のエルカーノは2度目の香料諸島と世界一周航行? を試み、太平洋上で壊血病と栄養失調により亡くなった。

彼の失敗は、彼の物語を本にしなかった事だ。
星 彼の成功は、当時皆に知られていたが、時がたち、彼は忘れられた。


アントニオ・ピガフェッタの著「最初の世界周航」
マゼラン隊の船で日誌をつけていた、ヴェネツィアのアントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)は、帰国後に「最初の世界周航( The first voyage around the world) 」について著した本を書いた。
教皇の薦めで著した本は マゼラン隊の乗組員による唯一の記録​ である。

※  マゼラン隊の記録としては 、彼らの帰国後にスペイン王の秘書トランシルヴァーノがエルカーノら乗組員3名からの 聞き取り調査書した「トランシルヴァーノのモルッカ諸島遠征調書」が存在する

セブ島セブ市独立広場 アントニオ・ピガフェッタのモニュメント
ウィキメディアからかりて周りを少しトリーミングしています。

アントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)(1491年~1534年)

ピガフェッタの記録は、日記をつけていただけあって、立ち寄った民族や土地や、言語、食べ物の事など割と細かに書かれている。
彼の関心はあくまで、特別な体験や知識にあった?
ピガフェッタはセブやモロッカの単語と訳を単語集としてたくさん記録し残している 。それが後の言語研究に役立っている。
要するに 世界周航で見た世界の話と経験した事がまとめられたエッセイなのである

タイトルの「マゼランの世界周航」から期待したのは現地の風俗より、マゼラン隊がいかに海峡を越え、太平洋を越え、モルッカ諸島にたどり付き、喜望峰経由で帰って来たのか? 難航海をいかに制したか? である。航海士目線が欲しかったが彼が航海士ではなかったのでそういう目線が無い。

そもそもピガフェッタは直前交渉で船に乗船させてもらった身。とは言え、 ​遠征隊の公式記録者として登録されていたらしい。​
​​​​​
それにしても疑問なのは、マゼラン隊長に対するリスペクトは感じられるが、 彼の本には最後を率いたヴィクトリア号の船長ファン・セバスティアン・エルカーノ(Juan Sebastián Elcano)の事も全く描かれていない 事だ。
唯一、マゼランが亡くなった後に船長に選ばれた1人として名が出てくるが、その後置き去りにされ生死不明とされている。(・_・?)はて?

また、もう一人のヴィクトリア号船長のドゥアルテ・バルボーザもそこで殺されているし、彼らを見殺しにしたジョアン・カルバッチョは最終的に島に残り帰国はしなかった。
その辺の事情も全く無い。では誰がその後の船長なのか? 記述がないのも不思議。

何にしてもヴィクトリア号はエルカーノがいたから無事に帰国を果たせたと言って過言でない。本来は辛い航海を制した船長へのリスペクトがあってもよさそうなのに・・。
星意図的にエルカーノの事を消したのか?

どうも忖度(そんたく)があったから、マゼランに対する反乱など敢えて濁したらしい。
もっとも、 エルカーノは最初にマゼランに反旗をしたメンバーの一人であったから、ピガフェッタが彼を良く思っていなかった事は明白 だ。


トランシルヴァーノのモルッカ諸島遠征調書
カール 5 世の廷臣で、個人秘書でもあったマクシミリアン・トランシルヴァーノ (Maximilianus Transylvanus)(1485~90年~1538年)が 帰国後のヴィクトリア号の生存者に航海の事、香料諸島の話、領海問題など聞き取り調査 している。
公式記録者なのに? ピガフェッタの日記では全く抜けている部分だ。

トランシルヴァーノの調書「モルッカ諸島」初版 1523 年

スペイン国として、今後どう扱って行くか。 条約線をどちらかが越境していた場合は、解消しなければならない問題もある。
彼はこの航海で得た情報と現実を王に報告し、国として早く世間に公表しなければならなかったらしい。

彼の報告の手紙として、「モルッカ諸島(De Moluccis Insulis)」初版は 1523 年 1 月に出版された。
※ ピガフェッタの著は1525年以降。
※ この手紙が「トランシルヴァーノのモルッカ諸島遠征調書」らしい。これは現在ピガフェッタの「マゼラン最初の世界一周航海」(岩波文庫)に一緒に収められている。絶版本かもしょんぼり

この報告でピガフェッタが避けたサン・フリアン湾の反乱の事もはっきりスペインの将校と兵士の間での「恥ずべきで卑劣な陰謀」としている。
また、香辛料の栽培なども詳しく紹介されているらしい。まだ完読していませんぽっ

因みに、トランシルヴァーノの妻は実は先に紹介した商人クリストファー・デ・ハロ(Christopher de Haro)(生没年不明)の姪であった。だからマゼランやバルボザとも親しかったのだろう。
​​
星「トランシルヴァーノの調書」は埋もれた?  ピガフェッタの本がマゼラン隊に関する唯一の記録? として長い事世間に知られていた。​​​​
​だから ファン・セバスティアン・エルカーノは歴史から忘れさられ、最近になってその偉業がサルベージ(salvage)された のである。


サラゴサ条約線と教皇勅書 スブリミス・デウス(Sublimis Deu)
たった船一隻でもその財は大きかった。 香料諸島の利権問題が勃発する。
香料諸島はポルドガルのものか? スペインのものか?
ポルトガル王とスペイン王の間で話し合いがもたれ、1529年4月、サラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)線が東経144度30分に敷かれた。​​​​​​​
​​
ところで トルデシリャス条約線は西経46度37分。
ポルトガルの方が広いようだが、実際には完全な線引きではなく、地域で部分部分の例外が決められていた
しかし、いずれにしてもこれはスペインとポルトガルが決めた事。

確かに 最初の教皇子午線はローマ教皇による裁定 であったが、これから海洋に進出して来る欧州のほかの国が黙っているはずはない。​​
​また、 植民地となり、奴隷とされた原住民の人権問題 も考慮される時代になりローマ教皇庁も変化した?
※ スブリミス・デウス(Sublimis Deu)では、アメリカ先住民は、たとえ異教徒であっても自由や私有財産の権利を持つ完全に理性的な人間であると述べている。

星​1537年の教皇パウルス3世(Paulus III)(1468年~1549年)が公布した教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)によって、1493年の教皇アレクサンデル6世の教皇勅書インテル・カエテラは無効となった。​
つまり、 スブリミス・デウス(Sublimis Deu)の公布をもって、かつての教皇子午線は無効 となり、よって 東方面がポルトガルの領地で、西方面がスペインの領地と言うかつての裁定も事実上消えた のである。

これにより、 ポルトガルとスペイン以外の国の海洋進出が始まり、世界各地に欧州の植民地の建設が開始 されるのである。


マゼラン隊のルート( Magellan Route )  ​(By AuthaGraph)
香辛料諸島を目指し、かつ地球を一周したコースを​AuthaGraph World Map(オーサグラフ世界地図)上に載せてみてみた。

フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)(1480年~1521年)隊が成し遂げた世界周航のルート。 1本で示してみた。​
そこにローマ教皇と取り決めしたポルトガルとスペインの権利分配のラインも書き込みました。
​西経46度に引かれたトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)のライン​ ​​
​東経144度に引かれたサラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)のライン​
​​スペインのテリトリー(Territory of Spain)​​
​ポルトガルのテリトリー(Portuguese territory)​

上のルート図を見るに、やはり太平洋の距離があるのがわかる。
マゼランは食料船を失い、ただでさえ、食糧不足の中、マゼラン海峡を出た後に食料補給もせずに太平洋に入った。
すぐに陸地があると読んだのだが、それは大きな間違い。大西洋航路より、インド洋横断より、はるかに距離があった。
アジアまで1万km以上。食糧不足は100日も続く。
壊血病など死者も多数。船員がなくなると、マゼランはすみやかに海に流した。
人肉を喰らう事を避けたからだ。


モルッカ諸島の利権を手放した件
ところで、モルッカ諸島では島にジョアン・カルヴァッジョ以下隊員50人が島に残留した。
スペインが領有権を主張する為にも残留しなければならなかったのだろう。
香料諸島はスペインとポルトガル、どちらの領域か?

1529年のサラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)はポルトガルとスペインの話し合いで決まった。
この時点で、香料諸島は線からはずれている。
最終的にスペインは、マゼラン隊が苦労して得たモルッカ諸島を安い値段でポルトガルに売り払らったのだ。
しかし、代わりにポルトガル領内ではあるが、スペインはフィリピンを手に入れた。
スペインが太平洋航路を見つけると、フィリピンとアメリカ大陸間の交易が始まる。
スペインは香料以外の交易品を多数見つけたのである。
フィリピンからではなく、中国から・・。しょんぼり


南米最南パタゴニア、マゼラン海峡
1519年9月、セビリアを出港。
マゼラン一行が最初に寄港した南米大陸はリオデジャネイロ?
​​​​​​※ 座標 : 西経43度11分47秒南緯22度54分30秒 

西経46度まではポルトガルのテリトリー(領域)だったから本来はここはポルトガル領だったはず。
当時の座標が正確かはさておき、 かつてアメリゴ・ベスプッチ(Amerigo Vespucci)(1454年~1512年)が南米大陸東岸を南下し南緯50度まで到達している。
※ 1501年~1502年、ポルトガル王の依頼で南米大陸を計測している。
※ 実はアメリゴの計測結果でポルトガルはトルデシリャス条約をたてにブラジルの領土を主張した。だからアメリゴ・ベスプッチはブラジルの発見者として知られている。
リンク ​ コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)

1494年6月に締結したトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)により 西経46度を超えたらスペインのテリトリー。
これはローマ教皇の裁定により決まった条約です。
※ 後に撤回された。

マゼランは密かに太平洋に抜ける航路を探していた。
南緯50度まではかつてアメリゴ・ベスプッチが到達している。彼はデータを取っていたのでポルトガルには海図はあったはずだ。
いずれにせよ 南緯50度から先の海図は存在しなかった から、船員は海図の無い領域に進む船長に対する不信にあふれていただろう。

マゼラン船団がスペインを出港したのは1519年9月。おそらく大西洋に吹く貿易風を待って横断したからかもしれない。しかし南米に到着するまでに2か月が経過していた。
陸に上がらず、どんどん南下し寒さが増す中、サン・フリアン湾で反乱もおきた。
逃亡する船もあらわれた。

そんな中やっと抜けられる水道を発見する。
それがマゼラン海峡(Strait of Magellan)と名付けられたパタゴニア(Patagonia)の海峡だ。

パタゴニア(Patagonia)は現在の南アメリカ、アルゼンチンとチリの両国にまたがる南緯40度以南の地域。
要するに南米大陸の最南端に位置する秘境である。

上の地図はウィキメディアより借りました。

星諸島の中を抜けて太平洋につながる航路をマゼラン隊は見つけて欧州人としては初めて航海に成功。
それは重大な発見であり、航海図に記される大発見であった

しかし、交易が盛んになってもマゼラン海峡を通過する航路は表に出ていない。
マゼラン海峡を通過してアジアに行くのは非常に危険な航海となった事から、スペインは別のルートを模索 し、太平洋航路を確立させた。


​​​​次回、大西洋から太平洋を横断する、新たなルートの紹介です。
最初に書きましたが、今回は「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) 回です。
一往Back numberをいれます。

Back number
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防
リンク ​ 大航海時代の静物画
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)
マゼラン隊の世界周航と オーサグラフ世界地図
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)
リンク ​ コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)
リンク ​ 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 16 イザベラ女王とコロンブス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 15 大航海時代の道を開いたポルトガル
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ リンク  ​ 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊
リンク  ​ 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa​​)
リンク ​
アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック
リンク  ​ ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 9 帝政ローマの交易
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 8 市民権とローマ帝国の制海権
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 6 コインの登場と港湾都市エフェソス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 5 ソグド人の交易路(Silk Road)​
リンク  ​ クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 3 海のシルクロード
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 2 アレクサンドロス王とペルセポリス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
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Last updated  2024年10月18日 02時52分17秒
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