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空を見上げた姿勢のまま「深刻な問題」を考えることは出来ません。「深刻な問題」を考えるときには「深刻な問題を考えやすい姿勢」があるのです。ですから人はその姿勢の人を見ると「深刻な問題を抱えているんだな」と知ることが出来るのです。スキップしながら算数の難しい問題を考えることも出来ません。歌を歌いながら悩むことも出来ません。早足で歩いているときには、かすかな匂いや、道ばたの小さな花や、鳥の声や、風のそよぎや、木漏れ日の揺らめきに気付くことが出来ません。下を向いた状態では「楽しいこと」を考えることが出来ません。表情が固い人はからだや動きも固くなります。猫背で歩いている人には「気づき」はやってきません。姿勢が悪い人は元気になれません。ちなみに「正しい姿勢」とは単に「まっすぐな姿勢」の事ではありません。朝礼の「気をつけ」のように、筋肉に力を入れてまっすぐにした姿勢では動けません。その姿勢のままでは苦しいだけです。感覚も思考も働きません。よく、「頭のてっぺんにつけた糸でからだをぶら下げるような感じで立ちなさい」と言いますが、でも、「ゆるめる」という感覚が分からない人には、この説明は意味不明です。それで私は以下のように説明しています。足を肩幅に開きます。上を見上げます。出来るだけ天の高いところを見るような意識で見上げます。ポカンと口を開け喉と胸の緊張を取ります。簡単に言うと「アホ面」をするのです。その状態でからだを揺すってみて、からだがユラユラ揺れるようならOKです。喉の緊張が取れていないとからだは揺れません。そして、喉に力を入れないままで天に向かって「あー」と大きく声を出します。喉に力を入れなければ自然と腹式呼吸になります。その時、からだ全体が「地球に垂直に立った筒」のような感じになります。そうしたら、からだはそのままの状態で顔だけを降ろし、前を向きます。喉の力も抜いたままです。すると楽に立つことが出来ます。心が何らかの働きをするときには、その働きがしやすいようにからだの方もそれに対応する姿勢や緊張状態を作るのです。つまり、心が悩んでいるときにはからだも悩んでいるのです。でも、からだの方はある程度意識でコントロール出来ますから、その心の働きが求める姿勢や緊張に従わないようにすることも出来ます。すると、心の方もその作業に入ることが出来なくなってしまうのです。心はからだの手助けがないと悩むことが出来ないのです。例えば、心が悩もうとしている時には胸が沈み、顔も下を向こうとしますが、からだがその要求に従わずに、顔を上(前)に向け、胸を開き、大股で歩くようにしていると、心は「悩む」という状態に入ることが出来なくなるのです。歌など歌っていたらさらに悩むことが出来なくなります。イライラしているときにはからだが固くなります。ですから、イライラしているときにからだを揺すってからだが固まるのを阻害してあげると、イライラが自己実現出来なくなってしまうのです。
2016.11.30
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私がまだ30代の若い頃、「操体法」を故・渡辺栄三先生に学びました。半年か一年の連続講座だったのですが、申込者が私一人しかいなかったのにもかかわらず開催して頂き、マンツーマンで教えて頂きました。その時、面白いことをしました。私が横に寝て、渡辺先生が私の足を持ってからだ全体を揺すっているとき、「石をイメージしてみて」とか「水をイメージしてみて」と言うのです。すると不思議なことに、ただ頭の中でイメージするだけなのにからだの揺れが変わるのです。石をイメージすると固くなり、水をイメージすると柔らかくなります。別に「石のようになろう」からだを固めたわけではありません。ただイメージしただけです。それなのにからだ全体が固くなるのです。その時、渡辺先生がその変化を指摘してくれたので、そこで「イメージ」と「からだ」が密接につながっていることを知ったのですが、でも、このような「指摘してくれる人」がいない状態ではその変化に気付くことは出来なかったと思います。(このような「指摘してくれる人」を「師匠」といいます。それに対して「先生」は「教えてくれる人」です。)このように「イメージ」はからだの状態と密接につながっているのですが、同時に「感情」もまた「からだの状態」と密接につながっています。というか、感情は「からだ」の結果ですからそれは当然のことなんですが、でもみんな「自分の感情」を「自分の理性と意識」でコントロールしようとしています。イライラしているお母さんは、子どもを叱らないように頑張っています。でも、ほとんど間違いなくその努力は無駄に終わります。なぜなら、「イライラ」を生み出している「からだの状態」がそのままだからです。それに、否定的な感情は抑えようとすればするほど大きくなるのですから、お母さん達のやっていることは逆効果なんです。また、イライラを押さえ込むことに一生懸命になるあまり、心が固まり、子どもの気持ちを感じることが出来なくなったり、子どもとの意思疎通が困難になったりします。ちなみに、「喜び」などの肯定的な感情は出せば出すほど大きくなります。「うれしい うれしい」と言っているとさらに嬉しくなるのです。イライラするのは心の問題でも人格の問題でもありません。単なる「からだの問題」です。そのことに気付いてからだのケアをするだけで、子どもとの関係が良くなったり、子育てが楽になるのです。また、「感覚の働き」と「からだの状態」も密接につながっています。「見る」という行為はからだを固くします。でも、「聴く」とか「感じる」という行為はからだを柔らかくします。というか、柔らかくしていないとちゃんと聴けないし、感じることも出来ないのです。音楽会などでからだを固めて聴いている人はいないですよね。でも、文明社会で一番大切にされているのは、一番からだを固くする働きが強い「見る」という行為です。ただし、「柔らかいもの」を見ているとからだも柔らかくなります。だから「くらげ」が癒やしになったりするのです。赤ちゃんを見ても緩みます。柔らかい線や、羊毛のような柔らかい感じがするものを見ていても緩みます。シュタイナー幼稚園が柔らかい感じで作られているのはそのためです。単なるデザイン的な趣味でああいう作りになっているわけではないのです。ですから、子どもやお母さんのからだが固くなっているときには、壁に布を掛けたり、自然を感じるものを置くと、それだけでからだが楽になります。でも、直線的な形や、コンクリートのような固いものを見ているとからだも固くなります。これは音でも同じで、柔らかい音を聴くとからだも柔らかくなります。でも、お母さんの固い声や機械の固い音などを聴いているとからだも固くなります。さらに意識の働きもからだの状態と密接につながっています。意識が「思考」や「自分の心」に向かっているときにはからだは固くなります。そして、「からだ」に向かっているときには柔らかくなります。でも、現代人は「からだ」ではなく「思考」や「自分の心」にばかり意識を向けて、「からだ」には意識を向けません。からだを使わない生活をしていてもからだは固くなります。などなど、本当に様々なことが「からだ」を固くしたり柔らかくしたりしているのですが、なぜか、文明的な要素は一様に「からだを固くする働き」が強いものばかりなんです。そのため、現代人のからだは一様に固くなってしまっています。そのことが心を苦しめる原因にもなっているのですが、でも、現代人はその根本原因には目を向けずに、薬や様々な対症療法的でそれを押さえ込もうとしています。その大人の問題が子どもの心やからだのトラブルとして現れているのですが、同じ心とからだの状態の大人には、その問題が見えません。ストレスを抱えている大人には、子どものストレスが見えないのです。
2016.11.29
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「からだ」が変われば「心」も変わります。「心」が変われば「からだ」も変わります。これは日常的に起きていることです。でも、無意識的な反応なのでその自覚はありません。また、「自分の心を自分の意思で制御することは出来ないので、心を変えたいのならからだを変えるようにするといいですよ」ということを昨日書きました。でも実は自分の心を自分で変える方法がないわけではないのです。それは「イメージ」の働きを使うことです。「イメージ」は「心」と「からだ」をつなぐ働きをしているからです。そして、ある程度は心でコントロールすることも出来ます。よく、講演会などで緊張してしまう人に「目の前にいる人はみんなジャガイモだと思いなさい」などと言うことがありますがそれもその応用です。私は歯医者が嫌いなんですが、あの椅子に横になって明るいライトに照らされているときには「ここはハワイのワイキキビーチだ」と思うようにしています。(行ったことはありませんけど・・・)そして、日の光を感じ、ハワイアンの音楽や波の音を聞こうとします。するとからだが緩むのです。痛みも軽くなります。100均で買った安物のお茶碗でも、100万円の高級品だと思えば、それを扱うときのからだの使い方が変わってきます。私はよくワークで「見えないボール」などを扱います。「目ないボール」を手から手へ回していくのです。その時、「壊れやすいものだから大事に扱ってね」といえば、みんなそんな扱い方をしてくれます。そういう演技をしようとしているのではなく、そう思い込むことで自然とそういうからだの使い方が出来るようになるのです。(胆汁質の人はこのワークが苦手です。多血質の人は過剰に演技したがります。)重そうなものを持ち上げるときには、「重そうだな」と感じた時点でもうからだは「重いもの」を持ち上げる準備に入ります。でも、実際には軽かったとすると、力が余ってひっくり返ってしまうこともあります。逆に軽そうに見えたのに重かったりするとからだの準備が出来ていないので、ギクッと腰を痛めてしまうこともあります。このように、私たちの心やからだは「思い込み」というイメージによってコントロールされているのです。私たちは、子どもに対しても「思い込み」を持っています。ネズミやゴキブリにも「思い込み」を持っています。病気に対しても、心に対しても、からだに対しても「思い込み」を持っています。お金や、成績や、学歴にも「思い込み」を持っています。自分自身に対しても「思い込み」を持っています。そして、「心」も「からだ」も、それらの「思い込み」に支配されています。幼児期の体験が、その人が大人になってもその人の心やからだの状態を支配してしまうのは、幼児期にその「思い込み」の土台が作られてしまうからなんです。でも、それが「心」や「からだ」を「良い状態」に変えてくれるような「思い込み」ならいいのですが、実際には「悪い状態」に変えるような思い込みばかりにとりつかれている人の方が多いのです。それは例えば、人が怖い男の人は怖い触れられると怖い自分はダメな人間なんだ自分は頭が悪い(勉強が苦手)私はブスだというような「思い込み」です。以前、実際には美人なのに、小さい頃からお母さんから「おまえはブスだ」と言われ続けて、「自分はブスなんだ」と信じ込んでしまっていた人がいました。(このお母さんは娘に嫉妬していたようです。)そして、「ブス」のような表情で「ブス」のように振る舞っているので美人なのに魅力を感じないのです。でも逆に、たいして美人ではないのに、小さいときから「素敵だよ」「可愛いよ」と言われ続けて育ち、魅力的な大人になっている人もいます。その人の「自分に対する思い込み」が、その人の「心とからだの状態」を作っているのです。「自分は自己肯定感が低い」という思い込みが、自己肯定感を低くしているのです。「自分はダメなお母さんだ」という思い込みが、ダメなお母さんにしてしまっているのです。その「思い込み」の多くは、幼い頃からの周囲の人との関わり合いの中で作られているのですが、でも、大人になれば、本人の「意識」と、「自覚」と、「視点の切り替え」でその「思い込み」を消したり、変えたりすることが出来るのです。よく「目から鱗が落ちる」という表現を使うことがありますが、それは、「本当だと思っていたこと」が単なる「個人的な思い込み」に過ぎなかったことに気付くことです。心を直接変えることは出来ませんが、自分に対するイメージを変えることは出来るのです。そして、イメージが変われば、心もからだも変わるのです。でもそのためには「視点の切り替え」が必要になります。視点を切り替えるから「聴衆」を「ジャガイモ」に変えることが出来るのです。子どもに対する思い込みも、子どもの側からの視点で自分を見直してみることで、自分に対して別のイメージを持つことが出来るのです。「子どもに嫌われている」と思い込んでしまっているお母さんがいます。でも、実際には「お母さんが嫌いな子ども」なんていないのです。お母さんが「子どもに嫌われている」と思い込み、自分を閉ざしているから、子どもはお母さんに近づけなくなってしまっているのです。それを勝手に「自分が嫌いだから近づいてこないんだ」と思い込んでいるのです。そのような状態の人は、自分が子どもだった頃のことを想い出してみて下さい。お母さんが嫌いでしたか。「視点を切り替える」とはそういうことです。
2016.11.28
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昨日は「心が変わればからだも変わり、からだが変われば心も変わります」ということを書きました。今日はその続きです。環境や状況の変化に合わせてからだは常に変化しています。だから心も常に変化しています。でも、ほとんどの人がそのことに気付いていません。なぜならば、人は常に「自分」を基準に世界を認識しているので、「自分自身の変化」には気付かないからです。良くなっても悪くなっても分からないのです。そして、「自分は以前からこんな状態だった」思い込んでしまいます。だから酔っ払って正常に判断出来なくなっているのに「自分は酔ってなんかいない」などと言うのです。麻薬などをやっていて、周囲から見たら全く心が正常ではない状態に見える時も、本人は「正常だ」と思い込んでいます。痴呆になる時も同じです。周囲から見たら子どもや赤ちゃんのような状態になっていても、本人にはその自覚はありません。だから子ども(赤ちゃん)扱いをされると怒るのです。このように人の心はからだの変化に合わせて常に変化しているのに人はその「自分の変化」に気付きません。だから「心」と「からだ」は一つのものだ」ということに気付かないし、「心を変えるためにはからだを変えればいい」ということにも気付かないのです。 でも、そのことに気付いている人達もいます。それは、武術や踊りや茶道やヨガなどの「心とからだが密接につながった活動」をしている人達や、禅宗や密教のような身体的な修行を大切にしている宗教の修行者などです。ではどうしてそのような人達は、「自分の変化」や「心とからだが密接につながっている」ということに気付くことが出来るのかというと、そのような人達にはそのことを教えてくれる「師匠」がいるからなんです。人は「自分の変化」は分からなくても「人の変化」は分かるのです。だから、シラフの人は酔っ払っている人がおかしな状態になっていることが分かるのですが、本人はそのことに気付けないのでそれを指摘しても相手はそれを受け入れません。でも、弟子にとって師匠は「真実を教えてくれる存在」なので、自分では分からなくてもそれを事実として受け入れるのです。また、師匠の言葉を受け入れていると、自分では「変わった」という実感がなくても、実際にそれまで出来なかったことが出来るようになるので、自分の変化を確認することが出来るのです。そうして、「心とからだのつながり」に気付くことが出来るようになっていきます。座禅では心を静かにすることが求められます。でも、意識の働きで心を静めようとしてもそれは無理です。もしそれが簡単にできるなら、イライラして子どもを叱ってしまうお母さんも簡単にそのイライラを消すことが出来るはずです。むしろ、心を静めようと一生懸命になればなるほど心は落ち着きを失います。そんな時は姿勢と呼吸を整えるのです。姿勢と呼吸を整えると、心を落ち着かせようなどと頑張らなくても、自然と心は落ち着くのです。心を落ち着かせようと頑張ってしまうから姿勢と呼吸が歪んでしまうのです。でも、自分ではその姿勢と呼吸の歪みが分かりません。それを教えてくれるのが師匠と呼ばれる存在なんです。師匠がいない人は「イメージ」の働きを使うとそれなりに自分で自分の状態を変えることが出来るようになります。「イメージ」は「心」と「からだ」の中間にあって、それらをつなぐものだからです。
2016.11.27
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現代人は「心」と「からだ」を別のものだと考えています。だから「心」を病むと「心を扱う専門家」の所に行き、「からだ」を病むと「からだを扱う専門家」の所に行くわけです。確かに「心」と「からだ」の間には密接な関係があるということは多くの人が知っています。でも、実際にどれほどのつながりがあるのかを知っている人は滅多にいません。またその「つながり」も、「別々のものがお互いに関係し合っている」というイメージに過ぎません。でも、実際には「心」と「からだ」はそれ以上につながっているのです。というかもともと一体のものなんです。機械などでも「構造や回路」と「機能」を分離出来ませんよね。「構造や回路」は「機能」の現れであり、「機能」は「構造や回路」の現れなんですから。人の「からだ」と「心」も同じ関係なんです。「からだ」が「心」を作り、「心」が「からだ」を作っているのです。ですから「からだの状態」が変われば瞬時に「心の状態」も変わります。ちょっと姿勢や重心の位置が変わっただけで、「心の状態」は簡単に変化するのです。また、明るい所にいる時と、暗い所にいる時とでは「からだの状態」が異なります。当然、「心の状態」も異なります。掌をパーにするかグーにするかだけでも「心の状態」は変わります。騒音の多いところにいる時と、静かなところにいる時とでも「からだ」は違います。そして「心」も違います。また、悩んでいる時のからだと、悩んでいない時のからだも異なります。考え事をしているときのからだと、ボーッとしているときのからだも違います。心とからだはそれほど一つのものなんです。そのため、「からだの状態」が変わらない限り、いくら頑張って、心で「心の状態」を変えようとしても無理なんです。でもみんなその「無理なこと」をしています。そして、思い通りにならない自分に対して苛立ち、自己肯定感を失い、さらに苦しんでいます。そんな時は、「心」ではなく「からだ」の方を変えるようにするのです。心で「心」を変えることは出来ませんが「からだ」の方は変えることが出来るからです。「緊張した時は深呼吸するといいよ」と言われますが、そのようなことです。でもその程度の変化は一時的なものです。では、もっと本質的な部分で「からだ」を変えるためにはどうしたらいいのかということですが、そのためにはまず「からだ」を「心の束縛」から自由にしてあげる必要があります。それはつまり、本当に自分を変えたいのなら、「自分を変えたい」という意識を捨てなければならないということです。そして苦しんでいる「からだ」の声に耳を傾けるのです。実は、「自分を変えたい」という意識が自分のからだを束縛して、自分が変わることを阻害しているのです。だからいつまでも変わることが出来ないのです。(というかもしかしたら本当は変わりたくないのかも知れません。)「心」が苦しんでいる時には「からだ」も苦しんでいるのです。それは「緊張」や「こわばり」や「痛み」や「ゆがみ」という形でからだの中に存在しています。イライラや肩こりもその「からだの苦しみ」の現れです。でも人は「心の苦しみ」にばかり意識を向け、「からだの苦しみ」は薬やマッサージなどの一時的な方法で対処しようとするばかりです。だから何も変わらないのです。そのような「からだの声」に耳を傾けるようにすると、それだけで「からだ」が変わるのです。その結果「心」も変わります。緑の鈴風さんにやってもらった「崖を駆け下りる」という遊びは、からだを変えるための一つの方法です。崖を思いっきり駆け下りるためには、からだを開く必要があるので、少なくともそれをやっているときには心の苦しみは消えているはずです。
2016.11.26
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以下は、11月11日のコメント欄における緑の鈴風さんと私のやりとりの一部です。<緑の鈴風さん>>子育てにおいて一番大切な信頼関係を作ることが、私の強い不安のせいでできていないことが辛くて、でも私この30年もの間、全然変われてないから本当に情けないです。>この数日考え込んでしまって、息子に、お母さんずっと怒ってる、と言われてしまいました。。。-----<森の声>緑の鈴風さんは何か表現活動とか、からだのワークなどなさっていますか。いくら自分の心と向き合っても心は変わりませんよ。近くに転んでも大けがをしないような斜面ありませんか。そこを全速力で駆け下りてみて下さい。最初は怖くてできないと思いますが、慣れてくれば出来るようになります。不安や恐怖に捉われると出来ません。適当な場所があったらとにかくやってみて下さい。これに対して、昨日森の声さん、こんばんは。お返事を下さりありがとうございます。芝生の斜面を見つけました。最初は怖くてゆっくりと歩幅も小さくして下りていましたが、慣れてくるとしっかり足を広げて思いっきり駆け下りることができました。からだが開く感じ、足で土を踏む感じ、爽快感がありました。子どもたちも大喜びで私と一緒に走ったり、コロコロと寝転がって下りたり、3人で芝の上にあおむけに寝て、広い空や雲の流れを見たりして、心もからだも気持ちいい!って言ってるのがわかりました。表現活動やからだのワークもやってみたいのですが、まだ下の子を家でみているのでちゃんと探していません。今は、週2回くらいジムに行って、ダンスのクラスをとっています。ヨガのクラスにも行ったことがあるのですが、先生のダンスをみて真似して踊るのと違って、ヨガは、英語の説明を聞きながら、からだを動かすので(英語の聞き取りに必死になってしまって)頭が疲れるので最近はクラスをとっていないです。表現活動というのは、人の前で歌やお芝居などを表現するもののことをいうのでしょうか?人前でなくてもよいのなら、編み物やリメイク(子どもの着られなくなったお洋服をお人形の服にしたり)をするのが好きでやっています。表現活動で大切なことは、素の自分の感情を表すことですか?同じ絵を描くのでも、モノや風景の写真をとって、その写真そのままに忠実に描くことではなく、自分の目に見えるように描くということですか?うまく説明できなくてすみません。これは緑の鈴風さんだけでなく、多くの人が勘違いしていることなんですが、本当の自己表現とは、「意識的に何かを表現する活動をする」ということではないのです。ですから、歌や絵画や演劇をやっていても本当の意味での自己表現になっていない人がいっぱいいるのです。でも、芝生を駆け下りている時の緑の鈴風さんは「自己表現」をしていたのです。「ああしよう」「こうしよう」という自意識や計らいを捨てて、「自分自身」になりきる時に「自己」が表現されるのです。ですから「自分」を表現しようとしている限りそれは自己表現ではないのです。そして幼い子どもたちはいつも「自己表現」をしているのです。その状態を昔の人は「自由」と言いました。この「自由」は英語のFreedomとかLibertyという言葉を翻訳した「自由」とは異なります。ある落語家が書いていたことですが、稽古の時、師匠の前で演じていると、どうしても熱いものを触った時の「アチッ」のところで、「そうじゃない」と言われたそうです。何回やってもOKが出ません。それで休憩に入ったのですが、お茶を入れようとしてうっかり煮え立った鉄瓶に触ってしまいました。それで本能的に「アチッ」という言葉が出たのですが、その時、師匠が「それ、それだよ」と言ったそうです。(曖昧な記憶で書いているので大体こんな感じの話だった・・・ということです。)その「アチッ」には意識的な計らいがありません。表現しようとしない表現です。私が考える自己表現とはそういうものです。ですから、自分にこだわっている限り自己表現は出来ないのです。意識を外の世界に向けて、ただ自分を開いていくのです。その時の「素直な自分の反応」が「自己表現」なんです。緑の鈴風さんは、「変わろう 変わろう」としているから、変わることが出来ないのです。 「もうこのままでいいや、だってこれが私なんだから」と、変えようとすることをやめてしまえば、変わるのです。 絵本などを読んでいる時も「ああ読もう」「こう読もう」などと考えるのではなく、その世界に入り込んで素直な気持ちで読めばいいのです。
2016.11.25
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私たちは、新しい機械などを操作する時にはマニュアルを読みます。もしくは、操作方法を誰かから聞きます。それと同じような感覚で、子どもが生まれたお母さん達は、「子どもの扱い方」を知るために「子育て書」を読んだり、ネットで情報を探したり、講演会や勉強会に行ったりします。でも、そういう方法で知った「子育ての方法」が役に立つのは「ヤダヤダ期」が始まるまでのことです。「ヤダヤダ期」が始まると、急に子どもは自己主張を始めます。一人の人間としての扱いを要求してきます。そして、それまでは世話をするだけで済んでいたのに、急に子どもとの間に困難な人間関係が生まれるのです。それは、「ヤダヤダ期」が始まるのは「人間としての心」が目覚め始めた現れでもあるからです。そして、子どもに「人間としての心」が目覚めてしまうと、ハウツー的なマニュアルは全く通じなくなってしまうのです。ですから、その時期の様々な問題に「どうしたらいいんでしょうか」と聞かれても、「問題を解決する方法」をお教えすることは出来ません。「心の問題」に「方法」は通じないからです。こんな時に役に立つのは「子どもをなんとかする方法」を知ることではなく、「子どもの成長の流れ」について知ることと、「人間としての子ども」のことを理解することなんです。この幼児期に目覚めた「人間としての心」は大人になって、老人になって、死ぬまで連続した心です。皆さんの「心」もこの頃に目覚めたものです。「子どもの頃の心の状態」と、「大人になった今の心の状態」は大きく異なりますが、それでもそれは一つにつながったものなのです。例えば、「種」の状態と芽が出た「双葉」の状態は全く違いますよね。「双葉」の状態と「木」として成長した後の状態も全く違いますよね。でも、姿形は変わってもその中で流れている命は「たった一つのもの」ですよね。それと同じです。この頃から「子育て」が単なる「肉体労働」だけでなく「精神労働」にもなってきます。子どもの存在や自分自身の存在を否定するような苦しみもこの頃から生まれます。我が子の「心」と出会うことで、自分の中の「子どもの頃の心の記憶」が目覚めてしまうからです。心の目覚めの時期に幸せに過ごせた人は、幼い子どもを見ることでその幸せの感覚が蘇ります。でも、寂しさと苦しさの中で過ごしていた人は、その寂しさと苦しさを想い出してしまうのです。そして、途方に暮れます。その苦しみから抜け出すために、さらに子育て書を読んだり、ネットで情報を調べたり、セラピストの所に行ったりするのですが、それがさらに子どもを寂しく、苦しくさせ、状況を悪化させていきます。方法や知識を求めてばかりいると、お母さんの心がどんどん目の前の子どもから離れて行ってしまうからです。むしろ、そんな状態の時に役に立つのは「子育ての方法」などではなく、「子どもなんてみんなそんなもんよ」などという、その方法自体を否定するような先輩お母さん達からの言葉だったりします。ヤダヤダ期の子どもに手を焼いて、自分の子育て能力の低さに自信を失い、色々な方法を探し求めているお母さんはいっぱいいますが、先輩お母さんから「そんなものハシカと同じで、心配しなくてもすぐ過ぎちゃうわよ」と言われることで救われた人もいると思います。そんな時、逆に「こうしたら」、「ああしたら」と丁寧に「方法」を教えられたら、余計に迷路から抜け出せなくなってしまうものです。「私はこうやったらうまく行ったわよ」などと教えてくれる人もいますが、その人の子と我が子は同じではありません。また、その人と自分も同じではありません。ですから、同じようにやっても失敗します。昔のお母さん達の周りには、親や近所のおばさんなど「子育て経験者」が身近にいっぱいいて、「子どもなんてみんなそんなもんよ」と教えてくれましたが、最近ではそういうつながりを失ってしまった状態の中で子育てをしているお母さんが多いので、子どもの状態を全部自分の子育ての結果だと思い込んでしまっている人が非常に多いのです。子どもがヤダヤダ言うのも、食事の時に落ち着かないのも、食べ物で遊ぶのも、約束を守らないのも、お片付けをしないのも、歯を磨かないのも、戸を閉めないのも、おしっこを教えないのもみんな、「自分の育て方が間違っていたからなんだ」と真剣に悩んでいるお母さんがいっぱいいるのです。でも、子どもはみんなそんなもんなんです。確かにちゃんと挨拶出来る子もいます。積極的な子もいます。友だちと仲良く遊ぶことが出来る子もいます。ブランコが得意な子もいます。落ち着いている子もいます。でも、その多くは「育て方」よりも、「生まれつきの気質」の問題であって、お母さんの育て方の問題ではないのです。子どもはお腹の中にいる時から一人一人違うのです。生まれた直後の泣き方も、おっぱいの吸い方も違います。子育てを始める前から子どもは一人一人違うのです。その背景に「気質」の違いがあるのです。そして「気質」はしつけでは変えることが出来ません。(でもその状態をこじらせてしまうのは育て方の問題です。気質をこじらせてしまうと気質の特徴が「短所」として固定してしまいます。でも、気質を肯定して育てていると、その気質の特徴が「長所」として成長してい行きます。)私は今まで1000人を越えるお母さん達に同じ事を聞いてきました。それは「お母さんに早くしなさいと言われて早くする子はいますか?」という質問です。でも、今まで一人も「うちの子は早くしなさいと言えば早くします」と答えられた方はいません。子どもとはそんなもんなんです。ですからそんなことでイライラしても無意味なんです。むしろ、叱れば叱るほど、親子の信頼関係が崩れていくばかりです。9才頃から「早くしなさい」と言えば早く出来る子も出てくるかも知れませんが、多分そういう子には笑顔がないと思います。またそういう子は、親の前でだけ「いい子」を演じている可能性が高いです。
2016.11.24
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「子どもとどう関わったらいいのか」ということは、「子育て書」ではなく「お母さんのからだの本能」と「我が子」が教えてくれます。それはつまり、「子どもの数だけ、お母さんの数だけ子育ての方法がある」ということでもあります。でも、多くのお母さんたちが、「不特定多数の子どもやお母さんに向けて書かれた子育て書」に書かれた知識と、「大人の常識」と、「世間の常識」と、「お母さんの思い込み」だけで子育てをしようとしています。でも、「知識」や「思い込み」は人の思考や感覚を束縛して自由を奪います。目の前の事実を見えなくしてしまいます。子どもとの感覚的な触れ合いや、心の触れ合いを阻害してしまいます。それでも読むとしたら、マニュアル的な「子育ての方法」が書かれた子育て書ではなく、「発達心理学」のような「子どもを理解するための本」を読んで下さい。「絵本」や様々な「子ども文学」の中にも、子どもを理解するための知識や知恵がいっぱい詰まっています。そこには子育てに関する具体的な方法は書かれていませんが、お母さんが「我が子に合った子育て」を考える時の手助けにはなります。でも、それらも「絶対に必要な知識」ではありません。一番大切なことは、「子どもの笑顔」を自分の子育ての「羅針盤」にすることです。間違った方向に進んでいる時には「子どもの笑顔」は減ります。それに対して、「子どもの育ち」を支える方向に進んでいる時には「子どもの笑顔」が増えます。子どもの笑顔が増えている時には、子どもの感覚や意識や行動は外に向かって開かれています。だから、外の世界から多くを取り入れたり、外の世界に出ていくことが出来るのです。でも、笑顔が少ない時には子どもの感覚や意識や行動は閉ざされてしまっています。そういう時は自分を守ることで精一杯だからです。そのため、外の世界との関わり合いを通して自分を育てることが困難になってしまうのです。子どもは大人が教えたいことを学ぶのではありません。子どもは常に「自分が学びたいこと」しか学ばないのです。その「子どもが学びたいこと」もまた、子どもの笑顔が教えてくれます。
2016.11.23
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お母さんたちは子育てに行き詰ると「子育て書」を読んだり、「子育ての講演会」に行ったりするのでしょうが、実際には、子育ての現場において「知識」は無力です。なぜなら「子育て」に必要なのは実技だからです。皆さんは「絵の描き方」という本を読んで「絵の描き方」に関して山のような知識を得たからといって、絵が描けるようになると思いますか。「描けると思う」という人がいたら、そのような人は頭でっかちで、実際の体験が少ない人です。子どもでも、時々そういう子がいます。トンカチやノコギリもろくに使えないのに、「先生がちゃんと教えてくれたら何でも出来る」と言うような子がいるのです。でもそういう子に限って、実際にやらせると何にも出来ないし、すぐに音を上げてしまいます。最初に「子育ては実技だ」と書きましたが、だからといって「子育て」という技術が存在しているわけではありません。子育てで必要になるのは、コミュニケーション、お料理、話し方、聴き方、共感能力、からだの使い方などといったような多様な技術であって、単一の「子育ての技術」というものではないのです。というか、最初からそんなもの存在していないのです。実際の「子育て」はここに書いたような多様な技術を自由に構成しながら行うものなんです。さらに、歌や、踊りや、演劇的な技術もあると、子育ては楽になります。物語をいっぱい知っているとさらに子育てに役に立ちます。そしてそれらは全て、人間が人間らしい生活を送るために必要な技術に過ぎません。ですからそれは、大人の生活でも必要な技術ばかりです。だから、文字や学校もなかった時代の人でも普通に子育てが出来たのです。むしろ、そういう時代の人の方が、知識に縛られることがない分、自然に子育てが出来ていたのではないかと思います。ただ、現代社会ではその大人の生活自体が大きく変化して「人間らしさ」を失ってしまっているため、現代人は子育てが困難になり、知識が必要な状態になってしまっているのです。ですからよく、「私は子どもの育て方が分かりません」などという人がいますが、それは勘違いなんです。むしろ、ありもしない「子どもの育て方」があると思い込んでいるから、子育てが出来なくなったり、その方法に縛られて苦しくなってしまうのです。そのような人が知らないのは、「子育ての方法」ではなく「人間らしい生き方」なんです。確かに、犬を育てる時には「犬の育て方」があります。ネコを育てる時も、カメを育てる時も、インコを育てる時も、それぞれの育て方があります。ですから、そういうものを育てる時にはそれらの「育て方」を学ぶ必要があります。でもそれは全て、人間が「人間以外の生き物」を育てる場合の話ですよね。人間以外の生き物には人間のルールや常識は通用しませんから、その生き物のルールや常識を学んで、それに合わせて育てる必要があるのです。でも、子どもは親と同じ人間です。ですから、「子どもは自分と同じ人間なんだ」という自覚と、「子どもに対する敬意」をしっかりと持って子どもと向き合えば、子育てはそれだけでなんとかなってしまうものなんです。現代の子育てや教育が歪んでしまっているのは、大人達に、その「子どもは自分と同じ人間なんだ」という自覚と、「子どもに対する敬意」が失われてしまっているからなんです。だから、ペットを調教するような「しつけ」や「教育という名の訓練」を子どもたちに押しつけて平気な顔をしていることが出来るのです。それはまた、「人間を人間として扱わない社会」の中で、大人達もまた「自分は一人の人間なんだ」という」自覚と、自信と、誇りを失ってしまっているからだと思います。だから、成績や学歴や人目ばかりが気になり、命令されれば死ぬまで働いてしまうのです。「子育ての問題」の中には、「現代人の問題」が凝縮されているのです。ですから「子育て」を問い返すためには、「自分らしさ」や「人間らしさ」や「社会のあり方」を問い返すこととセットにして考える必要があるのです。子どもだけを何とかしようとしている限り、状態は悪化するばかりなんです。子どもたちは様々な問題行動を通して、私たち大人に「あなたたちはそれでいいのか」「人間らしさを失っていないか」「自分を見失っていないか」と問いかけているのです。
2016.11.22
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昨日のブログに対して、こはるのママさんから再度質問を頂きましたので取り上げさせていただきます。「子育て」や「生き方」に対して全く個人的なケースというものは存在しません。必ず、多くの他の人の苦しみや悩みとつながっている部分があるのです。講演会などの最後の方に質問の時間を設けることが多いのですが、その時にはあまり質問が出ないのに、終わった後に「質問いいですか」と多くの人がやってきます。最高、10mぐらい並んだこともあります。それで、「どうしてさっき質問しなかったのですか」と聞くと、みんな「個人的なことなので」と言います。でも、実際には質問の内容はみんな似たり寄ったりなんです。みんな似たり寄ったりのことで悩んでいるのに、それを「個人的なこと」「自分だけの特別な悩み」だと思い込んでいるのです。でも、それを質問の時間に出してもらえるなら、「ああこの問題で苦しんでいるのは私だけじゃなかったんだ」ということに気付くことが出来ます。それだけで、大分楽になるのです。また、仲間と一緒に考えることも話し合うことも可能になります。みんな「これは自分だけの悩み」と心を閉ざしてしまっているから他の人とつながれなくなったり、余計に苦しくなったり、いつまでも苦しみから抜け出すことが出来なくなってしまうのです。また、苦しみを抱え込んでいるだけの人は、「自分の状態」を客観的に見ることが出来ません。いつも書いている「苦しみを肯定して下さい」ということは、自分の苦しみを俯瞰的、客観的に見るための方便でもあるのです。ということで、再度こはるのママさんから頂いた質問は以下のようなものです。わたしの中の主な苦しみは被災したことです。人格化してみると、赤ちゃんを抱いてただただ泣いています。対話を試みていますが、うまくいきません。避難してからずっと右往左往しています。実家から追い出されるような形でアパートに住んだり、沖縄に移住しようと試みたり、短大に行き介護福祉士と司書の資格を取ったり、卒業後すぐに再婚したり。絆、絆 と世間では言われていましたが、被災者に対する興味本意と無関心に愕然とし、ひとと波長があわなくなり、仲間などできるはずもありませんでした。精神的に病んだ妹がいる実家から、介護福祉士として働くことから、経済的にも精神的にも娘をひとりで育て上げることから逃げるために再婚しました。主人を見るとわたしのバカさ加減や軽薄さが見えるのでしょう。わたしは主人に対してすべてを放棄しています。自分を解放するとは、どういうことでしょうか。どうすればいいのでしょうか。今日は少し厳しい答えになるのでお覚悟を。この文章を読んで感じたのは、「こはるのママさんは抱いて欲しいのだな、優しく受け入れてもらいたいのだな、温かく見守っていてもらいたいのだな」ということです。多分これは、こはるのママさんがまだ幼い頃から、自分のお母さんに対してズーッと抱いてきた想いなのでしょう。大人になった今でもそれが満たされていないので、ご主人や周囲の人にもそれを求めているのだと思います。幼児期の「満たされない想い」は大人になっても消えないのです。でも、それは無理なんです。それは決して周囲の人が冷たいからではありません。こはるのママさんが心を閉ざしているからです。「助けて下さい」と声をあげている人や、救いの手を求めてきた人に手助けをしてくれる人はいっぱいいます。世の中、そんな冷たいものではありません。でも、無言で待っているだけの人を助けようとする人は滅多にいないのです。相手が何を望んでいるのか分からないからです。「言わなくても分かって欲しい」などという考え方は傲慢です。「放射能から逃げてきた」というだけで、みんなが可哀想に思って助けてくれるなんていうのは幻想に過ぎません。そういう行為に批判的な人もいっぱいいるし、また、ほとんどの人が被災者の現状を知りません。テレビなどのマスコミは表面的な情報しか流しませんから。ですから、悪気はなくても興味本位で色々と言って来たり、聞いてくる人はいっぱいいるのです。それが現実です。そういう現実の中では、「つながり」は自分から作るしかないのです。何もしなくても、自分のことだけを考えていても、自分のことを考えて自分を守ってくれるのは親だけなんです。無条件に愛してくれるのも親だけです。(そうでない親も多いです。こはるのママさんのお母さんもそうでなかったのでしょう。)子どもはそうやって無条件に愛されることで、損得抜きで人を愛することが出来るようになるのです。また、人は知らない相手には冷たいものです。興味本位で見ているだけです。またそれが「優しさ」だと思っている人もいます。こはるのママさんも知らない相手にまで優しくしようとはしないですよね。そもそも相手が望んでいることが分からないのですから、見ているしかないのです。でも、見られているだけの人はそれを「冷たい」とか「拒否されている」と感じます。それだけのことです。絆やつながりが欲しいなら、自分から声を上げ、自分から動くしかないのです。求めることから始めるのではなく、与えることから始めるのです。愛して欲しければ見返りを求めず、自分から愛するのです。こはるのママさんはご主人に対して、「何にもしてくれない」「分かろうとしてくれない」と思っていると思います。でも、こはるのママさんはご主人に何をしてあげたのですか。ご主人のことを分かろうと努力したのですか。ただ求めただけではありませんか。多分、ご主人は粘液質が強い人だと思います。粘液質が強い人は、ちゃんと見て、ちゃんと聞いて、ちゃんと理解しているのですが、自分を表現するのが苦手です。助けを求めれば、求めた以上に助けてくれます。でも、求められなければ動きません。無関心だからではなく、それが粘液質の優しさでもあるのです。そのため、相手は「何にも分かっていない」と勘違いしてしまうことが多いのです。(求められてもいないのに積極的に動くのは胆汁か多血です。)話が飛びますが、クリスマスを「プレゼントをもらう日」と思い込んでいる子どもたちがいっぱいいます。でも、クリスマスは「プレゼントをあげる日」であって「もらう日」ではありません。みんなが愛する人にプレゼントをあげることで、自分にもプレゼントが回ってくるのです。自分は誰にもプレゼントを渡さないのに、「誰もプレゼントをくれない」と嘆くのはお門違いです。日本のクリスマスは経済活動の一部に組み込まれてしまっているので、その「大切なこと」が大切にされていません。だから日本では、サンタさんからの「無条件のプレゼント」ではなく、親からの「プレゼントを買ってあげるからお勉強をしなさい」などというような「交換条件付きのプレゼント」になってしまっている子が多いのです。
2016.11.21
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こはるのママさんから以下のような質問を頂いています。「子育ての正解」(不安から逃げないで下さい)(11/17)わたしが毎日悩んでいたことに近い内容のように思いましたので書き込みをいたします。わたしは東日本大震災で被災し、福島から離れられない夫と離婚していま年長の娘がいます。昨年再婚しましたが、夫婦仲が険悪で離婚したいと思っています。しかし娘はいまの夫になついており夫も娘には優しいです。娘のために離婚しないでいまの家に住まわせてやりたいと考えますが、どうしても夫とうまくやっていきたくないのです。再婚なんて軽率で身勝手な行動によって娘を振り回すことになり、申し訳なく思うばかりです。もし離婚して、娘とふたり暮らしになっても、娘はまともな人間に育ってくれるかとても心配です。ただ漠然と心配しているのだと思います。気持ちが言葉にならず、何をお聞きしたいのか自分でもわからないです。何か言葉をいただけたら幸いです。先ず気になったのは、 どうしても夫とうまくやっていきたくないのです。というところです。 「どうしても夫とうまくやっていくことが出来ないのです」なら分かるのですが、「やっていきたくない」というのは、「もう努力を放棄している」とか、「その状況から逃げ出したい」ということですよね。この「逃げる」という発想に囚われている限り、どこに行ってもうまく行きません。多分、こはるのママさんが本当に逃げ出したいのは放射能からでも、ご主人からでもなく「自分自身から」なのではないでしょうか。こはるのママさんは、一生懸命に「自分」から逃げようとしているのではないのでしょうか。でも、一生「自分」からは逃げられないのですよ。鎌倉の瑞泉寺に「どこも苦地蔵」というお地蔵さんがいます。伝説によると・・・ 智岸ヶ谷の地蔵堂の堂主が貧しさのあまり逃げだそうとすると、夢枕に地蔵が現れて、「どこも、どこも」 と告げたという。 堂主は 「苦しいのはどこにいっても同じだ」 と悟ったという。ということです。(瑞泉寺のHPから。)ほとんどの場合、「苦しみ」は「自分」が創り出しているのです。そして、人は「自分」からは逃げることが出来ません。そして、逃げれば逃げるほど「自分」を見失い、さらに苦しくなります。3.11のあと、多くの人が放射能に対する不安で西の方に逃げました。私の周辺(横浜、湘南近辺)にも何人もいました。こはるのママさんのように離婚して移住した人もいます。私はよく関西方面に呼ばれて行くのですが、その多くが3.11の時に移住した人達が中心になって活動しているグループが企画して下さったものです。その人達は「放射能」からは逃げましたが、「自分」からは逃げていないのです。その土地にしっかりと根を下ろして生きようとしているのです。自分が移り住んだ土地で、仲間を作り、一生懸命に土地の人達とつながろうとしています。その延長で私を呼んでくれるのです。私はこはるのママさんのことを直接知らないので、もしかしたらこのような努力もいっぱいなさっているのかも知れませんが、でも、文面からはその努力が見えません。娘さんに対する考え方でも「自分」を閉ざしてしまっています。ご主人の何が悪いのかは分かりませんが、それが耐えられなくなってしまっているのは、ご主人の問題ではなく、こはるのママさんが自分で「自分」を閉じ込めているからなのではないでしょうか。もしかしたら、今のご主人を選ぶ時も、「この人なら大丈夫」とか、「この人が好き」という基準ではなく、単なる「今の状況から逃げたい」という理由からではなかつたのでしようか。そして、状況が落ち着いて来たら、今度は、ご主人の中に、「自分が逃げて来たもの」が見え始めてしまっているのではないでしょうか。それで、再度逃げたくなっているのではないでしょうか。間違っていたらごめんなさい。自分で自分を閉じ込めているのに、その状況から逃げようとしているのだとしたら、どこに行っても同じ事が繰り返されるだけです。娘さんの心配をする前に、自分で「自分」を解放して上げて下さい。
2016.11.20
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フィトンチッド さんが私は、以前、不安からくる病気に苦しんだことがありました。深い穴に落ちて、遠いお天道さまに近づこうと必死でもがく毎日でしたが、もがく力もなくなったとき、ふと私は、落ちるとこまで落ちてしまったんだ。。。もうこれ以上落ちることはないんだと思いホッとしました。それから、努力して不安と戦うのではなく、工夫して不安とうまく付き合うことにしました。自分の中の、形のない大きな不安に人のイメージをつけました。色々、困ったことをしてくるけど、実は、恐がりで、デリケート、厄介なところがあるけれど必死で私として関わろうとしてくれている同じ屋根の下で共に生きている仲間。ある女芸人さんをイメージし、私の中の不安にOさんと名前をつけました。そうすると、苦しいときも、不安を消そうともがくのではなく、Oさん暴れだしたから、なだめながら一緒に休もうに変わりました。自分と不安の関係性が、あのとき、すっかり変わったように思います。と書き込んで下さいましたが、実はこれは心理学的な療法や心のワークショップなどでも使われている方法なんです。自分で自分を否定しているから苦しいのですから、その「嫌いな自分」を「否定している自分」から切り離して、別人として扱ってみよう、ということです。昔は、それを「自分の中の悪魔」として考えた人達もいました。この方法は、「痛み」や「感情」に対しても行われることがあります。ただし、別人格化しても、ただ否定しているだけなら状態は良くなりません。なぜ別人化するすることが「癒やし」につながるのかというと、別人化することで、その相手の想いや声を聞き、「自分の中のもう一人の自分」と対話することが可能になるからなんです。「否定されている自分」を「否定している自分」から切り離すことで、一方的な支配を抑制することが出来るのです。「自分の一部」だと思うから支配しようとしてしまうのです。そしてそれが「苦しみ」が消えない原因でもあるのです。これは子育てでも同じで、子どもを「自分の一部」と考えている人は無意識的に子どもを支配してしまいます。でも、「子どもも一人の人間だ」とか「子どもにも人格がある」と考える事で、支配が抑制され、対話が可能になるのです。すると子どもは自分の意思が目覚め、自分の力で自分の育ちを発展させることが出来るようになるのです。政治家と国民の関係、社長と社員の関係でも同じです。社員を会社の一部として考えてしまうから、平気で死ぬまでこき使ってしまうことが出来るのです。でもそのような会社は次第に活力を失っていきます。胃が痛い時、腰が痛い時などに、「胃くん」「腰くん」を擬人化して対話してみて下さい。「胃くん、君はなにを伝えたいの」「腰くん、君は何が伝えたいの」と問いかけ、耳を澄ましてみるのです。すると、自分が気付かなかったことや、自分が見たくなかったこと、否定したいことを語ってくれるかも知れません。「心の苦しみ」にも同じ方法が使えるのです。「心の苦しみ」の中にも一人の人格があるのです。それは「子どもの頃の自分」かも知れません。「無意識の中の自分」かも知れません。そして、その「苦しみの中にいるもう一人の自分」と対話してみて下さい。その「苦しみの声」に耳を傾けないから苦しみがいつまでも続くのです。「苦しみ」を受け入れるとか、肯定するということはそういうことなんです。
2016.11.19
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人は自己肯定感がなかったり、自分に自信がなかったり、自分が嫌いだったり、自分の過去が嫌いだったりすると、「今の自分」ではない「別の自分」になりたがるようです。でも、それは不可能です。多重人格者にならない限り、人は死ぬまで「今の自分」を生きるしかないのです。どんなに苦しくても、どんなに「自分」のことが嫌いでも、その「自分」からは逃げることは出来ないのです。それなのに、そのような状態の人は「今の自分」を肯定しません。そして「別の自分」を夢見て生きています。だから、少しも前に進むことが出来ないのです。その「別の自分」は「空想の中の自分」です。そして、その人を苦しめているのは、「その空想を創り出している自分」です。「その空想を創り出している自分」こそが「今の自分」なんです。言っていることが分かりますか。「空想を創り出している自分」は「自分が嫌いな自分」なんですから、その空想に囚われている限り、今の自分は固定されてままだということです。そのため決して、「別の自分」になることが出来ないのです。でも、その苦しみによって成長することで「素敵な自分」に変化することは出来ます。「ミカンの木」はどんなに神様に願っても、「リンゴの木」に変わることはありません。でも、「素敵なミカンの木」になることは出来るのです。そのためには先ず、自分が「ミカンの木」であることを受け入れるところからしか始まらないのです。今の状態がどんなにみすぼらしくても、人は「今」という時間の延長、「今の自分」という状態の延長にしか、「未来の自分」を創造することは出来ないのですから。じゃあどうやって「今の自分」を肯定したらいいのかというと、「自分の感覚」や、「自分のからだ」を肯定するところから始めるのです。そこが「自分」の原点ですから。
2016.11.18
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現代人は子どもも大人も「失敗」を非常に恐れます。だからマニュアルや子育て書に依存してしまうのでしょう。また、子どもがまだ小さい時から、英語や知育的な学びやお受験に追い立ててしまうのも、「子育てを失敗したくない」という恐れがあるからなのでしょう。でも、「失敗」は「正解」がある時にしか起きないのです。そして、子育てには正解がありません。なぜなら、子どもは一人一人違うし、親の価値観も一人一人違うし、生き方や職業にも正解などないからです。でもみんな、「正解」がないのにも関わらず、「失敗」を恐れているのです。その結果マニュアルに依存し、子育てに失敗してしまいます。今、「子育てには正解などない」と書いたばかりですが、実は一つだけ「正解」があるのです。それは「親と子の信頼関係を築くこと」です。「待つ」というのもそのための方法です。これが子育ての基本原則であり、これがないことには子どもの成長も不安定になり、心も不安で満たされてしまいます。小さい時から英語や知育をいっぱい詰め込んでも、親との間に信頼関係が築けなかった子は、思春期の頃から親の意思を拒絶するようになり、それまで「子どものため」と頑張っていたことが全て水泡に帰してしまいます。また、不安が強い状態で育った人は、お金や、地位や、成績や、見栄や、マニュアルに安心を求め、依存するようになります。そして仲間とも、またパートナーとも、子どもとも信頼関係を築くことが困難になります。子育てでも苦しむようにもなります。でも実際には、みんなこの「信頼関係を築く」ということとは反対のことばかりをやっているのです。ありもしない「小さな正解」ばかりを求めて、本当に大切な「大きな正解」をダメにしてしまっているのです。では、「親と子の信頼関係を築くためにはどうしたらいいのか」ということですが、そこに「マニュアル的な方法」など存在していません。「子どもを信頼する」とか、「待つ」とか、「色々なことを伝える」とか、「感覚や体験や言葉や物語を共有する」ということが必要なんですが、「じゃあ、具体的にどうしたらいいんですか」と聞かれても答えようがありません。また、そのような方法をお教えしたとしても、実際には効果はありません。なぜなら、ここで本質的な問題になっているのは「お母さんの不安」だからです。お母さんの「不安」が、子どもとの間に温かい信頼関係を築く邪魔をしているのです。また、「安心」が方法に「効果」を与えるのです。「不安」は逆に方法から「効果」を奪ってしまうのです。安心しているお母さんが言う「大丈夫よ」は効果がありますが、不安が強いお母さんが言う「大丈夫よ」には効果がありません。同じ「待つ」でも、安心しているお母さんが待っているのと、不安が強いお母さんがイライラしながら待っているのとでは子どもに与える影響が違います。子どもにはお母さんの「無意識」を感じ取る力があるからです。「じゃあどうしたらいいのか」ということですが、まず、お母さん(大人)が自分の中の不安と向き合う必要があるのです。そしてそれを肯定することです。そこから逃げないことです。逃げているから心の中で大きくなってしまうだけで、ちゃんと向き合えば消えてしまうのです。「不安という存在」は、どこにも存在していないのですから。正解があると思っているから不安が生まれるのです。「この世界に正解などないんだ」という事に気付けば不安も和らぐのです。私はバックパッカーで世界を歩いてきましたが、そこにあった正解は「信頼関係の大切さ」だけでした。「信頼関係」の大切さは、「子育て」の場だけにとどまらず、どの国、どの文化圏でも大切な「正解」なんです。 その一方、生活の仕方、考え方、生き方、死に方、価値観などには正解はありませんでした。死んだ人を川に流すことが当たり前の人達もいるのですから。ちなみに、「心配」と「不安」は異なりますからね。「心配」は「脳内シミュレーションに伴う危機管理」です。そこには具体性があります。また、安全に生活するためには必要なものでもあります。 また、ちゃんと準備することで「安心」に変えることも出来ます。でも、「不安」は「何かを失うことに対する恐れ」です。それは漠然としていて、具体性がありません。また「不安」は人の心とからだを固めて動けなくしてしまいます。でも、ちゃんと向き合うことで人は自分を成長させることが出来ます。 「不安」を「自信」に変えることも出来ます。それが「不安」が存在する理由だと思います。
2016.11.17
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現代の子どもたちは兄弟が少なかったり、群れて遊ぶ機会が少なかったり、群れていても基本的に同じような年令の仲間とだけ遊んでいるので、赤ちゃんや、小さな子どもと関わる機会はあまりありません。また、兄弟がいたり異年齢の子どもたちがいる状況でも、最近の子どもたちの遊びは個人的なものになっているので、「小さな子の面倒を見ながらみんなで遊ぶ」ということはありません。また「みんなで遊ぶ遊び」も知りません。その場に色々な年令の子がいても、結局同じような年令の子だけが集まって、自分たちだけで遊んでいます。「小さな子も混ぜてあげて」と言っても嫌がります。混ぜてくれたとしても、小さな子にも自分たちと同じルールを押しつけます。平気で大人の価値観を押しつけるお母さんや大人達と同じ事をするのです。昔の子どもたちの群れでは、小さな子には「特別ルール」が適応されました。いわゆる「オミソ」というやつです。そして、同じルールで遊ぶことが出来るようになるまでの成長を待ったのです。でも、最近の子に「この子は小さいから特別ルールでお願いね」などと言うと「ずるーい」と言われます。逆に、小さくもないのに自分から「マイルール」を主張する子もいます。「ぼくはこうやりたいんだからいいでしょ」と、勝手なことを言うのです。みんなで遊んでいるのに「どうやってもぼくの自由でしょ」などと言う子もいます。小さい子を特別扱いすると「ずるーい」というのに、自分には「特別扱い」を求めるのです。もちろん全部の子がそうだということではありませんが、そういう子が珍しくなくなってきたのも事実です。最近の子どもたちは、自分の想いに合わせて世話をされる体験も、「幼い子どもを世話をする」という体験もないまま成長し、大人になっています。そして、結婚し、子育てをしています。その流れのせいか、現代社会では、お母さん達の価値観を押しつけるような子育てが主流になってしまっています。それは「待てない子育て」です。2,3才の子にも大人のルールを守るように求めます。幼い子どもにも大人の価値観を理解するように求めます。そして、大人と同じように行動することを求めます。「オミソ」は許されないのです。でも、どんなに子どものことを思っていても、子どもの意思を否定した「待てない子育て」は、子どもの人間らしさの否定に他ならないのです。これは大人同士でも同じですが、「相手を尊重する」ということは、「相手の意思を尊重する」ということなんです。文明は「待たなくてもいい社会」を目指してきました。効率的、合理的に事を進め、時間を短縮することだけを求めてきました。そしてその価値観が、「子どもの遊び」や「人間の生き方」まで支配するようになってきました。「子育てのあり方」にも影響を与えています。そして多くの人が、「効率の良い子育て」、「失敗のない子育て」、「結果の見える子育て」、「苦労が少ない子育て」を求めるようになってきました。そのため、子どもが生まれたら「子育て書」を頼りに子育てを始めます。マニュアルがないとどうしていいのか分からないからです。でも、子どもを理解するために子育て書を読むのならいいのですが、「子育て書」に「子育ての方法」を求めてしまうと困った事になってしまうのです。実際、「子育て書」が子育ての苦しみの原因になってしまうことが多いのです。
2016.11.16
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私たちを支えてくれているものは、全て私たちの「足下」や「足の下」にあります。でも、人は自分の「足下」など見ません。ましてや、「足の下」などには関心がありません。そして、「自分とは関係がないもの」や、「自分には必要がないもの」や、「自分らしさを失わせるもの」や、「自分が持っていないもの」ばかりに興味を示し、欲しがり、足下をおろそかにしています。その結果、心やからだが不安定になり、不安と緊張で固くなってしまっています。それが現代人の苦しみの原因です。消費によって支えられている社会には、「持っているもの」ではなく、「持っていないもの」に意識を向かわせ、どうやってみんなの欲望を煽り立て、「持っていないもの」や「必要がないもの」をいっぱい買わせるのかという社会原理が働いています。そして現代人は、大人も子どもも、その社会原理を「当たり前のこと」として受け入れ、なんの疑いも持たずに「必要もないもの」や、さらには「害になるもの」まで喜んで買っています。その社会原理を受け入れない人は、「変わり者」と呼ばれたり、「社会の流れに乗り遅れるわよ」とか、「子どもが仲間と遊べないわよ」とか、「早くから競争しないと落ちこぼれるわよ」などという脅しがかかります。でも、7才までの子どもの成長や子育てには「新しいもの」など必要がないのです。人間の心も、からだも、成長も、何万年も前と変わらない「古いまま」だからです。変わったのは頭の中の知識や考え方といった「実際には存在しないもの」ばかりです。7才までの子育てで大切なのは、「ないもの」を与えたりすることではなく、すでに持っているものに気付かせ、それを充実させてあげることなんです。「生まれてきて良かった」とか、仲間と遊ぶって楽しい、体験するって楽しい、学ぶって楽しい、冒険するって楽しい、チャレンジするって楽しいという「喜びの感情」を育てることなんです。それがアイデンティティーや自己肯定感や自信の育ちを促すのです。それ以外のことは基本的に必要がないのです。でも、現代人は、「将来」の準備をするために「今」を犠牲にしています。持っていることには目を向けず、持っていないことばかりに目を向け、子どもを追い立てています。でも、それでは子どもは「自分の育ちに必要なもの」を得ることが出来なくなってしまうのです。そして、アイデンティティーや、自己肯定感や、自信といったものを育てることが出来ないまま成長していきます。そのようにして育った人は不安や緊張も強いです。でも、消費経済ではそういう人の方が「役に立つ」のです。欲のない人は役に立たないのです。だから非難・否定・排除してくるのかも知れません。
2016.11.15
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私たちは、「変化する世界」と「変化しない世界」の二つの世界を生きています。社会の価値観や常識や知識やルールは「変化する世界」に属しています。流行も変化しています。学校で教えていることも変化しています。10年前に当たり前だったことが今でも当たり前かどうかは不明です。現代人の常識が、10年後、20年後には非常識になっていることだってありえます。そして、テレビなどはその「変化するもの」だけを扱っています。人々の関心もまた「変化するもの」だけに向けられています。なぜなら、人は「変化するもの」に対しては意識を向けやすいからです。でも、「変化しないもの」に意識を向けるのは困難です。なぜなら「変化しないもの」は常に「そこ」にあるのに見えないからです。たとえば、人には「波」は見えても、その「波」の下の「海」は見えないものです。目の前にあるのに見えないのです。「病気」は見えるのに、「命」が見えないのも同じです。そして。これは感覚の世界では日常的に起きていることです。(難しくいうと、「図」は見えても「地」が見えないということです。)そして、私たちの生命や、からだや、子どもの成長を支えている世界は、「変化しない世界」「見えない世界」に属しています。そのため、多くの人達がその存在に気付いていません。学校でも扱わないし、テレビでも扱いません。それどころか平気で無視しています。「海」を無視して「波」だけを扱おうとしているのです。というか、「意識」はそういう「変化しないもの」「見えないもの」を扱うことが苦手なんです。意識が扱うことが出来るのは、「他者」として認識出来るものに限られているからです。自分の感情は常に動いているのに、その変化は「自分の内側」で起きているので、意識出来ませんよね。そういうことです。現代人は他者のことについてはいっぱい知っています。でも、自分のことを知らないのです。「他者としての命」や、「他者としてのからだ」や、「他者としての自然」のことは知っていても、「自分自身としての命」や、「自分自身としてのからだ」や、「自分自身としての自然」のことは知らないのです。そういう、「自分の内側にあるもの」は、「自分自身の気づき」によってしかその存在を確認することが出来ません。そして「気づき」は知識では創り出すことが出来ません。考えても分かりません。だから、心やからだを病んでいる人に、いくら「あなたはこういう状態だよ」「こうしたらいいよ」と教えて上げても無意味なんです。人間は、自分で気付かないことには、「自分に必要なこと」は分からないように出来ているのです。でも、気付けば、もうそれは自分の中に存在しているのです。これは子どもの育ちでも同じです。だから叱っても、叩いても、教え諭しても、子どもは変わらないのです。その「気づき」を促すためには「体験」と「言葉」が必要なんです。
2016.11.14
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世の中の流れに違和感を感じ、世の中の流れとは異なる生き方や子育てを選ぶ人は多いです。社会全体としては少ないですが、みなさんの周辺でも「探せばいる」程度にはいます。でも、幼稚園時代までは自分の価値観に合った仲間や、幼稚園を選ぶことが出来るので、そういう少数派が集まり、一緒に価値観や子育てを共有することも出来るのでそのことはあまり問題になりません。むしろ同じ価値観の仲間に囲まれていると心強いです。でも、小学校に上がると状況は一変します。シュタイナー学校のような「自分の価値観に合わせた学校」を選ぶのならともかく、普通の公立学校を選ぶとなると、急に「独りぼっち」になってしまいます。そして、学校や周囲のお母さん達との価値観の違いを突きつけられます。それで私は、まだ子どもが幼いお母さん達に、「今は自分と同じ価値観の仲間達に囲まれて、自分の価値観が当たり前だと思っていますが、学校に上がったら子どももお母さんも少数派になってしまいますからね。だからいまここにいる仲間を大切にして下さいね。」と伝えています。でも、そんな話を聞かされても、子どもがまだ幼いお母さんに達にはあまり実感がないようです。そして、自分は「普通」だと思い、その「普通」の意識で学校のお母さん達と関わろうとします。でも、周囲のお母さん達からは「○○さんは変わっているのね」などと言われます。そして急に少数派になってしまいます。実際、お子さんが小学校に通うようになってから「篠先生の言う通りでした」という報告も時々聞きます。ある、自然を大切にする共同保育の中で育った子が、小学校に行くようになってしばらくしてから「お母さん、先生が一度落ちたものは3秒経っていなくても食べちゃダメだって言っていたけど知ってた?」と言ったそうです。また、私の周囲の子どもたちは普通に、道ばたの木の「桑の実」や「山桃の実」を食べ、お花の蜜を吸っていますが、それは普通の子にはアウトのようです。今では保育園や幼稚園の先生もそれはさせないようにしているそうです。「私はそういうことを子どもに伝えたいのにダメなんです」と言っていた保育士さんもいました。家でテレビを見ていないので学校の子と話が合わないという事もよく聞きます。中には、見ていないのに、どこで情報を仕入れてくるのか、知っているふりをして他の子と合わせている子もいるようです。大分以前聞いたことですが、友人の子は、外遊びが大好きなので、外で仲間遊ぶ仲間を探しに公園に行ったそうです。でも、誰もいません。そこで別の公園を探しました。それでも誰もいません。いくつもいくつも公園を回ったのですが、誰もいません。それで「誰もいなかった」と言って帰ってきて、つまらなそうにテレビを見たりゲームをしていたそうです。ゲーム機を持っていないから、ゲームで遊んでいないからといって仲間に入れてもらえない子の話も時々聞きます。「○○ちゃんの家に行ってくる」と嬉しそうに出かけた子が、帰ってきてから「みんなゲームをしているだけでつまんなかった」と言ったという話しも聞いたことがあります。「字は小学校に入ってから学べばいい」と思っていたのに、小学校に入ったら他の子はもう最初から字の読み書きが出来るので焦った、という話しも聞きます。先生もまた、いきなり「ある程度の字は読める、書ける」という前提で授業をするそうです。私は、最初からそういうことも想定した上で子育てをしていましたから、学校に依存しなくても済むように意識的に仲間作りをしたり、子どもにも学校以外の仲間と遊ぶ場を作るようにしていました。仲間に呼びかけて、20年くらい前から個人的にプレイパークのような活動もしてきました。火もアルコールもOK。水遊びも冒険もケンカもOKという活動です。幸いにもそういうことが出来る場所があったのです。うちの3番目は、今、横浜市のプレイパークのプレイリーダーをしていますが、この4月からの成り立てなのに、同僚から「しのはプレイリーダーになってまだ半年なのに何でも出来る」と言われています。そりゃあそうです。同じようなことを赤ちゃんの時からやっているんですから。私はそれが今の活動につながっています。私には、最初から「私は世の中の流れとは異なった子育てをしている」という自覚があったのです。日本が進んでいる流れに違和感を感じていたのです。もしかしたらそれは、1年間のバックパッカー生活の中で色々な国を回り、色々な人々や生活を見てきたことで得た価値観かも知れません。または、若い頃から宗教家や芸術家といった「アウトロー」に惹かれる感性を持っていたからかも知れません。でも、そういう意識を持たずに「自分は普通だ」という意識のままで子育てをしていたのに、子どもが小学校に上がった途端に、周囲から「普通ではない」という扱いを受けた人は戸惑います。そして、「自分は間違った子育てをしていたのではないか」と不安を感じてしまい、不安定になってしまう人も多いです。急に子どもを勉強に追い立て始めるお母さんもいます。そして、お母さんが不安定になると子どもも不安定になります。私は、そういうお母さん達に「それでいいんだよ」ということを伝えるためにこのブログを書いています。お母さんが「自分がやってきたこと」に対する自信を失えば、子どもも自分に自信を失うのです。長男は教育学部を出て教師になりましたが、教師になってしばらくしてから、「子どもの成長には様々な体験が必要だということが分かるようになってきた。お父さんはそういう子育てをしてくれたんだね。」と言われました。長男は分かってくれましたが、でも、中には「なんでこんな子育てをしたんだ」と親を恨む人もいるかも知れません。そうならないためには、親には覚悟が必要なんです。
2016.11.13
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いま、「非常に難しいな」と感じていることがあります。それは、子どもの頃に自然の中や仲間といっぱい遊んで、「からだの声」を聞くことに長けている子ほど、学校では苦しんでいることが多いような気がするからです。マシュマロさんもからだの支配が強い子で、自己肯定感も強い子は、学校には行かない、と意思表示する子も多いと思います。そろそろ、学校に行く行かない、またそれ以外の選択も、子供たちの意思を尊重して、どれも気持ち良く選択できる世の中になって欲しいと願っています。と書いて下さいましたが、私の周りにも「学校」で苦しんでいる子が多いのです。小さい時から追い立てられ、支配され、人工的で便利な環境にどっぷりと浸かって育った子は、「学校」という場にもそれほど違和感を感じずに、学校の価値観に合わせて生活することが出来でしょう。でも、幼い頃に自分の意思が尊重され、自然の中で多くの仲間と自由な活動をいっぱい体験しながら育った子は、上から価値観や正解を押しつけてくる「学校」という場に違和感を感じてしまうようなのです。(これは学校や担任による違いも大きいので、個別の問題としてではなく、あくまでも「そういう傾向があるような気がする」ということです。)大人になって社会に出れば、そういう子の方が自分の人生を生き生きと生きることが出来ると思うのですが、少なくとも、先生に従うことだけを求められる「学校」という場では、自分の感覚や考え方を否定され続けなければなりません。また、便利で人工的な環境で育った子とは価値観も遊びも違うので、なかなか友だち作りも困難になります。私の友人がやっている幼稚園は子どもの意思を尊重した素敵な保育をしています。造形や表現遊びもいっぱいやっています。子どもたちもみんな素敵で、仲間の結束も強いです。でも、その子達が学校に行くと、なかなか学校の友だちとは遊べないようなのです。本質的に、遊びが異なっているからです。そのため、その幼稚園の子は、小学校に入っても同じ幼稚園を出た子の家に行って遊んでいる子が多いと聞きます。私はその子達の遊びの方が好きですが、でも、それ故に学校では浮いた存在になりやすいと思います。そういう状況のなかで、先生や友だちと何かトラブルが起きてしまうと、学校に行くのが困難になってしまう可能性も高いと思います。学校のように、上から価値観や正解を押しつけることが嫌いだから、子どもの意思を尊重する子育てをしたのに、かえってそのことが子どもを苦しめる原因になってしまうこともあるのです。でも、それでも私は子どもの意思を尊重した子育てを選びます。学校には適応していても社会に出てから途方に暮れる子よりも、社会に出てから一人の自立した人間として生きていく能力を育てる方が大切だと考えているからです。勉強でも、うちの長男が中学に入った時、愕然としたそうです。「英語は中学に入ってから学ぶもの」と思っていたのに、中学に入った段階で英語が出来る子がいっぱいいたからです。それで、「どうして英語の塾に行かせてくれなかったんだ」と子どもに文句を言われました。大分焦ったようです。でも、一年後には追いついてしまいました。焦っていたから良かったのかも知れません。勉強は「いつからやらせるか」ということよりも「本人の自覚」の方がズーッと大事なんです。でも、この問題は非常に難しいです。デリケートな感受性を持った子の場合は、学校を卒業する以前に、心をズタズタに傷つけられてしまうこともあるからです。ですから、その学校が「我が子に害のある場所だ」と感じたのなら、取り返しが付かない状態になる前に、「行かせない」とか「引っ越す」という選択肢も覚悟しておいた方がいいと思います。
2016.11.12
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茅ヶ崎でやっている「ポランの広場」という2,3才児とお母さんが一緒に遊ぶクラスの生徒を募集しています。チラシは「ここ」にあります。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。楽しいですよ。***********今日は金沢八景の方のプレイパーク関係のお母さん達が企画して下さった連続ワークの二回目で、「からだのワーク」をして来ました。(一回目は「粘土のワーク」でした。)人は、二つの「自分」を生きています。一つは「意識が作った自分」です。もう一つは「からだの中の自分」です。そして、この「二人の自分」は必ずしも同じ想いではありません。「意識の中の自分」には意識が作った「想い」があります。そして人はその「想い」は自覚出来ています。一方、「からだの中の自分」は過去の体験記憶や、自分の生命を支えている生命活動や、DNAの働きになどよって作られています。そして、その「からだも」また「意識の中の自分」とは異なった「想い」を持っています。でも、「意識の中の自分」はその「からだの中の自分」の想いを知りません。だから、「頭では分かっているのにからだが動かない」などということが起きるのです。「学校に行きたいのに行けない」という子の状態はそのようにして生まれています。お母さんが子どもに「ああしなさい」、「こうしなさい」と言えば、ある程度の年齢の子なら頭では理解出来ます。「やらなければ」と思ったりもするでしょう。でも、思春期前の子どもの行動は「からだの中の自分」に支配されているので、「意識の中の自分」ではどうしようも出来ないのです。「行きたい」と思っているし、「行かなければ」とも思っているのですが、肝心の「からだ」が動きたくないので動けないのです。それで自分で自分を責め、苦しみます。自己肯定感も下がります。思春期以降になると、自我の働きが強くなるので、社会的な行動に関しては「意識の自分」が「からだの自分」の行動をコントロールすることが出来るようになります。でも、それが「からだの自分」の本意とは異なるものなら、「からだの自分」の不平や不満がからだの中にどんどんと溜まっていきます。そして、感覚を萎えさせ、思考力や判断力を低下させ、からだを固くし、心やからだの不調を作り出したりします。時には、不登校の子どものようにある日突然「からだ」が動かなくなります。感覚や感情が動かなくなることもあります。そうなると治すのはなかなかやっかいです。ですから、普段から「からだの中の自分」の声に耳を傾け、「からだ」と仲良くしておいた方がいいのです。でも、現代人は「からだを使わない生活」をしているので、「からだの声」を聞く機会があまりありません。また、幼い頃から「からだ」と対話することなく育っているので、からだの声を聞く能力自体も育っていません。そのため、「からだ」が「今日は動きたくないよ」と悲鳴を上げていても、それを「自分の心の弱さ」として否定し、無視してしまいます。だから、どんどん苦しみの泥沼に入り込んでしまうのです。今日やった「からだのワーク」では、そんな「からだの声」に耳を澄ましてみるという体験をしてもらいました。ご興味のある方は仲間を集めてお呼び下さい。日本全国どこへでも行きます。
2016.11.11
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私は色々なことを書いていますが、別に「これが正解だ」ということではなく、「こういう考え方、こういう感じ方もありますよ」ということですからね。基本的に人の意見はあまり信じない方がいいです。でも、色々な人の言葉に耳を傾けることは大切です。なぜなら、人は自分とは違う考え方や、考えたこともなかった考え方に耳を傾けることで、「自分の考え」の幅を広げることが出来るからです。「正解」を求めて人の話を聞くのではなく、自分の考え方や視野を広げるために人の話しを聞くのです。人の話に「正解」を求める人は、人の話の中に出てくる「正解」に縛られどんどん不自由になります。でも、自分の考え方や視野を広げるために人の話しを聞いている人は、それを「正解」としてではなく「ヒント」として聞いているだけなのでどんどん自由になります。以前、ワークで「イヌ派」と「ネコ派」に分かれて、それぞれのグループの人に「どうしてイヌ(ネコ)が好きなのか」「イヌ(ネコ)のどんなところが素晴らしのか」ということを自分とは違う好みの人に説明してもらいました。好き嫌いは感覚的なものなので、好きだからといっていちいち「好きな理由」を自覚しているわけではありませんが、それを自分なりに考えて説明してもらったのです。そのことで「好きな人」は「自分が好きな理由」を自覚することが出来ます。それはまた「自分を知る」ということでもあります。また、「嫌いな人」は、「好きな人」の話を聞いて「こういう見方」や「こういう感じ方があるんだな」ということや、自分が知らなかった「イヌ(ネコ)の特徴」を知ることも出来ます。すると、それまでは「嫌いだからよく見なかったイヌ(ネコ)」に対しても、「好きな人の目線」で見ることが可能になることが出来るようになります。だからといって好きになるとは限りませんが「イヌ(ネコ)」に対する印象は変わると思います。これはドキュメンタリー映画などを見ている時にもよく起きる現象で、「オオカミに追われるウサギ」の目線でウサギを扱えば、ウサギのことがよく分かり、ウサギを応援したくなります。そして、「オオカミは悪者だ」という印象を持つかも知れません。でも、同じ出来事を、今度は「飢えているオオカミ」の目線で扱えば、また違ったものが見えて来るかも知れません。もしかしたら、そのオオカミには「おなかをすかした子ども」がいるかも知れません。そうなると、ウサギを追いかけるオオカミに「ガンバレ」と応援してしまうかも知れません。これは戦争映画などでも同じで、クリント・イーストウッドはそのような視点で二本の戦争映画を作りましたす。一つはアメリカ側からの視点で「父親たちの星条旗」を、もう一つは日本側からの視点で「硫黄島からの手紙」です。これらの映画では「どちらが正しい」ではなく、「あのとき何が起きたのか」という事実だけを映像化しようとしています。こういうことを知った上で、戦争に対する判断をすると、より冷静な判断が出来るようになるでしょう。日本だけを美化した作品、アメリカだけを美化した作品は、それぞれの国民に感動をもたらすかも知れませんが、同時に相手の国に対する無知と誤解を生じ、次の戦争への準備になってしまう可能性も否定出来ません。でも、間違いなく中立的な映画はヒットしないでしょうね。スポーツを見ていて興奮したり感動したりするのは一方を応援しているからです。「あっちのチームにもいいところも悪いところもある、こっちのチームにもいいところも悪いところもある」などと考えながら見ていたらちっとも興奮しないと思います。でも、そういう見方をしないことには「平和」は作り出せないのです。私はスポーツを見ていても全く興奮しないのですが、「そういうことなんだな」と最近その原因が分かってきました。どうも私は、一方だけを応援することに違和感を感じてしまうのです。*******茅ヶ崎でやっている「ポランの広場」という2,3才児とお母さんが一緒に遊ぶクラスの生徒を募集しています。チラシは「ここ」にあります。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。楽しいですよ。
2016.11.10
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日曜日に、茅ヶ崎の友人と一緒に、筑波山の麓に住んでいる友人の所に行って芋ほりをしてきました。毎年、10月か11月に行って大量の芋をもらってきます。それで教室で焼き芋大会などをしています。夜は、庭で焚火をバンバン焚いてバーベキューをするのですが、その食材は車を飛ばして30分ぐらいの所にある大きなスーパーに買いに行きます。ちなみに、周囲数百メートル圏内に隣の家はないので焚き火をしても苦情は来ません。昼食後、茅ヶ崎の友人とその食材を買い出たのですが、毎年行っているお店なので今年はちょっと違う道から行ってみようと思い、初めての道にチャレンジしてみました。するといつまで経っても「いつもの道」に出ません。太陽の位置と、見慣れた山を目印に大体の方角を決めて走っているのですが、どんどん違う方向に来ているような感じなんです。周囲は、畑と林ばかりで家もないような所です。「友人がこっちだと思う」と言うのでそっちに走ってみると、明らかに「こっちは違う」という状況になってしまったり、「こっちかも」と走っているとどんどん細い道に入って行ってしまったり、ということを何回も繰り返しました。ちなみに車にナビはついていません。スマホは持っていましたがそれに頼るのは最後の最後にしていました。でも、私も友人もそんな状況が好きなので、ケタケタ笑いながら、あっちかな、こっちからと冒険しながら長い旅をしました。それはそれで面白かったのですが、どうしても訳が分からないところまで行ってしまったので、仕方なく友人に「今、○○工務店の前にいるんだけど」と電話しました。周囲には家がないのに、ポツンと一軒だけ無人のお店があったのです。すると友人は「太陽に向かって走れ」と言いました。それを聞いた私たちは「えー、なんだその説明は」と思ったのですが、彼を信じて太陽に向かって走りました。するとしばらくすると知っている道に出ました。恐るべき野生の勘です。ちなみにその友人はアフリカやアジアなどを何年にも亘って旅をしていた男です。でも、知っている道に出た途端、感覚は鈍くなり、観察力は低下し、ハラハラ、ドキドキ、ワクワクは失われ、それまで光っていた景色も普通の景色になってしまいました。私は迷子になるのが好きです。痴呆になったらきっと徘徊を楽しむと思います。知らないところに行くと感覚が研ぎ澄まされます。細かい観察力が働くようになります。意識がはっきりとしてからだ全体の感覚が目覚めます。すると、周囲の景色が生き物のように見えてくるのです。その感覚が好きだからバックパッカーになったのかも知れません。また、大企業には就職せず、自分で仕事を作ってきたのかも知れません。パリにいた頃、電車で「行き先を決めない旅」に出たことがあります。一番安いチケットだけを買って電車に乗り、なんとなく気に入った駅に着いたら降りるのです。そして、ウロウロと歩き回ります。すると迷子になります。その途端、冒険が始まるのです。そうやって気付いたこと、発見したことはズーッと忘れません。35年も前のことですが、いまだにその村の風景を覚えています。その後、日本に帰ってから数年して結婚して子どもが生まれたのですが、子育てでも、本からの知識に頼ることなく、子どもから学ぼうとしました。その方が絶対に面白いと思ったからです。私は、そうやって「子どもから学んだこと」を皆さんにお話ししています。知識を得てから子育てをしてしまうと、その「知識」と「目の前の子ども」を比較ばかりしてしまいます。すると、目の前の子どもの心やからだを感じる感覚が萎えてしまいます。また、「うまく行っているか行っていないか」ということばかりを気にするようになり子育てを楽しむことが出来なくなってしまいます。先入観で子どもを見てしまい、ちゃんと子どもと向き合うことも出来なくなってしまうので、子どもとの人間関係作りも難しくなってしまいます。ただし、「知識」は自分が発見したことの意味を知り、整理するためには必要です。ですから本もいっぱい読みました。その過程でシュタイナー教育とも出会いました。でも、本に書いてある知識で子育てをしたことはありません。そんなことをしても何にも楽しくないからです。
2016.11.09
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先日「子どもの遊びの中には人間の全ての活動の要素が種の状態で含まれている」という事を書きましたが、まだ文明に依存する前の素朴な生活の中にも同じように「人間の全ての活動の要素」が含まれていました。現代社会では芸術も、学びも、歌も、踊りも、作ることも、育てることもみんな「専門家の仕事」になり、普通の人の生活からは切り離されてしまいましたが、本来はそういうものは全て普通の人の生活の一部だったのです。でも、社会全体が経済活動によって支えられるようになると、それを専門にやる人達が現れ、お金と引き替えにその技術を提供するようになりました。そして専門化することで、様々な分野のレベルも上がりました。でも、人々はそれをお金を出して買わなければならなくなりました。確かに、お金さえ払えば自分がやるよりももっと素晴らしいものを得ることが出来るようになったのですが、その代償として、普通の人達がその活動を通して得ていた喜びや、楽しさや、心やからだの育ちや、想像力や創造力を育てる場を失いました。また、歌なんかどこでも歌えるのに、わざわざ「カラオケ」という所に行って、お金を出して歌わせてもらうのが普通になりました。そして、「楽しいこと」を得るためにはお金が必要になってしまったため、みんな「労働を提供してお金をもらう人」として生きるようになりました。その結果、労働は「苦痛」になり「喜び」を生み出さなくなりました。そして、「自分」を失いました。宮沢賢治も「農民芸術概論綱要」の中で似たようなことを書いています。言葉は難しいですがご興味のある方は是非ご覧になって下さい。私がまだ幼い頃には、道路を工事している人達は 父ちゃん(おとちゃん)のためなら エンヤコラ 母ちゃん(おかちゃん)のためなら エンヤコラ もひとつおまけに エンヤコラと歌いながらみんなで息を合わせて仕事をしていました。(よいとまけの歌)田植えでは「田植え歌」が歌われていました。子どもが友だちを誘いに行く時も「○○ちゃん、あそーぼ」と節をつけて家の外から呼びかけました。遊びにも歌が付いていました。お年寄りの人達は、自分の着物をほどいてただの布状態にして洗い、また縫い直して着ていました。その洗った布を長い板に貼り付けて乾かしていたのですが、私が住んでいた家の前に、よくその布が貼り付けられた板が並べておいてあったことを覚えています。つまり、昔は着物を縫う技術は専門家だけの技術ではなかったということです。セーターが伸びるとそれをほどいて編み直しました。私も子どもの頃は「いーとまきまき」と毛糸をほどくのを手伝いました。両手を前に出してそこに毛糸を絡めていくのです。いまでも編み物が好きな人はいますがそれは「趣味」です。それに対して、昔はご飯を作るのと同じ「生活の技術」だったのです。どの家にも普通にトンカチとノコギリがあり、家の修繕をしたり、子どもの勉強机程度ならミカン箱で作ってしまっていました。「貧しかったから」と言ってしまえばそれだけのことなんですが、そのような生活の場での多様な活動や体験が「子どもの遊び」にも反映され、「子どもの遊び」にも多様性をもたらしていたのです。だからといって現代社会でこのような生活をするのは不可能に近いです。でも、「子どもとの遊び」として可能な範囲で取り入れることは可能です。また子どもも、機械やお金に頼らない生活の方が楽しいのです。お風呂場で洗濯板でお洗濯をすることも出来ます。電気掃除を使わす、ホウキやチリトリやハタキでお掃除することも出来ます。でも、保育園や幼稚園といった保育の現場の方がこういう活動は取り入れやすいと思います。お稽古や趣味や教育として、歌ったり、踊ったり、作ったり、学んだりするのではなく、生活の一部としてそういうものを楽しむのです。そういう「生きるということの原点」を知った後で機械を使うのならいいのですが、そうでないと「命の原点」や「文明の問題点」が見えなくなってしまうのです。最近の子は火の怖さを知りません。(プレーパークに行っている子は別ですけど)ですから焚き火や花火をすると、平気で付近の枯れ葉にも火をつけて回る子がいます。花火を人に向ける子もいます。ランタンもLEDのものしか知らないので、ガスやガソリンタイプのランタンに触って火傷をしてしまう子がいます。扇風機を知らないので、扇風機に指を突っ込む子もいます。木製のジャングルジムが燃えて男の子一人が亡くなってしまうという事件がありましたが、そのニュースに関係してテレビの番組で大学生達に「白熱灯って知ってる?」と聞いていましたが、驚いたことに「白熱灯」を知らない子がいっぱいいるのです。当然そういう子は白熱灯が熱を持つことも知らないでしょう。「便利」は色々なレベルでの「危険性」をその内側に含んでいるのです。原発でも自動車でも携帯電話でもゲーム機でも同じです。でも、不便を知らない人にはその危険性が見えないのです。
2016.11.08
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人間は「つながり」の中でないと「生きること」が出来ません。「からだ」が育つことも、「心」が育つことも出来ません。「人間らしさ」や「人類が積み上げてきた宝物」を受け継ぐことも受け渡すことも出来ません。その「つながり」は「つながりを支えるもの」によって支えられています。「つながりを支えるもの」がない状態では人と人はつながることが出来ないのです。その「つながりを支えるもの」には様々なものがあります。「言葉」や「宗教」や「文化」や「風土」も人と人をつないでいます。「遊び」や「仕事」も人と人をつないでいます。「歌」や、「踊り」や、「物語」も人と人をつないでいます。「安全」や、「敵」や、「食料」や、「政治」も人と人をつないでいます。ですからその「つながり」の全部を列挙することは出来ません。でも、私たちの生活が豊かに、便利になるにつれて、それらの「つながり」が非常な勢いで崩壊し始めました。それは、子どもの成長においても、「そのつながりの中で育っていたもの」が育たなくなってしまったことを意味しています。高度経済成長と共に、核家族化が進み「祖父母などとのつながり」が弱くなりました。そのためか、最近は「お年寄り」を見て「気持ち悪い」と感じたり、年寄りを馬鹿にする子も増えてきたようです。(年寄りだけでなく大人を馬鹿にする子も多いです。)それとともに地域の流動化が起き、「地域」や、「地域に伝わってきた文化」などを通しての「つながり」も弱くなりました。ライフスタイルの変化や、テレビやゲームや様々なオモチャの流通に伴い、子どもたちの遊びが個人化して、群れが消え、「仲間とのつながり」も弱くなりました。家庭の中に便利な機械が入り込み、お母さんは子どもの「お手伝い」を必要としなくなりました。そのため、「日々の生活」を通して伝えられてきた「価値観」や、「言葉」や、「からだの使い方」や、「日本人としての文化」や、「地域の文化」なども消えました。また、生活を伝える過程で生まれていた「お母さんと子どものつながり」も消えました。その結果子どもは、自分自身の「アイデンティティー」を形成することが困難になりました。精神的な「根無し草」になってしまったのです。だから「自分探し」などが流行るのです。最近の母さんは「自分が受け継いだものを伝える人」ではなく、単に「お世話をする人」になってしまっています。例えは悪いですが、「現代のお母さんがやっていること」と、「動物園の飼育係がやっていること」にはそれほど大きな違いはありません。現代の「お手伝い」は、「子どもの育ちや生活に必要なものを伝える」というよりも、「しつけ」(調教)的な意味合いが強くなっています。お母さん達は「便利な機械」のおかげで暇になったはずなのに、それを「子どもと一緒の時間」に回すようなことはせず、「自分のための時間」として使おうとしています。また、「一緒の時間」に使おうとしても、子どもとどのように時間を過ごしたらいいのかが分かりません。そして、多くのお母さん達が「知能の育ち」や、「肉体的な育ち」や、「よい子に育てる」ことだけを子育ての目標にしています。でも、実際にはそのようなものの多くは「つながりを通して伝わるもの」なので、「つながり」がない状態の中では大人がいくら一生懸命に教えようとしても、子どもは心の中に受け入れることはしません。その結果、「子どもの育ち」にはつながりません。子どもたちは、「大人が押しつけるもの」は「大人がいる場」でしか通用しないことを知っているのです。現代の「子育て」とか、「子どもの遊び」とか、「保育園」、「幼稚園」というようなものの意味や役割を考える時には、このような時代背景までも考える必要があるのです。時代や社会的な状態は変化しても、子どもの遺伝子に書き込まれた「成長のプログラム」や、「その成長に必要なもの」は変わっていないからです。社会は急激に変化しましたが、遺伝子は何万年も前から変化していないのです。子どもたちに「昔の子ども」のように遊んでもらいたいと思い、子どもを大勢集めて森などに連れて行き「自由にしていいよ」と言っても、それだけでは「昔の子どもたち」のような群れにはならないし、一緒に助け合って遊ぶことも、創造的な遊びもすることも出来ないのです。ただ、2,3人の「気の合った仲間」と「同じ事をする遊び」を繰り返すだけです。「受け継いだもの」がないので、そこから発展することがないのです。子どもたちは「大人とのつながり」の中で得たものを通して、仲間ともつながろうとするので、「大人とのつながり」を失った子どもたちは、仲間ともつながることが出来ないのです。子どもたちが生活の中で大人から学んだ、「言葉」や「思いやり」や「ルール」や「物語」や「道具の使い方」なども、「仲間と仲間をつなぐもの」として働いていたのです。お母さんや大人との毎日の生活が子どもの遊びを支えていたのです。そして、その「家庭での生活」と「保育園や幼稚園の生活」が補い合うような形で支え合う時、子どもの成長を支える力になるのです。でも最近、連続して二度も首を傾げざる終えないような質問を受けました。それは、「私は子育てにも自分自身にも自信がないし、子どもの育て方も分からないので、そういうことは保育園や様々な専門家に任せた方がいいのでしょうか。子どもが、私に似てしまうことを避けたいのです。」というような質問です。「だから、普段は子どもにあまり関わらないようにしています」とおっしゃる人もいました。ここまではっきりと言う人は少ないですが、でもこれは、最近の多くのお母さんが感じていることでもあります。「しつけ」を幼稚園や学校に任せたがる親も多いと聞きます。そのような状況で育っている子を、ただ自由にさせるだけの保育で育てたらどういうことになるのでしょうか。また、「教え込む」という方法で保育をしたらどういうことになるのでしょうか。現代の保育では、家庭の中で抜け落ちてしまったことまで配慮しながら子どもと関わる必要があるのです。家庭を変えるのは困難ですが、保育の場を変えることは可能だからです。私は現代の保育園や幼稚園のあり方として、「遊ばせるだけ」「教えるだけ」ではなく、「様々なことを伝えるための生活」も取り入れる必要があると考えています。「共同保育」や「森の幼稚園」といった活動でも、工夫次第で取り入れることが可能だと思います。生き物や野菜などを育てることも生活です。お料理を作ったり、お掃除をすることも生活です。歌ったり踊ったりも生活です。(「歌わせる」、「踊らせる」ではありませんからね。)絵を描くことも、お話を聞いたり、わらべ歌をしたりすることも生活です。何かをみんなで作ることも生活です。そこで大切なことは、そういうことを「やらせる」のではなく、「日常の生活の一部として楽しむ」ということです。今では「芸術」と呼ばれているような特別なことでも、最初はみんな「生活の一部」として生まれたものなんです。お料理も、お掃除も、お絵描きも、踊りも、演劇も、みんな同じ原点から生まれたものなんです。その原点を取り戻すのです。そして、園や子どもたちのグループを、一つの「生活文化圏」「共同生活」の場にするのです。「遊び」はその中の一要素に過ぎません。そこでは「大人」は重要な要素になります。「大人」がいるから生活が成り立つのですから。そして、こういうことは英語や、体操や、文字を教えることよりももっともっと重要なことなんです。もうすでにそういう保育をやっている所もいっぱいありますが、一般的ではありません。特に、都会には少ないと思います。都会には、「生活」よりも「英語」や、「体操」や、「文字」を教えることの方が大切だと考えている人が多いからなのでしょうか。
2016.11.07
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教室で20キロの粘土の塊をドンと置いて「自由にしていいよ」と言うと、自由保育の保育園や幼稚園に通っている子どもたちは「やったー」と言って飛びつき、グチャグチャ始めます。でも、しつけやお勉強に熱心な保育園や幼稚園に通っている子は戸惑い「何を作ったらいいの」と聞いてきます。それで「好きなものを作っていいんだよ」と言うと、お茶碗など「意味があるもの」を作ろうとします。正解がないと行動出来なくなってしまっているのでしょう。全員が同じように反応するわけではありませんが、そういう傾向が強いように感じます。と、これだけ読むと自由保育の保育園や幼稚園に通っている子の方が自由なように思えますが、話しはそう簡単ではありません。自由保育出身の子には、いつまでもグチャグチャ状態から抜け出すことが出来ない子が多いからです。いつまで経っても「形」が生まれてこないのです。そのような子は他の造形でも「形」を生み出すことが困難です。遊ぶのは好きなんですが作れないのです。私が見本として作ってある「遊べる工作」ではよく遊ぶのですが、「それが気に入っているのなら作ってみようよ」と言うと「いらない」という返事が返ってきます。そして、「こういうものを作ってみない」とか「こうした方がいいよ」などと提案すると「ぼくの自由にさせて」と言い返してきます。でも、「自由にさせて」と言うだけで、ズーッと同じ状態のままで前に進んでいけないのです。でも、造形は自分勝手にやるだけでは形が生まれません。粘土でも、椅子を作るのでも、輪ゴム鉄砲を作るのでも同じです。それなりの技術が必要なんです。そしてその技術は、造形体験が少ない子どもが自分の頭で考えても見いだせるようなものではありません。そのため、すぐにどうにもならなくなってしまうのですが、すると「もう止める」と中途半端な状態で放り出します。「自由」は大好きなんですが、「自由の使い方」が分からないのです。大人とのコミュニケーションも苦手です。言葉による理解能力も低いのか、説明しても反応が弱いです。それと、10年くらい前までの子は、作るものを探すのに造形の本をよく見ていましたが、最近の子は何を作ったらいいのか分からないと言いながら、ほとんど本は見ません。また、本を見ても全く理解出来ない子が多いです。字は読めるのですが理解出来ないのです。最近の子は、昔の子よりも本を読んで理解する能力が低いように感じます。もちろんそうでない子もいます。でも、どちらのタイプの保育を受けた子でも、こういう子がすごく増えてきました。大人の指示に従って行動することを求められている保育園や幼稚園の子は、大人と会話するのは比較的得意です。大人の説明にもちゃんと耳を傾けるので造形でも「上手なもの」を作ることが出来ます。でも、自由に作ることが出来ません。また上手に作れても楽しそうではありません。子どもを自由にさせるだけの保育も、子どもを指示命令だけで管理する保育も何かが足らないのです。私はそれは、「子どもと大人の人間的な関わり合い」と「心のつながり」だと思っています。「縦のつながり」が作れていないのです。だから「横のつながり」を作ることも困難なんです。そしてこれは、保育園や幼稚園だけの問題ではなく現代社会全体の問題だと思います。
2016.11.06
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木曜日は「気質の一日ワーク」をしたのですが、最初にいらした男性が扉を開けて開口一番に言ったのが、「椅子がないんですね」という言葉でした。そう、基本的に私のワークでは机も椅子も使いません。自由が失われてしまうからです。でも、この男性だけでなく、結構多くの人が机や椅子がないと戸惑ってしまうようです。普通、私は参加者が集まる前から会場にいますから、参加者が扉を開けて入ってくるところからその反応や行動を観察しています。そして、机や椅子がある場合はみんな当たり前のように場所を選び、座ります。そこに戸惑いは感じません。でも、何にもない会場だと入り口で一瞬固まってどうしようかと考えてから入ってくる人が多いのです。そして、あまり奥の方には入って来ずに、いわゆる「壁の花」状態で、入り口付近の壁のあたりに立ったり座ったりしている人が多いです。そして指示を待っています。時には、人がいるいないに拘わらず、平気でズカズカと奥の方にまで入ってくる人もいますが、胆汁質が強いかワークに慣れている人以外ではそういう人は少ないです。その時、人がいるところを選んで行く人もいれば、人がいないところを選んで行く人もいます。憂鬱質が強い人は人があまりいないところを選ぶ傾向があります。でも、憂鬱質でも、胆汁質でも、粘液質でも、多血質が強く混ざっているような人は群れたがります。粘液質が強い人は窓の近くを選ぶ傾向があります。一人でも気にしません。胆汁質が強い人は壁からも人からも離れた場所を選びます。と言っても、あえてそういうものから離れた場所を選んでいるのではなく、最初からそういうものには関心がないのです。このように、自由に考え、行動できる場ではその人の気質が見えやすくなるのです。そのためそういう指摘をして上げると、自分の感じ方や、考え方や、行動の仕方に対する傾向を知ることが出来ます。それが自分の気質の理解につながります。でも、座るべき場所や「やるべきこと」が決められているような場所や状況では、人は自分の気質ではなくその場のルールに従って行動してしまいます。そして、相手や場の要求に合わせて感じ、考え、行動しようとします。その時、胆汁質の人は「その場のルール」に従っていることに窮屈感を感じますが、そのほかの気質の人はルールがあることで安心感を感じます。そしてこれは多くの日本人が持っている感覚です。お母さん達も、忙しい忙しい、大変だ大変だと言いながらも、実は「やるべきこと」が決まっていることで安心感を得ているのです。だから、愚痴を言うだけで本気でその状態を変えようとはしないのです。「子育て」にも「家事」にも正解はありません。だから本当はもっと自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、もっと自由に子育てをしてもいいはずなんです。というか、子どもは一人一人違うので、自由に感じ、自由に考え、自由に工夫しないことには子育てなんか出来るわけがないのです。また、そのように子育てをしてもいいのです。それなのに多くの人が正解を求めています。また、誰が決めたか分からない「母親としてやるべきこと」に束縛されています。だから「苦しい」と感じているのでしょうが、でも、その状態は自分で選んで、自分で作っているのです。目の前には広々とした世界が広がっているのに、「知らない世界は怖い」「どうしていいのか分からないから怖い」と言って、壁際にうずくまって動ごかず、「狭い」、「苦しい」などと言っているようなものです。子どもはその広い世界の住人です。その広い世界の中で自由に行動しながら自分の可能性を広げ、世界との関わり方を学び、命の世界を発見しています。でも、お母さんは「自分で作った自分の砦」から出てくることが出来ません。出ようと思えばいつでも出れるのですが、「自由な世界」が怖いので出て行けないのです。そのため子どもの方をその自分の砦の中に閉じ込めようとします。そして、「外の世界は怖いんだよ」と教えます。恐怖心で子どもの行動を支配し、お母さんの砦の中から外に出ていかないようにするのです。その結果、子どももまた「自由で広い世界」を怖がるようになります。でも、逆にお母さんの方が子どもに合わせるようにすれば、その狭い砦から出て、自由な世界に出ていくことが出来るのです。すると子育てが日々発見の連続になり、「楽しいもの」に変わります。ただし、これをするためにはご主人の理解も必要になります。もしかしたら、これが一番難しいかも知れません。でも、そのご主人も「自分が選んだ人」ですよね。都知事の小池さんの言葉ではありませんが、「出来ない理由」を探すのではなく「どうやったら出来るのか」を考えるのです。そしてそれは誰にでも出来ることです。それをしようとしない人は自分で今の状態を選んでいるのですから、愚痴や文句を言わずに。今の状態を肯定的に受け入れることです。苦しくても、それは自分で選んだ生き方なんですから。自分が子どもの頃の出来事のせいにはしないことです。
2016.11.05
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昨日「森の中で何もしないワークをやりたい」と書いたら、反響が大きくてびっくりしています。そういうワークを、もうすでになさっているという方からも連絡が来ました。しかも二日ががりで。(すみません。そのメッセージに返事を送ろうと携帯をいじっていたら、間違ってメッセージを消してしまい、返事を書くことが出来ません。申し訳ありませんがもう一度ご連絡願えませんか。)私のワークの対象は、今までズーッと「子育て中のお母さん」がメインでした。気質のワークそれ自体は「子育て」とは直接つながってはいませんが、それでも「子育て」と関係づけて説明することが多いです。そのため、「森の中で一人で・・・」というワークは、想いとしてはありましたが、実際には企画したことがありません。子育て中のお母さんには参加することはほぼ不可能だからです。私がそういうワークを考えるようになったきっかけは、30才の時にバックパッカーで一年近くヨーロッパやインド周辺を歩き回っていた時の体験からです。バックパッカーには「やらなければならないこと」は何もありません。時間も行動も自由です。どこに行くのか、何日そこにいるのかということも自由です。何もしなくてもいいし、何かしてもいいのです。そういうことは全部自分で決めるのです。スペインが一番長くて半年いました。マドリッドでアパートを借りて三ヶ月、後の三ヶ月は、地中海に面したアリカンテというところの近くにある「olla de altea」というところでは冬場は使っていない地中海に面した別荘を友人と一緒に借りて住んでいました。何をしていたのかというと、毎日絵を描いていました。油絵です。屋外にイーゼルを立てて、一日中同じ場所で同じ風景を描いていました。幸せな時間でした。その別荘があったのは小さなスーパーマーケットが一軒だけある小さな村でした。周囲にはアーモンド畑がいっぱいあって、春には桃や杏と似た花を咲かせていました。そんな田舎町にいる時のことですが、ある時嵐が来て停電になりました。でも私は日本人の感覚で、1,2時間程度で復旧すると思っていました。でも、1,2時間経っても復旧しません。一日経っても、二日経っても復旧しません。やっと復旧したのは三日後です。最初のうちは今か今かと待ち続けたのですが、そのうち諦めました。すろと電気がないのが日常になりました。そのころ電気が復旧しました。その後、スペインを出て、フランス、イタリアと通って船でギリシャに行き、そこから飛行機でインドのボンベイ(今のムンバイ)に行きました。インドでは絵を描かずに、ただ、「インド」を体験しようと思っていました。それで、何にも考えずに自由に飲み食いしていたら、手痛いインドの洗礼を受けることになりました。「下痢」です。その結果、トイレから10m以上離れることが出来なくなりました。それが一週間続きました。その一週間、日中は誰もいなくなったホテル(サルベーションアーミー)のロビーで、椅子に座ったきりの状態で、一人っきりで過ごしました。意識はボーッとして半分トリップ状態です。そこはインドですから、エアコンなどありません。一日中窓は全開状態です。窓のすぐ外にネムノキの巨木があって、満開でした。色々な鳥がロビーの中に入ってきて床を歩いていました。(インドらしいでしょ)外からは物貰いが演奏する寂しい音楽と賑やかなクラクションの音が聞こえました。その時、食べることが出来たのは果物だけでした。一週間、少量の果物だけを食べ、椅子と一体化して過ごしていました。(多分この時、10キロ近く痩せました。)すると、意識や感覚が変わって来ました。「次は何をしようか」と考えなくなりました。そして、ただ「今」「ここ」だけを感じるようになりました。すると色々なものが見え、色々なものが聞こえ始めました。それまでも見えていたし、聞こえていたのですが、「見え方」、「聞こえ方」が変わって来たのです。「目」で見て「耳」で聞くのではなく、直接魂に響いて来るような感じで見えたり聞こえたりするようになったのです。露天で売っていたり、道ばたに落ちていたマリーゴールドの花が、内側から光って見えるのです。町中を歩いている時に突然ジャスミンの匂いがツーンと脳天に響くのです。物乞いの音楽が心に響くのです。ちなみに「ガンジャ(大麻)」はやっていませんからね。もしかしたら、下痢と「インド」という雰囲気が麻薬的な働きをしたのかもしれません。その後、電車に乗って旅をしていましたがインドの電車はよく止まるのです。でも、何のアナウンスもないので理由が分かりません。どの程度で走り出すのかも分かりません。車内は満員状態です。(いつも一番安い電車しか乗っていなかったので・・・)その日も突然止まりました。でも、私は日本人感覚ですぐに動くだろうと思っていましたが、10分経っても、20分経っても動きません。イライラして何回も何回も時計を見ました。全く不思議なことに、急ぐ旅ではないのに時間が気になってしょうがなかったのです。一時間経っても動きません。それなのに何のアナウンスもありません。幸いにも私はギュウギュウの中でも座ることが出来ていたのですが、車内は満員状態です。「周囲のインド人達もイライラしているのかな」と見ていたのですが、何事もないかのようにお話をしているだけです。そんな状態だったので「これがインドなんだ」と、一時間が過ぎる頃には諦めました。すると、窓の外で木陰で寝そべっている牛が見えるようになりました。頭に荷物を載せて運んでいる女性達が見えるようになりました。犬や豚も、丘や空も見えるようになりました。それまでも見えていたのかも知れませんが、急にその情景が心に響いて来たのです。そして「ああ、インドだ」と思いました。「からだ」はインドに来ていたのに、まだ「心」がインドにはたどり着いていなかったのです。その時、「心」もインドにたどり着きました。そんな体験があったので、「何もしないワーク」をやってみたかったのです。
2016.11.04
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実現出来ないと思いますが、でもやってみたいワークがあります。それは、「森や自然の中に入って、直径1mの円を描いて、一人だけで一時間、そこでジーッとしている」というワークです。(本当は丸一日かけてやりたいですけど・・・)何もしません。ただジーッとしているだけです。他の人は、その人から見えないところで同じようにします。そして、後でみんなで集まって、「何が見えたか」、「何が聞こえたか」、「何を感じたか」、「何を考えたか」、「何を発見したのか」、「何に気付いたか」などということを話し合います。どうしてそういうワークをやりたいと思っているのかというと、頑張っている人や、忙しい人や、苦しみの中にある人や、どうしていいのか分からなくなってしまっている人は、この「見る」「聞く」「感じる」「考える」「発見する」という働きが止まってしまっているからです。まただから、工夫も出来ないし、楽しくもならないのです。どんな人でも、人は常に無意識のレベルでは見ているし、聞いているし、感じているし、考えているし、発見もしています。でも、意識が目先のことを処理することばかりに占有されてしまっている人の場合は、その無意志の世界で起きていることが意識に働きかけることが出来ずに、そのまま消えて行ってしまうのです。そのため、何を見ても、何を聞いても、何を感じても、それが感じ方や、考え方や、行動の変化につながっていかないのです。それがいわゆる「見えているのに見ていない」「聞こえているのに聞いていない」という状態です。だから、一度その状態になってしまうと、自分の世界に閉じ込められてしまい、なかなか抜け出すことが出来ないのです。子どもが泥団子を持って「ママ見てー」と持ってきた時に、その時の笑顔ではなく、「泥んこで汚れた洋服」だけを見ようとする人がいます。家事に追われているとそういう状態になってしまうのです。無意識では見えているのです。ですから、「その時お子さんはどんな表情でしたか」と聞かれれば、「笑っていた」と想い出すことも出来ます。でも、家事に追われていると、その笑顔にも腹が立つのです。それは「笑顔は見えていても笑顔として感じていない」ということでもあります。そんなお母さんでも、何か不幸があって子どもが亡くなったりすると、その笑顔を笑顔として想い出すのです。そして、自分を責めます。「自分が知っている自分の心」にはその笑顔は残らなくても、「自分が知らない自分の心」にはしっかりと残っているからです。目先の出来事から解放されると、その「自分が知らない自分の心」の声が聞こえ始めるのです。「見えていたのに見ようとしていなかったもの」が見え始めるのです。このワークにはそのような働きがあるのではないかと思っています。人間の心は重層的に出来ています。自分が知っている「自分の心」は、その「層になっている心」の「上から見える部分」だけです。自分の心なのに、人は表面的な部分しか「自分の心」のことを知らないのです。そして、その「表面の心」に束縛されています。思春期の子どもが、本当はお母さんやお父さんが大好きなのに、その「本当の心」に気付かず「クソじじー」、「クソばばー」と言って反抗してしまうのもそのためです。その重層的になっている心を一枚一枚剥いでいくワークもあります。「神様が何でも願い事を叶えてくれるとしたら、何を願いますか。」と聞きます。すると、最初は「旅行に行きたい」とか、「眠りたい」とか、「美味しいものをいっぱい食べたい」などと言います。それで、「その願い事が叶ったとしたら次に何を望みますか」と聞きます。それを何回も繰り返していくのです。すると、次第に普段意識していなかったような願いが出てくるのです。より自分の深いところとの対話を始めるからなのでしょう。
2016.11.03
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では、「今、嫌々やっている家事や、勉強や、子育てや、仕事を楽しいものにするためにはどうしたらいいのか」ということです。幼い子どもたちは、最初から「楽しいこと」しかしないので「楽しくする工夫」など必要がないのですが、大人になるとそういうわけにもいかないので、何らかの「楽しくなるような工夫」が必要になるのです。まず、「それをやらなければならない理由」を考えて下さい。そういう質問をされた時に、「やらなければいけないことだから」などと簡単に答えるような人は普段から何も考えていない人です。それでは楽しくなるわけがありません。どうして「それをやらなければならない理由」を考えるのかというと、その理由を考えることで「大切なこと」と「大切ではないこと」を分別出来るようになるからです。目的がはっきりとすれば、「直接その目的につながること」を大切にして、「その他のこと」は「余裕がある時」に回すようにすれば、時間や労力に余裕が生まれるのです。また、楽しくするためには「やりがい」が必要になります。でもそのためには、自分が何をしているのか知る必要があるのです。実際、大変だ大変だ、忙しい忙しいと言っている人ほど、「どうでもいいこと」をいっぱい抱えているものです。「子育ては大変だ」とか「子育てが苦しい」などと言っている人は多いですが、ワークなどで、「子育ては何のためにするものですか」とか、「子育てで大切にしていることは何ですか」とか、「お子さんにどういう人間に育って欲しいですか」という質問をしても、その問いに対してはっきりと答えることが出来る人は多くありません。質問されてから考えるということは、「普段は考えていない」ということの現れに過ぎません。多くの人が、「流れでそうなってしまったので、しょうがないのでそう対処している」という感じなんです。流れで付き合って、流れで結婚して、流れで子どもが生まれて、流れで子育てをしているだけなので、自分がやっていることの意味を深く考えたことがない人が多いのです。でもそれは目的地も知らずに旅に出ているようなものです。自分が何をしているのかということを知らずに作業をし、自分が歩いている道がどこに続いているのかを知らずにただ前に進むことだけを考えているようなものです。チャップリンの映画「モダンタイムス」の中に、工場の流れ作業の一部として、機械のように働いている労働者が出てきますがそれと同じです。映画を知らない人はここで見てみて下さい。面白いですよ。でも彼と同じような状態で子育てをしている人が多いのです。次から次へと「やらなければならないこと」が目の前に出てくるので、何も考えずにただそれを処理するだけで精一杯になってしまい、「一人の人間としての自由」を失ってしまっているのです。山登りでも、足下ばかり見て頑張るだけで、「自分がどの山に登っているのか」とか、「周囲にどのような景色が広がっているのか」というということを知らなければ、苦しいばかりで楽しくなるわけがないのです。勉強でも、仕事でも同じです。それでは楽しくなるわけがないのです。私が大好きな「石工」の話があります。ある人が散歩の途中で石を運んでいる石工に出会いました。それでその人は「何をしているのですか?」と聞きました。するとその石工は「見れば分かるだろ、石を運んでいるんだ」と答えたそうです。帰りにまた同じ道を通ると、今度は違う石工が石を運んでいたそうです。それでその人はもう一度「何をしているんですか?」と聞きました。するとその石工は、誇らしげに「教会を建てているんです」と答えたそうです。見かけ的には、両者がやっていることに違いはありません。でも、ここには非常に大きな違いがあるのです。前者の石工にとっては、日々の労働はお金を得るためだけの、辛い労働です。でも、後者の石工にとっては、それは単なる「お金を得るための労働」ではなく、常に神を側に感じる「祈り」のようなものです。それは「喜び」ですらあったかも知れません。少しの「意識の持ち方」の違いが、全く同じ労働を「苦痛に満ちたもの」と「喜びに満ちたもの」に変えてしまうのです。彼らに息子がいたら、前者の息子は「おれはこんな辛い仕事したくない」と思うでしょうが、後者の息子は父親に誇りを感じて「僕も後を継ぎたい」と思うでしょう。「自分は何をしているのか」ということを意識するだけで、それが「意味あるもの」に変わるのです。だから、目的に合わせて色々と工夫も出来るようになるし、楽しくもなるのです。そして、無駄なことは手を抜いたり、やめることも出来るのです。子どもが生まれたら、子どもが生まれる前と同じように家事をすることは不可能になるのですから、「大切なこと」だけを大切にして、あとは手を抜けばいいのです。その「大切なこと」が分かっていないから手を抜けないのです。
2016.11.02
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日が迫ったのですが、まだ11月3日「文化の日」に予定されている「気質の一日ワーク」に空きがあるので参加者を募集します。(ブログの最後に、「シュタイナー芸術クラス」の生徒募集の案内もあります。)会場はJR茅ヶ崎駅の近くの公共の施設です。今まで気質のワークに参加された方が復習のために参加されても、全く初めての方でもOKです。動きやすい服装でおいで下さい。時間は10:00~16:00です。参加費は4000円です。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。***********最近の子どもたちを見ていて強く感じるのは、「失敗を恐れる子」が非常に多いということです。そのため、ちょっと難しそうだとチャレンジもしません。新しいことや知らないことにも手を出しません。上手にできそうもないことには手を出しません。危険なことや頑張らなければできないようなことも避けようとします。取り組んだとしても、予想と違ったり、ちょっとでも失敗するとすぐに嫌になって放棄してしまいます。これはお母さんたちでも同じで、子育ての失敗を恐れているお母さんが非常に多いです。だから、いつも「子育ての正解」を探して、正解に依存しようとするのだと思います。また、ワークなどでも、絵を描くとか表現ワークをするというと、みんな嫌がります。「素の自分」が出てしまうことや、上手にできないことへの恐れがあるのでしょう。多くの人が、結果が見えないようなことに対して不安を感じるのです。少なくとも、「やったー」と反応する人は非常に少ないです。でも、失敗を恐れるため、体験出来ません。前へ進むことも、慣れることも、習熟することも、楽しむことも出来ません。自信も育ちません。その結果、どんどん自分の世界が狭くなり、身動きが取れなくなってしまっています。それに対して、遊びの世界には失敗はありません。「正解」がないからです。「正解」がない世界には「失敗」もないのです。だからこそ、自分のアイデアと工夫で自由に遊ぶことが出来るのです。また、自分の考えと感覚で遊んでもOKなので、色々と工夫したりチャレンジしたりすることも出来ます。そしてそれは芸術の世界ともつながっています。子育てともつながっています。でも、お勉強とはつながっていません。スポーツともつながっていません。しつけともつながっていません。社会のルールともつながっていません。そういうものにはみんな「正解」があるからです。だから、正解が大好きな大人達は、子どもたちの自由な遊びを「非社会的で価値がないもの」として嫌うのでしょう。まただから、子どもと一緒に遊ぶことも出来ないのです。正解に縛られている大人は、正解のない世界の中では何も出来ないのです。以前指導させて頂いていた保育園で、「今日はお絵描きをするよ」と言ったら、一斉に「えー嫌だ」とか「ぼく絵が描けない」とかいう声が上がりました。それで、ピカソやミロといった「訳の分からない絵」を見せて、「どう思う」とか「いくらだと思う」と聞きました。すると、何人の子から「こんな絵ならぼくだって描ける」という声が上がりました。また「てん」(ピーター レイノルズ著・谷川 俊太郎 訳)という絵本を見せて、「点だけだって、○だけだっていいんだよ」と誘いかけたところ、「それならやる」という声が出てきました。それで、山のような紙を自由に使わせて、自由に絵を描かせました。そうしたらみんな夢中になって描き出しました。数秒に一枚の割合で描いている子もいました。みんな上手下手や、正解がない絵なら喜んで描くのです。まだまだそういう本能が働いているからです。そこが大人とは違うところです。でも、そのまま大人になると、今度は正解がないと取り組むことが出来なくなります。「正解」があるのは学校を卒業するまでの期間に過ぎません。学校を卒業して社会に出たら、もう「正解」はないのです。人間関係にも、子育てにも、生き方にも「正解」はありません。「正解のある世界での生き方」しか学ぶことが出来ないまま「正解のない世界」に出て行かなければならない子どもたちはそこで途方に暮れてしまうのです。そこで、「自分探し」という訳の分からないことを始める人もいっぱいいます。******************☆シュタイナー芸術クラスのご案内クラスでは心の内側に語りかける色のひびきやフォルムを描いていく手法(シュタイナーのぬらし絵やフォルメン線描)を用いて、私たちをとりまく世界を描いていきます。ぬらした紙に絵具を置き、色と色のせめぎ合いから境界ができていくプロセスはあらかじめ輪郭を描いて色をつけることとは 全くちがう感覚を心にもたらします。色の供応がもたらす内的な空間を旅しているかのようです。年齢別にテーマを分けて(昔話・神話・動物・植物・鉱物)、じっくりと内側と外の世界がつながるように 美しさが浸透していくように進めたいと思います。常設のクラスの体験ほか、3名以上なら出張できます。<常設クラス>*横浜(港南台) 第1,3土曜午前(小中学生)*鵠沼 第4火曜 夕方 (1.2年生)*西湘(国府津) 第4土曜 午前幼児、午後小学生・大人こちらのお問い合わせは「こちら」(篠裕子)にお願いします。
2016.11.01
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