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北京に咲く初夏の花モクゲンジ(木欒子)ダンホセ、北京を観光しました。北京は、すでに37度を越す猛暑。ヨーロッパも40度に達する猛暑続きで暑さによる死者まで出たと今朝のニュースが報じていたが北京も同じように異常気象そんな北京の街に咲いていた花モクゲンジ(木欒子)ムクロジ科の落葉高木オオモククゲンジ高さは10m~20mにもなる夏、円錐花序に小さな黄色い花を多数咲かせる(北京・天壇公園に咲く黄金色のモクゲンジの花)北京のモクゲンジはもう淡いグリーンの実をいっぱいに実らせていた。(淡いグリーンの色が美しく、花かと見間違えるモクゲンジの果実)モクゲンジの果実の果皮はうすく3片に裂けて、径7ミリほどの堅い黒色の球形の種子を出す。その黒い堅い種子は数珠にされた。(北京・天壇公園のモクゲンジ:すでに果実が実り始め、花と同居していた)オオモクゲンジは学名:Koelreuteria paniculata Laxm. 朝鮮半島、中国北部、東北部に分布。その名はムクロジ(ムクロジ科の別の植物)の中国名:木患子を誤ってモクゲンジにあてたため、木患子の日本語読みであるモクゲンジになったという。ムクロジ(無患子)(季節の花300より)モクゲンジの中国名:木欒子を誤ってムクロジにあて木欒子の日本語読みモクロシからムクロジとなったこの木は中部地方以西の本州から沖縄、及び中国、インド、インドシナ半島に分布。寺院の庭木として植えられていることが多い。落葉高木で高さ10mにも達する。花は、円錐花序となり、夏、緑白色を帯びた小花を多数咲かせる。ムクロジは中国では紀元前から知られ、邪気を防ぎ、患いなくすと伝えられた(無患子)。漢方では、果皮を延命皮と呼ぶ。サポニンを含み泡立つのでそれを洗剤に使用した。日本でも明治時代までは石鹸のように使われていた。泡は消えにくいので液状の消火器に使われている。径2cmほどの果実は熟すと黄褐色となり、中に堅い黒い種子が1個ある。中国では唐代から数珠に使われている。日本では正月につく羽根突きの羽の球とされた。(季節の花300より)ムクロジの実、中に堅い球形の種子がある。
2007.06.27
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教育3法の成立は、日本の教育をどこに導くか(1) 自民・公明の与党は先頃(6/20日)教育3法を強行採決して成立させた。 なぜ、彼らは、国民の幅広い納得や議論を避けるように、急ぎこそこそとこの法案を成立させたか。その隠れた意図は何か。安倍総理は、教育3法を強行成立させたその日に、「これで、教育の現場を一新し、新しく教育再生していくことが出来る一歩を踏み出した。」と談話を発表していた。 教育3法とは、学校教育法改定法・教員免許法改定法・地方教育行政法改定法の3つの法律であり、共に先に成立した教育基本法改定法の精神を具体化して、教育の現場で実践していく為のものである。 3法の中の一つ、学校教育法は、では、どのように変化したか。この法律の中心となる思想は、先に成立した「教育基本法」が掲げた「徳目の育成」を学校現場で実際どう行わせるか具体化したものである。この法律は、「我が国と郷土を愛する態度」「規範意識」などの徳目を義務教育の目標として、盛り込んでいる。この徳目を国家は、学校の現場で、どのように実践しようとしているか。そのサンプルとなるような事実が先頃発覚した。 文部科学省の研究委託事業に採択され、日本青年会議所が製作した「誇り」と題するアニメーションDVD(約30分)を全国の学校に「道徳」の副教材として持ち込もうとするものである。 この「誇り」DVDは、戦死した青年が現代に現れ、女子高生を靖国神社に誘う内容で、かっての日本の戦争を「大東亜戦争」と呼び、「愛する自分の国を守り、自衛のためだった」と教えている。このビデオは、歴史教育協議会副会長の石井建夫氏によれば、(1) かっての日本が行った戦争を「アジアの人々を白人から解放するための戦争だった」といいたい為に、歴史の事実を度外視して、自分たちに都合のいい出来事だけを、のりとはさみで切り貼りする。(2) 戦争の責任を内戦で混乱している中国や、南下政策で日本に攻めて来るロシアに負わせ、日本の立場を正当化する。(3) 戦争によって国際的地が向上したという論理を、日本の軍部の考えばかりを引用して押し付ける。(4) 「正義のための戦争」と述べたいために、戦争で苦難する民衆の姿や戦場の実相を描かず、自分たちの理屈で日本の戦略ばかり語る。 このトリックを利用して、DVDは過去から来た青年・雄太を通して、過去の戦争は正しい戦争だったとする「靖国史観」を、子供たちに叩き込もうとする内容である。 さらに、日本は美しい国だった。自然の恩恵に浴し、神様に感謝し、四季折々の季節を楽しむ豊かな心があった。人を思いやり、礼儀や作法を重んじる国。 これがまさに「教育基本法」改定法がめざしたい「愛国心」「伝統」の中身である。 青年会議所は、この『誇り』DVDを用いた、近代歴史教育プログラムをはじめとする2007年度協働運動が、文部科学省の新教育システム開発プログラム研究事業に採択されたと、文部科学省のお墨付きを吹聴している。しかも、日本青年会議所は、授業するメンバーに、事前準備として、「近代史検証報告」と「日本の誇り」と題する約100ページの資料を「熟読」し、DVDは2回鑑賞するように指示するという念の入れようである。 教育基本法改正、その具体化の学校3法改定法の成立。その背後では、学校をある特定の政治目的で洗脳していこうという極めて政治的な運動が着々と行われている。政権中枢と「靖国史観」は、強く結びつき、表舞台にでようと虎視眈々としている。国民は、この事実に厳しい目を向けなくてはいけないのではないか。 未来の社会に生きる子どもたちが、身につけて成長しなければならないのは、このような史観に裏打ちされた規範意識ではない。この集団が主張する「倫理観」なるもので、育ち社会を作ってきたのは、私たちの親であり、私たちの祖父母である。その延長上に今があり、ことごとく長いものに巻かれ、真の人間らしい変革を妨げて現代に及んでいる。この親世代の大部分は、この「靖国派」たちと類似の価値観のなかで、戦後生きてきたし、今も生きている。真の意味での民主主義的な感性、人権思想に裏打ちされた人格など、まだ日本には育っていない。脆弱なものであり、益々それとは反対の方へと流れている。 過去の歴史の過ちを賛美し、それを押し付けるものたちの「規範意識」の低さ、堕落は目に余るものがあるのでは。自分の意見を押し通すためには、どんな卑劣な行為もする。弱いものにはいばり、権威あるものにはへいこらとひざまずく。今の国会をみても、自分の意見を数の横暴で、どんどん強行している。選挙制度なども自分の都合のよいように勝手に変更し、それでもだめなら、あらゆる手法で権力維持のための策謀をする。美しい国を自らの手で破壊続けているのは、この戦争愛好者たちである。(口先では平和をとなえているが)日本の世界の山河を破壊し、荒廃に追いやるのは、戦争そのものに他ならない。その戦争を賛美し、美化して、その戦争をやった人たちを讃えよと命令する。賛美しないもの、自分たちの史観に同調しないものを自虐的などと罵る。こんな人々が、未来の世界を担う子供たちを育てることができるか。戦争が好きで、どんどん軍事費を膨張させて、その陰で、ぼろ儲けしている商人たちとほくそ笑んでいるのは誰だ。誰だった。 今国会で強行成立した教育3法の一つ「学校教育法」には、さらに、その本質がはっきり読み取れることがある。教育基本法の改正時には、世論を意識して、削ることとを差し控えざるを得なかった「徳目」は1)真理を求める。 2)個人の価値を尊重 3) 創造性を養う 4)正義 5) 男女の平等6) 自他の敬愛と協力 であったが、これらの「徳目」は改正「学校教育法」では削られた。男女の平等さえ消え去った。なんと恐ろしい逆行。残されたものは1) 道徳心(規範意識) 2)公共の精神 3) 生命と自然の尊重 4)伝統と文化の尊重5) 国際社会の平和と発展の寄与 である。改定法に付け加えられたもの 6) 家族と家庭の役割更に、注目すべきは、 人間相互の関係の正しい理解と協働 国際協調の精神は現行学校教育法から削除された。これらは何を意味するか?要するに国民は、権力の言うまま、お利口にふるまう人間がよい人間。ひとりひとりが、考え、自主的に行動できるようでは困る。庶民が自主的に組織を運営し、社会で生きる能力を身につける必要はない。そして、それは、なによりも教師に要求されている人間像である。これらの規範意識からはみ出す教師を管理していこうという改正法なのである。安倍首相が言うように、これで、教育を一新し、教育の新時代は切り拓けるか。親たちは、国家の教育のその先の在り方に目を凝らす時が今来ている。
2007.06.25
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生と死(チサの住むマンションの隣家の古木の榎木(エノキ)。市の保存樹に指定されており、樹齢数百年。市民の暮らしを見続けてきた生き証人。今年も、若葉を茂らせて、夏には涼しい木陰を人々に与える)葉っぱのフレディ ーいのちの旅ーレオ・バスカーリア作 ; みらい なな訳葉っぱのフレディは、春に大きな木の梢に近い太い枝に生まれました。そして夏にはもう 厚みのある りっぱな体に成長しました。と始まるレオ・バスカーリアの絵本「葉っぱのフレディ」には、葉っぱが芽ばえ、成長し、葉っぱのいのちを生ききって秋には鮮やかに色づいて晩秋のある日に静かにそのいのちを終えて大地に還って行くお話である。葉っぱの誕生から死までを劇的に物語ることを通して生きるとは何か、死とは何か、人は何処から生まれ、何処にいこうとするのかを静かに深く考えさせてくれる。大自然の美しい四季の移ろいのなかで誕生し、生き、死んで行く。そして、又、めぐり来る春に蘇るいのちをそのいのちの輪廻を読む者の心に静かに悟らせてくれる。チサは若葉の瑞々しい緑が陽光に乱舞して輝き、風にざわめく初夏の山里で誕生した。そしてその同じころ96歳のいのちを静かに穏やかに終えた女がいる。チサのジイジの幼い頃の育ての親タケおばさん。大きな戦争を人生の一番花であるはずの青年期から壮年期に体験しまさに、激動する歴史に翻弄されながらもしぶとく大地に根を張ってもくもくと生きてきた女。大樹のような一生。一族の栄光と奈落をじっと見つめてある時は屈辱に耐えある時は貧しさに涙しながらもただ、ただ、黙々と家族を一族を支えつづけて生きてきた女、タケおばさん。誰からも、感謝されることもなく誰からも、褒められることもなくそして、感謝されることを期待することもなく、無心に働き続けて96歳のいのちを全うした。何という長い歳月、何といういのちの大きさ。今に生きる私たちにいのちの重さと意味を静かに語りかけている。チサのジイジはタケおばさんのこの無償の愛と根気に支えられて成長した。そして、今のジイジがある。そしてチサがいる。チサよ、あなたはまだ生まれて20日に満たないいのち。チサよ、タケおばさんの96年に及ぶ、女の苦難の道があり、その延長線上にチサのいのちがある。この事実を忘れてはいけない。タケおばさんのいのちは、チサにバトンタッチされた。(生後2週間目の小さなチサ。ぐんぐん体重を増やして2700グラムに。最近は母乳を1回50グラムも飲めるようになった。ママのお腹の中でもこうやって伸びをしていたのかな。可愛らしい赤ちゃん)(本の紹介)核家族が一般的な現代では、子供たちは、日常のなかで本物の死に中々出会っていないので、死という概念を、自分の生きることと重ねて考えることが出来ません。そんな子供たちに、この絵本は、生と死を自己の人生と結びつけて考える機会を与えてくれるでしょう。生きることの意味をはっと気付かせてくれるでしょう。大人にも生と死についての深い思索の機会を与えてくれます。葉っぱのフレディ -いのちの旅ーレオ・バスカーリア作 みらい なな 訳(童話屋)英語版The Fall of Freddie the Leaf(A Story of Life for All Ages)By Leo Buscaglia,PH.D.Published by SLACK中学3年生の英語の教科書;New Horizonには、葉っぱのフレディが要約ですが扱われています。ぜひ原文も読んでみたいですね。「フレディ」から学んだことー音楽劇と哲学思想ー日野原重明著 (童話屋)この本は、100歳近いお歳でなお現役のお医者さまでおられる日野原先生のお書きになった本です。前半は日野原先生がお書きになった音楽劇「葉っぱのフレディ」の戯曲。後半は先生の「生と死」についての哲学的思索。東洋的な仏教思想「輪廻」について。「フレディ」の作者バスカーリアがいかに影響をうけているかなどを述べておられます。哲学的思索などと難しいように見えますが、生きること、死ぬことを医師の立場から実践的に述べられており、とても明快で深いものがあります。
2007.06.15
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人にやさしい生態系とは。私の散歩小径に私の住む町の中央を貫く川があり、その河川敷は4月の終わりごろより一面、真黄色の見渡す限りのお花畑オオキンケイギクで覆われる (花の盛りは終ったが、河川敷3キロばかり延々と黄色のオオキンケイギクが咲き、 その合間を縫うように白い綿毛のチガヤが風にゆれている) 今年の晩春から初夏にかけては、オオキンケイギクの大群が工場団地の土手や河川敷や道端に目をみはるばかりの群れとなって咲いていた。(後ろの方にある白い綿毛の群れがチガヤの群落:オオキンケイギクが真っ盛りの頃は、河川敷は黄色に染まり、チガヤはその陰に隠れ見えなかった)鮮やかな黄色で覆い尽くされた河川敷夏を思わせるぎらつく陽光に黄色を一層明るくオレンジ色に輝かせて初夏の水辺で揺れている。はっとするほど明るく美しいお花畑オオキンケイギクはキク科の宿根草で北アメリカ原産の帰化植物。明治の中頃に観賞用として輸入され、園芸植物として庭で栽培されてきた。しかし戦後は野生化し、海岸や河川敷に大群落となって出現した。この10年間では、高速道路の土手や新しく造成された鉄道路線沿いに突然、大群落となってお花畑をつくた。2006年2月には外来生物法に基づき特定外来生物として栽培・譲渡・販売・輸出入などが原則として禁止となった。私の散歩道の河川敷のオオキンケイギクは万葉の時代から千数百年にわたり、日本の風土のなかに順応して人々の暮らしの中で、いのち紡いできたチガヤ(茅)とその生育場所をせめぎ合っている。年毎に日本古来のチガヤがその場所を譲ろうとしている。オオキンケイギクの強い繁殖力は川原にその根を張り巡らして、チガヤの根と争っている。チガヤ(初夏の風に揺れる、静岡・つま恋のチガヤ By Dabjose)チガヤはイネ科の多年草日当たりのよい空き地に一面にはえ、白い穂を出す。ツバナといって若い穂の甘い汁は、かつては食べられたこともある。私たちも幼い頃、サトウキビのように吸って遊んだ。甘味の乏しかった戦後にお菓子の代用であったのかも。万葉集にはチガヤは「浅茅」(アサジ)・「茅花」(チバナ・ツバナ)の名で登場する。紀女郎(きのいらつめ)が、大伴家持におくった歌、戯奴(わけ)がため わが手もすまに 春の野に抜ける茅花そ 食(め)して肥えませ (巻8・1460)家持の返歌、わが君に 戯奴は恋ふらし 賜りたる茅花を喫(は)めど いや痩せに痩す(巻8・1462)穂をむしりとり食べた風習は万葉時代からあったことが歌からも窺える。茎葉は乾燥させて屋根を葺き、成熟した穂は火口(ほくち)に使い、花穂は乾燥させて強壮剤に、根茎は茅根(ぼうこん)と呼ばれ利尿剤に、チガヤは人々の暮らしの中で長い歴史をともにしてきた草人々の暮らしが変わりチガヤは無用となった。さらに、ワイルドフラワーなどという花々が緑化の名のもと、花をにぎやかに咲かせて土手や河川敷や造成地を花畑にするのが流行だ。何千年もの長い時間をその土地で、その四季を生き抜いて、その土地の風雪に耐えうる生態に進化させてきた草花がこのように安易に捨てられていいのだろうか。人もグローバル化などと言い、人らしい進化を止めている。グローバル化とは、それぞれの特殊性や個性を無視して、金儲けのために、すべてを非人間的な低い方へ平均化することに過ぎない。賃金の切り下げ、非正規雇用の増大など労働条件を劣化の方へ発展途上国と呼んでいる国に合わせることが今、社会が行っているグローバル化。草花たちにも同じことがおきているのではないか。山々を丸ごと潰して、雑木林を根こそぎなぎ倒し、丸裸にされた大地に造成された細切れの宅地と安普請の住宅を一生かけても支払いきれない借金で購入する家。その虚飾の家の猫の額ほどの狭い庭に雑多に花々を植えて飾り立てる隣家と競うように花を咲かせている。見たこともない外国の花々ばかり、遺伝子の操作で、作り出された確かに色鮮やかであったり可憐であったり、人の目に刺激的な花々でもなんだか変。花が真っ盛りのときだけ愛でられる園芸。花期が終ればことごとく引っこ抜かれて園芸店から別の花がやって来る。蝶やハチが花粉を運び風が、小鳥が種子を運ぶこの花たちはどんな雑草になって繁茂するのだろう。私の散歩道は年毎に見たこともない草が次々に花を咲かせる。雑然として荒れた草たちその花の姿を色を次々に変えて咲く道端の草たち野の草花も人の心を写す鏡なのかもしれない。美しさを失っていく野の草、荒れて雑然と咲く。人が人らしく生きることの出来る生態系を守るとは何か深く考えさせる野の雑草たち。
2007.06.06
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豆ご飯今日はチサの退院の日すったもんだの末にやっと家族の待つ家にやって来た。家族の皆に一つのいのちが生まれ出ることの大変さをしみじみと実感させてくれたチサがついにやって来た。(生後3日目のチサ。まだお乳を吸う力弱く、体重が300グラムも減ったが元気よく泣く)お姉ちゃんとなった3歳のコトネも、チサの出現でさまざまな試練を体験している。パパやママとの距離のとり方を大幅に修正することを余儀なくさせられ戸惑っている、コトネ小さないのちの存在を受け入れることが出来ないで混乱している、コトネ妹の出現で人としてのあり方を試され鍛えられている、コトネ人は誰もがそうやって、涙しながら大人になっていく。チサの退院の日にばあばはグリーンピースの炊き込みご飯を作ってみた。このグリーンピースはバアバの近所で無農薬・有機栽培の野菜作りをめざして、頑張っている若者が栽培して収穫したもの。ちょうど、昨日、食べごろに熟したと連絡を受けた。今が旬、青々と熟したえんどう豆一人の青年の農への熱い思いと厳しい労働の結晶したえんどう豆 豆ご飯として、チサの誕生を祝おう。材料(4人分)米(愛知のかおり)・・・カップ3豆のゆで汁・・・カップ2昆布だし汁・・・カップ1と3分の2酒・・・大さじ1、 塩・・・小さじ1えんどう豆・・・カップ2 1) えんどう豆は塩(分量外)でまぶし、しばらく置いた後、4カップの水を沸騰させ、塩をまぶしたえんどう豆をいれ、5分ほど茹でる。 茹で汁2カップは取り置く。 残りの茹で汁の中に水を入れながら冷まし、冷めたら豆をざるにあげて置く。 2) 米はといで水を切っておく。 3) 2)の米と茹で汁、昆布だし汁、酒、塩を入れて炊き上げ、 蒸らして1)のえんどう豆を混ぜる。 このえんどう豆とお米を別々に炊く調理法は、青々とした上品な豆ご飯となります。えんどう豆が少ないときは、これがあっていますね。 しかし、今回のこのレシピは、えんどう豆を2カップと大目に使っています。採れ立てのうえ、精魂こめて栽培された豆ですので、とても甘味があり、ほくほくした豆ご飯となりました。お米も地元のものを使っています。 私の生家などは、初めから、お米とえんどう豆を一緒にいれて炊き込む調理法で、えんどう豆が、柔らかくつぶれるほどになって、白いご飯に混ざっていました。甘くほくほくと、えんどう豆の味や香りが口の中いっぱいに広がります。畑で、一時にどっと豆を収穫するので、ふんだんにえんどう豆を使って炊く田舎の大味なまぜご飯ですね。5月のさわやかな季節感あふれる野生的な豆ご飯です。
2007.06.01
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