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月がいつもの十倍ぐらい大きく見えて輝き、いかにもこの地球、わたしとわたしの自転車が張り付いている地面から近く見えて、威圧された。後数分もすれば、この月が地球に引き寄せられて、よりによってわたしの頭上に落ちてくるような気がした。地球は消滅するかもしれないと感じたが、そのあまりの強大さに抵抗するのは無駄のように思えたせいなのだろうか、わたしには恐怖感は芽生えない。 薄暗い堤防の上で、自転車を進めていくと、地面に新聞紙を敷いて二人が座っている。暗くて彼らの顔はまったく見えなかったが、男女であろうと自然に思った。ハンドルを急に切って、自転車のライトを彼らに浴びせた。煙草を吸っているようだった。その瞬間を待っているのだと思った。その瞬間が来れば、男は女を抱けると信じている。女もそれを待ってる。その瞬間は、巨大な月によって引き起こされるかもしれない。 もう少し進むと、堤防から川辺に下りる階段があって、そのあたりの川辺は背丈の高い草が刈られていて、黒い川が見える。そこに川が流れていることを知らなければ、その川は細長い沼に見えたかもしれない。 この沼の底に、先ほどの男女のいずれかが横たわるような気がした。そして、実際、女の接吻で口移しされた毒物で男が倒れた。それを見届けた女はペットボトルの水で慌てて口の中をゆすぐ。口の中に入った水を、あたかも止めを刺すためかのように、男の顔にかけてやる。でも、女の顔は涙で濡れている。女は非力だから、時間をかけて引きずりながら男をその沼のところまで運んでいく。実際はその沼は川だけれども、疲れた女はどうでもいい気になって男の体を水の中に入れてしまう。すると男の体は流れに押されて、川の中央付近に行きそれから下流に流れていく。 わたしはそれをずっと見ている。そして、予感する。透明な魚が現われることを。確かにその通りで、無数の透明な魚が流れていく男の体に群がっていく。大型な魚が群れている音がする。バシャバシャと水が弾け飛ぶ。魚が飛び上がると、赤い月の光に照らされ、透過する光で魚体の透明感がわかる。魚に肉を喰いちぎられて男の体の浮力がなくなり、やがて骨だけなった男は底に沈んでいく。 透明な魚はこんなにいるんだ。哀れな男よりも透明な魚の数にわたしの関心が向かう。 月に赤味がでてきた。その赤味はどんどん増しているような気がする。闇には赤い月の方がよく似合う。この月に照らされるのは、やはり川ではなくて沼の方がいいように思う。沼の水面に巨大な赤い月が映る。この時なのである。魚が次から次へと飛び出した。赤い月の光に透明な魚が照らされ、その魚影が透けてわかる。飛び出した魚は重力の影響をまったく受けないかのように、水から斜めに飛び出した角度をそのまま維持してすーっと空を上って行く。どこまでも上がっていく。 しばらくすると、赤い月の表面の一箇所に小さな白い光が輝き、一瞬、その光度を増すが、やがて消えていき、もとの赤い月の光に戻る。ズズズズーンという音響が後を追う。最初の白い光の輝きが消滅すると、今度は赤い月のいたるところで、白い光が輝きだし、ズズーン、ズズズズズーンという音が連続する。 透明な魚が赤い月に体当たりをしている。男の死体を喰いちぎった透明な魚たちが、自分の身を懸けて赤い月を攻撃している。 希望はこんなふうにして生まれるのだなとわたしは知った。わたしにも死体を喰いちぎる力がほしいと思った。 もっとも、無数の透明な魚にとってたった男一人分の肉では不足だったのだろう。女の涙は既に枯れ、透明な魚の群は赤い月の上で炸裂したけれども、依然、赤い月はわたしを圧倒的に威圧している。
Aug 30, 2009
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会社の高層ビルから外に出ると、クーラーで冷えていた体に叩きつけるような熱射にわたしはたじろいだ。 この真夏の熱射の中に出て行くことは、単に下着を汗で濡らし、疲労し、時間を潰す以外に何の効用もないように思えた。とは言っても、居場所のないあの空間に戻りたいとも思わなかった。 薄汚れた茶色の蛾が日射の強いコンクリートの階段にいた。それはじっとしていて動かない。昼間出てくるはずのない蛾が、太陽の処罰を受けて焼き殺されたように見えた。たまたま高層ビルの中に入ろうとしてその階段を駆け上がっていた若い男がそれに気づいて立ち止まり、腰を少し曲げゆっくりと手を伸ばして、指先でその生物に触れたのである。こんな汚い生物に触ること自体がわたしには驚きであった。 その汚い蛾は少しのたのたと動いたようだ。まだ生きているのである。するとその青年は、その蛾の片方の羽を指でつまみ上げると階段のすぐ脇にある生垣のところに運び、土の地面に放したのである。 その青年のやさしさは衝撃的で、真夏の熱射すらもわたしは忘れることができたのである。 しかし、次の瞬間、2,3メートルはあろうかという巨大な透明な魚が高層ビル入り口の硝子戸を突き抜けて飛び出し、大きく体をくねらせパクンと口を開くと、地面の上に転がる汚れた蛾を飲み込んだのである。 それから、透明な魚は頭を上げて少し上昇すると、突然、反転し、蛾をつまみ上げた青年の指に噛み付いた。 透明な魚が見えるのはわたしだけなのである。しかし、青年の指から血が噴き出し、青年も異常な事態が身のまわりに発生していることに気づいている。指からの血が流れ落ち、コンクリートの階段に血溜まりができている。青年の頭上を周回していた透明な魚はその血溜まりの中に突入し姿を消した。 透明な魚が存在するはずはないと思った。わたしは疲れているのに過ぎないのだ。存在するはずのないものだと自分に言い聞かせた。 肉体の疲労なら耐えられるだろう。しかし、異様にだるい足の感覚よりも遙かに強くわたしの心を押しつぶそうとしているものがある。 太陽の熱射を受けていた汚い蛾の謎が解けたのである。 生ける屍として蟻に巣穴に運ばれることを拒否したのである。既に前進できないとしても抵抗したいのである。太陽はコンクリートの上を這い回る蟻を次々に焼き殺してくれるだろう。無数に群がってくる得体の知れないものに抵抗し、太陽の圧倒的な強さ、太陽の熱射にのみ屈服したいのである。 希望がないのである。だからこそ、屈するとすればこの真夏の狂気に対してである。駅に向かう舗装道路の路面からの強い照り返しと真上のぎらぎらの太陽を意識しながら、わたしは歩き続けた。立ち並ぶオフィス街のビルのどこかの窓ガラスを砕き、透明な魚が出現し、わたしを喰いちぎってくれることをひたすら願った。
Aug 23, 2009
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これは夢である。まもなく終わる夢である。 わたしは甲虫の幼虫で土の中にいる。土の中でうとうととしている。もぐらに襲われる危険も、鳥に地面をほじくり返されてついばまれる不安もあるというのに、それらの可能性を単なる可能性として無視している。それよりも周囲の環境、腐植土の温度と柔らかさと臭いに包まれてひたすらうとうととしている。 未来を考えなかったわけではない。わたしは力強いカブト虫なのか大きな鋏をもつクワガタ虫なのか、それともそれらよりぐっと小さいカナブンなのか、コガネムシなのか、わたしには皆目見当がつかない。そのときがくればわかる。そのときわたしが何に変態したとしても、わたしには変えられないのだから、それをそのまま受け入れるしかないのだ。 カブト虫としてその森林で君臨することを宿命づけられて、大地にその姿を悠然と現わすと甘い蜜のあふれる樹木目がけて飛翔するかもしれない。もしくは、体が小さく、貧弱で、薄汚いカナブンとしてよろよろと地上にでると、誰にも見つからないようにあわてて枯葉の山の中に身を隠すかもしれない。 だからそんなことを忘れて、ひたすらうとうととしていた方がいいのにちがいない。わたしには何も決められない。 努力する意志や向上しようという意欲は役に立たないと、神々なのか、昆虫の研究者なのか、それとも趣味で甲虫を飼育している人なのかが囁いている。「これからの寒さで何匹が生き残ることができるかですな。」 あまり土中深く潜ると呼吸が苦しい。もっとも、土が固すぎて潜れないことももちろんある。かと言って浅すぎると地表の寒さに耐えられない。 うとうととしていればいい、自分の一生を賭けて。眠りに引き込まれていけばよい。わたしは甲虫として地表に出て行くかもしれないし、引き込まれた眠りの果てとして眠りから醒めないかもしれない。 わたしは確信している。これは夢である。意志のない世界が現実であるはずはない。まもなく終わる夢である。うとうとしているわたしを意識しているもうひとりのわたしがいる。
Aug 16, 2009
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努力してきたのは間違いないのであるが、それがいま走っている顔には現れない。追いぬかれて、たくさんの人に追い抜かれて、それでも黙々と走りつづける。そこには強固な意志は見えない。鍛えぬいた筋肉は感じられない。なぜ、彼は風のように疾走してくれないのだろうか。相手との距離が十分開き、喧騒から離れたころに、彼の体調も走ることに、競争することになれて、緩やかに加速していく。しかし、情勢はほぼ決まっている。それでも、彼は走り続けて完走する。息子のゆったりしたペースに少しいらだちながらも、父親はその確実さに満足している。順位はたいしたことはない、というか、後ろから数えた方が早いので、その時点では父親は悔しさがかなり強いのだが、それでも、いつも息子の走る姿を最後まで見たくなる。息子なりに必死で、その結果に満足しているはずはないのに、それを顔から、体から感じさせることなく、息子は悠然と長距離走を終える。悠然と。#106
Aug 9, 2009
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「深夜、会社からの帰宅途中、ぼくの影法師がむっくりと起きあがって、ぼくより前を歩き出したから、ぼくは言ってやったんだ。 今まで、あんたを光から守ってあげたのは、誰だと思っているんだ。すると、影法師は こんな星明りの中、何が怖いものか。 すたすたすたと、影法師はぼくよりずっと先を歩いていく。 でもね、家につくとやはり影法師は影法師で、家のドアを開けて、家の光が外にこぼれてくると、横着な影法師はしゅんとしてしまって、やはり、ぼくの後ろでひざまづいたのさ。」 とそんなことをあるブログに書いたことに影法師がひどく腹を立てたのである。影法師のプライドが傷つけられたのかもしれない。 最初はわたしはそんなことには気づかないから、朝になるとわたしはすたすたと家から出ていった。何となくなんだけれども、わたしの頭が引っ張られているように感じてひょいと後ろを振り返ってみると、わたしの影は恐ろしく細く引っ張られていてずっと家の方から続いているではないか。 会社に遅れてしまうと気が気でなかったけれども、わたしは早足で自分の家に戻った。ドアにはきちんと鍵がかけられていたけれども、ドアの下の隙間から家の中にわたしの影は伸びている。仕方がないから、わたしはドアを開けて家にあがって、影の跡を辿っていくと、寝室の一本の柱にわたしの頭の影が、それは影法師の頭でもあるが、打ちつけられている。わたしが寝ている間に影法師が密かに起き上がり、こんなことをしたに違いない。 それをわたしが見つけたときに、影法師のやつはわたしを見てくすっと笑ったが、その理由がすぐにわかった。わたしの頭の影は、五寸釘の影でしっかり止められている。でも、五寸釘の影はやっぱり真っ黒で、わたしの頭の影の中に埋もれてどこに五寸釘の影があるのか、わたしには皆目見当がつかない。 釘抜きの影で、この五寸釘の影を引き抜かないとわたしの頭の影は自由になれない。わたしは手当たり次第に釘抜きの影とわたしの頭の影を交差させて五寸釘の影を引っ掛けようとしたが、それまで黙って見ていた影法師が悠然と「五寸釘の影の頭まできちんとその柱に埋め込まれているから、簡単には抜けないよ。」と言うじゃないか。 影なぞ無視して出社してしまおうとも考えたけれども、寝室の柱からスタートして、家を出て、駅まで伸びて、線路を伝って、会社の近くの駅の改札口を出て、階段を上がって降りて、歩道に沿って、オフィスの或るビルの従業員用の入り口から入って、エレベータの中を経て、9階のフロアの部屋の入り口を通過して、わたしの席までわたしの影が伸び続けるのがわたしにはどうにも耐えられなくて、わたしは会社に行くのをやめてしまった。 そういうわけで、わたしは自分の寝室に閉じこもり、影法師が機嫌を直してくれるのを待っている。こんなことを会社の上司に説明しても理解してくれないような気がして、わたしはもう2,3日家から出ていないけれども、会社には何の連絡もしていない。
Aug 2, 2009
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