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双方とも軍人だけではとても足りない。義勇軍、民間兵として、多くが参加した。自分の住んでいる土地が全て戦場だ。参加せざるをえない状況だ。同じ民族同士の争いだ。誤解があっても憎しみは増えるだけ。激しい感情で、残虐な行為がいたるところで行われた。戦争では、狂気が日常茶飯となる。それは、休戦後も続いた(終戦はしていない)。南軍も北軍と同じ過ちを犯す。調子に乗り侵攻しすぎた(太平洋戦争の日本も同じ)。ここで中国軍(義勇軍として)が北軍側として参戦。人命を無視した(戦争は常に人命を無視している)人海戦術。1951年1月には、再度ソウルを占拠する。そして、またもや、幾つもの住民虐殺が行われた。北軍は、再再度の侵攻し過ぎで反撃される。(いいかげんに学ぶという事ができないのかなぁ・・・)3月に南軍が再度ソウル奪回し、ようやく38度線で膠着する。尊い人命と大地と文化物と精神と理性とを壊し続けただけだった。そのまま、休戦という形で現在に到っている。朝鮮半島の南北の戦いは未だに終わっていないのだ。
2011/08/31
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朝鮮半島は1950年から3年間、全土で戦場となった。最初は圧倒的に軍備で勝る北が有利に侵攻した。南首都ソウルも陥落し、韓国軍は敗退に次ぐ敗退。ほぼ全土を北朝鮮軍が占め、韓国軍は全滅目前だった。慌てて国連は多国籍軍を作り(17カ国)韓国を支えた。だが、それでも北朝鮮軍が有利だったのだ。ところが、今でも謎とされている空白の3日間がある。何故か北朝鮮軍は3日間、進軍を止めて何もしなかった。この3日間で韓国・多国籍軍(アメリカ主軸)が立ち直った。多国籍軍とはいえ、アメリカ軍は韓国軍の倍の兵力だった。そして勢力を盛り返して北軍を追いやり、ソウルも奪還した。双方とも民間兵を募り、全部の人と土地が戦争に巻き込まれた。更に調子に乗った南軍は北上を続け、北首都ピョンヤンを占領。逆に北軍を北山間部まで追い詰めた。当然、戦争で感情に狂った双方の人達は、残虐な行為を繰り返す。南北のとても多くの民間人が無残にも惨殺されていった。戦争は狂った状態だから、理性などあるわけがない。軍は自他国に係わらず、国民を守るはずがない。
2011/08/30
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戦争の当事者、あるいは煽る影の当事者達の言葉は同じ。我々は、正義の為に戦う。我々は、平和の為に戦う(巨大矛盾だろ・・・)我々は、幸福の為に戦う。・・・あまりに、変だろ。当たり前の判断さえ出来ない状態だから戦争になる。そして、終戦してからの不幸と苦しみは広がり、続く。戦争は終わっても、苦しみや不幸は終わらないのだ。苦しみ、悲しみを伴うと、負の感情が増幅する。利害に感情がからみあい、平和に解決することはない。唯一つ、戦争をしない事が最良の選択なのだ。朝鮮半島は、更に激化した。二つの政権が、それぞれ立国宣言した後に統一しようとした。昭和25年(1950)、北朝鮮軍が38度線を越えて侵攻した。宣戦布告はなかった。この年に、長女(姉)が生まれた。こうして書き始めてみると、あらためて思う事がある。母は本当に激動の時代を生きてきた。そして私の兄姉達は、すごい時代に生を受けた。
2011/08/29
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今日の独善つぶやき・・・母の49日法要をした。満願日は9月2日だが、法要だけ前倒し。満願日には身内だけで納骨する。一応、これで法事関係は一段落となった。お見舞いに来てくれた人、ありがとうございました。「母のこと・34」戦争は国際戦争だろうが内戦だろうが不幸しか生まない。ハゲタカのように利益を求め、戦争を煽る国も不幸になる。一時的に儲かる企業と、それに連なる政治家がやりたがる。主義の違いからの戦争も、利益がらみがホンネだ。朝鮮戦争はイデオロギー戦争の体をしているが、ハイエナ戦争なのだ。同じ民族、同じ国土で、二つの政権があるのが朝鮮半島。二つの国が隣り合わせにいる半島ではないという立場だ。戦争は全て不幸と苦しみだ。更に、同じ民族同士、親戚さえいるのに分断され争っている。それも、他国の干渉から始まり、未だに続いている。昭和23年(1948)二つの政権はそれぞれ立国宣言をする。南半部の資本主義陣営、大韓民国は首都をソウルに。北半部の共産主義陣営、朝鮮民主主義人民共和国は首都ピョンヤンに。一つの国が、未だ統一されていない状態だと双方が思っているのだ。(実質は通称、北朝鮮、韓国の二つの国という扱いだ。)同じ頃、同じような構図で中国も同じ民族同士で争っていた。そして昭和24年(1949)に共産陣営が勝利する。敗れた資本主義陣営は、台湾に脱出し中華民国を宣言している。ここも、未だに一つの国が統一されていない状態だと主張される。主張しているのは、通称、中国(中華人民共和国)の方だ。どうやら通称、台湾(中華民国)は、独立したいようだ。
2011/08/28
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昭和22年(1947)には憲法が施行となった。制定された11月3日は「文化の日」として祝日に。施行された5月3日は「憲法記念日」として祝日に。だが、まだアメリカの占領下でのことだ。混乱と貧困の日々は続いた。その頃、朝鮮半島も混乱、動乱が続いていた。日本が敗戦を認め、支配していた朝鮮半島を手放した。そこに、各国(米・ソ・中・その他)が押し寄せた。戦争は強奪の場でもある。朝鮮半島は、勝利国軍の餌食とされた。そして、38度線で南北に分断される。ソ・中軍は共産勢力軍として北半部を後押しした。アメリカは反共勢力として南半部を後押しした。同じ民族でありながら、争いは激化していく。戦争は、日本が手放しても苦しみの悲劇は続くのだ。戦争は悲劇の花しか咲かない。
2011/08/27
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占領下の日本ではあるが、独立国への準備が進む。一年後の昭和21年(1946)11月3日、日本国憲法制定。ここに初めて成人なら誰でも選挙権が持てるようになった。実質はともかく、国民主権という意味だ。そして、実質はともかく、平和主義を謳った9条も・・・敗戦になり、実質はともかく、マトモな方向となった。そんな憲法制定の一ヶ月前、三男を出産する。相変わらず、数組の家族が居候している。頻繁に乞食も来る。都会で空襲にあい、孤児、難民となった人達だ。田舎は田畑から食べ物が採れるから、都会から流れて来るのだ。当時は都会より田舎の方が裕福(とはいえないけど)だった。母はそれらの人達に分けてあげられるだけのモノを持たせた。食べ物、着る物、時に子供達には本なども。「大変な目にあったのは、同じだもの・・・」お互いが助け合わなければ、過ごしていけない。何もかも無くなった日本だ。生きている人達同士は、助け合って、どうにか日々を暮らした。
2011/08/26
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終戦になったが、日本はアメリカによる占領下だ。独立国家ではない。一応、7年後の1952年に主権回復し独立する。だが実質は今でもアメリカの占領下だ。アメリカの命令なら、今でも国民も国土も売り渡すだろう。日本の政治家はアメリカの下男なのだ。(異論があるなら、対等に主張してね。最近は、中国の下男も兼ねているというウワサが・・・)日本為政者のあまりに無謀な戦争が引き金だったのは間違いない。だが、あきらかに瀕死状態は理解したうえでのアメリカの行為だ。民間人の暮らす都市への焼夷弾による絨毯爆撃。民間人そのものへの人体実験を兼ねての原爆投下。世界でも類を見ない残虐な行為に対して、独立してからも抗議していない。それどころか、当事者に勲一等の表彰までした日本の政治家達だ。アメリカに忠誠を尽す下男よりひどいと思うよ。ロシアに対しても、抑留者への残虐な扱いに抗議どころか調査さえしない。戦争は間違いだが、命令して実践させたのは為政者だ。勝利国へキチンと抗議できて、初めて独立国といえる。
2011/08/25
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我が家は残ったが、何も無い状態からの出発は同じだ。意外にも、父は無傷で帰ってきた。もちろん補償などあるはずがない。他国で殺し合いをした償いさえマトモにしていない国だ。自国でさえ、無視されている犠牲者が多数いる国だ。この山郷にも疎開してきた人達、家が無い人達も多くいた。我が家は造りは大きいとはいえ、半分の古い民家だ。明治20年頃に建てられたものだ。そんな我が家に、4家族が間借りしていたという。外屋といって、外壁に片屋根をつけ、トタンで囲った空間。そういう場所にも、間借りしていたらしい。(どうやら、貧乏には違いないが、我が家は家主側だった・・・)何もなくても、毎日の暮らしがある。腹も減る。混乱、混合、雑多な日々だったろう。母は病弱を片隅に追いやって、毎日をこなしていた。
2011/08/24
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国土も物資も人の命も犠牲にして終戦した。昭和20年8月15日だった。母、29歳の時だった。中国、東南アジアに出兵した人達の終戦はもっと後だ。ソ連軍に捕虜抑留された日本人は軍民合わせて80~110万人。記録があいまいすぎて実体がつかめない状態だった。過酷な労働、虐待での死者は34万人といわれている。(日露で交わした公式死者は6万人。双方の政治家の卑怯な利害が一致し、公認は極少となる。実質は、その後の研究で34万人以上が犠牲者だ)10年以上経って帰国した人の終戦は20年8月ではないのだ。(戦争犠牲者は、330万人より遥かに多く増える・・・)このブログを書くのに、犠牲者数などを調べた。すると日本はもちろん、各国の為政者達の卑怯ぶりがうきぼり・・・犠牲者数の誤魔化し、キチンと調べない無責任、他国との口合わせ。国民を戦地に置き去りにし、犠牲にし、知らん顔を未だに続けている。調べるほど、ビックリするほど無責任ぶりがみえる。未だに葬ることさえされてない犠牲者。その家族に対する補償も、知らない振りを続けている。国を守れ、といいながら、為政者は国民を守るつもりはないようだ。政治家でいるなら、過去とはいえ、責任を果たせよなぁ・・・どの政党でも政治家は皆責任者だぜ。だから、どの政治家も卑怯者だ。
2011/08/23
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双方の国の為政者達による人災。自然災害より遥かに大きいのだ。そして今も平気で正論のように軍備をする。正論のように原発を推進する。原爆と原発は違う、なんて卑怯を言わないでね。原爆も原発も平和の為に使う、という為政者の言だ。大きな被害と苦しみを生むのは、同じ。コントロールできない仕組みは、全く同じなんだよ。それでも必要なら、大都市に作ろうね。国会議事堂に付けて作ろうよ。人命より経済をとる専門家達も原発と共に住もうよ。推進者が場所に反対するなら、卑怯者だぜ。今回のフクシマも為政者による人災だ。全体で死者330万人(推定)の人災犠牲者。負傷者数え切れず。伴う家族の苦しみも推し量れない。家屋、ライフライン、職、食、その他の壊滅。まさに日本はどん底で、やっと終戦になった。もう戦争はしなくていい、という光だけあった。だがこの光は、本来は当たり前の光だった。戦争など、しないのが当たり前なのだ。だから為政者は特別でなくていい。当たり前が理解できる人でいいのだ。○○の為に一所懸命やります、なんていらない。(一生懸命できる人間はいない)当たり前が理解できれば、弱い立場からの為政ができる。
2011/08/22
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今日の独善つぶやき・・・今日も千葉だったが、帰りの電車の乗り継ぎがスムーズ。千葉駅も東京駅も、全く足を止めることなく乗れた。だから、早く治療院についたのだ。一度、地震が(多分直下型)あった。「母のこと・27」関東大震災で10万人の死者。その後の復興のツケで大恐慌。だが、大震災は自然災害だ。二度に渡る東京大空襲だけで15万人の犠牲者。これは、まぎれもなく人災だ。愚かと狂気と卑怯心の双方の為政者による人災だ。戦争は狂気で成り立つ。人を殺す事を目的に考え、発明し、実行するのだ。戦争は狂気と同意語でもある。東京は木造家屋で、風にあおられよく燃える。そういう勉強をし、焼夷弾という爆弾を発明する。そして、赤ちゃんから病人、お年寄りまで焼き殺す。それが、正義という御旗の下で実行されたのだ。それだけでは足りなかった。新型爆弾のテストだってしたい。降参する前に殺したい。広島に落とす。20万人の犠牲者。別の原爆もテストしたい。降伏前に、すぐ長崎にも落とす。14万人の犠牲者。戦争を終わらせない日本の愚かな為政者に感謝だ。お陰で、いろいろな爆弾を人体実験できた。悪魔の心だから勝利国になれるのだ。
2011/08/21
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負けるべくして敗戦となった。戦争する事自体が愚かな行為だ。何もかも破壊し滅亡するのが戦争だもの。まして食料も資源も材料も人も無く続けたのだ。神国だからという理由で勝つなんてありえない。例え戦争で勝っても、その後の不幸は約束される。敗戦国はもちろん、勝利国のその後も不幸になる。多くの不幸の上に、幸せの花が咲くわけがない。戦争は、全てに不幸の花しか咲かない行いなのだ。故に、いかなる理由があろうとも軍備は愚か。戦争を防ぐ手立ては、幾つもあるのに・・・知恵というのを、どの国の為政者も知らないようだ。終戦になるには、更に大きな不幸があった。終戦を決断するのに、とてつもなく大きな犠牲を払った。東京や各大都市の空襲。二度にわたる原爆被害。そして、やっと卑怯者の為政者は終戦を決断する。
2011/08/20
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物資補給されない状態だ。食料、医薬品、弾薬だってない。あるのは、愚かな命令だけだ。それでも敗戦に次ぐ敗戦。退却以外に選択肢が無くなった。その帰還船さえ無い状態だ。あっても偉い人から優先的に乗る。軍人に限らないが、威張る連中は卑怯者が多い。そんな時、丁度港に船が着いた。父も乗れるはずだった。ところが、例によって格下の父は後回しにされた。運命の分かれ道だ。目の前で帰れる希望が離れていく。幾人もの置き去りにされた兵士や従軍が船を見ていた。湾から出る直前だった。船は轟音と共に爆発沈没していった。運命の分かれ道は、どう転ぶか判らない。置き去りにされた人々は、その後帰国できた。
2011/08/19
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ある夜、父は三人で宿舎近くを歩いていた。ヒュルル~艦砲弾の風音。そして轟音と閃光。父は何メートルか吹き飛ばされた。幸いにも手足が動く。目も見える。耳も聞こえるようだ。フラフラと戻っていくと・・・空からゲートル(足保護布)だけが降ってきた。一緒に話をしていた仲間のゲートルだった。建物か樹か何かが障害物となって父を直撃から守った。あとの二人はバラバラになった・・・後に、この二人の影と足音を聞いたという。まだ、死んだと気づいてないのではないかと。父は霊を信じる人ではなかったが、実体験だから仕方ない。戦地では、霊現象は日常茶飯にあったらしい。
2011/08/18
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社会的、家庭的には問題があった父。そんな父にも国は容赦しない。軍属ということで、ニューギニアあたりに飛ばされた。詳しくはないが、切れ切れの話は聞いている。日本中のオトコは、とても悲惨だったのだ。税金で命令する側は、安全なところにいたが。兵士として徴収されたオトコの日本人犠牲者。およそ280万人(とてつもない犠牲だろ)。軍属、空襲、原爆、その他を合わせると330万人くらいか。戦死というかたちだが、飢餓死がほとんど、ともいわれる。とても、とても悲惨な戦争に出されたのだ。愛する人達を守る為、と大義名分されたら、ほとんどが従う。父が配属させられた地も例外ではない。物資がない状態で、置いてけぼりだ。兵士を支援する従軍だから、より格下なのだ。当然、飢餓状態は日常。人の生死は、僅かな差で分かれる状況が続いた。父は性格に問題があるのか、幸運の持ち主ではない・・・だが、強運の持ち主ではあったようだ。
2011/08/17
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鍋釜やその他の金属類をお国の為と供出した(父方)祖母。先祖からの大切な遺品も(正直に)供出した。今あれば、高く売れたのになぁ・・・(遺品を売るのか、というつっこみもある・・・)それでも、お国のやる事に対し、さすがに疑問もあった。校庭で竹槍を持たせられ整列した時に、思わず言った。背中の曲がったオババ「こんなモノで倒せるわけがない」マジメに号令する軍兵に、こっ酷く怒られた・・・為政者は判断力も未来を観る力も無いアホだ。だから、鍋釜、竹槍で米英国と戦うと命令する。だが、その命令がお婆さんまで届く間に、幾人もを中継する。それに係わった人達も、間違いを訂正する能力が無かった。あるいは、間違いだと思っても平気で伝えた。そして、命令者の多くは生き残った・・・この訂正できぬシステムは、現在でも同じだ。アホと卑怯者の集団組織。それが、税金で暮らす為政に関係する人達の正体だ。(全員とはいわないが、修正しないのなら責任はあるだろう)モンクがあるなら、一般国民を暮らしやすくしてみろよ。アホの為政の多くの犠牲者は、一般国民なのだ。責任も能力も恥も無いなら、辞めてくれよなぁ・・・
2011/08/16
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女子学生まで兵器工場に動員する。その前に戦争は無理だと判断できるだろ。ここまで引き伸ばしたのさえ、愚かなのに。為政者に愚かという文字は他人事だった。更にもがいた日本は、国民の鍋釜まで徴収した。国民の鍋を徴収したら、国は終わりでしょ。そんなことさえ判断できない為政者だった・・・それで飛行機を作れって言った。冗談ではなく、日本は極めてマジメに命令していた。(税金で暮らす人達の笑いのセンスはズレている)物資も動力源の燃料も働く人も乏しくなった。工場の仕事も無くなってきた一家は水上に帰る。ところが山の中でも政府の意を鼓舞する人がいる。威張って、お婆さんまで学校に整列させる。竹槍を持たせ、鬼畜米英兵を突き刺せ、と言う。冗談ではなく、笑いをとる為でもなく、命令していた。(税金で暮らし命令する人は、滑稽を通り越しムチャクチャ)
2011/08/15
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そのまま太田市には5・6年住んでいた。日本は戦時中だ。日本連勝と大本営発表という嘘情報に浮かれていた。今でも政府発表は、何かと信用できない。特に戦争絡みは平気で嘘をつく。戦略を国民に知らせるバカはいない、という名目らしい。(政治家も官僚も自分達は頭が良く、偉いと信じているようだ)その頃(昭和16年)、次男が生まれる。だから次男は太田市の生まれだ。セピア色の次男の写真もある。やはり、どこかのお金持ち一族に見える・・・この時期まで金銭的には、よかったみたい・・・私は、未だ宇宙の果てだった・・・政府が、いくら嘘を発表しても現実とズレが出る。人々の暮らしが、どんどんひっ迫してきた。頑張ろう、日本!力を合わせて、鬼畜米英をやっつけよう!だから我慢だ、贅沢は敵だ・・・いくら煽っても、現実は厳しく辛い日々が続いた。いつの時代も、政府(政治家)がしっかりすれば、(無駄な事をしないで)国民生活は守れるのに・・・愚かな、愚かな政治で、とても多くの犠牲を増やした。日本を守る為、と教え込まれて、多くの人が戦地に向かった・・・戦地は、双方の人と動物達と自然が不幸になる場所なのに・・・
2011/08/14
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日本が戦争に突入する頃、長男を産んだ。日本が悲惨な時代に転がる時、母も時代に巻き込まれた。日本人のほとんどが、悲惨に巻き込まれていく。戦争で美味い汁を吸うのは、極一部だけなのだ。その一部になりたくて、政治家は戦争へと近づく。それは、前も今も大して変わらない。同じ群馬県だが、一家は太田市で暮らしていた。父が中島飛行場(スバル前身)の仕事をしていたらしい。山の中の水上町と違って、大田は平地だ。「どこまでも夕方の影が伸びるんだよ」そういった事に、とても感激していた母だった。自然界の綺麗さ、素晴らしさには感応しやすい母だった。その頃の写真が残っていた。母には同じ父母から生まれた兄弟姉妹は一人だけ。5歳離れた妹(叔母)がいる。セピア色の写真は、和服の二人と赤ちゃん。母、叔母、長男だが、裕福な姿だった・・・どうやら、由緒正しくない貧乏家だったようだ。
2011/08/13
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私は由緒正しい貧乏人の血統だと思っていた。ブログでも「貧乏道」という題で書いていた。ところが、実際は違うようだ。母方のルーツなど幕府御用達の家になってしまう・・・両家とも、本来はお金持ち?私って・・・おぼっちゃま?私は貧乏で育ったことを隠さなかった。だが、私の家を知らない人達は信用しなかった。いいところの出、と思われていたフシがある。貧して貧ならず。貧乏な暮らしをしても、性格や心までは貧にならない。たぶん、母の教えだったようだ。母は背筋を真っ直ぐにして、歩く生き方だった。母は自尊心が高かった。変なプライドはないが、芯に自尊心があった。生まれ育った家や祖母(ラテン系なのに)からだと思う。卑屈に生きる要素がなかったのだ。だが私は特に自尊心などない。というか、プライドにも興味ない。むしろ、プライドを緩めることを勧める仕事をしている。自尊心と劣等感は表裏だし、どちらも大したモノじゃない。
2011/08/12
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私の実家は幸せを知ると書いて、幸知(こうち)という地名だ。親戚「幸知の家(私の家のこと)はお金持ちだったから・・・」私「え!」親戚「大きな家で、土地が沢山あって・・・」確かに、家は大きく、アチコチに土地はあった。山もあった。今も一部ある。幸知区にアチコチ土地があった。今も一部ある。古い家の材料は、この近辺では最高らしい。だが、本来の半分だ。売ってしまった。父の母(父方の祖母)が山のほとんどを売った。現在の価値で一億近くあったようだ。でも、字が書けない祖母は、僅か数年で騙し取られた。家の半分も売った(そういうのアリ?)。残った半分は、今は姉のアトリエ(風香窯)になっている。それでも建坪50坪(2階)だから、元は100坪の家だった。働かない父も負けずに売った・・・アチコチの土地を切り売りした。そのお金のほとんどは、自分で使った。確かに、(元は)貧乏家ではなかったみたいだ。私は納得していないが・・・
2011/08/11
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結婚前から、父の乱暴はウワサで知っていたらしい。そんな家から母に結婚の申し込みがあった。もちろん、母は嫌がった。すると、母の母(ラテン系の祖母)は言った。「断ったら、もっと怖い」母「その家に嫁に行くくらいなら、死ぬ」ラテン系祖母「ならば、死んだつもりで行け」こうして、結婚したらしいのだが・・・私には、納得できないんだなぁ・・・結構裕福で育った母だ。父の実家では、あまりに暮らしぶりが違うので戸惑った。そんな話を聞いていたし、私が子供の頃の実体験もあった。私の家は、本当に貧乏だと思っていた。だが、母の葬式に来ていた親戚の話から、それは少し違っていたようだ。
2011/08/10
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出稼ぎの意味も、実際の状態も知らずに「早く、出稼ぎに行けばいいのに」父が家にいると、その事ばかり思っていた。母と兄弟全員が、同じ思いだった。自業自得とはいえ、父も可哀想・・・その父の晩年と最期については、また後で書く。それは、人の不思議さに気づく事でもあった。人も人の生き方も運命も理屈ではない。恨みなど、一瞬で消えるものだと知った。すると、感謝の側面さえあると気づく。ともあれ、そんな乱暴で理不尽な父と何故結婚したのか?離婚とか思わなかったのか?いろいろ疑問やら、つっこみどころなどがあった。私が大人になってから、何度か訊ねたことがあった。母自身も納得はしてなかったようだ。その母の答えにも、納得できないままだった。
2011/08/09
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超貧乏だけじゃない。たまに帰ってきた父は母を叩く。朝、母を怒鳴り叩く声音で目が覚める。結構凄い子供時代を経験しているのだ。心に傷を負ったとも思わないが、悲惨には違いない。何故、私はグレなかったのだろう・・・グレるという選択肢もあったのに・・・そうすれば、今と違うスリルが味わえたかも・・・今のスリルは、一本の弛んだ綱を一輪車で渡っている。しかも、所々油が塗ってある・・・自転車操業の頃は、まだ楽だったなぁ・・・一輪車はキツイなぁ・・・当時、グレるという事を知らなかったのだ。暴力父だったが、私は恐れや不安感情はなかった。今でも、恐れや不安は少ないようだ。私は、感情も貧しかったのかも・・・だが、父を恨む気持ちはあったし、大人になっても残っていた。そして、貧乏な生活が心を縮める事も、気づいていた。
2011/08/08
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私は小さい頃、父の顔を知らなかった。一つには未だに人の顔を覚えない性分がある。一つには人の事など(親なのに・・・)興味ない・・・しかも、年に数度しか帰って来ない父だった。私が覚えるわけがない・・・何故、私の家には父親がいないの?誰かに訊ねたのだろう。出稼ぎに行っている、という答えだった。今なら子供にそう答えるより仕方ないと解る。出稼ぎと称して、渡り大工の仕事をしていた。が、本当の事は判らないし、教えてくれなかった。少なくても、稼いではなかったようだ。あるいは、多少稼いでも、家には送金しなかった。あるいは、多少送金しても、とても間に合わない額だった。そう、とても、とても、貧乏な家だったのだ。
2011/08/07
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父は17年前、1994年に亡くなった。自分中心の生き方だった。(それ自体は、けっして責めてはいない)家庭向きではなかった。父として、家族を持つべきタイプではなかった。(そういう親もいると思う)他人がどう思うが、我が道を行く。その血は、私や姉の中にも入っている。そうでなかったら、ある日突然、氣功師などにならない。売れない陶芸家などにならない。思い通りにならないと、母に暴力を振るう父だった。ドメスティック・バイオレンスってやつ。(これは、幼い頃から心の中で責めていた)この血は、私や姉や他の兄弟には入らなかった。あるいは、父が反面教師になったのかも・・・私は本妻と意見の違いはあっても、喧嘩した事さえない。
2011/08/06
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昭和5年(1930)からは、更に軍国化が進む。昭和6年には軍部謀略により満州事変という侵略を進めた。満州国という実質日本国を中国東北部に建国したのだ。昭和7年には、首相を軍が暗殺する5・15事件。昭和8年、日本は国際連盟を脱退する。(日本は満州から撤退しなさい、というマトモな話に不満。42対1という絶対可決なのに軍だからダダをこねたのだ)昭和11年、一部陸軍によりクーデター(未遂)が起こる。2・26事件だ。政界も軍も腐敗はしているから、いろいろ不満もある。まして、生真面目な人達は正義を旗印に争う。争いは殺し合いにまで発展する。そして、幾人もの政治家やその関係者を殺害した。結果として鎮圧されるが、自決、死刑など多くの人達が亡くなる。この後も更に軍部暴走は加速する。実質軍事政権となり、政党政治は終焉する。軍事政治は戦争したがり政治だ。当然、全国民の命を紙より軽く戦場に送り出す。こんな時に、病弱だった母は成人となった。
2011/08/05
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藩閥政治から政党政治へと移ったが、政治家の質はそのままだ。あるいは、マトモな人も政治家という麻薬に汚染されるようだ。腐敗政治という点では、相変わらず・・・古今東西、相変わらず・・・すると、別の何かが台頭してくる。大正末期からは、時代背景も応援し軍部がのし上がってきた。もちろん、治安維持法が反対する人達を黙らせていた。歴史上最も短い大正時代が15年(実質14年)で終わる。そして最も長い昭和時代が始まった(実質62年余)。母は10歳になっていた。昭和は、昭和金融大恐慌から始まる厳しい時代となった。関東大震災の手形のツケが累積し、追い討ちをかけた。銀行は、支払い停止で休業となった・・・世界的にもアメリカから始まった株価下落からの大恐慌が広がる。金が無くなると、他から集めるのが為政者のやり方だ。てっとり早いのが、戦争。ドイツではナチス、日本では満州へと軍部が動き出した。某アメリカや某中国などは、今も同じ方法をとっている。
2011/08/04
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自由を訴える人々は弾圧を受ける。(自由ではないが)平等を唱える人も弾圧を受ける。特に共産主義者(平等派)や無政府主義者(自由派)は、目の仇にされた。だが、そういう組織も苦手なワシのような個人もいた。(共産主義も宗教も人の組織だもの、胡散臭いと思っている)こっそり、ひっそり、小さな声で自由を唱えた。文学や絵画、そして教育の部分でも自由を唱えた人達がいた。圧し付けられれば反発もするさ、人間だもの・・・大正自由主義教育といわれた。日本が戦争へ大きく傾く1930年(昭和5年)頃までだが。その内容は、現代の教育より遥かに立派な個性中心のものだった。本当の教育を考えて、実施しようとした人達がこの時代にいたのだ。どんな状況下でも、立派な人も愚劣な卑怯者もいる。為政者は特に立派でなくてもいいと思う。普通の感覚があればいい。できうれば、人を縛ろうとしない人であってほしいものだ。税金で暮らしているのに、威張るなよなぁ・・・金(税金)で顔を叩いて、原発や処理場を押し付けるなよなぁ・・・
2011/08/03
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いつの世も、為政者は自分の権力を守る為には何でもする。国の為、という御旗があれば国民の命など消耗品だ。政治家は自分が国民ではなく、統治者だと思っているようだ。自分達は国(の代表者)であり、国民と区別している。その意識は国会議員も村会議員も大して違わない。更には、(偉い)自分の為なら国など売っちゃう政治家もいる・・・村や町や市を売る政治家など、ゴマンといる。ほとんどは金(や票)で、簡単に転ぶ。人間としてはヨチヨチ歩きの段階に退化してしまうようだ。その政治家が世論に圧されたとはいえ、選挙を簡単に解放しない。治安維持法というのをセットで成立させた。簡単に言えば、飴(選挙)とムチ(治安維持法)。事件を起こさなくても、起こしそうな連中は取り締まってもいい。為政者にとっては、とても都合のいい法律だ。(ワシなどは、簡単に捕まるんだろうなぁ・・・ワシは個人自由主義者(ラテン系裸族)だもの・・・)つまり大正後期は、為政者の意を受けた官憲が威張りだす。自由な風潮から、とても窮屈な風潮へと変わっていった時代だ。集まって話ても笑ってもいけない。政府批判など(この文章のように)とんでもない。自由や平等など唱えると、共産主義者とひとくくりにされる。(共産主義もアレコレ問題があるんだけど・・・)
2011/08/02
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競争社会などという概念の無い時代だ。優劣の違いはあっても、人の価値には直結しない。働き者がいれば「いいねぇ~」で話は終わる。出来る人がいれば「すごいねぇ~」で話は終わる。羨みも嫉妬も少ない時代だ。のんびりと育つだけでいい。何度か医者の世話になりながらも母は育った。大人になれないと言われながらも生き抜いた。大正12年に関東大震災が起こる。日本の自然災害では最大級となる。東京と神奈川だけでも10万人を超える死者だった。(今年の東日本地震では死者と不明者を含め2万人)母が7歳の時だった。群馬・栃木・長野の内陸部は死者は0だった。その為か、母からはこの震災の事を聞いた記憶がない。だが、時代は急速に動いていた。政治では、一応初めて普通選挙が出来るようになった。それまでは、藩閥政治だから軍(藩出身)と貴族が政治家だった。普通選挙とはいえ成人男子のみで、婦人や貧乏人は選挙権はなかった。それでも稚拙ながらも、一般人が政治に参加できるようになったのだ。
2011/08/01
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