ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン& オペラとクラシックコンサート通いのblog
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新国立劇場 14:00〜 3階正面 ナブッコ:ルチオ・ガッロ アビガイッレ:マリアンネ・コルネッティ ザッカーリア:コンスタンティン・ゴルニー イズマエーレ:樋口達哉 フェネーナ:谷口睦美 新国立劇場合唱団 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:パオロ・カリニャーニ 演出:グラハム・ヴィック 実は先週のチケットも持っていたのだけれど、気が向かなくて行きませんでした。 またしても端の方の席だったので、もう一回そういう席で聞く程のこともなかろう、と思って。 で、改めて定位置の3階正面で聞いた訳ですが、まぁ、特筆する程のことはありませんでした。ガッロはもう一つだし、強いて言えばアビガイッレのコルネッティがまぁ頑張ってたよな、という処。でも、圧倒的かと言われると、そう言う訳でもないような....ザッカーリアのゴルニーも声が保たないし。日本人組も、谷口の方は褒める声もあるようだけど、それほどという訳でもないし。 でもまぁ、破綻は、一部を除けば、させてはいなかったので、取り敢えず糾弾するような話ではないだろうな、と。 合唱は、例の3幕の合唱が、ねぇ..... 最近、新国の合唱団は、結構拍手を貰っているようだけれど、どうなんだろう... 例の合唱、ですがね。確かに声は出ている。で、最後はピアニッシッシモで頑張っているのも事実。でも、そもそもあの曲自体を、結構強めの声で押していくやり方というのは、どうなんだろう。最後を思えば、出来ない訳では無いような気もするし、であれば、指揮者の指示なのか?うーむ。 それと、やっぱり、発音はよく分からないです。問題は、発音が分からない事、ではなくて、その状態で、何を歌っているか、分かって歌えているのか?ということ、なんですけどね。 演出。 プログラムの演出家による「プロダクション・ノート」の抜粋コピーが配布用に置かれておりました。 うーむ。 そもそもですね。解説が必要な演出って、それ自体どうなんだろうと思う訳です。しかも、この演出は、正直言えば、難解な部類のものではなくて、ある程度のリテラシーというか「現代の問題意識」に関する知識があれば、割合容易に読み取れる舞台設定だと思うんですよ。 で、2度目の感想としては、正直言うと「つまらない」。 正直、初回に於いては、こちらも幕開け以前(というか既に最初から舞台は開いているのでね)から「こりゃぁいろいろあるな」と思って、知見を総動員して読み取ってやろうと構えていた訳で、だから、相当緊張感と興味を持って接した訳です。 ところが、2度目になると、ある程度解釈してしまっているので、こっちから突っ込んで行くというスタイルの興味の持ち方はしていないんですね。そうすると、舞台の面白さとか、話の読み込みのバリエーションとか、まぁそんなところで観に行く訳ですが、これが、つまらないんですね。 無論、こちらが批判的な目で見ている事は否めない。けれども、それにしても、見え方の違いとか、解釈の違いとか、そういうところに何か引っ掛かるものがあったりするのだけれど、今回はそれがなかった。 一つだけ「なるほど」と思ったのは、ザッカーリアが2幕で小さな苗木を植えようとするのだけれど、それは結局弱々しく、根付かないようで、それが最後のナブッコの導きでイズマエーレとフェネーナがより大きなしっかりした木を植える、という処に繋がっていて、その意味でこの演出はザッカーリアをむしろ否定的に捉えているのだな、というのは分かった。でも、まぁ、それだけかなぁ。 やっぱり、ペーザロの「モーゼ」との完成度の差は否めない。 何より、この演出自体からも、「解説」からも、この演出が何か言いたいことがあって、それを強く訴える、というようにはとても思えない訳です。 一方で、「解説」では"オペラの演出家ですから音符と音楽が全てです。楽譜を信じて、その中身を掘り下げるのが私の役目なのです。"と言っているのだけれど、失礼ながら、もしそうであれば、敢えて「現代のショッピングモールに於ける寓話的ドラマ」という、大きなノイズを取り入れるリスクを冒してまでして掘り下げようとしたものが何だったのか、私の読解力の低さ故かも知れないけれど、分からなかった。 さらにまた他方では、各幕の冒頭に日本語による聖書の朗読を入れたのだけれど、あれは何だったのか。それは必要だったのか?そもそも演出家はこの舞台に於いて「エホバ神なる唯一無二の一神教の神」を想定したのか「唯一神の代わりの観念になりそうな代替物としての自然」を想定したのか、どっちなのか。 私には、楽譜も、観客も、自らの演出の力も、どれも信じられなかった故の結果のように思えてしまうのですが。
2013年06月02日
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