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未来へ進めば進むほど、過去に戻りたくなる。ナニワ英語道ブログは細々と続けていきたい。中三の日記(14歳ほやほや)。4月17日、長兄が筆を手に野球ゲームを作った。見事だった。「兄は、一度つくり出すとなかなかやめない。僕はこの点を兄の長所だと思っている」 兄の創った野球ゲームを色鉛筆で写し、日記に貼っている。5月2日、その数日後、私も思い出したように「相撲ゲーム」をつくった。この日の日記に、「場所の前置詞一覧というのを絵と一緒に書いた。............英語の前置詞兄の教訓を受ける」兄弟仲がよかった。ゲーム感覚が「絆」となった。弟の篤弘や妹の幸子がいつも、私の創ったゲームに集まってきた。そして、近所の子も、「みっちゃん、寄せてぇ--」と集まってくる。私にはもう一つの顔があった。それは格闘家としての「ぼく」であった。近所の草相撲では無敵。横綱。夜、米島という男が私に挑んできた。いくら投げても投げても、かかってくる。得意のやぐら投げでたしか相手を40回ぐらい投げた。一度も投げられてないから、近所で横綱という面目を保った。その様子を絵日記に書いた。公認の試合ではないから、行司はいない。私の当用日記だけが行司であった。
2012年01月25日
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最近つくづく考える。「血ィは争えないね」(Character is destiny.)と、亡母がよくいっていた。亡母は、死ぬまで日記を書き続けた。指が曲がるまで書き続けていたから、「行」に近い。絵日記の一部を出版してもいい、といった底意(ハラ)もないから、動機の純粋性でいえば、私よりも母の方が上だ。今年、辰年の私は年男になる。再び狂い咲くつもりだ。
2012年01月15日
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12月18日のD-DayをDeathcember 18(死を覚悟のD-Day)として、再び100名集めに挑戦してみた。失敗すれば「切腹」―― professional suicide ――。大失敗すれば、「成敗」(こちらは不名誉)になる。古希の祝いと同じく、高いハードルを課した。その主催者を20代前半の若者たち(青年紘道館)にした。周囲は無謀だといった。しかし、断じて私のワンマン処世術を通す。日本の将来を動かす若者に賭けている。 かけつけてくれた二人のインターン(中村、小川)には、実に頭の下がる思いがする。ノーネス、FMレインボータウン、「ドランゴン松の遠吼え」ブログ(服部チーフ)、夕刊フジのアシスタントとして裏で支えてくれている。今どきの大学生はと低く見ていたが、彼らの「プロから芸を盗もう」という脂ぎった執念と意識は、私に新たなる活力と自信を与えてくれた。12月18日のイベントも、当然のごとく手弁当でかけつけ、結集して私を支えてくれた。金で返せないのなら、教育で返えせるとまで言い切った。この一年間、私を信じてついてくれる。かたじけない。いくらこき使っても、喜んでついてくるから恐縮する。来年は国際ディベート学会(INDA=International Debate Negotiation Association、竹村事務局長)が正式に発足する。
2011年12月31日
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ドラゴン松は、ドラ桜を意識した、ニックネームだ。私が気に入っている「エンゼル・バンク」は、30代で転職するなという。大卒後の10年間は、転職は一回、ぎりぎりで2回と述べている。唸った。 その通り、私の人生も20代が勝負だと思っている。脱サラし、インターオーサカに入り、その後再び脱サラし、30歳の頃にアメリカ大使館に仕官できた。やはり人生にもリズムがある。
2011年12月28日
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ブログを毎日書き続けることは、ワープロ編集者がいるかぎり負担ではない。「ドラゴン松の遠吼え」が好評で、時事英語部門で常に人気No.1を保っている。夕刊フジの連載が、毎週月曜日と決まってから、日本語の見出しをいかに英語に同時通訳するか、新しいchallengeが始まった。30歳の頃、米大使館に始まったプロ同時通訳者としての経験が役に立っている。ナニワ英語道は、今の私を過去の私に結びつける役を担うことになりそうだ。歴史は腐らないから、自由日記のノリで書ける。(つづく)
2011年12月24日
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1月20日隣の村から多勢の悪ガキが刀(竹刀のこと)を持って暴れこんできたが、私は逃げず独りで闘った。しばかれて水ぶくれができた。と日記に書いてある。痛かった。しかし逃げなかった。担任の大喜多先生が私の絵日記を評価してくださった。朱字(ペン)でこう書かれている。「毎日根気よく、ねっしんに書けています。大そうよいことです。これからもこの調子でかいて下さい」私の絵日記は小学校、中学校の教員室の中でも話題となった。中学の頃、絵日記が展示され、金賞を貰った。学校の成績はよくないのに、絵日記はいつも話題をさらっていた。今やIT時代がたけなわ。ブログの時代を迎え、小中学校の頃の絵心が戻った。
2011年12月11日
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この頃から私はノリのいいタイプだった。坂東妻三郎ことバンツマは、私のあこがれのスターだった。今でも古畑任三郎の主人公(田村正和が演じる)を見ていると、彼の父のバンツマを思い出す。英雄の映画を観るとすぐに演じたくなる。浅草の木馬館で大衆演劇を見て、男の涙を流すのも、小学校の頃から変わっていない。ところで、民主党の海江田が泣いたので白けた。男の涙は、決して自分のためには流さない。こんな義侠心は父ゆずりだろう。その父を影で支えたのは母だった。母を中心に私の小・中時代は展開した。岡町は町ではなく、村、そして広場だった。この広場でリーダーが育った。
2011年11月30日
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1月8日、ぼくは影法師のえいがをみたので、さっそくみんなをあつめて影法師ごっこをした。ぼくはばんつまになった。あいては六人ほどでぼくは一人だった。しばらくしていると、とってもつかれたのでやすもうとすると、ぼくのお兄ちゃんがきて、そんなものするよりドッチボールをしようといったので、影法師ごっこをやめて、ドッチボールをした。(チャンバラゴッコでは近所で一番強かった私。この頃から私はいつでもリーダー。ロール・モデルに弟子入りして、ご本人になりきるのが私の行動パターンだ。)
2011年11月17日
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1月3日、けふでお正月がおわったので、うんとあそぼうと思った。まづ朝のうちからおべんきょうをした。勉強がすんでから外へ出ようかと思うと、ぼくの家の前でいぬが「キャンキャン」とほえていたので、そばえよると、きん所の子どもたちが犬をいじめていたのでぼくはえんしょうのピストルをもって、どうぶつをいじめるのは、だれだ、というと、みんなもうしない、といって、それからみんなで犬とあそんでやった。(弱いものいじめはしない、という私のモットーは、小学生の頃から守ってきた。強い相手には牙をむく、という今の私の反骨精神もこの延長にある)
2011年11月07日
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夏休みから引き続いて絵日記を毎日書いた。プリントも一所によく勉強した。けれども、まだまだ勉強をしなくてはならないと思った。社会のしけんびは、ノーベル賞をもらった湯川博士のことを小川とかいたりした。それで有名な人はよく人のお話や新聞などにきおつけて見たりはっきりとおぼえることだと思った。梅花のお兄ちゃんに、きくと宮森先生にずっと前に教へられた湯川博士のおくさんとのこと。「ホホウ、えらいことをやりましたなア」と言われたそうだ。それなのにぼくは、小川とかいてしまった。又、ぼくのすんでいる土地を本州なのに、四國とかいてしまった。お母ちゃんに見てもらったら、自分の住んでいる所ぐらいしっかりとおぼえておくようにと言われた。これからは社会のことをちゅういしておぼえておこうと思った。科学の本もかってもらった。これもうれしかった。これからもますますべんきょうしようと思った。(勢いがつくと、いつまでも書き続けている...unstoppable...気性は小学4年生の頃に顕れていた。日記を書いていて、そして残してよかった。当時の今は亡き母そして兄、弟、妹、近所の仲間たちといつも仲が良かった頃が懐かしい)
2011年10月31日
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12月21日水曜日ふくびきひくのわ、けふかぎりだったのでお母ちゃんに手塚治虫の本をかってもらった。本屋へいっておばちゃんに百三十円わたしてもらった・・・。(「まんが太平記」をそっくり描き写している。文章のまずさを、絵でカバーさせようとしていたのか。とにかく、手塚治虫が大好きな少年だった)
2011年10月24日
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12月19日ゴハンをたべてからにかいで勉強をした。するとお母ちゃんがししまいがきたといったので外へ走って出た。四(つ)かどでししがおどっていた。あとからお母ちゃんがさちこをおぶってみていた。さちこはこわいのでないていた。(いつもお母ちゃんが絵日記に登場している。幸子がししまいで泣いていたとは)(つづく)
2011年10月17日
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12月17日 土曜日 けふわ野原であそんでいると向の方でドンドコドンドコたいこをならしていたので、なんだろうと思って走っていった。すると、かたに大賣出しとかいたかんばんをかけてラッパを吹いて、チンドンヤのようであった。しばらくきいていたが、だんだん向の方へ歩いていくので、いやになったので走ってかえった。(賣という漢字は、母がいつの間にか鉛筆で書き加えてくれた)(つづく)
2011年10月08日
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12月12日 月曜日 学校から帰ってみるとお母ちゃんわいなかったので、家でるすばんおしておいた。一時間もかかったのでいやだった。すると戸が「ガラガラ」とあいたので、お母ちゃんだと思った。大きなきばかりだったので、お母ちゃんが木をわってくれといったのでわってあげた。ぜんぶわるとお母ちゃんをよんだ。するとありがとうといった。五円もらった。(誤字脱字もそのまま写した。文章になっていない。しかし続けた。とにかく、私はいつも母の側にべったりいた。今も、松本家の家訓は日記を書き続けること。それを捨てないこと、である)(つづく)
2011年10月05日
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今、小学校四年生のときに書いた、黄色に変色したボロボロの絵日記を開いている。多分13才から毎日当用日記を書き始めると決めた自信は、この頃に芽生えていたのかもしれない。紙面は変色しているが、黒鉛筆は当時の私の「続けるのだ」という悲痛な叫びを刻んでいる。 12月8日 木曜日 天気 はれ けふわ 学校で、勉強してかへった。いえでおさらいをしていると、三人が遊ぼうといったので百人一しゆうをした。ぼくのすきなのは、ふくからに秋の草きもしをぬれば むべさんふうをあらしというらん、だった。(「吹くからに・・・」はずっと私のおはこだ。ICEEのゲーム感覚は百人一首からではと思う)(つづく)
2011年10月01日
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私の道草は小径だけではない。思考は大胆に時空をくぐり抜ける。私の英語学習のスタイルもそうだ。英語を体験する(experience English)という過激なアプローチをとる。TPOに惑わされずに思い切って、環境に融け込んでいく。"挑む"という表現が私の人生キーワードで、私の日記には、これまでヒマという言葉を一度も使ったことがない。常に何かに挑戦し、前向きに生きている。振り返らない。70歳でニュースキャスターとして現役復帰しても、まだ物足りない。英語の道を究めようといくらもがいても、まだまだ道は遠いのだ。休みは要らない。常に何かに追われている。道草でも食わないとやっていけない。(つづく)
2011年09月28日
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向こう見ずの私だった。今もそうだ。私のワイルドな行動パターンは、小学生の頃から変っていない。誰が止めてもムダ。明治の母がよく言った。血ィやねえ、と。ナニワ人好みの英語では、It's in your blood. Can't fight it. となる。関東人向けにかっこよく英訳すると、Character is destiny. となろう。
2011年09月21日
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ふと小学生の自分に戻った。あの頃、いつも側には弟の篤弘がいた。小さな釘をレールの上に乗せておくと、電車が通ったあと、ペッチャンコになっている。それが磁石になるのだ。そのことを篤弘が知っていた。「ほな、この釘も」と、何本も手に、二人で近くの阪急沿線岡町駅近くの線路へ向った。 ある日私は独りで出掛けた。あの頃から、独りになると、大胆になる私だ。人とはめったにつるまない。ようし、この犬釘を電車に踏ませれば、巨大な磁石ができると、胸をときめかせて、線路へ向った(篤弘がいたらきっと止めたに違いない)。大人の指を五、六本束ねたような大きさのずっしりと重い犬釘をレールの上に置いて、電車が来るのを息を殺して待った・・・。電車がキーーッと止まった。運転手が窓から首を出す。「おい、お前、その釘をどけろ」。隠れていた私は、「はい」と言って素直に取り除いた。素直はいいが、とんでもない悪童だった。大阪弁でやんちゃという。もしも居眠り運転でもしていたら、確実に転覆事故。今考えても冷汗が出る。(つづく)
2011年09月18日
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私も道草してみたくなる。道という大海を求めて急流下りを続けてきた傷だらけの私も、鮭のような心境で母川に向って遡上したくもなる。上下左右に、気ままに遊泳してみたい。道に迷うことを恐れずに。これぞ究極の道草。 天塩川のカヌー下りの翌日は、美深でトロッコに乗った。深緑の森林、草原をくぐり抜けて往復1時間、命の洗濯になった。日本最大の赤字路線として知られた美幸線を観光向きのトロッコ路線に切り換え、黒字路線となった。美深(ビフカ)の白樺樹液祭りのキーマン寺沢実元北大教授の立案とのこと。その終点駅で犬釘を買った。廃線となり捨てられたレールの枕木を固定させるために打たれた大きな釘である。なぜか買ってしまった。((つづく)
2011年09月14日
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毎日アップロード、たちばな出版の近著「1秒英語」、インターネットTVのNONES番組「TIMEを読む」も一周年(12月18日に外人記者クラブ会場で「狼の遠吼え」を計画)を迎えようとしている。そんな時に、このナニワ英語道ブログは、源流に向って、川上りをしてみようか、とふと考えた。なぜ、私が鮭にメタモルフォーゼするのか。 貧乏生活を続けていた夏目漱石が晩年に朝日新聞社に入社した。やっと生活が安定したとき、彼は「ようし、これで大胆な実験ができるぞ」と快哉を叫んだに違いない。最後の完成作で唯一の自伝的小説「道草」を書こうとしたのもその頃で、「漱石と三人の読者」の著者、石原千秋の言葉を借りると、漱石の自伝を書くに至った心境はこうだ。・・・それは、自己の未来が残り少ないと感じ始めたからであり、そうであるからこそ未来の読者に向けて書くのではないだろうか。(P.7)--わかる、わかる。今だからこそ。(つづく)
2011年09月10日
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今、NONESのメイン・キャスターとして、収入は別にして、精神的収入(psychic income)は落ち着き始め、過去を振り返って、この世に何かを残さなければ、という産卵要求が、またぞろ鎌首をもたげ始めた。NONESのプロモのために書き始めたブログ「ドラゴン松の遠吼え」が、一挙に、時事英語部門のランキングでトップになった。文章がブログ向きになれば、筆力は落ちるのでは、という杞憂はいつの間にかふっ切れたとたん、ペンの流れが自由自在になった。浅瀬を軽快なスピードでサーフィングしているような気分になってきた。中三の頃から日記を書き始め、毎日欠かしたことがないという自信がある。だから、オレは話すより、書くほうが速い、と豪語してきた。肉筆力のスピードは、まるで手裏剣並みだ。今でもデジタル・パワーに恵まれた、若いアップローダー(カヌー担当)に囲まれ、「ドラゴン松の遠吼え」はスイスイと川下りを続けている。(つづく)
2011年09月01日
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鮭は産卵のために遡上する。北太平洋を回遊し終え、傷つきながら、最期の危険な旅に出るのだ。子孫を残すまでは死ねぬ、という彼らの産卵本能は凄まじい。私は、北海道が気になる。多分、それは、私の中に眠っている生物学的欲求が、エコ・バランスが保たれていた縄文の、そしてアイヌの世界に惹きつけるからであろう。原始林に囲まれた天塩川をカヌーで下りながら考えた。明治時代までチョウザメ(太古の硬骨魚)が泳いでいたという、太古の大河の川縁に、アイヌたちの部落が散在していたのだ。今も鮭の大群が遡上してくる。川の瀬が浅くなると、ざわめきが立ち上る。オールにも力が入る。ところが深瀬は静かだ。Deep water runs deep. 人間も川も同じだ。波を動かすのは、砂底。そして岩。これが、アイヌの鮭狩りの場だ、と川の番人T氏はいう。それに風向きにより、波のざわめきが変わるというから、川にも種々な表情がある。二時間の天塩川下りで、ふと私の人生もこの流れではないかと感じた。(つづく)
2011年08月27日
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中国人の好きな、「四知」。日本では「禅と陽明学」の大家、安岡正篤がよく引用されている。「だれも見ていないじゃないか」とワイロを渡されても、断る。「私も知っている、あなたも知っている、天も知っている、地も知っている」。この言葉にジーンときたものだが、この言葉の意味は、私が調査したところ、中国人の解釈は全く反対だった。「みんなも知っている、安心して、カネをとれ」。じゃ、といってワイロを取るのが、四知。本当?信じられない。中国に関しては、もっともっと知りたいことがある。とにかく、僅か一週間、上海を知るだけで精一杯。ここはまるで大阪(50年前の)。ごった返している。カオス状態。運転手のマナーも、通行人のマナーもわるい。一人の日本人とも話しかけず、東京へ国際電話もかけず、汗びっしょりになって、下手な中国語を使い、上海の街を駈けずり回った。学んだ標準語(プートンファ)が上海では通じない。感冒薬を買うのも一苦労。ホテルで一日中寝込んだ。脂っこく、辛い中国料理で、胃の調子が悪くなった。やっと成田へ戻った。「お疲れさま」と労をねぎらってくれた。お疲れさまは、英語ではGood work. 英語にはない。しかし、中国語にはある。辛苦了(シンクーラ)
2011年08月12日
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中国人の好きな言葉、黒猫白猫保好猫。猫は黒色でも白色でも、好い猫だ。このあとに、「鼠さえとれば」がくっついている。これが中国人の功利主義(pragmatism)。こういう実利発想がアメリカ人気質に合う。情抜きだ。 日本は、とくに東京では、そうはいかない。意地、プライドなど「情」が加わる。英語ができて、国際派といわれた人、とくに大学の教授は、英語を勉強しろ!等とストレートな発言をしない。恥ずかしいのだろう。中国人の面子(ミエンツ)は、こんなときには用いない。もっと雄々しい。「英語を学んで、祖国に恥をかかせるな」。Never let your country down. Never let your country down. Never let your country down. とコーラスで、英語を身につけさせる。英語を音声として、学ばせる。私が生駒の英語道場でやっていたことと同じである。発音より、発声だ!と吼え続けた。4,5日の上海滞在で、ちょっとした中国語が話せるようになって自信を得た。Crazy Chinese。これも英語道の原理・原則(ユエンズ)の応用に過ぎない。ところで、私は南方熊楠が大好きだ。あの天才学者は、言葉から入った。小さいところから入った。粘菌から宇宙の実相を学んだ。彼が狂人であったからか。私の実弟(篤弘)は、病跡学の研究家だが、私と熊楠の共通点を「狂」に置いているようだ。たしかに私は狂っているかもしれない。22、23才の頃から、英語道の「こころ」はと問われ、苦しまぎれにGrow younger.だと答えている。ロマンチスト(romantic)とは、risk takerのことだ。「先生、お若いですね、永遠の青年ですね」と褒められて、有頂天になっていた。しかし、最近、秘書のインターン生(23)の一言で目が覚めた。「君のお父さんのような歳の上司ですまないが...」と切り出したところ、「いや、お爺ちゃんですよ、グランドパパですよ」と切り返された。傷ついた。決して彼女を攻めないでほしい。上海の地下鉄内で、私に席を譲ろうとした人が、5日間のうち、3、4回あった。最初はムッとしたが、やはり私は老人なのだ。(つづく)
2011年08月06日
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それだけではない。西洋人が簡単に中国語をマスターできるのは、文法にある。「我要喝黄酒」は英語では、I want to drink yellow wine.(黄酒とは紹興酒のこと)となり、S+V+Oの構文は同じで、どちらもhead-first languageだ。私(オレ)が先にくる。日本人、とくに大阪では、この順序はあいまいだ。下手なカタカナ英語を使うと日本語。文法はアバウトなのだ。「やっぱ、紹興酒やな、ホンマにオレが飲みたいんや」順序を無視しても通じる。 Crazy English(フォン・クオン・イン・ユイ)で中国本土で引っぱりだこのリー・ヤンは述べる。「日本人は、口をもごもごしているだけで、英語の発音はできない。彼らは英語の学習にめちゃくちゃカネを使うがモノにできない。日本人に英語を教えるのは、発音に甘い英米人ではない。我々中国人が日本人に英語を教える時代がきた」私はこの発言で火がついた。中国人と英語で勝負できるのは、ナニワ英語道と、東京の紘道館だけだ、と吼えたくなった。(つづく)
2011年07月31日
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さて、上海にある漢院でマンツーマンの授業を受けた。北京語を話す講師陣はすべて、23~24才の若者ばかりだ。東京でも私の部下の大多数が23~24才というから、奇しき縁を感じる。いやというほど四声をたたき込まれた。基本は音、そしてリズムだ。私のカタカナ英語発音記号など全く役に立たない。万里の長城をワンリチャンチャンと書いても、通じない。ワンリィー、チャ――ン、チュオンと鼻から音を逃がすのだ、といわれる。「長」は外へ、「城」は内へ。呼吸なんだ、と。禅は、ツア――ン(ヌ)。子音で止める。Nを(ヌ)と発音するのだといい続けてきた私は正しかったのだ。日本語はまるで母音だけの言語のようだ。だからdebateがカタカナのディベートとなる。aはエイという二重母音だが、日本にはない。またこのdが厄介だ。道教のdaoismとタオイズムと同じぐらい強く破裂させる。だからドゥベエイ(ト)となる。日本語は難しい言語だといった人は誰だ。海外語の話せない日本人だけではないか。私の会った中国人は全て日本語が巧い。日本語は簡単だという。舌の構造が違うのだろう。私は、中国語も、とくに韓国語の発音も苦手だが、彼らは、あっという間に日本語をマスターしてしまう。こんな私でも中国語の発音はほめられる。「先生は英語をやっておられたから、中国語はラクですよ」といわれる。西洋人は、音(耳)から入りマスターする。日本人は活字(眼)から入るから苦労するらしい。(つづく)
2011年07月25日
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とにかく、速筆家で知られた私。ワープロ班がいれば、アップロードを苦にしない若者がいれば、情報に事欠かない。エッセイと絵日記などアナログ部分を中心とする私と、IT技術に強い若いスタッフの布陣といったところ。 憂国の士、ドラゴン松が吼えるつもりだが、ナニワ英語道の方は、のんびりと肩の力を抜いて、腐らない内容を、語り口調で書き続けていくつもりだ。本年末には、アクセス数が50万に近づくというから、こちらもできるだけ新ネタで勝負したい。さて・・・、上海へ飛ぶ。こっそりと。何故、何故という質問攻めがいやだから、独りで成田空港へ向う。71才で本格的に中国語を学ぶ。それも一週間の短期留学。私はイラチ(patient)なナニワ人。ナニワ英語をモノにした精神で、中国語をゼロから学びたかった。術は道を求め、道は術で証す。ナニワ英語道が機能することを証明するのは、見えない「道」ではなくて、見える「術」によってである。ナニワ英語道が本物である証(あかし)は、上京して術で証明することであった。そのためには、基本を大切にすることだ。発音、そして発声である。発声は、呼吸と関係があり、大阪時代の私は徹底的に腹式呼吸を強いた。柔道部の私が関学のESS(西の慶応と呼ばれた)を英語力で圧倒できたのも、呼吸法であった。(つづく)
2011年07月23日
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最近、急に芸術家としての自分に目覚めた。この71才の私がである。心境の変化は、NONESのニュースキャスターを引き受けてからである。もうすぐ一年になろうというのに、マンネリに陥ることはない。とにかく、一週間で届くTIMEは待ってくれないのだから、毎日が神経を張りつめ、残心を怠ることは許されない。 二週間分を一回で料理するインターネット番組(世界に広がっている)だから、情報を腐らせてはならない。英語の速読、速聴は欠かせない。スピードで勝負する武道家の私にはたまらないキラー・ジョブだ。一週間分の30分NONES番組(Watch TIME, Power English, Samurai Talk)のうち、一番神経を使うのが、最初のウォッチ・タイムだ。ディベートでいう立論になろう。10分のうち8分はぶっ通しで英語で語る。毎週TIMEをカバーツーカバー速読している私にとり、Power Englishはさほど苦ではない。問題は、最後のパートであるサムライ・トークだ。日本の武士道をバイリンガルで世界に伝える。ゲストを呼ぶことが多いが、大概は一人で吼える。TIMEを読むのは、英語力、情報力、人間力――どれも腐らせるわけにはいかない。とにかくスピード、スピード、スピード――転石苔をむさず。NONESの本拠(スタジオは東大の赤門近くにある)が東京だけに、東京で吼えることが増えてきた。新しく「ドラゴン松の遠吼え」というブログを立ち上げることにした。名古屋発の「ナニワ英語道」ブログは、いつまで続くかわからないが、とりあえず「ナニワ英語道」の原点に戻り、のんびり「近吠え」といくか・・・。
2011年07月17日
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(7/6のつづき)尖閣諸島が気になり、近くの石垣島へ行った。旧友の徳松信男教授(放送大学)がおられる。八重山防衛会の三木巖会長のドライブで、島の輪郭がつかめた。緑と水。こんな桃源郷が? 中国がよだれを流すだろうな、ここにも護国神社をとふと考えると、三木氏も同じことを考えていた。宮古と違って石垣には神社がないんですよ、と。護国神社の伊藤陽夫宮司と一緒に石垣島探訪に行きましょうと誘うと、ニッコリ承知していただいた。このサムライ宮司が信頼されているサムライ・ジャーナリストの竹村春夫氏は、いずれ尖閣島にも神社が要りますね、という。私は中央政府、中央のマスコミとソリが合わないから、いずれ流刑の身になるかもわからないから、今からどこかの離島を考えているよ、と冗談混じりにいうと、チベットのペマ・ギャルポさんが、あのにこやかな顔で、「センセイ、センカク島はいかがですか」と即座に答えられた。「日本がチベットになるのか」という質問(NONESのサムライ・トーク)に対しても、同じ表情で答えられた。 あの護国神社(今年3月で琉球の人たち25万人が参拝したという。明治神宮を超えた)の伊藤宮司と私が顔を合わせれば、そして泡盛が入ると、必ず大和魂に火が点く。なぜ私がここまできたのか。私の英語に聞いて欲しい。私の英語は日本刀。(つづく)
2011年07月10日
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(7/3のつづき)英語教育も日本語のディベート(琉球では、究論より、球論でいこうか)。島の人たちにはpeer pressure(周囲の眼)がある。西洋では、仲間からの村人的プレッシャーは悪と考えられていたが、それが逆にプラスになる。フィンランド教育は格差ではない、非競争的原理で動いている。そのキーワードは「信頼」だ。そして教育水準は世界でトップ。 離島でもできないことはない。秋田の国際教養大学でやりたいこともできなかった、くやしさもあり、なんとか実現させたい。紘道館というsocial networkを日本全土に広げたい。校舎もカネも要らない、究論道を信じる道友だけでいい。(つづく)
2011年07月06日
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(7/2のつづき)久高島は、カネで買えないものばかり。久高島の留学センターの坂本清治先生は、大都会から流れ流れてきた登校拒否児を、正常に戻されている。この人間と私は組んで、教育革命を離島から始めたい。沖縄を教育県にすると、狼煙(ノロシ)を上げた。(つづく)
2011年07月03日
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(6/29のつづき)大都会は、学歴中心、教育も偏差値で決定される。親力(ほぼ学費支払い能力)、つまりマネーが支配する。情報とはマネーに他ならない。一流大学を出た人が、官僚になる。天下りで、一流会社のトップになる。原発がクリーンであると吹聴するための口止め料がガッポリ入る。大都会人は誘惑に弱い。久高島の人たちは、カネでは動かない。(つづく)
2011年07月02日
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(6/26のつづき)琉球紘道館を中心に、ディベート道(究論道)を広げていこうと思っている。私は久高島の小・中学生にユイマール・ディベートを指導しようと思っている。沖縄は貧乏な島だ。しかし、自然環境的にはrichだ。人間をhuman capitalとすれば、アイヌから逆影響をされている北海道の人たちに匹敵する。(つづく)
2011年06月29日
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(6/22のつづき)ディベート術からディベート道にまで思考を進化させた私は、今やサッカー・ディベートを世界に広めようとしている。西洋と東洋のロジック・ギャップを埋める原点をゴールとすべき「空」にしてから、私にとりディベート道がライフ・ワークとなった。(つづく)
2011年06月26日
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(6/18のつづき)キリスト教的な愛で私を鍛えて下さった故西山千先生に対し、國弘正雄先生は、仏教的な慈悲の心で私を導いて下さった。共に人生の師(メンター)である。 思えば日本の英語教育も遠くへきたものだ。戦後の巨人・松本亨博士の「英語で考える」から、同時通訳者の眼から見た、文化人類学に手を染められた巨人・國弘正雄先生、そして末席ながら、大先輩の諸説の流れを汲んで、ORにまでたどりついた。たかがOR、されどORだ。このORには、IFが入るからだ。日本民族にとり苦手で避けたいのが、このORとIF思考だ。(つづく)
2011年06月22日
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(6/16のつづき)スピーチの好きな人は、多分ディベートが嫌いだろうなあ、と知っていても、こちらからは距離を置くことはしない。それがディベーターの腹だ。勝って喜ぶのはアタマ、負けて更に喜ぶのはハラだ。音読派の國弘先生が、たちばな出版の私の近著「ひといき英語――音読編」の推薦文を書いて下さった。國弘大先輩の発想は、ディベートはagree to disagreeであると述べられる。しかも、either A or Bではなく、both A and Bであるべきだと日頃から述べられている。(つづく)
2011年06月18日
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(6/14のつづき)道友とはディベートのできる仲間のこと。意見が違ってお互い口がきけなくなることを恐れ、ディベートを避ける仲間は術友であって、道友ではない。今日、私があるのは、道友を選んできたからだ。私はディベートを恐れない。ディベートを否定する人をも恐れない。(つづく)
2011年06月16日
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(6/9のつづき)私は「ドラゴン桜」のファンだ。三田紀房がドラゴン桜を目指すなら、私は「ドラゴン松」に賭ける。咲くから、そして散るから美しい。それが桜を武士道に結びつける。松は、咲かないから、散らず、そのために強い。これも武士道。桜か松か、とORで考えるのは、思考訓練になるが、そのディベートの目的は、中庸(バランス)を求めることである。「桜 and 松」だ。だから三田氏とはディベートができると信じている。(つづく)
2011年06月14日
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(6/8のつづき)日本は東京という大都会をピラミッドの頂点として成り立つ経済大国だ。そして学歴社会。それは島を捨てて、陸へ向うことだ。しかし、東日本大震災が起こり、陸も島や村であることを知った。人はマスコミによる風評被害で翻弄されている。いまや大都会はシステミック・エラーで機能不全。地震、津波までは天災、原発危機となると人災。その人災はエリートにより、もたらされる。学歴とはお金のことだ。高ければ高いほどマネーに不自由しない。天下りはなくならない。エリートはお金で買収される。お金の誘惑に勝つ術を知らない。エリートは脆いのだ。(つづく)
2011年06月09日
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(6/6のつづき)ORで考えるには、ロジック(この基はA or B)が必要でわかりやすい。ビジネスに結びつきやすい。そこに落し穴がある。ディベートはロジカル・シンキングを鍛えることだけが目的となると、新たな問題が生じる。相手を論破し、自説を守るという物騒な大陸的思考は、日本という島国国家のエトスには馴染まない。ましてや、沖縄を中心とする琉球の人たちの思考訓練にはむかない。(つづく)
2011年06月08日
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(6/3のつづき)対立を超越するThe Way of Debate(究論道)は人間力と切り離せない。ディベートの技術の向上だけを目指すディベート術派が世に多い。英語力を伸ばすことは、人間力と関係ないという派(英語術派)が多数を占める現実から判断すれば、ディベートは術であって道でないという流派(ディベートは西洋のものと考える人に多い)が多数を占めるのと同じ理屈だ。(つづく)
2011年06月06日
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(6/2のつづき)英語は黙って読む(黙読は速読に結びつく)か、or、声を出して朗(音)読するかという論争は、その意図が建設的ならdebate。破壊のための私闘ならargument(口論=けんか)となる。私はどんな人が一番好きかと問われると、debater(議論して感情的にならない人)、そして一番きらいな人はarguers(議論に勝つことが目的とする論争好きな人)だ。世に、ディベートが好きという人に、arguers(自説を相手に押し込める人)が多い――とくに日本人の中に。その人たちの共通点は、ディベートよりスピーチ、そして交渉(戦争)より妥協を好む。(つづく)
2011年06月03日
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(6/1のつづき)今は、英語も日本語もどちらも難しい言語だと言える。Both A and Bという思考だ。ところが、英語で考えるとは、Either A or Bなのだ。そう、「英語で考える」とはORで考えることだ。だから、英語そのものが、英語民族そのものが、ディベートなのだ。ORなき英会話は、それこそワサビのない寿司。ワサビ抜きの好きな人もいるが、それは例外。一般的にspiceが必要という人のためにブログを書いている。(つづく)
2011年06月02日
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(5/27のつづき)「英語で考える」とは何か。最近、英語が見えてきた。70歳から、英語の正体がわかってきた。そして、その頃から、日本語の正体もわかってきた。再び、日本語の言霊、そして音霊の研究に入り始めた。北海道のアイヌと沖縄が、「音霊」で結びついた。英語をやってよかった。I've come a long way. 日本語しかやらなかったら、「英語が世界一美しくて、世界一難しい言語だ」と己惚れていたかもしれない。今は、英語も日本語もどちらも難しい言語だと言える。(つづく)
2011年06月01日
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(5/26のつづき)早期日本語ディベート教育は、関西の女性から始める方が近道のような感じがする。とにかく、パワーがある。京都女のマユカ、大阪女のガメラはどちらもカリスマ教師として知られている。それぞれ子供も数人かかえ、主人に気をつかいながら、教育(とくに子供の躾)にも心血を注いでいる。生活のためとはいえ、このエネルギーはどこからくるのか。上方の磁場か?4/11、教育効果は笑いか、泣きか、このディベートで盛り上がった。(つづく)
2011年05月27日
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(5/25のつづき)遠吼えを続けている日本狼はまだ健全だ。ただ心は、西日本へ傾き始めている。信貴山の千手院で田中真瑞氏の護摩行を受けた。わざわざ高野山大学の松永有慶元学長に電話をつないで下さった。懐かしい声だ。やはり、乱世を救うのは、密教ではないかと考え、関西のサッカー・ディベート・トレーナー・コースの受講者の卒業式はここでやろうかと考えた。断食大学の夢が崩れたので、半断食コースなら、ここで行者たちと共に語り合えるはずだ。女性トレーナーの社会進出。そのために、女性達にも修業を積んでもらいたい。(つづく)
2011年05月26日
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(5/23のつづき)友人の森山進氏が「社内公用語化の傾向と対策」(研究社)を書いた。素晴しい出来だ。世界を股にかけて飛び回る会計士だから、情報量はすごい。さて、日本から発信している私は...と考えるとちと淋しい。森山氏が鶴翼の陣なら、私は魚鱗の陣の構えを続けるより他はない。毎週TIMEを隅から隅まで読んでいると、世界がわかる。社内公用語化で騒いでいる人など、雑魚のたわむれではないか、と達観したくなる。海の底を見よ、と自分にも言い聞かせている。(つづく)
2011年05月25日
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(5/20のつづき)週一回のTIME分析は、私を超多忙にする。二週間分を一回で録音するから、終ったらクタクタ。いつもバタンキュー。いきなり本番で二本をこなすから、たとえ英語や日本語が乱れても、ひるまない。一直線。Full speed ahead! ムガールさんともきわどい話。チベットのペマ・ギャルポさんのときも、大丈夫かと周囲をハラハラさせた。大手のメディアではないから、小回りがきく。特攻隊の気分になる。スピードにも自信がある。問題はアップロードする人手の問題だ。私の苦手な分野だ。(つづく)
2011年05月23日
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(5/19のつづき)1ヵ月以上遅れると、情報が腐るので、訪問者が去るという。このナニワ英語道ブログでも、気にしている。私の中には情報があふれているが、ワープロ班がいないと、すぐに腐ってしまう。ボランティア・スタッフが欲しい。秘書役の服部真子(NONESディレクター)もNHKに引っこ抜かれそうで不安だ。NONESとNHKの二股。とにかく、私の周囲のできる人は、超多忙な人ばかり。仕事のできる人は、どういうわけか、例外なく多忙。(つづく)
2011年05月20日
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(5/18のつづき)4/3。暗くて寒い花見紘道館。余震が続き、逃げ足の速い人は東京から去っていく。中興の祖、浜岡前塾頭を中谷塾頭が引き継ぐ儀式でもある。午後はホロ酔い気分で、花見の宴で合意した論題でサッカー・ディベートをする。「原発は直ちに廃止すべき。是か非か」。夜、ムガールさんが直会に参加する。数日後、NONES番組のゲストとして、英語で語り合う。アップロードが遅れてすみません。(つづく)
2011年05月19日
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