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キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/carol若干19歳の叔父の嫁はお昼時に狙ったようにやって来る。「おね~ちゃん、おはよ~う~」何時ものの挨拶である。買い物籠の中には必ずお菓子が一袋入っているのだ。幼い私が見てもそれほど美しくない女性がどうして叔父が気に入ったのか解らない。上がり込んではすぐに叔父の悪口が始まる。それも毎日よくネタが切れずに喋り事が出来るものかと驚愕するぐらい早口でまくし立てるのだ。持参しているお菓子の袋は開いて一人で食べている。よく一人で食べれるもんだと感心しながら聞き上手な母は時々なだめたりするがエスカレートする一方で全く人の言葉を聞き入れようはしない。他に話題が無いのか、人をこき下ろすことが快感だったのに違いない。この礼儀知らずな小娘の顔を見ると嫌な気分にさせられたもので、母親に何とかしてくれと懇願したが苦笑いするのみである。しかしそんな新婚生活はやはり長く続かず、全くなまなましい話ながら、家に間男を引きこんでいた処を母に見つかり、この嫁の浮気がばれてしまった。もちろん即、離婚である。この悲しい話に密かに喜んでいたのは誰でもなく私で、もうあの嫁の顔を見ないで済むかと思うと嬉しさが体から滲み出てくる事がわかるのだ。可哀想なのは叔父であるがその数年後、私もお気に入りの素晴らしい女性と巡りあい再婚することになり子宝にも恵まれ今では幸せに暮らしている。余談ながら嫁の親戚筋から聞いた話だが離婚した嫁は間男と別れ、数ヵ月後に"医者"と結婚し幸せな生活をしていると聞いた。おそらく全くの眉唾ものであると思うが、それがもし本当の話ならこれほど良いことはない。"医者"といわれる方には多少の同情はするが幸せになって欲しいものである。文章と写真は関係ありません。
2016.06.22

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/carol下町のせいかそれとも母の人柄かとにもかくにもこの小さな長屋は人の出入りが激しかった。学校に行っているときは見えなかったが、夏休みなどの長期休暇にになるとその凄まじい我が家の一日のサイクルがわかったのである。近所の奥様連中、叔父の嫁、弟の嫁、新興宗教の支部長、内職のオヤジ、町工場で働くにいちゃん・・・それも決して鉢合わせすることなくうまく廻っている。おそらく相手側がうまく調節していたのだろうか、だいたい来そうな時間が決まっているのだ。朝の8時頃には町工場で働くにいちゃんが自転車でやってくる。町工場に入る前のわずか10分程度ながら我が家に寄り玄関先で座る。母の出したインスタントコーヒーをうまそうに飲みながら世間話をするのである。それが日曜日以外毎日のようにやって来る。何をそんなに毎日話すことがあるのか幼い自分には不思議で仕方がなかった。母とにいちゃんの大きな笑い声が玄関から外に漏れていたのは間違いない。ただこのにいちゃん、少し障害があったが非常に明るく、私も大好きな一人だ。小さかった私を見つけてはポケットからビー玉やベッタンなどくれ、可愛がってもらった記憶がある。母は不憫に思ったのかそれとも障害に負けず明るく働くにいちゃんを応援していたのか理由は解らない。にいちゃんはコーヒーを飲み干すと母に礼をいい元気に出勤するのだ。次が来るであろう来客の合い間に家の掃除である。もちろん躾に厳しい母は私を召し使いのように使う。言うことを聴かなかったら何が飛んでくるかわからない。掃除が終りかけに時計で測ったように次の来客がやって来る。叔父の嫁である。私はこの嫁が大嫌いであった。
2016.04.26

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/carol幼い頃にはラーメンと言う呼び名が無かった様な記憶があるが定かではない。一般には"中華そば"と呼んでいたと思う。それがラーメンとして呼ばれるようになったのは"チキンラーメン"の出現からだと思う。このラーメンは衝撃的だった。熱湯をかけるとわずか3分で出来上がる夢のような食べ物である。チキンラーメン後、ワンタンメン、サッポロ一番、チャルメラなど各社がそろって新製品を打ち出してきた。その中に余りメジャーでない"王様ラーメン"と言うインスタントラーメンがあった。このラーメンの凄いところはなんと当時、すでにかやくがセットされていたことで、お粗末ながらも乾燥ネギ、蒲鉾、椎茸、麩などが入っていたのだ。このアイデアは幼心にも他のラーメン群を圧倒するだけのインパクトがあったもので、それ以来「王様ラーメン、王様ラーメン」と母親にせがんだものだ。その後"サッポロ一番"のスープに乾燥ネギが入り、"出前一丁"にラー油の小袋が付き出した。それを考えると王様ラーメンの偉大さ、先進性が解る。やがてインスタントラーメンブームがやってくるが、各社大手は"駅前ラーメン"、"長崎ラーメン""大阪ラーメン"など新製品を次々出してきた。それと共にあの王様ラーメンは各社新製品に押され店頭から消えていくのである。この"王様ラーメン"の味が何故か今頃になって懐かしい郷愁を呼ぶ。この幼いラーメン評論家の体を気にしてか祖母と母はラーメンは体に悪いと言い出してきた。世間もそんな風潮であった。祖母などは酷かった。ラーメンは体に毒、石油で出来ているなど、もうめちゃくちゃである。何事でも初めて出る商品には皆、敏感で根も葉もないことを、ありも真実の如く言い出す。そんな祖母や母も安全で美味しいものである事がわかるとちゃっかりチキンラーメンを袋から取り出し、生でおやつ代わりにポリポリとかじっていたことを想い出す。
2016.04.12

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/carol最近"おねえちゃん"にあった。昔の面影が少し残っており、今では孫もいるらしい。このサザエさん似の"おねえちゃん"には幼い頃の思い出がある。長屋住まいで内風呂が無く、近くの銭湯へ母親に連れられて行くのだが、もちろん母親と一緒に女湯へと入る。そこにこの"おねえちゃん"がいるのだ。銭湯で働く女性である。まだ独身でやたらと訛りのある大きな声が記憶に残っている。当時は女湯は赤ちゃんが非常に多かった。お母さんが風呂から上がる前に赤ちゃんをこの"おねえちゃん"に渡す。母親から受け取り手際よく赤ちゃんの体を拭き、木綿のオシメをし、ベビー服を着さす。"お姉ちゃん"の仕事は非常に激務である。そんなおねえちゃんは私のよき遊び相手でよく可愛がってくれたもので、そんな銭湯通いは私にとっては楽しみの一つであり、また遊び場であったのだ。湯船は小さながらもプールと同じ感覚なのである。隠しもってきた水中眼鏡を持ってきては素もぐりの練習である。回りにとっては非常な迷惑小僧である。母親には風呂桶で殴られ、エコーの聞いた大浴場は母親の怒った声で響く。風呂から上がっても脱衣場では走りまわりベビーベッドを飛び越える。とうとう頭にきた"おねえちゃん"私を捕まえて、ベビーベッドの下の脱衣入れの箱に閉じ込められてしまった。子供が一人入るぐらいの大きさであり外から鍵が閉められる。「うちのあほたれどこに行った?」「吉本に渡した」こんなありさまの話が聞こえる。もちろんおねえちゃんはおもしろ半分で閉じ込めたに過ぎないが、当時は吉本に売られるということはもう幼い人間にとってはこれほど恐ろしいことは無いのである。私も高学年になり、学校の同級生の女の子と会う時があり、さすがに一緒に女湯の湯船に浸かっているのはバツが悪くその後、慌てて男湯に変わったが、私がいる事を知っておきながら恥ずかしがらず、妖しい笑みを浮かべる女の子の堂々とした裸体の姿と美貌のお母さんの裸体の姿は情けないことに、この年になってもまだ目に焼きついている。
2016.03.26

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/carol小気味よく小太鼓の音が町内に響く。トン、トン、トン・・・。独特の節回しのある小太鼓の音を聴いたら、いても経っても居られない。親にせがんでもらった貴重な20円を握り締め、玄関を飛びだす。まるで飛び出して来るのを予感してたかのように家の斜め向こう側にオヤジが屋台を止めているのだ。吉備団子屋である。当時5円で一本の吉備団子が買えた。竹串に刺された一円玉ぐらいの大きさの団子が八つ、それを甘いきな粉にまぶしてくれる。吉備団子自体は今から考えるとそれほど美味しい物ではなかったと思う。ただ甘さに飢えていたせいか甘いきな粉は途轍もないご馳走だった。それを二本、両手にもってこの上ない幸福感に浸るのである。口の回りをきな粉だらけにしながら、残り10円でわらび餅を買う。無愛想なオヤジは子供の目から見てもやや汚い日本手ぬぐいで氷の入った冷水の中のわらび餅を手馴れた感じですくい取り、その薄汚れた手ぬぐいで握り締め水分を逃がす。少し干からびたわらび餅はきな粉、砂糖、ゴマ、青のりの順に4種類の入れ物に分けられる。まぶされたわらび餅は、やや大きめの網目の茶越しにかけられる。私はゴマと青のりが特に好きで、オヤジはそれを見抜いていたのか、いつもゴマと青のりは比率的にきな粉に比べて愕然と少ない。今から考えればヘンコオヤジのイケズではなくきっとゴマと青のりはきな粉に比べ高かったのだろう。そう信じてたい・・。杉皮の笹船にのったわらび餅は色とりどりで視覚的にも美しい食べ物であった。その影響を引きずっている訳ではないけれど時々スーパーに行くとパックに入ったわらび餅を買うがどうも昔のわらび餅の粘りがない。どうやら聞くところによると今のわらび餅はジャガイモの澱粉質で出来ているらしい。なるほど、科学の力は素晴らしいと、いやに納得しながら昔食べた粘りある本物のわらび餅の美味しさを懐かしんで想像していたのである。
2016.03.21

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/carolテレビがまだ普及していない頃、映画は庶民の楽しみの一つだった。母は無類の映画好きで特に邦画の時代劇ファンであった。市川雷蔵、大川橋蔵、片岡龍之介など主演の映画が封切られると映画館へ愛車の自転車をこいでゆく。私も自転車の後ろの荷台に乗せられ、草履姿で付き合わされる。映画館に入ると思いきや映画館には目もくれず、斜め向かいの長屋の民家に入り込むのだ。中から若い奥さんがニコニコしながら出てくる。その言葉使いからしてどうやら内の母と友達らしい。母は奥さんと世間話をしながら映画の話をしている。話をしながら切符を二枚受け取る。お金はどうやら払っていないようだ。その切符を入り口で渡して映画館に入るのだがどうやらタダで映画を見ていたふしがある。このやり方、どういうからくりがあるのかいまだに解らない。ただ今のチケットとは違って当時はバスの切符の一回り大きなもので切符には映画の名前も日付けも刷られていなかった様な記憶がある。当時のおおらかな世界が垣間見ることが出来る。映画館に入るともうそこはレジャーランドであり家から持ってきたお弁当、お菓子、など食べながらの鑑賞である。何も気にすることは無く、皆そうしていながら映画を見ている。母は橋蔵が大好きだったようで、それは母のささやかな楽しみでもあったに違いない。一時的に忙しい日常生活を忘れさせてくれ夢の世界に浸してくれる。又明日の活力につながる映画は一幅の清涼剤だったのだろう。今、目を閉じるとカラフルなのぼりが立ち並び、屋根の軒には東西の大御所の似顔絵の書いた看板が額に入れられ派手派手しく並んでいた。やがて時代劇が下火になり裕次郎、旭の世界がやってくる。そして私を精神的におかしくさせたゴジラ、ガメラ、ギララの怪獣映画の一次黄金期が到来するのである。文章と写真は関係ありません。
2016.03.12

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/caro定かでないがパンと言うものを初めて食べたのは大手の企業のパンではなかったと思う。家の近くにハトやパンという屋号の小さなパン屋さんがあった。店の入り口の上には"ハトヤ"の古ぼけた看板が架かっていた。老夫婦二人で経営しており店主はいい顔の爺さんだがいかにもパン職人の誇りが漲る気骨者である。一方おかみさんのほうも絵に描いたような上品な祖母さんでいつもニコニコしており人当たりもよく、私はそこのパンが大好きだった。そこのパンは毎日、店で焼いているのでいつも香ばしい風味を漂わせ、とても美味しい。ただ品数はアンパン、メロンパン、コッペパン、チョコロールなど数はしれている。いつも決まってコッペパンを買うのである。当時20円か・・・。その買ったコッペパンに10円出せばジャムやクリーム、チョコ、ピーナッツクリームなど好きな物を挟んでくれる。私はこの"システム"が大のお気に入りでいつもチョコかピーナッツクリームを挟んでもらう。日頃この類のものは滅多に口にできないし、とても貴重な味覚の一つである。それを今から考えると懐かしい薄い紙袋に入れてくれる。それを頬張りながら隣の本屋で漫画の立ち読みをする。食べ終わると何故か紙袋を膨らませて両手で紙袋を叩き割る。大きな音が出ればすべてよし。あの店が閉まってもう何十年となるがあれほど素朴で純な美味しいパンは残念な事に不思議と未だにお目にはかからない。最近のパンは日が経っても、やたらと柔らかく、口当たりが良い。でも何故かみたくれは悪いが素朴な町のパンやさんの味を忘れることが出来ない。たぶん今のパンのように添加物が入っていなかったのだろう。焼きたてはファファ、一日も経てばもう硬くなる。これが本当のパンの味かも知れない。小学校の通学路の横に立っていたハトヤパンはいまやマンションの一部となり面影すらない。文章と写真は関係ありません。
2015.11.16

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/caroそのオヤジは毎日母を捉まえてはフクを欲しい、欲しいと言い出したのである。母は戸惑うばかりか、それを知った家族は悩みの毎日を過ごすことになった。今振り返ってもあのオヤジの精神状態が解らない。好きになったから欲しい・・。お菓子や饅頭でもあるまいし、はい。解りました。といえる問題ではない。オヤジは独身の息子と二人暮らしでもともと一頭の犬がいる。近所でも少し変わり者で通ってたがそれに輪をかけたように息子の方が時々目を疑うような行動を取っていた。私も小学生ながらドキッとする場面に何回か遭遇しただけにフクがそんな変わり者の家に行くことに猛烈に反対したことを覚えている。涙を流しながらの抗議も受け入れられず、毎日執拗な懇願に母や父は負けてしまったのだ。「あのおじさんならフクを可愛がってくれる」「近所やからいつでもフクにあえる」とか説得力のない理由でいくらこちらに説明しても解らない。子犬ならともかく、フクは成犬である。兎にも角にもフクはオヤジに貰われていった。残されたエリはいつも遊んでいたフクがいないのでなぜか落ち着きがないし元気もない。いつも裏のセンダイから二頭並んで顔を出している見慣れた風景が見られないのがとても寂しかった。ところがである。数日後学校から帰ってきたらいつものように二頭センダイから頭を出しこちらを嬉しそうに見ているのだ。フクがいるではないか。訳を聞くと、連れて行かれた日からフクは一口も餌も食べなくなり一日中鳴いて鳴いて夜も寝られない状態になったらしい。それで慌てて返しにきたのだという。全く自分勝手なオヤジである。犬は決して恩は忘れない。"忠犬"フクのもう一つのお手柄はそれ以来もうオヤジの竹輪を持ってのフク詣ではピッタリと止まってしまった。そのお陰で家族は早朝から鍵を開けずゆっくりと寝ることが出来たのである。またフクもそれから数年間ではあるが、"愛する我が家"でエリや家族に見守れながら天寿をまっとうする事ができた。文章と写真は関係ありません。
2015.07.16

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/caro最近珍しくスピッツの撮影をした。今の流行の犬に押されもはや"全滅"したかと思いきやどっこいスピッツは健在だった。やはりスピッツの白い毛並みは美しい。昔は庶民の犬として右を見ても左を見てもスピッツがかん高い声で吠えていたものだ。私の母も無類の犬好きで私が生まれてこのかた犬がいつも横にいる。小学生の頃、二頭のスピッツの雑種が飼われていた。「フク」と「エリ」は共に我、家族に愛されていた。フクは凄く人懐こい犬で近所の奥様連中にも好かれていたがエリは家族以外は吠えまくったり、場合によってはガブリと可愛げのない態度をあらわす。近所にこれまた自称"犬好き"の60歳ぐらいのオヤジが住んでおり、朝の6時前後になると竹輪一本とビスケット2~3枚紙袋に入れて勝手に人の家に上がりこんでくる。我々家族は2階で寝ているので直接迷惑にはならないが、いつも母が朝の5時ごろに玄関の鍵を開けに下へ降りてゆくのである。オヤジが誰もいない他人の家の部屋を厚顔で通り抜け、フクとエリの居る裏のセンダイへと行くのだ。私はこのオヤジが大嫌いだった。その厚かましさも嫌だったがある日、小用をしに下へ降りて行くとそのオヤジがセンダイで竹輪を紙袋から出している所であり、その瞬間、オヤジの嫌なところを見てしまった。竹輪をちぎりまずフクに2口やると今度エリに1口やる。またフクに2口、エリに1口、その繰り返しである。ところが数の違いもさることながら、ちぎる竹輪の大きさが違うのだ。フクは大きくぶ厚く、エリは小さく薄い。そして最後は必ずフクで終わるのだ。ビスケットもそんな振り分けである。エリがその薄い竹輪を嬉しそうに食べている姿がとても可哀想で不憫でならなかった。たかが竹輪ごときと思われるかも知れないが私にはとても許せる行為ではなかった。オヤジはフクの方が好きだったのだろう。しかし柱の影から見た些細な風景ながらこのオヤジの行為のお陰で強烈に幼い心に傷をつけられた。数ヵ月後このオヤジ、我家族に途方もないことを言い出すのである。文章と写真は関係ありません。
2015.06.30

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/carol当時二十歳そこそこの自称"田辺の裕次郎"の叔父が何か瓶をくわえ美味しそうに飲んでいる。変わった形の瓶の中は黒い水・・。「あ~うまい!」「子供はな、これ飲んだらあかんのや」「お前も少し飲んでみるか?」と不敵な笑いを浮かべながらその瓶を差し出してきた。確かに変わった形の瓶である。こんな瓶今までに見たことがない。中には黒い水・・・。恐る恐る瓶を口に付け一口飲んでみると、今までに味わったことのない未知の味で余りの不味さで吐き出してしまった。これが私が始めてコカコーラの味と出合った時の事である。炭酸といえばサイダーとラムネの味しか知らなかった者にとってはコーラの味は衝撃的な味であった。気持ち的には決して美味しい飲み物ではなかった。余程、何故かお米屋さんが届けるプラッシーの方が美味しく飲めたものだ。余りの叔父のコーラ好きが家族や親戚で話題になり「あれは体に毒」「子供が出来なくなる」「内臓を腐らす」などと出処が定かでない噂をしていたもので、現にほとんどの年配の方はその噂は本当の事と信じていた様である。祖母や母などはあの不気味な"黒い色"に相当の嫌悪感を持っていた。しかし、いくら言おうが叔父のコーラ好きは全く直らず、まるで薬物中毒のように置いてある店を探しては買い求めていた。もともと髪が若干薄かった。にもかかわらずハゲている理由は「あいつはコーラの飲みすぎで髪の毛が少なくなった」とか、もう言いたい放題である。当時の庶民にしては黒いコーラは途轍もないカルチャーショックであったに違いない。テレビでアメリカナイズされたコマーシャルが流れ徐々に皆が飲みだす頃は当たり前のようにいい加減な噂やデマは消えていくもので、その叔父もコーラ好きだったにもかかわらず、病気一つせず、子宝にも恵まれ今では、好好爺で生活している。ちなみに頭は見事に禿げ上がってしまった。もちろんこれはコーラのせいではない。文章と写真は関係ありません。
2015.06.04

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/carol映画好きの叔父は近くの映画館へ幼い私を連れてよく見に行った。子供を連れて行くぐらいだからアニメか怪獣映画と思いきやいつも石原裕次郎か小林旭である。当時の娯楽といえば映画かパチンコぐらいしかなく、特に映画は隆盛を極めていた。叔父も20歳そこそこの青春時代で、裕次郎に憧れていたのだろう。所詮、土台が土台だけに叔父の裕次郎カットはお世辞にもカッコイイものではなかったし子供ながらも裕次郎を見ているとカッコイイ事はわかっている。足が長いし、大勢のヤクザとの喧嘩のシーンなどボコボコに殴られながらもニヤリと笑い、口を切って微かに流れる血を見てボクサー並みのパンチ力で反撃・・・。余りにも強すぎる。それゆえに女性にはあまり興味が無い。これぞ色男の条件か。女性を見たら目をぎらぎらさせた叔父には所詮無理な話でやはり雲泥の開きがある。その頃の映画館は3本立てが大方で叔父に言わせると裕次郎、旭、クレィジーキャッツの組み合わせが最高らしい。その叔父の影響ではないと思うが学生の頃から裕次郎のLPやテープを好んで聴く姿が友人らにはちと不可解に写った様だ。当時は荒井由美、チューリップや吉田拓郎などが若者たちの"神様"であったし、演歌の歌など聴く輩は"体制派"と罵られたものだ。しかし裕次郎の歌はよく聴くと実に味がある。その中でも特に心しみる歌が「わが人生に悔いはない」である。 「わが人生に悔いはない」 詩/なかにし 礼 曲/加藤 登紀子 鏡に映るわが顔にグラスをあげて乾杯を、たった一つの星をたよりにはるばる遠へ来たもんだ。長かろうと短かかろうとわが人生に悔いはない。この世に歌があればこそ、こらえた涙いくたびか、親にもらった体一つで戦い続けた気持よさ、右だろうと左だろうとわが人生に悔いはない。桜の花の下で見る夢にも似てる人生さ、純で行こうぜ、愛で行こうぜ、生きてるかぎりは青春だ。夢だろうと現実だろうとわが人生に悔いはない。わが人生に悔いはない。 誰しもが悔いのない人生をおくりたいと願っている。裕次郎は若くして彗星のように消えていった・・・。しかしその面影は我ら中高年の永遠のヒーローとして強烈に心に焼きついているのだ。文章と写真は関係ありません。
2015.05.22

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/carol三重県と奈良県の県境に赤目という珍しい地名の所がある。ここは日本滝100選にも選ばれた滝の名所で一般に赤目四十八滝と呼ばれている。大小、形の変わった滝など四十八滝以上の表情を見せてくれるのだ。雨が多いせいか水量も多く四季折々何時訪れても素晴らしく、多くのアマチュアカメラマンが三脚を据えシャッターチャンスを狙っている。特に紅葉は素晴らしく滝と紅葉が一幅の絵のように見学者を楽しませてくれる。我輩も人生、人間関係に悩み、迷い、また自身喪失など精神的にダメージを受けた時には何故か赤目に足が向くのだ。行くと本当に心が癒やされる。魂の洗浄と言うべきか。水の流れる音、岩にあたりほとばしる水しぶき、悩みに結論が出るわけではないが滝というものは不思議な力がある様だ。特に厳冬の赤目は雪で風景が一変する。木々は樹氷し、凍りついた滝を間近で見る美しさは、同時に自然界の驚異や尊厳さを充分に体感できる。昔、厳冬の赤目の滝見せたく学生20人ほど連れてスケッチに来たが、余りの寒さと滝の横の遊歩道が凍結しており、少し登ったところで二人の学生が足を滑らしなんと滝壺にはまってしまった。幸いな事に小さいな滝つぼで深さが腰ほどしかなく、学生は自力で這い上がってきたが、落ちた学生には本当に申し訳ないが、不謹慎なことに皆の爆笑のネタになってしまった。事務所でのストーブにお世話になり、笑い話で済ませることが出来たが、一歩間違うと大変な事になっていた。赤目、この不思議な名前は昔、役の行者がここで修行していた時に赤い目の牛に乗った不動明王が現れたことに由来するがその後ここは忍者の修行の地として利用されることになる。文章と写真は関係ありません。
2015.05.18

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/carol大阪の南部、南河内地方の太子町に昔から「太子顔」という言葉がある。民俗的にどう言う意味があるか正確な事は解らない。"言い伝え"とも言うべき代物かもしれないが、この土地特有の顔があるらしい。蟇目、鉤鼻、色白、烏色の黒髪・・・・。父方の祖父曰く、ここは大昔、蘇我本家発祥の地で稲目、馬子の代に奈良の飛鳥に本家が移り、親戚筋である聖徳太子が後に、ここを治めていた。代々聖徳太子の似た顔の子供が多く生まれるらしい。特に太子に好く似た子供に「太子顔」と名誉ある称号が与えられる。大いなる謎の部分も多いがまんざら眉唾ものでもないらしい。太子無き後、上宮一族本家は、斑鳩で蘇我本家、入鹿により滅亡するが、生き残った一部がこの土地に逃げ込んできたのだ。そのとき蘇我の支流であり蘇我山田石川麻呂が彼らを救った。石川麻呂もここが本拠地で邸宅もあった。その落延びた子孫がこの土地に住み着いて現在に至っている。昔から住んでいる住民は多かれ少なかれ縁のある連中である。新しいニュータウンも出来、新しい住民が流入している今は、昔ほど熱心ではないが、そういうこともあってか地の長老は非常に「太子顔」を喜ぶ。ちなみに私も恐れながら「太子顔」であった。幼い時、父の実家に一緒に帰ると「お前は太子顔や。良かった、良かった。」と親戚一同、近所の連中が集まってくる。帰るたびに物凄いご馳走が出たものでそれが食べれるからこそ嬉しかっただけで、流行廃りのない、この顔で得したことは余り無い。当然ながら顔というものはそれぞれの生き方でいい顔にもなるし、味のある顔にもなる。悪い事を考えたり、行なえばそれなりの顔つきになるものだ。しかし最近、鏡を見るたびに、どうも見てもお金のありそうな顔には見えそうもない・・・。少し考えすぎか・・・。文章と写真は関係ありません。
2015.05.14

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/carolピンと張詰めた空気が重苦しい。国数英の順に試験が行なわれたが、明らかに自分より自信に充ちた受験生の後ろ姿が見える。試験終了時間が来ると案外サバサバとした気持ちで鉛筆を置いたが燦々たる回答用紙を見るに付け正直これで終わったかなと内心おもったもので、気持的にはもう落ちてもいい、又、初めからやり直したらいいと思いつつも落ちたら明日から仕事もない、どうしたらいいのか、そこまで深く考えても頭が廻らない。家でも私を瑕かってか皆、無口になる。二日目はデッサンで、ハンカチと石鹸、それと油土を構成するわけだが比較的私にとっては簡単すぎる試験で正直、物足りなかったものだ。帰り道、やけに夕焼けが綺麗で、太陽が日の丸の様にでかく、頻りに感動しながら一人、田んぼのあぜ道を歩き「これですべておわったんや・・・。」母の日本バサミを見ながら、独り言を呟きながら駅までの道草。そのときの夕焼けの美しさがいまだに脳裏に焼きついている。実は試験の2日間、有給休暇をとって受験に来ていた訳でまだ"籍"は会社にある。数日後、家から職場に電話がかかって来たがそれが合否の電話であることはすぐに察せられた。「もしもし・・」「あかんかったか・・」「あほんだら、合格や」「安心せい!通った!」父の狂喜する声が受話器から漏れてくる。喜びが全身からほとばしったと同時に全身から力が一気に抜けて行き、会社退職の2日前であったことも私の精神状態が尋常ではなかった。合格通知を見たとき、嬉しさよりも母の元気な姿が走馬灯のように次から次えと現れては消えてゆくと同時に一気に涙腺が緩み、ここに母がいない悔しさで仏壇の前で泣き崩れてしまった事を思い出す。念願の大学生になるわけだが大学で工芸というものに面白さを見つけ、以後のめり込んで行く事になる。そして工芸を専攻したらこそ又、染織家、写真家の大家にめぐり合える事など今の時点では想像すら出来なかったもので、今から考えれば当時、とてつもない大きな賭けに出たものだと苦笑せざるを得ない。若さゆえんの爆走かもしれない。もし受験に失敗していたらどうなっていたか・・・。又、違った人生を歩んでいただろうし、どちらが本当は良かったかそれは今の時点では解らない。ただ母の最後の約束だけ果たせたことだけが異常に嬉しかった。文章と写真は関係ありません。
2015.05.07

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/carol親は大学に進学して欲しいと願っていた。そんな親の期待を裏切って就職する道を選んだのである。少しの迷いも戸惑いも私には無かった。高校を卒業して少しでも親の負担を軽くさせたかったし、早く一人前として自立したかったのも大きな理由である。早々に内定が決まっていたある大阪の中堅染工場に入社させてもらい、デザイン室に配属され、輸出用のアロハ柄を毎日毎日カラーインクで手を染めながら描いていた。昼休みにはバレーボールを楽しむ姿は、まるで絵に描いたような工場での休憩風景である。この年、デザイン室には高卒の私と、短大卒の女性が入社したのだが、数ヶ月経つ頃からか、彼女と仕事の内容に差がつきだした。彼女は東京出張、企画の立案などまかせられ、こちらは毎日毎日、黙々と筆を動かす仕事のみである。このあたりからか"学歴"という目の見えない壁の存在がひしひしと重く圧し掛かってきたのはいくら鈍感な私でも十分わかった。たかが2年如きの差でこれほど仕事の内容が違うものか、やるせない気持ちが徐々に大きくなっていったのは確かである。毎日、仕事の内容で悩む日々が続く事になり、悩んだ末の一つの結論が大学受験であった。「俺、大学受けるわ・・」と母に言うと、なんともいえない嬉しい顔をしていたのを今、思い出す。結論を出した以上その日から仕事が終わると猛勉強が始まった。半年間のブランクは大きい。自分自身でも鬼の形相で毎日を過ごしていたと思う。たとえ不合格でも悔いの残らぬようにと自分自身に言い聞かせていたものだ。ところが母の健康状態が急に悪化、新年早々、帰らぬ人となってしまった。誰がこんな事態を想像していたか、完全に精神が萎えてしまった。母を想い出しては涙が流れ、こんな精神状態で受験などできるのか。大学受験を断念しょうかと真剣に悩んでいた時、父も見るに見かねてか、母が病床で「お前の大学受験・・・ほんまに喜んでいた」「あんな勉強嫌いが大学受験するとはな。人生は判らんな・・」母の気持ちを汲んで受験しろと父は言う。母の気持ち、43才の若い命でこの世を去る無念さを考えるとくやし涙と、ただただ悲しく、毎日涙を流すことしかできなかった。2週間後の受験日、母親が内職の時に使っていた大切な日本バサミをそっとを筆箱に入れ悲壮感漂う姿で14倍の難関にぶち当たったのである。文章と写真は関係ありません。
2015.05.03

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/carol「はな~ぇ~」「はな~ぇ~」と、祖母の大きく透きとおる声が下町の住宅地に響く。運搬車の自転車に繋がれたリヤカーは生花を満杯にして月、3回の行商に出る。祖母の声に待ってたかのようにお客様が玄関から飛び出してくる。いつも祖母の行商を楽しみにしている人たちで花売りもそこそこに井戸端会議が始まり世間話に花が咲く。叔父と祖母が行商している所に何故か幼少の私も付いて廻るのであるが、常連のお客さんは私を目敏く見つけると、お菓子やらお饅頭など大量の差し入れがある。私が喜んで付いて廻る一つの訳がそれで、滅多に子供が食べられるようなお菓子ではない。高級品なのだ。世間話をしながら祖母が慣れた手つきで仏花、榊など組んでゆき藁で見事に括りつける姿はまるで手品を見ているようで、私はその不思議な括り方に興味を持っていくら真似をしても花がばらけてしまい、全く出来なかった事を覚えている。この括り方は祖母が昭和初期に考え出し、以後関西の仏花、榊のくくり方の主流となる訳で、今でも花屋やスーパーの生花売り場でこの結び方を見ると祖母の姿を思い出すのである。私が、行商につきまとう理由はもう一つある。必ず祖母は昼食を"純喫茶"で食べ、コーヒーを飲んで休憩する。そして"しんせい"のタバコをうまそうに吸う。もちろん幼少の私も連れて行ってくれるのだがなにせ子供は"純喫茶"には行けない。当時高校生でも入っている所を見られると退学になったらしい。"純喫茶"その怪しげな名前は何をもって"純"というのか・・・。未だに解らないが、祖母と一緒に食べたホットケーキの味とクリームソーダの不思議な美味しさは脳裏から忘れる事が出来ない。当時の行商のルートは記憶には残ってはいるものの昔の人情味溢れる下町風情は消え、高層マンションが立ち並ぶメタリックな風景になってしまった。「はな~ぇ~」「はな~ぇ~」の声は無機質な街には似合わない。それはもう仕方がない・・・50年も前の昔話である。文章と写真は関係ありません。
2015.04.28

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/carol河島英五を知ったのは大学2回生の頃か。南九州をヒッチハイクをしていた頃、鹿児島の阿久根という町のある小さな食堂でラジオから彼の歌が流れていた。なかなかいい歌でメロディーだけが頭に残り曲名は解らなかった。その歌が「酒と泪と男と女」と解ったのはかなり経ってからの事である。当時、彼が20代そこそこの歳で此れほどの情感の歌が唄えるとは内心感心したものである。何時ごろからか、自然に彼の曲や人間性が好きになりその豪放磊落的な人生は私にとっては一種の憧れであった。河島英五のコンサートだけはよく行ったもので値段もリーズナブルなのが正直嬉しい。素朴な舞台は彼の性格をよく現しており飾り気が無い。熱唱する彼の姿は今も目に焼きついているが、全く病気とは縁が無かったと思われていた彼が病気で48才の若さで逝ってしまった。悲しかった。若い頃から彼の歌に勇気を与えられ人の心情を教えられて来たものにとってはポッカリと心の中に穴が空いたような気持ちである。「生きてりゃいいさ」「野風増」などの名曲があるが私は特に「時代おくれ」の詞が大好きで生涯こんな人間でいたいと思うばかりである。 「時代おくれ」阿久悠作詞・森田公一作曲 一日二杯の 酒を飲み さかなは特に こだわらず マイクが来たなら 微笑(ほほ)んで十八番(おはこ)を一つ 歌うだけ妻には涙を 見せないで子供に愚痴(ぐち)を きかせずに男の嘆きは ほろ酔いで酒場の隅に 置いて行(ゆ)く目立たぬように はしゃがぬように似合わぬことは 無理をせず人の心を 見つめつづける時代おくれの 男になりたい不器用だけれど しらけずに純粋だけど 野暮じゃなく上手なお酒を 飲みながら一年一度 酔っぱらう昔の友には やさしくて変わらぬ友と 信じ込み あれこれ仕事も あるくせに自分のことは 後にする ねたまぬように あせらぬように飾った世界に 流されず好きな誰かを 思いつづける時代おくれの 男になりたい目立たぬように はしゃがぬように似合わぬことは 無理をせず人の心を 見つめつづける時代おくれの 男になりたいこんな時代だからか。やけに心にしみる・・・。英五、ありがとう。 合掌。 文章と写真は関係ありません。
2015.04.19

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/carol最後の船場商人は言っていた。「企業とは存続させることが何より大事なことや」廃業すれば従業員は路頭に迷う。従業員の後ろには家族がある。それを考えると企業の経営者たる者、非常な社会的責任を負わされる。船場では三代もつのは珍しいと言われる。創業者は苦労しながら会社を立ち上げ、二代目はそのオヤジの後ろ姿を見て育つ。三代目になるとそんな苦労も知らず、ぼんぼんで、なんの苦労も知らず育ててもらう。ぼんぼん社長の従業員になった者は悲惨であり、たかが、三代もたせるのも至難の事なのである。そんな中に、大阪の天王寺に驚くほど長い歴史の会社がありおそらく世界一の長き伝統の老舗がある。創業西暦578年、今から1400年の昔の飛鳥時代で、株式会社「金剛組」という会社である。社寺建築や、復元、修理などが主な業務で四天王寺建立の為、聖徳太子の命で百済から三人の工人が招かれた。その後脈々と伝統が受け継がれ、現在に至っている。1400年の間、存亡の危機は沢山あった筈でそれを乗り越えてきたのだから凄い。ちなみに大工という意味は「大きな工人」という意味でその中の棟梁は男の中の男の仕事といわれてきたし、江戸時代初期までは、人々から職人は尊敬の念をもたれていた。しかし、徳川時代の「士農工商」の身分差別により職人は蔑まれてくる。今の時代でもホワイトカラーから見ると職人はやや蔑まれている感は拭えないのは私の考えすぎか。1400年には及ばないが日本には創業1000年の和菓子屋や800年間の味を守ってきた京都の料亭など数多くあるのだ。どの店や会社など決して大きくは無いが長く継承されて来たには訳がある。いろんな物に手を出さなかった事であり家業一筋に打ち込んできたからであろう。バブルに浮かれた企業はいろんなことに手を染め、バブル後に泡と消えていった。能力の無い経営者は社会的に責任を負わなければならない。だが、企業を信じてきた従業員は気の毒というほかはない。「扇子商法」で有名な船場の社長は合えば必ず「景気のいい時は扇子を広げ不景気になれば扇子をたたむ」「大きく成る事よりも企業の存続が大事や」と眼鏡の奥の眼光鋭い目でただただ言うのみである。文章と写真は関係ありません。
2015.04.14

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/丹波黒の枝豆の存在を知ったのはもう約35年も昔のことか。篠山で日本画を描かれているある先生から一房頂いた。その美味しさに新鮮な驚きと普通の枝豆には無い芳醇な香りは一瞬のうちに私の味覚を虜にしてしまった。以後毎年、解禁日になると車を飛ばして買いに行くのであるが、全く残念なことに10年ぐらい前からか"純"丹波黒の枝豆が消えてゆく。ブームになれば生産が追いつかなくなるのは当たり前で愛知産や岡山産などが平気で篠山の店頭に並ぶ。いかにも今、畑から抜いてきた様に見せるテクニックは見事なものであるが、気の毒なのは本物の丹波黒の枝豆と疑う事無く、買った観光客である。どうも地場産ではなく、怪しい・・・と感じた頃から自分の食べる枝豆は自分自身で作る事にしたのだ。もう5年ぐらい前になるか・・、隣町である八千代町の役場に頼んで畑を借りて育てた訳だが、此処は丹波地方と気候が好く似ておりで、朝夕と昼の寒暖の差が大きいこと、これが大事でこれが無いと黒豆は大きく育たない。もともと豆自体そんなに肥料はいらない。ほったらかしにしていても育つ物で難しい講釈はいらない。無農薬で育てた黒豆はそれは立派な実を付けていた。まさしく30年前に見たあの本物の黒豆である。やや紫色に煮えあがった黒豆は円やかな湯気の中から見るからに食欲をそそる。枝豆として食べる分だけ収穫し、あとは大黒豆の成熟を待つのだ。山に囲まれた猫ほどの額の畑は街の雑踏を忘れさせてくれるには十分な大きさであり、一日何も考えずに農作業に励むことができる。ささやかながら「晴耕雨読」を楽しむことができた。ちなみに私は八千代町に縁もゆかりもないが八千代町の御好意により"名誉町民"にさせて頂いている。文章と写真は関係ありません。
2015.04.09

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/ちょっと変わった男がいた。まるで漫画の世界から飛び出したような強烈なキャラクターの持ち主だった。怖い顔ではなく非常に愛嬌のある顔で性格も非常にいい。私の高校時代の悪友であるが、彼の常識は我々の非常識で、常に失笑の的であった。いくら注意しても直す気がなく、まるで唯我独尊、我道を歩むタイプであり、それでいて、なぜか彼と一緒にいる時は、話が弾み楽しいのである。人の家に上がりこんでは、勝手に飯を食いだす。それも遠慮せず食い尽くすから始末に悪い。この男に遠慮と言う言葉は頭の中には存在しない。最後には炊飯器の釜や味噌汁の鍋など脇に抱え、最後の一粒、一滴までむしゃぶりつくすのだ。家人も開いた口が開いたまま、あきれ返っている。「ポリバケツ」彼に付いた名誉あるあだ名である。彼は嫌がることなくこの名前が非常に気に入っている節があり、ポリバケツをかぶってはおちょけていた事を思い出す。もう一人の悪友が非常に似顔絵が上手く、呆れるほど特徴を鋭く捉える。彼が「ポリバケツ」の似顔絵を描いた時、デフォルメされた顔はそっくりで、自腹が捩じれるほど可笑しくて転げ回ったものだ。丸い顔に分厚い唇、小さな目、吊り上った眉毛に、デカイ鼻、そしてプロレス狂である。下級生にも瞬く間にその似顔絵は"秀作"として浸透したのである。下級生もフランクに上級生の教室に入り込み、彼の顔を拝みに来る。その中に漫画を描くのが何よりも好きな彼らはいた。数年後、ポリバケツの彼にそっくりの顔のプロレスラーが現れる。その作品によって彼らは有名な漫画家に君臨する事になる。悪友「ポリバケツ」は彼たちの筆により、ヒタイに肉の刺青をいれられ、正義のプロレスラーのヒーローとなり日本を席捲、大ブレイクするのだが、チビッ子達の大好きなプロレスラーのヒーローが我、悪友がモデルだとは当時を知る者しか知らない。そんな正義のヒーローのモデルになった彼もキャンブルには勝てず、噂では余りいい話は聞こえてこない。文章と写真は関係ありません。
2015.04.05

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/あれほど勉強が大嫌いで、教科書に漫画しか描かなかった男が高校に入ると人が変わったように勉強しだした。徹夜の名前すら知らなかった人間が、時間も忘れ物事に熱中する。今考えても、もし校長の一言がなく、普通科の高校に進学、また高校を断念していたならば、人生も大きく変わっていたに違いない。それが良いか悪いか今の時点では解らない。ただ、芸術や物作りの道に進まなかったのは確かである。よく母親が言っていた事を思い出す。「好きな道なら死んだ気でやれ」「好きこそ物の上手なれ」その単純明快な"教育論"は理論好きの評論家でも太刀打ちできまい。また人との出会いも重要である。"最低ランク"の高校にしか入れなかったが、教員の先生方は"最低ランク"ではなかった。人間的に魅力があり、熱心に指導していただいた。有難いことに与えられた「一冊の本」により、全く未知の世界に足を踏み入れることが出来たのも先生の一言であり、私自身が人間的に形成されたのも高校時代が基本になっているのも事実である。できの悪い孫をあきらめず愛してもらった祖母は晩年、「人生に勝ち負けはない・・。いい人生やったと思える生き方がいいんや」そのときは右から左に聞き流していたが、今ようやくわかる世代に指しかかった。余談であるが、時世がらよく「勝ち組、負け組」とメディアから流れるが、私にはこの言葉の意味が解らない。何をもって勝ち、負けが決まるのか。お金を稼いだ人間が勝ち組なのか・・。そうではあるまい。金満でも人間的に魅力の乏しい人は多いし、清貧でも心豊かなスケールの大きい人物もいる。金でしか物を測れない人間は不幸である。これはワーキングプアの私の僻みとも聞こえるが、もし祖母は生きていたらば今の時代を如何考えるだろう。デキの悪い息子の高校進学すらほぼ諦めていた母親も晩年「いきたかったら上の学校行かしてもらい・・」と何を訳の解らない事を言っているのかと一蹴していたがおそらく自分は、もう永くはないと考えていたかも知れない。高校時代に大切な二人が相次いで逝ってしまった事も後の私の人生哲学に大きな影響を与えてしまったのは確かである。祖母の一言である、「いい人生やった」と思えるような生き方を私もしたいものである。文章と写真は関係ありません。
2015.04.02

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/ずっしりした重厚な写真集「古寺巡礼」はその重さで内容が測り知れた。食入る様に1枚、1枚ページをめくる。レンズをから見た仏像に圧倒された・・・正直に素直に真面目に写した被写体は、それが故にこの極楽トンボを完全に虜にしてしまったのだ。奇抜なテクニックを使わず、自然光だけを使ったその律儀さは被写体である仏像を最大に生かしている。巨大なハンマーで頭を殴られたような状態で、私の頭の中は完全に真っ白になり、心理状態はまさしく"極楽浄土"である。不撓不屈の写真家、土門拳は二度の脳出血にも負けず車椅子で撮影し続けたのである。その姿は尋常ではない。三度目の脳出血を起こし11年間こん睡状態の末、1990年81歳の生涯を終えるのだが、写真に対するひた向きな生き方を知るにつれ、またもや泣き虫男はここでも感動の涙を流すのである。なぜこんなにも涙腺が弱いのか・・。天を恨んだ・・。自分自身でもこのような人の心をつかむ写真が撮りたい、壮絶な生き方がしたい・・・。10代の頃ゆえの純粋な気持ちである。以後、週末の過ごし方が変わっていく。日曜日や祝日になると一人で気ままに奈良を訪ね、まほろば香る大和路を写す事を始めた。雨が降ろうが、風が吹こうが古都奈良へと足を運ぶ。何かにとりつかれた様に20キロや30キロはざらに歩いたものである。歩かなければいい写真が撮れないという自負がこのカメラ小僧に如何いう訳か信念としてある。祖母から借り受けている全自動リコーオートハーフを持って・・・。一眼レフが欲しかった。咽からから手が出るほど欲しかった。仕上がりの悪い写真は祖母のカメラに責任を転化、己の腕の悪さは棚に上げているから始末に悪い。写真担当の先生などは、「弘法は筆を選ばず」ともっともらしい事をいいながら笑うのみである。カメラは、我が家には全く縁のない品物で私自身、幼い頃から親に写真を写してもらった経験など記憶に一切ない。その点祖母はハイカラな人で、当時でも1万円以上した全自動リコーオートハーフを持っていた。そんな情報を黙って頬って置くほど善良な孫ではない。なんやかんやと訳の解らないことをいいながら善良な祖母からカメラをくすめ盗ってしまった。本当に悪い孫である。数ヵ月後に、そのカメラが祖母の大切な形見になろうとは今の時点では知るよしもなかった。文章と写真は関係ありません。
2015.03.28

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/高校に合格した・・・。悪名高き高校で、知る者は名前を聞くだけで後退りする。母親はこんな高校でも素直に喜んでくれた。合格通知を仏壇に供え、御先祖様にご報告中である。高校のランクなんかこの親には全く関係ない。高校は高校なのである。父親も酷く喜んで、飲めない酒を飲み過ぎ、すでに夢の中で遊んでいる。その夜、母親に呼ばれた。母は内職をしていた手を止め、神妙な顔をしながら口を開いた。「・・・これでお前の好きな道にいけるな。自分の選んだ道や。一度は死んだ気になってやってみろ。好きこそ物の上手なれていうやろ」それだけ言って又、内職に精を出す。くどくどとした能書きは一切言わない人で、その言葉が、最初で最後の母の"教育論"であった。母の一言が効いたかどうかは解らないが、とにかく水を得た魚の様に高校入学後は親が私の体を瑕かうほど勉強に夢中になってしまった。まるで、何かに取り付かれたようなありさまである。デザインやデッサン、製図などは、夜を徹して描いたり、日本美術、西洋美術の専門書を読みふけったもので、教養を得るということがこんなにも楽しいものか遅まきながらこの道楽息子にも解ってきたような節がある。ある日の放課後、職員室から声がかかった。職員室なんかに呼ばれることは碌な事がないと頭から思っている。ところが予想外であった。ある風景を写した1枚のモノクロ写真がある先生の目に留まり、やたらと褒めて頂いた。「ええ写真やな。なかなかのもんや・・」他の先生も横から覗き込み「これええで・・、物語があるな・・。」猛烈に気恥ずかしくなり、本人は正直何処がいいのかその時点ではさっぱり解らない。先生は徐に立ち上がり本棚から1冊の写真集を取り出し、私に見るよう勧めてくれた。「土門拳写真集」である。後にこの一冊の本が私の後半の高校時代を大きく変えることになるとは今の時点では想像すら出来なかった。写真は関係ありません。
2015.03.23

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/級友たちは高校受験の為に猛烈に勉強している。それを横目で見ながら、まるで自分とは無関係な事だと、この極楽トンボは感じている。まるで切迫感がない。相変わらずである。もう下がる事のない定位置に鎮座しながら、ふと、行く高校あるのかな?・・・そんな心配する位なら少しは勉強しろと誰もが言いたいところだが、勉強せずに高校へ入りたいと明らかに虫のいい事ばかり考えている。ある放課後、先生が「進路について話し合いがあるから覚悟しておけ。」覚悟しておけ、とは進学をあきらめろということか・・・。あきらめるのは自分にとっては容易いことだが、最低の高校でも入ってほしいと願う母親の気持ちを考えると妙に切ない感情が溢れてくるものだ。校長室に呼ばれ中に入ると、部屋には校長、教頭、そして担任が悲壮感漂う空気の中で、私の成績表を見ながら明らかに言葉を失っている。担任は眉間にしわを寄せ、タバコを吸うよりもしがんでいる。教頭も怪訝な顔で此方を見ており、おそらくどうしたらこんな悲惨な点が取れるのかその術を聞きたいような感すら感じられるのだ。勉強は嫌いか?行く高校無いぞ・・、ほら来たぞと思いながら、はげあがった教頭の頭を眺めていると、校長が徐に「絵が好きなんか・・・。わしと同じやな。長谷川等伯が好きなんや。君は誰が好きなん?」以外な質問に当然一年前に万博で見たジョアン・ミロが好きです。と言ったもののミロ以外の作家の名前は当然、頭の中には見当たらない。もし詳しい突っ込みでもされたら、此方は困るのだ。ボロが出て収拾がつかなくなる。「ほぉ~ミロか」校長は少し嬉しそうな顔をし、「絵やデザインの勉強出来る学校はどうや。絵が好きなら絵の勉強をやってみたらええんとちがうか」そんな高校あるのかといくつかの質問をした。凄くやりたい、やってみたい、そんな気分がもう単純明快な男に取り付いてしまった。帰り道、珍しいことに高校について真剣に考えてみた。親にそのことを言うと、開口一番「行かしてくれる高校があるだけでもありがたい。補欠でもなんでもいい。入ったらビリでもいい・・・」毎日言っているお題目であり、はたして、絵やデザインを習う高校を受験すると親は理解しているんだろうか。息子も困った者だが、親も困った親である。受験する高校はわずか10分で決まってしまった。
2015.03.21

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/全く、小、中学校では勉強しなかった。その度胸たるや凄まじいもので翌日中間試験であろうが期末であろうが、教科書すら開かない。そんな人間にまともな点など取れるはずがないし、躾だけには異常に厳しかった母親も情けない事に子供の教育には今ひとつ関心が薄い。試験で悲惨極まる点を取ろうが、試験中ににナイターを見に行こうが注意の一つもしない。子が子なら親も親である。ちなみに人に見せられない情けない答案用紙は丸められ、帰り道にあるため池に向かって投げつけられる。そして池の藻クズと消えるのである。働き者の母親は内職の仕事を悲壮感漂う姿で、寝る間も惜しんで作業していた。バカ息子の学業の事まで頭が廻らなかったのかも知れない。それを逆手に取って自分の好き勝手な事をしていたのであるから始末に悪い。1年間終わると全く手あかのついてない新品同様の教科書と漫画を細密に書き込んだ我ながら惚れ惚れする出来栄えの教科書がある。そんなとんでもない男にも最低の高校だけでも行ってほしいと願う親のささやかな想いがあった。悪友も試験期間中はさすがに遊んではくれなかったし、そんな時、なぜか絵を描いていた。絵が好きだった。チラシの裏に、Gペンを使いインクで、外では、コンクリートの上にロウ石で空想の世界を描く・・・。自分自身でも恐れながらも誰よりも上手いと感じていたが、そんな折、この勉強嫌いな中学生に電撃的経験を体験する。70年大阪万博の時、ガスパビリオンの招待で来日していたジョアン・ミロの制作現場に偶然にも見学することが出来た。彼は"無垢の笑い"をパビリオンの白い壁面にペンキと刷毛でものの30分で仕上げてしまったのだ。その時の衝撃の大きさは今もって忘れることは出来ない。その伸びやかな筆のタッチ、大胆な構図に黒を基調に強烈な色彩・・・。そんな面白い世界があるのか。・・・すべてが新鮮で感動した。まさに目から鱗とはこのことか。それを境にやってみたいことがおぼろげながら見えてきたのは確かであった。しかしそれを具体的に説明できるほど、私自身の頭が回転していなかったのも、また事実である。文章と写真は関係ありません。
2015.03.20

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/学生時代のバイトの中で今も強く心に残るシーンがある。当時、学生服の小売店で配達の仕事をさせてもらっていた。学校指定の店なので入学シーズン前になると殺人的な忙しさになる。制服が仕上がる度に原付バイクでお客様の自宅まで届け、代金を頂戴する。ある日、店主からセーラー服の配達を頼まれ届けることになった。私は伝票の住所を見て少しばかり顔が曇った。嫌な胸騒ぎがした。バイクを飛ばして15分。目的地まで行くのに道は入り乱れ、狭く、バイクが通るのが精一杯である。ここは大阪でもかなり貧しい人が肩を寄せ合い生活している所で、まさに地図に乗っていないところなのだ。路上でオヤジが酒を飲んで寝ている・・・。夫婦なのか路上に胡坐をかきおそらくホルモン焼きか、美味しそうに食べている。このあたりの家、アパートは皆、多少なりとも傾いている。目の錯覚ではない。家が斜めに傾いているのだ。配達先の家はアパートである。やはり傾いていた。入り口のドアーも窓も看板も・・・。アパートの前で女の子が、なにやら此方を見ながら「制服屋の兄ちゃん!、もってきてくれたん・・・」女の子は毀れるような笑顔で問いかけてくる。お世辞にもいい服を着ているとは言えない。「2階にお父ちゃんとお母ちゃんいてる・・。」女の子は私の届けた制服の箱を大事そうに抱えながら自分の部屋へ走っていった。建物が傾いているせいか此方がめまいを起こしそうな錯覚に陥る。傾いた階段を恐る恐る登ると、4畳半ぐらいの大きさか、かなり散らかった少し異様な匂いがする部屋に。真ん中に父親が厳つい顔をしながらタバコをふかして私の姿を見たのか「兄ちゃん・・・まぁ中へ入り・・」母親もうまそうにタバコを吸っている。即座に貧しいことがわかる。父親は能書きを並べだした。俺は病気や、だから働けない、明日に生活保護費が出る、だから私に何をしろと言うのだ・・。要は今は金が無い。商品だけ置いて行け。と言うことらしい。代金を頂かないと店主に怒られることをいくら叫んでみたところで、金ができたら払う。の一点張りである。商品は持ち帰りますとはさすがに言えず、もはや彼女は箱から制服を取り出して嬉しそうに体に合わせて母親と喋っており、今更奪い返して持って帰るわけにも行かない。しかし彼女は本当に幸せ一杯の笑顔を振りまいている。今までほしいものも買ってもらえず辛抱してきたのであろう。そんな彼女の過去を考えていると目頭が熱くなり、涙もろい自分に情けなくなる。涙を必死に押さえ、商品を奪い返すこともできず、店主が怒るであろう店におめおめと戻ったのである。事情は説明し、謝った。「解った・・。ご苦労さん」店主はそれだけ言って又、作業場へと消えていった。なぜか遣る瀬無い気持ちが襲ってきた。その後お金を払ったかどうかは私には判らない。ただあの時の笑顔の彼女が今どんな風に暮らしているのかすこし知ってみたい気がする。
2015.03.19

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/大丈夫かな?・・・最初に出た言葉である。88年仰木彬が近鉄の監督に就任した。18年間二軍近鉄のコーチをやりその優れた策略家として我々近鉄を心から愛する者としてはその存在は早くから知られていた。だが監督となると当時仰木彬では余りにもインパクトがなかったし、他球団から見ると実に影が薄いのである。誰もが今年の近鉄は最下位以外予想した解説者はいなかった。しかし仰木は策士であった。就任1年目から、仰木マジックを披露し、誰が予想したであろう最後の最後まで西武との優勝争いに残ったのである。そして近鉄が優勝するにはダブルヘッダーで2勝しなくてはならない。引き分けや負けは許されないのである。以後、熱き涙なしには語れぬ、球史に残る名勝負と語り継がれる10・19の幕開けである。ロッテ戦の川崎球場には人が血相を変えて殺到した。球場は観客で溢れ、周りのお店や売店はてんやわんやの大賑わい。入れなかった観客は球場の見える近くのビル、マンションに大挙押し寄せたのである。自分自身も朝から体が小刻みに身震いしている。落ち着かない。川崎へ行きたい気持ちで一杯である。テレビ中継が始まると廻りは異様な空気をかもし出している。試合が進むにつれ、絶叫し、喚き叫ぶ。笑い、そして落涙・・・。第一試合はロッテに4-3で勝った。あと一試合・・・。もう我、全身になぜか力がみなぎるのである。もうこの勢いでは近鉄の優勝間違いなしと思われた。しかし野球の神様は残酷この上ない。惜しくも近鉄は優勝できなかった。第二試合は時間切れ4-4で引き分けたのである。引き分けでは優勝できないのである。天を恨んだ・・・。卑怯者有藤監督の時間稼ぎの抗議。彼を今もって許すことはできない。後日、有藤はあの抗議は間違いだったと回想している。閉口したのは私だけではあるまい。己の信念で行なった戦術的な時間稼ぎ抗議をいまさら何を後悔しているのか。勝負師が口に出すべく言葉ではない。今でも思い出しても胸糞が悪くなるのだ。近鉄ナインは皆、泣いていた。ブライアントは父親が危篤なのに日本に残った。仰木監督も男の涙を流し泣いていた・・・。そして誰よりも近鉄を愛してた私も泣いていた。プロ野球を見て感涙で咽ぶのは初めてであり、野球とはこれほど深く、面白いもであるか再認識させてもらった。本人には迷惑かもしれないが畏れながら私も仰木彬を心の師と仰ごうとそのとき微細ながら心に誓った。翌年、近鉄は悲願を達成する。宙に舞う仰木彬監督。昨年の雪辱を果たし、強豪、森西武を叩いた。まるで筋書きのあるドラマである。あれほど地味、影が薄いと言われ続けた仰木彬は就任2年目でこれを境に押しも押されぬ名将としての地位を築いてゆく。文章と写真は関係ありません。
2015.03.18

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/近鉄球団が消滅して随分と経つが、数少ないファンの一人だった者としては寂しい気持ちは今も消えない。パリーグのお荷物球団として幾たびか売却を囁かれた。こんな球団を好きになったのだから私も世ほどの物好きかもしれない。もはや小学生の頃からの力の入れようで、なにをきっかけにファンになったかは今もって解らない。当時は近鉄の野球帽をかぶるのが非常に恥ずかしくて、西鉄の帽子をかぶっていたものである。そんな弱小球団にも世間の目が注がれる時が、往く度か在った。一つは第51回夏の甲子園の決勝で延長18回引き分け再試合になり、松山商業に敗れた三沢高校の太田投手の入団である。この決勝戦の中継は我が家の家宝であった14インチ白黒テレビを前に、当時でも珍しかったであろう羽根がブリキ製の扇風機をガンガン回しながら観戦した。まさしく「死闘」とはこの事だろう。ロシアの母の血を持つ太田投手は非常に端整な顔立ち、体型もスマートである。なぜか表情は少し影がありそんなところがまた女性の母性をくすぐるのか人気を独り占めにしていた。一方の松商の井上投手は非常に沈着冷静で終始表情を変えず投げていた。彼の眼鏡の奥の鋭い眼光が今でも記憶にある。その太田投手がドラフトで近鉄に入団する事になった訳だから世間は注目する。誰かが言っていた・・・「近鉄なんかに入って可哀想・・・」憤懣この上ない。大きなお世話である。これで優勝できるとは世間知らずの中学生の私すら思わない。彼の入団もあり、その年はよく藤井寺球場や大阪球場、日生球場へとよく足を運んだもので、それも一人で応援に駆けつける。近鉄戦など誰が誘っても付き合ってはくれないし、失笑されるのがおちである。ただただアンパンをかじりながらほとんど空席の中での応援で、随一近鉄の私設応援団の熱気だけは凄まじい迫力があり、それが余計にがらすきの球場に違和感を与える。座るのが疲れてきたら、十分寝転がってみることもできるし、トイレを行く時も前の観客を気にしなくていい。そんな情けない利点もあることはある。太田投手も期待された以上の活躍はできなかった。まさに弱小近鉄の色に染まってしまい、彼もまた低迷することになる。巨人、阪神へと渡り歩くが花は咲かなかった。しかし、近鉄が全国的に注目される時が来る。あの88年の10,19である。文章と写真は関係ありません。
2015.03.16

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/はんどんの土曜日の午後は外食である。ちょっとセレブな感じがしない訳でもないが、ここは下町、50円玉を握り締めて全力疾走で駆け出す。目指すは「はりまや」。何のことはない、たこ焼き屋である。焦るのには訳がある。早く行かないとすぐに席を占領されてしまう。たこ焼き如きと失笑されそうだが、当時、小学校上級生の私には、一人で外食できる唯一の場所であり、仲間と密かな相談をする大切な場所でもあった。狭い店はオヤジ一人で切盛りしている。5~6人も入れば店は満杯状態になる。子供にもやたらと愛想がいいオヤジで我ら悪童仲間の評判もすこぶるよい。まさしく行きつけの店である。当時は10円でたこ焼き6ヶが買えたもので、50円あると30ヶも食べられる訳で、十分満腹感を味わえることができた。ここのオヤジの良いところは焼きすぎたりして硬くなったり、こげた物は売らない。残ったそのたこ焼きを我ら"上客"に2~3個ずつ、サービスしてくれるのだ。些細な事ながらこれは子供に取っては非常に嬉しいもので、以後注文する時は「おっちゃん!固め、こげたやつ入れて!」。するとオヤジは決まってサービスしてくれる。31個目が入ると自然と顔がほころぶのであり、何とも言えない充実感が小さな心を満たす。世間一般のたこ焼き屋の中身は蛸、テンカス、生姜のみでここはそれになんと蒟蒻、干し海老が含まれており、単純、明快な我々はここのたこ焼きは大阪で一番やなと仲間自身でやけに納得し合っていたものだ。ただ一つ我々には不満があった。ガスで焼かないのである。なんと炭火で焼く。古臭いな。時代遅れやな。と仲間同士でほざいていたが、今から考えるとすこぶる贅沢なたこ焼きを食べていた訳で、「おっちゃんなんで炭なんかでやいとんや?」「ガスないんか?」子供の言葉は残酷である。ただただオヤジは笑いながらもくもくとたこ焼きを焼いていた。額に汗の玉を浮かべた横顔は記憶の片隅に残っている。もっともそのお陰で調節ができず、焦げたたこ焼きが我々に廻ってくるのであるからこれほどありがたいことはない。のみ放題の"水"を飲みながら、無造作に詰まれた漫画を読む・・・。この上ない幸福感の絶頂を味わっていると、やがてテレビからお馴染みの曲が流れる・・・。「吉本新喜劇」の始まりであり、たこ焼きを食べながらがら吉本を見る。これぞ大阪人の土曜日の午後の典型的な過ごし方である。炭火焼きの贅沢なたこ焼きを食べさせてもらった「はりまや」は、今はもうない。文章と写真は関係ありません。
2015.03.15

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/悠仁親王のお印が高野槇である。高野槇という言葉を聞いて、若輩の頃の思い出がよみがえってきた。現在では高野山に登るのはケーブルカーもあり簡単に山上に到達するし、それが日常的な参拝者の方法である。ところが空海を回想しながらこの高野山、一度歩いて登ったことがある。遥かな昔はみんな歩いて参拝した訳だが今はそんな無駄な事を考える吾人はいない。山の麓に慈尊院というお寺があるが、ここが昔の高野参拝の出発点で昔はこれ以上女性は先に進めない。有吉佐和子の「紀ノ川」にも詳しく慈尊院の事が書かれているが、ここは子授け、安産祈願のお寺で、面白いことに、乳房の絵馬に願いごとを書く。まったくなまなましい型をしたものや、布で作った垂れ下がったおばあちゃん風などさまざまな乳房がお寺狭しとぶら下がっている。いいお寺ながら残念な事に、交通の便が悪く遠方からの参拝者はほとんどいない。目下には雄大な紀ノ川が静かに流れ、空は冬のせいか空気が澄み、晴天の空に野焼きの煙が天を突く。その日も伽藍内はカメラをぶら下げた、いかにも見るからに不審そうな私一人だけであった。「町石」と呼ばれる物がここから山上の根本大塔まで約24キロ。1町約108メートル置きに180本の町石が山道の参道に立っている。空海の時代は木製だが鎌倉時代に御影石に立て替えられた。高さ3メートル、幅約30センチ、今でいう道案内版の役目を果たしている。急な坂道を登るにつれ周りはなるほど、実にいい風景である。紀州の山並みが屏風を重ねたように見える。いっぷくの南画を鑑賞しているようで日本の原風景とはこの様な風景を指すのだろう。人恋しや・・・と出会いを求めても人は私以外まったくいない・・・。恐らく当時はこの道の存在も知られていないのかも知れない。何時間歩いても人にあわない。高野槇の自生地に入ると昼間でも薄暗く男の私でも自然と歩くスピードが速くなる。まったく音はない。落ち葉を踏みしめる音しかしないのである。今歩いている道は間違いなく空海が歩いた道であり、空海も同じ風景を見ながら登ったのだろうと思うと恐れながら時空を越え、魂や思考が共有できると想うのは少々考えすぎか。山頂に着いたのはもう廻りは薄暗くなっていた。そこには月影に微かに輝く美しい根本大塔の姿があった。その横でうす汚れた姿で、カメラをぶら下げ、くたびれた顔をしながら立ちすくんでいたのはもちろん私だった。文章と写真は関係ありません。
2015.03.12

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/我々幼少の頃のオヤジと言うものは凄まじい権限を持っていた。殴る、蹴るなどは日常茶飯事で私もオヤジに殺陣を突いて血祭りに上げられたものである。殴られる理由には此方に非がある訳でそれによって親を恨んだりはしなかった。何をするにもオヤジを中心に回っており食事をする時もはるかにオヤジのおかずの量が多かったし、オヤジの好みで毎日の献立が廻っていた。そして、必ず一品二品多かったものだ。そのおかずに限って異常な興味を示し、一度、食べてみたいと母親にせがんで見たものの、睨みつけるばかりである。なぜかオヤジもくれなかった。食事中に無駄口を叩くと叱られるので家族は黙々と食事をする。今からは想像も出来ない家庭の風景だがこれが当たり前だと、その頃は思っていたものである。当時、我が家には不思議な事にオヤジの歯ブラシ一本しかなく、当然ながら我々の歯ブラシはない。要は我々は歯磨きなどしなくていいと言うことらしい。歯磨きを許されたのは中学生になってからであり、情けない事に自分の歯ブラシを持った事に異常な喜びを感じた。しかも世間で使われているようなチューブに入ったおしゃれなものではなく、粉末の歯磨き粉だった事を覚えている。当時、子供用のイチゴ味のチューブに入った歯磨き粉は私の羨望の数少ない一品でなぜか今になっても商品を見ると心が騒ぐ。そのしわ寄せか、母親が生涯、歯で苦しめられていた記憶が残っている。昔、家庭内でのオヤジはいい意味での威厳があり、今の時代のように子供と同じ目線で友達感覚の付き合いでは決してなかった。それが良いか悪いかは私には判らない。ただ厳しく育ててくれたオヤジには感謝している。そんなオヤジも長年連れ添った母が逝ったとき、初めてオヤジの涙を見た・・・。オヤジ49歳の時である。誰にも判らないように夜中、一人で泣いていた。よほど母親をきずかったのかその後、浮いた話を聴いたことは一度もない。文章と写真は関係ありません。
2015.03.10

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/「巨人、大鵬、卵焼き」と言う言葉があった。要するに強い物、好きな物を代表している。さすがに大鵬は強かった。父がウクライナ人、母が日本人のせいか顔も端整で特に女性に人気が高かった。祖父が相撲が大好きでよく白黒のテレビを見ながら解説してくれたものである。ちなみに祖父は黄金期の双葉山や柏戸が好きで大鵬はそうでもなかったらしい。要は「阪神、柏戸、卵焼き」なのである。大阪人のヘンコさが性格に滲み出ている。15尺の土俵の中で行なわれる迫力ある戦いはスポーツとして観戦することが当たり前になっている昨今だが、相撲とは本来は神事である。四股は土地の邪気をはらい、天下泰平、五穀豊穣、子孫繁栄、など願うが、そんなことは私に興味は余りない。それよりも15尺の土俵の原型を発案した信長の知恵に脱帽する。なぜ15尺なのか・・・・。非常に興味深いことで、これにより現在の相撲の原型に近ずくのである。黎明期の相撲とはそんな生易しいものではなかったようで、まさしく命を懸けての戦いであった。當麻乃蹴速と野見乃宿禰の一戦は凄かったらしい。野見乃宿禰が當麻乃蹴派速のあばら骨を砕き、蹴り殺している。それもそのはずで当時は突く、殴る、蹴るの三手しかなかった。もはや相撲と言うよりは”喧嘩”に近かったのかも知れない。勝負に勝ち、人を殺めた野見乃宿禰は相撲の祖として神になり、今も相撲界からあがめられているが、負けて殺されてしまった當麻乃蹴速は今、奈良當麻町の里に住民に守られなが静かに眠っている。文章と写真は関係ありません。
2015.03.09

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/その場所は熱気と異様な雰囲気に包まれていた。力道山の空手チョップが炸裂するたびに地鳴りのような歓声がいっせいに起こるのだ。ここはある神社の広場。街頭テレビが一台、仰々しく櫓の上に鎮座しており、テレビの前はくろやまの人だかりである。私も街頭テレビが記憶に残る最後の世代である。その頃のプロレスは国民最大の楽しみでありストレス発散の格好の番組であった。あの頃の力道山は我々のスーパーヒーローであり、卑怯千万、憎き悪役レスラーを一撃でリングに沈めるその爽快感は子供の私にも十分理解できた。力道山が吸血ブラッシーとの”世紀の一戦”を見るたびに当時テレビのある祖母の家に親戚一同が集まり、今から考えればそれほど大きくない画面に段通織のテレビ掛けをめくり、そわそわしながら皆で午後8時を待ったものである。端整な顔の力道山の頭に塗ったポマードの輝きがより一層彼をジェントルマンに見せる。白いガウンを脱ぐと黒いタイツ姿・・・。このタイツ姿こそがスーパーヒーローの証しであるのだ。憎きブラッシーは金髪を振り乱し力道山にかぶりつき血まみれにする・・・・。テレビを見ている男たちは息を呑み手に汗を握る・・・。「卑怯者!」「反則やろ!」「レフリーは何処を見ている!」完全に魂は後楽園ホールである。女連中は悲鳴を上げる・・・。8時50分、力道山は反撃に出る、天下の宝刀、空手チョップが炸裂するのである。なぜかテレビ中継が終わる寸前に勝負がつくのである。そんな疑問を考える輩など誰もいない。力道山が勝つことが何よりも大事なのであり、それによって明日の活力になり、明日の話題に花が咲くのである。私自身いまだに試合中に裂けたタイツと空手チョップは脳裏に焼きついている。だがそんな力道山も暴力団の男に腹部をナイフで刺されあっけない死を遂げる。1963年12月の事である。弟子たちにジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎がいた。この三人が第2次プロレス黄金時代を作っていくことになる。文章と写真は関係ありません。
2015.03.05

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/何でも自分でやらないと気がすまない。ずいぶん昔、息子が小学校に上がる半年前、どうしても学習机を作りたくなった。と言うのも、多少木工には自信があって、約3年間ほど丹波年輪の里で木工技術を習った事がある。仕上がりの良さは別として、自宅のブックケース、テレビ台、電話台、椅子、食器棚などほとんど手作りの木工品で占められている。紅松特有のぬくもり感が好きで ほとんどこの木を使っているし、オイル仕上げをすると年が経てば経つほど白木が独特のアメ色になる。こうなると道具も凝りだした。ホームセンターの道具では許されず、鉋は東源次、鑿は高昇などブランドを買い求め、もはや道具を見ると誰もが木工作家と見間違えるほどである。そして息子のためにこの腕を振るおうと考えたのである。いいではないか・・。父親の作った学習机と椅子で勉強できる・・・こんな幸せなことはない。と自棄に自画自賛しながら制作に取り掛かった。既製の商品にない広々とした天板、机の上に乗せる引き出し付の本箱、椅子は肘宛付・・・・。悪戦苦闘の連続でありながら向こうに息子の笑顔がある・・・その事だけ心の糧としてこの父は頑張ったのである。年輪の里には一般見学者も多い。一応に「息子さんの為に・・・?いいお父さんね・・。」そのマニュアルどうりの感想ながらもひそかにほくそ笑んだ。浅はかな頭の私は、完全に息子は喜ぶと思っていた・・・・・。しかし結果は不評であった。どうしても既製品のマリオの机が欲しいと言うではないか。「友達が来たらかっこ悪い!」・・・・・かっこ悪い・・・。強烈な一言を放たれ全身の力が抜けていく。いくら説得しても聴く耳を持たないのは父親譲りか。家族もどちらか言うと息子側である。それから数日後息子の笑い声と驚嘆する声が部屋から響いてきた。マリオのシステム机がそれほどいいものなのか。日の目を見なかった私の愛する机は第二の人生を歩む事になった。天板を大きく作ったのが幸いしたのかキッチンテーブルになってしまった。文章と写真は関係ありません。
2015.03.03

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/♪通天閣高い~高いは煙突~煙突は黒い・・・♪子供の頃よく口ずさんでいた全く作者不詳の唄である。その通天閣が半世紀を迎えた。もはや通天閣は大阪城と並ぶ大阪の顔になったわけだが両方ともコンクリート作りというのも面白い。初代の通天閣はパリのエッフェル塔をまねた非常にエレガンスな雰囲気を持っていたらしい。ただ軍の命令のため戦場の弾となり、露と消えた。今建っているのは二代目である。昭和31年のオープンから数年後、物好きの父に連れられ、やたらと多い人並みにもまれながら当時珍しかった円形のエレベーターを並んで待った記憶がある。通天閣界隈はあの新世界があり、今からは到底想像も出来ないぐらい賑やかで、華やかな街が存在した。大人も子供も楽しめる数少ない歓楽街の一つであった。寄席、スマートボール、演芸場、Zボール、当り屋など子供の感覚からしてもワクワクするところだし、父などはきっと唯一のユートピアに違いなかったと思う。ちなみに当り屋とは車にわざと当たる不届き者ではなく、「弓矢」をさせてくれるところで、的に当たれば商品がもらえる。昼は新世界名物串かつを二度浸け禁止のウスターソースに付けていただく。嬉しいかな、なぜかキャベツは食べ放題。当時一本10円だった。当時10円で牛など食べれるはずがないと、私の祖母や母はなどは頑なに食べなかった。誰が流したのかその肉の正体が実しやかに囁かれた。父や私はそんなことは関係ない。何の肉であろうが、安くて美味しいければよいのである。今はなぜか怖いところと風評されるがまったくそんなことはない。今でもこんな敷居が低くて、気の使わない場所は少ない。人情もたっぷりである。ところで我々が愛してやまない吉本の新喜劇の舞台背景。ほとんどが新世界、西成界隈の現風景である事を知る人は少ない。文章と写真は関係ありません。
2015.03.01

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/大和と河内地方に茶粥と呼ばれる食べ物が昔からある。奈良粥とも言われ余り市民権を得ていないこの食べ物、実は私が愛してやまない食べ物の一つなのである。”おかいさん”つまり「お粥」はこの地方にとっては病人や胃腸の弱い者が口にする食べ物ではなく、立派な庶民の食べ物で毎日食べなければならない主食の一つであった。この”おかいさん”は名前のとおりお茶で煮込む。一般的には煎茶の粉を使って炊き上げるが、それは好みの事で、番 茶、ほうじ茶、玄米茶など、いろんなお茶の香りと風味で楽しむとができるし、堅苦しい流儀などまったくない。ただ一度、父が作った麦茶の茶粥はさすがに売れ行きはわるかったみたいで、家族から冷たい視線を受けていたようだ。その後、父発案の麦茶の茶粥は永遠に食卓から消えた。祖母や母などがよく朝に夕なに作っていた姿を覚えている。忙しい昨今では日曜日の朝ぐらいしか作らなくなったが、その美味しさは歳を重ねるごとにますます虜になるもので、たかが茶粥如きで笑われるかも知れないが時々むしょうに食べたい衝動に襲われる。祖母などは大きなお鍋に茶粥を作りその中に薩摩芋や焼餅など入れて一緒に煮込む。お茶碗に五分の冷ご飯に熱い茶粥を並々とかけて食べるのが今でも続く我が家の食べ方で、冷ご飯と熱い茶粥の絶妙さは日本人に生まれてきて良かったと一人で自棄に納得しながら随一のおかずである胡瓜の古漬をつまむ。先日、奈良に行ったとき、ある有名な料理屋で昼食をしたが驚い たことに、なんと茶粥が品書きに書いてある。「おっ!・・・」と喜びもつかの間、なんと値段の立派なことか・・・。この値段ならまさかおかずは胡瓜の古漬のみとは考えたくはないが、半分白け気味になり、手頃な、もみじ定食を頼んだ。文章と写真は関係ありません。
2015.02.27

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/昔、宝塚のベルサイユのバラがブームになった頃、一度、学生を連れて見に行ったことがある。なかなかチケットも手に入らない時だけにある筋からチケット40枚手に入れる事ができた。ある筋とはいかがわしいところではなく、宝塚歌劇団のある人から回してもらったもので当時はプラチナ級である。自分ながら「ベルバラ」の鑑賞は課外学習としてちょっと粋ではないかと自我自賛しながらも、実は公演のあとに歌劇の衣装制作デザインの現場と舞台装置を見せていただくことが最大の目的であり、男としてあまり「ベルバラ」自身余り興味はない。公演開始1時間30分前に集合のはずがやはり学生、時間にルーズな者がたくさんいる。回りは人でごった返している。キャンセル待ちの観客も数十人並んではいるものの、もう並んでも手に入らない。運の悪いことに遅刻するであろう学生のチケット十数枚、手に握り締めていた。それを目敏くキャンセル待ちの観客に見つかったのである。時はすでに遅く、私を取り囲むようにチケットを売って欲しいと迫ってきたのである。人相が悪かったのかテキ屋に見えたのか・・・自分自身を恨んだ・・・。「売り物ではありません!」と何度怒鳴り叫んでも、相手の顔はもう目が据わっている。こんな状態で人が喋っていることなど耳に入るわけがない。ここで売ってしまうと完全にテキ屋になってしまう・・・。まだ、警察の厄介にはなりたくないし、学校関係者がテキ屋とはシャレにもならない。遅れてきた者を叱りとばすはずが助けに船になるとは・・・逃げるというべきか、転がり込むように劇場に入るともう開演数分前であった。華やかな舞台はファンを熱狂させる。私はファンでもないがここの舞台に夢を見る人の感情が少しわかるような気がしないでもない・・・。強烈な睡魔に襲われながらも、公演後衣装室を見学させてもらった。あの華やかな舞台とはまるで正反対のような静けさとこじんまりした部屋、地味である。2~3人のデザイナーの方が黙々と制作に励んでいる。本当に縁の下の力もちとはこのことを言うのだろう。余りの両極端の違いに愕然としたのは私だけだろうか。宝塚名物の草もちを齧りながら夕日を眺め、ふとマリーアントワネットのことを考えた・・・。文章と写真は関係ありません。
2015.02.24

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/現役の頃、うちの父親は不思議な定期券を持っていた。幼い頃の私はその定期券が不思議で不思議で、大人になれば誰でも持てると密かに思っていた。何しろその定期券の威力は絶大であり、バス、私鉄、当時の国鉄、はもちろん、遊園地、動物園、映画館などの行楽地などこの定期券を見せる事により、本人はおろか家族など父と一緒であれば何処へでもタダで入れる訳だ。父がお金を払って乗車した記憶はない。いつの日か奈良のあやめ池遊園に行った時、家族4人を引き連れて堂々と定期券を見せて入場口から入ったとき係員が少し怪訝そうな顔で父の事を見ていたが、父は通るとき、サッと定期券を見せ、頭を少し下げる・・・。誰も引き止めるものはいない。当時の私の頭ではそれがどんな定期券か知るよしもない。その定期券がどういう定期券であった事を知るのは随分先になってからのことである。何のことはない父は交通局に勤めていたので個人だけが乗れる市バス、地下鉄のみの定期券を持っていただけで、この定期券で私鉄、国鉄、ましてや遊園地などは入れるわけがない。要するに我々家族ともども不正乗車をしていた訳で、今から考えると顔から火が出る思いがする。当の本人はそんな罪悪感など今持って微塵のかけらもない。その当時は、今の様にギスギスした世の中ではなかったのかも知れない。今は公務員といえば目の仇にされる時世だが、昭和30年代は何から何まで人間を中心にまわっていたような気がするし、いい意味での曖昧さがあり、人の心もおおらかな時代だった。この父親、さすがに定期券で家族を無銭飲食させる勇気はなかったらしい・・・。文章と写真は関係ありません。
2015.02.21

キャロルはわんちゃんのパラダイス写真館http://r.goope.jp/明治10年西南戦争に敗れ、鹿児島の城山で西郷隆盛公は自決した。それより数ヶ月前我、祖父が誕生した。数ヶ月間明治の豪傑と同じ空気を吸って生きていた事になる。この祖父、幼い私を非常に可愛がってくれた。質素な家に住み、いつも母親とたずねた時などはこの家には似つかわない豪華な黒檀のたんすから桃の缶詰、氷砂糖など取り出し、与えてくれたものである。この祖父の人生は戦争の連続であった。日露戦争に従軍し、日中、太平洋戦争と修羅場を潜りぬけ生還した強運の持ち主でもあった。晩年その為か戦話が好きで、私の父親を捉まえては当時の思い出を語る。明治の末、この祖父なぜか解らないが生花業と葬儀店を営み、大成功を収めた。豪邸に住み当時非常に珍しかった運転手つきのフォードにのってたらしい・・・。祖母には昭和初期に大阪でカフェを経営させている。ここまで来ると私も大金持ちになっているはずだが、なぜか下層階級にいる・・・・。実は祖父には弟がおり、事業するのはいいが次から次えと失敗し借金地獄にはまった。ようは商才がないのである。できの悪い兄弟の為に結局は家も、財産も使い果たす結末を迎える破目になる。幼い記憶では、祖父の穏やかな表情と質素な家に住み、やたらと吠えるスピッツが印象に残っている。豪華な黒檀のたんすは当時の面影を知る随一の物かも知れない。西郷隆盛いわく「子孫に美田を残さず」。まさに明治の気骨者は西郷の遺訓どうり子孫に財産を残さずに逝ってしまった。 文章と写真は関係ありません。
2015.02.20

キャロルはわんちゃんの写真館http://r.goope.jp/緑に山並みに白いハリウッドサインを見たのはもう20年前ぐらいか・・・。やたらと多いカメラ機材を持って撮影に来たのはいいがまったくのおのぼり気分でいる。今回の目的地は、シーポート、サンタモニカ、チャイニーズシアター、ビバリーヒルズなどなど、盛りだくさんの予定である。このカメラマン、ハリウッドサインを見てから以上にテンションが上がりっぱなしで、目が血走っている。ヒルトンホテルで夜働いている日系の彼女の再会が撮影以上の楽しみなのである。空港に迎えに来てくれていた友人の米国人社長の車に乗りシーポートへ・・・。実は滞在中の一週間、この社長の車を足に使う予定でありそのことは本人も知っている。彼は若いながら兄弟でフレームの会社を経営しており、神戸にもよく仕事で来ていた。見るからにアメリカ人の底抜けに明るい性格の好さを持っており、陰湿な面はまったくない。波静かなシーポートは実に美しい所で岸には個人の豪華なヨットが停泊している。空気がまろんでいるせいか、風景がはんなりとして、一日中海を見ていてもまったく飽きない。ただ昼食に食べた巨大なハンバーガーとどう見ても一人で飲める量ではないコーラーには閉口した。彼女の姿はすぐに判った。向こうも少し驚いた様子で、すぐに笑顔で答えてくれた。黒髪の美しいこの女性は日本語も堪能でホテルの地下で日本人相手にお土産を売っている学生である。祖父も岡山にいるらしい。そして将来は日本で働きたいと言っていた。日本にきたら連絡するようにと名刺を渡したが未だに連絡はない・・・・。ホテルで数人のツアーの日本人と他愛もない話をしていた。驚いたことにチップの話が出て「チェックアウトするときに枕の下にチップを入れておく事それがマナーです。」と添乗員に言われたらしい。私から言えば、そんな事をするのは日本人だけで外国人は誰もそんなことはしない。そういう馬鹿馬鹿しい慣習はすぐに止めたいもので、現に一週間同じ部屋で生活してても一度もチップなんか枕の下に入れたことなどない。でもきちっと掃除やベットメーキングされており、腹立ちまぎれに私の私物も盗まれたりしたこともない・・・。なぜこんないい加減なことがいつから始まったのかまったく謎である・・・・。文章と写真は関係ありません。
2015.02.18

キャロルはわんちゃんの写真館http://r.goope.jp/2020年再び東京に聖火がやってくる。だいぶん前かオリンピック開催地で、大阪が北京に大差で敗れてからは少し興ざめの感が否めない。今回も判官びいきでイスタンブールををなんとなく応援していた私はがっかりするよりも少しばかりしらけた気分になってしまった。何も2回も東京でする必要もあるまいし、地方の都市で開催した方がよほど地域活性化につながり、経済効果をもたらす。あれから東京オリンピックも50年以上経つ。当時、まだ道も主要道路しか舗装されず、一歩裏道に入れば土のでこぼこ道。車もほとんど通らない。その道は我々の格好の遊び場だった。ケンパ、ビー玉、ベッタンなど、道のど真ん中で夢中になっても誰も邪魔する物が通らない。雨が降れば道は水溜りが出来、アイスバーを浮かべて他愛もない遊びをしたものである。物はなくてもみんな幸せな顔をしていたものだ。まだ冷蔵庫や洗濯機などもなく、ほとんどの家にもテレビはなかった。東京オリンピックを境に、テレビの購買が増えていく。高度経済成長の時代に入るのだがその時代と共に日本人は経済的に潤い、金満民族になっていく。ある日、小学校の児童を全員引き連れて近くの道路に連れてこられ、無理やり日の丸の小旗が渡された。先生が少々興奮気味に「力一杯、振るように!」道路は老若男女、人、人、人で溢れかえっている。皆、嬉しそうな顔をしている。口数もやたらと多い。われ等チビッ子は最前列に並び、日の丸の小旗で友達とこずき合いのまっ最中、日の丸の小旗も半分破れ状態のとき、誰かが「来た!来た!来たぞ~!!」その声と共に歓声が怒号の様に変化した。北の方向から白煙が見えてきた。「あれが聖火ランナーか・・・」と幼い我々にも充分理解する事が出来た。数十台の白バイとパトカーが物々しく先導しており、10名程度のランニン姿のランナー達が二列に並んで、まるで大名行列の様。顔はみんな誇りに満ちている。単純なもので先生に言われたとおり、小旗が折れるぐらい必死で振っている目の前を凛々しく走っていく姿と、足音は今でも鮮明に覚えている。数日後、秋晴れの中、第18回東京オリンピックが開催された。文章と写真は関係ありません。
2015.02.15

キャロルはわんちゃんの写真館http://r.goope.jp/西岡常一と言う男がいた。先祖代々法隆寺の解体や修理に携わってきた最後の宮大工棟梁である。80歳を過ぎても現役で奈良薬師寺の金堂や西塔を再建に携わった。その古代建築の目に見えない先人の知恵や技術に舌を巻く。西岡家には代々"口伝"と言われるものがあり、守り継がれてきた。例えば [堂塔の建立には木を買わず山を買え] の口伝は「建立には1つの山の木を使うべし。木は土質によって性質が異なる、同じ環境で育った木を使え。」環境が異なる木を組むと後に木自体が歪んできて暴れだす。その環境で育った性質、人間で言えば性格が現れ一つの纏まりがなくなる。[堂塔の木組みは木の癖組み]「木は育った場所によって,それぞれ癖を持つ。それをいかに見抜き,生かして組む。」要は無駄な物は一切ない。それぞれの癖を見抜いてその木にあった場所で使う、いわば適材適所と言うべきか。[木は生育の方位のままに使え]「木は山で育った同じ方位で組むべし。木は方位によってねじれたり,反ったりする。右に反る木と左に反る木は力が相殺される様、組み合わせて使う事。」木と言う物は乾燥すると反ってくるもので同じ方向の物を組んだら歪んでくる。あえて性質の異なる物を組み合わせる事により、より強い物になる。これら口伝は人間関係にもあてはまるもので興味深い。法隆寺や薬師寺が木造ながら1500年の風雪に耐え、凛と存在するのは、宮大工の深い造詣が建築の随所に垣間見る事ができるからだ。1000年生きた木は切って尚1000年生きると言われる。古木を槍がんなで表面を削るとまた木の香りがするという。電気がんなで削ると1週間でカビに覆われると。今、我々が忘れかけようとしている事を、宮大工と古代建築が教えてくれている様であり興味深い。。薬師寺の西塔再建で、もう一つ宮大工の壮大な知恵がある。国宝の東塔よりも再建された西塔は1.7m高い。しかし、500年経てば東塔と同じ高さになるのだ。500年後を見すえているそのスケールの大きさ、現代人も目先だけのことを考えずに壮大に生きたいものである。文章と写真は関係ありません。
2015.02.14

キャロルはわんちゃんの写真館http://r.goope.jp/桜の時期にはまだまだ早々だが大阪市内に万代池と言うところがあり、周囲2キロぐらいのジョギングコースも整備され近くの住民の憩いの場になっている。実はこの万代池、知る人ぞ知る隠れた桜の名所なのだ。桜の名所は多く、姫路城や大阪城公園、夙川沿いなど数えたら切りがない。確かにそれぞれの名所は面積も広く多くの観光客がシーズンに押し寄せる。私自身、桜は好きで毎年いろんな所へ撮影に出かけるがおそらく、この万代池の桜が美しさ、密度的に、No1であると思う。なにせ遊歩道の両側から樹齢50年の桜が林立し満開のときはまるで花のトンネルとなる。その壮大かつ壮麗さは絶句するほど美しい・・・・。本当に美しい・・・。満開のときは空が見えなくなるほどで、特に夜桜には近所の住民たちで狂喜、乱舞する。大阪人で「花見はどこへ行く?」と聴いたら「万代池」と答えたらその人ははある意味、”通”であるかもしれない。散りぎわは特に美しく、花びらが薫風に乗り、池は花びらで敷き詰められ、一面ピンクの絨毯になるのだ。あいにくメジャーでない為、余り観光客は来ないし、良く晴れた日のブラブラ歩きでお弁当持っての花見は最高である。ただし、花見をしながらのバーベキュウはいただけない。自分たちは楽しいかも知れないが、肉の香りやスモークは桜の風情にはあわなし、痛みやすい桜の幹に平気で座る吾人もデリカシーがない。そういう現風景を目の当りにするとやや白けてしまうのは私だけか・・・・。大昔、この池に竜が住んでおり、旅人たちが襲われた。それに悲しんだ聖徳太子が曼荼羅経を読んで竜をこの池に閉じ込めた。それ以後この池をマンダラ池と呼ぶようになった。いつしか時が流れマンダイ池と訛ったらしい。文章と写真は関係ありません。
2015.02.07

キャロルはわんちゃんの写真館http://r.goope.jp/carol須磨海岸に遊びに行くと泉州の方角に海に浮かぶ島のように葛城、金剛山が目に入る。そこは、神戸の人には楠公さんで慕われている楠木正成の生誕地である。私自身も金剛山が好きで年に数回訪れる。特に千早城あたりが大好きで今も南北朝の面影を多く残している。楠公さんが鎌倉軍100万の敵をわずか数百人で守り通した不落の山城、千早城は今も昔のたたずまい漂わしている。河内地方の一豪族でありながら騒乱の時代は彼を要求していた。軍学の天才、正成が中央に登場することになる。金剛山の麓に古刹観心寺がある。ここは楠公の菩提寺で学問所であった。前回訪れたときは早春の穏やかな日で苔むした石段を数段登ると甘い香りが体を包む・・・。山門をくぐるとそこは古木の梅林であり、どの梅の木も約200年の風雪に耐え、何とも趣のある素晴らしい梅林である。余り知られてないのか、梅林にカメラを持った私しかいていない。狭い石段を登りきると楠木の大木の間から「建て掛けの塔」が目に入った。この「建て掛けの塔」実に不思議な塔であり、五重塔の一重の部分しかない。要は建て掛けの途中で、永久に完成されることはない。なぜなら建築途中で楠公が神戸湊川に出陣せざるを得なくなった。湊川の合戦である。今、湊川神社になっているこの地で弟、正季と壮絶な戦死をした。がためにこの塔は「建て掛けの塔」になってしまったのだ。毎回この塔を見るたびに心が震え、楠公さんの無念さを感じられずにはいられない。なぜ兵庫の会下山に陣を置いたのか?地の利もあると思うがここからは大阪湾を挟んで故郷金剛山が目の前に見える。楠公さんとて、ふと幼少の頃や家族の事や故郷の山河を思い出していたのだろうか・・・・・。須磨海岸に来て金剛山を眺めているとついそんなことを考えてしまう・・・。文章と写真は関係ありません。
2015.02.06

キャロルはわんちゃんの写真館http://r.goope.jp/carol他愛もないことだが少々洗車をさすとおそらく私の右に出るものはないと自負している。家の近くに大手のタクシー会社があり、専務から早朝のアルバイトをやって欲しいとの依頼が兄弟を通じて話があり、少々懐も寒かったせいかどんな仕事かも解らずOKを出した。まさかタクシーの運転をする訳でもないし案外気楽に構えていた。ただ時間が早朝でなくどう考えても夜中である。眠たい目をこすり歩いて車庫に着くと明かりが光々と照らしており屈強な運転手が数人立ち話をしている。おそらく、仕事が終わり車が入庫したばかりなのであろう。大きな声で売り上げの話をしている。顔を見ると売り上げの良し悪しは表情に出るもので、少ない連中は黙々と車を洗っている。目敏く私の姿を見つけたのか、「お~ぃ。頼むわ。」といいながら近ずいてきた。手には¥1000札を握っており、私に仕事を頼むらしい。仕事はそう、タクシーの洗車である。本来は仕事が終わったら自分自身で洗車をするのが規則らしいが夜中の2時、3時に仕事が終わって洗車するのは辛い。そんな訳でその仕事が洗い屋に回ってくる。この洗い屋、完全に個人事業であり、まったくタクシー会社とは関係ない。元でもまったくかかっていない。水道は使い放題、石鹸も会社の備品であり好きなように使える。次から次へとタクシーが帰ってくる。運転席から窓を開け「まだ、いけるか・・・?」と¥1000札を渡す。一日最高15台が限度。1台を約20分で洗車するのだ。もちろんタイヤも室内清掃もしなくては行けない。中には上がりが良かったのか気前のいい運転手などは少しいろを付けてくれたり、嬉しいお寿司の差し入れなどがある。確かに辛い仕事だが早朝だけでこれだけ稼げる仕事は滅多にないものだ。また運転手自身、いろんな職業の果てにこの仕事に従事しており、人に言えぬ苦労を歩んで来ている。まさにここは人生の坩堝の感がある。誰かが言っていた・・・。嘘か誠か解らないが洗い屋をして家を建てた人がいるらしい。学生時代で体力が漲っていた。その後2年間「洗い屋」をすることになる。文章と写真は関係ありません。
2015.02.05

キャロルはわんちゃんの写真館http://r.goope.jp/carol願書提出まで一ヶ月をきった。彼女の実力は日々良くなってきた。お世辞にもまだうまいとはいえないが、大学入試のデッサンにはコツがあり、各芸大にもそれぞれの受け入れが出来る描き方がある。要は受験する大学の好む描き方をすればよいのであって無駄な努力はする必要がない。こちらも舌を巻く天才的なデッサン力は毎年10人ぐらいであってあとはドングリの背比べみたいなもので驚くに値しない。あとは一般試験でいい点を取ればよい。彼女のもう一つの理由は、私が条件に出した母親に住み込んでもらったことである。課題に専念できるし娘にも目が届く。もちろん今はアルバイトもさせていない。しかしある程度の力がついても合格できる保証はもちろんないしそんなに甘くはない。ある日母親に「うまくはなっていますが難しいかもしれません・・・・」と正直に答えると、母親は少し黙り込んで押し殺した声で「・・・御まじないは・・・・良く効く御まじないはないでしょうか・・・」御まじない・・・・?母親の顔を見ながら怒りよりも情けなくなり、あきれ果ててしまった。何事もお金で解決できると思うその心根が無性に情けなくなる。私自身も採点や入学の合否に加わる事を知ってのことだろう。もちろんそんな事が許される訳がないし入試問題漏洩で豚箱には入る予定はない。もう一度「うまくなってきていますし、娘さんを信じて上げたらいかがですか・・・」母親はうつむいたままうなずくだけで多少は自分の愚かさを解ってくれたのだろうか・・・。私も週3回に増やし入試前日まで猛特訓が続いた。以外にサバサバしながらこれでだめなら納得できるか・・・と自分自身に言い聞かせながらこれであの家族とも離れられることが何よりも代えがたく、嬉しさで一杯だった。そう・・・野に放たれたような鳥のように・・・だ。「合格」と喜びの彼女からの連絡が入ったのは数日後か・・・・・。両親の喜びは言葉では口では言い表せないほど狂喜している。ほっとため息つきながら彼女の痛ましい過去を振りながら楽しいであろう学生生活を送ってほしいと願わずにはおれなかった。あれから30年・・・。その後の彼女の事は知らない。知ろうとも思わない。文章と写真は関係ありません。
2015.02.04

キャロルはわんちゃんの写真館http://r.goope.jp/carolこちらは焦りもあり、気合を入れて教えているがまったく彼女は冷静である。ところが2回目、3回目と行く度に部屋がどうも汚くなっていく・・・・。ある日、とうとう頭の線が切れてしまった。これから勉強する机がごみの山で部屋はまるでごみ屋敷の状態、足の踏み場もない・・・。「やる気あるんか!」「やめるんやったらいっでも辞めるぞ!」語気が荒く、激しい。「・・・ごめんなさい。・・・・今まで彼がいてて、課題してない・・・。」もう怒りを通りこしてあきれ返ってしまった。私は完全に舐められているんだろう。こちらが無力間に襲われその日はもうこちらもやりたくなかったし、一応、母親に中止の電話を入れた。母親は慌てて「今からすぐに行きますから・・・いて下さい・・。」と涙声で必死に引きとめる。私も会って正式に断ろうと考えていたし、この際待つことにした。親が来る前に怒鳴りちらしながら彼女に部屋の掃除を命じたが、余りの手際の悪さにいたたまれず必死に掃除を手伝う情けない己の姿があった・・・・。父親も来た。初対面である。額に汗をかき、汗のにじむTシャツ姿の姿を見て少し怪訝な顔をしたようにみえたのは私の考えすぎか・・。少しは人に見せられるような状態の部屋に両親は下座に座った。嫌だなと思う暇も父親は名刺を差し出してきた。なんとなく名刺を眺めていると、うっ・・・え!・・町長!とは声に出さず、多少驚いて見せた。兵庫県のある地方の町長である。ちなみに母親も有名なベーカリーのお店を経営している。なるほど、財はあるわけだ、ときな臭い想像をしてしまった。両親から彼女の中学時代からこんこんといろんな問題点を涙を浮かべながら説明する・・・。父親も目を赤くしながらうんうんとうなずく。もちろんこの席に彼女はいない。彼女は若いのに壮絶な人生を歩んでいるようだ。少し彼女に同情すら覚えてしまう破目になりながらもこの親のいい加減さ、自由気ままに甘えさせた生活、批判されるのは両親かもしれない。でも彼女に心情的に支援する気はさらさらない。大の大人が涙を流し、頭を下げられたらどうして断れよう・・・。小心者の自分自身を恨んだ。ただし、この小心者にも意地がある。このまま引き受ける為には一つの条件を提示した。文章と写真は関係ありません。
2015.02.02

キャロルはわんちゃんの写真館http://r.goope.jp/carol学校が終わって宝塚までやたらと遠い・・・。高速を飛ばしても2時間もかかる。こちらの時間の都合上、週1回しか指導することができない。したがって課題の宿題が出るのは当たり前でそれをしなくてはこちらの考えどうりに進まない。初日の夜、猛特訓をしょうとしていたが、彼女はまったくデッサンと言うものがまったく理解できていないのだ。鉛筆のそろえ方から使う紙までこちらから用意する。まず理論から教え、鉛筆の特性、紙の性質などまるで安い肉を30回噛むがごとく丁寧に教える。頭の線がいく度か切れる危機に陥る・・・。まだ絵を描くどころではない。えらいこと引き受けたなぁ・・・。と頭の中をコダマのように繰り返し響いている・・・。今日はどうも母親は来ていない。来ない日の方が多いと知ったのは後日のことだが実家は車で2時間ほどかかるらしい。母親がいないのか今日の彼女はよく喋る。「先生・・・彼女いてるん・・・」「お酒は好き・・?」まったく筋違いの質問をしてきた。「忙しいねん・・・わたし・・」「毎晩三宮でバイトしてんねん」「・・・・毎晩バイト・・・おい!それ水商売か!」「うん、そうや・・」彼女はニコッと笑いながら涼しげな視線を差向けてきた。当然の事ながら親も知らないらしい。学校が終わった後や授業を途中で抜けたり、最悪なことに学校をサボルこともあるのだ。「バイトはやめろ。」「やめんと課題できんやろ。」怒っているわけではないが口調が強くなってきた。彼女にはまったく危機感がないし、やる気がふせている。どうも彼女には寂しそうな影がある様にみえて仕方がない。私の気のせいかも知れないが・・・。絵もまともに描けない者がなぜ芸大を受験しなければいけないのか?どうして親があれほど熱心に受けさしたがるのか?謎である。親との確執か学校とのトラブル、それとも友達との関係?今の時点では想像も出来ない。宝塚を車で出たのはもう午後11時をまわっていた・・・・・。
2015.01.31

キャロルはわんちゃんの写真館http://r.goope.jp/carol研究室勤めの頃、家庭教師をした事がある。それも芸大入試対策用のデッサンの描き方を教える。ある知人の紹介で「どうしても芸大に入りたいという方がいるから個人レッスンをしてあげて欲しい」と言われたが余りのりきにはなれなかった。知人に恩義があるので断る事も出来ず、とりあえず生徒に合ってみることに・・・。宝塚で姉と二人で生活しているらしい。一軒家である。なんと豪勢な受験生だろう。その優遇差に少し腹も立ちかけたが自分としてはまだ承諾はしていない。なにせ今までデッサンをした事がないので実力がどの程度かも解らない。玄関に母親と彼女が立っていた。私の姿が見えたのか母親の方は深々と頭を下げている。彼女の方は何が不満なのかこちらを睨み返しているように感じられた。二人住まいにしては余りにも広すぎる・・・。女性二人、用心が悪いし、怖くないのか・・・。おせっかいか、私にはまったく関係ない。父親は何の仕事をしているんだろう・・・。そちらの方が興味がある。私は椅子に座り、どう考えても今、上等なコーヒーを飲んでいる。母親が口を開いた。「娘を助けてください」「先生しか頼る方がいないのです・・・。」急に助けてください。と言われてもはい解りましたとはいえない。事情が何かあるようだ。条件を提示してきた・・・・。興奮する自分を押し殺してあくまで冷静に「それで結構です。」と言わしたくなるような非常識な金額を提示してきたのだ。非常識・・・こんな高額聴いたことがない。まさしても私の悪い癖が出てしまった・・・。金欠病の病人は断ることなど完全に忘れ目の前の特効薬に手が伸びていた。この特効薬に後日、強烈な副作用が出ることなど知るよしもなかった・・・・。文章と写真は関係ありません。
2015.01.29

キャロルはわんちゃんの写真館http://r.goope.jp/carol十円玉を握り締めて友達と走り出した。目指すは「金魚や」。駄菓子屋である。当時駄菓子屋は我々にとっては憩いの場であり、社交性、そして人間の醜さを体験できる、数少ない所であった。ところせましとおもちゃやお菓子が乱雑に並べられた空間は我々のユートピアの世界が存在する。「金魚や」別名「がめじじぃ」そう名前の通り「がめついじじぃ」の略語であり、我らが与えた名誉ある称号である。ここのオヤジはがめついと子供どころか近所の主婦までにも浸透している。なにせ当りくじが出ても素直に認めない。以前、5円で1回くじを引いた。壁紙に昆虫の模型が1等から30等まで貼り付けてある。もちろん1等は大きなカブトムシであり30等となれば虫眼鏡で見ないと解らないぐらいお粗末なもので、今まで何回と挑戦したが25等以上のものがあたらない。25等と言っても30等と大きさは変わらず、噛みきり虫が小金虫に変わっただけに過ぎない。友達に聴いてもそれ以上当たった奴は見当たらない。ところが引いたくじが1の数字を鮮明に刻印してある・・・しかも朱色で・・・興奮の余り「1等や!」と叫ぶと横にいた仲間もくじを見て「おぉ~!」と驚嘆の声を出した。ところがである。オヤジは苦虫をかみ殺した顔をしながら「あぁ~どれどれ・・・・」と当りくじを取り上げ「え~1等か・・・・?」「1等かな・・・・?」「11等かなぁ・・?」一人で当りくじをクシャクシャにしながら「わからんな~もう1回さしたるわ」その言葉にのったのがやはり子供である。当時少しの知恵と交渉術があれば1等のカブトムシが手に入ってた訳だが案の定、オヤジの策略に乗せられ26等の紋白蝶になってしまった。一枚も二枚もオヤジが上であった。この悔しさは今思い出しても胸糞が悪くなる・・・。こんな人間のずるさを経験できるのも駄菓子屋の一つのよさかも知れない。文章と写真は関係ありません。
2015.01.27
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