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ソフトボールは、ようやく3大会ぶりにオリンピック競技となりました。いまや日本人にとっては女子種目の花です。しかし、次回のパリ五輪では、ふたたび野球とともに正式種目からは外れます。その最大の理由は「球場建設」の問題だと思われます。◇巨大な都市開発をともなうオリンピックでは、さまざまな競技施設がつくられます。それらは「レガシー」として残されるのですが、オリンピック後に使い道のない施設は、維持費がかさむだけの「負のレガシー」になってしまう。もともと野球やソフトボールは、おもに環太平洋地域で普及したスポーツ文化です。しかし、そうした文化のないヨーロッパなどで野球場を建設しても、五輪後に「負のレガシー」になるのは目に見えている。だから、大会種目から除外されがちなのです。◇ここで考えるべきなのは、オリンピックの開催方式そのものの問題です。じつのところ、現在のような「一国開催 / 一都市開催」の方式ではなく、世界中に競技会場を分散する方式を採れば、ソフトボールのような種目でも排除する必要はないからです。つまり、考えるべきは、個々の競技の性質上の問題ではなく、オリンピックそれ自体の問題だと言ったほうがいい。近代オリンピックは、古代ギリシャの「オリンピアに集う」という格式に則って、一都市開催の方式を採ってきました。しかし、これが20世紀の悪しきナショナリズムを助長し、巨大開発にともなう巨大利権などの弊害をもたらしました。そして、これが競技種目の制約にも繋がっています。今後のオリンピックは、地域開催(もしくは多国間開催)の方式へと移行すべきです。◇すでにTOKYO2020でも、東京に一極集中させることの限界が露呈し、北海道や東北をふくむ分散開催を余儀なくされています。次回のパリ五輪でも、「アジェンダ2020」にもとづいて、タヒチなどを含む競技会場の分散が予定されています。交通網や情報ネットワークの発達した現代では、都市や国家をまたぐ開催地の分散が十分に可能です。そもそも、すべての施設をひとつの都市に揃える必要はないのだし、スポーツ文化の多様化した時代に、そんなことは不可能とも言える。サッカーのW杯では、すでに日韓共同開催という例もあります。今回のTOKYO2020でも、じつは日・英・加などの遠距離分散開催や、東京・パリでの共同開催などの案が挙がっていました。◇開発や自然破壊が分散するのでは本末転倒ですが、各都市の既存の施設を使って分担するのなら、あらたな開発を伴わないコンパクトな大会が実現できます。山のある場所で山の競技をし、川のある場所で川の競技をし、海のある場所で海の競技をすればいい。涼しい場所で屋外の競技をし、水の豊富な場所で水や氷の競技をし、球場のある場所で野球やソフトボールをすればいい。野球とソフトボールにかんしては、たんにWBCやWBSCをオリンピックへ統合するだけのことでしょう。そうすれば、競技の大小やスポーツ文化の有無にかかわらず、さまざまな競技を満遍なく取り入れることが出来ます。さらに交通網さえ整備すれば、中東やアフリカや東南アジアでの開催にも道が開けます。都市開発や国威発揚にばかり執着する現状のオリンピックは、時代に見合ったスポーツ文化の発展をかえって阻害しています。
2021.07.28
熱海の盛り土をつくった天野二三男は、自由同和会の神奈川県本部会長だったのですが、すでに前科者でもあった天野二三男が、なぜ自由同和会でそのような重職に就いていたのか。そして、なぜ熱海の事件と同時にその職を辞したのか。自由同和会は、その経緯について、いまだ何も明らかにはしていません。◇いわゆる「エセ同和」とは、その出自にかかわらず、「同和を名乗って反社会的な行為をなす人物」のことです。その意味で、天野二三男は、たとえ彼が部落出身者であろうとなかろうと、まごうことなき「エセ同和」であるのに違いありません。そして、今回の熱海での事件は、そんな「エセ同和」の天野二三男個人を断罪すれば終わる話です。しかしながら、自由同和会の沈黙や、政界やマスコミの異様なまでの沈黙は、その沈黙があまりにも不自然であるために、たんに個人の犯罪では済まないことさえ感じさせます。◇自由同和会という組織が、あくまでも「真正同和」であり、けっして「エセ同和」ではないのだと証明するためには、まずは、天野二三男が重職についた経緯と、それを辞した経緯について、しっかりと公に説明しなければなりません。自由同和会が自民党の関連団体であるならば、なおさら社会的な意味での説明責任が求められます。◇そして、マスコミは、それが真実かどうかを検証しなければなりません。つまり、「エセ同和」と呼ぶべきなのは天野二三男ただひとりであり、自由同和会の組織内部には、ほかに「エセ同和」と呼ぶべき人物が存在しないことを、第三者の立場から検証して明らかにすべきです。そうでなければ、「じつは自由同和会そのものがエセ同和ではないのか?」という疑念ばかりが浮上してしまいますし、「ほかならぬ真正同和こそがエセ同和の正体ではないのか?」という印象ばかりが国民社会に広がってしまいます。つまり、現在のような異様なまでの沈黙は、かえって国民社会における部落差別を増長させるだけなのです。◇もしも、かりに、天野二三男以外にも「エセ同和」行為に手を染めている会員がいて、それが組織内に蔓延している状況だとすれば、自由同和会そのものを、「エセ同和組織」として社会追放しなければなりません。そして自民党は、「われわれはエセ同和とお付き合いをしておりました」と認めた上で、国民に向かって説明と謝罪をし、具体的にエセ同和との関係をもっていた政治家や官僚を、ただちに処分しなければなりません。なぜなら「エセ同和」とは「反社」にほかならないからです。◇くりかえしますが、不思議なことに、政界もマスコミも、この問題に対して異常なほどの沈黙を続けています。そして、この不可解な沈黙は、今回の大規模な犯罪が、たんに個人のものではなく、じつは政界もマスコミも無縁ではないということをさえ、うっすらと国民全体に感じさせはじめています。週刊文春も、今のところこの問題を保留にしていますし、週刊新潮は、記事にはしているものの、その扱いは大きくありません。しかし、わたしがもっとも重視しているのは NHK の態度です。もしも NHK が、「エセ同和=反社」についての報道をこのまま自粛し続け、その問題の本質を隠蔽し続け、実質的にその悪行を放任してしまうのだとしたら、もはやNHKに「公共放送」としての役割を認めることはできませんし、その際、国民は、いっさいの受信料の支払いをやめなければなりません。
2021.07.26
いきなりメキシコに勝つとは思いませんでした。日本が強いのか?メキシコが弱いのか?でも、最後の5分+ロスタイムで反撃されるのは、いつもながらの悪しき伝統だよねー。これって、何かしら必然的な理由があるのでは?戦略上の問題か、メンタル面の問題か分からないけど、過去の例も全部集めたうえで、きちんと分析したほうがいい。終盤に戦い方を変えるのが原因だとすれば、むしろ「戦い方を変えない」ための対策が必要だし、モチベーションを変えないための練習も必要ですね。◇大橋悠依の圧勝は予想外。つい岩崎恭子のことを思い出してしまうけど、水泳って、奇跡が起こるから、不思議な競技です。たぶん、水の抵抗の力学的なコントロールというのは、それだけ複雑な要因が多いからなのだろうなと思う。200m個人メドレーにも期待します。そして、3年後の池江璃花子の自由形とバタフライにも。阿部兄妹は期待通りでした。◇試合を見てる感覚は、いつものオリンピックと何ら変わりがない。日本で開催してる実感は皆無に近い。どこでやっても同じなら、金をかけるだけ無駄。
2021.07.26
プレバト俳句。夏の炎帝戦。お題は「Tシャツ」。今回も「異議あり!」ってほどのことじゃないけど、個人的な感想です。◇まずは、2位の東国原英夫。Tシャツの干され 西日の消防署 季節の場面だけでなく、社会の断面をも切り取るのが、東国原らしい特徴で、この句も卓越しています。「消防」という過酷な仕事と、1日の終わりを表す「西日」の対比に、いろいろなストーリーも見えてきます。実際の消防の仕事は24時間だから、日が沈めば終わりってわけじゃないでしょうけど。◇そんな東国原を押さえて、1位になったのは犬山紙子。日盛りや 母の二の腕は静謐 出来の優劣はともかく、これが今回の1位だったのはよかったです。おかげで学ぶところがありました。実際には「介護」の場面だったそうで、そのことは読んだだけじゃ分からないのだけど、そのぶん、読む人ごとに、いろんなストーリーの描き方が可能な句です。わたしの場合は、「逞しく働く母親の年季が入った二の腕のたるみ」みたいな対比的な光景が見えたので、本人の話とは別のストーリーを思い浮かべたけど、そういうところにも俳句の価値はありますね。必要な情報の伝え方に瑕疵があって「誤読」を招くのなら、それは直す必要があるけど、この句の場合は、あえて語らず、映像に奥行きをもたせてるわけなので、けっして瑕疵があるということではないし、実際とは違う「読み」を誘っても構わないのだなと思います。本人の意図を確かめないと判断できない面もありますが、「誤読を招く」というのと「読みを許す」というのは、似ているけれど、意味が違う。…ということを考えさせられました。◇順序バラバラですが、つぎは春風亭昇吉。海の風 火薬の尽きた花火蹴るこれはランク外の12位だったのですけど、わたし好みの作品だったので、目にとまりました。なぜ最後に花火を「蹴る」のかは分からないけど、これもやはり映像に奥行きがあって、いろいろとストーリーの読みの可能性を感じます。「火薬の尽きた花火」という表現が、やや重複ぎみで効率が悪い気もするので、「尽きた最後の花火」とか、「尽きてしまった花火」とか、「最後の花火の殻を」とも出来るけど、花火の終わり=夏の終わりの場面だから、そこに「火薬のにおい」を残しておきたいのも分かる。「花火」は秋の季語という話もあるけど(笑)。もうひとつ難点としては、季語よりも「海の風」のほうに主役感が出てるので、ためしに、上五で切らず、海風に火薬が尽きた花火 蹴るとしてみましたが、これだと「風で火が消えてムカついて蹴った」みたいだし、いっそ語順を変えたほうが良いのかもしれません。◇つぎ、順位を戻して、フルポン村上。まだマシなTシャツを貸す 夜の雷 これが3位でしたが、こっちは逆に、悪い意味でストーリーが見えすぎる気がする。本人の話によれば、天候とは関係なく「お泊りの恋人にシャツを貸した」、(そうしたら、ドラマティックに雷が鳴った!)って場面らしいのだけど、字面だけで解釈すると、「雨で濡れた友人が来たので、シャツを貸した」という因果関係のストーリーにも見える。形式じたいは散文的なわけじゃないけれど、内容が、映像描写じゃなくて、小説やドラマのような叙述っぽく見えます。その点が、評価の分かれ目だと思います。◇4位のキスマイ千賀。光るシャツ ひるぎの森を行くカヌー シャツ光らせ ひるぎの森を行くカヌー(添削後)これは、なんだか手練れの技術さえ感じさせる句でした。ちなみに「カヌー」が夏の季語だそうです。まず「ひるぎの森」と「カヌー」で、西表島のマングローブ(←たぶん)を見せる仕掛けが上手い。上五の「シャツ光る」は、川面から照りかえす強い「日差し」だけでなく、南国の温度や湿度からくる「汗」の表現にもなってて、この効率のよさも素晴らしいと思います。追記:屋我地島に固有名の「ひるぎの森」もあるようです。◇同じくキスマイの北山。花栗や 肌に張り付くツアーロゴ ツアーロゴ張り付く 花栗の真昼(添削後)7位ですけど、北山にしてはかなり上出来。中七の「肌に張り付く」は、出来ればもっと簡潔に収めたい表現なので、先生の添削では「肌に」を消しているのですが、この是非はちょっと微妙。ツアーロゴが印刷されてるのは、かならずしもTシャツだけとは限らないし、たとえば、「風で飛ばされたポスターが花栗の木に張りついている」という誤読もありうるかもしれません。◇同じくキスマイの横尾。星空の渋谷 白シャツCEO 名人6段にもかかわらず、今回は横尾がキスマイ最下位の8位。今どきのカジュアルな経済人を描いていて、お洒落といえばお洒落なのだけど…。見方によっては、キザというか、高慢というか上級国民的なニオイも鼻につくし、個人的な感想としては、詩情そのものが、ちょっと微妙です。なお、季語を主役にするためには、この語順で正解だったのだろうけど、個人的には、白シャツCEO 渋谷の星空CEOの白シャツ 渋谷の星空のような語順にしたほうが、ストーリー性がうまれるぶんだけ、イヤミな金持ち臭さが抑えられる気がします(笑)。◇順位を戻して5位のミッツ・マングローブ。白靴の老女冷ゆ 生鮮売場 スーパー店内の冷房&冷蔵のW攻撃。現代社会の「夏だから寒い」という逆説的な季節感。痩せた老女の細い足を見てるところが、うっすら生々しくてミッツらしい。◇つぎは小倉優子。ガレージにチョークののび太 夏の蝶ランク外の18位だったのですけど、これも良いと思いました。過不足もないし、上手だと思います。フジモン的な作風ですね。強いていえば、上五・中七と、下五の季語のバランスが論点?◇岩永徹也。バーチャルの装備に課金す 裸の子これは順位もつかないランク外で、凡人判定だったのですが、俳諧味があって面白いと思いました。ただし、 IQ150の天才俳優に言うのは何だけど、「課金」をするのはゲーム会社であってユーザー側ではないのだから、(もしかしたら誤用が常用化してるのかもしれないけど)基本的な言葉の使い方が間違ってる気もします。それから、中八になってる「す」は不要かもしれないし、語順を逆にして、下五を上五にしてもいいのかもしれません。ちなみに「裸子はだかご」が夏の季語です。◇パンサー向井。風死せり 喪服の下のエアリズムこれまたランク外の凡人判定だったのだけど、やはり俳諧味があって面白いと思いました。「エアリズム」は冷感素材下着の商品名。「風死す」は晩夏の季語です。作者は自分自身のことを詠んでるはずですが、作者を知らなければ、女性の句としても読めますよね。◇順位を戻して、6位の梅沢。若夏や Tシャツという戦闘服若夏や Tシャツ一枚の闘い(添削後)フジモンは「渋谷のナンパ師」みたいな句だと言いました(笑)。一方、わたしは、マーロン・ブランドやジェームス・ディーンみたいな、いわゆる「反抗の季節」を詠んだ句なのかな、と思いました。しかし、「若夏」は南島の初夏をあらわす季語だそうで、そう考えると、たしかに先生の言うとおり、「沖縄の政治闘争」を詠んだ句のように見えてきます。ところが、梅沢本人の意図はそれとは違っていたので、(どちらかといえば、わたしの解釈に近い)先生は「作者の意図に近づけて添削した」と言うのですが、それでもやっぱり「沖縄の政治闘争」の句に見えます(笑)。まあ「戦闘服」とかいうクサい比喩を使うよりは、添削のほうが率直な表現になってるので、それで異論ありません。◇9位のフジモン。夏暁のおなら逞し ロンパースおなら逞し 夏暁のロンパース(添削後)原句のままだと、「ロンパース」が主役になってる感があるので、これは添削の語順が妥当だと思います。◇10位の千原ジュニア。白シャツは何より白く 退院す 白シャツの全き白や 退院す(添削後a)白シャツの白はこの白 退院す(添削後b)中七の「白く」という連用形にちょっと違和感はある。でも、原句のほうがいいのか、添削のほうがいいのか、正直いって、よく分からない。ためしに語順を逆にして、退院の ことさら白き白シャツよ退院の白シャツ ことさらに白し退院のTシャツ 白きや 白きやなどと色々やってみました。結局、よく分かりません。◇11位の中田喜子。掛け違ふ釦ぼたん 思春期の白シャツ前段の「掛け違ふ釦」というのは、「白シャツ」の映像描写であると同時に、「思春期の対人関係」の比喩でもあって、おそらくダブルミーニングですね。しかし、ダブルミーニングの意図を除けば、思春期に「ボタン付きの白シャツ」を着てる必然性は、あまり感じられないし、結局のところ、対人関係を比喩的に語ってる印象しかないので、映像的なリアリティがとても貧弱です。◇13位の森口瑤子。日焼けして 上腕二頭筋強こわしこれは、いわゆる、「日焼けしてるのに強々しくない上腕二頭筋があったらもってこいっ!」ってやつですね。もちろん、日焼けしてても「ひよわな上腕二頭筋」だってあるだろうけど(笑)、日焼けても 上腕二頭筋弱しだったら、たぶん川柳にしかならないと思います。「日焼け」と「上腕二頭筋」で作り直すパターンの句。◇14位の立川志らく。白シャツに染み込む あの日の長崎中七の「染み込む」は、基本的には8月の「汗」と「記憶」のダブルミーニングであり、あるいは「陽射し」「光景」「感情」などが染み込むのでしょうが、この動詞の選択自体が、ちょっと凡庸という気もする。でも、先生はこれを「凡ミス」と言ってるので、何か別の意味での減点なのかもしれません。◇15位の松岡充。Tシャツを買うシャツの列 汗みどろ読んで字のごとしの詠み方で、内容は明瞭だし、とくに過不足もないけれど、「買うシャツ」と「着てるシャツ」の対比が、俳句にするほど面白いのかといえば、そうでもない。語順がやや散文的なので、それを変えれば、もう少し面白くなるのかも。◇16位のパックン。ランマーにティーシャツかける レモネード分からないので「ランマー」を調べたら、アスファルトの舗装を固める工事用の機械だそうです。季語は「レモネード」で夏です。たぶん「上半身脱いで一休み」という場面でしょうが、一読して中七の「かける」という動詞が引っかかる。終止形で切っていますが、切って強調する動詞としては弱すぎて間が抜けてる。切らないで、ランマーにTシャツ掛けてレモネードTシャツをランマーに掛けレモネードとやったほうがマシ。そもそも「かける」という動詞は、多義的で曖昧なので、「置く」「乗せる」「被せる」「提げる」「干す」などのほうが明瞭だし、本来、ランマーの意味さえ共有されていれば、動詞がなくても意味は通じるはずだから、ランマーに黒ずんだシャツ レモネードみたいな形も可能だろうと思います。◇17位の的場浩司。殺陣たて終えて 息荒く脱ぐ汗のシャツだいぶ暑苦しいです(笑)。とりあえず、「殺陣終えて」「息荒く」「汗」の3連打がクドいので、まずは季語の「汗」を消してしまいたいし、できれば「息荒く」も重複情報として消したいです(笑)。なにか他の夏の季語と取り合わせて、「殺陣終えて脱ぐシャツ」だけで作り直せるタイプの句。◇19位の三遊亭円楽。白シャツを干すハンガーの骨も痩せハンガーの擬人化ともいえるけど、逆からいえば、老人(もしくは病人?)の身体を、針金ハンガーに見立てた比喩の句ともいえます。「ハンガー」の擬人化そのものはクサいけど、「老人」の比喩としてなら面白さがあるのかも。哀れな貧しさを醸し出すような詩情が、個人的には気持ち悪くて嫌だけど(笑)そこが評価のしどころでもあるのかな。◇20位の筒井真理子。なで肩の詐欺師のシャツの白きことこれも気持ち悪いのだけど、こういう異様な不穏さは、ちょっと面白いです(笑)。金回りのよさそうな優男のインテリ詐欺師かもしれないし、カジュアルな身なりの「受け子」の若者なのかもしれない。ぜひ、具体的な話が聞きたいなと思いました。◇二階堂。思い出のツアーTシャツ 炎もゆあ、ここにもキスマイがいました!下二の「炎ゆ」は晩夏の季語です。って、なぜ 5・7・2…?なんでこんなに字足らずなの???しかも、横尾からは「"思い出"も不要」と指摘されてたから、実質「ツアーTシャツ 炎ゆ」だけ!もはや「咳をしても一人」的な短さですね。
2021.07.25
安倍晋三がオリンピック開会式への出席を見送りました。これについて、世間では、不都合から逃げた「卑怯者」との声も挙がっています。ちなみに、安倍が開会式を欠席する理由については、「緊急事態宣言で無観客になったことを考慮したものだ」などと、かなり不自然かつ不可解な報道がされています。しかし、その真相をいうならば、安倍は、けっして自らの意志で辞退したのではありません。実質的には「辞退させられた」のです。◇それは、彼が誌面で「反日」発言をしたことによります。結論からいえば、いかなる理由であれ、いかなる機会であれ、そして、どんな人々にむかってであれ、国民に「非国民」だの「反日」だのという言葉を投げつけ、それによって国民社会を分断しようと考える人間が、場の公私を問わず天皇と席を並べることは絶対に許されないからです。これは、至極、当たり前の良識です。しかし、なぜか安倍周辺の集団は、この良識を失っていました。今後も「天皇の意志」が報道されることはありませんが、安倍晋三の開会式辞退の実質的な理由は、そこにあります。おそらく櫻井よしこは、得意になって、安倍から保守的かつ国家主義的な発言を引き出したつもりでしょう。安倍もまた、得意になって、そうした期待に応えたつもりでしょう。そして彼ら自身にしてみれば、まさにそれこそが「愛国的な振舞い」だと信じていたはずです。けれども、ごくごく一般的な良識に照らせば、それ以上に「反国家的」で「反国民的」な振舞いはないというべきなのです。◇安倍は、かりにいちどといえど、国民にむかって「反日」という言葉を投げつけたことによって、今後、あらゆる公的な舞台に立つことは許されなくなりました。これは、状況の如何にかかわらず、当然の報いです。もし、これから先の安倍晋三に、なにかしら生きる道があるとすれば、それは『WiLL』や『Hanada』のコラムニストとして活躍することだけです。
2021.07.24
今季いちばん面白く見ていたドラマ!ひさびさの日テレのヒットと思ってたのに!何話まで撮り終えたんだろう?ちゃんと最後まで放送してよ~!
2021.07.24
小山田圭吾が、25年も前の発言や、35年も前の行為について、世界中から非難を浴びているのは、いわば#MeToo運動と同様の現象であり、わたしは、それは当然の報いだと思う。◇ただ、私自身は、彼の「いじめ自慢」の件をけっこう昔から知っていて、ろくでもない奴だなア…と思っていたし、本人が反省しているかどうかも知るよしはなかったけど、だからといって、とくにコーネリアスの作品を忌避することはなく、ことさらファンというほどではないけれど、わりと面白く聴いていた、という面もある。それは、たぶん、今後も変わらないし、それはべつに小山田圭吾の人間性を支持するということではない。たとえ作者が鬼畜のような人間だとしても、その音楽を聴くこと自体は罪ではない。◇たとえば、フィル・スペクターは人殺しでしたが、わたしも、たまには、彼の音楽が聴きたくなることがあって、その音楽を聴いているときには、フィル・スペクターが人殺しだったことは意識しません。若い世代の人ならば、それを「呪われた音楽」とも思うかもしれませんが、もはや昭和世代の人間にとっては、耳馴染みの音楽であって、さほどの気にもなりません。おそらくロック好きのなかには、毎年クリスマスに人殺しの音楽を聴いてる人もいるでしょう(笑)。※わたしの場合はそれはない。かりに、わたしが、フィル・スペクターの音楽を楽しむことがあるからといって、その人間性を支持するつもりはまったくないし、むしろ人殺しが断罪されるのは、ごく当然の話であって、そのことについては、何らの矛盾も疑問も感じません。◇世間には、「鬼畜のような人間の音楽など聴くべきでない」と考える人もいるようだし、逆に、「優れた才能なのだから過去の罪も許すべきだ」と考える人もいるようですが、わたしはそのどちらにも与しない。なぜ、才能への評価と、人間性への評価を、わざわざ連動させる必要があるのか。むしろ、そのことのほうが、わたしには分からない。◇たとえ人間的に鬼畜同然だとしても、作品が素晴らしいということはあり得るし、その作品を鑑賞することが罪なわけでもない。逆に、いくら作品が素晴らしくても、外道のような人間ならば、断罪されるのもまた当然の話で、それは、まったく別次元のことです。作品への評価と、人間性への評価を、あくまで両立させなければ気が済まないという考えは、幼稚でナイーヴで短絡的というだけでなく、ほとんど滑稽であり、あるいは異様だとさえ思います。◇コーネリアスについては、公的なイベントや、公共放送であるNHKなどでの活動は、制限されて仕方のないことだろうと感じますし、過去の非道な行為とその自慢についても、この先ずっと非難が絶えることはなかろうし、その非難を甘んじて受けるのが当然だと思うけれど、かといって、作品の制作や発表の場が失われるわけでもなく、それを聴く人も、わたしを含めて、いくらでもいるでしょう。彼の音楽を聴くことは、その過去の鬼畜行為を容認することとは全く別次元の話です。かりに実刑を受けるほどの犯罪人であったとしても、作品を発表することは十分に可能なのだし、一般の人がそれを鑑賞することもできます。そのことに何ら倫理的な問題はありません。◇わたしは、ベルトルッチの映画が大好きだけれど、彼がどんな人間だったかということはとくに考えないし、もしかすると、ろくでもない奴だったのかもしれない、という見方を排除しようとも思わない。かりにそうだったとしても、好きな映画についての評価まで変えようとは思わないし、それは今後も変わりませんし、そのことについて疑問をもつ必要すらも感じません。ロマン・ポランスキーの映画や、ウディ・アレンの映画だって、今後も見たいと思うけれど、そのことで彼らの人間性までをも容認しようとは思いません。まあ、荒木経惟の写真にかんしては、もともと好きでもないので、とくに見たいとは思いませんが(笑)。
2021.07.22
小山田圭吾が、オリンピックの音楽担当を辞任しました。彼のいわゆる「いじめ自慢」の外道っぷりについては、わたしも昔から知っていましたが、すでに彼は、このことで何度も炎上していたわけだし、この問題の及ぼす影響については十分に自覚していたはずです。そもそも、こんな国家的なイベントに何の躊躇もなく協力して、みすみす墓穴を掘ったのだとしたら、ただのバカですよね(笑)。今回の開会式への彼の起用は、グラミー賞ノミネートなどの国際的評価のみならず、これまでのNHKへの功績が反映された結果でもあるでしょうが、FMやEテレでの細々とした仕事から、国家の威信をかけた大イベントまでには、かなりの飛躍があるわけだし、その飛躍に対して何の慎重さもなかったとしたらバカすぎます。そして、まさかとは思うけど、椎名林檎にせよ、小山田圭吾にせよ、国家に協力することがアーティストとしての美徳とは思ってなかろうし、国家的イベントへの参加で自分の業績に箔がつくとは思ってなかろうし、国家寄りになることで自分の立場が有利になるとも思ってないでしょう。表現者にとって、国家との関係は、たいていは面倒な足枷になるはずです。好きこのんで自分に足枷をはめる馬鹿なアーティストがいるでしょうか?もしかすると小山田圭吾の場合は、パラリンピックへの協力こそが、過去の障害者いじめに対する罪滅ぼしと思っていた可能性もなくはないけど、個人の贖罪のために国家イベントを利用するという発想は、安易にすぎます。◇では、なぜ、小山田圭吾は、わざわざ国家的なイベントなんぞに参加して、これほどまでの大炎上をみずから招く必要があったのか。わたしは、これはおそらく確信犯なのだろうと思います。つまり、彼は、このような大炎上をあらかじめ予測したうえで、オリンピックへの文化的なテロリズムを仕掛けたのでしょう。それは障害者いじめと同様の、利己的かつ愉快犯的な行為です。それ自体が、彼にとっては最高に芸術的な表現だったと言ってもいい。さすがに未遂で終わりましたが、東京五輪に深刻なダメージを与える国際スキャンダルに発展しました。◇今回の騒動で、音楽家としての彼自身にダメージがあるのかといえば、かならずしもそうとは言えません。もともとコーネリアスの音楽は、国内の大衆的な支持によって成り立っていたのではなく、むしろ海外のイカれた好事家の支持で成り立ってきたからです。今回の報道によって、「最高に最低なゲス野郎」としてのイメージが世界に広まれば、それがかえって好事家たちを喜ばせ、箔がつく可能性さえあります。コーネリアス自身も、そのことをしたたかに計算しているはずです。そうでもなければ、ただの「頭の悪いアート野郎」でしかない。彼は、このたび、反省文だか謝罪文だかを記して世間に公表しましたが、到底、あんなものを真面目に書いているとは信じられません。きっと適当な人間に適当なことを書かせて、裏でケタケタ笑っていると考えるほうが妥当でしょう。さすがに今後はNHKでの仕事がなくなるはずですが、それは彼にオリンピックの仕事を回したNHK側の愚しさの結果であり、おそらく小山田圭吾自身は、NHKでもオリンピックでも真面目に仕事をする気などないのでしょう。そうでなければ、バカすぎます。◇もともとオリンピックは、国際主義と世界平和を理念に掲げており、その根底には《人間主義》そして《反国家主義》があります。いわば「左寄り」のイベントとして始まったといえます。しかし、20世紀のオリンピックが、しだいに国威発揚のためのイベントに変貌し、どんどん右寄りになり、全体主義に陥れば陥るほど、アンチヒューマニズムの要素が強まってきました。スポーツ選手のみならず、あらゆる文化人までもが、国家のための道具になっていった。その極めつけが、1936年のナチス政権下におけるベルリンオリンピックでした。三島由紀夫も、寺山修司も、アドルフ・ヒットラーを熱狂的に信奉していました。石原慎太郎も、その系譜に属しています。けれど、さすがに彼らが1964年の東京オリンピックに参加することはなかった。国家の側も、それを許さなかったでしょう。戦後の日本が、ファシズム色を前面に出すことはできなかったからです。そもそも、文学であれ、音楽であれ、スポーツであれ、自分自身の表現を志す者であるならば、国家だのヒューマニズムだのに義理立てする必要などありません。その思想の左右にかかわらず、たんに都合よく利用できるかぎりにおいて、国家やヒューマニズムを利用すればいいだけのことです。◇やがて冷戦が終わり、椎名林檎や小山田圭吾のような世代になると、表現の立脚点はますます混沌として曖昧になり、もはや右も左もなく、傍目からは何を考えているのかも分からなくなります。ときに人を喰ったような作品を発表したかと思えば、しかつめらしく社会的な作品にも参加したりするからです。日本のサブカルチャーの起源のひとつが、60年代のアングラ文化と反ヒューマニズムにあるのは自明ですが、90年代のサブカルチャーの場合は、冷戦後の高度資本主義における《勝ち組》の表現に結びつきました。イデオロギーの左右よりも、勝ち負けが重視される時代になった。いわゆる渋谷系も、露骨なまでの勝ち組文化だったのですが、彼らを支え続けていたのは「勝ち組は勝ち続ける」という信念です。悪びれることもなく「いじめ自慢」が可能だったのはそのためであり、その信念は、いまもなお生きているのです。たとえロマン・ポランスキーやウディ・アレンが、#MeToo運動で映画界から追放される様子を見ても、あるいはアラーキーが日本の写真業界で弾劾されるのを見ても、まだまだ「勝ち組こそが勝ち続ける」という彼らの信念は変わらない。◇小山田圭吾がオリ・パラで披露するはずだった音楽とは、いったいどんなものだったのでしょうか?おそらく彼の表現の根底にあるのは、 右も左もぶっとばせ! ヒューマニズムなんか糞くらえ! 身障者なんか死んじまえ!のような思想だったといえるでしょう。もしかすると、多くの人はそのことに気づかぬまま、その開会式の音楽は、同時生中継で全世界に発信されていたかもしれないし、今のところは同和問題で及び腰の「皆さまのNHK」でさえ、総力を挙げてそれを日本の全国民にむけて伝えつづけたかもしれません。しかし、じつのところ、それはオリンピックの孕む本質的な矛盾を剥き出しにし、日本という国家をも壮大に脱臼させる過激なテロ表現だったはずであり、裏を返せば、世界のイカれた好事家たちに、「最高だぜええええ!!!」との雄叫びをあげさせるようなものだったはずです。これが実現していれば、大友克洋が40年前に予言していた未来よりも、さらにクレイジーな状況になっていたかもしれません。かろうじて未遂に終わったとはいえ、すでに TOKYO2020 のみならず、オリンピックそのものを終焉させるに十分な醜聞になりました。◇もともと小山田圭吾による「障害者いじめ」は、TOKYO2020 の本質に触れる要素をもっていたと言うべきです。じつはオリ・パラを東京に誘致した石原慎太郎も、相模原の障害者殺傷事件が起こったあと、犯人である植松聖の差別的な「思想」に共感を示していたからです。石原慎太郎は、次のように述べています。 この間の、障害者を19人殺した相模原の事件。あれは僕、ある意味で分かるんですよ。昔、僕がドイツに行った時、友人がある中年の医者を紹介してくれた。彼の父親が、ヒトラーのもとで何十万という精神病患者や同性愛者を殺す指揮をとった。それを非常にその男は自負して、「父親はいいことをしたと思います。石原さん、これから向こう二百年の間、ドイツ民族に変質者は出ません」と言った。殺す人間よりも殺される人間を「変質者」とみなす思想の持ち主が、よりによってオリンピック・パラリンピックを日本へ誘致したところに、そもそもの尋常ならざる矛盾があったというべきですが、さらに輪をかけるように、その開会式で音楽を担当するのが、かねてより「鬼畜イジメ人間」として知られた小山田圭吾とは、あまりにも話が出来すぎていました。つまり、これはもともと TOKYO2020 の本質なのです。すでに「復興五輪」だの「アスリートファースト」だのの大義名分が、まったくの嘘・デタラメだったことは周知の事実になっています。むしろ TOKYO2020 は、《勝ち組の勝ち組による勝ち組のためのイベント》として計画されたのです。おそらく小山田圭吾が企んだのは、そのことをみずから暴きたてるような、とことん愉快犯的な文化テロリズムだったのでしょう。◇小山田圭吾の企みが未遂に終わったのを受けて、ネット上には「無音で開会式をやる」という案も出ているようです。わたしは、このアイディアが意外に悪くないと感じます。ここまできたら、開会式での「沈黙」こそが、唯一の倫理的な演出に思えるからです。差別主義の本家
2021.07.20
プレバト俳句。お題は「夏野菜カレー」。◇まずは、東国原英夫。玉葱や この人結局死んじゃうのこれは凄い。今までにない、驚くべき技ありの一句。「キッチン」とはどこにも書いてないし、「ドラマ」とも「テレビ」とも書いていないけど、読めば、ほぼ確実に、「キッチンでテレビドラマを見ている場面」と理解できる、そういう組み立てになってます。「玉葱+女性言葉」=「みじん切り+涙」という、ある意味で凡庸な紋切り型の連想を逆手に取って、それだけで「キッチンの場面」ということを表現してる。これは、おそらく、「玉葱」だからこそ可能なのであって、「ジャガイモ」や「豚肉」では成立しない表現だと思います。さらに、中七に「この人」とあるからこそ、それがテレビドラマの登場人物だと分かるのであって、かりに「その人」や「あの人」だったら意味合いが違ってきます。こういう句は、けっして感性だけでは作れませんよね。誤読の可能性を論理的に排除していかなければ、絶対に辿り着けない表現だろうと思います。もちろん、誤読が絶対にありえないとは言えないけど、たとえば、「大量の玉葱が落ちてきて死にそうな人がいる」「玉葱の食中毒で死にそうな人がいる」「病床の傍らに玉葱が積んである」といった読みじゃ、かなり無理があるし、やはり、ほとんどの読者は、「キッチンに立つ女性が、 テレビのドラマを見ながら、 家族にむかって口にした台詞」と解釈するはずです。この言葉の経済効率はすごい。…ちなみに作者は、そこに独自の死生観も込めたようですが、梅沢も「無理だ」と言っていたように、さすがにそこまで読み取るのは無理という気がする。テレビに映っているのが、陳腐なサスペンスドラマなのか、悲劇のメロドラマなのかは分かりませんが、キッチンの調理の場面と、深遠な死生観とでは、ちょっと釣り合いが取れません。まあ、重い詩情を読み取るのか、軽い詩情を読み取るのかは、あくまで読み手側の自由だと思うけど、わたしは、たんに、妻が包丁をもって涙を流しながら、夫とサスペンスドラマのことで会話してる、ごくごく平和で、たわいのない、やや滑稽な日常の一場面として味わいました。◇◇梅沢富美男。玉葱を刻む 光の微塵まで玉葱を刻んでいったら「光の微塵」になったという比喩の句。掲載決定だそうですが、わたしは、さほど面白い句だとは思いませんでした。東国原の勝ち。◇◇マヂカルラブリー村上。カレーにトマト浮かぶ 夏昼の鮮やかよカレーにトマト浮かべて 夏昼の鮮やか(添削後)うーん…。こんな季重なりのギクシャクした破調で、よくもまあ1位になれたなあ、という句。そもそも、この季重なりって必要ですか?たとえば、カレーにトマト浮かべた昼の鮮やかさとして季重なりを解消したら、ちょっと淡白すぎますか?◇研ナオコ。夕立に かまどに向かう母こいし夕立の匂うかまどよ 母恋し(添削後)先生の添削は、たしかに原句よりはマシになってますが、そもそも下五の「母恋し」が凡人中の凡人なのだから、添削したところで才能アリは無理でしょう。◇小島瑠璃子。お昼よ!で駆ける夏の日 カレーの香りお昼よ!の声と 真夏のカレーの香(添削後)これは妥当な添削でした。まあ、添削したところで、発想自体がヒデキカンゲキの域を出ませんが。◇キスマイ二階堂。ウミウシや 彩り豊かなサマードレスウミウシの彩り豊かなる夏よ(添削後)これもまあ妥当な添削でした。上五の「ウミウシ」を春の季語とは見なさずに、あくまで夏の句として詠んだ添削ですね。◇馬場典子。成田の溽暑 ただいまとカレー蕎麦これは語順が問題になっていました。わたしなら、ただいまと溽暑の成田 カレー蕎麦としただろうけど、先生は、カレー蕎麦にただいま / 溽暑なる成田(添削後)と直していました。これは、たしかに、なるほどの添削ではあるのだけど、ちょっと誤読の可能性があるのが難点だと思います。もし、カレー蕎麦に / ただいま溽暑なる成田と読んでしまったら、カレー蕎麦を食べてるだけでも熱いのに、そのうえ「成田はただいま溽暑です」という意味になるからです。
2021.07.18
熱海の土石流を発生させた盛り土は、いわゆる《未必の故意》による《無差別大量殺人》に当たります。殺人における《未必の故意》とは、「人が死ぬかもしれないが、それでもかまわない」という考えによって人を危険にさらすことです。死者の出る危険性を認識していれば、その要件が足ります。たとえば火災によって死者が出た場合も、《未必の故意》があれば、失火罪ではなく放火罪が適用されます。◇放火の場合は、具体的な被害の有無にかかわらず、人がいる建物に放火をした時点で殺人罪が成立します。正確にいうと「現住建造物等放火罪げんじゅうけんぞうぶつとうほうかざい」です。そのように、人を危険にさらした時点で成立する犯罪を《抽象的危険犯》といいます。一般に、放火殺人では、どれだけの被害が出るかを正確に予見することが困難ですし、かりに死者が出る場合でも、焼死か、窒息死か、建物倒壊による圧死かを予測できません。火の回りが遅かったり、予想より火が広がらなかったり、住人の避難が成功したりすれば、被害者がまったく出ない可能性もあります。たとえば一昨年の京アニ放火殺人事件の場合、ガソリンを使用した点が凶悪だったとされますが、灯油とガソリンの殺傷力の差を、犯人がどれだけ正確に理解していたかどうかは、じつは分かりません。それでもなお放火による殺人罪は成立します。◇熱海の盛り土の場合も、どれだけの被害が出るかを予見するのは困難ですし、どの程度の土砂崩れを発生させるかも不確定です。小さな土砂崩れで終わるかもしれないが、巨大な土石流を発生させる危険性もある。かりに土砂崩れや土石流が発生した場合に、どれだけの人が巻き込まれるかも分からない。しかし、下流地域に多くの人が住んでいるのは自明なのだから、土砂崩れ発生時に誰もいないなどということはありえませんし、また、盛り土をおこなった犯人の場合は、専門性を有する業者であるのみならず、過去に別の地点で土砂崩れを起こしていた点も重要であり、盛り土がもたらす危険を予見できた可能性はきわめて高い。したがって、京アニの放火犯と同様に、やはり《抽象的危険犯》としての殺人罪が成立します。これは人命を危険にさらす専門業者の手抜き工事全般にいえることです。◇今回の盛り土による殺人と破壊の規模は、戦後最悪といわれた京アニ放火事件をも凌ぐものです。数十人もの人命を奪い、百数十棟もの家屋を打ち流し、地域社会そのものを破壊し、そこにあった文化と歴史を土砂と産廃で埋め尽くしました。これは、福島の原発事故に次ぐほどの巨大な暴力であり、その悪質さにおいて比類のないものだったといえます。
2021.07.16
J-WAVEでサラーム海上が、ダニ・エヴァ・ハダニというイスラエルの女性歌手を紹介してたので、そのアルバムを聴いてみたら、とてもいい曲がありました。ミニアルバムの4曲目に入ってる「Eyze Mazal」です。7/1には公式のYouTubeチャンネルにもUpされてるんだけど、7/10の時点で、なんと再生回数がたったの6回!(そのうちの1~2回はたぶんわたし…)それからさらに4日たってますが、いっこうに再生回数が増えません。どうやら世界中でわたししか聴いていないっぽい(笑)。そんなことあります?イスラエル人は聴いてないんかいっ!!つか、サラーム海上も聴いてないんかいっ!小島麻由美も聴いてないんかいっ!アーティスト自身も、スタッフも、だれも聴いてないんかいっ!…てなわけで、もしかしたら世界でわたししか聴いてないかもしれませんが、とてもカッコいい曲なので貼っておきます。ちなみに、彼女がキーボーディストとして在籍しているBoom Pamの音楽は、もっとダサめの中東サーフ歌謡です。たぶん、こっちのほうが人気があるんだろうなあ。
2021.07.14
今回の熱海の土石流にかんしては、おもに3つの問題が浮かび上がっているようです。◇1つは危険な盛り土が全国に存在していること。▶ 大規模盛土造成地マップ国交省は、去年の時点で全国の「盛り土マップ」を作成し、宅地の耐震化推進に着手していました。しかし、対象を「宅地」のみに限定していた問題もあり、今回の熱海の盛り土では、地震どころか、雨が降っただけで大規模な土石流を引き起こしました。◇2つめは、いわゆる「残土処理ビジネス」の問題です。去年のダイヤモンド・オンラインの記事によれば、1970年制定の廃棄物処理法において「土」を除外したことが、現在のような残土ビジネスを常態化させた要因とのことです。▶ 建設業界の闇「残土」ビジネスしかし、原理的にいうならば、或る物が「ゴミか否か」は法的に規定できるものではありません。一般に、「Aさんにとってはゴミ同然でも、Bさんにとっては貴重なお宝だ」というようなことが日常的にありえます。当時の厚生省も、「有価物にあたるか廃棄物にあたるかは、 性状や排出状況、通例なども含めて総合的かつ客観的に判断される」としています。それがゴミであろうとなかろうと、「投棄する」という行為そのものが問題だと思うのですが、一方で、自分の所有地に置いておくことを「投棄」とは呼びがたい、という問題もあるだろうと思います。おそらく「土砂の扱い」や「土地の造成」については、別枠での法的な規制が必要なのではないかと思います。◇3つめに、今回の熱海の盛り土では「エセ同和」の問題が指摘されています。NHKなどのマスメディアは、例によってこの問題には触れませんが、すでに法務省は、その出自に関わらず「同和を名乗ったチンピラ行為や不当な要求」等について、これを「えせ同和行為」と見なして、日本社会から排除するように広く呼び掛けています。▶ 「えせ同和行為」を排除するためにわたしは、今回のような手抜き工事の問題は、まずは末端の責任者に厳罰を科すことで抑止できると思いますが、かりに、厳罰化や法改正を阻止しようとする勢力があるのならば、そうした勢力の構造的な背景も解明していく必要がありますし、もちろん、政界にその関係者がいるのかどうか、それについても、すべて炙り出したうえで、マフィア的な組織の解体も視野に入れなければなりません。そのような勢力が、もはや社会と国土を破壊しかねないのだから、これは国民的な課題として、もはや急務だろうと思います。
2021.07.13
業務上の致死傷罪は、たいてい「故意」ではなく「過失」と見なされるのですが、いわゆる手抜き工事や、今回の熱海の盛土工事などは、あきらかに「過失」ではなく「故意」だったと言えます。ちなみに、公害犯罪処罰法は「故意犯」と「過失犯」に分かれます。まずは業務上の危険行為が「故意犯」と「過失犯」に分かれ、さらに殺意があれば、刑法の「殺人犯」の適用となります。今回の盛土をおこなった業者の場合、たとえ「殺意」があったにせよなかったにせよ、業務上の危険行為については、あきらかに「故意」というべきです。◇なお、公害犯罪処罰法における「過失」というのは、いいかえれば「注意義務違反」「危険回避義務違反」のことです。たとえば、福島の原発事故では、東電側に「大津波の予測」が可能だったかどうか、そして「危険回避義務違反」があったかどうかが問われました。今回の熱海の盛り土工事の場合、業者にとって「大雨の予測」は容易です。誰にでもいずれ大雨が降ることは予測できるからです。排水施設の不備や、土砂量の超過や、廃棄物の混入については、それが「法令違反」だったかどうかも問題になりますが、すくなくとも「危険回避義務違反」であるのは間違いありません。専門の業者が、その危険性を認識できないはずがないからです。◇ところで、公害犯罪の「故意」によって人を死傷させた場合、「7年以下の懲役または500万円以下の罰金刑」が規定されています。しかし、これはあまりにも軽すぎるのではないでしょうか?手抜き工事による建築物の倒壊や土砂崩れなどの場合、数人の健康被害から、大多数の死者まで、想定される被害には大きな幅があるわけですから、大事故の抑止という観点から考えても、刑の範囲は、そのぶんだけ広く設定しておく必要があります。そもそも「故意」によって危険にさらすのならば、それは直接的な殺傷行為よりも凶悪というべきであり、今回のような悪質さは死刑にも相当するものだろうと思います。◇すでに交通事故にかんしても、悪質な飲酒運転やあおり運転については、もはや従来のような「業務上過失致死」の範疇では対応しきれず、「危険運転致死傷罪」や「殺人罪」が適用されるようになっています。土木工事や建築工事についても同様で、悪質な業務を厳しく取り締まることが出来なければ、日本は、アジアの後進国と同様に、手抜き工事だらけのザル社会になってしまうでしょう。わたしは極刑が妥当だと思います。
2021.07.11
現在の医療システムにおいて、日常の診療は、薬物の処方を中心に行われています。しかし、これは対症療法に過ぎず、心身の健康の増進に資するものではありませんし、しばしば薬害(副作用)さえ引き起こします。今後は、運動療法こそが日常診療の軸になって、従来のような薬物処方は「20世紀の誤謬」として葬られるはずです。これまで、運動医学は、おもにスポーツの分野で発展してきましたが、当然ながら一般の医療システムに取り入れることが可能です。◇病気がちな人が健康な身体を獲得するためには、なにより「体格」や「体質」を改善しなければなりません。このうち「体格」の改善をめざすのが運動療法です。「体質」は、おもに内臓の状態によって決定されますが、「体格」は、おもに骨格と筋肉バランスによって決定されます。「体質」と「体格」はたがいに相関関係にあるものの、「体格」のほうが「体質」を決定している面は少なくない。とくに上半身の筋肉バランスの悪化は、重要な内臓機能を制約してしまうので、後天的に「体質」を悪化させる大きな要因になります。◇骨格そのものを変えることは容易ではありませんが、 運動療法によって、筋肉バランスを回復することは出来ます。委縮して動かなくなった筋肉が動くようになれば、本来の筋肉バランスは回復されるからです。ちなみに東洋医学などでは、外観上の「体形」や「顔立ち」などが、その人の「体質」「気質」「疾病傾向」に因果関係をもつことを、経験則から把握していました。いうまでもなく「体形」や「顔立ち」は、骨格と筋肉バランスで形成されていて、広義の「体格」だといえます。おそらくサーモグラフィやAIの画像認識技術を用いれば、「体格」と「疾病傾向」との目に見えない因果関係を把握することが、いっそう容易になってくるはずです。さらに、AIのシミュレーション技術を用いれば、どのような運動療法で筋肉バランスを効率的に整え、内臓機能を回復すれば、健康に資する体質改善が図れるのかを判断できるはずです。◇従来おこなわれてきたような、内科による薬物処方や、精神科によるカウンセリングは、たんなる対症療法ではあっても、けっして根治治療ではありませんでした。なぜなら、「病症」や「性格(精神的傾向)」というのは、あくまで「体格」や「体質」の結果であって原因ではないからです。(もちろんフィードバックはありますが)したがって、「体格」や「体質」にアプローチするほうが根本的です。さらに遡るならば、先天的な「遺伝的器質」や後天的な「環境要因」こそが、その人の「体格」や「体質」を決定しているのですから、そこへのアプローチが究極的な手法ということになるでしょう。しかし、遺伝子操作や臓器移植などは、たとえそれが究極の根治治療だとはいっても、あまりに不自然であり、倫理的な問題も孕んでしまいます。そうしたことを考慮すれば、「体質」「性格」「病症」の決定要因である「体格」にアプローチすることが、もっとも合理的かつ自然な手法といえます。だからこそ、運動療法を医療システムの軸にすべきなのです。今後、病院は、運動療法の処方システムを確立して、リハビリ設備を拡充し、一方の製薬会社は、スポーツ医療の知見を取り入れて、この分野でのAIの活用を進めるべきです。この図はわたしが作成しました。
2021.07.10
プレバト俳句。お題は「携帯扇風機」。俳句もイマイチ、添削もイマイチでした。◇まずは、しょこたん。扇風機持つ手甘噛む仔猫たち今週はこの句がいちばんよかったと思います。切れ目なしですが一物仕立てではありません。ただ、これを「コロナ禍の春を詠んでる」と解釈した先生の話は、正直、よく分かりませんでした。たしかに「仔猫たち」と複数になってるので、仔猫がたくさん産まれた春の句と読めるかもしれませんが、なぜ春に扇風機が回ってるのかも分からないし、なぜその状況をコロナ禍とまで読めるのかも謎。そもそも作者自身は、「仔猫」が春の季語とは認識してなかったようで、あきらかに夏の句として詠んでるわけですよね。実際、春に生まれたばかりの仔猫たちなら、せいぜい這って歩くのがやっとだから、手元にまで登ってくる脚力はないかなあと思う。むしろ、わたしは、扇風機もつ手甘噛みする子猫と一匹の猫にして、夏の場面を詠んだほうがいいと思います。◇小林幸子。扇風機 市民ホールの舞台袖開演の舞台袖なる扇風機(添削後)この添削はいいと思いますが、本人の話を聞くと、舞台袖で冷たい風に当たって一息ついたらしいので、上五は「開演の」より「幕間の」としたほうが妥当ですね。かりに上五を「幕間の」とした場合、中七の「舞台袖」と情報がかぶってる気もするので、本人談を参考にして、幕間のたらいの水と扇風機としてみました。◇鷲見玲奈。仕事ぶり見張るデスクの扇風機見張るかに回るデスクの扇風機(添削後)扇風機を擬人化しただけの一物仕立てで、切れ目なし。原句もイマイチだけど、添削も微妙です。添削の、「見張るかに回る(=周回する)」と、「回る(=回転する)扇風機」とでは、「回る」の意味が微妙に違ってるわけなので、これは一種の《掛詞》ですね。しかし、結果的には、後者の意味で「回る」を用いてるわけだから、(掛詞としての役割を除けば)たんに「回らない扇風機があったら持って来い!」という不要な重複語句でしかありません。正直、いい添削だとは思えなかったので、破調ではありますが、在宅ワーク 扇風機からの視線とやってみました。◇おいでやす小田。挟み立つマイクさながら扇風機マイク挟むごと相方と扇風機(添削後)これも切れ目なしの一物仕立て。扇風機をマイクに見立てた直喩ですが、原句のように「挟み立つマイク」とすると、まるで2本のマイクが自分を挟み立ってるように見えます。それが扇風機の比喩というわけだから、2本の扇風機が自分を挟み立ってることになるし、それをわざわざマイクに喩える意味も分からなくなる。他方で、先生が添削したあとでも、状況は依然として分かりにくく、まるで、「相方と扇風機がマイクを挟むように向かい合っている」と読めます。しかも、ギクシャクした破調です。ためしに、a: 漫才のマイク替わりや 扇風機b: マイクのごと コンビで囲む扇風機としてみました。◇千原ジュニア。ゆるキャラの汗の匂いとファンの音これも切れ目なしの一物仕立て。嗅覚と聴覚の情報に焦点を当てたとは言うものの、たんに「着ぐるみの中」を描いただけだし、さほど面白いとは思えない句でした。◇立川志らく。焼き鳥屋の団扇うちわに「みつを」を見つけ 焼き鳥屋の団扇に相田みつをの詩(添削後)これも切れ目なしの一物仕立て。「焼き鳥」は冬の季語ですから、夏にもかかわらず冬の句を詠んでしまったわけですね。破調を容認するほどの内容とは思えないし、たとえば、鳥を焼く団扇に相田みつをの詩鶫つぐみ焼く団扇に相田みつをの詩などとすれば、ちゃんと575に収まるんじゃないでしょうか。◇梅沢富美男。南国の果実色してハンディファン 季語を使わずに夏らしさを表現してる点に独自性はあるものの、これも扇風機の色を比喩しただけの切れ目のない一物仕立てだし、さほど面白い句だとは思えません。爺のくせに、柄にもなくカラフルな場面を描いてるところからして、「にこるんと デートに行った 電気屋さん」みたいな浮かれた気分だったのでしょう。そのことだけは、ありありと伝わってきます。◇ところで、梅沢の、「○○のようにして□□(が…している)」(果実のような色をしてハンディファンが並んでいる)と同じスタイルの比喩の句は、あえかなる鏡の色をして冬日(鏡のような色をして冬日が射している)がそうだったし、別珍の手触りのして梅の香よ(別珍の手触りのようにして梅の香りが漂っている)もそうかもしれません。これはたぶん、まゆはきを俤おもかげにして紅粉べにの花(眉掃きを思い出させるようにして紅花が咲いている)という芭蕉あたりが模範かと思いますが、これもいずれワンパターンに陥りそうな気がします。
2021.07.10
なぜか、この新旧4曲をひたすらパワープレイしてるわたし。4曲とも、歌詞はともかく、メロディがすごく面白い。
2021.07.08
産廃土砂を用いて山林伐採地を造成し、太陽光パネルを敷くというメガソーラー事業。すでに全国各地で行われていて、自治体や地域住民とトラブルを起こしています。景観の破壊や、森林伐採による自然破壊のみならず、浸水・濁流や土砂崩れの被害を起こしていました。メガソーラー事業との関連にかかわらず、産廃土砂で山地の埋め立てをする悪循環が、日本経済のなかで蔓延的に行われています。そうした状況を考えると、熱海で起こったような大規模土石流は、いまや日本のどこにでも起こりうる「人災」です。これらはけっして想定外の災害ではなく、一昨年の林野庁の資料などでも想定されています。こうした人災は、法的な「公害」とただちに認定すべきです。
2021.07.06
プレバト俳句。お題は「寝坊」。今回は、先週とちがって納得の添削が多かったです。◇梅沢。永らえて短夜をなほ持て余す巡業の短夜をなほ持て余す(添削後a)逢いみての短夜をなほ持て余す(添削後b)ボツでした。「年寄りは眠りが浅い」ということだけをワンカットで詠んでいる。名人どころか、キング・オブ・ザ・凡人みたいな句。しかも、「歳をとったので、短夜さえ持て余す」と因果関係を説明したような散文的な叙述。また来週~。(^^)/~◇フジモン。昼寝覚 ひらがなだけの置き手紙昼寝覚 子のひらがなの置き手紙(添削後a)昼寝覚 子のクレヨンの置き手紙(添削後b)わたしは原句でもいいかな、と思ったけど、たしかに、作者がフジモンだと知らなければ、「なぜ平仮名だけなのか」について、いろんな読みの可能性が出てくるかもしれませんね。とはいえ、これで「1つ後退」というのは、ちょっと厳しすぎるかな、とも思いました。◇工藤美桜。担任からのモーニングコール 夕の虹これが今週の1位。先生いわく「いろんな物語を想像させる」と好評価。でも、わたしとしては、なぜ担任の先生がモーニングコールするのか分からないし、昼ならともかく、なぜ夕方まで寝てるのかも分からないし、あまりにも状況が常識からかけ離れすぎていて、ちょっと想像しようもありませんでした。そもそも、朝から夕方まで一気に時間が経過してるのも分からないし、まして、そこにどんな詩情を読み取るべきかも分からない。形は美しいと思うけど、わたしには難解すぎる内容でした。◇ABC-Z塚田。七月や 意気込み遅し ジム疲れ七月のジム 意気込みの空回り(添削後)これは妥当な添削ですね。原句は、言いたいことは分かるけれど、中七の「意気込みが遅い」という表現が、やや正確さに欠けるような気がします。意気込みは強いものの、取り組みが遅かったために、結果的に「ジム疲れ」に陥ったわけですよね。早いか遅いかは「取り組み」の話であって、「意気込み」は強いか弱いかで測るものだろうと思います。◇渡辺満里奈。吾子の首 息ひそめ見る夏の朝学校の朝ぞ 寝る子の汗の首(添削後)これもまあ妥当な添削です。原句は、子どもを起こさないように息をひそめてるらしいけど、「息ひそめ」なんて出てくると、ちょっとサスペンスフルな状況を想像しがちです。◇風間トオル。夏の朝 あせって歯ブラシ鼻の中夏の朝 歯ブラシ鼻に入りそう(添削後)さすがに歯ブラシは鼻の中に入らないだろうと思うし、やはり添削でも「入りそう」と穏当な表現に直っています。中七の「焦っていたので」という説明も散文的なので、添削では、そこも消されています。ただ、もしかすると、鼻の大きい人なら歯ブラシ入っちゃうのかもしれないし、逆に、小さい歯ブラシなら、わたしでも入るかもしれないし、中七の「あせって」についても、「焦った歯ブラシ」「急いた歯ブラシ」などと直せば、いくぶん映像的な印象に変わるかもしれません。あまりにも題材がくだらなかったので、先生は、ほとんど匙を投げていましたが、考えようによっては、こんな糞みたいな題材でも詩情を出せたなら、それこそ名人級じゃないかしら?とも思ったりするわけで、意外にチャレンジしてみる甲斐はある気もします。ためしに、われながら鼻・歯ブラシ選手権をやってみました。歯ブラシを鼻に突っこむ 夏の曉歯ブラシの鼻に突き入る朝 暑し起き汗や 急いた歯ブラシ鼻磨く寝呆ければ鼻も磨きし 夏の朝歯ブラシが夏曉の鼻慌て打つ夏未明 歯ブラシ鼻に入れてみる鼻の幅 歯ブラシの幅 夏朝日鼻打つは夏の夜明けの歯ブラシか起き鼻を歯ブラシの打つ 金魚玉朝早し 歯ブラシ暑き鼻を刳るまた出来たら随時加えたいと思います。…永遠に才能ナシ?◇中村ゆりか。しまったとじわり汗ばむ三尺寝うたた寝の過ぎて汗ばむ テスト前(添削後a)うたた寝の過ぎて汗ばむ 出番待ち(添削後b)原句は、「三尺寝」を詠んだだけのワンカットの句。その意味では梅沢の句に近い。梅沢ほど説明臭くはありませんが。これも妥当な添削ではあるのですが、昼間っから寝落ちして汗ばんでる中村ゆりかには、無防備な色気もそこはかとなく漂ってるわけで…(笑)その味わいが添削から抜け落ちてしまったのは残念です!今回も色気が怖すぎた中村ゆりか from ギルティ
2021.07.04
前作『adieu1』が素晴らしかっただけに、それを超えるのはちょっと難しいかと危惧してたけど、蓋を開けてみれば全勝でした。とくに、カネコアヤノの一撃が効いている。わずか3分に満たない曲ですが、すごく鮮烈な印象を与えてます。中央アジアの遊牧民が都心の遊園地に住みついてるような、ちょっと不思議な「天使」のMVもかなり印象的。なにやらドギツイ色彩感覚を打ち出していて、あれは今後のビジュアル作品にも影響力をもつだろうと思う。◇もともと萌歌の曲には、すこしだけダークな要素があって、つねに、なにがしかの闇を抱えています。かつて銀色夏生や谷山浩子が、斉藤由貴のために不穏な曲を書いていたのに似てる。ただし、闇といっても、それは女の子なら誰しもがふつうに持ってるような、ある意味では、とても素直な闇であって、それをすんなり表現できるところが、現在のadieuのスタンスなのかな、と思います。◇カネコアヤノが書いた「天使」は、じつは純真無垢な愛のキューピッドではなく、どこかしら邪悪な要素も持ちあわせていて、この曲の主人公は、そんな天使の悪戯と、つかず離れずの関係にあります。塩入冬湖が書いた「シンクロナイズ」にも、前作の「よるのあと」と同様にシニカルな面があって、萌歌自身も「2つの曲の主人公は同じ」と言ってるけれど、前作では《青い体温/震えぬ胸》と冷え切った感情を歌い、今作では《退屈》《交差しない》《永遠は作れない》と、ほとんど悟りきった冷めた諦観のなかで、それでも若さにまかせて愛の可能性を探ろうとしています。◇ちなみに、前作の「よるのあと」について、塩入冬湖は「祈りの気持ちを込めて作った」と述べていて、実際のところ、多くのリスナーは、あれを《祈り》の曲として受け止めているはずだけれど、よくよく歌詞を見ると、じつは、うっすら憎悪をはらんだシニカルな内容にも読めるところが、あの曲の面白さになっています。それと同じことが「シンクロナイズ」にも言えます。◇さらに、それと同じことは、君島大空による「春の羅針」にも言えるかもしれない。君島大空が書いた「春の羅針」のタイトルの意味は、おそらく「恋の行先」みたいなことでしょうけど、ちょうど「よるのあと」が、《震える胸》ではなく《震えぬ胸》と冷たい感情を吐露しているように、この「春の羅針」でも、《夢なら覚めないで》ではなく《夢なら覚めて》と悲しみを吐露してる。つまり、主人公は、行先の見えない恋の不安に直面しています。◇そんななかで、古舘佑太郎が SALOVERS 時代にソロ曲として作ったという、「愛って」の、やや青くさい真っ直ぐさが、Yaffle の前向きで拡がりのあるアレンジも相まって、このアルバムに、ある種の清涼感と救いをもたらしています。もともと「愛って」には、YouTube の FirstTake バージョンがありましたが、先日の TOKYO FM の番組では、古舘佑太郎のギター1本で歌ったバージョンも披露されました。やはり、作曲者自身の演奏には格別の味わいがあって、このギターだけの素朴なアレンジが思いのほか良かったです。あれを聴いていたら、萌歌と井之脇海が二人でたたずんでいる映像が目に浮かんだので、あのバージョンを、できれば午後ティーのCMで使ってほしい(笑)。◇小袋成彬のつくった「ダリア」は、少女の初恋の終わりを描いた曲なので、恋の始まりを歌った前作の「天気」と対をなしてる気もしますが、なんとなく謎めいた世界観もあって、それについては、こちらに書きました。ちなみに、ここに出てくるダリアの花は黄色ですが、ひたすら青色にこだわった前作の「天気」のMVと、ヴィヴィッドな黄色や金色が印象的な「天使」のMVを比べても分かるように、全体として、今回のアルバムは明るい黄色の印象が強いです。◇◇なお、萌歌は、昨夜の南波志帆のFM番組で、「今後は作詞もしてみたい」と言ってましたが、姉妹とも、そういう流れになるのは必然だと思います。作家の提供曲だけではなかなか表現しきれない部分が、おのずとだんだん増えてくるはずだから。
2021.07.02
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