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ようこそ、お越し下さいました。「人間は、他の生命を殺さなければ生きてはいけない」ということについて、ブログで書こうとしましたが、このことは大変深く、簡単には書けないなと思いました。個々の価値観により、大きく幅があります。まあここは、私流の無責任で書かせていただきます。子供の頃から、命の大切さというものを教えられてきました。「あらゆる生命は価値がある存在」という場合、人と人以外の生き物を分けて考えてみる。人以外の生き物について、場合によっては人の都合で殺さざるをえない生命もある事も事実。さらに、殺さざるをえない生命に対しては、できるだけ感謝したり、哀悼の念を抱いたり、と考える。食生活だけでなく、化粧品や薬を開発する際、多くの実験動物が殺されていることも事実。人間の身体にも、血液の中の白血球なんかは、雑菌やらの身体に都合の悪い生命体を殺すのが役目の一つと教わりました。牡鹿半島は、野生の日本鹿が多く生息しております。でも、その数が増え過ぎて、農作物の被害や襲われて怪我をしたという出来事があとを断たず、害獣として毎年数百頭が駆除という名のもとに殺されています。この季節、草が伸び過ぎてしまうため、草刈りを行います。草も、生命の現れですね。又、ある程度の生活環境を維持してゆくために、防虫や殺虫としてゴキブリや蚊を殺してもいます。こう見ると、人間が生きていくには相当数の生命が犠牲になっているようです。こうして人間が生きてゆく為に、殺さざるを得ない生命達、これが果たして罪なのでしょうか。道路を歩けば、何万何億と言う微生物を踏みつけていかなくてはいけません。これが罪に値し、罰として不調和のカルマが生じると言うのでしょうか。大いなる宇宙創造の存在は、罪というものの概念は無いと私は考えます。毎回この事は書いておりますが、三次元的見方の善悪はあろうかと思いますが、本来の所からは善悪という概念は無いと考えています。悪という見方ではなく、宇宙の摂理から見て「調和を乱した」ことになります。生きるために、命あるものを食べて不調和を起こすでしょうか。不調和とは、宇宙の真理である統合意識から離れた時に起こります。その反作用として、本来の調和に戻す為にカルマというものが生まれます。植物や海藻類は、誰かが採らなければ自然とその生命は終わったかのように枯れていきます。そして、翌年には再びその姿を見せてくれます。ワカメやヒジキといった海藻も、春が終わると自然に抜け落ち、海底に漂ってウニやアワビといった生物の餌となります。これは、食べてもらってハッピーなのです。食べてもらう事や薬草として役に立つ事が、草の使命なのです。その草も、有機物という生命を肥料に生きている存在です。魚貝類もそう思われます。数百から数万という卵を一回の産卵で産み落とします。これは、種の保存だけであれば明らかに多すぎる数です。他の生命に食べてもらうための仕組みに思えてなりません。4月29日の日記又、蚊やハエといった不快な存在を殺すときに、憎しみや怒りの想念を持つ事は避けなければいけません。結果として他の生命を殺すことになったとしても、大切なのはその動機にあります。それが純粋なものであれば、霊的な不調和は起こさないと考えます。純粋に食べ物を確保する目的で収穫や漁をするのであれば、同じように霊的不調和は起こさないでしょう。結論です。他の生命を殺して生きなければならない人間は、罪深い存在か!もう、お解りですね。罪なんて、元々無いのですね。調和に生きてくれよという、大いなる存在の願いを感知してくれれば、それでいいのですね。一人の人間が、生きて進化していく過程には、計り知れない多くの生命の犠牲と喜び、多くの守護霊団の営みが計り知れない時間と共に展開されているのだなと、・・・だから、そういう中での生をどう捉えるか。やはり、自我意識を捨て去った統合意識に生きなければと、更に更に思います。
2009.06.22
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ようこそ、お越し下さいました。島も、いよいよ梅雨に入ったようで・・・鉛色の空と海が続いています。雨粒は、あまり落ちてはきません。いまだに、いい天気悪い天気と言っている人を見受けます。無意識に、晴れた日をいい天気と言っているのでしょうが、今までの世界の癖をつけさせられた一例ですね。人間の都合で良い悪いを決めています。天気そのものは、自然の営みの中でのバイオリズムの調整で、全てが調和の運動なのですが・・・まったく、変な癖が付いたものですね。雨を恨んだり、不運と思ったりすると、そこに不調和が生じます。不調和は、即カルマを生じさせ、その人に被さります。アセンションを意識している人は、そういう想念は発しないと思いますが、気を付けないといけませんね。さて、人間の罪についての私の所感を述べてみたいと思います。キリスト教では、原罪という教えがあるようですね。私はクリスチャンではありませんから、一般論程度しか知りませんので、あしからず。アダムとイブが禁断の木の実を食べた事から始まったとされる原罪。この辺りのキリスト教での解釈や教えは、未だに腑に落ちていない所です。だから、私流の解釈で進みます。人間は弱き存在で、過ちを犯しやすい存在である事は確かですね。ですが、弱いも強いも判断できない、生まれたばかりの赤ちゃんにも生まれながらに背負っている罪があるという原罪。アダムとイヴの子孫だからそうなのか。これは、過去生からの連綿とした絶対調和に戻す為の宇宙の真理です。1歳の赤ちゃんが、この1年間に罪を犯したという事ではないですね。過去生において、未清算の不調和が残っていたからなのでしょう。だから、この世に誕生するという事は、やり残した宿題があるという事です。太陽系以外の星から、何かの使命を持って地球に転生された魂さんも多いはずです。私の場合は、この組に入るらしいです。間もなく、その全貌が明らかにされることでしょうけど。その魂さんの使命も、その目的を遂げる事によって調和に戻ると言う仕組みでしょう。キリスト教では、輪廻転生という概念は無いようですね。私の考えは、輪廻転生無くしてはまったく前へは進めませんから、そこがキリスト教の腑に落ちない所なのでしょう。しかし、「罪」という言葉は「悪」に結びつきます。本来は、善悪は無いと、このブログでも書いています。(親鸞さんのお話の中で)5月10日の記事私流では「罪」を「不調和」と置き換えます。「罪」と言うと、否定的な言い方ですね。「罪人」「罪深き」「穢れ」・・・『人から出て来るもの、それが人をけがすのである。 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。 不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである』 (新約聖書・マルコによる福音書7章14~15節・20~23節・口語訳)これらが悪であり、罪なのだと。しかし、悔い改める事で、許されるという教えもあります。ここで言われている事は、罪を負っていると言う罪悪感よりも、罪を許すという事を教える為の原罪ではないでしょうか。これらの罪と言われるものも、全てが本人に帰ってゆくのが摂理です。物を奪われたりした人も、自らの不調和の結果でそうなって、損をしたり傷ついたりして絶対調和に戻していただける神の計らいなのですね。あえて「罪」と言う言葉で言うなら、「絶対調和の統合意識から離れた心」がそれでしょう。「これをやったら罪だ」「あれをやったらいけない」と、過度に思うことは大きな不調和をうむことになります。親鸞聖人が、比叡山に見切りをつけたのも、この辺りの本音と建前の矛盾があるようですね。本来は、100%自由がこの地球学校です。どういう選択も自由なのです。勿論、選択した事の反作用を受けるのも当り前の摂理です。「罪」と思える選択をしたとしても、それを批判する人は大きなカルマを生んでしまう。「悔い改めよ」と、他人に強要は出来ません。アダムとイヴが禁断の木の実を食べたと言う選択も、本人の自由意志であり、それによって三次元の制約の世界を作ったとされるなら、三次元の学びをする為の選択だったといえましょう。そして、もう一つの「罪」と言われているもの。「他の生命を殺さなければ生きてはいけない」ということについて。この話は、次回と致します。田代島の向うに沈む夕日。
2009.06.17
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ようこそ、お越し下さいました。今まで、親鸞さんの話が続きましたね、しつこいくらい。今日は、別の観点から統合意識の顕われを観てみようと思います。それは、人間関係の原点とも言える結婚生活についてです。私の結婚生活は、今年で40年になろうとしております。よく、もったもんだな~~と。まあ、正確に言えば、よく捨てられずに済んだと言うべきか!教会での結婚式の宣誓の言葉は、「良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い、想い、添うことを、誓いますか? 」と問われ、「誓いません。」と答える人はいませんよね。打算での結婚は別として、一生この人と生きるのだという決意をした事でしょうね。でも、2年経ち5年経ち、10年20年と時を重ねると果たしてどうでしょうか。「結婚は人生の墓場」なんて考え方もあるんですねえ、世の中は。先ず、結婚は縁でするものと考えます。恋愛結婚も見合いも、はたまた財産目的、政略結婚、全てが縁で結ばれたと言ってもいいと思います。結ばれるべくして結ばれるのです。見合いで押し付けられたとしても、自分と相手の背後の方々が流れを作り決まって行く。それは、自分の意思で結婚したように見えますが、ハイヤーセルフ、守護霊団を含めた選択なのですね。その縁は、大いなる目的があるから。過去生で、相手の魂さんとやり残した宿題を、今生で完結させたいという目的です。完結させるという事は、絶対調和に戻す事。やり残した宿題とは「愛が足りなかった」「自分の事ばかり考えていて・・・」という、“愛”の不足が殆どと言えるかもしれません。そうなんです。三次元の地球学校の学びは、大いなる存在の顕われである“愛”と“調和“の学びなのですね。衣食住が必要な肉体を持つ次元。他人の事を構ってられない状況の中での“愛”の表現。自己中心的で当り前の中での、自己を捨てると言う学び。これを表現できなかったために、再び今生で夫婦と言う役どころで学び直しの結婚生活。実は、結婚とはこういう事だったのですね。しかも、血縁がない関係です。親子とかの血縁関係だと、「勘当だ!」なんて縁を切ったように見えるけど、親子の関係が変わるわけではありません。絡まった関係も時と共にそれがほどけてきて、調和に戻りやすくもなります。夫婦とは、この血縁がない関係。婚姻届と言う紙一枚の関係。駄目なら離婚もOKですという、逃げ道までも用意されている。だから、ややこしくなるし面倒なのですね。以前に、私はこんな事を言っていました。「結婚生活を長く続けるには、お互いの人間的尊敬がないと駄目だ。」これは、相手の人間性に尊敬と敬意を持ち、「足らざるを満たし合う」関係で、人生のパートナーとして認め合いながら同じ方向を見つめて生きる事と思っていました。今も、その気持に変わりはありません。子供達が成長して独立し、あらためて周りを見つめると、カミさんしか居ませんから。だから、パートナーとの生活に新たな発見や感動、喜びと感謝に包まれた生活にならなくては、ね。では、私が思うパートナーの資質とは?それは、一緒に居て楽な人!!!どんな人だと、楽になれるの?「何故、僕が君を好きか知ってる?それは、僕の欠点を許してくれたり、失敗を笑って許してくれるから」ある本の一行でした。何をしても許してくれる人って、菩薩様のようで、そばに居てくれたら居心地がいいですよね。許すという事は、その場で清算され、後に残りません。水の流るる如く、浄化され霧散します。何時までも待っててくれる人。もちろん、待たせても怒ったり責めたりもしません。待たせるものは、時間であったり、学びであったり、気付きであったり。緊張が、まったくありません。緩みっぱなしと言うか、何でもOKなんです。許しがあるところには、笑顔と喜びが育みますね。代価を求められない許しは、代価を求められるより喜びが大きく、又何とかしてあげたくなるパワーが内包されている。自慢になってしまうようですが、私のカミさんはこういう一緒に居て楽な人なんです。すっごく、楽ちんちんなんです。だから、いつも私の先生でもあるのです。夫婦を40年も続けさせてもらえた原因は、ここに尽きますね。時たま、観音菩薩様の化身かと思ってしまう時があります。(ちょっと、誉めすぎかな)親鸞聖人も、奥方の恵信尼に対して同じように言われていますね。“愛”の不足から今生で夫婦となった私達、やっと完結したようです。こうなれたきっかけは、やはり統合意識に目を向けた事が大きいようです。何のカンの言ったって、愛の表現世界の最小単位が、夫婦であり家族です。これすら出来なくて、地球のアセンション、人類集合意識なんて言えません。何があっても“許す”という事は、大いなる存在の顕れですね。“許す“事は“愛”の基幹です。これを具現するには、避けて通れないのが統合意識。「一緒に居て楽な人」を相手に求めるのではなく、自らがそうなれば良い訳です。人により統合意識、・・・なんてどうでしょうか。何時でも何処でも、誰にでも統合意識は先ずは置いといて、家族にだけ統合意識であれば、やり易いのではないでしょうか。そして、家族の関係に完結を迎える事ができたなら、きっと殆どのものに統合意識になっている事でしょう。そうすれば、我等の目指す解脱に至ります。「観脚下」 足元を見よ!解脱の扉は、楽天ブログにも精神世界の本にもあらず、夫婦家族の中にあり!思いっきり、磯遊びをしてきました。カンゾウの群生は綺麗ですね。こんな近くに鷲?の巣がありました。
2009.06.09
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ようこそ、お越し下さいました。この「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)の「南無」は、阿弥陀仏を心から信じる、まかせる、従うという意味であると前回の記事に書きました。私のような凡夫が親鸞聖人の教えを、私流に感じた事を書いているだけです。なんせ、直感人間ですから。違う、おかしいと思われる方もいらっしゃると思います。そう思われた方は、無視するなりなさってください。ここで言う「阿弥陀仏」とは、宇宙創造の根源的な存在であると。その存在の呼び方は、民族や宗教により違っています。その、大いなる存在の阿弥陀仏を信じ任せ、従うというのが本願他力という思想ですね。自力の努力や精進を頼りにせず、大いなる存在のお力に全てを委ねるという事です。でも、こうは考えられませんか?大いなる存在の力に何を任せるかといえば、浄土に往生する事。という事は、浄土に往生したいと願うわけです。浄土とは、輪廻の輪から解脱して、アセンションする事。神の領域である5次元以上に昇天する事。この事を、心から願うわけです。そして、従うという事は、その存在の意思を尊重し望まれる通りに生きようと決意することでもある。三次元での神の働き(表現)は、“愛”であるし“調和”であります。これが、宇宙の真理であり摂理です。大いなる存在にお任せしようと決意した者は、神のこの世での表現に“美”を感じます。“愛”に美を、“調和”に究極の美を感じます。そうすれば、その者は“愛”と“調和”に生きたいと思うのが自然です。発する想念、包み込むオーラ、言葉や行動が、“愛”と“調和”に基づくものに傾向してゆくのも自然でしょう。だから、その者の一切が“愛”と“調和”の方向に流れてゆくのは当たり前の事でもあります。周りからそれを見て、その者の努力や精進の自力と見えるかもしれませんが、本人にしてみれば他力に任せた結果の流れなのですね。だから、頑張って、努力して善に生きようとしているわけではないのです。「一心」に、大いなる存在に従い、任せきれるか。「一心」とは、自我意識のない統合意識そのものです。統合意識からの表現は、創造主からの流れです。創造主からの流れ、創造主への流れ、これは、本願他力であると考えます。選民意識に見られる自我との「二心」ではありません。ここが、「南無」の正念場でもあります。“愛”と“調和”に生きる者の言葉や行動は、“いわゆる善”でありましょう。本来の所から見れば、善も悪もなく全てが絶対調和の現れです。この考えは、「じゃあ、善悪がないのでは何をやってもいいんだ。」と思ってしまう段階の霊的進化が遅れている魂さんには言えない言葉です。人を観て法(真理)を説かなくてはなりませんね。本来の所とは、元々の私たちの次元です。今の地球での三次元体験は、学びの次元ですね。大いなる存在に一切をお任せすれば、“愛”と“調和”に生きる、それは美しくも気高い姿となる。結論から言えば、地球の学びは“愛”と“調和”の顕現 につきます。今アセンションという言葉に引き寄せられているあなた、(今の段階でスイッチが入った人達)(遅い、早いという事は何ら関係はありません)そういう人達の多くは、本来は高次元にいた存在だったようです。より高次元に行くために、再び、三次元の重い波動の地球に分離を体験するために転生して来たようです。その三次元の学びを終了してしまえば、本来の所に帰るべき所に往生、解脱に至るのでしょう。-----*****-----*****-----*****-----今年の夏も、アオスジアゲハの乱舞が見られるのでしょう。
2009.06.01
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