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昨日のSt. Paddy’s dayは私のお誕生日だった。ここオハイオで過ごす最後のお誕生日。思いがけず色んな人達に祝ってもらい、心に残る24歳のお誕生日になった。今日で退社になる会社。今まで半ば嫌々通っていた事もあったが、昨日は会社に着くとオフィスの人達が大きなケーキを用意してくれていた。みんなでハッピーバースデーの歌を合唱してくれて、すこし照れくさかったが、とても嬉しかった。ケーキはもちろんアメリカ特有のアイシング特盛の砂糖の塊(笑)。そして、私は「バースデーガール」なのでという事でアイシングが一番たくさんのったピースを手渡された…かなり胃がもたれそうになったが、みんなの心遣いが嬉しくて残さずに食べた(笑)。デスクに戻ろうとしたら、ずっと優しくしてくれていたおばさん同僚が「ロッカールームに来て」と私を呼び出した。行ってみると、大きな紙袋を渡され、その中には真っ白くてフワフワの赤ちゃんのブランケットが二枚、赤ちゃんのバスタオルとミニタオル、フワフワの犬のぬいぐるみが入っていた。妊娠して初めてもらったベビーギフトだった。実は会社の人には妊娠している事は隠していた。日本人のおじさん相手の仕事なので、(もうすぐ結婚するとはいえ)若い独身女性が妊娠する事は噂の的になりやすい。だから、気持ちが悪くても誰にも言わずに一人で涙を流しながらトイレで吐いていた。でも、そんな私の体調の変化をいち早く心配し、私が身ごもっている事に気付いたのがこの人だった。そして彼女は「会社には言わなくてもいいと思うわ。でも気分が悪くなったら無理してはダメよ」とウインクをして影で私を支えてくれた。私と同じ歳の娘を持つ彼女。母親の優しさで私の事を最後まで気づかってくれた。そして、大きな紙袋を渡しながら、「みんなにばれるといけないと思ったけど、どうしてもこれだけはあげたかったの。隠しておいてね」とまたウインクをしてプレゼントをくれたのだ。本当に本当に嬉しいプレゼントだった。午後には同僚の女の子がまたまたケーキを持ってきてくれた。彼女はたった2週間前に入社したばかりなのに、かわいい手作りのケーキを持ってきてくれたのだ。もっと早く仲良くなりたかったな。仕事が終わってトニーのアパートへ行くと、テーブルの上にまたまたアイシングたっぷりのトニーの手作りケーキが置いてあった。帰ったらすぐに食事に行く予定だったので、まさかケーキを作ってくれていたなんて思いもしなかった。前から今年の誕生日はプレゼントはいらないよと言っていたのだが、大きな紙袋があって、中には今度の引越しで私が心地よく車に乗れるようにと、かわいいキティーちゃんのクッションや、新しい家ではバスルームを散らかさないようにと髪留めやゴムをしまう箱、シルバーのブレスレットなどが入っていた。思わず(福袋みたい…)と思いながらキティーちゃんのクッションを選んで買ったTの姿を想像しながらニコニコしてしまった。その後は二人でシーフードレストランへ。飛び切りのロブスタービスクやシーフードパスタを食べながらTと今後の事を色々話した。大好きなお酒は飲めなかったけど、おいしいハーブティーに酔いながらいつまでもいつまでも話をした。奥のテーブルに産まれたばかりの赤ちゃんをかごに乗せ、めいいっぱいのお洒落をしたカップルが座っていたのを見て、「来年の私の誕生日は私達もああやって祝うんだね」と言いながら、お互い温かい気持ちでいっぱいになった。ディナーが終わってから、今度は私の家族の待つ実家へ帰った。お母さんの焼いたケーキを囲んで、家族みんなが待っていたのだ。今までお母さんは私の誕生日に欠かさずケーキを焼いてくれた。大好きなイチゴのケーキ。どこのお店で買うよりも美味しいケーキ。今までの誕生日と同じように家族が歌をうたってくれて、お願い事をしてろうそくを消した。そして、家族3人が書いてくれたカードを読んだ。「これからは離れてしまうけど遊びに行くからね!」とかいていた妹。「今まで無事にココまで来れた事の感謝を忘れないように」とお母さん。そして、カードの隅っこにお父さんからのメッセージが書いてあった。「素晴らしい家族を創っていくように…」と。普段は無口で、ほとんど会話を交わすことのないお父さん。結婚の報告の時も、妊娠の報告の時も、ただ黙って「まあ、がんばれ」としか言わなかったお父さん。そんなお父さんがカードに書いてくれた一言が私の涙腺を弱くした。「あ~お姉ちゃん泣いてる~!!」というお母さんの言葉に、涙をこらえながら「泣いてないよ~」と言うのが精一杯だった。ふと見ると、お母さんも少し泣いていた…最後に、お母さんが大きな箱を持ってきた。「え?何?何?」という私に、「いいから開けてみて~!!」とお母さん。中を開けると、お母さんが一生懸命作った「あひるの卵」を使った宝石箱の中に、思いがけないものが入っていた。手作りのRing Pillowだった。私は宝石箱だけでも感動したのに、中に入っていたring pillowを見ると、なんともいえない気持ちになった。交際当初は私とTの事を猛反対していたお母さん。いままでTのことで喧嘩もいっぱいしたし、涙を流しながら話をした事もあった。今までの色んな事が、そのRing Pillowを見ていたら走馬灯のようによみがえってしまった。ふと、宝石箱の裏を見ると、3・17・2005と日付が書いてあって、Dear LB, From Mom 「Love Forver」と書いてあった。「Forever」を間違って「Forver」と書いてしまったところが、お母さんらしくて、それまで出てきそうだった涙がつい止まってしまったのだが (笑) それも良しとしよう!こんな感じで私の24回目の誕生日は4つのケーキと、温かい人達に囲まれ、とても心に残る一日となった。そしてもう一つ嬉しいプレゼントが…どうやらつわりが終わったようです!!お腹の中のBabyまで、私の誕生日を祝ってくれたようでうれしいな☆ということで、LB、24歳。今年も気合入れてがんばってくのでみなさん、よろしくね~!!
2005年03月18日
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またまたご無沙汰してます。久しぶりの更新になりました。今朝、起きたらなんだかいつもと違う気分…もしかしたらつわりが終わったかもしれません!!だとしたら嬉しいんだけど!!確かに、今日はお腹が空いても吐き気はないし、昨日まで続いていた頭痛もすっきり…。でもまあ、油断大敵なので調子に乗らないようにします。さて、あと二日で今まで勤めていた会社を退職する事になりました。今まで(ってたったの一年だけど)長かったな~。すぎてみればあっという間なんだけど。今の会社で勉強になった事はたくさんあった。生産会社だったので、色々な機械や設備の事。主に副社長と仕事をしていたので経営に関しての事。色々な専門用語。仕事の事は勿論、それ以外のことも学んだ。会社がド田舎にあったので、毎日田舎の白人たちに囲まれ、俗に言われるレッドネック達と仕事をし、彼らの実体を知った。私ははじめ、彼らに対して「人種差別をする人達」という偏見的なレッテルを貼っていた。けれども彼らは思っていたよりも純粋で、私の事や日本の文化を色々知ろうとしてくれた。共通点こそ、あんまり無かったけど、私も彼らからいろんな事を学んだ。狩のシーズンは二つに分かれていて、銃猟できる時期と弓矢で狩をする時期に分かれていると言う事。吸うタバコじゃなくて、口の中で噛むタバコがあるという事。トレーラーの中はどうなっているかなど…どれをとってもかなりカントリーな話題だったが実に興味深かった(笑)。日本人がお土産で持ってきた「うなぎパイ」をうなぎの干物に砂糖がまぶしてあると思い込んで食べなかった人。これまた日本のお土産のカステラを「日本の物」という先入観をもって食べるので「魚の味がする」と言った人。うんざりする事もあったけど、なかなか笑える事もあった。選挙の時は会社中のほとんどがBush派だった…そしてマイケル・ジャクソンの事は殆どみんながguiltyだと言い、ゲイには反対。とーっても保守的。でも、こんな田舎にもLiberalな人はいて、このsmall townから抜け出したくてたまらないと口癖のようにこぼしている人も何人かいた。同じ場所で育った他の人達を指差し、「ああいうレッドネックだけにはなりたくない」といっている白人もいた。ココで働くアメリカ人を見て、これが本当のアメリカなんだと思うことがたくさんあった。自分の新たな面もたくさん発見できた。まず私は人の指図を受けることが相当嫌いらしい…「あれやって」「これやって」って言われると、(自分でやれば…?)なんて思っちゃう事も…ある程度自分がCreativeになれる場所が私には必要だと思った。9 to 5の仕事も私には向いていない。毎朝同じ時間に起きて同じデスクで同じ事をするのはとても億劫だった。こんな事言ってたらどこにも働けないか…!?とりあえず、ロスに引っ越したらしばらくは夢の専業主婦をして、落ち着いたらやりがいのある何かを探そうと思う。それまでしばしの間、Tに頑張ってもらわねば!!
2005年03月16日
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お世話になっていた人が、近々日本へ本帰国する事が決まった。彼女は旦那さんの仕事の都合でアメリカに10年滞在し、13歳の息子がいる。息子は3歳からこちらで暮らし、一人っ子だった事もありアメリカ人の友達が多く、日本人の家庭で育ったにも関わらず日本語力が弱い。同じように、今年はやたらと日本へ本帰国する知り合いが多い。それもこちらに5年以上住んでいた人達ばかり。先日、私の教える補習校で「学校文集」が発行され、その中に「本気国が決まったが、日本に帰りたくない」という内容の作文を書いていた生徒がたくさんいた。私はそんな作文を読んで、自分が小学校6年生の時、それまで住んでいたカナダを後に日本へ帰国した時の事を思い出した。私は父の仕事の都合で小学校2年から6年までカナダで暮らした。6年生になる頃には日本で暮らした思い出はほとんど無かった。そして6年の終わりに日本への帰国が決まったのだ。しかし、「帰国」とは言うものの、日本は私にとって「外国」だった。小学6年生の3学期だけ通った日本の小学校では、体育の時間に胡坐(あぐら)をかいて座っただけで「態度がでかい」と言われた。跳び箱は飛べないし、逆上がりもできない。お気に入りのネックレスを付けて学校へ行った日には先生にこぴどく叱られ、敬語が話せないことも叱られた。クラスの女の子達とはうまく行かず、学校という場所がつまらなくなった。中学校はもっとひどかった。校則の厳しくて有名な学校で、髪型やゴムの色、靴下まで指定で、私にはそれが何故なのか到底理解できなかった。入学式の日、校則を知らずに緑色のゴムで髪の毛を縛っていったら、それが先輩たちの目に留まり「生意気な一年生」になった。英語の授業では、発音の良い私を先生は絶対に指してくれなかった。「大きい」を日本語で書けというテストの問題で「big」ではなく「large」と書いたことで(まだ習っていない単語だから)点を落とされた。相変わらず周りとはうまく行かず、「カナダ人!カナダへ帰れ!!」と言われたこともあった。朝教室に来たら自分の机が無くなっている事もあった。そして、私は「保健室に登校する生徒」になり、ずる休みも頻繁になって、登校拒否をするようになった。そんなある日、腹痛を理由に学校を休んだ私を母が病院へ連れて行った。そして、実は盲腸を患っていた事が判明し、私は一週間入院する事になった。入院中は毎朝理由を考えなくても学校を休めるのでうれしかった。手術が終わってしばらくすると、担任の先生がお見舞いに来た。でも、私は担任には全く心を開いていなかったし、むしろ、自分がいじめにあっていることを気づいているだろうに何も行動を起こさないこの男に腹をたてていた。そんなある日、ベッドの上で漫画を読んでいると、ノックの音が聞こえ、中に入ってきたのはクラスメイトの女の子達だった。私の事を、他のクラスメイトたちと一緒になって無視していた女の子二人が、お花をかかえてそこに立っていたのだ。そして、その子達は「ずっと無視していてごめんね。私達も、ずっと心がもやもやしていたんだけど、○○さん(クラスのリーダーっぽい女の子)に逆らえなくて…早く元気になって戻ってきてね」と、私に言った。クラスのみんなに無視され、友達なんて誰もいない。私は一人ぼっちなんだ。と思い込んでいた私には、彼女たちがお見舞いに来てくれたこと、そして本音を語ってくれた事が心からうれしかった。退院してから、私は登校拒否を辞めた。私が登校してきた初日は、クラスのみんなは「ぎょっ」とした表情をして、またコソコソ話をしていた。お見舞いに来てくれた二人も相変わらず私に話しかけようとはしなかったが、私は二人と目が合ったときにニコッと笑いかけた。いじめはそれからしばらくは続いたものの、私に飽きて、今度は私のいじめを仕切っていたリーダー格の女の子がターゲットになった。私は仕返ししてやりたい気持ちはいっぱいあったけど、いじめられる事の辛さは誰よりも理解していたつもりだったので、いじめには荷担しないようにした。そんな私にも中学2年になった辺りから、やっと友達ができ始める。私が海外生活を体験した事に興味を持った子達がどんどん集まり、カナダで生活していた頃の写真を見せたり、英語の発音を教えたり、外国の映画を一緒に見たりした。類は友を呼ぶというが、その当時仲良くなった子のうち、4人は今こちらに留学している。「帰国して何が一番大変だったか」というと、勉強や言葉ではなく、「人間関係」だった。日本では自分の意見をはっきり主張しすぎてはいけない。社会に入ればどうなのか分からないが、少なくとも小学校高学年や、中学生にとって、自分の意見をはっきり言ってしまう子はただの「わがまま」になってしまう。いじめられている事に対し、抵抗したり嫌がったりすると、余計にいじめられる。そして、規則だの決まりだのに従わないと、出るくいは打たれるのごとく、後ろ指を指されてしまう。一見、「個性」を尊重するように見せかけ、その反面で人と違う事をしたり、違う発想を持っていると「はみ出し物」になってしまう。今でこそ、それを十分に理解しているので、会社などで目上の日本人と接する時は「日本人の私」のふりをする事はできる。日本のつまらないしきたりに反対していても、それが日本の文化・風習であり、それを尊重する心得は持っているから。でも、小学生や中学生だった頃の私にはそれが理解できず、私は散々苦労をした。今でも、帰国直後の自分の写真を見るのが大嫌いだ。「日本へ帰りたくない」と言っている生徒たちの作文を読むと、あの頃の私が鮮明によみがえる。人それぞれ、苦労する事は違うであろう。人間関係では全く苦労しなくても、勉強で苦労する生徒もいるだろう。何もかも上手くいく子供だっているだろう。ただ、海外で長く暮らしていると、多かれ少なかれカルチャーショックを目の当たりにするのは間違いないと思う。ここで私が教えてきた生徒たちが、日本ですんなりと溶け込んでいけるのかどうかが心配だ。日本へ行くと、友達や親戚に「さすが帰国子女。すっかりアメリカンだね~。」と言われ、アメリカにいると、「You are Japanese」の私。私にとって一番困る質問は「どこの出身ですか?」という質問である。今年で、アメリカに来て7年が経ち、カナダでの滞在期間も合わせると、人生の丁度半分を日本と海外で暮らした事になった。その中でも一番長く住んでいるのが今住んでいるオハイオである。しかし、私はオハイオ出身ではない。その前に住んでいた宇都宮だってたかが5年で「故郷」とは呼べない。「Where are you from?」の質問に、私は「Everywhere!」と答えるようにしている。日本人なのかアメリカンなのか、そんな事にはこだわらず、インターナショナルという事にしておこう。帰国子女である私は、今まで色んな事を考えたし、辛い思いもたくさんしてきた。でも、こんな体験をできた事を心から感謝しているし、今までの自分の人生、とても楽しかったと思う。一度きりの人生で、こんなユニークな経験ができたのも父のおかげだ。感謝感謝!!
2005年03月08日
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Morning Sickness(つわり)ってのは、ご存知の通り妊娠した女性のかかるもの。でも、実は男性でもつわりにかかる人がいるらしい。妊娠して以来、Tはめちゃくちゃ優しくなった。前から優しかったけど、今度はいつもに増して。おかげで私は超わがまま女と化している。「スパゲティーが食べたいな~。あ、やっぱりピザ。あ~やっぱりサラダ…」「ねえねえ、足マッサージして~。」「ね~。なんか飲み物欲しいんだけど…」「寒~。ブランケットちょうだい」「背中さすってよ~。」「どうしてもパネラ(サンドイッチやさん)行きたいの!!連れてって!」「ESPNの音が気になるから見るのやめてくれない~?」「ほっといて!話しかけないでーっ!!」「昼寝するから一緒に添い寝してよ~」こんな私のリクエストに嫌な顔一つせずに「Ok, Baby」の一言で何でもしてくれる。それに、私の妊娠が分かってからは、親友Jとのlong distance callでも(相変わらず声はでかいが)カスワードを一つも使わなくなった。まだ子供が生まれたわけでもないのに、すっかり変わってしまったT。本人なりに思うところがあるのだろう。そんなTの優しさにつけこんで、私は毎日やりたい放題…(ごめんよ)。でも、妊婦の間だけかもしれないので、今の状況を思う存分take advantageしたいと思います(笑)。後になって「あの時は調子に乗りやがってこのやろ~!」なんて言われちゃうかもしれないね(笑)!?さて、すっかり優しくなってしまったTだけど、先日彼は家(実家)に来たときに私のお母さんに「LBのわがままで頭が痛い…」と漏らしていたそうだ…お母さん曰く、彼は「男のつわり」にかかっているらしい。女のつわりに付き合うおかげで、頭が痛くなったりストレスが溜まったりってのがそれ。ちょっとは手加減してあげた方がいいかしら(^^)!?
2005年03月03日
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