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この「法華経の兵法」の偉大な力用を体験し、証明してきたのが、わが創価の同志であります。重い病気や事故、災害との闘い。経済苦や仕事での格闘。人間関係の苦労・・・・・・。厳しい現実に直面し、「よし、今こそ祈って切り開くのだ!」と決意して、一歩一歩、努力を重ね、人生の風雪を勝ち越えていく。それがどれほど偉大な、仏法証明の勝利劇であることか。戸田先生は微笑しながら言われました。「我々の姿は、貧乏菩薩や病気菩薩に見えるが、それは人生の劇を演じているんだよ。正真正銘の地涌の菩薩なんだ。人生の劇ならば、思い切って楽しく演じ、妙法の偉大さを証明していこうではないか」牧口先生、戸田先生が命をかけてつくられた創価学会です。この学会とともに生きるならば、生老病死の苦悩にあっても妙法の力用を発揮して、宿命を使命に転じながら、荘厳な常楽我浄の生命の旅となるのです。「広宣流布の闘士は、人間の王者である。この気概と誇りを持ち続けるのだ」これが、戸田先生の師子吼でありました。役職や立場ではありません。妙法のために戦った人が偉い。私も二十代で、学会の全責任を担い、戦い、周囲を圧倒する勝利の結果をもって師匠にお応えしました。【御書と師弟「第9回 法華経の兵法」】聖教新聞09・3・19
January 31, 2015
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今、世界中が不況です。どこの国も大変であり、日本も同様です。その中で、学会の同志は真剣に奮闘されています。厳寒の天地でも、離島や山間部でも、妙法流布に懸命に進んでくださっている。災害に見舞われた地で、友を励ましながら、歯を食いしばって社会に貢献してきた方々も大勢おられます。我が同志の皆様方は、仏の「如我等無異」の慈悲を万人に伝えゆく大闘争を繰り広げておられる。それは、いわば「皆を勝利者に」という社会を築いておられるのです。断じて負けてはいけない。必ず「変毒為薬」していける信心です。「仏法は勝負」です。断固として勝ち超えていただきたいのです。 ◇仏の称号の一つが、まさにこの「勝者」であります。ヒマラヤの如き最高峰の大勝利者の境涯に、万人を導くことこそ、釈尊、日蓮大聖人が貫かれた「如我等無異」という仏法の大理想です。そして、これこそが創価の師弟の精神なのです。今や、この仏法の師弟の道に、境の知性が確かな光明を見いだされる時代に入りました。 南米の名門コルンビア・デル・パラグアイ大学のエリーアス総長は語っておられます。「仏法は、人生の精神を蘇生させ、一人の人間がもっている『極善の力』を引き出します。また、仏法の弟子は、師匠から『高い精神性と智慧』を学び、それらを他の多くの人々に伝える力を与えられるのです」深いご理解です。万人の生命にある「極善の力」――最強の正義の力を、我が胸中から湧き上がらせる源泉が、師弟です。また、私が「名誉郡民証」を拝受した韓国・清道(チョンド)郡の金相淳(キム・サムスン)郡守は、創価の師弟を賞賛してくださり、こう語られました。「人間を最も人間らしくするのは、『恩を知るゆえ』です。そして、その恩に報いるために、『今、自身の人生を、どのような方向に生きているのか』、さらに『恩を受けた師匠を、どのように宣揚していくのか』という悩みに生きていくのではないかと思います」と。【御書と師弟】聖教新聞09・3・7
January 30, 2015
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テロは「知名度」「存在感」示すためイエメンを拠点とするテロ組織「アラビア半島のアルカイダ(AQAP)」が犯行を認めた1月上旬のフランス諷刺画週刊紙銃撃事件に続き、過激組織「イスラム国」が日本人2人を人質にとるなど、各地でイスラム過激派の活動が活発化している。過激組織が知名度や存在感を競い合い、注目度の高いテロを繰り返す構図が浮かび上がる。(時事)仏風刺紙シャルリエブド本社銃撃事件では、2011年に兄弟のサイド・クシア(34)、シェリフ・クシア(32)両容疑者がAQAPが活動するイエメンに渡航したとされる。AQAPは、インターネット上で発行する英字紙「インスパイア」で、イスラム教預言者ムハンマドの諷刺画を掲載したシャルリエブト紙に編集長の殺害を呼び掛けていた。西側社会が重視する「表現の自由」に挑戦する大規模テロとなった。アルカイダは11年5月にウサマ・ビンラディン容疑者が殺害された後、カリスマ性に欠けるサワヒリ容疑者が指導者になった。イスラム国の台頭一方、シリアやイラクで台頭するイスラム国は、残虐なテロで知られ、シリアのアルカイダ系組織「ヌスラ戦線」と戦闘を始めたことから、アルカイダ指導部は昨年2月にイスラム国の前進組織を破門。現在の国際テロの潮流はアルカイダとイスラム国が二分している。イスラム国は昨年6月、シリア北東部やイラク北西部の一帯で「カリフ」(ムハンマドの代理人)を頂点とする国家の樹立を宣言し、世界に衝撃を与えた。AQAPが仏風刺紙銃撃事件で注目を集めたなか、イスラム国は米軍が主導する有志連合の空爆で劣勢とも伝えられる。安部心臓椶そうが中東歴訪でイスラム国対策を訴えたことから、拘束していた日本人人質の利用価値が高まったと判断したと見られる。各地で動き活発化このほか、エジプトでは、イスラム国に忠誠を誓う過激派「アンサル・ベイト・アル・マクディス(エルサレムの支援者)」によるテロが東部シナイ半島を中心に活発化。13年1月には、アルジェリア南東部イナメナスのガス関連施設で、北アフリカの国際テロ組織「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)」から分派したベルモフタール容疑者らによるテロが起き、日本人10人を含む外国人多数が死亡した。アフリカでは、ナイジェリア北東部を中心にイスラム過激組織ボコ・ハラムによるテロが猛威を振るっている。ボコ・ハラムは昨年4月、キリスト教徒の多い北東部のボルノ州で学校から少女200人以上を拉致するなど大規模な拉致事件やテロを続けている。指導者のアルバカル・シェカウ容疑者は同8月、「カリフ」を最高指導者とするイスラム国家樹立を宣言するなどイスラム国を意識した動きを見せている。なぜ若者を引き付ける?イスラム国を名乗るグループが日本人を人質としたことで「テロとの戦い」を進める米国と同盟関係にある日本にも脅威が及ぶことが示された。世界はなおテロの脅威にさらされている。イスラム国は、シリアとイラクにまたがる地域で恐怖支配を敷き、異教徒や反対する住民の定量殺害を繰り返しており、イスラム世界で正当性を認める人はほとんどいない。しかし、現実社会に不満を募らせるごく少数派のイスラム教徒や、欧米諸国のイスラム系移民を引き付けている。格差社会への反発か世界規模で広がる格差社会の「生きにくさ」もイスラム国に若者が流れる要因だ。過激派が残虐行為に手を染めるのは、手口が目立てば目立つほど「生きにくさ」を感じる世界の若者らを引き付け、勢力拡大につながるから。イスラム国は、インターネットや映像編集技術を駆使し、イスラム国への「移住」を呼びかけているほか、「ローンウルフ(一匹おおかみ)」と呼ばれるテロリストを遠隔地から生産することもしている。【国際 時事解説】聖教新聞2015.1.28
January 29, 2015
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ひとりぼっち出生届を出せない親がいる。その女の子は生まれて間もなく、施設の前に置かれていた。親に捨てられたのだ。その子は一度も産みの親の顔を見ることなく育った。そして愛があふれる明るい家庭を夢見た。しかし、結婚した相手は借金まみれで、子どもができてもまったく働かず、ある日ふらりと出ていった。頑張っても、頑張っても、愛するものは私を捨てていく。そんな不安の中でたどりついたのが薬物だった。彼女の一人息子はそんな母親を心配し、物心がついたときからいつも母親のそばにいた。だから学校にも通っていない。息子も同様に出生届が出されていないので、役所でも把握されておらず、入学案内も届かない。その子は朝から晩まで母親の愚痴を聞き続けた。“幸せになりたい”と願う母親の感情のはけ口となって、母親を見守り続けた。父親代わりに母親を守り、身の回りの世話をした。支援の手が入ったのは、それからしばらくしてからだった。依存症のサポートをしている私の友人は、「薬物依存? それやって何とか生きようとしているその人をしっかり見なくちゃ」と語っていた。しかし結果として、その母親は自死を選んだ。息子はひとりぼっちになった。そして「僕がお母さんの愚痴をちゃんと受け止めてあげられなかったから(お母さんが死んだ)」と何度も自分を責めた。“君はもう十分に頑張った”なのに、困難はなおも続く。彼は学力をぐんぐん伸ばし、大学に行って教師になることを夢見たが、生活保護受給者であるために、昼間の大学に行く選択肢はなかった。ひとりぼっちの彼が学びの場に行くためには、働いて自分の生活を維持し、学費を貯めていくしかない。彼に、それを乗り越えていける力があってほしい。そして社会はそれを美談にしないでほしい。多様な子どもたちにとって、いまの制度がいかにおかしいかを考えてほしい。【辛淑玉の「女の視点 命の視点」】灯台2015年1月号PROFILEシン・スゴ●人材育成コンサルタント。1959年、東京生まれ。博報堂の特別宣伝班を経て、85年から30年間、人材育成の会社を経営。階層別研修、職能別研修などを行い、民間企業や自治体の人材育成に尽力。韓国籍の在日3世で、差別や在日、女性の人権問題などで活動を続ける。
January 28, 2015
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十四世紀スペインの作家ドン・ファン・マヌエルは「命をかけるに値することであれば、身命を賭して誰よりも早く敢然とやりとげる人が、自らを大事にする有徳の士である」との箴言を残しております。まして、仏法は三世永遠の宇宙の根本法則です。不惜身命で実践すれば、広大無辺の栄光と功徳に包まれゆくことは絶対に間違いありません。「石変じて玉と成る」(御書P1423)という力ある妙法です。妙法に生き抜く人生は、信念なき名門名利の人生とは雲泥の差がある。 ◇皆様方は、この不況のなか、法のため、人のために懸命に戦ってくださっている。悩んでいる友がいれば、自分のことはさしおいても飛んで行って励ます。夜更けまで、心から題目を送り続ける。勇気を出して「立正安国」という社会の正道を堂々と語る。民衆を愚弄する悪人に対しては、猛然と破邪顕正の論陣を張る――。この尊き皆様以外、一体、どこに「身命をおしまず修行」する闘士がいるでありましょうか。【御書と師弟】聖教新聞09・2・19
January 27, 2015
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私は長年、大勢の人間を見てきました。人間というものは、本当に立派な人物は少ないものです。大聖人は「いとをしと申す人は千人に一人もありがたし」(御書P1418)と仰せになられています。御本仏の時代でさえ、五老僧をはじめ、心の底では師匠を見下し、[我偉し]と思う増上慢の輩が多かった。師匠を尊敬するどころか、提婆達多の如く師匠に嫉妬するものさえいた。 ◇仏道修行は、真面目に、誠実にやり抜いた人が勝つ。学会という最高の「善智識」の組織とともに歩み抜いた人が勝つのです。 ◇不惜身命とは、人に強いることではありません。自分が真剣かどうか、一人立つかどうかです。【御書と師弟】聖教新聞09・2・19
January 26, 2015
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一滴の水は、そのままでは、いずれ消え失せてしまう。しかし大海に融け込むならば、永遠の生命を得ることができます。妙法に命を捧げることで、[小我]を捨て、[大我]に立脚した、より素晴らしい根源的な命を輝かせていくことができる。新しく生まれ変わった生命で、生き切っていける。これが久遠元初の妙法を持つ信仰の極意であります。誰人も、死は避けられません。人間は誰しも、いつかは必ず死んでいく。しかし、その生命を妙法のために捧げていけば、その魂は、御本仏日蓮大聖人の大生命と一致します。大宇宙の仏界の大生命と一体化していくのです。妙法を弘めるために働き、妙法のために苦労して戦い、妙法のために人生を生き切る人は、最極の生命の次元に融合する。どんな大学者も、大富豪も絶対に適わない、尊極の境涯を開いていけるのです。妙法に生き、妙法に戦い、妙法に死んでゆく生命は、大宇宙に遍満して自由自在です。【御書と師弟】聖教新聞09・2・19
January 25, 2015
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「佐渡御書」には、いくら命を大事にしようとしても結局、「ゑ(=餌)にばかされて」釣り針を呑む魚や、網にかかる鳥の例が挙げられています。こうした動物と変わらない根源的な迷い、すなわち「無明」が人間生命の根底にあります。この人間の「無明」から起こる「貪り」「瞋(いか)り」「癡(おろ)か」という生命の歪みが、飢餓、戦争、疫病、環境破壊など、多くの文明的な課題の元凶になっていることも事実です。ゆえに、この「無明」を打ち破らない限り、人類の宿命転換の道を開くことはできない。世界の心ある識者たちは、人間自身の生命の変革こそ現代世界の急務であるという点で、意見が一致する時代となりました。確かに、富や権力や名声、快楽などなどをいくら追い求めても、それは、所詮、「夢の中のさか(栄)へ・まぼろしの・たのしみ」(御書P386)に過ぎません。あまりにも儚い。永遠の幸福を得ることはできません。今、経済の激動のなかで多くの人々が、多くの人々がこのことに気づき始めているといえるでしょう。そもそも、なぜ現代は、こんなにも生命が軽んじられる社会になってしまったのでしょうか。一次元からいえば、それは人々が、自らの生命をとしても悔いないと思えるだけの大切な「理想」や「目的」を見失ってしまったからです。ロシアの大文豪トルストイは、明言しました。「真理のためには何物をも恐れず、常にわが生命を投げだす覚悟でいる人は、みんなが恐れる人や人々の生殺与奪の権を握っている人よりもはるかに強い」本来、自分の生命を捧げて貫く[道]をもった人は、自分や他人の命の尊さを心から実感できるものです。逆に、自分を律し高める[道]をもたない人は、エゴや欲望や臆病などの激流に翻弄され、些細なことで虚しく命を落としてしまいかねない。大宇宙の原動力たる極理を説き明かした妙法を持つ私たちの信仰は、生命を最大に輝かせゆく価値創造の太陽です。妙法には、万人の生命の無明を打ち破り、本源的な智慧と勇気と慈悲を引き出し開花させゆく偉大な力用がある。そして、そのためには菩薩の実践が不可欠です。この菩薩道を、人類は求め続けてきたといってよい。【御書と師弟】聖教新聞09・2・19
January 24, 2015
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大宇宙の普遍の法である妙法蓮華経という仏の大生命は、万人の中に実在します。そのことに気づき、強い信心で、自らの生命を開き顕していけるかどうか。「仏」と「凡夫」の違いといっても、結局は、ただこの一点だけなのです。戸田先生は言われました。「成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。大聖人の凡夫即極、諸法実相のお言葉を、素直に信じ奉って、この身このままが、永遠の昔より未来に向かって仏であると覚悟することである」人間は、人間以上に偉くはなれない。人間以上の特別な存在になる必要はない。人間が人間として、最も人間らしく光り輝いていく。これが一番、大事なことではないでしょうか。こうした「諸法実相」の法門を究めるならば、庶民を尊敬する人間哲学に帰着する。これが「凡夫即極」の人間学です。【御書と師弟 第5回「凡夫即極」の人間学】聖教新聞09・1・22
January 23, 2015
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信心とは、過去から現在、また現在から未来への幸福を照らし出す道です。「過去の因」に縛られ、「現在の果」を嘆く人生は不幸です。確かに、一面では「過去の因」があって今がある。しかし、今の自分の境涯を高めていくことで、過去の因は悪因ではなくして善因となる。過去にとらわれない。いな、過去さえも変えていくことができるのです。日蓮仏法は、太陽の仏法です。現実を変革し、未来を創る希望哲学です。わびしさや諦めなどない。くよくよ愚痴をこぼすことなどありません。今の一念がどうか。それによって、常勝の道が深く、強く、できあがっていく。生死流転の苦しみを断ち切り、勝利と栄光の果を創造していけるのです。【御書と師弟】聖教新聞09・1・8
January 22, 2015
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今、日本も世界も、大変な経済不況の中にあります。しかし、仏法は「一心の妙用」(一念の不思議な力)を教えている。断じて負けない信心の一念があれば、必ず必ず打開できることを確信していただきたいのです。私も妻も、全同志の皆様方が厳然と守りに護られ、一人ももれなく勝ち栄えていただかれるよう、一心不乱にお題目を送っております。仏国土を開く儀式は、二度、三度と繰返されて成就しました。三変土田の挑戦は、粘り強く、繰返すことが大切なのです。苦しいときこそ、「強盛の大信力」(御書1118P)で祈りに祈り、何度でも挑戦し、断じて断じて未来を勝ち開こうではありませんか。詩聖タゴールは謳いました。「国は人間が創造したものです。国は土からできているのではなく、人々の心でできています。もし人間が輝いていれば、国は顕現されます」【「三変土田」御書と師弟】聖教新聞08・12・12
January 21, 2015
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私たちが拝する御本尊は十界互具の大曼荼羅であられる。御本尊には十界の衆生の代表が納まり、南無妙法蓮華経の光に照らされています。御本尊も十界、私たちの生命も十界です。そして、社会も十界の生命で成り立っている。御本尊に題目を唱えると、三世十方の仏菩薩が、私たちと同じく合掌します。また、全宇宙の無数の諸天善神が、絶対に従います。十界の生命を揺り動かすのですから、悪鬼・魔民さえも強い味方となって、妙法を護り広げる働きをすることは間違いないのです。社会も、人生も、そして私たちの生命も、変化変化の連続です。森羅万象、変わらずに停滞しているものは何一つない。人の心もまた、瞬間瞬間、めまぐるしく変化していく。御書には「一人一日の中に八億四千念あり」(P471)と仰せです。今まで怒っていた人が、次の瞬間にはもう笑っている。何の悩みもないと言っていた人が、翌日には深い苦悩の淵に沈んでいる。このように人生は、常に変転してやまない流転の劇であります。この移ろいゆく心を、妙法という大宇宙の根本法則に深く合致させていくのが、私たちの祈りです。御本尊は、大宇宙の縮図です。そして、自分自身の生命も御本尊と同じです。自身の“我”を仏界の生命で固め、三世永遠に崩れ得ぬ幸福境涯を勝ち開いていく。これが「絶対勝利の信心」にほかなりません。【御書と師弟】聖教新聞09・6・4
January 20, 2015
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傲る心は、人を腐らせる。この、傲慢と戦う心について、御書と箴言を通して学びたい。「アレクサンドロスは自分で鍛錬したばかりでなく」他の人々にも勇気を養うために激しい練習をさせるに当たって危険を冒した。しかし友人たちは富と尊大の為にその頃はすでに遊惰で暇な生活を欲していたから、彷徨や行軍を億劫がり、そのうち次第に大王を誹謗し悪口を言うようにさえなった」(『プルターク伝説』)大王に真意を、友人たちは、近くにいるのにもかかわらず、歪んだものの見方によって曲解し、逆恨みしたのである。御義口伝では、自分の欠点を隠して、よく見せようとするものが増上慢であるとの、妙楽大師の言葉を引いておられる。 <「瑕を蔵(か)くし徳を揚(あ)ぐは上慢を釈す」(御書718頁)>“男は高慢から馬鹿になる”とは、文豪ゲーテの言だ。「いったい私たちのこう慢心というものは自分の無知と正比例しているとは思いませんか?」(ナイチンゲール)「これら(=役人)の権力は指摘利益へと向けられることもある。そのとき、政府は腐敗し、恣意的なものとなる。故意にわいろをとったり、私的な栄光と利益のために例外的に権力を用いたりすることは論外としても、高い地位につけば、精神が鈍り、振舞いが傲慢になり、階級の利害や偏見に執着するようになる」(デューイ)一方でデューイは、感触につくことによって、視野が広くなり、社会関心が旺盛になる面も指摘している。そして、いずれにしても、「市民の耐えざる監視と批判」が不可欠である」と論じるのである。おごり高ぶる人間は、いつの時代でもいる。傲慢の生命とは、戦い続ける以外にない。「<悪徳>が弁じたてるのに/<美徳>がその高慢を打ち砕く弁舌を/もたないのは私はがまんができませぬ」(ハミルトン)傲慢は、勢いのある言論で打ち倒すのだ。【各部代表研修会でのスピーチ】聖教新聞07・8・25
January 19, 2015
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静岡大学大学院農学研究科教授 稲垣 栄洋「強い」というイメージのある雑草ですが、じつは「弱い植物」であるとされています。雑草は他の植物との競争に弱いので、多くの植物が生存競争を繰り広げる深い森の中では、生きていくことができないのです。そのため雑草は、他の植物が生えることのできないような場所を生存の場としています。それが、草取りされる田畑や、人に踏まれる道ばたなど、人間が暮らす場所なのです。このような厳しい環境では、競争に強い植物が勝つとは限りません。そして、この環境さえ克服すれば、弱い植物である雑草も活路を見いだすことができます。こうして相手と戦うことを避けて、自分と戦う道を選んだのが、雑草と呼ばれる植物です。しかし、他の植物が生えることのできないような場所に生存するためには、さまざまな生きる工夫が必要となります。そして雑草は、人間が嫌がるような「たくましさ」や「しつこさ」や「したたかさ」を身につけたのです。雑草は「踏まれても立ち上がる」というイメージがありますが、これも正しくはありません。実際には、雑草も何度も踏まれると立ち上がれなくなるのです。雑草魂と呼ぶには、何だか情けなく思えるかもしれませんが、そうではありません。そもそも、どうして立ちあがらなければならないのでしょうか。雑草にとって、大切なことは花を咲かせて、種を残すことです。踏まれても踏まれても立ち上がるという無駄なことにエネルギーを使うよりも、踏まれながら、花を咲かせることのほうがずっと合理的です。立ち上がることに固執することなく、本当の目的を見失わないことこそが本当の雑草魂なのです。踏まれながら小さな花を咲かせる雑草を見て、人間はセンチメンタルになりますが、雑草は歯を食いしばって頑張っているわけではありませんし、しおれそうになりながらじっと耐え忍んでいるわけでもありません。雑草の生き方は、もっと前向きで実践的です。逆境に生きる雑草にとって、逆境は「耐えること」でも「克服すべきこと」でもありません。それどころか、「逆境をプラスに利用する」というのが、雑草の生き方です。あるものは、耕かされてちぎれることによって、その数を増やします。あるものは草むしりをされると、種を弾き飛ばして、人の体にくっつけます。また、あるものは踏まれると、靴の裏に種をくっつけて、分布を広げます。これらの雑草にとっては、耕されたり、草むしりされたり、踏まれることは、嫌なことではありません。むしろ成功のためのチャンスなのです。雑草はけっして強い植物ではありません。しかし、自らの弱さを知っているから、雑草はこんなにも強く生きることができるのです。(いながき・ひでひろ)【文化】公明新聞2015.1.9
January 18, 2015
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詩人 小池 昌代そんな居酒屋が今でもあるかどうかわからないが、お客が来ると、「いらっしゃい」ではなく、「おかえりなさい」と言って迎える店があった。アットホームも売り物になると白けるもので、私個人は、逆に居心地が悪く、違和感が募ったものだった。とはいえ、「いってきます」「いってらっしゃい」「ただいま」「お帰り」のワンセットが、日常を支え、人の心を安定させることも確かなことだ。だからこそなおさら、この言葉が、ショウバイに組み込まれているのを見るのはしのびない。母親として、日頃抜けの多いわたしも、毎朝、子供を送り出すときだけは、必ず顔を見て「いってらっしゃい、気をつけてね」と言う。言ったところで、子供の耳を素通りしている。でも、それでいい。この言葉は、意味を超越した、一種の「魔よけ」あるいは「呪文」のようなものなのだから。だからもし、この儀式を忘れて、子供が事故にでもあったりしたら、私は一生、自分を責めるだろう。つまりこれは、子供の安全を祈願するのと同時に、母親自身を安心させるための、催眠術的呪文でもある。生命保険をかけるよりも安い。そして毎日、言い続ければ、悪魔も根負けするだろう。北朝鮮に拉致された曽我ひとみさんが、帰国を果たしてから十二年がたった。二十四年ぶりに祖国の地を踏んだとき、曽我さんが口にした言葉は一編の詩だった。二行だけ、引用してみる。空も 土地も 木も 私にささやく。「お帰りなさい、頑張ってきたね」日本語の特質でもあるが、「お帰りなさい」という言葉には主語がない。この言葉を発するのは、どこかにいる一人の母親であり、自然あるいは祖国という大きな母親である。母と特定せず、父親と言ってもいいけれど、やっぱり母親もほうがぴったりくる。「お帰りなさい」は紛れもない日本語だが、アジア的な広がりを担った言葉である。空は常に、私たちを見おろす大きな母がいる。西洋では、この母にかわるものが「神」なのかもしれない。家族と暮らす「家」という単位を、少し大きくしたのが「祖国」である。その祖国に、帰りたくとも帰れない人々を思うとき、毎日聞いている言葉が、鉛ほどの重さで胸にこたえる。【ことばの玉手箱「日常を支える言葉」公明新聞2014.12.7】
January 15, 2015
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島田 日本人は、神仏に対して何らかの形で祈りを捧げたり、参拝に行ったりするってことをごく自然にやっていますよね。そういう意味では、宗教に対してすごく近親感がある。特にいまは、おどろおどろしい除霊とか、かつての創価学会のように徒党を組んで結束して布教するような時代ではなくなっていますから、宗教アレルギーも少ないんでしょう。池上 創価学会もずいぶん変わってきたのでしょうか。島田 そうです。創価学会も、戦前は別として、戦後ながらく「現世利益」で貧しい人たちを吸収することによって、信仰さえすれば豊かになれる、と布教してきたわけですね。その中で、相当に過激なやり方をとって折伏してきた。だけど今は、信者は基本的に親から信仰を受け継いだ二世や三世、さらには四世や五世で、完全に「家の宗教」になっている。新しく折伏されてはいる人はほとんどいない。支部で新入会員を紹介するのを見たことがありますけど、みんな赤ん坊でした。もはやキリスト教カトリックの幼児洗礼ですよ(笑)。だから人間関係のネットワークはすみずみまで出来上っていて、緊密なんですけど、外に向かってはもう伸びていかない。選挙のときだけ活動しますけど、それ以外に隣人を折伏するかというと、もはやしないんです。池上 まさに「家の宗教」になっているわけですね。島田 現在はアクセスするのが簡単なものばかりは流行していて、とくにパワースポットなど耳ざわりのいい言葉が使われることで、ごく自然に宗教的な場所へ行く。だから神社の「みたままつり」は今、ギャルのお祭りなんですね。本来は戦争の死者、いわゆる英霊を祀るわけですが、二十年前後の若い子たちが大挙して来ていて、家族連れすら少ない。靖国以外の祭りでも、若い人がすごく多い。そういう形で人の縁というか、つながりをほしいと思う感情は、かえって前よりも強くなってるじゃないですか。【池上彰の「宗教がわかれば世界が見える」】池上彰著/文春新書島田裕己:宗教学者
January 14, 2015
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経験は年齢を重ねるほどに増す。だから歳をとった人のほうが創造力の引き出しはたくさんあるけれど、意欲は衰えてしまうことが多い。一方、若い人は、意欲はあっても蓄積されている経験が少ない。だからこそ、だれでも、いつでも、経験を増やし意欲を高めようと努めれば、創造性は鍛えられるといえる。だれにでも創造性はある。決して一部の天才やエリートだけのものではない。創造性は、みんなのものだ。だれだって、ひらめく力をもっている。 ◇まずは、行動を起こすことが肝心である。ただ待っているだけでは幸福は訪れない。出来ない言い訳を並べる暇があるのなら、ともかくやってみる。そして、一見ささいに思えるような出来事でもよく観察し、なにが起こっているのかを認識して、理解し、受容することが大切である。ほのかに灯った火を、見逃さないこと。小さなともしびへの気づき。その積み重ねが導火線となり、やがては大きな炎にたどりつく。 ◇脳の仕組みからいえば、自身の個性を掘り下げるためには、自分という存在を客観的にみる「メタ認知」のプロセスが大切になる。ここで重要なのは、「自分が何者であるか」という「個性」を、固定化して考えないことである。常に他者との関係のなかで柔軟に変化する存在として、自分の個性をとらえることが大切である。「絶対視しないこと」は、「自分」に対しても忘れてはいけない。「自身」について考える際にどうしても避けなければならない「罠」は、自分自身の立場がこの世界のなかで特別なものだと思い込んでしまうことであろう。それを避けるために必要なのは、自ら進んで偶有性のなかに身を置くことである。予測できる規則的なこと、予測できない深実なことが入り混じった状態にあるが、人が生きるゆえでの本来の姿である。私は、「いまここ」にいる現実の私とは、まったく異なる「私」であった可能性があり得た、という理念。規則性と不規則性のはざま。そこから遠ざかろうとすると、生命力は失われる。「偶有性に身を置く」ということは、従属するということではない。むしろそれは主体的な意志であり、覚悟である。【ひらめきの導火線】茂木健一郎著/PHP新書
January 13, 2015
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御書にも、「羊の角」が何物をも打ち破る力をもっているたとえとして用いられている。「金剛は堅固にして一切の物に破られずされども羊の角と亀の甲に破らる」「法華経の題目は羊の角のごとく」(941頁)と。いかなる苦難が立ちはだかろうとも、不撓不屈の祈りで、必ず勝ち越えることができる。【名字の言】聖教新聞2015.1.6
January 12, 2015
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会社員の友人が、青い顔をしてため息をついていた。40代後半の彼には2人の娘がいる。下の子は中学生になった。そして妻が3人目を妊娠した。予定外の妊娠である。生活は大変だし、これからはいっそう学費もかかる。会社で最も頑張らなければならないこの時期に、育児休暇をとるなんてことは不可能に近い。また高齢出産はいろいろとリスクも高いし、その子が成人するまで働ける保証もない……。彼は、子どもを堕(お)ろすのかどうかの相談を妻にどう切り出せばいいのか悩んでいる、と語っていた。数日後、彼に「その後、どうなった?」と尋ねた。すると彼は、思い悩みつつ帰宅したら、妻と二人の娘がキャッキャしながら「どんな名前にしようかなぁ」と相談していたんです、と語った。えっ、そっちなの?堕ろすという選択肢など、ハナからなかったのだ。 *この社会では長い間、「産め、産め」の圧力が続いている。都議会では少子化問題を語った女性議員に「お前が産めよ」と野次が飛び、ある国会議員は女性議員に「早く結婚しろ」といい、中には「穴あき避妊具を配布したらどうか」と議会で発言した市会議員までいる。こうした発言の背後には、昔からの「産めよ、増やせよ」の思想がある。以前、都知事だった人は「生殖能力を失ったババァが生きているのは有害だ」と言い、首相だった人は「子どもを作らない女が老後を税金でみてもらうのはおかしい」と言い、厚生労働大臣だった人は「女は生む機械」だと言い放った。これらの政治家が求める子どもとは、国家にとっての都合のいい労働力であり、“鉄砲の弾”なのだろう。彼らは、どんな個性の子どもが生まれてもその子たちが豊かに生きていける社会を作ろう、とは決して言わない。 *40代での出産は確かに大変だ。しかし「どんな名前にしようかなぁ」と皆がワクワクしながら話す。“望まれて生まれてくる”とは、こういうことなのだと思う。親がどんな状態であっても、そして子どもにどんな個性があっても、その子が生きていける社会を作ることが、友人の課題になった。【辛淑玉の「女の視点 命の視点」】灯台2014年11月号
January 11, 2015
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明年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」は吉田松陰の妹・杉文を中心に、幕末・明治を生きた人間群像を描く。高杉晋作や久坂玄瑞ら、維新の花形とともに、後に文の夫となる楫取素彦(かとりもとひこ)にも光が当たることになろう。楫取は、初代群馬県令として活躍した。群馬は、徳川家との関係の深さなどから、統治の難しい土地といわれた。だが楫取は県政の先頭に立ち、範を示した。自ら政府に訴え、富岡製糸場の閉場の危機を救う。全国でも名をはせた道徳の教科書を編さんさせ、序文を執筆した。共に歩み、汗する楫取は県民に“至誠の人”と慕われ、県令を退任する際、留任運動が起こるほどだった。松陰は、捕らえられ、江戸へ送られる直前、後事を託した手紙を楫取に送る。その冒頭に記されたのが、有名な「至誠にして動かさざる者は、未だ之れあらざるなり」(孟子)である。勝海舟は「正心誠意」と言い、西郷隆盛は「人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」と言った。幕末・明治の英雄たちは、権謀術数の渦巻く革命の動乱に身を投じただけに、何が最後に人の心を動かすかを、身に染みて知っていた。信頼を築き、味方をつくるのに「誠実」に勝る武器はない。私たちの人間革命運動にとっても、永遠不変の原則である。【名字の言】2014.12.28
January 10, 2015
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人は感情で動く地道な作業を意欲的にやり続けるには、「自分の存在を認められる」「効果が目に見えて表れる」「自分が成長する」といったことが重要だ。自分の存在が認められることは、大きな報酬の通貨となる。ビジネスにおいては、上司が部下の話をじっくり聞き、仕事内容を懇切に見るという風土が確立していることが重要だ。「そんな話はあとにしてくれ」「結論だけ聞こう」といった言葉をよく耳にする職場では、そうした関係は生まれにくい。ビジネス書をななめ読みして「部下の話の上手な聞き方」といったテクニックだけで接しても、その薄っぺらさは簡単に見抜かれる。そこには愛情や信頼関係が築かれている必要がある。自分の話をちゃんと聞いてもらえることは、心強い。その心強さを知ると、よい連鎖が起こる。若い頃に上司から指導を得て成長し、仕事の喜びを覚えた人間は、今度は自分が上司として若手を育てるようになる。彼らがどのように問題を気づき、改善策を発想して実行に移し、達成感を得るにいたるのか、それらのツボを、上司たちは体験的に心得ているものだ。部下の仕事を懇切に見ることは、上司にとっての報酬となる。互いが直接向き合って話すことは、最大のコミュニケーションだ。目と目を合わせるアイコンタクトは、「あなたの話をちゃんと聞いていますよ」「あなたの存在を認めていますよ」というシグナルである。成人を対象にした研究では、魅力的な相手や信頼できる相手とのアイコンタクトが成立すると、ドーパミンを放出する神経細胞の活動がぐっと上がることが知られている。上司と部下のアイコンタクト回数をとにかく増やすということではなくても、「仕事を見ていて適切な言葉をかける」「提出された書類を真剣に読む」など、「きちんと見る」ことが常になされていることは欠かせない。そこに表れるねぎらいの気持ちは、相手にとって大きな報酬となる。「効果が目に見えて高まる」こと、「自分が成長する」ことも重要である。この二つは表裏一体となって、仕事のやりがいや手ごたえをもたらす。自分のアイデアが成果をもたらし、仕事全体を向上させる。それが実感できると、自分の成長を体感することができる。その意味でも、とにかくやってみるということは大事だ。そうして表れた結果を見て、人は変わる。必ずしもいい結果ではなかったとしても、それはそれで必ず何か発見があるし、そこであきらめずに新たにやり続けることの重要性はすでに述べたとおりだ。納得するということが最初にあるのではなく、納得しようがしなかろうが、実行した結果、納得や理解があとからついてくるのだ。こうした報酬の通貨があると、お金では換算できない満足を得ることができる。人間の根源的な幸福感を刺激する。「自分のやったことが成果につながった」「自分は成長している」ということを知れば、感動せずにはいられない。仕事の実感が失われがちな現代では、ことのほか貴重な体験である。【ひらめきの導火線】茂木健一郎著/PHP新書
January 9, 2015
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やりがいと手ごたえのつかみ方人の成長にとってカギとなるのは「報酬の通貨」だ。たとえばトヨタの提案制度がそうだ。しかも、かなり精緻な通貨体系が築かれている。地道でしんどうという側面も持つ制度は、外部の人間が軽い気分で見ると「なんてそんなしんどいことを大真面目にやるんだろう」とも思ってしまいかねない。しかし、トヨタという風土の中にいると、確実にリアリティがある制度で、組織として成功し貢献していることがわかる。その源泉を裏打ちするのが、報酬の通貨である。提案に対しては、一件ごとに五百円から二十万円が支払われる。ある年に出された全提案をおよそ六十万件のうち、七十五パーセント近くが五百円、約十五パーセントが千円、二千円以上となるとわずか七パーセント。そのうち0・一パーセントにも満たない四十九件が五万円以上だったという。これを聞くと、お金によるインセンティブはわずかなものだと分かる。提案する側にしてみれば、さしてモチベーションアップにつながるとは思えない。欧米人なら「もっと金額を上げてくれ」ということになるかもしれない。事実、提案制度のもとになったフォードの「サジェスチョンシステム」は、とっくになくなっているが、インセンティブの問題が最大の原因だという。しかし、トヨタでは、そういうことはない。お金ではない「報酬の通貨」がほかにあるからだ。金銭的報酬は、あくまで副次的なものにすぎない。実際、類似の改善システムを、もっと多額の報酬を用意して実行している企業もあるが、活発に機能しているとはいいがたいという。その報酬の通貨にこそ、トヨタ以外でも広く使うことができる、意欲を高めるためのヒントがある。【ひらめきの導火線】茂木健一郎著/PHP新書
January 8, 2015
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脳の学習はオープンエンドオープンエンドとは、「ここまででいい」がないことだ。最適化や最大のパフォーマンスということでは定義できない領域にある。たとえば、テストで満点を取るのは、そのテストの領域のなかでの最適化だ。けれど、満点を取ったらそれで勉強は終わりかというと、そんなことはない。いくらでも先がある。脳のキャパスティは、あるテストで満点を取って、そこで完結するわけではない。飽くなき探究心があり、終わりなき成長がある。すぐれた研究者は、どこまで行っても「もういっちょう」「まだまだ」と挑戦し続ける。そこには凄みさえ覚える。絶えざるベンチマーキングとか、改善に終わりがないと本気で信じていることなどは、成長していく人の共通項だろう。ソニーでも同様のことが行われている。つねに高みを目指して満足しない演技にあの執念は、創業者の井深(いぶか)大(まさる)氏、盛田昭夫氏のころから変わらない。ソニーのカルチャーを象徴する言葉に、「Not Invented Here」というのがある。要するに、「自分たちが発明したものでないと納得いかない」「自分たちの手でつくりたい」という精神のことだ。両者には、ほかには「こだわり」「創意工夫」「みんなでアイデアを出し合う」といた共通事項がいくつもある。同じことを、ソニーは「ソフト、エレガント、クール(格好よく)」であり、トヨタは「厳しく、まじめに、思いやりの心」でやっている。この両者に限らず、何かを成し遂げた企業や人には、共通する要因があるということだ。脳の学習はオープンエンドである。終わりがない。それは日本人の心性そのものなのかもしれない。オープンエンドを、たとえば勤勉さと呼び変えるならば、まさに日本的といわれてきたものにほかならない。同時に、単純な精神論や根性論に陥りさえしなければ、ものすごく理にかなった成長論である。日本人は、自分たちのやり方が、じつは非常に普遍的なものだという感覚をもっと持った方がいい。天才の権力に期待したり、卓越した為政者の統率力に頼ったりしないところが、私たちには伝統的にあるのではないだろうか。「一気に」よりも「少しずつ」を得意とし、「革命」よりも「積み上げ方式」を選ぶ特性があるようだ。ビジネスに限らずスポーツなどの分野でも、なにかを成し遂げた人が、それにもかかわらず「まだまだです」「さらに上を目指します」という類の発現をすることがしばしばある。これは、ライバルの存在といった自分の外側にある現実の問題とは別に「もっといいものがいくらでもある」と心の底から考えているからこその言葉に聞こえる。自分の「まだ」を素直に認め、理想に一歩でも近づきたいという気持ちが、その奥底にはあるのではないだろうか。それはときに怒りにも似た渇望となる。こうしたことは、自信を失いがちな一方、他者に批判されてもあまり反論しない私たちの心性を象徴しているように思われる。なにかを達成したとき、「よくやった」と自分をほめるよりは、「まだまだこんなものじゃない」「もういっちょう」と自分を鼓舞してしまうのが私たちではないだろうか。それは、ライバルを圧倒しようが、ナンバーワンの技術力を身につけようが、変わることはない。だから成長の根源になりうる。古来、日本人のそういう心性を「謙虚」と呼んだのではないだろうか。【ひらめきの導火線】茂木健一郎著/PHP新書
January 7, 2015
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成功はゴールではない不確実な状況で不安を乗り越えて挑戦し、成功した体験が一度でもあると、それによって「不確実ななかで挑戦する」という脳のルートが強化され、積極的な行動が自然ととれるようになる。一方、チャレンジを避けてなにごともなくすんでしまうと、「臆病の回路」が太くなってしまい、いつも挑戦を回避するようになる。「見つかるまで探す」「わかるまでやる」というと、一見乱暴な精神論のようだが、脳科学的には間違っていない。それを実践するときに、フォロー体制や環境整備が欠けている場合は単なる精神論に堕すという危険は避けなければならないが、安易に妥協せずに結果が出るまでやり通す執念が脳を成長させていく。オープンエンドとはなにか。高い目標を掲げ、必死に智恵を出し、改善を重ねて達成する。そこで「よくやった」とハッピーエンドにしてしまわないことだ。「もっと上がある」「さらにいい方法がある」と、新たなも目標を設定する。「やりきる」挑戦と同時に、「終わりがない」を挑戦することが、徹底性である。非常に高い目標を立てて進む企業のなかには、「最適化」に重きが置かれることが少なくないようだ。しかし、合理的な経営手法に表れる「最適化」という考えの根底には、ある評価関数が存在する。関数には最大値がある。最大値に達すれば、そこで終わってしまう。これに対してオープンエンドの文化では、そもそも評価関数自体を定義できないから、終わりがない。完結しない。「最適化」では、ある状況下でどの要素を組み合わせたら数値を最大化できるのか、と考える。そうした解析はコンピューターでもできるし、実際にそうやって合理的な経営を進めることはできる。けれど、じつは「最適化」は「成功だ、これで終わった」という状況に陥りやすい。合理性を最優先する限界はそこにある。【ひらめきの導火線】茂木健一郎著/PHP新書
January 6, 2015
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「初暦一枚あけてながめけり」 正岡子規新年を機に、読者の皆さまを、「文学大博覧会」の会場にご案内します。「東西東西」は興行などの口上で、最初に述べる文句ですが、日本と外国文学の紹介、という意味にも掛けております。文豪の知られざる作品や面白いエピソードを、たっぷりお話しいたします。まず最初は、冒頭の句の作者である。わずか三十五年の生涯で、しかも半年を病床で送った人たちが、日本文学会に与えた影響は計り知れない。俳句や短歌を革新し、多くの後継者を育てた。夏目漱石の親友である。わが国に野球を広めた功労者でもある。幼名の升(のぼる)をもじって、野球という号をつけた。野(の)ボール、である。子どものころから洒落が大好きで、高校大学時代に、こんな一口ばなしを作っている。「アブだと思ってつかんだら刺した。なにの虫だろう? そりゃ蜂だわい、アブナイ」「オイ、傘を貸してくれんか。カサナイ」「小刀を貸さないか。そんなものはナイフ、ナイフ」十三歳で手書きの雑誌を発行し、級友たちに回覧している。「桜亭雑誌」「松山雑誌」「弁論雑誌」「五友雑誌」「五友詩文」と続々発行、たくさんの筆名を使って、一人で作文、論説、漢詩、狂詩、雑報を書いている。広告文の書き、漫画も描き、謎々も作った。織田信長が毛利輝元を攻めた。「毛利征伐とかけて鯨捕りととく。心はモリをうつ」度々逸も創作した(十六歳)。「さきの状箱わしゃ気にかかる あれの中にはナニヌネノ」「生きて此世にあられぬ体 黄泉(あのよ)でアイウエオ」(面読斎という筆名を使っている。めんどうくさい、の洒落である)主号の子規は、ホトトギスのことである。鳴いて血を吐くホトトギス。の文句から、喀血した自分を鳥に擬した。創刊し主催した俳句雑誌も「ホトトギス」と命名した。「大三十日愚なり元日猶愚なり」明治三十四年の作。自題小照とあるので、自分の顔を愚だと苦笑しているのだろう。こう書いている。明治三十四年は来た。去年は明治三十三年だった。明年は三十五年だろう。昨年は病床で屠蘇をのみ雑煮を祝いミカンを食べた。今年も同様である。明年もそうだろうか。人は私が好んで苦しむと笑うけど、私はこの苦しみが長く続くことを望む、と。病人だけの感想ではあるまい。「一年は正月に一生は今に在り」(少年を誡む)。【出久根達郎の東西(とざい)東西(とーざい)「文学大博覧会」<1>】公明新聞2015.1.4
January 5, 2015
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カメはやはりウサギに負けた私がここで言いたいのは、人はある一つの事実に対していくつかの反応をすることができるということである。そのいくつかの反応のうち一つを選択する。その選択をするのは、まさにこの自分なのである。すべてのカメが、「もしもし」と声をかけてくるウサギに対して、同じ反応をするわけではない。遅いと言われて競争するようなカメは、おそらくこれ以後も様々な悩みを抱えていくことになるであろう。自分の生きる道はなんでこんなに悩みがあるだろうと、嘆きながら生きていくに違いない。そのさまざまな悩みを作り出しているのは、まさに自分なのだということには気づかずに。自分の内面の不安や葛藤から間違った選択をしたからこそ、自分が悩んでいるのだということに気がつかないまま生きていくことになる。せっかく具わっている自分自身の能力を発揮することもなく、悩んでばかりの生き方をする。自分に具わっている能力を発揮する機会がないのではなく、自らその機会を避ける選択をしているのである。現実の世界ではカメはウサギに負ける。そこでカメは、自分はどうしてもっと速く走れないのだろうかと悩む。カメはいよいよ劣等感に苦しむ。自分で自分の劣等感をより激しくするように生きていることには、最後まで気づかないであろう。カメは悩む必要などまったくないのである。悩むように自分で自分をゆがめているにすぎない。カメが、自分はカメで相手はウサギであるという事実に気がつきさえすれば、悩む必要などまったくないのである。カメが、自分はカメで相手はウサギであるという事実を否定しようとするから悩むのである。このカメはこれからも神経症的競争意識をもって、悩み傷つき、周囲に不幸をまきちらしながら生きていくことになるのではないだろうか。劣等感が強いこのカメは、走ることの遅い仲間のカメを軽蔑するにちがいない。そして仲間のカメを軽蔑すればするほど、このカメは自分の劣等感にいよいよ苦しむことになる。あまりにも悩みの多い人生を生きている人は、このカメと同じように水のなかを出て陸の上でウサギと競争しているようなことをしているのである。どこか根本的に間違ったことをしているにちがいない。さらに重要なことは、このカメは勝ったのだろうか。確かにどちらが先に駆け着くかということにおいて、ウサギに勝ったかもしれない。しかし、このカメはやはり負けているのである。【自信をつける心理学】加藤諦三著/大和書房
January 4, 2015
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執着の三つのタイプ私はレオ・パスカリアという教育心理学者の本を訳したことがある。その中に仏教の次のような話が出てきた。仏教では執着の三つのタイプがあるという。執着、非執着(Unattached)、無執着(Nonattached)である。飲み水を手に入れるのも大変な人里離れた所に住んでいるとする。そこでは水貴重品である。水は大きな瓶に入れられて木陰においてある。そして大切に使われる。焼けるような暑さの中で一日中働いた後で、この大切な水を飲もうと水瓶のところにやってくる。ふたを取り、柄杓で水を飲もうとした。そのとき、はじめて気がつく。アリがどうしたわけか水瓶の中にいて、柄杓にまでついている。そこでカンカンに怒り、そのアリを押しつぶす。これが執着である。あるいはわれわれはアリをつぶす前に考えるかもしれない。今日はアリにとってさえ暑い日だったのではないか。アリもまた生きんがために正しい行動をしたのだ。アリが水にも柄杓にも水瓶にも害にならないことを知っている。こう考えた末、アリを避けて水を飲む。これが非執着。あるいは次のように考える。水瓶の中にアリがいるのを見つけたとき、アリがなんであり、自分たちがなんであるかなど考えない。また、何が道徳的で何が不道徳化も考えない。道徳を超越して反応し、自然にありに一塊の砂糖をあげる。これが無執着。【自信をつける心理学】加藤諦三著/大和書房
January 3, 2015
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心理学者シーベリーの戒めこのウサギはカメの寓話を、コツコツ努力することの大切さを教えることに使うところに日本人の不幸がある。シーベリーというアメリカの心理学者が、まちがった状況のなかでがんばるということを戒めている。つまり、この話を戒めとしてつかう人と教訓としてつかう人とが考えられる。しかし、私はこのようなことをしてはいけませんという戒めとして使いたい。まさにカメは間違った状況のなかでがんばっているのである。このようなカメが現実の世の中では燃え尽き症候群となる。このウサギとカメの寓話は、このカメのように生きてはいけませんという教訓としなければならない話である。このウサギのように他人にからんではいけません、他人との比較においてしか自分の価値を確認できないような生き方をしてはなりません、という教訓の話である。つまり、このカメはいろいろな生き方ができた。このカメの前にはいろいろな選択肢があった。まさにこのカメのした選択のように、「なんとおっしゃるウサギさん」と言って、ウサギのペースに乗ることもできた。また、ウサギの言うことを無視することもできた。ウサギののな自信さを見抜いたウサギをかわいそうにと見つめることもできた。それなら水の中で競争しようということもできた。また、ウサギのその言葉で傷ついていじけることもできた。そして憂鬱になることもできた。あるいはウサギが速く走れるといって、ウサギを讃えて迎合することもできた。カメの前にはいろいろな選択肢があった。そしてカメは、自分を傷つけることを選択した。ウサギがその選択をしたのではない。カメがそのように選択したのである。カメはシーベリーの言葉のように、「自分自身であることのほかにはなんの義務もない」と言って、カメらしい生き方をすることもできた。自身のない神経症的なウサギを無視して超然として生きることもできた。カメは自分がけっしてなれないウサギになろうとして悪戦苦闘した。現実の世界では、このカメのような選択をすれば、間違いなく神経症とか、燃え尽きるとか、鬱病とかになる。カメは自分がカメであるという現実を受け入れられないが故に、自分を傷つけながら生きることになったのである。カメはカメとして水のなかで生きることが幸せであるのに、自己不信からこのように自分を傷つける競争に入ってしまった。【自信をつける心理学】加藤諦三著/大和書房
January 2, 2015
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カメは、ウサギと競争しなくてもよかったしかし、そんなことを証明する必要が、いったいどこにあるのであろうか。いわんや、なぜそんなことを、この心の葛藤に苦しむウサギに証明する必要があるのであろうか。カメはウサギと競争する必要もないし、またウサギになぜ自分が速いのかを証明する必要もない。さらに大切なことはカメが掛け足が遅いのはカメの責任ではない。カメは重い甲羅を持っているから遅い。そしてその甲羅がカメを外敵から守っている。つまり、カメは足が遅いから自分が守られている。もしかりに駆け足が速いことに価値があるとしても、駆け足が遅いことはカメの責任ではない。だからカメは、自分が掛け足が遅いことに罪悪感を抱く必要はない。堂々としていればよい。はたして必死で駆けているカメは幸せだろうか。このウサギと張り合って必死になって競争しているカメを想像してみると、どんな顔が浮かんでくるであろうか。競争している間、ずっとカメは不幸なのではなかろうか。競争しているあいだじゅう、カメは自分の価値をおびやかされている。負ければ自分の生きている意味はないのだと思い込んでいる以上、競争しているあいだじゅう不安である。勝たなければ自分の価値はないのだと思いこんでいれば、競争しているあいだじゅう不安でたまらない。私たちがこの世で生きていくときに、この心の葛藤に苦しむウサギのように、「もし、もし」と声をかけてくる人はたくさんいる。うるさくからんでくる人である。このウサギは、なぜカメが遅いということを指摘する必要があったのだろうか。心理的に何の問題も抱えていないウサギであるなら、カメの弱点をことさら指摘する必要はなかったにちがいない。このウサギは自己肯定、他者否定のウサギなのである。そしてこのカメは、自己否定、他者肯定のカメなのである。このウサギは相手の問題を指摘することで、自分の優越を確かめる心理的必要性があったにちがいない。一言で言えば、自分に自信のないウサギである。このウサギはカメをさげすむことでしか自分の価値を感じられないのである。ウサギとしての自分に自信のあるウサギなら、カメなどと競争しようとは思わない。ウサギはウサギと競争しようとするだろう。このウサギはカメを軽蔑することで自分を救おうとしているかもしれないが、いよいよ悩みの多い生き方におちいっていくにちがいない。【自信をつける心理学】加藤諦三著/大和書房
January 1, 2015
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