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「丑寅の二人旅」第26弾 尾道へ、近江へ 4日目・5日目(最終日)6月1日: 朝から小雨、初日は台風の大雨、2日目は絶好の観光日和、3日目は曇天で4日目は小雨(一昨年の北海道、昨年の九州、丑寅の二人旅天候運は悪いです)近江商人の里と言う事で「近江八幡」を予定していましたが、近江商人旧宅を見学しようと、行き先を「五個荘」に変更どうやら近江商人の里は、近江八幡/五個荘/日野が三大里で、輩出している成功した近江商人の数は五個荘/日野/八幡の順みたい、更にこの3地域、ライバル意識が強く、仲が悪い(?)みたい旧近江商人宅の庭です。 近江商人の活躍期は江戸時代後期から明治・大正・昭和、終戦までくらい(あっ!近江商人の出で、興した多くの企業が今でも活躍しているので、「終戦まで」と言う表現は失礼ですね。 近江兄弟社学園と言う学校を見かけました)旧近江商人宅の内部です。五右衛門風呂 余談ですが、日本三大商人は「伊勢商人」「近江商人」「大阪商人」 らしいです。伊勢商人は、安土桃山時代頃が発祥、代表は呉服越後屋の三井(えーと、「越後屋、お主も悪よのう!!」は・・・・、関係ないですね)近江商人は、全盛期はもっと後ですが、発祥は鎌倉時代らしいです、代表は、伊藤忠、ワコール、高島屋、東レ、西武グループ等々、多いです大阪商人は、代表は鴻池江戸っ子が妬っかみで言った言葉「近江泥棒に伊勢乞食」、失礼ですよね!!近江商人、主人は京都・大阪・名古屋・東京と年中外回り、里に戻るのは盆暮れ正月くらい従い、家を守るのは、奥さん の仕事(子供を育て、若い奉公人・丁稚を仕込む)商人宅の台所・竈(かまど)(またまた余談ですが、紅葉と赤い実のナナカマドって、七竈って書くのですね) 川戸(かわと:正確には入れ川戸、堀の水路を敷地内に引き込み、野菜・食器の洗い場とした) 近江商人のシンボル「てんびん棒」これは体験用の35kg、実際は50kg程度あったようです、35kgでも肩に食い込みます。(食い込み防止パッドが必要) 近江商人のシンボル姿荷物は商品サンプル、注文と取り付けると、里に大量出荷の連絡を 近江商人は「のこぎり商法」と呼ばれ、一度遠出をすると、手持ちの商品の注文を取ると共に、新規の商品の種を持ち帰った(商品開発ですか?)とか近江商人が採用していた「大福帳」(必要な全ての勘定口座が開設されており、現在の総勘定元帳に相当し、記帳された勘定金額を基に、「貸借対照表」「損益計算書」導き、複式簿記会計を行っていた事が証明されたようです。 江戸中期・元禄時代から行われており、複式簿記は明治以降に西洋から導入されたと言う通説が覆ったとか。) 作家外村繁(とのむらしげる)の生家も旧近江商人宅兼外村繁文学館として見学用に残っています。豪商のぼんぼんで、一時期は家業を継ぎ、その後弟に任せたようです。近江商人の守り神「たぬき」(陶たぬき(?)と言うのか?、眼が刳り貫かれていて、将来を良く見据える意味合い、腹がでかいのは、何事にも動じない太っ腹を目指すとか) 近江からはそれ程遠くない石川県加賀には有名な商人「北前舟(廻船問屋)」、こちらは江戸中期・後期・明治(?)、北前舟と近江商人の接触・接点の跡は見当たりません五個荘から近江八幡に八幡堀(水運の為の運河、琵琶湖から八幡を通り再び琵琶湖の別の地点へ。 近江八幡発展に大いに貢献したらしいです)(小舟による堀巡りは、小雨なので断念) 近江八幡を後に、比叡山は延暦寺に比叡山延暦寺は東塔・西塔・横川(よかわ)の三塔から成っていて、中心は東塔の根本中堂が延暦寺の総本堂、門前町坂本からのケーブルカーも東塔に丑寅は、奥比叡ドライブウェイ・比叡山ドライブウェイを乗り継ぎ、横川・西塔・東塔の順番で廻ります比叡山延暦寺横川中堂 ご存知の通り、比叡山延暦寺は伝教大師最澄が開山錚錚たる名僧(法然/親鸞/日蓮/天海/道元/栄西)が比叡山で修行し、新しい宗派を開いた名僧も西塔の にない堂と釈迦堂 比叡山延暦寺に匹敵するのは弘法大師空海が開山した高野山金剛峯寺(こちらは新しい宗派を開いた著名な僧はいる?いない? 不案内でさだかではありません、真言宗総本山金剛峯寺1本だけ?)比叡山延暦寺東塔 総本堂根本中堂と大晦日NHK「行く年来る年」にも良く登場する延暦寺の大鐘楼 昨日と同じ雄琴の宿に泊まります6月2日: 雨です名古屋に立ち寄り、 豊川稲荷に行きたかったが都合によりキャンセル、次回に回します。 ー 第26弾 尾道へ、近江へ終了です -PS 琵琶湖名産「鮎の塩焼き」(全国の鮎の放流河川の殆んどが琵琶湖の鮎?)
2011.06.02
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「丑寅の二人旅」第26弾 尾道へ、近江へ 3日目5月31日: 尾道を後に、京都は東山に寺・神社が数多くある東山地区、平安の時代から近代まで貴族・武士の保養地だった事から別荘・山荘も点在。最初に到着したのは南禅寺修学旅行の中学生と先生、なにやら揉めてます。 南禅寺散策の前に、近くの無鄰菴へ明治の元老山県有朋の別荘、琵琶湖疎水の水を取り入れ、東山を借景とした自慢の庭です。東山地区では、東山を借景とした庭が宜しいようです。 無鄰菴から南禅寺に向かう途中に、蹴上の琵琶湖疏水記念館があります。どうやら、この辺り蹴上は琵琶湖疏水に大いに関係しているみたい(余談ですが、「疏水」「疎水」いずれの字でも宜しいようです)記念館にある疎水記念モニュメント(上で手を挙げている人、下で全体を肩で支えている人: 意味するところの表記がありましたが、忘れました) 琵琶湖疏水は大津あたりで取り入れ、この蹴上・南禅寺を通り二条・三条・四条・五条・七条を経て伏見辺りまで通したようです。(京都の地理に不案内なので、いろいろ地名を言われても、うーん、ピンときません)疎水は水源の確保ですが、水運(船による運送路)も併せ確保しました。蹴上の疎水路とインクライン(インクライン: 水路で通せない区間に線路を敷き、台車に船を載せて運びました。 疎水で発電した電気で台車を動かした様です) 現在ではインクラインは使用されていません、疎水水運は1948年の貨物が最後だったようです。南禅寺境内にある水路閣、琵琶湖疏水を通す水道橋です。(xx水道橋と言わずに、水路閣と言うのは、お寺さんのこだわりでしょうか?) この水路閣をスケッチする人々、絵画の題材としても宜しいようです。 南禅寺のデッカイ山門(三門) 、藤堂高虎が寄進したもので、歌舞伎で石川五右衛門が「絶景かな!絶景かな!」と唸る山門。 南禅寺から豊臣秀吉縁の高台寺・圓徳院途中、祇園・八坂神社・知恩院・清水寺など錚錚たる名称を横目で見ながら高台寺に到着最初は、 圓徳院秀吉の正室「北政所ねね」終焉の居、秀吉の死後77歳で亡くなるまでの19年間を過ごしました。えん徳院にある鼠?狐? 「宋胆狐」です。(裏千家の千宋胆です) 高台寺付近にある「東山路傍の触れ仏」3体(触れ仏は全部で9体?) 高台寺に向かう趣のある小道と周囲の趣を壊しているケバイ祇園閣(なんじゃ!これ?) 高台寺、えん徳院の隣、秀吉の冥福を祈る為に建立。「北政所ねね」の御遺体が肖像の下に埋葬されています。高台寺の庭と茶室、うーん、本来豪華な庭と茶室って、・・・、お寺にはそぐわないのでは???例えば福井の永平寺、質実剛健・・・、でも、庭は・・・それなりに・・・うーん!! 高台寺境内の竹林 着物姿の娘さん、モデルさん?(しきりにカメラに収まっていました)東山を後に今日の宿近江の国・雄琴に向かいます。 - 4日目に続く -
2011.06.01
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