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調べても脳や顔面などに異常は見られない。それでも痛がるから、現代医療は神経痛という言葉を使う。痛いのは神経・・・当たり前だ。それは病名でなく、症状名。ひらたく言えば、わかりません、という意味だ。出来ることは、痛み止めと神経ブロック。母は両方とも拒否した。だから我慢する。健康器具、健康食品の類もたくさん試した。一時的に変化がある場合もあるが、それで回復まではいかない。いろいろ勉強した。謳い文句の一割程度変化が起こればいい方だった。それでも諦めるわけにはいかない。目の前で痛がっているのだ。そして、試すモノは山のようにあった。全ては試せるはずもない。そのうち、パンフレット類の謳い文句などで判断できるようになった。その会社の姿勢で試さなくても、おおよそ判るようになった。病、病人に対して、商売の一つとしている会社が多い。そういうところのは、はとんで建前だけで実力がない。それでも、試して、いろいろな意味で勉強になった。この時期、幸いにも母に多くのお金を使う事ができた。バブル期のお陰だと思っている。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します。ブログ読者は、facebookの友達承認をしますよ。コメント付きで申請して)
2011/12/31
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この頃、母の状態がかなり悪い時があった。三叉神経痛の重い状態だ。風が吹いても痛い。瞬きしても痛い。当然、眠れない、話せない、食べれない。声も出せないような痛みでうずくまる。お湯や火で温めると、少しだけやわらぐ。だが、日にちが経つにつれ、どんどん衰弱する。病院に連れていった事もあるが、痛み止めしかもらえない。痛み止めに限らず、母は薬と相性が悪かった。胃を含め、かえって状態が悪化するのだ。私達兄弟は、この状態になると密かに覚悟していた。出来ることをするが、母が動けないのだ。それでも、5日目くらいから少し流動食をとれる。それまでも一日かけて、一食くらいは何とか食べていた。すると、薄皮一枚ずつ生命力がついてくる。僅かに眠れる、少し話せるようになる。首の震えも、たまにになってくる。そして、ようやく、私達兄弟は一息つけるのだ。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します。ブログ読者は、facebookの友達承認をしますよ。コメント付きで申請して)
2011/12/30
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今日の独善つぶやき・・・今日は東京出張治療。虎ノ門病院は初めてだった。医師はわからないが、看護婦さん達は優秀だと感じた。看護師を指導する人が優秀なのだろう。病院内は基本的には場が悪いというか、氣功しにくい。その中でも、虎ノ門病院は、いい方だと感じた。「母のこと・157」案の定、バブルがはじけて以後の日本は変わった。不景気と嘆く経済中心の考え方が未だに続いている。社会と商売そのものの在り方が変わった事を無視している。日本という社会の元気は、職人系が土台だったのに・・・今は、土台は商人系の経済だと思い込んでいるのだ。こりゃ、たぶん、ダメだな・・・ま、それは兎も角として・・・商売の才能も無い私の店でさえ何とかなっている。頑張っても赤字だったのに・・・お金をいただくだけになったら黒字・・・私は商売の才能が無い。お金の流れや利用の方法も無知。何もしなくても、何とかなる。勝手にそう思い込んでいた。まぁ、日本中のほとんどがそう思い込んでいた。立派な(皮肉です)経済学者も政治家も官僚も。私もアホだが、アホ類として変わらない。今、私はアホだと自覚しているが、自覚していない立派な人達が多い。だから、これからの日本、こりゃ、たぶん、ダメかも・・・(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します。ブログ読者は、facebookの友達承認をしますよ。コメント付きで申請して)
2011/12/29
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シーズンに入って驚いた。一日に手にする金額が大きい。喫茶店時代、忙しい一日でも2万が難しい。それが、休日なら午前中だけで10万近くにもなる。いかにも悪徳不動産のオヤジが朝来る。いかにも水商売のオネ~チャンを連れて来る。世は不動産の天下のバブル期だ。オネ~チャン達も遠慮なく、店で一番高い土産をねだる。しかも20個30個で買ってくれるのだ。元々私は水商売系の人には好意を持っている。社会的にマトモといわれる人達より、ずっといい。私はゲンキンなのだ。オネ~チャン達の、その軽薄さの奥の優しさを感じる。ありがたい・・・土産店に変えて、思った。世の中、歪んでいるなぁ・・・私は職人系だ。いいモノを丹精込めて作って、お金に変えた。喫茶店も同じだ。微妙な味を出すには、真剣に気を使った。姉も懸命に美味しいケーキを作った。なのに・・・赤字だった。土産店は、ありきたりの土産を問屋から買うか預かる。そして、客に渡すだけだ。いや、ただ置いているだけだ。客が勝手に手に持って、レジまで運んでお金を払う。商売というのは、変な仕組みだ。作らない、誰でも出来る、そして儲かる。ふざけた、歪んだ、変な仕組みと思った。こんな商売が威張る社会は、いずれ崩壊するぞ。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します。ブログ読者は、facebookの友達承認をしますよ。コメント付きで申請して)
2011/12/28
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バブル期の始まりといわれるのが、約1986年末から。喫茶店を閉め、土産店に改装したのが1988年。何しろ開店以来黒字が無い店だったのだ。私が複数のアルバイトをしても、何もならない。それでも常連さんを思うと、簡単には閉店できなかった。一緒にというか、ほとんど店を仕切っていた姉。元々、我が家は職人系の血が濃い。何でも作る姉が、陶芸という道を見つけた。土から造形、絵付け、アイデア、色、その他の総合作品だ。極めつけは、焼き上がらないと完成品にならない。その焼き上がりは計算できない割合が高いのだ。だから、面白いし果てが無い。姉も自分の道を見つけて、独立しだした。私も長年の付き合いの現本妻と結婚をする事になった。それを期に、喫茶店を閉め、一見相手の土産店にした。アルバイト掛け持ちなので、自由に店を閉めてもいいようにだ。この地はスキー場が多い。シーズンは冬。その他はアルバイトをすればいいや、と・・・(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します。ブログ読者は、facebookの友達承認をしますよ。コメント付きで申請して)
2011/12/27
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ある意味、社会を甘くみていた。借金しても、幾つか掛け持ちで働けば返せる。仕事はいくらもあるのだ。要求以上に仕事が出来れば、次から優遇される。人脈が出来れば、仕事は選べる立場になる。時代が好景気だとは思っていなかった。好景気が普通なのだと思っていた。仕事が少なくなるなんて、思ってもみなかった。いつまでも続く景気なら、早く返済にまわさなくてもいい。適当に息抜きしながら、生活できる。それが借金との腐れ縁を結ぶ指輪だとは気づかなかった。たら、れば、は悔やみしか生まない。もっと懸命に働けたのになぁ・・・それは、喫茶店を閉めて土産店に変えてから一層だった。なにしろ、世の中はバブル期というのにかかっていた。夜のホテルのショー会場には、コンパニオンが山のようにいた。何も出来ないネ~チャンでも、いい日当を稼げた時代だったのだ。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します。ブログ読者は、facebookの友達承認をしますよ。コメント付きで申請して)
2011/12/26
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20代時の歯科医院勤めは給料をいただいた。だが雇い主の医師は一切を任せてくれた。だから仕事とはいえ、私の思うように出来た。当然責任も負うから、夜中までしたが充実していた。やらされてする仕事でなく、主体的な仕事だった。仕事に熱中できたから、技術も上がるし面白さもあった。まぁ、仕事以外も熱中していたけど・・・学生時に幾つもアルバイトはした。何も知らない学生だから、命令通りに動くしかない。一所懸命はするが、熱中も面白さもなかった。ところが今回のアルバイトはもっと深刻だ。とにかく稼ぐ為にしているのだ。それも、空いている時間にするのだから要領よく。ある意味、純で、順で、準な私だったのに・・・アルバイトの仕事は、やり方で時間と収入が変わる事を知った。仕事内容を愛してないのだ。もちろん仕事が出来ないのは論外だ。それよりも、人間関係と自己主張で変わる事を覚えた。純な職人気質だったのに、仕事の裏を知ってしまった・・・上手く立ち回る事を覚えてしまった。それには他の人よりも、仕事が出来るようにしておく。その上で、自分の要求を伝えるのだ。ほんの少しのコツだ。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します。ブログ読者は、facebookの友達承認をしますよ。コメント付きで申請して)
2011/12/25
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雇われたなら、どんな仕事もする。嫌な事込みで給料は成り立っていると知っている。だが自営は違う。嫌な事にも幅があり、ワガママだから自営なのだ。というわけで、3ヶ月もしないで酒は扱わない店になった。当然、赤字で、経費さえままならない。その上に、大きな返済があるのだ。当時、まだ日本は景気上昇の最中。その先には、バブルという絶頂まであるのだ。わが町は観光地。宿泊施設は好景気だった。人手が足りない。アルバイト、パートは常時必要だった。私は夜のホテルのアルバイトをすることにした。ここは嫌な事込みで仕事をする場だ。お金の為に働く場だ。大きなホテルのショー会場が仕事場となった。特殊な仕事の為、時間は短い。建前は6時から12時まで。実質は9時少し前に入って、10時半頃帰る。それで、一応建前通りに6時間分をいただく。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します。ブログ読者は、facebookの友達承認しますのでコメント付きで)
2011/12/23
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やがて家も出来上がった。姉の手作りケーキと本格的珈琲の店。当時の山の中には珍しく洒落た店となった。私も姉も張り切っていた。そして・・・開店一ヶ月目から赤字。仕方が無いので、夜はお酒も出した。確かに珈琲よりお酒の方が金額は多くなった。だが、私が耐えられなくなった。自分では酔っ払うし、酔っ払いの相手は嫌ではない。ただし、商売抜きの仲間や知り合いならばだ。私は水商売の才能が無かった。商売の才能も無かった。店を持って、営業して気づいた。これは・・・アカン(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/22
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母は私とは違った。多くの人、全ての人と仲良く。某教徒のような考え方をしていた。人は仲良くするのが、人として正しい生き方だ。話せば解り合える。真実は一つだから・・・みたいな・・・持病の一つは、そういう無理から生まれている。長年母を治療していて、そう思った。母は正しさに自分を無理やり押し込める。ところが、人間はそういう風に出来ていない。何より、正しさが判断できない。そして、心も身体も多種多様で成り立っている。だから一つの正しさに押し込めると歪みが生じる。何かにこだわるのは仕方ない。個性ある人間だもの。だが、生真面目にこだわり続けると歪みは苦しみになる。苦しみを続けると、病に発展する。もっと、やわらかく生きれば、苦しみは減少する。母は、私と違って、真面目だった。その真面目さから抜け出られなかった。良悪や正誤をいってるのではない。そういう生き方を選んでいたのだ。親子といえども、人それぞれの生き方だ。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/21
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私も50過ぎてから、徐々に出来るようになった。それまでは、できるだけ多くの人と仲良くしようと思っていた。話せば解り合えるなどとは、ネボけても思わない。解り合えなくても、仲良くできるだろう。同じ地球上だ。それが50歳過ぎてからは、ズレがでてきた。もし、生命が永遠でなくても、とてつもなく長ければ。出会いの人と仲良く交流できるだろう。特に仲良くでなくても、付き合えるだろう。同じ人間同士、同じ生物同士、交流くらいしようぜ。だが、残念なことに我々の寿命は短い。出会い全てと付き合えるほどの生命の長さはない。50歳過ぎてから、この単なる事実と向かい合った。住む町全員とも知り合えない。県全員となんて無理。限られている人達としか、出会えないのだ。気の合わない人と付き合っているヒマはない。好きな人達だけでも、多すぎて全員と付き合えない。好きな人達と気の合う時間を過ごす。それが、今生の生きる意味なんだと独断している。今生を根性で、好きでない人まで解り合おうなんてしたくない。生きることは、ワガママでいいと知った。他のモノたちを侵さなければ、ワガママが自然な生き方だと・・・(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/20
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棟梁親子の家は、ボロ家だ。ふっくらした、女将さんが私にこぼした。棚一つ作るのも、私がするんだよ。腕の良い大工が二人もいても、家の修理はしない。私の父も大工だからわかる。家の内から外が見えるような家だった。昔の職人気質っていうのは、そういうものなのだ。今の大工さんは、ほとんど小奇麗な家に住んでいるが・・・そういう全てを、私は好んだ。同じ生き方は当然出来ない。だが、あの素直な雰囲気には近づきたい。自分に恥じない仕事ぶり。他人の目や評価じゃないのだ。自分が基準だからこそ、プロは厳しい。自分に甘いのは、甘チャアというのだ。計算しない付き合い。気に入れば仲間。嫌なら縁を切る。プライベートは、単純に。気に入った仲間だけで充分なのだ。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/19
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店が出来上がるまでの週末。時々、棟梁の家に行った。職人仲間が集まり、毎晩のように酒盛りだ。親父っさんは、酒を飲む。たっぷり飲む。そこに施主とはいえ、倅のような私を仲間にしてくれた。親父っさんは、本当に大棟梁なのだ。他の職人達が親父っさんを尊敬しているのはよくわかる。職人は、その腕と人望だ。飛びぬけた腕だからこそ、他の職人の仕事も見抜く。他の棟梁達からも、一段上に扱われていた。当然、左官、屋根屋、内装、その他の職人達も。仕事は厳しいが、仕事を離れた親父っさんは人懐こい。見栄やてらいなど少しも無い。腹の中を、すっかり出す昔気質の一職人だ。平気でだらしなく酔っ払う。腕もすごいが、素朴な生き方が人を惹きつける。皆が、親父っさんを好きで集まるのだ。倅の5歳下の棟梁は、酒が飲めない。もちろんタバコもしない。口数も少ない。それでも、同じ輪の中で、いつもニコニコ話を聞く。バカっ話に加わり、冗談の受け答えも面白い。今までで最高の酒盛りの場だった。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/18
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長い間東京で暮らしていた姉。当時は和文タイピストで独立していた。その後ワープロが登場し、パソコンが普及する。今は絶滅してしまった業種の一つだ。いろいろの事情があったのだろう。水上に帰ると言う。しかし、適度な就職口は無い。そこで、私と一緒に喫茶店をすることになった。姉は半年前から、洋菓子部門の学校にも通っていた。もともと料理が得意な姉だ。軽喫茶部門も通い、二つの基礎を学んでいた。私は、平日を姉のアパートから学校に通った。週末は帰ってきて、棟梁などと打ち合わせ。そして、棟上(建て前)の日が来た。当日は、棟梁組(関係者)だけではなかった。私の仲間連中が仕事を休んで来てくれた。職人達だが、今回の私の店には関わり無いのに。ワイワイと、親父っさんの指示で動いてくれた。ありがたかったなぁ・・・夕方には、屋根の上から餅撒きをした。25歳の時は初めてづくしで余裕がなかった。30歳時は、仲間が多く手伝った事もあり楽しめた。そして、屋根だけの家の中での酒盛り。親父っさんも、本当に嬉しげに酔っていた。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/17
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初棟梁は張り切っていた。設計図、それに基づく模型を作ってきた。各間取りも出来、材料も吟味した。もちろん、親父さんが多くを手伝ってくれた。木材の確保などは、半年前から手配してくれた。当然、自分の目で確かめて吟味してくれた。弟子とはいえ、倅の初棟梁仕事だ。私は3月で退職。融資審査も無事通った。家でも店でも作るのは簡単だ。金のメドさえあれば、誰でも作れる。問題は、返済できるメドなのだ。アホな私は、そんな事は何とかなると思っていた。人の倍働けば何とかなる。雪が消え、早速建築への基礎工事からだ。基礎枠だけみると、何とも小さなモノだ。こんな小さくて、人が入れるのだろうか?そんな心配などしているヒマはなかった。私は、店が出来上がるまでに東京の専門学校に行く事にした。コーヒー好きで味がわかっても、プロとしての基礎は学ぶ。赤坂バーテンダースクールという伝統ある専門学校だ。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/16
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母は私が一般的な社会人には不向きだと見抜いていたようだ。やりたい事は何でもすればいい。応援も出来ないけど、邪魔もしない。呆れもしないが、期待もしない。とりあえず、人には恵まれ、友達は多い。戦前、戦中、戦後を思えば上等だ。多分、そんな感じだったのだろう。道路沿いではあるが、山の中の土地を購入。熊や狸はいるが、人は少ない。そんなところに喫茶店・・・趣味ならいいが、大借金してする商売じゃない。今の私なら絶対やらない。40歳過ぎて、多少は自分を観られるようになった。私は商人の能力がほとんどなかった。職人か研究者なら、そこそこになれる。店を経営するタイプではなかったのだ。だが、当時の私はわからなかった。わからない事は、とりあえず、やる!というのが私の歩き方だ。後悔は、しないよりする方がいいだろう。苦労はしたくないけど、何もしないよりいいだろう。先の事は誰にもわからない。何が起きるかわからないなら、いい事も起きるだろう。それは判断、観る目がある程度あっての事なのに。社会、世間に対して、甘い、無知な私だ。やりたい事をするのは、苦労も後悔も込みの生き方だと後に知る。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/15
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私が怪我をしても、母は特に何も言わなかった。兄弟達も、特に何も言わなかった。我が家は、お互いが過干渉にならない距離でいるのが当たり前だった。私も子供達や本妻や愛人達には同じ事を言う。大きな病気、大きな怪我をしなければ、何をしてもいい。(大きな病気、大きな怪我は自分で防げるから)もちろん、他の人の生きる道を侵さなければ。膝の怪我により、行動の仕方が変わった。変わるなら、ついでだぁ、と仕事も変えようと思った。この頃、技工の仕事が何でも無難にこなせるようになった。難しい注文がある時はよかったが、何でも出来ると飽きる。どうせ一度の人生だもの。と、多感な時期をアンポ闘争に巻き込まれた私達は思ってしまう。社会も、世界も、いつ、ひっくり返ってもおかしくない。いつでも、そんな意識があるのだ。茶道は辞めたが、コーヒー職人のマスターからコーヒーの味を教えられた。私の周りには、相変わらず20人以上の仲間がタムロしている。そうだ、次は喫茶店をしてみよう。アイツ等の居場所も兼ねて・・・29歳にもなったのに、世間知らずの私は、実に安易に計画していた。ここから、社会に生きる能力の低さを実感する人生が始まった・・・(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/13
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今の私の体質(氣功師)は一般的でない。私のことを知っている人は、知っている。そうでない人に状況を書いても信じないだろう。具体的には書かないが、かなり特殊なようだ。仕方ないじゃないか、そういう風にさせられたのだもの。もちろんプロとして常にセルフケア(自己氣功)している。だが、私は子供時から多少の違いはあった。血がでる怪我でも、30秒もしないで傷口がつく。誰でもそうだと、ずっと思っていた。バンソコウなど、使うから治らないのに、と思っていた。反面、2時間くらいゆっくりしていたのに、実際は5分だったり。回復力は異常に早いようだ。まぁ、個性の一つということで・・・膝は専門医がモルモットのように調べていた。結論として、筋肉が靭帯の代わりをしているのだろう・・・とはいえ、やはり無理ができなくなった。季節の変わり目、湿度が高いと重くなった。重い物を持って階段を下ると、膝が無意識に震える。スキーは力任せの滑りから、体重移動でやわらかく滑る。山登りは、ペースが変わって迷惑かかるから脱退した。バスケットのような横の踏ん張りができなくなった。茶道も正座が持たなくなって、辞めた。小学校運動会の父兄リレーなどのコーナーが怖く感じた。これらは、故御師匠様に出会って身体が変わる40歳すぎまで続いた。今は通常何でもないが、一応膝に無理はしないようにしている。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/12
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この専門医は気さくな医師だった。診察に巡ってきて、いろいろ話をしてくれる。私の無くなった靭帯についても教えてくれた。無いままで、プロスポーツをしている人もいる。すぐに歩けなくなって、杖か手術を選ぶ人もいる。個人差が大きいので、経過を診なくては何ともいえない。老年になると、杖の可能性が高い、等々。私の足の様子を見て、杖で動いていいと許可が下りた。もう動いていたけど・・・その後すぐに、異例の速さだが、リハビリ室に行くようにと。リハビリ師の人は、負荷をかけた一通りをさせて首を捻った。本当に手術をしたのか?もう来なくていい。リハビリは一日で卒業となった。私は普通に歩いていた。専門医は、異例だが、と断って退院させてくれた。その代わり不定期での検査を約束した。私はかなり特殊だったらしい。私が退院する時、同じ日に手術した一人はまだベッドから出られなかった。その後、何年にも渡って呼び出されては検査した。交通費、日当が出る特別検査だった。やはり、その専門医が扱ったケースで、私は特別だったらしい。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/11
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大学病院では(検査で)日数がかかる。その先生がもう一箇所受け持っている病院なら早い。私は仕事が目一杯なので、できるだけ早くしたい。いろいろ段取りして、入院したその夜に手術。同日に三人が手術した。私は垂れ下がった半月板を切り取った。切れた前十字靭帯は、もう吸収されて無かった。すぐ病院に行けば、靭帯は繋げたのに・・・怪我は、すぐ病院にいくのが適している。もともと西洋医学は、戦場医学的な外科が得意なのだ。初めてストレッチャーに乗せられ、初めて脊髄麻酔。その前の筋肉注射が、涙が出るほど痛かった・・・あっ、その前に看護婦さんに毛を剃られた。膝の手術なのに、パンツを下ろされ、ソノ周りも・・・何で~と初めての経験・・・もう一つ、初めて浣腸された。看護婦さんが来て、四つんばいにされ、パンツ下ろされた。パンツ下ろすの好きだなぁ・・・いきなりムギュ!!!!トイレまでもたないかと思った・・・目覚めると、長兄が一応来てくれた。特に痛むこともなかったが、動いては駄目で尿瓶が・・・ものは試し、と挑戦しがが・・・出ないものだ。次の日、杖をつき片足でトイレに行って、怒られた。動いたらダメでしょ!でも、めげずにトイレでした。やがて、向こうが折れた・・・(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/10
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近くの病院の整形外科では不明だった。次も次も不明だった。紹介状が出て、大学病院に。膝関節専門の医師がいるという。すると、レントゲンの撮り方から検査もかなり違った。やはり専門は違うんだなぁ・・・おそらく半月板(軟骨)が擦れて垂れ下がっている。内視鏡で見れば確定する。そうなら、そのまま垂れた分だけ摘出手術になる。不明だったのは、私の膝の骨が左右正常だったから。また、ストレステストでも差が出なかったから。専門医は最初に足に触って言った。いい筋肉だなぁ。私は山岳会でも仲間内でも、筋肉は無い方だった。山の人達は、ふくらはぎや太ももが発達していた。だが私は、手も足も細い方だったのだ。かなりハードに使っても、筋肉がつかない。いい筋肉と言われたのは初めてだった。固定概念の筋肉しか知らなかったのだ。筋肉は質なんだよ。下手に硬い肉がついていると、意外にもろいんだ。柔らかく、弾力が強いのがいいんだ。見た目じゃないんだ。そう教えてくれた。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/09
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右足を骨折したのだと思った。膝から下に感覚が無かった。仕方ないので、端まで這って行った。スキー場の救護を呼ぶのは恥ずかしかった。地元民が救護の世話などになりたくない。しばらく、そのまま倒れていたら、何とか動けそう。根性で下まで降りた(こういう時には根性もある)。そのまま、車に乗って何とか家まで帰った。夕方から膝が腫れ出した。痛かった。無理やり冷やして過ごした。出来るだけ病院には行きたくなかった。包帯で巻いて、水で冷やして仕事に行った。それが、結果的に悪かった。一ヶ月もすると、腫れも引いて動ける。当時は仲間連中とのいろいろなスポーツもあった。野球チーム、バレーチームも作ったのだ。身体を動かすのは、好きだった。無茶をするのが趣味の性格だった。一年経たないうちに、膝の関節が外れるようになった。それを自分で回して入れて、また遊んでいた。やがて、頻繁に外れるようになった。こりゃ、病院にいくより仕方ない無いなぁ・・・(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/08
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よく働き、よく遊んだ。相変わらず三ヶ月先まで予約が入っている。新潟県からも患者さんが来るのだ。評判は(補綴物や義歯を含めて)良かったのだ。後輩の技工士と二人で、夜9時に帰るのは稀だった。12時過ぎることなど、珍しくなかった。残業120~150時間だった。温泉街の中にある後輩の家に泊まる事も度々。近くのホテルに風呂だけ入り、スナックで一杯。まだまだ元気な温泉街だった。キャッチバーのお姐さん達とも顔馴染みになった。お~い、今帰りかい、ご苦労さんだねぇ、と声がかかる。休日も一緒に遊んだ。ボーリングは何時間もやった。冬は、スキーに凝った。プロスキーヤーが幾人もいる地元だ。スキー場が7つもあるのだ。そして、調子に乗ってコブを派手に飛ばされた。それが原因で膝を痛めた。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/07
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国や県や町の無責任な出来事はまだある。我が家だけでも、まだまだあるのだ。だが、いちいち書かない。が、税金を貰う人達を色眼鏡で見るのは止めない。公務員の中には、真摯な人達がいるのは知っている。どんな業界でも十把一絡げで判断するつもりはない。それでも、政治家と役所仕事をする人達には意識的に口を出す。真摯な公務員の仕事を邪魔しているのは、同じ公務員だ。マトモに仕事をしているのなら、同意するはず。マトモな国造りの邪魔をするのも、公僕を忘れた政治家だ。公僕を自覚している政治家は、絶滅種に近い。税金を貰う政治行政関係者が信用できる。そんな国に成るには、遥か先だ。貰っている人達だけが、自画自賛する。国民の圧倒的多数は、実際に理不尽を味わっているのだ。何の考えも無しにアホな政治家を選ぶのは改めなくてはねぇ・・・一般国民も、もう少し人を見る目を養おうぜ。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/06
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今は年金関係のズサンな出来事は山脈のように出ている。それでも、まだまだ部分だと思っている。証明もしようのない国民がものすごい数でいるのだ。父親もそうだった。よほど大きな会社でないかぎり、マトモな管理などしなかった。今も甘いが、当時は酷かった。役所仕事・税金泥棒などという言葉は甘い。もっと酷いのだ。税金を貰って使う政治行政の人達はプロ意識が無い。役場など、各部署を転々として過ごしているのだ。だから誰でも責任があるだろう。でも、誰も責任は取らない。母は自分の寿命が少ないと思っていた。だから、65歳まで待たずに年金を貰う手続きをした。案の定、その額は規定の半分にも満たなかった。未納分があるからという理由だ。事前に問い合わせまでしたのに・・・調べる事もメンドウだから嘘をついた。その担当した個人の話じゃない。日本中の公務員がそういう風潮だったのだ。全員とは言わないが、知らなかったとは言わせない。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/05
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子供の時から身体が弱かった母だ。大人までもたない、と言われていた。大人になると、子供は作れまい、と言われた。子供が出来ると、40歳までは生きられまい。何度も心臓の発作も起こした。年に何度も三叉神経の発作がある。食べれない、眠れない、話せない状態になる。長生きなどできない、充分な自覚もある。だからだったのだろう。国民年金の話だ。母は頭のしっかりした人だった。記憶力は私など比べものにならない。60歳になる時、役場に問い合わせした。何年か分の未納があると思いますが・・・後に問題になるが、実に年金関係の公務員は出鱈目だった。社会年金庁も各地の機関も直接窓口の役場の係りも。無責任と出鱈目と無能で成り立っていた。大丈夫ですよ。そう言われれば引き下がるより仕方ない。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/04
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12月だった。私は誕生日が過ぎて26歳になっていた。妹が逝った。子に対する愛情の深い母だ。6人の子を生んで、唯一人先に逝かれた。その悲しみ、悔やみは人一倍強かったろう。ネガティブな感情をあまり出さない母だ。この事に関しては、最後まで得心に至らなかったろう。私も忙しさにかまけて、充分な対応ができなかった。悔やんだ。ああしたら、こうしたら、何故しなかったのか・・・ずっと心に引っかかったままだった。妹への悔やみなどが消えるのに20年かかった。今の世界(氣功)に入ってからだ。死に対して、何度も触れるようになってからだ。人の生死、を相手にするようになってからだ。勘のようなモノが働きだしてからだ。妹は、綺麗になっているのだと気づいた。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/03
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この時期、兄や姉達は金銭的余裕が無かった。(まぁ、未だに無いが、特にという意味だ)いろいろ大変な時期だったのだ。私だけが、使う当てもなく仕事をしていた。とはいえ、手持ちの金額は大したものじゃない。小さな家で、今と比べると安かったがン百万の借金だ。一軒家のアパートは引き上げざるを得なかった。毎日群れていた仲間には、少し気の毒だったが・・・よくしたもので、家の近くに気さくな飲み屋が出来た。今度は、そこに集まりだした。当然お金がかかるから、それなりの集まりだ。それでも何かとミニイベントをした。夜中のミニマラソン大会。ボーリング大会。長野へのツーリングやワカサギ釣り。もちろん、バカ騒ぎ付きの飲み会も・・・せっかく実家に帰ってきたのに、私は相変わらず家にいない。夜中に帰って寝るだけの生活だった。休日も家にいることはマレだった。何しろ、忙しかった。そして病気療養の三才年下の妹が、新しい部屋に入った。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/02
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資金のメドがつくと、話はトントン拍子に進んだ。両親(とはいえ、母用だが)の隠居家のようなものだ。20坪にアレコレ詰め込んだ設計図を書いた。当然初めてだから、下手な意気込みもあったようだ。今ならもっと生活しやすいように設計できるのだが・・・今後の借金返済を考えると、アパートを引き払う。だから私用の部屋も、一つ用意した。この年、父親は何処かに出稼ぎと称し帰ってこなかった。工務店は大工の父親の知り合いに頼んだ。施主(私)の設計通りに作るといった。屋根は雪が自動的に落ちるように急勾配にした。雪深い地区なのに、民家で急勾配の屋根は誰もしなかった。今は民家の急勾配が当たり前になっているが・・・(結構、私の考えは進んでいたのだ)外壁は丸太を積み上げたような、ログハウス風。これも今でこそ珍しくないが、当時の民家としては無かった。だが、何しろ小さな家だ。玄関も台所も風呂場周りも狭かったなぁ・・・それでも、一人前に施主として職人さんと話をした。建前での餅撒きも、挨拶もした。それまでのグループの付き合いとは違う。25歳の若造だったが、社会的に一人前の立場だ。そのつもりで接すると、遥か年上の相手も一人前として接してくれる。一人前は、年齢じゃないのだ、と気づいた。付き合いは気持ちであって、年齢じゃない。その後の人生に影響する、いい経験になった。(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/12/01
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