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戦後日本の国家戦略戦後日本には、本格的な国家戦略がなかったと言われることがある。その大きな理由は、国家戦略のなかでも要となる軍事・安全保障の主舞台から、戦後日本が退いたことに求められるであろう。たしかに戦前の日本は欧米列強に比肩して巨大な帝国海軍を擁し、アジアに植民地帝国を築くなど、王子において、疑うべくもない国際政治の重要なアクターであった。それに対して戦後の日本は、「一国平和主義」、あるいはアメリカの「核の傘」の下で、軍事・安全保障面においてどこまで独立した存在であったのか、疑問が残るのは確かである。だが、そのことは直ちに、戦後日本に国家戦略が欠如していたことを意味するわけではない。戦後日本の国家戦略として筆頭に挙げられるのが、ここで取り上げる吉田路線である(吉田ドクトリンとも呼ばれる)。吉田路線なる言葉が使われ始め、世に定着したのは、実は吉田茂が首相として活動した一九五〇年代ではなく、吉田没(一九六七年)後の一九八〇年頃であり、永井陽之介(東京工業大学)、高坂正尭(京都大学教授)と言った研究者が用い始めたものである。その内容は、「アメリカとの同盟関係を基本とし、それによって日本の安全を保障する」「そのことによって、日本自身の防衛費は低く抑える」「そのようにして得られた余力を経済活動に充て、通商国家としての日本の発展を目指す」というものである。永井や高坂は、こうした「軽武装・経済重視」の路線を、吉田の政治的なリアリズムであったとして、高く評価した。一九八〇年代といえば、日本が世界的な経済大国としての地位を確たるものとし、「日本的経営」などがもてはやされた時間でもあった。その中にあって、戦後日本の選択の正しさを裏付けるものとして、吉田路線という言葉は世に受け入れられ、定着したのであった。 【日本史の論点・第5章「現代」】宮城大蔵著/中公新書
November 27, 2024
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間違いだらけの靖国論議三土 明笑 著 「政教分離」こそ議論の焦点創価大学名誉教授 中野 毅 評「靖国は今、鳴りを潜めた休火山のような状態だ」との書き出しで始まる本書は、靖国文愛とは何かを今再考する上で時宜に適った一書である。著者は専門(経済学)外であったが、『靖国問題の原点』(二〇〇五年)を出版し、それ以来、この問題の評論家の一人として注目されている。実は三土の祖父・三土忠造は戦前の政友会の幹部政治家であり、靖国神社の宗教法人化を決めた一九四六年一月の閣議に内務大臣としてかかわっていた。そのことが著者の靖国神社問題への強い関心を生み、問題の解明は孫としての責任だという。本書は第一部で靖国問題について誤解されている点をQ&A形式で語り、第二部で靖国問題のキーポイントを解説している。またX軸とY軸、三木武夫元凶説、垂れ込み売国奴説、分祀そそのかし型野党などのオリジナル術語を活用して分かり易い論を進めている。靖国問題の原点は、敗戦後に占領軍が進めた「信教の自由」の尊重と「政教分離」の宗教政策にある。神道指令を起草した宗教課長バンスは、靖国神社を存続させるには、神道的な宗教性を外した戦没者慰霊堂のような形式に変えるか、それとも国家や天皇制との関係を断ち、民間の神社となって宗教性を維持するか、二つの道があることを示した。その結果、後者を選んで生き延びることを決断したのは、神社側であることを本書は初めて明らかにしている。伊勢神宮なども同様であった。故に、戦後の靖国問題は、憲法が定める政教分離原則に抵触するか否かが最も重要な焦点となる。しかし今日に至る混迷の原因もそこにあった。神社は形式上は民間の一宗教として、「信教の自由」という錦の御旗の下で生き残ったが、信仰内容は政教一致の国家神道そのものであり、手段と目的が最初から「ねじれ」ていたのである。また近年は歴史認識問題、近隣諸国との関係、A級戦犯合祀・分祀という不要な論点まで加わってしまった。靖国問題の根本は「信教の自由」と「政教分離」であり、そこを正面から議論すべきだと、あらためて強調している。◇みつち・あけみ 1949年生まれ。愛媛大学教授など歴任。三土明笑は通称。戸籍名の三土修平で『靖国問題の原点』など著書多数。 【読書】公明新聞2023.10.30
November 26, 2024
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軍事力で平和は守れるのか南塚 信吾、油井 大三郎、木 幡洋一、山田 朗 著 長期視的点で戦争と平和の関係を見直す中京大学教授 佐道 明広評ロシア、ウクライナ戦争が長期化し、今度は中東情勢が危険度を増大させている。日本周辺でも北朝鮮の核開発やミサイル発射が続き、「台湾有事は日本の有事」という言葉が頻繁に使われている。人々は、今後国際情勢が悪化していくことを懸念しているのではないだろうか。日本も含めて多くの国が軍備増強を行い、次の紛争に備えていく姿勢がみられている。本書の言葉を借りれば、「平和のためには軍事力が必要なのだという考えが広まっている」状況にある。本書は、歴史学の立場から「軍事力では平和は守れない」という教訓を再検証しようという試みである。現在、紛争現場の個々の先頭経過や、真偽不明を含めた短期的情報が多数を占める中、本書のように長期的視点で戦争と平和の関係を見直す試みは挑戦的である色調である。以下、本書の構成を説明すると、「現在のウクライナ戦争から学ぶべきものを検討する」第一部、「フランス革命以後の近現代における戦争と平和の歴史を振り返る」第二部、「日清戦争以来の日本の戦争と軍拡・軍事同盟の歴史を検討し」「日本を取り巻く東アジアにおける平和の可能性を考える」第三部からなっている。各部は複数の筆者が執筆する章から構成されており、複数の章を執筆している著者もいて、個々の問題を扱っていながら全体が関連性を持った構成となっている。多くの歴史的事象にも触れているため、個々の歴史解釈については異論もあるだろうが、各章で行われている問題提起は貴重なものが多い。例えば「ウクライナ戦争はどのようにして起こったのか」という第1章は、欧米中心の情報に接している多くの国民にとっては、情報を相対化するために有効だろう。NATOの東方拡大ということがロシアにどのような影響を及ぼしたのかを知らずに、今回のウクライナ戦争を理解することはできない。また、筆者の一人である木畑洋一氏が指摘する「植民地戦争」の重要性は、今後も繰り返し検討されるべきだと考えられる。さて、歴史学の立場から戦争と平和を論じた本書には、長期的視点から得られることも多かったが、いくつかの疑問も生じた。たとえば、ウクライナ戦争にしても、その原因を振り返る場合、いつまでさかのぼるべきかという点は議論があるだろう。ロシア帝国、ソ連時代の関係から考えると、植民地戦争の色合いが強くなる。NATOの東方拡大にしても、ロシアと関係が深かった東欧諸国がウクライナ支援に熱心な理由も、そこにあるだろう。たしかに、木畑氏が指摘するように、欧米の軍事支援が戦争を長引かせている理由の一つであろうが、それでも植民地化を拒否するウクライナを支援しなくていいということにはならないだろう。歴史からすぐに教訓を得ることは難しい。しかし台湾有事をめぐる日本の言論の問題性への指摘も有益であるし、今後の日本の針路についても考えるヒントが歴史の中にあることを教えてくれる本書を多くの人に薦めたい。◇みなみづか・しんご 千葉大学・法政大学名誉教授。世界史・ハンガリー史。ゆい・だいざぶろう 一橋大学・東京大学名誉教授。米国現代史・現代世界史。やまだ・あきら 明治大学教授。日本近代史。 【読書】公明新聞2023.10.30
November 25, 2024
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生前に唯一刊行された詩集——宮沢賢治『春と修羅』を読む詩人 金井 雄二怒りや欲望など、人間が本来持つ心象風景を表す今や国民的詩人ともいえそうな宮沢賢治。今年は没後90年になる。詩の「雨ニモマケズ」や、童話「風の又三郎」などで知られているが、賢治の最も中心となる文学的作品は、生前に唯一刊行された詩集『春と修羅』ではないだろうか。『春と修羅』は1924(大正13)年、賢治31歳のときに自費出版された。詩集という言葉は使わず心象スケッチと銘打った。明年は出版から100年の節目を迎える。賢治は1896(明治29)年岩手県花巻市の生まれ。仏教思想に感化される。盛岡工党農林学校(現、岩手大学)を卒業、詩や童話を数多く書き、花巻農学校では教諭、その後農民芸術などを講じる羅須地人協会を設立。1933(昭和8)年37歳でその生涯を閉じた。生い立ちや経歴などは、多くの本で確認できるので参考にしてほしい。『春と修羅』で最初に注目されるべきは序である。出だしの三行は次のとおりだ。 わたくしという現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です 「ひとつの青い照明」と自分を限定し、賢治自身が自然の風景や人々を照らし出していくという構造になっている。自分が見て感じた、つまり、心象スケッチした言葉は、きっと読む人の心にもとどくであろう。それは長い時間のなかで、新しい発見へとつながるのだと書いているようだ。これは「序」における試験であるが、読者がそれぞれ賢治の完成に触れながら解釈するのがいい。標題になっている「春と修羅」という詩はまた壮絶だ。自分をひとりの修羅(悪神の意)と見立て、すべての煩悩を背負い込んで、「まことのことば」が見つからないと叫ぶ。法華経への信仰から生み出された文学観ではあるが、宗教という枠組みを意識せず、人間本来の訴えとして、賢治の詩を読んだ方がいいだろう。この他にも「屈折率」「くらかけの雪」「雪の信号」など、短くても素朴で新鮮な死がいくつも見つかる。また、この詩集では、どうしても忘れてはならない詩が三篇ある。2歳年下の妹トシのことを詠った詩だ。最愛の妹が亡くなった当日に書いたといわれる「永訣の朝」「無声慟哭」と「松の針」だ。この三篇は、賢治の作品のなかでも特に優れた挽歌(死を悼む詩)であり、日本の詩全体を見渡しても忘れがたい作品である。賢治の詩の特徴として、、仏教的な思想から、または科学的知識に裏打ちされたものから、あるいは方言などからの豊富な語彙がある。詩の中に現れ出てくるそれらの言葉は、読む立場として、感覚的に受け取ってみるのがいいかもしてない。詩の醍醐味は、そうした初めて出会う言葉たちの新鮮な驚きにもあるからだ。一篇、「報告」というたった二行の短い詩を紹介しておこう。 さっき火事だとさわぎましたのは虹でございましたもう一時間もつづいてりんと張って居ります 宮沢賢治は詩、「雨ニモマケズ」などから、その実直さと勤勉さだけが際立って、まるで聖人のように受け入れられているようにも思う。だが、彼もまた人間。怒りもあれば欲望もあった。読者の側からは、人間、宮沢賢治であることを心得つつ、作品に触れてみたいものである。(かない・ゆうじ) 【文化】公明新聞2023.10.29
November 25, 2024
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第18回身延入山創価学会教学部編各地の門下へ激励を続ける日蓮大聖人は、文永11年(1274年)5月12日に鎌倉をたち、甲斐国波木井郷(現在の山梨県南巨摩郡身延町波木井とその周辺)の身延山に入られます。質素な庵室を構えて、6月17日から身延での生活を始められました。 身延での生活身延山の麓の身延川の辺に到着された大聖人は、その日(5月17日)に下総国(千葉県北部とその周辺)の富木常忍にお手紙(「富木殿御書〈身延入山の事〉」)を送られています。「十二日さかわ(酒匂)、十三日たけのした(竹下)、十四日くるまがえし(車返)、十五日おおみや(大宮)、十六日なんぶ(南部)、十七日このところ〈注1〉。いまださだ(定)まらずといえども、たいし(大旨)は、この山中、心中に叶って候えば、しばらくは候わんずらん。結句は一人になって日本国に流浪すべき身にて候。またた(立)ちど(止)まるみ(身)ならば、けんざん(見参)に入り候べし」(新1304・全964)結局は一人になって日本国を流浪するであろう身です——このように仰せです。大聖人は、この時点で身延を定住の地とはされていなかったようです。身延の地は、日興上人の教化によって大聖人の門下となった波木井六郎実長が地頭として管理していました。結果的に身延は、距離的に利便性がある場所でした。政治の中心地である鎌倉から程よく離れていて、世間からは隠棲とみられ、鎌倉幕府の注意もそらすこともできたと考えられます。その一方、門下たちの居住地からも遠すぎない場所でした。このお手紙には、飢饉がひどく少量の米さえ売ってもらえないので、が死の危険さえあるとつづられています。大聖人に付き従ってきた弟子たちを帰されたことから、いかに逼迫していたかがうかがえます。このような状況にありながら、大聖人は身延に居を構え、各地の門下に対し、数々のお手紙を書き、励ましを送られます。その一人一人が強盛な信心を貫き、人生の勝利が得られるよう、懇切に指導、激励を続けられたのです。門下たちも直接、身延を訪問したり、御供養の品々をお送りしたりして、大聖人の生活を支えました。7月に記された(故上野殿追善の事)によれば、上野尼御前・南条時光の母子が、銅銭10連、川海苔2帖、生薑(生姜のこと)20束をおとどけしています(新1836・全1507、参照)。大聖人は、時光の成長ぶりを喜ばれるとともに、供養の志に心からの感謝を述べられています。 「法華取要抄」を御執筆身延に入られた後、佐渡流罪中から構想されていた「法華取要抄」(新148・全331)を富木常忍に送られています〈注2〉。同抄で大聖人は、釈尊の説いた諸経の勝劣について明かし、法華経が最も優れた経であることを示されます。その上で、〝法華経は誰のために説かれたのか〟という問いに対して、迹門・本門とともに、「末法をもって正となす。末法の中には、日蓮をもって正となすなり」(新152・全334)と、末法の衆生のため、とりわけ大聖人のために説かれたことを明かし、結論部分で次のように仰せです。「問うて云わく、如来の滅後二千余年、竜樹・天親・天台・伝教の残したまえるところの秘法は何物ぞや。答えて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(新156・全336)末法に弘めるべき大法が、「本門の本尊と戒壇と題目の五字」という三大秘法の南無妙法蓮華経であることを示されています〈注3〉。そして、広・略・要のうち、妙法の五字という肝要を取る理由について、釈尊が末法の衆生のために肝要を取って地涌の菩薩に授けたことを挙げられています。 身延入山の目的末法万年の広布のための法門確立同じ誓願と行動を貫く弟子を養成 妙法流布への確信最後に、末法に南無妙法蓮華経という肝要の法が流布する随想を論じられています。同人1月と2月に起こった、複数の太陽と二つの明星の出現という天文現象〈注4〉について、一国に二人の王や太子が出現して国が大混乱する予兆であり、その争いの時こそ、諸経で予言されているように、大混乱を収拾し、人々の幸福と社会の平穏をもたらす大法を弘める時であることを確認されます。このような国土が乱れた後、上行菩薩らの聖人が出現し、三大秘法を打ち立て、全世界に広宣流布することは疑いないと宣言されています。「法華取要抄」の仰せから、大聖人は妙法流布を展望し、身延を新たな活動の拠点とされたと考えられます。身延入りの目的を池田先生は次のように推察されています。「一つには、末法万年の広宣流布のための法門の確立です。もう一つは、大聖人と同じ誓願と行動を貫く広宣流布の本格的な弟子の養成にあったといえるでしょう。佐渡流罪までは、大聖人御一人が広布の戦端を、文字通り命懸けで切り開いてこられた。その同じ闘争を弟子に勧め、広宣流布の流れをより大きく確実なものにし、末法万年の広宣流布の基盤を築かんとの思いであると拝される」(『池田大作全集』第33巻) 池田先生の講義から大聖人御自身は、どこにいようと広宣流布への闘争をなされることには、いささかの滞りもありません。身延入山直後に認められた「法華取要抄」の末尾では、広宣流布実現への展望が記されている。(=「かくのごとく国土乱れて後に上行等の聖人出現し、本門の三つの法門これを建立し、一四天四海一堂に妙法蓮華経の広宣流布疑いなきものか」(新159・全338))。いよいよ広宣流布の時代が到来するとの大確信です。隠遁どころか、広宣流布の時代を築かれようと、いよいよ本格的な言論戦を開始されます。弟子たちも、それぞれの地域で活躍を始めた。(中略)弟子たちの本格的な闘争が、日蓮大聖人と同じ心に立つ折伏行であったことは間違いない。いよいよ、広宣流布の舞台を弟子の大いなる折伏で築いていかんとする——そうした決意が、ここかしこで横溢したことでしょう。大聖人の反転攻勢の戦いを弟子が引き継ぎ、四条金吾や池上兄弟たちの具教のドラマ、信仰の実証のドラマが、繰り広げていきます。まさに、大聖人御在世も、門下の実践の基軸は「折伏行」です。(『池田大作全集』第33巻) 他国侵逼難の予言が現実に 拡大する大蒙古国日蓮大聖人が「立正安国論」以来、警告されてきた他国侵逼難は、1274年(文永11年)10月、現実のものとなります。ついに大蒙古国(蒙古。モンゴル帝国)が日本に襲来したのです。ここで、蒙古と日本との関係について確認しておきましょう。大蒙古国は、チンギス・ハンが1206年に建国し、モンゴル民族が治める大帝国でした。モンゴル民族は、モンゴル高原やゴビ砂漠を中心とした地域に暮らしていた遊牧民族です。蒙古は東西に進出し支配地を拡大し続け、チンギスの孫であるモンケは第4代皇帝に即位すると(1251年)、弟のフビライ東方に、さらに弟のフラグを西方に派遣します。フラグはアッパース朝(イスラム帝国)を倒し、現在のイランの地を中心に国を作ります(イル・ハン国)。一方、東方に派遣されたフビライも領土を拡張し、成功を収めていきます。すると、モンケは弟のフビライを抑えて1257年、自ら南宋(中国の王朝)制服に乗り出しますが、1259年に病死しています。翌年、フビライが第5代皇帝に就き、5年間の内戦を経て実権を握ることになりますが、帝国は大きく四つに分裂しました。フビライは、新しい都市・大都(中国・北京)を作り、陸と海の両方の物流経路を構築します。そして、海上貿易を進めると同時に海軍を整備するのです。このような流れの中でフビライは、「大蒙古皇帝」として日本にも国交を求め、1266年(日本の文永3年)8月、「日本国王」当てに親書を記し、支配下の高麗(韓・朝鮮半島の王朝)に託しました。この国書は、1268年(文永5年)に日本に届きます。当時は、中華思想〈注5〉のもと、中国の周辺諸国は中国の皇帝に臣下の礼を取り、各国の王として認めてもらうという形式が一般的でした。日本では、平安時代に遣唐使が停止され、907年に等が滅亡して以来、天皇と中国の皇帝が同格であるという建前で、中国と正式に国交を結ぶことはありませんでした。そのため、朝貢(ライチョウして貢物を差し出すこと)を求めるこの大蒙古国の国書も無視することにしました。国書の末尾に「兵を用いる事態になるのは、誰が望むところであろうか」とあったことから、鎌倉幕府は蒙古の侵略に備えたと考えられます。この時、幕府は返事を出さないと決め、使者は返されたのでした。その後も蒙古は、日本に何度も使者を派遣しましたが、日本側が蒙古の動きを警戒したため、望むような返事を得ることはできませんでした。この間の1271年(文永8年)、フビライ・ハンは、国名を元(大元)とします。(続く) 〈注1〉「「さかわ(酒匂)」「「酒匂」(相模国足下郡。現在の神奈川県小田原氏酒匂)、「たけ(竹)のした(下)」は「竹之下」(駿河国駿河郡。現在の静岡県駿東郡小山町竹之下)、「くるま(車)かえし(返)」は「車返」(「車帰」とも。同国駿河氷。現在の静岡県沼津市三枚橋町)、「おおみや(大宮)」は「大宮」(駿河国富士上方。現在の富士宮市大宮町とその周辺)、「なんぶ(南部)」は「南部」(甲斐国巨摩郡。現在の山梨県南巨摩郡南部町)のことで、いずれも宿駅と考えられる。「宿駅」とは街道の要所に設けられていた、宿泊や人馬を中継ぎする設備があった場所。〈注2〉「法華取要抄」には二つの草案があったことが分かっている。大聖人が佐渡流罪中から御構想になり、身延に落ち着いて間もなく、それまでに作成された草案を校訂、・潰書されたと推察される。〈注3〉大聖人は、法華経本門(後半14品)で示された久遠実成の釈尊から地涌の菩薩に付属された妙法、すなわち、成仏の根本法である南無妙法蓮華経を実践する具体的な方法として、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目を示された。これを「三大秘法」という。〈注4〉「今年、佐渡国の土民口に云く『今年正月二十二日の申時、西の方に二つの日出現す』等云々。『二月五日には東方に明星二つ並び出ず。その中間は三寸ばかり』等云々」(新157・全336)とあり、諸経典を引用し、「この日月等の難は、七難・二十九難・無量の諸難の中に第一の大悪難なり」(新157・全337)と仰せになっている。当時の理解では、天文の異変は地上の為政者の誤った行いへの警告と捉えられていて、天体の中でも太陽は国主を象徴し、複数の太陽は国主の乱立を示すと考えられていた。〈注5〉自己の文化が最高で、世界の中心であると自負する考え方。徳をもととして国を治めるという、儒教的な王道政治の理論の一部として形作られた。 [関連御書]「富木殿御書」(身延入山の事)、「上野殿御返事(故上野殿追善の事)、「法華取要抄」 [参考]『池田大作全集』第33巻(「御書の世界〔下〕」第十二章、第一四章) 【日蓮大聖人 誓願と大慈悲の御生涯】大白蓮華2023年11月号
November 24, 2024
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文字は人なり最近、筆跡心理学という言葉を耳にした。人が書いた文字から深層心理を読み解くもので、ヨーロッパでは100年以上の歴史がある。「文字は人なり」と言うが「文字も人なり」のようだ▼日蓮大聖人の御書の大半を占めるのは、門下に送られた手紙である。供養に対する返事では、書き出しの部分で、供物の内容と数が詳細に書かれている。それだけではない。直筆を見ると、文字の大きさに驚くことがある▼例えば、「千日尼御返事」。冒頭には「鵝目一貫五百文・のりわかめ・ほしい、しなじなの物、給び候い了わんぬ」(新1748・全1318)とある。その最初の「鵝目一貫」の4文字は、他の文字のサイズで、縦30センチの紙の一行分を占めている。(『日蓮の心』第三文明社)▼当時、紙は貴重品だった。その中で、大聖人は門下の真心を大切にされた。供物への感謝を大きく、力強く書かれた筆致からは、門下に対する大慈大悲を感じずにはいられない。この麗しい師弟の絆があったからこそ、門下たちはいかなる困難も乗り越えられたのだろう▼言葉のやり取りが便利な時代ゆえに、手紙であれ、メールであれ、一字一句に真心を込めたい。自動で作られたものに負けない〝心ある言葉〟を。 【名字の言】聖教新聞2023.10.28
November 23, 2024
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シュティフターの魅力福井大学准教授 磯崎 康太郎故郷ボヘミアの自然を描写「穏やかな法則」ドイツ文学の有名な作品と言えば、多くが悲劇的結末をたどる。例えば、ヘッセの『車輪の下』、カフカの『変身』、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』がそうである。破局にまで到達する人間の衝動や世界の不条理は、時代を超えた永遠のものとして読み継がれているわけだが、名の通ったドイツ文学の作家のなかで、アーダルト・シュティフターほどハッピーエンドを迎える人間関係を書いた作家は珍しい。この作品は、南ボヘミア地方の、現在ではチェコのホルニー・プラナーという小村の出身で、十九世紀のオーストリアで活動した。完成した長編小説が二転、短編小説が約三十点、その他若干エッセイが残されている。彼がこだわり抜いた記述の一つとして、故郷ボヘミアの森の自然描写が挙げられる。動植物の様態、四季の移り変わり、時には猛威を振るう自然の力、それらに囲まれた人間の暮らし向きや成長が、多くの作品のテーマになっている。 地味でささやかなものに注目 ストーリーの起伏に乏しく、描写が過多になる傾向(彼は風景画家でもあった)は、同時代の批評家たちから非難を浴びたが、彼はみずからの作風を「穏やかな法則」であると宣言した。世間で大きいとみなされている事柄(例……嵐、自身、激しい感情)はじつは小さく、地味でささやかな現象(例……風のそよぎ、穀物の成長、質素倹約)こそがじつは大きいものであるため、地震は後者に目を向けたいのだ、と。そうして完成された長編小説『晩夏』を、ニーチェは繰り返し読まれるべきドイツの散文の宝と称した。私がシュティフターと出会ったのは、三十年近くも昔のことになる。東京で大学生活を送っていた私は、短編小説『水晶』を読んだとき、星空を見上げることさえ忘れかけていた自分の姿に気づいた。福島の自然環境のなかで育った私にとって、それはゆっくりと切り裂かれるような鈍い痛みだった。シュティフターは十三歳で南ボヘミア地方の故郷を離れてから、ふたたび故郷に住むことはなかった。つまり彼は、多くの作品の舞台であるボヘミアの森を、離れた土地で、例えば、足掛け二十二年住んだウィーンで描いていたことになる。回想のなかで自然に向き合っていたというわけだ。 幸福とは疎遠だった生涯 また、もうひとつの興味を惹かれたのは、作家自身の障害は幸福とは疎遠だったことである。結婚生活は満ち足りたものではなく、望んでいた嫡子に恵まれず、かわいがっていた養子はドナウ川にて水死体で発見された。健康状態の悪化に伴い、彼の最後は自殺も疑われる死に方だった。当たり前のことだが、もとより満ち足りた人間は、人が幸せになる話など特に書く必要がない。田舎に浸透してくる都会の問題、幸せな人間関係の中に秘められた不幸、こうした問題は作中に暗示されつつも多くは語られない空白として残されている。空白の意味を探る研究は、現在なお続けられているし、そこに読者自らの経験を投影してみるのも楽しい試みであろう。 いそざき・こうたろう 1973年神奈川県生まれ。福井大学准教授。専門は近現代ドイツ文学。著書に『アーダルベルト・シュティフターにおける学びと教育形態』(松籟社、2021年)ほか多数。 【文化】公明新聞2023.10.27
November 22, 2024
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激動の時代を生き抜いた3人の文豪の思想に学ぶ記念講演 文学における「時間」と「空間」 ——モンテーニュ・セルバンテス・トルストイ第10回 創価大学大学院教授 京都大学名誉教授 福谷 茂 ——創価大学の中央図書館には、創立者・池田先生が寄贈された7万冊の「池田文庫」が所蔵されています。実際に、ご覧になってどんな印象を持たれましたか? 福谷 「池田文庫」は戦後啓蒙主義、つまり、とにかく知識のあらゆる分野を視野に入れたい。そういう願いが込められたブックリストになっていると思います。もともと個人の蔵書ではありますが、貴重な本もあり、誰でも手に入れるような本もあり、幅広い分野の書籍がそろえられています。特に、戦前から戦後文学の担い手まで文学作品がものすごく多いです。 ——「池田文庫」から一冊選ぶとすれば、と尋ねられて、子ども向けの本を選ばれたそうですね? 福谷 そうなんです。私が思わず手に取ってしまったのは、『少年少女 学習百科集』(講談社、1961年~63年)でした。例えば物理は武谷三男と星野芳郎、生物は八杉龍一と、執筆陣が素晴らしい。これは、父が私のために贈ってくれた百科事典と同じもので、子どものときは夢中になって読んだものです。『私の履歴書』などを読むと、創立者のご長男と同世代のようです。当時は、多くの家庭にこうした百科事典がそろっていました。世界の不思議を一望してみたい。知的な教養とは何なのか。そうしたことを子どもから大人まで感じさせる本が、池田文庫には収められています。また、創立者と私の読書歴は、池田文庫や『若き日の読書』、「読書ノート」などを拝見すると、かなり重なる部分があります。 ——福谷教授は西洋近世の哲学史、特にカント研究の第一人者です。深い教養を背景にまとめられた「〈ピプリオグラフィカル・エッセイ〉書海按針—学部学生のための読書ガイド—」は、学生への愛情あふれる重厚な内容です。今回の講演では「文学における時間と空間」をテーマに、モンテーニュ、セルバンテス、そしてトルストイについて論じられました。 福谷 フランスのモンテーニュ(1533~1616年)は、ヨーロッパで宗教戦争を体験した世代です。ロシアのトルストイ(1828~1910年)は、この2人と300年ほど世代が離れていますが、『戦争と平和』の主題となる「革命の時代」に生きています。3人に共通するのは、著書に自分の生きている戦争と革命の時代を克明に描いていることです。大きな危機や困難の中で、どうすべきか。どう対処すべきか。それぞれが激動の時代を生き抜く思想的な手立てを編み出していきました。 モンテーニュは何を試したのか福谷 まず、モンテーニュを見てみましょう。創立者は、「読書ノート」にモンテーニュの言葉を引用していますね。 ——はい、いくつかあります。例えば、「人は、其の心を堅実にして、善く奮って悪と闘い、同時に亦善く、活き、善く信ずる道を学ばねばならぬ」などの言葉ですね。池田先生が若き日にモンテーニュを読み、胸に響いた言葉を書きとどめたのだと思います。 福谷 モンテーニュの『随想録』は、今は『エセー(エッセイ)』とそのまま呼ばれることが多いですが、わが国にも「枕草子」など平安朝以来の随筆文学があります。モンテーニュは、カトリックとプロテスタントという対立軸のはっきりした内乱の時代に生きています。裁判所で勤務した法曹であるだけでなく、バルドーの市長にもなりました。小さな城ともいうべき自宅の等に書斎をしつらえて、書物に囲まれて、読むこと、書くこと、考えることを中心にして人生を送りました。その産物が『エセー』です。塔に立てこもったといっても、その時代から逃れたのではありません。世の中のニュースはすぐに届きますし、呼び出されもします。パリに行ったり、イタリアに行ったり、大旅行に出かけたこともあります。モンテーニュは、より本格的に時代と接触するために拠点として、彼の塔、書斎を選んだと考えられるわけです。書斎には、当時としては膨大な1000冊もの蔵書がありました。『エセー』では、同時代の事件に対して、彼がかたっぱしから論評を加えるのは、キケロ、セネカ、ホラティウスといったギリシャやローマの著作家ばかりです。ここで重要な点は、当然ありそうな『聖書』からの引用というものが、事実上はほぼないということです。裏切りや残虐行為といった人間性の醜い部分、ダークサイドが、宗教戦争のさなかに、人間性への施策の拠点を『聖書』に求めることはできなかったわけです。 ——カトリックもプロテスタントも、『聖書』をもとにしており、その解釈をめぐって人と人が殺し合う戦争が起こっていたのですね。 福谷 「エッセイ」という英語は、フランス語の「試み」「試す」という事が語源となっています。つまり、「聖書」から離れて人間はどれほどのことを考えられるのか。それを「試す」という意味が、背後にあるのではないかと思います。随筆といいますから、日本の古典の感覚では、余裕綽々と折々に感じた出来事を書いているように思いがちですが、モンテーニュは相当、冒険的な作業をやっていたことが分かります。キリスト教では、紙が世界を創造し、イエスの出征と復活があり、終末の時がやってくる。人類の歴史は、神による救済の歴史だという枠組み、——「救済史」があります。しかし、モンテーニュは、現実の出来事を救済史に還元することはしません。一例を挙げましょう。モンテーニュが、現実に起こったある事件の「悲しみ」を論じる際に、引き合いに出したのは、古代エジプトの王のエピソードでした。エジプトの王は、ペルシャの王に敗亡し、囚われの身となります。実の娘が奴隷になった姿を見ても、息子が処刑の場へと連れていかれても、彼は泣かなかった。しかし、彼の友人、家来が囚人として連れ去られるのを見ると、エジプトの王は、初めて自分の頭をたたき、悲しみを表した——。 ——エジプトの王は、娘や息子ではなく、部下や友人を大切にしていたという事のようにも読めますが……。 福谷 モンテーニュの結論は、〝深い悲しみは、涙であるとか、言葉であるとか、仕草によっては表わすことができない〟ということでした。彼は「悲しみのために化して石となれり」というローマの詩人オウィディウスの言葉を引きます。本当に深い悲しみでは、人間は石になる。慟哭もしない。涙を流さない。モンテーニュは実例を挙げながら、「普通の常識」というものよりも、もっと深い味方にたどりつこうとしました。「普通の見方」で割り切ることに対し、異を唱えて警鐘を鳴らす。「そんなに単純明快に判断できるものではない」と。これがモンテーニュの「対処法」「方法」でした。宗教戦争という危機の状況から、「脱却」する。その「方法」を、その都度、体系化せずに、古典を参照しながら試み続けていく。そうした生き方を目指した人が、モンテーニュであると言えます。 「戦争と平和」の魅力の源泉「世界史」から「一家庭の歴史」へ何層もの「時」の流れを描ききる 「メタバース」とセルバンデス福谷 次に、セルバンデスに話を移します。セルバンデスといえば『ドン・キホーテ』ですが、話の筋は知っていても、実際に読んだ人は少ないかもしれません。 ——『完本 若き日の読書」の「読書ノート」には、セルバンデスの言葉はありませんが、『若き日の読書』に、サバニチの『スカラムーシュ』の章があります。ここでは、ドン・キホーテが風車に向かって突進するエピソードが出てきました。「風車は特権階級であり、風は民衆である。風車は槍ではと失せないが、風が吹けば、いやでも回り出すだろう。まさにフランス大革命は、民衆が巻き起こした一陣の風が風車を回しに回し、やがて全ヨーロッパにヒューマニズムの薫風を吹き込んでいったものである」と記されています。戸田先生(創価学会第2代会長)も、風車の話が出てきたところで、我が意を得たりと膝を打たれたそうです。 福谷 そうでしたか。セルバンデスの生きた時代には、世界帝国であったスペインが凋落していく時期でした。ドン・キホーテは、元々平凡極まる田舎の郷士です。それが、騎士道小説にのめり込み、自分が騎士であるという妄想を抱きながら、時には大失敗をし、時には大歓迎を受けながら、活躍していく物語です。一種の狂気をテーマにした物語といってよいでしょう。セルバンデスには、ほかにも「ビロード学士」という中編小説があります。主人公は、自分の体が「ビードロ」、つまりガラスになってしまったと思い込んでしまう。これも狂気の物語です。狂気の間は、追いかけ回され、大人気を博しますが、正気に戻ると相手にされなくなり、最後には戦死を遂げてしまうのです。セルバンデスは、乱世の中で生きる「対処法」として、現実の世界とは全く別の世界を自らの本拠として選び取ります。今の言葉で言えば、「メタバース」(仮想空間)で生きながら、悲惨な現実世界に対処しているということでしょう。さて、ようやくトルストイの『戦争と平和』にたどり着きました。創立者は『私の人間学』の中で、『戦争と平和』についてまとめて論述されています。なぜ、トルストイはナポレオンを卑小な存在として描いたのか。この質問に答えようと施策を重ねている様子がよくわかりました。 ——この箇所ですね。「トルストイによるナポレオンの矮小化は、なぜ、かくも執拗なのか、という問題がある。ここにトルストイ独自の史観が、強く働いていると感じらえてならない。つまり、歴史というものは、一人の卓越したリーダーの力によって創出されるものではない、という透徹した眼である」 福谷 重要な問題です。私もこの点を考えたいと思いました。私にとってトルストイの『戦争と平和』は今も毎年必ず読み返す愛読書です。『戦争と平和』には、エピローグが二つあります。2番目のエピローグには、トルストイの歴史哲学がつづられているのです。物語には関係がないため、訳者によっては、この部分を省略してしまう人すらいるほどです。19世紀は「歴史学」が学問として成立した世紀です。その担い手はドイツの大学でした。トルストイは、当時の歴史学は、ただ時間を追いかけているだけにすぎないと考え、批判しました。どの場限りの話や事件をつなげて、歴史だと言っているのだと。イギリスの哲学者アイザイア・バーリンは、このトルストイの歴史哲学を再評価していますが、ここでは詳しく立ち入りません(『ハリネズミと狐—「戦争と平和」の歴史哲学』参照)。従来の歴史家の概念は、単なる「長い時間」にすぎないと考えたトルストイは、「時間」だけでなく「空間」もまた歴史の中に組み込んで、小説として表現したのです。モンテーニュの方法が「時間」に即し、セルバンデスの方法が「空間」に即していたとすれば、トルストイは『戦争と平和』で時間中に空間を組み込む。それは、時間を相対化する空間であり、時間と空間との相互関係が生じる。合理的な思考ではとらえられない、複雑怪奇なもの、これこそが歴史なのだ、というトルストイのメッセージを読み取ることができると思います。 生命が吹き上げるような人物描写の妙福谷 トルストイの人物描写は、非常に魅力的です。例えば、ヒロインのナターシャ・ロストフ。生命の吹き上げるような、生き生きとした感じが如実に描き出されています。アメリカの批評家であるライオネル・トリリングは、『戦争と平和』について、自分もこのように柔軟で懐の深い眼差しで見つめられたい、と読者に思わせる小説だと指摘しました。ナターシャを、見るように自分を見てほしい、私はポルコンスキーのように見られたい、と。トルストイは、小説の登場人物を、一人の人間として捉えることができる人でした。たとえば『ボヴァリー婦人』や『感情教育』を書いたフローベールの眼差しが、高見に合って人間たちの愚行を見下ろしている神の眼差しだとすると、トルストイの場合は、登場人物たちによってにじりよってくる神だと言えます。思わず抱きしめたくなる神、大来占めたくなる神の眼差し。そのまなざしが、トルストイの魅力的な人物描写として内在化されているのです。 ——高みから見下ろす、〝神〟の眼差しが一つだけの視点だとすると、『戦争と平和』には、〝神〟の視点が偏在(至る所に存在)しているのですね。 福谷 このことが何を意味するのか。『戦争と平和』の中で流れている「時間」は多元的な「時間」なのです。皇帝アレクサンドル1世やナポレオンが活動する時間がある。同時に、ナターシャが結婚して、子どもを産み時間があり、ボルコンスキー侯爵の息子にニコーレンカが成長していく時間というものがあるわけです。この多層的な、多重な、多元的な「時間」というものがリアルであると感じさせるのが『戦争と平和』です。これこそがトルストイにとっての歴史にほかならないのです。フランス革命がおこり、ナポレオンが皇帝になり、ヨーロッパを征服していく時間もあります。「政治史」とか「大文字の歴史」と言うべきものです。同時に、はじめは10代の、箸がころがってもおかしいような明るい少女ナターシャ・ロストフ。彼女が『戦争と平和』の最後には、ひたすらファミリーのことに熱中する。子どもの世話や夫が大好きで、そうした家庭的なところにトランスフォーム(変わる)していく。世界史の動向から、幸せな一家庭というものに焦点が移っていくのです。 ——ナターシャの変化には創立者も注目しています。人間同士、特に女性の側からの『信』のかたちが、比類なき美しさで示されていると思う。それは、海のイメージで形容できよう。ある時は無限の包容力をもって清も濁も併せ飲み、またある時は時の万物を慈しみはぐくみ、失意から組成へ、対立から調和へ、離反から結合へと導きゆく大いなる力。そして低次元の波風などどこ吹く風と、いつも深く静かな面を揺るがすことのない海。——私は、ピエールを見つめるナターシャの眼に、そうした、女性の揺るぎなき『信』の力の持つ素晴らしさが感じられてならない」 福谷 『戦争と平和』のエピローグに、象徴的な場面があります。アンドレイ侯爵の忘れ形見である少年ニコーレンカが、父親のアンドレイの夢を見た後、成長を誓います。「おとうさん! おとうさん! そうだ、ぼくはあの人だって満足するようなことをするぞ……」(藤沼貴訳)「大文字の歴史」から、一つの家庭へとズームしてきた『戦争と平和』は、次の「大文字の歴史」が一人の少年から始まっていく場面で終わっているのです。創立者が示された疑問——なぜナポレオンが矮小化されて描かれているのか——に、私なりにお答えするならば、トルストイの狙いは、それまでの歴史学におけるナポレオンが、いわば芝居の台本を渡されて行動しているに過ぎないと明らかにすること。そして、いくつもの観点を含む、いくつもの層を含む、多層的な歴史の中で、ナポレオンなりの役割を考えること。そうした提案だったのではないでしょうか。トルストイの歴史哲学を、ポジティブに取り上げ直していく必要があるのではないかと、今回、この機会を通して考えることができました。心より感謝申し上げます。 【読書は人生を開く扉 創価大学「池田文庫」をひもとく】創価新報2023.10.18
November 21, 2024
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海と人のアーカイブ 瀬戸内海で暮らしてきた人々の文化遺産を収集し、未来に伝える瀬戸内海歴史民俗資料館(香川県高松市)が11月3日に開館50周年を迎える。その活動や展望について、館長の松岡明子さん、前館長で現在は専門職員の田井静明さんに聞いた。 古来、人と物が交流する海の道として栄えた瀬戸内海。豊かな自然と結びついた生活の中で、人々は特色ある文化を育んできた。瀬戸内海歴史民俗資料館は、その文化を伝える資料を収集・保管するとともに総合的な研究を行い、成果を展示・公開する、いわば〝海と人のアーカイブ〟。1973年(昭和48年(11月3日に設立され、瀬戸内海をテーマとする広域資料館として沿岸の11府県を対象に調査研究と展示を行っている。松岡さんによると、収蔵する民俗資料は約3万点。そのうち、「瀬戸内海および周辺地域の船図および船大工用具」「西日本の瀬尾威運搬具コレクション」など3件、合計5966点の資料が国の重要有形文化財に指定されているという。田井さんも、「高度経済成長期までの歴史や風土、暮らし方をたどることができる最後の証しかもしれません」と語る貴重な品々である。資料館は、7㍍の高低差を生かした大小10の正方形の展示室が中庭を囲む回廊式の構造。石積みの外壁には建設工事で掘り出されたこの地の石を使っている。日本建築学会賞に選ばれるなど、香川県における戦後モダニズム建築の代表として高く評価されており、建築に関心を持つ若い人の来館も増えている。開館50周年の今年は、地質学や漁業、環境など五つの視点から瀬戸内海を見る連続セミナーなど、多彩な記念事業を行っている。アーティストと一緒に漁網を編むことを通して民俗資料と向き合うプロジェクト「そらあみ」も、その一つ。網に使う糸を染めるところから始め、延べ約560人が参加。昔ながらの道具で網を編んだ。民俗資料館は実際に使われていた物。見るだけでは伝わりにくい。「かつて漁師さんたちが網小屋で話を交わしながら網を広げていたように、人のつながり、古い民具とのつながりを呼び戻そう取り組みました」と語る松岡さんも、今回、道具をつって初めて発見することがあったという。事業に参加するアーティストたちには、古い民具のかたちやたたずまいの向こうにある人の存在、失われたものを感じ取る力、想像する力を感じるそうだ。「新しい分野の人たちと一緒に考えることで与えられるヒントも少なくありません。50周年を機に取り組んでいる試みから得ているものは、とても大きいと感じています」 瀬戸内海歴史民俗資料館(香川県高松市)開館50年の歩みと未来 「地域の資料館や博物館は、その地域の文化にとって最後の砦であり、セーフティーネット(安全網)だと思うのです」こう話す田井さんは、同時代性を意識した資料館活動の重要性も強調する。多様性が重視される一方で大量生産の時代である現代は、「一つの資料で地域を代表しているとは言い切れない時代。地域社会が多様な人で成り立っていることが伝えづらくなっているのではないでしょうか」とし、収集や調査研究では、そこに住み暮らした人の〝思い〟が必要だと言う。「その人はなぜ、その道具を使ったのか。どう使ったのか。なぜ残ったのか。そんな『ヒント』や『コト』の情報に立ち返る必要があるのではないでしょうか。地域の魅力を発信するときは『モノ』と共に、どのような〝物語〟を収集しておくかが重要だと思います」開館から50周年を迎える11月3日には記念のシンポジウムを開く。田井さんは、「若い世代の皆さんや、ほかの地域から移住した方を含めて、資料館から新しい議論や人とのつながりを生まれることを期待しています」と。民俗資料の見方や活用には、まだ多くの可能性があると行く松岡さん。「幅広い人に響く多方向の試みを続けることで地域に関心を持ち、そのまま未来を考える新しい視点を持つ人が増えれば、素量官として大きな意味を持つ活動になります。今後も、大切で、面白いテーマだという発信を続けていきます」と語る。 【文化Culture】聖教023.10.26
November 20, 2024
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多文化・多言語の複雑な社会作家 村上 政彦アルフィン・サアット「マレー素描集」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日は、アルフィン・サアットの『マレー素描集』です。本作は、48の短い作品からなる掌編集です。作品の舞台はシンガポール。この国で、午前5時から翌日の午前3時までに起きる出来事が語られていきます。登場するのは、大学生、医者、資産家のお抱え運転手、死刑執行人、兵士といった人々。マリーナベイの芸術センターをはじめ、さまざまな施設や地域が出てきます。全体を読み終えると、シンガポールの社会と、そこで生きる人々暮らしが分かる仕掛けになっているのです。シンガポールは主に、華人、タミル人、マレー人で構成される多民族国家です。言語も、中国語、タミル語、マレー語、英語と多様です。著者のサアットはマレー系の作家ですが、マレー語ではなく、英語で書きました。これは作家の戦略でしょう。その結果、本作は2冊目の創作集ですが、村上春樹さんも受賞した、フランク・オコナー国際短編賞の候補になりました。作品の世界にダイブしてみましょう——。タイトルは「村のラジオ」です。ぼくがスーおじさんの家に行ったとき、一つの鳥かごにぶち柄のハトがいて、クークー鳴いていた。もう一つの鳥かごは空っぽ。ぼくはどうやって捕まえたのか、興味津々で尋ねる。スーおじさんは驚いた様子で、「かごの扉を開けておくだけでいい。そうすれば一羽飛び込んでくる」と言う。ぼくはからかわれている。そこで、かごに鳥を閉じ込めておくなんて、かわいそうだと抗議する。スーおじさんは〝おまえは街に住んでいるからラジオで音楽が聴ける、ここでは鳥が音楽を聞かせてくれる〟と答えた。それから数か月後、スーおじさんを訪ねると、二つの鳥かごは空っぽで、台所に買ったばかりのラジオがあった。ぼくがスーおじさんの家にいた6日間、ラジオはつけられなかった。スーおじさんは、タバコを吸いながら、空っぽの鳥かごを眺めていた。スーおじさんの頭そのものが鳥かごで、そこにはジャングルがあって、音楽が奏でられていたけれど、それは誰にも見分できないものだった。これは見事な掌編小説です。いや、小説と言うより詩に近い。こうした掌編が48作も詰まっているのですから、読み応えは十分です。訳者解説には、「シンガポールという多文化社会において重要なのは、言語間の翻訳行為だけでなく、特定の文化における観衆を外部の人間にも理解可能なものとする『文化間の翻訳』だ」との著者の認識が紹介されています。英語で書く理由は、単なるマーケット戦略だけではないようです。 [参考文献]『マレー素描集』 藤井光訳 【ぶら~り文学の旅㊱海外編】聖教新聞2023.10.25
November 19, 2024
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第25回気候変動と人間主義経済創価大学経済学部准教授 蝶名林 俊さん歯止めかからず10月も半ばを過ぎて、ようやく涼しい日が多くなり、わが家でも衣替えを始めた。猛暑に苦しんだ日々を振り返って、〝夏ってこんなに暑かった?〟と感じた方も多いのではないでしょうか。その実感の通り、7月から8月の平均気温は統計開始以来の最高を更新したようです。気象庁気象兼給与などの研究チームは、今夏の記録的猛暑は、地球温暖化がなければ怒らなかったとの検証結果を発表しています。集中豪雨をもたらす線状降水帯の発生数も、温暖化で約1.5倍に増えたとの研究もあります。国連のグテーレス事務総長が先月、「恐ろしい熱が恐ろしい影響をもたらしている」と発表したように、世界でも気候変動は深刻な問題です。インド洋のモルディブや南太平洋のツバルといった島国は、温暖化による海面上昇が続けば、国土の大半が水没するとの予測があります。また温暖化の影響で森林火災が悪化しているとの報告もあり、今年に入ってもカナダやチリなどで森林火災が大規模化し、世界全体では20年前と比べて2倍の面積の森林が焼失しました。こうした状況に対し、二酸化炭素(CO2)などの温室効果ガスを減らす取り組みが模索されていますが、温暖化に歯止めはかかっていません。2021年の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第1作業部会6次評価報告書では、20年以降に排出するCO2が累計で5000億㌧を超えると、地球の平均気温の上昇を1.5度に抑制できない可能性が60%以上になり、持続可能な開発や貧困の撲滅などの世界的な目標の達成が、より困難になるとされています。現在、世界で年間およそ400億㌧のCO2が排出されており、今のペースでいくと2030年代前半には危険な領域に達する計算になります。 両立は可能か危機的な状況にもかかわらず、なぜ気候変動対策が進まないのでしょうか。その理由の一つに、「環境保全を優先すると、経済的利益が損なわれるのではないか」という懸念が解消されないという点が挙げられます。確かに、環境に配慮するだけの経済的な余裕がないという意見もあるでしょう。しかし、目先の利益を追求し、地球の自然資源を使い果たしてしまえば、大きな経済損失が出るだけでなく、人類は資源の枯渇という境地に立たされてしまいます。では、経済成長と環境保全を両立することは可能なのでしょうか。今はこのような課題を研究する「環境経済学」を専門としていますが、結論から言えば、それは可能だと考えています。以前、世界銀行に勤務していた時、ア古科のエチオピアで持続可能な土地管理プログラムに釣り組みました。この国は干ばつなどの異常気象に苦しんでいましたが、森林を伐採して新たな農地を作るというような解決策ではなく、環境を守りながら、そこに暮らす人々が長年取り組める開発を検討しました。現地の担当者と話し合いを重ねる中、水路を整備し、雨が降らない時も水を農水路を整備し、雨が降らない時も水を農地に引き込むことができる「小規模かんがいプロジェクト」などを実施し、取り組みが進むにつれ、農業の生産は高まり、干ばつの影響も緩和されていったのです。何より、この取り組みは経済的な利益を上げるだけでなく、地域の持続可能な農業を進める結果となりました。経済成長と環境保全が両立できることは。開発途上国だけでなく先進国でも確かめられています。例えば、フランスやドイツ、スウェーデンなどでは、CO2排出量が減少しても経済成長は維持されています。しかし、こうした両立の取り組みは、世界の潮流にはなっていません。 「共に栄える」社会こそ温暖化対策を進める鍵 一人の行動変革では、そうした状況を前に、社会は何をポイントに進んでいけばいいのでしょうか。ここで、気候変動を経済分析に組み入れた業績でノーベル経済学賞を受賞したアメリカ・エール大学のノードハウス教授の指摘を紹介します。同大学には私も大学院生や研究員として在籍し、教授から大きな影響を受けました。環境経済学者である教授は、気候変動の進行を抑えるために私たちが進めなければいけないこととして、次の4点を挙げています。① 地球温暖化が人間と自然界に極めて深刻な影響を与える事実を理解し、受け入れる市民が増えること。② 国家が温室効果ガスの排出価格を引き上げること。③ グローバルな協調行動をとること④ 安価で急進的な低炭素技術の開発を支援すること——です。温暖化対策には、温室効果ガスをいかに削減できるかが鍵となることから、②~④のように、国や社会レベルで連携しながら、取り組みを進めていくことが大切です。そのうえで注目したいのは、教授が真っ先に挙げているのが①であるという点です。これは大切な私的です。現在の気候変動は人間活動の影響で引き起こされており、それは私たちの日々の経済活動に直結しているからです。温暖化の状況を知り、受け入れる人が増えれば、国家や国際社会も気候変動対策にさらに力を入れるようになるでしょう。また、地球環境への配慮を考える人が増えれば、生産者側も消費者の意向に応えるように、環境に配慮したバイオプラスティックや低酸素技術の開発などを進めていくことが期待されます。つまり、①の要素は、一人一人の行動変革につながるだけでなく、他の三つの進展にもつながっていくのです。一人一人の意識が大切であることは、私の実感でもあります。先に触れたエチオピアや、以前訪れたアフリカの国々では、多くの人々が気候変動の対策を真剣に考え、国の政策立案や市民レベルでの啓発運動に積極的に取り組んでいました。温暖化に伴う干ばつや国書に苦しむ地域だからこそ、危機感も強いのでしょうが、そうして一人一人の真剣さがなければ、経済成長と環境保全の両立を目指す事業の成功もなかったと思います。 未来のために実は、一人一人の力や可能性に目を向け、そうした力を育む中で、自他ともに黄木と暮らせる社会を目指そうとすることは、創価大学で研究を進めている「人間主義経済学」の考え方にも通じます。そもそも、これまでの経済学は、自己の利益を最大化する人間像を想定して、理論を構築してきました。そのため、人間は私利私欲を追求し、資源を過剰に利用することがあると捉えているのです。しかし、利益最大化することのみに価値を置いた先にあったのが、気候変動に苦しむ現代の状況ではないでしょうか。一方、人間主義経済学が重視するのは「自分さえよければ」という利己的な考えから脱却し、どうすれば「自他共の幸福」を実現できるかです。ここで大切なのは、目指しているのが「自他共の幸福」であるということです。「他者のため」だけであれば、恩着せがましくなったり、自己犠牲になったりしかねません。「誰かのため」が「自分のため」にもなっていくからこそ、やりがいが生まれ、行動も長続きしていきます。この考えは、気候変動に歯止めをかける上でも重要です。例えば、温暖化対策が進まない利用の一つに、現役世代の労苦によるCO2排出削減の恩恵を大きく受けるのが、将来世代であるという点が挙げられます。現役世代が「今さえ良ければ」と自らの利益のみを追求する状況が続けば、いつまでたっても温暖化対策は進展しません。既に温暖化の悪影響は各地で頻発しています。「未来に生きる人々のため」に持続可能な開発を進めることは、今を生きる私たちの生活を守ることにもつながるのです。私は、人間主義経済学とは、自己の利益のみを最大化するのではなく、自己と他者、現世代と将来世代、人間と環境といって、これまで対立的にとらえられてきた両者の利益を尊重し、「ともに栄える」社会を追求する理論的かつ実践的な学問であると考えています。私自身、経済学の分野から環境問題にアプローチし、持続可能な経済成長を志向する環境経済学を志したのも、こうした人間主義経済学の目指す理想に触れ、〝世界で苦しむ人のために貢献したい〟と思ったからです。昨年度から創価大学で、「気候変動の経済学」という科目を教えていますが、受講した学生が「深刻な状況を知ったことで、自分の行動を今すぐ変える必要があると思った」などの声を寄せてくれました。一人でも多くの学生が気候変動に関心を持ち、この分野において世界各地で貢献していけるよう、さらに尽力したいと思います。環境汚染や資源の枯渇がもたらす人理宇の苦境の原因は、危険なほど自己中心的となった人間自身にあると指摘したのは、ローマクラブの創立者ペッチェイ博士です。博士は池田先生と5回にわたって対談し、複合的な問題郡の解決の方途は「人間革命」しかないとの点で一致しました。これは、現代においても変わらないものだと思います。現在、気候変動という危機を乗り越えるために、各国が連携して、産業革命前からの気温上昇を1.5度に抑える国際枠組みの「パリ協定」や、「環境」を柱の一つに据えたSDGs(持続可能な開発目標)などに取り組んでいます。これらの対策を前に進めるに必要なことは、関わる「人間」自身の内面の変革なのです。その意味からも、「私が変われば、世界が変わる」との哲学を一人から一人へと語り広げるSGI(創価学会インターナショナル)の友の対話運動こそ、迂遠なようでも、気候変動対策を前に進める直道だと考えます。気候変動は人類にとって避けられない喫緊の課題です。学術部員として、課題解決のために行動する草の根の連帯を広げるとともに、人間主義経済学のさらなる発展に尽くしたいと決意しています。 ちょうなばやし・しゅん 1984年生まれ。博士(自然資源学)。専門は環境経済学。創価大学を卒業後、エール大学大学院修士課程修了、コーネル大学大学院博士課程修了。世界銀行エコノミストなどを経て、現在は創価大学経済学准教授。著作に「気候変動の経済学」(『人間主義経済×SDGs』所収、第三文明社)など。創価学会学術部員。男子部副部長。 【危機の時代を生きる希望の哲学■創価学会学術部編■】聖教新聞2023.10.23
November 19, 2024
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運動の効果産業医・精神科医 井上 智介憂鬱な気分がポジティブに「運動することはメンタルにも効果的!」と言われたら、どう感じますか。今まで体を動かした後にスッキリした経験があれば、何となくわかるような気もするけど、「ホントかなぁ」と疑いたくなる人もいるかもしれませんね。 ただ、実際に運動をすることで憂鬱な気分や落ち込みが減ったという研究結果は、たくさんあります。例えば、1週間に運動を135分以上するグループは1年後に抑うつになるリスクが半分なる報告もあります。その理由には、いろいろありますが、運動はしんどい思いをすることにもなるので、長い目で見ればストレスに対する抵抗力がついて、メンタルヘルスが良好に保てるといわれています。ほかにも、運動中には必死になっているため、将来の不安などを考えられず物理的に悩む時間が減るのも、心に良い影響があるといわれています。では、具体的にどのような運動がよいのでしょうか。実はジョギングのような有酸素運動や筋トレのように無酸素運動のどちらでも、落ち込んでいる気分はポジティブに変わっていく報告があります。確かに、両方ともこなすのが理想でしょうが、まずは少しでも自分に合っている運動からで大丈夫です。しかも、最初からハードな運動ではなく「いつもより大股で歩く」や「駐車場では一番遠くの場所に止める」など、あなたの日常生活の中で運動になりそうなことを、ちょっと加える意識をもつことからスタートしてください。 【若者のメンタルヘルス④】公明新聞2023.10.24
November 18, 2024
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災害復興学の体系化を目指す関西学院大学が叢書刊行へ 山中 茂樹現場の教訓を提言に紡ぐ「もう、災害復興基本法を作るしかないよ」——旧国土庁が設置した委員会の座長として、司祭者生活再建支援法の改正に向け苦闘された廣井脩・東京大学教授(故人)の一言に背中を押され、研究所の創設に参加したのは2005年です。以来、被災現場の教訓を政策・制度の提言に紡いできました。研究所は災害復興基本法試案の策定を目的とした研究所で5年後の基本法試案作庭で役目を終えるはずでしたが、災害はこの間も多発し、研究所の活動は現在まで続いています。一方、災害復興学は、いまだ学問として確立されていません。研究所では被災者支援の政策提案に力を注いできましたが、後継の研究者のためにも、積み上げた研究成果を体系化し残していく必要があると感じていました。それが叢書刊行の目的の一つです。また、災害復興ではインフラ復旧や区画整理といった都市計画に予算が集中し、被災者の再起は自力再建とされてきましたが、これに対抗する形での人間復興を世に問いたいとの思いもありました。さらに新自由主義が跋扈し、トリクルダウンのような理屈で復興政策が進む現状に対し、憲法に保障される幸福追求権の実現、被災者の幸福実現こそ、真の復興であることを叢書では明示したいと考えています。 後藤新平の呪縛『人間復興』では、関東大震災から現代にいたる災害復興を俯瞰していますが、災害に『復興』という言葉を最初に使ったのは、関東大震災の折の内務大臣で帝都復興院の初代総裁となる後藤新平です。当時の新聞からは「復興」という言葉が、集団、かたまりが前の勢いを取り戻すという文脈で使われていたことが分かります。後藤が「復興」を関したことには、首都東京から江戸色を一掃し、列強と肩を並べる帝都の威容を創り出そうという意図が込められていたと思われます。また、被災地の回復に「復興」という言葉を使ったことが、その後の被災地支援策を規定することになります。それは一言で言えば、都市計画という手法を用いた復興国家主義です。それを私は後藤新平の呪縛と呼んでいます。これに対し、「人間の」という修飾語をかぶせることで、復興を被災者の手に取り戻そうとしたのが、大正デモクラシーの旗手で福祉国家の先駆者、福田徳三です。後藤の目指す帝都復興に対し、福田は被災者の暮らしを中心に据える「人本位の復興」を訴え、生存権という基本的権利から被災者の居住権や労働権を保障すべき年、具体的な府立改正案も提案しています。経済学者の多くは、これらを総称し、「人間の復興」と呼び、福田の思想として位置付け、評価しています。しかし、私が注目するのは、福田が、被災者こそ災害復興の主体者であり、復興政策を決める最高・最後の決定権者であると考えていたことです。福田は「真の復興者は被災者自らをおいてほかにない」とし、「復興の最根本動力」は「自らの働きをもって生きて行かんとする堅い決意をもっている人」と訴えています。「人間の復興」の最も重要な精神はそこにあると私は考えています。 「功利主義」「集団主義」のカベも 理念化する基本法の策定を右肩上がりの経済成長のなか進められてきた道路の拡幅や土地区画整理を柱とする都市計画事業は、考え直される時期に来ていると思います。必要なことは都市計画の人間復興化です。『人間の復興』では、阪神・淡路大震災後の芦屋市西部地区の復興まちづくりを紹介しましたが、同地区では行政の示した区画整理に反対し、住民の会が対案としての「土地区画整理を前提としないまちづくり案」の策定に取り組みます。その結果、道路の道幅を抑え、コミュニティー道路やポケットパークなど、住民の智慧を生かしたまちづくりを実現しています。同地区のまちづくりは行政側の度量が試される例でもありましたが、都市計画の人間復興化には、被災者優先の社会契約も必要になるのではないでしょうか。そこで、カベとなるのは、復興を推進する理念とされる「功利主義」であり、「集団主義」です。功利主義は、幸福(の総量)の最大化のためなら、原理上はどんな不平等な分配や自由の権利の制約も支持します。また利害が相反するとき、集団は個人に同僚行動を強調する復興を目指すことがあるなど、私たちは経験してきました。「功利主義」「集団主義」に対抗する災害復興の政策をどう育てていくか、今後の課題です。また、属地主義から属人主義への転換も必要です。現行の被災者支援制度は「属地主義」で構成され、被災自治体に住んでいなければ、支援が受けられません。被災地の外に出たときも系統立った支援が受けられる制度も必要です。大きくは、「人間の復興」の思想を理念化する基本法をつくることでしょう。被災者の生存権の擁護や生活再建支援を一つ一つ法制化するうえで、「人間の復興」の思想から規制、制御する基本法が必要であると考えています。 やまなか・しげき 1946年、大阪府生まれ。朝日新聞神戸市局次長の時、阪神・淡路大震災に。災害担当の編集委員として取材の一線に復帰。2005年から関西学院大学災害復興制度研究所研究員に。同研究所などを経て現職。日本災害復興学特別顧問。著書に『災害とメディア』『漂流被災者「人間復興」のための提言』などがある。 【文化・社会】聖教新聞2023.10.24
November 17, 2024
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どこまで人間と認める?科学文明研究者 橳島 次郎人格の複製・不死の技術前回・デジタルツインの技術を使って、現実の心臓や脳とそっくり同じものを仮想空間に再現し、病気の予防や治療などに役立てる試みが始まっていることを紹介した。脳のデジタルツインで再現されるのは、現段階では、脳波やMRI(磁気共鳴画像法)のデータからわかる神経細胞の活動と血流といった生理現象である。だからこの技術をさらに進めていけば、精神現象も再現するデジタル脳が作れるかもしれない。もしそれが実現すれば、人間存在そのものをデジタルで再現できるようになるといえるのではないか。その方向ですでに実現している技術としては、亡くなった人の姿形と同じ声と仮想空間に再現し、遺族が会話を交わせる追悼サービスがある。残されたSNSの投稿や生い立ち・仕事・人生への考え方などを生前にインタビューした内容を。生成AI(人工知能)に学習させ、その人ならまさにそう言いそうな会話を作ることができるというものだ。こんなことがあったけどどう思うとか、相談事があるのだけれど、といった話を交わすことができれば、遺族には慰めになるだろう。ただ、そうした形で故人に執着しすぎると、死による別離をきちんと受け止められなくなる恐れもある。それはあくまで生成AIによる作り物だが、本物の人間を生かし続けるために、脳の活動すべて電子回路にアップロードする技術が可能になるとみる専門家がいる。まだ遠い将来のことだが、それが実現する未来に、自分の意識を復活させたいという人のために、死後、脳を冷凍保存してくれる団体が米国で活動している。脳が生み出す意識を丸ごと保存できれば、肉体が滅んでも消えてなくなることはない、不老不死の存在になれるだろうか。精神は身体を離れて生きることができるだろうか。電子回路上に保存されているだけでは、人間的な存在であることはいえないだろう。連載の第4回で、脳のインターネット化技術について触れた。保存された意識をインターネットにつなぎ、社会の動きを知り、ほかの保存された意識やリアルの人たちと交流できる回路を作れば、電脳化した人間精神として、不死の存在になるといえるかもしれない。問題は、そうした存在をどう保護するかだ。電脳精神にも、リアルの人間と同等の法的権利を与えるべきだろうか。電脳精神を故意に破壊したら、殺人罪とすべきだろうか。デジタルな存在をどこまで人間として認められるかが問われる。 【先端技術は何をもたらすか—8—】聖教新聞2023.10.24
November 16, 2024
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平岩弓枝を読む文芸評論家 縄田 一男作品の根底は人のぬくもり家族や小集団の絆や友情描く平岩弓枝さんが今年の六月、間質性肺炎のため亡くなった。享年九十一。全盛期には、「オール讀賣」に最大の人気シリーズ『御宿かわせみ』を、「小説現代」にはもう一つの捕物帳『はやぶさ新八御用帳』を、さらに「野生時代」に『千姫様』を掲載。戦国の女の定めを描きつつも、奔放な伝記ロマンとして秀逸だった。また、「小説新潮」には『花影の花 大石倉之助の妻』を連載、いわゆる三大中間小説誌を制覇。この中で『花影の花 大石倉之助の妻』は第二十五回吉川英治文学賞を受賞(平成三年)受賞した。この長編は大石倉之助の未亡人りくと残された息子大三郎にスポットを当てた、その後の「忠臣蔵」と言うべきもので、「忠臣蔵」の主人公である内蔵助を花と例えるならば彼女はその花影の花——。〝内蔵助の遺児〟という重荷に耐え切れぬ出来の悪い息子とともに懸命に生きたりくの後半生を描いた力作だった。平岩弓枝は、受賞の言葉の中で「小説で賞をいただきますのは三十年ぶりのことでございます」と言っているが、三十年前の受賞とは、直木賞を得た『鏨師』のことを指す。そして「近年、とみに気力、体力の衰えを感じ、ぼつぼつ冬眠かなと思っていたところを、突然、照明を当てられた感じで、いささか狼狽しております」と記している。また一方で、『御宿かわせみ』の名コンビ神林東吾とるい、平成二年に刊行された『恋文心中』収録の『祝言』でようやく結婚、長い間の忍ぶ恋にピリオドを打った。第一話「春の客」の発表が、昭和四十八年だから、登場以来十七年を経ようとしてようやく結ばれたことになる。親代わりの八丁堀同心の家に生まれた東吾と、元は同心の娘だったが、父親が死んだ後、宿屋を始めるというロマンに四季折々の江戸情緒と犯罪を中心とした人間関係を絡めてグランド・ホテル形式で描いていく——これがこのシリーズのウマ味である。東吾とるいを結ばせるのが長引いてしまったか「祝言」を書いた時には、何人もの同k者から祝電があったという。さらにもう一つ、このシリーズで嬉しいことは、東吾とるいを取り巻く周囲の人に、すなわち定町廻り同心の畝源三郎やかわせみの老番頭の嘉助や女中頭のお吉、そして深川蕎麦屋の主人で岡っ引きの長介らが醸し出す人の輪のぬくもりである。これは作者の現代小説の下町もの『女と味噌汁』等にも共通することだが、こうした家族もしくはそれに匹敵する小さな集団の中でのきずなや友情を描くのは筆者の最も得意とするところである。代々木八幡の宮司の娘に生まれ、地縁血縁で結ばれた人間関係の有り難さを肌で感じ、幼い頃から様々に芸事を習い、さらに小説家を志してからは戸川孝雄の門下となった平岩さんは、常に家族を自分の成長を見守っていた人の輪が存在していたはずである。これが平岩文学の根底を流れるぬくもりの本質である。(なわた・かずお) 【ブック・サロン】公明新聞2023.10.23
November 15, 2024
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健康食品や医薬品など幅広く利用寒天の歴史元小田原短期大学教授 中村 弘行始まりは江戸期の京都人々の創意や苦難に満ちる中国への輸出、薩摩藩の密造も寒天は江戸時代、京都で発明された。伝承では、明暦年間(1655—1657)に伏見の美濃屋左衛門が発明したとなっている。しかし、実際はそれ以前に作られていた。その根拠は金閣寺住職の日記『隔冥記』である。寛永年間(1624—1643)の日記に「氷心太をいただいた」と記されている。最初の名称は氷心太。寒天という名称は、のちに隠元禅師によってつけられた。約1世紀の後、摂津(大阪府北部など)に寒天が伝わり18の村で寒天製造が行われた。製品は中国輸出用の細寒天である(細寒天は燕の巣の代用品として珍重された)。その約30年後、薩摩藩でも寒天が作られた。なぜ南国薩摩で寒天? それが薩摩藩のねらいだった。密造である。寒天製造には大量の水と氷点下の気温が必要だが、適地が薩摩にあった。水・寒さ・薪の三条件がそろった高城郷(宮崎県都城市)である。京都山科から指導者を招き寒天を作り、幕府の目を盗んで中国で密輸出した。同じ頃、信州の行商人・小林粂左衛門が関西で寒天製造の習得し、郷里で仲間たちと寒天製造を始めた。信州の気候は寒天製造に合っていた。海が近いため原料搬入が課題だったが、富士川の舟運を活用し、みるみる成長した。現在、長野県の寒天生産量は全国1位である。天城山(静岡県)にある寒天橋。石川さゆりの「天城越え」にうたわれている。この橋の名はこの地で寒天が作られていたことの証である。橋の近くに作られた寒天工場は明治新政府の殖産興業の一環だった。地域密着型の地場産業として人気だったが、新政府の金融政策に乗じて銀行業へと鞍替えしたため、三転製造は中止となった。わずか7年のいのちだった。大正時代、樺太でも寒天製造が行われた。樺太南部の遠淵湖に伊谷草という観点原料が大量に繁茂していた。色が黒いという欠点を克服して製造特許を取得したのは東京深川の材木商・杉浦六弥だった。杉浦は特許を盾に伊谷草採取と寒天製造を独占し、遠淵湖を漁場とする地元漁民と激しき対立した。この問題を解決したのは医師の香曽我部穎良であった。香曽我部は杉浦の特許の権利消滅を突き止め、漁民は寒天製造権・販売権を獲得した。時代が大正から昭和に変わる頃、岐阜でも寒天製造が始まった。当時日本をおおっていた大不況という問題を解決する秘策として農家副業に寒天が選ばれた。官民一体となって背水の陣の取り組みは徐々に成果を上げ、昭和6年には県下に25の寒天工場を数えるまでになった。岐阜寒天は、細寒天に限って言えば、現在全国シェアの8割を誇る。現在、食品としてだけではなく細菌培地、歯科印象材、化粧品、医薬品、介護食、食品サンプルなどとして日常的に使われている寒天であるが、その歴史は人々の創意と葛藤と苦難に満ちている。詳しくは拙著『寒天』(法政大学出版局)をお読みいただきたい。 【文化】公明新聞2023.10.20
November 14, 2024
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自然を支える共生埼玉大学名誉教授 末光 隆史環境で逃げだすことも〇自然界には互いに助け合う共生関係がよく見られます。あるとき、「共生とは利他的行動なのでしょうか」という質問を受けました。共生関係の互いに助け合う姿が、利他的行動と受け止められているようです。でも、生物はそもそも生き残るために活動しているもの。それは利己的行動にほかなりません。では、利他的に見える行動が生まれたのは、どうしてなのでしょう。そんな疑問を解決したいと、共著『「利他」の生物学』(中公新書)を出しました。本書では、さまざまな生き物たちの共生関係をひもとき、利己的行動利他的行動について考えます。興味のある方は一読いただければと思います。きれいな海に生息するサンゴ。そこには褐虫藻が共生しています。褐虫藻は光合成によってブドウ糖を作りサンゴに供給します。一方のサンゴは、褐虫藻に必要な栄養塩やアンモニア、二酸化炭素などを褐虫藻に供給しています。また、サンゴの中にいると、褐虫藻が外敵からの捕食を防げ、強烈な紫外線からも守られます。まさにウィンウィンの共生関係にあるのですが、水温が上がると褐虫藻はサンゴから逃げ出してしまいます。サンゴの白骨化です。共生関係といっても弱いつながりなのです。 細胞内に取り込み利用〇一番多く、身近な共生関係は何だと思いますか。それは私たちの細胞内にあるミトコンドリア。酸素を消費してエネルギーをつくり出す大切な機関です。以前は、リソソームやゴルジタイなどと同じく、細胞内で作られた一つの期間だと考えられていました。しかし、独自のDNAの存在が確認され、他の細胞内機関とは異なることが分かったのです。現在では、原始的な嫌気性細胞に、酸素を利用できる好気性細菌が取り込まれた、細胞内共生であると考えられています。最初の生物が出現した頃には、地球の大気には酸素はありませんでした。この時代の主流派嫌気性細菌です。しかし、光合成を行うシナノバクテリアが出現し、急激に酸素濃度が高まっていったのです。嫌気性細菌は酸素大気中では生きていくことができません。そこで、酸素を利用できる好気性細菌が出現。他の最近は、好気性細菌を取り込んで、酸素大気中でも生き延びられるようになったのです。これがミトコンドリアです。さらに、シアノバクテリアが取り込まれ、植物の葉緑体へと変化しました。人間の感覚からすると、細胞内に取り込んだものが共生関係にあるというのは、不思議な感じがするかもしれません。しかし、単細胞生物にとって、共生し利用するためには、自分の体内に取り込むのが手っ取り早いわけです。 利己から利他的に変化互いの得になる関係が残る 寄生状態も進化の過程〇共生関係を見ていくと、最初は利己的な目的から始まったとしても、進化の過程で助け合うように変化するケースが多いことに気付きます。一方的に利用されている利己的な関係というのは、いわゆる規制にあたります。そうなると、もう一方は害を受けないように、どこかで対抗策をとります。だから、最初は一方的でも、最終的にはウィンウィンの関係になったものが生き残りやすいのです。面白い共生の例として、ミドリゾウリムシと共生クロレラがあります。ミドリゾウリムシは捕食するだけでなく、葉緑体をもっていて光合成します。子の葉緑体が共生関係にある共生クロレラ(さまざまな種類の単細胞緑藻類)です。共生クロレラは、エサを消化する食泡由来の生体膜に包まれており、糖類を放出しない共生クロレラは、消化されてしまいます。つまり、ミドリゾウリムシの役に立つかどうかで、共生できるかどうか決まるのです。また、アブラムシの体内には、ブフネラと呼ばれる細菌が共生しています。アブラムシは植物の液を吸って生活していますが、夜にはアブラムシに必要なアミノ酸がわずかしか含まれていないため、不足しているアミノ酸をブフネラに生産してもらっているのです。その一方で、アブラムシは、ブフネラに必要なアミノ酸を提供しています。このブフネラ、元々は大腸菌のような病原菌で、一方的な規制関係だったものが、共生関係に移行したのではないかと考えられています。そうなると、今は一方的な規制関係であっても、将来は変化するかもしれません。例えばピロリ菌。日本にいる種類は、胃がんを誘発する悪玉菌のイメージしかありませんが、海外のピロリ菌は、胃酸の逆流抑制、肥満防止、子どもの喘息やアレルギーの発症を抑えるなどの働きもあるそうです。今はただの病原菌にすぎないピロリ菌も、病気を引き起こさないタイプに変化して、人間と共生関係になるかもしれないのです。=談 すえみつ・たかし 1948年、大阪府生まれ。埼玉大学教授を経て、現在名誉教授。著書に『動物の事典』『生物の事典』(いずれも朝倉書店)がある。 【文化Culture】聖教師023.10.19
November 13, 2024
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やまと絵の伝統と革新東京国立博物館 絵画・彫刻室長 土屋 貴裕この秋、東京国立博物館では、日本美術の王道的テーマでもある「やまと絵」について大規模な展覧会を開催している。そもそも、やまと絵が具体的にどのような絵画なのか、よく知られていないのが現状だと思う。やまと絵とは、平安時代のはじめ頃、日本的な風景や風俗を描くために生まれた絵画のことである。それまでの日本における絵画は、中国絵画に基づく唐絵をそのまま模倣したものだった。それが仮名の発達や和歌の交流とともに、異国ではなく日本の中に美を見いだそうという動きが起こる。こうして生まれたのがやまと絵だった。四季の移ろい、月ごとの行事、花鳥・山水やさまざまな物語など、あらゆるテーマが描かれてきた。平安時代以降もやまと絵は描かれ続けるが、その内容は若干変化していく。それは鎌倉時代後期以降、中国から水墨画などの技法がもたらされ、これが漢画と呼ばれる新しい異国の絵画となると、やまと絵もそのスタイルを少し変化させたためである。こうして中国に由来する唐絵や漢画といった外来美術の理念や技法との交渉を繰り返しながら、独自の発展を遂げてきたのがやまと絵である。 日本の美に流行取入れ千年 最高傑作が華やかに集う 一方で、やまと絵が時代ごとに変貌を遂げたのは、外来美術の影響だけではない。それぞれの時代の文化をけん引する個性的な人物の強烈な美意識、そして隣接分野の造形感覚や最先端の流行がやまと絵というと、どうしてもおとなしくて地味、という印象を持たれる方も多いと思うが、実はこうした美術をめぐる最新の動向をどん欲に、かつしなやかに取り組むことで、やまと絵はこの千年を生き抜いてきたのである。このような「伝統と革新」の意識に支えられた美術的な造形の営みこそが、やまと絵の最も重要な核心であることは、これまで見過ごされてきた点である。今回の展覧会は、平安時代に誕生し、鎌倉時代に新たな美意識を加え、さらに南北朝・室町時代に成熟した輝きを見せた古代、中世やまと絵の全容を、総件数訳二四〇件の作品からご紹介するものである。屏風、絵巻、肖像画といったやまと絵の中心的作品のみならず、美しい書の作品や漆工品も会場には並ぶ。東京国立博物館では三〇年ぶりのやまと絵店となる。展示作品はどれも一級の作品で、一点でも展覧会の目玉になる作品ばかり。今回は全国の御所蔵者のご協力ももと、大変豪華な展覧会を実現することが叶った。そして重要なのが、これらマスターピースをまとめて見るということである。もちろん一点一点の作品は大変優れたものばかりだが、これをまとめて見ることで、やまと絵の歴史、ひいては日本文化の歴史が点ではなく選、そして面で見えてくるはずである。絵巻の傑作である「源氏物語絵巻」「信貴山縁起絵巻」「伴大納言絵巻」「鳥獣戯画」の四大絵巻、法華経を美しく飾った「久能寺経」「平家納経」「慈光寺経」の三大装飾経など、ここでしか見ることのできない作品群に出合ってほしい。(つちや・たかひろ) 【文化】公明新聞2023.10.18
November 12, 2024
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習慣化の重要性筑波大学名誉教授 株式会社THF代表 田中喜代次メンタル面にも顕著な効果メタボ対策が一斉に叫ばれて久しいですが、いまだに顕著な効果は出ていません。安い値段で豊富に、かつ24時間飲食が可能のであること、仕事や気候のせいで運動・スポーツを実践する機会を持てないなど、日常の生活環境が強く影響しています。スポーツをしたい気持ちになっても、それにかかる経費や治安の問題が習慣化の阻害要因にもなることもあり、悩ましい限りです。昨今、運動・スポーツを習慣化すると、血液検査値や血圧などの健康費用が改善するとの仮説に依処して、国を挙げて健康事業が展開されています。実際のところ、その効果は血液検査値や血圧などの健康指標よりも、体力や運動技能面に顕著となります。控えめに実践する人はメンタル面により大きな効果が生まれやすいです。食欲増進や睡眠の質向上、服薬の軽減、運動技能向上による達成感・満足感の高揚、さらには家庭内の心配事や日々の仕事に伴う精神的ストレスへの対勢力増大などが期待できます。このように、運動・スポーツは精神面や心理面、社会的側面に顕著なメリットがもたらせることを認識してほしいです。仮にメタボから脱出できなくても、心身の総合的健康は確実に高まっていることもあります。スポーツを習慣化して、体重が半年で3㌔減ったのに血液検査値が変わらないこともあります。珍しいことではなく、その人にとって一定の標準域があるからです。国や学会によって定められた血液検査値の正常/異常は、母集団から得られた膨大な数のデータから求めた一つの参考値です。身長に個人差があるように、全ての人に当てはまるわけではないのです。運動・スポーツの意義や価値は、各自のメンタルタフネス(ストレス耐性)や社会性の向上にあることを再認識して、大いに楽しんでいただきたいです。結果的に、血液検査値も改善の方向に変化するケースが多いことを理解しましょう。 【チャレンジ! 生涯スポーツ—<1>—】公明新聞2023.10.17
November 11, 2024
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生命の無限の可能性を信じて白樺会総合委員長 平栗 由美[プロフル]ひらぐり・ゆみ大学病院や創価大学の保健センター等で、看護師としての勤務を経験。看護師。保健師。千葉県在住。女性部副本部長。 発達障がいは、近年、どんな人にも身近なものであることが知られるようになりました。発達障害のある人に、社会全体で適切な支援を行う重要性が高まっています。だれもが発達障がいを理解していくことが求められているのです。昨年、文部科学省が実施した、発達障がいに関する調査では、「小・中学校の児童・生徒の約11人に1人は発達障がいの可能性がある」という事実が明かになりました。徐々に発達障がいへの理解は広がりつつあるものの、当事者や親は、どうしても不安を抱えてしまいます。私は現在、市町の行政で、保健師として母子保健業務などに携わっています。中でも、発達の悩み事を抱えた親と子を対象とした、親子支援教室の仕事にかかわっています。「出会ったすべての親子が笑顔になれるように」「お子さん一人一人の個性が輝くように」と願い、多くの親と子に長年、寄り添ってきました。 心の声を聴きたい親子支援教室には、自閉的な傾向のある子や言葉の発達の遅れが疑われる子など、2~3歳ぐらいの子どもと、さまざまな悩みを抱えた親とが来室されます。教室での約1時間、見知らぬ場所になれることができず、ずっと泣きやまない子もいます。そうした行動には、その子なりの理由があり、原因もそれぞれです。でも、原因がわからないうちは、親は〝自分の子育てが悪いのでは……〟と自分を責めてしまい、出口の見えない育児に疲れ切ってしまうこともあります。そうした親御さんに「一人で抱え込まないでほしい」「なんでも話してもいいんですよ」と声をかけ、少しでも心の支えになれるように努力しています。お子さんがリラックスできるように、笑顔で寄り添い、絵本の読み聞かせやリズム遊びなどで一緒に遊びます。中には、慣れない場所や人の中で遊ぶのが難しいお子さんもいます。そういう時は、まず「よく来たね」と、親子に声をかけ温かく迎えています。親御さんの気持ちに寄り添い、話をよく聴く。そうして親御さんの緊張が解け、肩の力がふっと抜けて安心されると、ぽつりと本当の気持ちを語って売れるのです。親の安堵は子どもに伝わっていきます。そして、自然と遊びの輪の中に入れるようになるのです。そこまで至るのに、時には半年かかることもあります。けれど、その時の親子の輝く笑顔は、私にとって忘れることのできない宝物になります。これまでに出会い、関わった子どもたちは、自分らしく人生を歩んでいます。日蓮大聖人は、一人一人のありのままの生命を最大限に輝かせる「桜梅桃李」(新1090・全784)の生命哲学を教えられておられます。親も子も、自分の生命に具わる無限の可能性を開いて、生きる力を見いだし、みなぎらせていけるように——そう強く祈りながら、〝心の声を聴きたい〟と、一人一人に向き合う日々です。御書には、「鏡に向かって礼拝をなす時、浮かべる影また我を礼拝するなり」(新1071・全769)とも仰せです。どこまでも目の前の一人の仏性を信じぬくことで、その一人の仏性を呼び覚ましていくことができるのです。この仏法の哲理を学んだからこそ、「私の使命は、ここにある!」と、日々の仕事に臨むことができます。そう確信できたのは、看護制時代、実習の時に出会ったAちゃん親子とのかかわりがきっかけでした。 希望の灯をともす当時3歳だったAちゃんは、幼い頃の事故がきっかけで重度の脳性まひに。声かけにも反応がなく、自分で寝返りも討てず、将来、笑顔を見ることはないだろうといわれていたお子さんでした。「私に何ができるのだろう」と悩みましたが、〝Aちゃんが毎日楽しい、うれしいと感じられるように〟との思いで関わり続けました。〝Aちゃんの生命に届きますように〟と祈りつつ、耳元で童謡を口ずさんだり、音の出る手作りのおもちゃを鳴らしたり。また、ある時は、髪の毛を結び、頭をなでながら、「Aちゃん、かわいいね」と声をかけました。すると、日に日にAちゃんの表情が和らいでいきました。そして、実習が終わる頃、私の祈りが届いたかのように、初めてニッコリと笑顔を見せてくれたのです。一緒ン、わが目を疑いました。けれど確かにAちゃんは笑っていたのです。お母さんと目を合わせ、手を取り合って、大喜びしました。わずか2週間の関りでしたが、祈りは必ず通じる、生命と生命は深いところでつながっていると教わりました。祈り、寄り添い、目の前の生命に、希望の灯をともす——この白樺の心こそ、社会を照らすと確信しています。池田先生はかつて、「白樺の心よ、広がれ、広がれ。日本中、世界中を、美しき『人間の大地』にするために」と、白樺会への期待をつづってくださいました。「いのちこそ宝! 生命の世紀の太陽たれ」「希望と安心! 創価の慈悲の天使たれ」との、白樺会指針を胸に、これからも、出会う全ての方に心を尽くし、皆の個性が色とりどりに輝く社会を目指して、進んでいきます! 視点桜梅桃李平栗さんが、発達障がいのある子と親とのかかわりの中で大切にしていることは、「まず、親子の、〝ありのまま〟を受け止めていくこと」。その「ありのままの個性」を、以下に輝かせていくか——。その道筋は誰一人として同じではないからこそ、題目をあげ抜き、全生命力をかけて、親子とのかかわりに臨んでいると語ってくれました。池田先生は「桜梅桃李」(新1090・全784)の一節を拝して、「大切なのは〝ありのままに生命を輝かせる〟ことです。桜も梅も桃も李も、それぞれが懸命に命を燃やし、咲き誇るからこそ美しい」と、教えています。妙法によって大生命力を湧き出だした一人の生命の輝きが、周囲の人々に広がっていくのです。 【紙上セミナー「仏法思想の輝き」発達障がいに寄り添う】聖教新聞2023.10.17
November 11, 2024
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持続可能な世界を築くために「地球に生きる責任」の自覚をインタビュー インド社会起業家 アミット・サチデバ氏持続可能な社会へ大切な役割を果たすといわれるCSR(企業の社会的責任)活動。インドでは2013年、世界的に先駆けてCSRを義務化する新会社法が制定された。旗振り役となった社会起業家のアミット・サチデバ氏に、CSRの重要性、そこに脈打つ社会貢献の精神と創価が会の活動との共鳴などをインタビューした。(聞き手=小野顕一) ——いま、CSRが求められる理由とは何でしょうか。 インドでは、現代のようにCSRの概念が普及する以前から、富める者が貧しい人々に救済の手を差し伸べるという伝統がありました。19世紀中盤からインドの工業化が始まり、大きな企業体が現れると、より大規模な社会貢献活動が定着していきます。そうした活動を思想的に後押ししたのが、20世紀初頭にガンジーが主張した「信託理論」でした。富裕者の財産は神から「信託」されたものであり、預かった富は社会や公共のために適切な形で戻されるべきであるという考えです。損得を顧みず、惜しみなく社会福祉に取り組む人々がいた一方、インドの急速な発展や世界製剤のグローバル化の中、自らの利益を過度に優先するような行動や、倫理観に懸けた不正行為を働く経営者も現れました。またインドに進出した多国籍企業の中には、知見を社会に還元する考えをもたないような企業もあります。途上国の経済が先進国の論理で進めば、貧富の差は広がるばかりです。企業は、地域社会や地球環境に責任を持ち、将来の世代に対する影響を深く考えなければいけません。また、長期的に見れば、そうした理念を効果的に実施している企業の方が、そうでない企業よりも利益を上げていると感じています。2013年に新社会法が成立し、一定の資本、もしくは売り上げを持つ企業は、過去3年間の平均純利益の2%以上をCSRに活動に充てることが決まりました。対象となる活動は飢餓や貧困の撲滅、教育の促進、女性や障がい者の雇用、安全な飲料水の確保などで、12項目が明示されています。企業はさまざまな社会問題に対して、自分の仕事と関連する分野などでCSR活動に取り組みます。たとえば、水を多く使用する会社なら、施設の周りに浄水場を作ったり、水が不足する地域で井戸や水道の建設工事を行ったりして、衛生的な水が生き渡るようにする。自社の使命として「農村地域の水不足による貧困と飢餓の撲滅」などを掲げる事例があります。ご存じの通り、ガンジーは非暴力の精神で人々を結び、植民地支配に立ち向かいました。そして、身分や階層に関係なく、全ての人々が向上しゆく平等な社会の実現を目指したのです。村や人々を自立させる、女性に力を与える、豊かな人間性を実現する等のガンジーの運動は、SDGs(持続可能な開発目標)の多くと共通しています。特に、ガンジーが大切にした「サルポダヤ(万人の幸福)」と「アンティオダヤ(最後の人まで)」の心情は、「誰一人取り残さない」というSDGsの基本理念と響き合う、今、改めて注目されるべきメッセージだと思います。 〝必要〟と〝貪欲〟——世界主体のSDGsへの前進を考える時、世界最大の人口を有するインドの比重及び役割は大きいものがあります。SCRがSDGsの推進に重要な貢献を果たす一方で、義務化には反発の声があったのではないでしょうか。 財界や営業車から反対や批判の声も上がりました。CSRは強制されるものではなく、あくまで企業の内発性に委ねられるべきという意見です。しかし、法律とは何のためにあるのかを考えてみてください。法律は守らなければ罪となる。だから法律に従うのか。私は、そうではないと思います。ほとんどの人は、法に則った正しいことをしたいと考えているのです。2013年に成立した新社会法は、利益の2%を社会に還元するという法律ですが、8%を上回るような額をCSRに使い続けている大企業もあります。一方で、利益ばかりを追い求めて強引な鉱山採掘を繰り返し、地域の生態系を崩壊してしまうような企業が存在するのも事実です。資本主義社会といえども規制が必要です。「赤信号は止まる」というルールがなければ、いつかは事故が起きてしまいます。社会貢献が自発的に広がることが理想ですが、それには時間がかかります。環境破壊は急激に進んでいますし、「信号を守る」人たちの努力が正しく報われるような社会にしなければ、健全な発展は望めません。新型コロナウイルスのパンデミックによって、インドは多くの犠牲者が出ました。しかし企業や財団、非営利団体(NPO)の活動がなければ、さらに甚大な被害が出ていたに違いありません。CSR活動の中で、多くの食料や救援物資、医療品などが国民に行き渡り、人々に感染症立ち向かうことができたのです。ただ、こうも思いました。なぜ、パンデミックのようなときに死か、人間は力を合わせることができないのか。危機や混乱に直面しなければ、人間は社会的責任を果たせないのか、そうではないはずです。CSRに込められた社会貢献の精神は、企業に限ったことではなく、日常から誰もが取り組まなければいけないものです。人はだれしも、自分一人では生きていけません。社会に生きる一人一人が、地域や社会、環境に対して、生きる責任をもっているのです。世界に目を向ければ、富裕層と貧困層の格差は広がり続け、上位1%の超富裕層が世界全体の資産の4割近くを所有するという、不平等な現実があります。人間の欲には限界がありません。自宅にテレビやエアコン、車があるだけでは満足できず、海外にまで家や財産を持つ資産家もいます。一方で、困窮から抜け出せない人が、インドにはいまだに何億人といます。この数十年で、貧困率は着実に下がってきていますが、どれだけ努力しても報われず、もがき苦しむ人がいる。ガンジーは、地球は人間の〝必要〟を満たすには十分でも、〝貪欲〟を満たすには十分ではない、と警告しました。私は、この現状をどうしても変えたいのです。 対話で解決できないものはない心の窓を開け、人類の課題に挑戦 マハトマ賞——CSR事業や人道的な諸活動をまい進するなど、社会課題に取り組む個人や団体に受賞する「マハトマ賞」を創設されました。2017年に受賞が始まって以来、企業や国連をはじめ、さまざまな人物や団体が受賞しています。 「マハトマ賞」の名称は、ガンジーへの敬意をこめたものです。現代において、ガンジーの理念に沿う活動をしている全ての人をたたえ、表彰したい。そうした人や団体を世に知らしめて、よりよい社会を築く活力としたい。それが私の使命だと思っています。マハトマ賞は部門ごとに審査委員会があり、個人や団体の活動がどんな人々にそのような具体的に調査し、数値化して審査しています。たとえば、個人であれ、社会活動家であれ、非営利団体であれ、教育の機会を得られない子どもたちに教育を施しているとしたら、それは、「誰も置き去りにしない」というガンジーの心を広げてくれているのと同じことなのです。中には、十数万人が働く誰もが知るような団体もあれば、十数人ほどの規模で誰にも知られていないような組織もあります。しかし、彼らを表彰することによって、僧の社会的貢献を広く世間に認知させることができるのです。マハトマ賞を通してガンジーの心を伝えることで、平和と平等のメッセージを広げていく。それが私のモチベーション(動機)です。 人間のあり方——昨年10月、インド創価学会(BSG)が社会貢献および社会的影響の部門でマハトマ賞を受賞しました。BSGでは、社会貢献の一環として、「BSG FOR SDG」と掲げ、SDGsの達成に向けて主体的に取り組んでいますが、そうした活動が評価されたのでしょうか。 BSGは他のどの団体もしていないことをしている点が最も評価されたのだと思います。それは、社会貢献などの活動の根本に、人間のコミュニティーを築いているのです。人々が集まって喜びや悲しみを分かち合い、互いを勇気づけながら、地域や社会に価値をもたらしている。いわば心のエコシステム(有機定期な連携)が機能しています。今、インドでは核家族化が進み、都市部の人間関係に変化が見られます。仕事や育児などで重圧を抱えても、相談する相手がいない。一見、恵まれた生活をしているようで、実際は自らの苦悩を誰にも打ち明けられず、外面を取り繕うことで必至という人もいます。しかし、BSGは違います。自分のことを話したい時に、深く受け止めて、共感してもらえる。誰かが訪ねてくれる時もあれば、悩みを抱える人のもとに足を運ぶ時もある。互いの経験を分かち合いながら、価値創造の哲学を胸に、生きる力を湧き立たせていく——。不安や焦りが渦巻く時代にあって、自身の状況に素直に話せる場が近くにあることが、どれほど大きな価値をもつことでしょうか。特に強調したいのは、家族の病や大切な人との別れなど、苦境に立たされた人が、涙を流しながら本音をぶつけられるような、人間関係があることです。気候変動への対策をはじめとする地球規模の諸課題の解決には、政府や企業のあり方も重要ですが、その成否は周囲の人々の献身的な努力にかかっています。それは同時に、地球に生きる責任、また未来を開く責任果たしていくための大きな力となるでしょう。そうした活動をしている団体は他にはありません。ですから、BSGの存在は、もっと広く知られるべきものだと私は考えるのです。 二人の獄中闘争——創価学会の理念とガンジーの精神に共通する点は何でしょうか。 第2次世界大戦中、戸田第2代会長が軍部政府の弾圧によって牢獄にとらわれていたとき、ガンジーも最後の獄中闘争に臨んでいました。非暴力抵抗運動の思想「サティヤーグラハ(真理の把握)」を提唱し、不正と暴力に立ち向かったガンジーは、獄中にあっても言論戦を展開しました。一方、戸田会長は「仏とは生命そのものである」との悟りを得て、人間の差別の壁を破る、万人平等の法を弘める覚悟に立たれています。戸田会長とガンジーは、場所こそ異なりますが、同じ時に、同じことをされていたのだと思います。釈尊の存在も、両者の共通項でした。釈尊が対話の精神を重んじたように、ガンジーも「常に心の窓を開けよ」と、全ての問題を対話によって解決しようとしました。この「対話主義」は、戸田会長、池田SGI会長にも、同じように流れ通っているものです。池田会長は中国とソ連が対立する局面において、対話をするところから行動を始めています。ガンジーも危機の局面にあってイギリスに乗り込みました。対話で解決できないものはないとの信念が、深く共鳴しているのです。「善いことというものは、カタツムリの速度で動く」とがいいジーが言ったとおり、対話には時に柔軟で粘り強い姿勢が大切です。ただ、ガンジー自身は、暴力と憎悪に満ちた世界を変えようと、すさまじい速度で対話の戦いを繰り広げ、人々を結束させていきました。気候変動、パンデミック、戦争と、人類は複合的な危機に直面しています。今、私が最も懸念しているのは、「水資源をめぐる争い」と「若い世代の過度のネット依存」です。そうした課題に本当の意味で歯止めをかけるには、心変革が不可欠です。世界の岐路に立つ私たちが、次の世代へ、持続可能なよりよい未来をもたらしていけるように、心を親しく結びつけながら地球や社会の変革に挑む創価の運動が、今以上に加速することを願っています。 Amit Sechdava 社会起業家。インドにおける企業の社会的責任。(CSR)法案への取り組みと提唱によって、同国のCSRの第一人者として知られる。「CSR good Book」編集長。ソーシャルインパクト企業「Liveweak」創設者。著名なガンジー主義者であり、社会的責任を果たす団体や取り組みをたたえる「マハトマ賞」を創設した。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.10.14
November 10, 2024
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お城めぐりのススメ作家 伊東 潤城めぐりを始めてから、今年で21年目になる。もっと古い人がいるので自慢するつもりはないが、それでも大小合わせて700前後の城をめぐってきた。めぐった城は、江戸城、大坂城、姫路城、熊本城といった石垣造り+天守ありのメジャーな城から、人知れぬ山中に眠る草生した城まで様々だ。かつて日本に3万以上あったとされる城跡の多くは、昭和の高度成長期に壊されてしまった。当時は歴史的遺物の保存などに官民ともに歯牙にもかけていなかったからで、ろくな調査もせずに多くの遺構が消滅した。中には、縄張り(城の設計)が永遠の謎になってしまった城もある。それでも残った城をめぐるだけで、ライフワークと呼べる趣味になる。ここ数年、城めぐりを趣味とする人が以前に比べて格段に増えた。ほんの10年ほど前までは、山城で出会う人はみんな知り合いという状況だったが、今は知らない人ばかりだ。登攀路が整備されていない無名の山城にまで、人が集まるほどもブームが来るとは思わなかったが、このブームが終わることはないだろう。それだけ城は人を惹きつけてやまないからだ。なぜ人は城に行くのか。城の何に魅せられるのか。その理由は人によって様々だが、一つだけ言えることは、過去に生きた人たちが懸命に造り上げた城に佇んでいると、その人たちの息遣いが感じられるからだろう。すなわち昔の人たちが、敵から命や領土を守るために必死に堀をうがち、土塁を積み上げた痕跡を見ることで、歴史が身近に感じられるのだ。城めぐりは過去を生きたちとたちとの会話であり、時空を超えた御縁のようなものだ。そうした御縁を大切にし、今後も真摯な姿勢で歴史に向き合っていきたい。 【すなどけい】公明新聞2023.10.13
November 10, 2024
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現代を問う三木清の「人生ノート」戦後最大のベストセラー「人間を一般的なものとして理解するには、死から理解することが必要である。」この仏教哲学的命題は、三木清著『人生論ノート』の一節である。三木は、20世紀の日本を代表する哲学者の一人だ。市民哲学者の先駆ともいわれる。三木の残した言葉は、現代の多くの場面で私たちに哲学の重要性を突き付けてくる。三木清は1897(明治30)年、現在の兵庫県たつの市に生まれる。旧制龍野中学から旧制一高、京都帝大に進んだ三木は、京都学派の祖でもある同大学教授・西田幾多郎のもとで哲学を志す。後年三木は、一高時代に西田の主著『善の研究』に出会ったことが「私の人生の出発点となった」と述べている。三木は1922(大正11)年に岩波書店の創業者・岩波茂雄の支援を得てドイツとフランスに留学しリッケルやハイデガーらに師事。パスカルの研究にも取り組んだ。25(同14)年に帰国した三木は翌年、『パスカルに於ける人間の研究』を発表し注目される。余談だが、幹人岩波書店の関係は深く、留学先のドイツのレクラム文庫を手本に27(昭和2)年、三木が日本で初めて文庫本様式を考案し誕生したのが岩波文庫。今も文庫本巻末にある岩波茂雄による「読書子に寄す」の草稿も三木が起こしたものだ。 人間存在そのものに価値利他の心で自他共の幸福 一方で、マルキシズムにかかわったとして治安維持法により検挙され、大学教員を辞した三木は市井の研究者、文筆家として活動する。そして『歴史哲学』『アリストテレス』『哲学入門』『構想力の論理 第一』『人生論ノート』『技術哲学』『読書と人生』はじめ膨大な著作を次々と世に問うた。しかし、治安維持法案の知り合いを助けたことから45(同20)年に投獄され同年9月、豊多摩刑務所で亡くなった。享年48。なお、三木の死で敗戦日本がいまだ思想犯を数多く収監していたことに驚いたGHQが慌てて彼らを釈放させたのは有名な話だ。また『人生論ノート』は戦後もベストセラーとして、当時の若年層は、盛んだった読書などを通じ、同書を熟読し、盛んに議論を交わしたといわれる。『人生論ノート』で三木は、戦時下の滅私奉公の世相の中、人間には幸福追求の権利があると述べ、「成功と幸福を、不成功と不幸を同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。」「幸福が存在に関わるのに反して、成功は課程に関わっている。」と、人間存在そのものが幸福であり、価値があるとした。最近の極右論者が唱えるような、生産性が人間の価値を決めるという全体主義的人間観を、三木は明確に否定している。さらに『人生論ノート』で「人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって、生きていることは希望をもつことである。」「断念することをほんとに知っている者のみがほんとに希望することができる。何物も断念することを欲しないものは真の希望をもつこともできぬ。」と謳った。そして、「鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。」と、利他の心で自他共の幸福を目指すことが真実の幸福だと断言している。(K・U) 【文化】公明新聞2023.10.13
November 9, 2024
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生き物って面白い稲垣 栄洋(静岡大学教授)植物と動物の違いはどこにあるのでしょうか——。多くの人は、植物と動物なんで一目見ればわかるよ、と思うかもしれません。でも、その明確な違いをどのように説明しますか。動くか動かないでしょうか、それとも、光合成をするかしないか。この説明もただいいのですが、実は境目を突き詰めていくと非常にあいまいな部分も多いのです。多くの人は植物は動かないと考えているかもしれません。しかし、オジギソウは、はっぱを触ると、葉っぱが動いて閉じます。また、アサガオなどのつる植物は、ぐるぐると旋回しながら巻き付くものを探し出します。一方の動物にしても、イソギンチャクやサンゴは、動くといっても触手を出すぐらい。環境が悪いとイソギンチャクは移動しますが、サンゴの場合は動いて移動することはありません。 植物と動物の違いは? サクラの本数は何本?身近な疑問から不思議さ感じる それでは、光合成をするしないというのはどうでしょうか。確かに、葉緑体をもっていて光合成をするのは、植物の大きな特徴です。中学校の理科でも、葉緑体があるのが植物細胞だと習ったはずです。また、理科の授業では、植物細胞んは細胞壁があるとも習ったかもしれません。植物は光合成をしやすいように進化してきました。植物には葉緑体があり、光合成によって栄養を採るために動く必要がありません。また、光合成をするためには、大きな体がいいため、それを支えられるように細胞の周りを細胞壁という堅い壁で覆ったのです。しかし、葉緑体をもっているのは植物だけではありません。ウミウシの仲間には、葉緑体をもって光合成を行っているものがいます。このウミウシ、生まれた時には葉緑体を持っていないのですが、エサとなる藻類に含まれていた葉緑体を、消化することなく細胞に取り込んで、葉緑体に光合成をさせて栄養を得ています。実は、動物と植物の違いというのは、明確な線引きはできません。それは、富士山の裾野はどこまで広がっているのかを考えるようなもの。地面はつながっており、明確な境目はないのです。 春に皆さんが花見をするソメイヨシノは何本あるでしょうか。そんなもの、実際に数えてみればわかるよ、と思うかもしれません。でも、ソメイヨシノは接ぎ木で増やされるクローンで、どの肝遺伝子は全く同じ。だから同じ時期に、同じような花が一斉に咲きます。動物の場合は、オスとメスが生殖して子孫を残します。しかし、植物の場合は花粉を受粉して種子をつくる種子繁殖だけではありません。ソメイヨシノのように接ぎ木で増やすことも可能ですし、ヨモギのように地下茎を伸ばしていく植物もあります。地下でつながっていれば1個体ですが、地下茎が切れれば2個体です。また、ヒガンバナは3倍体で種子を作ることはできません。そのため、肥大した球根のリン片が分かれて増える栄養繁殖を行います。このように遺伝子情報が同じクローンは、1本なのでしょうか、2本なのでしょうか。樹木にしても、老木が倒れたときに、根本から芽生えてくるのは、同じ遺伝子をもった個体です。単細胞生物は、ただ分裂を繰り返していくらでも増えていきます。このような無性生殖の場合は、遺伝子情報は全く変わりませんが、子孫を残し増やすことができます。そもそも、生きているというのはどういうことでしょうか。命ってなんなのでしょうか。現象的にみると、生き物がやっていることは、単なる化学反応でしかありません。でも、生きているかどうかには、明確な違いがあるはずです。ただ、その違いを説明するのは難しい。生物学では、生物を①外界と膜で仕切られている②自分の複製をつくって増殖をする③代謝をしてエネルギーを生産する、と定義しています。でも、実際には例外も多く、その境目は実にあいまいです。生物学は覚えることも多く、暗記科目だと思っている人が多いかもしれません。しかし、実は非常に身近な学問で、生き物や命の不思議さを感じられるものです。そんな生き物の不思議さを感じてもらいたいと思い、近著『植物に死はあるのか』(SB新書)を出しました。少しでも生物学に興味を持ってもらえたらと思っています。=談 いながき・ひでひろ 1968年、静岡県生まれ。静岡大学大学院教授。植物学者。農水省、県の研究所勤務などを経て現職。著書に『植物はなぜ動かないのか』『雑草はなぜそこに生えているのか』『はずれ者が進化をつくる』など多数。 【文化・社会】聖教新聞2023.10.12
November 8, 2024
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ダイヤモンドは自ら光を放つことはできないイギリスの科学者ファラデーは幼少の頃、家が貧しく、13歳から製本屋の配達人として働き始めた。仕事に精を出す傍ら、読書に励み、科学に興味を抱いた▼8年後、イギリス王立研究所の化学者デービーの講演に参加。科学者への憧れが燃え上がった。その後、詳細に記録した彼の講演内容を製本し、手紙を添えて送った。デービーは感動しただろう。ファラデーは21歳で、王立研究所の実験助士に採用される▼製本屋での努力と、ダービーとの出会いがなかったら、ファラデーの化学者としての人生はなかったに違いない。たとえ遠回りのように見えても、目の前の課題に真剣に臨む中で、未来への道が開けた好例であろう▼研究所で業績を積んだファラデーは、その後、市民向けの公開講座を開設。特に、少年少女を対象にした講演は反響を呼んだ。彼は69歳の時の講演で語っている。「ダイヤモンドは自ら光を放つことができず、炎に照らしてもらって初めて輝く」(竹内敬人訳)▼誰もが無限の可能性という〝ダイヤモンドの原石〟を心に持っている。それを磨くのは自分自身。照らし輝かせるのは周囲の励まし。ファラデーのようにひたむきに努力し、デービーのように次代の宝をいつくしむ生き方でありたい。 【名字の言】聖教新聞2023.10.12
November 7, 2024
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第17回鎌倉帰還創価学会教学部編 「師子王のごとくなる心をもてる者、必ず仏になるべし」配流の地・佐渡で、日蓮大聖人は、衣食にも事欠き、住む場所も劣悪な環境下で、念仏者らに命を狙われる危機にもさらされます。その仮名で、「開目抄」「観心本尊抄」などの重要な御書を次々と著されました。 日蓮仏法が全世界にと予言文永10年(1273年)4月に「観心本尊抄」を著された後、大聖人は翌5月に、「如説修行抄」を著し、大聖人が法華経を如説修行(仏が説いた教え通りに修行すること)されたように、不退転の信心に励んでいくよう門下一同に対して示されます。その翌月(閏5月)には、「顕仏未来記」で、大聖人が釈尊の未来記(未来についての予言)を証明したと述べ、さらに御自身の仏法が全世界に広宣流布していくと断言されています。「観心本尊抄」によって人類を救済する大法を確立された大聖人は、末法においては大聖人の仏法こそが全世界に広がっていくという遠大な展望を示されたのです。その他、佐渡の地から、下総国(現在の千葉県北部とその周辺)の富木常忍、鎌倉の四条金吾をはじめ、各地の門下に数々のお手紙を書き送られています。政治権力や宗教的権威がいかに結託して迫害しようとも、民衆救済という誓願に貫かれた「指定の絆」を断ち切ることは、遂にできなかったのです。 止まらない弾圧佐渡では大聖人に帰依する人が増えていました。それまで念仏を信じていた在家のものたちが、供養しなくなってしまうため、危機感を抱いていた念仏者らは集まって協議します。「このままでは、われらは飢え死にするだろう。どうにかしてこの法師(=日蓮)を亡き者にしたいものだ」(新1240・全920、通解)そして、念仏者をはじめとする初秋のものたちは弟子たちを鎌倉に派遣し、鎌倉幕府の要職を占めていた佐渡国守護・北条(大仏)宣時に讒言(事実無根の告げ口)します。「この御坊(=日蓮)が島にいることになりましたら、仏堂や仏塔は一棟も残らないでしょう。僧も一人もいなくなるでしょう。阿弥陀仏(の仏像)を火に入れたり川に流したりしています。夜も昼も高い山に登って、太陽と月に向かって大きな声を上げて、お上を呪っています。その声は、国(=佐渡国)全体に聞こえています」(同)念仏者らの讒言を聞いた宣時は、「佐渡国の者で日蓮道に帰依する者がいれば、国(=佐渡)から追放したり、牢に入れたりせよ」(同)と述べ、そのようなものを処罰するという下文などの命令文書を、3度に渡って出します(同、参照)。大聖人は、これらを「そらみぎょうしょ(虚御教書)(新1979・全1478)、あるいは「武蔵前司殿(=北条宣時)の私の御教書」(新1741・全1313)と呼ばれています。本来、鎌倉幕府の御教書(注1)を受けて出すべき命令を、宣時が独断で出したことを指して「架空の御教書」と断じられたと考えられます。大聖人は、佐渡での最初の冬を越したときに記された「佐渡御書」の中で、御自身が受けてこられた難について、「悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失わん時は、師子王のごとくなる心をもてる者、必ず仏になるべし」(新1286・全957)と仰せられています。この御精神は、配流中も変わることはありませんでした。法華経を実践する者を、政治権力と宗教的権威が結託して迫害する構図は、鎌倉でも佐渡でも同じでした。配流した〝罪人〟とその門下を、さらに迫害しなければならないほど、大聖人の影響力は大きく、恐れられていたのです。大聖人は、門下たちも、御自身と同じように法難に打ち勝つよう励まされています。 「鎌倉へ討ち入りぬ」と凱旋 そして、大聖人並びに一門にとって、〝冬の時代〟は終わりを遂げます。文永11年1274年)2月14日、幕府は大聖人の赦免を決定します。幕府が元(大蒙古国=モンゴル帝国は1271年(文永8年)に国名を元(大元)とした)からの襲来への危機感を高め、自界叛逆難と他国侵逼難を予言した、すぐれた指揮者として大聖人の意見を聴取しようとしたと考えられます。大聖人は、3月13日に佐渡の真浦を発って鎌倉へ向かわれます。途中、敵対する多宗派の者たちが襲撃を計画しましたが、多くの兵士が護衛に付き添っていたため手を出せませんでした。そして26日、「鎌倉へ討ち入りぬ」(新1241・全921)と言われたように、堂々と凱旋されたのです。 衆生を助けるため平左衛門尉頼綱と対面 平左衛門尉頼綱と対面4月6日、大聖人は、平左衛門尉頼綱ら幕府関係者と対面されます。佐渡への流刑に処した鎌倉幕府に対して、大聖人は3度目の諌暁をされるのです。その思いを後に綴られています。「国を助けるために述べたにもかかわらず、これほどまでに憎まれたのであるから、赦免された時に、佐渡国からどこかの山中か海辺に身を隠すのが当然ではあるものの、このこと(=真言による祈禱は国を滅ぼすこと、諸州への帰依をやめ大聖人の主張を用いるべきこと)をもう一度、平左衛門に言い聞かせて、日本国で蒙古の攻めに生き残る衆生を助けるために、鎌倉に上ったのです」(新1958・全1461、通解)やむに已まれぬ民衆救済の慈悲の心で平頼綱らとの対面に臨まれたのです。頼綱の態度は、前に対面したときとは打って変わって、穏やかに礼儀正しいものでした。この時、大聖人は、「王が治める地に生まれたので、身は服従させられるようであったとしても、心は心服させられることはない」(新204・全287、通解)と述べられています。同席した者から、念仏や真言、禅についての質問を受け、大聖人はこれら諸宗について重ねて批判し、さらに真言宗が日本の国土の大いなる災いであると責められます。平頼綱が尋ねます。「大蒙古国(=元)は、いつごろ攻めてくるのでしょうか」と。大聖人は「今年は間違いありません」と予言し、さらに、真言師が祈禱を行えば戦に負けてしまうであろうと警告されました(新1241・全921、新205・全287、心292・全357、参照)執権・北条時宗は、大聖人に対して、西御門という鎌倉の一等地に住坊を立てて帰依しようと提案したと伝承されています(「三師御伝土代」、〈注2〉)、それが伝えられたのは、この対面の時であったとされており、他宗の僧とともに、大聖人にも蒙古調伏の祈禱をさせようとしたとも考えられます。〝謗法である諸宗の祈祷よめよ〟と、断固たる主張を繰り返す大聖人を懐柔しようとしたと思われます。もとより、大聖人が求めたのは個人的な優遇などではありません。大聖人の真意を理解しない幕府の提案を、大聖人が受け入れるはずがありませんでした。折しも、その2日後の4月10日から真言宗の僧・定清(加賀法印、阿弥陀堂法印)による祈祷が行われ、翌日には雨が降ったものの、12日になると大風が吹き、鎌倉に大きな被害を残しました(新1242・全921、心244・全317、参照) 池田先生の講義から大聖人は、大難をはるかに見下ろす大境涯であられた。幕府に赦免を乞うような卑屈な真似は許されなかった。幕府が非を詫び、尊崇の念をもって鎌倉御帰還を願う時がくることを、すでに確信されていたのではないだろうか。正義の勝利は、正義の言論、正義の行動によってもたらされる。権力にすりよって庇護を受ければ、かえって権力に利用される。そのことを大聖人は厳しく教えられたのでしょう。(『池田大作全集』第33巻) 幕府は警告を聞き入れず 「三度のこうみょう(高名)あり」大聖人は後に、「未萌(=前兆すら現れていないこと)をし(知)るを聖人という」「三世を知るを聖人という」という言葉を引いて、「余に三度のこうみょう(高名)あり」(新204・全287)と宣言されています。1度は、文永元年(1260年)7月16日、北条時頼に「立正安国論」を提出される際、仲介した宿屋入道に「禅宗と念仏宗とを退けなさい。さもないと自界叛逆難と他国侵逼難が起こる」と忠告を託された時です。2度目は、文永8年(1271年)9月12日、大聖人を捕らえた平頼綱に向かって「日蓮は日本国の棟梁なり。予を失うは日本国の柱橦(はしら)を倒すなり」(同)と獅子吼し、再度、自界叛逆難と他国侵逼難の惹起を警告された時です。3度目が、先ほど述べた文永11年4月8日の平頼綱との対面の時です。この際に、現実となりつつある他国侵逼難に真言の祈禱で対抗しようとすれば、かえって国が亡びると戒められています。自界叛逆難は既に起こり他国侵逼難も大聖人の予言通り、文永11年の内に元が来襲し、現実のものとなります。幕府中枢に対して3度にわたってなされた警告が的中するのです。大聖人の警告を傾聴するつもりが幕府にないことが明らかになると、「3度諫めても聞き入れられない時は、国から去る」という故事〈注3〉に従い、大聖人は同年5月12日に鎌倉を発って、甲斐国波木井郷(現在の山梨県南巨摩郡身延町波木井とその周辺)の身延山に入られました。そして、末法万年の広宣流布のため、重要な法門を説き示されるとともに、大聖人と同じ誓願と行動を貫く人材を育成されるのです。(続く) 池田先生の講義から多くの高僧らも(=大聖人が二難予言の根拠とされた仁王経や薬師経)の文言は知っていたであろうが、そこに込められた仏の真意は分からなかった。しかし、大聖人は、同じ文言から、現実の民衆の苦悩の本質を洞察され、やがて襲い来るさらなる危機を予測された。その差は、民衆の苦悩への深い同苦があるか否かによるのです。何としても人々を幸福にと願う、仏の大慈悲があるかどうかなのです。大事を事前に察知する力は、まさに智慧の発現です。その智慧は、真剣にして深い慈悲の結実といえる。民衆に幸福をもたらす大事を未然に察知する智慧は、一切衆生を救済されんとする御本仏の大慈悲に基づくものなのです。(『池田大作全集』第33巻) 〈注1〉 鎌倉幕府では、将軍の意を受けて家臣が自らの名を署して、執権と連署連盟の関東御教書、六波羅探題・鎮西探題が出す六波羅御教書・鎮西御教書があった。「法華行者逢難事」での引用によると、宣時が出した命令書には、「自判これ在り」(新1303・全966)とある。宣時自身の名で発給されていることから、宣時が御教書を偽造したわけではないと思われるが、「そらみぎょうそ」という文言から、偽装したとする見方もある。〈注2〉 日道の「三師御伝土代」のうち、「日興上人御伝草案」を参照。日興上人の回想として残されている。〈注3〉 中国の古典である『礼記』や「史記」に記されている。 [関連御書]「種々御振舞御書」「如説修行抄」「顕仏未来記」「下山御消息」「窪尼御前御返事(虚御教書の事)」、「千日尼御前御返事(真実報恩経の事)」、「佐渡御書」、「高橋入道殿御返事」、「撰時抄」、「報恩抄」 [参考]『池田大作全集』第33巻(「御書の世界〔下〕」第十一章)、小説『新・人間革命』第11巻「躍進」 【日蓮大聖人 誓願と慈悲の御生涯】第白蓮華2023年10月号
November 6, 2024
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「安心」して生きるために自他共の「幸せ」に焦点(フォーカス)をインタビュー㊦ 日本大学文理学部 末富 芳教授人権を守ると平和が創れる——インタビューの前半では、子どもの権利意識を育むため、子どもが意見を表明する機会を奪ってきた「沈黙の文化」から、子どもの意見に耳を傾ける「対話への文化」への転換が重要であると伺いました。そもそも子どもの権利は全ての子どもが〝無条件〟に持っているものです。「義務」や「責任」を果たさないからといって奪われるものでも、果たしたからといって与えられるものでもありません。 まず改めて考えたいのが、「なぜ人権を大切にするのか」という点です。権利について学び合う場などでこうした質問を学校の先生にすると、答えに困ってしまう方々も少なくありません。私は一言、「『平和』を創れるからです」とお伝えしています。「世界人権宣言」(1948年採択)の全文に、そう書いてあるのです。正確に言うと〝すべての人間の尊厳と権利を承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である〟とうたわれているのですが、ただ「自由」「正義」「平和」の三つを一遍に伝えても、みんな忘れちゃうので(笑)。私は「人権を守ると『平和』を作れる」と、シンプルに伝えています。創価学会の池田名誉会長がこれまで、「対話」の目的を「平和」という一語をもって繰り返し強調されてきた理由についても、私なりに考えてみました。それは「平和」という一語の中に、「自由」も「正義」も含まれているのではないか——と。人として基本的な自由が制限されている状況を「平和」とは呼べません。人権侵害の不正義が放置されている状況も「平和」とは呼べません。 ケアする人をケアして——池田先生も次のように語っています。「『平和』とは『戦争がない』という状態ではない。『平和』とは『人間一人一人が輝いている』『人権が大切にされている』社会のことです」と。 自分の権利や尊厳が侵害された時、つらい時、苦しい時には、遠慮なく声を上げていい。それを受け止め、助けてくれる人も必ずいる。仕組みがある。だから安心して——そんなメッセージを、子どもたちに伝えられる社会にしていかなければなりません。「こどもまんなか社会」の実現を目指すうえで、私自身は「安心」こそがキーワードだと感じています。その参考として、一つのアンケートを紹介させてください。神奈川・川崎市が、2020年に実施したものです。同市は全国に先駆けて、「子どもの権利に関する条例」を施行しています。(2001年)。子どもと大人が一緒になって考え、何度も話し合いをしてできた条例でした。条例には「ありのままの自分でいる権利」や「自分で決める権利」など七つの権利がうたわれているのですが、その中で「どの権利が大切だと思うか」との問いに対し、アンケートに回答した604人の子どもたちのうち半数以上が選び、最も多かったものが「安心して生きる権利」だったんですね。私自身も、各地の講演会などで子どもたちと語り合う際に、同様の実感を得ています。子どもたちの誰もが、「今を安心していきたい」と願っている。虐待があったり、心身が疲れた時にゆっくり休ませてもらえなかったりする家庭には、安心がありません。いじめがあったり、教師から怒鳴られたり、理不尽なルールがあったりする学校にも、安心がありません。どうすれば、家庭を、学校を、子どもたちにとって安心の居場所にできるのか——。『こどもまんなか社会』を築くため、私たち大人がみんなで考え、取り組んでいく必要があります。とはいえ、子育ての中の保護者は何かと忙しく、「わが家を〝安心の居場所〟にと言われても、負担が大きい」と感じるご家庭も、少なくないでしょう。だからこそ、地域で安心・安全の居場所をつくっていくことが大事になります。児童館であったり、子ども食堂であったり、近年はユースセンター(中・高生向けの放課後施設)にも注目が集まっています。自らそうした「居場所」をつくることは難しくても、すでにある「子ども支援団体」への寄付などを通し、間接的に子どもを支えていく方法もあります。子どもを支援する団体にとって、現実的に一番助かるのが、「経済的な支援」です。もちろん、できることから実際に「お手伝い」することも、喜ばれます。どこも人手不足ですから。地域・社会全体で、物心両面において「子どもをケアする人たち」のことを「ケア」していかなければなりません。 大人も子どもも一緒の居場所に——創価学会も、親御さんたちが子育ての悩みや苦労を安心して話し、ホッとできる「家庭教育懇談会」という取り組みを各地で実施しているほか、小中高世代のメンバー地日常的に関わり、支え励まし合う「未来部」という組織があります。今夏は全国各地で、この未来部を「真ん中」に置いた集い「〝未来〟座談会」を開催しました。 素晴らしい取り組みです。特に「〝未来座〟談会」は、大人の皆さんが子どもたちの意見に耳を傾け、それを取り入れる内容だったと伺いました。事前と事後に、代表の地域で子どもたちにアンケートを取ったのもいいですね。事前の声で「(いつもの座談会は)大人向けの内容で堅いから、あまり楽しくない」という率直な意見を聖教新聞に載せたことも、事後に「楽しかった」「まあまあ楽しかった」という声が約9割ある一方で、ちゃんと「あまり楽しくなかった」「楽しくなかった」という声が掲載されていたことも、どちらも忖度がなくていい(笑)。子どもたちが安心して意見を表明できている証拠です。〝地域の居場所が大切だ〟といっても、望ましいのは、「大人だけ」「子どもだけ」の居場所ではなく、「子どもと大人が一緒にいられる、一緒につくる、一緒に学べる」居場所だと、私は思います。そんな居場所をつくるには、大人が子どものことを決して下に見ず、子どもたちの力を信じることが第一歩です。もちろん大人だけで物事を進めた方が早いし、楽かもしれません。けれど大変だからこそ、新しい意見があり、新しい学びがあり、新しい楽しさもあるんです。大人が「子ども目線」に立つということは、子どもを対等なパートナーとしてみるということでもあります。「子どもの幸せ」を第一に考えて、「子どもを信じる。一緒に学ぶ」——この信念や哲学を、私たち大人が持てるかどうか。それが問われているともいえるでしょう。 自分もあなたも大切にする哲学——小学校の校長も務めたことのある創価学会初代会長の牧口常三郎先生は「教育は子供の幸福のためにある」と叫び抜き、太平洋戦争中に軍国主義教育を進める軍部政府と対峙して、投獄されています。子どもを信じ、どんな時も子どもと共に歩んだ教育者でした。その信念を強めたものが、「人間の無限の可能性」「自他共の幸福」を説いた日蓮仏法の信仰でした。 牧口会長は、困難な状況にあった多くの子どもを前にして、「この子どもらを何としても幸せにしなければならない」と思い、「そのためには自分は何をすべきか」と問い続けた方であると理解しています。「子どもの権利」や「人権」といった概念などなく、「国家のための教育」が推し進められていた時代に、「子どもの幸福のため」を叫ぶことが、どれほど大変なことだったか。ひるがえって現在、「こどもまんなか社会」を実現しなければならない理由として、「少子化による人口減少や、労働力の減少を抑えるため」「年金制度を維持するため」など経済的な理由を挙げる声も少なくありません。もちろん、そのことを否定する必要はありませんが——しかし。やはり、それは「国の目線」「大人まんなか」の発想です。「こどもまんなか社会」を目指す今こそ、もっともっと一人一人の「幸せ」にフォーカス(焦点)を当てる社会に変化できるチャンスだと、私は思っています。「国の未来のため」だとか「お金のため」だとか、そうしたものばかりに焦点を当てていると、「人間の幸せ」にフォーカスする力がだんだんと弱まってしまいます。実際、私たち日本の大人は、子どもの幸せを実現する強い願いを持てなくなってしまっているのではないでしょうか。「人間の幸せ」にフォーカスする力を支えるものこそ、人権に対する「哲学」です。「自分の権利」だけでなく、「あなたの権利」も大切にする。大切にしなければならない——と。何が正解なのか分かりづらい時代だと言われますが、「人間としてこれだけは譲れない」いう正解は、必ずあるのです。その哲学こそが、「こどもまんなか社会」を築く原動力となるに違いありません。 【危機の時代を生きる 希望の哲学】聖教023.10.8
November 6, 2024
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日本庭園を紹介し交錯する思い作家 村上 政彦タン・トァンエン「夕霧花園」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日は、タン・トァンエンの『夕霧花園』です。1941年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃を決行し、米国との戦争を始めましたが、同じ日、真珠湾奇襲よりも先に、英国領のマラヤ連邦に侵攻しました。本作の主人公テオ・コリンは、戦時下に日本軍の収容所で過酷な労働を強いられ、指揮官に指を切断されるという残忍な仕打ちを受けたのです。先を急ぎ過ぎてしまいました。物語を順に追っていきましょう。冒頭、ユンリンは判事を務めた連邦裁判所を、定年より2年繰り上げて退職します。それには理由がありました。原発性進行性失語症におかされていたのです。これは、読み書きの能力を失ってしまう病。彼女は判事の職を全うできないと判断し、職場を去ります。ユンリンは若い頃、天皇の庭師を務めたナカムラ・アリトモに弟子入りし、庭園「夕霧」を一緒に造り上げた。それを復元しようと、首都クアラルンプールから4時間かかる山岳の村タナ・ラタへ向かいます。そして、記憶が確かで読み書きができるうちに、回顧録めいた手記を書き始める。ユンリンがペナン島で生まれたのは1923年。両親は海峡華人。51年に父の友人が経営する「マジューパ茶園」にやって来ました。ユンリンには姉がいました・名前はユンホン。しかし、姉とは収容所で死に別れました。姉は家庭で日本に滞在した時、京都で見た庭園に強いあこがれを抱き、必ず自分の庭園を造ろうと決めた。ユンリンは、アリトモに姉の追悼のために庭を造ってもらおうとします。アリトモはその依頼を断りましたが、ユンリンに作庭の技術を指導すると提案し、彼女は庭造りを学びます。物語は回顧録と現在の時間がない交ぜになり、進んでいく。日本軍が去った後には共産ゲリラに悩まされるユンリン家族の来し方と、版画家、彫り物師でもあったアリトモを研究する歴史学者ヨシカワ・タツジの調査の模様が語られていきます。やがて「夕霧」はほぼ復元されます。また、ユンリンの身体には、アリトモの手による彫り物があることが明らかになる。そこから、タツジは、アリトモが日本で解雇されたことには何か秘密があったのではないかと推論する展開へ——。庭園「夕霧」、主人公の彫り物、アリトモが姿を消した背景がつながっていく。ユンリンの回顧録では、日本兵による仕打ちが克明に記されますが、戦後78年以上が過ぎ、戦時中に起きた、マラヤの人々への加害の実態について知らない日本人は多いでしょう。戦争の「記憶」と「忘却」の問題についても一考させられる作品です。[参考文献]『夕霧花園』 宮崎一郎訳 彩流社 【ぶら~り文学の旅㉟海外編】聖教新聞社023.10.11
November 5, 2024
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「子どもまんなか社会」とは?「今を生きる私」から始める未来「こども基本法」施行、「こども家庭庁」の発足から半年がたちました。めざすべき社会像は「こどもまんなか社会」です。それは具体的にどんな社会? 自分にも関係ある? 上下2回にわたり、日本大学文理学部教授で子供政策が専門の末富芳さんに聞きました。(聞き手=大宮将之、村上進)インタビュー㊤ 日本大学理学部 末富 芳教授すえとみ・かおり 山口県生まれ。京都大学教育学部卒。同大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。学術博士(神戸大学大学院)。専門は教育行政学、教育財政学。大学院修了後、福岡教育大学准教授などを経て2016年から現職。内閣府子供の貧困対策に関する有識者会議構成員、文部科学省中央教育審議会委員等を歴任。著作に『教育費の政治経済学』(勁草書房)、『子育て罰「親子に冷たい日本」を変えるには』(共著、光文社新書)などがある。 子どものことをどう捉える?——「こども基本法」が施行された意義とは改めてなんでしょうか? それは二つの側面から語られます。「理念法」としての面と、「政策規定(プログラム)法」としての面です。まず理念としては「子どもは権利の主体である」と位置付けられたことが非常に大きい。子どもを「大人が保護すべき対象」として捉えるだけでなく、「大人と同じように、一人の人間としての権利を持った主体」だと定義されたわけです。 ——見方を変えれば、これまでの日本は、子どものことを〝大人と等しく権利を持った主体〟と認めず、〝未熟な存在〟とみて、その意見を尊重しない社会だったともいえるでしょうか。 ええ。ご自身が子どもだった頃を振り返ってみて下さい。例えば学校や自治体において、自分たち子どもにかかわるルールや政策が検討されている時、「どうせ子どもだからわからないだろう」と理由をつけられ、自分たち(子どもたち)の意見を全く聞いてもらえず、大人たちだけで勝手に決められたり、自分たち子どもが何らかの意見を述べても、「子どものくせに」と思われ、その意見を抑え付けられたり……。思い当たるフシは、ありませんか?(苦笑)1989年に国連で採択された「子どもの権利条約」には、〝最も大切な「四つの権利」〟として、「自分の意見を伝え、参画する権利」をはじめ、「子どもにとって最も良いことが実現される権利」「差別されない権利」「安全安心に成長する権利」が掲げられています。「こども基本法」の意義のもう一つの側面についてはまさに、この「子どもの権利条約」を「誠実に順守」するための政策が充実し始めてきている点を挙げられるでしょう。 「からだ」「心」「社会」の全て——先月末、こども家庭庁は、子ども・若者政策の指針となる「こども大綱」の中間整理案を示しました。 評価できるポイントはいくつかあるのですが、「こどもまんなか社会」の定義がとても素晴らしい。「全てのこども・若者」にとって幸せな社会とは、具体的には、「①身体的」「②精神的」「③社会的」に、将来にわたって幸せな状態(ウェルビーイング)で生活を送ることができる社会である——と定義しているのです。幸せとは何かを考える上で「からだ」「心」「社会」という三つの側面から、子どもや若者たちの状態を捉えること、その三つ全てが良好な状態となるようにアプローチすることが、絶対に欠かせません。一方、「子ども大綱」の中間整理案には、まだまだ課題もあります。私自身、こども課程審議会の「こどもの貧困対策・ひとり親家庭支援部会」で委員を務めているのですが、「子どもの貧困」に関する記述が十分ではなかったと感じています。「子どもの貧困」の解消なしに、「子どもの権利」の保障と「最善の利益」の追求など、ありえません。もちろん今後、大綱案が改善されていくことを期待しています。 子どもの貧困 視点を変えて——7月に行われた創価学会女性平和委員会社債の「平和の文化講演会」で、末富さんは「子どもの貧困」の定義をめぐって、多くの場合、〝低所得世帯の問題〟として限定的にとらえられてしまっている実情に、警鐘を鳴らしていました。 世帯の所得が「高い」か「低い」かだけで、「貧困」を捉えてしまうと、家庭内における子供たち一人一人の状況が〝見えなく〟なってしまいます。「子どもの貧困」とは親の所得の高低にかかわらず、「子どもらしく生きる権利や安心・安全に育つ権利、幸せな生活が奪われている状況」である——との視点の転換が必要です。今、社会科学の分野では「家庭内貧困」という概念が注目されています。たとえば世帯の稼ぎ手である父親が、配偶者である母親、子どもの生活資金を不当に制限・管理する「経済的虐待」をしている場合、世帯の収入が安定していたとしても、子どもの状況は「貧困」です。これでは、子どもに「安心・安全」があるとはいえません。また他にも、例えば2人きょうだいのうち上の子だけが習いごとをさせてもらったり、学習塾に通わせてもらったりしているのに、下の子はそれを一切させてもらえないといったケースもあります。現代は地域のつながりの希薄化や核家族化が一段と進み、子どもたち一人一人の置かれている状況が周囲から〝見えなくなっている〟社会ともいえるでしょう。今までは「家庭内の方針」として見過ごされてしまっていたようなケースについても、「こども基本法」に基づいて〝子ども一人一人の権利〟を「擁護する視点から、地域・社会全体でアプローチし、解決していかなければなりません。その意味でも、行政から独立した立場で子どもの権利が守られているのかを監視し、権利の擁護に努める専門機関「子どもコミッショナー」の創設や、子どもたちが安心して何でも相談したり、助けてもらえたりする自治体の第三者機関「子どもオンブズマン」等の拡充が一層、求められます。こうした「子どもの権利」を守る仕組みづくりとともに、絶対に外してはならないことは、子どもたちに自身が「自分たちは権利の主体なんだ」という意識や自覚を育める「学びの場」を、積極的につくることです。そもそも権利とは何か。どんなことが権利の侵害に当たるのか。そうした知識を持っていなければ、学校や家庭内で大人から言われたこと、されたことに対して「これは権利侵害なんだ」という認識をもつことはできません。認識することで初めて、安心して相談することもできるのです。 「沈黙の文化」を「対話の文化」に子どもの意見を聞ける大人に 人権意識を育むために——子どもたちの人権意識の向上を阻むものがあるとすれば、それは何だと思われますか。 一言でいえば「沈黙の文化」です。「〝子どもなんだから〟我慢しなさい」とか、「〝子どもなんだから〟黙って大人の言うことを聞きなさい」とか、そういった理由だけで沈黙を強いられ、意見を表明する権利を奪われ、人権とは何かを学ぶ機会すらも奪われてきたのが、これまでの日本社会だともいえます。 ——近年、問題となっている学校の「ブラック校則」(必要性や合理性が見当たらない校則)も、「「沈黙の文化」を象徴するケースの一つかもしれません。例えば「生とは登下校時にコンビニに入ってはいけない」と指導されているのに、大人である教員は出退勤時、普通に入っている。その矛盾に生徒が「おかしい」と声を上げても、「子どもだから」という理由で一方的に制限されてしまう……。 そもそも登下校の際の責任は、学校ではなく保護者にあります。民法上に定められている親の責任(監護権)の範囲なのです。だからそもそも、登下校の際にコンビニに入ってはいけないとか、学校から指示される理由はないのですが……。ただ学校側としても、コンビニに自分の学校の生徒が集団でたむろしているのが常態化している場合、学校にクレームを入れられることが多いため、「安全管理」の名のもとに、コンビニへの出入りを制限してしまうのでしょう。では、こうしたケースの場合、「権利」の視点からどのように対応すればよいのでしょうか。小・中学生が「子どもだから」という理由だけでコンビニの出入りを制限されること自体、権利の侵害です。一方でコンビニ側の視点に立って考えてみた場合、お店の出入り口に集団でたむろされると、他のお客が入りづらくなるため、お店にとっては「利益を上げる権利」が侵害されている状態だといえるわけです。もしも学校教育の現場でこうしたケースを取り上げるとしたら、生徒とコンビニの双方にそれぞれ権利があることを学び、それをどうすれば侵害せずに尊重できるか——子どもたちを主体とした「対話」を通して共に考えていく方法が挙げられるでしょう。「沈黙の文化」の文化の対義語があるとすれば、それは、「対話の文化」です。しかし、この「対話の文化」「対話の作法」が日本社会に十分に育っていないことこそ、課題なのです。 どんな人生がいいですか?——自分も相手も、大人も子どもも、どうすれば「互いの権利」を守り、「共に幸せ」な状況を作れるか。その道筋を見出すために「対話」が必要なのですね。「自分も相手も幸せに」という目的を踏まえた上で「こどもまんなか社会」の実現を大人たちに呼びかけると、「子どもの大変だろうけれど、大人だって大変だよ」「子どもを大切にと言われても、自分たち大人の負担(物理的・経済的)が増えるのは嫌だ」という声が聞かれることも少なくありません。末富さんであれば、そうした方々と、どのような対話をされますか。 ちょっと厳しい言い方になるかもしれないのですけれど……。こう問いかけるようにしています。「あなたは、誰かを傷つけて不幸にしたいですか」と。それでよいというのであれば、仕方がありません。けれどそう問いかけたとき、ほぼ全ての人が「いや、それは違う」「そんなことは思っていない」とお答えになるんですよね。それはなぜかと言えば、誰もが自分の心の中に「誰かを望んで不幸にしたくはない。できればだれかを幸せにして、自分も幸せでありたい」という本然的な願いがあるからだと、私は思っています。であるなら!——その願いに正直になりましょう。そしてその優しさを真っ先に向けるべきは、子どもたちをはじめ、高齢者や障がい者など、社会的に弱い立場に置かれている人ではないでしょうか。そうした人たちに優しい気持ちを向けてこそ、社会は初めて明るくなり始めるからです。社会福祉学には「パルネラビリティ」(社会的衰弱性)という概念があるのですが、社会で一番置き去りにされがちな人の幸せに対して目を向けてこそ、あらゆる人々が幸せになれるという認識が共有されているのです。「誰かを置き去りにして、誰かを傷つけて、誰かを不幸にする人生でもいいですか」という問いを立てることで気づきが生まれる——人権について学ぶ大切さも、そこにあるんです。誰かの権利の侵害を放置するということは「誰かを不幸にして傷つける」ということと同じ意味ですから。 ——私たちが信奉する日蓮仏法にも「自他共の幸福」を追求します。創価学会名誉会長の池田大作先生も「自分だけの幸福もなければ、他人だけの幸福もない」と一貫して訴えてきました。 人権を大切にすることは「自分も相手も幸せになるため」であり、究極は「平和」のためだと、私は思っています。この点、池田名誉会長が「対話」の目的を「平和」という一語をもって繰り返し強調されてきたことに、「なんて優れたセンスだろう!」と尊敬の念を抱いているのです。 【危機の時代を生きる 希望の哲学】聖教新聞2023.10.7
November 5, 2024
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心斎橋の鉄橋武庫川女子大学 丸山 健夫心斎橋をご存じだろうか。今では大阪の観光スポットの名前として有名だ。だが、橋という限り元々、橋があったはずだ。江戸時代の岡田心斎なる人物が、長堀川に木の橋をかけたのが由来。心斎橋という橋が、確かに江戸時代からあったのだ。その心斎橋は鉄橋となる。日本で五番目の鉄橋だそうだ。鉄の橋はドイツから輸入された。錬鉄というパリのエッフェル塔と同じ種類の鉄で弓の形。弓の弦にあたる部分が川の上に置かれるイメージだ。だから橋脚がいらない。しかもプレハブ住宅のように組み立てと解体が簡単にできた。これが決め手となった。明治の終わりに心斎橋が石の橋に変わるとき、もったいないと安治川に接続する境川運河の境川橋になった。橋脚がないから船の通行にも便利だった。ところが境川橋も石の橋に変わり、昭和三年、今度は西淀川区の大和川にかかる新千船橋となる。それまでの橋と、長さがピッタリ同じだったのである。しかし、昭和四十六年、大和田川が高潮対策で埋められると再び移設。今度は鶴見緑地のすずかけ橋となったが、花博開催で再移設。同公園の緑地西橋となる。そうなのだ。明治の心斎橋は、現存する最古の鉄橋として今でも残っている。そして鉄の橋に続いた医師の心斎橋も、長堀川の埋め立てで焼失せず、長堀通をまたぐ石造りの豪華な歩道橋に昭和三十九年変身。さらに平成九年、長堀再開発で横断歩道の両側の飾りとなった。心斎橋という橋はなくなったが、橋自体は鉄の橋も石の橋も大切に保存されている。有名どころのなせる技である。 【すなどけい】公明新聞2023.10.6
November 4, 2024
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生誕150年・小林一三川崎市市民ミュージアム学芸員 鈴木 勇一郎デパートや歌劇団まで幅広く小林一三は、現在の阪急電鉄を作り上げた人物である。今から150年前の1873(明治6)年に山梨県韮崎の裕福な商家に生まれた小林は、東京に出て慶應義塾で学び、卒業後は三井銀行に入社した。1906(明治39)年に退職し大阪に移住し、梅田から箕面や宝塚への路線を計画していた箕面有馬電気軌道(箕有)の設立を引き受け、開業にこぎつけた。この電鉄会社が、後に阪急電鉄へと発展していくようになったのである。さて小林は、鉄道だけでなく、郊外住宅地の開発、宝塚新温泉やターミナルデパートの開業、宝塚歌劇の創始に至るまで、さまざまなビジネスを展開した人物として知られている。当時、東京や大阪といった大都市では、都心部にビジネスセンターが出現し、郊外へと市街地が広がり始めていた。人口が増え、都市が拡大する郊外に住んで都心部に通うという生活スタイルは、20世紀を通じたトレンドになっていくが、小林はこうした流れを巧みにつかみ、郊外を中心とする目指すべき都市ビジネスのモデルを確立したのである。しかし、当初からこのようなモデルを〝〟として完成させていたわけではない。小林は後に。大阪梅田から箕面や宝塚に向かう箕有の路線を、沿線に何もない田舎電車だったと改装しているが、実際には、古くからの町場や箕面の滝といった名所が数多く点在していた。実は、通勤通学需要が未成熟な初期のころの電鉄は、名所を当てにした行楽輸送に重きを置いていた。初期の箕有でもこうした古いタイプの需要に依処していた。 鉄道沿線に宅地開発 小林は、こうした雰囲気を意識的に郊外住宅地に居住する新たな中間層に適合した、健全で衛生的な空間に作り替えていった。宝塚歌劇は1914(大正3)年に新温泉の余興として始めたものだが、花柳界を想わせる和楽器の使用を禁じるなど、健全なイメージ作りに努めた。さらに西宮線や神戸線を建設し阪急電鉄へと脱皮していく過程で、沿線に住宅地を開発し、関西学院などの学校を誘致したりして、阪急電鉄の「山の手」イメージと結合した「阪神間モダニズム」を形づくっていったのである。こうした小林の一連の新基軸は、彼が慶應義塾再学中に文学に熱中し、小説を執筆するなど、文化に対する造詣が深かったことも無縁ではないだろう。初期の宝塚歌劇では、自ら脚本も手掛けている。美術にも詳しく、彼の集めたコレクションをもとに、後に逸翁美術館が開館している。いずれにせよ小林は、こうした試行錯誤を重ねつつ20世紀型都市ビジネスを確立し、目指すべき方向性を確立した。小林の確立した手法は、その直後の影響を受けた東急の五島慶太だけでなく、全国の電鉄会社の経営の在り方に、大きな影響を与えていった。現在、地方だけでなく都市部も人口が減少し、20世紀とは状況が大きく様変わりしている。21世紀に入り20年以上たつが、私たちはめざすべき新たな都市モデルをまだ確立できないでいる。小林なら、こうした状況にどのような手法で取り組むのか、興味深いところだ。(すずき・ゆういちろう) 【文化】公明党2023.10.6
November 4, 2024
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居場所を巡る旅被災地と向き合うなかで仙台に住む家族が被災したことがきっかけで、東日本大震災の被災地を訪ねるようになった磯前順一・国際日本文化センター教授。被災地から聞こえてくる犠牲者、被災者の心の声を『死者のざわめき 被災地信仰論』(河出書房新社)などにまとめ、その度、被災と向き合う学者の「居場所」について考えてきた。磯前教授に聞いた。 悲しみ、尽きない思いを翻訳する自身の無力さ認め、自ら問う磯前 順一かき消された言葉を聞く私が被災地を初めて訪ねた2011年4月当時は、被災者を支援するボランティアや震災の被害を調査する多くの研究者が被災地に通っていました。そのなかで、心に深く刺さったのは、被災地で出会った僧侶から言われた一言でした。それは「学者であれば、学者らしい役割を果たしてほしい」というものでした。被災地に通う学者、研究者の中には、被害の甚大さに圧倒され、それを言葉にできず、ボランティアに加わり、泥夏季や炊き出しを手伝うようなる人もいました。しかし、それは学者としての知的責任を放棄していくことにならないか、私は疑問に感じていました。また、被災地を案内してくれた知人の学者は「身近に家族を亡くした人がいる私たちには言葉を発することは簡単ではない。しかし、被災地の外から通うあなたにはそれができる。学者として被災地の思いをどう言葉にできるのか。その覚悟を持って被災地に向き合ってほしい」と私に語ってくれました。当時の私が、かき消された犠牲者の声、言葉にならない被災者や遺族の声にどれだけ耳を傾け、それを言葉として伝えることができたのか、それは分かりません。しかし、死者と共に被災した人々の心の声に耳を済ませて、彼らの尽きぬ思いを言葉に表していく一種の翻訳作業が必要であることは、知人らの言葉がひしひしと感じていました。それが。震災4年後に、拙著『死者のざわめき』を出すことにつながったのです。 責任放棄する学者、研究者も学者や研究者の中には、被災者の悲しみを言葉にできない自身の無力さに溺れ、被災者と同じ痛みを共有しているかのように振る舞う人もいました。「こんなことを書いたら被災地の人は傷つきますよ」と語る学者らの言葉は私を何度も耳にしました。しかし、その結果、実際に被災地で何が起きたイルカを伝えようとする言葉は握りつぶされ、被災地の人々は気の毒な被災者といった捨てれをタイプ化された被災地のイメージが作り上げられていったのです。自らの責任を放棄した学者や研究者の罪は決して小さくありません。震災後、仙台で大学吸引となった友人から、私は被災者に向き合う学者の姿を学びました。自らも家族も被災していない彼でしたが、対する学生は被災したり、家族を失っており、彼らが書くリポートや卒論では必ず震災について触れられているのです。それらを読むことはつらく、どう評価すればよいかもわからない。しかし、彼は「学生たちに寄り添うとは言わない。言葉にできない自身の無力さを歯がゆく思うけれど、立ち止まり、個の無力さと向き合い続ける」と自ら決め、現在も被災地の大学の教壇に立ち続けています。 奪われた「喪の行為」に気づく 東北から新しい学問が2016年、震災論の集中講義を先代の大学で行ったときのことです。対話を通し、教室に笑顔がやって来たと感じ始めていたなか、笑わない学生がいることに気付きました。学生の出身地は福島県南相馬市小高区。当時、彼女は仙台に住んでいましたが、家族は原発事故の影響で転々としていました。「うちの村の人は泣けないんです。表情がないんです。いつ村に帰れるか、泣けることがうらやましいです」と彼女は語りました。今も泣けない福島の人々の悲しみに触れ、それは何に起因するのか、理解したいと思いました。そして、それは「喪の行為」が欠けていることにあると、被災地の学者たちとの対話を続けるなか気付きました。日本では弔い上げといって、33回忌や50回忌を節目に故人への法要に一つの区切りをつけてきました。福島の人々は、こうした「喪の行為」、心の痛みを胸に置き、悲しみに蓋をする権利を奪われていたのです。なぜならば、それは天寿を全うする権利を奪われた不条理な死であったからです。被災地における「喪の行為」をどれだけの人が意識していたでしょうか。また、それを伝えられない学者が被災地を見えにくくしているのではないかと思っています。被災者の心の底にあるつらさに触れるとき、私は言葉を失います。それでも立ち止まり、自身の無力さを認めながら、自ら問います。「どうするのか」と。そこに居場所はありません。まさに宙ぶらりんの状態です。しかし、だからこそ彼らから聞く資格を持つことができるのではないかと思います。それこそが聞くものの倫理ではないでしょうか。私の恩師の安丸義男は「人々の生活に踏み込んでいく俺たちは、その報いとして自分自身の居場所はないという覚悟が必要なのだ」と常々語っていました。表現者でもある学者は被災者の声を言葉にし、それを読む人に時として痛みを与えることも覚悟し、発信する役割を引き受けなければならないと考えています。それは被災地を想う力を引き出すためにも必要なのです。私は東北から新しい言葉、学問が生まれてくると思っています。そして、それは被災者の深い悲しみ、学者をはじめとする表現者たちの覚悟によって語られ、築かれていくものなのです。 いそまえ・じゅんいち 1961年、茨城県生まれ。文学博士。東京大学宗教研究室助手、国立歴史民俗博物館や奈良文化財研究所等で研究員、非常勤講師を務め、現職。専門は宗教・歴史研究。著書に『宗教概念あるいは宗教学の死』、『(死者/生者)論』(共編著)などがある。 【文化・社会】聖教新聞2023.10.3
November 3, 2024
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デジタルツインの実用化科学文明研究者 橳島 次郎コントロール権の保障が必要デジタルツインという先端技術が多くの分野で活用されている。実在する者や環境を実測・収集した膨大なデータを基に仮想空間に再現するもので、例えば飛行機のエンジンを再現して動きを試し、設計・製造や保守点検に生かすといったことが行われている。ある町をそっくり再現して人や物の流れ、気象などをシミュレートし、まちづくりや防災対策・避難計画の策定などに利用する例もある。この技術を医療や医学研究で使おうという試みも始まっている。この技術を家用や医学研究で使おうという試みも始まっている。例えば心臓のデジタルツインを作れば、心筋の動きや血流を再現し、現に患っている、または将来かかりそうな病気の信仰を予測し、治療や予防の方針を立てるのに役立てることができる。脳のデジタルツインを作り、うつ病や認知症などの病態を解明し治療法を開発しようという研究計画も出てきた。将来は個々の臓器にとどまらず、全身のデジタルツインが造られると予測する論者もいる。こうした体の動きを再現するデジタルツインは、かかりやすい病気の性質を知り、生活習慣の改善や自分に合った健康診断の選択の手助けとなるので、本人には大きな利益となる。だが、生命と健康に関する重大なデータを含むので、不用意に第三者に知られると、不利益を被る恐れもある。例えば雇用主に知られれば、就職や昇進で差別を受けるかもしれない。保険会社に知られれば、保険加入を断られたり、高い保険料を要求されたりするかもしれない。このような懸念は、遺伝子検査で分かる遺伝情報の扱いにおいて、すでに現実となっていて、対策が求められている。デジタルツインでも配慮と対策が必要になるが、それが示すのは加工された電子データに基づくシミュレーションによる予測なので、保障されるべき個人医療情報といえるのか、微妙なところだ。個人情報保護法とは別の特別の保護制度を設けるべきかもしれない。今後、身体のデジタルツイン作成を適正に実用化するためには、本人が同意した目的以外ではと変えないとする必要がある。個人情報と同じように体のデジタルツインでも、何にどう使うか。本人のコントロール権を保障しなければならないということだ。そこに自分のデジタルツインに誰がアクセスしてよいかを決める権利も含まれる(例えば家族やかかりつけ医など)。自分の利益になると判断できれば、雇用主などへの開示も認めてよい場合があるだろう。 【先端技術は何をもたらすか‐7‐】聖教023.10.3
November 3, 2024
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資本主義の〈その先〉へ大澤 真幸 著異なる〈普遍化〉によって内側から克服北海道大学教授 橋本 努 評 資本主義の次に来る時代を想像することは、いかにして可能だろうか。本書は、この大きなテーマをめぐる、著者の長年の施策をまとめた到達点である。講義スタイルの文体で読みやすく。随所に深い洞察が散りばめられている。資本主義を超えるといっても、私有財産を否定するわけではない。資本主義の根幹は肯定する。けれどもその行程は、逆説的にも資本主義の否定にいたるというのが著者の論理である。資本主義というのは、絶えず剰余価値を生み出すことで、資本の蓄積が無限に可能になったシステムである。マルクスはこの剰余価値が、労働の搾取から生まれると考えた。けれども著者によれば、これは経済的な価値が次第に広範な文脈で評価されるという、システムの普遍化の作用によるものだという。例えば、中世末期に台頭したメディチ家は、通貨間の交換レートを利用して、独創的な高利貸しのシステムを築いた。その富は、通貨間の違いをいわば普遍化する知恵に支えられていた。市場経済の拡大もまた、同じような普遍化の作用をもっている。私たちは他国の商品を買うときに、同時に自身のアイデンティティを拡大している。売買を通じて、私たちはいっそう普遍的な存在になっていく。こうした作用は、近代科学の発展や、プロテシタンティズムの予定説などと並行して進展してきた。加えて小説も、資本主義とともに、普遍化の欲望に支えられて隆盛したという。小説は、「この私は何者なのか」という問いをめぐって、私的な文体を発達させてきた。私は一人の個性的な人間であるとして、潜在的には別の人生を生きたかもしれない。小説はそのような虚構を描くことで、私たちのアイデンティティを拡張していく。晩年のフローベールは、『紋切型辞典』という、物語を構成する要素の一覧表を作った。これは私たちが、あらゆる可能性の組み合わせを生きたいという、普遍化への衝動に支えられていたのではないか、と著者はみる。しかしこうした普遍化の欲望には、資本主義を否定する景気もある。私たちの社会には、儲からないけれども生きがいになる仕事がある。そうした資本主義的な仕事を徹底的に実現していくと、それは資本主義を超える〈普遍化〉の作用となって、資本主義を内側から克服するのではないか。資本主義は普遍化の運動であるとして、私たちはそれとは異なる普遍化を目指すことができるのではないか。かつて見田宗介は、交響圏という、互いに響き合う自発的なコミューンを理想とした。これに対して著者は、私たちが互いに他者の潜在的な可能性を引き出しあうような、普遍的で相乗的な関係を展望する。資本主義とは別の社会に向けて、私たちはどんな活動をすべきなのか。そのためのヒントになる具体例を示した快著である。◇おおさわ・まさち 1958年、長野県生まれ。社会学者。専門は理論社会学。思想誌『THINKING「O」』(左右社)主宰。東京大学大学院社会研究科博士課程修了。社会学博士。 【読書】公明新聞2023.10.2
November 2, 2024
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「海のプール」の魅力ライター 清水 浩史海なのにプールというのは、いったいなにか。私が「海のプール」と呼んでいるのは、海辺にある海水プールを指す。海の近くにあるプールではなく、まさに海岸の波打ち際にあるものだ。海辺の岩場を掘ったり、浅瀬を最小限のコンクリートで囲ったりして作られている。潮の満ち引きによって海水が自然に循環するため、天然プールといえる。ただし海のプールは、全国に20カ所しか残されていない「希少種」だ。険しい海岸で子供が安全に泳げる場所がない、学校にプールがないといった理由で作られたものが多い。石川県輪島市にある鴨ヶ浦塩水プールは、有形文化財にも登録されている。1935年から準備されたもので、学校にプールが造られるまでは競泳プールの役割も果たした。海岸の岩場を掘ったプールは死には、コース番号を示すプレートも残されている。また沖縄県の南大東島には、75年に作られた海軍棒プールがある。海は深い海と険しい崖に囲まれているため、岩礁を掘った海岸棒プールは安心して泳げる貴重な場所として、島の名所になっている。そして東京と八丈島の乙千代ヶ浜には、70年代に作られたとみられる海のプールがある。潮だまりを僅かなコンクリートで囲った、美しいプールだ。全国にある海のプールをめぐってみると、人の手を僅かに加えて作られたものが、長く使われていることに気づく。それは自然の地形を生かした素朴な構造であるおかげだ。一般的に人工的な構造物であればあるほど、維持管理の手間とコストが生じる。海のプールは一度作ってしまえば、あとは自然任せ。干満差を栄養しているため、プールの維持に水道代も水質管理も必要ない。また海のプールは海よりも安全で海況に左右されにくいため、季節や天候を問わず、泳げる機会は多い。急に深くなることもないので、子供や泳ぎが苦手な人でも親しみやすい。海のプールは公共の場所であり、誰もが自由に楽しむことができる。ただ海のプールは海岸の開発や埋め立てなどにより、多くは姿を消していった。その一方で、陸上に人工的なプールが多く作られるようになった。六十年代ごろから公営プールが全国的に整備され、70年代以降は学校プールも多く建設された。しかし海のプールに取って代わった陸上の人工プールは、今や危機に瀕している。学校プールや屋外の公営プールは、老朽化や維持管理コストなどを背景に消えていくのは、やりきれない気持ちになる。それと同時に、維持管理の手間やコストがかからない海のプールの利点が改めて浮かび上がる。海のプールには、独自の美しさがあることも見逃せない。水色のプールと、取り囲む青い海。そのコントラストは美しい。プールは地形に合わせて作られているため、経常はみな個性的だ。時おりプールの縁を飛び越えて流れ込む波も、心を躍らせる。海からプールに魚が入り込むため、鮮やかな水中観察も楽しめる。自然が織りなす変化は、やはり人工的なプールでは味わえない。今も残されている海のプールは、海とプールの妙を合わせ持つ貴重な存在だ。(しみず・ひろし) 【文化】公明新聞2023.10.1
November 1, 2024
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