2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全7件 (7件中 1-7件目)
1

私は、自分が口にする食材について、気遣うようになったのはそんなに古くはありません。アセンションを意識するようになって、それからかなり後だったと記憶しています。私なりの食材の選択理由は、ピュアな身体を目指す事でした。高次元からの信号を感じ易い身体作り、アストラル体の活性化、血液の清浄化、調和のとれた身体と体重、こんな事が主な目的でしたね。清浄な食材を、なるべく選んで食べたいと言う趣旨です。でも、自然食品愛好家のように、シビアな選択はありません。自分たちで栽培した野菜や、島の海で獲れた新鮮な魚貝類や海藻を主に食べさせていただいています。魚大好き人間ですから、ベジタリアンとは言えません。何故か、精神世界の人達のお決まり的存在がベジタリアンであるという事が久しく言われていたように思います。古くは、修行僧の精進料理、日本神道の「四足の獣」の穢れ、ということも言われていました。ここで考えておきたいのは、魚貝類も動物性蛋白食品では在りますが、哺乳類の肉とはまったく別物で区別しなければならないと、私は常々思っておりました。魚類の殆どは、たくさんの卵を産みます。一回の産卵に、数千から数十万もの卵を産むようです。ただの種の保存という観点からは、あまりにもその数は多いですね。これは、食物連鎖という方向から考えれば理解できます。自然の摂理が、食材として地球に存在させたという明快な根拠なのですね。野菜や果物、海藻といった食材と同じ使命を持っていたのが魚類なのです。そして、日本は島国です。古くから海と関わってきました。「三里四方に病なし」という言葉があります。自分の生活圏内の食物を食べる大切さを言っています。これは、自分の波動と共鳴する食べ物が三里四方なのですね。外国産の野菜より国産、しかも地元で採れたものがいいに決まっています。実は、魚もそうなのです。魚を食べて、母なる海の波動をも身体に取り入れられるのです。だから、霊的成長には必要な食材が、お魚チャンなのですね。そして、出来れば魚を丸のままから調理したい。子供たちにも見せて、触らせて食べさせたい。勿論、力いっぱいの感謝を込めて「いただきまーす!」でしょうね。どんな食べ物でも、天から与えられた恵みであるのですから。私の今まで避けていた食材は、哺乳類の肉類、ファーストフードやコンビニのジャンクフード、加工食品、インスタント食品・・・・・避けていた理由は、不調和の波動を持つものや、化学薬品が多く含まれていると思えるものです。私の場合、自然食愛好家のように自分の主義に反する物は、絶対に拒否するといった厳密なものは初めからありませんでした。その考えを、今は更に柔軟になってきました。お酒も、適度に飲んでおります。(さすがに、タバコは吸えませんが)ある程度、霊的覚醒が進んでくれば、逆に問題となってくるのが分離意識です。良しとするものと、駄目とするものの分離です。良くないという分離の意識が不調和を起こし、返って霊的成長が遠回りになると思うからです。又、菜食の完全主義的に至った場合、自らの主義に反した場合の罪悪感にさいなまれたり、自分の思想を理解できない人や実践できない人への軽蔑観が生まれたりもします。この分離意識は、食品の毒以上の毒となるでしょう。他人の選択は、最大限に尊重しなければならないことは、お解りですよね。ある程度、統合意識に目覚めた魂にとって、あまり食材にこだわらなくてもいいのではないかと感じるようになりました。どこかのお宅にお呼ばれで行った時、たまたま手料理の中に肉類の料理が出て来た時、「私は菜食主義だから、食べられません。」と拒否するのではなく、少しはいただいけるくらいの幅が必要に感じます。身体が、まったく受け付けないというのであれば仕方が無いですがね。そして、食材を自由に選択できる内はいいかもしれませんが、出来ない状況すらあるかもしれません。生命体としての地球が、自らのクリーニング、自浄作用により災害等が発生する可能性は多々あります。一時的か、継続かは解りませんが、食糧の流通が上手く行かなくなる事も充分考えられます。そういう時に備える意味でも、柔軟に考えられるのはいいのかなと。何を食べさせていただいても、大切なのは感謝の心です。この世に存在するという事は、天から許されているから存在できるわけです。統合意識を構築して行くには、在る事を受け入れるという事。それが、“在るがままを生きる”という事なのでしょう。分離ではなく、合一が解脱への扉です。今年は山菜類が早いです。このコゴミは例年ですと連休後半。天婦羅、おひたし、和え物に、たくさん食べさせていただきました。山菜は、地のエネルギーがいっぱいです。霊性を高める影の存在たち、ありがたい・・・」
2009.04.29
コメント(8)

覚醒の第一歩って何だろう、と考える。先ず、原点に返ってみよう。何故今、生かされているのかという事。世界中の人口の増加を見ても、ここ数十年の増加は異常な増え方をしています。何故でしょう。銀河系のいたる所から、宇宙でも稀有な惑星のアセンションに立ち会いたいと、いろいろな魂達がこの地球に集まっているとされています。チャンスあらば、肉体を持って地球に転生したいと願っている魂達が溢れていると。そう、彼らはこの時期に合わせて肉体を持つことの意味を知っているから。惑星地球のアセンションに、肉体を持って参加できる事の素晴らしさを知っているから。三次元の肉体を維持しながら、あらゆる煩悩をかいくぐり、霊的覚醒の道を選択し、解脱にいたるには大変難しい事です。それが出来た魂のみが、立つ事の出来るスタートラインです。肉体を持たない意識体では、解脱に至る道はとても遠い道程とされています。それは、あたかも1000円で1億円分の商品券がもらえる位?の(例えが、いきなり三次元的ですね)(笑)大バーゲンと言うか、チャンスなのですね。これを掴み損ねると、次は数万年以上?待たなくてはならないという。1000円で1億円分もらえるって、少しの気付きで宇宙レベルの喜びや至福が与えられるという事。言葉で言い表す事が出来ない、経験した事のない大いなる喜びと言ってもいいでしょうね。(というふうに、私は感じています)そして、我等は今生かされています。しかも、羨望の的とされる日本という国に。(民族的差別の意味ではありません)余程の縁としか、言いようがない。これ、何故か解りますか?バルドで取り決めた約束を、思い出しませんか?(バルドとは、肉体の死後の世界、転生前の準備する次元です。)今生の本人が、仮に望む望まないに関わらず、出生の競争率の異常に高い今に合わせて、稀有な機会を求めて転生してきたのは事実です。本人にその認識を忘れてしまっていたとしても、相当の決意を持って意図された事です。決意だけで解決できるというものでもありません。長い過去生からの、あらゆる準備が整った魂でなければ、スタート地点すら立てません。安易な選択であれば、この時期に転生出来よう筈がありません。その魂ですら、今の三次元の重たい波動に阻まれて、この約束を忘れてしまった魂が殆どです。天意天命を忘れてしまっています。天意とは、天の意思です。天が何を私達に望んでいられるか、感じてください。少なからず、何かの奉仕や貢献や影響という体験を通じて、過去世からの自らの決めたテーマを今世で完結させようとして転生して来たのです。我等は、地球アセンション後の世界に必要な存在です。こう思えることが、覚醒の第一歩ですね。いや、そうだとしたら一歩どころではなく相当進化しているのかな。波動はエネルギーですね。エネルギーは、他に影響を与えます。どうか、嬉しい、楽しい、幸せと言う波動を発してください。(実際に、そう思えなければそういう波動は発せられませんが)そうする事により、あなたの周りが変わります。地球の集合意識が高まります。この事が、大変意義ある貢献となります。それが、統合意識の第一歩になるのです。島では、山桜が真っ盛り。これは我家のさくらんぼの花です。採れたての椎茸は美味いっす。一昨年に菌を植え付けたホダ木です。今年も30本くらい、新たに作りました。
2009.04.23
コメント(4)

前回に引き続いて、「本願他力」を考えてみたいと思います。親鸞聖人の説いたことは、自らが修行とか努力をして浄土に行くという事はたかが知れているので、阿弥陀仏の計らいに任せきる事だと説きました。自力の努力は止めて、阿弥陀如来にすがりなさいというい事から「本願他力」が、親鸞聖人の教えの本流となりました。決して他人依存が「本願他力」の真意ではありませんね。浄土真宗では、浄土の宿主の阿弥陀如来を信じきる事ですが、宇宙創造の大いなる存在でもいいし、高次元の存在、あるいは天と言っても神と言ってもいいと思います。ここでは、大いなる存在という言い方をしましょう。生きていく上での不都合の一切を受け入れる事は、大変勇気の要る事でもあります。決してあきらめる事ではなく、自分の霊的進化に必要であったからと、積極的に受け入れる姿勢が大切ですね。ここで大切な事は、「本願他力」です。大いなる存在を信じきる事により、他力の追い風が吹いてくださります。たいして頑張ってもいないのに、状況が好転したり、思わぬ応援や救いの手が差し出されたりと。全てが、面白いように事が運びます。今の、私がこの状態です。こういうのを、五木寛之さんの著書「他力」には、「他力の風が吹いてくる。」と、楽しくなるような言葉で表現しています。判断に迷うような事があった時、大いなる存在ならどっちを選ぶだろうと思う事が、直感を研ぎ澄ます訓練になります。直感こそが、大いなる存在と直結した流れだから。直感こそが、他力の風が吹く礎なのかもしれません。曹洞宗をお開きになった道元禅師の「只管打坐(しかんたざ)」ということ。「一切を求めず、ただ無心に座りなさい。」という教え。悟りを開きたいとか、立派な人間になりたいとかの自らの計らいが無く、無心無我で座りなさいという事。この事も、親鸞さんの言われている本願他力と同じ事を言われていますね。悟りたいと言う思いはエゴに繋がります。エゴである自力を捨てて、一切を他力に任せるという事を道元さんは説いています。しかし、このエゴである「自分」を捨てる、解き放つ事が大変に難しい。“一心”に他力に、大いなる存在にこの身魂を委ねようとしても、そこに割ってくる存在が「自分」です。だから、いつも“一心”に成れずに“二心”になってしまう。この「自分」という執着が解脱の道を阻む最大の難関なのかもしれません。「自分が」という我が、全てをぶち壊す元凶です。そこで登場するのが「統合意識」です。「統合意識」の逆が「分離意識」であり「自我意識」ですね。現代社会が、正に分離の自我意識です。学校教育は、優秀さの追求です。いつも人と比較し、比較され、人の優劣を比較されます。文明社会は、エゴの追求でもあります。より高い利便性の追求は、社会の推進力でもある。頑張って競争社会の勝者になったとしても、幸福が約束されてはいない。一生懸命に高い所に登ってきたのだけれど、そこには幸せは存在してはいなかった。そんな話は、いたる所に転がっています。この肉体を持っている以上、衣食住は欠かせません。必要最低限の自我は必要でしょう。でも、それを満たせたら、エゴを開放できたならいいな。自我にも、小我と大我があるようです。小我はエゴそのもの。大我とは、真我(高次元の自分)に繋がった宇宙の叡智です。統合意識に他なりません。“一心”が“二心”になったとしても、この大我であれば、大いなる存在に繋がった意識です。だから、“二心”にはなりません。解脱に至ります。小我を捨てて、大我に生きて、一切を大いなる存在にお任せする。これが、私の考えている「本願他力」です。春は、海に山にと忙しい。美しい、木蓮ちゃん!
2009.04.18
コメント(4)
前回は、不景気や政治の問題、地球環境について、あるいは北朝鮮問題といった外部に起きている出来事について、中道の立場を保つという事を書きました。そして、「本願他力」。今までの生活の中で、他力本願という言葉は使っていましたね。自分の力よりも、他の力をアテにして何かを為すという、「ひと任せ」「他人依存」「他人の褌で相撲を取る」、一般的には怠け者を指す言葉のように使ってきました。でも、この言葉にはもう一つの大きな意味があります。日本の仏教の中にたくさんの宗派がありますが、浄土真宗を開いた 親鸞 は有名ですね。親鸞は、浄土真宗の究極の境涯であるとして「本願他力」と言っています。これはどういう事なのでしょうか。当時、中世の仏教というのは、公家や武家、あるいは一部の商人が触れる事が出来たものであって、一般の農民や町人には、雲の上的な世界でした。親鸞は、こういった一般の学問を持たない人達をも浄土に行かせたいと願い、浄土の宿主の阿弥陀如来の名号を念仏すれば、浄土に往生すると説きました。浄土とは、言わば天国であり極楽と解釈できます。生まれ変わって、再び三次元の生を繰り返す事のない、アセンションのこと、解脱のことを言っています。今日食べる事に汲々としている人達や文盲の農民達も、心から阿弥陀仏を信じ、「南無阿弥陀仏」と一心に唱えれば、苦しみばかりの生から開放されるという事で、浄土真宗は爆発的広がりを見せたのですね。そして、自らが修行してそこに近づくとかの計らいはしないで、阿弥陀仏の計らいに任せきる事だと説きました。善行をするとか正直に生きるとか、修行するとかの人間の努力はたかが知れているとしています。そんな事よりも、阿弥陀如来の計らいに勝るものはない、阿弥陀様を信じ切りなさいと・・・自力でどうにかなるレベルではないから、阿弥陀如来のお力にすがりなさいという事。自力の努力は止めて、他力にすがりなさいというい事から「本願他力」が、親鸞の教えの本流となったのですね。疫病が流行ったり、ちょっと飢饉が続けば、餓死者が続出し、戦が起これば多くの人が死ぬ。何を信じれば、希望が持てるのか、生きる事が苦であった時代、混沌とした世情であったから、益々流行ったのでしょう。親鸞の提唱した教義には、今とは世情が違っていますから、そのまま当てはまるとは言えない面が有るようです。又、何の努力も無しで阿弥陀如来を信じる事のみで解脱出来るというのは、ちょっと信じがたい所。勿論、親鸞は当時の他の宗教界からは異端視され、越後に流刑となってしまったのですが・・・まあ、親鸞や浄土真宗のことは置いといて・・・不景気や政治の問題や、地球環境について、あるいは北朝鮮問題といった外部に起きている出来事と、「本願他力」との因果関係は?問題は、外部の自分から見て醜いと見える事は、どうも心の中で否定的想念や批判的思いが沸々と込み上げてくる可能性を秘めています。北朝鮮の問題を、心地良く感じられる人は少ないと思います。「不都合の真実」のゴアさん、地球温暖化の危機を訴えながら、自分はエアコンのガンガン効いた事務所で、高級車に乗って、通常世帯の数倍も燃料費がかかるセントラルヒーティングの住まいに住んでいては、訴えている事にまったく説得力に欠けますね。私のような凡夫では、こういうのを頻繁に耳目に入ってくれば、高い波動を維持できなくなります。私の周りの人が、そういう話題を持ってきた時に私はどうしているか。「そうなの?知らなかった~~」「えへへ、、、うふふ。」「世の中、楽しいね。」そんな事を言って、お茶を濁します。存在するという事は、その事が天から許されているという事。北朝鮮の政治的問題も、天の計らいなのですね。今の不景気もそう。地球環境の問題なんか、生命体である地球がその気になれば、一夜にして何とでもなるくらいの浄化力を持っているはずです。それをやらないで、じっと人間のする事を見守っていらっしゃる。これも、天の計らいにお任せして、我等は我等のすべき事をすればよい。だから、そういう事には自らは「中道」を守り、天にお任せするというのが良いような気がします。あと数年で、地球生命体が光一つ上がるとされています。弥勒の世が開かれようとしています。五次元以上に進化した地球に相応しい人って、どんな人?少なからず、政治を批判したり、外部の出来事に一々反応してジャッジをする人では無いように思われます。そう、一切の闇的なものは存在不可だから!-----*****-----*****-----*****-----余談ですが、縁ある方が四国お遍路を終えていただいたメッセージにこんな部分がありました。「旅の途中の思い出話ですが、空海さんがお生まれになったお寺、75番善通寺に、私の好きな親鸞さんの自作の像が安置されていたのですが、これがまた、なんとなくペンション屋さんにそっくりで、思わず、笑みと涙がこぼれました。」私は、いつかは行きたい四国のお遍路。1200kmを歩きたい。親鸞像も見てみたいですね。
2009.04.14
コメント(6)

AM3:30 早朝の満月。普通は夜中なのでしょうか。私はあまり外部の出来事に疎い生き方を選択しています。テレビ、新聞は殆ど見ません。Googlニュースのテロップを確認するくらい。何故、そういう外部情報を制限する選択をしていか、整理してみると、1、否定的なニュースは聞きたくない。2、流行や世の流れに流されるのは拒否。3、三次元の常識を引きずるのは拒否。4、こう有るべきという固定観念は捨てた。5、批判的になるのは拒否。6、洗脳されるのは、勿論拒否。7、テレビっ子になっている自分を想像できない。8、世の出来事に右往左往されるのは、美しい生き方とは思えない。9、今は三次元での生活の仕上げ時、そんな時間はない。10、マスコミからの情報は、統合意識からかけ離れている。挙げればもっと有りますね。Googlニュースのテロップだけでも、社会の全体像はうっすらとではありますが確認できます。もっと知りたい事であれば、掘り下げればいい。知りたくない事まで、知る必要はないという事ですね。アセンションを意図している人間にとって、マスコミからの情報はテストと思われます。それら情報を耳にして、我々がどう思考し行動するのかの試練。ふるい落しという言い方もあるのかな。再三言っていますが、外部に何かを求めたら、ドツボに嵌まります。不景気や政治の問題や、地球環境について、あるいは北朝鮮問題。これらについて、我々がどう捉え行動するかという事。言わば、国家的レベルの不都合が起きている今、国民の立場でこれにどう対応した方が良いのかという事です。国家的不都合は、現在過去の国家レベルのカルマが噴出したという事でしょう。このカルマの清算は、先ず受け入れる事から始めなければなりません。拒否したり、文句を言っては、せっかくの天の計らいが台無しになってしまいます。テーマに書いた「外部への望みや希望」。ともすると、「外部への文句と批判」になりかねません。先ず、不景気問題。この件について、どう受け答えるかはこのブログで何度か書きました。政治問題に触れると、アセンションからは遠ざかると思われる。利害が絡むことですから、“中道”を行くことが賢明ですね。仏教で言うところの“中道”とは、右でも左でもないという姿勢の事。二極の対立するどちらにも組せず、偏らない自由な立場という事。今起こっているという事は、必要が在るから起こっているという事。不景気も、環境破壊も、北朝鮮も。それぞれが、重要な役割をになっている。この不景気も、原点に立ち返る為に必要だったのかも!?環境破壊も、母なる地球生命を思い出してもらうために!?北朝鮮の悪役に徹した姿勢は、見事過ぎる!?これらが一段落すると、又別の国家的不都合が噴出し、この事を学びきるまで続く事でしょう。何度も言いますが、これらは我々がどう捉えるかを見られています。ここで登場させたい言葉、「本願他力」(ほんがんたりき)ということ。次回へ続く我家の山採りした春蘭です。一気に咲きました。黄色い花は、珍しいそうです。今年も、タラの芽の天婦羅をたくさんいただきました。天の恵みです。
2009.04.11
コメント(0)
私たちの住んでいるこの三次元社会は、物質社会と言われています。人間として生きて行く上で、衣食住は必要です。その必要な衣食住は、全て物質。生きていくには最低限の物が必要であるという事。必要な物を得る為にはお金が必要になってくる。お金を得る為に、労働をしなくてはならない。前回の記事で紹介させていただいた本、蕨野行(わらびのこう)村田喜代子著。この物語は、働いても必要な物すら満足に得られない時代の話。印象に残った所を紹介しますと・・・60歳になると、口減らしを理由に家を出され、差ほど遠くない蕨野という所に追いやられる掟の村が舞台。追いやられたワラビ衆は食べる為には、里に降りてきて農作業の手伝いをして、その日一日だけの粗末な食べ物を得る。作業のない雨の日は、食べ物を一切口にする事が出来ない。雨が何日も続けば、勿論何も食べられない。飢饉が続けば、生まれた赤ちゃんも濡れ紙で口減らしされる。その年にワラビ衆となったのは9人。その中で一番足の弱ったお婆さん、名はトメ。初めは杖を突いて里に下りてきて農作業の手伝いをして食にありつけていた。そのうちに両足が駄目になり、里まで這って行くようになった。村の衆とワラビ衆は、一切口を聞いてもいけない掟。勿論、村の衆とワラビ衆は親子であり夫婦でもある。見ていても、何一つ出来ないでいる。足の弱ったトメは、いよいよ死を決意する。トメは、飯を断ちて我より死に逝った。先月あたりから右の足に続いて左の足も萎えた。こうなれば杖も役には立たないし、這うも叶わず。不憫に思って、里の恵みの五穀飯を8人で少しづつ分けて与えようとしたが、トメは首を横に振り手を出さず。食わぬかと聞けば、食わぬと、細い声なれど強く言い放つ。「人には別々の死に方がある。細々と食うてゆっくり死に逝くも一つの方法。したが足萎えたればゆっくりしておれぬ。おれの方は急ぎ逝く事になるよ。」と言って、その日から飲まず食わず。「5日の間飯を断ちて判明せることがある。細々と食いつなげば飢えはどこまでも止まじよ。思い切ってスッパリと断ちたればひもじさも不思議に切れて有る。」「おれの今の安らいだ心地が解るか。抜け落ちたる如く、飢えより逃れたる。思えば永い間の飢えであった。物心ついた時より背負うて来たその飢えを、ようやく今は断ちたるか。おお、よき心地なる。」いかにも、満足そうな長い息を吐いた。トメは、次の朝亡くなった。トメの亡骸は、まことに骨と皮だけになりて、からからと日に干し上げたように骨の鳴る如くなり。今の時代では考えられない、壮絶な死ですね。生まれてから60年間飢え続け、餓死の直前になって飢えから開放されたという。何かを追い続けても得る事が出来なかった何か、その何かを捨てた所に本当のそれがあった。食べるという、今では当り前になっている我々の意識を、少し原点に立ち返る意味で、寄り道させていただきました。きっと、多くの人が過去生で体験してきた事なのではないかと思われます。そうそう、物やお金の話でしたね。とかく、行動や思考の規準は、自分にとって損か徳かで判断してしまう癖がついている現代人。会社という営利団体での事は致し方ないのでしょう。でも、そこから抜け出た時に、どう思考、行動するかという事を考えてみたいと思います。いちいち、採算性に合う合わないを考えるのはやめて、せめて仕事以外では効率を考えないで生きてみたいもの。数字からは離れたい。思考よりも感性で進みたい。どう思うかよりも、どう感じるかを大切にしたい。目的地に一番近いと思われる道もいいけど、遠回りも楽しそう。何かを追い求めるのを止めた時、本当のそれがあなたに近づいてくる。私の島での生活は、都会でお金を追いかける生き方が嫌になり、過疎の離島というお金には縁がないと思われた所での生活に切り替えました。経済的生産性から離れた生活です。そしたらどうでしょう。必要な分は、きちんきちんと入って来るようになりました。全てが上手く廻るようになりました。どうです。真似してみませんか。
2009.04.08
コメント(2)
今日から、夏期シーズンの宿泊の予約を開始いたしました。早朝より電話やメールが入っていて、いよいよという感じです。土曜日とお盆の宿泊は、競争率が高いようですね。-----*****-----*****-----*****-----今年も、夏期シーズンのアルバイトさんの募集を致します。7月中旬~8月末までの期間、来て下さる方、いらっしゃらないかなー。フリーページに詳細が載っております。http://plaza.rakuten.co.jp/udoku369/3000-----*****-----*****-----*****-----最近読んだ本で、いいなーと感じた本をご紹介させていただきます。永遠という名の一瞬十和音響(文)葉祥明(絵)アマゾンのページ葉祥明さんの絵が素敵です。二人の意識体が、地球に降り立って、多くの転生を繰り返して行く物語。そして、再び光の身体になってゆくファンタジックなストーリー蕨野行村田喜代子 著 アマゾンのページ数年前に映画化されたようですね。60歳になると、口減らしの為に蕨野という野に行かなくてはならない掟の寒村。そこで死を迎えるまでの生を通して、死を受け入れてゆくワラビ衆。彼らの壮絶な死生観を観る事が出来ます。
2009.04.01
コメント(0)
全7件 (7件中 1-7件目)
1