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かつて郡山城の本丸には天守が建っており、そのことは発掘調査によって明らかになっています。しかしながら天守に関する絵図や史料がないため、その構造まではわかっていないようです。天守台天守の礎石天守台から見た城内(本丸追手門の方向)奈良では石垣の石材が不足していたため、天守台の築造にあたっては墓石や地蔵石などが転用されました。転用石が使われた天守台こちら側は比較的新しい石垣技術が見られ、隅石の勾配を見ると、藤堂高虎の普請かと思われます。その天守台には地蔵石が転用され、今も「さかさ地蔵」として残っていました。さかさ地蔵地蔵には大永3年(1523年)癸末7月18日の刻銘があり、少なくともそれよりも後になって石垣に使われたものだと思います。郡山城が大規模城郭に改修されたのは豊臣秀長の時代で、石材が乏しい中で急ピッチで築城工事が進められたため、「さかさ地蔵」以外にも750基の転用石が見つかっているそうです。近世城郭としての郡山城は、1579年に大和国守護であった筒井順慶によって築城されました。築城にあたっては、松永久秀の多聞城の石垣なども転用されたそうです。そして、天守が建てられたのも筒井順慶の時代で、1583年のことでした。1585年には豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が入城し、城郭の改修と拡張を行いました。天守台の「さかさ地蔵」もこの時だと言われています。関ヶ原の戦い後は水野氏や本多氏といった譜代が城主となりますが、いずれも転封となり、1724年に甲府城から入封して来たのが柳沢吉保でした。城内の本丸には、柳沢吉保を祀る柳澤神社が鎮座しています。柳澤神社「祭神 川越 甲府城主 柳澤美濃守吉保公」とあります。そして平成29年4月6日の「城の日」に、「続日本100名城」では奈良県で唯一郡山城が選ばれました。(日本100名城では、高取城が奈良県では唯一の選出です)日本城郭協会「続日本100名城」
2018/11/10
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総石垣の近世城郭に関して言えば、どうしても西高東低の感は否めないかと思います。大和国については、1560年に松永久秀が信貴山城や多聞城を築城し、近世城郭の先駆けとなりました。(織田信長が安土城を築いたのは、さらに時代が下って1576年のことです)関東で総石垣の近世城郭が登場するのは、さらに時代が下った1590年のことで、豊臣秀吉が北条氏の小田原城を攻めるために築いた石垣山一夜城が最初の総石垣造りでした。「織豊時代」または「安土桃山時代」とも呼ばれ、文化・芸術だけでなく城郭建築も発展を遂げたこの時代に築かれたのが、奈良県大和郡山市にある郡山城です。郡山城縄張図近鉄郡山駅の周辺には「三の丸」の名前を冠した施設がいくつかあり、三の丸の大手口にある門の跡も残っていました。「頬当門」跡「柳御門」跡桝形が残っています。二の丸虎口「鉄御門」跡渡櫓の櫓台だと思いますが、石垣には矢穴(石積み石を切断する時のミシン目)が残っていました。本丸の周囲は内堀で囲まれており、今も水堀が残っていました。二の丸「陣甫郭」から見た本丸内堀細長い陣甫郭の先、本丸の大手虎口には追手門が復元されています。追手向櫓(手前)と多聞櫓(奥)(いずれも復元)追手門(復元)豊臣秀長の時代の復元櫓で、白の塗籠ではなく黒の下見板張りに、西日本の近世城郭らしさを感じます。追手門から本丸へは直線的に入れない縄張になっており、天守のある本丸へ向かうにはUターンして、毘沙門郭を抜けないといけません。毘沙門郭からみた本丸内堀今度は本丸内堀を右側に見るようになりましたが、本丸内堀は何となく大阪城に似ている気がします。ところで一部石垣が崩壊して修復中のような場所がありますが、「白沢橋」と櫓を復元中とのことです。ボランティアガイドの方によると、この復元には私財が投じられており、旧城主である柳澤氏の家臣の末裔によって、億単位のお金が寄付されたそうです。
2018/11/09
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東大寺転害門から西へ約1㎞ほど行ったところ、大仏殿を見下ろす丘陵部にあるのが多聞城です。多聞城は松永弾正久秀による築城で、城跡は奈良市立若草中学校の敷地になっています。奈良市立若草中学校正門縄張は判然としませんが、佐保川の流れる南側、若草中学校の入口が大手だったと思われます。ここから先は中学校の敷地になるため、中に入ることはしませんでした。それでも校庭の周囲を見回してみると、戦国城郭の土塁のような跡が残っています。不自然に段差があって畝状になっていることから、城郭の遺構だと思われます。多聞城の由来は、築城主である松永久秀が多聞天(毘沙門天)を信仰していたことに由来しています。同じく松永久秀が築いた信貴山城も、やはり背後に毘沙門天を本尊として祀る朝護孫子寺があります。多聞城の城郭遺構については、1565年に奈良を訪れた宣教師、ルイス・デ・アルメイダの記録が残っています。現地の解説板によると、その時の記録として「瓦葺で白壁の障壁を備え、城内は障壁で飾られるなど豪華な造りであった」とあるそうです。これは興味深い史料で、織田信長が安土城を築く10年以上前、すでに松永久秀がここに近世城郭を築いていたことになります。その近世城郭では同じみの「多聞櫓」ですが、その名前は松永久秀が築いたこの多聞城に由来しています。多聞櫓(2017年8月、伊予松山城にて)さらに多聞城には「四階櫓」が建てられており、これが後の天守のプロトタイプとされています。残念ながら多聞城には当時の建造物は残っておらず、若草中学校建設の際も文化財保護法が制定されていなかったため、発掘調査も行われていません。文化財保護の奈良において、多聞城より1000年近く前の建造物が現存していて、「最近の」多聞城の建造物が残っていないとは、何とも皮肉な話です。それでも造成当時に出土した石塔などが、中学校敷地前の削平地に残っていました。およそ中学校の校庭に似つかわしくなく、かつ無造作に放置されているようですが、文化財として保管されているのでしょうか。出土した石塔の並ぶ場所も、かつての曲輪の跡だったと思われますが、土塁の法面のような場所もありました。かつては石垣造りで、近世城郭の先駆けとなる貴重な遺構が存在していたと思われます。多聞城は、築城年・築城主ともに明らかになっていて、1560年に松永弾正久秀によって築城されました。「梟雄」として名高い松永久秀は、当時畿内の最大勢力であった三好長慶の祐筆だったとされています。その松永久秀は三好家の中で頭角を現しましたが、三好長慶の没後は「三好三人衆」と対立するようになり、三好三人衆と同盟を結んだ同じ大和の筒井順慶とも敵対するようになりました。そして1567年に三好三人衆が大和に侵攻すると、松永久秀・三好義継連合軍VS三好三人衆・筒井順慶連合軍の間で戦闘となり、「東大寺大仏殿の戦い」が勃発しました。戦いは約半年間にわたり、三好三人衆は多聞城に近い東大寺に陣を置いていました。1567年10月10日、松永久秀がその東大寺を襲撃すると、大仏殿が焼失して大仏の頭部も落ちてしまったそうです。東大寺大仏殿(2018年10月)大仏殿が再建されたのは、江戸時代に入ってからで、約250年後の1709年のことです。東大寺津廬舎那仏座像(2018年10月)この出来事は「東大寺大仏殿焼討」として、松永久秀の「三悪事」の1つに数えられていますが、文献などによると三好三人衆の失火とみる説が有力のようです。松永久秀の「三悪事」を挙げたのは織田信長でしたが、この三好三人衆との戦いにおいて、松永久秀を援護したのも織田信長でした。一時は織田信長に恭順していた松永久秀でしたが、やがて織田信長にも反旗を翻し、織田信長軍に信貴山城を攻められて最期は自害して果てました。達磨寺(奈良・王寺町)にある松永久秀墓所現在は風化してしまっていますが、「松永弾正久秀墓 天正五年 十月十日」の文字があるそうです。信貴山城が落城して松永久秀が自害したのは、東大寺大仏殿が焼失してからちょうど10年後、1577年のことでした。さらには日付も同じ10月10日です。松永久秀については、自分が育った地元の奈良でも評価が分かれるところです。(奈良では松永久秀か、筒井順慶かの二者択一になるのでしょうが)三好長慶の祐筆から身を起こし、戦国時代で織田信長にも一目置かれるほど名を馳せた大和の英雄とする見方もあります。(そんな松永久秀ひいきは、「松永弾正」と呼ぶのでよくわかります)一方で、南都に戦乱を招き、東大寺の大仏殿まで焼失させた「悪党」とする見方もあります。(多くは筒井順慶ひいきの人で、高校の日本史の先生がそうでした)自分は松永弾正と呼んで、松永久秀を評価しているのですが、1つだけ許しがたい悪事があります。多聞城は聖武天皇・仁正皇后陵に続く東側の丘陵部にあり、この御陵上にも多聞城の曲輪が築かれていたようです。強力なリーダーシップで、この国の礎を築いた聖武天皇の御陵があることは、さすがに松永久秀も知っていたことと思います。大和支配の拠点として、その場所に城を築くとは、松永弾正おそるべしです。
2018/11/08
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大阪府と奈良県の府県境にある奈良県王寺町は、自分が育った場所でもあります。法隆寺のある「斑鳩の里」にも近く、聖徳太子にまつわる伝説や信仰が多く残る場所で、「片岡山伝説(飢人伝説)」のご当地でもあります。また府県境には「送迎」と書いて「ひるめ」と呼ぶ地名があり、聖徳太子が河内と大和の法隆寺を行き来していた時、大和と河内の両方から送り迎えしたことに因んでいるとされています。送迎を「ひるめ」と読むのは、ここで昼飯の時間になったので、「ひるめし」が「ひるめ」になったという説もあります。613年の聖徳太子の「片岡山伝説」(飢人伝説)にまつわるのが達磨寺で、達磨禅師の化身とされる飢人の墓の上に本堂が建っています。本堂以前はもっと古い建物だったのですが、前面の国道168号線の拡張に伴い、2002年に改築されたそうです。本堂の右手裏にも古墳があり、石室は法隆寺まで続いているという言い伝えもあります。本堂の内部は一般公開されていて、ご本尊の撮影も可能とのことでした。本尊左から木造聖徳太子坐像(国指定重要文化財)、木造千手観音像(王寺町指定文化財)、木造達磨坐像(国指定重要文化財)達磨寺ではずっと地元のボランティアガイドの方に説明を受けていたのですが、聞けば20年前に大阪から転居してきたそうです。地元育ちの私よりずっと地元の歴史に詳しいので、恐れ入りました。達磨寺の境内には、「雪丸」の石像も置かれていました。「雪丸」は初めて知ったのですが、聖徳太子の愛犬で、王寺町のマスコットキャラクターにもなっているそうです。境内に数多く建ち並ぶ石塔の中で、碑銘も何も書かれていない石塔があります。「松永弾正久秀墓 天正五年 十月十日」の文字があるそうですが、現在は風化してしまっています。天正5年(1577年)10月10日は、織田信長軍によって信貴山城が落城し、松永久秀が自害した日で、現在でも毎年10月10日になると、達磨寺では法要が営まれます。ここに松永久秀の亡骸を葬ったのは、同じ大和国で覇権を争ったライバル、筒井順慶でした。松永久秀の末裔の方々も、全国から達磨寺に訪れるそうです。ガイドの方によると、爆笑問題の太田光さんの夫人、太田光代さん(旧姓松永光代さん)も末裔で、達磨寺を訪れたことがあるとのことでした。久しぶりに西大和に帰って来ると、駅前などの都市の景観が変わっていたりしました。大阪のベッドタウンにあって、都市開発は避けて通れない波かも知れませんが、それでも文化財や史跡の保護を重視する姿勢だけは変わっていなかったように思います。さらにはボランティアガイドさんたちのように、その地元の歴史を後世に伝えて行く姿勢も、昔のままでした。漫画「片岡山飢人伝説」について→こちら(達磨寺のHP)↓奈良県王寺町観光プロモーション冒頭は達磨寺ですが、王寺駅と大和川沿い以外は行ったことない場所ばかりです。
2018/11/07
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信貴山城は、朝護孫子寺の空鉢護法堂のある信貴山雄岳の山頂を本丸とし、北側の稜線上に曲輪を配した縄張となっています。現地にある縄張図朝護孫子寺のある南側が搦手で、北側が大手方向になるようです。本丸直下の曲輪跡北側の尾根筋を下って行くと、戦国城郭の塁や腰曲輪の遺構が残っていました。土塁跡腰曲輪跡北側の稜線上には広く何段にも削平された曲輪があり、「松永屋敷」と呼ばれています。松永屋敷松永久秀の屋敷があったとされています。曲輪の一角には黒ずんで凹んだ場所があったのですが、井戸の跡だったでしょうか。松永屋敷の東側、縄張図でいうと水の手に近い場所には、虎口らしき跡も残っていました。土塁には石垣石のようなものが散見されましたが、石垣の遺構かどうかはわかりませんでした。空堀跡土塁跡松永屋敷(上から見たところ)信貴山上空には伊丹空港到着機の航空路があり、伊丹に向かう航空機がすぐ上をかすめるように飛んでいきました。 (羽田→伊丹便では、右側の機窓に朝護孫子寺と信貴山城を見ることができます)信貴山は大和国と河内国の国境にあるため、古くから築城が繰り返された場所です。現在の大阪府と奈良県の県境にある高安山には、天智天皇の667年に唐・新羅連合軍からの防衛のため、古代山城である「高安城」(たかやすのき)が築かれたとされています。また鎌倉時代には、護良親王が反鎌倉幕府軍の拠点としていた場所でもありました。戦国時代になると木沢長政が本格的に築城を開始し、現在の城跡は大和国を制圧した松永久秀の築城によるものです。大和国支配の本拠地となった信貴山城でしたが、松永久秀が織田信長に謀反を起こしたため、織田信長軍によって1577年に落城しました。50日におよぶ壮絶な籠城戦でしたが、織田信長が望んでいた名茶器「平蜘蛛茶釜」を粉々に砕き、松永久秀は自害して果てました。「梟雄」として知られる松永久秀でしたが、千利休とは茶の師匠を同じくする文化人でもあり、信貴山城からは茶臼や石臼の破片など、茶道を偲ばせる遺品が発掘されています。
2018/11/06
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私がよく購読するPHP出版の雑誌「歴史街道」では、『「梟雄」と聞いて思い浮かべる歴史上の人物は? 』というアンケートのランキングがありました。上位10位までが掲載され、1位、斎藤道三 2位、織田信長 3位、松永久秀4位以下は、宇喜多直家、北条早雲、豊臣秀吉、曹操孟徳、徳川家康、明智光秀、石田三成、と続きます。「梟雄=下剋上で名を馳せた人物」と解釈するならば、個人的には、斎藤道三は文句なく1位だとしても、2位が松永久秀で、3位が北条早雲でしょうか。(宇喜多直家も外せないところではありますが)その戦国時代の申し子のような松永久秀の築城によるのが、大阪と奈良の府県境にある信貴山城です。朝護孫子寺の空鉢護法堂のある信貴山雄岳山頂に本丸があり、現在は空鉢護法堂の参詣道が信貴山城への登城道になっています。空鉢護法堂参詣道への分岐点にある行者堂参詣道の鳥居子供の頃によくやっていた事ですが、鳥居の上に石を乗せるのは関西だけの風習なのでしょうか。信貴山の稜線は南北に連なっており、城郭の縄張でいうと朝護孫子寺のある南側は信貴山城の搦手にあたります。信貴山城の縄張図九十九折が続く空鉢護法堂の参詣道空鉢護法堂の参詣道を行く人は、手に手にやかんを持っていたのですが、下の水場で汲んだ水をお供えするそうです。途中には四阿があって、その先にはようやく城郭の遺構らしきものが見えてきました。斜面が人工的な切岸状になっていて、どこがどうと言うのはうまく説明できませんが、戦国城郭ではありがちな遺構だと思います。尾根線にたどり着いたところで、土塁らしきものも見えてきました。物見台の跡のようにも見えますが、よく考えれば信貴山雌岳の山頂部だったかも知れません。(縄張図を見る限りでは、削平地があって城郭に使われていたようです)朝護孫子寺の空鉢護法堂は信貴山雄岳山頂(標高437m)にあり、同時にここが信貴山城の本丸部分でもあります。空鉢護法堂の鳥居すでに視点が城跡ハンターになっているので、右手に土塁の跡が残っていると思うのは気のせいでしょうか。ところで日本で最初の「天守」を上げたのは、織田信長の安土城だとされています。「天守」という名前ではないものの、安土城以前に松永久秀が信貴山城に「高櫓」を建てており、天守のプロトタイプがここにありました。本丸に建つ城跡碑本丸からは大和平野の南側を見渡すことができ、信貴生駒山地とは山系が異なりますが、同じ府県境に連なる金剛葛城山地を望むことができました。奈良に帰って来ると、訪れている史跡の時代を認識するのが一苦労ですが、信貴山城から約200年前にはあの金剛山の千早城で壮絶な籠城戦が展開されていました。鎌倉幕府軍の大軍を相手に孤軍奮闘していたのが、当ブログのプロフィール画像にも使わせてもらっている楠木正成公です。いま自分が立っている時代をよくよく考えてみると、朝護孫子寺の空鉢護法堂は10世紀の930年に命漣上人によって建立されました。一方で、松永久秀がここに天守を建てたのは、16世紀も半ばの話です。ということは、松永久秀は朝護孫子寺の空鉢護法堂に本丸を置いたことになり、やはり「梟雄」というしかないのでしょうか。(松永久秀は、他にももっと恐れ多いところに城を築いており、それは後日紹介いたします)朝護孫子寺の本尊は毘沙門天ですが、同じ毘沙門天を厚く信仰していた人がいました。上杉謙信像(2018年8月 春日山城にて)上杉謙信も松永久秀も同時代の人で、アンチ織田信長では一致しているかと思います。信貴山城を攻め落としたのは織田信長でしたが、「なんで毘沙門天ばかり出てくるの?」といったところでしょうか。
2018/11/05
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なぜか信貴山の朝護孫子寺は、関東から訪れた人に好評です。 (中には「法隆寺や東大寺よりも良かった」という人もいました)奈良に住んでいる時、実家が信貴山の近くにあったのですが、朝護孫子寺を訪れたのは1回か2回しか記憶がありません。その朝護孫子寺の本尊は虎を守護神とする毘沙門天で、入口の赤門前には、阪神タイガースファンにはおなじみの「世界一の福寅」が置かれています。小学校の途中で広島から奈良に転校して来た時、それまで当たり前のようにいた広島カープファンは周りに全くおらず、阪神タイガースと近鉄バファローズ(当時)のファンばかりだったので、半端ないアウェー感を感じたのを覚えています。赤門信貴山と言えば、「信貴山縁起絵巻」(国宝)が有名かと思いますが、原本は国立奈良博物館に寄託されていて、霊宝館に複製が展示されています。霊宝館朝護孫子寺の本堂は、山の斜面に柱を立てた舞台づくりになっています。本堂から見た大和平野ちょうど画像の中央辺りが、実家のあった場所です。本堂は聖徳太子が堂宇を建てたのが始まりとされていますが、戦国時代に焼失してしまい、豊臣秀頼によって再建されたと言われています。本堂子供の頃、真っ暗闇の中を歩いた記憶があるのですが、本堂の「戒壇巡り」だそうです。朝護孫子寺には千手院・成福院・玉蔵院の3院の塔頭寺院があり、それぞれの境内には宿坊もあります。千手院の宿坊成福院の塔頭玉蔵院の塔頭玉蔵院の左に建つのが、「日本一の大地蔵」です。玉蔵院から見た境内手前の屋根がおそらく宿坊で、一番向こう側に見える屋根が本堂です。もし信貴山に足を運ばれる機会があったら、「信貴生駒スカイライン」はおススメです。信貴山から生駒山まで、府県境の尾根線を走るため、右手に大和平野、左手に大阪平野と大阪湾(六甲山や淡路島)を望むことができます。特に夜景は絶景だと思うのですが、ブラインドコーナーが多くて夜間は事故が多い場所でもあるので、運転に自信のない方は地元ドライバーに任せた方が無難かと思います。信貴スカも含めて、時間をかけてゆっくりと見て回りたいところでしたが、今回の目的は別にあったので、朝護孫子寺の境内を抜けて、まっすぐ信貴山雄岳の山頂を目指しました。
2018/11/04
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「大和三山」(耳成山・畝傍山・天香久山)の二等辺三角形の中心に位置するのが「史跡藤原宮跡」で、藤原京の中心部でありました。大和三山と藤原宮跡の位置関係藤原京そのものは碁盤目状の条坊制となっており、平城京よりも前に都城制を敷いた、日本で最初の首都です。さらにその規模は南北に約5.3km、東西に約4.8kmと、平城京や平安京も凌ぐ面積がありました。藤原京の全体図(現地解説板より)南は飛鳥が入る大きさです。その藤原京の中心部にある政治の中枢部が藤原宮で、現在は「藤原宮跡」として史跡に指定されています。藤原宮の地図(現地解説板より)大極殿跡と朝堂院閤門跡大極殿跡朝堂院閤門跡朝堂院東門跡朝堂院西門跡朝堂院西門跡からは、大和三山の三角形の北の頂点である耳成山を望むことができます。耳成山藤原京の北の端は、あの耳成山のさらに北にあったことになります。西の方に目を向けると、畝傍山には西日が傾いていました。畝傍山山麓には神武天皇陵である畝傍御陵があり、神武天皇を祀る橿原神宮が鎮座しています。藤原京は持統天皇の694年に完成し、平城京に遷都する710年までの間、ここが日本の首都でした。持統天皇は先帝であり夫でもある天武天皇の政策を継承し、藤原京を完成させると共に、701年には大宝律令を発令して、強力な中央集権化を推し進めました。持統天皇には、強くて有能な女帝のイメージがあります。政争に奔走していたであろう持統天皇が、藤原宮から詠んだ有名な歌があります。春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山大極殿から見た天香久山ところで、藤原京の条坊でいうと「三条西二坊」、藤原宮から北西へ約1㎞のところに、自分には最もなじみの深い場所があります。奈良県立畝傍高等学校正門昭和8年建築の校舎は、今も現役のようでした。本館北館(国登録有形文化財)校舎正面には、太平洋戦争当時の機銃掃射の跡も残っています。奈良の県立高校には学区制がなく、県内ではどの高校にも進学は可能です。高校受験の時、奈良市内にある某県立高校の受験を断念して、橿原市にある畝傍高校を受験しました。当時の実家からだと、奈良市と橿原市は方角的に正反対なのですが、両校の中間あたりに住んでいたので、距離的にはあまり変わりませんでした。(学力的な差はありますが)今思えば南都を擁する北の奈良市内に通うか、飛鳥を擁する南の橿原市内に通うかでは、その後の歴史観も違っていたように思います。日本史の中でも特に古代史が身近な土地で、うれしいニュースがありました。藤原宮跡が「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の構成資産として、ユネスコ世界文化遺産の暫定リストへの掲載が決まったそうです。(恐れ多いことに、高校時代のクラス対抗のスポーツ大会の練習には、世界文化遺産候補の藤原宮跡を使ったりしていました)藤原宮跡だけでなく、この構成資産はどれも貴重な史跡ばかりなので、ぜひ世界文化遺産に登録してもらいたいと思います。奈良県ではすでに、「古都奈良の文化財」・「法隆寺地域の仏教建造物」がユネスコの世界文化遺産に指定されていますが、同じ奈良県でありながら「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」は、上の2つとは時代背景も違います。もしも「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」が世界文化遺産に登録されたならば、より多くの人たちに古代日本史のロマンを知ってもらえると思っています。また、世界文化遺産ではなくても、「国のまほろば」である三輪・纏向・山辺の道や、後醍醐天皇・楠木正成の南朝ゆかりの金剛・吉野(一部世界文化遺産登録)などなど、奈良にはまだまだ見どころは数多くあるので、ぜひ足を止めてゆっくり見て頂きたいとも思います。とは言いつつも、自分も今になってそれに気付いた次第です。
2018/11/03
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奈良の観光地の中で、東大寺の大仏はあまりにも有名かと思いますが、奈良に住んでいる頃は、小学校の遠足でしか行ったことがありませんした。南大門(国宝)南大門の左右に立っているのが、有名な運慶・快慶の作による金剛力士像(仁王像)です。木造金剛力士像(阿形像)(国宝)木造金剛力士像(吽形像)(国宝)秋は恒例の「鹿の角切り」が行われる時期です。南大門を行き交う人たちを横目にして、角を切られた牡鹿が完全にやさぐれていました。「角切られた。。。」大仏殿は廻廊で囲まれた中にあり、南大門の先の回廊南側には、正門である「中門」があります。中門(国宝)インドからの観光客を数多く見かけたのですが、仏像の本場のインドからも大仏を見に来るようです。廻廊の西側が大仏殿への入口になっており、廻廊内部に入ると正面に大仏殿が見えてきました。大仏殿(金堂)(国宝)大仏殿の手前には、創建時から現存する八角灯篭(国宝)があります。大仏殿は2度の戦火によって焼失し、現在の大仏殿は1691年(元禄4年)に再建されたものです。第一回目の戦火は、平清盛の命を受けた平重衡による1180年の「南都焼討」でした。大仏殿は1190年に再建されましたが、戦国時代の1567年には、松永久秀VS三好三人衆・筒井順慶による「東大寺大仏殿の戦い」で再び焼失しています。(その松永久秀の居城も訪れたので、後日ご紹介します)そもそも東大寺の建立は、聖武天皇による741年の「国分寺建立の詔」によるもので、大和国の国分寺としての位置付けでした。聖武天皇から「大仏建立の詔」が発せられたのは、国分寺建立の詔の後の743年のことで、大仏が完成したのはさらに約10年後の752年のことです。銅造盧舎那仏坐像(国宝)鋳造に使われた銅は、長登銅山(山口・美祢市)で産出されたものです。廬舎那仏像の左右には、銅造ではなく木造の仏像が置かれていました。木造如意輪観音坐像(国指定重要文化財)虚空蔵菩薩坐像(国指定重要文化財)大仏殿を後にすると、正倉院や二月堂はパスして、転害門の方へと歩いて行きました。転害門(国宝)転害門の内側では、鹿が相変わらず普通に草を食べていました。ずっと当たり前の光景だと思っていましたが、市街地に野生の鹿が暮らしている光景は、奈良市以外ではありえないことでしょう。ユネスコ世界文化遺産「古都奈良の文化財」
2018/11/02
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法隆寺五重塔・法起寺三重塔と共に「斑鳩三塔」を構成するのが法輪寺の三重塔です。法輪寺南大門江戸時代の宝暦11年(1761年)に再建された、「新しい」建造物です。法隆寺・法起寺・法輪寺ともに飛鳥時代の7世紀の創建で、また近接する場所にありながら、法輪寺だけは自然災害という不運な歴史を辿って来ました。法輪寺三重塔かつては国宝に指定されていましたが、昭和19年(1944年)に落雷で焼失してしまい、現在の三重塔は昭和50年(1975年)に再建されたものです。法輪寺三重塔の再建を指揮したのは、かの有名な法隆寺の宮大工棟梁、西岡常一さんでした。さらには「五重塔」の幸田露伴の次女で、作家の幸田文さんが資金支援の先頭に立ってくれたそうです。法輪寺の三重塔は創建時の姿で再建され、相輪の「風鐸(風鈴)」も当時のままに風になびいて音を立てています。この昭和19年の落雷による火災では、仏舎利が奇跡的に救出されるとともに、木造薬師如来坐像(国指定重要文化財)や木造虚空蔵菩薩立像(国指定重要文化財)などの仏像も、地元の方々によって救出されました。(太平洋戦争中のことで、男性は出征していたため、ご婦人方の尽力があったそうです)その仏像は、再建された講堂の中に安置されています。実は法輪寺は江戸時代にも自然災害に遭っており、正保2年(1645年)には台風で当時の三重塔を除く建造物が倒壊してしましました。現在の金堂は、宝暦11年(1761年)に再建されたものです。再建とは言え、江戸時代中期の建造物が現存しているので、重文に値すると思います。それでも奈良においては、江戸時代の建造物を国の重要文化財に指定し始めると、文化財だらけで全く収拾がつかなくなるかも知れません。(奈良に住んでいる頃、同級生の家が江戸時代創建なんてこともありました)
2018/11/01
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中宮寺跡の北側に三重塔があるのは知っていて、よく目にしていました。しかしながらこの三重塔が国宝で、かつ三重塔がある法起寺がユネスコの世界文化遺産だとは知りませんでした。法起寺遠景法起寺を訪れるのは、今回が初めてです。西門法起寺の起源は、聖徳太子が606年に法華経を講説した岡本宮に始まります。622年に聖徳太子が亡くなる時、長子の山背大兄王に岡本宮を寺院にすることを命じ、山背大兄王の開基で創建されたのが法起寺です。三重塔は685年に恵施僧正によって建立が発願され、706年に完成したとされています。三重塔(国宝)三重塔では、世界最古の建築物です。講堂法起寺の本堂にあたり、江戸時代の元禄7年(1694年)に再建されたものです。法起寺創建時の金堂跡には、江戸時代になって聖天堂が建立されています。聖天堂文久3年(1863年)の建立です。「元講堂」と呼ばれる収蔵庫には、本尊である「木造十一面観音立像」(国指定重要文化財)が安置され、公開されています。元講堂撮影禁止なので画像はありませんが、確かに安置されていました。一旦境内を出て、コスモス畑の広がる南側に回ってみると、南大門がありました。南大門江戸時代初期に再建された門です。斑鳩の里の風景を眺めていると、江戸時代がつい最近のように思えてきました。ユネスコ世界文化遺産「法隆寺地域の仏教建造物」
2018/10/31
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飛鳥時代の中宮寺は法隆寺から500mほど東に行った場所にあり、現在は「中宮寺跡」として史跡に指定されています。現在は建物は残っておらず、かつての伽藍の跡には、一面のコスモス畑が広がっていました。遠景発掘調査の結果、金堂と塔の基壇の跡が明らかとなり、基壇が復元整備されています。金堂基壇基壇上部中宮寺跡の横を通る県道9号線は、奈良に住んでいる時によく通っていた道路です。同じ高校・大学の同級生が大和郡山に住んでいて、大和郡山に向かう時は、国道25号線の渋滞を避けるための迂回路として使っていました。奈良県道9号線季節を問わずよく見ていた風景なのに、こうやって足を止めてゆっくり散策したのは初めてでした。中宮寺東側の大和平野当時はその向こうの曽爾高原から立つ「かぎろひ」が見えたのでしょうか。ちなみに太陽が昇るあの山並みの向こうには、伊勢神宮があります。(もしかして高天原?)中宮寺は聖徳太子の母、「穴穂部間人皇女」の住居を寺院にしたとされています。また、中宮寺跡の北側には、蘇我入鹿によって滅ぼされた聖徳太子の皇子、山背大兄王の墓と伝えられる「富郷陵墓参考地」があります。富郷陵墓参考地(宮内庁管轄)聖徳太子一族が滅ぼされた戦乱は、遠い遠い過去のように思えてきます。自分にとって「秋の大和路」と言えば、この「斑鳩の里」の風景が真っ先に思い浮かびます。これまではクルマのフロントガラス越しにしか見て来なかった風景でしたが、足を止めてゆっくり眺めてみると、原点に帰って来たような気がしました。現在の中宮寺は江戸時代に移されたもので、法隆寺東院伽藍に隣接しています。現在の中宮寺有名な国宝の「木造菩薩半迦像」は、本堂に安置されていて、一般にも公開されています。本堂ただし、内部の撮影は禁止なので、中宮寺跡の解説版にある画像を撮影しました。昔の50円切手の図案で知られる像ですが、写真の方に慣れてしまっているせいか、実物を見てもすぐには実感が湧いてきませんでした。(実は実物を見たのは初めてでした)
2018/10/30
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美術や工芸の宝庫といった感じの法隆寺で、西院伽藍や大宝蔵院だけでも圧倒された後は、東門を通って東院伽藍へとやって来ました。法隆寺の伽藍配置図仏像などの美術工芸品から建造物まで、じっくり見ていると法隆寺だけで丸一日以上必要だと思います。東門(国宝)この日は地元の氏神様のお祭りか何かのようで、国宝の門の前でお祭りの準備が行われていました。自分もそうでしたが、奈良に住んでいると国宝建造物がどこでも当たり前のようにあるので、あまり有難味がわかってないと思います。自分は仏像などの美術工芸品はよくわからないこともあり、もっぱら興味は建造物の方に向いていました。法隆寺の建造物では、西院の見どころが五重塔ならば、東院の見どころは夢殿かと思います。夢殿(国宝)夢殿のあるこの地は、元々聖徳太子の一族が住む「斑鳩宮」があった場所です。7世紀の戦乱で焼失してしまい、それを惜しんだ法隆寺の高僧行信が、聖徳太子の没後約120年の739年頃、夢殿を含む上宮王院を建立しました。夢殿は聖徳太子を供養するためのお堂で、内部には聖徳太子像などゆかりの遺品が祀られています。絵殿・舎利殿(国指定重要文化財)聖徳太子が2歳の時、東に向かって合掌すると、手の中から現れたとされる仏舎利が安置されています。聖徳太子について言えば、十七条の憲法や冠位十二階、遣隋使の派遣と習ってきました。また、一度に十人の声を聞き分けたなどの伝説も残っています。私が住んでいた場所は、JR大和路線(関西線)でいうと法隆寺駅から一駅大阪よりに行った「王寺」という場所で、大阪と奈良の府県境にありました。大阪の四天王寺から奈良の法隆寺まで、聖徳太子がよく通っていたとされ、太子にまつわる伝承や信仰も数々残っています。(小学生の時に「わがまちの歴史」みたいなのを教えられるかと思いますが、聖徳太子の「片岡山伝説」は、まさに私の中学校のあった場所だとされています)現在の日本史では聖徳太子ではなく、厩戸皇子と学ぶようです。仏教が伝わった6世紀当時は、日本ではまだ新興宗教とされていました。その仏教を広めたのが厩戸皇子と蘇我馬子で、偶然かも知れませんがイエス・キリストも厩戸で誕生しました。(飛鳥にはその厩戸の跡も残っています)実は厩戸皇子こそ蘇我馬子だったと考えるのは、私だけでしょうか。ユネスコ世界文化遺産「法隆寺地域の仏教建造物」
2018/10/29
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大和は「国のまほろば」であり、自分が育った場所でもあります。実家は広島に移ってしまい、もはや奈良に帰る場所はありませんが、大阪に用事があったため、久しぶりに秋の大和路を訪ねてみました。法隆寺前の国道25号線は何百回と通っているのに、実は法隆寺の中に入るのは2,3回くらいしか記憶にありません。南大門(国宝)室町時代の建立だそうですが、この見慣れた門が国宝だとは知りませんでした。法隆寺では、建造物だけでも18件が国宝に指定されており、その他の美術工芸品などを含めると、何件が国宝指定されているのでしょうか。建造物について言えば、法隆寺にある47件のうち18件が国宝で、残りの29件は全て国指定の重要文化財です。三経院及西室(国宝)聖霊院(国宝)と東室(国宝)聖霊院には聖徳太子が祀られており、聖徳太子及び眷属像は国宝に指定されています。妻室(国指定重要文化財)重文の建物はそう滅多にお目にかかるものでもありませんが、法隆寺に来ると重文の格が下がるような錯覚があります。綱封蔵(国宝)奈良時代から平安時代に造られた倉庫で、高床式になっています。食堂(じきどう)(国宝)と細殿(国指定重要文化財)日本書紀では670年に法隆寺が火災で焼失したとあり、現在の建造物はその後に再建されました。聖徳太子の時代の法隆寺は残ってませんが、それでも廻廊で囲まれた西院伽藍は、世界最古の木造建築群となっています。五重塔(国宝)世界最古の木造建築物です。金堂(国宝)鞍作止利(くらつくりのとり)による釈迦三尊像(国宝)などが安置されています。金堂と五重塔廻廊(国宝)と鐘楼(国宝)大講堂(国宝)建造物だけでも圧倒されそうな法隆寺ですが、仏像などの美術工芸品も数多くの見どころがあります。「大宝蔵院」には、観音菩薩像や百済観音など、飛鳥時代から白鳳時代にかけての仏像(もちろん国宝)が綺羅星のごとく建ち並んでいました。(館内は撮影禁止なので画像はありませんが、法隆寺のHPにて紹介されています)個人的には「玉虫厨子」を楽しみにしていました。(これだけ身近に長く住んでいながら、玉虫厨子は美術や歴史の本でしか見たことがありません)実物を目の前にした時は、「これまで写真で見てきたものが実際にある」といった感じで、現実を認識するのに時間がかかったほどです。
2018/10/28
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高取城のある高取から関西空港への帰り道、やはり素通りできないのが橿原神宮でした。一の鳥居神橋と二の鳥居神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと、後の神武天皇)が、九州高千穂から東に向かった「神武天皇東征」で、畝傍山の東南の麓に創建した橿原宮が橿原神宮の始まりです。南神門外拝殿祭神は神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)で、現在の社殿は1890年に明治天皇によって創建されました。外拝殿から見た内拝殿と廻廊内拝殿の奥に本殿(国指定重要文化財)があります。古事記と日本書紀にある「神武天皇東征記」では、二つの鳥が登場します。一つはサッカー日本代表のエンブレムともなっている八咫烏(ヤタガラス)で、神武天皇の道案内を務めた鳥です。そしてもう一つが金の鵄(トビ)で、長髄彦との戦いの最中に神武天皇の弓先に止まり、勝利に導いた鳥です。私の母校である奈良県立畝傍高校では、その神武天皇の東征記に由来して「金鵄」が校章となっています。(旧制畝傍中学から続く校章も、現在では合併により変わっているようですが)たとえ公立高校であっても、神話の鳥が校章になる土地柄が大和の国であり、ここが「くにのまほろば」です。「大和平野のあさぼらけ」ならぬ、大和平野の夕間暮れ葛城山に沈む夕陽と深田池です。2012年、奈良県大会の準決勝で智辯学園に勝利した時の伝説の校歌決勝では天理高校に敗れ、優勝はなりませんでした。
2017/11/25
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大阪と奈良の府県境、二上山南側を通る旧竹内街道(南阪奈道路)を通って、大阪から奈良へと入って行きました。竹内峠のトンネルを抜けた時、眼下に懐かしい大和平野南部が広がっていて、大和三山(畝傍山・耳成山・香久山)の姿も目に入ってきました。竹内峠を越えた後、飛鳥を抜けて吉野方面へと向かい、目指した先は「日本三大山城」の1つに数えられる高取城です。縄張図壷阪寺からは高取城の登城口まで、林道のような細い道を行き、対向車とすれ違うのもやっとな感じでした。登城口から山道のような登城道を行くと、山中に突如として石垣が現れました。壷坂口門の石垣壷坂口門壷坂口中門跡ほぼ吉野に近い山中にあったためか、高取城の石垣はよく残っており、かつての城郭の姿が偲ばれます三の丸の石垣また、明治に入るまで建造物が現存しており、これも離れた山中にあったお蔭かも知れません。大手門虎口跡二の丸と本丸へ入る唯一の門で、桝形もよく残っていて、かつては櫓門が建っていたと思われます。二の丸虎口「十三間多門」の名前があり、多聞櫓が建っていたようです。二の丸の虎口を抜けると、二の丸の曲輪の先に櫓台の石垣が現れました。本丸に付属する曲輪の櫓台で、かつては太鼓櫓が建っていました。櫓台の横には虎口があり、こちらは「十五間多門」の名前が付いています。その名の通り、十五間の多聞櫓が建っていたと思われます。太鼓櫓の櫓台(本丸側から見たところ)太鼓櫓の建つ曲輪は、本丸よりは一段低い場所にあり、独立した曲輪のように見えるのですが、特に名前は付いていませんでした。「名無し曲輪」(本丸から見たところ)その名無し曲輪からは、本丸の石垣を見上げる格好になります。本丸石垣これまで高取城で見てきた石垣と違い、隅石が算木積みに進化しています。豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が高取城を築城したのは、大和を平定して大和郡山城に入った時です。この同じ時に築城された和歌山城では、藤堂高虎が普請奉行を務めていました。高取城でも藤堂高虎の手が加えられたこともあったかも知れません。突然現れた算木積みの隅石に、ふとそんなことを想像したりしました。本丸虎口本丸かつての高取城の本丸には天守が現存していましたが、明治に入って廃城となった時に取り壊されてしまいました。天守台(外側から見たところ)本丸天守台(内側から見たところ)明治に入っても建造物が残っており、しかも後の戦災を免れたとあっては、現在では間違いなく国宝になっていたことでしょう。この山中にあったために建造物が残ったとも言えますが、建造物が取り壊された理由は皮肉としか言いようがありません。あまりに山の中で管理が大変だというのが理由だそうです。なお、奈良産業大学によって、高取城のかつての建造物がCG復元されています→こちら日本城郭協会「日本100名城」
2017/11/24
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和歌山城の本丸には戦前まで天守を始めとして、いくつかの建物が残っていましたが、空襲により焼失してしまいました。現在は昭和33年に外観復元された天守が建っています。本丸虎口から見た天守天守と続櫓(復元)乾櫓と楠門(復元)天守と附属建物は鉄筋コンクリートによる復元ですが、天守曲輪の虎口にある楠門(二の門)だけは、木造によって復元されています。楠門(二の門)その楠門を通って、天守曲輪に入ってみました。二の門櫓(内側から見たところ)乾櫓(内側から見たところ)天守と表玄関天守曲輪の内部は少し窮屈な感じで、徳川御三家の居城にしては小ぢんまりとした感がありました。裏阪(搦手口)から見た天守空襲で焼失するまでは、「南海の鎮」とも呼ばれた堂々たる天守が建っていたことでしょう。和歌山城の築城は1585年のことで、豊臣秀吉の命により、弟の豊臣秀長によって築城されました。この時の普請奉行が、加藤清正と並ぶ築城の名手である藤堂高虎です。豊臣秀長は大和郡山城を居城としていたため、桑山繁晴が城代となり、豊臣秀長亡き後も城代として城郭の整備を行いました。1600年の関ヶ原の戦い後に浅野幸長が37万6千石で入封し、この時に大規模な改修が行われました。浅野幸長の時に天守が建てられましたが、この時の天守は1847年の火災によって焼失しています。そして1619年には徳川家康の十男である徳川頼宣が55万5千石で入部し、徳川御三家の1つである紀州徳川家の初代となりました。徳川頼宣の時にも改修が行われ、現在残る和歌山城の姿になっています。日本城郭協会「日本100名城」
2017/11/23
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和歌山城の石垣を見ていると、石積み技術の進化の歴史を見ている気がします。豊臣秀長(秀吉の弟)時代の「野面積み」から、浅野幸長時代の「打込み接ぎ」、そして徳川頼宣時代の「切込み接ぎ」へと、その進化の歴史がよくわかります。西之丸庭園を後にして本丸の北側に出ると、本丸北側の石垣は打込み接ぎの石積みになっていました。本丸北側の石垣浅野幸長の時代に築かれたものだと思います。本丸南側の石垣が特に顕著で、石垣の積み方が変わっていくのがよくわかります。野面積み(手前)から打込み接ぎ(奥)に変化しています。本丸東側の石垣野面積みの隅石が見られる城跡は、そう多くはないと思います。
2017/11/22
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岡中門から一旦引き返して本丸の北側に回ってみると、二の丸の跡が残っていました。和歌山城の二の丸には、表・中奥・大奥の三つの御殿があり、紀州藩の政務を行うとともに、藩主の生活の場所でもありました。かつて大奥御殿のあった場所には、発掘調査により穴藏状遺構が発見されました。江戸城の大奥にも「石室」と呼ばれる施設があり、和歌山城でも非常の際に大奥の調度などを収納する場所であったと考えられています。穴藏状遺構石積み石は「和泉砂岩」で、和歌山市沖にある友ヶ島の採石場から運ばれたものだと思われます。二の丸の西隣には西之丸の曲輪があり、曲輪の間の水堀には廊下橋が復元されています。御廊下橋西之丸は紀州藩初代の徳川頼宣の隠居所として造られたもので、かつての「紅葉谷庭園」が「西之丸庭園」として公開されています。かつては数寄屋や能舞台などもあり、風流で優雅な場所だったことがうかがえます。西之丸から見た廊下橋西之丸庭園から見た天守
2017/11/21
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大手門から旧丸の内の周囲を一周して、再び大手門に戻ってきました。大手門気を取り直して改めて見たのですが、やはりとても56万石の大手門とは思えません。大手門の先は桝形になっているわけでもなく、直線的に曲輪が続いていました。近世城郭では桝形があるのが一般的で、さらには石段や坂があったり、ダミーの虎口があったりするものですが、あまりに物騒な縄張です。それでも本丸に近づいて行くと桝形の跡があり、「一中門」の跡だそうです。一中門の桝形跡おそらく櫓門があったのでしょうが、石積みも最新型の「切込み接ぎ」になっており、江戸時代の徳川頼宣の時代のものだと思われます。本丸の南東側、岡口門から入った先にはさらに桝形があり、「岡中門」の名前が付いていました。岡中門の桝形石垣何があったのかはよくわかりませんが、画像左上の方の石積みは切込み接ぎ、下の方は野面積み、右の方は打込み接ぎになっています。そして岡中門の桝形横には、櫓台と思われる高石垣がありました。石積みも見事な切込み接ぎで、これだけの高石垣を積めるのは、一部普請を行った藤堂高虎によるものでしょうか。それでも石垣をよく見ると、藤堂高虎よりも加藤清正流に近い気もしました。ちなみに紀州徳川家初代の徳川頼宣の夫人は、加藤清正の五女にあたります徳川頼宣が近世和歌山城を築城するにあたっては、加藤清正流築城術の影響が全くないとも言い切れないところです。
2017/11/20
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紀州和歌山は、尾州名古屋・常州水戸と共に「徳川御三家」の1つに数えられ、「暴れん坊将軍」の第八代徳川吉宗を輩出した土地でもあります。現在の和歌山城跡は本丸と二の丸が公園として整備されています。現地の縄張図。(下が北になっています)まずは周囲を回ってみようと、大手門から歩き始めました。大手門56万石の大手門にしてはあまりに質素で、櫓門どころか大名屋敷のような門が建っていました。しかも桝形ではなく直線的に城内に入れるので、警備上の心配をしたほどでした。大手口の北側水堀跡南東側の岡口門に回ってみると、こちらは櫓門形式になっていました。岡口門(現存、国指定重要文化財)岡口門から不明門までは、幹線道路沿いに堀跡が残っていました。現在は堀跡も公園整備されていて、堀底を歩くこともできるのですが、南側の石垣に不思議なものを見ている気がしました。御三家の城にあるまじき、野面積みの櫓台です。石積みでも初期の技術で、数万石の城ならいざ知らず、56万石の城とはとても思えません。しかも途中から積み方が変わっていました。画像で見ると微妙ですが、明らかに野面積みから打込み接ぎに変わっています。おそらく豊臣秀長(秀吉の弟)や浅野長政時代の遺構だと思われ、それはそれで貴重な遺構かも知れません。岡口門から南側の堀跡を通って不明門に行くと、さらに不思議なものがありました。不明門の高石垣いきなり切込み接ぎの高石垣は奇特ですが、現地の解説板によると、豊臣秀長が和歌山城を築城するにあたり、藤堂高虎が普請奉行となっていたそうです。なるほど、築城の名手藤堂高虎ならではの高石垣だとしても、「何でここだけ?」といった疑問は残ります。「不明門」の名前からして搦手口だと思われますが、和歌山城でも死人や犯罪者を通す不浄門だったようです。(ちなみに江戸城では「平河門」の横に不浄門があり、生きて不浄門を通ったのは絵島と浅野内匠頭だけでした)不明門の桝形櫓門があったのでしょうが、石積みは切込み接ぎから打込み接ぎへと、時代が戻っています。南側の不明門を後にして、西側の追廻門へ回ってみました。追廻門(現存)「追廻門」の名前の通り、ここが搦手門だったと思われます。追廻門は裏鬼門の方角にあり、魔除のために朱色に塗られています。追廻門の桝形内部石積みは比較的新しく、徳川頼宣の時代のものです。追廻門の北側には「砂の丸」の曲輪跡がありました。周囲を比較的新しい技術の石垣で囲まれており、これも徳川頼宣の時代に拡張されたものだと思われます。砂の丸からは、「鶴の門」と呼ばれる門があり、丸の内に直結していました。石垣に囲まれた堀のような地形は「鶴の渓」と呼ばれています。ここはまた古い野面積みの石積みが見られ、徳川頼宣以前の遺構だと思われます。和歌山城の丸の内を一周して再び大手門に戻ると、いよいよ城内に入って行きました。
2017/11/19
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