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第19号【目次】◆鈴木忠志演出「シラノ・ド・ベルジュラック」「イワーノフ/オイディプス」 筒井康隆を読むように鈴木忠志を観よ 田口アヤコ(演劇ユニットCOLLOL主宰)■千秋残日抄第7回 「鬼」と「Demon」のずれ-野田秀樹「赤鬼」・補遺 北嶋孝(マガジン・ワンダーランド編集長)第20号【目次】◆黒沢美香&ダンサーズ「ダンス☆ショー きみの踊りはダンスにしては重すぎる」 「不揃いの美」によるクールな知性の発露 伊藤亜紗(ダンス批評)◆劇団犯罪友の会「かしげ傘」(創立30周年記念公演) 諧謔に満ち哀切な心情を喚起する重層的な物語 大岡淳(演出家、演劇批評家)◆太陽劇団「Le Dernier Caravanserial《最後のキャラヴァン宿》」 テクストと身体-日本の翻訳劇制作現場で考える 芦沢みどり(戯曲翻訳者)第21号【目次】◆パラダイス一座「オールド・バンチ 男たちの挽歌」 真の主役は「演劇愛」 温かさに包まれた一座の船出 村井華代(西洋演劇理論研究)◆清水邦夫作、蜷川幸雄演出「タンゴ・冬の終わりに」 晩冬に咲く桜 今井克佳(東洋学園大助教授)★「年末回顧特集号」・・・『振り返る私の2006』http://www.wonderlands.jp/lookback/2006/index.html第22-23合併号【目次】◆ポツドール「恋の渦」 舞台の上に充満する「空気」 内在化された想像上の他者の視線 松井周(青年団リンク「サンプル」主宰)◆マシンガンデニーロ「クロスプレイ」 生の重みという同時代へのメッセージ 栂井理依(舞台芸術ライター)◆エジンバラ演劇祭2006-7(最終回) 明確な戦略で積極参加を 日本勢の活躍に期待 中西理(演劇コラムニスト)「マガジン」の無料登録・解除はこちら。http://www.wonderlands.jp/info/subscription.html編集長 北嶋孝制作・発行 ノースアイランド舎・(有)ノースアイランド
Dec 30, 2006
現在形の批評 #51(舞台)楽天ブログ★アクセスランキング・ポツドール 『恋の渦』12月9日 THEATER/TOPS ソワレ過剰で「なにもない空間」(その1)より〔3〕舞台は数週間の出来事を描いたものであり、暗転中スクリーンには時間と何日後かが表示される。しかし、開ければ以前とさほど変わることのない光景があるだけである。そこには「生態」の変化を示すための時間経過でしかなく、時間が人間の内面をどう変性させたのかというよりも誰と誰がペアになったかという駒の動きを示すのみであり、そういう意味では機械的でしかない。日常生活で見かければちょっと身を引きたくなるような「チャラ男(女)」という一つの記号体が大挙して登場し、対象化されるとやがて無害化すらされてしまう。そのような身体は「過剰さをすでにそなえた」「ノイジーな身体」ではなくからっぽの空洞のような入れ物としてあるだけである。むしろ過剰なのは空間を埋め尽くす二つめの特徴である言葉の方であり、身体は言語発生装置として存在するのだ。今を呼吸する台詞は俳優の身体を通ることによってはじめて何がしかの意味が生じる。からっぽの身体は言語を与えられることで「からっぽの人間」が顕現化し、身体性が強調されるというパラドックスがここにはあるのだ。とまれ、「チャラ男(女)」の浅薄な関係、ノリとフインキを伝える若者言葉が、この劇の屋台骨を支えている。もう一度劇の冒頭に話を戻そう。関係性を頭の中で整理しながら物語を追いかけることに重点が置かれていない為、人物が何人いるのかはっきり覚えていないと先に書いた。それに加え、観客をそういう思いにさせるのは言語の影響も多分にある。ほどなくしてこのアパートの狭い一室には男女がまた何人かやってくる。なにやら女性を男に紹介するというプチ合コンがはじまろうとしている。やってきた男女を含めて登場人物全員が狭い一室に集まってのやりとりに私は再び目を見張った。ゲームをする者、中央のテーブルをはさんで会話をする者、舞台右手でお互い自己紹介をする者等がてんでばらばらに会話を始める。その声も別段舞台を意識して張り上げることはない。発語は全員に聞こえなくてもよく、日常生活でのようにすぐ目の前にいる者に聞こえてさえいればよいからである。そしてコミュニケーションを取る者同士は激しく入り乱れる。他の人間に横槍(ツッコミ)を入れて場をかき混ぜては大笑いし、また元の会話相手へと戻るというように。他に、そのプチ合コンの目玉としてやってきた倖田來未に似ているという触れ込みの女性が思いのほかブサイクだったことに関し男達が「ゴウダクミ」とあだ名を付けてけらけら笑う箇所には、つかこうへいが『熱海殺人事件』で、世間体などを繕うことなく本音をぶつける登場人物を描いたことを想起させもした。こういった悪びれることもなく目の前の情報で遊戯する人間はコンビニの前で意味なくダベッている若者のようでもあるし、その意味のなさは繁華街の喧騒にも似た一種の「環境」を想起させる。舞台開始間もなく訪れるこの喧騒の出現は今まで観たことのない光景であり、そのことに私はただただ驚いたのである。舞台にありがちな、人間を変化させる為の白熱した議論でもなく、シチュエーションコメディのような群像劇にある騒がしさでもない別のものが『恋の渦』にはあった。平田オリザがより自然さを醸し出すため、真一本のプロットに枝葉のように現れる会話方法を生み出し、「同時多発言語」と名付けたが、三浦大輔はその手法をさらに展開させ、「同時代多発言語」と呼びたくなるような劇言語を生み出している。単に一つの場所で同時に発語されているというのではなく、今という時代に生きる者に半ば強制されたデジタルツールによるコミュニケーション方式、その情報多過性が齎す不可視の恐怖というものを記号化する言語と、音声化する肉体を通して表象しているのである。最後、舞台装置(空間造形)には不可視の可視化が企図されている。これが三つ目の特徴である。プチ合コンのシーンから一度暗転した後、舞台空間の大部分を覆い隠していた物が除けられ、新たに三つのマンション、あるいはアパートの一室が登場する。つまり舞台空間には二×二の合計四つの部屋が現れることになるのである。以後、観客は四つの部屋をノリとフインキで行き来する人間をつぶさに「観察」することになる。舞台空間の全貌が明らかになってからが本当の「観察」のはじまりになるのである。ここまで、「俳優」「言語」「舞台装置」を分けて見てきたが、実際の舞台ではその三点がない交ぜに膨大な情報を発する。そこに観客の想像力の入る余地はない。繰り広げられる光景からは、我々が日々雑音に取り巻かれながらそれを雑音と意識せずに享受して過ごしているという事実に思い至る。そしてそれはネット上に自由に発言し、書き込まれて氾濫する情報が、0か100の両極端に偏った虚構世界であるのに近く、限りなく「なにもない空間」(ピーター・ブルック)に近い残酷さを呈する。三浦大輔はセックスに代表される肉感的要素に代表される生っぽさを一方で描きながら、それを非常にアイロニカルな方法で現代の空虚さを剔抉するのである。作品自体は非常に良くできているし、「あるあるネタ」に大いに笑った。ただし、小劇場演劇史にポツドールを据えてみると冒頭に書いた通り、「現代口語演」を継承・発展させた末の行き着く果ての姿ではないかという感じを強く受ける。舞台で行われていることの表層だけを掬えばこれ以上のリアルはないという所まで行き着いている。他の劇団が模倣しにくい極めて唯一性の強固なスタイルを持っているが、だからこそこの先の展開はポツドールが試行錯誤せねばならないのだろうし、「現代口語演劇」をここまでデコンストラクションした先に何があるのか、その落とし前をつけなければならないと思う。若手の旗手として揚言されるチェルフィッチュと並び立てられることが多いポツドールだが、彼らは一見普通の演劇を装っている点、岩盤な地歩を固めた現代口語演劇を継承しつつ、ひっくり返した地平を今後築かねばならないという困難さを背負っている。それはともすれば、「現代口語演劇の成れの果て」を示しかねない、非常に危険な綱渡りを演じる可能性を孕んだ冒険なのである。
Dec 20, 2006
現在形の批評 #51(舞台)楽天ブログ★アクセスランキング・ポツドール 『恋の渦』12月9日 THEATER/TOPS ソワレ過剰で「なにもない空間」〔1〕私は大学の卒業論文に以下のような記述をしたことがある。松井周は『ユリイカ』(2005年7月号)に青年団を筆頭に、チェルフィッチュ、ポツドールといった新しい世代の演劇は、新劇的な内面重視の作品を志向することではない「人間を一度、ヒト科の動物として捉えなおし、その習慣や反応などの『外面』を観察」するような舞台を上演していると述べる。そういった演劇の代表者である平田オリザは「役者は戯曲家の設計図の中で生きる存在」であると考えた。岡田利規も「日常における身体は、演劇の身体としてじゅうぶんに通用するだけの過剰さをすでに備えている」ため、改めて虚構を生きるための身体を創る必要がないと述べる。劇作家が戯曲として用意したハコに役者たちを置いて対話させることで、人間はどういう反応をし、どういった感情示すのかをつぶさに、ありのまま観察しようといういわば動物実験場がこのような舞台の特徴ということなのだろう。吉祥寺で青年団『ソウル市民』を観劇した後、新宿でポツドール『恋の渦』を観劇した。この2本の舞台を通して見えてくるのは、世界をより「リアル」に描くために平田オリザが提唱し実践した現代口語演劇が、『ソウル市民』初演から十数年を経た今、すっかり定着したという事実、そしてそれ故に現代演劇の保守本流にまで駆け上がっていったこの理論が瀰漫させた大いなる影響というものを直接受けたとは言えないまでも、ポツドールの舞台からは現代口語演劇が行き着くところまで来てしまったのではないかという思いである。先に引用した私の文章は、演劇という芸術はすべからく俳優の演技と身体性によって成り立つという原則の基に書いたものだ。俳優の身体というものが劇作家の台詞を伝達する一つの役割や媒介項として存在するのではなくそれ自体が雄弁に物語るものであるはずだ。それは俳優自身が意図しない制御不能の無限運動を繰り返すことで「物語らざるをえない」次元にいかに昇華させるか、その闘いを通して舞台上に永久不変の宇宙を開示することになるということである。そういった俳優観は、所謂かつてのアングラ演劇時代の遺物のように思われる向きもあるだろう。しかし、昨今のパフォーマンス化の流れが試みる身体と言語の実験も、基底の所ではいかに虚構化した現実を生きる人間が、そこから現実を超えた実存を出来するために舞台というさらなる虚構の場に説得力と社会を穿つ視線を持って立つことができるかであるならば、決して遺物として葬りさることができないテーゼがを含まれているはずである。従ってそういう意味においては平田と青年団に対して全面的に肯定する立場に私はない。「役者は戯曲家の設計図の中で生きる存在」と言い切る所には、平田が社会主義リアリズムを否定しながら「はっきりとそれと言い切らない」という「主義主張」を内包した台詞を俳優に語らせている点に、ヒエラルキーの存在が明確に感じられるからである。とはいえ、実際の舞台作品に接してみれば平田作品に付言されてきた「静か」という印象はなく、俳優達の声もぼそぼそと喋るというよりはむしろよく通る発声法でもって舞台空間に音を奏でるし、言葉の綾をついた笑いに観客達はよく笑う。緻密な「設計図」通りに俳優は動かされているので戯曲世界を逸脱するアドリブはないにせよ、そこには多少なりとも俳優個々の個性というものが「設計図」の中で動く中でも垣間見ることが可能である。長男の篠崎謙一が女中を連れて家出をしてしまうが、残った者達で食事をしようとするラストシーン。準備をし、家長である篠埼宗一郎がワインのコルクを丁寧に空けている動作で暗転、不意打ちのような終わり方に平田演劇の真骨頂がある。その場面から私達は韓国併合の一年前という歴史的事実とその後の日本の行く末を、今にも空かんとするワインボトルに「地獄の釜」、あるいは「パンドラの箱」のシーニュを見る。こういう作品に慣れたのか、観客が成長したのか、「ああ、なるほど」とすんなり受け入れるくらいには我々は成熟したと言えるのかもしれない。既に劇界内外で平田の演劇論について様々な検討が既になされており、イメージを喚起して舞台と客席の「コンテクストを摺り合わせ」ることを目標とするこの「新しい演劇」は、平田自身も強調するように、海外公演での絶賛という矜持(自慢?)に如実に成果として表れている。〔2〕さて、ポツドールである。冒頭に引用した文章を書いた時点ではポツドールの舞台を観ていない状態であった。青年団についての「表層的印象」はいくつかの舞台に接して以来、上記に述べたような認識の変化はあったものの、ポツドールに関してはあの時に書いた印象のままの舞台が繰り広げられた。まさに「人間を一度、ヒト科の動物として捉えなおし、その習慣や反応などの『外面』を観察」するような舞台だったのである。以下、『恋の渦』について分析していき、「現代口語演劇」がどのように変化していったのかを探ってゆきたい。演劇を観劇するということは、少なからず劇場機構により舞台と観客席とが分断された状態を余技なくされているのが現状である。であるならば、多少なりとも観劇行為に「観察」は付き物ということになってしまうだろう。それは舞台を観るという行為における、その時の観客の立ち位置を指してのことである。たとえ分断されていようとも、登場人物に感情移入させるためのスタイルが上演されている。すなわち、派手な音響・照明効果を援用して紡ぎ出される叙事詩や、あるいは限りなく切り詰められた口語体で、身振りも決して大仰でない日常的なもので成り立った想像力喚起型の舞台である。どちらもスタイルは対極にあるにしても、舞台と観客双方の内的往還が生み出す非日常空間を成立させようとする信頼関係が源基にある。しかし、ポツドールの舞台にはそのような関係はあらかじめ排除しようとする仕掛けが様々に配置されている。舞台と繋がるためには(理解しようとすれば)観客は「観る」から「見る」へ、舞台へ移入することなく「ただ見る」ことを要請する。その単純明快さが「観察」と呼ばれる所以なのだろう。物語が存在するにもかかわらず「観察」するということは、人のする事、話す事が舞台空間内にいる人間及び環境にどう作用していくのか、その堆積が最終的にどのような結末に至るかを追うということである。その情報処理的な「実験観察」が行われる舞台はやはり「動物実験場」のようである。では、ただ「観察」させる仕掛けとは何か。それを俳優・言語・舞台装置(空間造形)の三つに求める事ができる。「だらだらしてノイジーな身体」(岡田利規)や「コドモ身体」(桜井圭介)といったおよそ劇的強度を持たない、あるいは生みださない普通の生理感覚を持った身体が重視され、舞台に上げられる理由は、「日常における身体は、演劇の身体としてじゅうぶんに通用するだけの過剰さをすでに備えている」(岡田利規)という認識に拠るためである。ポツドールの登場人物達もまた同様である。舞台には「今時の若者」が登場する。金髪は当り前、ピアスに指輪と派手派手しい。都市に溢れる情報と商品にヴィヴィッドに反応する適応力を持ち合わせ、それを同じ格好をした者同士が集まってノリとフインキを絶対コードに会話し、行動する浅薄な関係性を維持し続ける人間。だからセックスも何の衒いもなく一つの運動のように氾濫する。彼らは「だらだらとノイジー」な若者一般の中でも「チャラ男(女)」にカテゴライズされる人種である。鬱々と自閉し懊悩する様をひたすら吐露する文学的人間の登場する舞台とはまた違った若者象として「チャラ男(女)」のみが描かれたこの青春群像劇は新鮮に映った。台詞の意味を思考することからアプローチして人物を創り、演じるという正攻法からは隔絶し、まさに今を呼吸する人間のプライベート言語が丸ごと日常生活から切り取られて持ち込まれているからであった。なにしろ演技性が全く感じられない。俗に言う「静かな劇」とは、一分一秒平等に流れる日常の時間のある一コマ、一時間~二時間をフィーチャーして描く作風であり、そうであるならば「静かな劇」とは「時間の劇」とも言えるのだ。『恋の渦』はそうではなく、異質な人間(自分達はいたって普通であると認識している)こそを日常から切り取ってくるのである。そんな彼らの紡ぐ舞台はマンションの一室から始まる。そこには男女が数人いる。対戦型ゲーム(『ぷよぷよ』)をする者とベッドに横になっている者は覚えているので男は少なくとも三人はいたはずだ。女も何人かいた。それをはっきりと覚えていないのは、「チャラ男(女)」達の恋愛劇で、誰と誰がどうなるのかというその行方がこの舞台で語られることの全てであるにもかかわらず、さして関係性や内容は重要ではないように思えるからである。いや、重要ではないと言ってしまっては多少御幣がある。振り返ってあらすじを書き出すことにさしたる意味はないと言うべきだろう。つまり、「観察」していれば誰が誰を好きになっているのか、また誰が恋愛ゲームに抜け駆けしようとしているのかはノリとフインキで了解できるのであって、むしろそれをどのような言語で描くのか、且つ舞台に登場する人間の在り様そのものだけに三浦大輔の視線が注がれているからである。従って、彼/彼女らによって紡ぎだされる物語らしい恋愛ゲームの結末はあってないようなものだ。新しいカップルの誕生と破局があるという点を挙げれば展開があるとも言えるが、それはノリとフインキが価値基準となっている人間の現時点での結果に過ぎず、直後にどう人間関係がシャッフルされて別のカップルが誕生するか大いにあるあやふやなものである。「チャラ男(女)」にとって関係性とはそれほどの意味しかないのだし、流れる時間が形成するあらゆることを否定しているようにさえ映る。だから彼らは何かを待つという行為にも出ることなく、たまたまそこにいる者と一緒にだべるのであり、飽きれば手元にある携帯電話で誰かと呼び出して繋がればいいのである。重要なのは時間をやり過ごすのでなく場を成り立たせる事なのだ。(その2)へ続く
Dec 17, 2006
現在形の批評 #50(舞台)楽天ブログ★アクセスランキング・辻企画 『世界』12月3日 京都芸術センター マチネ奇妙な空間昨年、第十二回OMS戯曲賞佳作を受賞し、にわかに注目を集めている司辻有香が主宰する辻企画を初見した率直な感想は、「何だか奇妙」の一点に尽きる。奇妙さを最大限に演出するのはなにを置いても司辻のその劇世界である。「愛されたい/愛したい」という、人間がこの世に生まれてから死ぬまで求めてやまない根源的な欲求を切実に希求する懊悩、吐露がこの劇で一貫して主張されることの全てである。その女とは司辻自身であるのだろう。舞台は途中休憩を挟んで女と母、女と男の関係が展開されるが、語られる事柄は母親の胎内へ回帰し、羊水の中で直接母親の温もりと愛情を受けていただろう時に戻りたいと願う女が登場する前半部、口先だけの愛情の言葉ではもはや人との繋がりを確認できず、直接的で安易な肉体接触であるセックスに依存する女が描かれる後半部の2部構成で成り立っている。延々と続く、個人的すぎる「世界」の展開が奇妙なのである。したがって、この舞台で描かれる「世界」のある場面なり台詞なりに没入できるような、同様の問題系を抱えた観客でなければまったく受け付けることができないのである。『世界』という作品に出会うことになる観客は2手に分かれる。つまり先に書いたような親和空間を形成し、共用しようとする観客達にとっては、彼/彼女達を許容するくらいの連帯可能な要素は慰撫的だが持ち合わせている。もう一つは、愛だの人同士の繋がりだのは、個人が抱く肥大化した妄想が結果として暴力的に立ち表れたものでしかないと嫌悪感を持つ観客であり、諸刃の剣のような二者択一を迫られる「世界」が展開される。私は後者に当たる観客として居たため、その立場から劇評を書いていく事になるだろう。「世界」への共感の糸を取り逃した私はなぜ2部構成でなければならなかったのか、まずその点からして奇妙さを覚えてしまった。劇世界とは所詮、ある個人が日常生活の中から形成された、とりあえず自我と呼ばれる領域に意識的に表出する「世界観」を基にして素描されたものである。いや、すべからく芸術活動とはそのように、自己を起点にして出発して何かを生み出すものであろう。司辻はしかし、非常に限られた人間にしか共感を得られない、独善的な「世界」だけに拘り追求しているように見える。だから、問題を普遍化したり「世界」を拡大した何かへ置換・接続するという作業に関心がないため、人前で表現する際に持ち込まれるサービスをも拒否して極端に私的なものに留まり、意識的に設定した針の穴ほどの共感への入り口に見合う観客=同士だけしか相手にしていないように思える。その入り口への入館証を有する者は、自己発見や真実の愛などという多少なりとも鼻白んでしまうような自己内省を常に試みる者である。だからこそ受け付ける事ができない人間にはまったく理解し難いのである。確かに詩的ではある台詞で溢れる空間に身を置きながらしきりに思うのは「わざわざ演劇という形で披露する必要があるのか」という疑問である。分かる人だけ分かればいいのならば小説でも詩でもとにかく文字媒体で訴えかける方が効果的だろう。劇作家の思想を伝達することになった俳優達の身体が魅力的なものとして立ち上がってこなかったことが余計にそう思わせる。空洞を埋めるかの如く洪水のようにあふれ出る言葉を操りきれず、声が裏返るなど、身体は言語に負けてしまい伝達者としてその存在を十分発揮することがなかった。そう、俳優達も奇妙である。俳優が舞台の上で生きた存在として立ち現れるように当て書きされた俳優本位の台詞でもなく、台詞を一字一句間違うことなくそれにふさわしい感情を乗せて発語する文学性本位の台詞でもなく、台詞を喋らなければならない義務感に追い立てられているように見える身体として舞台上にはあった。彼らは司辻の「世界」をはっきり理解していないのかもしれない。あるいは共感できずにいたのか。作家のあまりにも強すぎる「世界」を前にして俳優達は立ちすくんでしまったのではないだろう。おそらく誰が演じても同じような印象しか受けないと思う。となれば劇世界と俳優の関係性の齟齬もまた奇妙なものとしてあったのである。狭小な世界をただ延々と見せられることに苦痛を感じながら女/男から発せられる愛されたい/愛したい云々の台詞に対し「そんなことは誰だって知っている」と思うしかなかった。俳優にしても発語する身体が丸腰の無防備さで、決められた所作をすることに未熟さだけしか感じなかったのである。社会の底の方で他者からの救いをただただ希求する者、あるいは貧しい競争に明け暮れる者で溢れ、生きている時間の過ごし方、待ち方すら見えなくなっている私達のような若い世代を「底流する人間」という様に私は認識しているが、まさにそのような人間があの時の空間全体を覆っていたことの奇妙さ。唯一私がこの舞台において関心を寄せたのはピクニックの昼食のために持ってきたサンドイッチを相手に投げ合う箇所についてである。舞台一面に引かれた白いスーツに散乱するサンドイッチ。さらに上からぐにゃぐにゃと踏み潰される。最も奇妙であるが興味深い場面として映った。食物に対する粗末な扱いへの嫌悪とは少し違う。私はサンドイッチが散乱し、べったりと貼り付けられたこのシートは終演後誰が一体どうしてしまうのかということを考えていた。ポーカーをしながら手軽に食せるからという理由で生み出されたサンドイッチに自分達もそのような存在として仮託して見ることは可能だろう。投げつけ、踏みつけ、そういう風に自分を殺し、生まれ変わりたいというメッセージが込められているそのサンドイッチはしかし何の思考を生み出す事もなくシーツごと捨てられてしまうだけである。次の公演のために。変えたい自分、なりたい自分が託されたと見るサンドイッチはしかし、誰かに拾われ新しい息吹を吹き込まれることなく無残な状態になる。そう、散乱したサンドイッチの光景は汚く、決して誰も拾って食そうとはしない。そんなもの誰も解決してくれない、最終的には自分達の手で片付けなければならないのである。舞台上ではその後、サンドイッチを食べようという話になったはいいが、登場人物自身、新しいそれを普通に食してしまうところに「底流する人間」らしさが立ち現れているように思う。それは環境的、外的要因によって自分が手を汚すことなく変わりたいという人間だ。お手軽に食せるサンドイッチのように、自分を軽く受け入れ承認してくれる存在を見つけることは困難だ。そのことに司辻有香が付いてないとしたらこれ以上の奇妙さはない。女が口に入るだけサンドイッチを入れて台詞を喋る場面があったが、語りたい台詞がうまく発語されない状態になった身体から何かが始まるのではないだろうか。問題は言葉を尽くしてひたすら語る所にはないはずだ。だから舞台ラスト、散乱したサンドイッチ(口から吐き出されたサンドイッチもそこにはある)に照らされた一筋の照明を非常に長い時間をかけて落としていく演出に何の感慨も生まれないのは当然である。何がしかの感慨を喚起することよりも投げ出されたサンドイッチをいかに回収(自分で落とし前をつけるか)に我々は目をそむけることなく対峙し、苦しまなければならないのではないだろうか。同世代人としてこの「世界」観のには同意し難かった。
Dec 11, 2006
現在形の批評 #49(テレビ)楽天ブログ★アクセスランキング首の絞め方 正しい首の絞め方とはどういうものだろうか。もちろん実際の殺人方法についてではない。首を絞める正しい演技の見せ方とその正しい身体の在り方についてあれこれ思案しようと思うのである。 そんな事を考えたのは11月25・26日、テレビ朝日系で放送された『氷点』を見たからである。三浦綾子原作、出生の秘密がもたらす人間の原罪とそれを許せるのかという問いを巡るこの作品に首絞めのシーンが出てくる。飯島直子演じる母・夏枝は知ってしまう。養女の陽子が実は3歳で殺害されたルリ子の犯人の娘であったことを。その後「お母さんと死んで」と泣きながら陽子の首を絞める。この時の演技に私は何か違和感を感じたのである。ルリ子がいなくなってからというもの、抜け殻のようになっていた夏枝であったが陽子を迎えてからというもの生活に張りを持ち、息子の徹(手越祐也)同様、全身でもって溺愛してきた。にもかかわらず夫・啓造(仲村トオル)による歪んだ復讐心のために騙されてきただけだったのだという屈辱、それに-これが直接の引き金になったのは間違いない-娘を殺害したこの世で最も憎むべき犯罪者の子供を長年愛してきたのだ、本当の娘・ルリ子への裏切りの何物でもない事に対する申し訳。屈辱・裏切り、それに気がつかなかった自己内省、さまざまな事が脳裏をかすめどうにもならなくなった夏枝はだから泣きながら首を絞めるしか他なかった。何も知らない陽子は母親の異常事態に戸惑い、しかし自分が今されていることが何やらただ事ではないことを悟り、母親の醜く悲しいその顔を見ないよう目を閉じて抵抗する。シーンの状況と背景は以上である。私が何に違和感を感じたのかというと、「演技である」ことが今更ながらはっきりとしたことに対してである。ドラマであるから、フィクションであるから「演技である」ということは十分すぎるほど了解済みであるが、しかしそれを承知の上で無きもののような場所へ視聴者をいかに置くことができるかにTVドラマの真髄はあるだが、首絞めのシーンはそうはいかなかった。冷めた視線が持ち上がってきたのである。飯島直子がどれほど力を込める演技をしようとも本当に力を込めてしまえば相手役の子供は死んでしまう。とすればそれは首に手を回しているだけの嘘なんだなと観る者を意識させてしまうのである。ではどうすれば場を成立させることができたのだろうか。まずはっきりしたことはドラマにおいては「本当らしさ」が求められているのであって「本当」である必要はない、ということである。それは死体を「演じる」という事について考えてみればいいだろう。死体を「演じる」俳優が画面に映ったときにさほど違和感を感じないのは、その俳優がピクリとも動かないからである。もし指先がかすかに動けばそれは嘘だとばれる。唇、足先、指先、まぶた、こういった末端部分が動かないよう俳優が努めてさえいれば「本当らしさ」が伝わり、私達は許容する。俳優は死体であるという「状態」を生きる。つまり身体を動かさないのはその「状態」を維持させるためのひたすらな内向きのベクトルを志向するのに対し、死体と同じくらい矛盾した演技である首絞めが大きく異なるのは、それが首を絞めるという殺人のための「行為」だからである。「受け身」か「行動」であるか、と言い換えてもよいが、己の力が対象物を変性させるという外向きのベクトルを持つことが、首を絞める演技を難しくさせてるのである。そして同じ殺人であっても鈍器で撲殺、銃殺といった凶器を使用する場合は違和感はさほどない。なぜなら鈍器や銃という明らかに殺傷能力のある凶器が容易に連想させる力に、殺意という人間の複雑怪奇な感情が置き換えられることによって可視化させられるからである。死体の演技と凶器を使っての殺人、この2つの非違和感から導き出させる首絞めの演技を成立させる方法は相手がどう受けるか、その如何にしかない。行為者はただ首に手を回すしかないのだ。歯を食いしばったり回した手に力を込めたフリをするのも徒労に終わるだろう。そういった力を出さば出すほど内へ抑制する同じ力を必要とするわけであって、結局力関係は均衡につりあってしまうだけである。だから行為者はただ首に手を回していればいいのである。問題の鍵を握る被行為者、つまり首を絞められる方の役者の身体が大きく変動しなければならない。『氷点』のシーンでいうと、事情を何も知らない子供が突然首を絞められる。あまりの突然さに呆然とし、すぐ後に優しい母親が豹変したという現実を理解するという変化を見えるような身体の変化として表現しなければ伝わらない。この場合の身体は殺傷能力を容易に連想させる凶器ような可視的な明確さを持たねばならないだろう。首を絞められた瞬間から振りほどくまでの一連の間、流れるように身体で「感情」を表現し続けるのだ。大きく目を見開き、口をパクパクさせる、すぐに無我夢中で身体全体を捩る。映像であったような目を瞑ってギリギリまで耐え、ちょっとの抵抗ですぐに解けてしまうような手の抜いた芝居ではすぐ見破られる。感情を高ぶらせなければならないのは、シーンを引っ張るのは母親ではなく、子供の方なのであり、首を絞める方法ではなく首を絞められる方法こそが重要なのである。
Dec 4, 2006
第14号◆長塚圭史作・演出「アジアの女」 「ふかふかの絨毯は生きた心地がしない」 今井克佳◆とくお組「マンモス」 さわやかで、空っぽで、のほほんとした笑いの世界 鈴木麻那美◆エジンバラ演劇祭2006-3 上演数1800の巨大フェスティバル エジンバラ・フリンジは劇場で選ぶ 中西理(演劇コラムニスト)第15号◆吾妻橋ダンスクロッシング規範をすり抜ける遊戯の内にダンス的な何か(「面白い」瞬間)がある木村覚◆エジンバラ演劇祭2006-4 シェイクスピアとシャーロック・ホームズを楽しむ 中西理(演劇コラムニスト)■千秋残日抄 第6回 記録と制度化-劇評の周辺1 北嶋孝第16号◆ベケット「エンドゲーム」 「待つ」ことの希望と救済 田中綾乃◆東京デスロック「再生」 身体によって発想された身体による物語 高木登第17号◆上品芸術演劇団「まじめにともだちをかんがえる会の短い歴史」 「確かな芝居」の世界へ切り替わる 内閉した心情をぶつけるシーンで 藤原央登◆タテヨコ企画「フラミンゴの夢」 不条理な展開が生むおかしみ ナチュラルな行為の積み重ねの先で 楢原 拓◆エジンバラ演劇祭2006-5 分かりやすいダンスにきわどい性描写 DANCE BASEの独自プログラム 中西理(演劇コラムニスト)第18号◆エジンバラ演劇祭2006-6 重要な独自技術の獲得と蓄積 既存テクニックの戦略的排除と同時に 中西理(演劇コラムニスト)「マガジン」の無料登録・解除はこちら。http://www.wonderlands.jp/info/subscription.html編集長 北嶋孝制作・発行 ノースアイランド舎・(有)ノースアイランド
Dec 3, 2006
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