全4件 (4件中 1-4件目)
1

ワールドカップが始まりました。サッカーのせいで寝不足です。 そろそろ寝たほうがいいなと思う時間にちょうど試合が始まります。なにかちょっと片づけや洗濯干しなどをしながらついつい見てしまいます。見だしたら最後、気がついたら1時まで見てしまっています。 今大会は、強豪国が、期待されていなかったチームに敗れたり引き分けたりといった試合が多く、番狂わせ大好き人間としては、興奮してしまい、目がさえてしまって、1時間、2時間さらに寝られなくなってしまうのです。 それにしても、「弱小国」が、強豪国を破るのは、なんとも痛快、胸のすく思いがします。これは、サッカーならではのおもしろさではないでしょうか。 でも、フランスの予選リーグ敗退は、最後、ちょっと悲惨な感じがしました。時期も時期なもので、ワーテルローの、最後のフランス軍総崩れの光景と、自分の中でだぶってしまいました。 前回のエントリーで、「アフリカ勢負けろ」といったことを書きましたが、本当に負けてしまっているのには驚きです。アフリカの大会で、まさかこんなにアフリカ勢が苦戦するとは。どうしてしまったのだろうという感じで、ちょっぴりエールを送りたくなってしまいます。 日本は意外にも予選最終戦まで希望をつないでいます。今の時点ではわかりませんが、なんとか決勝トーナメントまでいってほしいと願っています。 日本の試合はどの試合もしぶとく泥臭い試合ばかりで面白くありません。サッカーとしてはほめられたものではありませんが、ドイツ大会での苦い敗戦や、オランダに3-0で敗れた親善試合などの教訓が生かされていることは評価できます。90分の戦いであることを常に頭に入れて、ゲームの流れを意識し、ペース配分をしていくというサッカーです。 組織で守り、攻める、日本みたいなサッカーは、実はもっとも「サムライ」的でないサッカーだと言えると思います。武士は本質的に自分の武勇を第一に考えるエゴイストなものだし、一騎打ちを名誉なものと考えるものです。 ヨーロッパでは、古代ローマの時代から、隊列を組んだ集団戦が根付いているのに対して、日本は、江戸時代になっても、きちんと隊列、フォーメーションを組んで射撃や白兵戦をするという戦術が根付きませんでした。(銃撃は、ある程度隊列は組みましたが・・・) 日本の合戦は、あくまで「首取り」の戦いだったのです。相手の名のある武将と戦って討ち取り、首を取る、それによって恩賞を得る、この慣行が最後まで残りました。それが「武士」つまり「サムライ」なのです。 日本の組織だった規律正しい集団戦は、どちらかというと「農民的特性」と言えると思います。だから、サムライと言うよりも農民といった方が適切だと思います。 相変わらずマスコミの豹変ぶりには辟易とします。ちょっと前までボロクソに叩きまくっていた岡田監督や、日本代表を、ちやほやしまくり。これで、また負けたらまたバッシングを始めるのでしょうね。 おっと、今日は早く寝ます!
2010.06.23
コメント(0)

サッカーワールドカップが開幕しました。 ずっと昔の西ドイツ大会以来、ずっとこの4年に1度のサッカーの祭典を楽しみにしてきました。 でも、今回は、はっきり言って自分自身、すごく情けないことを考えてます。 それは、「アフリカ勢負けろ!」ということです。 今回の日本代表は、残念ながら、ほとんどめざましい活躍を期待できません。次の大会、次の代表、次の代表監督に期待したいです。 今回、初めてアフリカでの大会、アフリカ勢がたくさん予選リーグを突破してしまうと、当然のことながら、アフリカ協会は、次の大会のアフリカ勢の出場枠を増やせとFIFAに要求するでしょう。アジア勢が全滅したりしたら、アジア枠を減らされてアフリカ勢枠に振り分けられてしまうことは目に見えています。そうしたら、次の大会での日本の出場は厳しくなってしまいます。だから、アフリカ勢に勝たせたくないのです。 ヨーロッパや南米は、すでに枠が多いという事実があるし、けっこう鷹揚にかまえること思います。力を持つ大国は現行枠だけでも十分だと思っているし。 アジアの代表の中では、予選を突破できる力を持っていそうなのは韓国ぐらいのもの。今回に限っては、韓国を大いに応援します。 アジア枠のためにがんばれ! なんか情けない応援のしかただなあ。 日本代表、もっとがんばってくれよ!
2010.06.11
コメント(2)

日曜日、テレビを見ていたら、公立学校に、教室の仕切りのない校舎を作るといった取り組みについてのドキュメンタリーをやっていました。 この番組の「エンターテイメント」としての部分に、私の中でちょっぴり疑問符がつきました。それについて。 この番組の作りは、「常識を破ろうとする設計者」と、「今まで通りを望む教師」の対立という構図を中心に描いています。「まわりの音が気になって子どもが落ち着かないのではないか」と懸念する教師を、実際に壁を取り払った学校をじかに見る機会を設け、「なんだ、それほどでもないね。」というつぶやきでエンディングをむかえます。 常識を破ろうとする新しい試みが、苦難の末に理解を得、前進するという「ストーリー」に構成されています。 しかし、物事そんな単純な物ではありません。見る人がすっきりするように、一方向の筋書き以外の物をそぎ落としてしまっているのを感じました。テレビはしばしばニュース報道をする時にこういうことを露骨にやります。ぼくに言わせると、「エンターテイメント」です。 教室の壁を取り去るという試み、これは、メリットもあればディメリットもあります。 実際にこういった学校はすでにいくつも作られています。ぼくも何度かこういう学校に見学に行ったことがあります。ぼくはどちらかというとあまりいい印象を持ちませんでした。 隣のクラスの声はあまり気にならないといえば気にならないかもしれません。ただし、音楽を始めたら別です。音楽の授業をやる時は、学年で合わせるとか工夫するという話を聞きました。 番組の中で、教室の壁を取り去ることが、「閉鎖的でない開かれた教育」というイメージを喚起させ、政治の改革や情報公開などとイメージをダブらせ、「いいぞいいぞ」と心の中で喝采を送った視聴者も多いのではないかと思います。 でも、「開く」ことにも、メリットとディメリットがあります。ただ開けばいい教育ができるとか、子どもが良くなるとかいうものではありません。 閉じられた学級、壁に仕切られた学級は、ある意味、子どもを伸ばし、育てる可能性を無限に持っています。 閉じられた学級の中には、独自の規範があり、その学級だけの独自の空気、独自の共有意識、共感が作られます。その中でだから自分を出せる子、その中だから安心してバカがやれる子、教室は日常と切り離されている分、一種独特の「世界」ができあがるのです。 普通だったらしらけることが、その学級の中で、先生といっしょだとなんか夢中になってやれるみたいな物を提供してくれるのは、閉じられた学級なのです。 たとえば、学級対抗球技大会で、学級の作戦を立てたり、または意見が食い違ったりもめたり、けんかになったりで学級がぐちゃぐちゃになって、泣きながらなじり合い、やがて相手が自分と違うことに気づいて、少しずつ思いやる気持ちを持てるようになり・・・共感し・・・気持ちがひとつになる一体感を学級みんなでもって、だれかが「応援団を作ろう」なんて言い出して・・・といったドラマチックな盛り上がりは、閉ざされた「世界」の中だからこそ作られる物ではないでしょうか。 この報道番組に出てきた人は、この設計者も教師もそのまわりの人も、子どもが落ち着く落ち着かないだとか、学力がどうのとか、そういうことしか意見しないように見えます。(たぶん、それ以外のつぶやきは、番組編集の段階でカットされてしまっているのでしょうけど) ぼくは、壁のある、閉じられた教室の良さをここでは主張しました。しかし、公平な目でという意味で、「閉じられたスペース」にも、たいへんなディメリットがあるということも最後に付け加えておかなければなりません。 ひとりの教師と閉じられた「世界」を作る従来の学級は、もしもその教師が極端に偏った性格で、その人が子どもを強力に支配したりしたら、この閉ざされた世界は子どもにとって、「地獄」になります。 何でもそう単純じゃない。両面あるでしょう。 不登校気味の子のことを考えると、オープンスペースって、あんまりよくない気がします。こういういろいろな人の視線にさらされるような環境は、登校しにくいのではないでしょうか。 また、子ども達は、まわりで授業をやっていても、なれればそれほど気にはならないと言っていましたが、ADHD(注意欠陥多動性症候群)の子は、そうはいかないでしょう。
2010.06.09
コメント(3)

ぼくは小さいころ、歌謡曲や演歌がどうも好きになれませんでした。父は、そんなぼくに、「年をとれば良さがわかるようになるさ」と言いました。 そんなもんかなあと思っていましたが、大人になって、いいおじさんにとっくになってもいまだに良さはわかりません。要するに、これは、年齢になるとどうのというものではなく、体質的にあわないんだなあと思います。 ぼくは音楽ではロック、フォーク、カントリー、それにケルト音楽っぽいのが好きです。特に70年代のウエストコーストロック(死語ですね)が、やっぱり一番好きです。 ところで、ぼくは、はっきり言って、クラシック音楽というのがあまり好きではありません。音楽の授業とか、テレビの番組とかで、クラシックに触れる機会はたくさんありました。 「自分には良さがまだよくわからないんだな」とずっと思ってきました。「とっつきにくいものだから、最初は良さがわからないもんなんだよな」と思ってきました。 自分の中で、いつかは良さがわかるはずだと思ってきました。いや、ぼくの中ではもっと強迫的なものでした。 「クラシックこそ本物の音楽なんだから、その良さがわからなければ本物じゃない。早く良さがわかるようになりたい。」なんていう思いが心の底にありました。たまにクラシックのCDも買いました。部分的にはいいと思うことがあっても、聴いているうちに、自分の中で違和感がこみ上げてくるのはどうしようもありませんでした。あえてクラシックを聴き続けるのは、ちょっとかったるくなってきました。 ずいぶん後になってから、自分の中で気づきました。「ぼくはクラシックがわからないんじゃない!ぼくにはクラシックがあわないんだ!」 どうということのない、当たり前のようですが、ぼくの中では、「クラシックこそが本物の音楽なんだ」という信仰のようなものがあったので、それを覆すのはたいへんなことだったのです。 クラシック音楽は、歴史があります。また、今の音楽教育はクラシック音楽をベースにしているのでクラシックがすべての音楽の元であるかのように思われがちですが、考えてみると、ヨーロッパ中部の、中世から近世にかけて愛好された音楽です。そう考えてみると、沖縄民謡やアメリカのカントリーミュージックと同じように、ある地域のある時代の音楽のひとつに過ぎないのです。 そう考えると楽になりました。 クラシックを「あたりまえ」だと思わないで聴いてみると、全体としてリズムの抑制が特長になっていることに気づきます。アフリカのリズムを強調した音楽などと聴き較べてみるとはっきりとわかります。 リズムは人間の鼓動から来ているものだと思います。あるいは、2足歩行で歩く人間のテンポの表現から始まったのかもしれません。このリズムは「ビート」と言ってもいいと思います。クラシックでの打楽器は、同じテンポを刻んでいくというよりは、抑え気味から、いきなりティンパニーがドーンとすごい音を鳴らしたり、人間の鼓動や動きとは異質なもののように思います。クラシックが人間的なリズムを抑制しているのは、人間でなく、「神」を意識したものだからではないでしょうか。クラシックは禁欲的なキリスト教の空気を根底に持った、けっこう特殊な音楽なのではないか・・・これがぼくの結論です。 ちなみに、ぼくはバイオリンの音があまり好きではありません。あのキリキリ言わせて弾くソロは特に苦手です。でも、カントリーでのバイオリンは好きです! 「大草原の小さな家」では、あのお父さんは、たまにバイオリン弾いて、それにあわせて子ども達がフォークダンス踊ってました。ああいう雰囲気好きです。 おっと、だいぶ昔の話になりました。
2010.06.02
コメント(2)
全4件 (4件中 1-4件目)
1


