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前回、S先生の御著書『神の残した黒い穴』の話をしましたが、この本についてはもう一つ、思い出があります。実は私が先生からいただいたこの本は、「世界で一冊しかない本」なんです。 先生がこの本を出版されたのは1978年。で、私が先生からこの本をいただいたのは、先生のご署名によれば、1992年4月25日。実はこの14年の間に、残念ながら本書は絶版になっていたんですな。で、先生のお手元にも先生の分の一冊しか無くなっていた。 そこで先生は、それでもこの本を私にくださるために、あることを思いつかれ、実行されたと。 そう、先生は私のために、お手元にある『神の残した黒い穴』を全頁コピーされ、それをご自身の手で製本され、私に贈って下さったのです。 本を一冊まるごとコピーするのは、時間はかかるでしょうが、まあ簡単な作業かもしれません。しかし、それを製本するとなると、これは大変です。とりわけ、先生がなさったようなやり方で製本するとなると、相当な時間がかかったはず。 本のコピーを製本する、といった場合、普通ならばコピーされた面が表になるように山折りにし、それを束ねて金具で留めるなりするでしょう。しかし、そうやって再現した本は、オリジナルと比べて奇数ページと偶数ページが逆になってしまいます。つまり、本を開いたとき、オリジナルとは逆に奇数ページが右側に、偶数ページが左側にきてしまう。それを先生は嫌われた。 そこで先生は、コピーされた面が隠れるように谷折りにし、それを束ねられたんですな。すると、コピーしたものの裏面にあたる白紙同士が隣り合わせになりますから、その部分を一ページずつ丹念に糊付けされていったわけ。何しろまるまる本1冊分ですから、この糊付け作業は何百回にも及んだはずですが、先生はオリジナルとまったく同じものを作るために、その労を厭わなかった。 それだけではありません。先生はさらに完璧を期すため、見返しはもちろん、背表紙と本体の間に「花ぎれ」までつけ、分厚いボール紙か何かで作ったと思しき硬い表紙もつけられ、そこにオリジナルと同様の表紙デザインを施し、さらにオリジナルと同じカバーをつけ、さらにオリジナルと同じ販売促進用の帯までつけて、それこそ見た目は、公刊された『神の残した黒い穴』と寸分違わぬものを作ってしまわれた。で、そうやって何日も時間をかけて作られた、世界でただ一冊の手作りのご著書を、当時、名古屋の大学に赴任したばかりの私に宛てて、いわば「就職祝い」として送って下さったのでした。 その後、今から数年ほど前のことでしたか、私は東京の某デパートで開催された古本市で、『神の残した黒い穴』の美本を見つけて購入しましたので、今、私の手元にはこの本が二冊あります。しかし、私が自分の所蔵する本の中でも最重要ランクの本として愛蔵しているのは、S先生が私のために作って下さった、世界でたった一冊の『神の残した黒い穴』であることは、言うまでもありません。 ところで、この本のことで私が今なお鮮明に覚えていることがもう一つありまして。それは、送られてきた小包の中からこの先生お手製の本を取り出した時、強いタバコの香りがしたことです。それはそうでしょう、ヘビー・スモーカーであられたS先生が、ご自分の書斎で何日もかけて切ったり貼ったりして「製作」されたものなのですから、本だって相当燻されていたに違いない。 しかし、その時とっさに思ったのは、ああ、これは先生がこの本の原稿を書いていらした間、先生が煙にしたはずの何千本ものタバコの、その残り香なのではないか、という幻想でした。そしてそのごく自然に発生した思いを、先生への礼状の中に認めたところ、私のその奇想をS先生は大変に喜ばれ、「よくぞ言ってくれた」という内容のお返事をいただいたのでした。そのお手紙は、もちろん、今も大切にとってあります。 ところで、この本に限らず、S先生はこの種の手作業というか、自らの手で何かを作るということが決してお嫌いではなかった。というか、もともと「造船科」のご出身ですから、手作業に関しては相当な自信がおありになったと思われるフシがあります。 それに、ただ手先が器用というのではなく、先生は創意工夫の才もお持ちでしたので、時々、非常に面白いものを作られた。 例えば本棚。先生のお宅にある本棚は、ほとんどすべてが先生のお手製で、これは製材所から同じ大きさの木板をいくつも買ってきて、この木版を無駄なく使いきれるような形で箱を作り、この箱を積み重ねて本棚にしてあるのですが、ただ木箱を積み上げてあるだけですから、ばらそうと思えばすぐにばらせる。このような分割可能な本棚にしておくと、引っ越しなどの際、本の持ち出しが非常に楽なんです。一個一個の箱に本を入れたままトラックに積み込み、新しい家についたらそれを積み上げれば、もうそれで本の引っ越しが完了してしまうのですから。 ちなみに、昨年の秋、アメリカ19世紀の文豪、ナサニエル・ホーソーンがかつて住んだ家をボストン郊外に尋ねた時、私はかのホーソーンもまた、S先生とまったく同じような「積み上げ式本棚」を使っていたことを発見し、この意外な一致に驚いたものでした。 S先生が編み出した手作業と創意工夫のもう一つの例として、先生考案になる「入試採点マシーン」のこともお話ししておきましょうか。 かつて先生がお若かった頃、勤務先大学の入試問題を作るときに、先生は一つの工夫をされた。まず入試問題を記号解答式にし、正しいと思う記号に受験生が丸をつけるような解答方法にしたんですな。で、その一方、採点用として「穴あき式シート」を作りましてね、受験生が提出した解答用紙にこの穴あきシートをかぶせると、その受験生が正答したか、間違ったかが一目でわかる、という風にされたんです。これなら、誰が採点するにしても、点数をつけるのがすごく楽になるわけ・・・少なくとも、理論的には。 ところがこの世紀の大発明、実際には大失敗に終わります。というのも、このシートは解答用紙にピッタリ重ねるようにして置かないと効力を発揮しないわけですが、お年を召したベテランの先生方の中には、その辺、いい加減にする人がいらして、受験生が正答しているのに、穴あきシートが少しずれたおかげで間違った解答をしたと見做されるケースが続出し、結局、最初から採点のやり直しをする羽目になってしまった、というのですな。 ま、この例は、S先生のせっかくの創意工夫が失敗に終わった例ではあるのですが、私はこの話を先生から伺った時、いかにも先生らしいなと思ったのでした。 しかし、先生の「手作業好き」が最高度に発揮された例は、実は先生のご自宅の奥にあったのです。そしてそれを初めて見せていただいた時、私はまさしく唖然としてしまったのでした。(この項、続く)
July 31, 2011
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今日は午前中、八光流柔術の道場において昇段試験があり、無事合格して初段を取ることができました! 今日から、「黒帯」となります。いや~、ついに、ついに、悲願達成! で、今日、昇段試験に臨んだ5人が5人とも無事合格して、師範から黒帯と証書を受け取った後、師範から講話がありまして。これがまた素晴らしかった。 八光流で言う「段位」とは、強さの度合いではなく、「その段で学ぶべき技の型を一応、習得しました」ということに過ぎない。で、それぞれの段で学ぶ技の型というのは、シンプルに見えて実に奥が深く、宗家がこの流派を通じて伝えようとしている思想(「挑まず、逆らわず、傷つけず」)の体現でもある。だから、昇段によって『自分はこの段の技の型を習得した」などと慢心することなく、これからは各人がその型をさらに磨きあげることによって、八光流の思想に近づく努力をすることが重要である。 ・・・と、まあそういう趣旨のことをおっしゃった。 なるほど、八光流柔術の型とは、八光流の理想に到達するための手段というか、通り道なんですな。これを修行することで、「敵と和する」ということの本当の意味を悟ることが最終目的であると。 分かりました。不肖・釈迦楽、師範がおっしゃった言葉を胸に刻み込んで、今後とも修行して参る所存でございます!
July 31, 2011
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S先生からいただいた本としては、もう1冊、忘れられないものがあります。それは『神の残した黒い穴 現代アメリカ南部の小説』(花曜社、1978年)という本。これはS先生がまとまった形で公刊されたアメリカ文学の研究書としては唯一のもので、この本により、先生は第一回日米友好基金アメリカ研究図書賞を受賞されています。 本書は、その副題が示す通り、20世紀半ばのアメリカ南部小説についての研究書で、「アメリカ南部小説の全体像」と題された第1章において南北戦争において敗戦を経験した「アメリカ南部」という地域の特異性と、その独特な精神性の中で育まれた豊かな文学世界を概括した後、第2章以降はそうした南部作家を代表する作家として、ウィリアム・フォークナー、トマス・ウルフ、ウィリアム・スタイロン、フラナリー・オコナーの4作家が個々に論じられるという布陣。しかし、第2章以降のモノグラフの中では、ウィリアム・フォークナーを論じる部分が、他の3作家を論じる部分を合わせたものよりも分量的に多いことから言って、この本を書いていた頃の先生の関心の中心に、ウィリアム・フォークナーがいたことは明らかでしょう。 S先生が亡くなってから、先生がアメリカ文学研究者として最も精力的に活動していらした頃に書かれたこの本を、私はもう一度読み直してみました。もちろんそれはフォークナーについて勉強するためではなく、先生がなぜそこまでフォークナーに入れ込んでいらしたのか、そのことを改めて考えてみたいと、そう思ったからです。 で、そういう読み方をしてみて気付いたのは、先生がフォークナーの一連の作品を、「未来」という観念をキーワードとして、3期に分類していらした、ということでした。 S先生の見立てによれば、フォークナーの習作時代の作品はもとより、『響きと怒り』(1929)から『八月の光』(1932)、さらには『アブサロム、アブサロム!』(1936)まで、すなわち作家としてのスタートからおよそ10年ほどの間のフォークナー作品の主人公たちは、すべからく「死」に取り憑かれている。つまり彼らにとって過去は恐ろしく、現在はもっと恐ろしく、そこから逃避するには死ぬしかない、という強迫観念に彼らは苛まれている。 例えば『響きと怒り』のクェンティン・コンプソン。彼は最愛の妹の堕落に耐えられず、彼女の罪を自分の罪に置き換え、二人して地獄の業火に焼かれることによってしか、再び清浄な世界を取り戻すことはできない、という思いに囚われている。彼にとって「現在」という時間は苦痛そのものであり、「未来」はさらに暗い世界でしかない。刻一刻と悪化していく状況の中で、クェンティンにとって「未来」は今よりさらに恐ろしいものでしかないんですな。だからこそ、彼は親伝来の腕時計を壊し、時計の針が未来へ進めないようにした挙句、自らも川に飛び込んで入水自殺してしまう。S先生ご自身の表現を引用しましょう: 『響きと怒り』のなかのクェンティンにとっては、現在が苦悩に満ちているだけでなく、未来もまた苦悩以外のなにものでもない。したがって、彼は彼の父の考えを受けいれている。「キリストは磔刑にされたのではない。小さな歯車のかすかなコチコチという音で擦りへらされたのだ(九十六ページ)。」 ここにあらわれたキリストは復活(よみがえり)でも生命(いのち)でもありえない。クェンティンの頭のなかでは、キリストにとってさえも、死は終焉である。未来はまったくとざされている。(99頁) ところが、こうした過去に縛られ、未来に対して何の希望も持てぬまま、現在の中で窒息していく主人公を描いてきたフォークナーに、一つの転機が訪れる。S先生はその兆しを『征服されざる人々』(1938)や『野生の棕櫚』(1939)といった作品群に見ています。とりわけ『野生の棕櫚』の中で二つの物語が、すなわち、死の世界を描くハリー・ウィルボーンを中心としたストーリーと、生を希求する「のっぽの囚人」を中心とするストーリーが一章ごとに交代しながら進んでいく構成の中に、フォークナーが「死一色」の世界から抜け出しつつあった気配を、S先生は見て取られた。 そして『行け、モーゼ』(1942)以降、フォークナーの後期を飾る『墓地への侵入者』(1948)、『尼僧への鎮魂歌』(1951)、『寓話』(1954)といった諸作品の中には、もっとはっきりとした形で「未来」への希望がある、とS先生は考えられたんですな。これらの作品の中には「かつての死の世界に対して、ここには生への欲求、人間の不滅性を信じようとする精神がある」(113頁)のであって、フォークナーはこれら後期の作品において、『アブサロム、アブサロム!』までの自分を覆し、「未来」に希望を持つ努力をしたのだと。 とはいえ、もちろんS先生は、フォークナーが悲観的世界観を捨てて、楽観的な世界観に移行したのだ、という風に単純に考えておられたのではありません。死ではなく、生を選んだがゆえに、ますます過去と現在の亡霊は激しく襲い掛かってくる。しかし、それにも関わらず、人間は耐え忍ぶことができると、いや、耐え忍ぶだけではなく、勝利すら得るのだ、とフォークナーは考えるようになった。そしてこれこそがフォークナーが最終的に到達した地平だと、S先生は考えられた。そしてフォークナー自身の言葉、すなわち: 人間の不滅性とは、人間が打ち破ることのできない悲劇に直面し、それでもなお、その悲劇を克服しようと努めることである。(139頁) という言葉を引いて、そのことを証しようとされた。フォークナーのこの言葉に、「未来」への希望があることは言うまでもありません。 S先生がこのようなフォークナー作品の変遷・成長の中にどれほどの希望を見られたか、そして上に挙げたフォークナーの言葉に出会われた時、先生がそこからどれほどの力を、どれほどの励ましを受けられたか、私には容易に想像できるような気がします。 先生が最愛の奥様を亡くされた時、先生には「未来」がなかった。『響きと怒り』のクェンティンと同様、「未来」を示す時計のコチコチという音は、苦しみがこの先も続くことを予言する不吉な音でしかなかった。実際、奥様を亡くしてから『怒りと響き』を再読されたS先生は、それまで愛用されていたオメガの時計を腕にはめることができなくなって、それを息子さんにあげてしまったといいます。その頃の先生は、『怒りと響き』の世界、あるいはフォークナーの文学世界の最暗黒点たる『アブサロム、アブサロム!』の世界に沈滞しておられた。 しかし、フォークナーはそこから這い上がった。過去が、現在がどれほど過酷でも、人間には「未来」に希望を持つ権利があるし、それこそが人間の尊厳なんだ、という確信を持った。ならば、自分だって「未来」に希望を持ってもいいではないか。フォークナーにできたことならば、自分にもできないはずがない。S先生はそのように考えられたに違いない。 その意味で、私は『神の残した黒い穴』という研究書は、S先生にとって、暗黒から這い上がろうとする先生ご自身の強い意志そのものだったのではないかと思います。だから、この本には力がある。希望がある。 しかし・・・。 今、この本を手にしている私は、S先生が体験されたさらなる暗黒のことを思わざるを得ません。フォークナーを読むことで、またこの本を書くことで、それまで閉じ込められてきた暗黒の世界から這い上がるかすかな手がかりを得られたS先生に、神はさらなる試練を課したのです。 先生が『神の残した黒い穴』を完成させる長い闘いを終えられ、脱稿されたのが1977年の3月16日。ところが、そのわずか数時間後、1977年3月17日の未明に、先生は警察から一本の電話を受けることになる。 警察からの電話は、先生の息子さん、隆志さんが、第三京浜川崎インターの分岐に時速160キロで衝突し、事故死されたことを告げるものでした。 その時、S先生がもはや腕に巻く気が無くなり、隆志さんに渡していたあのオメガの時計は、激しい衝突の衝撃によって、隆志さんが亡くなったであろう午前2時48分で止まったまま動かなくなっていたそうです。 そしてS先生にとっての時間もまた、その時に再び止まってしまった。一旦、未来に向かって再び時を刻み始めた先生の時間は、今度こそ永遠に止まってしまったのです。(この項、続く)
July 30, 2011
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『ヨブ記』の最重要部分、すなわち神から与えられた度重なる試練を受けたヨブが、最終的に神に対してどう述べたかを記述する部分に、神を否定するバージョンと、神を受け入れるバージョンの二種類が存在することに気づいたS先生は、この謎を解くためにどうしても必要なことをしようと決意されたのでした。 そう、先生は日本語訳とか英語訳などの翻訳ものではなく、原語で聖書を読むために、ヘブライ語を勉強することを決意されたのです。この時先生は還暦まであとわずか、というお年だったはず。そのくらいのお年の時に、ヘブライ語のアルファベットから勉強を始められた。 ヘブライ語のアルファベットは22字。英語より少ないくらいですが、この22字には母音が含まれていません。だからそのままでは発音できない。実はヘブライ語にはアルファベットとは別に、母音記号というのがあって、これを振り仮名のようにアルファベットの下にくっつけることで、それをどう発音するかが決まるんです。ですから、当然、その母音記号もすべて覚えなくてはならない。母音記号は小さな記号ですから、老眼の先生としては、これを見分けるのに随分苦労されたそうです。 ところで、ヘブライ語のアルファベットと母音記号に関して、一つ興味深いことがあります。それは神の名前についてのことなのですが。 キリスト教の神の名は、「ヤハウェー」であり、ヘブライ語のアルファベットを英語のアルファベットに置き換えて書くならば大体「JHVH」となります。この4文字の並びは非常に聖なるものなので、「テトラグラマトン」と呼ばれ、聖書の中でもこの4文字だけ大きな文字で書いてある。 しかし、神の名を人間ごときが気安く呼んではならないということで、通常「ヤハウェー」ではなく、「エドナーイ」と発音することになっている。「エドナーイ」とは「我が主」という意味。 そこで、先ほどのテトラグラマトン「JHVH」には、「ヤハウェー」と読むための母音記号ではなく、「エドナーイ」と読むための母音記号がついているわけ。つまり「e」「o」「a」の母音記号がついている。 で、これを子音と合わせると「Je Ho Va H」となって、発音すれば「イェホヴァ」となる。 つまり、日本でもしばしばキリスト教の神の名と思われている「エホバ」という言い方は、「文字ではヤハウェーと書くが、読む時はエドナーイと読む」という決まりを誤解してごっちゃにした誤った言い方、ということになるんです。 ヘブライ語を学んでいくにつれ、S先生は、上に述べたようなことも知るようになっていくんですな。 そして、そんな風にして勉強を続けられた結果、聖書を原典で読むだけのヘブライ語の力を得られた先生は、いよいよ『ヨブ記』をヘブライ語で読み始めるんです。そして、問題の箇所に差し掛かる。 『ヨブ記』13章15節は、ヘブライ語で発音すると「ヘン イクトレーニー ロー アヤーヘル」となります。一語一語を日本語に訳せば「ヘン(見よ) イクトレーニー(彼(=神)は私を殺すだろう) ロー(ない) アヤーヘル(私は待ち望む)」となる。特に後半の「ロー アヤーヘル」は「私は待ち望まない」ということで、これは口語訳聖書でいう「見よ、彼は私を殺すであろう。私は絶望だ」の「絶望だ」に当たるのであって、このままですと文語訳聖書が間違っていて、口語訳聖書が正しかった、ということになりそうです。 ところが。 ヘブライ語聖書にはここのところに注がついている。その注によると、この部分の「ロー」は、否定語である「LA」と書いてはあるが、「彼を」を意味する「ロー」(その場合は「LW」)と読むべきだというのですな。そうなると、「ロー アヤーヘル」は「私は彼を待ち望む」と訳すべきであり、今度は文語訳の「我は彼に依り頼まん」が正しい読み方で、口語訳が間違っているということになる。 つまり旧約聖書の原典であるヘブライ語聖書で読んだとしても、やはり肝心な「ロー」の解釈が揺れているのであって、要するに、どちらの読み方が正しいかは永遠に分からないと。そういうことが分かった。 この「分からない」ということが分かるまで、S先生は3年間を費やしたと言います。 私が一番最初にS先生にお会いした時のことは、この一連の文章の一番最初に書きました。その時、S先生は、オコナーの小説のある箇所が分からないのに質問をしなかった我々学生に対して、ものすごく怒られた。なぜ分からないのに分かったふりをするのかと。自分には分からない、ということを、どうしてはっきりと自覚しないのかと。 私は『腰に帯して、男らしくせよ』の冒頭の短編を読んで、どうしてあの時、S先生があれほど怒られたのか、その理由が分かったような気がしたのでした。 そしてそれと同時に、先生がいかに深く亡くなった最初の奥様を愛され、また亡くなった息子さんを愛されていたか、そしてそのかけがえのないお二人をお二人とも奪われた先生が、その後何年経ってもその痛手から抜け出せず、なぜこういうことが自分の身に降りかかったのか、それは果たしてS先生のせいなのか、もしその運命を課したのが神であるのならば、神はなぜそういうことをされるのか、そしてその神に対する怒りをどういう形で表せばいいのか、ということを、ご自身の存在すべてを賭けて考え続けられ、そして今なおその中で七転八倒の苦しみを味わい、のた打ち回っておられるか、ということを知ったのでした。そうでなければ、還暦目前にして、新たに言語を勉強し始める、などということまでするはずがないでしょう。 そのこと知った上でさらに私の胸を打つのは、この小説集に掲載されている「ボイジャー二号に乗って」という短編です。これは、苦悩に溢れた地球上での暮らしに飽きたS先生が、もはやこの世には永遠に戻らぬ決意でボイジャー2号に乗り、宇宙に飛び出す、という設定の空想的な小説。さすがに元理系のS先生らしく、ボイジャーのスピードから割り出して、月の近くを通過するのは何時間後か、木星や土星に到達するのは何年後か、などという細かなところまで書かれている。 そういう形で宇宙に飛び出された先生は、月を通過した8時間後に亡くなった奥様に出会うんです。亡くなられてから18年間、宇宙空間をトボトボと歩かれていた奥様とすれ違うわけ。 そしてそれからさらに82時間後、今度は亡くなった息子さんとすれ違うんですな。息子さんが亡くなられたのは奥様が亡くなられた13年後ですが、なにせ息子さんは交通事故を起された時に乗っていたスカイラインGTに乗り、時速160キロで宇宙空間を突っ走っていますから、それだけ息子さんの方が地球から離れていたんです。 この小説は、宇宙空間で息子さんとすれ違う時の様子で締めくくられます。その部分を引用しましょう: それから八十二時間たったとき、私は息子と出会った。地球からの距離は五百万キロメートルのところだった。息子はスカGに乗っていた。事故死直前の目撃者が推定したスピード、時速百五十ないし百六十キロで四年近く走り続けていた。ボイジャーがスカGとならんだとき、息子は前方を見つめていた目を少しそらして、私のほうに向けた。黒の革ジャンパーの下に、赤と白のチェックのシャツが見える。あのときの服装だ。 「や、お父さんか。バックミラーにボイジャーがはいってきたからさ、だれかなと思ってたんだよ。ちょうど今、お父さんのことを思い出していたのさ。ほら、あの腕ずもうの大勝負をやったとき、右手と左手と両方ともやろうって言って、はじめ右手からやってさ、二人とも土俵代わりの机のまわりをぐるぐるまわって、机の足ががたがたにゆるんじゃってさ。三十分だっけ? 一時間だっけ? 熱戦だったよね。とうとう僕が勝った。勝ったぞ、勝ったぞって僕は叫んだ。生まれて初めてだ。でも、左手で勝ったときのほうがうれしかったよ。なにしろお父さんは左利きが自慢だったもんね。お父さんが左手で負けるとはね。」 そう言って息子はほんとうにうれしそうに高い声で笑った。ハンドルを握っているから、あの勝負の終わったときのように両手を大きくふりあげたり、畳の上をころげまわったりはしなかったが、とてもすなおに、とても純真に、本当に心からうれしそうに笑った。いつまでも、いつまでも笑っていた。 初めてこの短編のこの部分を読んだ時、私は泣きました。そしてあれから25年経った今、この文章を書き写しながら、私はまたも涙にくれていると白状しなければなりません。(この項、続く)
July 29, 2011
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学部3年、4年とS先生の授業に出、さらに大学院に進学してからも先生の授業に出続けたわけですから、大学院修士課程に在籍していた頃には、私とS先生は大分親しい間柄になっていました。 特に大学院時代は、先生の授業に出た後は他に授業があるわけではなし、また先生もその授業が終わると本務校である明治大学に戻られる。そこで先生と私は、授業が終わると一緒に帰路につくことになるのですが、何しろ私は当時から古本マニアで、本来なら山手線で新宿に出るのが一番近いのに、わざわざ都営地下鉄線を利用し、古本屋街として名高い神保町を経由して通学していた。先生のお勤めの明治大学は神保町が最寄り駅の一つですから、S先生もそこで降りられるので、つまりは私の通っていた大学から神保町の駅まで、ずっと先生とご一緒することになるわけ。しかもそれが毎週のことですから、その間に自然、先生と色々なお話、というか雑談をするようになったのも当然でしょう。 40歳近い年齢差があるS先生と、当時私がどんな雑談をしていたのか、今ではさっぱり思い出せませんが、年上の方とご一緒したり、お話を伺うことに何の苦手意識もないばかりか、むしろそういうのが大好きな私としては、S先生を前にしても臆することなくペラペラとしゃべりまくったのではないかと思います。そもそもS先生は寡黙でいらして、しかも黙っておられると、その引き締まった御顔立ちとも相俟って結構恐そうに見える。そんな「寄らば切るぞ」的な風貌の先生にピタリとくっついてペラペラしゃべりまくる私に、先生も内心、「妙な奴だな・・・」と閉口されていたかもしれません。 いや、しゃべるばかりでなく、私は催促までしますからね・・・。 例えばある時、当時先生がお使いだった筆入れをひと眼見て気に入ってしまった私は、その上品なオリーブ色に染められた革の美しさや、羊飼い(?)を模したと思われる絵柄の美しさを、大学から帰る道すがら、褒めそやしたことがありまして。すると翌週だったか、その次の週だったか、先生がそれと同じものをわざわざ買ってきて下さった。結果としてはずうずうしくも先生におねだりしてしまったようなことになるわけですが、そういうことも私と先生の関係の中で何度となくありました。ちなみに件の筆入れ、それはお茶の水にある「CLC」というキリスト教関連の書籍を扱う書店で売っているものだったのですが、それは今もなお私の宝物として通勤鞄に入れてあります。 もちろんもらうばかりではなく、私も先生に色々なものを差し上げました。 今もよく覚えているのは、携帯用の小型の灰皿。いつだったか家族で山形県を旅行した際、土産物店でピルケースのように蓋の閉まる小型の灰皿を売っているのを見つけ、山形の名産である紅花で染めた表面のデザインも気に入ったので、それを買ってS先生に差し上げたことがありました。で、以来、先生が授業中におもむろにその灰皿をポケットから取り出し、それを使って教室でタバコを吸われるのを見たりすると、「お、先生、使ってくれているな」と嬉しくなったものでした。当時はまだ、授業中に先生がタバコを吸うことも、大目に見られていたのでしょう。 またいつだったか、私の父がある人からライターをもらったことがあって、タバコを吸わない父には無用の長物だったので、私がそれを父から譲り受け、それをそのままS先生に差し上げたことがありました。それは「内燃式」とでもいうのか、外部に炎が出ない特殊なライターで、S先生も大層気に入っていらした。が、その後ほどなくして先生はそのライターを失くしてしまわれ、「あなたにもらったライターを失くしてしまって・・・」といつまでも申し訳なさそうにしていらしたこともありましたっけ。 そんなわけで、先生と親しくなるに従い、何かをいただいたり、こちらから差し上げたり、ということも増えていったわけですが、先生からいただいたものの中でも、私にとって一番嬉しかったものはもちろん本、それも先生御自身の御著書を署名入りでいただく時ほど嬉しいことはありませんでした。 私が先生から一番最初にいただいた本は、『腰に帯して、男らしくせよ』(東峰書房刊)だったと思います。今この本を開いてみると、扉にある先生のご署名の脇に「昭和六一年 十二月三日」と書いてある。ですから、この本をいただいた時、私は修士課程の1年生だったことになります。先生とのお付き合いも3年目となり、先生も私という人間を見極められて、この本を読ませてもいいと判断されたのかも知れません。 で、先生に署名入りで御著書をいただき、すっかり嬉しくなって、それこそ喜び勇んでこの本を読み始めた私は、出だしからいきなり棍棒でぶん殴られるような衝撃を味わうことになったのでした。 この本、『腰に帯して、男らしくせよ』は、先生のお書きになった小説集です。S先生は、もちろんアメリカ文学の研究者であり、またアメリカ文学の翻訳家であるわけですが、同時に小説家でもあった。そして先生のお書きになる小説は、基本的にそのほとんどが私小説であって、先生が実際に体験されたことを元にして書いてある。ですから、そこに書いてあることは、すべて事実であると、実際に起こったことであると考えていい。こう言うと、まるでS先生には実体験を創作物に昇華する力がないと言っているようで何だか嫌なのですが、そうではなくて、先生が実際に体験なさったようなことを、想像上ですら思いつく人間がいるか? と言いたくなるような種類の、まさに想像を絶する過酷な体験が小説の体をとって綴られていると。S先生の私小説というのは、そういう類のものなんです。 で、この小説集の冒頭にあるのが、標題作の「腰に帯して、男らしくせよ」だった。 この小説は、S先生ご本人と言ってよい語り手の「私」が、浅野順一氏の書いた『ヨブ記』(岩波新書)をある種の感動をもって読んだ、というところから始まります。聖書に出てくるヨブ同様、苦難の道を歩まれた浅野氏の渾身の書ということもあって、大変な名著であると。が、この本を読んでいた「私」は、一箇所だけ、本書の記述に違和感を覚えるんですな。それは浅野氏が聖書の『ヨブ記』の13章にあるヨブの言葉を引用している所で、そこには「見よ、彼(=神)はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ」と書いてあった。 ところが、「私」もまた『ヨブ記』を何度も読み返した経験を持ちながら、『ヨブ記』の中に「わたしは絶望だ」などといった激越な言葉が書かれていた、という記憶がなかったんですな。 そこで不思議に思った「私」は、自分の持っている文語訳聖書の当該箇所を開いてみる。と、そこには果たして「彼われを殺すとも我は彼に依り頼まん」と書いてある。 つまり、浅野氏の引用した口語訳聖書では「わたしは絶望だ」となっているのに対し、文語訳聖書では同じ箇所が「依り頼まん」となっていて、いわばヨブの神に対する気持ちが正反対になっていたんです。これは一体、何故なのか。 そこで「私」は、口語訳・文語訳に限らず、日本語に訳された聖書をすべて取り寄せて当該箇所を読み比べ、また欽定訳聖書をはじめ、あらゆる英語版聖書を読んでみるわけ。しかし、結果は同じ。つまり、「もう私は絶望だ」とするものと、「それでも私は神に頼ろう」とするものの二種類がある、という事実しか分からない。 普通なら、そうか、聖書のこの箇所には二種類の訳があり、解釈が二通りあるのか、というところで終わるでしょう。ところが「私」は違うんですな。「私」はこの問題をさらに追求しようと決意する。いや、そうせざるを得なかった。 なぜなら、「私」は「ヨブ」と同じ悩みを抱えていたから。「私」もまた「ヨブ」と同様、最愛の子を失い、最愛の妻を奪われるという苦難を経験し、そのような運命を課した神に対し、どういう態度をとればいいのかということを悩み抜いていたから。もう俺は絶望だ、そんな運命を課した神などもはや信ぜぬ、と言えばいいのか、それとも「それでも神に頼もう」と言えばいいのか。この二つの道の岐路に立ち、どちらへ歩を進めればいいのか、七転八倒の悶え苦しみの中で悩み抜いていたから。 もうこれ以上、面倒臭いことは止めましょう。この小説の主人公たる「私」は、S先生そのものなのであり、『ヨブ記』が曖昧に指し示す二つの道のどちらを取るか、それを決めるために、この問題を最後まで突き止めざるを得ない羽目に立ち至ったのは、S先生その人だったのです。(この項、続く)
July 28, 2011
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さて、博士課程を終えた私は1992年に名古屋にある、とある大学に赴任することとなりました。そしてそれは私にとって6年間続いた『クラレル』講読からの脱落を半ば意味していました。やはり実際に大学に定職を持ってしまうと、それなりに忙しく、東京と名古屋の距離が、『クラレル』講読を続けるためには大きな障害となってしまったのです。 それでも、S先生との間で交わした当時の書簡などを見ると、先生が私の名古屋の自宅宛てに訳稿を送って下さり、それについて私が疑問点などを指摘し、それについて先生が回答され、その回答について私がさらにコメントをし、そのコメントに対して先生がさらにコメントされるというようなやりとりがなお2年程続いていたことが分かります。もう20年近く前のことなので、その辺の経緯をすっかり忘れていましたが、少なくとも私が名古屋に移った当初は、そんな風でした。 しかし、それでもやはり東京と名古屋の間の距離は埋めがたく、またS先生も私を煩わせることをためらわれたのか、最後の最後の方では、私が先生のご訳稿の一言一句についてチェックする、ということは行われなかったように思います。今にして思えば、どうしてもうひと踏ん張りして、先生の『クラレル』の旅の最後までお付き合いしなかったのかと悔やまれますが、事実としては、先生の『クラレル』翻訳のお仕事の最終段階については、私はほぼノータッチでありました。 もちろん、S先生は『クラレル』講読を私や、あるいはT君とのみ行っていたのではなく、明治大学の院生さんたち、あるいは先生が長年にわたって行ってきた学外者も含めての読書会のメンバーの方々なども、いずれの時点かでこの講読に参加していたでしょうから、S先生の『クラレル』完訳までの道行きに伴走者が絶えてしまった、ということではありません。 が、しかし、あれだけ難解で長大な詩を翻訳するとなれば、やはりS先生個人の強い意志が無ければ到底達成できない事業であり、それを先生は一人でコツコツと続けられたのだと思います。何しろ、主人公クラレルがエルサレム及びその周辺地域で歩いた、まさにその道のりを確認すべく、先生は1987年と1990年に2度にわたってイスラエルを訪問されているのですから、一体どれほどの情熱を傾けてこの詩を翻訳されていたか、その情熱の大きさが伺えるというものでしょう。 いや、それだけでなく、翻訳の土台となるテキストも、スタート当初はウォルター・ベザンソンが編纂したヘンドリックス・ハウス版を使用し、適宜ラッセル&ラッセル版を参考にしていたものの、翻訳作業の途中、1991年に最新の研究成果を反映させたノースウェスタン・ニューベリー版が出ると、S先生は使用テキストをノースウェスタン・ニューベリー版に変えることを決意され、最初の一行から翻訳の見直しを行なわれたばかりか、注もすべてノースウェスタン・ニューベリー版のものを翻訳し直されたのでした。つまり、翻訳の全作業を途中ですべて振り出しに戻すようなことまでされた上で、とにかく可能な限り最善の翻訳を出そうと努力された。もちろん、本作に関わる研究書はすべて読破され、そこからの知見を取り入れた多くの「訳注」も付けられたことは言うまでもありません。 で、それだけの厳しい作業を経た上で、1985年に先生がこの作品の翻訳を志されてから14年目にあたる1999年、ついに『クラレル』は『クラレル 聖地における詩と巡礼』という標題の下、南雲堂書店より出版の運びとなったのでした。総ページ数982頁、電話帳のように分厚い、上品な薄緑色の函入り装丁で、本の扉には先生ご自身がエルサレムで撮影された、岩のドームにかかる虹の写真までついたなかなかの豪華本。とはいえ、これは自費出版ですから、出版にかかる莫大な費用の大半はS先生の懐から出たのでした。残念ながら我が国には、メルヴィルの大部な詩作品を商業出版として引き受けてくれる出版社など無かったし、またそれを享受する読者層もまた、さほど期待できなかったからです。 が、それはともかく、14年越しの努力が実ったわけですから、S先生もさぞほっとされたことと思います。そして、そのことをお祝いすべく、私とT君は、ささやかながらお祝いの宴を催すことにしました。東京は初台にある東京オペラシティーの上階にある某レストランにS先生をお招きし、三人で昼餉をいただいたのです。 で、その時、微々たるものとはいえ、先生の翻訳のお手伝いをしたことを労うという名目で、先生は私に一本のボールペンを下さったのでした。スイスの筆記具メーカーであるカランダッシュ製のゴールドの油性ボールペンで、これを先生は神保町にある筆記具の老舗・金ペン堂で買い求められたのでした。 実は私は学生時代からずっと水性ボールペンの愛用者であり、黒いインクのボテの出る油性ボールペンを毛嫌いしていたのですが、このカランダッシュのボールペンはボテなど一切出ず、またその黒々としたインクの色に特徴があって、また手に持った時の適度な重みも快く、以後、私はこのボールペンを愛用し続けています。今となっては、これがS先生の形見のようなものだなと思いつつ。 しかし、私のような部外者にしてみれば、「ああ、これで終わった。14年の戦いが終わった」とか言って、後は知らんふりを決め込めば済むわけですが、S先生は決してそうではなかったことを、私は後で知ることになります。 というのは、幸いなことに『クラレル』の初版は数年のうちに売り切れてしまい、2006年に初版第二刷を出すことになったんですな。で、その第二刷の「あとがき」によると、第二刷では初版を50箇所にわたって修正・改稿し、また1999年以降に発表された3本の研究論文、1冊の研究書、そして『クラレル』についての論文を書いている人物を主人公に据えたポール・オースターの小説(The Brooklyn Follies)を参考にして注を増やした、と書いてあった。 一度仕事をまとめられた後もなお、その成果をさらに良いものにするべく努力を続けること。S先生のお仕事の凄さというのは、実にこの執念にこそあったのでした。 第二刷の「訳者あとがき」の末尾に、先に挙げたオースターの小説の主人公が、結局『クラレル』についての論文を書き上げられなかったことに言及しつつ、またS先生ご自身をも戒める意味も込め、先生は次のようにお書きになっています: 物事を知らずにいること、行なうべきことを行なわずにいること、それも「人間の愚行のかずかず」に加えられるべきことである、と私はオースターに知らせてやりたい。(978頁) この言葉は、まさにこの種の愚行を繰り返すばかりの私の心臓に突き刺さってくるような迫力を今もなお持っていると、私は告白しなければなりません。(この項、続く)
July 27, 2011
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私がS先生の『クラレル』講読に参加していたのは6年間だと言いましたが、最初の2年は私の大学院修士課程在籍時で、これはS先生が私の在籍していた大学に教えに来ていただく形で行ったもの。後半の4年間は、博士課程に進学した私がS先生の明治大学の研究室に毎週お邪魔する形で読み進めたのでした。 なぜそうなったかと言いますと、私が修士課程を終えた時点で、S先生が私の在籍大学での非常勤講師の職をお辞めになったからです。 これに関しては背後に事情がありまして、私が修士課程を終え、博士課程に進学する時、学部時代から私の指導教授であられたO先生が、早期定年に伴い、他大学に転出されたんですな。それでS先生はこのO先生の辞職・転出にいわば殉ずる形で、非常勤講師を辞められたと。S先生を私の在籍していた大学に招かれたのはO先生なのだから、そのO先生が大学を辞められる以上、自分も辞めたいと、まあそう思われたわけですが、こういうところがS先生のS先生たる所以でありまして、筋を通すところは通すと。古い世代の仁義と言えばそうでしょうが、私自身も年齢の割に古い人間ですので、S先生の身の処し方をとても潔いものとして受け取ったことを覚えております。 で、このことに関してもう一つ、エピソードがありまして。 実はO先生が転出され、S先生も非常勤講師を辞任されると分かった時、このお二人を人生の師と決めていた私は私で、ここはひとつ、筋を通すべきだろうと考えたんですな。 つまり、事態がこうなった以上、私もまた学部・修士課程と在籍してきた大学を離れ、S先生のいる明治大学の博士課程に進学すべきだろうと、そう考えたわけ。 で、そう決意して親に相談したところ、当然、猛反対です。何を言っているのかと。しかし、私は私で、O先生のいらっしゃらない大学の博士課程に進むより、S先生がいる大学の博士課程に進学する方が自分の取るべき道ではないかと譲りません。 で、親との大衝突の挙句、思い余って私はS先生にこのことをご相談したわけ。「そういうことなら、私のところへ来い」と言って下さることを期待しつつ。そう言って下されば、親が何を言おうと、勝手にそうしてしまうつもりで。 ところが、S先生はそうはおっしゃらなかったんですな。私に、今在籍している大学の博士課程に行きなさいと、そうおっしゃった。その方が、この先就職する時に有利だからと。 いや、有利・不利というのは、私には関係がないんです! 私はサムライだから、サムライとして筋を通したいんです! という私の気持ちは、S先生からの予想外の反対にあってヘナヘナと萎んでしまった。かくして、私はそのまま、在籍大学の博士課程に進学することと相成ったんですな。 その時の私の気持ちを思い起こすに、確かに若干、ガッカリしたところがありました。が、だからといってS先生に対する尊敬の気持ちがいくらかでも減じたかというと、そんなことはありませんでした。私は長幼の序というのを非常に重んじるので、年長の方からのアドバイスには重きを置きます。ましてや尊敬するS先生のアドバイスともなれば、もう絶対服従です。若気の至りで私に見えないことを、S先生が私に代わって見て下さっているのだから、私としてはそれに従うまで。そういう気持ちでいましたので、自分の気持ちはともかく、S先生のお言葉に淡々と従ったんですな。 そして、今、改めて思えば、やはりS先生のアドバイスに従っておいて良かったと思います。 さて、そんなような事情のもと、S先生が私の在籍大学に来られなくなったもので、私が博士課程に進学して以降は、私が御茶ノ水の明治大学に毎週水曜日に出向き、先生の研究室で『クラレル』講読、というか、翻訳のお手伝いをすると、そういうことになった次第。で、この頃は私の学部時代の後輩で、大学を卒業して一旦高校の先生になった後、そこを辞めて明治大学の大学院に復学していたT君も、この『クラレル』講読に参加することになりました。 しかし、場所が変わり、参加メンバーが変わっても、『クラレル』を読む厳しさには少しの変化もありません。相変わらず、頑固と頑固のぶつかり合いです。 で、ある日、いつものようにS先生と私の解釈が異なる部分が出てきて、その箇所を論ずるのに数十分を費やしたものの、依然として意見が平行線のまま、ということがありまして。 とはいえ、そういうことは前にもあったので、私としては、S先生の訳に納得できない以上、あくまでも反対し続けたわけ。 と、どういうわけかその日に限ってS先生が非常に怒られまして。私の反対は、反対するための反対で、意味をなさないと、激しく私を叱責された。 この時は、さすがの私も驚きました。まさか、そういう形でS先生に叱られるとは思わなかったもので。また怒られるようなことをした覚えもなかったもので。 で、叱られた私は黙ってうつむいて項垂れていたのですが、次第に涙が出てきて、その涙を目の中に溜めておくのに苦労したことを覚えています。もしその時、隣にT君が居なければ、その場でわっと泣いていたかも知れません。 そして家に帰ってからも、当該の箇所を読み返してみるのですが、どう考えてもS先生の解釈の方がおかしくて、自分の解釈の方がいいように思えて仕方がない。 そこで私は、もう一人の恩師であるO先生のもとを訪ね、事情を説明してご意見を伺ったところ、「そりゃ、S君が間違っていて、君の解釈が正しいんだよ」とおっしゃる。 で、それに自信を得た私は、次の会合の前にS先生にお手紙をしたため、叱られてしまったけれども、どう考えても私の方が正しいような気がしてならない、という趣旨のことを訴えたんですな。 私の手紙が先生のもとに届いたかしら、と思った頃、早くも私はS先生からお返事のお手紙をいただくことになりました。そしてそこには、先日、私を叱ったことを後悔している旨のことが書かれており、続けて「あなたに浴びせた叱責の言葉は、跳ね返って、私の頭に降りかかっています」と記されていた。 そのお返事をいただいた時、私がどんな風に思ったか、今は忘れてしまいました。嬉しいと思ったのか、先生に謝らせてしまって申し訳ないと思ったのだったか・・・。 私がS先生に叱られたのは、後にも先にもこの時一回きりでした。(この項、続く)
July 26, 2011
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前回、S先生の『クラレル』講読に参加した、という話をしましたが、これはただ単に『クラレル』という作品を読む、ということが目的なのではなく、この作品を翻訳して出版するための土台作り、という意味合いがありました。つまり私は、翻訳家としても名高いS先生の、その翻訳作業のプロセスを垣間見るチャンスを与えられたような、よく考えてみれば素晴らしくラッキーな立場を与えられていたのでありました。 そして、それはまたある意味ではアンラッキーな体験でもあったと言えましょう。というのは、S先生の翻訳にかける情熱というか、誠実さを見てしまった後で、軽々しく「何かアチラの小説でも翻訳してみようかな」などということは一切言えなくなってしまったからです。事実、私にはどこかその種の軽さ、軽薄さがあって、心のどこかに「いっちょう、翻訳でもやってみるか」という軽いノリというか、その反面決して軽くはない自負というか、そういうものがないまぜになったものがあるにはある。しかし、S先生の翻訳作業を間近で見た後では、そういうことを軽軽に口に出せなくなってしまいました。 私が『クラレル』の購読に参加した頃、S先生は既にご自身で下訳をされていました。もちろん、最初にこの作品を読まれた時からつけられている詳細なノートもあった。で、そういうものを踏まえた上で、ゆっくりと、それこそ1週間に10行、というようなゆっくりしたスピードで講読しながら、訳の精度と格調を高めていく、そういう作業に入られていたんですな。 で、私は私で訳稿を作り、毎週お目にかかるたびに、先生の訳稿と私の訳稿を読み合わせ、どこか解釈が違っているところはないかを突き止め、もしそういう箇所があれば、どちらが正しい解釈か、徹底的に討論する。そういう具合に作業が進むわけ。 ところで、このようにして訳稿の読み合わせをしますと、やはり同じものを訳していても、随分違いが出てくるものでありまして。 傾向としては、先生の訳は非常に格調が高い反面、やや文体が硬いところがある。一方、私の訳はどちらかというと意訳一歩手前のこなれた訳で、スムーズではあるものの、やや散文的で、韻文の訳としては若干柔らか過ぎるところがある。文体というのは、人格と分かちがたく結びついているものですが、やはりS先生の文体には、S先生ご自身のお人柄の一面である古武士のような骨っぽさがあって、同じ一つの作品に対して試訳を出し合うという作業を通じ、私は自分とS先生の違いというか、自分はこうだけれども先生はこうだな、ということを随分深く知ることができました。 しかし、そういった文体のこと以上に、S先生の翻訳には一つのこだわりというか、顕著な特徴がありました。それは、原文の行と訳文の行を絶対に合わせようという先生の強い意志です。 英文と日本文は文の構造が違いますから、英文を日本語に訳す場合、どうしても発話の順番が狂うところがある。一番簡単な例は、関係代名詞のある文を翻訳する場合です。 例えば「He had three sons who became painters.」という英文があったとする。これを日本語に訳す場合、「彼には、画家になった3人の息子がいた」とすることもできるでしょう。こういうのを一般に「訳し上げ」と言いますが、日本文としては、そこそこ自然な訳です。しかし、このように訳してしまうと、原文が採用している話の順番は崩れてしまいます。 で、もし英文の語順というか構成を崩さずに日本文に直すとするならば、「彼には3人の息子がいたが、彼らはみな画家になった」というような訳になるはず。これがいわゆる「訳し下げ」の技法です。 で、S先生の翻訳作業をつぶさに見ていて私が気が付いたのは、A:「彼には、画家になった3人の息子がいた」と、B:「彼には3人の息子がいたが、彼らはみな画家になった」という二種類の日本語訳があり得る場合、S先生は必ず後者、すなわちB案を採用した、ということです。つまり「訳し上げ」を排し、常に「訳し下げ」の方法を採用された。この点に関しては、S先生はすごく頑固でした。 もちろん、このことの背景としては『クラレル』が詩作品である、という面もあります。 詩作品ですから、仮に作品を論ずる場合、「第○章、第○節の、○行目」という形で当該箇所を指摘することがある。ですから、翻訳に関しても、原文と訳文で「○行目」の内容が違ってしまってはまずいわけ。それだけに、原文のある行と、その訳の当該行が、そっくり同じ内容であるようにするために、「訳し下げ」の技法を採用された、という側面もあるのではないかと。 しかし、「英語の語順通りに日本語に直す」ことが、単に詩作品『クラレル』の翻訳に際してのみ採用されたのではなく、これこそがS先生の翻訳哲学であることを、後に私は知ることになります。 先生のお書きになった『神の残した黒い穴』(花曜社)という御著書、これはウィリアム・フォークナーなど、アメリカ南部作家の作品を論じた研究書なのですが、この中に、ちょっと毛色の変わった章がある。そこで先生は、フォークナー作品の翻訳を手掛けていらした時に、悪夢を見て、その夢の中で担当編集者から「お前の翻訳はひどい」と文句を言われるんですな。で、それに対し先生はやはり夢の中で、次のような言い訳をされるんです: しかし私のしたことはこういうことです、と私は言おうと思うが黙っている。 たとえば日本語に訳したとき、「あたかもCがDであるよかのように、AはBである」というふうになる文章がある。この訳文の前半を読んでいるときには、この文章がじつはAのことを述べているとはわからない。後半まで読んではじめて何のことを言っているのかがわかる。ところでフォークナーの文章がしばしば長いことは確かだ。しかし、原文ではCとDの部分はほとんどの場合、AとBのあとにある。つまり、この日本語訳の読者は、英語の原文の読者より余計に頭が疲れることになる。(中略) 私のしたことは、できるだけ原文の言葉の順序にしたがっただけです、と私は胸のなかで言う。フォークナーが書くとき、彼の頭のなかに言葉がうかんできたにちがいない順序にしたがおうとしただけです。しかし、夢のなかの私は黙っていた。(154) これは先生が夢の中で叫んだ言葉だけに、嘘のないところがあると思うのですが、ここで先生は「原文の言葉の順序にしたがう」ということを、翻訳における自らのポリシーとして表明されている。作者の頭の中に思い浮かんだ言葉の順序を、翻訳家が勝手に変えてはならない。これこそが、先生がお若い時から心掛けていらした、翻訳のあり方、なんですな。 つまりは、黒子主義。翻訳者たるものは、創作者の創作のプロセスにまで忠実であれ、ということ。そこを改ざんして、読者に伝えてはならない、ということ。S先生は、このポリシーにあくまで固執された。 私はその辺はいい加減ですから、うまい日本語にすることに意を用いるあまり、原文と翻訳文の行が若干前後するような訳稿を作って知らん顔でいる。で、そんな風にしておきながら、S先生の訳稿を見て、内心「もうちょっとこなれた文にならんかな」などと思うこともあったのですから、今から考えると恥ずかしいを通り越して、自分をぶん殴りたくなります。 とにかく、S先生の翻訳道というのは、こういうものであった、と。 それゆえ、作品の内容面での解釈の違いが浮上しない限り、私の訳稿が先生の訳稿に影響を与えるということはあまりなかったのですが、それでも時に先生が、「ナニナニ、今、あなたはうまいことを言いましたね」などとおっしゃって、私の訳を若干取り入れて下さる時もある。そういう時は、実に嬉しかった。そういうことがあまり頻繁になかっただけに、非常に嬉しかったことを覚えています。 ところで、先生の『クラレル』翻訳の作業を間近に見ていて、もう一つ印象的だったのは、即物的な側面、すなわち「原稿」そのものです。 当時、というのはつまり80年代の終わりですから、すでにワープロはかなり普及していて、私も当然、自分の訳稿はワープロで作成していたわけですが、先生はもちろん手書き。そしてその先生の手書きの訳稿というのが、実に丹念で美しかった、ということが、私には強い印象として残っているんです。 先生が愛用していたのは、B5版400字詰めの原稿用紙で、マス目が緑色のもの。これに、青いインクのボールペンで訳稿を作られるのですが、その緑色のマス目と、ボールペンの青いインクの色、その調和が実に美しかった。 大体S先生は、(私なぞがそのようなことを言うのもおこがましいのですが)、字が実にお上手でして、基本的には楷書で書かれるのですが、それを若干崩される。その書体が書道的な意味で素晴らしいわけ。私はそのことを先生に何度か言ったことがあり、「先生は書道の修行をなさったのですか?」などと尋ねもしたのですが、そういう時にはいつもはぐらかしたようなお答えで、「大分練習したよ」などということはついぞ聞いたことがありません。おそらくは、先生の字の上手さは、天性のものだったのでしょう。 またそれほど字がお上手でありながら、筆記具にやたらに凝る、というほどではなく、いつもどこの文房具屋でも100円くらいで売っているようなボールペンを使っていらした。その点、字が下手なくせに、筆記具にはむやみに凝る私とは正反対で、平凡なボールペンから、あの美しい書体の文字をひねり出す先生に、私は憧れたものです。 で、先ほども言ったように、文字の美しさということにかけて先生が自慢をしたということは一切ないのですが、先生は生まれつきは左利きでいらして、左手でも右手とほぼ同じように文字が書ける、ということを、ごくたまに自慢されることはありました。実際、いつだったか右手に怪我をされたか何かで、しばらく右手が使えなかった時があり、その時に「これは左手で書きました」と書かれたお手紙をいただいたこともあります。確かに、その時の文字も実に美しかったのですが、そのことよりも、左利きであることを密かに自慢しておられた先生が、ついうっかりそれを吐露してしまわれたことに、私はおかしさを感じたものでした。 それはともかく、このようにして先生は、非常にゆっくりと時間をかけながら、また作者に忠実でありたいというご自身の翻訳に関するポリシーに頑固なまでに従いながら、『クラレル』の訳稿を作られていったのでした。(この項、続く)
July 25, 2011
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さて、大学院に進学した私は、相変わらず単位とは関係なく、S先生の授業をとり続けました。そして、この時からいよいよ『クラレル』(1876)の講読が始まります。『白鯨』で名高いアメリカの作家、ハーマン・メルヴィルの晩年の大作、ノースウェスタン版で500頁、総行数2万行に及ぶ長大な詩作品です。 メルヴィルという作家は、最初、冒険海洋小説で文名をあげ、次いで当時の読者には十分に理解されたとは言い難い哲学的な『白鯨』を発表し、次作『ピエール』で一躍不人気作家の仲間入りした後は完全に世間から忘れ去られてしまう。『クラレル』は、そんな不遇の時代に書かれた物語詩です。 で、その内容ですが、主人公となるクラレルという青年はアメリカの神学生でありまして、しかし、彼は自分の信仰がぐらつきだしていることに悩んでもいる。で、このままではいけないということで、自分の信仰を確認するために一度原点に返ろうと、聖地エルサレムへの巡礼の旅に出ることを決意するんですな。で、エルサレムで主イエス・キリストの足跡を辿りながら、彼は色々な人に出会ことになる。そうしてキリスト教以外の様々な宗教の信者たちも含め、様々なレベルの信仰を持った人々との交流の中で、自分自身の信仰を考え直す機会を得ていくわけ。 しかし、そうしたことに加えて、この巡礼の過程でクラレルはもう一つ大きな出会いを経験することになります。それはルツという若い乙女で、二人はたちまちのうちに恋に落ちてしまう。ただルツは一緒に巡礼をしていた父親を亡くす不幸に会い、喪が明けるまで、クラレルはルツを残してさらなる巡礼の旅を続けることになるんですな。 で、エルサレムを離れての巡礼の旅の中で、彼はさらに様々な人と出会い、彼らとの交流を通じてぐらついていた信仰が少しずつ固まっていくことにもなる。 しかし。 やがてエルサレムに戻ってきたクラレルを迎えたのは、一つの葬列、ルツを弔う葬列だった。クラレルがエルサレムを離れていたほんのわずかな日々のうちに、ルツは若くして亡くなってしまうんですな。かくして愛する人を失ったクラレルは再び絶望し、オリーブ山のふもとのいずこの町にか姿をくらましてしまう、というところでこの詩は、物語としては終わります。 既に述べてきたことからも窺われるように、S先生は、ご自身にとって最大の問題、すなわち最愛の妻と子を失った後、それでもなお生き続けることに意味はあるのか、ということ、及び、そうした過酷な運命を突き付けた「神」と、どう折り合いをつけるのか、という問題をひたすら考えながら生きてこられたのであり、先生のご研究も常にこのこととの絡みで選択されてきた、というところがあります。したがって神への信仰を失いかけた神学生クラレルの巡礼、そしてその中でクラレルが愛する人と死によって分かたれるという『クラレル』のテーマが、先生を惹きつけないはずはありません。先生が研究者生活を締めくくる15年という時間を、このメルヴィルの晩年の大作一つにつぎ込まれたというのは、その意味でも理解することができる。 しかし、S先生が、いわば研究者としての最後の戦いの相手としてメルヴィルを選んだことには、他にも理由があっただろうと思います。それだけ、S先生とメルヴィルの間には、運命的な絆があった。 例えば、S先生がアメリカ文学の研究を始められたまさにその時、先生が取り組んだ相手がまさにメルヴィルだったんです。 S先生はもともと理系のご出身で、最初に卒業されたのも横浜工業専門学校、後の横浜国立大学の造船科です。そしてここを卒業した後は、農林省の漁船課に職を得られている。文学とは全く無関係な、どちらかというとかなり散文的な職業だったようですが、その後、ガリオア奨学金でミシガン大学に留学されたのも、文学研究者としてではなく、造船技術を学ぶという名目でした。 が、その後文学を勉強したいという思いが募り、農林省に勤務されたまま明治大学の第二部に学士入学(1950年)、さらに大学院進学と同時に農林省を辞され、いわば背水の陣を敷いて文学への道を突き進まれていった。 そしてそんな先生が卒業論文のテーマとして選ばれたのがメルヴィルだったんですな。ま、良く考えてみれば、メルヴィル自身もまた、船乗りから作家に転身したのであって、その意味では、S先生が船を作る仕事から文学研究へ転身したことと若干重なるかもしれない。いずれにせよ、S先生はメルヴィルから文学研究の仕事を始められたのであり、後にそのメルヴィルで最後の大仕事を締めくくることになったのも、実にふさわしいことであったと言わざるを得ない。 しかし、そんなことよりももっと深く、S先生をメルヴィルに繋ぎ止めたものがありました。メルヴィルもまた、S先生と同様、最愛の息子マルカムを失う経験をしていたんです。 息子を失った時、文豪は、彼のために短い墓碑銘を残しました。それは次のようなものでした: かくも善良で、かくも若く、 かくもやさしく、かくも誠実で、 かくも愛され、かくも早く去ったのだから、 ひとしずくの涙に値しよう。 あの長大な『白鯨』を書き、あの長大な『クラレル』を書いたメルヴィルが、息子マルカムのために書いたのはこの4行だけ。しかし、S先生はこのシンプルな4行の中に、『白鯨』全巻、『クラレル』全巻に匹敵する、メルヴィルの万感の思いを汲んでいらした。だからこそS先生は、『クラレル』という作品にご自身の研究者としての残された最後の時間を賭ける気になられたのだ、と、今の私は思っています。 とはいえ、こういうことはもちろん後知恵でありまして、私が大学院生だった頃はそこまで深くS先生のことを知っていたわけではなく、ただこの難解な詩作品は、S先生が私に投げかけられた一つのチャレンジなのだと思って、これを必死で読み解くことだけを考えていたことは言うまでもありません。 『クラレル』の難解さというのは、もちろん、内容の深さゆえの部分もあります。が、それだけではない。何しろこの作品は、基本的に詩ですから、各行で韻を踏んでいる。しかし、何しろ2万行の物語詩ゆえ、そうそう都合よく韻が踏めるわけではなく、しかしそれでもあえて韻を踏むために文法を若干無視した構文をとっていたりする。詩作品の場合、こうした文法からの逸脱は許されるわけですね。しかし、こういった文法を逸脱したような文というのは、解釈する側からすると、なかなかに手ごわいものとなる。『クラレル』の難解さというのは、そういうところからも派生します。 また、この作品はエルサレム巡礼をテーマにしていますから、作品中に現地の地名などが頻繁に出てくる。しかも、作者のメルヴィル自身、エルサレム巡礼を実際に体験した上でこの作品を書いているので、登場する地名や道順は決してでたらめなものではない。ですから、この詩を読む時にはエルサレムやその周辺地域一帯の詳細な地図を脇に置いて読むことが必要になってくるわけ。それに、今のようにインターネットで検索することもできませんから、例えば作品中に「岩のドーム」なるものが登場すれば、それはいったいどのようなものか、様々な百科事典を引いて実物の写真を確認する必要が出てくる・・・。 とまあ、色々なレベルでの難解さを含んだ『クラレル』ですから、輪読するったって大変です。予習に十時間ほどもかけて授業に臨んだとしても、些細な解釈のずれからその個所を巡ってああでもない、こうでもないという議論となり、結局、90分かけて数行読んだだけで終わってしまう、なんてこともしょっちゅうでした。 しかし、とことんまで予習した上で授業に臨み、授業時間の90分間、物静かに、しかし火花の散るような読み合わせをする、その面白さたるや! 私も頑固ですが、S先生も頑固、二人の頑固者が、自分の解釈こそ正解と信じてやりあうわけですから、その瞬間ばかりはどちらが先生で、どちらが生徒でもない。無言のにらみ合い10分とか、そういう状況が頻繁に生じる。さぞや他の受講生には入り込めない世界が展開していたことでありましょう。実際、その授業を取っていた人の中には、「先生と釈迦楽さんが議論している間の緊張感がたまらなくて、途中で受講を断念しました」と言っていた人もいました。 もし私に、多少なりとも文学の解釈力に自信があるとしたら、おそらくこうしたS先生との白熱の一騎打ちが、私を鍛え上げた結果だろうと今にして思います。 そしてS先生との『クラレル』の読み合わせは、この先、都合6年間にわたって続いたのでした。(この項、続く)
July 22, 2011
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ここで少しフラナリー・オコナーのことについてお話しておきましょう。 フラナリー・オコナーというのはアメリカ南部ジョージア州出身の女流作家です。1925年生まれですから、S先生と同い年ということになります。で、彼女は地元の大学を卒業した後、「創作科」があることで有名なアイオワ大学に進学し、作家の道を志すことになります。 で、アイオワ大でポール・エングル教授の指導を受けながら前途有望の新進作家としてデビューしようという24歳の時に、「紅斑性狼瘡」という病気に罹ってしまう。 この「紅斑性狼瘡」というのは、血液が自分の骨を溶かしてしまうという進行性の難病で、薬で病状の進行を遅らせることは出来るものの、根本的な治療法はありません。しかも彼女の父親もこの病気で早くに亡くなっていますから、この病気に罹っていることが判明した段階で、死を宣告されたようなもの。実際、オコナーは1964年に39歳の若さで亡くなっていますから、オコナーの創作活動はわずかに15年、その間、常に死の恐怖と戦いながらの執筆となったのでした。 ちなみにオコナーが亡くなった1964年に、S先生の最初の奥さまが亡くなっています。つまりオコナーという作家は、S先生と同じ年に生まれ、S先生の奥さまと同じ年に亡くなったわけで、偶然ながら、S先生とオコナーの間には奇妙な結びつきがあった、ということもできるかもしれません。 ところで、自分がいつ死ぬかも分からないという状況の中で小説を書き続けるというのは、よほど強い精神力が必要なのではないかと思うのですが、初期の作品から晩年の作品まで、彼女の作品を貫くものは常に一定で、揺るぎがない。病勢が募るにつれての心境の変化とか、そういうものが、どうも見つからないんです。 それはなぜか。カトリックの強い信仰です。 「オコナー」というのは、名前からして明らかにアイルランド系ですが、アイルランド系の人の多くがそうであるように、フラナリー・オコナーもカトリック信者でした。それも非常に強い信仰心を持っていた。そしてそのことは、彼女の生きた時代にあっても珍しいことであったと思います。いや、彼女の生きた時代では特に、と言うべきかもしれません。 先にも言いましたように、オコナーは1925年の生まれで、作家として活動を始めたのが25歳くらいの時からですから、時代は1950年代、すなわち戦後、フランス流の無神論的実存主義哲学が勢いを持っていた頃です。いわゆる「不条理」な時代。彼女は、この時代を生きた。 実存は本質に先立つ、という認識、つまり世界が、あるいは自分が存在することに根本的な意味などない、という実存主義的な認識。これが、この時代の底に流れる空気だったのではないかと。そして、意味のないところに意味を見出そうとすれば、それは当然失敗し、「不条理」というものを発見せざるを得ないわけですが、実際、そういう不条理なものが当時、身の回りに沢山あったわけですな。アウシュビッツが、もちろんその代表例であるわけですが。 ところがフラナリー・オコナーは、まさにこうした時代の概念に真っ向対立する認識の持ち主だったんです。この世に不条理などないと。 オコナーには死後出版ながら『秘儀と習俗』というエッセイ集がありまして、この中に「メアリー・アンの思い出」というエッセイがある。メアリー・アンというのは、ある修道院附属の無料療養所に預けられた、顔の半面に腫瘍のある孤児で、3歳のときから12歳で亡くなるまでこの療養所で暮らしていた。で、様々な苦労を背負いながらも彼女なりに精いっぱい生きたメアリー・アンのために、何か追悼文を書いてくれと頼まれたオコナーが、嫌々ながら筆を執ったと、そういう趣向のエッセイなんです。 なんで「嫌々」か、というと、彼女に仕事を依頼してきた修道尼たちの口ぶりからして、メアリー・アンの健気さを称えたお涙頂戴のエッセイにしてほしそうなのがありありと窺われたからで、オコナーとしては、そんなのはまっぴら御免だったからです。 エッセイの中でも書いていますが、オコナーに言わせれば、「なぜメアリー・アンは、こんなに若くして不幸にも死ななければならなかったのか」なんてことは問題ではないと。自分だったら「なぜメアリー・アンは、そもそもこういう形で生まれてきたのか」と、そちらの方を問う、というのですな。つまり、こんなに素晴らしい子が若くして死ぬことに不条理を見るのではなく、その子をこの世に使わした神の条理に思いを馳せる、というのがオコナーの立場なんです。そして、表面的な不幸にいちいち絶望するのではなく、もっと深くモノを見ろと。オコナーは同時代人に対して、そういう警告を発するわけ。以下、「メアリー・アンの思い出」の一節を引用しましょう: 子どもの苦しみをもって、神の善を疑うのが現代の傾向の一つである。そして、一旦、神の善への不信に陥れば、その人と神の関係は断たれるのだ。(中略)イワン・カラマーゾフは、子どもが一人でも苦しんでいる限り神を信じられない。カミュの主人公は、罪のない幼児が大虐殺のめにあうという事態がある以上、キリストの神性を受け入れることはできない。この種の現代的な憐みの情に流されれば、われわれは、感受性の面で得るところはあるだろうが、確実に視力は落ちる。もし過去の時代が、感情的反応において劣っていたとしても、あの時代の目はもっと見たのである。盲目的に一途で、感傷を排した、預言者的な、受容の目、それはとりもなおさず信仰の目であるが、これでもって見たのである。現代には、この意味の信仰がないから、ただ優しさだけが支配的である。それは長いことペルソナから切り離されて、理論でがんじがらめになった優しさである。優しさが、優しさの源とのつながりを断ち切られたりすれば、論理的に行きつく先は恐怖である。それは、強制労働収容所やガス室の煙となって終わるのだ。(上杉明訳を元に一部改訳) 感傷的な優しさでもって世界を見れば、至るところに不条理なことがある。その不条理をただ悲しみ、絶望すれば、この世に生きる意味はなくなる。生きる意味がなくなれば、善をなす意味もなくなり、他の人間への配慮もなくなり、自分勝手に好き勝手なことをして一生を終わればいい、ということになる。それはいわばヒトラーの肯定であって、第二のアウシュヴィッツの登場まであと一歩ではないかと、まあ、オコナーはそう言うわけですな。 で、オコナーのすごいところは、この「信仰の目」でもって、自らをも見たというところにあります。死病にとりつかれた、だから何? と。早世を運命づけられたことの悲しみよりも、そもそも自分はなぜ生まれたのか、そのことを問う。それがオコナーの人生観であり、それは絶望ではなく、希望を見ることに他ならない。オコナー自身、「人々は常に、現代作家には希望がない、現代作家の描く世界は耐えがたい、と不平をこぼす。これに対する唯一の答えは、希望のない人間は小説を書かないということである」と言っています。しかし、もちろんそれは楽な道ではない。オコナーは、続けてこう言います: 小説を書くのは恐ろしい体験であり、書いているあいだに髪はばらばら抜けおち、歯はぼろぼろになる。小説を書くのは現実からの逃避であるといった意味のことを口にする人に私はいつもひどく腹が立つ。小説を書くことは現実のなかに突入することであって、全身に強烈な衝撃を受ける。もし小説家が金銭的な希望によって支えられないならば、神の救いという希望によって支えられなければならない。そうでなければ小説家がこの試練を生き抜くことはまったく不可能になるだろう。 オコナーという作家は、こういう気迫をもって小説を書いていたんですな。 そして「なぜ自分は愛する人を失ったか、ではなく、そもそもなぜその人と出会えたのか、そのことの恩寵を考えろ」というオコナーの声が、S先生を励ましたことは言うまでもありません。 その後、S先生はオコナーの最初の長編、『賢い血』(ちくま文庫)を翻訳され、また彼女の代表的な短編を『オコナー短編集』(新潮文庫)として訳されていますが、そのご訳業は、私なぞが評するのもおこがましいようなものですが、恐ろしいまでにオコナーの世界を捉えた、本邦一のものであると言っておきます。(この項、続く)
July 21, 2011
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御身内のご不幸のことですから、他人が根掘り葉掘り尋ねるという性質のものではなく、私も自分から乞うてこのことを伺ったことはありません。折に触れ、S先生ご自身から断片的に伺ったこともあり、また指導教授のO先生から伺った部分もある。 とにかく、事実関係から言いますと、S先生が熱烈な恋愛の末に最初の奥様とご結婚されたのが1954年5月9日。その3年後、1957年6月21日にご長男となる隆志さんが誕生。ところがこの幸福なる結婚生活がまだ10年に満たない頃、死の影が忍び寄ってくることになります。1962年8月19日、奥様が最初の入院、その後9月22日に一旦退院するも、10月9日に再入院。そして病名すらも明確に定まらないまま病状は刻々と悪化の一途をたどり、入院生活も1年7ヶ月に達しようかという1964年3月4日、肝臓がんのためお亡くなりになるという最悪の事態を迎えることとなります。肝臓がんであることが判明したのは、亡くなるほんのひと月前ほどのことだったそうです。 この長きにわたる奥様の入院生活の間、S先生は当然お仕事をなさりながら、しかも幼稚園児だったご長男の面倒を見ていらしたわけですから、そのご苦労はいかばかりだったかと思います。特に、病状が悪化されてからの日々は、S先生も奥様の病室のベッドの脇に新聞紙を敷いて、その上で仮眠をとりつつ、病院から大学へ出講するような日々だったと、これは当時のS先生のことを知る別な先生から伺ったことがあります。 S先生はもともとお酒がお好きで、お酒にまつわる楽しい話を伺ったこともあります。例えば戦後すぐの頃、まだお酒が多く出回らなかった頃には、居酒屋でも一人一杯しかお酒を提供しないところが多かった。そういう店で、長い行列に並んだ挙げ句にようやく一杯のコップ酒にありついた先生は、飲み終わると同時にまた走って行列の最後尾に回り、そうやって苦労して何杯かの酒を飲んだこともあったとか。しかし、奥様が病気になられてからの先生のお酒は、もうひたすら憂さを忘れるための酒、飲まずにはいられない酒だったようで、晩年に至っても毎晩晩酌をされ、酔った力を借りて眠るという日々を何十年も続けられたのでした。あまり毎晩お酒を召し上がるので、とうとう腸内の善玉菌までアルコール殺菌してしまい、ほとんど毎日お腹を壊さない日はない、とおっしゃっていたのを覚えています。 しかし、アルコールの力を借りても、最愛の奥様を失った痛手は大きく、当時の先生は相当、荒んだ生活をされていたようです。それはちょうど、同じく最愛の妻を失った後のエドガー・アラン・ポーの荒んだ生活と同様だったようですが、ポーが絶望のうちに野垂れ死にしたのとは異なり、S先生はなんとか立ち直って、2年後に今の奥様と再婚され、お二人の間にはお嬢さんもお生まれになった。 ところが、S先生のご不幸はさらに続きます。1967年、先生にとっては非常に親しい関係であった・・・というか、先生がお小さかった頃、教育係として先生を厳しく躾けられもした、先生にとっては恩人と言ってもいい一回り年上のお姉様が自から死を選ばれるという痛ましいことが起こる。 そしてこれに追い打ちをかけるように、1977年3月17日未明、愛車のスカイラインGTで第三京浜を走っていた先生のご長男の隆志さんが、川崎インターチェンジの分岐点のコンクリートブロックに衝突して亡くなるんです。あと少しで20歳になるはずの息子さんを、そして亡くなった最初の奥様の形見でもあった息子さんを、先生はこういう形で奪われることになったんですな。 先生は当時、アメリカの作家ウィリアム・フォークナーを夢中で研究しておられたのですが、「フォークナー」という姓は「falconer(ファルコナー)」、すなわち「鷹匠・鷹師」という言葉から来ている。それゆえ、先生はその尊敬するフォークナーの名前にちなんで、息子さんに「隆志」という名を付けられたのでした。そして、もし仮に大きくなった息子さんが自分の名前の由来を尋ねてきたら、そのことを告げようと思っていらしたのだそうです。しかし、残念ながらその密かな楽しみは永遠に奪われ、息子さんはご自分の名前に込められた先生の思いを知らずに、若い命を散らしてしまわれた。 S先生が、ご自身のことを旧約聖書のヨブと重ね合わせていらしたのは、ですから、決して大げさなことでもなんでもなかったんです。 ところで、私の指導教授であるO先生がS先生のことをお知りになったのは、ある偶然からでした。 O先生はかつてS先生がお勤めの大学へ非常勤講師として出講していたことがあったのですが、学期の途中で肺炎に罹られ、やむを得ず休講せざるを得ないことになってしまった。で、その時にO先生の代講に立たれたのが、S先生だったんですな。そこで、そのことを恩に着たO先生が、やがてS先生をご自分の大学の非常勤講師としてお招きすることとなり、いわばその結果として、後年、私もS先生の授業に顔を出すことができる仕儀ともなった。で、そのような形で始まったO先生とS先生のお付き合いは、O先生がS先生のお人柄と実力を知るにつれて深まり、当時O先生が深く関わっていらしたプロジェクトであるフォークナー全集の翻訳作業の際も、ここぞという巻ではS先生に翻訳をお願いする、ということにもなっていった。それだけ、O先生はS先生のことを深く信頼されていた。 そしてS先生がご長男を亡くされた時も、O先生はそのご葬儀に出席されたそうです。 で、これはS先生から伺った話ですが、その時のO先生は、他の会葬者の方々から少し離れたところに、黙って一人立ちすくむようにして、亡くなった隆志さんのことを惜しんでいらした、というのです。 私にはどうしてその時、O先生がそれほど深く、S先生の悲しみを共有していらしたかが分かります。なぜなら、O先生ご自身も、大学院生になっていたご長男に先立たれるという苦難を経ていらしたからです。息子を、しかも大きくなって将来を恃むようになっていた息子を失われるということがどういうことか、O先生はご自身の体験としてよくご存知だった。 私の大学時代の恩師お二人は、奇しくもこういう御不幸を共有されていたんですな。 ところで、これより以前、S先生が奥さまの死をなかなか受け入れられないでいるということを伝え聞いたO先生は、やがてS先生に一つのアドバイスをされたそうです。それは、「フラナリー・オコナーの作品を読んでみろ」ということでした。 で、S先生は言われるがままにオコナーの作品を読まれた。そして、ほんの少しではあれ、救われるところがあった。そして、この事があってから、S先生は、お年が一つしか違わないO先生のことを「先生」と呼ぶようになったのだそうです。 私がS先生に初めてお会いした時、それはS先生のフラナリー・オコナーの購読の授業だったわけですが、先生がこの作家の作品を読み続けていらしたことには、こういう背景があったのでした。(この項、続く)
July 20, 2011
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S先生のオコナーの授業では、些細なことながら印象的なことがもうひとつありました。 4年生になってから、私は取得単位とは関係なく、一つ下の学年と一緒に引き続きS先生のオコナーの授業をとることにしたのですが、その時既に私はオコナーを卒論のテーマにすることにしていましたので、シグネット版の『3 by Flannery O'Connor』という本を自分で独自に買っていて、その本で授業に参加したんです。 しかし、他の学生たちが使っているのは先生がお持ちの本のコピーで、私の持っているものとは版が違いますから、当然ページ数も違う。となるとページや行の指定などの際、多少不便なところがあるわけです。 もっとも私自身はさほど不便とも思わなかったのですが、授業が始まる度にもぞもぞと当該ページを探している私のことを見て、S先生が「使い難そうですね。どうですか、あなたが買った本は一度本屋に返してしまって、我々が使っている本を買い直すというのは」とおっしゃったんですな。 で、それに対して私は「私は気が小さいので、一度買ってしまった本を本屋に返品するというのはどうも気がひけます」とお答えした。 すると私が発した「気が小さい」の一言で教室がどっと笑いに包まれたわけ。 で、しばし静かに微笑まれていたS先生は、教室中の笑いが一通り収まった段階で、少しあらたまるように「私もそういうところは気が小さいんだ。そういう場合に平気で本を返せる人は、むしろ嫌いです」とはっきりおっしゃった。 この一言は嬉しかったですなあ。S先生のことがぐっと身近に感じられた。人が人のことを尊敬するようになる手始めというのは、案外、こういう些細な一言なのかもしれません。 さて、4年生になった私は、今申しましたように3年生対象のオコナーの授業にも参加すると同時に、S先生が4年生向けに開講していた授業にも参加しました。こちらの授業はアーチボルド・マクリーシュ(Archibald MacLeish)という詩人の書いた戯曲で、『J.B.』(1958) という作品を読む、というものでした。 この作品は戯曲ですから、分量もさほど長くはないですし、またそれほど長文の文章が並んでいるわけでもない。しかし、逆に戯曲ならではの難しさといいますか、会話が途中で途切れたり、片方の人物が言い終わらないうちに、他の人物のせりふがかぶさってきたりするもので、その消えた部分をどう補うか、というような難しさがありました。また、扱っている主題がかなり宗教的なものだったので、関連する聖書の知識も必要とされる部分があり、なかなか手ごわいテキストではあった。 『J.B.』という作品は、そのタイトルからも想像ができるように、聖書の『ヨブ記』(英語では『Job』)を下敷きにした戯曲です。聖書の『ヨブ記』は、これもご存じの方も多いと思いますが、「義人の苦難」を描いた一つの物語です。 ヨブはそれこそ模範的な人物で、神も彼を愛し、良い妻、良い子供たち、多くの召使い、多くの家畜などを恵んで下さったので、何一つ不自由なく幸福に暮らしていた。 と、そこへサタンがやってきて神に挑むわけですな。ヨブは模範的な義人ではあるけれど、それは神が恵みを与えているからそうなので、試みに彼に試練を与えてごらんなさい、そうすればヨブはあなたを呪うでしょう、と。 そこで、神はヨブを試みにあわせることとし、彼の財産を奪ったと。 しかし、ヨブは「神が与えたものを、神が奪ったのだから、不満はない。神の名はほむべきかな」と言って平然としていた。 そーれ見ろ、やっぱりヨブはいい奴じゃ、と神は思うわけ。ところがそこへまたサタンがやってきて、財産なんか奪ったって大したことない、子供を奪ってご覧なさい、そうすればヨブはあなたを呪うでしょうと。 そこで神はヨブの子供たちを皆殺しにしてみた。 しかし、ヨブは「神が与えたものを、神が奪ったのだから、不満はない。神の名はほむべきかな」と言って平然としていた。 そーれ見ろ、やっぱりヨブはいい奴じゃ、と神は思うわけ。ところがそこへまたサタンがやってきて、子供なんか奪ったって大したことない、ヨブ本人を病気にしてごらんなさい、そうすればヨブはあなたを呪うでしょうと。 そこで神はヨブを死病で苦しめることにした。 と、ここでヨブはさすがにちょっとグラつくんですな。 おまけに、ヨブの妻もヨブを見捨てます。「財産を奪われ、子供たちを奪われ、あなたも病気になって、それでもまだ神に感謝するのですか。むしろ神を呪って死になさい」。そう言って妻はヨブのもとを去る。 入れ替わりにヨブの友人たちがやってきて、ヨブの体たらくを嘆き、こういう羽目になったのは、お前の子供たちに悪いところがあったからだろう、あるいはお前自身に悪いところがあって、神が因果応報を下されたのだろう、というようなことを言ってヨブを責める。 で、そういう友人たちとの論争の末、それでも自分に罪はないと信じるヨブは、ついに神に対して文句を言う。 いや、文句というほどでもないのですが、とにかく「もう自分はおしまいだ。このボロボロにされた肉体の中から、神を見てやりたい」と言うわけ。要するに、「私が陥ったこのざまをどう説明するのか、神に直接聞いてみたいもんだ」と言うわけですな。 すると、そのヨブに対して神が声をかける。それがすごい。 神はヨブにこういうわけ。「てめえ、この宇宙を、この森羅万象を動かしているのは誰だと思ってんだ。巨獣カバの腰にある無限の力をカバに与えたのは誰だと思っているんだ。雷をもって大地を撃つのは誰だと思っているんだ。暴風を巻き起こしてあらゆるものを吹っ飛ばすことができる私を誰だと思っているんだ。てめえ、ふんどしを締め直して、男らしくしろ!」。とまあ、神はそう言って、ヨブという小さな人間の不満とか、そんなものを吹っ飛ばすわけ。 で、神からそう言われたヨブは、「わかりまーした! もう不満は申しません」と答える。 で、その答えを聞いた神は、「よし、許したる」とか言って、ヨブの病気を治し、新しい妻を与え、新しい子供たちを与え、前に倍する財産を与えましたとさ。 『ヨブ記』というのは、ざっとこんな話です。 聖書から離れて、現実問題として考えてみた場合、義人、すなわち心の正しい人、正しい信仰の道を歩んでいる人が、それにも関わらず苦難に会うことはやたらとある。そういう時、苦難の中にある人が「なぜよりによってこの私が、こういう目にあわなければならいのか」という思いを抱くのは当然でしょう。で、『ヨブ記』というのは、そういう苦難に苦しんでいる人に対する、一つの解答になっているわけですな。 ま、解答になっていると思える人と、思えない人はいるでしょうが。 さて、私が大学4年の時に、S先生と共に読んだ戯曲の『J.B.』は、まさにこの聖書の解答を、素直に受け入れられない人のための物語なんです。この戯曲の中心テーマは、「聖書の中で神は以前にも増してヨブに恵みを与えられた」というけれど、じゃあ、彼のもとを去った最初の妻はどうなんだと。神によって命を奪われた子供たちはどうなるんだと。後で別なのと取り換えてくれたから俺はすっかり満足だと、一体誰が言えるのか・・・。そういう人間的な思いを追求した劇なんです。 ま、聖書の中に書いてあるとなんとなく納得してしまいますけれど、現実問題として考えてみれば、確かにそうですよね。最初の結婚は悲劇的に終わったけれど、再婚してハッピーになったからばっちりOK、なんてことは普通はないわけで、普通の人間ならば、再婚してハッピーになったとしても、やはり前の結婚のことがどうしても頭から離れない、ということはありうる。 終わりよければすべてよし、で本当にいいのか? 最初の妻、最初の子供の事はすっかり忘れていいのか、忘れられるのか、という問題。これが『J.B.』のテーマなんですな。 そして、これはS先生とのお付き合いが深まるにつれて明らかになったことなのですが、S先生がこの戯曲をテキストとして選ばれたことにはちゃんと理由があった。というのも、『J.B.』が扱っている問題、これこそ、S先生ご自身が最も関心のある問題だったからなんですな。 なぜならば、S先生は、最愛の奥さまを病気で亡くされ、その奥さまとの間に生まれたご長男を、交通事故で失っておられたからです。(この項、続く)
July 19, 2011
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私が最初にS先生にお会いしたのは大学3年生の時でした。 その頃の私は、恩師O先生のゼミに入り、いよいよ本格的にアメリカ文学を勉強しようという意気に燃えていた頃。 で、ゼミに入って早々、そのO先生から、我々新ゼミ生に一つのご下命があった。「非常勤で来ていただいているS先生の授業を受講する学生が少ないようなので、君たちの中で都合のつくものはその授業を取るように」と。そして付け加えておっしゃるには、「S君は、一見とっつきにくいかもしれないが、すごい先生なんだぞ」と。もちろんO先生が薦める以上、私たちの方に異論があるわけでなし、早速そのS先生の授業を取ろうと、私と他に二、三名のOゼミ生たちは当該の教室に向かったのでした。 もっとも、当時は私も生意気盛りの頃でしたので、ひょっとしてO先生もS先生に対する義理で我々に薦めているので、本当は大した授業ではないのかもしれないという思いも多少はありました。つまりは「お手並み拝見」程度の気持ちでS先生の授業に出席してみたようなところがあったことは、ここで告白しておかなければなりません。 そのような事情でしたので、確か2度目の授業から私は出席したのですが、S先生の授業の進め方というのは、「確かにこれなら学生に人気が出ないのも当たり前だな」と思わせるに十分なものでした。何しろ授業がものすごく「淡々」としている。 使用したテキストはアメリカの南部作家フラナリー・オコナーの短編集だったのですが、S先生は「ではテキストの○○ページ。このページの中で、何か分からないところはありますか。あれば質問するように」とおっしゃるだけ。で、我々学生たちが何も言わずにいると、「そうですか。それでは次のページ。このページで何か質問はありますか」とお尋ねになる。英文を読むわけでもなし、この調子でどんどん進むのですから、面白くもなんともない。 解説も何もなし。一体、これが文学の授業なんだろうか? 教室の中で居心地悪そうにしている学生一同の胸の内にひらめいていた思いは、おそらくこのようなものだったでしょう。 ところが。 淡々と授業が進み、S先生が何度目かの「このページの中で何か質問はありますか」の問いを発せられ、それに対して学生一同、うんともすんとも言わなかった後で、S先生がおもむろに「そうですか。では私が尋ねよう。このページの○○行目。この一文を訳してごらんなさい」とおっしゃったんですな。そして一人の男子学生を指名された。 S先生が指定されたその一文は確かに少しやっかいな文章で、前後の文脈が取れていないとうまく訳せないような文でした。で、案の定、指名された男子学生は答えられなかった。いや、答えられなかったばかりか、それこそ即答状態で「分かりません」と言った。それも妙に堂々と。その堂々とした答え方は、おそらく、「こんなつまらない授業なんて聞いていられないや」という反抗的な態度の裏返しでもあったでありましょう。 その刹那。私は何か教室の空気が一瞬にして変わったのを感じたのでした。 S先生の怒り。それは大声で怒鳴るとか、そういうものではなかったのですが、何か音のない紫色の雷が落ちて、後にかすかな空気の振動だけを残したような、そんな感じでした。 なぜ、分からないのに、質問をしないのか。学生だから、分からないところがあるのはいい。しかし、分からないことを分からないと何故言わないのか。分からないのに、それを放っておこうとすることは一番良くない。それは卑怯である。 S先生がその時おっしゃったのは、確かそういうことだったと思います。しかし、それまでのもの静かな先生が、瞬時にして研ぎ澄まされた日本刀に変わり、我々学生の甘っちょろい学問への態度を叩き切った、その一瞬の様変わりに圧倒され、その時先生が正確にどのようなことをおっしゃったか、今も思い出すことができません。 もちろん教室は静まり返り、そこにいた学生の誰もが若干青ざめていました。私もそうであったでしょう。しかし、同時に私は非常に清々しいというか、S先生は当然怒るべきところで怒られ、しかも正当な理由で怒られた、という澄み切ったような気分にもなっていました。そうだ。この授業に出るには、自分の能力の限界まで下調べをし、自分にとってどこが分からない箇所なのかをハッキリさせてから臨めばいいのだ。よし、次の授業からはそういう受講態度で行こう。私が思ったのは、ただシンプルにそういうことでした。 それから先のS先生の授業は実に面白かった。私はテキストを徹底的に下読みし、分からないところはありとあらゆる辞書を引きまくって、これが最善と確信できるところまで答えを出した上で授業に臨んでいたのですから。 先生が誰か他の学生を当て、その学生の答えが間違っていて、「違いますね。他に、この箇所の読み方が分かる人」という問いを発せられるのが待ち遠しく仕方がない。その時こそ私の独壇場になるわけですから。 いや、それどころか。時折、先生ご自身が学生の答えを訂正され、その訂正された先生の解説に私が異議を唱える、ということもありました。そこから、緊張に静まり返った教室の中で、10分、いや時には20分以上にわたってS先生と私の間で一対一の論争が繰り広げられる。そして最終的にS先生が負けを認め、私の解釈が通る、などということも何度かありましたっけ。 そうなると先生も用心され、何か難しい文章の解釈になると、最終的には私に確認を取るようになりましてね。S先生:釈迦楽君、今の解釈でいいですね。 私:結構だと思います。S先生:釈迦楽君がいいと言ってますので、そういうことにしましょう。では次。 こうして、この授業では私が最終的な判断者となったわけですが、こういうことが私をして励まさないはずはなく、おかげで私はこの授業を通じて随分勉強しました。何しろ、オコナー作品が正しく解釈されるかどうかはすべて私の判断にかかってくるわけで、責任がありますのでね。 ま、S先生はそうやって、ちょうどお釈迦様が孫悟空を手の平の上で遊ばせたように、少しは見どころのありそうな私という学生を、遊ばせて下さったのでしょう。 ところで、先にも述べたように、S先生の授業で使われたのはフラナリー・オコナーという作家の作品だったわけですが、この授業を通じ、オコナーの作品に親しんだことが、私のこの先の運命を大きく変えることになります。というのは、この時まで私はJ・D・サリンジャーという作家の大ファンで、当然、卒論はサリンジャーで書くことになるだろうと漠然と思っていた。ところがS先生の授業でオコナーを読んでからというもの、サリンジャーの甘さが妙に目につくようになる一方、オコナーの作家としての厳しさを理解するようになり、卒論で格闘する相手としてはサリンジャーよりもむしろオコナーの方がいいのではないかと思うようになったんですな。で、結局、私は卒論・修論を通じてオコナーの勉強をすることとなり、またその後の研究の上でもオコナーが中心的なテーマとなることになった。その意味で、S先生との出会いが、私の研究者としての道筋をつけたことになるわけです。 もっとも、今言ったのは、私の立場からするとそういう話になる、ということであって、なぜS先生が数多いアメリカ作家の中で、特にオコナーを選んで読まれていたのか、ということまで思いを馳せることができなかった。当然のことながら、私はS先生の側の立場というものを、その時はまだまったく知らずにいたのでした。(この項続く)
July 18, 2011
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今日は7月17日。私の尊敬するS先生は10日に息を引き取られましたので、先生が亡くなってから早や1週間が経過したことになります。早いもんですな。時間はどんどん過ぎ去っていく。 13日、吉祥寺の教会で執り行われた葬儀に出席してきました。あまりに突然のことだったせいか、あるいはS先生もしくはご遺族のご意向か、先生が亡くなったことはごく限られた内輪の人間だけに知らされていたらしく、アメリカ文学関係の研究者の参列者はさほど多くはなかったようでした。私が気付いたのは、出版社にお勤めのTさんだけ。Tさんは私と同様、S先生のお人柄に惚れこんでいた人でしたので、この人に葬儀で会えて良かった。 キリスト教式の葬儀でしたので、葬儀は聖書朗読、讃美歌の合唱、牧師さんによる故人についてのお話などがあり、またご遺族からの一言があって、最後に献花があります。これが仏式ですと、読経が中心になりますから、そのわけの分からない呪文のようなものを聴きながら、一人ひとりが心の中で故人と対話するような感じになるわけですが、キリスト教式ですと、聖書の言葉にしても、牧師さんのお話にしても、意味が通ってしまうので、その内容をつい聞いてしまう。それゆえに、というべきか、キリスト教式の葬儀ってどこか散文的なところがあるな、と思ったことも確か。それにキリスト教では、人の死は終わりではなく、次なる生の出発点ととらえるところがありますからね。それを嘆くこと自体、不信の徒の行いということにもなってしまう。 それはともかく、牧師さんやご遺族の方のお話を伺っていて、私はS先生について2つのことを新たに知りました。 一つは先生が2005年のクリスマスの日に受洗され、キリスト者になられた、ということ。私は先生が洗礼を受けられたこと自体は存じていましたが、それが正確にいつのことだったのか、お尋ねしたことがなかったので、この時初めて、先生の受洗のいきさつを知ることができたのでした。 そしてもう一つは、先生が亡くなられた日のこと。 驚いたことに、先生は亡くなる数日前から夏風邪を引かれ、それが胃腸風邪だったもので、数日来お腹の調子が悪く、食欲がほとんどない状態だったそうなのですが、しかしそれは別に特別なことではなく、ご自宅でいつものように生活なされ、普通に立居し、大きな声で話されていたというのです。が、その普通の状態から容体が急変し、その数時間後に病院で亡くなられたと。 後にこの話を人にすると、誰もが「それは見事な死に方である」と言います。「さすがはS先生」と。それは確かにそうかもしれません。私もそのように思うところが少しある。 しかし、残されたご遺族は・・・。さっきまで普通にしていた人が、ふいに居なくなるということに、心の準備のできていないご遺族はおそらく茫然自失の状態になられたことでしょう。そのことを考えると、果たしてこういう見事な去り際というのは、素晴らしいことなのかどうか。 ご遺族のことを思えば、こういうことを言うことすら憚られますが、私自身、茫然自失というところがあります。茫然自失というのか、とにかくまだ先生が亡くなったことに対して実感が湧かない。今年の4月にお会いしたし、来るべき夏休みにもお会いする予定であった。あれ、その予定はどうなるの? という感じ。わずか3日前までお元気だったのなら、なぜ8月にお会いする時までそのままでいて下さらなかったのか? 先生の葬儀の間、不思議と涙が湧いてこなかったのは、式自体の散文性だけでなく、私自身、まだ先生の死が納得できていなかったことも、その理由の一つだったかも知れません。 けれども、やはり最後の献花がいけなかった。先生のご遺体、棺の中に納まった先生のお顔を見てしまうとね、納得するも何も、とにかくこれが現実なんだと分かりますから。途端に堰を切ったように涙が溢れてきて、どうしようもありませんでした。 そして出棺。暑い日盛りの吉祥寺の町を先生の棺を積んだ黒塗りの車が斎場へ向けて出発するのを私は茫然と見送ったのでした。(この項、続く)
July 17, 2011
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先ほど、私の大学時代からの恩師で、このブログでも時々登場していただいていたS先生が亡くなられたとの報せが入りました。 ということで、しばらくこのブログは途絶えますが、ご心配なく。心の整理がついてから、再開します。
July 11, 2011
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夕方、長久手にある「ベラ珈琲店」でお茶を飲みつつ、『LEON』なる雑誌を熟読。 私、以前、この「ちょい悪オヤジ」御用達の雑誌を腐した覚えがあるんですけど、なんかね、最近、この雑誌の言語感覚に結構はまっておりまして。ここまで確信犯的に変な言葉遣いをされると、逆にこれはこれでアリかなと。 例えば、お洒落な中年男性を「ちょい悪オヤジ」とか「ちょいモテオヤジ」などと称するのはもちろんのこと、こういうオヤジがターゲットとする女性のことを「ニキータ」と称するのがね、なんとも噴飯ものでありながら、慣れるとだんだんそれが面白くなってくるわけ。 ちなみに、この雑誌では「クルマ好きの男」のことを「コロガシオヤジ」とかって呼ぶんですよね。あと、ブレスレットとかアンクレットのことは「ぐるぐる」と呼びます。(機械式)時計のことは「ゼンマイ」。もちろん、モテるオヤジは安物のクオーツ時計なんかしませんから。 それから「インパクトのある靴」の意味で、「インパ靴」というのもあったなあ。 こういう言葉遣いって、当然、本誌編集部の人たちが作るんでしょうけど、「クルマ好きの男のことは『コロガシオヤジ』とか言っちゃいましょうよ」とかって、会議にかけている図を想像すると相当面白い。その会議、出てみたいわ~。 で、この雑誌の最新号はそのゼンマイ特集だったのですが、「モテるオヤジは脱ブナン」などと言いつつ、一流メーカーの時計の中でも定番ではない、ちょっと変わった高級時計をずらっと紹介しておりましたっけ。 でまた、この雑誌には独特の言い回しと言うか、文体があるわけ。特に「・・・なのです(よ)」という結語を持ってくるのが決まりで、このちょっと押しつけがましく馴れ馴れしい決め台詞が、何ともこの雑誌にピッタリな気がする。例えばこんな調子: デニムは男の基本のもの。そして、そんな基本を誰よりも格好良く着こなせるのが本当のお洒落。つまりオヤジさんたちならば、デニムスタイルが格好いいのが鉄則なのです。そこでオススメが、セブン フォー オール マンカインド。元祖、美脚デニムのため優美さや気品が一枚上を行く。ラグジュラリーにジャケデニでキメれば、まさにオヤジならではの貫禄ある格好良さになるのですよ。 この「なのですよ」がね、段々クセになるんですよね・・・。ワタクシもこういうドギツイ文体、習得しちゃおうかな。 というわけで、モテる教授は今日もまた、この妙な雑誌の妙な言葉遣いにはまりながら、午後のひと時を優雅に過ごしていたわけなのですよ。なーんてね。
July 10, 2011
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九電やらせメール問題と、管総理のストレステスト問題。色々世間は喧しいようですが、例によって例のごとく、世間と私の考え方ってのは違うもんだなあと思うことしきり。 ま、実はこの辺の問題、私には興味がないこともあり、あまり詳しく報道を読んでいるわけではないので、ひょっとすると間違った認識をしているかもしれませんが、まず九電やらせメール問題というのは、九電管轄の原発を再稼働すべきかどうかで公開討論みたいのをしていて、そこへ世論操作すべく、九電の上層部が社員に命じ、再開支持の意見メールを大量に出させた、ということなんでしょ? で、世間はこのことに対して非常に怒っているようなのですが、私が思うに、九電がこういうことをするのは当然なのではないかと。 だって九電も一私企業で、原発が止まれば損をする企業なんでしょ。だったら社員を動員して、再開を訴えようとするのは当たり前なんじゃないすか? そうしちゃいけない法的な根拠とかあるの? で、倫理的(どこがどう倫理的なのか私にはわかりませんが)な観点から、九電関連の人たちがそういう世論操作みたいなことをするはずがだろうという甘い甘い予測の上にこういう討論会をすること自体、日本人の甘っちょろいナイーブさが露呈しているんじゃないかと。中学校の学級会議じゃあるまいし、世間には海千山千の奴らがうじゃうじゃいる、という前提で物事は進めないといけないんじゃないでしょうか。 っていうか、私が思うに、そもそも原発再開すべきかどうかをこういう種類の討論の場で決めようとすること自体がおかしいんじゃないかと。地域住民が全員原発再開を望んだとしても、原発の安全自体に問題があるなら、再開しちゃまずいでしょ。そういうことは「意見」で決めることじゃなくて、安全かどうかの「事実」に基づいて決めるべきことであって、公開討論すること自体がおかしい。そう思いませんか? 次。菅総理のストレステスト問題ですが、国会だか閣僚だかが原発の安全を確認したところで急に菅総理がストレステストをやるとか言い出したことが「朝令暮改」だとかいって、やたらに批判されているようですけど、ストレステストの方が厳しい審査基準なのであれば、やればいいんじゃないの? 逆に、ストレステストをやることが決まっていたのに、管総理が朝令暮改で、「いや、いいんだ、そんなものやらなくても。原発は安全に決まっているんだ。さっさと動かしちゃえ」と言い出したのなら、問題だと思いますよ、私も。だけど、より厳しい審査をしましょうというのであれば、私はその方がいいと思う。 で、私はこの問題を批判している人たちに尋ねたいのですが、もしストレステストしないで原発を動かして、また事故が起きたらどうすんの? 「ああ、やっぱりやっておけば良かったかな」と後悔することになるんじゃないの? だから、問題は朝令暮改が悪いかどうかではなく、厳しく審査するべきかどうかなんじゃないのかと。で、私は厳しく審査することを支持するので、朝礼暮改だろうがなんだろうが、ストレステストを実施することを支持をしますけどね。だから、どうしてこの件で菅総理が批判されるのか、よく分かりません。方針がふらふらするのが悪いったって、より良い方向にふらふらするんだから、いいじゃない、別に。 かくのごとく、世間と私の意見というのは、大概、すれ違いますね。どうして世間は私のように考えないのか、私にとっては非常に不思議ですが。読者諸賢のご意見や如何に?
July 9, 2011
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数年前から私が愛用し始めた夏場のループタイ。つい最近傑作テレビドラマ『鈴木先生』で、主人公の鈴木先生こと長谷川博己が美しいループタイ姿を披露したこともあり、いよいよ時代がワタクシに追いついてきた感あり。 でもって、このところのクールビズ需要。もうね、これからはループタイしかないよ! ・・・と思っているのですが、今一つ流行しませんな・・・。やっぱり、アレは年寄りのするもの、という先入観があるのかしら、日本では。 実際、「兄貴」こと同僚のK教授にもさかんに勧めるのですが、「あんなの、爺臭くてヤダよ!」と剣もほろろ。 しかし! 最近、大学内で「節電委員」なるものにさせられてしまったK教授、この委員会のメンバー全員が不文律のように開襟シャツでを着ていることに気づき、ついにネクタイをやめて開襟シャツを着るようになってきたんですな。 しかし、開襟シャツというのは、色・柄があればよし、真っ白な半袖の開襟シャツにズボンという出で立ちですと、高校生の制服のように見えてしまわなくもない。やはりそこに何かないと、大人として様にならないというところがある。 となると・・・やっぱりループタイでしょう! ってなわけで、さしもループタイ嫌いのK教授も、最近、少しずつループタイに興味を持ち始めたらしい。 しかし、それまでずっと私の勧めを断り続けてきた手前、ちょっと恥ずかしいのか、遠回しに聞いてくるんですよね。私のループタイを見ながら、「そういうのはさあ・・・、どこで買うの?」とか。 むふふ。そうかそうか。ついに兄貴もその気になったか。 ということで、そう遠くない将来、K教授のループタイ姿が見られるのではないかと、楽しみにしているワタクシなのであります。ま、一度すれば、その快適さに二度と手放せなくなると思いますけどね。人気商品 ループタイ ループ ネクタイ でお洒落に♪ メンズ ネックレス ペンダント にも最適!! メンズ レディース ループ ネクタイ 細ネクタイ スリムタイ ナロータイ サロン系新作 ループタイ ループ ネクタイ で差をつけろ!! メンズ ネックレス ペンダント ループ ネクタイ スリムタイ ナロータイ キレカジ系ベネチアンガラスル-プタイスクエアG 【父の日】【敬老の日】 【あす楽対応_関東】 ※あす楽は時間指定不可【楽ギフ_包装】【yokoP2-10】
July 8, 2011
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昨日、さる同僚の方から、「釈迦楽さんも、大分、白くなってきたねえ・・・。苦労してる?」と言われたワタクシ。白くなってきた、というのは、髪の毛のことなんですが。 こういうことを、すごく親しい同僚からではなく、会えば言葉を交わす程度の同僚から言われると、(おそらくは掛け値の無い実感なのでしょうから)、結構ズシーンときますね。 そうか、傍目から見て、ワタクシも大分「ロマンス・グレイ」に近づいてきたというわけか・・・。 ま、年齢より遙かに若く見られる質なので、その、いわゆる「ロマンス・グレイ」という言葉から想像されるような中年の魅力的なオジサマの雰囲気は出したくても出せないのですけど、いずれにせよ、相応に老けてきたということですかね・・・。 うーん、どげんかせんといかん! 見た目だけでもちょっと若返らなきゃ! ということで、今日はぼさぼさになっていた髪の毛を切りに行ってきました。 しかし、前にもちらっと書いたことがありますが、ワタクシの行きつけの床屋さんというのが、非常に恐ろしいところでね。 切る人が二人いるのですが、一人はすごく上手、一人はすごく下手、というコンビでありまして、どちらに当たるかによって天下分け目の関ヶ原。下手な方の人に当たると悲惨なことになるわけよ。じゃ、そんな危険は冒さないで、別な床屋に行けばいいじゃない、とお思いになるやもしれませんが、もう一人の上手な方の人に切ってもらうと、これはまた実に私の望む通りに切ってくれるもので、それはまたそれで捨てがたいわけ。 とはいえ、この床屋さんには、過去、何度も泣かされてきまして。例えばほぼ同時に店の駐車場にクルマを止めた客がいて、こいつに負けるものかとタッチの差で私が先に店に入ったところ、順番からいって下手な方の人に捕まってしまい、私の一歩後から入った客が上手な方の人に切ってもらうことになった、とかね。 あるいは、店の外から様子を伺って、よーし、上手な方の人が椅子に座って暇そうにしているぞ、と思って、「今だ!」と勢いよく店に入ったら、手前の陰のところに隠れていた下手な方の人に、「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」と導かれてしまった、とかね。 確率から言って、どちらの人に当たるかは50・50であるはずなんですが、どういうわけか私の場合、37・63くらいの確率で下手な人の方に当たるのよ。これがコワイ。 で、そういう過去の暗い記憶があるもので、今日もドキドキよ。今日のロシアンルーレットは、吉と出るか、凶と出るか・・・。外からそっと店内の様子を伺うと、他の客はなし、上手な方の人も暇そうだぞ・・・。でもこの前みたいなこともあるからな。さて、店に入るべきか、否か。なんだか心臓がバクバク、口の中がカラカラになってきたぞ・・・。 よし、入ろう! ひゃー! ラッキー!! 今日は吉と出ました! 上手な方の人に切ってもらえることに! あーん、嬉しいよーん! って、たかが床屋くらいのことで、どうしてこんなにドキドキしなきゃいけないんだっ! でも、とにかく今日は上手な人に切ってもらったので、とってもカワイクなったワタクシ。これで少なくともひと月は、髪のことなんか気にしないでいられるぞ。短くなった分、白髪も少し目立たなくなったようだし。 というわけで、無事ロシアンルーレットをくぐり抜け、気分上々のワタクシなのでした、とさ。今日も、いい日だ!
July 7, 2011
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うちの科では毎年この時期、卒業生に向けて「会報」というのを発行します。ま、名誉教授から巻頭言を頂いたり、卒業生数名に近況報告を書いてもらったり、そういう記事をいくつか掲載したニューズレターみたいなもので、要するに卒業生と大学をつなぐ絆ですな。とはいえ、これは大学の公式な同窓会とは無関係にうちの科が独自に発行しているものでありまして、というか、はっきり言えばかく言うワタクシが趣味的に発行しているものと言っても、まあ過言ではないかな。 ですから、手作り感たっぷりのものなんですけど、でも、こういうものがあるとないとでは違うと思うんですよね。だから、ワタクシの目の黒いうちは出し続けようかなと。 で、今日は完成した会報の袋詰め作業が終了したので、明日、郵便局から卒業生たちに向けて発送されます。みんな、待っててね~! ところで、この会報の最後の方に、「尋ね人コーナー」というのを設けておりまして、会報を送るべき住所などが不明になってしまった卒業生の名前を掲示し、友人など付き合いがある人があれば、その人の現住所を教えてもらおうという趣旨のものなんですが、毎年毎年、この尋ね人コーナーに名前が載る人の数が増えるんですよね~。 つまり、行方不明の卒業生が毎年のように増えると。 で、その行方不明の卒業生の名前をリストアップしながら、私としては、何だか悲しい気持ちになるわけですよ。特に、もう何年もこのコーナーに名前が載り続ける人というのは、同窓生とも連絡を取り合ってないし、母校のことも見捨てちゃった人であるわけでしょ? 卒業したらもうそれでおしまい、はい、それまでよ、ということなんでしょ? なんか寂しいよね・・・。こちらとしては、卒業生は自分たちの息子・娘とも思っているのに。なんか大学時代に嫌なことでもあって、もうこんな大学のこと思い出したくもない、とか思っているのかしら・・・? ってなわけで、毎年増えて行く行方不明の卒業生の名前を見ながら、そして彼ら・彼女らの顔を思い浮かべながら、どうして何の連絡もしてくれないのかな、と悲しい気持ちを抱いているワタクシなのでありました、とさ。グスン。
July 6, 2011
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うちの大学も今後のことを見据えて、色々改革をやろうとしているのですが、なかなかこれという方向性が出てこないですなあ。 で、執行部とは縁もゆかりもない私と兄貴ことK教授が雑談の中で「うちの大学をいかにせん」というアイディアを出していたのですが、その中で、今世間で一番就職がいい学部は「看護系」だという話になりまして。 まあ、そうでしょうなあ。これから我が国の老齢化が進むにつれ、看護師はますます必要になるだろうし。 でまた、名古屋近辺ですと椙山女学園大学みたいに、時代の流れを読んでさっさと看護学部みたいなのを増設してしまうところもある。そういう機動力が、どうして国立にはないかねえ・・・。 だけど、看護学部というのは実習も多く、なかなかお金がかかる学部ではあるので、もう少しお金がかからなくて、人気の出そうな学部・学科ってなんだろうと考えてみた。 で、私と兄貴の結論は、「観光学科」じゃなかろうかと。文系の学生にとって、旅行代理店は今もなお就職希望職種の上位。だったら、そういうところに就職しやすい学科を作ったらどうかと。語学と地理系の授業を増やすくらいなら、今ある人員でカバーできそうだし。 あるいは、学部・学科組織は今のまま、課外授業としてエクセル操作とか秘書検定対策とかの講義を増設し、社会人即戦力を育成することに力を入れてますよ、みたいなことをアピールするとか。 ・・・なーんてアイディアを出し合っていたのですが、ふと気づけば、こういう方向性って、結局、大学の専門学校化だよな、と。 ま、おそらく、社会のニーズとしては、大学が専門学校化してくれればいいと思っているところも多いんでしょうな。学生に聞いても、みんなそう答えるもんね。大学のつまらない授業なんかどうでもいいから、就職面接の特訓をするために講師を呼んでくれ、とかね。 だけど、そういう社会にニーズに応えていたら大学の文系学部、とりわけ「文学部」なんて必要なくなっちゃうわけで、それこそれっきとした文学の教師たる私としては、自分で自分の首を絞めるようなもんですわな。 自分がやっているような学問は必要ないんだ、という方向性の大学改革をする、というのもねえ・・・。 だから、社会のニーズを見据えればいいのか、それともそういうものとは無関係に、大学は大学で唯我独尊的に己の道を行けばいいのか。難しいところでございますよ。 だけど、今日日の松本復興相辞任の茶番を見ても、教養って必要だよなって思いますからね。あの人の下品さ、レベルの低さは、教養の欠如以外の何物でもないでしょ。 ま、あの人に限らず、今日の政治家をずらり見渡してみても、教養のありそうなのって一人もいないからねえ。そういう意味では、教養こそ現代日本に欠けているものと言っても過言ではない。 じゃ、教養って何で養えばいいかといえば、やっぱり大学教育、そして文学部の教育じゃないの? 案外、本当の社会的ニーズは、専門学校的職能教育ではなく、大学文学部的教養教育なんじゃないかって気もしますけれども、どうなんすかね?
July 5, 2011
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今年、うちのゼミ生の中にヒップホップ音楽を卒論のテーマとして取り上げるのが居りまして、今日のゼミでその中間発表的なことをしたわけ。で、その発表の中で、「ヒップホップの前段階」みたいな話の中で、1970年代の「ディスコ・ブーム」に触れる件があったんですな。 で、そのディスコ・ブームのことを、非常に曖昧な、遠い過去のことを話すような感じで話すわけよ、そのゼミ生が。「むかしむかし、なんでもディスコなるものが流行ったことがあったそうで・・・」みたいな調子で。 まあね、平成生まれの子たちにとって、1970年代ってのは想像を絶する遠い過去なんでしょうな。でも、『サタデーナイト・フィーバー』でジョン・トラボルタのダンスに驚愕し、誰しもがあの決めポーズを競って真似した、そんな時代に青春していたワタクシとしては、「俺の青春は、もう歴史の範疇かよっ!」という感慨を抱かざるを得ませんでした・・・。 っていうか、その前の段階として『小さな恋のメロディ』という映画があったんだよね。で、私の世代というのは、物心ついた頃、まずこの映画にやられてしまった。でまたこの映画は音楽が良くて、そこでビージーズというグループを知ることになったと。 で、その抒情的なメロディを作り上げていたビージーズが、突如大変身して『サタデーナイト・フィーバー』のあの弾むようなディスコ・サウンドを作り上げたということに大ショックを受け、かつ大喝采した、それが我々の世代なんですな。ま、その前に山本リンダが「困っちゃうな」から「ウララ、ウララ」に変わった時に、同じようなショックを受けた世代でもあるわけですが。 なーんて話をしても、ゼミ生たちには通じないだろうなあ。 とにかく、ゼミ生の発表を聞きながら、時というのは残酷なまでに過ぎ去るもんだなと、痛感したことでございますよ。 それにしても、ヒップホップか・・・。このテーマ、ちょい辛いな。だって、このジャンル、音楽としてどこが良いんだかわからないんだもん、私には。歴史的に重要なアメリカ・ポピュラー音楽の一側面だ、というのはわかりますけど、個人的に音楽として楽しめない。 大体、今ヒップホップしている奴らが70歳とか80歳とかになって、懐メロとして「ヨー、ヨー、ヨー」を楽しむのかねえ。私には想像できないな。で、そういう懐メロにならない音楽って、ポピュラー音楽って言えるのか、私には疑問です。それに、そもそもヒップホップって、やたらに人種志向が強いというか、党派性が強いというか、白人のヒップホップは認めねえとか、南部の連中のヒップホップには理念がねえとか、とにかく排他的でしょ。なんかね、その辺が。ジャズですら、もう少し人種の垣根を越えてますよ。 ま、ヒップホップが好きだっちゅー人が居るなら、別にいいけど。 ということで、当該のゼミ生には、「この音楽を好まない俺に、ヒップホップってこんなに魅力のある音楽なんだってことを確信させるくらい、説得力のある魅力的な卒論に仕上げろよ」と言っておいたんですけど、さて、どうなることやら・・・。
July 4, 2011
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『天才アラーキー 写真の愛・情』、そして『日本の鶯 堀口大學聞書き』と、このところ趣味の読書は絶好調! なもので、その勢いに乗って林洋子著『藤田嗣治 本のしごと』(集英社新書ヴィジュアル版)を買ってしまいました。 『写真の愛・情』には、荒木経惟さんの、妻・陽子さんへの想いが詰まっているし、『日本の鶯』の著者は関容子氏。今回の『本のしごと』の著者は林洋子氏と、どうもこのところ「ヨーコ」3連発ですよ。うーん、ヨーコはいいかもっ! しかも今回の本は、フランスで活躍したレオナール・フジタこと藤田嗣治さんが、意外にも本の装丁とか挿絵とかにかなり深く関わっていた、ということを明らかにしたもので、私の専門にも近いところがあり、しかもこの本の著者の林さんという方は、藤田嗣治に関する研究で第30回サントリー学芸賞を受賞されていますからね(ちなみに『日本の鶯』は日本エッセイストクラブ賞を受賞)。 しかもしかも。この『藤田嗣治 本のしごと』は、「だ・である調」ではなく「です・ます調」で書いてあって、高度に学術的な内容の本を「です・ます調」の文体で書く方法を研究中の私としては、ますます興味津々よ。 といういわけで、色々な意味で期待に満ちて本書を読み始めたワタクシ。 ところが・・・。 うーーーーーん・・・。 これねえ・・・。 意外なことに、全然読めないの。ワタクシには。 何が読めないって、文章がね。とても読めるシロモノじゃなかったという。この人、サントリー学芸賞取ったんでしょ? それで、この文章ですかねえ・・・。 とにかく、この著者の「です・ます調」が、全然練れてないというか、単調この上ないわけ。だってほとんどすべての文章が「です(でした)」か「ます(ました)」か「でしょう(か)」で終わるんですから。全巻、そうよ。例を挙げましょうか? どのページを開いても、全部そうなんですけど・・・ ・・・赤い表紙が鮮やかです。孤児で病気の少年とその地の王の交流を描いた物語は、フランス人読者にも藤田にも異国趣味をかきたてるものでした。象、犬、猫、鶉、りす、牛を「自画自彫」しています。彼はよく似た犬の木版画を同時期に雑誌『クラルテ』に提供していました。すでに『詩数篇』に線描の動物がありましたが、当時手がけた涅槃図や十二支をテーマとした水彩画に通じる、輪郭線を強調した平面的な表現です。仏画などの東洋画の図像研究の成果でしょうか。のちに「猫の画家」といわれる藤田の原点がここにあります。(35-36頁) 彼の詩集『平行棒』(一九二七)を手掛けています。全頁大のエッチング五点とも取り外しがきくつくりで、当代風の女性を主人公とした光あふれる、開放感のある場面です。自転車に乗ったり、海水浴をしたりと、当時、藤田が16ミリカメラで撮影したドーヴィルなど高級リゾート海岸での夏のヴァカンスを連想させます。この詩人とは藤田のはじめての作品集『フジタ』を一九二四にジョルジュ・クレ社から出すなど、すでに親しいつきあいでした。出版元は『詩数篇』を手がけたベルヌアール社で、『詩数篇』より倍近いサイズの「画家本」というべきものでしょう。(43-44頁) ここでの見どころはむしろ本文頁での、テキストとイメージのレイアウトです。竹の囲み罫を基調のモティーフとしてレイアウトの枠を設定し、そこに漢字と朱色を効果的に使っています。前年の『御遠足』で使った「レイアウトの枠」の手法にさらに東洋風を加味し、技巧を尽くした二〇年代のパリでの「本のしごと」の集大成といっていいでしょう。刷り部数も一〇〇部を切り、ごく限られた愛書家向けの個性的な本です。(82頁) ね? この押し寄せる「です」「ます」「でしょう」に圧倒され、それが気になって気になって、一体何が書いてあるのか、内容の方に気が向かなくなるというね。これはもう、呪術的な悪文ですな。 文章道を志す者たちの末席を汚すワタクシでさえ、文末の切り方というのは一番工夫を凝らすところで、そこをいかにバラエティ豊かにするかということには、ものすごく気を遣うものなんだけどなあ・・・。「です」「ます」「でしょう」の3つで全部済ませるというこの人は、そういうことを考えないのだろうか? ということで、残念ながら第三の「ヨーコ」は全くの期待外れ。申し訳ないけど、この本は読む前に書庫に直行でございます。よほど必要があれば別、二度と日の目を見るかどうか・・・。 しかし、人のふり見てなんとやら。今書いている自分の本の文体を磨くための他山の石とすることとして、投資した1200円+税を回収したつもりになることといたしましょうかね。
July 3, 2011
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いやあ、困りました。最近、老眼の度が進んじゃって・・・。 「老眼」なんてのは、ジジイのなるものだと思っていたら、40代後半あたりからガンガン進むもんなんですなあ。 で、大学の研究者、とりわけ文系となると、もう本を読むことが仕事でしょ? 年がら年中、細かい文字を追わなくてはならない。これが老眼になるとキツイのよ。 特に厳しいのは辞書を見る時ね。辞書の細かい活字が読めない、読めない。昔とは逆に、今は辞書を見るために眼鏡を外さなきゃならないっていうね。で、ワープロで文章を書きながら辞書を見るとなると、眼鏡をかけてワープロを打つ、眼鏡を外して辞書を見る、眼鏡をかけてワープロを打つ、眼鏡を外して辞書を見る、と、この際限のない繰り返しですから、疲れるわー。 いや、辞書だけでなく、普通の本を読む時も実に中途半端でね。眼鏡をかけた状態で、やや本を遠くに持って読むか、あるいは、眼鏡を外して本を顔のすぐ近くまで引き寄せて裸眼で読むか、どっちにすべきか悩むわけ。 最近では、裸眼で本を目に極端に近づけて読む方が楽になってきたかなあ・・・。なんか、ガリ勉君みたいでカッコ悪い! でもね、この本に顔を埋めるようにして読むやり方、結構いいかも、と思わなくもないんです。というのは、この読み方ですと、活字が間近から自分に迫ってくるような気がして、それこそ本の世界に埋没せざるを得ないというか、そんな感じになってくる。最近、読書時の集中力が落ちてきた中で、この読み方は集中力回復のための恰好の回春剤になるかも。 で、そんな老眼読書の中で、最近の大ヒットは、関容子著『日本の鶯 堀口大學聞書き』(岩波現代文庫)という本。これ、堀口大學さんの若かりし頃からの思い出を、関容子さんが聞書きしたものなんですけど、これがね、まあ実に面白かった。 堀口大學さんというと、『月下の一群』というフランス訳詩集などでも名高いハイカラな感じの詩人ですけど、その出発点は与謝野寛、晶子夫妻の新詩社にあったんですな。とりわけ晶子の大天才に憧れてその世界に入り、和歌の創作からこの世界に足を踏み入れた人だったとは、私もついぞ知りませんでした。また、ほぼ同時期に新詩社入りした佐藤春夫が、堀口の大親友にして長く友情を保った人であったなんてことも、この本で初めて知りました。 しかし、そんな彼が和歌の世界から離れ、次第にフランス文学との付き合いが深まって行ったのには、生活環境の激変という要因があった。というのも、彼の親父さんというのが世界各地で駐在大使を務めたエリート外交官であり、そのために大學さんも当時の日本人としては例外的に世界各地に長く滞在し、その過程で完璧なフランス語をマスターせざるを得なかったからなんですな。 で、外交官の息子にして、完璧なフランス語を話し、フランス文学を熱く語れる人なわけですから、大學さんというのは相当に女性にもてたようで、それこそ滞在した先々で現地の女性と恋に落ちたらしい・・・。例えばかのマリー・ローランサンとも恋人同士の関係であったとか、そういう話も(上品にベールに包みながら)吐露されていますが、このあたりの話もすごく面白い。 でまた、私も全然知らなかったんですけど、堀口大學さんの詩というのは、相当にエロティックというか、もちろん卑猥という意味ではないですが、男女の愛を形而下に歌っているものがかなりあるんですな。で、それを嫌った同時代の詩人、日夏耿之介と袂を分かったことがある、なんてこともこの本を読んで初めて知りました。日夏耿之介というと、おどろおどろしい感じの詩を書く人で、むしろエロティックなことも辞さない人かと思っていましたが、そうではないんですね。 で、そういう大學さんの波乱万丈の半生記がこの本には語られているのですが、それを語る大學さんの語り口が実に上品で、しかし適度にユーモラスかつエロティックで、ものすごく面白いわけ。知的で、枯れているように見えて、しかし実はまだまだ男の色気を失っていない老人の昔語りとして、最上のものと言っていいでしょう。 そして、その最上の物語を引き出した関容子氏の腕。これが素晴らしい。出しゃばらず、しかし、ここぞというところでは前景に出ながら、上手に老詩人から話を引き出していくその手腕たるや、相当なものですよ。まとめ方も見事で、老詩人の生の声が聞こえてくるような気がする。本書は日本の近代詩人の(聞書き)自叙伝として、まず一流のものと言っていいでしょう。これこれ! ↓【送料無料選択可!】日本の鶯 堀口大學聞書き (岩波現代文庫) (文庫) / 関 容子 著価格:1,281円(税込、送料別) ただ、本書に唯一、欠点があるとすれば、それはタイトルかなと。一応小さな文字で「堀口大學聞書き」と添えてありますが、メインのタイトルが『日本の鶯』じゃ、何の本か分からないじゃないですか。(一応、マリー・ローランサンが堀口大學さんのことを、詩の中でそう呼んでいることに由来するのですが・・・) と思ったら、このタイトルは関容子さんご本人がつけたのではなく、丸谷才一氏がつけたものだそうな。本書巻末の「あとがき」にそうありました。 道理で! 私、どうもこの丸谷才一という人がイマイチ好きじゃなくて、彼の書いたものでピンとくるものが一つもないというね。このタイトルにしても、丸谷さん自身は「自分がつけた本の題名の中で一番いい」と豪語していたようですが、私が『日本の鶯』という本のタイトルだけ聞いたとして、それを読みたいかと聞かれたら、多分、鳥類図鑑の類だと想像して、「それほどでも・・・」と答えたことでございましょう。 ま、とにかく、本に鼻を埋めるようにして堪能した本書『日本の鶯』、教授の熱烈おすすめ! です。名著であることは間違いないですから、興味のある方はぜひ!
July 2, 2011
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今日は金山にある「名古屋ボストン美術館」でジム・ダイン展を見てきました。 今回の名古屋での展示に合わせて、この春、ジム・ダイン氏は名古屋を訪れ、愛知県立芸術大学で講演をされたのですけど、それも聞きに行ってしまったほどジム・ダイン・ファンの私。以来、折を見てこの展覧会を見に行こうと思いつつ、何やかやと忙しくのびのびになっておりましてね。で、今日はついにその思いを遂げた、というわけ。 幸いなことに名古屋ボストン美術館は愛知県の様々な大学などと提携をしておりまして、おかげで私はこの美術館には顔パスで入れるの。いいでしょ? で、家内の分だけ料金を支払って、いざ中へ。 最初の展示室は、ダイン氏の初期のテーマである「工具」にまつわる作品が展示されていました。講演会でもおっしゃっていましたが、彼の親だったかお祖父さんだったかは金物屋さんだったんですな。ですから金槌だとか、斧だとか、レンチだとか、のこぎりだとか、そういうものは彼の身近なところにいくらでもあり、そして彼はそれらの道具の中に比類なき美を見ていた。ゆえに、彼の最初の創作テーマは「工具」だったと。 しかし、当然のことながら、画家を鼓舞するインスピレーションは、画家の成長と共に、また時代の変化に従って変わっていきます。そしてその過程で、ダイン氏を一躍有名にした「バスローブ」シリーズや、当時流行のポップ・アートと共鳴したかのような「ハート」シリーズなど、傑作が次々と生まれていく。 しかし、そういう抽象的なテーマに取り組んだのち、彼は「自画像」であったり、あるいは「ギリシャ彫刻」といった具象的なテーマへと移っていきます。 そう、通常の画家が辿る「具象から抽象へ」という流れとはまったく逆に、ダイン氏は「抽象から具象へ」というコースを辿りながら、芸術的な成長を遂げていくわけ。その辺、ちょっと面白いですよね。 さらにダイン氏の作品の面白いところは、一枚の絵がどんどん変貌していくことです。 彼の作品は版画が主で、通常、版画というのは、ある程度の枚数を刷った後、原版を廃棄してしまうものなのですが、彼はその原版にさらに手を入れて、別な作品を生み出すんです。で、それを刷った後はさらにそこに手を入れて、第三の作品を生み出す。つまり、作品がどんどん変化していくわけ。芸術作品がどんどん変化し、成長していく過程が見られるということ。これがダイン作品の妙味なんですな。 そして、70歳代となったダイン氏の今の関心の的は、面白いことに、「ピノキオ」なんですと。子どもの時に見たディズニーのアニメのピノキオが、老境に差し掛かったアーティストにインスピレーションを与えているんですな。子ども時代の身近な遊び道具だった「工具」からスタートし、長いアートの旅をしてきたダイン氏が、今、再び子供時代の思い出である「ピノキオ」に戻りつつある。釣りで言う「鮒に始まり鮒に終わる」みたいなものなんでしょうか。面白いもんですね。 とはいえ、やはりジム・ダイン氏の作品群の中でインパクトがあるのは、代表作である「ハート」と「バス・ローブ」かな・・・。それらの中には、思わず欲しくなるものがありました。また植物を描いたものや、ギリシャ彫刻系統の作品にも、何点かすごくいいものがありましたね。こんな感じ! ↓ジム・ダイン【Jim Dine】額装ポスター A heart at Opera価格:53,340円(税込、送料別)A Husband with His Left Arm on Fire価格:12,600円(税込、送料別)【アートポスター】Double Venus in the Sky at Night(550×925mm) -ジム・ダイン-価格:3,570円(税込、送料別) というわけで、今日は念願だったジム・ダイン展を見に行くことができて、大満足でございます。 で、せっかく金山まで来たのだから、ということで、帰りに「アスナル金山」なる駅に近接したショッピング・モールみたいなところに行って軽くお茶をし、バナナ・レコードやインテリア・ショップの「George's」などを冷やかしたり。特に後者は色々面白いものがあって楽しめましたね。 で、その時点で6時半くらいになってしまったので、今日は夜も外食することにして、153号線沿いの「龍月」という粋なラーメン屋さんで、ジャズを聴きながらラーメンをいただくことに。柚子の風味の効いたスープで、硬めの細麺。さっぱりとしてなかなか結構なもので。 そんなこんなで今日は一日遊びましたけれど、いい息抜きになりました。その代り明日はちょいと頑張って勉強することといたしましょうかね。
July 1, 2011
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