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来週、久しぶりに京都へ帰る。うれしくて仕方が無い。実家とは相変わらず疎遠(というか、表面上の付き合い)だが、京都という土地は、嘘偽り無く私の故郷だ。自分の過去の栄光も、立ち上がれなかったくらい辛い想い出も、全てが懐かしい。毎年、正月かお盆には帰省していたのだが、海外にいたときは帰れなかったので、2年ぶりになる。ここまで長いと「故郷懐古症(造語)」になるらしい。京都旅行(今回はフランスの友人のガイドなので観光旅行)なので、自分の想い出に関する場所に行く機会は少なそうだが、もう一度自分の原点に帰るという意味では、有意義なものとなるだろう。見る所は修学旅行生さながら(の予定)であるが、若い頃には見つけられなかったものがあるはずである。例えば金閣寺。日本史はかなり得意なほうだったので、頭でっかちな見方は高校生の時にもやっていたが、当時の私にとっては単なる豪華な建造物に過ぎなかった。しかし、金閣に掛ける義満の想い、作った職人達の想い、そして、その完成品を見てきた人たちの想い。これらに最近は思いを馳せる。貴船然り、鴨川然り、京都御所然り。どこよりも多くの人たちの願いや想いを見つめてきた場所たち。そしてそこに真摯な想いを馳せてきた人々。空想(妄想?)の域を出ることは無いが、「あぁ、こういう考えでこの景色を見た人もいるだろうなぁ」とか、「あの人はどんな想いでこの景色を見ていたのだろう?」などと考えながらこの街を見つけていこう。それもまた、いとをかし、なのである。
2005.08.30
小生、土日は家族サービスに費やしているため日記の更新が基本的に出来ない。んで、書いた日はアクセス数が増えて、書いていない日はアクセス数激減。小生が更新したかどうかを、ページに来なくても判るということは、それだけお気に入り登録していただいているということであろうか?何にせよ、ありがたいことではある。(自分のために日記を書くというスタイルは変えないけど)さてさて、今日はお題の通りの話。人間のエネルギーというか、許容量というのは個人差はあるものの決まっているので、100%のパワーを出すことは出来ても日常生活で120%の力を発揮することは出来ない(「日常生活で」と書いたのは「火事場のバカ力」を意識してのこと)。で、例えば彼女、彼氏としてお付き合いしている時、或いは子供のいない熱々(死語)カップルの時。全てのエネルギーはパートナーに向けられているので、100与えて、与えられるほうは、自分の器が満杯(100)になる。しかし、子供が出来たら生活の何割かは、子供のためにエネルギーを割くことになる(これは自然なこと)。例えば子供にかかるエネルギーを40としよう。二人ともがエネルギーが60まで低下していれば、そのバランスは保たれる。しかし、どちらかが何かを背負わなければならない状況になった時、そのバランスは崩れる。例えば、町内会長にでもなろうものなら(好きな人は除く)慣れないうちはそれに必要なエネルギーはバカにならない。ここでは20くらいにしておこう。すると、愛情を出すほうは「残っている愛情の100%」を与えていても、受け取る方は40しか受け取っていないことになる。受け取る方はまだ、自分の器の中に60の空きがあるので、物足りなさを感じることになる。結局、家族は許容量のバランスをとることが大事なのだろうと思っている。(能力とは別物)例えば私の家内が、私と同じ容量を持った人間だったとしたら、家内が仕事をするとか、子育てに対して私の仕事と同じだけのエネルギーを費やすことによって、初めてバランスが保たれる。「私と仕事と、どっちが大事なの?」ドラマでよく聞く(聞かなくなったけど)セリフだが、受け取る側の容量がまだ余っているのに、与えるほうがいっぱいいっぱいになっているとこうなるのではなかろうか?この場合、どちらかだけを選択するわけには行かないのだから(水かパンか、どちらかだけ選べと言われているに等しい)、与える側が、自分の中のバランスを変えるか、受け取るほうが他の「何か」に目を向けることでバランスが保たれることになるように思う。その「何か」が何かは人によって異なるとは思うが・・・
2005.08.29
台風が深夜に首都圏は抜けてくれたようで、出勤にも特に影響なし。朝からテレビを見ながら、そのニュースを確認していました。で、感じたこと。台風に直撃されている地域で、そこの局アナがレインコートを着たりして、暴風雨に晒されながらレポートをしている。これは、本当に必要なのか???実のところ、レポートしているアナウンサーよりもカメラマンの方が大変だとは思うが、これらの映像が必要だとは思えない。「危険だ」ということをビジュアルに伝えようとしているのかも知れないが、逆に「別に、行っても大丈夫なところ」という印象を与えかねない。ひどいところになると、自治体が避難勧告を出しているところに、「わざわざ」出かけていることになる。風速20m/sにもなれば子供が吹っ飛ばされることくらいは、知っていてしかるべきだし、そんなことしなくても、他に伝える方法はあるように思うが。ピュリツァー賞を狙って戦地に赴くカメラマンは、その命を犠牲にするだけの覚悟があるのだろう。そして、その報道に文字通り命を掛けているのだろう。しかし、上記のアナウンサーやカメラマンにその覚悟があるとは思えない。「社員の安全」を考えないその姿勢は、非難されるべきものなのではないだろうか?全く別件だけど、昨日の新聞に昔、プロ野球のロッテでプレーしていたフランコの話が載っていた。確か47歳かな?そこに、サチェル・ペイジという投手の名前が出ていたので、懐かしく思い出した。(別にその時代に生きていたわけではなく、若い頃に彼のことを書いた本を読んだのである)その昔、アメリカの野球は白人のみで運営されており、黒人は「黒人リーグ」という別組織で野球をしていた。このリーグでの個人記録はメジャーリーグ記録として認められていない。この差別のために彼は、42歳までメジャーリーグに入ることが出来なかった。しかし、彼の実力は誰もに認められ、59歳までプレーを続けた。入団当初は人種差別思想の監督の下、敗戦処理のような使い方をされたときもあるが、「自分の力はどのような状況でも見せられる」とマウンドにあがったというエピソードも有る。そして黒人が社会的に認められているきっかけの一つになったとも言われている。歴史に「たられば」は無いが、彼の本を昨夜読み返して彼の姿に思いを馳せた。
2005.08.26
また一人、私がよくお邪魔するブログの方が日記を停止された。正確にはブログを閉じたのではなく、これまでの内容を全て消去されたのだが。元々は、日記というものは自分だけのものであって、他人に公開するために書かれた物ではない。他人の日記帳を盗み見することは、例え夫婦であっても親子であってもタブーである。しかし、ブログは不特定多数の人が読む、特殊な日記である。日記とは逆に、その人の考え方や感じ方だけが現れる。本来は、自分の吐露したいことを表現したくて始めたはずなのに、いつしか「読む人」を意識したものに変わってしまう。それでモチベーションが上がる分には問題ないが、「書きたくても書けない」ことが多くなれば、却ってフラストレーションが溜まるだけである。いつしかストレートな感情表現は影を潜め、「面白おかしく」が重視された文章に変化していく。私は作家ではないし、他人を面白がらせるために生きているわけでもない。自分のことで精一杯である。ただ、トータルで自分にとってプラスになるように今を過ごそう、と意識だけはしている。私のブログは、非常に説教くさい部分が多いが、これらは全て「自分に向かって」言っていることでも有る。書くことで自分の価値観を再認識しているというのが正直なところか?今の「悩める現状」からの将来への方向性の確認とでも言おうか。私自身、悩むことは非常に良いことだと考えているし、有る意味、悩んでいる人は男女を問わず美しい。しかし、悩んでいる人を救う力は、私には、無い。その無力さを恥じると共に、いつか、悩んでいる人の力になれるような(具体的な像は無いが)人でありたいと考える今日この頃。
2005.08.25
この月曜が、会社の「強制休み」であったため、週末から月曜に掛けて家族旅行。それは首都圏から400kmほど離れたところにある、某古代遺跡。温泉地でも有るその地に泊まり、子供達と一緒に遺跡で遊び、化石を探し、縄文時代の器具作りを体験。我が子は現代っ子そのままで、目新しい体験をしてもポケモン等の方が良いらしい。ちょっと野放しにしすぎたかな。少しコントロールしないと。親としては、疲れた体を引きずるように往復しているのに、彼らには「なんとなく楽しく遊んだ」くらいの認識しかないようだ。まあ、仕方ないといえば仕方ないのだが。その温泉地は、宝石の原石が見つかることでも有名で、妻のために捜し歩いた。宝石の原石「まがい」のものを見つけ、一人悦に入る。それにしても、疲れた。しかし、後になって「もっとどこかへ連れて行けばよかった」とか「もっと一緒に遊んでやればよかった」などと思いたくない気持ちが私を動かす。探し当てた化石や、自分で作った器具を見るたびに、この旅の事を思い出すような子供になって欲しいというのは、親のエゴだろうなぁ。話は変わって駒大苫小牧高校が揺れている。様々な意見もあるようだが、どこかで線を引かねばなるまい。昨夜、どこかのTVで「生徒達は被害者なのだから彼らの名誉(優勝旗)は守られるべき」という理論が展開されていた。確かに一理あるが、高野連の処罰対象は生徒や監督、部長といった「個人」ではなく、「学校」であること、「生徒は被害者」という見方を容認するならば明徳義塾のような生徒間の不祥事でも、何の関係も無く真面目に練習していた生徒達こそ、被害者である。高野連の会見でも、「指導者が暴力を用いるようでは、生徒間の暴力その他の根絶など、とても図れない」という発言があった。この精神を貫くのであれば、優勝旗返還(優勝の取り消し)という結論が下るであろう。逆に、お咎め無しとなれば、この手の不祥事は事後報告で良い、という悪しき前例を残すことになる。過去に指導者の暴力で甲子園出場辞退に追い込まれた前例があるのであれば、それに従うしか選択肢は無い。「強いから」「優勝したから」で済まされるのであれば、名門校の監督は鉄拳制裁教育でも是認されることになる。トカゲの尻尾切り的なところが落としどころかもしれないが、それでは高野連の威厳は地に落ちる。どうするのか、高野連から目が離せない。
2005.08.24
このブログをはじめてから、様々な方のページを拝見しているが、恋愛の形というのは実に様々なものだと痛感する。と同時に、それだけ人類が本能的に持っている感情なのだろう。私は、神でもなければ教祖でも無いので、他人の恋愛を「評価」することなど、出来はしない。人間に教わってきた「道徳」という価値観に基づけば、分類は可能だろうが、その価値観すらも人間が考え出したものに過ぎない。基本的に恋愛は、当事者が幸せならそれで良いのだが、これに3人目(或いはそれ以上)の人間が絡んでくると、一気に複雑になる。それが、元カレだったり、旦那だったり、子供だったり・・・私も過去に(17年ほど前)、修羅場と言われる場に居合わせたことが有る(当事者として、だが)。「修羅場を経験したのなら、それを避けようとする」意識は有るが、その修羅場の直後は、それを避けようとして別れようとは思わなかった。却って、女性を自分のほうに向けようと、血みどろの争いを繰り返してしまった。結果から言うと、私ともう一人の男性、双方が去ってしまって女性のところには誰も残らなかったのだが、女性のほうは、男の醜い部分を見すぎてしまったのか、未だに独身である。「恋は熱病のようなもの」と、よく例えられるが、まあ、当たっているであろう。しかし、少し私見を加えておくと、「自分が考えていること以外に、恋愛に言わされたり、させられたりすることがある」ということである。自分が恋愛をコントロールしている間は、こんなことは起きないが、恋愛を自分でコントロール出来なくなったとき、自分の感情の主導権を恋愛に奪われてしまうことになる。この状態から、元に戻るのは、余程意思が強いか、極端な状況変化(別れたなど)が無い限りは難しかろう。この歳になると「楽しいから」だけの理由で恋愛は出来ない。(私の場合、昔からこう言っている気がするが)従って、もう身を焦がすような恋(表現が昭和)をすることも無いであろう。しかし、それで良いのだ(バカボンパパ味)。吾唯足知(われ、ただたるをしる)なのである。
2005.08.18
唐突だが、先週からダイエット週間に突入した。週間だからといって、1週間で終わるわけには行かないのだが。決して肥満ではないのだが(世間一般とすれば「がっしり」で留まっていると信じ・・・たいのだが)より体重を落とすことで私の手術後の体にかける負担を軽減させようという話である。別に主治医に言われたわけではないが、医学関係の親戚から強力に(強引に、とも言う)勧められたためである。因みに、彼は私の数倍太っている。2年前、半年で8kgほど痩せたが、徐々に徐々に、元に戻ってしまった。家内は実に協力的で、出てくる食事のカロリーが極端に低くなった。が、家内だけ別物を食べているわけでもないので、自己節制の範囲であろう。さて、8kg痩せた時の話に戻るが、職場の仲間と「ダイエットレース」を行ったのである。春先の健康診断で測定された体重から、どれだけ減ったかを競うものであった。やや体重が軽めの人もいたが、協議の上、減少した絶対重量(体重に対する割合ではない)で勝敗を決めることにした。ここ一番の強さを見せて700g差で優勝したのだが・・・・・その優勝賞品は、「高級中華料理」。上限1万円までは、他の仲間から出資されるという賞品。鮑にフカヒレに、はっきり言って食べまくった。他人の金で、自分の努力で勝ち取ったフカヒレは実に美味かった。次の日、体重が2kg増えていたことは言うまでも無い。今回は、特に商品があるわけではない、自分との戦いである。まあ、家内の協力がある限り、そう難しいことでもないだろう。運動会の二人三脚は走りにくくて、色々と制限が多いが、夫婦の二人三脚は一人のときより強く、速く走れそうな気がする。自分の妻を自慢する仲間が、私の周りに多いように思うのだが、これは世の中から見れば珍しいことなのだろうか?それとも、私自身が他人のノロケを聞く事が大好きだからであろうか?
2005.08.17
昨日誕生日だったからではないが、その前日、とあるご夫婦と夕食を共にした。元々は奥様(当時独身)とフランス語学校で知り合いになり、仲良くなって、婚約者を紹介され、披露宴に招かれるまでになったご夫婦である。結婚されて2年位かな?旦那さんは私より年上の38。奥様は24歳。実に14歳の歳の差である。一言で片付けてしまうと旦那さんが精神的に非常に若い。私は見たことが無いが、未だに泥酔することもしばしばだそうだ。別に泥酔するのが若い証拠になるわけではないが、感じはつかめるでしょ?んで、その披露宴の話。元々新婦の友人だった私は新婦の友人席へ。平均年齢のむちゃくちゃ若いテーブルに放り込まれてしまった。しかも、私以外は学校の同窓生らしく、思い出話に花が咲いている。「誰やねん、このオッサン」光線を痛いほど浴びながらの食事。いづらいったら、ありゃしない。そのうち、席次表を見出した方が話しかけてきてくれて無言タイム終了。新婦、ご友人に私の話はしてくれていたらしく、その後はたどたどしいながらも無難に時間を過ごしていった。それから2年経つが、若々しい二人は(奥さんは本当に若いんだけど)全く変わらず、ほほえましい夫婦そのものである。実は旦那さん、1年前に大阪に転勤になって奥さんもついていったのだが、奥さんが大阪で職を見つけて働き出した直後に東京への転勤を命ぜられ、現在都内で単身赴任中。んで、旦那さんに「たまには呑みに行きましょうか。奥さんいなくて寂しいっしょ?」とメールしたら、偶然にも奥様が上京していたので一緒に、という段取りになった。奥さんには「私が先に友達になったのに」と、男性同士が奥様を放って呑みに行こうとしたのがお気に召さなかったらしい。可愛らしい女性である。今頃、ご夫婦で夏休みの海外旅行をされているはずである。普段会えない分、しっかりと二人の時間を過ごしてもらいたい。
2005.08.16
誕生日である。36歳である。九九で言えば「ろくろくさんじゅーろく」と、「ろく」を3回言えば良い数字である。今更、何の感慨も無い。あの世への一里塚であることは正月でも誕生日でも同じであろう。ただ、歳を取ること自体には否定的ではない。(加齢臭は何とかしたいけど)体力が衰えていったり、精神的に枯れてくるのは自然現象なので、止まるわけが無い。古(いにしえ)の中国の皇帝が不老不死に憧れ、様々なことをやったらしいが、未だに成功例は聞かない。まあ、トレーニングその他で体力の衰えるスピードを遅くすることは可能なのだが、それでも限界がある。(あれだけ節制しているアスリートにも引退の文字があるのはこういうことであろう)小難しい話はさておき、今日は会社に出社している人数も少ない。昔からこの寂しさは味わってきた。2月か3月くらいに書いたかな、このことは。世の中は終戦記念日として認識しているこの日、日本は多大な犠牲者を出して連合国に降伏した。その戦争そのものに対して是非を論じるつもりは無いが、「戦争への反省」が「事なかれ主義、先送り主義、その場しのぎ主義」に置き換わっている感は否めない。戦争の是非は置いておいて、これだけ多くの人間が住む国家を成立させ、維持していくためには、やはり「ベクトル」は必要である。「日本はどういう国家を目指すべきなのか?」は日本国民である限り考えておくべき問題であろう。中国、韓国は「反日」感情を植えつけることで「全国民に共通の」価値観を持たせているし、アメリカは「世界の警察官」という傲慢極まりない立場を自負して定期的に戦争を起こしている。(もはや、彼らは戦争がしたくてやっているとしか思えない)そしてそれが皮肉なことにあの国の国民感情をまとめている。「平和への思いを新たにする日」これは決して間違ってはいない。しかし、ただ「戦争がおきませんように」とか世界平和を祈るだけではなく、何故あの戦争は起こったのか、日本の当時の政治家は何故戦争という(勝ち目の無い)選択肢を取らざるを得なかったのか。学校では習うことの無かったこの点を、改めて考えるべきであろう。そうすべき日に生まれたという視点では、私は幸福と言える。
2005.08.15
久しぶりに、何の予定も無い土曜日。家族もいないし、のんびりしたものである。音楽など聴きながら、うつらうつらしたりしている。たまには、こんなダラダラな休日も良い物である。世間は今、国会と航空会社のことで話題騒然といったところであろうか?政治的な発言は、この場では控えることにしよう。思うところはあるが、それが一般意志ではないし。(ちなみに、一般意志と大衆意志は似て非なるものである)以前にも航空会社の事故について書いたことがあるが、その思いは今でも全く変わらない。私の勤務している会社とて、製造現場においては事故を起こしたことが無いわけではないし、その後始末に借り出された事もある。しかし、企業は営利追求団体であることも事実である。今回の事故でも、色々な原因が取りざたされているが、メンテナンスに手抜きがあったとは思っていない。結果から遡ると、他人は何とでも言える。「ここをメンテしておくのは基本」などと言って、まるでメンテ部隊及びその権限を持つ物を無能呼ばわりである。飛行機は、機械であり、過酷な条件で繰り返し使用されているのである。ものの理から言って、永久に壊れない事などありえない。そしてその限界まで使用することが企業にとっては利益を生み出す政策なのである。「利益を追求する余り」などと言っているのは、本当にその苦労を知らない人達である。「事故は起こしてはいけない」が基本なのは揺るがないが、かといって、航空機を使い捨てにするわけにも行くまい。メンテナンスは、事故を防止するためのものであるが、絶対はありえないことを認識すべきである。何かあったら、そこに勤務している人全員が「腐っている」かのような論調も控えていただきたい物である。空つながりだけであるが以前、自衛隊の訓練機が基地の敷地内に墜落し、訓練操縦士とその指導者が死亡した事故があった。その指導者は、相当な腕前であったと記事には載っていた。そしてマスコミの論調は「住宅地でなくて良かった」の一点張りである。確かにその通りだ。しかし、私は敢えてこう推測する。もう、いう事を聞かなくなってしまった機体を、自分が持っている全ての技術を注ぎ込んで、一般の人達を巻き込む事の無い基地の敷地内まで移動させ、その結果自らの命が犠牲になった。自分の命か、何も知らない人達の命か、どちらかしか選択肢が無かったのであろう。そして、自らの命を犠牲にしなければならない極限状態にあった乗組員の「公」の魂を見た気になった。そして、教え子を巻き込まなければならなかった指導教員の心痛は、いかほどであったろう。自分がその状態だったときに、同じ判断ができるだろうか?現実味が無い仮定であるが、今の自分には無理であろう。本当に「強い」とはどういうことか。改めて考えさせられる事件であった。御巣鷹山の墜落事故から20年、改めてなくなった方々に追悼の意を示すと共に、命を懸けた教訓に、黙祷。
2005.08.13
人間は悩みを持つ生物である。悩まないなど、不可能である(余程、能天気な人は知らないが)。また、自分の成長のために必要な作業でもある。「自分はどうすべきか」の結論が出せなくて悩む場合もあるだろう。「こうすべき」という建前は解っていても、そう出来ない自分との狭間で悩むこともあるだろう。私は神ではない。よって、私にも悩みはある。しかし、悩みは「自分に」ベクトルが向かっているときは、ロクな事が無い。なぜなら、この場合、結論は「解らない」だと決まっているからである。この状態になってしまうと、中々人に相談するわけにも行かない。助言されても、その通りにするつもりが皆目無いからである。私は常に自分の外側にベクトルを向けるように努めている。不思議なもので、物事を「楽しむ」ベクトルを、悩みと同じくらいにしてしまうと、意外にバランスが取れるものである。つまり、「悩んでいる時こそ、思いっきり楽しもう」ということである。もう、充分落ち込んだのではないか?もう一度考え直すためには、自分を全く違う世界に一旦連れて行く必要がある。そして、それが出来るのも自分自身である。そして改めて、悩みと向き合う。悩みに対して「かかって来い!」と言い切る。これが私の悩み解消法、である。
2005.08.11
ずっと前に書いたかもしれないが、読み返すのも面倒なので改めて書くことにする。先日、知り合いの女性が離婚した。原因は夫の浮気。このこと自体は、昨今珍しくもなくなった気がするが、問題はその課程。旦那さんのほうの女癖が悪いことは、前々から。教師だったのだが生徒と付き合ったり、職場内恋愛も結構していたらしい。二股かどうかは、今となっては確認するすべもない。それがわかった上での結婚だから、別に何を言うでもなく静観していた。が、結婚から数ヶ月で事件は起こった。奥様のほうから「旦那の帰りが毎日午前様。訳を訊いても、忙しいとか、ファミレスにいるとか言っている」????忙しいのはまだしも(教師が毎日午前様になるほど忙しい事態は、そーとーにヤバい状態のはずだが)ファミレスって???余りにも不自然なこの発言。旦那のこの発言により急展開を見せることになる。奥さんに向かって「君のほかに好きな人がいます。でも、君のことも大好きです。だから今のままの生活を維持させてくれないか?」もはや、理解不能。わざわざ、正面きって、配偶者にこんなこと、頼むかね?つまり、深夜まではもう一人の女性の家で過ごし、その後、奥様の所へ帰る、という生活を毎日送っていて、それを継続したいらしい。何ともお粗末な話だが、それでも1年半くらい続いただろうか?そんな生活が続くわけも無く、旦那さんはもう一人の女性にフラレてしまったらしい。そして、「最近、おとなしい」と奥様から言われて一言。「体力の限界。」奥様に非が無かったとは言わない(専業主婦にもかかわらず、家事を何もしなかった)が、ちょっとこれは・・・・考えてしまったが、何がルール違反なのか?旦那が浮気をしたことか?その遠因を作った奥様か?浮気をしていることを堂々と認めさせようとした行為か?別に、そんなにカッコいい旦那でもなかったんだけどなあ。どう思います??
2005.08.09
昨日は秩父のとある渓谷まで、釣りをしに家族でお出かけ。「釣り」と言っても実感の湧かない子供達には「行けば解る」と言っておいて出発。が、秩父は遠い・・・・ここを「首都圏」としてまとめてしまってよいのか???ま、そんなローカル攻撃は無益なので止めておく。子供達のみならず、私も家内も釣りをちゃんとやるのは初めてである。川釣りではあるが、実質は釣堀状態である。スタッフが魚を放流し、それを釣る、という手はずである。本当の釣り愛好家には邪道以外の何者でもなかろうが、素人の「体験」としてはそれでも充分楽しめる。次々と釣れるマスに子供達も大騒ぎ。昼食は近くの食堂で釣ったマスを塩焼きにしてもらって食した。自分で取った魚は、やはり旨いものだ。長男は徐々に慣れてきて最後のほうは一人でサクサク釣っていたが長女はなかなか。しかし、大人二人が手を離せない状況にあったときに長女の竿にヒット!女性特有のここ一番での粘り強さを見せての独力釣り上げ!彼女の今、一番の自慢である。帰りの車の中で5~6回は聞いたな。(我々もその場にいたのだから、別に話を聞かなくても知っているのだが)まあ、喜んでくれるのは親としても嬉しいことである。嬉しいつながりで言うと、よく日記を読ませていただいている方に最近、彼が出来たらしい。幸せな様子が目に浮かぶ(お会いしたことは無いけど)。今月、誕生日をお迎えのようなので、彼に「半袖と長袖のシャツ」をプレゼントにリクエストしてみてくださいね。
2005.08.08
8月は休みがない。仕事自体は、他の会社の人が休みを取るので、立て込んではいないが、自分が仕事に帰ってきたときにはこちらの仕事の結果が欲しいと思うのは世の常らしい。ま、そんなことは良しとして。9月に2回京都へ帰省する。9月の初旬と、下旬(29、30あたり)である。初旬のほうはフランス赴任時代に、これでもかというくらい世話になった人がバカンスで遊びに来るのである。過去にも書いたが、これは私の招待(全額負担)である。彼が差額は出すから娘も一緒に、と言ってきたので快諾。ただし、差額は先方もち。ついでといっては罰が当たるが、これまたフランスで仲良くなった女性(お付き合いの程度は、ご承知の通り)も同時に遊びに来るということになった。で、全員が全員、フランス語しか話せない。(英語、勉強しとけっつうの)当然、通訳として四六時中一緒にいることになるので息抜きなど出来まいの。まあ、ここでお金とか労力を惜しんでいるようでは人間として問題があろう。どこへ連れて行こうか、思案中である。侘びさびは解って貰えないだろうから、金閣とか、奈良の大仏とかその辺か?下旬は、これまたフランスの剣道仲間が仕事で京都に出張で来るというので、お付き合い。が、こちらは英語ベラベラなので、基本的にほったらかしで夕食を一回一緒にするくらい。(日本にもしょっちゅう来ているしの)と、いうことは有る程度、自由な時間が京都で持てそうである。関西の皆さん、よろしくお願いします(って、何を?)私の親しい友人は全員、京都を離れてしまっているので、お盆とか正月でもない限り、集まらないのですよ。
2005.08.05
今日の話は、あくまで男性のみを対象とした話である。女性のことは、わからないのであくまで男性のみ。私自身は、男性が泣くことに極めて否定的である。大人になって、痛くて無く人はまずいないだろう。精神的な苦痛で涙を禁じえない人はいるだろう。これは許容範囲内。ただし前向きでない涙(繰言と後悔のみ)は却下。後は、感動で流す涙であろうか。これは難しい。素直に芸術や何かに感動する分には人間としての幅を感じる。しかし・・・・昨夜、あるTVで、ある集団が大きなイベント(舞台系)をやって、見事に成功させた、という番組をやっていた。終わった後は、殆どの人がワアワア声を上げて泣いていた(これを号泣という)。しかし、私は、その涙で、完全にヒいてしまった。そんな簡単に、自分に対して感動してよいものだろうか?「この泣いている人たちは、プロになれないな、なれても2流だな。」という冷めた認識をしてしまった。一流のプロというものは、偉業を素直に喜びはするが、自分に簡単に感動したりせず、それを通過点として自分に厳しい目を向けていられることが条件である。おそらく、その番組の人たちも短期間ではあるが血の滲むような練習を繰り返していたかもしれない。しかし、しかしである。西武ライオンズの松坂が高校時代、甲子園出場が決まった時に泣いただろうか?イチローしかり、パーフェクトを達成したピッチャーしかり、サッカーの中田しかり、劇団四季の人たちしかり。自分達が功績を残すことによって、それは更なるステップへの挑戦権と位置づけているように思えてならない。失敗して(負けて)笑っている者、成功して(勝って)簡単に泣いてしまう者、これは敗者の条件である。この定義だと、悔し涙は、勝者の条件とも言える。とは、言うものの、湧き出る涙を止めろとは、言えない。ただし、男は人前で泣くものではない。泣くなら、一人で泣くものである。
2005.08.04
今更ながら、という感じもありますが。先日、iPodを衝動買いしました。最近は日本の家電メーカーも、数多くの製品を出しているようで、結構な品揃えであったが、結局本家のiPodに落ち着いた。オーディオ関係で、多くの製品を出している会社はあるけれど、過去に購入して粗悪品(と、敢えて言う)を掴まされたメーカーのものは二度と買わないことにしている。ここで、そのブランド名(或いは企業名)を出すと、どこかしらから文句が来そうなので書かないが、世界に名だたる日本企業でも、粗悪品をつかまされたことがある。「お客様サービスセンター」なるところに電話をしても「はあ?ホントにそんな症状出ているんですか?お客さん、素人だから使い方が間違ってるんじゃないの?そんで、自分で壊しちゃったんじゃないの?」という(正確な再現ではないが)内容のことを言われ、マジ切れしてしまったことがある。コードレスでかけていたので、受話器を叩きつけて切るわけにもいかず、力を込めて「切」ボタンを押したことをよく覚えている。そこには友人も勤めているのだが、悪いが二度と購入しない。んで、消去法で行っても、リンゴと、もう一つくらいしか候補が残らなかった。んじゃ、ってんで本家購入。早速、大好きな音楽を入れてご満悦。因みに私、スターダスト・レビューというバンドが大好きです。最近はギター音楽にもハマっているので、その方面の音楽も聴いています。(悪いことは書いちゃいけないと思うけど、良いと思うことは、書いて良いですよね?)それはそうと、私が楽天の中で定期的にブログを読ませていただいていた方々が、次々とサイトを閉鎖されている(敬語です、受動態でなく)。寂しい気もするが、元々、ブログなんて義務感に駆られて書くものでもないし、押すも引くも、自分で決められる、その手軽さが特徴なので、それもまた運命と思うこととしよう。
2005.08.03
来週は家内が子供二人を連れて、私の実家へ行く。私は、9月にフランスから来る友人のためにガッツリ休みを取るので8月中の休みはない。従って、家内は私がいない状態で、私の実家に行くことになる。まあ、嫁姑のゴタゴタとは無縁のようなので大丈夫であろう。ゴタゴタしたら、二度と家族連れで京都へ帰らなければ良いだけの話だし。家族がいないのは、ゆっくりと眠れる環境ではあるのだが、何か物足りないのも事実である。これだけ毎日子供にベタベタくっつかれていては、それも当然か。家族がいない間のすごし方については、現在妄想中である。別に出張先に何があるわけでもないが、気兼ねなく酒を呑みにいけるのは大きなポイントである。新しい飲み屋を開拓するか、行きなれた所にするか。何か、普段食べられない食材に挑戦してみるか。妄想は尽きない。良からぬ妄想も、起きないではないが、現実味に欠けるのですぐ止めることになる。ううむ、何か良いアイデアはないものか?
2005.08.02
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