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大田区民ホール・アプリコ 15:00〜 2階後方 ベートーヴェン:ピアノソナタ第8番「悲愴」 / 第14番「月光」 / 第26番「告別」 / 第32番 ピアノ:仲道郁代 久し振りにダブルヘッダーを組みました。なので、結局アンコールは聞かずじまいに....残念..... というか、元々昼間は予定を入れてなかったのですが、このコンサートがあるなぁ、と思って後から入れたのでした。だから席も安いとはいえあまりいい所ではなく。まぁ、しょうがない。 仲道郁代といえば、埼玉で諸井誠がプロデュースして(と言っていいのかな?)組まれたベートーヴェン全曲演奏会というのがありましたが、当時私は全く聞きに行かずじまい。まぁ、正直そこまで手が回らないというところでしたっけ。その時録音された全集は未だにセットものにはなっていないけれど、密かに狙っているのですが....とはいえ、幾つか聞いたものは確かにいい演奏。 そういえばその諸井誠がこないだ亡くなったんだよなぁ...と思いつつの演奏会。 出るなり、マイクを片手にMCを始める仲道郁代。まぁ、この人は、自分の名前が冠されているリサイタルでは、結構MCをされるので、それ自体はあまり気にしていなかったのですが、これが中々面白い。話が面白いというより、内容がちょっと突っ込んだ、ありきたりの楽曲解説ではなくて、ピアニストならでは、モチーフを弾きながらこのモチーフは...といった調子で、半ば楽曲分析のような内容。このな分析が又面白いというか、興味深いというか。「月光」のMCはとても興味深くて、不勉強ながら私はあそこで指摘されたモチーフの意味がそういうことだったとは知らずにうっかり聞いていました。(内容は勿体無いので、是非機会を見つけて同じようなコンサートに行ってみて下さいな) 演奏そのものは、まぁ普通にいい、という感じなのだけれど、そうやって聞くと、もう今までのようには聞けないし聞こえない、といった感じ。 後半の解説も面白いのだけれど、最後、op.111のソナタのMCで、やはりというべきか、諸井誠の話に言及して、諸井誠が埼玉でのプロジェクトの際に「自分があなた(=仲道郁代)に自分が研究してきた成果を託すから、是非次代に引き継いでいって欲しい」と言われた話を聞いて、ああなるほど、と思ったのではありました。 つまりは、多分、仲道郁代の解説は、きっと諸井誠の遺産でもあるのでしょうね。 実は私のこの曲の理解は、やはり諸井誠の古い入門書での極簡単な解釈、第2楽章が嘆きのアリエッタであり、諦念の境地であろう、といったものだったのだけれど、諸井誠の解釈は、恐らくは答えの返って来ない問い掛けであるのだろう、ということだそうで。なるほど。きっと今後そうやって聞いてしまいそうな自分がいるのでありました。 まぁ、正直、私の音楽の素養とかって、結構その辺に根差しているものが多くて、つまりは割と底が浅いと言えば浅いんではありますが、まぁそういうものだからしょうがないか..... 改めて、諸井誠の魂の安らかならんことを。 演奏は、思い入れがあってのこととは言わないけれど、最後のop.111が一番良かったと思います。まぁ、こうやって聞いてみても、やっぱりこの曲が一番好きかな、と思うし。 ダブルヘッダーなんぞ組んでしまったので、アンコールを聞かずに出てしまったのが心残りではあります.... (まぁ、そうまでして行った次のも良かったんで、後悔はしないけど。)
2013年09月23日
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連休最終日は、元々ゼッダ指揮の東フィルのコンサートをそれはそれは楽しみにしていたのですが、なんと土曜日にキャンセルが告知されたというではないですか! 代役はサバティーニ。ええ、別に歌う訳じゃありません、指揮するだけ。そこへやってくる台風........家から出るわけないじゃん、と尚更にやさぐれるわたくし... それでも午後には南関東は風もおさまったので、世田谷美術館へ。 世田谷美術館は、開館当時より、ポスト印象派の一つと言っていいのでしょう、アンリ・ルソーに代表される素朴派と呼ばれる、言わば職業的芸術家ではなかった人々、及び心の病を抱えた人々を極北とするような、"アウトサイダーズ"と呼ばれる人々の作品収集に力を入れてきたそうで。 今回は、そうした収蔵作品で構成された特別展。この連休から始まったのですが、やや地味な上に嵐の後の連休最終日とあって、美術館は見たこともないくらいにガラガラ。お陰でゆーっくり見ることが出来ました。ゆっくりし過ぎて、通常のコレクション展示を見る時間がなくなりました.... 私でも知ってる有名所だと、ルソー(これはまぁしかし、いつものコレクション展示でも、最低一つくらいは出てるんですけどね)、グランマ・モーゼス、山下清、ミシェル・バスキア、草間彌生(1970年代の、最近のポップな作風からはまた随分と違ったもの)、変わった所では、サー・ウィンストン・チャーチル。実は絵画が趣味で、首相を退いてからは個展も開いたそうで、なんでこんな展示会に出るかというと、「素人画家」というカテゴリーで。なかなかいい絵ですけどね、古典的で。 一方では、久永強のシベリア抑留体験を描いた連作など。これは強烈なインパクトがあります。理屈抜きで。添えられたキャプション(体験記からのもの)がまたなかなか厳しいものがあります。 正直、コレクション展なので、これといったインパクトのある目玉は無いんですが(ルソーくらい?)、異形の作品といいたくなるようなものもあり、一方では素朴派の作品などの中には精緻な、思わず見入ってしまうようなものもあり。暇があれば是非、といったところでしょうか。 ちなみに、この展示会、図録が四六版より一回り大きいかな?という程度の、図録としては小振りのもので1,200円。恐らくコレクション展だから、ということだと思うのですが、このくらいだと買う気になりますね。確かに大きい図録は絵も大きく見えていいのだけれど、なにしろ嵩張るし。個人的にはこういうのの方が好きです。
2013年09月17日
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神奈川県民ホール 14:00〜 1階後方 ジークムント:望月哲也 フンディング:山下浩司 ヴォータン:グリア・グリムズレイ ジークリンデ:橋爪ゆか ブリュンヒルデ:エヴァ・ヨハンソン フリッカ:加納悦子 神奈川フィルハーモニー管弦楽団・日本センチュリー交響楽団 指揮:沼尻竜典 演出:ジョエル・ローウェルス 神奈川県民ホールで毎年3月にオペラをやるようになって何年かになります。 びわ湖ホールとの共同開催で、今年も3月にやっていますが、この12月から神奈川県民ホールが改修に入ってしまうので前倒しで実施するそうで。 この公演、内実は二期会系だし、正直、今回は聞く気は無かったのですが、安売り席が出て来たのと、丁度予定がなかったので、出向くことに。正直、ヨハンソン聞きたさに行ったのですけどね。 相変わらず二期会系には点が辛いのではありますが、それにしても皆これでいいんだ....というのが正直なところ。 実は5年前に二期会がワルキューレをやっています。実はその時の演出家が同じくジョエル・ローウェルス。まぁ我ながら言うわ言うわ。 まぁ、今回はブリュンヒルデとヴォータンが来日組ではありますが、土曜日は日本人組だったそうで。そちらは聞いていないのでなんともですが。 で、歌唱陣は、率直に言って、ヴォータンの一人勝ち。 そもそも、音楽的に言って、歌手もオケも、伸びがないのですね。 神奈川県民ホールは、確かに今時としては大きい方だし横に広いから厳しいと言えば厳しいけれど、それは「残響があまり使えない」というだけで、素性としてはそれほど悪いホールではない。むしろお化粧が無い分地力が見えてしまう。 一方、ワーグナーは概ねそうだけれど、ちゃっちゃっと歌えばどうにかなるというものではなくて、少なくとも実演に於いては、一定の箱の中で観る上では、どうしても要求される水準が厳しくなる。音楽的に、というより、物理的に「満たす」ということが要求される。フォルティッシモでガツンと音を出せばいいというものではなく、フォルテのまま持続し続けつつ、要所でアクセントを付ける、とか、まぁ、上手く言えませんが、そういう感じでしょうか。よく「うねるような」という言い方をしますが、あれって多分こういうことなんじゃないかと。 ポイントは「持続すること」。よく「うねるような」云々というのに対して「それは好みじゃない」とか言われる方がいらっしゃいますが(私もある意味そうだけど)、本当は「うねること」ではなくて「持続すること」だと思うんですね。もっと端的に言えば、パイプオルガンをずーっと弾き継いで行くようなものではないかなと。思えば、パイプオルガンは、オーセンティックな西欧楽器の中で唯一直接的には人力に頼らずに音を出す楽器ですが(パイプオルガンを「弾く」行為は、実のところどういう音を出すかという「情報のインプット」行為に近いと思います)、あれと同じことをやれと言っているのが実はワーグナーなんではないかなと思うんですけどね。 まぁ、正直、無茶な要求だと思いますよ。でも、決してフォルティッシモの連続で無いにせよ、そういうのを求めているのがワーグナー、特に指環なんではないかなと。 で、そういう歌い方がまぁ出来ていたかな、というのが、ヴォータンのグリムズレイ。一本調子だ、なんて話も一部で目にしましたが、ありゃぁそもそも一本調子なもんであって(オルガンを聞き続けると飽きてくるようなもんです)、むしろきちんと表現を入れながら歌い切っておりました。 一方、目当てのヨハンソンは調子が今ひとつ。2幕は声が前に出て来ない感じだし、3幕でも決して調子いいとは言えない感じだったかと。ただ、「ワーグナーの歌い方」をしようというのは感じられました。 日本人では、まぁまぁ頑張ったと言えるのはジークリンデの橋爪ゆかくらいかと。ただ、この人の場合でも、どちらかと言えばフォルティッシモで聞かせる類いの歌ではあるのだけど、ただ、まぁ、それが最後まで一応保ったのは立派と言えば立派。一方、ジークムントの望月哲也は、フォルティッシモではあるけれど、伸びがない。持続しない。だから場内にも満ちない。これがサントリーホールや新国立劇場だったら、というのは本末転倒で、そもそもあちらが「お化粧ホール」。それでも、例えばこれがタンホイザーやローエングリンあたりなら、これでもいけるかも知れないけれど、やはり指環の場合は「持続する音楽」「持続する声」というものがどうしても..... 同じ理由により、他の日本人も特筆すべきレベルに無し。まぁ、後はそういうことが出来なくてもいいや、という役柄だし。とはいえ、ワルキューレの非力さはどうにもこうにも.... 「声が出る」というのは「歌える」ということではないし、「歌える」というのは「役を歌い切れる」ということではない。そういうことでしょうか。その意味では、5年前の二期会と比べても進歩無し。要求レベルは下がって来てるのかも知れませんが... オーケストラは、ねぇ。そもそも音が出てない。合わないのは、まぁ混成部隊、それもそう言っちゃ失礼だけれどニ線級の混成部隊だから多くは要求しないけれど、とても「持続する音楽」とはいきませんでした。 指環には、多分、休符って無いんですよ。だから、個々の奏者には休みはあっても、音楽としては幕が降りるまで途切れることはない。そういう音楽をやっているという感じではなかったなぁ。 沼尻竜典はそのへんどう思って振っていたのか。この人も、そう悪い指揮者という感じではなかったし、若手だし、と思っていたのだけれど、こういうのを聞くにつけ、確かにオケのレベルの問題はあるんだけれど、最近こういう公演が多いしなぁ、この人.... 演出。 根本的な問題が多過ぎます。グランドプランとしても、手法としても、オペラの演出というものに対する考え方にしても。 「ワルキューレ」というオペラは、4部作の一部です。である以上、そもそもこれだけを取り出して上演すること自体に問題があります。やるな、と言っているのではなくて、これ自体を単独のオペラであるという前提でやるのか、連作の一部であるとするか、どう処理するのか、という問題です。まぁ、正直、そういう問題がある以上、基本的にこれだけやるのは避けた方が無難なんですけどね。普通、大抵のオペラハウスでは、4部作でやるか、そうでなくてもシーズンの中で、或いは複数シーズン跨がってでも繋がっている前提で上演します。二期会ですら、三十年くらい掛けて最終的には通した、基本的に演出コンセプトは引き継いでいるという前提です。 じゃぁこのシリーズで連作でやるのか?というと、どうもそうでもないらしい。少なくとも次は「オテロ」だそうで。ということは、多分この「ワルキューレ」は単発公演。演出はそれを前提にして、では、どう捉えるか?実は、ここがはっきりしない。 というより、「指環」という一連のオペラとして構想しない限り、色々な問題が起きてくるのですね。最大の問題は、ヴォータンの苦悩が宙に浮いてしまうこと。 「指環」という物語は、平たく言えば、「世界を支配する為に計略を用いたが為に逆に窮地に陥った神々が滅び、世界が再生される話」ってなところでしょう。但し、あくまで神々視点ですが。アルベリッヒ視点で言えば「世界を支配する為に正当な手段で入手した力を奪取され、それを奪回せんとするものの阻まれる話」にでもなるのか。この視点の差異は、神々をある意味で相対善とし、アルベリッヒを絶対悪とするかどうか、に因ります。 この流れで言えば、「ワルキューレ」とは、神々に救済を齎すため、ヴォータンが策を巡らすものの、それが阻まれつつ、一縷の希望を遺す、という話です。「ワルキューレ」に於いてヴォータンは、自らの身を斬るが如き決断を二度も迫られます。一度は、己が希望を託しつつフリッカの求めにより救世主・ジークムントを見殺しにすること、もう一つは、その決断に背いたブリュンヒルデに罰として勘当し、神々の世界から追放すること。実はこの二つは全く逆の意味を持ちます。前者は救済の断念であるのに対し、後者は救済を託す事になるのです。ブリュンヒルデを「勘当する」ことは、「神の意志に依らない自由な者」を生み出すことでもあります。 「ワルキューレ」を単独で上演するということは、この「ヴォータンの物語」という根幹に拠るのか拠らないのか、という課題を生みます。問題は、この演出がその点が曖昧である事。プログラムによれば、演出家はこの物語を「家族の物語」と捉えたようなのですが、であるならば、何故ブリュンヒルデは最後炎に囲まれて眠る事になるのか?それは何の意味があるのか? この演出でのグランドプラン上の問題点は、この、物語の構成としての詰めの甘さです。家族の物語だと言って家族のイメージを出し、フリッカにあれやこれやの役を振るならば、では、ジークムントとは、ジークリンデとは何なのか?最後、ジークムントはヴォータン一家が沈鬱に居合わせる中に現れますが、では、ジークリンデは?そもそもエルダの子であるワルキューレやヴェルズング族とフリッカは相容れないのでは? 残念ながら、この家族のイメージは、「ワルキューレ」の物語を再構築するまでには到らなかったと思います。 個別の手法としても少なからず問題が。 舞台設定は、非常に分かりやすく言うと「北斗の拳」(笑)いや別に北斗神拳が駆使される訳ではないんですが、何故か現代風の衣装がやさぐれて、世界はやや廃墟と化しているという。一言で言うと「陳腐」。で、それを救う設定上の工夫も何も無い。なんとなくこうしてみました、という感じ。まぁ、確かに「指環」にオーセンティックな演出は無いと言えば無いんだけれど、既存のイメージに安直に繋がってしまうようなものは、だからこそ尚更避けるべきだと思うのですが。 更に問題なのは、演出家曰く「映画を参考にした」手法。どういうことかというと、頻繁に幕が使われて、場面転換がこまめに行われたり、「回想シーン」が挿入されたりする。これが非常に煩わしい。 そもそもこの人は映像作品と古典としての舞台作品との差異がよく分かっていないのではないだろうか。多くのオペラがそうなのだけれど、古典的な舞台作品というのは、舞台上で進行する時間や空間に連続性があるのですね、これは現実の時間との同一性を意味してはいないけれど、ある一幕、或いは一場の中では時間や空間に連続性がある。つまり、突然場面転換したりしない。特に場の転換をあまり要求していない上に、音楽という現実の時間の経過とリンクしたものが主たる構成要素になっているオペラの場合、この時間や空間の連続性というものは強く意識されることになる。 一方、現代の映像作品では、この時間や空間の連続性というものに拘らない。むしろ、原理的に切り貼りすることが容易な映像作品の場合は、この不連続性を活かす事が当たり前になっている。TVシリーズの「24」なんかは、それを巧みに逆用している訳ですね。つまり、現実の時間とドラマ内の時間をリンクさせる事により、ある種の臨場感を出している。その一方では空間に関しては自由な訳ですが。 幕を開け閉てするということは、劇場空間に於いては、物理的に観客の意識を「切る」事になります。切り替え時に「言いたい事」を字幕で一言で出す訳ですが、これはサイレント映画時代の手法に近い。これは、オペラに於いてはかなり親和性が無い。しかも、これを時に頻繁に、時に30分以上も出ずっぱり(いや普通なんだけど)でと、アンバランスにやるものだから、幕の開け閉てにより観客の意識はやはりぶつ切りにされる。 何より、何を基準にして開け閉てするかが観る側には曖昧なので、非常に落ち着かない。 ま、ヴォータンが良かったからいいんだけど...
2013年09月16日
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新国立劇場 15:00〜 4階右手 ヴィオレッタ:マリエッラ・デヴィーア アルフレード:村上敏明 ジェルモン:堀内康雄 フローラ:鳥木弥生 ガストン:所谷直生 ドゥフォール:三浦克次 ドビニー:柿沼伸美 グランヴィル:久保田真澄 アンニーナ:家田紀子 藤原歌劇団合唱部 スターダンサーズ・バレエ団 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:園田隆一郎 演出:岩田達宗 久々の藤原歌劇団のスター豪華一点主義公演です。しかも「椿姫」。 藤原の椿姫と言えば、オーチャードで続いた「ニューイヤー椿姫」を思い出します。あの頃から比べると、藤原も随分と苦しくなっているとは思いますが、今回はその「ニューイヤー椿姫」でも歌ったことのあるマリエッラ・デヴィーアが主役。 思わず、「大丈夫?」と思ってしまうところではありますが、結論から言えばそれは杞憂というもの。というか困ったことにデヴィーア一人旅というかなんというか.... お歳ははっきり分かりませんが(Wikipediaあたりによれば、もうとっくに還暦過ぎておられます。グルベローヴァと大差無いお歳。)、さすがにもう色々厳しい感じではあります。聞いていると、何処をどう処理して、どういう風にまとめていくか、というのを練って来ているな、というのを感じます。それと、これは必ずしも加齢のせいばかりではないと思いますが、歌のフレーズのそれぞれで、声の立ち上がりがロースターター気味。いきなり高音で速いパッセージをカーンと入れて行くタイプではない。その為、オケは相当に気を使っています。非常に細かくテンポを調整して、上手く合わせに行っている。 その結果、歌として非常によくまとまっていて、しかも破綻がまるでない。例えば、1幕の「花から花へ」。もし録音があって、後から聞き返してみれば、フレーズ毎にテンポを調整しているのがよく分かると思います。"dee volare" のくだりは、Sempre libera...以下のパッセージから一転してのリタルダント。とはいえ、これが耳障りかと言われるとそうではなく、ギリギリ「なるほど」と思わせる範囲。この辺は、相当事前に練ったのだろうと思います。その意味では、オーケストラも指揮者も、よくやっていたと思います。 確かに声としては衰えてはいるのは分かるのですが、それによって歌唱に瑕を感じさせるということがないのは流石。このへんに於いては、ある意味グルベローヴァの上をすら行くかも知れません。まぁ、個人的には、多少瑕があろうとも、敢えてソプラノ莫迦、コロラトューラ莫迦を貫くが如きグルベローヴァの果敢さをこそ是とするのではありますが、とはいえデヴィーアも大したもの。 元々全3幕をそれぞれに高いレベルで表現するのは至難と言われるヴィオレッタですが、「色々厳しい」面を除けば、今時このレベルでヴィオレッタを歌い切れる人はそうはいないのではないかと。特に2幕2場の重唱での入り、その繊細さと美しさには思わず涙しそうになりました。 問題は、「それにひきかえ」とまでは言いませんが、その他歌唱陣。 特に合唱。これは..... 先の2幕2場の重唱での合唱の処理は、デヴィーアを掃き溜めに鶴状態にしてしまったというか.... 確かに、そのように歌って、それはそれで間違いではない。ないけれど、この場合、デヴィーアの繊細な歌に対して、少々がさつな(雑とまでは言わないけれど)歌ではないでしょうか?本来、この辺は指揮者の指導に期待したい所ではあるのだけれど、恐らく指揮者はデヴィーア対応でそこまではコントロールし切れなかったのではないのかな、と勝手に推測しているのではありますが... アルフレード。調子も決して良くはなかったろうとは思いますが、まぁ、正直......ま、アルフレードだから、いいか。 ジェルモン。まぁ....確かに、声は出るんですけどね、それなりに存在感がある歌唱ではあったけれど...... なんというか、「椿姫」というオペラは、確かに所謂アンサンブル重視のオペラでは無いのではありますが、だからといってアンサンブル、というかバランスを軽視していいというものでもないし。まぁ、そこまで酷い訳では無いのですが、デヴィーアの歌が思いの外、という以上に良かったので、却って残念感が増してしまったというか。 演出は、これは多分初めて観るものですが、何処かで見たような気がする既視感を覚える感じで、つまりはそれほど目新しいものがある訳ではない。といって、それが悪いという訳でもないけれど。まぁ、可も不可もない(可も無く不可も無く、とはちょっと違うのよね...)といった感じで。 多分、年齢的にも、もうデヴィーアを聞く機会は無さそうです。今回はリサイタルもあるそうですが、平日だし、そこまで聞く程の思い入れも無いかな、と。ただ、それはそれとして、いい歌を聞かせて貰ったな、という感じでした。 そう、というより、こういうヴィオレッタはもう中々聞けないかな、という感じでした。なんというか、デヴィーアのヴィオレッタは、全体的にややオールドファッションなスタイルなのですね。別にそんなに頻繁にかつあちこちで椿姫を観ているという訳でもないのですが、歌手の出来不出来とは別に、今はもっと、やや大袈裟に言うなら、サクサクと歌い継いで行く、オーケストラもサクサクと進めて行く、というのが割と一般的なやり方ではないかと思うのですね。 もう少しシステマティックな言い方をするなら、全体としてのまとまり、音楽としてのまとまりを重視する、ということなのかな、と。決してまとまりやバランスを重視しちゃいけない、ということではないんですけどね。ただ、あんまりまとめることに重きを置き過ぎると、例えばデヴィーアの歌唱では、同じアリアの中でもテンポの揺らぎが行き過ぎる、と感じることになりかねない。そこを歌よりもまとまりを、というように妥協し過ぎると、全体のダイナミズムが失われることもあり得る。 でも、たとえば、ネトレプコがヴィオレッタを歌うのに、こういう歌い方をするか、というと、たとえ将来衰えが出始めても、あまりそういう歌い方はしないんじゃないかな、という気がするのですね。実は既にしてグルベローヴァあたりはそういう意味でデヴィーアとはちょっと違うタイプだと思うので、それがスタイルの違いということでもあるのだけれど、こういうデヴィーアみたいな人はもうあまり出て来ないんじゃないかな、という気がするのではあります。まぁ、断定は出来ないんですけども。
2013年09月08日
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すみだトリフォニーホール 14:00〜 3階正面 R.シュトラウス:ツァラトゥストラは斯く語りき ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」第1幕 ジークムント:ヴィル・ハルトマン ジークリンデ:ミヒャエラ・カウネ フンディング:リアン・リ 新日本フィルハーモニー交響楽団 指揮:インゴ・メッツマッハー 新シーズンの始まりです。個人的には、夏の旅行から帰って以来、初のコンサート。そして、アルミンクのいない新日の初シーズン。(そして多分崩壊の始まり....) と、いきなりネガティヴな感じで始めておりますが、まぁ実際そうだろうなと思うので。 メッツマッハーは1月に聞いて、非常にがっかりした訳です。コンダクター・イン・レジデンツだかなんだか知らないけど、この時サントリーとトリフォニーで聞いて、なぁんだ、という訳で。 今回は、またしてもR.シュトラウス。懲りないねぇ... 前回とメッツマッハーの指揮下で若干変わったとすれば、アプローチでしょうか。無闇矢鱈と音を出すのではなく、ある程度コントロールされた音楽。何故か管はよくとちってましたが、弦に関しては、力み返ることなく、ある程度響きを保った演奏だったのが奏効したか、この曲としてはまだしも聞ける内容ではありました。 まぁ、でも、所詮R.シュトラウスだけどね.... この人、好きなのかね?<R.シュトラウス で、さらりと後半に行く訳ですが.... 今回の配役の内ヴェルズング一族の兄妹は、11月にジュネーヴでメッツマッハーの指揮でワルキューレに出るのだとか。つまり......?まぁ、いいですけどね。本公演に出る歌手を引っ張ってくれた、という解釈も出来るし。問題は今日の出来映えなんだし。 そう、それが問題で... 正直、なんともつまらないなぁ、という感を抱いてしまったのではあります。 こういう言い方が当たっているかどうか、なんですが、喩えて言えば、箱庭みたいなワルキューレ、なんですね。 演奏が良くない、ということかと言えば、必ずしもそうではない。よくまとまっている。そう、よくまとまっているんです。ただ、まとめる為にどういう方向に行ったか、というのが問題な訳で。 たとえば。プログラム添付のオケの配置一覧(「ブログ等での二次使用を禁じます」って書いてあるけど、画像を出す訳じゃないからいいよね、と解釈...)によると、弦五部は16-16-12-12-8という編成。これは決して小さくはないけれど、これだと、やはり相対的に低弦は弱くなります。今日の新日の低弦の出来が悪かった、という訳ではない。ただ、例えば導入部での低弦の蠢くが如く迫るような響きが効いていたかと言われると、さてどうだったか? よくまとまった演奏ではありました。ただ、ワルキューレは、特にその第一幕は、やはり非常に尖った「オペラ」ではある訳です。それは粗筋にしてもそうだし、音楽にしてもそうです。音楽的に言えば、トリスタンやパルジファルの方が先鋭的とは言えるかも知れないけれど、それがより洗練されたものであるとすれば、「指環」はもっと猥雑で暴虐的な要素を内包したものだと思うし、その中でもワルキューレ、その第一幕は、言わば物語の奔流の水源だと思うのですね。 ワーグナーのオペラの中で、ワルキューレの第一幕だけが、完全な形で、独立して、演奏会の演目として取り上げられるのは、決して歌手が3人しか出て来ないからというだけではないのです。 言い換えれば、わざわざ「ワルキューレの第一幕」を演奏会で取り上げる以上、それなりの演奏にして欲しい訳なのですが..... よくまとまってはいます。でも、別に、よくまとまった演奏を聞きたい訳ではないと思うのですね、こういう曲では。とっちらかって破綻した演奏がいい、とは言いません。でも、わざわざこういう曲を持ってきて、じゃぁ何がやりたいのか?の答えが、正直「何をやりたいのかよく分からない」というのは、どうなんだろう。 最後に例によって「ぶらぼおおお」が飛んでましたが、何がいいと思ったんだろう? 歌手は、ジークムントがとにかく弱かった。トリフォニーでこれ?と思うような声。繊細と言えば言えなくもないし、他の音楽でならいい声と言えるかも知れないけれど、むしろ破綻してもいいから、という気はしなくはないのです。破綻したらしたで文句は言うんだろうけどさ。でも1時間以上も狭い席に座って聞いているのは、こういうものを聞く為ではないつもりなんだけれども。 そのかわり、丁寧な演奏であるのは事実。メッツマッハーとしては、前回の1月の時に比べれば、自分の中ではネガティヴな評価は後退してはいます。でも、こういうものを聞きたい訳ではないのですよ...多分...それとも、こういうワーグナーの方がいいのかしら?みんな。
2013年09月07日
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いつもは、海外で聞いたり観たりしたものはここには書かないんですが、今回は先日の新国のナブッコの件があったので。まぁ、もう2週間以上前の話なので、どっかで誰かが書いていそうですけれども。 このところ毎年通っているペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル。丁度お盆の時期に絡むので、都合がいいのです。で、今年も行った訳です。 ここでのオペラ公演は、ペーザロの街中にある(まぁ実際は駅近くなので、むしろ中心からは外れた趣ではあるのですが)Teatro Rossiniでの公演の他に、郊外のAdriatic Arenaという、まぁいわゆる大型多目的施設、ここでの公演とがあるのですが、今回グラハム・ヴィックが演出したのは、ここで上演される「ウィリアム・テル」。 実は序曲が物凄く有名な割に、舞台公演そのものはそれほど頻繁には行われないオペラであります。というのも、長い。全4幕、今回は18時に始めて、終演は23時過ぎ。まぁ、終演23時というのは大して珍しくもないのですが、20分休憩2回か3回というのを入れても上演時間は4時間以上。そりゃワーグナーに比べれば、という話はありますが、あれはワーグナーが長過ぎるのでありまして。それに、ワーグナーに比べればまだしも退屈しないのではありますが、しかし、それにしても、やっぱり長い。加えて、テノール役に後半なかなか厳しい高音付のアリアがあって、そう簡単に歌手が揃うというものでもない。そんな訳で、決して上演機会は多くない。 という訳で、そんなに観る機会も無い(確か私は初めてだったんじゃないかと思うのだけれど...)貴重な公演で、あのヴィックは何をやらかしたか? というのは、この間の新国のナブッコに限らず、この人は基本的に「問題」演出が多い。このペーザロでも、一昨年「エジプトのモーゼ」で問題演出をやらかしました。その話は「ナブッコ」の時にも少し触れましたが、どうだったかというと... ・舞台は古代エジプトではなく、現代のパレスチナを思わせる中東 ・迫害される側ユダヤ、という構図は変わらないが、迫害する側はエジプト ではなく現代のアラブ指導層。よって、実際に伝えられるパレスチナとは 逆の状況。既に開幕前から場内には行方不明の人捜しの張り紙が至る所に 貼られていて、迫害の様を思わせる ・迫害するアラブにユダヤは自爆テロ(実行する場面は無いけれど)で対抗 ・最後、紅海が割れる場面では、客席側から登場するアラブ側の特殊部隊 (観客に銃を向けて制圧しながら登場。ここで "Basta!" (もう沢山だ!) と叫んで席を立つお客も)をイスラエルの戦車が圧倒、舞台を破壊。 この戦車の乗員が、生き残ったアラブの子供に手を差し伸べるが、子供は 実はユダヤが使っていた自爆テロ用の爆弾を巻いていて...というところで 暗転、幕。 てな調子でした。まぁなんとなく感じは分かって頂けるかと。 大変な舞台ではありましたが、内容的にはまぁ一つの方法としては分からなくもないな、といったところです。現代演出としてはむしろ良く出来ていると言っていいと思います。 何故かと言うに、この舞台は、「言いたいこと」が、まぁ明確ではないにせよ、分かるのですね。別に「ああすべきだ」とかいうことを声高に叫んでいる訳では無い。でも、この舞台に接した人は、つまりはこれが現在のパレスチナのアナロジーであるのを即座に理解し、それが皮肉として効いているということ、そしてそれが未だ解決されざる問題であることに否応無しに向き合わざるを得なくなるのですね。ただ、解決策を提示している訳では無い。 そこをどう評価するか、意見は色々だとは思います。でも、この公演が行われていたのは丁度2年前、「アラブの春」の直後、まだリビア問題が騒がれていた頃です。その意味で十分現代性はあったし、それを突き付けてみせる振る舞いに意味はあったと思います。ただ単に話題性ということだけでなく、オペラという「メディア」がまだ有効であるという意味で。その点では、所謂現代演出としての意味はあったろうと思います。 で、今回の「ウィリアム・テル」。これはどうだったか? 結論から言うと、至って読み替えの少ない、「物語に忠実」な演出であったと思います。まぁ実際観ているととてもそうとは感じられないのだろうけれど。 「ウィリアム・テル」とは、抑圧的な支配者であるオーストリアに対しスイスの人々が独立に立ち上がる話です。14世紀初めのお話。ウィリアム・テルとはそのシンボル的な存在で、ちなみに実在したかは不明と言われているらしいですが、スイス人の多くは実在の人物であると信じているとか。 で、ヴィックは、この舞台を、ざっくりいえば近代に置き換えました。実は、それだけ。まぁ、作り物の馬が出て来たり、それが後で首を切られて出て来てたりとか、色々舞台的に気になることはあるけれど、その程度。そして、支配する側の振る舞いをよりステレオタイプ的に、暴力的に書き換えた。第一幕でテノール役アルノールの父は舞台上でオーストリア兵に嬲られ、縛り首にされる。オーストリア兵は粗暴で横暴。第三幕の祭りの場はオーストリア人のパーティーに置き換えられ、その振る舞いは極めていやらしく、現地人の踊り(これが抑圧を嘆いてみせる類いの振付)を粗野なものだと嘲笑い、ちょっかいを出し、挙げ句には現地人の1人(男性)にパーティーの客の1人(男性)がわいせつな行為を強要する始末。この場は、遂に少なからぬお客からブーイングが。まぁ、気持ちは分かります。 でも、何故お客はブーイングしたのか?実は、その点に私は引っ掛かりを感じますし、その点で、この演出はある程度成功していると言っていいのではないかと思うのです。 この舞台が近代を(或いは現代を)強く思わせるのは、例えばキャストの衣装が近代、もうちょっというと19世紀から20世紀にかけてのそれであったり、映画が多用されている(オーストリア軍は盛んに記録の為か映画を撮っているし、アルノールが父を憶い嘆く場面ではかつて子供の頃に撮られた自分と父の映像を見ている)事によるのですが、舞台自体も、例えば幕には白地に赤の中央に突き上げられた拳が見えるといった構図で、独立を志す人々は赤い旗を振るといった具合で、どうしても19世紀から20世紀の社会主義運動が想起されるといった点にもあります。 が、実は、こういう見立てで見て行くと、なんとなく我々が忘れていることが見えてきます。つまり、この場合、「スイスはオーストリアの植民地」であり、あのオーストリア人の振る舞いは、相手を対等な人間として見ない、という点で、植民地主義なのだ、ということ。 なんとなく、我々は、欧州域内での支配されたり支配したりというのは、欧州外での植民地支配とは違う、という感覚を持っているように思います。が、実のところ、ウィリアム・テルとは、正にそういう話なのですね。 であれば、ああいう振る舞いが有り得たのでは、という想定も出来る。そう、あの第三幕で提示されたのは、ステレオタイプではあるけれど、蔑視と暴力によって維持される植民地支配の姿であり、それに抵抗する物語なのだ、と。 であればこそ、あのブーイングは何を意味していたのか、ということにもなります。 ああいう暴力的なものを見たくない、という意味なのか、そこまで酷いことはしてないだろう、ということなのか、はたまたああした行為に対する否定の意味なのか... ただ、あれを見て、これは植民地支配批判なのだ、という実感を持って観た人はどれだけいたのか、決して少なくは無いとは思うんですけれども。 ウィリアム・テルをなんとなく牧歌的な話のように感じている人もいるとは思うのですが、よく考えれば、確かにこういう話ではあるのですよね。と同時に、この図柄は、殆どの欧州の主要国であれば何処かで通ってきた過去でもある。植民地なんてありません、という風のイタリアでさえ、ファシスト政権時代にエチオピアに進出した過去があります。オーストリアは一次大戦後はともかく、欧州内では支配する/される関係を多く持っていたし、ドイツとしてみれば尚のことでしょう。イギリス、フランスは言わずもがな、アメリカだって自分は独立しておいてフィリピンなんかはいいようにしていた訳で。そういう日本だって、朝鮮、中国を支配していた事はある訳で。みんな脛に傷持つ身ではある。 なるほど、確かに、ウィリアム・テルってそういう話だな、と思わされたのではありました。 その意味では、まぁ、この演出、外してはいないとは思います。 ただ、それだけって言えばそれだけなんですけどね.... こうやって見ると、やっぱりあの「ナブッコ」はなんだったんだろう、という気にはなりますね。
2013年09月01日
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