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この前、新年の挨拶をしたと思いきや、もう1月も終わろうとしています。又、一段と時間が加速されてきた感じかな。こうなると、日々の日課や仕事をこなすだけで、すぐに一日が終わってしまい、やりたいことがやれずにどんどん貯まっていってしまう。瞑想もしなきゃあ、山にも行きたい、本も読みたい、・・・・・こんなふうに思っていらっしゃる方も多いのでは?えっ、私ですか?シーズンオフの私は、たっぷりと時間はありますよ。毎日、今日は何して遊ぼうか、なんて考えていますから。そんな私でも、あっという間に一日が過ぎてしまう。でも、そんな毎日の中で、今注意している事。それは、日々の生活の中で如何に高い波動を維持し、更に上昇させるかという事。それは、目や耳から入ってくる情報を、高い波動を持っているものだけに感応させるようにしています。高い波動という事は、宇宙の真理である“愛と調和”に裏打ちされたものですね。その対象は、人間でもあり出来事でもあり、物でもあり、これらに対する見方であります。ここで言う感応とは、意図的に意識を向けるという事です。対人関係ではもちろんの事ですが、出来事や物に対しても心がけようとしています。不幸な出来事の時は、祈ります。加害者と言われる人にも、祈ります。良くなって欲しいと。そして、私が幸せに暮らすことを許されている事に感謝します。絵画や美術品に関わらず、美しい物を、美しい面を見るようにする。作った人の思いを感じるようにする。言葉も、美しいものを選びたい。人工物の中よりも、なるべく自然の中に身を置いていたい。美には、宇宙の完全なる調和が宿されている。調和は、神そのものだから。美には、高い波動を発し、見る者に安らぎと平穏を招きます。大宇宙の真理を、真善美とカントの哲学は表現されています。真=誠 一点の虚偽、偽りの無い心善=愛 無条件の愛 見返りを求めない愛美=調和 陰陽のバランス高い波動を持っているものだけに、自らを感応させてゆくのは大変な事だけど、大切な事。そうする事によって、美しい生き方になるのかな。空気が澄んでくると、スキー場のリフトやライトアップも見えます。どうです、美しいでしょう
2009.01.27
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摩訶不思議とか、摩訶般若波羅蜜多心経とかのマカ。摩訶不思議という言葉は、日常で使っていますね。「すっごく不思議」、「大いに不思議」みたいな意味に使っているようです。サンスクリット語のmaha「マハー」の音写語で、「大きい」「優れた」「偉大な」という意味とのこと。でも、仏教の考え方では、ここにとどまりません。「大きい」とか「偉大な」とは、別の何かと比較して、それよりも「大きい」「偉大だ」という物差しを超えたところの世界観が、「摩訶」という事だそうです。「井の中の蛙大海を知らず」という言葉があります。深い井戸で生活しているカエルは、井戸の外に広がる山や海の存在はカエルは知りません。もちろん、旅をする事も出来ないでしょう。井戸の外で生活する者からすれば、狭い世界で生きるカエルは劣った存在なのか。雨上がりの水溜りで遊んでいるアメンボウと、7つの海を縦横に謳歌している鯨とで、アメンボウは小さくてはかなくて、鯨は哺乳類最大の動物で自由な旅人?どっちがどう?カエルもアメンボウも鯨も、その生命はそれぞれが完全なる生命であります。我々が住んでいる三次元の世界は、他との比較が物質文明の成長の源であったようです。それは、太古の昔から、今日に至るまで変わることが無いように思えます。物心がつき始める頃から、親は我が子の将来を考えて、よその子よりも幸せになって欲しいと願い、比較の世界に飛び込ませてしまう。小学校に入るようになれば、評価の殆どが比較された数字ばかり。いつも他人と優劣の比較をする癖がつくのは当り前。それが、幸せかどうかの基準となってしまっている。今の私なら、不登校の生徒になるのは目に見えていますね。正常であればあるほど、自然の摂理からかけ離れている事に気付くはず。登校するなら、自分の何かを犠牲にしないと出来ないかもしれません。他人よりも豊かに、幸せに、という思い。比較が欲を生み、欲が争いすら引き起こします。「摩訶」は、そうした他との比較という概念を超えた世界。それぞれの個人個人が、完全なる命の存在であり、神の宿る小宇宙なのですね。だから、自分と生き方や考え方が違った人であっても、その存在そのものを尊重する。ちょっと難しいけど、それが「摩訶」という事。違いを見るのではなく、共有できる所を見る。仏教では、そうした比較の概念を超えたところに「摩訶」の世界があると説いています。それが、本当の調和であり安らぎでもあるのでしょう。人を、自分を比較判断せず、人との違いを受け入れ、認め、許しす。これ、アセンションの道、浄化の道と同じですね。-----*****-----*****-----*****-----昨日スカパーから撮っておいた映画で、ラッセル・クロウ主演の「プロバンスの贈り物」を見ました。本当の豊かさとは何なのか、を考えさせるヒントがそこにありましたね。
2009.01.21
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一週間以上、間空けての更新です。昨年末より、意識レベルのアセンションを進めてゆく道が、新たに見え初め・・・それが、今年になってからより鮮明に・・・ようやく、心の奥底の整理が出来つつあります。更新する気分ではなかったのが、少し緩んできたようです。それも、皆さんの存在であり、お蔭です。皆さん無くして、このブログは無いという事を再認識させていただきました。ありがとうございます。又言っちゃうけど、今年も宜しくお願いします。まあ、素晴らしい2009年になることは、間違い無しといった所です。(何言ってるのか解らんね。独り言です、すんま村。)空を茜色に染めて、「見守っているよ。」と言ってくれています-----*****-----*****-----*****-----私の好きなピアニストの一人、フジ子・ヘミング。彼女のエッセイ、「運命の力」あとがきより私の歩んできた道は、困難に見えるかもしれない。インタビューを受けて、昔の事を聞かれたりする。中には思い出したくないこともある。人間は、何のために生きるのかって考えるけれど、人生はいろんな苦難を乗り越えていくためにあると思う。何もしないで、生きていくなんてダメ。人に名を知られるようになって生活は変わったけど、私自身は何も変わらない。今も昔も嫌なことは嫌と言うし。それで去ってゆく友達もいる。嫌なところがあっても、お互い認め合う事が大事ね。私自身も、昔は何かあるとすぐに友達に絶交状を送りつけた事もあった。もったいない事をしたと、今は思う。トルストイの言った言葉、「他人に対して、どうあるべきかを押し付けては行けない。」をよく思い出す。人間は身近な関係から、違うところを認め合っていかないといけないわね。若い時はちょっとした事でもしゃくに触って、人を傷つけたりした事もあった。それで、夜も眠れないくらいに悩んだ事もある。でも、嫌なことを乗り越えていけばいいのよ。淡々と空でも見て。人間がそんな気持ちになれば、戦争も起こらなくなるでしょうに。-----*****-----*****-----*****-----フジコ・ヘミングは、艱難辛苦の人生を歩みながら、必要な物を身に付け、要らないものを殺ぎ落としてきた。CD「奇蹟のカンパネラ」はあまりにも有名ですね。すべての争いの元凶は、人と人との違いを認めないところから始まるようです。国籍、肌の色、宗教、世代、考え方・・・・・その違いから争いに至るプロセスは、自分の考え方を解って欲しい・・から始まり、相手を自分色に染め上げたい、自分のお気に入りで周りを固めたいと欲してしまうから。自分色ですべてを染め上げる事が、幸せに繋がる事と思ってしまうからなのでしょうね。確かにそうなれば、心乱されず穏やかに過ごせるのかもしれません。過去の歴史の中の暴君のように、自分に逆らう存在はすべてを排除してしまうように。でもそれが、一時の幸せに終わってしまう事になるのですね。そうなって来ると、謙虚さが失われ、更なる自分色を追求してきて崩壊の道を進んでいくのは、歴史が証明していますね。自分との違いを見せられるって、実は天からのプレゼント。元来、この世に生まれているという現実は意味があって、理由があって生まれていますね。それは、あなたも私も、一切の例外もなく。その、生きている意味、生かされている意味を解った人が、覚醒者なのでしょう。自分と人との違いを認め、受け入れ許すという事がその理由であり意味だと考えます。こう言ってしまえば簡単ですね。宇宙の真理は、至ってシンプルなのですよ。難しい教義なんて要らないんです。数百か数千か解りませんが、繰り返し輪廻転生を繰り返してきた私達。そのテーマを探り続ける旅であった。やっとここに来て、そのテーマが明かされ始めている。今の、地球のアセンションに合わせるかのように覚醒する時が訪れようとしている。自分と違った人を受け入れ許すという事は、“愛”の形の究極と思われます。このことを学ぶ為の舞台は、今世で最終章です。もう、後は無いようです。「絶対に許せない!」と、今まで通りの「分離、対立」をご希望の方、このことに気付かずに来世に持ち越しという方、やろうとしたのですけどまったく出来なかったという方は、地球とは別の星が用意されているようです。そちらも、その魂さんにとってはイヤサカ、幸せの道。2009年は、「分離、対立」派と、「許しと統合」派と、はっきりと別れ始める年。何の為に自分は生まれたのか、その存在は何なのか。島に移り住んだのは、このことを探すためでした。それが解った今、すっごく楽チンで~~す。(解ったのは昨年で、そこからは魂レベルでの確認作業でした。)ある程度の経済力は犠牲になるかもしれませんが、「許しと統合」を推し進める人が、地球上に溢れる事を強く意図します。
2009.01.16
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今年のお正月は、ずっと北西風が吹きっぱなしです。凧上げをやっても、強い風に吹き飛ばされてしまう。ファミリーが島に全員集合する正月、外での遊びは今年は厳しいです。でも、その中でタコ籠のチェックは忘れません。どうです、こんなお年玉をいただきました。8kg近い水蛸と、大きな穴子!正月2日の朝の収穫です。最近、スーパーなんかで出回っている蛸は、その殆どがアフリカの方の蛸らしいです。網地島の蛸は、大変美味しいと評判です。殆ど市場には出回りませんけどね。なんせ、網地島産の蛸が食べている物が違います。エッ、何を食べてるかって?ジャジャ~~ン、それはアワビです!!あの高級なアワビが彼らの食料なんですね。岩に張り付いているアワビの上から、更に被せてしまい窒息させてから食べるんですね。アワビと食べている蛸を、今度は私が食べさせていただける。これも、食物連鎖です。産業構造の中の、一次産業である農業や漁業は、島に来て少し覚えさせていただきました。都会にいた時は、労多く報われない分野だなーと思っていました。でも、今は、まったくその見方が変わってしまった。労働における心身の疲労度に対し、報酬が少ないというのが報われないという考え方。すべてがお金に換算する癖をつけさせられてきましたから、メリットだのデメリットだのという、やる前から屁理屈をこねる。そうじゃあない、やってみて解る事がたくさんあります。我家でやっている農業だって、スーパーで買ってきたほうが安上がりな物はたくさんあります。でも、お金じゃあない、別の素晴らしい物を発見できるから。それは、歓びを分かち合えるから!まさに、神との共同作業だと思えるようになったから。収穫、水揚げは、正しく天からの贈り物。人間の力なんて、自然界の中ではどれほどの物か。その殆どが、自然の、神の力をお借りして為せるもの。謙虚であらねばならないですね。感謝の心があれば、食生活の贅沢や質素という比較が無い。一般的な判断は、贅沢が上、質素が下?すべてが贅沢だし、有るものをいただかせてもらうから質素かもしれないし。とにかく、何をいただかせても、感謝。こういう体験が出来る、島に感謝です!
2009.01.07
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新年、明けましておめでとうございます。書く事や、言葉にする事で、自らの信念に更なる確信が持てる事が多くあります。ブログを書き続けることが出来るのは、来て下さる皆様のお蔭。今年も、皆様から多くの事を学ばせていただけます。本当に、ありがとうございます。雲間から覗かせたご来光です-----*****-----*****-----*****-----アメリカ合衆国の北東部にある五大湖の一つ、スペリオル湖。この湖の中にロイヤル島という気候の厳しい無人島があります。1908年、この年は狼の活動が活発で、湖畔で生活していたオオシカが次々と狼に襲われました。この年は、たまたま暖かかったせいもあり、凍っていないスペリオル湖を狼の難から逃れるためにオオシカ達は湖を渡り始めました。そして、20頭のオオシカが22km離れたロイヤル島に泳ぎ着きました。ロイヤル島は、太陽の恵みをいっぱい受けて、豊かな植物が生い茂っていた。肉食獣のいないこの島は、オオシカにとって正に楽園です。豊かに暮らし始めたオオシカは、徐々にその数を増やし、12年後の1920年には3000頭にまでその数を増やしたそうです。しかし、オオシカにとっての楽園は、この年で終焉を迎えました。島のキャパシティーを大きく超えたオオシカは、草の根という根、木の芽という芽まで根こそぎ食べるようになってしまった。翌年からはオオシカの食料が激減したのは言うまでもありません。次々と餓死するオオシカは、見る見るとその数は減らし、10年後には800頭までに減ってしまった。楽園だったはずのロイヤル島は、オオシカにとって地獄と化しました。死体があちこちに横たわり、腐敗し、・・・・・そして1948年の冬、この年はひときわ寒い冬で、湖にびっしりと張った氷の上を飢えたオオカミ16頭がロイヤル島に渡ってきました。ロイヤル島には、逃げる事すら出来ないくらいに衰弱したオオシカが、次々にオオカミに捕らえられその餌食になって行きました。これで、ロイヤル島のオオシカは誰もが絶滅を危惧いたしました。ところがそれから2年後、島の風景は変わっていた。確かにオオシカはオオカミに襲われる危険の中で生活していましたが、600頭にまで減ったオオシカが元気に生活をしている。しかも、痩せこける事無く、健康そうに生活している。この年から現在に至るまで、ロイヤル島のオオシカは600頭、オオカミが20頭という構成を保ち、バランスのある構成を保っているそうです。http://takedanet.com/2007/04/post_e0c2.html 武田邦彦氏のHP「リサイクルしてはいけない」武田邦彦著 青春出版社 を参照させていただきました。-----*****-----*****-----*****-----夜明け寸前の金華山この話の食物連鎖のなかったロイヤル島は、オオシカにとって天国だったはずなのに、目の前に草木があれば食べる、そして食べただけ繁殖するということを繰り返す生活をしてしまった。そうすれば、いずれ資源は枯渇し餓死するのは当然のことですね。事実、オオシカはロイヤル島の草を食べ尽くすまで繁殖し、そして次々と餓死したいった。むしろ、オオカミという天敵がいたほうが、大自然の摂理が働いて餓死もないし豊かであるという。これは、大変興味深い事柄ですね。オオカミがロイヤル島に渡った時は、オオカミが16頭でオオシカが800頭。オオシカが、たくさん草木を食べ生殖に励んだ結果、3000頭まで増えて餓死していった。オオカミは、これをやらなかった。お腹が一杯になれば、オオシカを狩猟して食べる事はしなかった。ロイヤル島という隔離された中でのオオカミは、食物連鎖の頂点でした。そのオオカミが、狩猟するオオシカの量を計算して行動したと思われる。しかも、病気や老化で弱ったオオシカを選んで捕獲するという事までやってのけている。元気な若いオオシカや子供を捕獲すると、食物連鎖のピラミッドが崩れる事を知っていた。きわめて不思議な事ですね。調べてみると、地球上には、こういったバランスがけっこう多く存在しているようです。オオカミが、一生懸命狩りをして、子孫を残す事に励んだら、あっという間に食のバランスが崩れてしまうことを、彼らは知っていたのです。オオシカがオオカミに食べられるという、食物連鎖の一部だけを見てしまうと、残酷さが見えてしまう。しかし、広いグローバルな目で見れば、それは美しいまでの“愛と調和”なのでしょう。ここには、神の叡智と呼べる摂理が働いているのですね。人間は、食物連鎖で言えばオオカミの更に上に位置する存在です。しかし、この食物連鎖という宇宙の摂理は、人間であっても一時のロイヤル島の例ように無制限に増える事は出来ません。人類は、この自然界の摂理を忘れてしまったかのようですね。「一生懸命に働く。」事が、最上級の美徳とされてきました。満腹になったなら、オオカミやライオンのように昼寝を楽しむのではなく、明日以降のために更に働く。そこで余剰が出ても、ストックしやすい形に変えて貯め込み、更に働いてどんどん貯め込む。これって、貪り(むさぼり)に繋がってしまいますね。貪りとは貧欲とも言い、欲望を欲しいままに貪る事。自分には充分あるのに、人の物を更に欲する際限のない欲望の事ですね。やはり、「足るを知る」という事でしょうか。これが、宇宙の真理に即した生き方なのでしょう。やはり、自然界の摂理は太陽エネルギーで植物や植物性プランクトンが生育する範囲以上には、その数を増やす事は出来ないのでしょう。すべての人間がベジタリアンになってしまったら、すぐにでも食糧危機に発展してしまう可能性がある。今の地球の人口は67億人と言われています。このままの状況が進めば、後数年後には食料不足が始まり、10数年後から、数千万数億の餓死者が出ると報告もされている。ロイヤル島のオオシカに似た状況になるのでしょうか。地球の適正人口は、20億人程度だと言う科学者もいるようですね。それ以上だと、地球のキャパシティーを超えてしまうため、環境の汚染や食糧不足、経済が立ち行かなくなると言う。そして、間もなく訪れるとされる地球アセンションによる高い波動。この新しい2009年は、その流れの一部に組み込まれているような気がします。ロイヤル島では、その天敵であるオオカミによって絶妙なバランスを保っている。では、人類にとっての天敵とは何だろう。天敵がいるいないはともかく、少しでもいいから、「このままではいけない!」と思って奮い立ち、自らの知力、体力、精神力を高める努力も必要のような気がします。やはり、アセンションという事がキーワードになるようですね。去年の延長線上の2009年ではなく、「今年は別だ」くらいの意識を持ちたい。それぞれが、この大きな流れに飲み込まれずに、しっかりと大地に根を生やす生き方を選択しなければならないのでしょう。
2009.01.04
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