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もしかすると私は迷惑をかけてしまっているのではないか、迷惑だけはかけたくないのに・・。昨日からずっとそんな気持ちでいます。心の中は誰も見ることができません。思っていることがすべて文字となって読むことができれば簡単なのに・・。でも人の複雑な心をもしも文字で表せるとしたら、どれほど長い文章になるでしょう。的確な言葉だって見つからないかもしれません。
2010年04月26日
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絵本サークルの原画展に行ってきました。初めてのところでしたのでちょっと緊張。30名近くもの方々の作品が展示されていました。どの方の絵もそれぞれに個性的。皆さんのレベルの高さに圧倒されました。私も今応募しようとしているものがあるのですが、今日の作品を見たら、すべて描き直したくなってしまいました。でももうそんな時間はありません。私などが応募してもとても無理だわ・・と、かなり落ち込みながら帰りました。でも、ここで一歩を踏み出さないと私はずっととどまったまま。今回はその一歩を踏み出す意味で、勇気を出して応募してみます。箸にも棒にも引っかからなくて笑われたっていいですよね。がんばれ、私!
2010年04月25日
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今、私は「つくること」と「こわすこと」を同時にやっています。いったい何の因果でしょう。絶対にやりたくないことをやらなくてはならないなんて。
2010年04月18日
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仕事が終わったあと、何となくまっすぐに帰る気持ちになれず外のベンチに腰を下ろした。楽しそうに走り回る幼いこどもたち、話に花を咲かせているそのお母さんたち、私の前を行き交う人々、忙しそうにあちこち寄り道する犬、風に揺れる桜の花、気持ちよさそうに陽射しをあびている草花たち。そんなものを暫く眺めていると、周りの音や声が次第に遠のいていく。嬉しい、楽しい、寂しい、悲しい・・。人の一生の中で、喜びと悲しみは、結局のところ誰にでも平等に半分ずつのような気がする。そしてこの広い世界全体で、今この瞬間にしあわせを感じている人とそうでない人の数ももしかするとちょうど半分半分なのかもしれない。だからたとえ今順調であっても慢心すべきではないし、たとえ今つまづいていても悲嘆に暮れることはない。それにしても、神様はなぜ人に感情というものを与えたのだろう。黄色、紫、水色、白のたくさんのパンジーたちが優しい陽の光をあびながら風に揺られている。まるで嬉しそうに笑っているかのように。そんなパンジーがちょっぴりうらやましく思えた。
2010年04月14日
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マーガレットの花をいただきました。マーガレットはチューリップに並んで私の大好きな花。ラテン語で「真珠のような輝き」という言葉に由来しているそうです。恋占いの花としても知られていますが、このけがれのない純白の花びらを摘み取ってしまうなんてとてもできません。透明なガラスに生けてキッチンの片隅に置きました。本当に、なんと真っ白で可憐な花なのでしょう。マルガリータはマーガレットの意味。ほど遠いですが憧れてつけた名前です。
2010年04月11日
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夜桜を見に行った。その夜は小雨が降っていたため、いつもは仕事帰りの人々で賑わうはずの川沿いも時折何人かの人とすれ違うだけだった。私たちはのんびりと当てもなく歩いた。時々立ち止まっては、ライトアップされて浮かび上がった幻想的な夜の桜を見上げながら。私は何かを思い出していた。いつの間にか一人ぼっちのような寂しさでいっぱいになった。ふと立ち止まると、手の届くところに枝が下がっていた。花びらはもうだいぶ散ってしまい、完全な形をした花を見つけるほうが難しいくらいだった。その中でまだ綺麗に形を留めている花を2つほど摘み、ハンカチにそっと包んでバッグにしのばせた。大切な手足をもがれるようにこの花もいずれ一枚一枚と散ってしまうのなら、どうにかこのままの姿で残してあげたい・・そう考えて押し花にしようと思った。桜の花びらはなんと柔らかくて頼りないのだろう。少し触れただけで傷ついて今にも溶けてしまいそう。まるで4月に降る雪のよう。ほどなく私たちは川沿いのお店に入った。作家さん、編集者さんなど、ごく少数でテーブルを囲んだ。その場を盛り上げようと精一杯気を遣っている人、そして気を遣われている人。その違いは見ていて明確だった。どうしてこんな時にまで気を遣うのだろう、今夜は仕事抜きで純粋に桜を見たいだけだったのに。そういうコンセプトのはずだったのに。ひどい頭痛がまた私を襲ってきた。私はお金とか権力とかいうものが嫌いだ。もちろんそのようなものを持っている人の中には相当の努力をしてそれらを得た人もいる。それは当然たたえられるべきものではあるし、中にはそれでも変わらず謙虚な人たちもいる。でも人間の欲望というのは底知れず尽きないものであり、富や権力を得た人はそれと引き換えに大切なものを失っていくような気がする。私の育った環境がそうであったように。私には日々どうにか生活していけるだけのお金があればいい。地位も名誉も綺麗な服も靴も何もいらない。そして、私が幼いころからずっと欲しくてしかたなかったもの、でもこれまでどれほど探しても手に入れることのできなかったもの、もしもそのようなものさえ得ることができるのなら、私は他にはもう何も望まないでしょう。この日の夜桜は結局は接待の場となってしまった。私の心の中に虚しさだけが残った。帰宅すると、桜を包んだハンカチを広げてさっそく押し花にした。桜の花の栞を本にはさむととても優しい気持ちになれた。その夜の私の心は、その小さな桜の花に救われたのです。
2010年04月11日
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今日は雨降り。桜の木も寒そうです。うすピンクの"そめいよしの"もそろそろ見納めかな。私はどちらかというと新緑の季節のほうが好き。あちこちがやわらかい緑色にどんどん包まれていくから。一瞬見事な美しい花を咲かせてすぐに散ってしまう桜の花、きれいだけど、やはり悲しすぎます。永遠を求めるのはやめたはずなのに、刹那よりも永遠のようなものを私はやはり求めてしまうのでしょうか。私は自分が好きです。最近そう思えるようになりました。奇跡的にも神様から命を与えられた自分というものを愛しく感じます。だから心のままにまっすぐに生きていきたい。この短い一生を思う存分楽しみたい。自分が愛しく感じられるようになると、不思議と周りの人たちをもとても愛しく思えてきます。家族だけでなくちょっと知り合っただけの人たちまですべての人を。スペインにいたときに感じたこと。郵便屋さんも、バスの運転手さんも、ごみを収集する人たちも、マンションの管理人さんも、お掃除する人たちも、カフェのおじさんも、バーのおにいさんも、お魚屋さんも、お肉やさんも・・どの人もみな楽しそうに仕事している、いつも笑ってる。みな自分の仕事に誇りを持って楽しんでいる。周りの目を気にせず大きな声で自分の意見を語り合う。静かであるはずのレストランでさえ、ナイフとフォークの音や優雅なBGMは、人々の大きな話し声や笑い声で消されてしまう。人々はのんびりしていて、時間がゆったりと流れていく。人に与えられた時間もその速さも同じはずなのに不思議。そういうのっていいなぁと思った。何をしていても、人間ひとりひとりの命の重さや価値は変わらない。だったら自分が歩んでいる日々を思い切り楽しまなきゃ。自分にとって本当に大切なものを大切にしたい。後悔だけはしたくない。スーザン・ボイルのコンサートに行きました。まさに天使の歌声でした。プロの歌声とは明らかに違ってとても透き通ってる。声がかすれそうになると聴いている私たちはハラハラするけど、彼女の世界にどんどん引き込まれていく。コンサート当日は彼女のお誕生日でした。大きな花束を受け取って、一言だけ「ありがとう。」と。本当は家族とお誕生日を過ごしたかったのではないかな。夢は叶ったけれど、彼女はこれで本当にしあわせなのかな・・。いろいろ書きましたが、私はいったい何を言いたいのでしょうね。自分でもわからなくなりました(笑)。
2010年04月05日
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