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オーチャードホール 15:00〜 3階正面 ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガイーヌ」より ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 <独奏アンコール> イグデスマン:ファンク・ザ・ストリング ハチャトゥリアン:交響曲第2番 ホ短調 「鐘」 ヴァイオリン:木嶋真優 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:出口大地 二日続けてのオーチャードホールです。オケの定期演奏会続き。指揮者はどちらも若手。ふむ。 正直言うと、土曜日のN響が結構がっかりで、こちらはどうしようか朝まで迷ってました。なにしろ指揮者は経験浅いし、プログラムもハチャトゥリアンばっかりだし。殆ど知らないから面白いかも知れないけれど、まぁ、暑い中文化村まで歩くのも面倒だし......正直、もうちょっと暑かったら行くのやめてましたかね。それと、先月の定期演奏会はプレトニョフだったので行かず仕舞い。5月以来だし、まぁ、行っておこうか、といったところ。なので、なんの期待もなく、出掛けて来たのでした。 指揮者は、ハチャトゥリアンコンクールで優勝。それでこのハチャトゥリアンプロというわけなのでしょう。クーセヴィツキーコンクールでも勝ってるそうですが......正直、どちらも知らない.......法学部出て音大行って、今はまだベルリンの修士課程だそうで。若手も若手、昨日のN響以上に「これからの人」。 結論から言うと、面白かったです。予想外を越して、かなり充実した演奏。 まず、オケが非常に良く整ってました。前日のN響より遥かによく整ってました。いや、普通なんですよ。普通にきちっとしている。やれあれが音を外しただのなんだのではなくて、どういう音楽をやりたいのでこういう音を出そうとしています、という見通しが効いていて、しかも概ね外していない。N響は、そういうものがないというより、オケがそういうものを考えて音を出してない感じ。この日の東フィルは、そういう点でとても充実していたと思います。同じ時期に、新国で大野和士の指揮でペレアスをやってる訳ですが、少なくとも初日はオケはいい音を出していたのは確かなので、そういう意味では充実した演奏を出来ている時期だったのやも。 一曲目は皆様ご存知「剣の舞」のガイーヌから5曲。勿論剣の舞も入ってます。まぁ、そうだよね、きっとこういう音楽だよね、という感じの、国民楽派的なロマンチシズムとエキゾチシズムを聞かせる曲、ですかね。なんとなくハチャトゥリアンってこういう感じだよね、という先入観を裏付けるような。ある意味期待通りの音楽。 からの、2曲目は木嶋真優を迎えてのヴァイオリン協奏曲。これがなかなか立派な大曲。確かに、オイストラフが弾いた結構いい曲、という話は聞いたことはあるのだけれど、正直、聞いた覚えはありません。録音でも、そこまで追い掛けてはいないし。ヴァイオリン好きの人には知られた曲なのかも知れませんが、私そんなにヴァイオリンラブじゃないし。 これがいい演奏でした。独奏も勿論いいのだけれど、結構鳴らし甲斐のある曲で、これを前述の通りどういう音楽をやろうとしているか見通しの効いた演奏で鳴らすので、気持ちがいい。勿論エキゾチシズムとロマンチシズム、というのは健在なのだけれども、あくまでヴァイオリンの協奏曲としてまずはヴァイオリンを聞かせるように書かれているので、派手は派手だし、同じような感じの筈なのに、「ガイーヌ」とは違った傾向の音楽で、それを上手く聞かせてくれる。楽しかったです。あれぇ?ハチャトゥリアンってこうなの?意外とちゃんとしてるのかね、といったような。 独奏アンコールは、何処かで効いたことある気がするんだけれど......ロックの編曲のような曲でした。多分聞いたことはあったとしても、認知してない感じですね。面白かったですよ。 後半は交響曲第2番。「鐘」という副題は鐘が大活躍するので、みたいなことらしいですが、まぁそれほどでもないかなと。勿論これも聞いたことない曲。 そうですね。マーラーやショスタコーヴィチに似た傾向の交響曲というか、要するに、はっちゃけてる感じですね。ハチャトゥリアンとしては珍しく悲痛な曲調の作品なんだそうで、戦時ということで、なのだそうですが、しかし、それ言ったら今日の3曲皆1940年代前半の戦時下の作品なんですけれども.... 確かに、そうはいっても、第3楽章はDies iraeの主題も引用されているような、全体的にはやはり色々突っ込んだ感じですね。ただ、マーラーほど玩具箱ひっくり返したような感じではなく、ショスタコーヴィチほどシニカルでもない、というところなのか。それを言えば凡庸ということになりかねないのではあるけれど、聞き映えはする曲。あの二人を思えばまとまりも悪くはないし。まぁ、そういう曲を飽きずに聞かせるようなちゃんとした演奏をするオケと指揮者の勝利ではないかなと。 ハチャトゥリアンは多分5年分は聞いたかな、という気はします。当分もういいや、と。演奏が悪いからではなくて、それなりにいい演奏で、ちゃんと聞いたから、面白かったけれど、そもそもそう何度も聞きたくなる曲ではないかなと。演奏会としては楽しめる、いい演奏でした。まだかなり若い指揮者だと思うので、次は「それ以外」も聞いてみたいですね。出来ればモーツァルトとか、ハイドンとか。
2022年07月19日
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新国立劇場中劇場 14:00〜 2階正面 メノッティ:領事 ピアノ:岩渕慶子、星和代 指揮:星出豊 演出:久恒秀典 新国のオペラ研修所の試演会は、果たしてプロの公演なのか、アマチュアの公演なのか?ちょっと悩ましいです。上手い下手の話ではありません。プロの演奏として扱うべきなのかどうなのか。たとえば音大の公演だと、まぁ、歌ってるのもオケも学生だし、分かりやすいのですけれどもね。一方で、プロのつもりでやってるけれど、どうみてもお前らヘッタクソなアマチュアだろ、という団体もあるし。この辺のボーダーラインは難しい。当人の心得と見てる側からの評価 - プロと呼ぶに値するかどうか - によるでしょうか。 で、新国のオペラ研修所。プロって言やぁプロなんですかね。ただ、まぁ、言い始めるとキリがないし、あえて演者の名前は出さずにおきます。決して悪いわけではないんですけれどもね。 メノッティの「領事」。演奏頻度から言えばかなりマイナーな曲ではあるでしょうが、というかメノッティ自体あまり聞かれていない気はします。20世紀にイタリアで生まれ、2007年に亡くなったアメリカ人、基本的にはオペラ作家ですが、多くの作品が英語で書かれている上に、少なからぬ作品がテレビ用だったりしたこともあってか、あまり取り上げられることは多くないのでしょう。欧州の演目では見かけた覚えがありません。まぁ、そんなに一生懸命チェックしている訳でもないけれども。 この「領事」は戦後の作品で、英語のもの。しかし、決して内容的にも音楽的にも、少なくとも今から見て決して前衛的というものではなく、現代的でありながら十分楽しめるもの。楽しめる?いや、かなり観ているのが辛い話ではあるのですが。あらすじとかは、そういうの説明してるサイトでも観て下さい。調べればわかるでしょう。まぁ、私はうろ覚えで行ったのですが、よく知らないで観る方が楽しいかもですね。ちなみに初演の1950年に、ピュリッツァー音楽賞を取ってるそうで。 全体的に出来は良かったと思います。というか、これを研修所の試演会に持ってくるところがいい根性してるよな、という。普通に考えれば、そこそこ歌が映えるものを持って来る方が、いろんな意味で良さそうじゃないですか。ボエームとかね。確かにこの研修所の試演会、いろんなものを出すのでして、以前観たのではブリテンの「アルバート・ヘリング」とかやってるんですけれどね。しかし、この演目は、あまりにもタイムリーになってしまったこともあって、ある意味異様な存在感を持った公演になってしまったのかも知れません。 まず誉めるべきは、しかし、演出。要するに政治亡命する話なのですが、そういう現代的な、しかし、年代的には前世紀的な話を、その当時としての同時代的な舞台に持って来流、ある意味オーセンティックな舞台。しかし、元の作品の力がまだ衰えていないので、シンプルに提示すればそれだけで十分インパクトがある。その交通整理がきちんと出来ている。その上での見せ方が大変良かった。強いて文句を言おうとするならば.......無いですね。敢えて言えば幕切前、マグダのいわば錯乱した状態での場面の処理は、もう一工夫出来たかもしれない.....とか、くらいですかね。よく出来てます。 率直に言って、同じ日に千秋楽の本公演の「ペレアスとメリザンド」、あれよりも舞台としての完成度は高いと思います。演出的にはもう圧勝。そりゃ「ペレアス」と一緒にするなよ、あっちは本公演だし、というのはありますけれども。でも、演出の完成度、出演者の劇としての作品に対する姿勢、そういった面ではこちらの方が全然締まっていたと思います。 そう、出演者諸氏は、まぁ、確かに、研修生ですものね、というものではありました。けれども、歌うべきところはきちんと歌い、芝居するべきところでは芝居をし、という意味では、きちんと舞台を自分のものに出来ていたと思います。発声も、英語なのでこちらもかなり分かってしまうのだけれども、よく出来てます。歌としては決して扱い慣れてはいない言語だとは思うのですが、よく出来ていました。きちんと練られているから、分不相応な事はせず、丁寧にきちんとやっている。そのレベルが良かったと思います。出来の良い公演を聞いたな、という感じ。 なにより、この公演、面白かった。それが一番ですね。このオペラ自体、いろんな要素を包含していて、重い、救いの無い内容でありながら、時には喜劇的でもあり、と同時に、不条理劇でもあるし、見ようによっては宗教的でもある。その何処かに振り切るのではなく、抑制的に演出することで可能性を沢山感じさせてくれた公演でもありました。 勿体無いのはお客の入り。2階でしたが、2階は2, 3割くらいしか入っていなかったのでは。1階は前の方は居ましたけれども、後ろの方は、あれも全然居なかったのでは。残念というより勿体無かったですね。別キャストで18日もあるので、是非。
2022年07月18日
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オーチャードホール 15:30〜 3階正面 プーランク:バレエ組曲「牝鹿」 フルート・ソナタ (管弦楽伴奏版 L.バークリー編) フォーレ(L.オーベール編):幻想曲 op.79 ラヴェル:組曲「マ・メール・ロワ」 ボレロ フルート:エマニュエル・パユ NHK交響楽団 指揮:沖澤のどか いつの間にかすっかり暑くなった一方で、コロナもまた増えてきて、その上世の中騒々しいこともあるけれど、それはそれとして演奏会は続くのではあります。この週末は土日共にオーチャードホールなのですが.... まずはN響。 フランス革命記念日が近いということで、オール・フランス・プログラム。 指揮の沖澤のどかはブザンソンで優勝した人。前にどこかで聞いたっけな。どうだろう。まぁ、若い人ですしね、これからだと思いますけれども。 前半はプーランク。牝鹿、前に何かで聞いた覚えはあるけれど、まぁ..... 勝手なことを言うと、プーランクって、当たり外れがある人のようなきがします。まぁ、多分、私に合う合わないというだけのことだろうとは思いますが。洒脱かと思えばとんでもない深い淵を覗かせるようなこともあり。個人的にはプーランクというと「カルメル派修道女の対話」だったりするのですけれどもね。この曲は、まぁ、洒脱で罪のない、というとちょっとアレですかね。まぁ、そんな感じ。演奏はそういう軽やかなものではありました。 続いては、エマニュエル・パユをフルート独奏に迎えての、フルート・ソナタの管弦楽伴奏版。 いや、あの、ですね。エマニュエル・パユ、久々に見たんですけれども..........いや、あの、勿論人のこた言えないんですよ、言えないんですけれども........なんか、こう、ものすごくおっさん化してないかい?多分今50くらいじゃないかと思うんですけれどもね。プログラムの写真からどのくらい経ってるのか、なんというか、酒焼けみたいな感じといい、いやどうしちゃったの、というような。演奏は、まぁ、悪くなかったと思いますけれども、正直いうと、頭入ってこなかったというか、それどころじゃないというか..... 続いてのフォーレの幻想曲は、予めプログラムされたアンコールといったところでしょう。なのでアンコールはなし。 後半はラヴェル。「マ・メール・ロワ」は、まぁ、こんなもの、といったところでしょう。普通に整った演奏。まぁ、この辺まではいいんです。問題はボレロ。正直言うと、今日のプログラム、ボレロくらいしかこれといった楽しみがないというか......プーランクは、まぁ、こういうものだよね、という音楽だし、ラヴェルも「マ・メール・ロワ」は、悪くないけれど、それがどうしたというところがなくもない。いや、この辺の曲って、どちらも、曲がそう悪いわけではないけれど、だからどうしたの、といったところではあるんですよね、個人的には。 ラヴェルに関して言えば、「ボレロ」や「ラ・ヴァルス」あたりはある種の狂気漂う感じが出て来ると面白いのだけれども、「マ・メール・ロワ」はそこまでではないかなと。「クープランの墓」は、まぁ、悪くないけれど、あれはやっぱりピアノ曲として聞く方が面白い.... で、ボレロ。なんですが。正直言うと、どうしちゃったの、という感じの演奏。 まぁ、当たり前のことで、この曲当然名手揃いであれば有利なので、N響はそういうの得意そうなのですが、実際やってみると、これがかなりヘロヘロ。金管とかは滑ってるし、そもそも小太鼓がどうにもつんのめってる感じなんですよね。というか、そもそも全体にバラけて聞こえる感じで。なんというのか、各々やってます、というのは分かるけれど、このそれほど長くもなくむしろ単純な曲なのに、一つの曲として演奏してる感じじゃないんですよね。一体感が無いんですよね。でも、これでは狂気は漂って来ない。 なんだか、久し振りに、「公務員の音」を聞いた気がします。昔々、よく、N響を評してそう言ってた頃があるんですよ。上手いのかも知れないけれど、なんとも音楽としてつまらない演奏をする、というような、ね。 指揮者が経験不足?そうかも知れないですね。でも、いちいち指揮者に指導されなきゃこんなことも出来ないって話なら、一体どこの田舎オケだよ、って話なんですけれどもね。まぁ、言えば、東京のオケなんて辺境の田舎オケにすぎないのではありますが。まぁ、指揮者に責任がなかったとは言わないけれど、むしろそれ以上に個々の演奏者の問題ではないかなと。 正直、N響でこういうことになるとは最近は思ってなかったので、結構ガッカリかなぁと。ま、いいけどね。
2022年07月13日
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新国立劇場 14:00〜 3階右手 ドビュッシー:ペレアスとメリザンド ペレアス:ベルナール・リヒター メリザンド:カレン・ヴルシュ ゴロー:ロラン・ナウリ アルケル:妻屋秀和 ジュヌヴィエーヴ:浜田理恵 イニョルド:九嶋香奈枝 医師/羊飼い:河野鉄平 新国立劇場合唱団 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:大野和士 演出:ケイティ・ミッチェル 7月入ったばかりだというのに、いやそもそも既に6月の内に梅雨は明けてとんでもなく暑くなってしまい、東京は今日時点で既に8日連続猛暑日だとか、いやはや。オペラ観てる場合じゃないだろうと思いつつ。 ペレアスとメリザンド。どうなんでしょう。知名度は割と高いけれど、その割に観る機会は多くないような気がします。ドイツ語圏やイタリア語圏ではそれほど取り上げられない気もしますし。自分も、確か、新国で中劇場でやったことがあったんじゃないかと思うのですが、それと、チューリッヒで一度観たきりだと思います。そのチューリッヒの公演はDVDでも出ましたが、チューリッヒ流の現代風演出。 まぁ、そもそもこのオペラは、舞台設定の具体性というものが薄い類のものです。その意味では、魔笛だとかニーベルングの指環だとかに近しいところがあります。もっと言ってしまえば「オーセンティックな演出」というものが、まぁ、はっきりしない。その分、現代演出だの現代風演出だのトンデモ演出だのと親和性が高い、というものではあります。 客の入りは、総じて言えば7割くらいなのでしょうか。しかし、珍しく客席側が結構見えるところに座っていたのだけれども、1、2、3階の後ろの方はかなり空席がある状態。合唱がバンダ的に入ったのか、あれはスピーカーだったのか、いずれにせよ空席もそこそこあって、この日が初日なのだけれど、あまり入りは良くなかったようで。ちょっと驚きではあります。こういうの、皆あまり観たいと思わないのかしらん。 で、どうだったか? あ、一応初日の後だし書いときますが、ネタバレとか基本気にしないので、勝手に書きます。避けたい方は避けて下さい。言うこた言ったからね。 その前に一言。最後、幕が降りるや否や拍手を始めてしまうという、おおよそ魂というものがまるで分かってないお客が結構いたようで。なんか盛んに拍手している人もいたけれど、正直、少なからぬ人はよく分からないままに拍手してたんじゃないですかね。あれは。あんまりお客のデリカシーがないのでさっさと出て来てしまったけれど、演出はどう評価されたのやら。 まず、その演出から行くと、平たく言うと「火サス」。火曜サスペンス劇場ですね。「古城殺人事件 あるモンド王国の鬱蒼とした森に囲まれた古城を舞台に繰り広げられる愛憎劇!」デデデッデデッ デーデー!! まぁ、そんな感じです。下世話過ぎるって?でも実際相当下世話な演出なのですよ。あのですね、火サスになるのは、確かに舞台が現代風だから火サスなのだけれど、やってることはどう舞台を持ってきても下世話。ちょっと直接書くのは憚られるのでぼかして書くと、DVからの強制交接はあるわ、ペレアスとメリザンドは具体的に貫通してるところをゴローに殺されるわ、それがまた極めて具体的に、描写なんてものではなく、実演される。 いや、確かに、これを、オペラの舞台の上でやるのはそれなりにセンセーショナルかも知れないですよ?でも、これ、正直言うと、火サスですよ。そういう意味で、ズレてると思います。 もう一つズレてるのは、この演出が実は「夢オチ」であるということ。私、基本的にプログラムの演出ノートとかは観る前は読まないようにしているのですが、幕切を見ていて「え?まさか夢オチ?」と思ったのだけれど、実際そう書いてありました。 .....まぁ、ねぇ。この人、UKの演出家で結構ブイブイ言わせてる人らしく、ロイヤル・シェイクスピア・シアターだのでやって来てて、OBEとかも貰ってるらしいですけれども......... 私別に専門家でもないし、ちゃんと研究したわけじゃなし、偉そうなこと言えたもんじゃないのではありますが、それを承知で言わせてもらうと、これって現代欧州の病だと思うんですよね。多分、凄く色々考えて捻りに捻りを効かせて、現代に於いてこうした古典的作品を実のある表現として成立させる為にはどうすればいいか、って考えて出したんだと思うんですよ。この演出、エクサンプロヴァンス音楽祭とポーランド国立歌劇場との共同制作らしいし。でも、ねぇ。捻りを効かせて、結果、348度くらい捻ってるんですよ、きっと。それ、逆側に12度捻っただけだから。オペラの古典作品の上演としてはとってもセンセーショナルかも知れないけれど、それ、火サスでしかも夢オチだから。それを少なくとも日本の一般社会ではただ下世話なだけと言うのですよ。 ただ、この演出が考え過ぎて放り投げてしまったと言うようなものではないのは確かです。その意味ではきちんと考え抜かれたものになってはいる。無駄にセンセーショナルなだけだったり、なんでそうなるの?という舞台設定だったりはするし、これがいいのかと言われるとくどいようだが「火サス」。その意味で全然感銘は無い。メーテルランクの詩劇を基にした叙情劇をわざわざ見たままにすることにどれほどの意義があるものやら、というのが本音。ただ、その意味で、荒唐無稽ではあるけれど、物語の枠内には収まってはいる。その解釈は所詮夢オチの火サスでしかないけれども、物語の筋は一応通る。落とし前は付いているのですね。まぁ、それだからこそ残念でもあるのだけれども。 このオペラは御伽噺のような叙情劇です。それを具体的に情景を具現化することに注力してしまうことがどれほどの意味があるのか、個人的には不毛としか思えないのだけれども、その路線としては一応完成はしているのだろうとは思います。ただ....そうですねぇ。メリザンドが死ぬことにどんな意味があるのかしらね、たとえば。劇として、ではないですよ。劇としてはまぁ筋は通ります。でも、これを観て、だからどうしたの?と思ってしまうのだけれどもね。単に姦夫姦婦を重ねて切っただけだろ?という。そうじゃない?じゃぁ、なんだというのかね?それでもこうやらざるを得ないのが今の欧州の病なのだとは思います。 まぁ、私、デリカシー無いと言われるので、所詮この行間に語られてる繊細な表現は読み取れていないということなのかも知れませんが。多分無いと思うけどね、そんなの。むしろそういうものがあってしまってはいけないんですよ、多分。その意味ではきっと一貫性はあるのです。 演奏。 一言で言うと、デリカシーのない演奏だったと思います。 先にオケの話をすると、オケはデリカシーのない、ある意味いい演奏をしていたと思います。 今日の席は決していい席ではなかったので、舞台もあまり見えないし、音楽的なバランスも決して良くなかったと思うけれど、その上で言わせてもらうと、今日の演奏からはいろんなものが聞こえて来ました。特にオケ。デリカシーがない、というのは、なんとなくそれっぽい感じに整えるような演奏ではなかった、と言ってもいいのか。今日の「ペレアスとメリザンド」からはいろんなものが聞こえて来ました。3つ挙げると、一つはドビュッシーの管弦楽。「海」とか、そうしたものに通ずる音楽、もう一つは、ワーグナーの影。ドビュッシーがワーグナーのようなものではない歌劇を書こうとしていたという話はあって、それ故か、或いはそれにも関わらず、確かにワーグナーの影が見え隠れする。そして、もう一つは、先駆者としてのドビュッシー。具体的には新ウィーン楽派、ベルクの「ヴォツェック」を彷彿とさせる音楽。ドビュッシーに一番近そうなのはむしろウェーベルンかとは思うのですが、しかし、この火サスのような舞台に合う、ある意味デリカシーのない、あからさまな演奏は、ヴォツェックのそれとそう遠くないものだったと思うのです。 .......一応褒めてるんですけれどね。確かにこれはそれっぽいドビュッシーの音楽とはちょっと違う。ドビュッシーの管弦楽というとすぐ出てくるのは「海」とかで、あれは確かに具体性はあっても意味的にはあくまで情景描写というべきで、それがメーテルランクの戯曲とはいえ抽象性というか象徴性の高い作品ですらここまで生々しくなるものなのか、というのを再発見させてくれただけでも、この公演は面白かった。 そういう意味では、ボコボコに言ってますけれども、演出だって舞台上演を成立させる手段としては失敗ではないのです。無駄に、しかも手垢の付いた方向に悪趣味だというだけでね。.....こっちはやっぱり褒めてないな。うん。 歌唱陣。まぁ、一言で言えば、別にどうということはありませんでした。 正直フランス語は分からないので、発音がどうとかは言えませんし。声でいうと、まぁ、ペレアスとかそこそこ大きな声は出ていたし、メリザンドだって頑張って歌ってはいたけれど、歌えてるけどだからといって感銘を受けるものではなかったかな。そう言ってはなんですが、演出がそうで、オケもそうだから、というのはあるのですが、にしても皆デリカシーが足りない。メーテルランクの象徴主義的なリブレットは、曖昧なところを多く残しているもので、それ故に多義的に積み上げていくという方向でなんなら幾らでも可能性はあるのだけれども、今回の舞台は演出がそれをあからさまにするというやり方で、多義性をどんどん潰し込んでいった、オケもそれに呼応したやり方で進めていった、それに合わせて歌唱もくっきりはっきりさせていく方向に行った、ということなのかなと。 ここまでくると、偏に演出が悪い、では済まないんですよね。答えを提示して見せたのは一つの解ではあるけれど、それは言って仕舞えば凡庸な結論である。その凡庸な結論の中で振り切ってみせたのがオケだとすれば、そこで止まってしまったのが歌唱陣、でしょうかね。こういう時は、声がでかけりゃいいってもんじゃないんですよ。その意味で、やっぱり、「魂というものがわかってない」のですかね。皆。 最後の場面はメリザンドの死。その前がペレアスとメリザンドの逢引。その前に、イニョルドが夕刻羊飼いが羊を小屋以外の何処かへ連れて行こうとしているのを見ている小景があります。この場面は、羊達は小屋以外の何処かへ、恐らくは屠殺場へ向かわされているのだとか、色々言われていますが、まぁ、曖昧ではあるけれど何某かのカタストロフを予感させる情景。 今回、その場面は、王家の城、というのは実質的に平凡な準上流階級 - ある程度成功した資産家くらいですかね - の家を彷彿とさせるのだけれど、その家の使われなくなった荒廃した屋内プール場という趣の場所で演じられて、しかし、そこには意識があるのはイニョルドだけで、あとはゴローやペレアスやメリザンドが夢遊病者のように入ってきて、彼らが「羊」であることが示唆されている。 それは論理的ではあります。このひどく象徴的な場面を具象化したものではある。ただ、それは、結局、多義的な他の可能性を殺すことで出来上がっているのですね。それは、演出家の欲望としては理解可能だけれども、結局は凡庸な方向に行ってしまっているのではないかと。無論その凡庸さと引き換えにこの舞台を成立させることに成功したのだ、とは言えるのでしょうけれど、その結果が夢オチの火サスというのではなぁ。 オケがいいですからね。なんならもう一回聞きに行くのもいいかも知れないけれど、わざわざ有難がって観に行くほどの舞台ではなく、歌でもない、ってところかな。
2022年07月03日
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