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結局体調不良で2度目のボリス・ゴドゥノフは行きませんでした。まぁそもそもあれだけ酷評しておいて行く気になるものか、と言えば、確かに生理的にも論理的にも社会的にも気持ち悪い演出なので、行かないのは普通ではあるんですが。ただまぁ、こういう演目なので、行けるものは行っておきたかったのですけれどもね。とはいえ、珍しいから、というだけでもないと言えばないのも事実なのではありまして。前回触れなかった音楽面の話を少し。 まず、言ってしまうと、こちらはなにしろ録音で聞いてる回数が圧倒的に多い作品ですので、どうしても歌唱陣についてはそういう記憶に引っ張られるところはあります。それを承知で申すならば、まぁ、特段特筆するほどの歌い手はいなかったと思います。とはいえ、そもそも外題役が圧倒的にメインですからね。グリゴリーやピーメンが多少いいからって、だからなんなの?という話にはなるので。まぁ、言い出したら、ボリス・クリストフだのと比べてどうなの、みたいな話になりますからね。そこまで言わずとも、まぁ、これじゃダメだろ、みたいなレベルではなく、そういう意味では遜色はなかったのではありますが。他は、まぁ、そういうわけで、ワァワァ言うほどの役ではなく、ワァワァ言うほどの出来でも、どちら向きにも、なく、というような。ボリスの子フョードルの黙役(歌手は他に当てている)にして聖愚者役が熱演だと評価されていましたが、歌唱的にはともかく(悪くはない)、この演出でそこ誉めて意味あんのか?とは思います。 そういう意味で、総合的には、悪くなかったのだと思いますよ。発音とかは流石にこちらもこの辺はよくわからないし。 先にオケの話をすると、オケは新国では珍しい、うっかりすると初ではないかというくらいの、東京都交響楽団。.....正直、私、このオケあんまり好きじゃないんですけれどもね。いつも「なんか足りない」ってなるんですけれども。足りなくて致命的なのか、足りなくて悪くないけど物足りないなのか、その辺はまぁいろいろあるにせよ。その辺はまぁ指揮者でどうにかなるものではないなと。この日は大野和士でしたが、総評的に言うと、多分「まぁこんなもの」だったのかと思います。まとまりはそれなりにあったと言っていいと思います。 実のところ、はっきり言って「物足りない」というのが本音です。そもそも民衆劇の側面もあるこのオペラ、ダイナミズム、デュナミークというほど繊細な話でもなかろうとは思いますが、単なる音量に止まらない振れ幅が、如何にも薄い。 ただ、これは少し全体で考えなければいけない気はしていて、つまり、散々言っている様なこの演出が、敢えて「民衆劇的なダイナミズム」というものを無視して矮小化する方向で作られているのだとするならば、必然的に、音楽もダイナミズムを持つ方向には行かないわけです。そういう意味で、敢えてポジティヴな言い方をするならば、よりリリックな方向に音楽を持って行くという考え方はあるわけで、そういうアプローチとして考えると、こうなるというのはあり得るとは思います。 ただ、それがいいのか、というのは別の問題で。 前回も書きましたが、民衆の合唱の場は如何にも薄っぺらくなってしまっていて、この辺は合唱の責任でもありますが、やはりそれは「ボリス・ゴドゥノフ」ではなかろうよ、とは思うんですよね。そう、合唱に関して言えば、人数の問題でもあるのだけれども、如何にも圧が足りなかった。でも、こういうオペラでは、声量がどうとかだけではなくて、やはり人数を重ねてでも「圧」が欲しいと思うんです。ただ、こういう演出でアプローチするなら、敢えて「圧」を減らす選択はあるし、そういうことなのかも知れない、 ただ、それなら、もう「ボリス・ゴドゥノフ」なんてやるなよ、とは思うんですよね。 「そういう演奏」として聞く分には、それなりに評価出来るという面はあったと思います。その意味で、聞いといて損は無いな、と思ってはいましたが、ね。ただ、率直に言って、だから高い評価、というものではなかったと思います。
2022年11月27日
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新国立劇場 14:00〜 4階左手 ボリス・ゴドゥノフ:ギド・イェンティウス グリゴリー:工藤和馬 ピーメン:ゴデルジ・ジャネリーゼ 新国立劇場合唱団 TOKYO FM少年合唱団 東京都交響楽団 指揮:大野和士 演出:マリウシュ・トレリンスキ ドラマトゥルク:マルチン・チェコ まぁねぇ、最初に言ってしまいますが、今回はほぼ悪口しか書きません。随分な言い方しますが、どうも、そのくらい言っておかないとダメな気がするので。但し、なんというか、怒ってる訳ではないです。こういう公演がどういうものであるか、きちんと位置付けておかないとまずそうな気がするので。 max、一応ネタバレということにはなるので、ちょっと空けときます。 <追記:一部加筆します。尻切れトンボの段落とか、何言ってるかきちんと示してなかったりとか、流石にわからないものね。夜中書くのはダメだなぁ、やっぱり。> さて。 ボリス・ゴドゥノフは、実は好きなオペラです。というか、ムソルグスキー自体が好きだと言えば好きで、その中でもボリス・ゴドゥノフは外せない大作だろうと思うので、昔から聞いてます。 で、今回のプログラムを見ると、日本での上演は本当に少ないのですね。日本では現実問題として歌える歌手が揃わない。来日系が殆どで、直近では2010年にウクライナ国立歌劇場がやってきて上演したのが最後らしいです。多分それ観てるな....と思って調べたら、ありました。自分の記憶でも、その時の記述でも分かるのですが、多分私はこの時を入れてこのオペラは3回は観てます。一回がこれで、もう一回、その前に何処かで聞いていて、その前、1994年のことらしいですが、ウィーン国立歌劇場の引越公演。指揮はアバド。正直言うと、この時の記憶が一番鮮烈です。 そう、もう10年以上も日本でボリス・ゴドゥノフって上演されていないんですね。そういう意味では、このオペラ、決定版と言える映像もあまりないので、実は結構日本人には縁遠い作品になっているのではないかと。実は、さっきちょっと調べたのですが、プーシキンの原作戯曲も手に入らないようなのですよ。岩波文庫で出ていて、昔一度復刻されたので買って読んだのですが、そういう意味では、そもそもボリス・ゴドゥノフという話どころか、これがどういう人かもさっぱり分からんという人が大多数だったりするのでしょうか。 で。私はこの演出、全否定です。何故か?グダグダ書きますけれども。 そもそもを言うと、この「ボリス・ゴドゥノフ」というオペラも、プーシキンの戯曲も、かなり史実に忠実だと言っていいと思います。先帝が後継者を遺さないままに亡くなり、その結果、民衆、というよりは貴族列侯に推される形で帝位に就いたボリスが、しかし、非常に厳しい社会情勢の中統治が上手くいかないままに人心を失う。そこに先帝の遺児を称する僭称者ドミトリーが外国勢力、即ちポーランド=リトアニアの支援を受けて叛旗を翻し、結果その対応に追われるままにボリスは亡くなり、その子フョードルは即位するものの結局僭称者が制圧して帝位を襲う、というのは実はほぼ通説通りのようです。この辺の経緯は、wikipediaで「ボリス・ゴドゥノフ」とか「大動乱時代」とか検索すると出て来るので、一読をお勧めします。wikipediaですが、まぁそう外れていないと思います。 この大動乱時代、ボリスの先帝のフョードル一世の亡くなった1598年以後、ロマノフ朝の始まる1613年までの15年なのですが、ボリスの死後も情勢は落ち着かず。僭称者ドミトリーは即位後1年持たずに殺され、その後はオペラでも出て来る大貴族シュイスキーが帝位に就いたり、同じドミトリーを名乗る僭称者がまた出てきたりとか、そこに関わるのがポーランド=リトアニアやスエーデンが介入してきて、まぁ大混乱を極めた挙句に、ロマノフ朝が成立するという。そういう時代背景の中に、ムソルグスキーの、プーシキンの「ボリス・ゴドゥノフ」はあります。 史劇としての「ボリス・ゴドゥノフ」は、そうした歴史にかなり忠実に描かれています。ムソルグスキー自身は二つの版を遺していますが、その他にお節介のリムスキー=コルサコフ版、その他色々手を入れられて上演されるものだから、何がオリジナルか分からなくなってる面はなくもなく、それ故結構色々改変されるのですが、ムソルグスキーの第一版から第二版で加えられたのはポーランドの場。修道僧グリゴリーが出奔してポーランドに向かい、そこで貴族らの支持を得て僭称者ドミトリーが蜂起するわけです。そこではドミトリーことグリゴリーのみならず、ポーランド=リトアニア貴族達も野心溢れる姿で描かれている訳で、その意味ではまぁ同じ穴の狢、なんですよね。当時のポーランドは、今もですが、カソリック教国で、ロシアは勿論正教会。そうした宗教的対立が背景にあっての権力争いでもある。 では、そうした政治群像劇が「ボリス・ゴドゥノフ」の主題なのか?そうではないと思います。 プーシキンの戯曲の方は、オペラと違って最後の場面はボリスの死でもなければ群衆がドミトリーを歓迎する姿でもない。戯曲の最後は、ボリス亡き後のゴドゥノフ家の邸。ドミトリー勢が押し寄せてきて邸に押し入り、遺児、即ち帝位に就いたフョードルと姉は弑虐される。集まっている群衆に向かい「皇帝ドミトリー万歳!」を叫ぶように促すのに、最後はこのようなト書きで終わります。即ち(群衆、黙したまま)。 オペラの方はといえば、大きくは群衆が出て来るのは、第1幕の即位の前に即位を懇願する場面と戴冠式の場、最終幕の群衆、そして、版によっては略されますが、第3幕に相当する、飢饉と疫病に苦しむ民衆が助けを求める合唱。この合唱が実はこの「ボリス・ゴドゥノフ」のクライマックスとも言えると思います。この合唱こそいわば苦しむ民衆の声。ちゃんとした合唱団なら一番力を入れてくるところです。もう一つは、聖愚者。この聖愚者という存在、白痴などと呼称されたりもしますが、昔読んだところでは、ロシア社会に於いて権力者たる聖職者に相対する民衆の中の宗教的な存在のような位置付けだそうで。そういう存在がボリスに相対する存在として対置され、かつ、ロシアの苦難を嘆く歌を歌う。 「ボリス・ゴドゥノフ」とは、そういう戯曲であり、オペラであるのです。 で、今回の演出ではどうしたか? 曰く、「為政者暴君説」なのだそうです。それでどういうことになるかというと、皇帝たるボリス・ゴドゥノフの描かれ方は、それほど変わったものでもありません。衣装やなにかは現代風ですが、だからどうというものでもない。今時普通。これははっきり言っておきます。現代風だから問題なのではありません。そんなことどうでもよろしい。 改変してしまっているのは、まず、ボリスの後継者たる幼きフョードルを肉体的にハンデのある障碍者に仕立てていること。そうすることで、どうしたか。まず、聖愚者とフョードルを同一化してしまった。その上で、ボリスと聖愚者役のフョードルを対峙させてしまい、最後には、ボリスの死の筈の場面で、ボリスにフョードルを殺させるのです。最後の場面では、だから、聖愚者は登場しません。声だけ。 これ、意味も無いけれど、本来の聖愚者とボリスのやり取りの緊張感を完全に削いでしまっています。 この場面、つまり第3幕にあたる聖愚者とボリスのやり取りの場面を簡単に説明すると、聖堂前の広場で聖愚者を子供達がからかって、聖愚者から小銭を取り上げてしまう。そこに出て来たボリスに、聖愚者は「子供達を罰してくれ、あの先帝の子を殺したように」と求めます。怒る貴族達を抑えてボリスは聖愚者に「私の為に祈ってくれ」と頼むのですが、聖愚者はそれを断って「ヘロデ王の為には祈れないよ!」と言うのです。今回の字幕では、これを、「子殺しの皇帝のためには祈れない」とかなんとかなっていましたが、それではダメなのです。聖愚者という宗教的な存在、それに対して自らの主観では敬虔であれかしと思っているボリス、そこに下される「ヘロデ王」という断罪。無論、聖書の基礎的知識があれば、ここでいうヘロデ王がキリストの降誕=ユダヤ人の王の降誕、を予言されたユダヤの王のヘロデが赤子を虐殺させたという新約聖書の記述を述べているのだということは解る筈です。このやり取りは、仮にボリスが暴君だったとしても、この物語がただの暴君の物語では無いことを示唆していると考えていいと思います。 もう一つは、僭称者ドミトリーの描き方。くどくどと書いて来た通り、史実通りドミトリーはポーランド=リトアニアの尖兵とも言えるのですが、今回の演出では、ムソルグスキーの二つの版の折衷版とか言ったような名目で、第1版のようにポーランドの場を削除しています。というか第1版では元々なかったのですが。それだけならともかく、第1幕と言っていいのか、修道僧グリゴリーが出奔してリトアニア国境を越えようという場面。ここでは、グリゴリーが酒場でリトアニア国境への道を尋ねるのですが、ここで尋ねているのはクレムリンへの道。つまり、グリゴリーは他国ではなくロシア国内で蜂起することになり、ポーランド=リトアニアの影は入念に取り除かれています。 そして、そのグリゴリー=僭称者ドミトリーは残虐性を隠すこともなく、最後の場ではボリスの血を飲んでみせ、ボリス派の面々を虐殺する。そのドミトリーの取り巻きは獣の姿をしていて、獣性、残虐性を全面に出した形に。 これ、ただの演出で済むのかどうか。 この演出の演出家とドラマトゥルク、まぁ言ってみれば解釈責任者は、自分達ではボリス・ゴドゥノフという個人の罪に焦点を当てたもので、とか御託を述べ立てておりますが、しかし、そうであれば、入念にポーランド=リトアニアの影を拭い去り、宗教的なものを弱める必然性はないのではないか。 この両名は、ポーランド人です。この演出はポーランド国立歌劇場との共同制作です。果たして、そこに、偏った意図は無いのか。穿ち過ぎだと?けれども、ロシアのウクライナ侵攻当初に思い起こした、14年前のマリインスキー劇場の、ゲルギエフ編のイーゴリ公を思えば、決してそんな簡単な話ではないように思うのです。加えて、ポーランドも旧東側という意味では、未だにオペラが表現、メディアとしての力があると見做されている気がするのですね。その一方では、ポーランドもまた「連帯」の時代から見れば40年以上の激動を経て、ある種のナショナリズムが勃興しているとも聞きます。そうした中で、こういう演出をストレートに受け取ることでいいのか?ということはつい思ってしまうのです。率直に言えばここには歴史修正主義者の臭いがします。 ただ、それだけならばまだしも。これも諄く書いた通り、プーシキンとムソルグスキーの描いたこの史劇は、決してただの「暴虐」を描くものではなかった筈です。ただのローカルな暴君の物語ではなく、それが普遍的なものになり得ている。だからこそ、これらは「古典」たり得ていると思うのです。 今回の演出は、敢えて言えば、それを極めて矮小な意図を以て、その古典たり得ている普遍的なものを破壊することに終始していると思います。否定されるでしょうけれど、しかし、舞台を無理やりロシアの中に押し込めて、聖的なものもぶち壊して、登場人物達を矮小化して、それで何が解釈なのか。そんなに普遍的なものをこの劇の中に見出すのが嫌なのか。そんなにこの劇の本質を歪曲したいと願うほどならば、演出しなければいいのです。他の誰かに任せるべきだと思います。唾棄すべき演出だと思います。言い換えれば、君達が幾ら歪曲したところで、決してプーシキンやムソルグスキーが創り出した普遍性は毀損され得ません。まぁ、わけわからん日本人はころっと騙されるかも知れないけれども。そういう意味では舐められたもんですよ。 一応言っておきますけれども、それがたとえ現今の情勢に鑑みたものだとしても、絶対的に私は全否定します。別にロシア贔屓でもなんでもないのは、他の記事で言っている通り、東フィルにプレトニョフが来ること自体反対ですから。公職で禄を食んだ者がその体制を曖昧にしたまましれっと演奏することは許されるべきではない、という考えです。でも、それは、プーシキンやムソルグスキーが作り出した古典を貶めるべき、というものではないし、ましてそれが陳腐な解釈に基づいて原作が持っている普遍性を毀損することを推奨するようなものではありません。しかも、もしもそれがある種の自身の欲望に基づくようなもので行われるとするならば、幾らそれが誰かに支持されるように見えるとしても、やはりそれは間違ったもの、唾棄すべき汚らしいものと言うべきだと思います。そうではない、って当人達は主張するでしょうけれどもね。でも、これは、うっかりすれば巧妙なプロパガンダですよ。企まずしてそうであるなら尚更罪深いし、免罪されるようなものではない。その意味で、ゲルギエフがイーゴリ公でやったことと同じだし、古典としての作品を尊ぶと言う考えがない点でそれ以下ですらある。表現者としての倫理が無い。 先ほども触れたけれども、字幕で「ヘロデ王の為には祈れない」を書き換えてしまった責任者は重々反省して頂きたいと思います。もし演出側から強く迫られたのだとしても、それは絶対に枉げてはいけなかった。そう思います。 幾ら矮小化しようとしたとしても、ボリス・ゴドゥノフは普遍性のある古典で、私は好きなので、もう一回観に行けるのだけれども、この演出はあまりに酷い、というより作品に対して無礼だと思います。よっぽどブーイングしようかと思ったくらい。ただ、演奏は、これも気に入らないとはいえそう悪くもないので、もう一回行こうとも思うし、やめようかとも思うし。 ともあれ、演奏やらの話は、行くにせよ、行かないにせよ、別途書こうと思います。
2022年11月21日
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オペラシティコンサートホール 19:00〜 3階右側 シューベルト:冬の旅 テノール:マーク・パドモア ピアノ:内田光子 コロナが世界的な認識としては下火になって、いろんな音楽家がやって来てくれるようになりました。というか、ちょっとしたラッシュではあります。この間もプレガルディエンが来ていたようですし。まぁ正直全部付き合ってる訳にもいかないのでして。とはいえ、内田光子だし、これはまぁ行っておこうと思って買ったのではあります。 土曜にしては珍しく19時開演。それが理由でもないとは思いますが、客の入りは6割くらい。一階もですが、2階、3階も、正面だけでなく両サイドにも空席が。どうなんですかね。人気がないのか、コロナも第8波入りとか言われてますし、手控えているのか。どうもそんな感じでもなさそうだし、売れなかったんですかねぇ。正直、雰囲気的に、ドイツリート聞きに来てる感じでもないような人も少なくないような気も.... まぁ、マーク・パドモアはともかく、内田光子目当てというお客も少なくないのでしょう。でも、ねぇ、冬の旅だからねぇ.....どうだったんでしょうね。プログラムというかパンフレットが無償配布されていたのだけれども、上から見ていると、かなりの人がそれを開いて聞いていたようなのだけれども、別に歌詞が載っている訳ではなく、そんなに一生懸命読むほどのものでもないのだけれども..... こちらは勿論「冬の旅」を聞きに来ていますので、そちらが目当てというか、ポイントになります。勿論内田光子は以前から幾度か聞いているし、いいピアニストだとは思っている。マーク・パドモアも比較的近年シューベルトの歌曲集の録音を出しているし、最近「白鳥の歌」を内田光子と録音したのが発売されているし。そういう意味では演奏者に対する興味は十分あるのですけれども、まずは「冬の旅」を聞きに来ているのでして。 で、どうだったか。 演奏としては勿論良かったです。 最初、正直「あれっ」という感じがしたのは、ピアニストも歌手もなんとなく座りが悪いというか、やや気ままに演奏している感じがしたのですね。これは特に最初の方はそうだったと思います。フィットしないというような。演奏としては立派なんですよ。ただ、「え?そうだっけ?」という部分もあり。第1曲はかなりゆっくり目で、ただ、途中でテンポが揺れたりもして、「ん?」と思うことはあり。勿論、そういう表現なんだ、ということはあるのですが、表現だからどうやってもいい、というものでもないし、ね。「菩提樹」より後はだんだん落ち着いていく感じではありましたが。 上手く色々と噛み合うようになったのは後半でしょうか。特に、第20曲「道標」からの5曲、就中「宿屋」は見事。ここは歌手にとって歌い上げたいところなのですが、ピアニストも聞かせどころになります。パドモアの歌唱も勿論いいのですが、ここは内田光子の伴奏も素晴らしい。今月は、月初のシフ、先週の小山実稚恵とシューベルトが続いているのですが、「宿屋」の後奏での和音が、シューベルトの後期のソナタのそれと同質なのだな、と改めて思わされたり。そういう演奏でした。 加えて第23曲「幻の太陽」。正直言うと、「冬の旅」のクライマックスは、「宿屋」というイメージが強いのです。その後3曲は、どうでもいいわけではないですが、ただ、やはり「あと」の3曲、という感じはあって、多くの演奏でも、この「幻の太陽」などは、太陽共々沈んでいく感じではあるのですね。 この日の歌唱では、ここを大幅にテンポを遅くして、かつ、「宿屋」同様に歌い上げるような形で、敢えて言うならば、「宿屋」を人生に対する思い切りを歌うのに対して、「幻の太陽」では悲恋に終わった女への思い切りを歌う、というような、とか、そんな感じなんですかねぇ。 細かい話をすると、「宿屋」のテンポ指示は Sehr Langsam、とても遅く、なのに対して、「幻の太陽」は Nicht zu Langsam、つまり、あまり遅過ぎず、なんですね。上記の「あとの3曲」のイメージはこの辺にもあります。ちなみに終曲「手回しオルガン弾き」の指示は Etwas Langsam。私もそれほど詳しくはないのですが、いくらか遅く、くらいでしょうか。「幻の太陽」よりも速いくらいだったり。まぁ、それほど変わりませんが、「幻の太陽」ではむしろ「遅くしたいだろ?でも、そんなに遅くしちゃダメなんだよ」と言ってるくらいのイメージでしょうか.....この最後の2曲、この日の演奏はかなりゆっくり目でした。まぁ、そういうアプローチもあるよね、という枠内ではあるので、受け入れ難いみたいなことではないのですが。 この日のマーク・パドモアと内田光子の演奏は、そういう意味ではかなり自由に表現を追い求めているという感はありました。無論「こう書いてあるからこうでなきゃいけない」というものではないし、全然踏み外した演奏、というものでもないので寿司。なにより演奏としてとても良いものでした。特に後半は最後の方だけでなく歌唱としてまとまりが良かったし。 言い換えると、前半、やや散漫とした感じはありました。演奏が、というより、「冬の旅」という曲集として見た時、強い指向性、まとまりを感じさせるかというと、ちょっとそういう感じでもないような。特に前半は、ですね。むしろ逍遥するというような。つい彷徨する、と言いたくなるけれど、そこまで悲壮感は漂わない。逍遥、ですね。それが後半に向けて収斂していくといった感じでしょうか。 ただ、全体としては、「こうやりたいからやってみよう」という感じの演奏ではあったと思います。不思議なことに、テノールが歌う場合、こういうアプローチを取るケースがあるような気がします。バリトンだと、あまりそういう感じではなく、むしろあえてやると破綻する、みたいな。まぁ、その辺は多分気のせいだと思いますが.... そういう意味では、この日は終わってみれば「マーク・パドモアと内田光子を聞いた」に近い感じではありました。「冬の旅」としてはダメ、ということではないですけれども。一方でこの二人が「冬の旅」を喰った、というわけでもないし。いい演奏でした。ただ、そうだなぁ..........比較するものではないだろうけれど、逆に言えばこういう話をするレベルの演奏だったということなのですが、たとえば、昔聞いたディースカウやプライの「冬の旅」とか、そこまで昔じゃなくても、ボストリッジの「水車屋」とか、ゲルネの「冬の旅」とか、そういうのと比べた時、「ああ、「冬の旅」を聞いたな」という感じではなかったのは事実です。むしろ「マーク・パドモアと内田光子を聞いたな」という感じなのは確かです。それは立派なことではあるのですが、ちょっと毛色が違ったな、と言ったところでしょうか。
2022年11月20日
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オーチャードホール 15:00〜 3階正面 (前半はシューベルト楽興の時・即興曲集より) シューベルト:ピアノソナタ第21番 変ロ長調 D960 <アンコール> シューベルト:即興曲集 op.142 D935 〜 no.3 ピアノ:小山実稚恵 前から買ってあったのですが、後から外せない別件が入り、行ければ寄ろう、という予定になりました。結果、別件は早めに終わったものの、前半は間に合わず。後半だけ聞いた格好です。 ちょっと驚いたのは、かなり空席が会ったこと。身も蓋もなく言うと、3階は、B席エリアはほぼ満席だけれど、A席エリアはガラガラ。下の方はわかりませんが、あまりお客の入りは良くなかったのでは。小山実稚恵のシリーズは、比較的売れていたのですが、12年24回のシリーズの後、ベートーヴェンシリーズを経て、集客力が落ちたのかしらん。 遅れて着いたら、前半最後の曲を演奏中でした。即興曲D899-3だったと思います。外で少し聞いたのですが......うーん。あまり好みではないなぁ、やっぱり。正直に言うと、最近の小山実稚恵は、なんというかちょっと赴くままに演奏する、というような風がなくもないと思っていて、時々「あれ?そこそうだっけ?」と思うようなことがあったり、というのがあるような気がするのです。まぁ、こっちがあまり知らない曲とかでは気が付きようもないし、解釈というのはあるので、いいっちゃぁいいんですが、あまり好みではないというか。特に、シューベルトは、ロマン派で、みたいに思われることはあると思うのですが、むしろベートーヴェン以上にかっちりした面はあるので、あんまり自由にしてもらうのもどうかなとは思うんですけれどもね。 というわけで、さて......という感じで後半を聞いたのですが、これが思いの外良かった。むしろ最近の小山実稚恵の演奏としてはいい方ではなかったかなと。前半ちょっと聞いたのとは打って変わってしっかりした演奏でした。 アプローチはオーソドックス。過剰な表現は慎重に避けて、古典的ソナタの枠組みを外さずに。シューベルトのソナタへのアプローチとしてはあるべき姿ではないかなと。ただ、一方で、先々週聞いたシフのシューベルト、あれはひとつ前のD959でしたが、あそこでのシフの厳しさも感じさせるような緊張感のある演奏に比べると、そこまでのシビアさではなかったかなと。どうしてもそこは比べてしまうのだけれども、それはまぁ不公平というものでしょう。こちらはいわば小春日和を思わせるような演奏、でしょうか、ね。 アンコールはD935-3。ロザムンデの主題による変奏曲。これも悪くなかった。アンコールはこの一曲で、まぁ、その前のソナタの出来を思うと、無くても良かったし、かといって決して悪い演奏でもなく。まぁ、アンコールってそういうものよね。 結果としては後半だけとはいえ聞きに行ってまぁ良かったかなと。
2022年11月17日
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NHKホール 18:00〜 3階左手 伊福部昭:シンフォニア・タプカーラ ショスタコーヴィチ:交響曲第10番 ホ短調 op.93 NHK交響楽団 指揮:井上道義 今月のN響定期は、レナード・スラットキンがB,Cプロを振り、Aプロだけ井上道義という変則スタイル。丁度この日の夕方が空いていたのと、井上道義の回は安いので(身も蓋もないですがね)、行ってみました。 お客の入りは、やっぱりあまりよろしくない。3階を見る限りでは6,7割ってところでしょうか。基本老人会演奏会のN響ですが、井上道義じゃねぇ、老人じゃないしなぁ.....と思ったのですけれども。でも、2024年末を以て引退するというのですが、今年で76歳。確かにブロムシュテットとか考えると「若い」ってなりますが、後期高齢者ですからね。もうそんな歳だったのか、この人........全然イメージと違うなぁ........ 前半に伊福部昭、後半に井上得意のショスタコーヴィチというプログラムです。でも、そういえば、私、あんまり井上道義のショスタコーヴィチって聞いてないんですよね。昔々、日比谷公会堂で全曲演奏ツィクルスをやる、とかいうので、最初の方のを聞きに行って、第1番が随分異形の曲だったのでびっくりしたのと、日比谷公会堂の椅子がえらく小さいのに閉口したのを覚えてます。その時以来かも知れないなぁ。 で......ええい、正直に白状してしまうと、率直に言って、この日の演奏会、よく分かりませんでした。いや、いいとか悪いとかじゃなくて、専ら私の不勉強、不明の致すところ、ということかと。まぁ、そんな調子なんですが、思ったことを書くのがこのブログなので、とにかく書いておきましょう。 前半のシンフォニア・タプカーラは、まぁ、伊福部昭だよね?というところで、ついついうっかりと聞いてしまいました。面白いです。曲自体が伊福部らしくリズムに特徴のあるものだと思うのですが、それを更に快速で刻んでいく井上道義の指揮が見ているだけでも面白いし、音楽も、何て言うんでしょうね、痛快、と言ってもいいのかな。そんな感じで退屈する間も無く楽しんだ30分足らず、と言ったところです。うん。面白かった。それでいいっちゃいいんですけれども。 後半はショスタコーヴィチ。これがねぇ。よくわからん、よくわかってない、なんですよね。 正直、そんなに聞かないんですよね。第13番「バビ・ヤール」とか、第14番「死者の歌」とか、この辺は聞いてるんですけれども。それで、第5番や第7番「レニングラード」なんかは、まぁ、流石に聞いたことありますよ。ただ、ねぇ.... 私の年代だと、ショスタコーヴィチの死後に聞き始めたくらいなのですが、いろいろ聞き始めた時点で、既にヴォルコフの「証言」という本が世に出ているんですよね。真偽という意味ではどうも偽っぽい、という話で落ち着いているのかどうか、ただ、そうした経緯と、ソ連という国のダメっぷりを散々見ているところから始まっている身なので、どうにもストレートには見られないんですよ、ショスタコーヴィチの音楽というものは。「実はあれは全部体制批判を裏に込めたもので云々」みたいな見方もとても素直には受け入れられない。ソ連とか東側とか、ついでに言ってしまうとロシアとかいうものに対する見方というのは、ざっくり言って、今の70代と50代と30代とでは、相当違うんだと思います。70代の人達にとっては、若い頃は社会主義みたいなものがまだ輝きを放っているように見えたかも知れないけれど、50代にとっては、若い頃に既に大韓航空機撃墜だのチェルノブイリ(今はチェルノーブリとか言うんでしたっけ。でも同時代的にはどうしたってチェルノブイリなんですよ)の事故を通して、あいつらなんてダメなんだ、と思い知っているわけで。でも、30代の人は、そもそもソ連なんて知らんということになるわけで。 なので、まぁ、ショスタコーヴィチというものをそうストレートに受け取れない、というのは私だけの話で、世代のせいにしちゃいけないのかも知れませんが、ともあれどうも何処か斜に構えてしまうのは事実。プログラムによると、第10番は「最高傑作」なんだそうですが、正直聞いた覚えがあまりない.... で、聞きました。うん。オケはよく鳴ってるし、演奏としてはいいんだと思います。音楽としてもそれなりに面白いし。ただ、正直、どう受け取っていいものか、と思いながら聞いていた面も否めません。なんか裏があるんじゃないか、みたいな、斜に構えた、というよりは、警戒していた、というのはあったと思います。それもどうなの、という話ではあるんですがね。 まぁ、勿体無いことしたんでしょう、きっと。でも、馴染みを言えば前半の伊福部だって馴染みはないんですけど、でも聞けばそれなりに面白く聞けてしまうのは、やっぱり受け手であるこちらの問題なんだろうなとは思うんですけれども。ちょっと井上道義には申し訳ないかな。聞いてて、きっといい演奏なんだろうな、と思っていたのは確かなので、なおさら。
2022年11月13日
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東京オペラシティコンサートホール 19:00〜 3階右側 バッハ:カプリッチョ「最愛の兄の旅立ちに寄せて」BWV992 ハイドン:ピアノ・ソナタ ハ短調 Hob.XVI-20 J.S.バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV903 ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 op.31-2 「テンペスト」 モーツァルト:ロンド イ短調 K.511 シューベルト:ピアノ・ソナタ第20番 イ長調 D959 <アンコール> ブラームス:6つの小品 op.118 〜 No.2 間奏曲 モーツァルト:ピアノ・ソナタ第15番 ハ長調 K.545 〜 第1楽章 J.S.バッハ:イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV971 〜 第1楽章 ピアノ:アンドラーシュ・シフ (通訳:塩川悠子) 3日に続いて平日だけどオペラシティの公演へ。と言いつつ、平日なので仕事はあります。こういう時は調整するものですが、調整任せてたら実に中途半端なことに.....結果、オペラシティに着いたのは19時直前。いやしかし、今時丁度で始めるより5分くらい遅れるのは普通だから.....と思ったら、もう始まってました。 一曲目は聞き逃して、解説から聞き始めたら、「じゃぁもう一度」と言って再度演奏を。なので、まぁ、一応全部聞いたような感じに。やれやれ。 曲目は、後半は所沢と同じ。アンコールも、3曲目のバッハが、この日弾かなかったイタリア協奏曲の第1楽章に差し変わってるだけですし。一方、前半は、バッハとハイドンとベートーヴェンで、こちらは全く違った内容に。 所沢と違って、こちらはレクチャーというか解説付きなのですが、まぁなるほどこういうものか、というような。カプリッチョのフレーズが何を表しているか、とか、バッハの半音階的幻想曲とフーガが「テンペスト」に影響を与えているとか、そんな感じで。シューベルトでは第二楽章がextra ordinaryな音楽で、黙示録的な音楽(通訳役の塩川さんは「世界の終わりの音楽」というような表現をされていましたが)という話をしていて、これは我が意を得たりといったところ。まぁ、意外性のある話ではなかったかなと。どうも1日のとはちょっと違った感じらしかったけれども、どうなんだろう。 演奏的には、そうですねぇ、前半に関してはこちらの方が良かったようにも思うし、後半は、特にシューベルトは、所沢の方が良かったかなと。ピアノ、ホール、シフ自身の出来、お客、各々の要因それぞれだとは思いますが、例の第二楽章の、なんというか、厳しさは、所沢の方が鋭かったかなとは思います。一方、前半は、バッハの半音階的幻想曲とフーガが良かったなと。テンペストよりはこちらの方がまとまりよかったかなと。 ただ、まぁ、正直、お客のことを言うと、なんだろうなぁ、所沢と同じというか、別の意味でというか、ちょっとね。なんかこう...... この日もやっぱりモーツァルトのK545の第一楽章をアンコールに弾いたのだけれども、所沢の時よりもはっきりある種の、失笑にも似たざわつきがね、なんというか、すごく嫌だなと思ったのは事実です。 そんな風に思うのはお前くらいのものだ、と言われれば、まぁ、否定は出来ないんだけれども..... 終わってみて思うに、全体としては、所沢の方が楽しかったかも知れないなぁと。シューベルトがやっぱり良かったのが何よりかなぁ。
2022年11月06日
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所沢市民文化センター ミューズ アークホール 15:00〜 3階右手 バッハ:イタリア協奏曲 へ長調 BWV971 ハイドン:ピアノ・ソナタ第44番 ト短調 Hob.XVI:44 モーツァルト:ピアノ・ソナタ第17番 変ロ長調 K.570 ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 op.109 モーツァルト:ロンド イ短調 K.511 シューベルト:ピアノ・ソナタ第20番 イ長調 D959 <アンコール> ブラームス:6つの小品 op.118 〜 no.2 間奏曲 モーツァルト:ピアノ・ソナタ第15番 ハ長調 K.545 〜 第1楽章 バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻 〜 第1番前奏曲とフーガ ピアノ:アンドラーシュ・シフ シフ。2020年3月にコロナ禍でぎりぎり最後に滑り込みといった感じでリサイタルをやって以来、2年半振りの来日公演です。前回は色々あってのコロナ禍で、どうなることやらと思いつつ平日2公演を買っていたのだけれど、今回はこの休日公演があるので、これを買っていました。とはいえ、所沢........ちょっとね。ホールはいいんですけれどもね。どうも、お客の集中力がイマイチというか........まぁ、いいんですけれども。 最近のシフは色々気難しいようで、そういうのあまり好きではないらしいんですけれどもね。実は、今回のシフの来日公演は、他では、レクチャーコンサートという形で、プログラムは決めずに、その場でシフが弾くものを解説しながら決める、というスタイルだそうなのですが、所沢だけは、予めプログラムが決まっていて、発表されているという。どうなんでしょうね。所沢で、休日公演だし、というのもあったのかしら。ちなみにこの日はMCも一切なしでした。まぁ、普通のコンサートですよね。 事前の案内では完売だそうで、実際客席は殆ど埋まっていました。中には休日ということもあって、お子様もちらほらと。あ、お子様はお客の集中力とは関係ないですよ。少なくとも私から見える範囲では皆静かに聞いてたようです。はい。 オリジナルのプログラムだけで2時間半くらいの重量級。かなり盛り沢山です。そういえば、何年か前に、シフがあちこちで「最後のソナタ」というシリーズのリサイタルをやったことがあって、その時は、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの最後期のソナタから1曲づつ演奏する、というのがあったのだけれど、あれもかなり長かったですが、今回はそれに加えてバッハが入ってるイメージなので、もっと長い。 その長いプログラムの前半は、正直、微妙というか、悪くはないんだけれども。イタリア協奏曲から聞き始めたところでは「うん、いいな」という感じだったのですが、どうもお客の集中力がやはりイマイチ。そしてシフもちょっとチグハグというか乗らないというか、もう一つ。時々「あれ?そこそうだっけ?」と思うようなところもあり。ミスタッチというより、弾き間違いというような。いや、まぁ、私の覚え違いだったり、不勉強だったりもあるとは思うので、なんとも言えないんですけれども、全体的にはちょっとどうかな、という気もしないでもない。聞いていて良かったには良かったですけれどもね。op.109とか。でも、そうだなぁ、もうちょっとリリカルに、とか思ってしまったりする部分もあり。 一方後半は、かなり良かった。少なくとも今日は後半が断然良かったと思います。特にシューベルト。D959の第二楽章。これはまぁ、極め付けですね。この、最後の一つ手前のソナタは、まさに第二楽章が肝心なのですが、ここが見事。もうこれ以上ないというくらいの演奏。特に中間部のクライマックス。そうだよね、こういうのが聞きたいから懲りずに生演奏聞きにきてるんだよね、と言いたくなるような。この曲は以前もシフで聞いてますが、そういえば、もう30年以上前、ブレンデルがシューベルトの2度目の全集を録音していた当時、リサイタルで聞いたのを思い出しました。神奈川県民ホール。あの時も結構衝撃的で、なるほどシューベルトは面白いのだなと改めて思い直したものでしたが、それ以来の演奏かも知れず。これだけでも今回聞きにきた甲斐があったというもの。 アンコールは、ブラームスとモーツァルトとバッハ。ブラームスの間奏曲を聞いた時、2020年3月にもこれを聞いたのを思い出しました。まぁ、個人的には、非常に感慨深いものがありました。その前から、いろんなことが大きく変わってしまったなぁ、というもので。 モーツァルトは、実はこれも2020年に弾かれていた、モーツァルトのソナタ。ソナチネに入っているのかな?確か。聞けば「ああ、あれね」と思う曲。勿論プログラムに入っている曲でもそうなのですが、シフは繰り返しを全く同じように弾くのではなく、ちゃんと装飾を入れながら、しかし過剰にならずに抑え気味のモデレートなスタイルで、流暢に丁寧に弾いていく。この曲が弾かれ始めた時、客席で、多分下の方だと思うけれど、ちょっと笑い声が聞こえたのですよね。なんていうかな、こういうところも、所沢のちょっと嫌なところ。勿論そういう人tはごく少数だと思うので、多くの所沢周辺の人はこういう言い方されると怒るかなとは思うんですけれども、でも、ちょっとそういう空気があるのは事実で、あまり好きではないんですよね。 終演後に子供が「今度あれ弾いてみる」と元気よく話していたのを耳にしました。シフからのプレゼント、になったのでしょう。平日の夜だけでは、やっぱりダメなんですよ、きっと。公益財団法人の主催だから他所よりも安くて、休日だから子供も来られて、確かにシフにとって理想の環境ではないのかも知れないけれど、でも、こういうのもやっぱり大事なんですよ。
2022年11月03日
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みなとみらいホールの2,3階席に取り付けた落下防止用金網が物議を醸しているようで。 https://www.ytv.co.jp/press/society/172948.html https://www.tokyo-np.co.jp/article/211250 みなとみらいホールのサイトでは、順次情報が更新されて、11/5を目処に撤去が決まったようです。 https://yokohama-minatomiraihall.jp/news/data-20221031-146.html https://yokohama-minatomiraihall.jp/news/data-20221101-149.html https://yokohama-minatomiraihall.jp/news/data-20221101-148.html 施工主の横浜市の方はこんな感じ。 https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/koho-kocho/press/bunka/2022/20221031MMH.html 昨年から改修工事をやっていたみなとみらいホール、10月に竣工して、10/29の土曜日に神奈川フィルの公演が柿落としになったそうのですが、2, 3階席のお客から「金網が邪魔で舞台が見えない」と苦情が相次いで、まぁ、大騒ぎになったと。 まぁ、撤去する、で話が取り敢えずまとまったようなので、今更わぁわぁ言っても仕方ないんですが、ちょっと気になったことなどを。 今回の「視界が遮られる」という話。まぁニュースになって以降は「聞きに行ってんだろ?」みたいな辻斬り的コメントもあるようですが、簡単に言うと「生で聞く以上見ることもライブの一環」「しかし、世の中見えない席は一杯ある」ということになると思います。 たとえば、ロック系のライブをスタジアムでやると。横浜スタジアムにしましょうか。で、スタジアムライブですから、満員だったとして、本塁側にステージがあって、外野席だったら、ステージ上の演奏者は豆粒くらいですよね、下手すると。でも、見える。で、仮に、行ってみたら「あなたの席はここです」って、スコアボードの裏とか、そこまで行かずとも、客席に上がるための階段のところに案内されたら、どう思います?まぁ、文句言いますよね。「なんだこれ!見えないじゃん!」って。だから、見るのもライブの一環なんですよ。やっぱり。これはコンサートに実際に足を運ぶ人で、人並み以下程度の想像力があれば思い至れる事。以上。 しかし。世の中には見えない席というのはあります。典型的なのは新国立劇場のZ席ですね。あそこは、どの席も、かなり舞台が見えにくい。特に一番舞台寄りのサイド席、4階のところなど、舞台はほぼ見えない。これは別に新国立劇場が特別なのではなくて、たとえばウィーン国立歌劇場、あそこのプロセニアムデッキなんて、舞台は手前のところがようやっと見えるかどうかくらい。よく見えてるのはオケピットだけ。どのホールにもそういう席はどうしても出来てしまっていたりします。それはコンサートホールでも同じこと。 但し、ご存じの通り、新国のZ席は激安当日券になっています。ウィーンの方は、今はどうなっているかわからないけれど、以前は激安席でした。見にくい、見えない、ということを前提にして安くしているわけです。 みなとみらいの場合は、元々そんなにいい席ではなかったけれども、視界を遮るものは、まぁ手すりくらいだったわけです。これが、謎の金網が張り出して視界の邪魔になる。そんな話は聞いていない、だから問題になってる訳ですね。 ただ、それだけでは多分説明が付かない。なんでそんなに皆拒否反応を起こすのか。新国のZ席は、建物の構造上見えない部分になってしまっている訳で、わざわざ視界を遮ろうとしている訳ではない。みなとみらいは、わざわざ今までなかったものを取り付けて視界を遮っている。だから尚更揉めるのです。 じゃぁ、この金網自体の是非は? 諸々のプレスリリース等では、どうやら物の落下防止の為に取り付けたもののようです。50cmばかりバルコニー席の前方に金網を張り出して取り付けた訳ですが、そもそも、これがどうもおかしい。 まず、こういうものを取り付けているホールというものを、私は寡聞にして存じません。こういう構造、つまり手すりの向こうは下の階、という席を備えているホールは、音楽系とそうでないのとを問わず幾らでもありますが、こういう構造にしているところはありません。 じゃぁ、落下防止はどうしているかというと、格別物理的対策はしておらず、注意喚起するだけ。みなとみらいの場合は、手すりとその下の壁部分の間が空いているので、そこから落ちる危険性はあると言えばありますが、まぁそういう構造も珍しくはない。そういえば、何処か、確か海外でしたが、この壁の上部に物が置けないように、手前側が下になるように傾斜を付けてるところがあったような。 でも、もしものを落としたら、と思うと、確かに心配になるのは分からないでもないので、落下防止網を付けるという発想は分からなくはない。ただ、個人的には、写真とかで見て、非常に頭が悪いなと思ったのですね。それは、この網がほぼ水平に伸びていること。これでは、落下防止としては中途半端だと思うのです。 落としそうなものは色々あると思いますが、なんであれ、客席から手すりの向こう側に物が落ちるということは、その物は下方に向かうベクトルと客席から見て前方に向かう二つのベクトルを持つ筈です。そうすると、落としそうなものの上位に来そうな、チラシ類。これ、結構上質な紙を使っていることが多いので、束で落とすと、一番下の1枚2枚は金網に先端が引っ掛かって止まるかも知れないけれど、それ以外は滑り台から飛び出すように華麗に宙に舞っていくのではないかと.....まぁ、真下に加速度付けて落下することはないかも知れないですが。その他、ペットボトルやオペラグラスとか、そこそこ体積の割に軽いものが落ちると、うっかりすると金網に弾んでジャンプしながら華麗に落下していきますよ、きっと。 要するに、水平に網張ったんじゃダメなんですよ。 じゃぁ、どうすればいいか?取り敢えず。まず、金網じゃなくて、合成繊維のネットか何かにする。そして、その網の先端を持ち上げるようにして、手前側へ向かって傾斜を付けてやる。L字に対してレの字にするイメージですね。この方が、多分、落下防止としては頭の良いやり方です。あくまで落下防止ですよ。視界の問題は考えてない。でも、こうすれば、物が弾む問題は、ネットで吸収出来る。紙も、網で止まる。まぁ、そもそも落とすなって問題ですが、多分この方が落下防止としては優れている。 問題だと思うのは、私如きでもこのくらいすぐ思い付くのに、なんでこんな簡単な事も思い付かないんだろう、という事ですね。そこが物凄く危ないと思います。インドじゃ吊り橋が崩落して3桁の人が亡くなってるとか、そんなことに比べたらどうってことはないですが。 もう一つ。この一連の事態に対して、みなとみらいホールの運営者はここまで気が付かなかったのか?ということ。10/29に最初の当事者になった神奈川フィルはどうやら公演までこの状況を知らなかったようなのですが、ということは、施工した横浜市、施工業者(鹿島とその他地元系のJVらしいですが)と、ホール運営側はどういう話をして、どういう検証をしていたのかと。神奈川フィルは、確かに一利用者に過ぎないですから、責任は問われる立場では取り敢えずないでしょうが、そうした利用者の話はまるで聞かなかったのか?とか、まぁ言い出すとキリがない。ただ、公演実施前にホール運営側もいよいよ新装成りました、みたいなツイートもしていたようなので、しかもその写真には件の金網もちゃんと写ってるようなので、知らぬ存ぜぬではないんでしょう。 なんというか........雑だよなぁ、というのが、率直な感想です。雑。施主も、工事担当も、受ける運営側も、なんでこんなに雑な仕事してるの?という。11/5に撤去する、というのは、恐らくは11/9にボストン響だかのコンサートが予定されていて、そうなると、神奈川フィルやN響どころの騒ぎじゃないから、ってことなんでしょうが、そんなに簡単に撤去出来るようなものを取って付けたように設置してしまうというところからして、雑だよなぁと。なんでこんなに雑なんだろうなと。でも、こういう雑なことがあちこちで蔓延っているのが現状というもの、なんでしょうかね。どちらかというと、そういうことの方が気になります。気にしたってしょうがないんだけれどもさ。
2022年11月02日
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だそうです。 https://www.lfj.jp/lfj_2023/release/ やーまさか来年やるとはねぇ。今年のLFJに関して「当面の間やらない」って言ってたのは何だったんだと。年一回のイベントで「当面の間」って、数年レベルじゃ中田の?というね.........プレスリリースによれば、復活を望む声が多かったとのことなので、そういうことなんですかねぇ。どうなんだろう。大人の事情ってよくわかんないからなぁ。 テーマはベートーヴェンで、5/4, 5, 6で、ホールA・C・D7を使って、有料公演50公演ほど、ということなので、一日16,7公演をこの3ホールで、となると、ホールAは5公演、ホールCとD7で6公演ずつくらいですかね。 さて、どういう塩梅になるのかなぁ....... と、やけにテンション低いのは、実際直前になってみないとどうなるかわからないなぁと思うから。勿論、間違いなく嬉しいんですけどね。でも、多分、この冬には第8波、来るでしょうからね。というかこのところ減ってないし。それでも強行するのが今時のトレンドなんでしょうけれど、さぁ、どうなりますかね。あまり大きく期待しないで、もう暫く見守りましょうか。
2022年11月01日
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