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ちょっとだけ時間が空いたので、感動した(笑)ことをひとつだけ紹介。「本に溺れたい」のrenqingさんが精力的に語られていることは本当に考えないといけないことだと思う。そこで紹介されていた「忍び寄る警察国家の影」が面白い。ってか、笑いごとじゃないんだよな。この白川氏の記事は広めるに値すると思ったので、更新できない間トップにおいておこうと思ってね。俺もこの間、職質されそうになったが、「日本はいつから自由に道を歩けなくなったんですか?」くらい言ってやろうと車から降りてくるのを待ち構えたら、その態度に気付いたのか、「すいません。ちょっと最近このあたり、物騒なんで」と言って済まされた。まあ、確かに俺はゴリゴリした物騒な奴には見えない。しかし、呼び止めるまでの偉そうな態度はかなり気になった。相手をみて姿を変えるんだろうな。まあ、白川氏の記事面白いんで。あと、お気に入りリンクにいくつか加えとく。なんか「すき屋好きやブロガー同盟」ってのがあって凄く面白そうなのだが、俺の生活圏にはあんまりないんだよね。まあ、しかしBSEは真面目に忌々しき問題になりそうだな。
2005.12.25
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来年1月の半ば過ぎまで、大切なことに時間を掛けるため更新ができなくなってしまう。恐らくこのタイミングが最後になるので、まあ、思ってることを書く。いつものようにその後整理されることだろう。とりえず、よいお歳を。さて、テッサ・モーリス=スズキのチャレンジングな問いかけに応答するべく、このブログで俺は21世紀の民主主義のために稿をいくつか重ねてきた。そこで絶対的に反対していたのは大文字の制度として民主主義を理解することであった。現代における民主主義とは制度だろうか?いや、実はエートスなのである。多くの政治学上の言説はこのことを理解しているし、俺もそのつもりで書いてきたつもりだが、今なお(!)大文字の「民主制」を語るサロン貴族もいらっしゃるので、ちょっと俺なりに思ったことを綴っとく。まあ、本当は熱は冷めてきた(ってか忙しさでやる気が失せた)のだが、掲題の件、書くっていったからには、一応書いとく。てきとー。民主主義という語(あるいはdemocracyという語)がコントロバーシャル(あるいはエッセンシャリー・コンテスタブル)な概念であることは常識であり、それを今さら、定義がはっきりしていないと批判したところでどうにもなるまい。こういう批判をしたい向きは、ひとつに、概念や制度というものが時代環境と独立に成立するという「幻想」を持っているのであり、いまひとつに、物事に内在して語ることができないという意味での誠実さにおける欠陥を持っているということができる(つまり、後述するが、最も民主主義をわかっていないスタンスを採っているわけである)。少しずつ、紐解いていこう。概念が時代環境と独立に成立するという「幻想」とはどういうことかといえば、今さら述べるのも恥ずかしいくらいだが、概念というものはその時代における制度環境において相互に支えあっているものだということを今一度確認したいだけだ。我々は人権という言説を一般的概念として持っている時代環境にあるわけで、現代における民主主義は、人権という制度実践=概念を持ったわれわれの立ち位置からしか語れないのである。この考えの前提は現代における民主主義が政治制度ではないというある種当然の理解にも絡む。多くの政治学者が語るように、デモクラシーは近代に「再臨」したのではなく、本質的に論争可能な概念として「新たに」出現したということに注意しておきたい。意味論の毒牙に引っ掛かって、名前が同じだから一緒のはずだといういつもの大過ちを犯した批判は意味が無いことは言うまでもない。現代の政治を語るにあたって、俺が現代の民主主義のことを語っているのは当然じゃないか?別の言い方をすれば、<制度>はある理論から演繹的には生じ得ないという、現代における社会学的常識を俺は語っているだけなのだが、もう少しくわしく具体例を挙げれば、あの(政治哲学者!)ジョン・ロールズでさえ、その正義論の正当化における源泉を合衆国の憲法実践においたのはなぜかということを言いたいだけなのだ(彼は、手続的民主主義よりも立憲的民主主義に軍配をあげる。それは、現代における(あるいはコンテンポラリーな)民主主義(その他)の用語の定義が、実践に基いてしか語れないことを語っているわけだ。)なんとなれば、民主主義というのは、絶えざる民主化のプロセスのことであり、コントロバーシャルな概念であると同時に、動態的な概念であるからだ。これは、ある種の常識であり、その前提は民主主義が語られるほとんどの場面で共有されている(と俺は認識していたんだけどね)。これをわからず、民主主義は全員の意思だというのは、ルソーは一般意思だといって思考停止するのに似ている。(これが結構いるが、私見ではルソーをちゃんと読んでいないか、悪意をもって読んでいる。)民主主義は全員の意思の一致を<求める>動態的概念である。その求め方において、立憲民主主義が優れているという解釈は多く為されてきたし、おれ自身も、ドゥウォーキンやエルスターなどは実はルソー主義者じゃないかと理解している。いま少し付け加えると、現代における民主主義批判をしたいのであれば、「現代における」<制度>を形作っている概念ベースの系譜を明らかにし、そのオルタナティブを示さなければ、ただの遠吠えと思われても仕方がないはず。酷いのは、自分がそこに内在して語っていることに気付かないで、教科書的概念整理をするだけで解った気になっている「星の王子さまに出てくる大人」のような存在だ。民主主義が「大文字」の制度として語られているわけで、そこには民主主義を民主主義たらしめる正統性の源泉としての<身体>的言語がない。金科玉条の民主主義を批判するが、民主主義を大文字の制度として語っている時点で、自身が自ら発した批判から逃れられていないわけだ。さて、動態的な概念である民主主義は、われわれがそこに内在しているがゆえに、内在したうえでの議論の倫理を必要としてしまう。つまり、例えば俺が「民主主義は言説の政治だ」と言ったことに反論があるのであれば、そこを説得的に批判しないと意味がないはずだ。つまり、立憲主義的伝統に乗っかりながら概念形成されてきた「民主主義」に対し、違う「民主主義」を提示しなければならないはずだ。だが、そこをなにやら論のすり替えで、「民主主義一般」という大文字の制度に変えて語る詭弁をぶたれても付き合いようがない。卑しくも現代において<民主主義>の正統性を確保しようと思うのであれば、それは動態的でプロセス志向的な概念として論じざるを得ず、「民主主義は多数者支配だ」といったようなラベルを貼り付けて喜んでいても、なんの発展もない。これは、相手に悪意あるラベルを貼って批判するようなものである(ちなみに、民主主義を多数者支配とする議論に関しては、今度また書く)。民主主義が多数者支配だというなら、それは、現代における民主主義概念を形成している「どの」系譜が多数者支配を形成しているのか言えるはずである。そして、民主主義者は、実はそのような議論を歓迎する。なぜなら、それをして民主主義をより良きものへと鍛えることができるからだ(もちろん、このことへの根源的批判はあるだろうが、体系立ったものをみたことがない)。繰り返しに近いが、民主主義を君主制と対比したところで、なんの意味もないのである。政治史上の概念区分を行ってテストの暗記には役立っても、実際上の「民主主義」を説明できない、いや、さらに、実践できない。すなわち、そうした俯瞰的理解は、もっとも民主主義と遠いところにある。自分が制度環境に属していながら、まるで、自分は民主主義の外側にいるかのように錯覚しているからだ。俺は、これを酷いレベルで民主主義がわかっていないと呼んでいるわけである。俺の立ち位置から言えば、あるいは、多くの様々ある政治学者の意見からでもいいが、大文字の民主主義を語る人間よりも、そのような概念はともかくとして、自分の生活のために、訴えを周囲に訴求しようと活動するその辺のオヤジの方が、よっぽど民主主義的であるわけだ。しかし、ミルやトクヴィルやフェデラリストペーパーを読んで、民主主義は多数者支配だからダメだという結論に至るというのは、いったいどういうことなんだろう?ちゃんと読んでいないか、人の引用を読んでわかった気になったかのどっちかじゃないかと疑わざるを得ない。「民主主義は多数者支配だからダメだ」的な揚げ足取りはやめて、もっと民主主義に代替するオルタナティブをあげてほしいものだ。小さな議論にタンパク質を消費しているのを見ると、それだけでめげる。悲しくなる。ある種の諦めから来ているのかもしれないが、知的議論を放棄しないのであれば、弱者を笑って楽しむのではなく、しっかりした論理構築に努めて欲しいものだ。そういう論理であれば、俺は低頭して学ばせていただく(本気で)。時間がないのでこの辺で。(纏まってないな・・・まあ、おいおい)
2005.12.25
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大学院への入学を許されたとき、多くの世話になった教授から言われたのは、英語を学べだった。他の学校はともかく、俺のいたところは、院へ進むと血気盛んな奴らが皆おとなしくなっていったが、それは己を知るからなのだろうと思う。英語を学ぶ理由は、良い悪いは別として、アメリカが研究の発表の場だからに他ならない。日本語で書かれたものだけを読み、その情報だけで考えていると時代に後れるというのは仕方がないことなのだろうと正直思う。そうした研究を知れば、学ぶことの多さに驚こう。さて、酒と徹夜仕事、そして文を書く仕事もあって、年末年始で更新できるかわからん。だが、予告くらいしとこうと思う。「続・民主主義がわからない人たち」は近いうちに書く。残念ながら、酷いレベルでわかっていない人たちがいることに気付いた。しかし、その前に、迂回戦略をした難問について、簡単に言及しておかないと、問題を順々に考えるという自己に課したルールを破ることになってしまう。難問はなんだったかというと、ハーバマスが主張した「憲法愛国主義」の主張の想定――パトリオティズムとナショナリズムは分離しうる――に対するラディカルな疑義があることを知ったからだった。ハーバマスの主張は成立するか、人は政治制度に対する愛国心を持てるかというものだ。これには、前回の「自由、あるいは権力、そして民主主義への迂回戦略」に対するコメントにあったように、われわれは体制をこそ問題にしているのではないかという可能性を考えたかったわけだ。まだハーバマスを擁護できるのではないかと、俺は考えている。いずれにしても、言語と権力の問題は大きい。これについては、迂回戦略から、予備的問題へと階段を上れるものと考えている。さて、飲みに行きます。
2005.12.20
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前原は頭がおかしい。いずれ「挙国一致」とか言い出すに違いない。奴はもしかすると平成の松岡洋右になりたいのかもしれない。ところで松岡洋右が、対米強行路線を閣内で主張しながら、開戦に至ると「僕一生の不覚」と周囲に漏らしたというのは興味深い。これが意味するのは、本人は自分の外交手腕を信じた駆け引きのつもりだったのだろうが、松岡の頭では、それが実際にどのような力学関係に巻き込まれて現実を動かしてしまうのかまで計算できなかったということだろう。つまり、頭が悪かったわけだ。俺が前原を心配する最大の理由はここだ。奴も頭がよろしくない。小泉がセグウェイに乗る。あれをおかしいと思うのは「普通」の感覚だと思う。校長先生が朝礼でセグウェイに乗って出てくることに対して、違和感を覚えない人だけが、あれを微笑ましく見ることが許される。しかも、ブッシュからの贈られ物っていうのが、今の改革の中身を眺めてる人間にとっては洒落に映らなかったろう。まあ、俺はこの地がアメリカの属領でも構わんけどね。その代わり、政治制度の方も本国に統一してや。傀儡政権ってのはやめてな。しかし、こうした自分の意思を何ものかに従属させるような人間を見ると、やっぱ近衛文麿かなと。挙国一致の翼賛内閣は近いのかもな。以上、前置き。■本題――立川反戦ビラ事件についてさて、民主主義をわかっていない人たちがいるらしいことに気付いた。民主主義は、民主主義であるがゆえに、それなりの倫理を必要とする。民主主義は言説による政治であるがゆえに、表現の自由に最大限の尊重を払う。そのダイナミズムをして正統性のある統治ということになる。そうであれば、我々は聞き難い言にも耳を傾けなければならないわけだ。あのアホな選挙カーが許される理由はここにしかない。アメリカにおける最も保守的な「表現の自由」抑制論理だって、政治的発言のみは認めるという論理構成になる。しかしこの国では、政治的見解であるがゆえに、不寛容な住民の訴えが、伝家の宝刀「住居侵入罪」の構成に役立つ。その「侵入」にどれだけの差し迫った危機があったというのか? 団地に適用しようとする時点で、非常に曖昧で官憲によってどうにでもなる法律に変えられていないか?明らかに、その法律が保護するものが何であるのか忘れられている。怖い国になったものだ。だが、もっとしょうがないのは、この国が曲がりなりにも民主主義国であることをわかっておらず、単純なる統治の原理として刑法を振りかざす人たちがいることだ。どうも彼らは「いじめ側にいればいじめられない」という愚かな知性を持つ小学生に近いようだ。卑怯で醜い。昨日あげたテッサ・モーリス=スズキの引用ではないが、現代の病理の表れとみることができよう。悲しいかな。首相がおかしく、野党党首がおかしく、民衆の側でも翼賛政治のオルガナイザーが現れつつある。マスコミは死んでいて、政治的主張は政治的主張であるがゆえに迫害される。ああ、リビングデッドたちよ。君たちはまたしても、サイパン島の崖からバンザイをしながら飛び降りていくのだろうか。
2005.12.17
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「Fixing A Hole」さんの記事で高校時代を思い出した(以下の文が特に関係してないのはいつものことで・・・)。(語の正しい意味での)恩師というのは数人は思い当たるが、その中でも、高校のときのT先生はエキセントリックで、心に残る一人だ。東京の片隅にある公立高校での出会いだった。3年間担任であった彼の(本人の言葉でいうところの)「傾き(かぶき)ぶり」に、俺は初めて人物を対象化することを覚えた(つまり、同時に自分が相対的に措定された)し、そのことはそれが天秤の一方となって「世の中」の相対性を発見する一助にもなった。そう、俺はあの時代稀に見る幸運な高校生だったわけだ。放課後に英語準備室なる部屋で、ブルーノ・サンマルチノのプロレス論からキリスト教的神の実在論に至るまでチャレンジさせてもらった。そんななかで出た一つが「悪いニュース」論だった。「最近は悪いニュースばかりで」と街頭インタビューに答える主婦。恐らく、メディアが国体を支える形ができてから、ずっと言い続けられてきたであろう言だ。毒な我々はこうした見解に噛み付く時には、他の分野での意見の違いを超えて連帯意識を持つのだった。「悪いニュースばかりって、それが幸せなことだということに気付いていない」「そうですね。良いことがニュースになる世の中ってどんなものかわかってないんでしょうね」「そうそう、悪いことがニュースになるってのは、良い世の中だからだってのをわかってないんだよな」「ああいう人たちが選挙権持ってていいんですか?」と、当時の血気盛んな俺は息巻いたりしたのだった。当時のこの掛け合いが非常に極論であることは間違いないが、それでも世の中の真理のある部分を突いているのではないかと思う。ニュースには良いものも悪いものもあっていい。だが、新聞屋は否が応にも社会の世論形成に影響を与えることは知らなければならない。社会における新聞屋としての矜持だ。銀行がお金の血液循環における脈の位置にあるように、新聞屋は情報の血液循環における脈でなくてはならない。どちらを扱うにしても「売れるから」という理由が世を跋扈している現状に嘆きたくなる。良いニュースも悪いニュースも人々の感情にまず訴えかけ、影響を与えてしまう。ある種のイデオロギッシュな隠蔽装置となる可能性があるということだ。良いニュースの陰に隠されることがあるし、悪いニュースの陰に隠されることがある。我々は隠されている方に注意を向けられるだけのメディアリテラシーを持っているだろうか?上のやりとりの本質的な噛み付きの対象は、そのリテラシーを持たない者の素朴な発言に対してであったように思う。ところで、その先生は、教員査定制度が導入されてから、学校を追われた。戦後教育のどこを批判するべきなのか。(教育委員会の点取り屋と揶揄されていた)追った人間の方はある公立トップ校の校長になった。
2005.12.17
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この記事、にわかに信じられん。「首相、大連立になお意欲・前原氏にエール」とのことだ。小泉は確信犯なのか? ファシストは(彼らにとって面倒に思える)議会手続きを無視できるように努力する。政治をゲームのように見做し、政治の義を求める場としての議会という考えよりも、目的達成のための道具とする考えが潜む。あらゆるファシストが、様々な形で議会無視を勝ち取った。多くは議会上のルールに則って。60~70年の間隔で歴史は繰り返すといわれるが、それは世代が交代し、皆が忘れてしまうからだろうか。多くのノンポリたちはこうした健忘症なのだろう。警鐘を鳴らし続けなければ。大政翼賛会を繰り返そうというのだろうか。「歴史は繰り返す。」ここばかり強調されるが、大切なのは次だ。「一度目は悲劇として、二度目は茶番劇として。」歴史はそのままの形で繰り返さない。一度目と二度目には、必ず差異がある。近衛文麿は決断力に欠いた男だったという。小泉純一郎は決断力があるように見せかけている。ここに差異がある。しかも茶番的な。だが、歴史が繰り返すのは同じ構造を持つからだともいえる。近衛文麿は大衆に人気があった。小泉純一郎は大衆に人気がある。「弱い」自分を隠そうとするパラノイア気質も似ている。昭和の大政翼賛会にはあらゆる政党が乗っかっていった。平成はどうか。「自由は国を亡ぼす」と。翼賛政治は自由を嫌う。立川反戦ビラ事件などを考えると気楽な構えはしていられない。他の国が怖いというお前たちが俺は怖い。
2005.12.16
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重要なのは、たとえそれが小さな試みであっても行動することである。誰の生においても、我々をとりまく不正義に抗する行動が可能な場所があるはずだ。講義の手紙を書いたり、電子メールを送ったり、ある特定の問題を学ぶために読書するといったささやかな行動でもいい。その行動は間違ったものかもしれない。この複雑な世界において、行動することは過ちを犯す危険をともなうものである。単純に小さな行動であっても、それは瞬時に政治的な議論を誘発する。・・・〔中略〕・・・このように小さな行動が議論を巻き起こすのは、失敗ではなく成功の一つの合図である。目の前の不正義に応答し行動することがデモクラシーの第一歩とするなら、その行動の結果を観察し検証することが次のステップだ。行動が巻き起こした様々な反応に注意深く耳を傾け、その問題にかかわる議論に参加する。まさにその過程で、個々の行動が他の行動と結合し連関する。そうすることによって我々自身が次の行動を起こす際、その行動にはより深い理解がともなうのである。・・・〔中略〕・・・二一世紀における自由とデモクラシーの再発見は、大きな理論や政党マニフェストから始まるものではない。個々人の日常生活のあらゆる局面、まさに今、この場で、始められるものである。そして、それは、この言葉を書いた後の私が、この本を読み終えた後のあなたが始めるものでもある。――テッサ・モーリス-スズキ『自由を耐え忍ぶ』あとがき以上、引用だけで。
2005.12.16
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■商業主義とこころの問題B (4:32:01): なんか同志社大学生が事件起こしたらしいねA (4:33:12): どうも病院に通院してたみたいねB (4:33:18): うんA (4:33:35): なんていうかA (4:33:50): 他のひとが気付かないといけなかったB (4:33:56): そうだねA (4:34:20): 教育理念ってのが無くなりすぎてるんだA (4:34:41): 私立中に受からすために勉強させて、お金貰えばいいってなってるA (4:34:57): 教育の目的がしっかりした会社だったら、A (4:35:05): もっと違った組織のカタチになってたはずA (4:35:20): 学生に任せる部分と任せない部分ってのがあったはずB (4:36:04): 学生に何を任せてしまってたのA (4:36:12): 曖昧だってことA (4:36:14): 任せてもいないB (4:36:19): ふむA (4:36:27): 勉強教えるくらいのことしかA (4:36:42): 雇用時の条件になってないA (4:36:59): だから、こどもも放任なら、講師も放任A (4:37:07): 勉強してるんでしょみたいなねA (4:37:13): 塾ってのはそうなっていくんだよB (4:37:26): うむA (4:37:41): もし良い塾ならA (4:37:56): 日頃から、教育についてもっと、豊穣な会話がなされてるはずでA (4:38:00): もしそれがあったなら、A (4:38:08): 講師の思いつめるようなことも無かっただろうしA (4:38:18): もっと、そういう問題に気付く契機があったはずなんだB (4:38:47): そうだねA (4:39:03): つまりねA (4:39:22): 商業主義化するってのは、こころをどこかに置いてきちゃうことなんだと思うA (4:39:38): でも、仕事ってのは、やっぱりコミュニケーションのはずでしょA (4:39:56): 自分のやってることが、社会に役立つから代価をもらえるわけでB (4:40:01): うんA (4:40:18): 社会の内部のちっちゃな目的へ奉仕するものに矮小化されちゃうとA (4:40:33): 日々の概念的発展が生じなくなっちゃうA (4:40:38): 人間として成長できなくなっちゃうA (4:40:44): Mさんを生んでしまう(※引用者註・・・Mさんの話題がこの雑談の前にあった。)■他者を尊重するということB (4:40:59): ・・・A (4:41:13): 別に揶揄してるわけでなくてねB (4:41:18): うん わかってるB (4:42:30): (Mさん)どうするのかなあ と思ってね これからA (4:42:48): そういうのは、周りが心配してもダメなんだよA (4:42:52): もっと言うとB (4:42:54): そうだねA (4:42:58): 周りが心配しちゃダメなんだよB (4:43:07): そうなのかA (4:43:11): 人間ってのは、そんなに弱くできてないよA (4:43:26): ちゃんと自分で途を見つけるはずA (4:43:29): そう信じないとねB (4:43:38): うんA (4:43:43): 途を見つけられなくする方法は一つだけあってA (4:43:56): 周りがいらない途を用意することなんだからB (4:44:04): うんA (4:45:28): 周りが無視するってんじゃなくてねB (4:45:31): うんA (4:45:36): 信じてくれてるってのがA (4:45:41): すごく大切だと思うB (4:46:06): そっちのが 色々心配して口出すより難しいねA (4:46:13): そうA (4:46:17): すごく難しいA (4:46:32): でも、相手を本当に尊重するってのはA (4:46:37): そういうことじゃないかねA (4:46:41): だから難しいA (4:46:53): 自分と同じくらいにまで大切に扱おうとするわけだからねB (4:46:53): だから難しい ほんとにB (4:46:56): うんB (4:47:04): 難しいA (4:47:07): これが自由の倫理だよB (4:47:38): うB (4:48:10): まだがっちりつながらない 遠くのほうで点線でぐるっと。。。A (4:48:18): あははA (4:48:23): 自由ってのはA (4:48:34): 何か束縛がないっていうA (4:48:41): 「状態」じゃなくてA (4:48:51): もっと、生き方の規範的原理だってことねA (4:49:00): 自由な国を生きようと思えばA (4:49:08): 自由な倫理に従わなきゃいけないA (4:49:10): それは、A (4:49:15): 自由=楽じゃなくてA (4:49:36): 他者をしっかりと尊重する姿勢だと思うA (4:49:50): 自由ってのは大変なんだB (4:50:17): うんB (4:50:24): へびーだA (4:50:27): そうだねA (4:50:38): でも、A (4:51:02): もし、世の中がホッブズの原始状態みたいにA (4:51:11): 万人の万人に対する戦争状態だったらA (4:51:21): それは嫌でしょB (4:51:29): うんA (4:51:45): 自由ってのは、他人とぶつかり合っちゃうものだと思うB (4:51:52): うんA (4:51:53): だからねA (4:52:01): その<境界>が問題になるA (4:52:07): つまり、倫理なんだよね■承認とコミュニケーションB (4:52:28): 境界を定めるのが、倫理?A (4:52:37): 定めるっていうかA (4:52:51): 相手と自分との境界においてA (4:53:01): どのようなルールをつくるのかっていう営為でしょB (4:53:26): うん A (4:53:43): それは硬直したルールじゃないはずだA (4:53:50): というのは、A (4:54:07): 他者との<境界>は、そんな無機物チックじゃないA (4:54:20): 迷惑を掛けることなんだよねA (4:54:29): 橋を架けるみたいにねB (4:54:48): 橋B (4:55:15): 片一方からの重荷ではなくて、両方にとっての道?A (4:55:29): そうかもねA (4:55:38): 相手に踏み込むことがコミュニケーションなんだよA (4:55:47): 踏み込むってのは、迷惑の場合もあるけれどA (4:55:52): やらなきゃいけない場合もあるA (4:56:03): その作法じゃないかねA (4:56:08): 自由の倫理ってのはB (4:56:34): ふむA (4:59:44): 相手に迷惑をかけちゃいけないって思ってたらA (4:59:52): 誰も告白なんかできませんB (5:00:26): なんでA (5:00:31): なんでってA (5:00:57): だって迷惑かけるかもしれないでしょA (5:01:05): 拒否されるかもしれないしねB (5:01:09): うんA (5:01:20): そこはお互いにヴァルネラビリティを保持してるわけでA (5:01:32): でも、そこを飛ぶわけだねB (5:01:41): えいっとA (5:01:44): そうA (5:01:49): 踏み込むってのはそういうことA (5:01:58): 別に、恋愛関係だけじゃなくてねB (5:02:02): うんA (5:02:03): 親子関係だってそうだしB (5:02:07): うんA (5:02:09): 生徒と教師だってそうだA (5:02:23): コミュニケーションってのは、簡単じゃないから価値があるんだよB (5:03:14): そういう 生々しいぶつかりあいみたいのをB (5:03:30): しないで年老いてしまうと かなり厳しいねA (5:03:34): そうA (5:03:40): でも、みんなしないでしょB (5:03:46): あんましないA (5:03:48): 親子ですらしないB (5:03:55): しないねえA (5:04:10): 相手を尊重しないか、まったく放任かどっちかになり勝ちB (5:04:26): そのどっちかのほうが簡単だねA (5:04:28): どっちも、同じで、子どもを個人として承認してない信じてないB (5:04:33): そうだねA (5:04:47): 承認されて信じられてれば、頭良くなるよB (5:05:10): そうか Aはお母さんに信じられてたんだね■自由の倫理=他者への作法の前提A (5:05:22): いや、違うねA (5:05:30): あれは、アンビバレントだったねA (5:05:37): 他人を信じれない人なんだB (5:06:00): それはつらいねA (5:06:04): 俺の場合は、思いっきり裏返った感じねB (5:06:12): あはははA (5:06:29): 価値観を神にすべて否定されたって感じたもんねA (5:06:39): でも、それで自由になったB (5:06:41): そうなの?B (5:06:45): へえええA (5:06:53): エドワードサイードみたいなところに至ったと思ってるA (5:07:05): つまり、境界とか周縁とかにねA (5:07:15): 自分が日本人であることなんかどうでもいいしA (5:07:22): 親がいないこともどうでもいいA (5:07:28): 差別する気にもならないしA (5:07:38): 価値観が壊れたからねA (5:07:46): 親は他人だしねA (5:08:20): 完全に、高校かその後かくらいだよA (5:08:25): 頭が良くなったのはA (5:08:26): 笑B (5:08:38): ふふふA (5:08:47): いっぱい本読んだしA (5:09:02): なんていうか、信じるものがなくなってねA (5:09:29): だから、マイノリティのことが多少はわかるA (5:09:32): と思っているB (5:09:41): うん B (5:09:44): と思っているB (5:09:59): ってつけるところが いいねAてB (5:10:04): さすがですA (5:10:13): わかんないもんA (5:10:15): それはB (5:10:31): うんA (5:10:34): わかったって言ったら、俺はマイノリティについて話す資格をなくしますB (5:10:43): そうねA (5:10:48): わからないからマイノリティだからねB (5:11:40): そうもいえるのかもねA (5:12:00): みんなある意味においてマイノリティであってB (5:12:07): うんA (5:12:08): わからないってのが前提でしょA (5:12:14): それが自由の倫理だと思うんだA (5:12:20): 相手のことはわからないA (5:12:31): だから、こちらが途を用意することはできないA (5:12:53): でも、わからないって前提で語ることはできるA (5:12:59): 関わることはできるB (5:13:08): うん
2005.12.16
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我々は、自由と民主主義が勝利したといわれる時代に生きている。しかし、民主主義とは、それぞれの生活に影響を及ぼす決定にそれぞれが発言権を持つということを意味する。したがって、市場の侵蝕がもたらした発言権の喪失という局面は、現在多くの人びとに抗しがたい無力感を与えている。――テッサ・モーリス-スズキ『自由を耐え忍ぶ』新自由主義は<民主主義>に対立する。市場の力によって各人の決定権が奪われ、生活の基盤が牛耳られる。姉歯ではないが、生活を脅かされたならば、小人は悪に加担してしまうだろう。彼を責めるのは容易いが、自分を省みたとき、誰が率先して彼に石を投げられるだろうか。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」という言葉は、実は<民主主義>の基礎であるように思える。テッサ・モーリス-スズキは、さらに同書の別の箇所でこう述べている。多くの人々は、不公正で欠陥に満ちた社会に生きていることを自覚しているが、その社会を改革するための貢献の手段を見出せないでいる。何もすることができないまま不公正な社会を生きるには、その対応として次の二つの選択肢を採用する。一方は、世界を変えることのできない自分自身の無力さを嫌悪することであり、他方は、外部に標的を定めて感情を表出することである。そして、不公正の原因が特定できない時、この怒りの破壊的な力は、壊しやすいものに向くことになる。すなわち弱者や少数者や異物が標的と定められる。我々は権力に足を掬われやすい。いつの間にかグロテスクなものへ加担してしまっている可能性もある。そのようななかでできることは何だろうか。できることはきっとあって、テッサ・モーリス-スズキが述べるように、21世紀に民主主義を再発見することかもしれない(これについてはまた書く)。だが、その前に、せめて自分の弱さを(あるいは、自分に罪があることを)知り、その鬱憤を弱者に向けないことを覚えるべきではなかろうか。最後に、昨日あげた『カメラ』についての、訳者野崎歓の解題を引用する。「根っからの、持って生まれた疲労感」。パスカルについての「ぼく」の評言は、もちろんそのまま彼自身にもあてはまるもので、生来の資質としての傷つきやすさ、消耗しやすさをもつ人間だからこそ、「現実をくたびれさせる」ための戦略を身につけ、実践する必要があるのに違いない。トゥーサンの主人公は、何事にも無痛無感覚のような表情をしながら、その裏側には現実と触れ合うことへの怯えや、傷つくことへの恐れを抱いている。しかも同時に、炎のような「憤怒」を身のうちに感じていて、その炎をいつか外の世界に向けて迸らせてやりたいという思いにもとらわれている。だからさらにまた、本気で怒るよりは、ひっそりと絶望している方がましだとも考える。――野崎歓「『カメラ』をめぐって」
2005.12.15
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師走ってすごいな。恐ろしいほど忙しい。なかなか書く時間がないので、長文の引用。これまでのところ邪魔しにくる者もなく、ぼくはのんびりと坐ったまま、駒が全部押さえ込まれてしまったらどうするかという、ブレーエが考案したチェスの問題を考えていた。それまでの五十手を通して、動かした駒も、奪った駒も皆無だったがゆえにそうなってしまった、という設定である。この問題について(そもそもどこが問題なのか、ぼくにはわからないのだけれど)、いい気持ちで思案を巡らしながら、ぼくはここにこそ、最高に洗練された生き方の表現があるのではないかと思うのだった。実際、ブレーエは公式試合で、これと同様の雅な流儀を示し、慎ましくも、すべての持ち駒を列の後ろに閉じ込めてしまって、それが攻撃のための策だったということがずっと後になってわかるのだが、最初のうちはとにかく、かすかな動きばかりを積み重ねることに終始して、各駒の潜在的なパワーを高めていった(そして次の段になると――一方的に攻めまくるのだ)。こうして、実践で成果を上げ、有効性が証明されたにもかかわらず、ギュラ・ブレーエのやり方は一般の理解を得られないばかりか、ときには疑惑の目で見られることさえあったのだが、それというのもこうした戦術にはあまりに奇怪なものがあり、意図するところが決して判然とせず、駒の動きも、とにかくひたすらエネルギーを蓄えるなどというわけのわからない理屈に従って、自在に陣地を拡張すべしとの原則にまっこうから反するものとなってしまうせいなのだった。こうして、トイレの中でじっとしたまま、思考の流れを心静かに追っているうちに、ぼくには、自分の行く手を阻んでいた現実に、心なし疲労の色が浮かんできたような気が、漠然としてきたのである。そう、確かに、現実の方がくたびれ、弱まってきたのであって、ここまで黙々と、粘り強く攻撃を重ねてきたことが、現実の側にダメージを与えつつあるに違いなく、ちょうどそれは、ときどきそっとフォークで押しつけてやっているうちに、オリーブの実がぐんなりとなってしまうようなものなのだけれど、こうして現実の側がへばってしまい、何の抵抗も示さなくなったあかつきには、ぼくのこの、ずっと以前から身のうちに感じていた憤怒が勢いに乗じて迸り出るのを、何物ももう止めることはできないのだ――ジャン=フィリップ・トゥーサン『カメラ』。かつて、まわりに『カメラ』を薦めていたとき、読んだ仲間からの共通した声は、「これ、お前じゃないか」だった。「足踏堂の入門書」なる賛辞まで戴いた(どっちへの賛辞だ?)。そして、そのときに言及される箇所がこの「ぐんなりとなるオリーブ」であることも不思議に共通していた。総じて、日本語と呼ばれる言語で書かれた文章に接している人間にはすこしダルく感じるトゥーサンではあるが、この『カメラ』は軽やかなテンポと展開がある。
2005.12.14
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(上)のつづき■日本が占領されることの何が怖いことなのか?いつもならこのまま進みたいと思うような論の道というのがあるのだが、今回は迂回路戦略を採っているわけだ。そこは禁欲的にいく。また極論をぶつ。降伏して、占領されたところまで考えてしまおう。ここまで考えてくれているナショナリストの論に出会ったことがないのはどうしたことだろう。彼らはそういう最悪の事態を避けるために、一生懸命タンパク質を消費しているのだ、とでも言うのだろうか。しかし、どこが最悪の事態なんだ?ちょっと前に経験したことじゃないか。そして、多くの人間がそれを難なく受け入れたのではなかったか。今回の相手は違う?さっきと同じ問いになったので、同じように繰り返して答えても良いのだが、もう少し、極論をぶってみよう。もしかすると、彼らは「同化政策」が怖いのかもしれない。面白いことに、パラノイアというのは、自分が非難された言葉を相手に投影して脅えるところがある。自分が過去にやったことだからこそ、その想像できる範囲内で想像して脅える。まあ、しかし、そういうことを言うよりも、極論ぶちつつ、それに付き合おう。相手が占領後、「同化政策」を採ったらどうなるか。■同化政策はどこまで怖いか?さて、俺はここからかなり際どい極論をぶつことになる。ある派からは非国民と罵られ、ある派からは差別主義者と侮蔑されるかもしれない。でもね、極論ですからね。俺がやってるのは極論で、そうなるべきだっていう論理構成と明らかに違いますのでね。念のため。同化政策というのは、常日頃行われている。歴史的にみれば、ちょっと前まで国家なんて概念はなかったわけだし、天皇をして現在の物理的境界をもつ「日本」と呼ばれる土地の文化だか伝統だかを表象するのも、恣意的な後付け解釈の枠を超え得るはずがない。沖縄の人はそれをどう受け取るべきなのか、とか、歯舞の人はそれをどう受け取るべきなのか、とか、ちょっと考えればわかるんじゃなかろうか。琉球王国は平気で文化から捨象しておいて、天皇は表象させるってのは、「明治」を内面化しているからに過ぎない。それを超えないと意味がない。だが、さらに、俺がここで言いたい「同化政策」ってのは、そういう周縁の人びとのこととは違う。国家を超えた<周縁>の人びとのことだ。俺もその一員でありたいと考えているのだが、俺のような立場から言わせてもらえば、アメリカに生まれていればアメリカっぽくなったであろう俺を、エジプトに生まれていればエジプトらしくなったであろう俺を、この土地に生まれたために「日本」に「同化」させられてるって言いたいだけだ。民族性なんて言うのはおよしよ。その概念からして、俺は「文化」に「教育」されてはじめてわかるものなんだから。俺は文化的差異を認めないのか?いや違う。文化的差異を認めさせるための闘争の方法論の違いを言っているだけだ。アメリカの黒人を考えたい。あるいは、この島国に住む在日朝鮮人を考えたい。俺は、暴力的に連れて来られたという歴史的事実関係についてことさら言い立てるつもりはない。正直、俺はそういう方々と話したこともないからわからない。そんなことは、そもそも問題じゃないんだ。それよりも、今、現に生まれてきている<周縁>の人のことを言っているわけだ。彼らにとって「自分たちの」文化ってなんだ?ただ単に、外的環境による「同化」強制力に過ぎないんじゃないのか?言語も制度も強制力を持っているわけだ。彼らの文化的差異を認めさせるには何が必要なんだ?国家による庇護か?いや、もっと正直な問いに変えよう。俺たちの文化的差異を認めさせるには何が必要なんだ?武装か?冗談じゃないぜ。お前等、文化を守るとかアイデンティティを守るって言って、俺の<文化>を奪おうってのか?冗談じゃないぜ。ちょっと、ロックなノリになってきてしまったが、アメリカの黒人のことを考えよう。彼らの文化的差異の主張は(現状、とても誉められたレベルまで達していないが、それでも)、やはり、合衆国憲法の<実践>によって認められるところまで至ったんだ。勘違いしないでくれよ。俺はここで、憲法が重要だと言いたいんじゃない。文化的差異を認めさせるのには、国家という歪な殻に閉じ篭ろうとする方法と、民主的=立憲主義的<実践>の積み重ねを行うという方法の二つがあると言いたいだけだ。「自分らしさ」を確保するにおいて、ヒトラーを選ぶのか、キング牧師を選ぶのか、それだけのことだ。(まあ、これは極論で、その選択まで行くとは到底思えないけどな。)■純粋な人たちナショナリズムってのがロマンティシズムと絡むのは、自分ってもの(の観念)への憧憬なんだろうと思う。不安を抱え、いろいろと揺れ動く自分ではなく、健全で確固とした自分を、文化とか伝統と呼ばれるもののなかに想定したいという希望に満ちているんだろうと思う。だから、心の弱い大衆に最も生じる幻想だといえる。純粋なんだな。ロマンティシズム。見たこともないローマ。きっと綺麗なはずのローマ。健全。美。愛。でも、そこから排除される人たちがいることを忘れちゃいけない。というよりも、自分だって、そういう「一般」を想定すれば、どこかしら外れてしまうはずだ。三島由紀夫が怖さから特攻隊志願ができずにそれがトラウマになってあのような結末を辿ったように、そういう想定をすると、外れている自分まで許せなくなってしまう。そして、政治家たちは、そういう健全国家の想定を煽りつつ、自分の子弟は徴兵逃れをさせるというエゴを振るう。国家的アイデンティティというのは、純粋な者への抑圧に過ぎないのじゃなかろうか。汚い者を俺は憎む。そして、純粋な者が考えないことをもまた俺は憎む。■「制度」は「教育」するまあ、本当に書きたいことを横目に、だいぶ迂回路を辿った。もちろん、ちっとも書きたいことに近づいていない。でも、ある程度の距離でもって、しっかりと歩いた。最後に言いたいことは、人の集団は、すでに抑圧的だということだ。権力が介在するということだ。「制度」を形作るということだ。親と子、教師と学生、上司と部下、新しい場で、新しい共通言語をつくるときには、権力が介在してくる。そのことに自覚的であることが、これからの時代において最も大切なことではなかろうか。自分がいつ抑圧側に回っているのかわからないからこそ。
2005.12.10
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さて、迂回戦略。コントロバーシャルな概念を決め付けで語らないために、しばらくゲリラ的に迂回路を行く。今日のゲリラ的迂回戦略(あるいは、散歩途戦略)は、ナショナリズム、ロマンティシズム、言語、国家、個人、アイデンティティ、伝統、共同体、天皇制等に関わる。※コントロバーシャル(controversial)…論争上の;異論の多い;つまり、これと言った通説が未だ構成されていない状態■日本が攻められた場合?日本が攻められた場合を想定してみる。この想定が頭の悪さを露呈する突飛さを持つことは否めないが、俺の今日の問題関心は、こうした想定(問題設定)の是非にあるわけではなく、こうした問題関心を持つための条件を考えたいということに他ならない(つまり、こういう関心を持つ人間の心性はどのようなものなのかを考えるわけだ)。これに関して言えば、ロマンティシズムとナショナリズムの結合が多くの識者から指摘されており、俺がそれをわかりにくく噛み砕いても仕方がないのだが、それでも「結局ロマン主義って何よ?」みたいな問いは、それはそれで俺の言葉で語ってもいいんじゃないの的な蛮勇を冷や汗かきながら振り絞ろうってことです。はい。早速少し脇に逸れて、回り道=散歩途へと入り込もう。紛争には相応の理由があるはずなのに、そこの考察をショートしてアクロバティックにそうした想定を前提とした思考へと向かう心性というのは、他者というものが強く恐怖の対象になっているからだろうと考えられる。パラノイアだ。他者への架橋の困難さの前に、思わず引きこもってしまう心性の表れである。そして、パラノイアの一般的な傾向と似ているのだが、その自ら重ねた疑心暗鬼の「鬼」に押し潰されそうになると、逆に「ウルトラ」な表れとして、積極的に他者に関わろうとするようになる。敵愾心と共に。だから、本当は、まず、心を寄せる相手(別に異性でも同性でもいいよ)にどのように接するべきかという対人アプローチ法を彼らに教えてあげるべきなのだ。近親憎悪ってのは、他者に文句が言えない奴が、甘えられる相手にその鬱憤をぶちまけているという構造以外のなにものでもあるまい。※たぶん、ナショナリストはもてないはずだ。彼らは逆にそれを「健全」なんて呼ぶんだろうが。そうした僻みの捻れはニーチェ的「奴隷の倫理」じゃなかろうか。てなわけで、攻め込まれたときの想定。極論をぶつ(極論というのは、ある問題設定に対して効果的に歩みよるための方法論なので、その極論自体の是非は措いてくれるとありがたい)。攻め込まれることは何が怖いことなのだろうか?これだ。非武装平和論ってのがある。アホなテレビ番組なんかを眺めてると、じゃ攻め込まれたときどうするの?みたいな感情に訴えかけてくる詭弁が跋扈するんだけれども、そうならないように日頃から努める。くらいしか答えがない。隣人関係悪化させて、殴りこまれて殺されるってのの想定に似てる気がする。そして、そもそも、そのアナロジーが間違っている気がする。※アナロジー(analogy)…類推。未知の状況を既知の状況から類推して考える方法くらいかな。上の隣人関係の極度の状態では、俺は殺される。そうした想定に対して、日頃から身体を鍛えるとか、銃刀を備えておくってのは、論理力が枯渇していないと出てこない答えじゃなかろうか。身体を鍛えておけば、確かに殺されないかもしれないけれど、俺の親は殺されるかもしれないし、犬くらいはやられちゃうんじゃないだろうか。それに対して、攻め返すのかね。なんか、こういう想定に立つ人たちってのは、人間関係において不幸なんだろうなと憐れんでしまう。■日本が攻め込まれることの何が怖いことなのか?俺の散歩のように、いろんな脇道に入りすぎて、論が真っ直ぐ行かないな。気を取り直して。日本が攻め込まれることの何が怖いことなのか?これだ。上のアナロジーが違うんじゃないかと書いた理由は、上の例と違って、日本が攻め込まれても俺はたぶん死なないってことだ、言い過ぎなら、身体鍛えて戦うよりもずっと死ぬ確率が減るってことだ。お前の親が殺されるかもしれないって?戦ってもそこは変わるまい。だから、また極論ぶつが、いっそのこと降伏ってのはどうよ?(繰り返すけど、極論よ。そうなる必然性について俺はちっとも納得してないからね。)ほとんどの場合、この降伏ってのが嫌なんじゃないかと思うのだけれど、それはチッポケなプライドに支えられてるのかもしれない。しかし、もう一回頭下げるくらいいいじゃない。殴り合って、痛い思いしてから頭下げた前回よりもマシじゃないかね?(極論ですよ笑。)今回の相手は違うって?おいおい、前回もそういうこと言ってたじゃんか。鬼畜米英って。今回は勝てるかもしれないって?まあ、たぶんそれが本音なのかもな。ちっちゃいねぇ。戦争ごっこはきっぱり諦めて、ワールドカップ一本に絞った方が良いと思うけどなぁ。さて、真面目に。これだけの欠陥を持っている武装積極論を支持する人間の心性というのは、日本人のアイデンティティという虚構に拘っているからこそ出てくるものだ。何と言うか、所属企業の名前を誇っちゃうサラリーマンというか、ピンで立てない人間の悲哀を感じなくもないが、ロマン主義もファシズムも大衆の誕生を待って出来上がった歴史的概念であることを考えれば、大衆の悲哀がこうした武装積極論を作ってるのはしょうがないのかもしれないとも思う。政治的意見のみならず、いろんな生活場面において、尊重されない個というのは、大きなアイデンティティの一部にひっそり収まっていたいと考えるものなのかもしれない。しかし、そこを揶揄して終わってしまっては、これだけいっぱいキータイプするために消費しようと決意して用意したタンパク質が泣くというものだ。国民的アイデンティティ=ナショナリズムという、特殊近代的な「人工物」について、もう少し真面目に接してみることにしようか。つづく
2005.12.10
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何度か「破れ目」について語った。破れ目は文化論でもあるし、身体論でもある。今回の「回り道雑談」は、それについて語られている部分があったので紹介する。A (1:40:10): 印鑑ってのは、ちょっとした文化だから面白いねA (1:40:23): 生活と結びついてるB (1:40:30): うん、最初にSが来たばっかりのころ、B (1:40:51): 「日本人が紙についてるあの赤いスタンプはなんぞや」と不思議がってた(笑)A (1:41:00): うんA (1:41:07): 文化だB (1:41:12): うんA (1:41:25): そういうのが土産として最高だB (1:41:33): あはは ねA (1:41:48): 生活から出てるもんじゃないとねB (1:42:27): まあね、いろいろ人によって 喜ぶところが違うけどね、印鑑はうけるひとにはうけるみたいよA (1:42:52): そうかA (1:42:58): まあ、いろいろだろうねB (1:43:11): 箸とかもね、うけるひとと、じゃまくさいと思う人とねA (1:43:26): はしはいまいちだB (1:43:30): ふふ そうかA (1:43:51): あれは文化と違うと思うB (1:44:03): へえ A (1:44:10): 人間間の関係性が無いB (1:44:21): ふむうA (1:44:43): 文化ってのは、人間関係のことじゃないのかねB (1:45:18): むむうA (1:45:58): 今、要らないのに、昔からやってるってのだけが理由で残そうって意思はおかしいと思うB (1:46:24): 箸はいるよ うどん食べるときも 食べやすいよA (1:46:28): そうしたものは、関係性において再生産されるからこそ、システムに組み込まれて残るA (1:46:41): でも、箸は無くても、うどんは食えるよB (1:47:23): 残そうって意思で残してるんではなくて便利だから残ってるっていいたかったのA (1:47:41): まあ、それはそうなんだけどA (1:47:43): 例えばA (1:47:50): 中国の食べ物が、A (1:47:58): インドでは、食べ方変わってるって例A (1:48:07): あるかわからないけど、想像はできるでしょB (1:48:25): インドのカレーが日本でカレーライスって食べ物になってしまってるしね、わかるよA (1:48:39): それを、本物と違うなんて、誰も怒るべきじゃないB (1:48:48): そりゃそうですA (1:48:53): でも、A (1:49:04): 日本文化論者は、そんな感じでしょB (1:49:19): うん、文化は生もの、って感覚を持ってないねA (1:49:27): そうA (1:49:32): それで、A (1:49:41): 文化が生息できる場所を考えてたんだけどA (1:49:51): それってのは、関係性だけかなとB (1:50:56): そうすると、生活様式、みたいなものはすべては入らないわけねA (1:51:17): 生活様式の射程がどこまでかわからないんだけどA (1:51:39): 安易に文化領域を定めたがる人たちへの警告はしておきたいねA (1:51:55): 恣意的に選んでるってことに自覚的じゃないでしょA (1:52:08): 例えば、自動車に乗るのはいいのに、A (1:52:23): 天皇制は失くせないみたいなB (1:52:30): あはははA (1:52:38): 実は恣意的なんだよねB (1:52:50): うんA (1:53:03): かなり、自分の主観というか、内面化されたステレオタイプで選んじゃってるB (1:53:27): 内面化されてる分、客観的になりにくいだろうねA (1:53:41): 自分の考えの前提ってのが、一番見えないんだよねB (1:53:48): うんA (1:53:49): 破れ目です。B (1:54:05): それについてこのごろ考えてたの?A (1:54:12): いやA (1:54:27): これは、俺の学術方法論なんですなA (1:54:36): 破れ目を探せ!A (1:54:49): 絶えざる自己反省!A (1:54:58): フーコーが言うところの啓蒙です。B (1:55:16): うん、知的誠実さだね。!が少し怖いが。A (1:55:24): あははA (1:55:28): ほんとだねA (1:55:36): 自己批判!A (1:55:38): みたいなA (1:55:39): 笑B (1:55:50): 笑文化というものが、関係性のものであるのか、俺はわからないが、そうした関係性の網の目を「破れ目」と呼んでいるのは、その通りではないかと思った。今回は前後が難解だったので、この部分だけの引用とし、短く終わる。
2005.12.10
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マッカトニー派だった俺は、10代の頃レノンはわからなかった。いろいろと経験して、俺はジョン・レノンなメガネをかけたりするようにまでなった。こういうのが解るってのは、人間の弱さ=dignityを尊重するようになって初めてのことなんだろうと思う。Imagine there's no heavenIt's easy if you tryNo hell below usAbove us only skyImagine all the peopleLiving for today...Imagine there's no countriesIt isn't hard to doNothing to kill or die forAnd no religion tooImagine all the peopleLiving life in peace...You may say i'm a dreamerBut i'm not the only oneI hope someday you'll join usAnd the world will be as oneImagine no possessionsI wonder if you canNo need for greed or hungerA brotherhood of manImagine all the peopleSharing all the world...You may say i'm a dreamerBut i'm not the only oneI hope someday you'll join usAnd the world will live as oneネグり=ハートのマルチチュードは、『live as one』を批判するのかもな。
2005.12.08
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日頃から多くのことに頭を使おうと努力しているつもりだが、ここのところ仕事でのアミノ酸消費量が激しく、脳の踏ん張りが効かない。難問がある場合、予備的問題の解決を積み重ねるという戦略を俺は常に採るのだが、今回はもう少し時間のかかる戦略を採ることにした。言ってみれば、包囲して堀を埋めるのではなく、ゲリラ的にそこに住む人々とコミュニケートをはかり、情報において全体を掌握するという手段を採るのに似ている。この戦略は、相手を認識するを第一とするものであることは言うまでもない。ところで、難問といった場合、それは何を意味するのであろうか。このことはこのこととして考えるに面白い問題だと思っている。俺の場合、難問とは、自身の生活のあらゆる局面を接合するもの――あるいは「破れ目」である。あらゆる関心は、その関心分野におけるボキャブラリーで計算(思考)可能だ(計算が難しいというのは「難問」とは言わない)。しかし、それを繋ぐ<身体>=「視座」はひとつであり、複数の生活領域における「問題関心」は、実は<身体>と関係しており、どこかの分野での難問は、おのずと、他の分野との関連を有している。あるいは、それが「難問」たる所以は、ボキャブラリーの違いを超えて、問題を総合的に形成しているからかもしれない(概念化されていない対象の地平だ)。よくわからないが、いささかイデオロギッシュにも思えるこうした前提に俺は立つことにする。ところで、耳鳴りがする。右耳だけ。しかも、デジタル音だ。キーンとか、ザーとか、ゴーとかじゃなくて、ピピッピピッって。なんなんだーこれはー。疲れか?
2005.12.08
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難問にぶち当たったため、しばらく休憩。今週中復帰予定。
2005.12.06
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本当は、「本人にとってさえどうでもいい議論にタンパク質を消費する人間に辟易する」という長い題で語りたい。テレビってのを見ない生活を続けていた俺は、結婚してテレビが家にやってきても、他人行儀に接している。耐震偽装の問題が出れば、アスベストのことを忘れる。そういった奴等は、権力が支配しやすいんだろうなぁ、と諦念とともに感心してしまう。実際に被害を被った方の気持ちは察するに余りあるが、どうもその他の輩は、報道で取り上げられたことに対して過敏に反応するパブロフの犬にしかなっていないような気がする。さて、そのようななかで、テレビにおける女児殺害事件の取り上げが目立ってることは俺も気付いている。一歩引いて見るとき、どうでもいい情報が、ただ視聴率獲得のためにだけ興味を煽るように垂れ流されているという印象は拭い得ない。誰だって、この行為を許せるはずがない。だが、テレビの情報は、そうした状況への解決にもならなければ、議論を深めるわけでもない。ただただ、犬どもを生産するだけだ。テレビが本当に欲しているのは、マスコミの社会的使命の達成ではなく、数字であって、そうであれば、被害者家族は、マスコミによる二次被害を受けていることになる。そして、腹立たしいことに、そのマスコミに影響された犬どもによって三次被害まで受けることになる。犬どもに必要だったのは、日頃の鬱憤をはらすための餌だっただけだ。マスコミが本音では数字を気にしているように、犬どもは「社会正義」の名の下に、攻撃対象を発見して喜ぶ。いじめの問題と同じで、攻撃側にいるときだけ、弱い自分が責められることはない。空虚な消費社会は、こうした「共犯関係」で成り立っている。驚くべきは、自分の発言機会を得たと勘違いしている人間が、そのような事象の根本的問題を考えることもなく、「犯罪者に人権はいらない」といった現代社会の大前提を崩すような軽口をたたいていることだ。おろかしすぎる。犯罪者に裁きが必要ならば、裁きは法を必要とし、法は権利とともに存在する、ということを想像したこともないのだろう。よい社会にしようとすれば、その根本問題を語らねばならないはずだ。だが、餌が欲しいだけの犬たちは、頭が悪いことと相俟って、どうでもいいような、反動的な、カタルシス=うんこな結論に至る。防犯対策を強化せよと。セキュリティ国家のはじまりである。国家は、そうした犬どもの賛同を得て、国民監視を強め、福祉を切り下げて犯罪の温床をつくり、その上で育ってきたものから刈り取る。経済は二極化し、犬どもの不満の票を集めるポピュリストが政権を担い続ける。愚かしいのは、アメリカ従属にNOと言っている輩でさえもが、こうしたアメリカ化するような言説に加担していることである。酷い事件は起こる。あるいは、起こり続けてきた。しかし、これが消費物になったのは、最近ではなかろうか。ひとつの悲しい出来事が、本当は共感もしていない「他人事主義者」たちによって、消費・再生産される。犬ども、数字が欲しいマスコミの共犯関係。他人事主義者たち。「酷い出来事」が「国民的事件」という商品につくり替えられる。鬱憤のたまった犬はそれを消費し、マスコミは売れるものを無思考に垂れ流し、そうした構造を読み取るポピュリストが再選し続ける。すべての事件は政治的であり得るし、事件の質を俺が評価しようとしているわけではない。ただ今回の件に関して言えば、不快な議論にはなっていても、深い議論にまで至っているものはネットにも、テレビにも見られなかった。ああ、犬どもよ、お前たちは権力に絡みとられた、日本ファシスト党予備軍だ。
2005.12.03
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からだが傷ついているのでもなく、からだが餓えているのでもなく、しかも傷つき餓え渇くということが人間にはある。一筋に希望をつないでいたことが無残に打ち砕かれれば、僕たちの心は眼に見えない血を流して傷つく。やさしい愛情を受けることなしに暮らしていれば、僕たちの心は、やがて堪えがたい渇きを覚えて来る。しかし、そういう苦しみの中でも、一番深く僕たちの心に突き入り、僕たちの眼から一番つらい涙をしぼり出すものは、――自分が取りかえしのつかない過ちを犯してしまったという意識だ。自分の行動を振りかえって見て、損得からではなく、道義の心から、「しまった」と考えるほどつらいことは、恐らくほかにはないだろうと思う。そうだ。自分自身そう認めることは、ほんとうにつらい。だから、たいていの人は、なんとか言訳を考えて、自分でそう認めまいとする。しかし、コペル君、自分が誤っていた場合にそれを男らしく認め、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけが出来ることなんだよ。――吉野源三郎『君たちはどう生きるか』弱さとは、人間の偉大さなのだと言っているようにも聞こえる。尊厳とは、人間の弱さだと言っているようにも聞こえる。弱さをこそ誇りたい。時代状況からくる「男らしく」という語の問題を差し引いても、吉野の言葉は、ちっとも色褪せていない。むしろ、今輝いているようにも思える。まとめの言葉は吉野の言葉をそのまま引用したい。僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。だから誤りを犯すこともある。しかし――僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。だから、誤りから立ち直ることも出来るのだ。最高の散文詩だ。
2005.12.02
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村上春樹が受けたのは、乾いた文体とか、数字の使い方のうまさとか、いろいろ要素を挙げる輩がいたけれど、そんなものはどうでもいいことで、本当のところ、村上春樹は、人間関係におけるヴァルネラビリティに敏感だったってことなんだと思う。自分が人を傷つける、しかも、悪気なく、ってことの意味を逃げずに考えてたからなんだと思う。
2005.12.02
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君が代斉唱時に不起立だった教員への「研修」において、ある女性教諭にたいし、「研修を妨害」したとして、東京都教育委員会は、地方公務員法の職務専念義務違反にあたるとして減給処分にしたという。もう寝ようと思って、新聞各紙のサイトをさらっと眺めていたらasahiにだけ見つけることができた記事だ(他にも載ってるかもしれません)。ちょっと読んでみてください(こちら)。君が代や国旗への敬礼を義務化することは、単純に「良心の自由」の保障を定めた憲法違反の疑いが強い。しかも、ほとんどの自治体が採用していない教科書を採用するような教育委員会のやることだから、どうしてもどっちがおかしいだろうかと考えてしまう。そして、それが「減給処分」という物理的な強制力によって行使されるとき、怖さを覚える。教育は国民の権利である。そして、ここは民主主義国家のはずだ。であるのに、言論の力でもなく、国民の代表者による討議によるのでもなく、なんだか知らない人たちが偉そうにしている「東京都教育委員会」というブラックボックスの決定によって、「教育」が牛耳られようとしているのは、ちょっとおかしくないか?しかも、「再発防止研修」である。建前上は、(「教育」によって)理解を求め、再発を防止しようとしたのだろう。その結果が「処分」だと、そもそも「研修」が失敗なわけで、指導力の無さを露呈したと言わざるをえまい。まあともかく、先の記事を読むと、俺には、「ゼッケンを外すよう言われた」のに対して、「なぜゼッケンがいけないのか」と繰り返し訴えたことが「研修を妨害した」と繋がっているようにしか読めない。そこでのやり取りをもっと具体的に知りたい。皆さん、知りたくありませんか?「研修の妨害といえるような行為は実際のところどのようなものであったのか」「なぜゼッケンがいけないのかという問いに対して、何と答えたのか」等を俺は聞きたい。あるいは、そもそも「どんな研修なんですか」って、今さらながら聞いてもいいな。聞きたい方はこちらへ(情報を公開してくださいという提言なんてどうでしょう)
2005.12.01
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自己決定の主張とは、「迷惑をかけない限り、何をしてもよい」という主張だとされる。だが、これは自らが主張していること自身において、未決の問題を残してしまっており、完結しない、自存することのできない主張である。つまり、「迷惑をかけない限りにおいて」と言うのだが、その「迷惑」とは何か。「他人に危害を加えない限り」と言うのだが、その「危害」とは何か。例えば、ある人がある行いをするのを、あるいはある装いをするのを別の人が見て、その人がむっとするのはどうだろうか。私の美意識を逆なでするのはどうだろうか。このようにありとあらゆることが迷惑なことでありうる。迷惑だと言う人が一人でもいたとしたら、それは迷惑をかける行為である。そのように言えば言える。・・・自己決定(権)という言葉のもとに主張されてきたことの一つは、実は「迷惑をかける権利」だったのだとも言える。――立岩真也『弱くある自由へ』立岩が「自己決定権とは迷惑を掛ける権利だ」というとき、自由は、われわれが普通に持っている素朴な(ミル的な;理念的な)理解を徹底的に破壊し、他者の存在との関わりにおける<自由>という実践的なものに一気に姿を変えさせる。この地点における立岩の「自己決定権」は、ロナルド・ドゥウォーキンが合衆国憲法の中枢に見出した「平等な尊重と配慮を求める権利」とほぼ同じ地点にまで近接しているはずだ。これが、自己決定権をして、近代を動かす原理と、国家の起源を見出すヒントにまで上げしむるものとなるのであるように思える。そして、自由を<実践>へと。かつて書いたように「条文カタログとしての権利」ではなく、人類の不断の営為としての<権利>という概念を与えてくれるように思う。前回と同じことを繰り返し言えば、<自由>とは、この弱くある人間に価値を見出し尊厳を見出せる者たちの生き方の<実践的倫理>なのである。
2005.12.01
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今回は長い引用なので、冒頭にも少しコメントする。自己決定権というイッシューは大変に奥の深いものである。以前も書いたが自己決定権はステレオタイプとしてではなく、個別具体的な現場における切実な<実践>においてしか主張されえないはずだ。そして、その主張の内実は、われわれ多数派には受け入れ難いもののはずだ。多数派に受け入れ難いものだからこそ、<権利>の主張となるはずだ。多数派に受け入れやすいものを「権利」として主張する必要などないのだから。以下、立岩真也の議論を引用する。もちろん主張のその内実としてはもっと以前からあったにしても、「自己決定」という言葉が障害をもつ人たちの運動の前面に出、彼らがこの言葉を掲げて闘うようになるのは、一九八〇年代になってからと言ってよいと思う。「自己決定」は近代社会の基本的な原理とも言えるのだから、この主張は遅れてやってきた主張だということになる。なぜか。なぜこの時になって、ことさらに自己決定が主張されたか、されなければならなかったのか。答えはいろいろ考えられるが、一つの主要な理由は単純なものだと思う。この人たちに自己決定させることは、この人たちのまわりにいる人たちにとって不都合であり、負担だからである。例えば、身体が動かない人の自己決定を尊重するとは、その人の身体の代わりに他の人が身体を動かさなくてはならないということである。また、その人がこの社会の中では稼げない人であるのなら、その人の自己決定を尊重した暮らしを送ることができるようにするとは、他の人の稼ぎをその人の生活のためにまわすということである。これは負担である。だからこそ自己決定は実現されてこなかった。だからこそ実現しようという主張があり運動があったし、今もある。(ところで、「自己決定を尊重したいとは思うが、予算の都合で限界がある」とよく役所の人は言うし、私たちも言うのだが、それは「自己決定を尊重しない」こととほとんど同じであることには注意した方がよい。というのも、それ以外に自己決定を否定する積極的な理由はなく、ほぼそれだけが否定の理由なのだから、このような言い訳は「自己決定の尊重」を正面から否定しているのである。)――立岩真也『弱くある自由へ』憲法条文に書かれている「権利」がステレオタイプ化し、それが守らねばならぬものとして「義務」という「自由の反対物」へと転化する可能性が常にあることは否定できない。あるいは、ステレオタイプで自由を賛美する人間は、世の中がおかしくなり始めたときには、率先して自由を呪うようになる可能性は否定できないどころか、容易に想像できる。これはちょうど「子ども」好きが、実は「自分の言うことを聞く子ども」が好きなだけだという卑近な例と似ている。他者の自由を認めるということはどういうことなのか、自己決定を認めるということはどういうことなのか。これをしっかり考えていなければ、思わぬ反動の渦に巻き込まれて、「自由にも限度がある」などといった無根拠の蒙昧な意見しか吐くことはできまい。このような言を吐く者は、すべての自由を否定し、自らも放棄しなければならないはずだ。自由とは、ある種の生き方の倫理を規定するものだ。それをどのように受け入れていくのか。自由は、自らの尊厳を持った民度の高い人たちにふさわしい<生き方>ではなかろうか。
2005.12.01
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歌を楽しむときに、メロディ派と歌詞派があると聞いたことがある。そんな分類が正しいのかどうかわからないが、信じて分類すれば俺はあきらかに歌詞派に入る。多くの人がそうであるように、俺も影響を受けた歌というのがあって、それは今でも大好きな歌だ。どれだけの影響をこの歌が与えてくれたのかわからないが、俺の今の基本的な思想が間違いなくこの歌と同じであるということはいえると思う。仕事で遅くなったあとに、眠気眼で「反戦老年委員会」のましまさんのエントリーや「そぞろ日記」のmiyauさんのコメントを考えながら読んでいたときに、なぜかこの歌が思い出された。俺は一度だけ武道館の中に入ったことがあるのだけれど、それはプロレスを見にいったのではなく、ホイットニー・ヒューストンのコンサートを聴きにいったのだった。そして、恐らく、そのときにも歌われたであろう歌だ。俺が本格的にこの歌に惚れるのは、もっと後になってからだったのだけれど。Greatest Love Of AllI believe the children are our future Teach them well and let them lead the way Show them all the beauty they possess inside Give them a sense of pride to make it easier Let the children's laughter remind us how we used to be Everybody's searching for a hero People need someone to look up to I never found anyone who fulfilled my needs A lonely place to be and so I learned to depend on me I decided long ago Never to walk in anyone's shadows If I fail, If I succeed At least I lived as I believed No matter what they take from me They can't take away my dignityBecause the greatest love of all is happening to me I've found the greatest love of all inside of meThe greatest love of all is easy to achieve Learning to love yourself, it is the greatest love of all
2005.12.01
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