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ウクライナ戦争 私が腹が立ってしかたがないのは、プーチンや山上容疑者の、ごくエゴイスティックな言い分の中味ではなくて、それによって引き起こされる社会的ハレーションが、私の個人的生活リズムにもネガな影響を与えている、というところにあるのです。 それは何も「ウクライナ戦争」で物価が上がっただの、景気が悪くなったなどということではなく、それまで連日「コロナ禍」の話題で埋め尽くされたマスコミ報道が、手の平返しに「ウクライナ戦争」の話題を持ち出して、これまたほぼ同じ顔ぶれの専門家たちのコメントを流し続ける。私たちは当然侵略されたウクライナに同情し、侵攻したロシアが苦戦しているのを見るにつけ、「それ見たか」と快哉を叫ぶ自分がいることを知ることになってしまう。 ここでの私たちの心理的景況は、言うなればスポーツ観戦の「赤勝て白勝て」の心理に近く、そうした野次馬根性を自身のうちに見い出すつど、私などウンザリしてしまう。生活リズムがネガに傾いて腹が立つ、とはそういう意味です。 それにしても、日本に避難してきたウクライナの人々。人権団体の中には「ウクライナの避難民だけを優遇するのはおかしい」という声があり、例によってポリコレで「正義」を振りかざすのが大好きなマスコミの一部が騒いでいましたが、岸田政権は参院選への思惑もあって、世論の動向をジィッと見、特別扱いを敢行しましたね。で、世論はそれを非難するどころか、地方自治体によっては、避難民に対して考えられないほどの支援を打ち出しているところもありました。 この状況について、内田樹氏がブログに面白いことを書いていた。―ゼレンスキー大統領は国際社会に向けて「われわれは、自国領土や市民の自由と権利を守っているだけではなく、この戦いを通じて、世界中の人々の自由と権利をも守るためにも戦っているのだ」というメッセージを発信しました。ウクライナは自国の独立や国益より「上位の価値」を守るために戦っていると訴えた。 ― 結果、この戦争が今まで世界中で繰り返されてきた紛争とは全く異質な戦争であるということを世界の人々が検知した、と言うのです。はたしてそうか? これまで難民支援と言えば、どこの国あるいは機関のメッセージも、当該国地域への援助と救訴のみで占められていたのに対し、ゼレンスキーは世界に対してたんなる支援ではなく、より高い自由と民主主義を守るという「上位価値」に訴えたので、主として先進民主主義国の政府国民に「これはこれまでの戦争あるいは紛争とは異なる」という印象を植え付けることに成功した。対してロシア(あるいはプーチン)は、身内の理屈だけを持ち出して戦争を始めたので、西欧各国からつまはじきにされた、ということでしょう。 政治的メッセージとして、ゼレンスキーの言明は議論の余地なく正しいとしても、それを直ちにウクライナからの避難民に対する特別優遇という結果に結びつけるのは、ちょっと無理筋かなという気が私にはします。ポリティカリーコレクトネス(政治的正しさ)だけでは、やはり万人の共感と支持は得難い。げんに西欧民主主義各国以外の国々はわりと冷めた目線を向けているじゃないですか。これは何もロシアの鼻息に気を使っているのではなく、こんな紛争はそれらの国々ではしょっちゅう起こっているからです。彼らから見れば、なぜウクライナだけが特別視されるのか、ということになるのでしょう。 さて、ではなぜ岸田政権は、ウクライナからの避難民に対し特別処置を取ったのか?それは言うまでもなく、世論の熱い支持があったからです。ではなぜそれまでアジア、アフリカ他からの難民受け入れに消極的、あるいは冷淡とさえ言いうる日本人が、ウクライナにかんしてそれを支持したのか?それはおそらく同じ生活感覚あるいは誤解を恐れずに言えば、文明感覚を持っている人々に対する共感があったからでしょう。 まあ、もともと日本人には白人コンプレックスがあり、とくに西欧型美人の典型とされるウクライナの女性を見るにつけ、同情を誘ったことは事実ですが、もちろんそれだけではない。来日直後の避難民の態度物腰や言葉に打たれたんだろうと私は思う。受け入れに対する感謝の言葉と、日本で仕事ができるか心配という、非常に「自律した精神性」が、刺さったのではないか? 残念ですが、これまでの難民の方々は泣訴哀願のポーズばかりが目立って、確かに気の毒とは思うが「共感」にいたるには、ちょっとシンドイところがあるのです。「受け入れてくれてありがとう。で、私たちに何してくれる?」では、こっちは応対に困るでしょう。援助慣れしたと言っては語弊がありますが、態度物腰についていけない理由が、今回のウクライナ避難民の様子を見ていて、ようやく分かった気がしました。 私たちはそれまでほとんど知らなかったウクライナの避難民に、同じ生活感あるいは市民感覚のようなものを検知したのです。物事に感謝し、自活するためにどうするかにすぐ感覚が向くというのは、日本国内の災害避難民と同じエートスじゃないですか。で、それはそのままその人たちの高い「矜持」となっているじゃないですか。 そういう共有できる市民感覚を持った人々が、いきなり侵略され、人権蹂躙どころか虐殺拉致暴行レイプ略奪といった、およそ考え得る暴虐の限りを受けたとなれば、我々は政治感覚でなく生活感覚で、その「痛み」と「怒り」を共有してしまうのです。 それにしてもロシア。私は以前から外国人ユーチューバーのファンで、その中にはアシヤさんとかアリョーナさんといったロシア出身女性も含まれる。ロシア語というのは、その音列がほとんどの日本語音をカバーしているので、彼女たちの話す日本語はおどろくほど違和感がない。彼女たちのアップする動画は、ほとんどが日本の風物食物旅行といった、たわいのない話題ばかりでしたが、その時の雰囲気が周囲にごく馴染んで、全然違和感がない。私はそれがどこから来るものなのか、それが面白くて見ていたものです。 早い話、彼女たちが時に里帰りして現地語で会話するとき、その態度物腰は明らかにあちらふうになっている。考えてみれば当たり前の話ですが、こういうときエートスの変換というのは起こり得るものなのか?まあこのお二人にかぎらず、最近の若い来日外国人のほとんどが、日本を知るきっかけとしてアニメや漫画を上げているのをみると、彼ら自身が来日以前から、日本のエートスにそれほどの違和感を感じていないというところもあるのかもしれない。私たちが映画その他の媒体によって、アメリカ人のエートスにあまり違和感を感じないように。 とはいえ、そうしたのどかな状況は、今回のウクライナ戦争で一変してしまいました。上記お二人にかぎらず、ロシア人ユーチューバーとウクライナ人ユーチューバーは、いきなり両国代表として話すことを強いられることになったのです。
2022.07.21
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プーチンと山上容疑者 と、昨年末にボヤいていたら、今年に入るや、まことに前時代的なウクライナ戦争に始まって、このたびの安倍元首相銃撃殺害事件。いったい人間という生き物は、どこまで退化していったら気が済むのだろう、と思ってしまいますね。 人間が自意識を持った社会的動物である以上、各々が何がしかの不満やハレーションを抱えているのは当たり前。そこを何とか他者と折り合って生活を維持しようと、みな知恵を絞って日常生活を送っているのに、この種の人たちの頭の中には、「他者」あるいは「外部」というものは、一切存在しないらしい。 以前、「想像」と「空想」の違いをここで話したような気がしますが、私の独りよがりな見かたでは、「想像」とは「他者」あるいは「外部」に向けられるような「開かれた」エートス(性格・習性)。対して「空想」というのは、厳密に自己完結というか、自身の中空をブンブン飛び続けるようなエートスであって、絶対に「他者」ないし「外部」に開いていかない。プーチンも山上容疑者も完全に「閉じた」人たちなのです。私たちは我から「閉じた」人格性を、まともな社会の成員にカウントすることなど到底出来ません。 こうした黒々とした地獄をしょった人格性というのは、何も犯罪者や独裁者だけに見られるエートスではなくて、しばしば芸術家や作家などにも見られます。となると、これは何やら人間の基本的属性として、あらかじめ遺伝子に刻印されたものであるようにも見える。大多数の人間はそうした危ない因子になるべく触れないよう、無意識にその近くを回避するように振る舞うのですが、中にはそうした暗黒をどうしても覗きたい、触れずにいられないという人たちも、多くはないが「必ず、いる」のです。 早い話、幼児たちはこうした「暗黒」を回避しません。大多数の人は成長するにつれ回避のすべを身につけるのですが、少数ですがそうでない人もいる。(ピカソなど幼児の目線を、いつでも起動出来る人だったでしょう)。 というか、そういう性向が少数とはいえ、人間の基本的因子として刻印されているからこそ、人類は多様性を獲得し世界中に広がったわけでしょう。 先ほど「暗黒」という言い方をしましたが、それは犯罪者や独裁者を見る私たちからはそう見えるのであって、その外形的相貌はしばしば甘味な形を取って現れるものらしい。リルケは長詩「ドゥイノの悲歌」で、「まことに美の天使は恐ろしい(手塚富雄訳)」と言っているでしょう。甘味な美的相貌を凝視し続けるうち、彼の眼はイカロスのごとく焼き尽くされそうになる。この詩のなかで、美の光芒のすさまじさに、思わず手をかざしてしまう場面がありましたね。 三島由紀夫や村上春樹なども、あるいはそうした美的相貌の芯に隠れた、マグマのような暗黒を見続けた作家だったのかもしれず、三島はエロティックな身体の裏、村上ならファンタジックな相貌の裏に隠れた得体のしれない何物かを、「確かにこれだけは、私は見た」という仕方で、文字に刻んだのです。という意味で芸術家と私たちは言葉とか色とか音とか形で、かろうじて繋がっていると言えます。 私たちはそうした得体のしれないマグマに近づいてリポートする彼らの振る舞いを、ハラハラしながら見守るしかない。しかし、そうして残された彼らの営為の結果は、しかるべき敬意を払って検証されるでしょう。なぜなら、それらは仮にかなりドス黒い相貌を放っていたとしても、私たちの社会的資産としてカウントされるからです。 暗黒のマグマに気づきそれに近づくにしても、何とか正気で踏みとどまって、言葉や色彩や音楽といった表現手段で記録しようとするとき、それらはおそろしく孤立した営為であったとしても、間違いなく「社会と繋がっている」と見做せるでしょう。 しかし犯罪者や独裁者は違う。暗黒のマグマに魅かれるにしても、彼らはその甘味な相貌に簡単に我が身を投じてしまえる性向があるのではないか?プーチンと山上容疑者には不思議な共通点がある。二人ともバカではないということです。否、むしろ恐ろしく冷徹沈着かつ無慈悲に事柄を見すえ、自身の感情をコントロール出来る人物たちである。プーチンはそもそもそういう訓練をKGP時代に何度も受けて来ただろうし、山上容疑者は奈良の県立トップ高校出身だそうだから、世間並み以上の知力を持っていたでしょう。 オウムの時もそうでしたが、犯罪と知力のレベルはあまり関係ない。犯罪を犯すトリガーは、どうも知力とは関係のないところからやって来るらしいのです。と、ここまでプーチンと山上容疑者のことを考えてきて、犯罪とカルトとの関係について思いつくことがあるのですが、ここではしません。 要は、こうした人格性に共通するのは、心の深奥に潜むドス黒いマグマに対してのハードルが恐ろしく低い、言ってみればそうした事象に出会うとき、ほぼ無抵抗に酩酊してしまえる性格なのだろう、で、それはおそらく最近あったほかの大量殺人事件、例えば「京アニ放火殺人事件」とか、「大阪心療内科放火事件」の容疑者たちにも共通する心象なのでしょう。 自身の抱えるドス黒いマグマを解消するためには、いかなる理由をつけてでも、「他者」あるいは「外界」を攻撃しなければならない、そして「私にはそれが特権的に許されている」といった心理的経路を持つという点で。 プーチンならば旧ソ連の版図と名誉の回復のためには、目の前で起きているウクライナ人ロシア人の死体の山は簡単に捨像される。山上容疑者の場合は「旧統一教会」への復讐のためには、それが一国の元宰相であっても、自分には関係ない(今のところの証言他が事実であれば)。 こうした自己完結的な論理というのは、最終的には自分以外は全部敵、したがって自分は何をしてもいい、「私にはそれが特権的に許されている」という帰結に至らざるを得ないのでしょう。
2022.07.18
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