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開場時間の9時になり富岡製糸場に向かう。正門左のチケット売り場にて1000円の入場券を購入。開場時間は9時00分~17時00分(最終入場 16時30分)休業日は水曜日、年末(12月29日~31日) とのこと。正門から入り、直ぐ右手に富岡製糸場最後の持ち主の片倉工業株式会社の記念碑が。この工場創建からの歴史、目的、重要文化財に指定されたことなどが書かれていた。その隣には、国指定史跡 旧富岡製糸場 の碑。さらに赤のサルビアの花のその奥に、明治6年の皇后・皇太后の行啓記念碑が。明治6(1873)年の行啓とのことであるが、この記念碑建造は70年後の昭和18(1943)年。70周年記念ということも有ったようだが、碑文を読むと、当時行われていた太平洋戦争の戦意高揚の目的も行間から。正門に正対している東繭倉庫の入り口。ネズミ色の窓の多さにビックリ。そしてネズミ色の部分は全て木製。入口上部アーチの中央に『明治五年』と刻まれた建立石板が。現在ではビルなどに竣工年月日等を彫り込んだ定礎板を地上付近に埋め込む事が多い。中には鉛・銅・ステンレス製などの定礎箱が埋め込まれ、建物の図面・定礎式当日の新聞出資者名簿などが入れられタイムカプセル化されている事もあるようだが。またこの建立石板は所謂キーストーン(東置繭所要石)でもあるのであろう。キーストーンは頂上であることを示すと同時に、周囲の建材が崩れないように締める役目を持つ。このため、構造上も非常に重要な石なのである。ここからもフランスの技術を導入して建設された事を理解できるのであった。富岡製糸場の全体地図。基本的に移動は自由。ガイドの解説付きの観光も可能。個人の見学者を15名くらいの団体に纏めて案内してくれていた。実際に建物に入ることができるのは、「東繭倉庫」と、工事中の「西繭倉庫」(有料)そして「繰糸場」の3カ所のみ。おみやげコーナーと体験コーナーは「東繭倉庫」内に。最初に訪れたのが、この東繭倉庫。入り口から見える象徴的な建物。長さ104.4メートル、幅12.3メートルの2階建てのこの倉庫には、1フロアだけで32トンもの繭を貯蔵できたのだと。倉庫に使っていたのは2階のみで、1階は事務所、作業所だったと。建築様式は木造の骨組みにレンガを積み立てるという西洋の「木骨レンガ式」を採用。東繭倉庫 内部一階にはガイダンス展示や売店が。 富岡製糸場の歴史なども紹介。明治5年当初に使われていたフランス式糸繰機(復元)も展示。その他映像コーナー、糸繰機実演など。そして富岡製糸場の設立計画を担当した政府の役人の一人、尾高惇忠とポール・ブリュナらが武蔵・上野・信濃の地域 を調査し、次の理由により上野(こうずけ)のここ富岡に場所を決定したのだと。1.富岡付近は養蚕が盛んで、生糸の原料である良質な繭が確保できる。2.工場建設に必要な広い土地が用意できる。3.製糸に必要な水が鏑川から水を使って確保できる。4.蒸気機関の燃料である石炭が近くの高崎・吉井で採れる。5.外国人指導の工場建設に対して地元の人たちの同意が得られた。富岡製糸場の歴史。明治5年の操業開始から115年間操業を続けた製糸場は昭和62年(1987)に操業停止 するまで一貫して生糸の生産がおこなわれ停止後も現状は保存され、平成17年7月国指定史跡に。明治維新を迎えたばかりの政府は殖産興業政策を掲げ、輸出品の要の生糸の品質改良と大量生産を目的に製造工場を導入、日本の工業化の先駆けとしたのだと。富岡製糸場 ジオラマによる建築物の説明。 官営時代のフランス式繰糸器で操業中の写真。 世界遺産登録証。2014年6月25日と記載されていた。本物?いやコピー?。 一番下に『複製』と小さな文字で。内部からの東繭倉庫の窓。窓ガラスはなし。 太い木製の柱にはコンクリートの基礎が床上に。木製の柱が、水分等で腐らないような配慮が。 木の柱は樹齢300年ほどの木が使われていると。養蚕の最初の繭造りの作業工程の説明パネル。 養蚕:掃立て→桑摘み→桑くれ→上簇→栄繭→収繭→製糸:乾繭・殺蛹→選繭→煮繭→繰糸→揚返し→仕上げ』(説明展示より)錦絵「上州富岡製糸場」(明治5年)こちらが「ぐんま黄金」。黄金色の繭。群馬県オリジナルの「ぐんま」と、「黄繭種」という2つの品種を組み合わせることで、なんと、天然で光沢のある鮮やかな、この黄金色を実現。上州座繰り器の実演コーナー。江戸時代末期に発明された繭から生糸を取る道具。しかしこの日は実演は見ることが出来なかった。 「群馬オリジナル蚕品種」七種類のオリジナル蚕品種から出来た特徴ある生糸。 桑の葉を食む本物のカイコも見ることが出来た。 子供の頃、母の実家でも養蚕をやっていたことを想い出したのであった。そしてカイコが動き桑の葉を食むカサカサの音も。蚕の数え方は一匹ではなく一頭。人類が最も研究した家畜とも言われているのです。カイコは、幼虫の運動量も少なく、成虫になった蛾は飛べない事を知ったのは母の実家で。東繭倉庫1Fの展示会場を出ると左側にはブルーシートで覆われた機械や土間が目の前に。ここには「乾燥場」という、繭を乾燥させる建物があったが、2014年2月の大雪で倒壊。1922年(大11)に作られた木造の建物とのこと。修復には相当な時間と費用がかかりそうだ。 外の階段を上り東繭倉庫の2Fに入る。東繭倉庫の天井は見事な木造のトラス構造。トラス構造は外力に対する抵抗力が高く、軽量でありながら形が崩れにくいという特性を持ち、材料コストを抑えながら、構造体が変形しにくく、大きな構造物や空間をとることができるのが大きな特徴。しかし下記写真の如く、この時期のトラス構造は未だ進化の途中か。中途半端な?場所で縦の柱で連結されていたのであった。すなわち合掌材と陸梁(ろくばり)を両面から挟むように取り付ける挟み束の位置。繭倉庫の内部全体が解るのであった。鉄骨ではなく、木骨にレンガを組むという珍しい建物。木骨に使われたのは、妙義山などから伐採した杉の木で、幹周り5メートルのものもあったと。両側の壁一面、これでもかというくらいに付いている扉。ではなく、これは窓。なんでこんなに付いているかというと答えは明快で、繭を守るため。大量の空気を出入りさせ繭にカビを生えさせない等、換気、乾燥が目的と。 繭は写真の如き麻袋に入れられ保存されていたと。そして絹を取った後の蛹は熱で死んでいるが、日本の当時の養蚕農家の多くは、貴重なタンパク源として人の食用にしたり、鯉、鶏、豚などの飼料として利用したと。現在でもそのままの形、もしくはさなぎ粉と呼ばれる粉末にして、魚の餌や釣り餌にすることが多いのだと現場ガイドの方から説明受け。 東繭倉庫を後にし西繭倉庫に向かう途中、右手の自販機のある休憩場所には木枝製のユニークな椅子が。 西繭倉庫は現在保存の為の修理工事中。 北東部分に隣接して3階建ての見学用仮設施設を設置。屋根瓦の取り外し工事の様子などが見学出来るようになっていた。 修理現場の見学は有料(200円)。料金を支払い、赤ヘルを被って嬉しそうな旅友。この御仁は広島出身で赤ヘル大好き人間でこの日は元気があったのですが・・・・。そして私はハムカツが大好き。西繭倉庫も東繭倉庫と同様に木造煉瓦造り。木の骨組みに、煉瓦で壁を積み上げて造る「木骨煉瓦造り」という西洋の建築方法。屋根は日本瓦で葺くなど、日本と西洋の技術を見事に融合させた建物。「木骨煉瓦造」は、最初は横須賀製鉄所で導入された建築工法で横須賀から富岡製糸場に伝わったのだと。煉瓦は、フランス人技術者が瓦職人に作り方を教え、福島町(現甘楽町福島)の笹森稲荷神社東側に窯を築き瓦と共に焼き上げたとのこと。その中心となったのは韮塚直次郎を含む埼玉県深谷からやってきた瓦職人。煉瓦の目地には、モルタルの代わりに漆喰を使い、原料となる石灰は下仁田町青倉・栗山で調達。煉瓦壁は、フランス積みで積まれています。この積み方は主にフランス北部のフランドル地方で用いられた工法で、フランドル積みとも呼ばれているのだと。フランス積みとは、下記の写真の如く、各段に長い面を表面にする長手積みと短い面を表面にする小口積みを交互に並べ、小口の縦芯(センター)と上下に積まれた長手の縦芯を必ず揃わせる積み方。しかし実は西繭倉庫の外壁の赤煉瓦は本物ではなく養生シートに壁の描かれた絵、いや映した写真を養生シートに印刷したもの。海外の有名な教会や寺院の修繕にも良く利用されている方法。途中養生シートが下記写真の如く紐で連結されているのであった。そして『鉄水溜(てつすいりゅう)』を見学する。 富岡製糸場で今まで未公開だった鉄水溜が公開になっていたのだ。明治8年に造られた鉄製プール。もちろん鉄板は輸入され、大谷石を基礎にして微調整することで傾斜がつけてあった。直径15m、深さ2.4m。創建当初のレンガにモルタルを塗った貯水槽が水漏れによって使えなくなったことを受け、横浜製造所に作らせた鉄製の貯水槽で、その貯水量は約400m3。鉄製の国産構造物としては現存最古とも言われると。鉄板をリベットで精密に接着して水を溜ていたのだ。 ノズルの欠損部分。多くのリベットが狭いピッチで打ち込まれていたのであった。欠損部分の穴から底板を見る。関東大震災にも耐えた、頑丈な造り。クレーンも無ければブルトーザーも無かった時代に全て人力で組み上げたのでしょう。そして西置繭所保存修理仮設見学施設へ。残念ながら内部の作業の様子は、企業ノウハウか?撮影禁止であった。見学施設3Fよりの富岡製糸場の眺め。当初の煙突は周囲への衛生上の配慮から高さ36 mを備えていたが、1884年(明治17年)9月26日に暴風で倒れてしまったため、現存しないと。なお、現在の富岡製糸場に残る高さ37.5 mの煙突はコンクリート製で、1939年に建造されたものであると。そして再び東西の繭倉庫の間の中庭へ。この時間には多くの団体の観光客や遠足の学生の姿が。 右手の小高い丘には松の老木が。そしてその下には白いベンチが。
2016.10.31
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先日、茅ヶ崎に住む旅友のSさんと、群馬県富岡市にある2014年世界遺産に登録された『富岡製糸場』 を訪ねました。自宅を愛車で5:30に出発し6時前にSさん邸に到着。ここからSさんの愛車デュークに乗り換え出発。15分ほど一般道を走り、寒川南から圏央道に入る。中央道への分岐を直進し関越道を目指す。圏央道の開通により、関越道、東北道へも東京都内を通過せず行けるようになり非常に便利になったのである。 関越道、鶴ヶ島JCTより関越道に入る。 更に藤岡JCTより上信越道へ。 前方に荒々しい妙義山稜線が車窓前方に。妙義山、榛名山、赤城山、荒船山等の上信越の山々が見られた。 そして8時前には富岡ICに到着。 上州富岡駅近くの無料駐車場に向かって進むと、前方に富岡製糸場の案内板が。日本語、英語、韓国語、中国語、台湾語、フランス語での表示。 駐車場に車を停め、徒歩にて富岡製糸場を目指す。右手に上信電鉄線・上州富岡駅前が。 2014年(平成26年)3月17日に開業した 3代目駅舎。富岡市のマスコットキャラのお富ちゃんが迎えてくれた。 駅前通り商店街(県道206号線。上信電鉄上州富岡駅前より南方向に伸びる商店街。駅前通り商店街は朝が早いためか人の姿は殆ど無し。しかし時間は水曜日の 8時過ぎ。通勤車の姿も車も無し。商店街は殆どが未だ閉まっていたが、各店頭には多くの手描きの簾が掛かっていた。 右手に諏訪神社の朱のそして奧には石の鳥居が。宮本町蔵広場。宮本町に建つ蔵は、1914年(大正3年)に建てられ、平成の初めまで商家の倉庫として使われていたとのこと。平成15年富岡市に寄贈され、21年に蔵の修復と広場が作られ、宮本町蔵広場として親しまれていると。 世界遺産決定の日の上毛新聞。 カタールの首都ドーハで開催された国連教育科学文化機関(ユネスコ)の第38回世界遺産委員会は2014年6月21日、「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)の世界文化遺産への登録を正式決定したのであった。日本の世界遺産登録は18件目で、「富士山」(山梨県・静岡県)に続き2年連続。日本の近代の「産業遺産」が登録されるのは初めて。店頭のショーケースには不気味なものが。蚕をモチーフにしたお菓子「かいこの王国」シリーズの「お蚕様チョコレート」。そのあまりの再現度は「リアルすぎて口に入れるのに勇気が要る」事間違いなし。ホワイトチョコで作られた「幼虫」は、クランキーやクランベリーなどで身体の黒い斑点までも忠実に再現。しっかりと、顔の造りや目まで再現されており、怖いくらい超リアル。今にも動き出しそうな幼虫の下には、蚕のエサである桑の葉を練り込んだ葉っぱ状のチョコが添えられているのであったが・・・・。土産に買っていく人が本当にいるのであろうか?類似品を昔、青森・三沢空港でも見た記憶が想い出されたのであった。正面に富岡製糸場の入り口と赤煉瓦の建物が見えてきた。 『世界遺産・国宝・重要文化財・史蹟 旧富岡製糸場』と書かれた看板が入り口右手に。時間は8:30前、開場は9時からであるので近くの喫茶店で一休みすることに。 喫茶店『カフェドローム』。富岡製糸場から50m手前にあるカフェ。店名は富岡製糸場のフランス人技術指導者ポール・ブリュナの出身地「ドローム県」から。カフェドロームは富岡製糸場操業から3年後の明治8年に建築された古民家を改装したカフェ。当時は12軒つづきの長屋で(現在は7軒)製糸場関係者も利用したと。2階席は古民家ならではの土壁、ハリが当時のまま残されており富岡製糸場の昔の写真、富岡の古い町並みの写真を展示していた。1Fでモーニングセットを注文し9時までの時間を過ごす。 店内には100%シルクのスカーフ等が販売されていた。
2016.10.30
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昨日、今年もソラマメ(空豆)、スナップエンドウの種蒔きを行いました。まずはソラマメです。種はNETで事前購入済み。毎年、3粒莢が多く、多収、寒さにも比較的強いソラマメである『打越一寸』を育てています。今年も直播きではなく、ポットに種蒔きしました。直播きとはもちろん、畑に直接蒔くやり方。しかし、野鳥対策としてビニトンやネットを苗床全体に被せることが必要なのです。ポット蒔きは、その点、野鳥対策が楽なのです。豆のヘソ、つまりお歯黒を下にして、凹んだ部分が上に来るように少し斜めで差し込むのです。 ソラマメが発芽するためには酸素、つまり空気が必要。つまり呼吸をしているってこと。よって深く埋め込んでしまうと、呼吸ができなくなって腐ってしまうことがあるのです。この後、軽く土を掛け、如雨露で十分に灌水した後に、ソラマメの水色の頭が見える程度に浅蒔きしたのです。そして発芽するまで水を切らさないようにするのです。 既に趣味の養蜂場のある菜園に定植用の場所は準備済みです。今年もシルバーマルチを敷きました。ソラマメはアブラムシがつきやすく、これがウイルスを伝播するので、よく注意し早めに殺虫剤を散布することが必須なのです。アブラムシはキラキラ反射する光を嫌うので、シルバーフィルムをうね面にマルチしておくと良いのです。そしてスナップエンドウも種蒔きしました。この袋にはスナックエンドウ(他にスナップタイプエンドウ、スナックタイプエンドウなど)と書かれていますがが、これは商品名として扱われており、1983年(昭和58年)農林水産省により名称が統一されスナップエンドウが正式な名称となっているのです。今年も『スナック753』を購入しました。因みに753は『しちごさん』と読むらしいのです。耐寒性、越冬性が比較的強いので、関東南部の温暖地の秋まき栽培に適しているとのこと。また高冷地および冷涼地の春まきにも適しているのです。こちらもポットに3粒ずつ種蒔きしました。こちらも発芽には酸素と水分を多く必要とします。覆土を厚くすると酸素不足になりやすいので、覆土はタネの大きさの2~3倍程度に。比較的移植を嫌うので、育苗する場合は植え傷みしないよう大きめのポットを用い、本葉2枚以内の小苗で定植するのが良いと言われています。 併せて『スナック』も種蒔きしました。旅友から苗が欲しいとのメールがあり多めに種蒔きしました。ソラマメ&エンドウは連作障害が出やすい代表的な野菜。野菜は同じ仲間をつくり続けると、それを好む病害虫の発生が多くなったり、特定の微量要素欠乏が起こったりするのです。エンドウはそれ以外に根自身の分泌物が生育を阻害します。春先になっても、つるが伸びずに、茎葉が黄色く変色したり、縮れたりします。ひどいと根が褐変して腐ります。4~5年は同じ畑の場所でマメ科作物は栽培しないようにすると良いと農家の方に教えてもらったのですが、なかなか4~5年は無理なのですが・・・。ソラマメ、スナップエンドウ共に順調に発芽、成長し元気に越冬し春には美味しいビールのつまみとなることを願っているのです。 今年の収穫時の写真です。
2016.10.29
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先日の早朝、我が部屋の雨戸を開けると空が赤く拡がっていました。カメラを持ち、家の前を歩き見晴らしの良い場所へ。農家の大型ガラス温室に朝焼けが映っていました。東の空が刻々と色を変え、日の出間近。上空の雲の色も赤く染まってきました。そして雲の合間からこの日の日の出が。大きな太陽が丸い姿を現しました。さらにズームで。じわじわと上がっていく朝の太陽そして陽光が強くなって来ました。上空の空も赤く染まり明るくなって来ました。そして再び雲の中に。これぞ燃える空、燃える秋。そしてこの日の朝が到来したのでした。そしてハイ・ファイ・セットの『燃える秋』を想い出す。五木寛之の詩だったのですね。 【http://www.uta-net.com/movie/100084/より転載】秋暁や 刻一刻と 雲染まる秋暁や 染まる時間を 独り占め・・・詠み人知らずそして今朝の朝焼けです。
2016.10.28
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昨日の朝のテレビニュースで、『甲府地方気象台は、26日午前6時半頃、富士山(3,776メートル)の「初冠雪」を観測したと発表。平年より26日、昨年より15日遅く、過去最も遅い観測となった1956年に並ぶ遅さ』と。早速、我が趣味の養蜂場から富士山の姿を撮影してみました。なるほど山頂近くがうっすらと白く雪で覆われているのが確認出来たのです。「初冠雪」とは、山頂付近が雪、または白色に見える固形降水でおおわれている状態を、その年の夏以降初めて「気象台から望観できた時」をいうのだと。実は山梨県富士吉田市は9月25日、富士山の「初雪化粧」を宣言したのだ。甲府地方気象台が発表する公式の「初冠雪」とは別に、独自に確認しており、昨年より16日早いと。富士山の初冠雪は甲府地方気象台が観測し発表しているが、気象台が麓から約40キロ離れているため、雲や霧で冠雪を確認できない場合に備えて富士吉田市は2006年から、独自の宣言を出しているのだと。甲府地方気象台は9月25日「山頂付近が朝から雲に覆われ、冠雪を確認できない」として発表を見送っていて昨日になったのだと。これも平成16年(2004年)10月1日に気象台富士山頂観測所が無人化した影響か?富士山頂の昨日午前6時までの最低気温は-7.2℃であったとも。富士山の上空は雲一つ無い快晴。裾野付近から湧き上がっている?雲の姿も電線の先に確認できたのです。 頂上付近の登山道「須走+吉田ルート」 の3500m付近のギザギザがカメラのズームではっきりと。しかし昨日の昼間の気温は25℃越えと暖かい1日。しかし既に昨日の日没は16:54 、既に17時前になっているのです。北海道では20日に初雪+積雪のニュースもあり確実に秋が深まり冬が近づいているのです。 蜜蜂の 飛び行く空に 初冠雪の富士・・・・詠み人知らず
2016.10.27
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我が家の門のスロープの端と道路の舗装の僅かな隙間から菊が芽を出しそれを抜かずにそっとしておいたところ、見事な花を開いてくれたのです。数ミリの隙間から逞しく芽を出し、肥料も無しで自分の力でこんなに大きく成長し、開花したのです。黄色と赤の小菊。どこから種が飛んで来たのでしょうか。我が家の庭にはない種類の小菊なのです。そして今日の花。日に日に花の数を増やしています。縁の赤の色が減色し黄色が拡がってきました。生命力の神秘と力強さを感じざるを得ないのです。正に『根性小菊』、何だか元気がもらえますね。地上に出ている部分だけ普通になっているような気もします。コンクリートの下では根が懸命に生え廻り水分を吸っているのでしょう。そして地上の葉も太陽の光を逃すまいと。この菊の生命力と同じものを私もいつまでも持っていたいと。それを教えてくれたこの小菊。折しも雨が降り出しました。頑張れ、『根も葉もある』小菊よ。
2016.10.26
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク藤沢市の最北で最東端、横浜市との境に鎮座している高倉諏訪神社(藤沢市高倉2674)を訪ねる。石鳥居。 階段上に境内が拡がる。 境内。 狛犬、阿像。狛犬、吽像。鐘楼。 諏訪神社の文字が。境内社の稲荷社。 境内社の八幡社。 境内には石造りの常夜灯も。 境内最奧にはあった石造りの境内社の天神社。 社殿正面。 諏訪神社と書かれた神額と鈴。 鈴には長い綱が付いていて、拝礼するときにその綱を引き、鈴を鳴らします。神前で鈴を鳴らすようになった由来については、一説によると、古来から鈴には魔除の霊力があるとされ、それが転じて、神事のときに鈴を鳴らすようになったと。巫女(みこ)が神楽舞(かぐらまい)を舞うときに、手にもって鳴らす神楽鈴(小さな鈴を山型に並べた鈴)、その音には神さまをお招きする役割があると。つまり、神前で鳴らす鈴も、この神楽鈴に由来するとされ、神さまを拝礼するにあたり、鈴のその清らかな音色で神さまをお招きし、これから祈願を申し上げるという、一種の合図のような役割を果たしているのだと。横から本殿を見る。御祭神は 建御名方命 ( たけみなかたのみこと )。諏訪神社を後にし、暫く車を走らせ長後上合にある山王神社に到着。丘の上、竹林の先にポツリとある小さな社。 隣には更に小さい境内社が二社。 飯都社奮趾(飯戸明神跡)と刻まれた石碑(左)明治四十二年(1909)と庚申塔(右)天明三年(1783) 次に訪ねたのは宗昌寺。後で気がついたのですがこの寺は大和市福田にある寺。 『新編相模国風土記稿』には「山ヲ雲栄ト号ス 曹洞宗 寺尾村報恩寺末 本尊釈迦 開山林室宗茂 慶安元年正月三日卒 開基鈴木某 法諡雲栄宗昌 寛永七年五月廿五日卒」とあると。雲栄山と号す曹洞宗の寺で、北条氏直の家臣・鈴木治兵衛宗昌が創建したと。本尊は元禄14(1701)年銘の釈迦如来座像。境内には祠に入った供養塔やお地蔵様が。 そして再び藤沢市に戻り、長後天満宮に到着。 階段を上がると一の鳥居そしてその奧に二の鳥居。 鐘楼。 梵鐘記念碑。 菅公千百年記念碑。菅公(かんこう)とは菅原道真のこと。 忠魂碑。日露戦争、日支事変及び大東亜戦争で戰病没された65柱の英霊の忠魂碑。昭和12年5月5日に長後青年会によって建立された。当初は、日露戦役戦没者の忠魂碑として建立され、その後、日支事変と大東亜戦争の戦没者を追加合祀したと。碑高210cm、幅92cm、厚さ15cm、台石40cm。 参道。 天満宮由緒。『この天満宮は、平氏の一族だった秩父六郎基家が永久年間(1113-1118)に秩父から移住し渋谷氏を名乗り、この地に築城しその守護神として菅原道真を祀った。孫の渋谷庄司重国は治承4年(1180)の源頼朝の石橋山挙兵の時頼朝に敵対したが、知行地の年貢を免除され最終的には鎌倉幕府の重臣になった由。その後寛永4年(1627)に子孫の朝岡久兵衛国豊が本宮を再建し、更に山王添の山王権現と伊勢山の神明社を合祀して天満宮とし、長後の総鎮守とした。その後荒廃したが18世紀半ばに社殿が再建され、大正8年(1919)に拝殿が新築された。』 手水舎。 社殿正面。 天満宮と書かれた扁額。 社(拝)殿の奧の本殿を横から。 祭神はもちろん菅原道真。社(拝)殿前の狛犬、阿像。 社(拝)殿前の狛犬、吽像。 藤沢市重要文化財の石造狛犬一対の説明板。貞享3年(1686)3月25日、中村氏が娘おち世と支むらの無病息災を祈願してために奉納したものであるとのこと。『両の手乗る程に小型で』とあるので、上の写真の狛犬ではないらしい。何処にあるのか探したが、見つからなかった。小さいので盗難防止の為に別の場所に移されたのか?それともまさかの盗難? 境内の石灯籠は、徳川家の旗本朝岡丑之助がこの地の地頭として寛永19年(1642)に造立奉納したもので、当時の姿をそのまま伝えており、市の重要文化財に指定。 石灯籠の説明板。 こちらにも石灯籠?が。 句碑もあり、『山里・・・・』 と刻まれていたが読めなかった。奉献観世音菩薩?、文化12年(1815)と刻まれていた。忠魂碑。日露戦争、日支事変及び大東亜戦争で戰病没された65柱の英霊の忠魂碑。昭和12年5月5日に長後青年会によって建立された。当初は、日露戦役戦没者の忠魂碑として建立され、その後、日支事変と大東亜戦争の戦没者を追加合祀した。碑高210cm、幅92cm、厚さ15cm、台石40cm。
2016.10.25
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク藤沢・高倉、長後散策の日に、少し足を伸ばし境川を超えた横浜市泉区上飯田町にある寺を訪ねる。寺の名は浄土宗寺院の無量寺、山号は帰命山長寿院。無量寺は、鎌倉安養院第十九世深誉上人が文禄2年(1593)に創建したと。山門。山門脇右にあるイチョウの大木は、横浜市指定の銘木とのこと。『浄土宗・帰命山長寿院 無量寺』の文字が刻まれた寺号標石。鐘楼 本堂。 無量寺は大山道沿いにあり、境内には大山道の道標を兼ねた名号碑があった。またイチョウの古木や、寛政六年(1794)造立の「出羽三山・西国・板東・秩父百番札所」供養塔、元徳年間に造立された板碑なども。晴れた日は境内から大山が良く見えるとのこと。『無量寺』 と書かれた扁額。客殿。客殿前の石仏。 寺紋。浄土宗の宗紋は『月影杏葉(つきかげぎょよう)』と呼ばれる紋。この杏葉は法然上人の生家の漆間家の紋に由来し、大正4年(1915)に、蕊(しべ)は7個とし、宗歌「月かげ」の月を配した現在の紋が定められたと。更に飯田神社まで足を伸ばす。 正面鳥居前から。飯田神社入口のお地蔵さま。飯田神社前には六地蔵ではなく、七観音が祀られていた。しかし、東日本大震災によるものか、右端の観音さまは倒壊して?補修されていた。庚申塔や道祖神も並んでいた。右端は笠付角柱型青面金剛合掌庚申塔。上部に日と月と雲、足の両横には雌雄のニワトリ、四つんばいの人らしき下に三猿、1724(享保9)年。その隣は笠付角柱型青面金剛合掌庚申塔。更にその左は唐破風笠付角柱型石塔。一番左の庚申塔は唐破風笠付角柱型文字「庚申塔」。庚申塔の左側面には、「東かまくら」、「西あツ木道」、「南ふじさは」と彫られている。庚申塔の右側面には、「北八王子道」、「明治九丙子歳‥三月吉祥 ‥‥」と彫られている。庚申塔。庚申供養塔。金剛神供養霊塔(享保9年(1724年)銘)。庚申塔。飯田神社は、横浜市泉区上飯田町にある神社。飯田神社の創建年代は不詳だが、飯田五郎家義(12世紀後半)が創建したとも飯田三郎能信が延応元年(1239)に奉幣したとも伝えられ、境川沿いの多く点在する鯖(左馬)神社の一つだと。境川流域には、はやり病に罹ると「七サバ参り」をして治すという風習があったと。明治6年村社に列格、明治20年頃には飯田学校の校舎として供用されていたとのこと。 説明板には『飯田神社 境川や和泉川沿いに見られる「サバ神社」の一社で、祭神は源頼朝を主神に宇迦之御魂大神・ 大山咋神です。伝承によると、飯田五郎家義がお祀りしたといわれています。 縄文時代、境川沿いは入り海で、神社の境内の土手から縄文後期の人々が使った 注口土器が出土しました。境内の神楽殿は、明治20年頃、飯田学校校舎として 使われていました。鳥居前には地蔵像、七観音像、庚申塔、道祖神が立っています。 (泉区役所)』と。境内への階段を上る。 階段上には狛犬が。手水場。 飯田神社鐘楼 昭和46年(1971年)銘が。 飯田神社社殿飯田神社拝殿拝殿の頭貫の見事な彫刻。
2016.10.24
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク東勝寺から境川沿いの道を進み 七ツ木神社へ。名前が「さば」ではないが、古来より「七ツ木郷鯖神社」と呼ばれていたが明治になって「七ツ木神社」に改称したと。立派な鳥居が参道階段に。この七ッ木神社の鳥居は「両部型」という珍しいものであると。両部鳥居(りょうぶとりい)は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残。四脚鳥居、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居などの別名がある。有名な厳島神社の鳥居は国内最大の両部鳥居。庚申塔が鳥居に向かって右前方にあり、石塔は明治5壬申年(1873)4月の造立であるが「庚申供羪」と供養の「養」の字は昔の旧字が使われていた。「羪」の字の 旁(つくり)の部分の「良」を右ではなく下に書くと「養」。笠を乗せた庚申供養塔も。文字が摩滅し造立年月不明だが、下部三面にサル像があり古文書にも庚申供養塔と紹介されていると。蠶(蚕)神社と刻まれた石碑。蠶神社と刻んだ明治28年(1895)造立の石碑。明治から大正にかけてこの七ツ木村でも養蚕が盛んであったため、蚕の恵に感謝するために造立されたと。境内に向かって階段を上る。 前方には狛犬の姿が。清瀧不動明王碑聖水の湧き出ている処に祀られるものなので近隣の整理の際に移設されたものと。境内脇の鬱蒼とした木々の中に古びた階段が。 小山上にある石碑 。右から八海山神皇、御嶽山座皇大神、三笠山天皇とそれぞれ刻まれていた。それぞれ三山の信仰碑か?手水舎。 拝殿にはなぜかシャッターが下りている。賽銭箱は半地下式。残念ながらシャッターには黒い落書きが全面に。 祭神は源義朝。神楽殿。 境内社。境内社の拝殿。 境内の斜面にある小さな塔は養蚕組合記念石廟。1923 年に下高倉地区で養蚕を行っていた人たちが、養蚕や製糸業の隆盛を願い、組合の10周年を記念して建てたもの。屋根に彫られている菊?の御紋の下半分がちょっと気になるところ。右手に高飯橋がある泉区の方へ繋がる道路との三叉路を過ぎてすこし先左手にあった大日如来。階段上の石祠群。 石祠をズームで。可愛らしいこれも双代道祖神。光背舟形碑 双体像(男女雛) 平成14年(2002)の復興版。石仏も。「明和七寅年」(1770)と刻まれていた。 こちらにも。 大日如来前の境川と並行する道をそのまま道なりに進むと県道22号線にぶつかる。この県道22号線を挟み斜向かいに二十三夜塔が。 【二十三夜塔】とは 『18世紀の後半から昭和の初期にかけて、月を信仰の対象として精進・勤行し、 飲食を共にしながら月の出を待つ、月待ちの行事をしました。その際供養のしるし として建てた石碑(月待塔)のひとつが、二十三夜塔です。 崇拝の対象として十三夜は虚空蔵菩薩、十五夜は大日如来、十七夜から二十二夜までは 観音様を本尊とし、二十三夜は勢至菩薩を本尊として祀りました。 勢至菩薩は、智慧の光をもっており、あらゆるものを照し、すべての苦しみを離れ、 衆生に限りない力を得させる菩薩といわれています。月は勢至菩薩の化身であると 信じられていたことから、二十三夜講が最も一般的で全国に広まりました。』恵母地蔵(えもじぞう)。説明板によると、明和4~5年(1767~8)の飢饉では江戸からこの地に逃れてくる人も多かったのだと。そんなある朝、百姓が赤ん坊の泣き声がするので裏道に出てみると母親の乳房をまさぐりながら赤ん坊が泣きじゃくっていた。しかしながら母親はすでに亡くなっており、哀れに思った村人は地蔵様を作り「恵母地蔵」として祀ったのだと。地蔵様の足下の台座下には、鍵、洗濯ばさみも置かれていたが?神奈中バス”上高倉”バス停から入った露地裏約30mのところの分かれ道に石塔が2体。庚申塔(大山道標)は風化が進んでいたが如意輪観音像は好い状態。首をかしげた、何とも愛らしい六臂の如意輪観音像。如意輪観音像は延宝三年(1675)作と。大山道標には正面に大山道、右面に戸つか道、左に用田・婦し沢と刻まれていたと。更に国道467号線(藤沢町田線)沿いにある庚申堂まで足を伸ばす。庚申堂の左側の道が大山道で、旅人は堂の正面の道をたどって大山を目指したと。ここ長後は大山参りの人で賑わったと。
2016.10.23
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンクこの日は藤沢市高倉、長後の散策に出かける。まず最初に高倉277番地の小高い丘の上にある『小栗稲荷大明神』に到着。入口には各種庚申塔が並んでいた。 『秋葉大権現』と刻まれた石碑。 庚申塔が2塔並んで。 笠付角柱塔 六手合掌青面金剛+三猿 年代は不詳。 こちらも笠付角柱塔 六手合掌青面金剛 年代不詳。 左側には突頂角柱塔と角柱塔の文字庚申塔が2塔。 右手に『二十三夜塔』と左に道祖神、昭和四十二復元とのこと。 道祖神(どうそじん、どうそしん)は、路傍の神で、集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されているのだ。自然石に彫られた美しい双体像。長い眉、引き目、鼻筋が通り、唇をかたく締め、ふっくらとした頬をしている。建建造時期は不明だが比較的新しいのか風化が少なく、とてもよい状態。右の男性は玉を持ち、女性は合掌しているように見えた。 社殿に向かって階段を上る。 社殿。 階段右にあった『猿田彦太神』。道の神で、道祖神や塞神、庚申として祀られることも多いと。 次に小栗稲荷大明神の横の坂を右手に進んでいくと、樫の大木の先、十字路の右手前の子育地蔵尊に着く。祠に入った子育地蔵尊。延享3年(1746)の銘がある地蔵尊で、地域で大事にされているのだと。毎月24日がお地蔵様の日になっていると。地蔵尊の左右には色鮮やかな千羽鶴が何本も奉納されていた。赤い帽子、赤いよだれかけ。そして地蔵尊は濃いピンクのTシャツを着ていた。Tシャツには「BRIGHTEN UP. You make me smile & happy!!」更に境川方面に坂を下り右手に曲がると東勝寺の前に。東勝寺は秋雄和尚によって南北朝時代(1300年代)に創建された阿弥陀仏を御本尊とする臨済宗円覚寺派の禅寺。北条高時一族が鎌倉の東勝寺で滅亡(1333年)したのを悼み、密かにこの寺は建立されたと伝えられる。その為に山号を再び燈を点じる點燈山(点燈山)と。 山門前には六地蔵。 正面から。左手から香炉、数珠、合掌、経巻、宝珠、錫杖をそれぞれ持つ。山門。 山号の點燈山と書かれた扁額。 本堂。天遊和尚(慶長14年1609年没)により寺は一新されたが江戸時代後期に現在の山門(貞享3年1686年 鎌倉大工渋谷七郎兵衛 造)を残して焼失。その後延享3年(1746年)に再建されたのが旧本堂であったが老朽甚だしく平成5年(1993年)に再建が発願。平成9年(1997年)には仏祖の御加護の下に檀徒一同の悲願が結実し本堂客殿新築と山門修復完了と。本堂屋根には北条家の家紋と同じ、ミツウロコの寺紋が。三つの三角形は、龍の鱗。禅寺らしく火灯窓と鐘が。窓枠の頭部が火炎を思わせる曲線なので「火灯窓」と。 寺務所。
2016.10.22
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先日の雨上がりの朝、庭そして菜園に出てみると、様々な箇所に様々な水滴が出来ていたので、カメラを取りに部屋に戻り、シャッターを押してみました。 科学的には 表面張力の為せる技。すなわち水が、表面をできるだけ小さくしようとする性質のこと。蜘蛛の巣に宿る水滴。 英語では「drops of water」、「 water drops 」 でしょうか。コキアの茎にも花の如くに。コムラサキの紫の実にもしがみついて。滴も紫を映して仲間入り。 落ちまいと必死に。次の順番を待つが如く近寄る滴も。 ワケギにも滴家族が行列を作って。 菜園の片隅の防鳥網にも宿る場所を探して。 朝の陽光に輝いて。 洗濯用のハンガーにも上下に必死に掴まって。 雑草の滴も朝の陽光に輝きだして存在感を主張。 そしてシルバーマルチの上にも大小様々な水滴が。 くさぐさの 葉滴の宿り 秋の朝・・・・詠み人知らず
2016.10.21
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今年も我が家の玄関前のほうき草が色づき始めています。 箒のような細かい茎が特徴で、この秋に紅葉、茎も同様に赤くなるのです。 ほうき草の果実を加工し「とんぶり」と呼ばれる郷土料理にもなるのです。秋田の特産品「とんぶり」はこのコキアの果実を加工したものでプチプチした食感と色合いから「畑のキャビア」などと形容されることもあるのです。「枯れた茎はホウキ、果実は食用に」と実用性のある植物。株の周囲にタネが自然にばらまかれて毎年春先に自然と発芽してきます。妻が元気そうな苗の数本を選んでそのままにし育てて来ました。 株の下部はまだ少し緑+ピンクのグラデーションのような色のコキア。 今年は丸みがイマイチですが。 この写真は早朝の写真ですが、陽光が射すとコキアが太陽の光に照らされ、キラキラと輝いて来るのです。 そして台所の裏口ドア前にはこれからピンクに変身する株が。既に枝は変身を始めていますが、葉はこれからなのです。 この時期、コルチカム、酔芙蓉、コスモス、コムラサキの実そしてこのコキアと濃いピンクが目を楽しませてくれている我が家の庭なのです。
2016.10.20
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我が家の家の横の菜園の片隅に植えてあるミカンの木が初めて実を付けました。初代は数年前のカイガラムシにやられてしまい、突然に枯れてしまいこのミカンの木は2代目。春先に白い花を咲かせ、我がミツバチ達も訪花していましたので楽しみにしていました。 小粒のミカンが20個以上付いていました。ここ1週間ほど、農作業の合間に採って食べてきました。 手の平に乗っかるミニサイズ。 しかし、酸っぱくはなく甘みもあります。スーパーで売られているものには及びませんが、露地栽培のこれぞ自然の味のミカンなのです。 妻のアドバイス(野鳥に捕られないうちにと)もあり昨日収穫しました。 20個ほどですが、毎日楽しめそうです。 来年2月下旬~3月がミカンを剪定する時期。4月下旬には新芽が作られるので、できるだけ3月上旬にすませておくと、実付きが良くなると。前年に実を付けた枝にはもう実が付かないので、1/3ほどに切り詰めるのだと。反対に、前の年に実が付かなかった枝には花が咲いて結実する可能性があるので、できるだけ残しておきのだと。このほかには、伸びすぎた枝や枯れた枝、内向きの枝などを付け根から切り落とすのだと。以上、農友の義兄のアドバイスです。シャッターを 押す指先に 蜜柑の香・・・・・詠み人知らず
2016.10.19
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我が家の玄関の前のコムラサキが今も頑張っています。7月初?から紫色のきれいな実を付け始めました。根元に近い方から順次開花し先端に咲き向かっていったのです。それを追うように実をつけていく。実は、緑色から紫色に順次変わっていったのです。10月中の今になっても紫の実をけなげに付けています。コムラサキ(小紫)はムラサキシキブ(紫式部)を小さくしたものなのでこの名前になったとのこと。小さいが、実のつきかたがいいので花屋ではムラサキシキブより人気が高いとのこと。 実は枝に沿ってかたまるようについています。ムラサキシキブとコムラサキはよく似ていますが、ムラサキシキブは果実が葉の付け根あたりに付くのに対し、コムラサキは葉の付け根からやや離れた場所に付くのです。ぱっと見で弓状に枝をしならせて重たそうに果実をびっしりつけているのがコムラサキ。そして今まで頑張ったコムラサキの実が地面に落ちて小さな葡萄染色の絨毯のごとし。先日は金木犀の黄金の絨毯をブログにアップしましたが、またひと味違う紫そして葡萄染色の絨毯が我が家の玄関前に。 葡萄染の 式部実愛でて 秋深み・・・・詠み人知らず
2016.10.18
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク菖蒲沢地区の国道43号線と県道403号線の「六地蔵」という交差点の先にある無名の?交差点に到着。沢辺に水草菖蒲の生えていた土地を開拓したので菖蒲沢と名付けられたと。一見、双体僧形道祖神に見えたが、三面に二体ずつの六地蔵。 左から珍しい「長蛇供養塔」、「隅丸形文字道祖神 大正十(1921)年」そして「馬頭観世音」。 更に県道を外れ畑道を進むと民家の脇の左手の植栽の凹んだ場所に藤沢市教育委員会の説明板。市指定重要文化財 元禄二年 庚辰申供養塔。 県道に戻り更に進み左折すると植木畑の中に最近舗装された参道がありその先に赤い屋根の小さな堂と神鐘堂が。若宮神社は、菖蒲沢にある豊受大神の飛地境内社。創建時期は不明だが、豊臣秀吉が小田原を攻めた際、この地に逃げてきた落武者の死者の霊を慰めるために建てられたという言い伝えがあるのだと。 かつてこの若宮神社には1795(寛政7)年鋳造の古い神鐘があったが、1944(昭和19)年、第二次世界大戦の激化に伴う資源総動員のため国に献上。その後、供出から三十余年がたった1979(昭和54)年7月、氏子の総意によって”平和の鐘”として現在の鐘が再建されたのだと。神鐘堂と鐘。「豊受大神 若宮」の文字が確認できた。社殿。社殿内部を扉越に。境内社のこぢんまりとした稲荷社。 斜めからの稲荷社と社殿。豊受大神(とようけだいじん)に到着。豊受大神は、菖蒲沢、字宮の前にある菖蒲沢の鎮守神社。建物に残された棟札から1796(寛政8)年の再建であること、滝不動や子聖神社とともに1841(天保12)年の「新編相模国風土記稿」に記録が残されているのだと。 境内に入ると左手に手水舎。 拝殿。 この付近では珍しい神明造り。拝殿の「豊受大神」の神額。神額には平成元年四月吉日とあるが、社殿はそれよりもっと新しそうな姿。扉越の拝殿内部。鏡が光っていた。 本殿(覆殿)は拝殿と長屋状態の連棟形式で繫がった珍しい?建築様式。御祭神は、豊受比売命 ( とようけひめのみこと ) と 猿田彦命 ( さるたひこのみこと )。境内社。 神楽殿。珍しい廻り舞台のある神楽殿とのこと。 神輿殿。 拝殿横には先代?の石鳥居が保管されていた。 次に向かったのは浄土院。浄土院は、藤沢市菖蒲沢の仲之桜にある寺院。創建は文禄年間(1592-96)ごろと言われ、浄土宗、仏必山清澄寺という号を持ち、もと東京芝増上寺の末寺であったと。開山は僧・光誉で、旗本木村氏代々の位牌を安置する寺院。 本堂の頭貫の上の彫刻は見事。本堂内部。 本尊の阿弥陀如来像は運慶の作。もとは鎌倉郡原宿村大運時の本尊であったものが,浄土院第5世浄誉上人の時、両寺院の檀家の申し合わせによって本院に移されたものだと。境内の巨大な観音様。十三重塔。 境内の石塔群。 三界萬霊(さんがいばんれい)と刻まれた石碑。三界とは、無色界(むしきかい)色界(しきかい)欲界(よくかい)の三つ。これら三つの世界、すべての精霊に対して供養することの大切さを示すもの。更に車を進め、庚申塔群へ。 中央の石碑は明治29年に建てられたもので、「養蠶大神」 と刻まれていた。当時は,蚕の繭から作る「絹」は最大の輸出品。昭和の時代になって衰弱しますが,私の母の実家でも,「蚕様」とよんで飼っていたことを,微かに覚えている。あの桑の葉を食べる「カサカサ」という音を覚えているのである。我が生家も屋根裏で養蚕をやっていたようだが、しかし私が物心ついた頃には既に止めていた?のであろう、生家の蚕の記憶は全くない。庚申供養塔。 様々な石仏。西国秩父供養と刻まれた石碑も。
2016.10.17
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク次に同じく遠藤にある御獄神社(みたけじんじゃ)を訪ねる。御獄大神(みたけおおかみ)とも呼ばれているようだ。道路に面した脇門より入る。遠藤の地名の由来は1177年頃~1180年頃(治承年間)に遠藤盛遠(文覚の俗名)の采地(領地)であったことから。御獄神社 由緒書。創建年代は不明とのこと。鐘楼。 脇門左側に石碑が2本。関東大震災記念碑。 遠藤地区上水道記念碑。 白山神社。 御獄神社の縁起碑。 こちらが御獄神社の正式参道。 遠くに石の鳥居が見えた。階段を上がった場所から社殿を見る。 社殿は西向きに建てられており、階段上部から富士山が見えるとのことであったが・・・・・。 狛犬の阿形。 社殿。御祭神は日本武尊、大己貴命、少彦名命、素盞嗚命、菊理媛命、倉稲魂命、木花咲耶姫命 。社殿の頭貫の上下の見事な彫刻。社殿の左側の木鼻の獅子の彫り物も見事。 社殿と本殿。 社務所、神楽殿。境内社。脇門の階段を上がった右手に、見慣れた藤沢市教育委員会の庚申塔の案内板。県指定重要文化財(有形民俗文化財) 平成十八年(2006)二月十四日指定 御嶽大神の庚申塔市指定重要文化財(有形民俗文化財) 昭和五十二年(1977)四月十三日指定 万治二年庚申供養塔二列の石造物の後列三基の中央の塔には、青面金剛像と猿二匹が彫られています。青面金剛像はふつうは六臂ですが、左の上手に三股叉・下手に棒、右の上手に輪宝・下手に羂策(縄)を持つ四臂の珍しいもので、明暦二年(1656)や高座郡大庭庄遠藤村などの銘があります。同時期の同系統の石工による四臂の庚申塔が茅ヶ崎市八幡大神・金山神社・神明宮、寒川町下大曲神社、平塚市長楽寺・正福寺にあり、いずれも神奈川県指定重要文化財とされています。後列の左の塔は、万治二年(1659)銘のもので、三猿像の上に「奉供養南無山王大権現」と刻まれています。山王は、近江の日吉神社(滋賀県大津市日吉神社)が祀る比叡山に鎮まる神を指し、江戸時代初期の庚申供養塔に多く見られる形態です。その下には複数の青面金剛(しょうめんこんごう)庚申塔が並んでいた。道教の教えでは、人間の体内には三つの霊が宿っているのだと。魂(コン)、魄(ハク)、三尸(さんし)である。人が死ぬと、魂(コン)は天に昇り、魄(ハク)は地下に入る。問題は、残りの三尸(さんし)と言う虫が悪さをするのだと。三尸は宿主が死んだ後は自由に遊び回れる存在なのだ。祭りなどにも行けるから、早く宿主が死ぬのを待ち望んでいるのだと。そして、具合の悪いことに、旧暦で60日に一回巡ってくる庚申(かのえさる)の日に三尸は宿主の体内を抜け出せる。天に昇って天帝に宿主の日頃の行状を報告する役目も負っていて、その報告によっては寿命を短くされるのだと。翌朝に目を覚ます前には戻っていると。庚申の日になる前日から集団で徹夜すれば三尸は体内から出られない。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔(正式には庚申待ち供養塔)。まずは、右側で横を向いている青面金剛庚申塔。ちょうど年号の部分が欠けていて、建立年は不明。しかし、合掌六臂で持ち物もはっきりしていて、三猿に鶏、日月とフルセットな典型的なもの。病魔・病鬼を払い除くといわれる青面(しょうめん)金剛像、謹慎の態度を表すという三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)が台座に彫ってあり、邪鬼を踏みつぶしているのだと。六臂とは六本の腕を持っていること。 市指定重要文化財の明暦2年(1656年)建立の青面金剛庚申塔。折れているのが痛々しいが、青面金剛の左右に控えているのは猿。そして、この青面金剛は四臂。青面金剛の変移について、関連のありそうな庚申塔。その右手の青面金剛は三頭身、六臂。基部には、三猿もいるが、青面金剛の両脇も猿。普通ならば、ここには鶏のはず。もう一基の文化財指定は、文字庚申塔であるが、文字の部分はほとんど解読不可。案内文によると万治2年(1659年)の建立。先ほどの四臂の青面金剛庚申塔の3年前の建立。三猿揃っていたが、かなり大柄でずんぐりした印象。 次に遠藤という村名の名付け親の遠藤武者盛遠(えんどうむしゃもりとほ )供養碑に向かう。途中説明板はすぐに見つかったが肝心の供養碑が見つからなかった。遠藤武者盛遠(文覚上人)供養碑には 「遠藤村の皇国地誌に〔往昔より本郡に属す。起源詳ならず口碑は治承年間(1177ー1180)、遠藤武者盛遠の釆地(領地)なりしを以て村名とし後に大庭庄遠藤村と号す・・」とある。盛遠は誤って摂津渡辺党の源渡の妻 袈裟御前を殺してしまい、出家して文覚と称した。現在の碑は明治十年の県の調査後、発掘した五輪塔と共に内田重左衛門が再建したものという。遠藤まちつくり推進協議会」と。あちこち探している中、近くを通りかかた地元の叔父さんに尋ねると、民家の庭の中にあるのだとわざわざ案内してくださったのだ。外にいたこの家の方の許可をいただいて庭に入ると右手に小さな祠が。 この祠は昭和52年に再建立したらしい。願主の名も。昔、近くの北原の畑の中に、小高い塚が有り(高さ90cm周囲約11m)、その上に五輪塔が建てられていたと。言い伝えによれば旧領主であった遠藤武者盛遠の招魂墓であったと。現在の碑は明治12年に内田一次氏により再建され、庭のこの祠に納められているのだと。 左側にはその五輪塔が。招魂墓とは実際の墓ではなく、道教では死者の霊魂の離散防止のために作られた墓とのこと。遠藤武者盛遠(文覚上人)供養碑をあとにし、車を進めると左手に日吉神社が。比較的新しい神社であった。4年前の改修工事では江戸後期の文政年間の木札が発見されたとのこと。
2016.10.16
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク瑞泉閣(客殿)。葬儀・法事等の控室に使用する建物。130坪40畳の部屋が二間。それに洋間、厨房といった形で構成。平成6年に完成。瑞泉閣と書かれた扁額。水子・子育地蔵菩薩像横にはこれも歴史を感じる石像が並ぶ。 左から閻魔大念珠堂、金毘羅大念珠堂。観音堂。立派な石灯籠。 宝泉寺本堂前のおびんずるさま像(なでぼとけ)。 びんずる尊者は、お釈迦様の16人の偉い弟子(十六羅漢)の一人。体の具合の悪い所に相当する像の部位を念仏を唱えながら撫でると良くなると。 頭を一生懸命に撫でてきましたが時遅しか。手水舎。 境内とその先に本堂。120坪の本堂は、関東大震災による建物倒壊後、昭和元年に建立。 靴を脱ぎ本堂の回廊へ。本堂内部にはご本尊の釈迦如来が鎮座。回廊より境内を望む。山号の『玉雄山』と書かれた大きな提灯。『寶泉禅寺』と書かれた扁額。本堂手前左側にも六地蔵が。手前から法性、地持、宝性、宝印、陀羅尼、鶏亀地蔵と刻まれていた。様々な供養碑も。宝泉寺の山門の階段を上がったすぐ右に、布袋様の石像が。その前には、木枠に囲まれた石の玉が置かれていた。説明によると、この丘陵は古来から気の集まるパワースポットで、不思議な現象が起こるのだと。木枠の中の玉を一度持ち上げてから置き、手のひらでペタペタ軽く数回たたいてもう一度持ち上げると重く感じるが、玉をやさしくなでてから持ち上げると、玉が軽く感じられるのだと。 TRYしようとも思いましたが、布袋様の姿は他人とは思えないので・・・・。境内には僧侶の像が2体。大本山永平寺御開山 仏法房道元(どうげん)大和尚禅師像。大本山総持寺御開山 瑩山紹瑾禅師(けいざんじょうきんぜんじ)像。十三重塔。 徳本念仏塔。徳本上人は、宝暦8(1758)年に紀州に生まれ、江戸時代後期に伊豆や関東の各地に念仏を広めた僧。徳本上人が近隣を訪れた際に、各村々の念仏講中がその特徴ある書体で書かれた六字名号を求め、それをもとに念仏塔を建てたと。南無阿弥陀仏の書体と、徳本名号の自署の下に丸に十字の花押は独特とのこと。 殉国慰霊の碑。 『顕彰 曹洞宗大本山総持寺御直末元輪番地』と刻まれた石碑。永平寺(えいへいじ)と並び曹洞宗の本山である總持寺(そうじじ)の末寺であると。境内より参道の階段そして山門を望む。階段の両横には灯籠が並ぶ。横の境内に上がる坂道より山門、仁王像を望む。車で数分の場所には宝泉寺歴代大和尚の墓が。 宝泉寺の縁起と開山を如幻宗悟、そして後北条氏の家臣である仙波土佐守が開創されたことが刻まれていた。宝泉寺歴代大和尚銘が刻まれていた。 歴代大和尚の墓碑(右) 歴代大和尚の墓碑(左)
2016.10.15
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンクこの日は藤沢市遠藤にある宝泉寺を訪ねる。その前に、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)内にある浅間神社に立ち寄る。 農道沿いにある脇門から大学キャンパス内に入る。浅間神社の境内はこじんまりとした雰囲気。正面には社、右手に『浅間神社』と刻まれた石碑が。浅間神社の誕生については、文書に「明治三十年其ノ氏子トナル」との記述があり、明治三十年頃に遠藤地域で富士浅間神社への信仰が深まり、およそ100年以上前から浅間神社が始まったと。平成二年四月にSFCが開設された際、浅間神社がSFCに近かったものの、移設する事無く現在地に残ったと。慶応義塾もこの際協力し、社殿を改修したとのこと。 そして10分弱走り宝泉寺(ほうせんじ)前に到着。宝泉寺は、福井県の永平寺と横浜市の總持寺を両大本山にあおぐ曹洞宗の寺院(禅寺)。山号は「玉雄山」。「萩の寺」としても知られている。修行僧に食事、坐禅などの時刻を伝える雲板は市の指定重要文化財となっている。また、境内の森は「ふるさとの森」として藤沢市指定をうけているとのこと。 明治末から大正初期にかけて、ここ宝泉寺の近くにあった馬場で毎年3月10日に草競馬が行われたと。その馬場はその距離の短さから「鉄砲馬場」と呼ばれていたと。コースが周回でなく、鉄砲と同じで「行ったきり」だから。また、鉄砲の弾が真っ直ぐ飛ぶことから「鉄砲」には真っ直ぐという意味もあると。出場するほとんどの馬は、農耕馬や荷馬だったが、近隣から多くの見物客が集まり、多くの露天商が集まるほど賑わっていた。賑わいの中から多くの男女が結ばれたことから「見合競馬」とも呼ばれたと。『寶泉寺縁起』によれば宝泉寺は、福井県の永平寺と横浜市の總持寺を両大本山にあおぐ曹洞宗の禅寺。永正16年(1519年)、相模国高座郡小出村字遠藤(現・藤沢市遠藤)に、開山を如幻宗悟、開基を後北条氏の家臣である仙波土佐守として開創された。開創当時の宝泉寺は境内も広大で、17棟の建物からなる大寺院だったが、1923年(大正12年)の関東大震災ですべての建物が倒壊してしまった。しかし、第二十八世住職龍紋大和尚は檀信徒の御力添えを得て、1926年(昭和元年)、本堂を向山に再建したと。 寺に保存されている釈迦涅槃図や修行僧に食事、坐禅などの時刻を伝える雲板は市の指定重要文化財となっている。何故か西国霊場観音と刻まれた石碑。 西国33ヶ所の観音が納められている観音堂が境内にあるから?宝泉寺境内略図。宝泉寺の山門。この山門は2005年4月の再建で左右に仁王様が堂々と。山門の扁額には、山号の『玉雄山』。 紋は五山の桐、本山の総持寺の寺紋が五七桐紋であることからであろうか?山門手前左手には六地蔵が。 『不許薫酒入山門』=「薫酒山門に入るを許さず」の石碑が右手に。 酒は修行を妨げる元となるので、寺域にはふさわしくないという宣言。薫と呼ばれる臭いが強い野菜には古来、五薫があり、韮(にら)・大蒜(にんにく)・辣韮(らっきょう)・葱(ねぎ)・浅葱(あさつき)を指すのだと。開口の阿形(あぎょう)像。上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにしていた。 口を結んだ吽形(うんぎょう)像。 吽形像は怒りを内に秘めた表情。山門左手の寶泉大仏像(釈迦牟尼大仏)。寶泉大仏像は、高さ10m、重さ8トン、青銅製で、原型は洛陽(河南省)の龍門石窟の奉先寺石窟の本尊釈迦牟尼大仏で、中国上海交通大学及び中国芸術院等の古代芸術研究グループにより中国で制作され、平成8年6月に開眼供養されたと。日本の大仏は通常右手に梵字の幸福を表し、左手は人々を救うと云う意味で手の平を上に向けているが、寶泉大仏の左手は邪悪なものはおさえると云う意味で手の平を下に向けているところが違うのだと。 水子・子育地蔵菩薩像。 左手で赤子を抱え、足下にも二人が。 粗末な木小屋に鄙びたお顔の木彫りの等身大のお地蔵様が。赤い布の帽子を被り、赤い羽織を纏い同じく赤いよだれかけの我が子を左手に抱きしめ、右手には錫杖を持って立っている姿。一木造りであろうか、木目が浮き出、所々に割れも入っていたが素朴そのもの。赤い建物は閻魔大念珠堂。閻魔堂の前で合掌し赤い珠を持ちゆっくり下に引くと珠が落ちて滑らかな音を響かせ自分の前に赤珠が来るまで回すと閻魔様が願主を常に見守って不善業から守って頂けると。金毘羅大念珠堂。金毘羅堂には大念珠があり、それぞれに54個の念珠があり、両方を回すことで、108の煩悩を払ってくれると。私も一生懸命回しました。八角形の観音堂。観音堂は、寛延2年(1749)に旧境内に堂を構えたが、大正12年の関東大震災で倒壊し、平成6年に再建。観音堂に祀られている「三十三観音像」は、第十九世泰山和尚が西国霊場巡礼を果たせなかった母親の願いを成就させるために祀ったもので、「遠藤観音」と呼ばれ深く信仰されているのだと。 【つづく】
2016.10.14
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我が家とその横の菜園の境の植栽の葉が何かに食べられているのを妻が発見し私に。毛虫がいるのかと葉っぱに顔を近づけると、どこからかかすかな特有の臭いが。そして2~3cmの緑の保護色の虫を発見。それにしても見事な保護色。しかも透き通った美しい緑色。カメラを構えて顔を近づけると再びあのニオイが。この幼虫は敵から攻撃を受けた際に臭いニオイを出すようです。しかし逃げる訳でもなく、ほとんど動き回らず葉の上でのんびり?と。この幼虫はこの木の若葉が好物らしくいたるところで葉が食べられていました。良く見ると一匹ではなく何匹も。黄色い鉢巻きをして。妻は『カチューシャ』と。そしてカチューシャだけは可愛いと言いながら、私の後ろから恐る恐る・・・。葉っぱを食べているのでしょうか、しかし食べるには向きが反対?正面からズームで撮らせていただきました。黄色のカチューシャの端に黒い細長の目が。見事なポーズありがとうございます。見れば見るだけ楽しくなる顔・・・「犬」の顔にも。いや「目の小さいカバ」、いや、「ムーミン」でも目が小さすぎ?・・・・・。白いご飯粒?は何かの卵が体についているようです。そしてこれから蛹そして蝶に成長していくのですが・・・・・??。部屋に戻り、ネットでこの御方の名前を調べてみました。そして『アオスジアゲハ』の幼虫であり、この木はクスノキの幼木であることが判明。黒地に青白い筋が一本入ったスポーティなアゲハチョウ。そしてニオイは『臭角』から出すとのこと。アオスジアゲハのネット写真を見て、そういえば、昨年、私もこの蝶を養蜂場の近くで追いかけ撮影した記憶が・・・・。その写真をパソコンのファイルから探すこと10分以上、やっと見つかりました。羽を拡げたこちらもすばらしいポーズで写っていました。このアオスジアゲハは幼き頃から大人になるまでずっと写真撮影がお好き?またまた『勉強になりました』と初老の『シワスジペアー』二人で異口同音に。
2016.10.13
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昨日、我が家の横の菜園で農作業をしていると畑の片隅に見事な自然の芸術品を発見しました。ホオズキの網目が3個仲良く、「透かしホオズキ」ともよばれているもの。このような綺麗な神秘的な網目になっているのは感動もの。 「ホオズキ」の名は、その実の赤くふっくらした様子から頬を連想したもの(「づき」は「顔つき」「目つき」の「つき」か)とも。また果実を鳴らして遊ぶ子どもたちの様子から「頬突き」の意であるとも。 ほかにはホホ(蝥、カメムシの類)という虫がつくことを指すとする説もあると。漢字では「酸漿」のほか「鬼灯」とも書く。中国語では酸漿の名のほかに「金灯」「錦灯籠」などとも言い、英語では Chinese lantern plant とも呼ばれていると。赤い実を大事そうに包む「透かしホオズキ」を接写。房の繊維だけ残り、赤い実が透けて見えて美しい姿。 こちらは表皮が虫に舐められたのか?それとも自然に雨などで腐りこれが乾燥して風で破れ繊維質が残っていくのか?繊維質が少しずつ現れ始めた所のものも発見。今年の9月は雨が多かったからでしょうか?不思議な自然の芸術作品。自然にドライ風になっていたホオズキは初めて見た?見慣れたホオズキの姿も残っていました。何故か下の方だけはまだ緑。 こちらは、これから芸術作品への変身へのプロローグ。繊維質の部分が血管の如く目立ち始めています。 一つ摘んで手のひらに。赤い実はフリーな状態で中でコロコロと。 昔、台湾に仕事で行った折、故宮博物館を訪ねたときに見た芸術品をふと想い出したのです。もちろん白菜『翡翠白菜』や豚の角煮『肉形石』が有名ですが象牙でできた多層球も一見の価値があるのです。ネットで調べてみると『雕象牙透花雲龍紋套球(ちょうぞうげとうかうんりゅうもんとうきゅう)』と呼ばれる作品であったのです。象牙の塊を球に削り出したもので、17層になっており、それぞれが回転することができると。球には継ぎ目がない。中国の究極の工芸品として、NHKスペシャルでも紹介されたもの。『まず象牙を球形にととのえたうえで、中心に向かって八方から円錐形の穴を穿つ。そこに特殊な小刀を差し込み、中心部の一番小さい球体を彫り出す。次いで第二層、第三層と、円錐形の穴を手がかりに、内側から外へ向かって薄いボールの皮を削り出すように、一層ずつ回転する球体を彫り出していく。円錐形の穴からすべての仕事を目で見とどけることはできない。おそらく指先のカンと、削る刃先の音の変化で見当をつけたのだろう。現代では、これを実際に彫ることのできる技術の持ち主は誰もいないという。その意味では依然として幻の秘伝である。』 と。最近では、費用と時間を気にしなければ『3Dプリンター』でこれに近いものは出来るようになったと。しかし所詮象牙や翡翠等の玉石ではなくプラスチック。 【http://kazumiudon.blog102.fc2.com/blog-entry-1220.html】より転載。ホオズキの袋に網目だけが残り、秋の赤い夕日が巻雲の中で透けて見えるが如くであった。ひそやかに 落陽染まる 透かし鬼灯・・・・詠み人知らず
2016.10.12
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今年も我が家の駐車場の横の水引草が小さな赤い可憐な花をつけています。 晩夏に茎の先に紅い小花を穂状につけ、お彼岸を越えた今でも咲いています。この花穂が進物用の紙糸「水引」に似ていることからの命名とのこと。本来「草」は不要らしいですが、紙糸の水引と紛らわしいためか「水引草」と呼ばれることが多いとのこと。花茎は高さは20~30cmで葉がなく、円筒状あるいは卵状の明るいピンク色の花をつけています。葉は広卵形で、真ん中あたりに黒っぽい斑があり、花穂の無い時でも他の植物から見分けやすい。日本のみならず中国・インドシナ・ヒマラヤ地方あたりまで分布しているそうで、中国での名称は「金線草」。雌しべは先端が鈎状に曲がっているのです。九条武子(1887~1928)の和歌『あるかなきか 茂みのなかにかくれつつ 水引草(みづひきぐさ)は紅(べに)の花もつ』は藪陰などにひっそり咲いているが、見つけた時の紅い小花の印象はなかなか鮮烈――というこの花の特徴を、上手く簡潔にとらえた秀歌。 しかし我が家の水引草は集団で堂々と咲いているので、その紅の存在感が大きいのです。『際立ちて 群れなす花穂は背伸びして 水引草は紅()の花見せ 』・・・・詠み人知らず
2016.10.11
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我が家の近くの農家の方のビニールハウスの近くにあるバナナの木の花が開花し小さなバナナの実を撓わに付けていることを発見しました。 紫色の大きな房の上に3段ほどのバナナの実が付いているのです。 バナナの先端についた花そしてバナナの実は最初は下向きで反っていますが、成長と共に上向きに反っていくようです。大きな紫のものが花のつぼみではなく、これは房。1段に20個以上の実が付いています。 房を包んでいた皮が一枚ずつ開き、バナナの実が花と共に顔を出すのです。 先に顔を出したバナナは上向きに反っていき、先端の花はほとんど枯れています。最上段のバナナの実は大きく育っています。しかし温室ではなく路地でこのような花、大きくなった実を見るのは初めてではと。本場のバナナの実は黄色くなるまで実らせるのではないのです。切り落としてから黄色く熟成させるのだと昔誰かに教えてもらった記憶が。撓わに実ったバナナをみると、このような自然の恵みの豊かさの中に暮らしていることを嬉しく思うのです。食べられるまで育ったなら、1本だけで良いですからこの地のバナナを食べてみたいのですが・・・・?。 そしてその横にはキウイの実が。 こちらも撓わに。 昔、我が家もキウイを育て楽しんでいた時期もありましたが、蔓が我が家の屋根にまで這いずり回り、瓦の下まで潜り込んでしまうので伐採してしまった経緯があるのです。また、キウイはマタタビ科の植物ですので猫がキウイ棚の上で、例の鳴き声を出すものですから・・・。そして柿の木も。黄色くなって来ていました。次郎柿でしょうか?柿の木も我が家にあり、毎年楽しむこともありましたが、5年ほど前に駐車場の拡張工事の為に伐採してしまいました。現在はその子供でしょうか、1m程の小苗が近くで成長を始めているのです。食欲の秋到来!梨、ぶどうやみかん、柿、りんごなどの果実や、落花生、さつまいも、里芋などの秋野菜、栗やムカゴ、食用菊なども楽しめるこの時期を楽しんでいるのです。
2016.10.10
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク藤沢市獺郷(おそごう)の雷(いかずち)にある神社・子聖神社(ねのひじりじんじゃ)に到着。獺郷地区の鎮守で、祭神は大己貴命 ( おおなむちのみこと ) 。大己貴命(おおなむちのみこと)は出雲神話の最大のヒーロー、大国主の別名。『獺郷 子聖神社』 と赤く刻まれた石柱。獺郷(おそごう)の名は、沼地に獺(かわうそ)がたくさん住んでいたためついた地名とされているとのこと。その昔は胸まで浸かるくらい深い湿田が多く、耕作が大変であったが、現在は耕地整備や土地改良が行われ、乾田となっているのだ。『獺』 と言う字は私にとっては昔からなじみ深く。何故ならば人気の日本酒『獺祭(だっさい)』から。妻もこの銘酒のファンなのである。入口付近から境内を見る。正面に鳥居から参道、本殿、左手に獺郷公民館と鐘堂、右手に神楽殿、神輿殿。手水舎。 本殿と狛犬、灯籠。本殿の左手に子聖神社由来の碑。 創建時期は不明だが、1733(享保18)年の棟札(むなふだ:築造・修復を記念した碑板)が残されているため、江戸時代中期には存在していたと。この頃には、「東陽院」近くの中谷にあったが、1868(明治元)年、台風の影響で本殿が倒壊したため、現在の地に移転・改築。同時に八幡社・大六天社・山王社の下宮3社を合祀し、子聖神社という名前になったと。鐘楼。 境内の梵鐘は棟札と同じく享保期のものであったが第二次大戦時に供出され、1981(昭和56)年にふたたび鋳造されたのだと。本殿右手には神輿殿が。道祖神やお地蔵さまを祀った小さな社。社の中に青面金剛庚申塔が2体。石塔群 次に大向墓地に向かったのであったが、草むらの手前に車を停めて中に入っていく。「お殿様の墓」とも呼ばれていると。入ってすぐ正面に今にも朽ち果ててしまいそうな小屋が見えるとのことであったが見つからなかった。慶長~幕末まで、獺郷村を支配した地頭平岩氏が建立した常久庵といい正信が妻の菩提を弔うために建てた寺院があったと。平岩氏は代々徳川家譜代の三河武士。小牧・小田原・関ヶ原などの役に従い上野・上総・相模に知行を与えられ、この村に陣家を置き菩提所を作ったと。最奧の右手には背丈ほどもある立派な卵塔形式の平岩家の墓?がひっそりと肩を寄せ合うように立っていた。そして墓地内には多くの墓石が。東陽院に向かう途中の畑道の横にあった地蔵様。 安藤養鰻場。現在ではウナギの養殖をやめ、他県から買い付けた親ウナギを一週間程かけて地下水で泥を吐かせて、そのウナギを卸業やら、自宅で直売(冷凍かば焼きなど)を営んでいるとの事。この様な場所に養鰻場があることは知らなかったのである。東陽院に向かう道のY字路にあった簡素な祠の中の地蔵尊。 東陽院に到着。東陽院は、藤沢市獺郷字三清にある寺院。僧忠室宗孝により永正年間(1504〜1520)に開基された曹洞宗の寺院で、岩谷山と号す。かつては小田原市にある久野総世寺(くのそうせいじ)の末寺で、茅ヶ崎市芹沢の善谷寺,行ヶ谷の宝蔵寺を末寺に従えた小本山であったと。以前は近くの「丸山」にあったと。 参道。 永正年間(1504‐1520)開基の曹洞宗の寺院。参道横には石造りの小さな祠が。。守護神はカワウソとキツネと言う、異例の組み合わせを持つ東陽院。昔、このあたりに悪戯好きなカワウソとキツネがいたと。そのカワウソとキツネを忠室宗孝禅師が封じたと。現在狛犬に抑えつけられた、地名由来のカワウソとキツネの小さい祠が境内に。本堂。本尊は釈迦。須弥壇左側の阿弥陀如来は東陽院の守護神と伝えられてると。 曹洞宗(禅宗)南無本師釈迦牟尼佛当山本尊 阿弥陀如来 大 本 山 福井県 永平寺 御開山 高祖道元禅師 横浜市 總持寺 御開山 太祖瑩山禅師(たいそけいざんぜんし)伝 統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禅風として 開花し、鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす。その教義は瑩山禅師に よって広く全土に実践教化され今日に至る。教 義 人は本来 佛性有り 己に佛心の具え有り。 正法の経典を讃仰読誦し深く黙照して坐し 脚下照顧して己の足下を見つめ自然(宇 宙)と一体なる自己を見極めて活達なる人生をいかしきるのが 禅の実践なり経 典 修証義 般若心経 観音経 寿量品等を読誦する 本堂のご本尊に先ず合掌五重塔。 水子地蔵菩薩像。 寺務所。 藤沢市宮原にある観蔵寺に到着。宮原山不動院と号する真言宗の寺院。創建時期は不明とされていますが、安土桃山時代と推定され、寛永年間(1624〜44)に僧、成印により再興されたと。明治期まで道を挟んで隣接する宮原寒川社を管轄してしいたと 。 境内の六地蔵。 本堂。本尊不動三尊、本堂安置の阿弥陀如来は獺郷にあった西福寺の旧本尊。現在の本堂は大正大震災後に改築されたもの。 本堂手前の小さな社。観蔵寺の手前にある宮原寒川社に向かう。藤沢市宮原の六本松にある宮原地区の鎮守の神社。境内には大宮社(大宮姫命)・八雲社(須佐男命)を合祀。創建時期は不明だが、神仏が合習していた江戸時代には社の西隣にある観蔵寺が別当役を務め、僧や山伏、修験者など雑多な人々が居住していたと。その後神仏の分離を経て、明治時代末、打戻の宇都母知神社との合併が取り沙汰されることもあったが、地域の人々の反対により独立維持されたと。境内は、南側から正面に拝殿と本殿、左手前から鐘堂、手水舎、社務所、奥に神輿殿、右手に神楽殿、稲荷神社が。入母屋造の屋根を持つ拝殿は1894(明治27)年に再建。 鐘楼には鐘がぶら下がっていなかったが昔から?。この鐘も第二次大戦時に供出されたのであろうか?神輿殿。 正面から見た宮原寒川社拝殿と狛犬。祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)すなわち応神天皇。古くは寒川郷であったと。当地は相模の国一宮寒川神社(相模十三社の内)の領で、その宮地であった野原を開拓し出来た集落であったので宮原(みやばら)という名称となったと。 境内の稲荷神社を正面から。 次の目的地に向かう途中の宮原・中原の道路脇の道祖神。 藤沢市宮原にある立小路地蔵尊に到着。石碑には『子育地蔵尊』と刻まれていた。 1699(元禄12)年に奉造された子育て地蔵尊で、宮原地区の女性たちが念仏講を記念して建てたと。一昔前までは首のないお地蔵さまといわれていたが、願いの叶った平塚の人が首を奉納し、現在のお地蔵さまの姿になったと。 藤沢市宮原にある社・鬼子母神堂(きじもじんどう)にも立ち寄る。祭神はもちろん鬼子母神。仏法を守護し、安産・育児などの願いをかなえるという女神。もとインドの鬼神訶梨帝母(かりていも)。創建年月日は不詳であるが、武田武士内野隼太他13名(7名という説もあります)の墓地が堂の裏手にあり、この墓守として建立されたと。現在は講中により月一回のお題目を行っているのだと。 境内の稲荷社。
2016.10.09
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク宇都母知神社から南西に足を延ばし、曹洞宗・盛岩寺(せいがんじ)を訪ねた。参道から山門、本堂に至る広い前庭の植栽が見事。「盛岩寺由緒」高照山と号し、慶長18年(1613)朝岩存夙禅師(ちょうがんそんしゃくぜんじ)により開創された禅寺です。御本尊は釈迦牟尼如来(仏師広運作)で文殊・普賢両菩薩が脇侍仏としてまつられています。当寺は高座南部地蔵尊二十四札所中の十九番札所で、本堂内に安置された延命地蔵菩薩は市の文化財調査によれば室町前期の仏像とみられております。 御詠歌 「のちの世は 実の舟に法のふた 打ち戻りても また訪ねこん」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 濃きみどり こゝろ安らぐ 盛岩寺 山門は開創400年を迎えた古寺らしい風格。『心安らぐ緑の寺 盛岩寺由緒』 高照山と号し、慶長18年(1613)朝岩存夙禅師により開創された禅寺で、御本尊は釈迦如来(仏師広運作)脇侍仏として文殊・普賢両菩薩がまつられています。当寺は高座南部地蔵尊二十四札所の十九番札所になっており、堂内の地蔵菩薩は市の文化財調査によれば室町前期の仏像とみられています。なお、薬師三尊(室町后期)十二神将は打戻下東光寺の本尊であったが、明治初年、廃寺のため当山にまつられた。 竹林の 葉ずれささやく 盛岩寺境内の高照観音と墓地の慈母観音の案内板。 高照観音(境内) 三十三身に変化し妙智力をもって諸願を成就し玉う慈母観音(墓地) 慈悲心をもって母と幼子を安らぎの園に導き見守り玉う『高照山 盛岩寺』と刻まれた石柱。 境内に入ると、左手に立派な六地蔵が鎮座 山門をくぐると本堂の前には、可愛いお掃除小像尊(洗心童子)が箒を持って立ち「掃けば散り 払えばまたも 塵つもる 人のこころも 庭の落ち葉も」と、境内を掃き清めていた。掃いても掃いても降り積もるのは、庭の落ち葉も、私たちの心に潜む邪念も同じこと。日々怠ることなく、精進を重ねることが大切と言う教え。私たちの心も、永遠に汚れが続くため、永遠に掃除を続けなくてはならないのだと。本堂正面。本堂に安置されている地蔵菩薩は高さ21.5cmと小振りながら室町中期の作で、高座郡南部24札所巡り第19番の地蔵で、延命地蔵と呼ばれていると。 美しい曲線の石灯籠。 十三重石塔。その隣には、珍しい石の鈴を下げた石造の五重石塔が建ち、層塔の上には相輪も。境内の高照観世音菩薩。 美しい顔。 高照観世音菩薩縁起が刻まれた石碑。高照山盛岩禅寺は慶長年間寶泉寺六世朝岩存夙禅師により開創され法燈連綿と継承し現在に至る。大正十二年の関東大震災により伽藍全潰し爾后戦中戦后の激動期に直面し再興の機運熟せず今日となる。昭和五十五年二月堂宇の再建を発願し檀信徒この勝縁によく合力し翌五十六年四月本堂、書院、境内の整備等万端成り高照の浄域に輪奐の美を現ず。百花香ばしき五月八日の吉辰をトし入佛落慶。普山結制の大法会を厳修す。〇徳荘厳入天を照し盛岩の禅苑朝暘に映ゆ。・・・・・・・・後略境内にある稲荷社 境内にある『昭和文化館』。 詩吟や写経、茶会など、打戻地区の文化コミュニティの場となっている。2012年に大正時代の商家を移築・再建した貴重な建物 そのルーツを辿ると、江戸時代の「越前屋」にまでさかのぼると。文久3(1863)年の浮世絵にも描かれ、藤沢きっての豪商だった「雨谷商店」(越前屋は屋号)。もとは遊行寺の黒門前に構え、明治・大正時代には砂糖や薬品、雑貨、石油などを扱う大地主だったと。1923年の関東大震災により、大商店と家屋は倒壊。翌24年、かつての部材を用いて遊行通り(現・藤沢市藤沢68)へ移転・再建。その後、38年に森氏が買取り、自宅として打戻で利用されていた。時は流れ、2010年。老朽化により重機で取り壊すことを知った盛岩寺の中津川雅久住職が「歴史的価値のある建物を壊してしまうのは勿体ない」と私産を投じて、宮大工や建具職人らよって移築したと。現在は薬師堂として使用し、檀信徒会館を兼ねる。墓参りに来た檀家に開放するだけでなく、彼岸やお盆、施餓鬼などでも多くの人が使用しているとのこと。昭和文化館前から本堂を見る。境内からの六地蔵。 境内から山門そしてその手前にケヤキ?の老木。 山門に向かって歩いていくと耳元に聞き慣れたブンブンの蜂の羽ばたきの音が。蜂を目で追いかけると、欅の老木の地面に近い空洞に入っていった。 日本ミツバチであろうか?幹の空洞に巣を作っているらしい。 入り口の掲示板には小出川彼岸花のポスターが。 車を走らせしばし行くと交差点の片隅に石塔が四基。 交差点名は「打戻堂の前」。『堂の前の辻』 剣の如き形の二十三夜塔は、右一之宮と左ふじさわと刻まれた道標。右は猿田彦大神で、文化十癸酉年十一月、1813年の造立。ここは盛岩寺まえの道路と子聖神社からの道路とが交差した場所。左は月山・湯殿山・羽黒山の出羽三山信仰の石塔。続いて右の庚申供養塔は、寛政二年で1790年の造立。
2016.10.08
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク藤沢市打戻周辺の寺社巡りを続ける。妙福寺 山門。陽向山 妙福寺は 日蓮宗の寺。寺の掲示板には『盂蘭盆と申し候事は』と。お盆の正式名称は「盂蘭盆(うらぼん)」。『「盂蘭盆」はインドのサンスクリット語の「ウラバンナ(逆さ吊り)からきた言葉と。「逆さ吊り」が語源といわれると驚きますが、次のような由来が伝えられているのだと。お釈迦様の弟子のひとり、目連尊者(もくれんそんじゃ)は神通力によって亡き母が地獄に落ち逆さ吊りにされて苦しんでいると知りました。どうしたら母親を救えるか、お釈迦様に相談したところ、お釈迦様は「夏の修行が終わった7月15日に僧侶を招き、多くの供物をささげて供養すれば母を救うことができるであろう」といわれました。目連尊者がその教えのままにしたところ、その功徳によって母親は極楽往生が遂げられたということから、精霊を供養する盂蘭盆会の行事が生まれたといわれています。この盂蘭盆会の行事が日本の祖霊信仰と融合し、日本独自のお盆の風習がつくられていきました。』とネットより転載。手水場。日蓮上人像 祈願堂。 祈願堂の扁額には南無妙法蓮華経と刻まれていたがその他は読めなかった。地蔵尊? 鐘楼 この妙福寺は慶長八年(1603)に徳川家康の側室であり、家康の次男結城秀康の生母おまんの方(養珠院)が帰依した高僧日遠上人を開基開山として、創建。 当時は寺域が広く、七町歩あったが、後の社会変動、第二次世界大戦などを経て大幅に減少。また昭和九年の火事で、堂塔を焼失した。二棟あった蔵にも火が入り、将軍関係などの寺宝をすべて失った。記録類も失われたと。平成五年、日遠上人第350遠忌の記念として、本堂・客殿・庫裡を新築。本尊は日蓮、三宝諸尊を安置。本堂には『陽向山』と書かれた扁額が。十五代将軍慶喜は隠居後当寺で暮らすことを予定するなど、幕府の厚い保護を受けてきた寺。鳥羽伏見での敗戦で、寺への隠棲は実現しなかったが、170人ほどが宿泊可能な庫裡が建てられていたと。 しかし何故慶喜はこの様な田舎の土地に隠棲を決断したのであろうか?家康への思慕か?本堂前の可愛い地蔵さん。 本堂横を通り奧に進むと大きな敷石の先には素朴な御堂が。手水舎。 八角形の屋根の御堂。 その奧にも墓所の施設が。 再び本堂前の境内に向かう。 右手に萩の花が。 本堂前の銀杏(イチョウ)の木。 多くの銀杏(ギンナン)が地面に。 「ギンナン」と「イチョウ」は違う漢字にして欲しいのですが・・・・。境内から山門、鐘楼を見る。 さらに車を走らせ大法寺へ。大法寺は、藤沢市打戻の字榎戸にある寺院。1596(慶長元)年、僧、正誉によって開山された浄土宗の寺院で、元、上土棚にある蓮光寺の末寺であるが、現在は無住の寺院らしい。本尊は阿弥陀如来で、この像は、寺が創建される前路傍の御堂に厨子に入って安置されていたものと伝えられていると。また、本堂には1972(昭和47)年に修理した閻魔王像、法然・善導坐像、神像二体が、また、境内には1822(文政5)年の光明真言供養塔、聖観音塔、地蔵菩薩像と慶蔵坊の碑があるとのことであったが、門が閉まっていて中には入れなかった。日吉神社。内戻の農村地帯の農道の横にあるある素朴な神社。鳥居と祠がある程度で、素朴そのもの。神社の由来の解る説明板なども立っていなかったので、縁起などは不明。敷地に「寛政十戊午歳霜月」と刻まれた石碑が立っていたので、比較的古くからの神社。寛政十戊午歳とは1798年、約220年前。
2016.10.07
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先日、我が家の横の菜園で、イチゴの苗の定植を行いました。まずは苗床の準備。 日当たり風通しが良く、排水の良い畑が良いのです。連作地にならにように注意します。植付け床は写真のように高さ20cm程に盛り上げました。肥料は、堆肥そして鶏糞と化成肥料と過リン酸石灰としました。 実の付きをよくしたり味をよくしたりするには、リン酸が必要なのです。 親苗は、ランナーを切り離じ 同じ畑で育成して来ました。何度か化成肥料をばらまき、順調に生育してくれました。 そして定植、約25cm間隔で2列に植え付けました。植付け方法は、実のなる方向が畝の外側になるようにするのが良いのですがなかなか・・・・。いちごの花芽は親苗の方向の反対側にに出る性質を持っていますので、株元を確認しながら植えていくのです。すなわち通路側に実がなるように揃えて植えて行くのです。定植の際は浅植え、深植えにも十分注意しました。更に古くなった下葉は摘み取り実施。 そして下の写真の時点で雨が土砂降りになって来たのでこの日の農作業は中止。そして今朝、続きを行い植え付け完了。今年も5本の畝としました。 定植後1週間位は株元が乾かないようコマメに潅水し活着を促進します。 今後の注意点としては、乾燥させないこと、肥料をやりすぎないこと、日当たりがよいこと。いちごは寒さが厳しくなると休眠する性質を持っていて、寒さが厳しくなればなるほど活動を停止し、寒さから身を守っています。そのため、低温、乾燥に耐えられるのですが極度の乾燥には注意が必要。そして春先には野鳥に食べられないようにネットを張ること、そして立春を過ぎると陽射しは日増しに強くなり、休眠しているいちごの株は、気温、地温の上昇を待ち望んでいます。我が畑では、3月を迎える頃にはいちごの葉もいくらか緑色を増して、少しずつ活動を開始します。この時期に黒色ポリマルチを張るのです。マルチングをすることにより、地温の上昇、雑草の発生防止、泥のはね上がり防止、いちごの実の腐敗防止等々の効果が期待できるのです。そして来春のゴールデンウィークの頃には、下の写真の如く、今年と同じように赤い、甘い、大きな実をつけ、孫達がイチゴ狩りを笑顔で楽しめるように元気に育って欲しいのです。そして年末には、孫が一人増えるのです。毎年繰り返される孫との甘いイチゴの一粒、一粒の収穫が『イチゴ一笑』なのです。
2016.10.06
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我が家の近くの公園のキンモクセイ(金木犀)の花が、このところの雨のために地面に落ち 、地面はまるでオレンジ色の絨毯が敷かれたようになっていました。前日であればもっとオレンジ色、いや金色の絨毯だったのでしょう。 オレンジの絨毯には一筋の轍が。チョット寂しい気分に・・・・。既にほとんどの花が枝から落ちていました。 まだ落ちまいと、けなげにしがみついている花も。 花が最盛期の時の写真です。この様に撓わに金色の花が香り豊かに。 もう一本の金木犀の木のふもとです。 命を終え十字を切って散りゆく花か。散りこぼれて、こちらはオレンジ色の階段に。 花をホワイトリカーに混ぜ、オレンジ色の酒も楽しめるとのこと。 お彼岸にマンジュシャゲ(曼珠沙華)の花が一斉に開花し、あっという間に見頃を過ぎ・・・。そしてコスモス(秋桜)が咲き、萩、コルチカム、酔芙蓉も次々と開花・・・・・。そのうちに朝の窓を開けると、いつのまにか良い香りが漂ってくる・・・。どこからかと気になっていると近くの公園のキンモクセイの花がきらきら輝いていて。そして彼岸花、金木犀もあっという間に崩れ、舞い散って・・・・。しかし秋の花木の魅力は、大人の雰囲気が香るところ。自然の移ろいに彩られて、表情をカラフルかつ豊かに変え花もどこか可憐な雰囲気を見せるのが秋の花。よって『あきがこない』秋の花が好きなのです。『金木犀 一夜の雨に 舞い急ぐ』『金木犀 散り敷く道に 轍あり』『金木犀 舞い散る先に 石の段』『金木犀 散り敷く瞬に 十字きり』・・・・詠み人知らず
2016.10.05
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク藤沢市打戻に鎮座する宇都母知神社(うつもちじんじゃ)を訪ねました。延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)とされるとのこと。藤沢市打戻2662。宇都母知神社と赤く刻まれて石碑。 この地『打戻』の地名の由来として、宇都母知神社の「宇豆毛遅」(うずもち)が訛って打戻(うちもどり)となったという説がある。また、古語において「うつ」と「もち」にはどちらも「小さな盆地」という意味があり、当地の地形からまず「ウツモチ」と呼ばれるようになって「うちもどり」に転化したともされる。この他には、海老名の刀鍛冶屋、五郎正宗が鎌倉へ向かう道中この地で休憩した際に、これから納める刀の出来がよくないことを思い、「家に戻って打ち直した」ことから地名となったとする説もあるとのこと。 鳥居建設碑。平成2年と刻まれた鳥居建設祈念碑も。 9月15日に行われた例大祭の名残が祭りの寄付金の掲示板に。参道横に庚申塔。文政十年丁亥十一月吉日、1827年の造立。手水舎。 宇都母知神社 縁起碑。神社の創建時期は定かでないが、雄略天皇の御代(495年)に厳粛な祭祀が執り行われたという記録がある(『日本総国風土記』)。また、これまでに転社(移転)の記録はないが、同風土記では当社の鎮座地が「相模国鷹倉郡宇都母知郷」とある。なお、『延喜式神名帳』では「相模国十三座(式内社)の内 高座郡六座の内の一座宇都母知神社」と記されている。天慶2年(939年)、大和国泊瀬より若日下部命の尊霊を遷座、相殿に合祀した。正応3年(1290年)、鎌倉幕府八代将軍久明親王の執権である北条貞時が社殿を改築、さらに寛永4年(1627年)、当地の領主である高木主水源正次が社地900坪(約3000m²)を寄進して本殿の改築を行なっている。当社の呼称として、江戸時代には「大神宮」「神明宮」とも称されていた。その後、明治6年(1873年)12月には郷社(近代社格制度)に列せられた。大正12年(1923年)の関東大震災により社殿(安政5年(1858年)造)を含み全壊したが、3年後の大正15年(1926年)9月には全復旧し現在に至っていると Wikipediaより。 大きな社務所。 社殿。社殿の左手は神輿殿。誰一人いない閑散とした空間。御祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、稚産霊神(わくむすびのかみ)、若日下部命(わかくさかべのみこと)。稚産霊神は五穀や養蚕を司る神で若日下部命は仁徳天皇の皇女で養蚕を盛んに奨励したとされているのだと。かつての打戻の地は養蚕がさかんだったと。 本殿を斜め前から。 境内社の菅原神社。 平成8年に建立した菅原神社、伊勢神宮鎮座二千年記念、第二次世界大戦終結50年を記念碑。氏子中と刻まれた石塔が二つ。 稲荷神社。 打戻稲荷神社 石碑。平成19年の灯籠整備祈念碑。境内を西側に出て道を挟んですぐのところにある鐘楼そして手前に古い石碑が。『相模十三社 式内社 宇都母知神社』とあるが、風化が進み何とか解読出来た。土地改良事業完成記念碑、「甦る大地 藤沢市長 葉山峻 書」郷土の鎮守、宇都母知神社が鎮座する、藤沢市打戻字大仲及びそれに接する宮台、大谷戸、根下、矢崎の地は、原始の昔より農耕が営まれてきたが、畑地は傾斜地が多く狭隘であり、山間に位置した水田は強度の湿田で生産力も低く、長い間耕作農民を苦しめ、経営の伸展を阻害してきた。昭和四十八年、藤沢市が国の施策である第二次農業構造改善事業を導入するに及び、当地の地権者百十二名は、この事業の実施推進によって生産基盤の改善と経営の安定を計るべく、度重なる協議を経て、土地改良区の設立に踏み切った。以来十年間の歳月を費やし、本土地改良区は、県、市、農協等関係機関の懇切な指導と地権者及び役員の溢れる熱意により、幾多の困難を乗り越えて、事業費二億七千万円、総面積四千五ヘクタールに及ぶ土地基盤整備事業を完成させ、更にその耕地内の二千ヘクタールを対象に、事業費四千五百万円をもって畑地灌水施設を完工し、また、ガラス温室団地及び養豚団地を配置するを成し得た。これにより、改良地区の中心部を通る、工費六千万円をもって完全舗装された延長千百三十六メートル、幅員七・五メートルの幹線道路をはさんで、農耕地は平坦にして整然と区画され、どの耕地も巾四メートル以上の農道に接する、良好なしかも早害の懼れのない近代的農耕地に生まれ変わった。この改良事業は、今後当地の農業経営の合理化と発展に寄与するところ限りないものがあると思われる。思うに、当地の農耕の遥かな歩みの中で、本事業はまさに歴史的かつ画期的な大事業であったと言うべく、本土地改良事業の完成にあたり、その〇概を記して、後世に伝えんとするものである。 昭和五十八年一月 藤沢市打戻土地改良区鐘楼は昭和20年(1945年)の春に太平洋戦争の物資回収により献納されたため暫く設置のされないままだったが、昭和50年(1975年)になって、天皇在位50年を記念して鋳造されたものを再建。また、境内の全域が風致林の指定を受けており、昭和49年(1974年)には自然環境保全地域に指定されているとのこと。
2016.10.04
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先日、小出川沿いの彼岸花を見に行った折、車を走らせ茅ヶ崎の北の外れにある神社に立ち寄りました。ここは茅ヶ崎市芹沢にある神社、腰掛神社(こしかけじんじゃ)。『新編相摸国風土記稿』に「腰掛明神社 村の鎮守なり」とあるのはこの神社のことで、江戸時代から変わらず芹沢の鎮守として祀られてきたとのこと。現在も芹沢北部の里山の中に古式然とした姿で鎮座。日本武尊が東征の折に通りかかり暫くのあいだ休息せられた旧跡とも伝えられ、境内にはこのとき日本武尊が腰を掛けたと伝えられる腰掛石も残されていたのです境内の入口には六臂の青面金剛が彫られた元文五年(1740年)の庚申塔が鎮座。日輪・月輪を両手の掌に奉げたデザインが素晴らしい。日本武尊を髣髴させる青面金剛像。境内には巨木も多く、眩いばかりの緑に覆われていいました。こうした雰囲気の良い社叢は、都市部ではなかなか目にすることが出来なくなって来たのです。 『腰掛神社の樹叢(じゅそう) 昭和六十一年二月二十一日 茅ケ崎市天然記念物指定 この社はうっそうとした樹林に囲まれ、往古の面影を残しています。境内には雑木が生い茂り、いつも野鳥がよりついています。スギ、ケヤキ、シイノキ、イチョウなどの大木があり、ことに参道の杉は見事で、この神社に独特の趣をそえています。近年、都市化の進んでいる茅ヶ崎では、このような樹叢は少なくなっており、ここはとても貴重なところです。 』と立札に。参道を進む。 左手に手水舎。 社殿が見えてきた。 左手に建物、舞楽殿?には、9月18日に行われた秋季例大祭時の多くの寄付金の札が貼られていた。 祭神は《主》日本武尊、《合》大日霊貴命・金山彦命・白山彦命・宇迦之御魂命とのこと。 寛政元年(1799年)11月、社殿が再建された。現存の本殿は大正7年(1918年)に修復したもの。天保4年(1834年)4月、火災に遭い、関係古書類などを焼失したとのこと。腰掛神社の狛犬(右)大正十四年。腰掛神社の狛犬(左)大正十四年。 御輿舎。社殿の奧の本殿。 腰掛神社の境内に、寒川大神の腰掛けられたという石が存している。ところでこの地方の伝説として、寒川の大神はいずれの地方からか相模国へ来て、この芹沢の地にしばらく逗留され、それから間もなく、北西3キロほどの宮原という地に移ったと言われている。この宮原部落には、現在も寒川社という小社がある。寒川大神はやがて宮原の地も去って、最後に現在寒川神社のあるところに移って来て長く居住したということがむかしから伝えられているのである。 『腰掛玉石』と刻まれた石碑。社伝には、景行天皇の朝、皇子日本武尊東征の際、此の地を過ぎた給ふ時、石に腰を掛け暫時此の処に休息さられ、西の方大山を望み指示して大いに喜び給ふ。後、村民永く其の霊跡を存せんとして社を建て尊を祀りし と云い伝えられていると。高さ40cm、タテヨコ100cmほどの上が平たい石。 拝殿脇には2つ並んで境内社がありましたが、名前が書いてないので詳細は不明。境内には鐘楼もあって、神仏習合の記憶を留めていました。 境内から入り口方面を見る。境内はうっそうとした樹木で覆われていて、鳥居からのびる参道は昼でも薄暗く感じられたのであった。
2016.10.03
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我が趣味の養蜂場のある畑に、1週間前に来春用の蜜源植物の種を蒔きましたが、全ての種が見事に発芽しています。まずは菜の花。今春の種を採取し保存して置いたものを蒔きましたが、種が十分の量あったため厚蒔きしすぎました。ある時期におろ抜きたいと思っています。 今春の青空に生える菜の花の写真です。 そして菜の花に訪花するミツバチ嬢。 こちらはクリムソンクローバ。 既に3~4葉になっています。種はネットで購入しました。こちらも今春の我が養蜂場で開花していたクリムソンクローバの花。 ミツバチ嬢の姿。 最後はレンゲ。こちらはやや他の2種とは異なり発芽が遅く漸く双葉。こちらの種もネットで購入。 今春のレンゲの花。ミツバチの写真も今週にブログにアップしたもの。 以前は野菜畑としてこの時期冬野菜を植え付けていましたが、二人暮らしでは消費に限界がありますので、今年は冬野菜の定植本数を減らし、花畑様に蜜源植物の種を蒔いたのです。順調に成育し、早春に開花し我がミツバチ嬢の訪花が楽しみなのです。
2016.10.02
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昨日は前夜泊にて三重県・津市に仕事の応援に行ってきました。 ホテルの10Fの我が部屋からの秋の朝の日の出の光景です。時間は5:20過ぎ。 遠くには伊勢湾が、そして手前にはジャパンマリンユナイテッド(株)津事業所の造船用の巨大クレーンが見えた。まだ薄暗く国道165号線の街路灯がオレンジ色に輝いていた。そして暫くすると伊勢湾の先の東の空が赤く染まり始めた。下の黒は町並みではなく雲の姿。 ズームで。 ムンクの「叫び」にも似た赤い空。そして南東の空もしだいに赤く染まりだした。 北東の空には迷子になった小さな雲が4っつ。時々刻々、赤き空の縞模様が変化していく。 空が濃く鮮やかな色に染まるのは、空気中の水蒸気量が多いこと。 朝と夕方は太陽高度が低く、波長の長い「赤い光」はあまり散乱されずに地球に届くのです。そして、空気中に水蒸気が多いと、適度に散乱し、目に入って来やすくなるのです。これぞ朝焼けの科学的な姿。そしてこの日の日の出。時間は5:50。 ズームにすると太陽が顔を覗かせている姿がクッキリと。急激に明るさが増してきた。 そして太陽がみるみるうちに大きく。 白く輝く太陽の下の雲の姿も大きく変化。 そしてこの日の太陽は完全な姿を現す。朝の陽光にて我が部屋の壁に映る男の姿。 東の空の筋雲が広がって時々刻々に赤く染まって行く姿を大いに楽しんだのです。早起きは三文の徳。三文とは、今のお金に換算すると100円ちょっと。つまり、「ほんのちょっとだけ徳があるよ」と言う事。「ものすごくいい事があるよ」と言わない所に、奥ゆかしい日本、日本人を感じるのです。そして「秋の朝焼け雨が近い」と言われてますが、帰路の津市はやはり雨。
2016.10.01
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