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現在形の批評 #45(舞台)楽天ブログ★アクセスランキング・宇宙堂 『夢ノかたち 第二部 緑の指』・唐ゼミ★ 『ユニコン物語 溶ける角篇 (台東区篇より)』10月18日 精華小劇場 ソワレ10月21日 京都・立誠小学校 ソワレ 大家の手中からの挑戦唐十郎が「状況劇場」を創立したのは1963年、紅テントによる上演形態で新宿花園神社に衝撃的な異貌性を伴って登場したのは1967年(88年より「唐組」)。方やその唐十郎の影響を受け、女流演劇人の主流を担う渡辺えり子が「劇団2OO」を結成したのは1978年である(80年から98年まで「劇団3OO」)。もはや死語となった60年代後半以降台頭した「アングラ演劇」は、今日まで続く現代演劇の系譜に見られるように決定的な革新性と影響力を与えた。破天荒な自由さで時代の暗部を暴露し討つカウンターカルチャーとしての文化はだが、自由を仕掛け設える一人の代表者がミニ天皇よろしく中心に陣取り、劇団員をはじめ、座組の関係者を煽動する明らかなヒエラルキー制度という矛盾を内包したものであった。それは、現代まで続く劇団の集団原理にも引き継がれてきた。いや、そういった集団体制はアングラのみならず新劇にも当てはまるのであり、そのことが集団維持・統制を目的とする上で逃れられない宿命であるならば、その究極として国家を抱く我々を規定するものであると言えよう。今回取り上げる2つの劇団についても、その辺のことについて考えてみたい。座内ヒエラルキーとは、劇団創立時に同等の権限を所有し合っていた主宰者と俳優との関係性が、(潜在的優位性は当初からあるとしてもそれはあくまでも「劇団代表」という役割以上のものではない)戯曲や演出というとりわけ評価されやすい分野を担っているがために演劇賞を受賞する等の業界内における地位向上や収入による格差、あるいは劇団員の退団・入団に伴う年齢やキャリアによる、代表や古株団員達との格差がもたらす動脈硬化のことを指す。責任の大部分を担わざるをえない主宰者や演出家が劇団の在るべき方向性を明確に定め、そこへ向かって煽動していく必要がある以上、その絶対的なカリスマ性と、そこに人が集まるのは自然なことである。問題となるのは芸術理念を追求するはずの劇団が年数を立つ毎にあたかも法人企業のように独立採算制を考慮し始めたときに陥る芸術と興行との間のアンビバレンツな領分に突き当たった時である。それは、佐藤郁哉が『現代演劇のフィールドワーク』で記したように、日本のように歴史的な観点からみて俳優・劇団のプロフェッショナル化(演劇で飯を食う)が成立し難い制度がもたらすジレンマだといっていいだろう。そこで「宇宙堂」と「唐ゼミ★」である。かつて運動として台頭していた「アングラ演劇」を知らない若い世代が、その系譜にあたる集団で、あるいは中軸に据えて集団を形成することの意味とは何だろうか。両方の劇団に所属する俳優達は世代の全く異なる演劇人の手中にいるという点で共通性が認められるものの、少々事を異にする。唐十郎という大家の作品を専門に上演するが為、別個に劇団を創立した「唐ゼミ★」がユニークなのは、「宇宙堂」での、劇作・演出家が創る絶対的な支配者による世界観という手中に、どうしても劇団員達は身を置かざるを得ないという事態からの自由度が高い点である。それは詰まる所、「唐ゼミ★」には中野敦之という劇団主宰者にして演出家と俳優が唐十郎へ対峙するという構図が大きな意味を持っているということに尽きるのだ。「唐ゼミ★」は、年齢の近い横浜国立大学の唐十郎のゼミ授業を母体としているため、代表者である中野敦之と俳優達の間にはあうんの呼吸に集約される緩やかな相互拘束が存在していると思われる。確かに唐十郎の作品を上演するための劇団である以上、彼の影響下から免れる事はない(今作の『ユニコン物語』も唐十郎によって「台東区編」として改作されている)。しかし、だからこそ唐十郎という存在を尊敬しながら且つ対抗し、乗り越えていく気概と技術的能力を日々鍛錬しなければならないという高次元に設定された共通目標を達成しなければならず、それが集団の連帯する力を自然に外部へと向かわせている稀有な劇団として位置しているのだ。大家の影響下でありながら異なっているというのはそういう意味である。「アングラ」色の匂う2つの劇団で活動する若い世代達について述べることになる。「唐ゼミ★」代表の中野敦之は、劇団創立の理由について、唐十郎と「対話」し「会話の共通項を探ること」が目的だった事を劇団HPに書いている。なぜ対話を求めたのか。おそらく、何を考えているのか、あるいは自分達をどう見ているのか想像だにできない、「圧倒的な他者」でありながら、狼狽しつつも異貌性が発する不思議な求心力の謎を知りたいという欲望を抱いたからではないだろうか。この時の「対話」とは自ら歩み寄って思考し、その幅を無限大に拡大する可能性を、「対話」という名の「格闘」を通して見ようとする意思であったはずだ。そう、学生だった彼らの存在原基を揺さぶったのは「他者性」であり、他者から差し向けられる鏡象としての自己の新たな発見を大家と出会ってから以降、見出したに違いないのである。それは俳優が舞台に立ち、演技をし、それを観客という他者に向ける行為と同義であり、表現することの根拠として唐十郎が触媒となって与えたと言えるだろう。そのことに関して言えば「宇宙堂」での渡辺えり子の存在は、「唐ゼミ★」ほど顕現化してはいないが、同質の役割を果たしているはずだ。「宇宙堂」公演『夢ノかたち』で見せた、特権的肉体論やグロトフスキの演技論をその場で、この身体を駆使して全力で体現してみせた若手女優達、「唐ゼミ★」公演『ユニコン物語』での「ヒーロー」「ヒロイン」が一角の付いた自転車に跨り、現実的に不可能であるはずの光よりも早く走ることを、有り余る想像力を持ってすれば成せるはずと語った俳優達。大家から提出された課題に対抗しそれを徒手空拳で立ち向かい、劇的想像力へと昇華させようとする意志と演劇に対する直截な信頼を感じさせる、この2つの場面に直面した他者としての私の心もまた、大きく揺さぶられたのは言うまでもない。興行的採算性を度外視した次元からいくらも自己を拡大していってほしいと願う。
Oct 29, 2006
第10号【目次】◆燐光群+グッドフェローズ プロデュース「壊れた風景」(別役実作) 責任も無責任もありえないような状況がありうるということについて(竹内孝宏)◆エジンバラ演劇祭2006レポート 1 リヨン・オペラ座のブレヒト=クルト・ヴァイル2本が白眉(中西理)第11号【目次】◆演劇集団円「ロンサム・ウェスト」(マーティン・マクドナー作) 「骨肉相食む魂の西部劇」をみて「場外劇場」の主役をさらう 佐々木眞◆ゴキブリコンビナート「アンドロゲン・レインボー」 不条理を引き受け しぶとく生きる 崩壊寸前空間を最大限に生かす知恵 西村博子◆新国立劇場『夢の痂』(作・井上ひさし、演出・栗山民也) 「述語」を「主語」に 後藤隆基◆エジンバラ演劇祭2006 - 2 ナンセンスなコントシーンで見せる「死」 Anthony Nielsonの「Realism」 中西理第12号【目次】◆中野成樹+フランケンズ「暖かい氷河期」 ドラマとギャグの間のミディアムテンポ 柳澤望◆TOKYOSCAPE 終わったけれど始まったばかりの旅 全体力と知力を注いだ3年 詩森ろば第13号【目次】◆マレビトの会「アウトダフェ」 言葉が溢れ、言葉が失われる歴史を舞台に 高木龍尋◆YUBIWA Hotel "CANDIES - girlish hardcore"(指輪ホテル北米公演) 痛みを痛みとおもわないための儀式。いきのびるために。 田口アヤコ◆千秋残日抄 第5回 劇団青い鳥「夏の思い出」の思い出 北嶋孝「マガジン」の無料登録・解除はこちら。http://www.wonderlands.jp/info/subscription.html編集長 北嶋孝制作・発行 ノースアイランド舎・(有)ノースアイランド
Oct 27, 2006

現在形の批評 #44(舞台)楽天ブログ★アクセスランキング・マレビトの会 『アウトダフェ』9月30日 AI・HALL ソワレ実験の系譜舞台に接した時に我々が当惑させられるのは「分からない」時である。この「分からない」というのは曲者である。なぜならそこには様々なパターンがあって、言ってみれば上質な「分からない」とそうでない「分からない」があるからである。何を為し遂げようとしていたのかの基底部がない所で主体があちこち散見される舞台は、主体なき無葛藤さを結果的に観客に付与することになるばかりで、それこそ創り手による一種の暴力と言っても良い。そういった芝居の核が「分からない」舞台に接する時ほどフラストレーションの溜まるものはない。だが、中にはやりたい事、やり遂げなければならない事は明確にあものの、創り手側の中でその方法論について逡巡し、結果的にその萌芽のみしか提示し得ないでいる未分化状態な作品に時として出会う。その時、我々は同じく「分からない」という感想を抱きながらも作り手の意志に賛同し、どうにかして芽を理解し、育てることに参画したいと思うだろう。2つの「分からない」の間には舞台の外部を引き込み照射する核-「真理」とあえて言っても良い-の有無という点で千里の径庭がある。批評の存在意義とは、作り手との共同作業へ進んで参画する者の精神に宿る。言葉を費やして舞台に返礼したくなる、そんな「問題作」を手探りで追求している一つにマレビトの会は位置付けることができるだろう。舞台は大きい。観客席、演技フィールドを舞台空間の中間地点に設えたのは、真ん中にポッカリと開いた大きなくり抜きを作るためだ。長方形に切り取られたその穴に見合う形の岩石が、すぐ上方から吊り下げられている。真っ暗な集積場だ。この作品は、集積場から採掘された残骸が示す追憶の歴史-「アウトダフェ=火あぶりの刑」からインスピレーションされるチェルノブイリや広島・長崎の原爆投下-が示す、モノローグとダイアローグの交叉の展開である。必然、主題は暗部としての歴史の事実に触れることなるが、それを俳優の台詞語りでどれだけ真実味を持つかを、真っ暗な空中楼閣の上で試みようとする。その一切が舞台をいかほどにも拡大させるのだ。松田正隆自身述べるように、これら歴史の暗部に俳優・観客をいかに当事者性をもって立ち向かわせるかを、身体と言語を遊離させ別個のものにすることで屹立させようとする身体的実験を試みである。対話を基調とした「物語」という文脈が否応なしに要請する感情移入を排除し、感覚神経へのダイレクトな訴えがここでは目指されている。鈴木忠志の言う「語り」を「騙り」として喋る身体の模索と言いなおしてもよい。大きな物語の失効が我々に直面させたのは、個々の連帯や一家を中心とする共同幻想を積み上げた先に成立する、ピラミッド構造を有する一国の岩盤な有り様が国民全体の幸福とされた論理、その全体統合へと向かわせるある目的への邁進の失効であった。ただ残ったのは個性の重視と、個人主義と称した80年代の浮かれた気分だからこそ成立していた人間と社会のマイノリティーの立場を正当化する形骸化した思想だった。90年代初頭、ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシ-ン』が日本で紹介されたのが刺激的だったのは、西堂行人が言うところの「テクストの解体」という新たな問題と可能性をもたらしたからであった。「言葉という残骸=断片」で構成されるモノローグは廃墟と化した地に佇む我々に見合う切実な何かを持って迫ってきたのである。とすれば、『アウトダフェ』はこの『ハムレットマシ-ン』によって開かれた地平の延長線上にある作品と言えるのではないか。先の大戦やチェルノブイリによって灰にされながらも決して消え去ることのない記憶の掘り出し作業を自身の身体で以って行うことの発見と自省。それは、登場人物が置かれた、採掘という労働の身体的痛みに表れる、憑かれるように苦役を続ける身体が象徴する。何処とも、誰とも知らない人間達の手で担われる歴史の暗部を探る行為は、彼岸の状況をあたかも自身のこととして舞台空間全体で共有するためという単なる内省で終始するものではない。舞台空間を貫いて我々の社会状況に重なる一瞬の交叉する点を歴史との相克の中から開示させ、同時代と未来を志向するために我々に等しく必要とされる行為なのだ。目の前の舞台から絶えずアクチュアルな状況へと目を向けさせるための苦役を積極的に引き受ける事に、演劇から放たれる当事者性が出来する。そのために、物語性の強い悲劇を描いて内容に感情移入させる、あるいは切り取られた日常風景の遠景に大状況のメタファーを仄めかすという類の手法でもいけなかった。演劇内部に収斂しない、外部へのモチベーションをいかに喚起させるか、ハイナー・ミュラーが開いた新たな演劇形式の実験は直截的である。最後に印象に残ったシーンを挙げよう。一つは前半、登場人物達が終始台車に採掘した物を乗せて穴倉へと放り投げるだけの男に追い詰められていき、その果てに自分達の衣類を脱いで発掘作業員となるまでのシーン。もう一つは途中、タンゴのリズムに合わせて男女が踊るシーンである。どちらも言葉は発しない。身振り言語のみでその場の状況を体験する。こちらが動けば相手に何がしかの変化を与える。そしてその変化した相手の行動によって今度はこちらが変化させられる。一歩一歩段階を踏まえて積み上げていく丁寧な関係性があってこそ、無言の群集行動と採掘場という茫漠でありながら閉鎖的でもある場所で、演技の基本をしっかりと踏まえた俳優達によって支えられた求愛行動に見られる数少ない笑えるシーンが誕生したのである。
Oct 15, 2006

現在形の批評 #43(舞台)楽天ブログ★アクセスランキング・チェルフィッチュ 『体と関係のない時間』9月22日 京都芸術センター・フリースペース ソワレイチローも来たことがある「抽象」という言葉はあまりにも曖昧模糊としていて、一般的には「わけが分からない」事象をひっくるめてとりあえず「抽象的」と規定することで、理解の為の歩み寄りを通して不断に思想することを忌避し、何事かを分かったつもりになりがちである。こと芸術がその典型のように扱われていて、「分からない」ことが良いなどと逆説の美学のようなものを雰囲気で捉えて「通」ぶるその内実は、「分からない」=「抽象」とラベリングして思考を強制終了させ、「分かった」気でいるに過ぎないのである。そのような理解は何も進展しない理解不可能の悪しき反語でしかない。「抽象再訪」と題された京都芸術センターの企画は、その名の通り絵画や彫刻といった様々な抽象芸術を展示して「抽象」の世界に触れることによる新奇な感覚の醸成を目指したものであり、チェルフィッチュは演劇部門としての参加である。まず印象を言ってしまえば、この公演に接した私を含めた観客はとにかく戸惑ったに違いない。事実、チラシから美術家・小山田通の『他人の家』をモチーフとしていることが示されているが、実際の舞台では天井から吊り下げられたいくつかの電灯がわずかに日本家屋を設定とした舞台空間であることが分かるのみであって、平台で作られた床平面を見ただけでは素舞台にしか見えない。この冒頭からの戸惑いにより、正直に言って私はこの作品について語るべき言葉がなかなか見つからないでいる。そのため、以下思索しながらこの舞台について書いていく事になるだろう。3人の登場人物から語りだされる言葉は語順のばらばらな文節言語である。そして発語される分節言語と分節言語には数秒の「間」があるため、我々は頭の中でまるで連想ゲームのように言葉を反芻し、語順を入れ替えてなんとか文脈を作り出そうとする作業を強いられる。しかし、しばらくすると一連なりの台詞を構成するバラバラの分節言語を記憶することなど、とてもじゃないができないという事実に直面して断念させられてしまうのだ。分節言語から成る言葉のようなものの一例を書き出せば、「子供に/妻が/ついて考える/なぜか/時は/あたかも/想像が/子供が/もうすぐ/あるいは/すでに/」といった調子で続いていく。加えて身体の動きはと言えば腕を上げる、うずくまる等の単純動作しか行わない。チェルフィッチュの舞台はテレビでだが『目的地』を観ている。その舞台について私はあまり関心しなかった。以下その評の一部分を引用してみよう。演じる俳優を見て私が思ったのは、『真剣10代しゃべり場』に出てくる若者の姿である。主張したいことは山ほどあるのに、人前でうまく会話できず、ディスコミュニケーション状態から脱しきれないもどかしさに汲々するあの若者である。繰り返す動作はそれの証左ではないかと。テレビで見たために余計にそう思う。『ユリイカ』2005年7月号において岡田がなぜ「だらだらしたノイジーな身体を」舞台に上げるかについて、「日常における身体は、演劇の身体としてじゅうぶんに通用するだけの過剰さをすでに備えている」と述べている。つまり、俳優訓練を行い、観客を非日常へと誘う身体をわざわざ措定する必要性がないという訳である。日常身体そのままで十分何事かを成し得るということなのだろう。目指す目論見は、日常身体同士が織り成す日常的反応をつぶさに観察することにより、人間を表層的に把握しようというものである。しかし、私はそれでは駄目だと思う。なぜなら、舞台で何かをするということ自体、演じることから逃れられなく「つぶさ」な人間性が表れることなどないからである。創られた=表現としての身体がどう現実を照射し且つ隠された真実を露呈させるか、それこそが舞台で何事かをするということである。「言語」と「身体」の不一致を目指したと岡田は言うが、それこそ2つをバラバラにすればするほど、限りなく現代人の身体的特徴を逆証するという「表現」へ繋がっていくのではないだろうか。(現在形の批評 #20)岡田の舞台で行われることは常に、身体の単純動作、言い間違いや繰り返しをも含めた長々とした長文の言語である。これは、全てが「過剰さ」で出来た世界であり、それはパソコン上で溢れる情報過多にも似た、何事をも体現することは困難で回りくどいという「今」という時代を生きる人間関係の姿と同一である。この舞台が『目的地』と比べて一目瞭然なのは、その過剰さが消え、まるで正反対であるという点だろう。一人の台詞がひたすら長い点は同じでも長い「間」があるが為に余計に冗漫さを感じるのだが、言語の洪水のような過剰さに反作用的に働くこの「間」がある種のバランスを取っている。身体は同じ動作の繰り返しとは打って変わって一つの動作、例えばかがむという動作なら、ゆっくりとかがみ込みながら台詞を喋り、最終的にその体制を大事に保存する。そして別段『目的地』のように、プロジェクターに投影された「文字」が舞台背景を取り巻く状況について説明するといったこともない。当日パンフの岡田によるコメントには、テーマである「抽象」をかなり意識していることが書かれており、今作はジャンルやカテゴリーとしてではない「ある高み」としての「抽象」への到達を模索した実験であることは間違いない。洪水のようにあふれ出る過剰で無思想な言葉を費やすよりも、あえてバラバラにして掴めなくした文脈や「間」という時間が喚起する余韻や情緒といったものから浮かび上がる観客個々独自の解釈を手がかりに空白を埋めることで作品へ参加し、そして何かを得ることを意図されている。しかし『目的地』の際に述べたように、舞台という異界に立つための身体ではなく、丸腰の身体そのままにこだわる点はむしろ強まっているように思う。俳優が「常識の範囲の中にある語順で書かれたせりふをしゃべるときより、ずっと『イメージ』を持たなければならなくなった」とあるが、結果として、これは舞台身体の現在形の創成というよりむしろ、舞台言語に引きずられた身体の提示でしかなかった。俳優が文節言語の「間」と「間」を強調することによって舞台全体が表したのは、「抽象」をテーマにした思想概念として大文字のテンション=「イメージ」の創造の試みではなく、与えられた長い文節言語から成る台詞を俳優自身、意味内容のある文脈に一端入れ替えて理解するという意味での「イメージ」を忘れないように、言ってしまえばバラバラになった言語=台詞を本番中に忘れないでいようとする俳優個々が台詞を召抱えているような姿である。だから俳優達は個々別々に思念していることを鬱々と吐露するのみで、他者と関係性を取らない/取れないというチェルフィッチュのディスコミュニケーションの状態をスタイルを変えて提示しただけになってしまうのである。身体と言語それ自体は「具象」である。そんな肉感的で実感があり、意味があるものから成る人間がなぜ不可思議で時として思いもよらない行動を起こす不確かなものとしてそこに在り、その集積として不確かな社会になっているかという「具象」が作り出す「抽象」の奇妙さを追求するのが芸術であろうし、それを身体という人間そのものから思想するのが演劇である。この舞台は図らずも、文節言語であっても文脈=意味内容の確立ばかりに意識が向かう役者と、私を含めた観客がいかに文字から構成される言語にがんじがらめに捕らわれているのかを露呈することになった。だからこそ「間」は単なる次の文節言語を召喚する「間」でしかなく、全く本来無駄で「関係のない時間」に観客が付き合わされることになってしまった。もし作品からもう少し意味のある「抽象」性が舞台空間を埋めることになったならば、「分からない」けど「おもしろい」、あるいは「分からない」けど「意味がありそう」と言った感想が結果として引き出されてきたはずである。こと言語で言えば、俳優から発せられる言葉よりも、むき出しの平台に書かれた「イチローも来たことある」というそのシュールな一文の方がはるかにインパクトを持って私の心を捕えていた。
Oct 5, 2006
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