全30件 (30件中 1-30件目)
1
富岳江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎が生まれて今年で260年。その作品は、画家のゴッホやドガをはじめヨーロッパの著名な芸術家に大きな影響を与えたとされる。中でも富士山を描いた風景画「富嶽三十六景」はあまりにも有名だ ◆日本唯一の自然科学の総合研究機関である理化学研究所は先週、神戸市の施設で設置が進む「富岳」と名付けられた日本のスーパーコンピューターを、新型コロナウイルスに対する治療薬の開発に利用すると発表した ◆「富岳」は、かつて世界一の計算速度を誇ったスパコン「京」の100倍の能力をもつという。すでに臨床試験の対象となっている抗ウイルス薬を含めて炊く2000種もの医薬品の中から、新型コロナ治療薬の候補を探すことが今回の任務だ ◆折しも米国は先月、世界最速のスパコン「サミット」の投入を表明した。日本は富士山の別称を冠し、米国は「頂上」を名乗るスパコンで治療薬の早期開発に挑む。人類の英知が新たな感染症の脅威を打ち破る日の近いことを願わずにいられない ◆「不学三十六系」の中でも、大波の向こうに富士を望む「神奈川おきなみうら」は世界的に知られており、2024年度から発行予定の新千円札の裏面に使用される。スパコンの「富岳」も、その活躍により歴史に名を残すことを期待したい。 【北斗七星】公明新聞2020.4.18
January 31, 2021
コメント(0)
芝浜落語評論家 広瀬 和生 「夫婦愛」描いた代表的な人情噺江戸の裏長屋に住む魚屋。腕はいいのに毎日酒浸りで仕事に行かず借金だらけ。ある朝、見かねた女房が無理やり起し得芝の魚河岸に行かせると、魚屋は浜で大金の入った財布を拾う。大喜びして酔いつぶれたが、再び女房に起こされ、「大金を拾ったのは夢だ」と言われてしまう。「俺はそこまで性根が腐っていたのか」と心を入れ替えて酒を立ち、まじめに働いて幸せを手に入れた三年目の大晦日。女房「あれは夢じゃなかった。あなたを立ち直たせるための嘘だった」と詫びると、亭主は「今の暮らしがあるのも夢にしてくれたおかげ」と感謝する。女房が機嫌直しにと用意した酒を勧めると、口にしようとした亭主がピタッと手を止め「よそう、また夢になるといけねえ」。これが『芝浜』だ。落語ファンの間では最もよく知られた人情噺といえるだろう。幕末から明治に活躍した「近代落語の祖」三遊亭圓朝が「酔っ払い」「芝浜」「財布」の三題話として創作したとされるが、この噺をポピュラーにしたのは「昭和の名人」三代目桂三木助である。この噺の聴きどころは大晦日の女房の告白だ。三年前、大家に「お金をお上に届け出る、夢だったことにしろ」と言われた女房は、後日「落とし主不明」で金が返されても、亭主がもとに戻ったら不安で黙っていたと打ち明ける。「嘘をついて申し訳ないとすっと思ってたんです。今お前さんならこのお金を見せても心配ないと思って、今日この話をしました。腹が立ったら、あたしをぶつなり蹴るなりしてください」拾ったお金に手をつけたとお上に知られたら打ち首になってもおかしくない。それを救ってくれたのは女房の機転だ。そう悟った亭主は涙ぐみながら女房に礼を言う。「許してくれるの?」「許すも何も、俺のほうで礼をいっているじゃねえか」三木介の「芝浜」は夫婦愛がテーマの短編ドラマのようで、そこに描かれた『夫婦の形』は、戦前とは異なる家族観・夫婦間をもつようになった高度経済成長時代の大衆に感銘を与えた。以来、古今亭しん朝や立川談志をはじめとする歴代の演者はそれぞれの工夫を加えて名演を披露、「暮れに聴きたい名作落語」として定着したのである。 【落語を楽しもう①】公明新聞2020.4.18
January 30, 2021
コメント(0)
組織とは一体誰のために存在するのか?氏家法雄2020・4・17(はじめに)最近、『テイール組織』という著作を読みましたが、恐怖支配から対等な相互協調の組織への進化を振り返ると、組織とはいったい誰のために存在するのだろうかと考えさせられました。ビジネス書からの学び 仕事のために、ビジネス書を読むなどとは思ってもいませんでしたが、まあ、読み出すと、それはそれで「新しい世界」や「新しい知識」との出会いであり、楽しいものです。 このところマネジメントやマーケティングの書籍ばかり紐解いているのですが、最近、読み終えたのが、フレデリック・ラルー(鈴木立哉訳、嘉村賢州解説)『テイール組織』(英治出版、2018年)です。 組織マネジメントの歴史を振り返り、その未来、あるいは進化を展望する一冊で僕としては非常に勉強になりました。副題の通り「マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現」を開陳する一冊でしょうかね。 ところで、「テイール(Teal)」とはいったい、何でしょうか? 「テイール」とは「青緑色」の一種を表わす英単語で、それ自体にさほどの意味はないのですが、「圧倒的な力を持つトップが支配する組織」を底辺とすれば、組織進化の最終形態をTealカラーで表象しているとでもいえばいいでしょう。 ラルーは、組織の進化過程を5つに分類した上で、それぞれのモデルを色分けしています。その中で、最も新しい組織モデルをティールと呼び、「目的に向かって、組織の全メンバーがそれぞれ自己決定を行う自律的組織」と定義しています。ティール組織は、上司が部下の管理を行わないなど、従来の組織マネジメントでは考えられなかった特徴をもっています。支配から調和協調への組織進化 ラルーは、組織進化を5つの段階に色分けしています。最も底辺に位置するのがRedの「衝動型」組織です。「圧倒的な力をもつトップによる恐怖政治」がそれで、例えば狼の群れなどがその具体的な組織です。レッド組織は、現在にしか関心がありません。そのため衝動的な行動が多く見られます。 次の進化形態はAmber「順応型」組織で、軍隊に象徴されるように「上意下達のヒエラルキー組織」です。政府機関や宗教団体、そして軍隊がそれに該当しますが、階級秩序が重んじられる組織は、変化に対して柔軟に対処することが難しいことが多々あります。 次はOrange「達成型」組織で、アンバーと同じく基本的な階級構造はもちつつも、環境の変化に柔軟に適応できるように発展したものです。現代の一般的な企業がそれに該当します。ここでは、効率や成果が重視されます。徹底的な管理は時として人間疎外を引き起こしてしまうのも事実で、その例証には枚挙の暇がないといっても言い過ぎではないでしょう。 そして現状での最新形態がGreen「多元型」組織になります。人間らしさを喪失したオレンジ組織に対して、より人間らしくあることを追求した組織形態がグリーン組織です。協働・協力を理念に掲げるグリーン組織では、多様なメンバーのコンセンサス(合意)を重視します。しかし、意思決定プロセスが膨大となることがデメリットととなり、企業であればビジネスチャンスを逃してしまう可能性もはらんでいるとのことです。誰のために組織は存在するのか では、組織進化の最新形態であるTeal「進化型」組織とはいったいどのようなものでしょうか。 ラルーは組織を一つの生命体と捉えるのですが、これは組織のメンバーが自律的かつ調和的に働くためのメタファーとなっています。ようは体の組織のように組織が働くとでもいえばいいでしょうか。そして独裁やヒエラルキー、あるいは会社組織にみられるような強力なリーダーを認めません。リーダーの独断よりも現場のメンバーがほとんどすべてを決定することに特徴があります。 そしてコンセンサスの形成よりも、課題解決を重視します。このことが意思決定の時間的ロスを防ぐ役割をもになっています。そのほか、魅力的な特徴が数多く指摘されていますが、詳しくは本書に譲りましょう。 なぜなら、ぜひご一読願いたいからです。 さて、本書を読む中で考えさせられたことがあります。 それは、組織とはいったい、誰のために存在するのかという問題です。 程度の度合いは、横に置くとしても、Redの「衝動型」組織にしても、Teal「進化型」組織にしても、いずれにしても組織は、個々人の幸福と無関係には存在し得ないことが組織形成の原点になります。 その意味では、組織に属する個々人は、組織の歯車などではなく、その幸福増進のために組織が形成されたと考えるべきではないかという話です。 レッドからテイールへの組織マネジメントの「進化」は、その意味では、組織形成の原点へ戻るものといってもよいでしょう。 そして、組織とはいったい、誰のために存在するのかと問われた場合、その構成員(の幸福)のために存在すると答えるほかありません。 これまでの組織は、プロクルステスの寝台のように組織の都合に合わせて人間を切り刻んできたのが人間の歴史です。その方が効率がよいといった側面があったのも事実でしょうが、組織の進化と旧来の組織の解体という問題は、組織は人間のために存在しなければならないということを痛切に物語っています。 組織のために人間がプロクルステスの寝台となるのではなく、人間そのものが組織を織りなし、そして組織を作りほぐしていく――。それをテイール組織と呼んでもいいのかも知れません。
January 29, 2021
コメント(0)
生誕200年 ナイチンゲールの功績武庫川女子大学教授 丸山 健夫統計から陸軍の衛生不備指摘。換気、密集回避示すナイチンゲールは白衣の天使。優しさに満ちたイメージを持つ。彼女は一八二〇年五月十二日、英国の大富豪の家に生まれた。彼女の誕生日は看護の日となり、今年は生誕二百年である。ケンブリッジ大学卒業の父の教育で、ギリシア語やラテン語もできた。十七歳から十九歳までヨーロッパ大陸を家族で旅行した。二十歳の時に「数学がしたい」と言った。旅行中に集めた資料の統計処理をやりたかったのだ。そして二十五歳の時は、「看護師になりたい」と打ち明けた。だがこれは叶わず三十歳をすぎる。とうとう家出同然にドイツの看護師専門学校に入り、帰国後、ロンドンの医療施設長となった。この時すでに三十三歳。やっと夢が実現した二カ月後、クリミア戦争が勃発。彼女は翌年、英国政府派遣の看護師師団長として戦地におもむき大活躍した。と、これまでは有名な話である。しかし彼女の重要な仕事は、実はクリミア戦争後にあった。戦地では、死なずにすんだ若者が大勢いた。先頭の負傷が原因で死ぬ兵士よりも、収容先の陸軍病院の不衛生、今でいう院内感染で亡くなる兵士のほうが、はるかに多かったのだ。そこで彼女は陸軍の衛生改革の必要性を痛感し、ヴィクトリア女王に特別な委員会を設置してもらい、衛生改革のための活動を開始する。彼女はまず、陸軍の失敗を客観的に明らかにするために統計学を利用した。統計的な比率では、分母を何にするかが重要だ。彼女の考え方はいたってシンプル。着目したのはたった一つ、死亡率だった。死亡率の原因別分類と時間的推移を分析した。そして、衛生の不備で死んだ兵士が圧倒的だったことを誰もが直感的に理解できるように、世界で初めてカラーの円グラフを考案した。彼女が具体的な対策でもっとも重視したのは、換気であった。換気が行き届いた病院の建築設計を研究し、病棟の間に十分な大きさの庭を配置する建築形式を提案した。換気のつぎには密集度に注目した。密集を死亡率悪化の原因と考えた。陸軍の兵士たちが、一般の人びとよりもいかに高密集の状態で生活しているかが、ひと目でわかるビジュアルな図面を作った。図では一人あたりの面積とともに、人の間の距離もわかるようになっている。彼女は密集での占有面積のほか、他人との距離をも明確に意識していた。彼女は目標を死亡率低下のひとつに定め、データをビジュアルに示して、人をつぎのアクションへと導いた。対策では、換気と密集にこだわり具体案を示した。ところが、彼女がこのような活動を行っていた時代、最近はまだ発見されていなかった。ナイチンゲールが今、生きていたら、未知の感染症に苦しむ私たちに、この上ない対処策を示し、戦いへの手を差し伸べてくれるように思えてくる。(まるやま・たけお) 【文化】公明新聞2020.4.17
January 28, 2021
コメント(0)
教学講座日蓮大聖人の御生涯に迫る 末法に法華経を弘めることは困難極まりない。しかし、民衆のために戦うのが「仏の心」である! 第1回誕生・遊学から「立宗宣言」へ人類は今、新型コロナウイルスの感染拡大という脅威に直面しています。誰もが大きな苦難との戦いの渦中にあるこの時、私たちは改めて、大難を越えて民衆救済の誓願に生き抜かれた日蓮大聖人の御生涯を学び、御本仏直結の弟子としての誇りと使命を確認していきたい。大聖人は「一切衆生の同一苦は悉く日蓮一人の苦と申すべし」(御書587㌻)と仰せです。宗教の使命は、二位減の幸福の建設であり、その道を阻もうとする苦難を打ち破りゆく勇気と力を送っていくことです。草創以来、多くの同志は経学部任用試験(仏法入門)をはじめ、折々に大聖人の御生涯を学ぶ中で、その崇高な精神に迫り、「日蓮が弟子と云って法華経を行ぜん人人は日蓮が如くにし候へ」(同989㌻)との御金言を全身にみなぎらせ、一歩一歩、希望の歩みを重ねてきました。「教学講座 日蓮大聖人の御生涯に迫る」の初回は、誕生・遊学から「立宗宣言」に至るまでの歩みを追いたいと思います。分かりやすく対話形式にまとめました。 ■漁村に生まれ育つ。――日蓮大聖人は、どんな時代を、また、どんな願いをもって生き抜かれたのか。ここでは、初心に立ち返って、大聖人の足跡を一つ一つ、学んでいきたいと思います。誕生されたのは、今から約800年前の鎌倉時代ですね。 この頃、民衆の間に最も広まっていたのは〝死んだ後の世界〟に救いを求める念仏でした。自然災害や飢饉、疫病も相次いでおり、念仏思想に、一種の終末観として広まっていた末法思想が重なって、人々の不安が募っていました。 ――鎌倉時代の様相を聞くと、現代の状況とすごく似ていて驚きます。人々の不安が募っている様子も同じですね。 大聖人の生誕は、貞応元年(1222年)2月16日。その厳しい社会状況は、年を重ねるごとにますます色濃くなっていくのです。安房国長狭郡東条郷の片海(現在の千葉県鴨川市)という漁村で生まれである大聖人は、御両親や地域の人びとに囲まれながら成長したことでしょう。御書にも「辺土に生をうけ其の上下賤・其の上貧道の身なり」(御書200㌻)、「遠国の者・民が子」(同1332㌻)等、庶民の生まれであることを誇りをもってつづられています。 ――「常に民衆と共に、民衆の幸福のために」という大聖人のお心の源は、民衆のなかで生まれ育ったという生い立ちにあるのですね。 大聖人は、12歳で安房国の清澄寺に入り、教育を受けられます。その頃、「日本第一の智者となし給へ」(同888㌻)という願いを立てられました。民衆を救うために、生死の根本的な苦しみを乗り越える仏法の智慧を得ようとされたのです。 ■万人を救う法を探究――そんな思いを心に秘めて、仏法を探求されるのですね。 16歳で、清澄寺の道善房を師匠として出家されます。この頃、「明星の如くなる智慧の宝珠」(同㌻)を得られたと述べられています。仏の覚りの宝であり、一切衆生の事象を明らかに見ていける「妙法の智慧」を得たということです。その後、鎌倉、京都、奈良など各地を遊学し、比叡山延暦寺をはじめ諸大寺を巡って、あらゆる経典を読まれ、各宗派の教義の本質を究明されます。その結論として、法華経こそが仏教の全ての経典のなかで最も勝れた経典であること、そして、南無妙法蓮華経こそが法華経の肝要であり、万人の苦悩を根本から解決する法であることを覚知しました。 ――民衆の幸福を第一に思索された上での結論であり、使命の自覚なのですね。 妙法弘通の使命とその方途を確認された大聖人は、故郷から実践に踏み出されます。建長5年(1253年)4月28日、清澄寺で、念仏などを破淅するとともに、南無妙法蓮華経こそが末法の世界中の民衆を救う唯一の法であることを宣言されました。(立宗宣言)。32歳の時です。この頃、自ら「日蓮」と名乗られます。 ■不退転の闘争を開始――この「立宗宣言」から、大聖人の民衆救済の闘争が始まったのですね。 「開目抄」に、その直前の思索が回想されています(同200㌻、趣意)。〝経文には、法華経を説き弘める者に必ず迫害のあることが説かれている。一方で、正法を弘めなければ、人々の成仏の道を閉ざし無慈悲になってしまう。どちらの道を選ぶべきか……。正法を弘めゆく道を選ぶべきだ!〟と。思索はそこでとどまりません。〝難が起きた時に退いてしまうくらいなら、思いとどまったほうがよい。末法に法華経を弘めることは困難極まりないと、はっきり経文に説かれている。しかし、いかなる困難があろうと、人々のために立ち上がるのが「仏の心」である。〟との結論に至ったのです。この大聖人の誓願について、池田先生は「御年32歳の時から佐渡流罪を経て、御入滅のその日まで、終始一貫しています。何も変わりません。誓願は貫き通してこそ、誓願です」と語られています。 ――私たちの幸福のために、迫害に遭うことを承知の上で、正法を弘め始められたのですか。すごいことです。 実際、「立宗宣言」と同時に難が起こりました。東条郷の地頭(警察権や税の徴収権などを行使した幕府の役人)である東条景信は、念仏の強信者でした。彼は、念仏を批判した大聖人に迫害を加えようとしたのです。かろうじて難を免れた大聖人は、安房の清澄寺を離れ、当時の政治の中心であった鎌倉に出られたのです。(つづく) ここに注目!「日蓮」の御名乗り日蓮大聖人の御生涯を貫いた誓願は、「日蓮」という御名乗りにも表れています。大聖人は、「明らかなる事・日月にすぎんや清き事・蓮華にまさるべきや、法華経は日月と蓮華となり故に妙法蓮華経と名(なづ)く、日蓮又日月と蓮華との如くなり」(御書1109㌻)と仰せです。法華経では、地涌の菩薩の上首(リーダー)である上行菩薩について、〝衆生の闇(迷いと不幸の根源)を照らす日月である〟と説かれています。また、地涌の菩薩が、煩悩で汚れた現実世界にあっても、それに染まらないさまを〝蓮華が泥水の中に清浄な花を咲かせること〟に譬えています。太陽のように民衆の心を希望の法理で照らし、現実社会の真っただ中で蓮華のように清らかな花を咲かせていく――「日蓮」との御名乗り自体、大聖人御自身の誓いの結晶であり、社会への宣言であったと拝することができます。 【教学】聖教新聞2020.4.17
January 27, 2021
コメント(0)
真剣に生きるとき、人は人が必要となるあなたが年も若く、元気も自身もあふれている人なら、「自分の人生は自分で切り開く」とばかりに、ブルドーザーがバリバリと進むごとく日々を送るだろう。人の忠告などあまり耳に入らないだろうし、また、人の意見や考えを頼りにしようなどとは思わないだろう。まさにわが道を行く「GOING MY WAY」であり、自分の人生は自分で責任をとる「SELF HELP」の考えで生きていけゆける時期である。そんなあなたは、人を心から必要とすることはないかもしれない。また、自分のことだけに集中しているあなたを見て、人はあなたのなかに「人に必要とされる」余地を見出すことができないだろう。あなたの姿や活動家らは、「自分は自分、人は人」という強いメッセージが発せられ、それはときに、周りの人の「協力」を拒否しているかのように受け取られることもあろう。若いときは、まあ、それでもいいだろう。しかし、社会のなかで生きていゆく過程で、自分の力だけではどうにもならない、という現実に突き当たる。また、自分一人で何かをなしとげるよりも、人と力を合わせてやることに、それまでには感じたことがない充実感を味わうことを体験する。こういう体験を通して、あなたも人を必要とするようになるだろう。ただやみくもに自分の力だけを信じて一人で進むのではなく、人の才能や力を必要とし、また自分も人のために力になれる人であったらどんなに幸せだろうか……と思うようになる。それが「経験を積む」「年を重ねる」ということのように思う。人は己の力の限界を知ったとき、初めて心から謙虚に「人の力なくしては自分は何もできない」という事実を知らされる。そしてまた、人から必要とされことのありがたさ、人から望まれることの喜びを感じ取れるようにもなる。逆に、自分は誰からもまったく必要とされない人間になった、と思い込んでしまったら、その人は、みるみる張りも元気もない人間になってしまうに違いない。私たちはよく、「全く面倒なことばかりこちらに持ち込むのだから……」「いつも頼りにされても困るんだよなあ。本当に世話がやけるなあ」などと愚痴をこぼしつつも、相手に協力したりするのだが、なに、それによって自分が元気づけられていることもよくある。実は人は、人から必要とされ、望まれることによって、はじめて花開くのである。人を必要としないでもいられる人生、人に必要とされない人生なら、これはまだ人生の半分しか知らない、半人前の人生なのではあるまいか。「残りの半分」への強い希求……その孤独感と不全感は、ストレスを増幅させ、自らを苦しめることになりはしないか?人を必要とし、人に必要とされる……そういう日々こそ、人生の満足感を得るための基本形のように思う。ストレスも小さく、精神衛生上もわるくないはずだ。 【人に「必要とされる人」】精神科医 斎藤茂太著/新講社
January 26, 2021
コメント(0)
準備していれば、人より先に動ける「どんな時代がこようとも、私は私のやり方を貫くだけです」「当店は代々伝えられた製法を変えるつもりはありません」「エジソンだって、非常識といわれても揺るぎない信念があったからこそ、成功したんじゃないですか。私は誰が何をいおうと、自分の信念を曲げるつもりはありません」信じた道を真っすぐに進もうとする人の姿は気高く、周りの人に敬意のまなざしを向けられることは間違いない。そして、その行き先が正しく、成果が見えてくれば、きっと世の中で注目されるだろう。しかし実際は、アサッテの方向に進んだり、志半ばで挫折することも少なくない。天分の才能があったとしても、視野を広くし、人の意見に耳を傾けようとする気持ちと習慣のある人のほうが、将来に向けて着々と進んでいくことになるようだ。自分を高めていくのが上手な人は、日頃からの「観察」が習慣になっている。日常的にいい物と悪い物を見て情報収集し、想像力を働かせ、判断力をつけているところが成功への秘訣なのではないだろうか。これに加えて、「人より先に動く」というところを見逃してはならないと思うのだ。例えば、ドライビールで大成功をした酒造メーカーだ。ビールに変わり、酎ハイを好む時代になったとき、それぞれのメーカーは必死になって対策を考えただろう。おそらく「ビール=苦い」というイメージをもった消費者がビールを敬遠していたことは、どのメーカーもつかんでいたはずだ。しかし、消費者のニーズをしっかりつかみ、キレのあるドライビールをいち早く世に出したこと、そして宣伝と営業で見事に上昇気流に乗せたこと……他社よりも先に「実践した」ところが成功につながったのだろう。人に必要とされる人は、才能があるというだけでなく、常に「その時期」に目を注ぎ、タイミングをつかむ達人でもある。そういう上り調子の物に注目して、上昇気流がやってくるところに身をおく……これもまた観察眼と行動力が必要ということだ。そういう意味でも、自分の天分を信じるだけでなく、視野の広さや人の意見にも注目する習慣を疎かにしてはならないように思う。 【人に「必要とされる人」】精神科医 斎藤茂太著/新講社
January 25, 2021
コメント(0)
あなたこそ尊極な宝塔 阿仏房佐渡流罪中の大聖人を支えた「北国の導師」身延を3度訪れるなど生涯、求道を貫く 「阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外(ほか)の才覚無益なり」(御書1304㌻)――日蓮大聖人から仏法の獄理を教えられた門下が阿仏房である。阿仏房は、大聖人流罪の地・佐渡で帰依し、夫人の千日尼と共に赤誠を貫いた。赦免後も、はるばる身延の地まで、高齢を押して3度も供養を届けた。夫妻に続き、子息も広布後継の道を歩んだ。佐渡という大聖人にとって最大の逆境の地で初めて会い、帰依した阿仏房。この不思議な仏縁で結ばれた門下に、大聖人は最大の称賛と期待を寄せられたのである。 厳しい監視の中御供養を届ける大聖人が佐渡の地を踏まれたのは1271年(文永8年)10月28日。11月1日から翌年の4月初めごろ塚原で過ごされた。住まいとされた三昧堂(墓所に設けられている死者を弔うための堂)は、天井は板が合わず、四方の壁は破れ、堂の中に雪が降り積もる状態。着るものにも食べるものにも事欠く、劣悪な環境であった(同916、1052㌻参照)。しかも当時は、念仏者を中心に、大聖人の命を狙うような的代謝に囲まれていた。また、大聖人には中也にわたって冠詞がつけられ、大聖人を支えようとした人々が建物に近づくことすら容易ではなかった。そんな中で大聖人に帰依したのが、阿仏房と夫人の千日尼である。阿仏房は、御供養の品々を背負い、夜中に監視の目をかいくぐって大聖人のもとを訪れた。このために住むところを追われ、罰金を科せられるなどの弾圧を受けている。そもそも阿仏房が大聖人にお会いできたのは、流人を管理する地域の有力者であったからとの説もある。また、もともとは念仏を信じていたともいわれている。そうした阿仏房が大聖人に帰依した経緯は定かではないが、阿仏房夫妻にとって大聖人との出会いは、人生を一変させるほどの出来事であったことは想像に難くない。大聖人は72年(同9年)幕府の命により塚原から一谷入道の屋敷に移られ、その2年後の74年(同11年)3月に流罪赦免が届き、鎌倉に向かわれた。その間、阿仏房夫妻は、佐渡の門下の中心的存在として大聖人を支え続けたのである。 師の万感の期待大聖人がどれほど阿仏房に信頼を寄せられていたか。それは、仏法の極理を教えられた「阿仏房御書」にも表れていよう。「法華経に説かれる多宝如来や宝塔の出現は、何を表しているのでしょうか」との阿仏房の質問に答えられたお手紙である。「法等」とは、法華経見宝塔品第11で説かれる、金・銀などの七宝に飾られた高さ五百由旬(=一説には地球の半径ほどの距離)の巨大な塔のこと。この宝塔の中に座し、法華経こそ真実の教えであることを証明(保証)する仏が「多宝如来」である。これらの意義について、大聖人は明快に示される。 「末法に入って、法華経を持つ男女の姿よりほかに宝塔はないのです。もしそうであれば、身分の貴さや賤しさ、立場の上と下は関係なく、南無妙法蓮華経と唱える人は、そうの人自身が宝塔であり、また、その人自身が多宝如来なのです」「妙法蓮華経よりほかに宝塔はないのです。法華経の題目は宝塔であり、宝塔はまた南無妙法蓮華経です」(同1304㌻、通解) 宝塔とは経文上の話ではない。あなた自身のことなのですよ――大聖人からのお手紙を一緒に拝したであろう千日尼と共に、阿仏房はどれほど驚き、感動したであろうか。 本抄の最後に大聖人は、「阿仏房、あなたはまさに北国の導師ともいうべき方です」(同㌻、通解)とも激励されている。池田先生は、この大聖人の仰せについて、次のように講義されている。「大聖人は、阿仏房の不退の信心と不惜の実践を称賛され、『北国の導師』とまで呼ばれています。『導師』とは、今で言えば、広布の尊きリーダーです。わが身が宝塔であると目覚めた人は、当然、他者の胸中にも宝塔があることを知ります。今度は、人々の宝塔を開く存在に変わる。阿仏房を起点として、佐渡および北国の人びとが宝塔として輝いていくのです。真正の弟子ゆえに、広布のリーダーとして、大聖人と不二の共戦に立ってほしいとの念願を込め、入魂の激励をされていると拝されます」我が胸中に、いかなる苦難にもびくともしない。妙法の宝塔を打ち立てるための信心である。そして、自身だけでなく、他者の生命にも宝塔を打ち立てていくことこそが日蓮仏法の魂である。この〝宝塔の林立〟こそ〝最も確実にして根源的な平和の直道〟であることを銘記したい。 地域広布尽くした人生佐渡から鎌倉に戻られた大聖人は、3度目の国主諌暁の後、身延に入られる。それを知った阿仏房は、求道の心を一段と燃えたぎらせたようである。1278年(弘安元年)7月に認められた「千日尼御前御書」によると、大聖人の身延入山から、このときまで足掛け5年の間に、阿仏房は3度も大聖人のもとを訪れている。阿仏房は当時、恒例だったと推定されている。千日尼から託された大聖人へのお手紙や御供養の品々を携えて、海を渡り、山や谷を越える身延までの道筋は、常に危険と隣り合わせの旅であっただろう。それでも佐渡の同志に師の言葉と心を届け、地域広布のリーダーとして奮闘し抜いたのである。79年(同2年)3月21日、阿仏房はその生涯を閉じる。大聖人は「散った花もまた咲きました。落ちた実もまた成りました。……どうして、阿仏房が亡くなったという一事だけがもとに戻らないのでしょう。この人ばかりが旅立ったまま帰らないことを、天も恨めしく、地も嘆かわしいと思っていることでしょう」(同1320㌻、趣意)と、千日尼に深く寄り添われながら、広布功労の門下が亡くなったことを嘆かれた。また、阿仏房の生前の信心をたたえ、法華経の法理に照らして、阿仏房の成仏は一点の疑いもないと励まされている。「北国の導師」として、師匠と共に大難を乗り越え、師弟不二に生き抜いた阿仏房の生涯は、弟子の模範として後世に輝きを放っている。 【日蓮大聖人の慈愛のまなざし】聖教新聞2020.4.14
January 23, 2021
コメント(0)
認知療法とうつ病1970年代、アーロン・ベックとアルバート・エリスがともに主張したのは、私たちの感情は自らの考え方によって決定されるということだった。理論をもとにして、うつ病患者の失敗や挫折や無力状態に対する考え方を変えるにはどうしたらいいかを探る治療法が発達した。認知療法は五つの方法を用いる。第一に、自分は最悪の気分の時、どんな考えが無意識に頭に浮かぶだろうか? 自然に頭に浮かぶ考えとは、あまりに習慣的になっているためほとんど気づかずにいる短い言葉や文だ(たとえば、三人の子持ちの母親が子供たちを学校に送りだすときに大声で怒鳴る。その結果母親は非常に落ち込む。認知療法によって、母親はどなったあと自分にこういっていることに気づく。「私はひどい母親だわ。私の母だってもう少しましだったのに」母親はこれらが自分の説明スタイルであり、それは永続的で、普遍的で、個人的――自分を責めている――であることを知る)。第二に、この無意識の考え方の反証となる事実を並べることによって、これに反証するすべを学ぶ(この母親は、子供たちが学校から帰ってくると、一緒にフットボールをし、幾何を教えてやり、悩みごとの相談に乗ってやっていることを思い出して気分が晴れる。これらの事実に焦点を当てることによって、母親は自分が悪い母親だと自動的に考えるのは間違っていることに気づく)。大さんに、自分の特性を見直す方法を学び、いつも意識に浮かぶ考えに反論するのに使う(この母親はつぎのように言うようになるかもしれない。「私、午後には子供たちに優しくできるんだけれど、午前はだめだわ。朝型人間ではないかもしれない」これはさっきよりもずっと一時的で範囲の狭い説明だ。否定的な説明をしていると連鎖反応を起して、「私はひどい母親だ。子供を持つのに適していないのだ。だから生きている視覚もない」というふうになってしまう。母親は新しい説明スタイルを用いることによって、連鎖反応を断ち切ることを学ぶ。第四に、憂うつなことから気持ちをそらす方法を学ぶ(母親は、このような悲観的なことを今考える必要がないことを学ぶ)。プレッシャーがかかっている時に反芻すると状況は一層悪くなる。考えるのを後にずらせたほうがよい結果を生む場合が多い。何を考えるのではなく、いつ考えるかもコントロールすることができるのだ。第五に、自分の行動がいかに多くのうつ病の種になりそうは過程に支配されているかに気づくことだ。そして、それらを疑ってみる。「私は愛なしでは生きていけない」「なんでも完璧にできなければ失敗だ」「誰もが私を好いてくれなければ、私はだめな人間だ」「どんな問題にも完璧な解決法があるはずだから、それを見つけなければならない」このような前提がうつ病のもとなのだ。こういう考えで生きていこうとすれば、たくさんの憂うつな日々を送ることになる。説明スタイルを悲観主義から楽観主義に変えることができるように、人生の前提も選択し直すことができるのだ。「愛は貴重だけれど、めったに得られないものだ」「ベストをつくすことが成功である」「味方の数だけ敵もいる」「人生では臨機応変に大まかにやることも必要だ」自分が誰にも愛されず、才能もなく、だめな人間だと思い込んで、治療にやってきたソフィーのように、うつ病にかかる若者の数はかつてなかったほどに増えている。ソフィーのうつ病の核には悲観的説明スタイルがあった。認知療法を開始してから、彼女の人生は直に大きく転換した。週一回の治療三カ月続けた結果、ソフィーの回りの状況は、少なくとも最初のうちは変化がなかったにもかかわらず、それに対するソフィーの考え方は大きく変わった。まずソフィーは、治療のおかげで自分が救いようもないほどの否定的な会話を自分と続けてきたことに気づいた。クラスで発言して教授にほめられた時、ソフィーはとっさにこう思った。「先生はどの学生にもやさしくしているんだわ」。インドのインディラ・ガンジー首相の暗殺を知った時、ソフィーは「女性の指導者はどのみち不幸な運命をたどるのよ」と思った。ある晩遅く恋人が不能になった時、「私のことをむかつくと思っているからだわ」ととった。私はソフィーにたずねた。「道をふらふら歩いている酔っ払いに、むかつく、と言われたら、深刻にはならないだろう?」「もちろんですわ」「でも、自分が同じくらい根拠のないことを自分自身に言った時は信じるんだね。自分のいうことだから信用できると思っているのだろうが、それは違う。誰でも酔っ払いと同じくらい真実をゆがめることがあるんだ」ソフィーはまもなく、いつも無意識に頭に浮かんでいた言葉に対して反論することを覚えた。ソフィーの発言をほめてくれた教授は誰にでもお世辞を言ったわけでもなく、実際に別の学生が発言した時はかなり辛らつであったことを思い出した。不能になった恋人は愛を交わす前に、一時間で半ダースの缶ビールを飲んでいたことを思い出した。ソフィーは自分と楽観的な対話をするという重要なテクニックを身につけた。失敗すると思えば、失敗しやすいことを学んだ。ソフィーの説明スタイルは永久に悲観から楽観に変貌したのだ。ソフィーはふたたび猛然と勉強するようになり、優秀な成績で卒業した。新たな恋人を得て、今はその人と結婚をしている。抗うつ剤を飲んでいる人と違い、ソフィーは挫折に出会った時いつでも使うことのできる方法を身につけた。いったん覚えれば一生失うことのないテクニックだ。ソフィーは医者や薬の力ではなく、自力でうつ病を克服したのである。 【オプティミストはなぜ成功するのか】M.セリグマン|山村宜子訳/講談社
January 22, 2021
コメント(0)
アサリ管理栄養士 塚原 美恵子アサリは日本各地の内湾に分布する古くから人気の食用貝です。最近は輸入物も多く、みそ汁、酒蒸し、深川めししなどでおなじみですね。産卵期を迎える春から初夏の潮干狩りの季節が旬。身が膨(ふく)らんでおいしくなり、店頭にも多く出回ります。殻が鮮やかな模様で固く閉じていて厚みのある貝を選びましょう。アサリを食べている時、ジャリッとした経験はありませんか? おいしく食べるために下処理、砂抜きをしっかりすることがアサリを扱ううえで大切なポイントです。砂抜きは砂を吐き出しやすいように、平らな容器に櫂を重ならないように並べ、3%の塩水(1㍑に塩3㌘が目安)をひたひた程度に注ぎ、新聞紙などで覆います。ボウルの場合はザルを組ませて、吐き出した砂を再度吸い込まないようにすると良いでしょう。すぐ使う場合はスーパーで買ったものなら常温で2~3時間、潮干狩りで取ったものなら一晩程度砂抜きをし、殻を良くこすり洗いします。保存するときは、冷蔵庫なら塩水につけ、覆いをかけて密閉せずに1~2日。店頭で買った場合は表示の日程までに使い切ります。冷蔵庫なら下処理をしてフリーザーパックに平らに入れ、水を少し加えて空気を抜き保存(約1カ月)。解凍した貝は口が開かないことが多いので、必ず凍ったまま加熱処理を。ただし、貝は傷みやすいので、できるだけ早く食べましょう。アサリはカロリーと糖質が少なく、ビタミンB12、鉄分が豊富。タウリンや亜鉛なども多く、貧血や動脈硬化、高血圧予防、肝機能の正常化、滋養強壮に役立ちます。味噌汁や炊き込みご飯は、アサリの栄養分や旨み成分(コハク酸、グルタミン酸など)を残さず食べられます。また貧血対策にはビタミンCの多いネギやピーマン、葉酸の多い菜の花などと組み合わせがお勧め、おいしいアサリを上手に使って春の食卓をお楽しみください。 【海の幸で元気!<13>】公明新聞2020.4.11
January 21, 2021
コメント(0)
待つ力スマートフォンでネット上の情報につながるまで、どのくらい待てますか――時計メーカー「シチズン」が行った意識調査によると、6割以上の人が「10秒以内」と答えた。コンビニのレジでは1分。待たされると、3割を超す人がイライラを感じるという▼近年のIT技術の進歩により、生活は格段に便利になった。スマホで調べ物をすればすぐに〝答え〟が分かったり、ネットで買い物をすれば当日に届いたり。〝待たなくてもいい時代〟と言えるかもしれない▼ただ、「待つ」ことを即、不便とだけ捉えるのはいかがなものか。精神科医の春田武彦氏は、「精神的に裸となった自分と対峙しなければならないのが『待つ』という営み」と指摘する(『待つ力』扶桑社新書)。思い通りにならない事態になっても、感情的になったり、さじを投げたりせず、一度立ち止まる。待つことで状況が変わる場合もある。待つという行為は、精神的な成熟の証しなのである▼新が他コロナウイルス感染拡大への一人一人の対応にも、忍耐強く「待つ」ことが求められる。不要不急に外出をやめ、密閉・密集・密接を避けることに徹したい▼現在の困難に無関係な人は一人もいない。皆が当事者として、賢明に粘り強く、自他の健康を守り抜こう。 【名字の言】聖教新聞2020.4.10
January 20, 2021
コメント(0)
世界のことわざ日本ことわざ文化学会副会長 時田 昌瑞3月末に刊行された『世界ことわざ比較辞典』(岩波書店3400円+税)の監修に関わった。現代は使われていない古典ギリシア語、ウガンダの文字を持たないチガ語まで25言語と地域から約6500語が収められている。日本には、これまでに「世界のことわざ」の名をもつ事典類が5点ほどある。ほとんどは言語か主題別に配列されている。『世界ことわざ比較辞典』は日本の常用ことわざを項目とし、それに対する外国の類似した意味のことわざを集め比較する構成になっている。一例をあげる。日本の「腐っても鯛」には、フランス「真珠はつなぎ方が悪く手の貴重」、ロシア「金は泥の中でも輝く」、アラビア「バラは枯れても香りは残る」、トルコ「高貴なものは汚れない、蜂蜜は腐らない」をはじめ、このほかに15のことわざが並ぶ。つまり、日本の皆が知っていることわざから世界のことわざがたどれる仕組みになっている。対して世界にはどうだろう。最も近いものが「笑うと福が来る」で韓国。ラテン語やイタリアには「最後に笑うものが、最もよく笑う」とあり締めくくりをよしとする意だ。英語には「笑って太れ」とあるが、これは解説がいる。現代こそ肥満は嫌われるが、かつては富の象徴であったから楽しく笑って太れるのは最高だった。ドイツとロシアには「笑いは最高の薬」とあるほかに、チリ「悲しむな、笑いは魂の栄養」と、最も高く評価されている。さらに、シベリアには「不幸せな人は笑わない」、スペイン・バスク地方には「一度も笑わない顔はよこしまな心を物語る」とあるから、笑いは幸福のしるしといえそうだ。酒飲みにとっては、フランス「身体にはワインを、魂には笑いを」が最もうれしい。最後にユニークなもので締めくくりとする。カッコ内はそれぞれ日本のことわざ。ルーマニア「空にある月を欲しがる」(木によって魚を求める)、ジョージア「パンはパン屋に焼かせろ」(餅は餅屋)、ネパール「年寄りに若い娘は毒」(年寄りの冷や水)、オランダ「悪魔も若いころは美男子」(鬼も十八)、古典ギリシア語「アテネにフクロウ」(屋上屋を重ねる)、メキシコ「神様と悪魔の両方とうまくやる」(二足の草鞋(わらじ))、中国「黒いカラスが豚を笑う」(五十歩百歩)、インドネシア「ドリアンとキュウリ」(月とすっぽん)、チベット「狼の耳に説法」(馬の耳に念仏)。(ときた・まさみず) 世界のことわざ例 ・パンはパン屋に焼かせろ(ジョージア)=餅は餅屋・悪魔も若いころは美男子(オランダ)=鬼も十八・黒いとカラスが笑う(中国)=五十歩百歩・ドリアンとキュウリ(インドネシア)=月とすっぽん・狼の耳に説法(チベット)=馬の耳に念仏(=の右側は類似する日本のことわざ) 【文化】公明新聞2020.4.10
January 19, 2021
コメント(0)
うつ病は治る100年前の人間の行動――とくに悪い行動――の説明には性格を用いるのがはやりだった。悪い行為の説明には性悪、ばか、愚鈍、極悪などの言葉で十分とになされ、精神病も生まれつきによるものと考えられがちだった。自分のことを教育を受けていないから無知なのだとは考えずに、生まれつきによるものと思っている人たちは改善の努力をしようとしない。犯罪者を生来の悪人だと考え、精神病者を生まれつきとみなしている社会では施設は更生のためというより、こらしめや封じ込めのためのものだった。19世紀末ごろにかけて、この考え方は次第に変わってきた。労働者たちが政治力をつけてきたことが、おそらく変化の引き金になったものと思われる。しれからヨーロッパ、アジアから大量に押し寄せてきた移民の一世、二世がめきめきと地位を向上させたこともある。人生に失敗したのは生まれつきの性格が悪いためとされてきたのが、育ちや環境が悪いためだと考えられるようになった。道はばかなせいではなく、教育の欠如であり、犯罪は貧困から起きるという見方が有力になった。貧困自体も怠惰のせいではなく、チャンスに恵まれなかったからだと見られるようになった。精神病患者は社会に不適応な性癖があるだけで、その性癖は教育で取り除けると考えられるようになった。環境の重要性を説いたこの新たなイデオロギーは、1920年から1965年までレーニンからジョンソン大統領にいたるソ連とアメリカの心理学会を支配していた行動主義の根幹をなすものであった。行動主義のあとを継いだ認知心理学は、人間は変わることができるという楽観的信念を保ちつつ、それをさらに拡大して自己改革が可能であるというところにまで理論を発展させた。精神病の治療はもうセラピストやソーシャルワーカーや精神病院に任せきりであってはならない。それは一部患者自身の手にもかかっているのだ。ダイエットの本、運動の本、それに心臓発作の危険が大きい攻撃的なA型の性格や飛行機恐怖症、うつ病などを治す本がこれほどたくさん出回っているのも、この信念がもとになっている。注目すべきことはこれらのほとんどがはったりやいんちきではないことだ。私隊は実際に体重を減らし、コレステロール値を下げ、体力を増し、魅力的になり、以前ほどあせくせしなくなり、それほど悲観的でなくなることができるのだ。 【オプティミストはなぜ成功するか】M.セリグマン|山村宜子 訳/講談社
January 18, 2021
コメント(0)
将来のために着々と準備する国の減反政策によって、多くの田んぼが休耕地になっている。問題は、秋になれば黄金色に輝いた田んぼも、数年間ほったらかしにすると雑草だらけになり、また田んぼとして使おうとしても、そう簡単には稲作ができる状態には復活しないことだ。ブランクというものが、いかに大きいことか。仕事でも家庭生活でも、ブランクの影響は大きい。企画部門から経理部門に異動し、また返り咲くとしても、数年間のブランクで会社の考え方も、世の中の流れもすっかり変わっていることがある。自分自身の思考回路が一変していることもある。単身で赴任していた支社から本社に戻ってみると、家の中では子どもがすっかり妻のいうことを聞かなくなっていて、家庭崩壊の危機に瀕していることもあるだろう。しかし、さまざまな変化を体験しつつも、うまく乗りきっていく人もいる。それは、いつの五年後、十年後をにらみ、前もって手を打っておく人だろう。国が減反政策を進めだした頃、実験的な野菜づくりを始めた人がいる。稲作から野菜づくりにシフトする傾向や輸入野菜が増えることを読み、ブランド化した高品位の野菜をつくり始めたのである。人が何を必要としているかが見える人なのだろう。不本意な経理部門に配属されながらも、その業務をこなしつつ企画部門から情報を得て、自らの復活のために準備をしたり、会社を移るために就職活動をした人もいる。単身赴任中でも子どもの動向が分かるように、親子でメール交換を習慣にしたり、女房まかせにせずに、親類や友人に協力してもらってときどき顔を見てもらうなど、「わが子の十年後」のために着々と手を打っている人も少なくないだろう。人は、どうしても明日のことより目の前のことに心を奪われる。考えてもどうにもならないような先々の心配はするのに、近未来のことはないがしろになりやすい。しかし、近未来がなければ遠い未来もない。畑に種もまかずに将来の大収穫を望むのは、あまりにも現実離れした話ではあるまいか。まず種をまき、新芽が出たら、水をやりながら育てる。そのとき、少し前を見ながら、着々と準備をすることが必要だろう。自分の人生も、自分で育てていくしかない。それが結局、大きなストレスを被らないコツのように思う。 【人に「必要とされる人」】精神科医 斎藤茂太著/新講社
January 17, 2021
コメント(0)
「口先の力」より、現場の「ひらめき」若い人が「夢のような話」を語るのは、悪くない。世界一になりたい、金メダルをとりたい……など、周りの人の気持ちを明るくするのだから、こういう人も「必要な人」だろう。ところがいい年齢になった人がこれをやると、無責任さが漂うから注意したい。無責任なことを雄弁に語ると、聞いているほうが気恥ずかしくなるものだ、これは、自らの努力や力で目標を達成したり、大きな成果を獲得したことがない……そういう人にありがちな失敗のように思う。頭がよく、理論派だけれども、そのぶん、現実の複雑さとすごみを肌で感じたことがない人ともいえようか。あるいは、自分の夢や野望と現実があまりにも違い、そのギャップが埋められないままに思想論をぶつけているだけのようにも見える。「理想」は人を酔わせるけれども、「無責任」と紙一重であることも覚えておいてほしいところだ。偉い人がいったことの受け売り、想像、推測、はったり……などは、いくら訴えたところで、そうそう人には通用しないものだ。実体験から生まれた言葉ではないから、どうしても説得力に欠ける。人の心を動かすほどのパワーは持ちえないだろう。人前で持論を展開するのは楽しい。自分の考えがいかに的確であるか、素晴らしいことかを訴えるのも快感をともなう。しかし、それに見合った行動をしなければ、「たわごと」「ざれごと」と思われてもしかたがないだろう。実際、立場が上の人の持論というのは、下の者からみれば「裏付けがないなあ、内容は立派だけど……まあ、そういうことにしておきましょうか」と、あまり本気で受け入れようとはしないものだ。絵に書いた餅は食べられない。まして、餅を見たことも食べたこともない人が描いた餅の絵など誰が信じようか。一方、自分できちんと餅をついて、自分で食べる……そういう人の周りには、あちこちから人が集まってくる。その人のついた餅がなんともいえず美味しいからに違いない。雄弁ではないけれども、言葉のひとつひとつに「現実感」があり、「さすが現場で鍛えられた人」といった印象を強く放っている。頭で考えるのではなく、体で感じる。そこから生まれる「現場の考え方」のほうが人を引きつけるのは当然のように思う。 【人に「必要とされる人」】精神科医 斎藤茂太著/新講社
January 16, 2021
コメント(0)
桜の孤独、歌人の孤独京都先端科学大学教授 山本 淳子学生たちと、「小倉百人一首」を読む授業を、ここ数年続けている。すると耳慣れた和歌でもふと新しい魅力を感じことがあって、最近感じ入ったのが、前大僧正行尊のこの一首である。「もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし」。大峰山で、思いがけず桜の花を見て読んだのだという。「私がお前にしみじみと心を寄せているように、お前も私を心から慕ってくれ、山桜よ。私はお前という花以外に、心を分かってくれる人もいないのだ」。行尊は天皇家の血を引く人物である。祖父・敦(あつ)明(あきら)親王は三条天皇の長男でかつて皇太子だったが、なぜか位を投げ出し、天皇となることはなかった。理由は本人の奔放な性格とも、権力者・藤原道長の圧力とも、さまざまに憶測されている。行尊は十二歳で出家し、やがて諸国遍歴の修行の旅に出た。それが十六歳の九月のことだったことを、彼は家集『行尊大僧正集』に記している。その旅路の和歌は「草枕 苔の衣の 露けさに 秋の深さも 知られぬるかな(旅装の僧衣が露に濡れる。それは覚悟の涙の露なのだが、晩秋を知らせる冷たい露でもあるのだ)」。それ以降、歌集に記される旅先は、な地、熊野、竹生島など信仰の霊場である。時に、先人が足を滑らせて死んだという崖を、念仏を唱えながら行き過ぎる。また時に、幼い頃育ててくれた乳母を思い、都に歌をおくる。寒そうな同行者に衣を脱ぎ与えたら自分が寒くなってしまい、柴を集めて寝床にする。険しい山から山へ、和歌を心の友として、行尊は歩いたのだった。「もろともに」の桜は、つぼみが風に吹き散らされ、枝も吹き折られていたという。初夏というのに雪深く厳しい環境の中で一人咲いていた。その孤独を行尊自身の孤独と重ね合わせて、彼はこの和歌を詠んだ。やがて西行、そして松尾芭蕉からも愛された一首である。 【言葉の遠近法】公明新聞2020.4.8
January 15, 2021
コメント(0)
暴君になった孫権 三国時代 呉の初代皇帝早稲田大学教授 渡邊 義治 三世紀の中国、魏・蜀・呉の三国時代で、呉には女性ファンが多い。呉は、主役が若いのである。赤壁の戦いで曹操を破った周瑜(しゅうゆ)、それを助けた魯(ろ)粛(しゅく)、二人の跡を継ぎ関羽を破った呂(りょ)蒙(もう)、関羽の仇討に来た劉備を返り討ちにした陸遜(りくそん)、それぞれ三十代後半から四十代前半で大活躍をしている。主役が若いうちに代わるのは、陸遜を除き、みな早世したためである。そうした中、君主の孫権だけが、七十歳を超える長寿を全うする。孫権は、十九歳で兄の後を嗣(つ)いだ。頬の張った顎に大きな口。紫の髯(ひげ)という異貌の持ち主だが、父孫堅や兄孫策のような圧倒的な武略を持つわけではない。孫権は、張(ちょう)昭(しょう)・周瑜を中心に名士を積極的に登用し、その結果、陸遜が出仕した。陸遜は、孫策に大叔父の陸(りく)康(こう)一族が殺された際の生き残りである。それが出仕して孫策の娘を娶(めと)ったことは、江東(こうとう)の豪族の中心として孫氏と対立してきた陸氏と孫氏との和解の象徴であった。赤壁の戦いの前、曹操が降服を要求すると、張昭らの北来の名士は降服を主張した。それでも、周瑜の主戦論を魯粛の戦略が支え、赤壁の戦いで曹操に勝利した。しかし、周瑜は、病のため後事を魯粛に委ね病没する。三十六歳であった。続いて魯粛も卒(しゅっ)すると、呂蒙は、関羽を打倒して、荊州を奪回するが、呂蒙も病死する。関羽の殺害に劉備が侵攻すると、孫権は陸遜に夷陵の戦いを任せて打倒し、曹魏への臣従を止めて自立した。その際、孫権は、臣下達が二度も丞相に推した張昭を任命せず、君主権力の強さを示した。 若い頃は謙虚で、人材が集まるも、次々と先立たれ もっとも孫権は、常に朝臣と対峙したわけではない。事に後継者となる皇太子孫登には、陸遜を補佐役として、北来・江東の名士と軍部から「太子四友」を選び、融和に努めた。ところが、孫登も早く卒し、二宮(にきゅう)事件と呼ばれる後継者争いが起こる。孫権は、王夫人の子孫和(そんか)を皇太子としながら、孫和の弟の魯王孫覇を寵愛したのである。丞相の陸遜は、儒教に基づき皇太子を正統とし、江東名士の多くもこれに賛同した。しかし、魯王派は、孫権の寵愛を背景に強力であった。結局、孫権は、孫和を廃して孫覇も殺害、晩年の子の孫亮を皇太子とした。そして、魯王派の責任を問い、陸遜を流罪とした。憤りで体調を崩した陸遜が死去すると、江東名士は呉に失望した。こののち孫権は、スパイを多用する恐怖政治を行い、暴君となっていくのである。 晩年になるほど疑り深く 『三国志』を著した陳寿は、若い頃の孫権は、身を低くして才能ある者に仕事を任せ、非凡であった。しかし、生来の疑り深さから容赦なく殺戮を行い、晩年になるほど激しかったと批判する。陳寿の評価どおりであろう。ただ、信頼する周瑜たちを早くに失い、赤壁の際に降服を唱えた張昭と、兄が対立していた陸氏に朝臣の支持が集まるなか、頼りの皇太子に早世された晩年の孫権を一方的に責めることはできるのであろうか。 わたなべ・よしひろ 1962年、東京都生まれ。著書に『入門 こんなに面白かった三国志』(大和書房)、『はじめての三国志』(筑摩書房)など。 【文化】公明新聞2020.4.8
January 14, 2021
コメント(0)
広がるコロナウイルス医療社会史から見た感染症小俣 和一郎鬱積感、圧迫感が蔓延2020年は、思いもかけず新型コロナウイルス感染症騒動で始まった。もっとも、日本ではこの問題が深刻味を増したのは、感染患者が集団発生した大型クルーズ船検疫を巡る対応や国内での感染者が増加した2月以降のことである。ところで、歴史上このような新しい感染症が現れ、それが広域に伝染して、いわゆるパンデミック(世界的な流行)が出現したとき、人間社会がどのような反応を見せてきたのかを顧みると、そこには驚くほどの共通点が見いだされる。新しい感染症であるから、それに対する免疫をもつ人はなく、治療法もないという点で、大きな不安と恐怖心を呼び起こす。そうした感情は本来身を守るためのポジティブなものであるが、集団心理となると、社会にとって逆にネガティブなものともなる。そのもっとも極端な例が感染源と見なされた人々への攻撃であろう。ヨーロッパ中世におけるペスト大流行に際してのユダヤ人焼き殺し、いわゆる魔女狩りの一部などがその例といえる。さほど極端ではなくとも、今回のコロナ危機における外出制限のエスカレートや買い占め騒動なども、そうした人間の集団心理が深くかかわっている。そうしたこともあって、「コロナブルー」とか「コロナ疲れ」ともいわれる何とも表現しがたい鬱積感、圧迫感がまん延している。 繰り返される集団行動もっとも、感染者を隔離するという行動は公衆衛生上の基本的な手段であり、検疫という英語のクアランティン(語源はイタリア語のクアランテナ=40)も、町の外の港に船を乗員ごと40日間停泊させ、異常がなければ上陸を許可したことに由来する。その起源は14世紀の都市国家ベネチアといわれる。この手法は現代の世界でもなお医学的に有効とされるので、冒頭に触れたクルーズ船検疫のような対応は基本的に間違っていない。ヨーロッパ各国のような陸続きの国で国境を封鎖して入国者をとどめ置くというのも、同じ意味で誤った対応とは言えない。しかしながら、集団心理が昂じてパニックが広がれば、先に述べたような集団虐殺、人種差別、露骨な買い占め騒動などに結びつき、本来何の科学的根拠も持たない行動となって現れる。こうした非科学的な集団行動は、未知の感染症が流行するたびに歴史上、繰り返されてきた。医学の歴史を専門に研究する分野を「医学史(または医史学)」というが、その周辺には最近になって、さまざまな関連分野が生まれている。感染症と人間社会のかかわりを研究テーマとする領域も「医療社会史」ないしは「医療文化史」などと呼ばれることがある。ただし、こうした領域の定義や境界はまだ定まっていない。しかし、今回のコロナ危機のように、パンデミックを引き起こし、しかもそれゆえに世界経済にも大打撃を与えつつある事態に対しては、そうした新しい領域の研究者も大いに関心をもたざるを得ないだろう。 大戦終結させたスペイン風邪経済優先の世界見直す作用も 自然共生的生き方の拡大ところで、医療社会史的に分析してみると、これまでパンデミックのような広範な感染症の流行は、一方で上述のような非科学的で非人道的な愚行を繰り返し生むのだが、他方で人間社会全体にとってはむしろよい結果というものをもたらしてきた歴史も見ることもできる。例えば、1918年に発生した「スペイン風邪」のパンデミックがその一つであろう。この大流行の発生源はいまだによく分かっていないが、その流行がスペインで大きく報じられたことからスペインの名称を冠してこう呼ばれる。また、その正体はインフルエンザウイルスであった。しかし、当時はなおこのウイルスに免疫がなかったため、またたく間に世界中に感染が広がった。日本でも多くの人が感染し死亡した。世界的には5億人以上が感染、死者も5000万人以上といわれている。この膨大な数の感染死、とりわけ若者の死によって徴兵に支障が出たため、こう着状態にあった第1次大戦が終結(18年)したともされる。今回の新型コロナウイルスのパンデミックはまだおさまらず、一日も早い終息を祈るばかりだが、各国が検疫目的で移動制限を実施したことで旅行者数が激減したのにともない多数の航空便もストップし、工場の九行で石炭排出ガスなどが減少し、帰って空気が浄化され、パンデミック前までは国連をはじめ多くの学者らが警鐘を鳴らしていた地球温暖化にさえ一時的な歯止めがかかったかもしれない。つまり、ウイルスという微生物が、人間に対してあたかも「世直し」のように作用しているということである。もとろん、それに伴う多くの犠牲者、経済的影響は見過ごすことはできない。だが、長い目で見れば、バブル経済のような角の株価上昇、地元時移民にとっては迷惑この上ないオーバーツーリズム、地球規模での気候変動などが抑制されるという結果につながるかもしれない。また、テレワークのような勤務形態の促進、経済最優先の成長主義の見直し、地球環境に配慮した自然共生的生き方の拡大につながる可能性はないだろうか。ゆくウイルスVS人類のようにあたかも戦争にたとえ、闘争心を煽るが、感染症という病気自体も自然のなせる業である以上、それを真に克服できることにはつながらない――医療社会史がわれわれに教えていることも、そのようなことではないか。(精神医学史家) おまた・わいちろう 1950年、東京都生まれ。精神科医。著書に『近代精神医学の成立』『異常とは何か』『精神医学史人名事典』、訳書にラング『アイヒマン調書』、グリージンガー『精神病の病理と治療』などがある。 【文化culture】聖教新聞2020.4.7
January 13, 2021
コメント(0)
品川燈台㊦名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之 国の重要文化財として幕末から明治にかけて、開国さらには近代化の試練として東京湾とその周辺に建設された4基の洋式燈台に、次の試練が訪れるのは約50年後のことである。大正12年(1923年)9月1日に関東大震災がそれらを襲ったのである。4基とは、品川沖の第2台場に建てられた品川燈台、三浦半島東端の観音崎燈台、同西端の城ヶ崎燈台、そして房総半島先端の野島埼燈台である。4基のうち、城ヶ崎燈台と野島埼燈台は関東大震災で倒壊し、観音崎燈台は倒壊しなかったが、各所に亀裂を生じ北方へ5度傾斜し、点灯は不可能になった。これに対して、品川燈台では木造官舎は倒壊したが、燈台は基礎部分が0.6㍍沈下し、燈塔に亀裂が入ったものの、燈火は消滅しなかった。崎の3燈台の位置は関東地震の震源域の直上であるのに対し、品川燈台のあった第2台場の位置はそれから外れていて、揺れがやや弱かったことも一因であると考えられる。被害を受けたが倒壊しなかった観音崎燈台は、関東地震の際にはすでに2代目であった。初代の燈台は煉瓦造の四角い洋館建てで、品川燈台同様に横須賀製鉄所で焼かれた煉瓦が使われていたが、燈台の形はかなり違ったものであった。建設から50年余りを経た大正11年4月26日に浦賀水道を震源とするマグニチュード(M)6.8の地震が起こり、被害を受けた。地震で被災した初代に代わり鉄筋コンクリート造の2代目燈台が大正12年3月15日に竣工したが、それからわずか半年後の関東大震災により再び被害が出た。それを受けて、大正14年6月1日地、2代目を改築して、現在の燈台が3代目として竣工した。現在、敷地内には資料展示室があり、初代の模型などが陳列されている。また、燈台の玄関には3代目のプレート、さらには、玄関を入り口には2代目のプレートがあり、震災の歴史が刻まれている。以上から分かるように、4基の洋式燈台のうち、幕末から明治にかけて、開国の試練に直面した徳川幕府や近代化の試練に直面した明治政府が、何とか自力で日本を守ろうとしたことを直接伝えられる貴重な歴史遺産は、品川燈台のみである。現在、品川燈台が国の重要文化財になっている意味も理解できる。 【復興へのまなざし⑲建物が語る災害の実相】聖教新聞2020.4.7
January 12, 2021
コメント(0)
冬は必ず春となる妙一尼 所領没収の迫害、夫の詩を乗り越え大聖人をお守りし続けた女性門下 日蓮大聖人ほど、門下にお手紙を書き送られた宗祖はないといわれる。その数は群を抜いており、〝これほどの文書が伝えられる歴史上の人物はいない〟と評価する学者もいるほどである。経済苦、仕事の悩み、上司・同僚・家族との人間関係、自身や子どもの病気……あらゆる苦悩と戦う門下一人一人を、大聖人はどのように見つめ、どのような励ましを送られたのか――企画「日蓮大聖人の慈愛の眼差し」では、「大白蓮華」で好評連載中で、書籍化も決まった「日蓮門下の人間群像」をもとに、門下への御書を拝しながら御本仏の励ましの心を学ぶ。第1回は「妙一尼」紹介する。◇「冬は必ず春となる」(御書1253㌻)――どれほど多くの同志が、この一節を抱きしめながら、自らを奮い立たせてきたころだろう。自然界に四季の移り変わりがあるように、人生にも苦難に挑む厳冬もあれば、喜びに満ちた暖かな春もある。障魔に敢然と立ち向かう仏道修行の途上においては、晴れやかな〝勝利の春〟よりも、〝試練の冬〟を耐え忍ぶ日々のほうが多いかもしれない。いざ厳しい現状を目の当たりにすると、「なぜ自分だけが、こんな目に……」と心が揺れ動くのが人の常である。しかし、日蓮大聖人が仰せのように、どんなに困難が襲い掛かろうとも、広布の一念を定め、たゆまずに挑み続ける先に、栄光と幸福が約束されることは間違いない。不変の法則に譬えて記された「冬は必ず春となる」との御金言には、〝苦難を乗り越え、誰もが仏になれる〟との大聖人の深き確信が込められている。この一節を送られた妙一尼は、〝女性門下の鑑〟であった。 不退の信心で妙一尼は、佐渡や身延にいる大聖人の元に、真心の供養を送り続けるなど、純真な信心を貫いた鎌倉・桟敷の門下である。大聖人は1271年(文永8年)、竜の口の法難、佐渡流罪と相次いで大難に遭われた。その迫害の矛先は鎌倉の大聖人の門下にも及び、所領の没収や追放、罰金など不当な弾圧の嵐が吹き荒れた。その苦しさのあまりに、「御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候」(同907㌻)と退転する者が続出した。妙一尼の夫も、所領を没収されてしまう。生活の基盤を奪われた妙一尼の一家が、どれほどの苦境に立たされたか想像に難くない。それでも妙一尼は、〝師匠をお守りしたい〟との一心で、自分のもとにいたであろう使用人を大聖人のもとに遣わした。当時、天変地異や蒙古襲来の危機が迫り、世情は騒然としていた。頼りとする従者がいなくなることは、わが身を危険にさらす可能性もある。しかし、自らが不便を強いられることも顧みず、ひたすらに検診の行動を貫いたのである。歯を食いしばりながら、健気に信仰を実践していた妙一尼に、さらなる試練が襲い掛かった。頼りにしていた夫に先立たれたのだ。それは、大聖人が佐渡流罪を赦免され、鎌倉に戻る前のことだった。残された幼い子どもたちの中には、病気の子もいた。妙一尼自身も、体調が優れなかったようだ。度重なる宿命の嵐に、心も体も悲鳴を上げる寸前だったに違いない。しかし、希望の光を全く見出せない環境下にあっても、妙一尼の信心は少しも揺るがなかった。身延にも使用人を使わして、衣1枚を大聖人に供養するなど、求道の炎を決して絶やさなかったのである。権力者からの圧迫や迫害にも断じて喫せず、師匠に尽くし抜いた妙一尼夫妻を、大聖人は最大にたたえ、励ましを送られている。1275年(建治元年)5月に、妙一尼に送られたお手紙の中で大聖人は、亡き夫の心情に思いをはせながら、次のようにつづられている。 「ご主人は『私が子どもを残し、この世を去ってしまったら、枯れ朽ちてしまった木のような老いた尼が一人残って、この子どもたちをどれほど気の毒に思うだろうか』〈=「枯れ朽ちて」「老いた」というのは、妙一尼を心配する夫の心に映った姿を表現したものだと思われる〉「『日蓮御房は尊敬を集めるにちがいない』と思っておられたのでしょうが、その甲斐もなく、日蓮が流罪されてしまったので、ご主人は『一体どうしたというのか。法華経・十羅刹は何をしているのか』と思われたにちがいありません。だからこそ、もしも今まで生きていてくださったならば、日蓮が流罪を許された時、どれほど喜ばれたでしょうか。このように感じてしまう心は、凡夫の心です」(同1253㌻、趣意) 世間から尊敬を集めると思っていた師匠が、佐渡に流されて残念に思う。師匠が流罪を許されて喜び、師匠の蒙古襲来の予言が的中したと歓喜する――こうした心の動きを、大聖人は、あえて「凡夫の心」と記される。池田先生は、この「凡夫の心」との仰せについて、こう講義している。「この『凡夫の心』には、『信心』が貫かれていることを忘れてはなりません。この「凡夫の心」には、法華経が広まること喜ぶ『広宣流布の心』があります。また、法華経の行者であられる大聖人を思う『師弟不二の心』があります。師のために一喜一憂する、この「凡夫の心」を仏の眼から見れば、妙一尼の夫は、大聖人と共に戦い抜き、悔いなき、一生を勝飾ったと言えるのです」大聖人は、妙一尼の夫の心には、どこまでも広宣流布の師匠と共に戦おうとする一念があったことをくみ取られていたと拝される。 仏の境涯を開く続いて大聖人は、妙一尼に対して、万感の励ましを送られている。 「法華経を信じる人は、冬のようです。冬は必ず春となります。昔から今まで、聞いたことも見たこともありません。冬が秋に戻るということを。また、今まで聞いたこともありません。法華経を信じる人が仏になれず、凡夫のままでいることを」(同㌻、通解) 寒く厳しい冬は必ず暖かい春となる――自然の道理と同じように、信心に生き抜けば、苦悩や悲哀に沈む凡夫のままで終わるわけがない。必ず仏の境涯を開き、〝勝利の春〟を迎えられるとの仰せである。さらに、亡き夫が信仰を貫いたために所領を取り上げられたのは、法華経のために身命を捨てたことと同じであり、無量の功徳があると、夫の強盛な信心をたたえている。竜の口の法難や佐渡流罪など、〝絶望の冬〟のような大難を勝ち越えた大聖人の言々句々に、妙一尼は、苦悩の闇に輝く一筋の希望の光を見る思いだったに違いない。また、お手紙の最後で大聖人は、「私自らが子どもたちを見守っていきましょう」(同1254㌻、通解)と仰せになり、自身を支え抜いた妙一尼の恩義に対して「次の世でも報いていくつもりです」(同㌻、通解)と記されている。広布に尽くした同志を何としても守り抜きたい――師の大いなる慈愛に触れ、寒風に吹きさらされる妙一尼の心は、春のような温かさに包まれただろう。さらに大聖人は妙一尼に認めた別の御書で、信心の姿勢を自然な感情の発露に譬えて、教えられている。 「信心というのは特別なものではありません。妻が夫を大切にするように、夫が妻のために命を捨てるように、また親が子を捨てないように、子が母から離れないように、法華経、釈迦、諸天善神等を信じて、南無妙法蓮華経と唱えることを信心というのです」(同1255㌻、通解) 〝ありのままの心で祈りなさい〟との大聖人の励ましに、妙一尼は心が軽くなり、いやまして信仰を深めたに違いない。人の心ほど移ろいやすいものはない。不可能に思える困難を前にした時に、不屈の勇気を奮い起せるかどうかが、人生の勝敗を決める。大聖人からの励ましを胸に戦い抜いた妙一尼は、模範の女性門下として、これからも永遠に語り継がれていくだろう。 【日蓮大聖人の慈愛の励まし】聖教新聞2020.4.6
January 11, 2021
コメント(0)
市に虎有り古代中国の説話「市に虎有り」。魏の忠臣・龐(ほう)葱(そう)が、人質として趙に向かう王子の随行を命じられた時のこと。自分の不在中の讒言を心配した龐葱は、王に質問する ▼「一人の者が『市場に虎が出た』と申したとして、王にはお信じになりますか」。「いや」と王。〝二人では?〟。王は「あるいはそうかも、思うだろう」。〝では三人では?〟。王は「信じるだろう」と ▼龐葱は「市場に虎が出るはずがないことは、明白です。それにもかかわらず、三人して言えば虎が出せます」と嘆く。王は真偽を見抜くと誓うが、結局は讒言にだまされ、龐葱は迫害されてしまう(近藤光男『戦国策』講談社学術文庫) ▼〝事実無根の作り話〟も、多くの人が口にすれば〝真実〟に聞こえる。日蓮大聖人は、世間を騙す嘘に対して「何れの月・何れの日・何れの夜何れの時に」(御書319㌻)と。その裏付けを鋭く問いただされた ▼新が他コロナウイルスに関して、ネットやSNSでの〝デマの拡散〟が問題となっている。煽るような言い方や電文には要注意。公的機関の発表か、科学的裏付けはあるのかなどを確かめ、くれぐれも慌てて人に伝える拙速は避けたい。「だまされない」だけでなく、結果的に人を「だまさない」よう心がけよう。 【名字の言】聖教新聞2020.4.6
January 10, 2021
コメント(0)
戦後詩発展の中心人物 鮎川信夫 生誕100年○ 詩人 金井 雄二 ○詩人の鮎川信夫は、戦後、同人誌「荒地」を創刊しその中心人物として活躍、現在の詩を考える上で最も重要な詩人である。今年生誕100年を迎える。第二次世界大戦後から新たに出発した詩は、いわゆる戦後詩という呼称が与えられた。戦後詩とは、十五年戦争による概念、意識を徹底的に覆し、焦土の中から新たな詩の世界観を生み出そうとするものであった。鮎川信夫を中心とした、戦後の同人誌「荒地」は、それまでの詩とは全く違った価値観の詩を掲げることで、戦後詩を牽引してきた。メンバーには鮎川の他、田村隆一、中桐雅夫、北村太郎、黒田三郎がいた。その後思想家でもある吉本隆明も加わっている。彼らは、戦前、戦中までの生活を書いてきた民衆詩、日本の美意識をもった抒情詩、メッセージを強く打ち出したプロレタリア詩、戦争協力詩などを強く否定した。彼らが求めたものは、斬新な手法と、より深い意識である。言葉を突き詰め、過去の体験から脱し、真の言葉の改革を目指した。「考える詩」を書こうとしたのである。基本になったものはモダニズムの思想であり、それに暗喩を効果的に使用することによって詩を形成してきた。鮎川は東京生まれ。早稲田大学を中退し、戦線へ送り込まれる。このとき遺書のつもりで書いたとされる「橋上の人」という詩がある。その後、傷病兵として帰還。親友であり詩友であった、森川義信を戦争で亡くす。その森川のことを書いた「死んだ男」という詩は、鮎川の中でも傑出した作品となった。詩集には『鮎川信夫詩集1945-1955』、『橋上の人』、『宿恋行』『雄路行』などがあり、『鮎川信夫全集』(全8巻)も思潮社から発刊されている。「荒地」における詩の活動もさることながら、鮎川の本領は評論にあるといっていい。その目は何事にも冷静沈着で論理的である。詩論はもちろんのこと、戦争責任論、時代思潮、政治、小説の翻訳に至るものまで書かれている。私が思うところ、鮎川の視点はすべてにおいて懐疑的である。まず、疑っている。特に世間一般が賛同するものに。そのなかから自分を見つけ真実を暴いていく。鮎川の理論は端的に言えば、まず、すべてを疑うところから始まっているように私は感じる。評論活動が多くなってくると、やはり詩の執筆は減少してくる。晩年は詩への決別をも語っていたみたいである。一九八六年、脳出血のために死去。六六歳であった。生前、結婚もしていたのだが周囲のものにも知らせず、プライベートなことはよくわからなかったようだ。そして何より、自分なりのダンディズム持った人だったらしい。鮎川信夫の著作に触れることはそう難しくはない。思潮社発行の「現代詩文庫」もあるし、牟礼慶子や、その他著名人の鮎川論もある。最近では野沢啓の『単独者鮎川信夫』という評論が素晴らしい。もちろん戦後詩は「荒地」だけに集約されるのではなく、「列島」であるとか、「櫂」同人や、六〇年代の「凶区」等、論じられる詩人、雑誌、グループが数多くあることは、ぜひとも知っておいてほしい。誌面の関係で鮎川信夫の詩を掲載することはできないが、詩友である森川義信を悼んだ詩「死んだ男」の最終二行、「Mよ、地下に眠るMよ、/きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。」を掲げ、この詩行の意味を、読者はもとの詩に触れていただき、考えてほしい。(かない・ゆうじ) 【文化】公明新聞2020.4.5
January 9, 2021
コメント(0)
不安が「心を重く」して、笑顔が「心を軽く」する人の言葉を素直に受け取れない人は、ちょっと困る。どちらかというといつもは目立たない地味めの格好をしている人が、その日はいつになく原色系の服装をしてきたので、あいさつ代わりに、「今日は珍しいですね。そんな派手な格好をして来るのだ」と声をかける。とたんにムスッとした声で、「私が選んだんじゃない。女房が買ってきたから、しかたなく着ているんだ」こうなると、こちらは何もいえなくなる。逆に、「ははは、やっぱり派手ですか。女房の奴が買ってきたときに、私は似合いっこないといったんですけどねえ……」と照れ笑いで答えてくれたなら、にこやかに反応できる。「いやいや、よく似合ってますよ。奥さんも、それがわかって選んだんでしょう」と。服のことをいわれて不機嫌になった人は、自分でも「これは似合わないんじゃないか」「変な格好だと思われないだろうか」という不安を抱いていたのだろう。だから「似合わない」「変な格好だ」とケチをつけられたように受け取ってしまったのだ。心に不安があるから、相手の言葉や視線、行動をすべてネガティブにとらえてしまうわけだ。過敏すぎるともいえるし、ひねくれているともいえそうだ。同じように「この服は似合わないんじゃないか」と思っていても、「まあ、似合わないのも個性のうち」と、あまりこだわらない人は、笑って応えることができる。そういう人とは、つきあいやすい。「背が小さい」「太っている」「髪の毛が薄い」など、人はそれぞれ気にしていることもあるだろう。相手が、そのことを口にしたとき、「この人は、なぜ人の気にしていることをいうんだ。いやな人が。口のききたくない」と、ひねくれた反応をする人と、「ここで不機嫌になったら、いった人は気まずい思いをするだろう、笑っておこう」と軽く受け止める人がいる。どちらが人とうまくやっていけるかはいうまでもない。 【人に「必要とされる人」】精神科医 斎藤茂太著/新講社
January 8, 2021
コメント(0)
希望の未来は自分自身の一念から始まる未来に待ち構えているのは大変なことばかり。人が増えすぎて食べ物が無くなったり、怖い病気が流行ったり……。大人のそんな話を、お兄ちゃんから聞いた妹は、心配でたまらなくなってしまった ▼おばあちゃんに相談すると「だーいじょうぶよ!」と明るい声。未来はどうなるかは誰にもわからないし、大人の言うことは大抵当たらないもの。「みらいは たーくさん あるんだから!」との言葉に安心した女の子は、楽しい〝未来〟を想像し始めた ▼毎日ウインナーが食べられたり、ロボットがどこへでも連れていってくれたり……(ヨシタケシンスケ『それしか ないわけ ないでしょう』白泉社)。年長者の達観と子どもの自由な発想は、世代を超えて私たちに大切なものを教えてくれている ▼世界の状況は依然として予断を許さないが、こうした時こそ、想像の翼を大きく広げ、プラス思考で日々を心豊かに過ごす努力を惜しむまい。人類の歴史は試練との戦いの連続であり、それらを完全と乗り越えてきた歩みそのものである。明けない夜など断じてない ▼仏典に「心は工(たくみ)なる画師(えし)の如し」と。どんな境遇にあっても、心は名画家のように、一切を自在に描き出していける。希望の未来は、自分自身の一念から始まる。 【名字の言】聖教新聞2020.4.2
January 7, 2021
コメント(0)
「天才」と「能才」再論日本近代文学研究者 上田 正行先に「天才と能才」について触れたが、訂正と追加をしておきたい。「能才」の訳を夏目漱石としたのは誤りで、既にヘボンの『和英語林集成』第三版(明治19年)に、「能才」の英訳の四語の一つとしてtalentsが乗っていた。「能才」の語は早くからあり、「将門記」に用例のあることは『日本国語大辞典』に載っている。「能才」は今ではあまり使用されず、どちらかと言えば「才子」のほうが一般的のようであるが、「能才」を好んで使ったのが漱石である。明治24年に師ディクソンの依頼で「方丈記」を英訳し、かつ、解説を英文で書いているが、geniusとtalented manを対比させているのが注目される。「天才の手になる文学作品は凡て包含している。これに対して能才の作品は中身がない」という厳しいものである。この二語はロンブローゾの『天才論』によく見られる語で、ロンドン時代の「文学論ノート」でも原語のまま使用されている。この語のルーツは『天才論』であるようだ。しかし、この著の為の参考文献としてマイヤー(独)のGenie und Talent(天才と能才)を上げているので、この書が本当のルーツかもしれない。『文学論』の講義(明治36年9月から)より模擬的意識、能才的意識、天才的意識等の語句が用いられるが、「凡人と天才はF(焦点的概念)を意識する遅速によつて決す」ある如く、漱石は常に天才の直覚に信を置いた。矢張、天才が時代を切り開いていくことに掛けたのであろう。後にこの漱石の擁護に強く反応した詩人がいた。「天才にあって能才にないものは信仰であらう。(略)能才の著述とは、おつとめであり、天才のそれは、必至のことである。」中原中也であるが、漱石の精神は中也の中に生きていた。 【言葉の遠近法】公明新聞2020.4.1
January 6, 2021
コメント(0)
駿府城跡の歴史と新発見日本城郭協会理事 加藤 理文駿府城跡は、静岡市中心部に位置し、本丸及び二ノ丸跡が駿府城公園となり、市民の憩いの場となっている。昭和24年(1949)に、大蔵省から払い下げられ「中央公園」として整備されたのが契機であった。同56年の二ノ丸発掘調査によって、戦国時代の「今川期の城館跡」を発見、同58年には「静岡市駿府公園検討会」が設置され、城跡として保存整備することが確定された。平成元年(1989)、城内で最も高い二ノ丸南東隅の巽(たつみ)櫓(やぐら)(二重櫓)が復元され、城跡に100年振りに建物が甦(よみがえ)った。巽櫓は、当時と同じ伝統的な木造建築工法を用いて可能な限り忠実な再建を目指し、完成まで3年を要した。同8年に隣接する東御門も完成、巨大な枡形門で巽櫓と合わせ、駿府城のシンボルとなった。復元工事は、寛永15年(1638)の再建時の姿に戻すことを目指して実施された。駿府城には、外堀(三ノ丸堀)・内堀(本丸掘)と三重の堀が廻っていたが、明治29年(1896)、歩兵第34連隊の誘致に伴い、本丸堀は完全に埋め立てられてしまった。平成2年(1990)、発掘調査により、本丸堀の位置確認を実施し、その後、南東隅部分と二ノ丸水路に接続する部分が水路と共に整備された。平成13年には、二の丸北東隅に紅葉山(もみじやま)庭園と茶室を整備、続いて、二ノ丸南西隅部の二ノ丸御門広場の石垣復元等を実施すると共に、どう23年、二ノ丸坤(ひつじさる)櫓の木造復元に着手、同26年に完成を見た。坤櫓は、二重3階で高さ約14m、1、2階が7間四方(1間=約1.97m)、3階は5間四方の規模である。平成26年度から、昭和56年の調査で確認された天守台を整備する計画を立て、約1万5000㎡を対象に再発掘調査を開始した。この調査により、徳川家康が慶長13年(1608)に完成させた天守台の下から、豊臣期と推定される古い天守台が金箔瓦と共に確認された。その後、これと接続する小天守台と推定される石垣までもが発見されたのである。これによって、俄然注目を集めたのが、『家忠日記』で、天正16年(1588)「てんしゆのてつたい普請」、天正17年「小傅(こてん)主(しゅ)てつたい普請」との記載から、発見されたのは、豊臣秀吉の重臣・中村一(かず)氏(うじ)の天守台より一段古い、天正期の徳川家康の天守台ではないかとの見解も示された。いずれにしろ、調査が終了しただけで、未だ詳細な検証は未実施だ。今後出土遺物を含め、詳しい検証がされることになる。今回の調査によって、家康が隠居城として築いた天守台は、底部で南北約68m×東西約61mという、わが国の城郭史上空前の規模を持つ天守台と判明した。現存する江戸城天守台が南北約45m×東西約41mであることからも、その異常な大きさが解るというものだ。この二つの時期の天守台について、静岡市が今後どのように活用していくかを検討中である。当面は、両天守台が見学できるようなスペースを確保していく方針が示されたが、天守台の保存状態や、強度についての検証は緒に就いたばかりだ。天守台の年代観を含め、今後の検証結果が大いに注目される。(かとう・まさふみ) 【文化】公明新聞2020.4.1
January 5, 2021
コメント(0)
牛肉やチーズ超える良質タンパク管理栄養士 塚原 美恵子 サンマ秋の魚といえばまず「サンマ」が挙げられます。サンマは成長とともに日本列島を海流に乗って移動し、最も脂が乗る産卵前の時期、「秋」が旬にあたります。旬のサンマの脂は体重の20%にもなるといわれ、おいしさや栄養価が一段とアップします。サンマの脂は血栓をできにくくし、血液循環を良くするEPAと、血中コレステロール値を抑えて脳を活性化し認知症などを防ぐ作用のあるDHAが豊富。脳梗塞や心筋梗塞が死因の上位に来る日本人には、お勧めです。また、サンマのプロテインスコア(タンパク価)は、ほぼ100に近く、魚のなかではトップすらす。牛肉やチーズを超える良質のたんぱく食品といえます。他にも、ビタミンA・B2・B12・D・E、カリウム、カルシウム、タウリンなど多彩です。特に貧血予防に有効なビタミンB12の量が豊富。サンマは近年、少々高値になりましたが、健康のためには秋にはぜひ食べていただきたい魚です。選ぶときは、背中が青白く光り、全体につやつやして弾力のあるものを。目が澄んでいて、口先や尾が黄色っぽい色をしており、腹は銀色で全体に光沢がある太っているものがお勧めです。サンマは買ったその日のうちに調理しましょう。保存するなら冷蔵庫で2日くらい。冷凍する場合は下処理をして一尾ずつ保存袋に入れて。1カ月が目安です。保存後はいずれも加熱して(塩焼き、煮つけ、フライ、立田揚げなど)食べるようにしましょう。自分で刺し身を作る場合は寄生虫がいる可能性を考え、鮮度が高いうちにおろして冷凍し、ルイベにして食べるといいでしょう。塩焼きの場合、焼く10~15分前に塩を振るのがおいしく焼くコツです。サンマのビタミンB12とキャベツの葉酸には、それぞれ造血作用があり、貧血予防にお勧めの組み合わせ。上手に食卓に取り入れてはいかがでしょうか。 【海の幸で元気!<6>】公明新聞2019.9.14
January 4, 2021
コメント(0)
新型コロナ対策と後藤新平の防疫政策明治大学名誉教授 青山 佾(やすし) 関東大震災の復興で知られる元東京市長・後藤新平は、日清戦争後、中国大陸から戻って来る数十万の凱旋兵の免疫を徹底して行ったことで知られている。このとき作成された「陸軍検疫部報告書」は英文も作成され、世界各国に寄贈された。ドイツ皇帝が、それを読んで「世界には戦勝国はたくさんあるが検疫をきちんとやった国はほかにない」と激賞したという話が残っている。後藤新平の時代、日本は防疫の先進国とされたのである。後藤はこの後、台湾の民政長官として赴任した。当時、台湾では毎年のように数千人のコレラが発生していたほか、各種の疫病が蔓延していて日本から赴任した人々も次々に倒れ、日本に送り返されていた。後藤は「伝染病の予防は上下水道の設置から始まる」と言って、自分が台湾産業振興のために敷設(ふせつ)した道路ネットワークも活用して、上下水道の整備を進めた。台湾では「当時、下水溝(こう)の装置は台湾の如き理想的なものは少ない。これは後藤民生長官の発案による」とされている。私たちは今日、台湾各地の博物館で容易に後藤新平の顔写真や銅像とともに、これらも功績を知ることができる。疫病は病気の治療とか公衆衛生の範囲を超えて、国家的危機管理の対象である。世の中では想定を超える事象が発生し、また、自然の猛威に対して私たちの文明はまだ不十分なものであるという認識から、危機管理という方法が発達した。危機管理は、実社会では予測し難い事故や事件が発生するという謙虚な姿勢を前提として、それに備えるため、過去の失敗を教訓として蓄積するところから出発する。この原点に返ることが大切だと思う。後藤新平の防疫対策は、初期における防疫対策としての水際作戦、そして、その全段階におけるインフラ整備の両面において優れていて、こんにちの防衛対策の基本を押さえている。私たちはおよそ100年前の知恵に学ぶべきだと思う。 【ニュースな視点】公明新聞2020.3.30
January 3, 2021
コメント(0)
新型ウイルスの拡大に思う㊦麻布大学名誉教授 鈴木 潤さん 笑みを絶やさず前向きに生きる祈りと励ましが免疫力を高める現在は、新型コロナウイルスの感染拡大によって、一人一人の行動は制限されている。しかし、その中でも学会の同志は、皆が「今できること」を懸命に考えながら、一日も早い終息を祈り、周囲に励ましを送っている。そうした活動は、「共助」「利他」の心を世界に広げる行為にほかならない。そして私たちの地道な活動は、免疫学の観点からも、免疫力を自他ともに高めるものだと感じている。その一つが「笑い」の効能である。「がん」を例に挙げれば、笑いによる脳への刺激が免疫機能を活性化するホルモンの分泌を促し、通称「殺し屋」の異名を持つ「NK(ナチュラルキラー)細胞」が活性化する。NK細胞は、常に体内をパトロールし、がん細胞を見つけると殺す役割を担う。つまり、「笑う」ことは「がんになりにくくする」ことにつながるのである。周囲を笑顔にする私たちの励まし、また困難に直面しても〝笑みを絶やさず前向きに生きよう〟とする私たちの生き方にも、免疫力を高める同様の効果があると考える。実は、細胞に含まれる遺伝子解読に関して、こんな話題がある。これまで「有用」(トレジャーDNA)されていたのは、たった2%。残りの98%は、何の働きもしない「ゴミ」(ジャンクDNA)とされていた。ところが急速な技術の進歩で未知の領域の解読が進んだ結果、「ゴミ」といわれていた中に〝病気から身体を守る特殊なDNA〟や〝私たちの個性や体質を決める情報〟があることが、次々と明らかになってきたのだ。ここには、健康長寿を実現したり、誰もが潜在的な能力を発揮したりするヒントもちりばめられている。日蓮大聖人は「法華経開目抄」で、南無妙法蓮華経の「妙」の字に込められた功力を「開の義」「具足・円満の義」「蘇生の義」の三義として説かれている。この「妙の三義」に、現代の免疫学の知見を重ね合わせると、次のように展開できると考える。第一に「開の義」について、大聖人は「妙と申す事は開という事なり」(御書943㌻)と仰せである。これは、法華経こそ諸経の蔵を開く鍵であることを明かされたものであり、ひいては妙法には人間をはじめ、あらゆる生命の持つ可能性を開いていく力があることを示された御文である。生命には、本質的に「開」という特性がある。私たちの身体を構成する何十兆もの細胞は、その一つ一つの間で、例えば〝落ち着いて〟と伝える制御性T細胞など、さまざまなメッセージに応じて、必要な合成や変化を起こすからこそ、私たちの身体の調和は保たれているのである。そこで大事なことは、そうしたメッセージを受け取れるように、ほかの細胞に対して〝常に開かれた状態〟にあるということである。この「開」という本質は、細胞核にあるDNAにとっても変わらない。なぜなら、細胞の中にメッセージ物質が取り込まれた時、必要に応じて〝眠っていたDNA〟が発言するからである。また、第二の「具足・円満の義」とは、妙法に一切の功徳が欠けることなく具わっていることを指す。細胞レベルで考えると、前進の細胞の一つ一つには、病気を治す力など、あらゆる可能性を秘めた遺伝子情報が潜在的に具わっていることを指示している。さらに、第三の「蘇生の義」とは、妙法には万人に生きる活力を与え、みずみずしく蘇らせる力があること。これは、一つ一つの細胞の中にある遺伝子の働きによって、細胞の代謝が始まっていくことを意味している。その上で、重要なのは〝眠っていたDNA〟のスイッチを入れていくことであるが、興味深いのは、それぞれの分野で最先端の研究を重ねる学術部員と語る中、〝私たちの励ましや祈りは、遺伝子に働きかける力を持つ〟等と指摘する人がいるということである。現代は交通手段などの発達によって、新型コロナウイルスの広がりは、従来の感染症に比べて格段に速くなった。しかし一方で、インターネットの普及に伴い、メールやSNSなどを使って、瞬時に励ましを送れるようになり、動画などを見て語り合うこともできる時代になった。どこにいても、距離の壁を越えて希望を送れる時代となったのだ。感染症と戦ってきた人類の歴史を踏まえれば、これからも、新種のウイルスが人類に脅威を与えるかもしれない。だからこそ励ましを通して共助や利他の心を広げ、祈りによって自らの生命を強くする私たちの信仰が、社会の希望の光となっていかなければならないとの思いを強くしている。 【学術部からの寄稿】聖教新聞2020.3.28
January 2, 2021
コメント(0)
コロナ危機の経済対策ジャーナリスト 尾林 賢治全世界を襲うコロナ危機。「第2次世界大戦以来最大の試練」(メルケル独首相)に直面する世界は、前例のない史上最大級の経済対策を展開し、忍び寄る世界大恐慌に立ち向かわなければならない。国際通貨基金(IMF)は、23日、2020年の世界の実質成長率が、マイナス1.5%に陥ると発表し、「(08年の)リーマン・ショックと同じか、それを超える景気後退になる」と警鐘を鳴らした。国・地方別では、日本が2.6%、米国が2.8%、ユーロ圏が4.7%といずれもマイナス。6%成長維持してきた中国は2.8%に低下すると予測している。世界が11年ぶりのマイナス成長に陥るのも当然で、人間社会の営みの基本である人の動きが断たれてしまっているからだ。ニューヨークやパリ、ロンドンから人影が消え、国内でも東京、神奈川名の首都圏の知事が外出自粛の要請で合意した。運輸や観光、飲食、旅行、買い物などの消費需要が瞬間的に蒸発、関連業界は大打撃だ。世界の自動車各社も急速に売れ行きが落ち込み、工場を相次ぎ休止、製造業にも影響し始めた。リーマン・ショックの時は、金融機関が痛手を被ったが、今回は消費全体の底がごっそり抜けおちてしまっている。しかも、リーマン・ショックは1年余りで乗り越えたが、コロナ危機は特効薬やワクチンが開発されない限り、終息しない。マイナス成長は20年以降も2年、3年と続き、傷がどんどん深くなることを覚悟する必要がある。コロナ危機には金融緩和だけでは効かない。米国が打ち出した2兆ドルの経済対策は国内総生産(GDP)の1割に相当する財政出動で、リーマン・ショック後の経済対策の3倍規模だ。日本も大型経済対策が検討されている。ドイツは財政健全化路線を封印、1560億ユーロの国債を発行。総額7500億ユーロ、GDPの2割に相当する経済対策を実施する。各国はさらに危機対策の第2弾の備えを用意しておく必要がある。 【けいざいナビゲート】公明新聞2020.3.30
January 1, 2021
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1