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師弟関係では、弟子にはこれから就いて学ぶべき師を正しく選択したかどうかについては挙証が求められません。弟子に師を適正に格付けできる能力があらかじめ備わっているはずがないと考えるからです。だから、誰を師としてもよい。そのような乱暴なことが言い切れるのは、一つには、師が何も教えてくれなくても、ひとたび「学び」のメカニズムが起動すれば、弟子の目には師の一挙手一投足のすべてが「叡智の徴」として決まるということです。そのとき、師とともに過ごす全時間が弟子にとってはエンドレスの学びの時間になる。(略)張良という劉邦の股肱の臣として漢の建国に功績のあった武人です。秦の始皇帝の暗殺に失敗して亡命中に、黄石公という老人に出会い、太公望の兵法を教授してもらうことになります。ところが、老人は何も教えてくれない。ある日、路上で出あうと、馬上の黄石公が左足に履いていた沓(くつ)を落とす。「いかに張良、あの沓とって履かせよ」と言われて張良はしぶしぶ沓を拾って履かせる。また別の日に路上で出あう。今度は両足の沓をばらばらと落とす。「取って履かせよ」と言われて、張良またもむっとするのですが、沓を拾って履かせた瞬間に「心解けて」兵法奥義を会得する、というお話です。それだけ。不思議な話です。けれど、古人はここに学びの原理が凝縮されていると考えました。『張良』の子弟論についてはこれまで何度か書いたことがありますけれども、もう一度おさらいをさせてください。教訓を一言でいえば、師が弟子に教えるのは「コンテンツ」ではなくて「マナー」だということです。張良は黄石公に二度会います。黄石公は一度目は左の沓を落とし、二度目は両方の沓を落とす。そのとき、張良はこれを「メッセージ」だと考えました。一度だけなら、ただの偶然かもしれない。でも、二度続いた以上、「これは私に何かを伝えるためのメッセージだ」と普通は考える。そして、張良と黄石公の間には「太公望の兵法の伝授」以外の関係はないのだから、このメッセージは兵法極意にかかわるもの以外にありえない。張良はそう推論します(別に謡本にはそう書いてあるわけではありません。私の想像)。沓を落とすことによって黄石公は私に何か伝えようとしているのか。張良はこう問いを立てました。その瞬間に太公望の兵法極意は会得された。瞬間的に会得できたということは、「兵法の極意」とは修行を重ねてこつこつと習得する類の実体的な技術や知見ではないということです。兵法の奥義とは「あなたはそうすることによって私に何を伝えようとしているのか」と師に向かって問うことそれ自体あった。論理的にはそうなります。「兵法極意」とは学ぶ構えのことである。(略)「何かを」学ぶということは二次的な重要性でしかない。重要なのは「学び方」を学ぶことだからです。【日本辺境論】内田樹著/新潮新書
January 31, 2016
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作家 六車いちか昨年、といっても先月のこと。冬の始まりに雪がちらついたものの、その後すぐに寒さは緩み、それどころか気温は上昇の一途をたどり、生暖かい空気に包まれるようになった。例年なら身体のあらゆる部分を防寒具で隠す12月であるのに、手袋でさえも暑苦しい。そのうち春先に咲くはずの花がほころび始めた。「ドイツのベルリンで桜が開花」……日本のニュースで報じられたそうで、ベルリン在住の私たちは、家族親戚、友人知人から、「テレビで見たが本当か」攻撃を受けることに。温度計を見ると連日10度以上。観測史上始まって以来の暖冬である。そこで日本のテレビに取り上げられた場所を調べて出かけて見ると、そこは並木になっていて、桜の花が見事なまでに咲き乱れていた。人通りのあまりないところに日本人の姿がちらほら見られ、花びらに向かってカメラをかざしている。やはり日本人は桜が好きなのだ。そう思いながら様子を見ると、開花を面白がっているというよりも、遠い故郷に思いを馳せているかのようだった。ところが年が明けた数日後、異常な寒波が押し寄せ、街は急激に凍てついた。気温はなんとマイナス10度。20度以上も落ち込んだことになる。連日雪が降りしきり、突然の厳冬と積雪に、市内の交通は鉄路も道路もマヒしてしまった。件(くだん)の桜並木は拙宅から遠いため、様子を見に行くこともできない。テレビを点けると難民問題のあれこれが、画面から溢れ出るかのごとく報じられている。その成り行きを案じながら、時おりふとあの桜のことも思い出して、その後のことを案じている。【すなどけい】公明新聞2016.1.15
January 30, 2016
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九条と自衛隊の「矛盾」について、日本人が採用した「思考停止」はその狡知の一つでしょう。九条も自衛隊も自衛隊もどちらもアメリカが戦後日本に「押しつけた」ものです。九条は日本を軍事的に無害化するために、自衛隊は日本を軍事的に有効利用するために。どちらもアメリカの国益にかなうものでした。ですから、九条と自衛隊はアメリカの国策上はまったく無矛盾です。「軍事的無害かつ有用な国であれ」という命令が、つまり、日本はアメリカの軍事的属国であれということがこの二つの制度政治的意味です。この誰の眼にも意味の明らかなメッセージを日本人は矛盾したメッセージにむりやり読み替えた。九条と自衛隊が両立することはありえないと、改憲派も護憲派もお互いの喉笛に食らいついたような勢いで激論を交わしました。この二つの制度がまったく無矛盾的であるということを言った政治家は私の知る限り一人もいません。アメリカの合理的かつ首尾一貫している対日政策を「矛盾している」と言い張るという技巧された無知によって、日本人は戦後六十五年にわたって、「アメリカの軍事的属国である」というトラウマ的事実を意識に前景化することを免れてきました。私はこれをひとつの政治的狡知であると思います。ただ、これは偶然的、単発的に出てきたものではなく、「日出づる処の天子」以来の辺境人の演じる「作為的な知らないふり」の一変奏なのだと思います。私たちには「そういうこと」ができる。ほとんど無意識にできる。【日本辺境論】内田樹著/新潮新書
January 29, 2016
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「人を動かすのに圧力は無用」とは、企業経営研究所で著名な佐々木常夫氏の言説(角川新書「決定版 上司の心得」)。「そもそも『人を動かそう』という発想自体が、リーダーシップの本質から外れている」と。事を成そうとするとき大切なのは「己の中に『自分の志を何としても実現したい』という強い想いがあるかどうか」「その想いが本物であれば、必ず周りは動き出す」と訴える。同氏が要職を勤めた東レが生み出したヒット商品の浄水器「トレビーノ」。当初、まったく売れなかった同浄水器を目がヒットと呼ばれる商品に押し上げたのは、入社4年目の女性・Sさんだった。一人の熱意が会社全体を動かした快挙と佐々木氏は振り返る。Sさんは外国企業への飛び込み営業、それが成長すると注文に応じる生産体制の確立などに奮闘。生産数が急激に増大する工場の説得、人員や予算の確保など、一つ一つ粘り強く交渉を重ねていった。その際、佐々木氏がSさんの行動で特に評価しているのが「決して電話一本で済まそうとせず、何度も工場に出向いて説明と説得を重ね、協力を取り付けた」という点。近年、電話やメールで用を済ます傾向が指摘されているが、熱意を持って、直接会って語ってこそ相手の理解が本物になるということを、肝に銘じたい。【北斗七星】公明新聞2016.1.14
January 28, 2016
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関ヶ原の戦いでは東西両軍の軍事力はほとんど拮抗していました。だから、西国大名の相当数は「様子見」をしました。小早川秀秋は午前中西軍優勢のときは動かず、東軍がわずかに優勢に転じると徳川側に寝返りました。脇坂陣内ら周辺の西側大名は小早川の動きを見て、空気の変化を感じ取り、一斉に東軍に奔り、そのせいで石田三成は大敗したのです。小早川秀秋は三成からも家康からも戦勝後の報酬を約束されていました。そして、様子を見てから、勝ちそうな方についた。これがわが国でいうところの「現実主義」です。「現実主義」の意味するところは現代も小早川秀秋の時代と変わりありません。現実主義者は既成事実しか見ない。状況をおのれの発意によって変えることを彼らはしません。すでに起きてしまって、趨勢が決したことに同意する。彼らにとっての「現実」には「これから起きること」は含まれません。「すでに起きたこと」だけが現実なのです。(略)わが国の現実主義者たちは、つねに「過去への繫縛(けいばく)のなかに生きている」のです。【日本辺境論】内田樹著/新潮新書
January 27, 2016
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山本伸一 政治も、経済も、科学も、本来、すべてが人間の幸福を追求するものですが、それらは制度や環境的側面など、人間の外側からの幸福の追求です。それに対して、宗教は、人間の内面世界からの幸福の追求に光を当てています。人間の内面の確立と、外側からの追求のうえに、人間の幸福はあるといえます。 あらゆる学問も、機構・制度も、それを生み出し、つくり上げてきたのは人間です。したがって、社会や環境の改革も、その主体者である人間の内面を改革することが肝要です。そこに高等宗教、なかんずく仏法の役割があると、私は考えております。ガルブレイス博士 重要な話です。会長が言われたように、すべては、人類の幸福のためにある。そこにもう一つ補足させていただければ、今日、政治、経済、科学等は、それぞれの分野で急速な進歩を遂げましたが、いつの間にか、手段が目的と入れ替わり、幸福の追求という根本目的が忘れられています。私は、そこに、大変に危機的なものを感じています。山本伸一 そうです。おっしゃる通りです!ガルブレイス博士 私は、ものの考え方の体系をかたちづくる目的意識を一つにし、すべてを人間生活の核心である幸福の追求、平和の追求へと立ち返らせなければならないと考えています。私は、経済学者として、少しでも人間の幸福に寄与する努力をしていきたいと思っております。また、会長のお話を聞いていて、私も、ぜひ一緒に仏陀の国・インドへ行ってみたくなりました。この話の続きは、いずれ、サールナートででもできれば幸せです。【新・人間革命「常楽」10】聖教新聞2016.1.13
January 26, 2016
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いまから250年ほど前、江戸時代の話。藩から理不尽な人馬の徴用で貧窮し、町民の流出にあえぐ宿場町の篤志家たちが、藩に金を貸し付けて得た利子を住民に配り、町を衰亡の危機から救う。人口も幕末まで減ることはなかった。その舞台は吉岡宿、現在の宮城県大和町。造り酒屋の穀田屋十三郎と茶師の菅原徳平治ら9人が、生活を切り詰めて小銭を貯え、家財を売り払い、借金をしてまで資金となる1000両をそろえた。利子は毎年100両、藩が廃されるまで支払われる一方、9人は自らを利することも誇ることもなく正直に暮らした。顛末は「国恩記」に記録されている。穀田屋は、いまも地道に、造り酒屋を営む。史実は、『無私の日本人』(磯田道史 文藝春秋)の『穀田屋十三郎』に収められ、『殿、利息でござる!』の題で映画となり明年公開される。磯田氏が吉岡宿を知ったのは面識のない一読者の手紙から。文庫版のあとがきには「その文面は、ほんとうに実のこもったもので、わたしは心を打たれた。三橋さんのいう吉岡の九人のことを調べずにはいられなくなり……」とある。なお、この三橋さんとは、公明党の元大和町議・三橋正頴氏のことである。【北斗七星】公明新聞2015.12.23
January 25, 2016
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文芸評論家 持田 叙子年が改まると、むしょうに梅の花の清々しい香気が恋しくなる。姿もよく香もよく、春を告げる花としてふさわしい。万葉集の頃の古代日本人は、桜より梅を偏愛した。梅の歌が多い。むかし二十歳になったお祝いに、父が連れて行ってくれた奈良郊外の月ヶ瀬梅林の満開の梅はすばらしかった。野生的な大樹が谷をおおう。正岡子規もこの神秘の谷の梅花に深く見せられた。寒さの中にけなげに鮮烈に咲く椿も忘れがたい。日本近代で最も椿を愛し、椿について真剣に考えた人は、『遠野物語』(明治43年)で知られる民俗学者の柳田國男なのではないか。柳田國男は樹木と野鳥を友とした。生家は貧しく、近所の庄屋が本を自由に読ませてくれた。乱読と、そして庄屋の広い庭でぽかーんと長い時間、木々と来飛する鳥をながめるのが國男少年の至福の遊びだった。のちに庶民の生活史を考究する民俗学者になった柳田は、古い風習や伝説を探しに地方へ旅する。土地の木もよく観察した。そこで気になったのが、東北地方に点々とみごとな椿の森があること。油照りのする分厚い緑の葉をみればわかるように、椿は南国に生える照葉樹。なぜ北国に椿の群生地があるのか?自然の植生ではあるまい。椿の葉はフォレバー.グリーン。永遠のいのちを象徴する。その葉に守られて寒中に咲く椿はいのちの花、聖なる花。雪国で春を待ちこがれる人々のもとへ、聖なる椿の花を手にした巫女が訪れ、神の使いとして北国に春を告げ、椿を植えた。それが森に育ったというのが、柳田の説。なんて美しい想像の古代史。かつて列島を歩きまわり布教した巫女たち。その手で真紅のいのちの花を植えていく。詳しくは柳田の名文「椿は春の木」を読まれたい。なるほど椿とは、その名もまさに春告げ花。【言葉の遠近法】公明新聞2015.1.6
January 24, 2016
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時代は荒海のごとく激しく揺れ動いています。だからこそ、私たちは、御書という最高無上の大哲学の羅針盤を厳と抱きしめて、広布と人生の航路を断固として進んでいきたい。「日女御前御返事」の一節に―—「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」(同1244頁)。そして、「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(同頁)とあります。日蓮仏法が、どれほど深遠に、どれほど明晰に、生命の尊厳を説き明かしているか。妙法を信受した、この私たちの命それ自体が、根本尊敬の当体であるとまで、示されているのであります。ゆえに、自分を卑下などしては、決してなりません。宇宙の大法則と完璧に合致して、最極の「仏の生命の都」を、わが胸奥に輝き光らせていけるのが、「信心」の二字であります。したがって、この神髄を深く実践していくならば、まだまだ計り知れない智慧と力をひきだすことができる。汝自身が荘厳なる生命の宝塔として、いかなる「生老病死」の苦悩にも負けず、「常楽我浄」という、希望と歓喜の光を、そして幸福と平和の光を、未来永遠に放っていくことができるのであります。【SGI会長のメッセージ】聖教新聞2016.1.10
January 23, 2016
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原始時代の人間にとって、「土」は、真に不思議なものであったに違いない。全ての植物がそれより生まれ、冬になって死んで土にかえり、春になるとまたそこから新たな生命が再生される。それは全てを生み出し、また、全ての死者を飲み込むものであった。このような体験を基にして、太古において地母神を祭る宗教が発生したと考えられる。そして、しばしば生み出すものとしての地母神は、死の神としても祭られている。(略)このような、深い意味を持ったイメージは、ある種の個人的体験をはるかにこえ、「母なるもの」と呼ぶべき存在を予想せしめる。ユングはこのような観点から、ある個人の体験をこえて、人類共通に基本的なパターンが存在するとし、前述のような「母なるもの」の原型を「太母(グレートマザー)」と名づけた。全ての人間の無意識の奥深くに、太母(グレートマザー)という原型が存在すると考えるのである。この原型は、全てのものを生み養育するというプラス面と、あらゆるものを呑みつくしてしまうというマイナス面とを有している。(略)現在、父親像の喪失を嘆く人は多い。しかし、わが国に関するかぎり、喪失などではなく、もともと父性像は存在しなかったのである。(略)わが国には非常に多く、西洋には殆どないといってよい対人恐怖症の場合について考えてみよう。このような人達に会ってみるとよく解ることは、これらの人が他人との適当な「間合い」をとるときに大きい困難を感じているということである。たとえば、その彼等は誰かと二人だけでのときはいいが、そこへ三人目の人が加わると困難をきたすことも指摘されている(笠原嘉「人みしり」)。これは、一人の他人に対しては何とか間合いを測ることができても、二人に対すると混乱を生じてくることを示している。日本人の場合は、その自我をつくりあげてゆくときに、絶えず他人の心を「察し」ながら、しかも自分自身のものを失ってはならないという、難しい仕事を行わねばならない。地なる母とのある程度の決別を行ない、天なる父をモデルにして自我を確立しようとした西洋人の自我であれば、自我と自我との間に対話をもつことになる。ところが太母とつながりが強い日本人の自我の場合は、非言語的な察し合いによって、他人との関係(関係といえるかどうかも問題だが)をつくらねばならない。【コンプレックス】河合隼雄著/岩波新書
January 22, 2016
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『論語』は「貧しきを憂えず、等しからざるを憂う」と説きながら、同時に、殿様は殿様、家来は家来、農民は農民といった秩序の維持を説く。朱子学の影響が強かった徳川時代には、将軍も大名も農民も、もっと貧しい人もいることが目に見えているのに「等しからざるを憂う」といっていた。ここで名君といわれた将軍や大名が求めたのは、「ヨコの平等」ではなくて「タテの平等」である。平等には「機会の平等」と「結果の平等」とがある。誰でも入学試験は受けられる。議員に立候補できる、自由に商売ができる、これは「機会の平等」である。しかし、「機会の平等」を保つと合格する人と落第する人が、当選者と落選者、繁盛する会社と倒産する会社が出る。つまり結果は不平等にならざるを得ない。アメリカ独立宣言やフランス革命のスローガンとなった「自由・平等・博愛」の「平等」とは、このことである。これに対して『論語』は「結果の平等」を説いている。そしてその「結果の平等」にも「タテの平等」と「ヨコの平等」とがある。徳川時代は「ヨコの平等」はなかった。殿様と農民、男と女は平等ではなかったし、それを変えようという革命思想もほとんどなかった。にもかかわらず、なぜ「等しからざるを憂う」といったのか。ここでいう「等しい」とは「タテの平等」を実現することだったのだ。ある時点での日本国民の所得や資産に大きな差がなければ、経済的な「ヨコの平等」が実現したことになる。これに対して、三十年前に足軽だった人が今も同じ足軽であり、二十年前に大学を卒業して入った同期の社員が今はみな課長になっているとすれば、その集団の中での「タテの平等」が保たれていることになる。三十年前に殿様だった人の中から今は足軽になっている者もいる。逆に三十年前に足軽だった人で今は殿様になっている人もいる。それぞれにそうなるべき理由はあっても、これは「タテの不平等」なのだ。『論語』の中に深く入っているのは、「タテの平等」主義だ。現在の日本も「タテの平等」主義が非常に多い。例えば、米づくり農家は、一生、米づくり農家をしていられるように保護しようとする。ひょっとしたら農業をやめてマンションを建てた方がずっと豊かになるかも知れない。けれども、以前と同じ立場に置いておく方がみんな安心である、だから農業をつづけられるように保護してくれ、というわけだ。年功序列は企業や官庁の職場社会における「タテの平等」を保つための仕組みである。同期に入社した者は、課長クラスまでみんな一緒に昇進していく。これがまさに渋沢的強調主義と表裏をなしている。そしてそれが現在の官民協調主義にまで発展したわけである。「タテの平等」は、世の中全体を発展させない。これを維持させるのは「嫉妬の政治」である。この点に『論語』の限界があり、渋沢的強調主義の限界もある。平成の日本が「渋沢」を超えられるか、あるいは「渋沢」を捨てられるか――—これは目下の大問題、行政改革の成否を決める重要なポイントであろう。【日本を創った12人】堺屋太一著/PHP新書006
January 21, 2016
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コンプレックスの共有による集団構造という現象もある。たとえば、劣等感コンプレックスの強いものばかりが集まったとき、それを暗黙の共有物とし、次に多数の力をたのんで虚勢をはり、劣等感に対する反動形式によって自らを守ろうとする。いわゆる不良少年などである。この場合も、集団の結束力は非常に強い。つまり、この集団外へ出ると、それは個人として自分自身のコンプレックスと対決しなければならないからである。それは余りにも恐ろしいことだ。このような集団内に安住しているかぎり、そこは形容し難い暖かさをもった場所となる。われわれが、いわゆる不良少年の集団に属している少年を治療しようとするとき、この点が非常に大きい困難点となる。彼らも心の中では、このような集団とは別れ真面目に生きようと思っている。そして、われわれの助けをかりてそれを実現しようと努力するとき、その集団の「暖かさ」から離れていく淋しさに耐えられないものが多いのである。真面目に生きようとすると、確かに賞賛してくれたり、援助してくれたりする人は現れる。しかし、そこには彼らがもとめている、あの暖かさがない。このようなとき、彼ら自身が真面目になりたいと望みつつ、前のグループに戻ってゆくのである。コンプレックスの共有現象は不良少年のみのものではない。われわれの夫婦関係、友人関係、いろいろなグループ内の人間関係に存在している。コンプレックスの共有がその集団の成員を結ぶ最大の絆であり、コンプレックスの強度が強い程、そのような連帯感は、成員の個性を殺すものとして作用し始める。これは強いコンプレックスが、個人の自我の存在をおびやかすのと同様である。ここで、集団内の成員がこのことを意識し始め、自らそのコンプレックスと対決して、それを統合していったとき、その人は、その人は、その集団から外へ出られなくなるだろう。そのとき集団の他の成員達は、攻撃したり非難したり、あるいは、かつての「暖かい」関係を思いおこさせようとするだろう。しかし、集団に安住せず、自らコンプレックスと対決して、自らの個性を生かそうとするときは、その暖い人間関係を切らねばならないことであろう。自己実現の道は孤独な道である。【コンプレックス】河合隼雄著/岩波新書
January 20, 2016
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中国の春秋時代。斉の国の宰相・晏(あん)嬰(えい)(晏子)は、博学多識にして、民の心を汲んだ政治を貫き、名声を馳せた。彼の本領はどこにあったのか。自らこう語っている。「嬰は人に異なることあるにあらざるなり、常になして置かず、常に行きて休まざる者なり」(山田琢解説『あん子春秋』明徳出版社)。自分は人と変わったところはない。あるとすれば、何事も中途半端にせず、進み続けて休まなかっただけだと。【名字の言】聖教新聞2015.12.29
January 19, 2016
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差異を越えて心を結ぶ対話―—博士も言われるように、自らの信念に生きる強き精神は、暴力とは無縁のものです。むしろ、それは真の寛容を生み出す力となるものなのです。日蓮が、権力の悪と戦う強き正義の心と、民衆への深き慈悲の心を兼ね備えていたことは、その何よりの証左といえます。創価学会の三代会長もまた、この正義と慈悲の精神を堅持して、平和と共生の大道を開いてきました。博士 軍部権力と戦い、牢獄に入った牧口初代会長、戸田2代会長は、まぎれもなく真に強き精神の人でありました。その勇気ある行動は即、平和と非暴力の証となるものです。同時に、その正義の精神を受け継いで立った池田SGI会長の、自由と寛容の対話の精神に、私は深く注目したいと思います。会長は、全ての生命に備わる美徳を深く覚知した人です。それを独覚として内に潜めるのではなく、人々に、自身の持つ生命の価値を気付かせ、美徳を発揮できるよう導く努力を重ねてきた知者なのです。その貢献の美しい結晶の一つが、人種と文化の差異を超え、理解と共感を結ぶ世界の識者との対話であると、私は評価しています。その相互の啓発と共感は、当然のこととして身近な人々にも向けられています。特に会長は、女性の役割を平等に正しく評価し、信頼と尊敬の心をもって接してきました。そのように全ての女性を大切にしてきたことが、現在の創価学会の繁栄の要因となっていると私は見るのです。こうした会長の姿は、洞窟に住み、人とも会わず、独り壁に向かって覚りを開こうとしてきた、男性優位の古来の聖者のイメージとは、全く異なるものです。実際、会長と交流し、対話したアメリカの識者たちは、その太陽のように寛容な人格に心打たれています。会長と識者の対談を読めば、それは一目瞭然のことです。こうした文脈に照らせば、創価学会の日蓮正宗との決別は、会長の主導する開かれた仏教ヒューマニズムの(閉鎖的な宗門に対する)勝利の証しであったといえましょう。クリストファー・クィーン ハーバード大学エクステンション・スクールの学生部長を20年にわたり務めるかたわら、同大学で仏教の講座を担当。サリー・キング博士との共編で『社会に貢献する仏教』を出版するなど、宗教の現代的な役割について著名な研究がある。【グローバル・インタビュー「世界の識者の眼」】聖教新聞2015.12.30(おわり)
January 18, 2016
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社会に根差して平和に貢献する―—創価学会の三代会長もまた、軍部権力による迫害や、戦後の社会のいわれなき批判を、徹底した言論の力で乗り越え、未来を切り開いてきました。博士 暴力に訴えることも、暴力にくみすることもなかった三代会長の思想と行動は、強靭な精神に裏打ちされたものであったに違いありません。言い換えれば、単なる強がりではない、真に強靭な精神を持つ人の心には、暴力のかけらも入り込む余地はないのです。この一点は、いくら強調しても、しすぎることはありません。また、創価学会は自他共の幸福への道は唱題にあり、社会の中で仏法を実践し平和に貢献するところにこそある、と主張してきました。宗教に限らず、物事のあるべき姿をもって訴えれば、得てして社会の反発を招き、敵をつくりがちです。ましてや“宗教は何でもよい”などとは教えていません。釈尊は“私たちは何を信ずべきか。いかなる権威に頼ればよいか”との問いに対して、権威に限らず、自分自身を信ぜよ、と答えたと伝えられています。自由と自主を重んじるアメリカ人の多くは、“自分自身を信ぜよ”とのメッセージを、自分が宗教を選ぶのだから宗教は何でもよい、と解釈しがちです。しかし、釈尊の本意は“自分自身の力で、あるべき真理を究める”ことにあり、そこからは“どんな真理や宗教でもよい”などという回答は導き出されないのです。(つづく)【グローバル・インタビュー「世界の識者の眼」】聖教新聞2015.12.30
January 17, 2016
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偏った教条主義で宗教の精神をゆがめ、利用する過激思想が今、世界を不安に陥れている。こうした状況にあっては、宗教本来の価値が見失われ、“宗教は怖い存在”との短絡的なイメージが社会に広がりかねない。では、宗教の真の役割は何か。宗教の健全性を見分ける要件はどこにあるのか―—。社会に貢献する宗教の研究で著名な、ハーバード大学のクリストファー・クィーン博士に聞いた。(聞き手=本紙客員編集委員・横田政夫)変革への行動を促した日蓮の姿―—今、世界を恐怖に陥れているテロの元凶は宗教にある、との見解もあります。それについて博士は、どうお考えでしょうか。クィーン博士 まず注目すべきは、イギリスを代表する作家で比較宗教の研究に詳しいアームストロング博士が、争いの原因は宗教それ自体にはない、と明言していることです。領土や資源の争奪など、物質的な欲望に起因するもので、それを正当化する手段として宗教が利用されている、というのです。宗教の本来の役割は、人々に思いやりの心を育み、共同体の意識を高めていくことにあります。創価学会の人間革命の運動が示すように、人間と人間が互いの尊厳に目覚め、理解と共感の輪を広げるための源となるものなのです。その一点を、私たちは見失ってはならないでしょう。―—日蓮は、堕落した当時の既成宗教と戦いました。そうした宗教を庇護し、あるいは利用してきた為政者に対しても覚醒を促しました。その正義の叫びは、民衆を惑わす危険思想と曲解され、厳しい迫害を受けました。改革のための宗教を、“反体制”の危険な宗教として片付けようとする為政者の意図、さらには民衆の通念がその背景にあるといえます。博士は、日蓮の思想と行動をどのように評価されますか。博士 日蓮は、厭世に沈む末世の明確なビジョンを指し示すことのできた偉大な思想家でした。その思想は、いたずらに未来を空想したものではなく、社会、政治、さらには自然界の実情を厳しく視野に収めた上で、災難や災害を乗り越えるための力を、人々に与えようとするものでした。困難の克服のため、人々に単に信仰を勧めるだけではなく、変革への構想を促していったのです。その覚醒の叫びを、時の権力者にまで向けた稀有の存在であったといえるでしょう。しかも日蓮は、流罪や死罪にもおよぶ度重なる迫害に一歩もひるむことなく、不屈の勇気と忍耐をもってそれを実践したのです。ここで明確にしておくべきは、“反体制”という言葉の持つ意味です。それが単に、現実の体制への反動の怒りに根ざしたものであれば、テロなどによる体制破壊につながる危険があります。しかし、それが人と社会のあり方を根源から問うところに発し、精神のフレームワーク(枠組み)を深く問い直すものであれば、一見、反体制に始まる運動も、やがて社会を建設的な変革に導くものとなるのです。【グローバル・インタビュー「世界の識者の眼」】聖教新聞2015.12.30(つづく)
January 16, 2016
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植木 法華経は、いろいろな教団でバラバラに説かれていたブッダを、釈尊に一本化するねらいがあります。「原始仏教に還れ」という主張とも言えます。それは久遠実成を明かすことによってなされました。その久遠実成が説かれるためのきっかけをつくる質問役に抜擢されたのが、弥勒菩薩でした。【ほんとうの法華経】植木雅俊・橋爪大三郎著/ちくま新書
January 15, 2016
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林田 憲三水中考古学は水中にある遺跡が対象です。陸地に存在していた遺跡が何らかの原因で水没したものや、沈没した舟を発掘・調査します。日本で最初に具体的に発掘作業が行われたのは、北海道江差港で発見された開陽丸。1974年に実際に潜って、発掘が行われました。89年までの15年間にわたって海底での発掘調査が行われ、約3万3000点の遺物が引き上げられています。ただ、開陽丸は防波堤建設によって船体が半分に切断されており、防波堤の外側の調査は終わりましたが、内側は、視界不良などで難航しています。完全な発掘はされていません。長崎県伊万里湾に浮かぶ鷹島は、元寇の激戦地として知られています。2度目となった弘安の役(1281年)では、元の軍船(中国本土から3500艘、朝鮮半島から900艘)が伊万里湾を埋め尽くし、海の藻屑と消えたとされています。鷹島では、80年から、この元寇船を発掘しようという調査が始まり、2011年には1sou目が見つかりました。さらに14年には2sou目が。これらの船は発見された状態で海底に保存されており、引き揚げなどによる全容解明にはまだ時間がかかりそうです。元寇については、元史や「蒙古襲来絵詞」などに描かれていますが、実際にはどうだったのかは伝承が多く、はっきりしたことは分かっていません。科学的な裏付けとなる元寇船が見つかったことは大きな発見です。しかし、具体的研究を進めていかなければ、発見された大船も劣化してしまいます。海外では、発掘した船を引き揚げて、図面を作り、複製を造って、実際に航海させるケースもあります。実際に航海させることで、どのように使われていたのが分かり、どの地域と、どのように交流が行われていたのか、などがはっきりするからです。日本は海で囲まれている海洋国でありながら、水の中のことは無関心な人が多いようです。それどころか、埋め立てや干拓が進み、海をいじめているように思えます。水中で遺跡を見ていると、海を大切にする視点の重要性を感じます。海から陸地を見る、視点の変換が大事だと感じます。(アジア水中考古学研究所理事長)はやしだ・けんぞう1946年、富山県生まれ。東京海洋大学非常勤講師として水中考古学の講座を受け持つ。【文化】聖教新聞2015.11.13
January 14, 2016
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私たちは働くことによって、暮らしに必要なもの(必需品)や便利なもの(便益品)を次々につくり出しています。これこそが富であろうとアダム・スミスは考えた。それでは、具体的にどうすればこの富を増やすことができるのでしょうか。アダム・スミスが注目したのが「分業」です。『国富論』には、ピンをつくる例が出ています。ピンをつくるには、鉄をグイっと伸ばして針金にして、その針金を小さく切って穴を開けるという作業が必要です。最初から最後まで一人でつくっていたら、一日がかりでも大した数はつくれません。でも、針金を伸ばす人、それを切る人、穴をあけるという風に、みんなで役割分担をすると、大量につくることができるでしょう。パンだってそうですね。自分で小麦を栽培して、小麦粉をつくるところからパンを焼いて売るところまでを一人でやっていたら、体がいくつあっても足りません。小麦を栽培する人、小麦を挽(ひ)いて小麦粉をつくる人、小麦粉をこねてパンをつくるという形で、社会で仕事を分業するから、私たちはパン屋さんでいろいろなパンを買うことができるわけです。では、こういう分業はどのようにして行われているのでしょう。分業をしているここの人々は、みんなで集まって「パンを分担してつくりましょう」と相談しているのでしょうか。さらに、それぞれの仕事をしている人たちは、おいしいパンをつくるためならいくらお金がかかってもかまわないと思っているのでしょうか。そんなことはありませんね。小麦をつくる農家は、売れるから小麦を育てている。小麦粉を安く買って小麦粉を高く売れば利益が出るから、会社は小麦粉を生産する。その小麦粉をこねてパンを焼けば高く売れるから、パン屋さんが存在するわけです。もちろんパン屋さんは、おいしいパンをみんなに提供したいと思っています。小麦の農家も、いい小麦を栽培したいはずです。でも、だからといって原価を割って売っているかといったらそんなことはない。ちゃんと利益が出るだけの値段をつけるわけです。それぞれ、いい者、おいしい者を提供したいという思いはあるにせよ、根本のところでは利益を生み出すために仕事をしていることは否定できません。つまり仕事をする人たちは、みな自分の利益のために働いているわけです。「自分が儲けるため」というのは利己心です。みんな利己心から仕事をして、それが結果的に分業という形になって経済を回しているというのがアダム・スミスの考え方です。【おとなの教養‐私たちはどこから来て、どこへ行くのか?】池上 彰著/NHK出版新書
January 13, 2016
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植木 そもそも、弥勒信仰というのは小乗仏教で始まります。大乗でも、この信仰を採り入れたところもある。ガンダーラでは弥勒信仰が盛んだった。弥勒菩薩はサンスクリット語でマイトレーヤ(maitreya)といいますが、これはイランのミトラ(mitra)神と語源が同じです。つまり仏教が、外来の神格を採り入れたわけです。「お釈迦さまがこの世にいなくて寂しい。何か代わり信じられるものがほしい」と思っていたところに、未来仏としての弥勒信仰が入ってきたので、みんなが飛びついた。しかしこれに、批判的な人びともいたようです。ガンダーラでつくられた仏典には、弥勒菩薩が将来現れるまでに生き長らえようと、なかなか涅槃に入らない高僧が、弟子たちにたしなめられるという話があるとすでに紹介しました。そして、『法華経』や『維摩経』をつくった人びともおそらくそう思っていたのではないか。『維摩経』は『法華経』以上に、弥勒菩薩に対する痛烈な皮肉が書いてあります(植木訳『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』一四一~一四七頁)。そういう背景もあって、弥勒菩薩を道化役にしたんでしょうね。橋爪 日本では弥勒菩薩が広く親しまれています。大乗の中に、弥勒菩薩を持ち上げている経典はありますか。植木 かなりあるようです。弥勒という名前の付いた教典だけで、少なくとも三七あります(松本文三郎著『弥勒浄土論・極楽浄土論』三二頁)。橋爪 なるほど。植木 法華経は、いろいろな教団でバラバラに説かれていたブッダを、釈尊に一本化するねらいがあります。「原始仏教に還れ」という主張とも言えます。それは久遠実成を明かすことによってなされました。その久遠実成が説かれるためのきっかけをつくる質問役に抜擢されたのが、弥勒菩薩でした。【ほんとうの法華経】植木雅俊・橋爪大三郎著/ちくま新書
January 12, 2016
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瞬間瞬間を悔いなく真剣勝負で生き抜く医学部を卒業した私は、外科医となり、約20年にわたって2000人を超える胃がんの患者さんの手術に立ち会ってきた。15年前に縁あって開業してからは、多くの患者さんに胃がんの原因であるピロリ菌の除菌療法を積極的に進めるなど、胃がんで亡くなる方を減らすべく努力をしてきた。わずかではあるが、叔父の仇を討つことができたのではないかと思っている。これからも、医療に携わる者として、一人でも多くの人が、胃がんをはじめ多くの病魔を克服し、健康長寿で今世の使命を全うしていただきたいと念願している。また、「生きる意味」を教えてくれたこの仏法に巡り合えた法恩感謝を胸に、学会活動にも全力で取り組んでいく決意である。池田先生は『生死一大事血脈抄講義』で、「瞬間、瞬間、『今、臨終になっても悔いがない』と言い切れる覚悟で、『現在』を真剣に生きる。それが『臨終只今にあり』という信心です」「日々月々年々に、この『臨終只今』の信心を積み重ねていくことで、生命を鍛え、磨き抜き、境涯を高めていける。そして、今世の生き方に確信と納得を持ち、臨終に際しても、悔いなく、妙法を唱えきって、安詳と霊山へ旅立っていける」と教えてくださっている。「一生はゆめの上・明日をごせず・いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず」(同970頁)との御聖訓を胸に、私自身が真剣勝負の日々を重ねるとともに、仏法に説かれる生死観に基づいた生き方の中にこそ、何ものにも揺るがぬ幸福があることを一人でも多くの友に語っていただきたい。(おわり)【教学随想「日蓮仏法の視座」】聖教新聞2015.12.15
January 11, 2016
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「難来たるを以て安楽」との御聖訓のままに「人生には、三つの坂があるといわれます。『上り坂』『下り坂』そして『まさか!』です」「平穏な人生を願うのは人の常ですが、信心したからといって『まさか』と無縁になることはありません。そうではなく、どんな『まさか』に出あっても、すれをプラスに変えていけるのが私たちの信心なのです」秋田総合ドクター部長として講師を担当する「仏法セミナー」で、私はよくこうした話を導入にして、病魔と闘う中で境涯を大きく広げた都のも体験を紹介している。男子部時代から広布一筋に生き抜いてきたある壮年部のメンバーは、40代の時に、突然、腸閉塞で入院。検査の結果、大腸がんが見つかり緊急手術を受けた。一時的に人工肛門も増設。計3回の手術を経て、社会復帰した。しかし、約1年後に肝臓へ移転が判明。肝臓の3分の2を切除し、化学療法が始まった。抗がん剤の副作用や再発恐怖と闘う日々が続いたが、“試されているのは自分自身。絶対に病に負けるわけにはいかない”と真剣に祈り、学会活動にも、できる範囲で参加した。肝臓の手術6年以上が経過した今、病気は完治し、本部長として広布の第一線を駆けている。病と闘う同志に対する、彼の“死と隣り合わせの体験を踏まえた激励”は、聞く者の心を揺さぶらずにはおかない。大聖人は「妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意(こころ)得(う)可(べ)きなり」(御書750頁)、「詮ずるところは天もすて給え所難にもあえ身命を期とせん」(同232頁)と教えてくださっている。人生で遭遇する困難を嘆いてはならない。むしろ、喜び勇んで真正面から困難に立ち向かっていくことが肝要である。困難に挑戦する中で、境涯を大きく開いた時、困難は、むしろ感謝すべきものとなる。生死の境をさまようような重い病や、親しき人との永遠の別れ……。「死」はある意味、人生の困難の中で最も大きいものかもしれない。だが、その「死」さえも真正面から見つめ、真剣な祈りと広布の実践を重ねていった時に、必ずや自身の「生きる意味」を深からしめるものになる――。多くの同志の姿に、そう実感する。(つづく)【教学随想「日蓮仏法の視座」】聖教新聞2015.12.15
January 10, 2016
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生命の生死の二法は宇宙の永遠のリズム大学2年の時に、「必ず幸せになれるから」と語る先輩の熱意に打たれ入会。御本尊に唱題する中で、私は、「初めて自分の心が本来仏であると知ることを、すなわち大歓喜と名づける。いわゆる南無妙法蓮華経は、歓喜の中の大歓喜である」(同788頁、通解)の御文を心の底から実感した。温かな同志に励まされながら学会活動に参加し、御書や池田先生の指導を貧るように読んだ。その中で「断見」や「常見」が、生死を対立するものとして捉える考え方であり、生死をありのままにみた智慧とはいえないことを知った。仏法の眼から見れば「生」も「死」も生命の実相の違いでしかない。私たちの生命自体が、大宇宙という大海から生まれた「波」のようなものであり、いわば波が起こった状態が「生」であり、大海と一つになった状態が「死」であるといえる。池田先生は、『生死一大事血脈抄講義』の中で、「佐渡御書」において断見・常見を超える仏の智慧が、仏法のために身を惜しまない「生き方」「行動」として示されていることを挙げられた上で、次のように述べられている。「生と死が宇宙そのものの永遠にして大いなるリズムであり、そのリズムを生きる大いなる自分自身を発見し、それを我が生命を支える根源的躍動として実感しえたときに、死苦を乗り越えることができるのです。その生命解放の道こそが、自行化他にわたる南無妙法蓮華経です」御書には「いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」(1504頁)と仰せである。万物が「生死の二法」の永遠のリズムを織りなしているのであり、「即身成仏の仏果」は、死をも超えて続くのである。(つづく)【教学随想「日蓮仏法の視座」】聖教新聞2015.12.15
January 9, 2016
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武田 正人 総秋田教学部長私が高校生に時、叔父が30代の若さで胃がんのため亡くなった。判明した時はすでに手遅れで、手術もできなかった。「緩和ケア」という言葉もない時代であり、苦しみながら逝った叔父の姿に、頭をハンマーで殴られたようなショックを受けた。幼いころから遊んでくれ、ずっとやさしい声をかけてくれた叔父に、もう二度と会うことはできない。一体、叔父はどこへ行ったのであろうか。そもそも、人間にとって「死」とは、そして「生きる意味」とは、何なのだろうか。後に日蓮仏法に巡り合い、実践する中でその答えを知った。万人が逃れられない「死」とは何なのか?「“生まれた者は必ず死ぬ”という道理を、王から民まで、誰一人知らないものはない」(御書474頁、通解)現代でもそのまま当てはまる真理であろう。私は、叔父を死に追いやった胃がんに対して闘いを挑もうと大学の医学部に進学した。だが、いろんな書物を繙いても、“万人が逃れることのできない「死」とは何なのか”という難問の答えは見つからず、苦闘の日々が続いていた。もし、“死んでしまえば全て無に帰する”のであれば、あらゆる努力に意味を見だすことが困難になり、「今さえよければいい」という刹那的な生き方や「どうなってもいい」というような自暴自棄の生き方に堕しかねない。一方、“死んだ後も、自分の霊魂は不滅”であると答える人もいる。だが、そうした考えは、「いつまでも今のままでいたい」という欲望の表れに過ぎず、かえって自分の執着を増し、人生の迷いを深めることになりやすい。仏法では、前者の生命観を「断見」、後者のそれを「常見」といい、いずれも否定している。断固とした生死観なくして、現実の死の恐怖や不安を乗り越えることは難しい。(つづく)【教学随想「日蓮仏法の視座」】聖教新聞2015.12.15
January 8, 2016
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植木 変成(へんじょう)男子(なんし)について、少し補足します。『大智度論』に、なぜ変成男子が言われるようになったのかという背景が語られています。それを現代語訳して引用しましょう。「経典には、『女性に五つの礙(さわ)り(五障)があり、帝釈天と梵天王と魔王と天(てん)輪(りん)聖(じょう)王(おう)と仏の五つになることはできない』と言われている。この五つの礙りによって仏になることはできないと聞いて、女性たちは心を退かせてしまい、覚りを求める心を発(おこ)すことがない。説法する人がいても、女性に対して仏道を説こうともしない。そこで、仏は次のように説かれた。『良家の息子と、良家の娘よ、女性も仏になることができるのだ。ただ、女の身のままではなく、女の身を転じて男の身となることによってである』と」やはり、五障という女性差別が論じられる中で、変成男子が説かれたことが分かります。法華経は、これを逆手に取り、龍女が男になって成仏するさまを見せつけて、シャリープトラと智積菩薩をやりこめてしまうストーリーに仕立てた。橋爪 変成男子は、輪廻で女性/男性が入れ替わるのと違って、この世で生きている最中に身体が変化してしまうんですね。植木 そうです。≪長老シャリープトラの目の前で、その女性の性器が消えてなくなり、男性の性器が現われ≫(下巻、三二頁)たと書いてあり、鳩摩羅什は、「変じて男子と成り」(変成(へんじょう)男子(なんし))と漢訳しました。(『梵漢和対照・現代語訳 法華経』下巻、九八頁)。橋爪 でもブッダの三十二相には、馬陰蔵相(めおんぞうそう)というのがあって。これは、馬や象のように陰部が隠されている状態です。ブッダになると男性器が内側にめり込み、なくなってしまう。変成男子はその逆で、おかしいのでは。植木 その場合、なくなるのではなく、見えなくなるだけです。馬陰蔵相を考えた人びとは、男性器自体が煩脳のもとだと考えていたんでしょう。橋爪 めり込まないと煩脳がなくならない?植木 その論理は逆です。四十二章経に面白いエピソードが紹介されています。「仏言(のたまわ)く、人有り、淫の止まざるを患いて、自ら陰を除かんと欲す。仏之に謂うて曰く、もし其の陰を断たんよりは、心を断つに如かず」(岩波文庫『仏説四十二章経・仏遺教経』四九頁)と。どうしても淫欲が止まないので、自分の陰部を切除しようとした出家者がいたんでしょう。その人にお釈迦さまは「それよりも、淫欲を起こす心を断つのが第一だ」と言った。淫欲を起こす心が止まない限り、陰部を切除しても無駄だと言うのです。橋爪 でも、三十二相は仏典に書いてあるのでしょう。植木 三十二相は、「インド人一般が要望した理想的偉人の具すべき特徴」(中村元著『原始仏教から大乗仏教へ』五〇頁)で、仏教がそれを取り込んだんですね。橋爪 取り込んだから、仏教のものになった?植木 取り込んだのは、お釈迦さまではなく、後世の人で、神格化の一環でした。金剛般若経では、「三十二相を以て如来を見ることを得べからず。何を以ての故に。如来は、三十二相は、すなわち、これ、相に非ずと説かれたればなり」(中村元・紀野一義訳『般若心経・金剛般若経』七四頁)と批判しています。しかも、三十二相のいくつかは、男性しかあり得ないもので、女性を排除する理論に利用された。橋爪 釈尊が初期に唱えていたことが仏教の本質で、あとはみんなバラモン教(ヒンドゥ教)がまぎれ込んだと思うんです。後世つけ加えられたことのほとんどは、釈尊の教えとは関係ない。四衆とか、輪廻とか、三十二相とか……。植木 われわれの知る仏教は、神格されたもの、迷信じみたもの、権威主義的なものがほとんどです。その具体例は、挙げればきりがないほどです。(植木雅俊著『仏教、本当の教え』参照)。だからこそ、中村一先生は、仏教の本来の姿を明らかにすべきだとして、“人間ブッダ”の実像を探求されたわけです。【ほんとうの法華経】植木雅俊・橋爪大三郎著/ちくま新書
January 7, 2016
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妙法は、この幸福を築き上げるために、人間一人一人の生き抜く力を開き顕します。誰もが自身の内に仏という無限の力を顕現させるのが、妙法です。妙法の信心は、困難に立ち向かう勇気や、智慧や忍耐力をもたらす本源の力です。ゆえに、信心を根本とした私たちの行動は、すべて妙法の光明に照らされ、希望と幸福の方向へと価値創造していけるのです。 ◇大事なことは、断固として、わが胸中に、妙法の太陽を昇らせることです。人や環境ではない。自分が変わることです。自分の胸中に太陽を昇らせれば、雨や嵐の日があっても、やがて、雲間から豁然とまばゆい陽光が差し込んでくるように、わが人生を無限と希望の勇気の光で照らすことができます。そして、人々に、地域に、社会に、世界に、未来に、偉大な人間革命の光を贈っていけるのです。【池田名誉会長講義「世界を照らす太陽の仏法」】大白蓮華2015年12月号
January 6, 2016
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だれかにAさんの悪口をいえば、それは暗に「自分は、Aさんみたいなダメ社員じゃありません。仕事ができるんです。有能なんです。ガンコなAさんと違って、話もわかる」という下心、ある種の自己顕示欲の強さも伝わり、それは逆に自分の貧弱さを表明していることにもなろう。自己顕示欲が旺盛なわりに、じつは自信を持てないでいる人は多い。仕事ができること、有能なこと、話もわかること実証するものがあればいいが、それがない。実績のない人ほど自信過剰な言動をする。けれども内心では、自信が持てなくてびくびくしている。みなさんの職場でエース、やり手といわれるような人を見てほしい。その人は、できの悪い人たちの悪口を、人前でペラペラとしゃべったりするか。むしろ「Aさんはあれで、なかなか見どころがあるんです。たとえば」と、Aさんのいいところを見つけて、それを認める態度を示す。人の悪口をいいたがるのは、こういってはナンだが、とかくデキの悪い人たちのほうだ。出る杭を打ちたい、人の足を引っ張りたい、という人だ。まずは、その自己顕示欲、プライドを捨てる。次に、もっと謙虚な気持ちになって、やるべきことに精一杯打ち込む。自分に自身を持っている人は、人の悪口などいわない。人の悪口をいえばいうほど、自分の「心の貧困」を見られている。[話し方のツボ] 人の悪口をいう人は敬遠され、いわない人が「さすが」と思われる。(1) 悪口をいうのは、自分をよく見せたいだけ。そんな下心が見透かされている。(2) 自己顕示欲を、人の悪口で満たすな。実力で勝負せよ。実力者は、人の悪口をいわない。(3) 世の中は、けなし負け、ほめ勝ち、だ。人をほめる人が、最後に勝ち残る。(4) 謙虚な気持ちが、話し方を明るくする。【人の心をギュッとつかむ「話し方」81のルール】斎藤茂太著/WIDE SHINSHO
January 5, 2016
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仲がいいというわけでもないのに「ねえねえ聞いて、聞いて」と、なれなれしく話しかけて来る人。「それって、すごい。私、うれしい。感動するの。とってもいいんだから」と、大げさな感情を表現する人。「私とあなた、絶対気が合うと思うの。だって嘘みたいじゃないの。趣味も同じ、血液型も同じ血液型も同じ、絵とも同じ、何もかも同じ」と共通点を強調したがる人、お涙ちょうだいの話を、よくする人、不自然なくらい気を使う人。こういう人は第一印象は悪くない。「この人とは、うまくきそうだな」と思わせるものがある。しかし、あとになって、それが錯覚だったと気づくことも多い。ある女性が、一人の男性に出会った。やさしいことをいってくれるし、ルックスも悪くはないので、つき合い始めたが、結局は裏切られて痛い目にあった。後になって思い起こせば、初対面の時から妙になれなれしく、ささいなことに感動して大喜びしたり、「キミとは前世でも出あっていたような感じ」といったり、どこかうさん臭さを漂わせていたという。情緒過剰な話し方をする人には、自己中心的な人が多い。「つらかったんだろう。あなたの気持ちは痛いほど、オレにはわかるよ」と同情し、隠すことなく涙を流すが、涙を流している自分に陶酔しているだけ、そんな人もいる。最初は、少しよそよそしい感じがするくらいの人のほうが信用できるように思う。[話し方のツボ] なれなれし過ぎる話し方はかえって警戒心を招く。(1) なれなれし過ぎる話し方よりは、少しよそよそしい話し方を。そのほうが信用される。(2) 「聞いて」は、一度だけでいい。「聞いて聞いて」はダメ。(3) 「私、うれしい」も一度だけでいい。いい過ぎる人は、情緒不安定な証し。(4) 共通点を強調するのもいいが、強調し過ぎては、警戒心を起こさせる。【人の心をギュッとつかむ「話し方」81のルール】斎藤茂太著/WIDE SHINSHO
January 4, 2016
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関西学院大学法学部教授 深尾 裕造立憲主義の源今年は、イギリス立憲主義の源とされるマグナ・カルタがテムズ河畔のラ二ミードで発給されて800年記念の年となります。諸侯の反乱によって発給されたジョン王のマグナ・カルタは数カ月後に無効とされますが、同輩裁判や國法によらない逮捕、拘禁、所領侵奪等を禁じた39条は、1225年マグナ・カルタ29章に受け継がれ、1297年には制定法録に収められるようになります。法の適正手続きマグナ・カルタは特権証書として発給されながらも、当初より共通の自由特権の賦与と理解され、29章の保護も、エドワード三世治世期の諸立法によって、自由人のみならず、身分に拘わらず全ての人に拡大され、また、「国法によらず」という曖昧な表現も「法の適正手続きによらず」という明確な法的表現へと移し換えられていきます。この中世におけるマグナ・カルタの発展を近代に伝えたのがスチュアート絶対王政と対峙し、権利請願を通して、また、マグナ・カルタ註解を通して本条項の意義を明確にしたコモン・ロー法律家のサー・エドワード・クックでした。尾崎三良が翻訳解説ジョン王のマグナ・カルタは18世紀後半のブラックストンによる研究で息を吹き返し、合衆国憲法修正第5条の法の適正手続き条項に引き継がれることになります。アメリカ連邦議会が第二次世界大戦時の日系人強制収容に対し謝罪し、賠償金を支払ったのも、この憲法で保障された権利を侵害したからです。日本で初めてマグナ・カルタを翻訳解説したのは明治初期に英国に留学した尾崎三(さぶ)良(ろう)で、彼は木戸孝(たか)允(よし)によって留学先から日本に呼び戻され法制局で活躍します。尾崎は明治八年の立憲体制樹立も詔書で設けられた地方官会議でも、議長に就任した木戸の会議運営を助けます。しかし、木戸没後、伊藤博文には、欽定憲法方式に異論を唱えたためか次第に疎まれていきます。明治憲法発布2年後の大津事件では、罪刑法定主義を覆す憲法無視の緊急勅令発布阻止のために、法制局長井上毅とともに内閣を説得、立憲主義の本旨を守り抜きます。しかし、井上の後任として法制局長となった尾崎は、伊藤に左遷を示唆され辞任、伊藤の娘婿、末松謙澄が任命されます。法制局長人事に内閣総理大臣は口を挟まないという不文憲法は戦前には意識されていなかったのでしょう。尾崎は伊藤の立憲政友会設立にも批判的でした。国民の政治常識が成長しない中での政党政治は政党員の私利の追及を許すというものです。その意味では、今年、戦後70年を迎え、立憲主義の精神が法文化としてどこまで定着してきたのかを問い直してみる良い機会でもあります。(ふかおゆうぞう)【文化】公明新聞2015.12.18
January 3, 2016
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「何となく、/今年はよい事あるごとし。/元旦の朝、晴れて風無し」。新春のおだやかな空に、石川啄木のこの歌はよく似合う。借金と病気に苦しんだ啄木だが、それだけに新しい年への思いも強かったのだろう。ほかにも「悲しき玩具」に正月の歌はいくつかある。たとえば「年明けてゆるめる心!/うつとりと/来し方をすべて忘れしがごとし」。元旦を迎えれば気分一新、いやなことも消し飛んでいくというものだ。なれば朝酒など口にして眠くなり「腹の底より欠伸(あくび)もよほし/ながながと欠伸してみぬ、/今年の元日」。心はいよいよゆったりと、そしてしばし夢を見たかもしれない。啄木が新年にこうも希望を寄せたのは、明治末という時代ゆえでもあろう。駆け足で近代化を達成した日本はロシアとの戦争にも勝って列強の仲間入りをする。けれども次の時代が見えない。政府は大逆事件で社会運動を封じて体制維持に躍起となる。自我に目覚めた青年に出口がない……。啄木の言う「時代閉塞」である。そんな状況を現代になぞらえる声は昔からあったし、いささか安易だ。とはいえ世の閉塞感は昨今もなかなか強いから、正月ぐらいは啄木にならって「今年はよい事あるごとし」と希望を持つとしよう。この明治の異才は時代閉塞を唱えつつこんな詩も残している。「見よ、今日も、かの蒼空(あおぞら)に/飛行機の高く飛べるを。」【春秋】日本経済新聞2016.1.1
January 2, 2016
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植木 実は、私はこの安楽行品のチャンダーラなどについての記述は、ずっと違和感を感じておりました。ほとんどの法華経の解説書では、この個所についての言及は避けられています。そういう思いを持っているところに橋爪先生から追及されると、私はつらくなります(笑)。これは法華経の思想というよりも、一つの律をまとめたものであったのを挿入したのではないかと思っております。橋爪 植木先生にも、正しくないという直感があるわけですね。私もおかしいと思うし、そもそも本来の釈尊の教えに反しています。植木 この安楽行品については、中国の天台智ぎ(ちぎ)も、嘉(か)祥(じょう)大師(だいし)吉蔵(きちぞう)も、日本の日蓮も違和感があったのでしょう。天台は、「初心浅行の菩薩のために説かれたもの」だと解釈した。吉蔵もしかりです。日蓮は、誹謗され迫害を受けても正しい心理を探求し論理立てて訴える折伏(しゃくぶく)ではなく、あえて非を責め立てることなく一応容認しつつ導く摂受(しょうじゅ)の在り方が説かれていると解釈した。それは、前後の流れで違和感を否定できなかったからだと感じていたからだと思います。また、この安楽行品の実践規範の書き方は、他の章と著しく異なっています。他の章はドラマとしての、ファンタスティックな表現に満ちていた。しかし安楽行品には全くそのような表現はなく、現実的な道徳論に終始している。しかも、つながりもおかしい。直前の勧持品は、≪私たちの身体も、生命も実に惜しむことはありません。ただ、覚りを求めている≫(下巻、四二頁)と語って、菩薩たちの決意が最高潮に達したところで終ってしまいました。それを受けた安楽行品の冒頭で、≪滅後の弘通のために果敢なる努力をなすことは、最も難しいことです≫(同、四五頁)≪[恐るべき]後の時代(中略)において、この訪問をどのようにして説き明かすべきでありましょうか?≫(同、四五頁)とマンジュシリー菩薩が質問した。それに対する答えが、 “四つの在り方”なんです。不惜身命の「果敢なる努力」が一気に、チマチマした内容にトーンダウンしています。【ほんとうの法華経】植木雅俊・橋爪大三郎著/ちくま新書*「摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや」(御書503頁)*「ほんとうは、ここの部分は、もともとの法華経には、なかった部分なんです。日蓮自身も、安楽行品には泣かされました。退転していく門下や、批判者はみな、安楽行品をもとに、日蓮を批判するわけです。釈尊は「縁起」を説きましたが、これを上座部が発展する過程で「因果論」にすり替わった。あるいは縁起→因果論と理解されるようになった、という認識でいいんでしょうか」(友岡雅弥)
January 1, 2016
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