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「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城と曰う」と、日本書紀に登場するのが水城(みずき)です。水城の遠景水城は土塁と濠で造られた古代城郭で、土塁は長さ約1.2km、高さ約10m、最大幅が約80mありました。土塁跡(断面)東西に延びる土塁の北側には、かつて幅約60m、深さ約4mの外濠が巡らされていたそうです。博多湾側(北側)の土塁と外濠跡反対側の太宰府側(南側)には、土塁の下を通って水濠に給水する「木樋」も発見されました。土塁の東西にはそれぞれ門が設けられ、西門のあった場所からは、大宰府(政庁)と鴻臚館(迎賓館)を結ぶ官道の跡も発見されました。西門跡水城は古代城郭でありながら、築城年、築城目的とも明らかになっています。663年の白村江の戦いで倭国が唐・新羅の連合軍に敗戦すると、唐・新羅連合軍の侵攻に備えるため、九州や瀬戸内海の沿岸各地に朝鮮式山城などの防御設備が造られました。そしてその防衛のために配備されたのが、防人です。白村江の戦いの翌年の664年、大宰府の防衛のために築かれたのが水城で、翌年の665年には、同じく日本書紀に登場する大野城が築城されています。水城から見ると、その大野城のある四王寺山が間近に見渡せます。白村江の戦いでの敗戦と、それに続く唐・新羅連合軍侵攻の脅威は、国家としての「日本」が独立を危ぶまれる最初の危機だったと思います。友好政策によって危機を脱し、その後の日本は中央集権体制を強めていきましたが、この1200年後にも同じような出来事はなかったでしょうか。すなわち黒船の来航から、明治維新への歴史がまさに同じ歴史だと思います。日本城郭協会「続日本100名城」
2018/01/25
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「銀天街」は愛媛松山市の固有名詞だと思っていたら、他にも「○○銀天街」の名称を見かけるようになりました。下関市の「唐戸銀天街」や宇部市の「宇部中央銀天街」など、山口県にもありました。「銀天街」は西日本に集中していますが、「銀天街」とは現在のアーケード商店街のことで、その発祥の地が小倉の魚町銀天街です。魚町にある「銀天街発祥の地」の碑アーケード商店街と言えば、大阪の天神橋筋商店街など、現在ではポピュラーな商店街ですが、その発祥が小倉の魚町銀天街でした。小倉では「小倉祇園祭」の最中で、浴衣や法被姿で銀天街を歩く人をよく見かけました。さらには銀天街の中で山車を引いていました。アーケードの途中で信号のある交差点を渡る時などは、特に交通規制があるでもなく、赤信号で停止して、青になると大急ぎで交差点を渡って行きました。(「止まれ~」、「行け~」の掛け声がかかります)小倉の祇園祭は京都のパロディーではありますが、その歴史は古く江戸時代初期に遡ります。小倉城に入城した京都出身の細川忠興が、城内の八坂神社の祭りとしたのが始まりで、京都と同じく7月に開催されます。(京都には2年半ほど赴任していたことがありますが、祇園祭の時は四条通りに交通規制があって、四条烏丸から東山七条まで徒歩で帰らなければならなかったため、あまりいい思い出がありません)小倉の祇園祭と言えば、「無法松の一生」でおなじみの「小倉祇園太鼓」です。「ぼんじゃございやせんか、松ですよ、松五郎が帰ってまいりました」アーケード商店街発祥の小倉ですが、その他にもポピュラーなものが小倉の発祥です。まずはパンチパーマ、小倉の理容店が発祥となっています。そして焼うどん、今では全国当たり前の食べ物ですが、焼そばの代わりにうどんにしたのが小倉でした。小倉と言えば焼うどんですが、あまりにもポピュラーになってしまったせいか、焼うどんの専門店みたいなお店はありませんでした。そして小倉で食したのがこちら焼ラーメン豚骨スープで味付けをしてありますが、小倉の人からは「福岡の屋台の食べ物だろ」と怒られそうな気がします。北九州市と福岡市は仲が悪いとも聞きますが、個人的には小倉の方がお気に入りです。ちょっと関門海峡を渡って、よく小倉まで足を延ばしていました。(銀天街を外れた路地など、我が江戸川区小岩の雰囲気によく似ています)
2012/07/23
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日本史の教科書の最初の方でおなじみの板付遺跡は、福岡空港の南端近くにあります。(福岡空港も以前は「板付空港」と呼ばれており、当ブログで度々ご紹介する元エアラインの「キャプテン殿」も、「板付空港」と呼んだりします)福岡に来たついでもあり、「福岡空港の南端くらいにあったな」くらいの感じで、板付遺跡を訪れてみました。ところがその福岡空港が大きすぎて場所を見失ってしまい、近くのガソリンスタンドに立ち寄った時に板付の場所を聞くと、実は空港の反対側とのことでした。(反対側に回るのが一苦労です)ついでに「板付遺跡はどこにあるのですか?」と聞くと、にわかにスタンドの店員さんが集まって話し始め、「板付に遺跡があるとね?」などと聞こえてきました。そんなにマイナーな史跡を探しているつもりもないのですが、何とか板付遺跡を見付けることが出来ました。板付遺跡は周囲を堀と土塁で囲んだ、弥生時代前期(約2,300年前)の環濠集落です。板付環濠集落の模型(板付遺跡弥生館)現在は住宅地のど真ん中に発掘された遺跡だけが残っている感じでした。周囲の環濠跡ちょうどANAのA320が低空で着陸していきました。(A320の倍ほど大きさがあるB777では、目の前を横切っていく感じです)環濠中心部の竪穴式住居吉野ヶ里の「クニ」に比べると規模ははるかに小さく、「ムラ」といったところでしょうか。環濠の外側、「ムラ」の周囲で稲作が行われていたようで、その水田の跡も発掘されていました。畦があったりして、現代の水田とあまり変わらないようです。水田跡にある「板付遺跡弥生館」には出土品の数々が展示されており、実際に板付遺跡から発掘された農耕具を見ると、鍬や鋤など現代とあまり変わらないものでした。古代の農機具に並んで、現代のスコップと全く同じものも展示されており、感心してよくよく見ると、「スコップ(現代)」とありました。「わざわざ板付に来てギャグなのか」とも思いましたが、展示品の数々は貴重なものばかりです。石器これが弥生時代の磨製石器の実物です。土器まさに高温で焼き上げた弥生式土器です。邪馬台国は福岡市南部にあったと強く思っているのですが、この「ムラ」が発展して邪馬台国になったでしょうか、または邪馬台国の成立の中に呑み込まれたムラだったのでしょうか。
2012/06/09
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水郷といえば佐原など利根川水系のイメージがありますが、柳川城の掘割が巡らされた柳川も水郷として知られています。柳川城の外堀でもあった掘割旧柳川藩主立花氏の別邸であった「御花」のなまこ壁(雛人形が飾られています)「御花」の洋館柳川を水郷と名付けたのは柳川出身の北原白秋だそうです。北原白秋の生家柳川といえば鰻と柳川鍋(どじょう)、鰻の看板があちらこちらに並び、どのお店からも鰻を焼く香りが漂ってきました。関連の記事柳川城→こちら
2012/03/12
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福岡県は3つの海に面しており、玄界灘の日本海、周防灘の瀬戸内海、そして有明海です。その有明海に面し、筑後川を挟んで佐賀県との県境近くにある柳川は、水郷の町としても知られています。柳川城もその掘割を要害とした城下町が築かれていたようです。柳川城に行く途中、駐車場を探しているうちに三の丸の住宅地に迷い込んでしまいました。掘割跡や曲尺手が複雑に入り組んでおり、何度も曲がっては同じ場所に来て、また同じ人に会うことの繰り返しでした。まるで東海道岡崎宿の「岡崎27曲がり」を彷彿とさせる城下でしたが、城下町を整備した人の名前を聞くと、それも納得かも知れません。現在の柳川城の遺構としては、柳川中学校の敷地内に天守台の跡が残るのみで、城跡としては寂しい限りでした。天守台遠景城跡碑天守台には明治まで天守が建っていたようですが、明治5年の火災で天守や櫓・門などを消失してしまいました。天守の古写真天守の絵図大手口の内堀には土橋が架けられていますが、場所は特定できませんでした。石垣石も海岸堤防の建設に使われてしまい、現在の城郭にはわずかに石垣が残るのみでした。総石垣造りの城郭も、掻き揚げの戦国城郭みたいになっていました。柳川中学校の周囲には掘割があり、わずかに内堀の名残を留めています。柳川城は永禄年間(1558年~1569年)に蒲池鑑盛(あきもり)によって築城されました。ちなみに蒲池鑑盛の子孫に松田聖子(旧姓蒲池去子)がいます。蒲池氏の時代の戦国城郭も水堀で囲まれており、扉の開閉によって水量が調節できるようになっていたそうです。1580年の龍造寺氏による数ヶ月に及ぶ攻撃や、1584年の大友氏にによる攻撃にも耐え抜き、当時「柳川三年 肥後三日 肥前久留米は朝茶の子」と歌われたそうです。(城を落とすのに、柳川城は3年かかるという意味ですが、久留米城もなかなか堅固だとは思います)豊臣政権下では立花宗茂が九州平定の功で柳川城に入城しましたが、関ケ原の戦いで西軍についたため、入城から13年で移封となりました。逆に関ケ原の戦いの功で岡崎城から田中吉政が32万石で入城し、田中吉政は石垣を改修して、天守を築いています。その石垣の高さは約8m、天守は5層で高さ35mもあったようです。田中氏には跡継ぎがなく断絶したため、再び立花宗茂が12万石で入城し、以後代々立花氏が柳川藩の藩主を勤めて明治維新を迎えています。
2012/03/11
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歴史上「~の乱」と呼ばれる出来事は数多くありますが、その舞台に九州が多いように思うのは、気のせいでしょうか。 523年の「筑紫国造磐井の乱」や720年の「隼人の反乱」などヤマト王権に対するものから、時代は下って徳川幕府下での「島原の乱」、さらには明治政府に変わってからも「西南の役」や「秋月党の乱」など、ざっと思いついただけでも結構あります。関ケ原の戦いの最中に黒田官兵衛(如水)が中津城でとった行動も入るでしょうか。後醍醐天皇の建武政権に反旗を翻し、京都を追われた足利尊氏が再起したのもやはり九州でした。太平記の時代の1336年、菊池武敏率いる後醍醐天皇方との「多々良浜の戦い」が、その幕開けとなりました。足利尊氏軍と菊池武敏軍は、福岡市内の北部を流れる多々良川の両岸に布陣しました。「多々良浜」の名前にあるように、当時は海岸線も近く、干潟が広がっていたようです。ちなみに1930(昭和5)年から1934(昭和9)年まで、多々良川には水上機専用の名島飛行場があって、リンドバーグも降り立ったそうです。多々良川の右岸に布陣した足利尊氏でしたが、その数は宗像大社の宗像氏の援軍を合わせても約2,000ほどでした。一方の後醍醐天皇方は菊池武敏を始め、筑前の秋月氏、筑後の蒲池氏、肥後の阿蘇氏など、九州の後醍醐天皇方の諸将を集め、その数は20,000人と言われています。多々良川の右岸には「陣の越」と呼ばれる小高い丘があり、ここに足利尊氏の本陣があったとされています。陣の越の方向陣の越まで行って見ましたが、特に何もありませんでした。10倍の敵を相手に大劣勢の足利尊氏でしたが、菊池軍側に砂塵を吹き付ける風が吹いたり、菊池軍から足利軍への寝返りが出たりして、結果は足利尊氏の勝利に終わっています。その後の足利尊氏は九州の諸将を味方につけ、水陸両面から京都を目指して東上していきました。そして舞台は太平記のクライマックスである「湊川の戦い」へと移って行きました。【送料無料】私本太平記(7)
2012/03/10
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金印公園の反対側、玄界灘に臨む丘陵上に志賀海神社があります。志賀海神社から見た玄界灘志賀島に来たとたんに雪がひどくなりました。祭神は底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)の綿津見三神で、全国の海神(わたつみ)の総本社とされています。志賀海神社の創建は明らかではありませんが、遅くとも2~4世紀には海上交通の要衝である現在の地に遷座し、海の守護神として信仰されてきました。戦国時代には大内氏、小早川氏、黒田氏の庇護を受け、現在の社殿も約350年前に再建されたそうです。突然太鼓を叩く音が聞こえたかと思うと、宮司さんが中で神事を執り行っていました。志賀海神社の祭祀は、古来より綿津見命を祖先とする阿曇(あずみ)氏によって行っており、現在も阿曇氏の子孫によって行われているそうです。
2012/02/22
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博多湾の北側には「海の中道」と呼ばれる全長8kmほどの砂州があり、玄界灘の日本海と博多湾を隔てる防波堤のようになっています。その海の中道の先端にあるのが志賀島、日本史の最初の方で「何となく聞いたかも…」という方も多いのではないでしょうか。志賀島は海の中道と陸続きになっており、玄界灘と博多湾を隔てるように片側一車線の道路が続いています。まるで海の上を走っているような感じですが、右側の玄界灘の方は荒波が打ち寄せ、左側の博多湾の方は割りと穏やかな海面が広がっており、左右で海の様相が違うのも不思議な感じです。(この冬の荒海に挑むサーファー達には脱帽です)ところで志賀島と言えば、「漢委奴国王」の金印が発見された場所として知られています。その金印が発見された場所は、「金印公園」として整備されていました。(金印の向きが微妙に傾いていたのですが、どこを指しているのでしょうか)歴史的に奇跡と思える発掘はいくつかあると思うのですが、志賀島の金印も奇跡としか言いようがありません。(他にはアマチュア歴史家相沢忠洋の岩宿遺跡からの石器発掘や、文京区弥生町の土器発掘など)「漢委奴国王」の金印が発見されたのは江戸時代の1784年で、発掘したのは百姓の甚兵衛という人です。もちろん当時の役所に届けたのでしょうが、このどこかの課程で歴史を知る人がいなかったら、現在に残ることはなかったかも知れません。「建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国王、奉貢朝貢す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武帝賜うに印綬を以ってす。安帝の永初元年(西暦107年)、倭国王帥升ら、生口(奴隷)百六十人を献じ、請見を願う」まさに後漢書東夷伝を裏付ける発掘でした。(それにしても「東夷」や「奴」の呼称など、まさに「中華思想」だったと思われます。当て字だとしても「邪馬台国」を始め、当時の日本の国はすべて蔑称です)
2012/02/21
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筑前の小京都とも呼ばれる秋月の城下町は、福岡県朝倉市の市街地から離れた山あいの中にあります。清流沿いの細い道が旧家の立ち並ぶ広い道へと変わり、突如として城下町が現れた感じでした。江戸時代初期の1623年、福岡藩の支藩である秋月藩が5万石で新設され、黒田長政の三男である黒田長興が初代藩主となりました。そしてその秋月藩の藩庁となったのが秋月城です。秋月城の1/100模型秋月の城下町もさることながら、秋月城の方も当時の城郭そのままに、石垣や水堀などの遺構が残っていました。大手口に架かる橋は「瓦橋」と呼ばれ、滑り止めのために通行部分には瓦が埋め込まれていることからこの呼び名があります。橋の向こうには大手虎口があったと思われますが、後から石垣を積んで閉ざされたようです。秋月城の石垣の向こう側に回ると、秋月中学校の敷地が広がっていました。城郭というよりも陣屋のような感じだったのかも知れません。秋月城正面の通りを進むと、秋月郷土館の長屋門がありました。秋月郷土館の門を入ると、敷地内に戸波家の屋敷が保存されていました。歴史資料館には甲冑や書状など、黒田家にまつわる数々の品が展示されていました。秋月美術館にはなぜかルノアール、シャガール、横山大観などが普通に展示してあり、秋月出身の土岐勝人氏によって寄贈されたものだそうです。稽古館の前の通りは杉の馬場とも呼ばれ、春になると桜並木となるそうです。紅葉の季節にはまだ早く、桜の季節には程遠く、しかも悪天候の中、それでも秋月の城下町を思い思いに散策する人が多かったのが印象的でした。秋月城の歴史は古く、鎌倉時代の1203年に原田種勝が鎌倉幕府将軍源頼家より秋月荘を拝領して秋月氏を名乗ったことに始まります。戦国時代になると第16代の秋月種実が勢力を伸ばし、大内氏や毛利氏と手を結んで豊後の大友氏と対立していました。その頃の秋月氏の本拠地は秋月城の背後にある古処山城で、秋月城は古処山城の支城としての位置付けでした。(古処山城も探しに行ってみたのですが、あまりに視界が悪いので断念しました)秋月城の隣にある垂裕神社の境内には秋月城の大手門であった「黒門」が現存していますが、この門は元々古処山城の搦め手門だったそうです。豊臣秀吉が九州征伐に乗り出してくると、秋月氏は島津氏について豊臣秀吉に対抗しました。筑前の雄者であった秋月氏でしたが、1587年に豊臣秀吉の前に敗れ、日向へ移封となっています。関ヶ原の戦い後は黒田長政が筑前52万石で入封し、黒田長政の遺言によって三男である黒田長興が秋月藩を立播しました。秋月藩主は黒田氏のまま明治維新を迎えており、途中で移封や改易のなかった藩です。秋月は久留米城の帰りにたまたま立ち寄った場所でした。秋月と言えば明治に入ってからの士族の反乱である秋月党の乱で知られていますが、「あの秋月か…」くらいの感じだったのですが、優雅な城下町が残っているとは思いませんでした
2011/11/11
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関ヶ原の戦いの恩賞で筑前国52万石に加増・移封された黒田長政は、筑前の国境付近に「筑前六端城」を置いて国境の防衛にあたりました。その筑前六端城の一つに益富城があり、黒田家臣の中でも後藤又兵衛(後藤基次、後に出奔し大阪の陣で討死)や「酒は飲め飲め」の黒田節の母里太兵衛など、黒田武士の中でもそうそうたる面々が城主となっていた城です。益富城跡は福岡県のほぼ中央に位置する嘉麻市にあり、近世城郭である福岡城とは違って、まったくの戦国山城でした。益富城縄張り図山頂部に本丸があり、尾根や斜面に沿って曲輪や竪堀が巡らされています。登場道途中の斜面にも、腰曲輪や竪堀の跡が残っていました。竪堀跡畝状竪堀の跡がわずかに残っています。益富城址の案内に沿って登って行ったのですが、登城道は北側の搦め手方向についていたようです。二の丸の削平地に到着すると、登城道とは反対側に枡形虎口が残っており、こちらが大手口と思われます。二の丸に建つ城跡碑二の丸と本丸はほぼ地続きになっていますが、縄張り図を見ると本丸とは空堀ではなく、土塁で区切られていたようです。本丸虎口の土塁跡櫓台があって横矢が架かっていました。本丸益富城から少し離れた善照寺には、益富城の大手門が移築されて現存していました。土塁や空掘などの遺構よりもこちらの方が奇跡のように思います。久々の戦国山城でしたが、なかなかの名城だと思いました。戦国城郭には築城主の性格がよく出ると思うのですが、黒田長政は武骨でありながら慎重な武将だったのではないでしょうか。(あくまでも感覚ですが、北条氏や毛利氏の築城と同じようなものを感じました)元々の益富城の築城は戦国時代に入る前の永享年間(1430年頃)に、山口を本拠地とする守護大名大内盛見によって築城されました。当時は戦国の時代ではなく、あくまでも室町幕府の命令によって九州の平定が目的だったようです。戦国時代の永禄年間(1560年頃)には九州の大友氏と争っていた毛利元就の支配下となり、毛利氏の城代が置かれていました。戦国時代末期の1580年頃には毛利氏と同盟関係のあった秋月氏の支配下となりましたが、九州平定を目論む豊臣秀吉の前に秋月氏と益富城は攻略され、豊臣秀吉の支配下となりました。ところで益富城には「一夜城」の別名がありますが、以下の経緯があります。美濃墨俣城や小田原石垣山一夜城など、この人には一夜城にまつわる話が多いのですが、益富城も一夜で築かれた城ではありません。関ヶ原の戦い後は黒田氏の支配下となりますが、1615年の一国一城令によって、益富城を含む筑前六端城は廃城となりました。関連の記事名島城→こちら福岡城→こちら
2011/11/09
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福岡市・北九州市に次いで福岡県で三番目の人口を有する久留米市には、律令時代に築後の国府が置かれ、江戸時代には久留米藩が置かれていました。その久留米藩の藩庁であったのが久留米城で、筑後川を背後に持つ縄張りとなっています。久留米城の縄張り図久留米城の背後を流れる筑後川現在の久留米城跡には本丸部分しか残っておらず、二の丸や三の丸は市街地や工場敷地となっていました。二の丸跡久留米が発祥のブリヂストンの工場になっています。大城郭も大半が市街化されていますが、それでも本丸の大手口には水堀と石垣が残っていました。本丸大手虎口の冠木御門跡枡形になっていますが、名前からすると冠木門が置かれていたのでしょうか。本丸には七つの櫓が置かれていたようですが、いずれも取り壊されて現在は石垣だけが残っていました。坤(ひつじさる)櫓のあった南西側の本丸石垣と水堀南東側の石垣櫓の中で最も大きい三重の巽櫓が置かれており、巽櫓が天守の代用となっていたようです。本丸東側、月見櫓のあった石垣本丸東側の月見櫓直下「東御門」虎口跡直下の駐車場は蜜柑丸と呼ばれる腰曲輪の跡で、曲輪の名前は蜜柑の木が植えられていたことに由来しています。本丸には本丸御殿があったようですが、現在は久留米城主であった有馬豊氏を祀る篠山神社の境内となっていました。篠山神社拝殿神社の敷地となった本丸には有馬記念館など、ブリヂストン創業者である石橋正二郎氏にゆかりのある建物がいくつかありました。その一つが千松庵と呼ばれる茶室で、石橋正二郎氏の母親である石橋マツさんによって寄贈されたものです。千松庵の名前は、千利休の千とマツから命名されたそうです。さらには東郷平八郎元帥の書斎も移築されていました。久留米出身で東郷平八郎を崇敬していた小倉敬止氏が譲り受けたもので、石橋正二郎氏が有馬記念館を建てる際に移築されてきたものです。思えば久留米に来たのは2回目です。1度目は学生の頃に周遊券で九州を回っているときでした。その時は鹿児島本線から久大本線(久留米・大分間)への乗り換えに利用しただけで、久留米駅のホームから出てもいません。再び久留米に来ることや、こんな城郭があることは知る由もありませんでした。久留米城は1504年~1521年の永正年間に築城された平山城が始まりと言われています。その頃は久留米にある高良山の出城としての位置付けで、1583年から3年の間、高良山座主である麟圭が久留米城に籠って大友氏との戦いを繰り広げていました。豊臣秀吉による九州平定の後、毛利元就の九男である毛利秀包(のちに小早川元総)が、養父である小早川隆景の筑前・筑後領有に伴って久留米城に入城しました。現在残る近世城郭の原型は毛利秀包によって作られています。関ヶ原の戦い後に毛利氏が防長二ヵ国に減封されると、岡崎城から田中吉政が柳川城に入り、久留米城も柳川城の支城として田中吉政の支配下となりました。田中吉政と言えば東海道岡崎宿の「二十七曲がり」など、城郭というより城下町造りの名人のような印象です。しかしながら田中吉政の子である忠政に子がなかったため、田中氏は改易となって久留米から移封となりました。田中氏の後には福知山城から有馬豊氏が入城し、久留米の城下町を整備すると共に、明治維新に至るまで久留米藩の藩主は有馬氏が勤めていました。日本城郭協会「続日本100名城」
2011/11/07
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♪月が出た出た 月が出た(ヨイヨイ)♪盆踊りではポピュラーな曲ですが、この炭坑節の発祥は三井田川炭鉱だとされています。揮毫にある福岡県知事麻生渡氏ですが、福岡なので麻生元首相の親戚かと思っていたら、違うようです。ところで歌詞の続きは「三池炭鉱の上に出た」だと思っていたのですが、「三井炭鉱の上に出た」が正しいようです。炭坑節の歌詞碑しかもあのメジャーな歌い出しは1番ではありませんでした。一番の歌詞は♪香春(かわら)岳から見下ろせば(ヨイヨイ)伊田の立坑が 真正面 12時下がりの サマちゃんが ケージにもたれて 思案顔サノヨイヨイ♪(香春岳は田川の北にある山、伊田の立坑とは田川炭鉱のことなので、まぎれもなく田川炭鉱がのことだと思われます)二番の歌詞は♪ひとやま ふたやま みやま越え(ヨイヨイ) 奥に咲いたる 八重つばきなんぼ色よく 咲いたとて サマちゃんが 通わにゃ 仇(あだ)の花サノヨイヨイ♪そして三番がかの有名な♪月が出た出た 月が出た(ヨイヨイ)三井炭坑の 上に出たあんまり煙突が 高いので さぞやお月さん 煙たかろサノヨイヨイ♪1番と2番の歌詞にだけ登場する「サマちゃん」がいかなる人物なのかは不明です。その炭坑節の発祥である三井鉱業所田川炭鉱は、現在「石炭記念公園」となっています。三井鉱業所田川炭鉱の模型♪あまり煙突が高いので、さぞやお月さん煙たかろ(サノ、ヨイヨイ)♪の大煙突折しも「コールマイン・フェスティバル(炭坑節祭り)」が行われており、会場のあちらこちらに置かれたスピーカーからは、大音響の炭坑節が流れていました。盆踊り以外で聴くのは初めてですが、改めて聴くとシニカルな歌詞の中にも哀愁の漂う曲だと思います。最近では「鉱夫」の言葉も使わなくなり、チリの落盤事故で「Miner」の方が有名になったなのは皮肉としか言いようがありません。炭坑節にも登場し、記憶に残る「北炭夕張」や「三井三池」の事故の報道でも耳にした「竪坑」です。石炭記念博物館には、炭鉱の時代を語る数々の展示品が復元されていました。竪坑に入るための列車子供の頃に社会科の図鑑で見たことがあるのですが、ケーブルカーのように傾斜がついています。同じく図鑑でしか見たことのない「炭住」炭鉱夫の住まいです。今の時代で考えると、エネルギー効率の悪い石炭を水蒸気に変えて動力源とすることは皆無だと思われます。(石炭を蒸気エネルギーに変換するか、石油や原子力を蒸気エネルギーに変換するか)熱を発するエネルギーを水蒸気に変えて、そこからパワーを得ることでは蒸気機関車も原子力潜水艦も同じなのですが。。石炭記念博物館はかなり詳細に石炭の歴史が紹介されていました。炭鉱夫とはいいますが、女性も過酷な労働に従事していたようです。それでも元炭鉱夫(婦)と思われる方々が、懐かしそうに振り返っているのが印象的でした。
2011/11/05
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京都郡みやこ町とは雅な地名ですが、福岡県南部の山間部にあって、律令時代には豊前国の国府が置かれた行政の中心地でした。他の律令国と同様、国府が置かれると共に国分寺も建立されました。豊前国分寺は戦国時代の大内氏と大友氏の戦火によって焼失し、江戸時代の元禄年間に小笠原氏によって再建されています。江戸時代の1684年に建立された鐘楼門。現地の解説からはわからなかったのですが、戦国時代以前は律令時代の伽藍が残っていたのでしょうか。本堂同じく江戸時代の1666年の創建で、国分寺の金堂跡に建てられたそうです。他の多数の国分寺同様に真言宗の寺院となっており、同様に薬師如来が本尊とされています。国分寺創建当時の建物が現存するのは望むべくもないのですが、江戸時代の建造物が現存しているのは貴重なことだと思います。他の国分寺同様に豊前国分寺にも七重塔が建っていたようですが、現在は三重塔が建っていました。明治28年に建立されたもので、こちらが福岡県の史跡に指定されています。現在の国分寺の背後には創建当時の伽藍跡が広がっており、発掘調査によって出土した講堂の基壇跡がありました。豊前国分寺周辺には律令時代に寺院がいくつか建てられており、出土した瓦が展示されていました。初めて知ったのですが瓦にも種類があるようで、太宰府系・近畿地方系(法隆寺系)・朝鮮半島系(白羅・高句麗・百済系)があるそうです。瓦から歴史のルーツを辿ることは考えもつきませんが、豊前国分寺周辺からはいずれの瓦も出土しており、文化の交流点であったと推察されます。それにしても1200年前に同じ伽藍を持つ寺院が各国に造られていたことは驚きです。8世紀の初め、強力な中央国家と共に、仏教による集権国家が出来上がっていたことは、特筆すべきことではないでしょうか。
2011/11/03
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博多湾の東側、海岸線沿いの小高い丘陵上に名島城跡があり、現在は名島神社の境内となっています。すぐ目の前には博多湾を望むことができ、水軍基地としての名残がありました。3世紀の神功皇后による三韓出兵の時、使用した船の帆柱が化石になったと言い伝えられる「名島帆柱石」があります。豊臣秀吉による九州平定後の拠点として機能した名島城ですが、城跡を見る限りでは、城郭そのものはあまり大きい規模ではなかったようです。名島城の絵図名島神社の境内には土塁のような跡が残っていましたが、名島城の遺構かどうかまではわかりませんでした。しかしながら名島神社の敷地そのものは、曲輪として機能していたと思われます。名島神社の拝殿(修復中)名島神社の拝殿から一段高い所に本丸と思われる曲輪の跡があり、名島城の城跡碑がありました。本丸東側の大手口(名島神社では裏側)に回ると、石垣の一部と思われる石積みを見ることができました。名島城は元々立花山城の出城として築城されましたが、豊臣秀吉が島津氏を降伏させて九州を平定すると、1588年に小早川隆景によって築城が開始されました。小早川隆景は水軍の拠点とすべく、出城を改修して築城しています。小早川隆景の跡は小早川秀秋が名島城の城主となりますが、1600年の関ヶ原の戦いの後に岡山城へ移封となり、小早川秀秋の後には黒田長政が52万石で入城してきました。筑前52万石の城としてはあまりに狭いため、黒田長政は福岡城を新たに築城して本拠地を名島城から移しています。福岡城の築城にあたっては名島城の建材が使われ、現在も福岡城には名島城から移築された「名島門」が残っています。福岡城の「名島門」
2011/07/06
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これまで九州はワンダーランドで、特に九州北部は興味深い場所だったのですが、なかなか行く機会がありませんでした。そんな九州北部の福岡市と北九州市の間にある宗像市にあるのが宗像大社で、日本神話に登場する宗像三女神の祀られている場所です。宗像大社は沖津宮・中津宮・辺津宮の三宮の総称で、一般に宗像大社と言われているのが辺津宮で、宗像三女神のうちの市杵姫神が祀られています。現在の辺津宮の社殿は、1557年に焼失した後に再建されたものです。1590年に小早川隆景によって再建された拝殿(国指定重要文化財)本殿(国指定重要文化財)拝殿よりも早く1578年に再建されました。沖合約60kmの玄界灘の「沖ノ島」には宗像三女神のうちの田心姫(たごりひめ)神が祀られている沖津宮があり、沖合約7kmの筑前大島には湍津姫(たぎつひめ)神を祀る中津宮があります。辺津宮には第二宮・第三宮として、沖津宮と中津宮が祀られていました。宗像大社は古くから「道主貴」として呼ばれ、交通の守り神として信仰されてきました。九州では宗像大社のステッカーを貼った車をよく見かけます。沖津宮のある沖ノ島は「海の正倉院」とも呼ばれ、4世紀以降の装飾品や石舞台など、8万点を超える出土品は全て国宝に指定されています。また、沖ノ島は島全体が御神体とされ、現在も女人禁制で男性も禊をしないと島に入ることができないそうです。2009年には「宗像・沖ノ島と関連遺産群」がユネスコの世界遺産の暫定リストに入っています。
2011/06/26
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関門海峡が最も狭くなる場所に、ちょうど対峙するように二つの山があります。下関側にあるのが火の山で、門司側にあるのが古城山です。下関側の壇ノ浦付近から見た古城山古城山よりも和布刈(めかり)の方が一般的かも知れませんが、古城山の名前の通り門司城のあった場所です。和布刈公園から古城山の山頂に向かって歩道があるのですが、城跡の遺構らしきものは残っていませんでした。土塁の跡かと思ったのですが、弾薬庫か何かがあったようです。明治時代にはここに海軍の要塞が造られたようで、本丸にも砲台の跡が残っていました。本丸には城跡碑が建っているものの、曲輪以外に城の遺構らしきものは残っていませんでした。それでも周囲を探してみるとわずかに石垣が残っており、さらに搦め手方向に行ってみると横矢が掛かった土塁と虎口と思われる跡がありました。毛利氏か大友氏時代の石垣と思われます。虎口跡だと思われるのですが、さらにその下の方には腰曲輪を見ることができました。古城山と火の山は、不思議なくらいに関門海峡の最も狭いところに対峙しているのですが、現在は関門橋と関門トンネルが下を通っています。門司城は壇ノ浦の戦いと同じ1185年に、平氏の総大将である平知盛が紀井通資に命じて築城されたと言われています。門司城の解説によると、1244年に藤原親房が平氏残党鎮圧のため鎌倉幕府より派遣され、藤原親房の子孫が門司氏を名乗って、門司城を本拠地としたとのことです。戦国時代になると大内氏・毛利氏の防長勢と大友氏の九州勢との間で争奪戦が繰り広げられました。特に1541年に大友氏が毛利氏の門司城を攻めた戦いは、「源平合戦に勝る」とも言われるほどの壮絶なものだったようです。やがて毛利氏は九州から撤退し、江戸時代になると小倉城の細川忠興の配下となって、1615年の一国一城令により廃城となりました。
2011/06/14
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九州の最大都市である福岡の由来は実は岡山県にあり、福岡城の築城主である黒田氏ゆかりの備前国福岡の地名に由来しています。黒田孝高(官兵衛)・長政が関ヶ原の戦いの功績で豊前から筑前に移ると、築城に際して福岡と命名したことに始まります。豊前中津16万石から筑前福岡52万石への大出世でしたが、福岡城は52万石に相応しい城構えで、1601年の築城開始から完成まで7年の歳月を費やしたそうです。大手門にあたる下之端御門大手門からは三の丸の敷地が続いており、西鉄ライオンズの本拠地であった平和台球場があった場所です。現在も所々に城郭の遺構が残っていました。名島門福岡城の前身である名島城の脇門を移築したものです。(伝)潮見櫓福岡城には大小合わせて47の櫓がありましたが、今となってはほとんど残っていません。潮見櫓については、本来とは別の場所にあり、この櫓も別の櫓だとされています。さらには黒田節の母里太兵衛の長屋がありました。「♪酒は呑め呑め 呑むならば 日本一のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士♪」と謡われる黒田節の主人公で、福島正則の屋敷を訪れた際に何杯も酒を飲み干して、約束通りに名槍「日本号」を福島正則から貰い受けた人物です。とても1つの曲輪とは思えないほど広大な三の丸を抜けると、ようやく二の丸の石垣が見えて来ました。二の丸の虎口には「松の木坂御門」があり、虎口の跡が残っています。松の木坂御門跡二の丸の先にはさらに高い石垣があり、本丸へと続いていました。二の丸石垣訪れたのは4月の初めで、ちょうど桜が満開の季節でした。本丸虎口の「表御門」跡本丸の北東の隅には鬼門除けのために祈念櫓が置かれていました。現在の櫓は1860年に建てられたものです。本丸には天守台がありますが、天守が建っていたかどうかについては議論があるようです。天守台の石垣天守台の虎口「鉄御門」天守台天守があったかどうかの議論はあるものの、天守台には建物の礎石跡がありました。これだけの城郭に天守がなかったとは考えにくいですが、黒田長政が幕府に遠慮して天守を建てなかったとも、福岡城の天守を解体して大阪城築城の資材にしたとも言われています。黒田長政の性格から考えると、天守を建てなかったり、解体したというのもあり得る話かも知れません。1600年の関ヶ原の戦いの功績により、黒田孝高と黒田長政は豊前16万石から筑前52万石に大幅加増となりました。それまで小早川秀秋が本拠地としていた名島城に入城したものの、手狭なために新城の築城を開始しました。1601年に福岡城の築城に着手し、1607年に現在の福岡城が完成しています。黒田氏は外様大名ではありますが、移封されることなく代々福岡城主として明治維新を迎えています。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2011/04/19
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城跡の名前が地名になっている大野城市と、大宰府のある大宰府市の市境の一帯には、標高400mほどの四王寺山があり、飛鳥時代の大和朝廷によってここに朝鮮式山城が築かれました。大野城跡から見た太宰府市方面四王寺山の山腹の周囲約8kmを土塁と石垣で囲むように築かれ、現在も土塁や石垣の一部が残っていました。大野城の南側に築かれた大宰府口の城門南側の土塁7世紀になって中国を統一した唐は、朝鮮半島も支配するべく新羅と手を結んで、660年に百済を滅亡させました。百済の遺臣の救援要請に応じて大和朝廷も援軍を派遣しますが、663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗北を喫しています。白村江の戦いの後、大和朝廷は国防のために各地に朝鮮式山城などの防御施設が造られました。大野城もその山城の1つで、亡命してきた百済の技術を利用して、大宰府の周囲に築かれています。大宰府の周囲には水堀に相当する「水城」が始めに造られ、大野城は大宰府の詰城としての位置付けだったようです。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2011/04/18
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全国各地の天満宮の総本社が大宰府天満宮で、大宰府で生涯を閉じた天神様の菅原道真の墓所に社殿が建てられています。大宰府天満宮参道「通りゃんせ」の歌で「天神様の細道」が出てきますが、これは太宰府天満宮ではなく、川越城(埼玉)にある三芳野神社のことだと言われています。大宰府天満宮境内さすがは学問の神様の総社で、年間200万人以上の訪問客があるとのことです。楼門末社として境内にある志賀社大宰府天満宮の前身である安楽寺の時代より海の神として祀られており、現在の祠は室町時代の1458年に再建されたものです。藤原時平の讒言によって左遷された右大臣菅原道真は、大宰府権帥(ごんのそち、大宰府の副長官で実質の長官)として、901年に大宰府に赴任してきました。京都を去る菅原道真が詠んだ歌があります。「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」そして再び京都に帰ることなく、903年に大宰府の地でで没しました。菅原道真の没後、安楽寺に葬送しようとすると、牛車が門前で動かなくなったことから、これをここに留まりたいとする菅原道真の遺志として、ここに廟所が造られました。その後は京都で疫病が流行ったり異常気象が起こったりしたため、これを菅原道真のたたりだと恐れられたことから、墓所の上に廟所が造られて今の社殿につながっています。京都を去って九州に赴くことはショックだったことは和歌からもわかりますが、その後の大宰府での菅原道真の心境はいかがだったのでしょうか。本当に失意のうちに没したのか、果たして京都の平安京に戻りたいと思っていたのかどうか、少し疑問に思うところがあります。いずれにしても現在となっては祟りなどではなく、優れた学者であったことから「学問の神様」として全国に祀られています。
2011/04/17
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律令時代の九州は西海道と呼ばれ、西海道の統括のために大宰府が置かれていました。大宰府は外交・貿易の重要な窓口としての機関であり、中央政府に準じて地方機関としては最大規模であったと言われています。大宰府の中心である政庁跡他にも各種行政機関や学校なども置かれていたようで、ここは大宰府のほんの一部です。大宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれ、中国大陸・朝鮮半島との交流窓口であった一方、防人を統括する防人司が置かれて、重要な軍事機関でもありました。大宰府政庁跡の広大な敷地の中には、建物や門の礎石が残っていました。発掘調査によると、7世紀後半に掘立柱の建物が建てられ、8世紀初めに礎石を使った建物が建てられました。940年に藤原純友が大宰府を襲撃した承平天慶の乱(藤原純友の乱)により建物は焼失してしまい、現在の建物礎石跡は10世紀になって再建された時のものです。中央政庁に次ぐ機関でありながら、一方では中央政府で失脚した貴族の左遷先としての位置付けでもありました。901年には菅原道真が京都から左遷され、903年に大宰府で生涯を閉じています。
2011/04/16
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福岡や北九州がずっと近くなり、関門海峡を気軽に渡って何度か訪れたのですが、実は城めぐりで福岡県を訪れたのは初めてです。小倉城本丸大手門ちょうど桜が満開の時でした。小倉城は海と水堀に囲まれた曲輪が連なり、当時の縄張りを見ると水城のような感じがします。本丸にはいくつも門があり、いずれも石垣で囲まれた枡形門になっていました。槻(けやき)門跡藩主や公儀役人など、一部の人しか通行が認められなかったそうです。北の丸から本丸に通じる多聞口門跡当時は渡櫓があったのだと思います。本丸周囲の水堀やはり石垣の築城では西日本に軍配が上がります。本丸に上がってみると、満開の桜と花見客で埋め尽くされていました。本丸には天守が建っていますが、当時は南蛮造りの天守だったようです。復興天守内部にある縄張り模型現在の天守は当時の外観とは異なる復興天守で、千鳥破風を備えています。こちらの方が天守らしいのでしょうが、天守台が立派なだけに「外観復元でよかったのでは?」と思ってしまいます。小倉城天守台さすがに天守に登ると縄張りがよく見渡せました。下屋敷庭園北の丸本丸現在の小倉城は1602年に築城されたもので、築城主は関ヶ原の戦いの功で筑前に入った細川忠興です。1632年に細川氏が肥後熊本に移封になると、播磨明石城から小笠原忠真が15万石で入封しています。幕末1866年の第二次長州征伐の時、幕府軍の先方にあった小倉藩でしたが、長州藩の圧倒的攻勢の前に窮地に陥り、自ら火を放って小倉城を放棄しています。思えば去年も桜の季節に城跡を訪れたのですが、昨年はたまたま出張中に立ち寄った徳島城でした。去年の桜の季節には、夏の終わりに台北に赴任することなど思ってもいませんでしたが、台北にいる時は日本のしかも九州で桜を見るとは思ってもいませんでした。来年はどこになるのでしょうか。日本城郭協会「続日本100名城」
2011/04/15
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関門人道トンネルを門司側で出て、関門海峡の海岸沿いを門司港方面に向かった先には、「門司港レトロ」と呼ばれる観光スポットがあります。門司港レトロ海峡プラザ国際貿易として発展してきた門司港の歴史そのままに、その名の通りレトロな建物が並んでいました。旧門司税関(1912年築)旧大阪商船1917年築)旧三井倶楽部(1921年築)国際友好記念図書館こちらは1995年に建てられたもので、大連の建造物の複製だそうです。JR九州門司港駅の駅舎も1914年に建築されたもので、今も当時のままに使われています。案内表示や駅員さんの制服も当時のものが復元されていました。
2011/04/03
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