2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全22件 (22件中 1-22件目)
1
別に香港の人を悪く言うわけではないのです。逆に中国人というのは商売人だナーと感心することが結構あります。以前香港に出張で行ったときに、あるホテルで商談をして帰る頃に土砂降りの雨が降ってきたのです。ホテルの前はタクシーを待つ人でごった返していました。我々は香港の友人がどうにかタクシーをつかまえてくれてタクシーに乗り込むことが出来たのですが、その時友人が言うには、こういうときはタクシーの運転手が運賃をつり上げることがあるのでその時はクレームをつけなさい。私がちゃんと車の番号を控えましたからとアドバイスしてくれました。幸いまじめな運転手にあったたようでメーター通りの運賃ですみましたが結構そういうときはボラれるそうです。別の話で、香港から帰国するとき、いつもホテルから九龍駅までタクシーで行きそこから香港の空港まで列車で行くのです。空港まで列車で行くと運賃は90HKドルですみます。その時もいつものホテルからタクシーに乗り九龍駅までと言ったのですが運ちゃんが空港まで150HKドルで行きましょうというのです。私はいや結構ですから九龍駅まで行って下さいと断ったのですが、なかなか駅に着かないのです。そのうち高速道路に乗って空港に向かっているではありませんか。駅まで行ってくれって行ったじゃないかと文句を言うとごめん英語がよくわからなかったと白々しくいうのです。空港まで150HKなら安くていいじゃないか、領収書を書くから,そうすれば会社が出してくれるのだから問題ないだろというのです。勝手に空港まで行って私が150HK払わなくてはならないなんて絶対に納得いきません。どうしようかと車の中で考えた結果私は運転手の名前と車の番号を手帳に書き始めたのです。運転手も何か気になるようでちらちらバックミラーで見ています。そして運ちゃんに90HKなら払うがもし納得できないなら、私の知っている香港の有力者に空港から電話するがどうだと少しトーンをあげて言ったのです。そしたら90HKでいいということになり、降りるときは運ちゃんが有り難うと小さい声で言うのが聞こえました。なんとなくゲームに勝ったような気持ちになり空港で飲んだビールもうまかったー。でも後で考えてみると日本の運転手ではああいう風にお客と交渉する人はあまり見かけない。中国人はみんな商売人だなー。その後香港に行くと必ず運転手に空港まで150HKで行ってくれるか聞くことにしているのだけど未だかつて行ってくれる運ちゃんは見つからない。あの運ちゃんはいい運ちゃんだったのかもしれない。
2004年01月29日
コメント(0)
出張で海外に行くとあちこちで日本人に出会います。色々な国の人、文化等に触れることはすばらしいと思います。最近は少し良くなって来たような気もしますが、時々迷惑するのが日本人だと分かると商品を高く売りつける場合があることです。日本人は金払いがよいので少し高く売っても喜んで買うと思われていることです。この間香港に行った時のことです。その時は日本人二人で仕事に行き、20年間つきあっている現地の香港人と商談を終えて、たまには現地の人抜きで我々だけで食事でもしようとホテルの近くのレストランに行ったのです。レストランに入り、注文をしていると年配のウエーターがよってきて日本語で応対するのです。日本語で話しているとなんとなく親しみがもててビールの本数も増えていきました。たびたび我々のテーブルに来てお前らは香港に住んでいるのかとか、旅行で来ているのかとか、何処何処の商社の人を知っているのかとか質問するのです。なんか変だなーと感じていたのですがそのまま食事をしていました。たまたま別の若いウエーターが通りかかったのでビール1本の値段を英語で聞いてみました。値段が違うのです。若いウエーターのほうがかなり安いのです。我々は旅行者だとわかり日本人旅行者特別価格でビールを飲まされたのです。ビールはメニューに載っていないので文句が言えません。その後は日本語がしゃべれるウエーターにはいっさい注文をしませんでした。まあーこれからは気おつけようと話しながら会計を頼んだのですが、受け取った請求書が少し高いような気がしたのです。ひょっとしたらと思い、一皿一皿ずつ確認したのです。なんと3皿も食べていないものが付けられていたのです。いままで一皿ずつ料金を確認する日本旅行者などいなかったのでしょう。向こうもこれはまずいと思ったのか料金をかなりまけてくれました。香港に商談に来て商品の価格が高い、安いと一日中商売の話をして、その後にレストランで簡単にだまされてはたまったもんではありません。日本のビジネスマンをなめるなよーと言いつつレストランを後にしました。
2004年01月28日
コメント(0)
今は英語が話せればだいたいどこの国に行ってもビジネスはほとんど問題なく出来るが町中ではなかなか英語だけでは意志が通じないことがある。今でも覚えているのですが(結構執念深い性格?)約20年前初めてドイツに転勤になったとき(海外出張も初めてだったのですが)フランスのシャルルドゴール空港へ着くてから乗り換えるはずだったのですが霧のためオルリー空港へ降りてしまったのです。早くシャルルドゴール空港まで行かなくてはならなかったのですが右も左も分かりません。英語で聞いてもみんなシカト。困っているのに誰も助けてくれる様子がありません。あるフランス野郎は英語がしゃべれるのに、ここはフランスなのだからフランス語で話せというのです。お巡りに聞いても首をふるだけ。しょうがないので一度空港へ戻ってJALカウンターで聞きましたが、そんなことがあったためその後15年間フランス人に対する評価は最低。日本で外人に道を聞かれたら一度こういってやりたいと思っていました。”ここは日本なのだから日本語でしゃべれ”今考えると大人げないです。最近とても良いフランス人と仕事をやっているので評価がずいぶん良くなってきました。外国に出張に行って仕事がOFFの時は一人で知らない町に出ておもしろ半分に身振り手振りで意志を通じさせよとするのは楽しいことである。スペインなどに行くと私の場合は仕事以外は日本語で話す。レストランでは”そこのおっさん”(私もおっさんだけど)パンを下さい。パンわかる?するとおっさんはちゃんとパンを持ってくる。いつだったか卵料理が食べたくておっさんにエッグ、エッグて叫んでいたのだけれどきょとんとしているので。しょうがないから、にわとりが卵を生んでいるところの絵を描いてこれこれといったら、なんとかわかったようで私の手を引っ張ってつれて行かれたのはトイレだったなんてこともある。あちらの人は明るく対応してくれるからなかなか楽しいものである。ドイツのトイレには男性用はヘーレン、女性用はダーメンと書いてあるので入れなかったなどと言う笑い話もある。
2004年01月27日
コメント(0)
ちょと出張していたもので日記を書けませんでした。机の上がいっぱいなのでそれの整理で今日は手一杯です。明日より通常に戻りますのでよろしくお願いします。
2004年01月26日
コメント(0)
中国について今日も少し書きたいと思います。私は中国に、あるギフト商品を輸出しているのですがその商品を輸入した中国人がよくこぼすのは商品を中国内で販売しても小売店はなかなかお金を払ってくれないというのです。中国では売掛金の回収が大変でお金を払ってもらうために接待したりするそうです。A社がB社に売掛金がありB社がC社に売掛金がありC社はA社に売掛金があるとそれぞれがなかなか払わないのでどんどん売掛金が膨らんでいくのです。中国で商売するときは注意した方がいいですよ。中国内でそんな状況なので中国から商品を買うときは中国人は外国に売掛金ができたら大変と、かならず前金かL/Cでの支払いを要求してきます。うるさいほどです。何年も商売やっってんだから少しは信用しろよと言ってもなかなか後払いにはしてくれません。3割前金残りを出荷時に振り込めというのが一般的です。
2004年01月24日
コメント(0)
以前は日本の商品は何処に輸出してもよく売れました。お陰でこの20年間に100回以上海外へ出張し色々な国の人達と仕事をしてその人達の考え方、文化などを見たり、経験したりしてきました。最近は中国との関係が一層深くなり輸出・輸入がかなり増えました。中国、特に沿岸地帯ですが訪問するたびに変貌しています。民間の社長達は30歳、40歳代が多く昔の日本のようにバリバリ仕事をしています。この間出張したときの話ですがスケジュールがきつくて最後の1社の工場へ行く時間が無くなってしまったのです。明日(日曜日)の朝日本へ帰るので悪いが今回は工場へ行くことが出来ませんと電話したら社長さんいわく、うちの工場は24時間やっていますので何時でも会えます。明日の朝3時に迎えに行きますと言うのです。今まで色々経験しましたが日曜日の朝(夜が明けていない!)3時に商談したのは初めてでした。こちらは眠い目をこすりこすりの商談だったのですがあちらは元気いっぱいエンジン全開状態とても対等に話せません。中国のコーヒーを飲みつつこちらのエンジンがかかる頃は夜が明けていました。6時過ぎに商談を終え空港まで送ってもらったのですが日曜日の朝に道路を掃除しているのを見かけました。つい1-2年前までは土のでこぼこ道だったのに今では舗装されてそこを綺麗に掃除をしているのです。中国はどんどん変わり、街には活気があります。中国は元気です。我々も負けられません。ファイトイッパーツでいきましょう!
2004年01月23日
コメント(0)
健康食品の販売と一緒に友人が開発したベランダに敷くデッキも販売してみたのですが、これも健康食品と同じような結果となりました。今の状況では小売ビジネスは上手く行かないようです。そんな時に仕事仲間からキャラクターのついた携帯ストラップを作製してくれとの依頼がありました。以前から中国でそういった類の販促用の商品は作ったことがあるので安く作ってあげると、少量でこんなに安くできるなら結構商売になるんじゃないかと言われさっそくホームページを立ち上げ販促用のフィギアーを始めその周辺商品を紹介したのですがそれが結構受けて今ではビジネスの一つの柱に育ちました。これもいろいろ今までやったおかげだと思います。このビジネスのポイントは中国サイドに良きパートナーをみつけることです。中国もこの10年の間に大きく変わりました。今では英語で仕事のやり取りも十分できますし、仕事のやり方も先進国のやりかたでやっているところが多くなりました。ただちょっと安心するとすぐ変なものを作ってきますので油断できません。幸いにも私には何人かの良きパートナーがいますので色々な日本のお客様の注文にも答えることができます。
2004年01月22日
コメント(0)
今から4年前になりますが何か別に仕事を立ち上げたいと思い前から考えていた(あまり深くは考えてはいなかったのですが)事を始めてみようと思いまず、ウコン関係の商品の販売を始めました。これは、友達に勧められて自ら飲み始めたのですが深酒しても二日酔いにならずけっこー良かったのです。周りには酒飲みがたくさんいるのでそれだけで結構商売になるかなという安易な発想でした。沖縄のメーカーから安く仕入れて自分のラベルを作り商品に貼りオリジナルの健康食品を作りました。最初は良かったのですがやはり小売りだと限界があります。人脈関係だけではたいした売り上げにならないので新規の顧客を捜さなければならないと考えました。まずは経費をかけないように自分でチラシを作りポスティングを始めました。週末になるとチラシを持ってマンション回りです。全部で約2000件ぐらい配ったでしょうかその結果何件問い合わせがあったと思いますか?たった2件です(ホントに千三つです)。これでは効率が悪すぎます。(健康にはよいのですが)その頃会社としては黒字だったので、ミニコミ誌に広告を載せてみようかということになりました。3ヶ月間広告を載せたのですがその結果受注したのは7-8件です。広告費用にも満たない売り上げです。広告をやめたとたん新規の顧客は見つかりません。これでは広告費倒れになってしまいます。この商売は私には無理と判断してさっさとやめることにしました。在庫は自分で飲めばいいのです。そして次の仕事をやってみました。・・・つづく
2004年01月21日
コメント(1)
前にもここで書きましたように私は業務委託という形で貿易、特に輸出を続けていましたが、せっかく独立したのにこれだけでよいのかなーという考えがわき上がってきました。今の仕事を続けながら自分独自の仕事を作り出したいという欲求がどんどん大きくなっていきました。別の仕事をやる時間はいくらでもあります。アイディアも色々持っています(とはいってもただの思いつきですが)それを土日とか業務時間外の時間を使って色々やってみました。また続く。
2004年01月20日
コメント(0)
前回まで書いたベンチャー企業との仕事、倒産そしてその後の経営者たちの生き様を通して私は大変貴重な経験をすることが出来ました。多くの場合会社が破綻するとベンチャー企業の社長が取ったような自己破産というかたちで責任をとるのでしょう。しかしその場合もう一度信頼を築くのは大変なことでしょう。一方専務の方は今までの仕事関係の人たちと仕事を含めて今でもつきあいをしています。私も彼とは友人としてつきあっています。経営者としては失敗しましたが、個人的には周りの人の信頼を一層厚くしたと思います。これ程のピンチは無いにしても、誰でも多かれ少なかれ困難に直面することはあるでしょう。それを前向きに乗り越えるとまた次のチャンスが待っているのだと思います。かく言う私も頑張らなくては!!!
2004年01月18日
コメント(0)
倒産した後、専務は仕事を探します。保険の外交、高級ラジカセの飛び込み販売、等々。持ち前の営業力でなかなかの成績を残すのですが雇う側は使い捨て感覚で考えていますので長く続けられません。最後には品川駅で列車から毎日出されるゴミの仕分け作業までやります。これはたいへん厳しい仕事で、朝の6時からひるの12時まで悪臭漂うゴミの中に入り作業しなければなりません。体にゴミのにおいが染みついていきます。列車が止まる日はありませんから365日仕事があります。無断欠勤を2回したら即首という厳しい仕事ですがそれを休まず約一年続けることになります。その仕事の良いことは仕事が昼までなので午後、別の仕事をすることができることです。友人のつてをたどって、ある中堅規模の会社で商品開発の手伝いをパートとしてやることになります。専務はもともとある大手家電メーカーの技術者として働いていました。かなりのアイデアマンでこれまでにも色々とおもしろい商品を開発し販売してきました。そしてこの努力と才能がパートをしていた会社に認められその後正社員として迎えられます。一度は自分で人生に終止符を打とうした人間が、もう一度頑張ろうと前向きに努力した結果がこのような形になったのです。彼は常に前向きです。悲観的に考える余裕は彼にはないのです。今では常に皆より早く出社し夜は最後まで仕事をして、休日にも頻繁に出社して仕事をしています。周りの社員が何であんなに仕事をするのだろうと不思議がるほどだそうです。彼にとっては何も心配せず仕事に没頭出来る今の環境は本当に快適なのです。
2004年01月17日
コメント(1)
会社が倒産する約半年前から専務の会社は資金繰りが悪くなり給料が出たり出なかったりとなります。一度良い生活をするとなかなかレベルを落とせないようで、あちこちに借金をしてしまいます。そしてそのころ今度は専務の家で嫁姑問題が起こります。専務が母親と一緒に住むように決めたことに納得しない奥さんは別居してしまいます。それに追い打ちをかけるように専務の目に問題が起こります。専務の目の視野(角度)が徐々に狭くなりいずれは失明すると医者から宣告されるのです。さすがの専務もこの事態に自ら死を選ぼうとします。睡眠薬を買い込み部屋に隠しておいたのですが娘さんが専務の異常に気が付き隠してあった睡眠薬を見つけて最悪の事態を食い止めます。その後二人で話し合い、結局もう一度やり直す事を娘さんに誓います。私はそのころ上記の事を専務から聞きました。専務がその時言った言葉を今でも忘れません。”たかだか50万円、百万円が無くて自殺する人の気が知れない”という人がいるけれどそのたかだか50万円、百万円を困ったときに貸してくれる人は滅多にいないものだよ。倒産後専務は仕事を探し始めます。それがまたたいへん!!・・・またまた続く
2004年01月15日
コメント(0)
結局ベンチャー企業は倒産してしまい、私はサラリーマンとして初めて大きな失敗をしてしまいました。私個人としては本当に精神的に厳しい毎日でした。でも倒産させてしまった経営者はその責任を問われもっと厳しい状況に直面していきます。社長と専務であった二人の経営者がその後どういう道をたどっていったかを少し述べてみます。社長は街金からも借金をしていたため厳しい取り立てにあい住所を変えてしまいます。結局離婚し、自己倒産してしまい、その後生まれ故郷に帰ってしまいます。専務は違う道を辿っていきます。専務は自己破産をせず個人的に借金をしているところにはお詫びに行き、必ず返済することを約束し任意整理という道を選びます。また、大きな被害を与えた数社には個人的に毎月返済することを契約書として作成します。もちろんその時点では収入がありませんから返済は6ヶ月後からということになります。この専務にはこの倒産が起こる半年前に実は大きい事件がありました。・・・続く
2004年01月14日
コメント(0)
順調だった販売が少しずつ落ち込んでいた時に一緒にやっていたベンチャー企業が取り込み詐欺にあってしまったのです。初めの数回はちゃんと支払いをして信用させて,その後大きな注文をして商品を受け取ったらドロンてしまうという典型的な詐欺です。その後こんどはそのベンチャー企業が振り出した手形が落ちないという事態に陥ってしまったのです。結果的には経営者の放漫経営のため資金繰りに行き詰まってしまい3社に振り出した手形が落とせなくなってしまったのです。3社と話し合いを持ちとりあえず手形のジャンプをしてもらうことでベンチャー企業を存続させることとなったのです。それがその後裏目に出てしまいます。わたしの会社はそれからもそのベンチャー企業に商品を継続して供給したため売掛金が倍に膨れ上がりました。そして、ジャンプをしてくれていた3社のうちの1社が別の会社との商売が失敗してなんと突然倒産してしまったのです。その結果振り出していた手形は不渡りとなりベンチャー企業はあえなく倒産してしまい。私の会社もかなりの金額の焦げ付きとなってしまったのです。もちろんそれは私と私の上司の責任です。どうにか負債を減らすべく不眠不休で走り回りましたがもうお手上げ状態。寝られない日が幾日も続きました。・・・続く
2004年01月13日
コメント(3)
私がサラリーマンだった頃、貿易部に所属していましたが、自分の性格としては色んな事をやってみたいという性分で貿易業務は部下にほとんどまかせて私と似た性格の上司と共に新規プロジェクトを起こしました。ユニークな商品を開発しているベンチャー企業と組んで商品開発と営業は主にそのベンチャー企業が行い、私の会社は製造をうけもちスタートしました。生産準備と共に販売網の設立のため日本各地を飛び回りました。おかげで初年度~億円の売り上げを達成し、二人から立ち上げたベンチャー企業も十数人の社員を持つ会社にまでなりました。1年目、2年目と順調に伸びてきましたが3年目に入り売り上げが少しずつ落ちてきました。そして大きなピンチがふりかかってきました。続く
2004年01月12日
コメント(1)
ドイツに駐在することになり、初めのうちは言葉が通じないので不便な日の連続でした。仕事上では英語を通してコミュニケーション出来るのですが、生活上はドイツ語を使うしかないのです。一人でレストランに行ってもよく分からないので適当に注文するととんでもないものが出てきたり、床屋に行っても髪の刈りかたをドイツ語でどういう風に表現していいのか分かりません。歯医者に診てもらうにも、まず予約を電話でしなければなりませんし、歯がズキズキ痛むってどういったらよいのか分からなかったり。毎日辞書とにらめっこです。最後にはストレスから胆石が出来てしまい(胆石であることは帰国後判明したのですが)夜中頃、腹部に激痛が走り七転八倒状態となってしまいました。当時自分では原因は全く分からず、ひょっとしたら一人でここで死ぬのかなと思いました。とにかく救急車を呼ぼうと受話器を取ったのですが何番にかけて良いか分かりません。しかたがないので最後の力を振り絞りタクシーに乗り、駅前の警察へ行きそこからパトカーで病院に連れて行ってもらいました。明け方になり痛みはぴたりと止まり一人で自分の部屋へ帰りました。幸いにも胆石による痛みはその後日本に帰国するまで起こりませんでした。色々な経験を通して1年経つ頃になると、ドイツ語らしき言葉をしゃべっている自分がいました。もっともドイツ語が通じたのは同僚とか自分の生活圏内の人たちだけでした。そのころになると私も、同僚も何が言いたいか一言聞けば分かるようになっていたのでドイツ語がしゃべれるようになったと勘違いしていたのです。でもコミュニケーションというのは言葉だけでなく表情とかその人の顔色とかを読みとり理解することなのでしょう。おかげで相手が何を言おうとしているかを悟る力(感?)が良くなりました。
2004年01月10日
コメント(0)
もう20年ぐらい前になりますが、新卒者としてある会社に入社して1年半後にドイツのハンブルグに転勤になりました。あるドイツの会社に出向となり全く違う環境で働くことになりました。日本人は私一人だけ英語はしゃべれましたが、ドイツ語はぜんぜんだめで見ても聞いても分からずもちろんしゃべれないと言う三重苦でしたが目新しいことばかりでそれほど不自由は感じませんでした。もちろん何処へ行くにも辞書を片手に持っていました。私が最初に直面した問題は空腹でした。当時私の給料はドイツマルクで1500マルクぐらいで1マルク100円ぐらいのレートでしたから日本円で約15万円ぐらいでしょうか。まだ金銭感覚がよく分からず、月の半ばになるとお金が無くなってしまうのです。なにせ2桁違うのであっという間に財布が空っぽになってしまうのです。空腹で寝られない日もありました。さすがに自衛策を考えました。まず給料日直後には保存食を買い置きすること、安く食べられる店を探すこと、簡単に作れておいしい料理を考えることです。いつも歩く道を少し外れて今まで通ったことのない道を歩いたりして安い食堂を見つけました。今では日本にもありますが立ち飲みのコーヒーショップ、立ち食いのステーキ屋さんなど結構あるものです。視点を変えると今まで見えなかったものが見えてくるものですね。朝市に行き安く食材を仕入れ自分である程度料理もするようになりました。困難に直面すると人間は色々と対応出来るものです。
2004年01月09日
コメント(0)
このサイトを立ち上げるときに書いたのですが今はピンチの真っ直中です。昨年の6月までは3年連続黒字で余裕があったのですが、7月以降トラブル続き半年後には今までで最悪の赤字になってしましました。自分では同じようにやっていたつもりなのに油断と慢心があったのでしょう。同じことを続けていてはいけないと神様が警告してくれているのかもしれません。詳しくはいずれここで述べてみたいと思いますが・・・。こうゆう時こそ今までやってきたことを思い出して前向きに、プラス思考でやらなくてはと自分に言い聞かせています。困ったときに話を聞いてくれる友人がいるのはありがたいことです。事業のことで相談に乗ってくれる人というのはかなり色々と経験していなければ無理ですし、ややこしい事に関わりたくないのが普通ですので話をきいて意見を言ってくれる友人を持っていることに本当に感謝しています。厳しい状況に自分が置かれれば置かれる程、本当のことが見えてくるのかもしれません。困った時、親身になってくれる人がいることがわかっただけでも有難いことです。
2004年01月07日
コメント(0)
私がはじめて就職して貿易部へ配属になったときに個人的にビジネス英語を習いに語学学校へ通っていました。そこで英語によるビジネス文の書き方を習ったのですがそれよりも私にとって仕事の基礎となることを教えてもらいました。それは“肯定文で書く”ということです。例えば、“このドアから入れません”ではなく“右側のドアからお入りください”とか、お客様がこれこれの値段にして欲しいと要望があったとき“その値段では無理です”と否定するのではなく“これこれの数量を買っていただければいくら幾らになります”というふうに肯定文に言いかえるのです。肯定文で書くということは肯定的に考えるということです。この習慣がつき肯定的な仕事の積み重ねが肯定的な結果を生んでいくのではないでしょうか。
2004年01月05日
コメント(0)
数年前有名なギフト関連の会社におもしろいペンを売り込みに行きました。担当者の人には大変気に入って戴いて、社内で検討してもらえることとなりました。終日後電話があり至急来社して欲しいとのことでした。先方へ来社すると担当者よりとても良い話があり至急数万本納品して欲しいとのことでした。この商品は中国で作製するため私の中国のパートナーと連絡を取り早々準備に入りました。納期は急いで作製しても30日かかります。その後先方の担当の人から電話が入り上層部の人より2週間以内に商品を準備するようにとの指示があったのでそのようにお願いしますとのことでした。最短で30日かかる納期を2週間でやるというのはいくらなんでも無理ですと返事をすると、担当者も上司からの指示なのでなかなか納得しません。神業でも使わなくては無理ですと私が言うと、それでは神業でも何でも使ってお願いしますと言うのです。神業を使ってでも間に合わせろと言われてしまいますと、こちらももうそれ以上のことがいえません。急いで私の中国のパートナーとどうしたら可能か話をました。何日も中国の工場に泊まり込みで生産を確認した結果どうにか納期が間に合ったのです。神業でも使ってでもやれと言う言葉に触発され無理が可能になったのです。それは自分の仕事に対する真剣さが足り無かったということでもあると思います。無理なことも神業を使えば可能になるのです。
2004年01月04日
コメント(0)
”ユダヤ人は片足を折れば両足でなくて良かったと神に感謝し、両足を折れば首の骨でなくて良かったと神に感謝する”前向きに生きる、プラス思考で物事を考えるということは結構努力のいることです。その人の性格にもよると思いますが、努力を怠るといつの間にかマイナス思考の考え方、後ろ向きの生き方になってしまいがちです。それはまだ余裕がある状態です。崖っぷちにいる人はもう後ろがないのです。プラス思考、前向きに生きるしか生きのびるすべがないのです。まだ余裕のあるうちにプラス思考のクセをつけておきましょう。プラス思考でまいた種にはプラスの花が咲き、マイナス思考でまいた種にはマイナスの花が咲くのです。どうせ自分のまいた種は自分で刈らねばならないならばプラスの花を咲かせようではありませんか。
2004年01月03日
コメント(0)
新年あけましておめでとうございます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー”ペシミズムは我々ユダヤ人が持つことを許されない贅沢品である”(メイヤ、元イスラエル首相)ユダヤ人には楽観的に、前向きでなくては生きていけない過酷な歴史的状況があったのでしょう。話は変わりますが、アメリカに何人かのユダヤ人の友達がいます。以前彼らとアメリカでビジネスショーに出展したのですが、その時彼が部下に対して、微笑んでも別にお金を取られるわけではないのだよ。微笑みはお客様の心を開く鍵であり、ビジネスのチャンスを与えてくれる大切なものなのだからもっと微笑んではどうですか、と言っているのを当時聞いて納得したものでした。昔、日本人は訳もなくにこにこしていて、外国で馬鹿にされているみたいなことを聞いたことがありますが、今ではユダヤ人の方がひょっとしたら日本人以上に微笑んでいるのかもしれません。私も自分を振り返ってみるとピンチの時は余裕がなくなり、暗い顔、怖い顔をしていたと思います。文頭の言葉を模して言えば ”私には仏頂面をする贅沢など無いのです。”今年一年微笑みを絶やさないようにしたいものです。
2004年01月01日
コメント(0)
全22件 (22件中 1-22件目)
1