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”アジアのノーベル賞”「マグサイサイ賞」に日本の眼科医・服部匡志さん(58) ベトナムで無償白内障手術や眼科医育成に貢献 「その技術や寄り添う心を評価」8/31(水)「アジアのノーベル賞」と言われるマグサイサイ賞に、ベトナムで多くの人に無償で治療を行ってきた眼科医の服部匡志さんが選ばれました。マグサイサイ賞は、毎年、アジアの社会貢献などに功績を残した個人や団体に贈られる「アジアのノーベル賞」として知られています。今年は、眼科医の服部匡志さん(58)ら4人が選ばれました。服部さんは2002年以降、日本とベトナムを往復しながら貧しさで白内障などの治療を受けられなかった現地の人たちに、無償で手術を行ってきたほか、現地の眼科医の育成にも取り組んできました。賞を主催する財団は、「何万人もの人の視力を回復させたその技術や寄り添う心を評価した」としています。授賞式は11月30日にフィリピンのマニラで行われる予定です。
2022.08.31

デコイとは、狩猟で,おとりに使う鳥の模型。ミサイル誘導用のレーダーや魚雷誘導用のソナーを攪乱させるためのおとり。💛記事の「デコイ」が前後で類推できるもののきちんとした意味がわからなかった。ウクライナは木製のデコイを使ってロシアの高価なミサイルを浪費させているワシントン・ポストが伝えるところによると、ウクライナは木製のデコイ(おとり)を使ってロシアの長距離巡航ミサイルをいくつか無駄撃ちさせたようです。ウクライナの政府高官によると、ウクライナ軍はアメリカから供与された高機動ロケット砲システム「HIMARS」のデコイを作り上げ、少なくとも10発の巡航ミサイルを引きつけることに成功したとのこと。デコイは木で造られているものの、ウクライナを偵察する無人航空機を通して見た場合は本物との見分けが付かないことがあるとされています。 アメリカの国防当局によると、ロシアの精密誘導ミサイルの備蓄は少なくなっており、アメリカのチップ輸出規制により弾薬の補充がかなり困難な状態にあるとのこと。デコイの使用には、ロシアにミサイルを無駄撃ちさせて弾薬を消耗させること、ロシアの前線をHIMARSの射程範囲外まで後退させることという2つの利点があるそうです。ロシアはたびたびHIMARSの撃破を報告していますが、アメリカ国防相は「アメリカが提供したHIMARSはすべて現存確認済みである」と反論しています。 ワシントン・ポストは「これまで報告されていなかったロケットシステムのデコイの使用は、規模・装備ともに勝る敵に対抗するための非対称戦術の1つである」と指摘。ウクライナ当局は「自国軍はより大きな敵に対抗するために型破りの戦術に頼るしかなかった」と述べた
2022.08.31
ゴルバチョフ元ソ連大統領死去 91歳 世界の冷戦体制終結を導く8/31(水) 西側諸国との冷戦を終わらせたソ連最後の指導者、ミハイル・ゴルバチョフ元大統領が30日、病気のためモスクワで死去した。91歳。タス通信が伝えた。1980年代半ばに疲弊していた体制を立て直す「ペレストロイカ」政策に取り組んだが、結果としてソ連崩壊を招き、国内では批判にさらされた。一方でノーベル平和賞を受賞するなど外国では高く評価された。 1931年3月、ロシア共和国南部スタブロポリ地方に生まれた。55年に名門モスクワ大法学部を卒業し、故郷で党官僚のキャリアを歩み始め、71年にソ連共産党の中央委員に抜てきされた。80年に政治局員となり、85年に54歳でトップの党書記長に就いた。 ソ連は79年に始めたアフガニスタンへの軍事介入が泥沼化し、政治や経済の体制が疲弊していた。ゴルバチョフ氏はペレストロイカの旗振り役として個人の営業を認めるなど、経済改革に踏み切った。社会生活でも86年4月にウクライナ共和国で起きたチェルノブイリ原発事故が引き金となり、情報公開(グラスノスチ)を進めた。日本人へのメッセージ・社会の英知を日本の社会と国家が強化されるようになるために有識者は努力すべきだ。・日本の生き残りをもっと真剣に考えなくてはならない○2010.1.19 エコノミスト闘論席 佐藤 優2009年12月に訪日したゴルバチョフ元ソ連大統領とかなり突っ込んだ話をした。そのときゴルバチョフ氏から忠告を受けた。「日本人は、国民の民主的選挙で政権交代が起きた意義を過小評価している。現在は過渡期だ。与党と野党の政治家が激しい闘いを展開するのは、当たり前のことだ。政治家とは闘いを仕事とする人たちだからだ。しかし日本の有識者が、政治家のような姿勢で、この闘いに参加するのはよくない。社会の英知を日本の社会と国家が強化されるようになるために有識者は努力すべきだ。」「世界経済、国際関係は緊張を高めている。政権交代期に、政争によって国家が弱体化することがないように努力することが君たち有識者の責務だ。日本の生き残りをもっと真剣に考えなくてはならない」ゴルバチョフ氏は、エリツインロシア大統領によって権力の座から追われた。そして、ソ連崩壊後もエリツイン氏はゴルバチョフ氏に圧力をかけ続けた。それにもかかあらずエリツイン氏が進めるロシアの自由化、民主化への転換の足を引くようなことはしなかった。ゴルバチョフ氏の愛国的姿勢に、ベドベージェフ大統領、プーチン首相は畏敬の念をもっている。 「パワーかフォースか」の中では、600以上の意識のレベルの人は、ガンジー、マザーテレサが紹介されている。そしてゴルバチョフ氏もまたその一人として名前が挙げられている。 ソ連があった頃、その崩壊を予想していなかった。 ゴルバチョフがソ連の指導者となったとき、ロシアとその他の国に解体した。革命や暴動が起こることなく、それは明治維新以上かもしれない。静かな革命であって、それはゴルバチョフ氏がいたから、その意識のレベルでの高いパワーを有していたからかもしれない。ガンジーがイギリス帝国主義から静かにインドを独立させたように。 そうであれば私たち日本人も真摯にそのパワーの声に耳を澄ませるべきかもしれない。 外交ではシェワルナゼ外相と共に「新思考外交」を推進。87年に米国と中距離核戦力(INF)全廃条約を結び、89年にアフガンへの軍事介入を終わらせた。ベルリンの壁の崩壊など、東欧で社会主義政権が倒れていった際には介入を避けた。同年末には米国と共に冷戦の終結を宣言するなど、国際社会の緊張緩和に貢献し、90年にノーベル平和賞を受賞した。 内政では90年に共産党の一党独裁を廃止し、初代のソ連大統領に就任するなど変革を試みたが、むしろ権力基盤は揺らいだ。当時のソ連国家保安委員会(KGB)ら保守派の反発を招き、91年8月の休暇中に軟禁されるクーデター未遂事件を許した。事件はゴルバチョフ氏の権威を失墜させる一方で、徹底抗戦したエリツィン・ロシア共和国大統領(当時)による主導権の掌握を決定づけた。 エリツィン氏らは91年12月、ソ連を構成する共和国が参加した独立国家共同体(CIS)の発足を表明。ゴルバチョフ氏は大統領を辞任し、69年続いたソ連の歴史に幕が下ろされた。 退任後はゴルバチョフ基金総裁に就き、国内外で評論活動などに従事した。96年のロシア大統領選に出馬したが、得票率は1%に満たず、国内の低い評価は覆らなかった。
2022.08.31

旅にでないワインが旅に出た話 「以前、大分県の直入町役場で働いていた首藤さん、県議会議員をされているんだけど、その人の講演録をインターネットで見つけたらとてもよかった。 直入町ではドイツのバードクロイツインゲンと友好都市となっていて毎年未来を担う中学生を派遣していた。ドイツからも市長さんはじめ毎年多くの方が見える。 町民が百人ドイツに行ったのを記念して、国際シンポジウムを開催した。ドイツの物産展を開催したらね、これが好評で、特にドイツワインが飛ぶように売れた。するとね、『首藤さん、あのワインをうちの町でずっと飲むことはできないだろうか』と商工会のメンバーが言う。ところがこのワインは、「旅に出ないワイン」と言われて、そこに旅をしないと飲めない。そのくらい貴重な、少量だけど非常にうまいワインだ。商工会長自らドイツに行ったが分けてもらえない。そこで町長と首藤さんと通訳でドイツに渡った。それで苦しんだけどうまくいかない。最後の日、向こうの商工会が招待してくれたので『未来の子供達にあなた達が作ったヨーロッパでも有名なこのワインを飲ませたい』と頼んだ。すると通訳のマチ子さんが黙りこんで横を向いて泣き出した。『どうしたの、マチ子さん?』と首藤さんが聞いた。『首藤さん、私は長い間、日本の方々をドイツにお招きして通訳の仕事をさせて頂いた。ただ、これほど、今夜ほど私は自分が通訳をしていてよかった。こんなに感動した夜はありません』とマチ子さんが言う。『首藤さん、ドイツの皆さんは遠く海を渡って何回も来たあの日本の友人たちに自分たちの秘蔵のワインを分けてあげようじゃないか。そのために直入とクロツィンゲンの頭文字を取ったナークロという会社を新たにつくって、ワインを上陸させて、直入町の皆さんの期待に答えてあげようじゃないかと話しているのですよ』 マチ子さんはそういう会話を聞いて思わず瞼が熱くなったんだね。 首藤さんはね、宿に帰って、シャワーを浴びながら男泣きに泣いたんだって。 平成元年からドイツとの交流が始まってまだ四年にしかならない。こんな農村であんなことをやって、あいつらはドイツかぶれだという陰口もある。それなのに、こうしてまだ数回しか会ったことのないドイツの友人が私たちの夢を実現してあげようという、そう思うと、泣けて泣けて仕方がなかったというんだ。 そして喜んで帰りの飛行機に乗ったらね、帰りの機内誌の中に、マザー・テレサの特集があった。マザー・テレサが生涯愛した言葉、「暗いと不平を言うよりも、自ら進んで明かりを灯しなさい」という有名な言葉があるが、実は、マザーが愛したのは、そのすぐ後に続く言葉なんだって。「誰かがやるだろうということは誰もやらないということを知りなさい」マザーが愛したその言葉が強烈に首藤さんに降り注いできた。つまり、前年に商工会のみんながドイツに渡っている。ワインの交渉もやろうと思えばできていたかもしれない。ただ、誰かがやるかもしれない。 地域づくりのほかのことに対してもそうだ。これはいい話だが、誰かがやるだろう。そうではなくて、気がついたあなたがやらなければ、誰もやりませんよ。そういうマザーテレサの言葉に、『ああ、そうか。3人でこのことに挑戦をする』ということの意義が、マザーテレサから示唆されたような気がしたと首藤さんはいうんだよ。いい話だろう。」「うん」と友人はちょっと感銘を受けたように頷いた。
2022.08.31

「縁を生かす」 その先生が5年生の担任になった時、一人、服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。中間記録に先生は少年の悪いところばかりを記入するようになっていた。 ある時、少年の1年生からの記録が目に止まった。「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ」とある。間違いだ。他の子の記録に間違いない。先生はそう思った。 2年生になると、「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」と書かれていた。3年生では「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りをする」。後半の記録には「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」とあり、4年生になると「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子供に暴力をふるう。」 先生の胸に激しい痛みが走った。ダメと決めつけていた子が突然、深い悲しみを生き抜いてる生身の人間として自分の前に立ち現れてきたのだ。先生にとって目を開かれた瞬間であった。 放課後、先生は少年に声をかけた。「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?分からないところは教えてあげるから」。少年は初めて笑顔を見せた。 それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。少年は自信を持ち始めていた。 クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。後で開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに間違いない。先生はその1滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。「ああ、お母さんの匂い!今日はすてきなクリスマスだ」 6年生では先生は少年の担任ではなくなった。卒業の時、先生に少年から1枚のカードが届いた。「先生は僕のお母さんのようです。そして今まで出会った中で一番すばらしい先生でした」 それから6年。またカードが届いた。「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」。十年を経て、またカードがきた。そこには先生と出会えたことの感謝と父親に叩かれた体験があるから患者の痛みがわかる医者になれると記され、こう締めくくられていた。「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を神様のように感じます。大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、5年生の時に担任してくださった先生です」 そして1年。届いたカードは結婚式の招待状だった。「母の席に座ってください」と1行、書き添えられていた。 本誌連載にご登場の鈴木秀子先生に教わった話である。 たった1年間の担任の先生との縁。その縁に少年は無限の光を見出し、それを拠り所として、それからの人生を生きた。ここにこの少年の素晴らしさがある。 人は誰でも無数の縁の中に生きている。無数の縁に育まれ、人はその人生を開花させていく。大事なのは、与えられた縁をどう生かすかである。
2022.08.31

ヨウ素剤500万個超提供 EU、ウクライナに8/30(火) 欧州連合(EU)欧州委員会は30日、ウクライナ南部にある欧州最大のザポロジエ原発で重大事故が起きた場合などに備え、甲状腺の被ばくを抑える安定ヨウ素剤の錠剤500万個超をウクライナに提供したと明らかにした。 欧州委によると、26日にウクライナ側から依頼があったという。EUのレナルチッチ欧州委員(危機管理)は声明で「いかなる原発も戦場として用いてはならない。住民らの命が危険にさらされるのは容認できない」と述べ、軍事行動の即時停止を求めた。*日本では東日本大震災の教訓により、国(原子力規制委員会)が、平成25年6月に原子力災害対策指針を改正し、PAZ圏内(原子力発電所から概ね5キロメートル以内の地域)の住民に、安定ヨウ素剤を事前配布することとした。 これを受けて、原発のある道府県では対象となる住民への安定ヨウ素剤が配布が始まった。 東日本大震災当時、ヨウ素剤は病院や市役所等に都市の夜間人口に対応できるだけの個数が用意されたが、大部分が使われることが無かった。**原子力災害における安定ヨウ素剤服用ガイドライン原子力施設から放出された放射性ヨウ素が、呼吸や飲食物を通じて人体に取り込まれると、このうち 10%から 30%は 24 時間以内に甲状腺に集積し、残りの大部分は腎臓から尿中に排泄される。この放射性ヨウ素からの放射線被ばくの影響により、数年から数十年後に甲状腺がん等を発生させる可能性がある。この甲状腺被ばくは、放射性ヨウ素に曝露する 24 時間以内に安定ヨウ素(127I)剤を事前に服用することにより低減することができる。放射性ヨウ素曝露後であっても 4 時間以内であれば、効果はあるとされている。すなわち、安定ヨウ素剤も放射性ヨウ素と同様に血中を介して甲状腺に取り込まれ、血中のヨウ素濃度が上がる。これにより、甲状腺ホルモンの合成が一時的に抑えられ、血中から甲状腺へのヨウ素の取り込みが抑制される。そして、血中のヨウ素の大半を安定ヨウ素にすることにより、放射性ヨウ素の甲状腺への摂取量を低減することができるのである。健康な成人が安定ヨウ素剤を服用すると、服用後 1~2 時間以内に、尿中排泄濃度は最大となる。その後、時間の経過とともに尿中ヨウ素排泄量は漸減し、72 時間後には、服用した安定ヨウ素剤のほとんどが体内から排泄される。安定ヨウ素剤では、放射性ヨウ素が体内に取り込まれること自体を防ぐことはできない。安定ヨウ素剤は放射性ヨウ素による甲状腺への内部被ばくの低減のみに効果があり、放射性ヨウ素以外の放射性物質による被ばくを抑えることはできない。安定ヨウ素剤の服用により、甲状腺に既に生じた放射線障害を被ばく前の状態に戻すことはできない
2022.08.31

緑茶の製法考案した永谷翁ってだれ? 紹介古書の「在庫」、蔵で発見朝日新聞社 2022/08/30・日本茶の歴史と、江戸時代に緑茶の製法を考案した永谷宗円の功績をまとめた古書「日本喫茶史要・日本煎茶創始者永谷翁」が、京都府宇治田原町の民家で約280冊見つかった。永谷 宗円(ながたに そうえん、延宝9年2月8日(1681年3月27日) - 安永7年5月17日(1778年6月11日))は、山城国宇治田原郷湯屋谷村(現・京都府綴喜郡宇治田原町湯屋谷)の宇治茶栽培農家の従事者。「青製煎茶製法」を発明し、煎茶の普及に大きな功績を残したと伝承されている。永谷家の先祖は同じ宇治田原の糠塚村の土豪で、文禄元年(1592年)に湯屋谷に移り住んで農業に携わる一方、湯山社を祀っていた。宗円の名はもともと宗七郎義弘といい、入道して宗円と称した。三之丞ともいい、直系の子孫は代々「三之丞」を襲名していた。湯屋谷では茶業のみならず、湿田改良などの事業を行い、村人を指導する立場であったとされている。末裔である永谷家や、取引相手である山本家(山本山)によって後年記された文献では、「宗円の功績」が次のように語られている。中国から日本にもたらされた茶は、南宋に渡った栄西が『喫茶養生記』で茶の効能を説いたように、当初は寺院での修行や薬用として飲用されていた。やがて各地で栽培が広がるが、宇治の特定の茶師は、幕府の許可を得て高品質の碾茶の製造を独占していた。富裕層が好んだ抹茶とは違い、庶民は色が赤黒く味も粗末な「煎じ茶」を飲んでいた。そんな中、宗円は15年の歳月をかけて製茶法を研究し、味もすぐれた緑の新しい煎茶(正確には「だし茶」である)を作り上げた。この宗円が発明した「青製煎茶製法」はその後の日本緑茶の主流となる製法となった。宗円は完成した茶を携えて江戸に赴き、茶商の山本嘉兵衛に販売を託したところ、たちまち評判となり、以後「宇治の煎茶」は日本を代表する茶となった。宗円の煎茶を販売し大きく利益を得た「山本山」では、明治8年(1875年)まで永谷家に毎年小判25両を贈った。宗円は自身が発明した製茶法を近隣にも積極的に伝えたため、「永谷式煎茶」「宇治製煎茶」は全国に広がることとなった。1923年(大正12)年、永谷宗円の功績をまとめた書籍『日本喫茶史要・日本煎茶創始者永谷翁』が出版されている。
2022.08.31

脳内に蓄積する異常たんぱく質を可視化 日本の研究チームが発表8/31(水) 脳内に蓄積し、運動機能や自律神経機能に障害をもたらすとみられる異常なたんぱく質を、陽電子放射断層撮影(PET)で可視化できる薬剤を開発したと、量子科学技術研究開発機構・量子医科学研究所(千葉市)などの研究チームが31日、米医学誌ムーブメント・ディスオーダーズに発表した。 このたんぱく質を可視化できたのは、世界で初めて。早期診断や、治療薬の開発に役立つことが期待される。 異常なたんぱく質は「アルファ(α)シヌクレイン」。脳内の神経細胞などを壊すことでパーキンソン病やレビー小体型認知症、運動機能や自律神経機能に障害をもたらす「多系統萎縮症」の原因と考えられている。これら三つの病気は症状が似ているため、診断に限界があり早期発見は難しかった。これまでは、死亡した患者の脳を調べることで確定的な診断をしていた。 そこで研究チームは、別の異常なたんぱく質に結びつく既存の薬剤の構造を、少しずつ変えていった結果、αシヌクレインに強く結合する物質を見つけた。体内で長時間安定して存在し、脳内へ運ばれる薬剤として開発した。 多系統萎縮症の患者3人と、健常者1人を対象にこの薬剤を使い、PETで脳内を検査したところ、どの患者でも症状によって脳深部や小脳にαシヌクレインが多く蓄積している様子が画像からうかがえた。 この結果は、死亡した患者の脳を使った研究結果と一致するという。 この薬剤を使うことで、αシヌクレインの蓄積量などから病気の重症度を客観的に調べられたり、今後開発が見込まれる治療薬の効果を確認できたりする可能性がある。研究チームは今後、パーキンソン病やレビー小体型認知症患者でも調べる方針という。臨床研究も進め、検査薬として実用化を目指す。 研究チームの樋口真人・同研究所脳機能イメージング研究部長は「患者の検査だけでなく、αシヌクレインが蓄積する過程や、蓄積しても発症しない人などを調べることで、発症メカニズムの研究に役立つ可能性もある」と話した。認知症を抑える「導き役」 脳内たんぱく質をマウス実験で発見脳内では、アルツハイマー病など認知症の原因とされる異常なたんぱく質「タウ」が分解される現象が起きるが、分解の導き役となるたんぱく質をマウスを使った動物実験で見つけたと、量子科学技術研究開発機構のチームが4日、発表した。この導き役たんぱく質が働かないようにしたマウスでは、タウが増えて脳の萎縮と炎症が進んだことから、導き役たんぱく質が症状の進行を抑える要因になる可能性がある。
2022.08.31
鈴木藤三郎が今市の報徳二宮神社に報徳全書を奉納した時の『願文』願がん 文もん 報ほう徳とく社しゃ徒と不ふ肖しょう藤とう三さぶ郎ろう誠せい恐きょう誠せい惶こう謹つつしんで二宮にのみや尊そん徳とく先生せんせいの神霊しんれいに白もうす。恭うやうやしく惟おもんみれば先せん生せい畢ひっ生せい唱しょう道どうし給たまへる報ほう徳とくの教きょう義ぎは洋ようの東とう西ざいを論ろんぜず人じん種しゅ宗しゅう教きょうの如いか何んを問とはず古こ往おう今こん来らい幾いく千せん万まん歳さいを経ふるも凡およそ世せ界かいに生せい存ぞんする人類じんるいに於おいて貴き賎せん貧ひん富ぷ男だん女じょ老ろう幼ようの別べつなく允まことに克よく遵じゅん守しゅせざる可べかからざる要道ようどうにして若もし之これ無なくば人じん道どう廃はい頽たいして民みん衆しゅう安あん息そくすること能あたはざるなり。先せん生せいの世よに在いますや憂ゆう国こくの至し誠せい外そとに溢あふれ熱ねっ血けつの注そそぐところ感かん奮ぷん興こう起きせざる者ものなく済さい世せい恤じゅつ民みんの良りょう法ほう諸しょ州しゅうに亙わたって其その効こう実じつに顕けん著ちょなり。而しかして其その実じっ践せん躬きゅう行こうの跡あとは歴れき々れきとして先せん生せいの遺い書しょに存そんし其その書ちょ殆ほとんど万まん巻がんを以もって算さんす。然しかりと雖いえども之これを知しる者もの多おおからず。知しらざれば行おこなうこと能あたはず。行おこなはざれば世よを済すくひ民たみを理りすること能あたはず。是これ猶なお名めい玉ぎょくを懐かい中ちゅうに蔵ぞうするが如ごとし。豈あに痛惜つうせきせざるべけむや。是これを以もって令れい孫そん尊たか親ちか先せん生せいの允いん許きょを得えて之これを謄とう写しゃせしめ全ぜん部ぶ九きゅう千せん巻かんを得えたり。之これを二に千せん五ご百ひゃく冊さつと為なし文ぶん庫こ一いち宇うに収おさめ併あわせて之これを神じん社じゃに奉ほう納のうし衆しゅう庶しょの熱ねつ覧らん研けん究きゅうに備そなふ。将しょう来らい幸さいわいに有ゆう志しの士し之これを繙ひもとき明めい晰せきなる識しき見けんを以もって先せん生せいの教きょう旨しを解かい釈しゃくし熱ねっ誠せい以もって之これを世よに拡かく張ちょうし忍にん耐たい以もって実じっ践せんして息やまざらば民みん風ぷう頓とみに興おこり富ふ強きょう期きして埃まつべし。仰あおぎ冀こいねがわくば先せん生せいが神しん霊れいの冥みょう護ごに依より人じん類るい必ひっ至しの要よう道どうたる報ほう徳とく教きょう義ぎの広ひろく天てん下かに普ふ及きゅうし真正しんせいなる文明ぶんめいの実じつを見みるを得えんことを。不ふ肖しょう藤とう三さぶ郎ろう誠せい恐きょう頓とん首しゅ頓とん首しゅ敬うやまって白もうす明治四十二年五月三十日
2022.08.31

「猛烈」な勢力 台風11号 予想される最大瞬間風速は75メートルに引き上げ 記録的な暴風となるおそれ台風、フィリピン近くに行ってから、またダブル台風となって、日本方面に引き返すような進路をとるみたい。台風11号は「非常に強い」から「猛烈」な勢力に発達し、西へ進んでいます。すでに今年一番の強さとなっていて、沖縄気象台は「住家の倒壊等のおそれがある」と警戒を呼びかけています。また新たに発生した熱帯低気圧が今後、台風12号になる見通しで「ダブル台風」への警戒が必要です。「藤原の効果」という言葉を聞いたことはありますか?「藤原の効果」は、昭和15年に第5代中央気象台長に就任した藤原咲平さんが提唱したもの。台風や熱帯低気圧の中心の距離が”1000km程度以内”の複数の台風が、相互作用を及ぼして複雑な動きを示す台風の相互作用(干渉)を「藤原効果」という。ダブル台風が発生するとどうなるのでしょう?結果からいうと、ふたつの台風の勢力が合体したり、大きさ×2になることはありません。台風は上空の風に吹き流されて移動し、北半球の台風は反時計回りの風の渦になります。ふたつの台風がある場合、大きく分けるとふたつのパターンがあるそうです。◆2つの台風が同じくらいの場合。この場合、一定の距離までは近づこうとするのですがそれ以上は近づくことは出来ず、お互いに影響し合う。◆2つの台風の勢力がまったく違う場合。この場合は、勢力の小さい方の台風が大きい方の台風に吸い寄せられ、吸収されることがある。💛ふむ、ダブル台風だからと、勢力が2倍になるということでもないということか。勉強になります。
2022.08.31
京セラの稲盛名誉会長が死去 KDDI設立、日航再建も京セラ創業者で名誉会長の稲盛和夫さんが24日午前8時25分、老衰のため京都市内の自宅で死去した。90歳。鹿児島市出身。KDDIを設立し、日本航空の再建も手がけた。稲盛和夫氏の「生き方」を読んでいたら、二宮尊徳について触れられているところがあった。質 問 日本の大企業は立派なところは社会の公器であるという信念のある経営者がいるわけですね。ところがそうでない企業は、社会の公器だという自覚が欠けているところが多い。これは稲盛さんは人の批判をされるのはいやだろうと思いますけれども、このへんのケジメをどういうふうにしてつけていったらいいのか。ご意見を承れればありがたいと思います。講 師 「企業は公器」だということを忘れてしまっている企業経営者が多いとおっしゃいました。私は今満71歳ですから、戦後、日本を廃墟の中から世界第2位の経済大国につくりあげた経済界のリーダーの最後の世代だと思っています。例えば、井深さん、盛田さん、松下さん、本田さん、いろんなリーダーがおられましたが、みなさんもう亡くなってしまわれました。京都ですと、女性の下着をつくっているワコールという有名な会社を創業された塚本さんがおられます。塚本さんはビルマのインパール作戦の生き残りで、小隊でたった3人しか生き残らなかったという飢餓戦場を生き残って帰って来た猛者です。ちょうど私と一回り年が上だったもので、何かあれば「稲盛君」「稲盛君」と一杯飲ませてもらったりして、かわいがっていただきました。そういう戦後の日本を築いた創業者に近い人達に一番後ろからついて行ったのが私の年代です。 残っているのは、私よりちょっと若いか、あるいは私と同じぐらいの年代の経営者しかいないわけです。私の場合、田舎大学出でしたから、就職難で就職も出来ず、給料もなかなかもらえないような会社にしか行けませんでした。東大、京大、阪大などの日本の一流大学の卒業生の方々は、当時でもやっぱり一流会社に行けたはずです。そういう方は、戦前からの資産もある大企業にサラリーマンとして入社し、順調に出世していき、経営者になっていかれた。しかし、辛酸をなめるような苦労をしなければ、私は人間というものは磨かれないのだと思うのです。 ある程度の情熱と才があれば成功しますが、人物が伴っていなければ、長続きするはずがありません。やはり人間性を高める努力が要ると、私は思っています。若くて頭もいい大変優秀な人達が、いい会社に入って、すっと伸びてこられたとしても、そのことがかえって経営者として自覚を欠落させるのではないかと思います。明治時代、当時極東の1弱小国であった日本が、欧米の近代国家の後を追って行こうとするときに、内村鑑三が英文で『代表的日本人』という本を書いています。 そこで彼は、西郷南洲、上杉鷹山、二宮尊徳など5人の名前を挙げ、「これが日本人です」といって、世界に紹介しております。そこで紹介されている二宮尊徳は、子どもの頃に両親を亡くし、大変苦労しながら、鍬1本、鋤1本で貧しい農村を次から次へと建て直していった人です。晩年その功績が認められ、幕府に召し抱えられ、殿中に参上したときの彼の様子を内村鑑三はこう書いています。 「裃をつけて殿中に上がった二宮尊徳は、あたかも生まれながらの貴人の如く振る舞った。なみいる諸大名の中にあっても何の遜色もないぐらい、立ち居振る舞いといい、言動といい、どこの貴族の生まれかと思われるほど立派なものであった」 二宮尊徳といえば、柴を背負って本を読んでいる銅像を思い出しますけれども、彼はそうやって労働の合間に独学で勉強しただけで、学問らしい学問を修めたわけではありません。その彼が、素晴らしい人間性を築いたのは、若い頃から労働を通じて心を磨いてきたからなのです。現代に生きる我々は、戦後の労働価値観の中で、労働を報酬を得るための手段でしかないと思っていますが、私はそうではないと思っています。「勤労だけが人間の心を磨く、魂を磨く唯一の方法である」と思っています。このことは内村鑑三の描いた「二宮尊徳の晩年の姿」を見れば、分かるような気がします。 そういう辛酸をなめずに、いい会社に入られ、エリートとしてずっと躍進を遂げられて、最終的に経営者になられた方々の場合には、やはり精神的にどこか弱いところがあるのではないかと思います。私は、いまこそ精神的なものを経営者にぜひ求めるべきだと思っています。「生き方」(23ページ)にも簡単ではあるが次のような二宮尊徳についての記述がある。日々の仕事を精魂込めて一生懸命に行っていくことがもっとも大切で、それこそが、魂を磨き、心を高めるための尊い「修行」となるのです。 たとえば、二宮尊徳は生まれも育ちも貧しく、学問のない一介の農民でありながら、鋤一本、鍬一本を手に、朝は暗いうちから夜は天に星をいただくまで田畑に出て、ひたすら誠実、懸命に農作業に努め、働き続けました。そして、ただそれだけのことによって、疲弊した農村を、次々と豊かな村に変えていくという偉業を成し遂げました。 その業績によってやがて徳川幕府に登用され、並み居る諸侯に交じって殿中へ招かれるまでになりますが、そのときの立ち居振る舞いは一片の作法も習ったわけではないにもかかわらず、真の貴人のごとく威厳に満ちて、神色さえ漂っていたといいます。 つまり汗にめみれ、泥にまみれて働きつづけた「田畑での精進」が、自分も意識しないうちに、おのずと彼の内面を深く耕し、人を陶冶し、心を研磨して、魂を高い次元へと練り上げていったのです。 このように、一つのことに打ち込んできた人、一生懸命に働きつづけた人というのは、その日々の精進を通じて、おのずと魂が磨かれていき、厚みのある人格を形成していくものです。・・・人格の完成もまた仕事を通じてなされるものです。いわば、哲学は懸命の汗から生じ、心は日々の労働の中で練磨されるのです。 自分がなすべき仕事に没頭し、工夫をこらし、努力を重ねていく。それは与えられた今日という一日、いまという一瞬を大切に生きることにつながります。
2022.08.30

三善「和歌で大事なのは韻律にございます。まずは五七の調」「タタタタタ タタタタタタタ タタタタタ」「こうした韻律に乗せ、花鳥風月を感じるままにお詠みになるのがよろしいかと」源仲章「今のはお忘れ下さい」「和歌とは気の向くままに読むものではありません」💛「タタタタタ タタタタタタタ タタタタタ ・・・」 の おじさん に教わる実朝は楽しそう。これってひょっとして赤塚不二夫さんの「レレレのおじさん」がモデルかな?レレレのおじさん「おでかけですか?れれれのれ~」で有名なおじさん。レレレのおじさんは、どうしていつもほうきで道を掃いている?レレレのおじさんは、若い頃はスーツを着ていました。その柄(がら)は浴衣(ゆかた)と同じです。そして、ほうきも手にしていました。ほうきを使うのは、子供たちに「さあ、早く行きなさい!」という合図を送るのが目的でした。レレレのおじさんは、子だくさんです。五つ子が連続して5組誕生し、レレレのおじさんは、25人もの子供の父親です。子供たちが小さい頃、学校に行かせるにも、みんなを一緒に移動させるのが大変でした。そこで、レレレのおじさんは、ほうきで子供たちの後ろを掃(は)きました。すると、それが合図になり、子供たちはいっせいに移動しました。子供たちは、レレレのおじさんがほうきを手にすると、陽気にはしゃぎました。ほうきで掃(は)くと、みんなが同じ方向に進みました。それは、レレレのおじさんにとって、大変ながらも楽しい時間でした。やがて、子供たちは成人して、レレレのおじさんのもとを巣立って行きました。にぎやかな思い出は、悲しい過去に変わってしまいました。レレレのおじさんの妻は、夫より早く亡くなりました。レレレのおじさんは、寂しい一人暮らしをするようになりました。寂しさをまぎわらわそうとして、レレレのおじさんは、手慣れたほうきで地面を掃き、道行く人に声をかけるようになったのです。💛でも レレレのおじさんは お釈迦様の弟子シュリハンドクを思い出させる。シュリハンドクは、『 仏説阿弥陀経』に、お釈迦様の弟子たちの名の七番目に周利槃陀伽(しゅりはんだか)と出てくる人のこと。十大弟子の一人だが、この人は自分の名前も書けないいわゆるバカであった。だから、お釈迦様の教えを聞いても理解できず、すぐに忘れてしまう。でも、悟りを求める心は人一倍ある。わからなくてもお釈迦様の話を聞いているだけで幸せだった。シュリハンドクは兄に誘われてお釈迦様の弟子となった。兄は聡明だったが、シュリハンドクは一つの句さえも記憶できなかった。修行の作法や方法も覚える事ができない。何年も修行したが、シュリハンドクは自分に絶望し、教団を去ろうとする。しかし、お釈迦様は「 自らの愚を知る者は真の知恵者である」という言葉を発した。お釈迦様が彼に与えた修行は、掃除だった。一本の箒(ほうき)を与え、「 垢を流し、塵を除く」と唱えさせ、精舎(しょうじゃ)を掃除させた。彼は一心に掃除をした。何年もたったある日、シュリハンドクはお釈迦様に「 どうでしょうかきれいになったでしょうか?」と尋ねた。お釈迦様は「 まだだ。」と言われる。どれだけ隅から隅まできれいにしてもまだ駄目だといわれる。シュリハンドクはそれでも黙々と掃除を続けた。ある時、子どもたちが遊んでいてせっかくきれいに掃除をした所を汚してしまった。シュリハンドクは思わず箒を振り上げ怒鳴った。「 こら!どうして汚すんだ。」その瞬間、彼は本当に汚れている所に気がついた。それ以来、人の心も同じと悟り、ついに仏の教えを悟って、阿羅漢果(あらかんか)を得たとされる。お釈迦様はシュリハンドクが一生懸命に掃除をしている姿をいつも手を合わせて拝んだという。まことに これが レレレのおじさんの本当に意味するところに違いない!?
2022.08.30
イチロー氏が渡米1年目に与えた衝撃 監督からの「引っ張れるの?」に“一発回答”8/29(月)グリフィーJr.氏が受けた感銘「私に人生の教訓を教えてくれた」球団殿堂入りを祝う座談会に参加したイチロー氏 マリナーズの会長付き特別補佐兼インストラクターを務めるイチロー氏が28日(日本時間29日)、本拠地でのガーディアンズ戦前に行われた球団殿堂入りを祝う座談会に参加した。ケン・グリフィーJr.氏やエドガー・マルティネス氏、アルビン・デービス氏の殿堂入り選手たちと過去のエピソードなどを語り合った。 2001年にオリックスからマリナーズに移籍し、1年目でいきなり242安打を放ったイチロー氏。当時チームメートだったマルティネス氏は1番の思い出として「イチローが最初に来たときのスプリングトレーニングだね」と振り返る。 メジャー挑戦1年目のイチロー氏は打撃練習でも常に逆方向への打球を打っていたという。当時を回顧したマルティネス氏は「ルー(ピネラ)は、彼に『引っ張ることはできるのか?』と聞いてくれと私に言ったんです。その後の試合で、彼はライトへ引っ張ってホームランを打ちました。ベースを一周し、ダグアウトに戻ってくると、彼はルーに言いました『あなたはこれでハッピーかい?』と」と語った。 また、盟友として知られるグリフィーJr.氏は「彼もまた私に人生の教訓を教えてくれた。ロッカールームやトレーニングルームといった誰も見ていないところで彼がしていること、彼がしている準備……38歳で(マリナーズに)戻ってきて、それを見ているだけでとても感銘を受けました」などと語り、万全の準備を怠らないイチロー氏の姿勢に影響を受けたことを明かしていた。イチローさん語録「何事も、本気でやらないと伝わらない」引退後から昨年まで、地元シアトルでナイターがある日には、誰よりも早くウォームアップを開始した。それは若手の早出特打で球拾いを手伝い、さらに彼らの室内打撃練習で投手役を務める準備だった。自宅では、暇さえあれば初動負荷マシンで鍛える。チーム遠征中にも球場に出向き、リハビリの居残り組をサポートした。 2021年夏はキャッチャーミット、捕手用プロテクターを日本から特別注文で取り寄せた。リハビリ中の投手たちの球をブルペンで受けるためだけ、にだ。「ただそこにいるだけじゃ、何の役にも立たないですから」球団の殿堂入りに入るような元選手は、さらに言えばアメリカ野球殿堂に選ばれることも確実視されているような超大物は、のんびりと余生を過ごすのが普通だ。しかしイチローさんの場合、引退後も自分の時間と体を駆使して現役選手のよき練習相手であろうとする。痛めた肩をできるだけ早く治そうとするのも、練習相手としてマリナーズの若手たちからの要求に100%で応えるためだ。そしてその献身の対象は、日本の高校球児、女子選手たちにも広げられている。「心が折れそうになった時は何度もありました。でも、そこで踏ん張ってよかったと思います。そういうこと(誤解)に(僕が)負けるのはあり得ない。まあ大変だったけど、ダメなものはダメ、いいものはいい、と言ってしまう性格なので......。当時はチーム内でもいろいろありました。でもあの時はすごく孤独だったけど、向き合ってよかった。時間が経った時に、『あそこで負けちゃった』という後悔はしたくなかったですね」
2022.08.30

予報士のつぶやき「台風11号は危険な台風」28(日)に発生した台風11号。29(月)になって急速に発達しています。さらにこの先、沖縄付近で非常に強い勢力になる予想も出ていて、今年のこれまでの台風の中で最も発達する恐れが出てきました。まず影響を受けるのは父島など小笠原諸島。29(月)夕方から夜にかけて雨、風、波、すべて強まり警戒が必要。その後、31日(水)以降は沖縄に影響。沖縄に台風が到達したころには、以下のような特徴を持った危険な台風になっている可能性があります。1,非常に強い勢力に発達の恐れ2,動きが遅くなる恐れ3,動きが不規則になる恐れ沖縄付近は発達した台風の影響を長時間受け続ける、動きが読みにくく一度過ぎ去ってもまた近づいてくる、週の後半はこんな状況になっているかもしれないんです。さらに台風から離れている本州付近も影響を受けます。停滞する秋雨前線に台風からの湿った空気が流れ込み週の後半は東北~九州の広範囲で大雨の続く恐れがあります。今回の台風11号、沖縄は荒天が続き台風から離れた本州も大雨に警戒が必要、という危険な台風になりそうです。今後の台風情報、大雨情報を常にチェックするようにしてください。テレビ朝日気象デスク 太谷智一💛進路は本州からそれるようだが・・・
2022.08.30

山本 千尋(やまもと・ちひろ) ――第33回「修善寺」の台本を最初にお読みになった時の率直なご感想をお願いいたします。 「正直に言うと、この時が“来てしまった”と思ってしまう自分に対して“来た、待っていた”と言い聞かせる日々を過ごしていたように思います。トウの大きな見せ場であり、三谷さんからの愛ある課題でもあったので、ずっとこのシーンのことを考えていましたし、悩みました」 ――どのようなことを心掛けて演じられましたか? 「実は当初のリハーサルでは、まず後ろから善児を刺し、倒れ、もう死んでいるであろう善児にまた後ろから刀を刺す、感情を大きく出さない方向で行こうとなりました。ただ、やはり私の中では、ずっと殺したいと思っていた親の仇でありながらも、育ての親である善児に情というものもありました。だからこそ正面で向かい合いたい、顔を見たいと思ってしまいました。そうすることで、善児とトウという長くも悲しい時間の終わりに決着をつけられると。だから、梶原さんに正直に相談したんです。梶原さんに甘えさせていただき、本番ギリギリまで2人でのリハーサルをしました。いざ向き合うと、感情がグチャグチャになりました。でも、その表現できない想いについては、それはそれで良かったのかなと思うようにしています。大河の現場は本当に先の分からないことが多いので『これで良いのかな。あの時、こうすれば良かった』と考えてしまうことの連続です。そのことを梶原さんにポロっと言ってしまったことがあり、そうしたら梶原さんが『オレも“あの時、こうすれば良かった”と思うことだらけだよ!』とおっしゃっていて『初回からいる善児を演じている梶原さんというこんな凄い方でも、そう思うのか』と救われた気持ちになりました。撮影の裏では、2人とも雨でずぶ濡れになり、土でドロドロになりました。梶原さんなんて血だらけで(笑)。2人ともテンションがおかしくなっちゃって、子どものように笑っていました。スタッフさんもずぶ濡れで本当に大変なシーンだったと思うのですが、皆さまの作り上げてくださった空間が素晴らしい時間となり、梶原さんのオールアップを迎えました」 ――第33回の演出・末永創監督とは、どのようなお話をされましたか? 「末永さんからは、本当に大きな大きなヒントを頂きました。真田広之さん主演の映画『助太刀屋助六』(02年公開)をイメージしてほしいとアドバイスを頂き、ひょうきん者の主人公・助六とトウを重ねるのは難しかったですが、仇討ちのシーンの真田さんの演技は言葉が出なくなるほどの迫力ある表情で、沸々と溜まっていた鬱屈を放つその時が来た瞬間、人はこうなるんだと。悩んでいたものが何か一つスコンと抜けた瞬間でした。末永さんの助言がなければ、私はもっと育ての親である善児に情が強くなってしまっていたと思います。その場で善児を殺して、自分も死ぬほどだったかもしれません。これから生きていくトウに、静かに鞭を打ってくださったのは間違いなく末永さんです。末永さんの優しく心地良い話し方が、本番直前まで落ち着く空気をつくってくださったおかげで、いざ仇討ちのシーンとなった時、鬱屈を解き放つことができました。本当にありがたかったです」助太刀屋助六仇討ちの助太刀を生業とする若者・助六の姿を描くコメディタッチの時代劇。岡本喜八が監督映画『日本のいちばん長い日』、『肉弾』を製作した直後、亡くなった岡本の父への追悼の意も込めてシナリオが執筆され、岡本自ら「生田大作」のペンネームで執筆した漫画が『漫画読本』1969年4月号(文藝春秋刊)に発表された。このシナリオおよび漫画を基に、1969年にオムニバスドラマ『仇討ち』の一編としてテレビドラマ化、2002年に真田広之主演で映画化された。2005年2月19日に岡本が死去し、同映画化作品は岡本の遺作となった。「鎌倉殿の十三人」は敵討ちが大きなファクターとなっている。曽我兄弟から始まり、トウに至る。・善児は架空の人物。 活躍は主要キャスト級。初回放送で源頼朝と八重との子を川に沈めてから、出演する大部分で暗殺を実行。オープニングロールに「善児 梶原善」と出るだけでSNSでは「アサシン善児出る」、「また誰かが…」など恐怖に震える声が相次いだ。「僕はネットを見ない人なので気づきませんでしたが三谷幸喜さんから『人気出てきたよ』『トレンド入ったよ』と知らさせて非常にびっくりしています」40年近い俳優人生で「ここまで人を殺(あや)めたのは初めて」。「見るのとやるのとは違って、いざ自分がやるとあまり気分がいいものではない」「あんまり語りたくないなと。やっぱり人を殺すっていうのは、演技でもこたえる」「八重さんを逃がそうと頑張っていた江間次郎さんを殺(や)った時は心が痛んだ。あっさり殺りすぎてしまったし」 三谷氏からは出演前に「代表作にして」と言われた。「架空の人で、人を殺めているだけの役なのに」役名は善児。「最初、三谷さんがふざけているのかと思った」。実際に「代表作になっちゃっている。これまでで一番しゃべっていないのに、一番反響が大きい」。
2022.08.29

「けん怠感」「せき」訴える人が増加 オミクロン株流行後の後遺症8/28(日)新型コロナウイルスのオミクロン株の流行後は後遺症として「けん怠感」や「せき」の症状を訴える人の割合が増えたことがわかった。東京都によると、オミクロン株の流行後の2022年1月から7月までの後遺症を調査したところ、デルタ株が流行していた時と比べ、けん怠感を訴える人が40%から46%に、せきの症状が14%から22%に、それぞれ増えたことがわかった。その一方で、息切れ、嗅覚障害、味覚障害は減ったという。また、全体の82%がコロナ発症から1か月未満に後遺症の症状が出ており、発症から1か月以上は18%となっている。「死にたいと思う」重い症状が改善した治療とは厚生労働省の研究班は2022年6月、コロナ後遺症について調査結果を発表した。2020年から2021年にかけて感染して入院した1066人のうち3割以上に、1年後も倦怠感や息苦しさ、筋力・集中力低下など何らかの症状が残っていることが分かった。2022年に入り、かつてない規模で感染が拡大したオミクロン株。新規感染者は減少したが、後遺症は大阪でも相談件数が増えてきていて、懸念が広がっている。大阪大学 感染制御学 忽那賢志医師:イギリスからは、オミクロンの方がデルタより後遺症の頻度が少ないといわれています。ただ、これは重症度と同じで、感染者が例えば5倍とかになったら…結局、オミクロンで亡くなる人の方が第6波では増えてしまいました。(オミクロン株は)後遺症を起こす、それぞれの感染者の頻度は低かったとしても、母数が増えると、後遺症に悩む人が増えてしまうのではないかと後遺症はなぜ起きるのか? そのメカニズムを突き止めるため、京都大学で行われているのが、免疫細胞「T細胞」の研究だ。体内に侵入したウイルスの排除などを行う、「T細胞」。京都大学の上野英樹教授は、新型コロナウイルスが体に侵入しても、このT細胞が十分に働かないために、全身にウイルスのタンパク質などの“かけら”がとどまり、さまざまな症状が残り続けると考えている。これまで後遺症の患者80人以上の血液を解析したところ、性別や症状によって、T細胞の数などが異なることが分かってきた。京都大学 上野英樹教授:特に男性の倦怠感が強い方、しんどい方は、ウイルスやウイルスのかけらを排除するT細胞が非常に少ないことが分かってきました。ウイルスのかけらが残っていることで起こる炎症が問題で、それを取り除けていないという状態最新の分析では、オミクロン株の後遺症患者はT細胞が少ないことが分かってきて、後遺症の長期化が懸念されている。京都大学 上野英樹教授:そういう患者がどれぐらいいるかが、いま問題なんだろうと。なにしろオミクロンは感染者数が多いので。「気のせい」とか「怠けているだけだろう」と言われている方もおられると思うが、後遺症の免疫を1年研究してきて分かってきたことは、後遺症は一つの疾患であるという認識が非常に大事後遺症に改善がみられる治療法も、徐々に見つかってきている。20代の女性は、2021年1月に感染してから、倦怠感やブレインフォグなどの症状が1年半続いている。半年間は自宅で寝たきりの状態になっていた。家族が必死に論文などを調べてたどり着いたのが、上咽頭擦過療法、通称「EAT(イート)」という治療法だった。EATは、液体の薬をつけた綿棒で鼻の奥の上咽頭を直接こすり、炎症を抑える治療法だ。女性には上咽頭にひどい炎症が見られていたが、EATを数十回繰り返したことで、治まってきた。痛みが伴う治療だが、後遺症は少しずつ改善している。20代女性:寝たきりだった時は、家から出て車まで歩くのも困難で、車いすに乗ったり、まず1人では移動ができなかった。ようやく杖があれば、少し自分で外出できるというところまできましたなぜ上咽頭の炎症を抑えると、後遺症が改善するのか?EATを行う田中耳鼻咽喉科(大阪市)の田中亜矢樹医師によると、上咽頭は脳や全身の神経機能の“要所”。新型コロナは、その“要所”で増殖・炎症を引き起こす。その後、上咽頭に炎症が残り続けてしまうことで、体全体の神経の機能に障害が起きているというのだ。実際に田中医師が診察した後遺症患者約110人のうち9割には、上咽頭にひどい炎症がみられた。田中医師は、この炎症を抑えていくことで、神経の機能が正常に近づき、倦怠感やブレインフォグなどが改善するのではないかと考えている。田中医師:かなりいい手応えを感じていて、継続的に治療している方は、波こそあるものの、(患者の)8割程度には効果があるのかなと感じています。ただ、寝たきりになっている方は通院自体が困難ということも十分に想定できますので、もっともっと苦しんでいる方はたくさんいらっしゃるだろうなとEATは保険適用があり、通常1000円以内の負担額だ。しかし、この20代女性は他に漢方薬や鍼灸(しんきゅう)の費用も必要で、その額は毎月4万円に上る。こうした金銭面の問題や、受診できる病院が少ないことから、全く治療ができていない後遺症の患者もいるという。20代女性:私は幸い、家族が応援してくれていますが、治療費が出せないと言っている後輩は、病院に行けていないんです。でも、家族もどうしたらいいか分からない、そういう人たちがきっとたくさんいると思う。国という大きな単位で、何かリードしてほしいとすごく思っています(関西テレビ「報道ランナー」2022年6月13日放送)
2022.08.29

まさかの善児ロス「鎌倉殿の13人」、第33話が放送され、俳優の梶原善が“怪演”し、初回(1月9日)から視聴者を恐怖に陥れ続けた仕事人・善児の壮絶な最期が描かれた。無慈悲に人を殺め続けたヒール役が最期に人の心を宿し、SNS上には通常の敵役ならば起こり得ない“異例のロス現象”“まさかの善児ロス”が広がった。伊豆・修善寺へ追放された源頼家は「軍勢を率い、鎌倉を火の海にし、北条の者どもの首をはねる。このままここで朽ち果てるつもりはない」しかし、後鳥羽上皇に北条追討の院宣を願い出たことが書かれた扇を八田知家(市原隼人)が発見。謀反の証拠に、義時も頼家討ちを決めざるを得なかった。逃げるのを奨める泰時に「猿楽を見ていけ。上皇さまがお送りくだされた。」横笛を吹く猿楽衆の中に、1人だけ指の動かない男がいた。義時から「頼家を殺せ」の命を受けた善児だった。頼家と善児の大立ち回り。ついに善児が頼家の首に刃物をあて仕留めるかと思われたその時、紙に書かれた「一幡」の文字が目に飛び込む。た善児に隙が生まれた刹那、頼家は力をふしぼって善児の刀をはねかえし、自らの刃で善児を貫く。「わしはまだ死なん!」頼家が善児にトドメを刺そうとした時、トウの刀が頼家を背後から突き刺し、ついに2代鎌倉殿は息絶えた。雑色の善児はドラマオリジナルのキャラクター。初回、源頼朝と八重の息子・千鶴丸を水死させたのを手始めに、義時の兄・北条宗時らの命を次々に奪ってきた。台詞が少なく、淡々と任務を遂行する不気味な姿に、視聴者は戦慄。オープニングのクレジットに善児の名前があるかどうかが注目の的になる“異例の現象”も巻き起こった。当初は頼朝の命を狙う伊豆の実力者・伊東祐親に仕えたが、次に梶原景時、そして義時と主君を変え、暗殺の命を「へえ」と果たしてきた。アサシン・善児の存在が文字通り、今作のキャッチコピー「予測不能エンターテインメント」を体現した。単なる“史実の再現”にならないための重要なポジションを託され、そのイメージは視聴者のなかで拡散され、その役目を全うした。「仕事人シリーズ」のように、闇の仕事として暗殺の仕事を全うする。善悪のかなたにあった、善児は「わしを好いてくれている」と一幡に慕われたことで、此岸に踊って、機械ではなく感情のある人として死ぬ。SNS上には「まさかの善児ロス」「善児ロスになる日が来るとは夢にも思わなかった」「あれだけクレジットに名前が出てくるだけで阿鼻叫喚だったのに、今どれだけの人間が善児ロスになっているんだろう…脚本が罪すぎる」などと“退場”を惜しむ声が続出。「本タイトル【修善寺】裏タイトル【終善児】」「『修善寺』で『終善児』まではなるほどなと思ったけれど、血に染まって『朱善児』とは考察が深すぎて恐れ入りました。ダブルではなくトリプルミーニング」などとサブタイトル(副題)への考察も相次ぎ、反響を呼んだ。劇中、猿楽の紙の面が登場して印象深かった。頼家が持っていたといわれる能面が元なのであろうか? 源頼家が修禅寺に流された頃、夜叉王という面作り師がいた。 頼家は、夜叉王に自分の顔の面を注文する。 しかし、何度作っても面に死相が現れる。 半年が経った秋の晩、頼家は面の催促に夜叉王を訪れるが、夜叉王は「面に死相が出てしまいお渡しできない」と話すが、娘の桂(かつら)が死相のある面を頼家に献上する。 その後、頼家は討手に襲われて命を落とす。(「修善寺物語」)なにか猿楽のお面が、「せんと千尋の神かくし」の世界観を思わせる。アニメの世界で描かれるような世界観であった。橋を渡るシーンで、お面をかぶった神様も登場する。不思議な世界観。これは春日退社のお面だという。不思議と現代アートに通じるような。
2022.08.29

8月28日の「鎌倉殿の十三人」で、頼家がどのように殺されるのか、注目していたが、武家の棟梁らしく、闘って死ぬ、しかも善児が「一幡」の文字にひるむところを殺すという、さらに「ずっとこの時を待っていたのだ」と、トウに父母のかたきとして討たせる。善児は、父母を殺し孤児として暗殺者として育て上げた女の子に自分を討たせることは予期していたに違いないとばかり、思う存分、かたきを討たせる。もはや身を守ろう、命ながらえようとは善児は思っていないようだ。三谷さんは「自分の想像以上に活躍しだした」架空の人物にはなばなしい最後を終わらせる。善児の命運は、「わしにはできねえ」と一幡殺しを拒んだところで実は終わっていたのだ。それにしても、三谷さんの視聴者の予想をうらぎるのようなシナリオ。感嘆!!「愚管抄」によれば「修善寺にて、また頼家入道をば指ころしてけり。とみにえとりつめざりければ、頸に緒をつけ、ふぐり(睾丸)を取などしてころしてけりと聞えき。人はいみじくたけきも力及ばぬことなりけり。」と歴代将軍ではもっとも悲惨な死にざまを記すが、三谷さんは大立ち回りを演じて、不遇な二代将軍を悼む。NHK「鎌倉殿の13人」頼家演じた金子大地が本音「怖かった」救われた小栗旬の優しさに感謝金子大地「『あいつでいいのか』という思いは頼家自身が感じていたと思う。何をやっても頼朝という圧倒的スターと比べられる、その重みを感じていたと思う」「相当な重圧や不安があったと思うし、それが垣間見えたらいいなと思って演じました」「怖かったです。圧がすごいので」「でも弱みを見せないで、やってやるんだという気持ちで臨みました」「自信もなかったし、リハーサルも不安だった。本番もこれでいいのかと思いながらやっていました」と本音も吐露。緊張の中で小栗の存在は大きかったといい、1対1で食事に誘われた時には「『大地が好きなようにやっていいよ』と。自信なさげだったのが見えていたのか、こんな僕を誘ってくれてすてきだなと思いました」。「優しくてうれしくて。もっと自信を持ってやろうと思えたし、そこから吹っ切れて、もっとのびのびと義時との芝居にぶつかっていこうと思わせてくれた。その優しさに救われました」「小栗さんや監督、スタッフさんのおかげで演じられたし、みんなの力で作品がこんなによくなるんだと感じられた。熱量のある座組に入れたことが一番の幸せ」第33回「修善寺」では頼家の最期を演じた。金子「悔いなく終われた。何も思い残すことはないくらい、ちゃんと三谷幸喜さんが描いてくれた」「あとは解放。どれだけ自分にはつらいことが待ち受けているんだと、毎回台本もらうたびに、ああ~と思っていた」頼家・金子大地 首の角度“シャフ度”反響に驚き頼家が泰時に名前をつけたおり頼家の振り向きざまの首の角度が「シャフ度」と話題に。鋭い眼光も相まって、頼家の孤独や嫉妬が浮き彫りになった。「シャフ度」とは「シャフト角度」の略。「化物語」「魔法少女まどか☆マギカ」「さよなら絶望先生」などアニメ制作会社シャフト作品に多く見られる構図。キャラクターが見返る時にアゴを上げ、挑発的な視線を送る首の角度や様子を指す。「実は最初あまりうまくできず、意外と苦戦したシーンでした。(同回演出の)中泉(慧)監督からは『もっと睨んで』『もっと怖く』と、OKが出るまで時間がかかりました。小栗さんも『こうやったらいいんじゃない?』と実際に振り返ってくださったりして。『シャフ度』という言葉があるんだと初めて知って、興味深かったですね。あのシーンが記事になったりして、反響には驚きました」
2022.08.28

一部の人工甘味料はカロリーゼロでも血糖値を上げる可能性があると判明イスラエルのワイツマン科学研究所(WIS)*で行われた研究によれば、人工甘味料として使われているスクラロースとサッカリンには腸内細菌を変化させ、人間とマウスの血糖値を下げる能力「耐糖能」を損なう可能性があることが判明した、とのこと。これまで人工甘味料はカロリーがゼロかほとんどないため、甘くても血糖値には影響を与えないと考えられていましたが、少なくとも短期的には血糖値の上昇をもたらす可能性があるようです。今回、ワイツマン科学研究所の研究者たちは、健康かつ人工甘味料を摂取していない120人の成人ボランティアをグループにわけて、それぞれサッカリン・スクラロース・アスパルテーム・ステビアなどの人工甘味料をブドウ糖と一緒に2週間にわたり摂取してもらいました。(※実験では対称としてブドウ糖のみを摂取したグループも含まれています)結果、サッカリンとスクラロースを摂取した被験者たちのグループにおいて、血糖値を下げる能力「耐糖能」が低下していることが判明します。(※ブドウ糖のみを摂取したグループや他の人工甘味料を摂取したグループでは耐糖能の異常はみられませんでした)また被験者たちの腸内細菌叢を実験の前後で比較したところ、特に耐糖能に影響があったサッカリンとスクラロースを摂取したグループにおいて、腸内細菌の数や種類に大きな変動があったことが確認されました。この結果から研究者たちは、耐糖能障害の原因はサッカリンとスクラロースが腸内環境を変化させたことが原因の可能性があると考えました。サッカリンとスクラロースによって変化した腸内環境が、本当に耐糖能に影響を与えているかを確かめるには、サッカリンとスクラロースを摂取した被験者たちの糞便(腸内環境)を「無菌の腸」を持つ動物に移植して、変化があるかを調べなければなりません。そこで研究者たちは無菌マウスの腸に、血糖値が上昇した被験者たちの糞便を移植してみることにしました。結果、マウスたちの耐糖能が移植前と比べて低下し、血糖値を下げる能力が損なわれていることが判明します。研究者たちはこれらの結果から、サッカリンとスクラロースを摂取した人間やマウスの腸内細菌叢が変化し、耐糖能に異常を生じさせるている可能性があると結論しました。ただ今回の研究では主な実験期間が2週間と短いため、研究者たちは人工甘味料が長期的な健康状態に影響をあたえるかは、より大規模な研究が必要であると述べています。研究者たちは今後も人工甘味料が腸内環境と血糖値に与える影響を調べ、最終的にはどの腸内細菌が耐糖能の異常に関与しているかを特定していく、とのこと。最後に研究者たちは、今回の研究結果は「人工甘味料の摂取を中止することをすすめるものではない」「一番いいのは甘い水ではなくただの水を飲むことだ」と述べています。*ワイツマン科学研究所( Weizmann Institute of Science)は、イスラエルのレホヴォトにある研究および高等教育機関。自然科学系の大学院のみである点が他の一般の大学とは異なる(大学院大学)。ヴァイツマン科学研究所とも。世界的にも有名な総合研究センターであり、約2,500名の科学者、博士号取得後のフェロー、大学院生、スタッフが働いている💛一番いいのは「ただの水を飲むこと」だって(^^) 人工甘味料だからって飲みすぎないことかな。
2022.08.28

エンゼルス・大谷翔平「粘れた」11勝目、今季最多109球熱投7回2安打無失点9K…防御率2・67に8/28(日)パチパチ エンゼルス不調のなかで粘ったピッチングで11勝 よかった。イチローに続いて殿堂入りを!!エンゼルス・大谷翔平投手(28)が27日(日本時間28日)、敵地・ブルージェイズ戦に「3番・投手、指名打者」でフル出場。今季最多7回109球を投げて、2安打無失点、9奪三振の好投を見せて、3登板ぶりの白星となる11勝目(8敗)をつかんだ。防御率は2・67となり、7回を投げたことで規定投球回(試合数=127回)にのった。初のシーズン規定投球回到達へは残り34イニングとなった。 初回は1安打1四球で28球を要したが無失点。2回は圧巻の3者連続空振り三振を奪った。3回は2死から昨季本塁打王を争ったゲレロに右中間への二塁打を許すも、カークから99・6マイル(約160・3キロ)直球で見逃し三振を奪った。 4回は2三振を奪うなど10球で3者凡退。5回も内野ゴロ3つで走者を許さなかった。6回表無死一、二塁の3打席目は投ゴロに倒れたが、続くレンヒーフォが左前適時打を放って待望の先制点が入った。1点リードの6回は1番からの打順だったが10球で三者凡退に抑えた。6回終了時点で球数が94だったが、7回も続投。1死から味方の失策で4イニングぶりに走者を背負ったが、危なげなく後続を抑えた。大谷さん 「(マノアとは)出来れば投げ合いたくはないですけど、もちろんいいピッチャーなので、打席でも打てる確率が少ないですし、さすがのピッチングでしたし、自分としても最初の3イニングあんまりいいピッチングではなかったので、そこから粘れたのがよかったかなと思います。(初回は)ボールが先行して自分でリズムを崩している感があったので、やっぱりストライク先行が基本ですけど1番大事かなと思います。(初回に5球投げた)シンカーはよかったですね。いい動きしていましたし。ただ、まだまだそんなに投げる球種ではないのかなと思うので、フォーシームをしっかり使いながら、カット、スプリットも有効だったかなと思います」Ohtani and Manoah Deliver Anticipated Show In Blue Jays LossMitch Bannonシティで一番ホットなチケットだった。試合前のワールドシリーズ記念イベント、ボンバージャケットのプレゼント、そして目を見張るような投手戦と、土曜日のブルージェイズ対エンゼルスの試合は、期待が高まる中、あっさりと完売となった。マチネー公演に参加した45,311人の観客には、期待を裏切る余地は十分にあった。しかし、アレック・マノアと大谷翔平は期待通りのショーを見せてくれた。大谷は、観客の歓声、ブーイング、好奇心旺盛な畏怖の念を織り交ぜながらボックスに足を踏み入れ、マノアは日本の二刀流スターに最初の一撃を与えた。大谷が先頭で四球を出した後、後半でマウンドに上がると、本当のショーが始まった。2人の投手は、初回から交通渋滞に巻き込まれながら障害を乗り越え、予想された展開に落ち着いていった。試合前に「最近のハードスローを見るのが好きだ」と言っていたデーブ・スティーブが愛したであろうタイプの投手戦であった。大谷は3回、外角の真っ直ぐをジョージ・スプリンガーに投げ、トロントのリードオフヒッターを凍らせ、大谷の3つのパンチアウトのうち最初のものを見せつけた。マノアは、彼のプレミアのものなしで2021年のMVPを黙らせる必要があった。マノアの速度は、増加し、アウトは簡単にとれた。最終回にはフォーシームが95.5MPHに達し、最後の5人の打者のうち4人を三振に仕留めた。大谷は6回、エンゼルスが2人出塁した時点で、自身の出塁を助ける機会を得た。大谷は、2塁でデビッド・フレッチャーにバウンドさせられ、マノアのシンカーに切り込み、バッターボックスで体をくねらせながら空振りに終わった。このとき、「このままではいけない」と思った。トロントの先発はほぼ完璧で、大谷が貢献した1点のみを許した。しかし、大谷の方が優れており、トロントが得点をとるのを防いだ。Angels’ Shohei Ohtani outduels Blue Jays’ Alek Manoah「ホーム、アウェーに関係なく、観客がこんな風に盛り上がっているとき、選手としてこういう状況で投げるのが好きなんです(Regardless of being at home or away, when the crowd is electric like this, as a player, I love pitching in those types of situations,)」と、大谷選手は通訳を介して話した。「楽しかったけど、彼(マノア)は素晴らしいピッチャーで、プレートで良い結果を出す可能性が低いので、できれば避けたい」 と大谷は言っていたが「彼とのピッチングを楽しむことができた。」「私はちょうどそれをやり始めたので、明らかに私はコマンドに取り組む必要がある (I just started doing it so obviously I need to work on the command)」と大谷は言った、「"しかし、私の4シームが働いていた。カッターとスプリッターは機能していた。試合の後半には先制することができた。(but my four-seam was working. The cutter and splitter were working. I was able to get ahead with them later in the game.)
2022.08.28
デジタル発展省が発足=トップはオードリー・タン氏―台湾シンガポールのリ・クワン首相が「ルック・イースト」と日本を見習えという時代があったが、現代は「Look Taiwan」の時代かもしれない。以前台湾を訪問した折に、町中の街灯がLEDになって、虫が寄ってこないとタクシーの運転手が言っていた。高雄の地下鉄は事故防止用の入り口の柵が設けられて、当時の日本の地下鉄に思いを致した。それから数十年の時を隔てて、日本の信号機や街灯がLEDとなり、事故防止用の地下鉄駅の入り口が標準になった。台湾は日本より行政組織の風通しがよく、特にデジタルてきな先端的なことが率先して実践されているようだ。日本でデジタル庁が発足しても、オードリー・タン氏のような指導者に十分な権限が与えられるのでなければ、『デジタル国家、知恵の国』にすることは難しいであろう。「Look Taiwan」デジタル発展省が発足=トップはオードリー・タン氏―台湾2022/08/28 07:10 台湾で発足したデジタル発展部(省)=27日、台北市(台湾行政院提供・時事)© 時事通信 提供 台湾で発足したデジタル発展部(省)=27日、台北市(台湾行政院提供・時事) 【台北時事】台湾の蔡英文総統は27日、デジタル経済の発展や情報セキュリティー強化を担う「デジタル発展部(省)」を発足させた。初代トップには、政務委員(無任所閣僚)として蔡政権のデジタル政策を推進してきた唐鳳(オードリー・タン)氏が就任した。 蔡氏は27日に行われた同省の発足式で「台湾を『デジタル国家、知恵の国』にすることは、政府・与党の最も重要な目標の一つだ」と述べた。デジタルトランスフォーメーション(DX)が将来の経済成長のカギになると見込む蔡氏は就任以来、同省の設立を目玉政策に据えてきた。 デジタル発展省は今後、政府の関連部門と協力し、情報、電気通信、インターネットなど主要分野を統合して官民のデジタル技術活用を推進。デジタル環境インフラを整備・強化し、企業のDX促進を支援する。 唐デジタル発展部長(デジタル発展相)は「全市民のためのデジタル強靱(きょうじん)性」が同省の核心的役割だと強調。社会のデジタル化に伴う情報流出やサイバー攻撃、偽情報といったリスクからの保護を重視する考えを示した。 台湾では軍事威嚇を強める中国からのサイバー攻撃や情報戦を仕掛けるフェイクニュースが大幅に増加しており、同省は安全保障面でも大きな役割を担う。唐氏は年内をめどに、省の傘下に情報セキュリティー機関を設置する方針だ。
2022.08.28

実業と報徳 鈴木藤三郎 明治四十一年十二月(京都報徳講演会)諸君、報徳の道は至誠、勤労、分度、推譲で、推譲を要となし、どんな身分の人でも、日々生涯一日も欠かずに推譲しなければならないとあります。二宮先生の推譲は、普通の譲に一歩を進めて推して譲る。催促のないことをこちらから致す。それが推して譲るという意味になっているようです。この報徳の教えを専らにすれば、他(ひと)を益し、自分を益します。これを農業にたとえますと、一番手短かで分かりやすい。それで二宮先生も農業の例を引かれて教えを立てられています。お百姓が田圃を耕して得る所の物を得んとするには、どうするか。ナスがなったら肥料をせよという農民ではナスは実らない。その実らぬナスに肥料をすればナスは実る。 本来人生社会に推譲くらい自他に利益なものはないと申してよろしい。至誠を以て本と為し、勤労を以て主と為し、分度を以て体と為し、推譲を以て要と為す。これを報徳の四綱領という。その内で至誠と勤労、誠を以て勤労しなければ人道の根源が立ちませんから大切ですが、また分度・推譲は最も要義です。推譲を永く行えば自他を益して富者は永く富を保ち、また貧者で永く推譲を行えば富を致して、社会に貧者はなくなってしまうのです。いかなる人でもこの推譲が出来るということは、すなわち分度によって出来るのです。人それぞれその天分によって度を立て、貧者は貧の天分によって度を立て、その分度外を推譲していけば、年々歳々絶えず永続的に実行することが出来ますが、分度を立てなければ出来ません。人はその収入の半ばで生計を立て、その半分を分外とし、その半分をまた二つに分かって四分の一を他用として慈善等に向かって推し譲り、それからその四分の一を家の為に貯蓄する。自分の取る事業の繁盛を願うならば、報徳の分度推譲を実業に行う、これが一番確かに発展の出来る道です。農工商いずれをやるにも一人では出来ません。どんな事業でも上下相和し貧富相和して一つの仕事をしなければならない。相和するとは何によって相和するかと言えば、すなわち推譲にあります。推譲がなければ直に争論を起しますが、互いに推譲があれば相和していきます。それから推譲を為すには是非とも分度を立てなければ常に行う事が出来ません。また二宮先生の教えに事業に対して推譲を行えば、こういう結果を為すということが歴然と教えてあります。先師曰く『荒地を拓くには荒地の力を以てす』と。荒地を開拓するに、その初め一段開墾をするだけの費用は資本金として必要です。一円か五円か存じませんが、それだけの資本で初年に一段の地を開く。それから取れた米を仮に一石とします。ここに分度を立てると、その半ば五斗を以て明年の食料とし、五斗以上は食べないという分度を立てます。そしてその残る所は分外の物とし、それを来年の経費とし、残り一石を推譲してその翌々年の開墾費に充てます。そういうようにして積算すると、六十年で二四億四四三万四七五一町余の田が開ける。これは決して漠然とした議論ではなく、数字ですから誰がやってもこういう数字が現れて来る。分度を立て推譲するということは実にこのように有利なものです。これは開墾ですが、この道理を商工業に応用するならば、微力な身分の商人でも一代に大きな商人になることは雑作もない。またどんな職人でも一代に大きな工業家になることも雑作もなく、偉い人傑でなければ出来ないということではない。難しい事を平凡な人でも出来るように二宮先生が工夫発明されたのです。具体的に商業で申すと、何商を問わず商業の方法が、年々得る所の利益をただ訳もなく経費に使えば、何十年経っても漸く元通りを維持するに過ぎません。これに分度を立てて分度外の財を以て自分の商業の為に推譲する。客の方でまけろと言わなくても、こちらから進んで推譲する。年々歳々推譲すればその商売は年一年に栄えます。それに従って推譲が厚く出来ます。すると願わず求めずして商業が盛んになる。そして推譲は人を益することが先になって後に自分が得ることですから、分度を立て推譲して為す富ならば、何ほど富んでも人道において差支えありません。このように天下の人が分度を立てて推譲をすれば貧乏人はなくなります。至誠、勤労、分度、推譲を各方面の人々がやれば、財貨も湧くように確かに数字で現われます。天下万人が報徳の道をやれば何百年を期して、金銭財貨は水のごとくになり、人間に真誠の心が出て来ます。天下の富を造るには、報徳の趣旨に基いて、至誠、勤労、分度、推譲を上下通じて日々夜々実行するということが本と考えます。
2022.08.28

夢で「円仁」を象徴するような飛行物体をみた??お面のようなものが羽が生えたものにぶら下げられて、宙を飛んでいった。聞くと「円仁」と言われた。慈覚大師円仁を読むと 霊夢 をよく見られたようだ。偉大な先覚に合掌!!円仁には『入唐求法巡礼行記』という著書があり、読んで感銘を受けたことがある。円仁は延暦十三年(794)、今の栃木県下都賀郡内(しもつがぐんない)で壬生(みぶ)氏の次男に生まれた。桓武天皇が長岡京から、都を京に移した年でもあった。平安時代が幕を開けたのもこの年だった。円仁は早くに父を亡くし、母と兄に育てられ九歳のとき、栃木県の大慈寺の高名な広智(こうち)という僧に預けられる。十五歳(808)で、広智に連れられ比叡山に登る。そこには天台宗を開いて五年目の最澄がおられ、円仁をその弟子となる。円仁は夢の中で最澄にお会いした夢を見ていてその僧が目の前におられるので、大いに驚いたという。最澄のもとで円仁は、厳しい指導を受けて修行に励み、二十一歳で得度。その二年後、奈良・東大寺で具足戒を受戒し、一人前の僧侶になった。二十四歳のときに円仁は最澄とともに関東へ布教の旅に出る。二十九歳のとき、最澄は一心三観の妙義を円仁だけに伝え入滅。円仁はその妙義を胸に三十歳で止観業の年分度者として十二年籠山に入り、一行三昧(いちぎょうざんまい)を修練する日々を送る。籠山六年目のとき、学問僧としても抜きん出た円仁は、先輩や後輩のたっての願いもあり、比叡山を出て布教活動に入る。法隆寺や四天王寺で法華経を講義、次いで東北地方へ出る。「法華経」や天台宗を広めるのが大きな目的で、東山道から故郷の栃木、青森から岩手方面にも及んだ。二年後に比叡山に戻った後も地方に足を運び、その布教活動は全国に及び、現存の由緒寺院は六百カ寺以上を数える。円仁が布教活動から比叡山に戻った四十歳のころ、重い病気にかかり横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)に籠(こ)もり、死をも覚悟していた。円仁は、病後に師最澄の夢を見た。師は「天台教学の心髄と密教を伝えなさい」と告げた。そして三年後の四十五歳のとき、求法僧(ぐほうそう)としての勅命が下り、円仁は遣唐使の一員になって唐に渡ることとなる。台湾の国家図書館に保存されている"入唐求法巡禮行記"の1ページ💛台湾で保存されているのが素晴らしい。その後所在が忘れられていたが、明治に入って写本が東寺で再発見された。1955年には、駐日アメリカ合衆国大使でもあったエドウィン・O・ライシャワーが英訳して紹介し、各国語に翻訳されて広く知られる所となる。が英訳して紹介し、各国語に翻訳されて広く知られる所となる。全4巻、文量は7万字。原本は失われた。1291(正応4)年に京都祇園の長楽寺の兼胤という僧が72歳の時に書写した東寺観智院旧蔵本が最古の写本である。70歳を越えた老僧が老眼鏡もない時代に苦労して書写した写本であり、解読に困難な文字が少なくない。巻一 承和5年(836年)[要検証 – ノート]6月13日条 - 開成4年(839年)4月巻二 開成4年(839年)4月 - 開成5年(840年)5月巻三 開成5年(840年)5月 - 会昌3年(843年)5月巻四 会昌3年(843年)6月 - 承和14年(847年)12月14日条💛70歳を越えた老僧が苦労して書写した写本 というのが超高齢化社会の現代日本にぴったり。円仁の法を求めての冒険は ちむどんどん(心がワクワク)するなあ(^^)「鎌倉殿の十三人」でも高僧が夢の話をして「また夢の話か」と後鳥羽天皇に笑われて、しかも真剣に耳を傾けていた。慈円「過日、夢を見ました。壇ノ浦に沈んだ三種の神器。夢はこう言っていたように思います。失われた宝剣の代わりが武家の棟梁、鎌倉の将軍と。新将軍、大事になさいませ」今昔物語集巻11第11話 慈覚大師亙唐伝顕密法帰来語 第十一 今は昔、承和の御代(西暦834年~848年)に慈覚大師という聖がありました。俗姓は壬生の氏、下野国都賀の郡(栃木県小山市・都賀郡)の人です。誕生のとき、家を紫の雲がおおいました。そのころ、この国に広智菩薩と呼ばれる聖がありました。聖はこの紫雲を見て、驚いて家をたずねました。「この家にどんなことがあったのですか」「今日、男子が生まれました」広智菩薩は父母に教えて言いました。「その子は、将来やんごとなき聖人となる人です。あなたたちは父母であるが、この子をもっぱらに敬うべきです」男子は成長し、九歳になったとき、父母に言いました。「私は出家したいと思います。広智の弟子となって、経を習いたいのです」経を求めたところ、法華経の普門品(観音経)を得ました。広智に随い、これを習いました。あるとき、この子の夢の中に聖人があらわれ、頭をなでました。聖人の傍には人があって、問いました。「頭をなでた人を誰か知っているか」「知りません」「比叡山の大師である。おまえの師となる人だ。だから頭をなでたのだ」夢から覚めて、思いました。「これは比叡山の僧となれということだろう」やがて比叡山に登り、はじめて伝教大師(最澄)に会いました。大師はほほえみ、大いに喜びました。以前から知っている人に会うようでした。夢に見た人と同じ人でした。その後、大師の弟子となって、頭を剃り法師になりました。円仁と名乗りました。顕密(顕教と密教)の法を習い、すこしも愚かなことはありませんでした。伝教大師がお亡くなりになって、思いました。「私は唐に渡り、顕密の法を習いきわめよう」承和二年(835年)、唐に渡りました。天台山に登り、五台山に参り、所々を遊行して聖跡を巡礼し、仏法流布の地に行ってこれを習っているとき、会昌の廃仏に出会いました。皇帝(武宗)が仏法を亡ぼす宣旨を下し、寺塔を破壊し、経文を焼き、法師を捕えて還俗させたのです。皇帝の使者は四方に分かれて寺院を滅ぼしました。慈覚大師はこの使者に出会いました。従者を連れておらず、ひとりでいるときでした。使者たちは大師を見ると、大いに喜んで追いかけました。大師は逃れ、ある堂の中に入りました。使者は堂を開いて探しました。大師はなすすべなく、仏像の間に隠れました。使者たちは大師を見つけられませんでした。そこに新しい不動明王の像があるばかりでした。使者はこれを怪しみ、調べてみると、大師がそのように見えていただけでした。使者は問いました。「おまえは誰だ」「日本の国から法を求めるために来た僧です」使者は恐れ、しばらく還俗させることをやめ、皇帝にこれを奏上しました。宣旨を下しました。「他国の聖である。すみやかに追うことをやめよ」使者は大師を放免しました。大師は喜び、その地を去り、他の国へ逃れました。遥かに山を越えていくと、人の栖(すみか)がありました。城を築き、堅固に周囲を固めていました。門の前には、人が立っています。大師はこれを見ると、喜んで近寄り、問いました。「ここはどういうところですか」「長者の家です。聖人は誰ですか」「仏法を学ぶため、日本の国から渡ってきた僧です。しかし、このように仏法を亡ぼす世に出会ってしまいました。『しばらく隠れていて、事態が収まったら出ていこう』と考えています」門に立った人は答えました。「では、しばらくここにいらっしゃい。ここは人が訪れない、とても静かなところです。世が静まったころ出て、仏法を学ぶべきでしょう」大師はこれを聞いてとても喜び、この人の後について入りました。大師が入った後、門はかたく閉じられました。門を入って、さらに奥の方に歩っていきました。大師が見ると、いくつもの屋根がつらなって、人も多いようでした。大師は空き屋に案内されました。「こんなに静かなところに来たのだ。世が静まるまで、ここにいよう」と喜びました。「もしかすると、ここでは仏法がおこなわれているのかもしれない」と考え、探しまわってみましたが、仏経はまったくありませんでした。後の方に家があって、近寄って立ち聞くと、人がうめき苦しむ声が聞こえました。怪しく思ってのぞいて見ると、人を縛りあげて吊り下げて、下に壺を置き、壺に血を垂れ入れています。わけがわからず問うてみましたが、答えはありません。怪しんでそこを去りました。他の家をのぞくと、また人のうめく声が聞こえました。青い肌をして痩せ枯れた人々が多く臥していました。一人を呼び寄せると、這ひ寄ってきました。「これはどういうことなのですか。とても堪え難いことがおこなわれています」この人は木の棒をとって、縷(いとすじ)のようになった肱を指し延べて、土に書きました。「ここは纐纈(こうけち、しぼりぞめ)の城です。知らずに訪れた人に、まず物を言えなくなる薬を飲ませます。次に肥える薬を飲ませ、その後で、高い所に吊るし、ありこち切って血を出させ、それを壺に集め、その血を使って染めているのです。食物の中に、胡麻のようなものが混じっています。それが物を言えなくする薬です。すすめられたなら、食べたふりをなさい。問いかけられたなら、薬がきいて物が言えなくなったふりをしてうめきなさい。決して言葉を話してはなりません。私たちはその薬を知らずに食べてしまったために、こんな目に合わされているのです。なにか策を案じてお逃げなさい。門は強く閉じられているので、簡単には出られません」人は地にこう書きました。大師はおそろしくて肝を失い、なにも考えることができませんでした。結局、逃げることはできませんでした。人が食事を持ってきました。見れば、教えられたように胡麻のようなものが盛ってあります。食べるふりして懐に差し入れ、外に棄てました。食事の後、人が来て問いましたけれども、うめくだけで答えませんでした。人はうまくやったと思い込んで立ち去りました。その後は、さまざまな肥える薬を食べさせられました。人が立ち去ったとき、大師は丑寅(北東)の方角に掌を合わせ、礼拝しました。「比叡山の三宝(仏法僧)よ、薬師仏(本尊)よ、私をお助けください。無事に故郷に帰らせてください」そのとき、一匹の大きな犬があらわれました。犬は大師の衣の袖に食らいつき、ひっぱりました。犬の引くままに行くと、通り抜けられそうもない水門がありました。犬はそこから大師を引き出しました。外に出ると、犬はいなくなっていました。大師は泣きながら喜んで、足の向くまま走りました。はるかに野山を越えて人里に出ました。人に問われました。「聖人よ、どうして走っているのですか。どこから来たのですか」大師はこれまであったことを語りました。「それは纐纈の城です。人の血をしぼって世をわたっているのです。そこに行った者で帰ってきた者はありません。まさに仏神の助けでなければ、逃れることはできなかったでしょう。あなたはかぎりなく貴い聖人です」人はおおいに喜んで去りました。無事に逃げ去ることができ、王城(長安)に至って聞くと、皇帝は崩御されたと聞きました。次の皇帝(宣宗)が即位して、仏法を亡ぼすことはやめたと聞きました。大師は本意のように、青龍寺の義操という人を師として、密教を習い、承和十四年(847年)帰朝し、顕密の法を弘めたと語り伝えられています。
2022.08.28
なぜ第7波は大流行になったのか~8/25(木)濱田篤郎・東京医科大学病院渡航者医療センター特任教授第7波流行前の日本と欧米諸国とのいくつかの相違点第1の相違点は感染免疫の差です。日本では6月までに、新型コロナの感染により免疫を獲得した人がまだ少なかったのです。例えば、2月に国立感染症研究所が行った調査では、日本での感染免疫による抗体陽性率がわずかに4.3%でした。一方、同じ時期に米国で行われた調査では、この陽性率が57.7%と10倍以上に達していました。米国だけでなくヨーロッパ諸国でも、21年12月からオミクロン株(当時はBA.1)が大流行したことで多くの人が感染し、感染免疫を獲得したと考えられています。 しかし、この時期に日本では、厳しい水際対策や行動制限が取られており、オミクロン株の流行はかなり抑えられていました。このために感染者数はあまり増えず、その結果、感染免疫を持っている人が22年6月ごろまでは少なかったと考えられます。BA.5の感染を防ぐには、ワクチンによる免疫に加えて、過去の感染免疫が有効なのです。そして第2の相違点は水際対策の緩和時期です。欧米諸国では21年の後半から緩和を開始し、それにより21年末からオミクロン株が大流行を起こします。一方、日本では22年6月から水際対策を大幅に緩和しますが、ちょうどその時期にBA.5が世界的に拡大を始めました。この時の対策緩和により、かなりの数のBA.5感染者が、国内に流入したと考えられます。その結果、感染免疫が低い状況にある日本で大流行を起こしたのです。この時期はワクチン接種の効果が減衰しており、それも第7波の流行に拍車を掛けました。第7波はいつ頃、収束するのでしょうか。今の流行状況からすれば9月以降になる可能性が大きいようです日本では第7波の流行で、かなり多くの人が感染免疫を獲得しましたが、欧米諸国などに比べるとまだ少ないようです。また、第7波では、ワクチンの追加接種で重症化予防効果が維持されており、重症者はあまり増えていません。しかし、こうした効果も次第に低下し、次の波では重症者が増加する可能性も高くなります。現在の日本では第7波への喫緊の対策を実施しながら、秋以降の流行に向けた根本的な対応にも取り掛からなければなりません。後者には感染症法における新型コロナの位置付けの変更や、コロナ診療体制の再構築などがあります。さらに、秋以降の流行への切り札として、オミクロン株ワクチンの接種準備も進める必要があります。このワクチンを国民に広く接種することで、秋以降の流行による被害をかなり軽減させることができるでしょう。♠つまりは、オミクロン株ワクチン頼み?!それにしても国内開発ワクチンがなかなか承認されない・・・【新型コロナ】「第7波」短期間で悪化、死亡も 「2時間前には廊下を歩く姿が…」8/27(土) 新型コロナウイルスの流行「第7波」では、短期間で症状が悪化するケースも報告されている。神奈川県厚木市の70代男性は、入所していた高齢者福祉施設でクラスター(感染者集団)が発生し、今月3日に抗原検査を受けて陽性が判明。発熱などの症状から軽症と診断され、施設内で療養していたが、5日夕方に施設内のトイレで倒れているのが見つかり、死亡が確認された。 2時間ほど前には、廊下を歩く姿が目撃されていたという。男性の死因は新型コロナで、循環器系の基礎疾患があった。
2022.08.28
💛馬場さん、橋本さん立派、チームとしても立派 パチパチ 若い力が躍動するのは素晴らしい。全米女子アマV馬場咲希、ハーフ終え首位と3差4位 チーム戦はキャプテン橋本美月が猛チャージ2022年8月27日5位から出た全米女子アマチュア選手権優勝の馬場咲希(17=日本ウェルネス高2年)はハーフを終え、3バーディー、2ボギーの35で回り、通算5アンダーで首位と3打差の4位につけている。スタートの1番パー4でボギーが先行も、続く2番パー4でバーディーとバウンスバック。4番パー4でボギーをたたいたが、続く5番パー5でバーディーと粘りのゴルフが続いている。それでも、8番パー4で3つ目のバーディーを奪いスコアを1つ伸ばして前半を折り返した。チーム戦では、8オーバー、46位から出たキャプテンの橋本美月が猛チャージ。前半だけで5つのバーディーを奪い、馬場の1アンダーと合計を12アンダーと伸ばし、首位のドイツに1打差の2位に浮上している。28位から出た上田澪空(17=共立女二高2年)は、2バーディー、2ボギーの36で回り、25位につけている。<女子ゴルフ:世界女子アマチュアチーム選手権>◇最終日◇27日◇フランス・パリ、ゴルフ・ド・サンノム・ラ・ブルティッシュ(6160ヤード、パー72)ほか2コース◇56の国と地域、168人出場5位から出た全米女子アマチュア選手権優勝の馬場咲希は、5バーディー、3ボギーの70で回り、通算6アンダーで首位に1打差の4位だった。馬場はスタートの1番パー4でボギーが先行も、続く2番パー4でバーディーとバウンスバック。4番パー4でボギーをたたいたが、続く5番パー5でバーディーと粘りのゴルフが続いている。それでも、8番パー4で3つ目のバーディーを奪いスコアを1つ伸ばして前半を折り返した。後半も12番パー5でバーディーを奪い、首位と1打差の4位につけた。しかし、13番パー3でボギーをたたき1歩後退。それでも終盤の17番パー5でこの日5個目のバーディーを奪い、通算6アンダーで初めて日本代表として臨んだ大会を終えた。チーム戦では、8オーバー、46位から出たキャプテンの橋本美月(19=東北福祉大2年)が7バーディー、3ボギーの68(28位)と4つ伸ばし、馬場の2アンダーと合わせ6つ伸ばして、通算12アンダーで13アンダーで首位のスウェーデンと米国に1打差の3位に入った。28位から出た上田澪空(17=共立女二高2年)は、4バーディー、2ボギーの70で回り、通算1オーバーで16位だった。2022年米国女子アマチュアワシントン州ユニバーシティ・プレイスのチェンバーズベイで行われた2022年全米女子アマチュアの準々決勝、11番ホールでリアクションする馬場早紀とキャディ。(写真:ダレン・キャロル/USGA)。馬場早紀は、今回がUSGA3度目の優勝だが、全米女子アマは初出場。世界アマチュアゴルフランキング45位、今週は第34シードに入った17歳の馬場は、パインニードルズロッジ&ゴルフクラブで行われた2022年全米女子オープンでカットした4人のアマチュアのうちの1人だった。2022年全米女子ジュニアでは、共同メダリストとなりラウンドオブ32に進出した。主な優勝歴は、2022年関東女子アマチュア選手権、関東ジュニア選手権など。
2022.08.28

岸田首相、アフリカへ官民4兆円超=中国念頭、債務健全化を後押し―TICAD8が開幕2022/08/27日本主導でアフリカへの支援や投資について議論する第8回アフリカ開発会議(TICAD8)が27日、チュニジアの首都チュニスで開幕した。岸田文雄首相はオンライン形式で開会式に出席し、今後3年間で官民合わせて総額300億ドル(約4兆1300億円)規模の資金を投じると表明。債務健全化の改革を後押しする方針を掲げるなど、過剰融資が問題視される中国との差別化を図った。首相は、日本とアフリカを「共に成長するパートナー」と位置付け、「」人への投資」と「成長の質を重視する立場を説明した。その上で、グリーン成長やスタートアップ支援に取り組むと伝達。産業や保健・医療などの分野を中心に、今後3年間で30万人の人材育成を行うと明らかにした。 インフラ開発などのため、アフリカ開発銀行と協調し、最大50億ドルの融資を行う方針も示した。このうち、透明性の高い開発金融の実現に向け、日本として10億ドルの特別枠創設を表明。中国が途上国に多額の借金を負わせて影響力を強める「債務のわな」を念頭に、「強靱(きょうじん)で持続可能なアフリカを支援する」と強調した。「ケニアのGDPの半分がモバイル決済」のワケ、アフリカで勃興する新たな経済圏日本植物燃料 合田氏が行う事業はバイオ燃料の製造・販売だ。新興国ではいまだ電気が通っていない地域も多く、人々は発電機を頼りに電化製品を使っている。合田氏はこの発電機を動かすためのバイオ燃料を手掛けている。アフリカ・モザンビークの農村でバイオ燃料の生産効率が良い作物を配って農業をしてもらい、生産された原料を買い取っているそうだ。 もともとこの事業は東南アジアで行われていたが、進出先を探していた時に受け入れてもらえたのがモザンビークの村だったという。 合田氏は買い取った燃料で発電を行い、村に冷蔵庫を設置。冷蔵・冷凍された食料品を売り始めた。事業は好調で、村の人を雇って運営を続けていたが、ある日店舗の売上の3割がなくなってしまった。 これに対策するため合田氏は会計にデポジット型の電子マネーを導入。以降、売り上げが消えることはなくなり、販売所は地域のお金を管理する銀行のような場所へと変化していった。従来、この村ではお金は地面に穴を掘って保管していたそうだが、洪水やシロアリの被害で無くなることも多かった。電子マネーが普及したことで村の人たちは喜んだという。 さらに合田氏は電子マネーをバイオ燃料の原料買い取りにも応用。電子マネーを導入することで、誰が、いつ、どれくらいの原料を納品したのか、正確に把握できるようになった。今では電子マネーを媒介に与信が成り立つようになっているという。「今まで、モザンビークの農村部ではサービスや製品の売買履歴が記録されていませんでした。電子マネーを用いれば売買の履歴が正確に把握できます。農村のデジタル化で実現したいことは、『努力を見える化』すること。与信を可視化して記録すれば、前向きに仕事に取り組む人も増えていくはずです」(合田氏)
2022.08.27

イチロー、マリナーズに感謝 28日に球団殿堂入り式典2022/08/27イチローさんが26日、本拠地シアトルの球場で記者会見「生きていると何が起こるか分からない。(マリナーズとは)説明できない縁がある。僕に(メジャーでプレーする)機会を与えてくれて、それに応えたい自分がいて、時間とともに関係性がつくられた」A:まあ、生きていたら何が起こるかわからないということ。誰も想像していなかった。僕自身もきょうこの舞台にいることを、どのタイミングでも想像できなかった。Q:マリナーズ以外の球団でもプレーしたが、なぜこの球団に特別な思いがあるのか。A:僕はフリーエージェントでシアトルに来たわけではなくて、当時のポスティングシステムでマリナーズが交渉の権利を獲得してくれたが、説明できない縁があるというか。もちろんマリナーズでプレーしたかった。1999年にキャンプに参加してなじみもあったこともあって、当時でさえ特別な感情はあった。僕に機会を与えてくれて、それに応えたい自分がいて、時間と共に関係性が作られた。そんな関係だと思っている。Q:大リーグに挑戦した時はどれくらい自信があったのか。A:それは日本で9年プレーして、7年が1軍だが、その経験が最も大きかったと思う。だからアメリカに来てシーズンが始まってから自信を得たわけではなくて、僕の中ではスプリングトレーニングの時から自信はあった。Q:グリフィーなど、マリナーズの伝説の人物たちの仲間入りを果たしたことについて。A:いやもう信じられない、それは。きょう(グリフィー)ジュニアに久しぶりに会って、やっぱり輝いている。スターはスターだっていう感じ。ジュニアを見るといつもそう思う。そこと同じ舞台とは僕はとても思えないが、僕なりのアプローチでこれからもマリナーズの力になれるように頑張りたい。Q:自身のキャリアのことを考える時間はあったか。A:僕は何か記録と向かってきた時によくこの話をするが、とにかく小さい頃から体が細かったこと。野球選手としては決して大きくなかったことが僕の中で邪魔してきたわけではなくて。第三者が見た時、必ず「細すぎて無理だろう」と。小学生の頃、中学生も高校に行った時も、プロに行った時も、メジャーに行く時もずっとそれとの戦いだったので、その事をよく思い出す。小さい頃からのそのストーリーが僕の中にある。ただ、そういう声を結果で黙らせる快感を僕は知っている。その積み重ねが今ここにある僕だという、そういう感覚。Q:ファンに向けてメッセージは。A:それはあすにとっておきたい。Q:今でもプレーしたいか。A:それもよく聞かれる。ただ、東京ドームでも最後がこれ以上ないという終わり方をさせてくれたので、ファンの方々が。そういう気持ちが一切起きない。まだできるという感触はもちろん体にはそのフィーリングはあるが、感情的にあれを上回る最後はありえないので、僕の中に。そういう意味でも終わり方ってすごく大事なんだなというふうに、よくこれは振り返る事。ただ、ケージの中で選手たちとまだ戦うチャンスはたくさんあるし、そうやって今は楽しんでいるところ。Q:引退後にチームを助けることは何を意味するのか。A:選手たちから何かを要求された時に、応えられる状態でありたい。そのためには今やっていることを続けないと絶対にできないので、元選手が口だけで何かを伝えるのと、自分が一緒にプレーして何かを伝えるのでは、伝わることが全く違うと思う。それはメジャーの選手であっても、僕がオフシーズンに接している高校生たちであっても、同じことなのではないかと思っている。あとやっぱり、勝負している選手たちの周りにいる立場として、僕が動くのをやめてしまったらきっと体から出てくるあふれるエネルギーがなくなっていくと思う。アスリートというのはそのエネルギーをやっぱりキープしたいというか、もっと僕は選手の時とは違ったプラスのポジティブなエネルギーを持ちたい。そういう気持ちもある。Q:日本の文化でアメリカに見習ってほしいもの、逆に日本に持って帰りたいアメリカの考え方とは。A:アメリカの人ってごはん食べに行って、じゃあまたあしたとかさよならってする時に、さよならしたら二度と振り返らない。日本人って、みんなそうとは言わないけど、多くの人は最後まで見送る。見えなくなるまで。で、最後もう1回振り返っておじぎする。その文化は僕は大好きで、1回くらい振り返ろよと思う。それはよく思う。ただそれはもう文化の違いというか、習慣の違いがあるから。いいとか悪いとかじゃないが、僕はそれは好き。アメリカの文化で日本に持ち帰りたいもの、なんでしょうね。どこに行っても生きていけるメンタリティーを持っていそうな雰囲気。雰囲気って言っちゃったね。それこそシーズン最後の試合を戦って、162試合目でシーズンが終わったとする。もう一生会わないかもしれない人たちもたくさんいる。それを受け入れているんですよね、自然に。僕はまたどっかで会えるかなとか、会いたいなとかって思ってしまうが、彼らはそういうのはなさそう。またどっかで会ったらお互いに喜ぶが、その瞬間は一生会えないかもしれないけど、それが生きていくことだということを認めている。どうですか、その感じ?どう?僕の個人的な感覚なのかな。それは強いなと思う。そのメンタリティーは羨ましいなと思う。Q:何年もチーム状態が悪くても、やることは全く変わらずプレーした。A:なかなか答えづらい質問。心が折れそうになった時、何度もありますよ、ご存じの通り。そこでふんばってよかったと思う。それに負けるのはありえない。それと向き合わないというその選択肢は、僕の中には(ない)。大変だったけど。やっぱりダメなものはダメだって僕は性格上言ってしまう。いいものはいいという性格なので。チーム内でも当然いろいろあった、その時期は。でも時間がたった時に「ああ、俺あそこで負けちゃったな」という後悔はやっぱりしたくない。あの時はすごく孤独だったが、向き合ってよかったなと思う。Q:チーム状態がよくない時でも成績を残す選手は、いいチームでプレーするべきだということへの考えは。A:見ている人はそのほうが楽しいだろうし、何か変化があったほうがと望む人は多いのではないか。それに振り回されてもいけない。今ある状態、ルール上ある状態の中でやるというのは当然だと思う。Q:現役時代とはまた別の野球への向き合い方の中で、新たな発見は。A:無理をすると体はぶっ壊れるということ。現役の時はできなかった。無理をする1歩手前でやめていた。だから大きなけがはなかったが「これあと1歩いったらどうなるんだろう」というのが今はできてしまう。でもそれをやるとぶっ壊れますというのが今回経験してよくわかった。大変です。これ選手でやっていたら、もうあと1年プレーできない。だから自分が現役時代に、ここで今やめなきゃというセンサーを持っていたことが、それがなかったらやっぱりきょうもないと思う。現役の選手たちもそれを壊す人たちがほとんどなので、それは持っておいてほしいと願う。Q:イチローさんの後に大リーグに野手が来た。A:そんなに来ました?少なすぎるでしょって思う。いずれ各チームに野手は最低1人ずつ、当時はそういう状況を20年たてば考えられなくもないと思っていたが、全然そんなことない。だから当時とそんなに感覚的には変わらない。まあ少なすぎですね。Q:今後、日本選手がイチロー選手と同じようになるには。A:難しいところ。やっぱり時代もある。今、例えば2022年に新しく日本から来た選手が、2001年の時に僕が感じたことを同じように感じるかというと、それはないと思う。今は正直な表現がなかなかできないこともあって、選手が何を考えているのか、特にチームメイトが何を考えているのかなんて、表面上わからない。すごくいい関係に見えても、実は違うというケースはあると思う。当時は悪い関係は悪く見えたし、いいものはよく見えた。今の時代はそこがややこしいなと思う。余計なことを言いそうだからこの辺でやめたいな、この質問。余計なことを言いそうだっていうセンサーが今働きました。そのセンサーも大事。
2022.08.27

8月27日のブラタモリは鳥取県の堺港のある地形。ゲゲゲの水木先生の生まれ育ったところ。ゲゲゲの秘密がいっぱい。淡水レンズ というのを初めて知った。砂州が大きく広がる一帯を掘ると淡水の層が出てくる。それを利用してこの地方では綿花栽培が盛んにおこなわれ、鳥取藩の財政を支えたという。なぜ砂州の土を掘ると水がでるのか?それは淡水が海水より比重が軽いから、まじりあわないで分離する。つまり雨が降ると土壌にしみて淡水がレンズ状に蓄積される。それをわかりやすい模型を使って再現してくれる。なるほど初めて淡水レンズという言葉と現象を知った。東京など関東で環水平アークが出現8/27(土)27日(土)は東京の上空で刷毛で描いたような虹色の雲が見られています。この虹色の帯は「環水平アーク」と呼ばれる現象です。「環水平アーク」は、上空の薄雲を構成する氷の粒が太陽の光を屈折させることで現れる光学現象のひとつで、太陽の中心から下方46度前後の空の低い所に出現します。水平に長く伸びる虹の帯となることから「環水平アーク」と呼ばれ、太陽高度が68度前後の時に最もはっきり現れます。💛きっと見たことあるけど、名前と現象を知らなかったんだ。
2022.08.27
「今の人類の“最強の武器”にも耐性を持ってしまいお手上げ状態」コロナで増加した「薬剤耐性菌」医師が明かす“最初のパンデミック”8/27(土) レニック医師「私たち人間は常に細菌と戦っている状況です。大正時代とかだと子どもでも大人でもこの『細菌の感染』によって死んでしまうことが日常茶飯事でした。その後、20世紀に“魔法の薬”ができたのです。それが『抗菌薬』というものです。飲むと細菌がなくなるという治療薬でしたが、残念ながら、最近ではその抗菌薬が効かなくなるように細菌が進化しているのです」「どうしてそうなったかというと、実は抗菌薬を使えば使うほど細菌が『耐性』を持つようになるからです。感染しているときにも体には何億もの細菌があり、突然変異などによって、少しだけ耐性がある菌が残ってる状態なので、抗生剤を飲むと使った抗菌薬に耐性を持った菌だけが生き残る状態になるのです。そして、そこから増えた菌が他の人にも伝染ったり……。特に病院ではその過程が繰り返されて“薬剤耐性菌”が増えているという状況です」 「薬剤耐性菌が増加している」。そう話すレニック医師は、コロナ禍で薬剤耐性菌が増えたことについて「コロナウイルスには効果がないのに抗菌薬を使ってしまっていた」と、最初のパンデミックの状況を振り返った。レニック医師「CDCの発表にあったように、アメリカではコロナ患者のうち、8割が抗菌薬を使っていました。実はコロナは、ウイルス性感染としては全く抗菌薬が効きません。それでも抗菌薬を使ってしまっていた状況があり、その抗菌薬の使いすぎが問題です。その当時も医療のひっ迫などがあり、『本当に抗菌薬を使うことが適切なのか』という判断ができていなかったかもしれませんが、この過剰な使い方によって耐性菌が増加したのです」抗菌薬を適切に使用できなかったことが薬剤耐性菌を増加させてしまった。こうした薬剤耐性菌への対策が後退している状況について、CDCの抗菌薬耐性調整・戦略ユニット長のマイケル・クレイグ氏は「我々が対策を怠れば“薬剤耐性菌”の拡大は止まらない」と強い危機感を示した。こうした報告について、レニック医師は「私も一言で言うと『怖い』です」と同意を示す。レニック医師「私たちは昔『ペニシリン』という抗菌薬を使っていましたが、耐性菌が溢れてしまい、使う場面は極端に少なくなりました。その後もう少し強い武器、強い抗菌薬を使いますがそれにも耐性を持つ菌が増え、まるで“いたちごっこ”のようになっています。そうした段階を踏んでいった現在の耐性菌は、先程CDCの発表にもあった『カルバペネム耐性』や『バンコマイシン耐性』など、“今の人類の最強の武器”にも耐性を持っているということです」「これは、例えるなら人間と宇宙人が戦争しているときに原爆耐性を持った宇宙人が出てくるような本当にお手上げ状態なのです。薬がどんどん強くなっているものの、それにも耐性ができて効かなくなってしまうかもしれないという怖さがあります」現在の耐性菌はお手上げ状態と明かしたレニック医師。今後の対策として「なんとなくで抗菌薬を使うのではなく、適切なタイミングで適切な症状に使用してほしい」と考えを話した。レニック医師「命に関わる状況とは全く関係ない、風邪症状があるときでも『早く治らなきゃ困るので抗菌薬をください』という患者が多いです。ですが、風邪を治す薬というものはそもそも存在せず、全て対処療法なのです。それでも『どうしても抗菌薬を出して欲しい』という患者がいると、絶対に抗菌薬が必要ない場合だとしても薬を処方してしまったというケースがCDCのデータでも3割あります」「抗菌薬は、貴重な存在で最小限に使うことが重要だという意識が重要です。メリットばかりに目を向けるのではなく、デメリットにも目を向けて適切な使用を心がけて欲しいと思います」エンデミックに至る過程で予想される大量の高齢者の死 今が未来を変えるラストチャンス8/21(日)――新型コロナの感染者数が季節性インフルエンザの数倍から10倍になる「エンデミック期」には、どういう人が感染し、どういう人が亡くなるのでしょう?年齢群別にどうなるのか見てみましょう。人口全体では少なくとも数%ぐらいの感染者が出ることは覚悟しなければならないと、前編の説明で分かったと思います。一方、年齢別にSIRSモデルで分析した研究が、イギリスのインペリアル・カレッジ・ロンドンの若手研究者から報告されています。デルタ株での分析ではありますが、彼女らは日本がこの先どうなるかも昨年夏に先んじて分析しています。その時に重要なのは、今は流行が著しいエピデミック期ですが、その後、ミッドターム(中間期)という移行期間を経た上で、ウイルスが定着したエンデミック期に至るということです。このミッドタームは、少なくとも今後数年から5~6年はかかるだろうと考えられます。そして、この間に日本でたくさん死者が出るのではないかと分析されています。エンデミック期はウイルスが常在している状態なので、成人がみんな新型コロナウイルスに感染して、何回も反復感染するループに入ります。その前のミッドターム期では、エンデミック化を受け入れるため、高齢者が多い国ではかなり多くの高齢者が自然感染せざるを得ません。それをくぐり抜けないと、エンデミックには到達しません。超高齢社会の日本にとって、最も大事な期間がこの後に始まろうとしていることを認識しなければいけません。この研究で分析した国で最も死亡者が増えると予測されているのは日本だ(西浦博さん提供)――日本はイタリアよりも死亡者の割合が多くなる可能性が高いですか?はい。実を言うとイタリアより多くなります。これはこの研究の著者が、さまざまな高齢国をシミュレーションしてくれたグラフです。灰色のラインが免疫持続期間が3ヶ月の場合です。赤で囲ってあるのが日本ですが、ここで分析している国々の中で最も多い死亡者数になっています。日本は超高齢国として知られていますが、極めて厳しい状態です。しかもこの状況がずっと持続する。エンデミック化した時の介護の現場がどうなるだろうと想像してみて下さい。コンスタントにクラスターが発生するでしょうし、その機会に利用者の人たちにお迎えが来てしまうでしょう。そういうことを繰り返さざるを得ない社会が来ます。ハイリスクの場とは言え、面会の制限など極端に厳しい感染予防もどこかで諦められると思います。社会としてコロナを皆さんで受け入れることになるので、感染頻度もこれまでよりも高くなります。無防備に自然感染させるがままにしていると、エンデミックに至るまでのミッドタームでかなりの数の高齢者が死ぬことになります。他の国と比べると、高齢者が多い日本は分が悪いです。専門家がこれまでやってきたことを思い出してほしいのです。日本は最少の死亡者数で済むように対策を打ち出してきました。しかし今のままで全面緩和してしまうと、世界で賞賛されている死者数の少なさを捨て、ワーストに一気に名乗り出ることになります。それを打開するためには、長期間免疫を持続するワクチン、またはどんなウイルスにも効果があるようなワクチンが出て、みんながウイルスから守られる状態ができることですが、それはなかなかできないでしょう。それならば、高齢者の比率が多い国なのですから、感染レベルができるだけ低い状態を保って、監視を続けた方がいい。ミッドタームを無防備に過ごすのではなく、ゆっくりゆっくりエンデミック化させることは今の日本ならできます。欧米ではできそうにないですが、日本はそれが実施可能なチャンスを与えられていると思います。社会の中でだんだん呼びかけが機能しなくなっていますが、向こう3ヶ月間は感染者が増えそうだとデータから予測されたなら、重症化リスクの高い人のブースター接種を一気に進めて、後期高齢者を守る。そのやり方なら、日本社会で合意を得られそうだと思うのです。完全ではないでしょうが社会経済活動も続けながら、感染レベルが低いまま推移して、無駄な死亡を防ぐ。そんな社会を作ることが日本ならできるはずです。
2022.08.27

「報徳の精神」 鈴木藤三郎(「斯民」第二編第十号) 十九歳の頃、立身出世がしたい金持ちになりたいと思いました。私は元来若年より全く学問の素養がありません。私は十八歳まで世の中の事は一向念頭にありませんでした。世の中だけでなく自分についても何の頓着もない。ところが十九歳の頃、こうやってボンヤリ動いていても仕方がない。人と生まれたからにはどうか立身出世がしたい。こういう無法な考えが起こりました。その時、学問も知恵もなし別に偉い者になることは望みませんが「金持になろう。金をこしらえた人は、自由に欲しい物を買い、立派な衣服を着たり威張ったりする、富者となりたい」という単純な考えを起こしました。富者になるには何でも自分を土台にして自分の益になることならば何でもする。こういう我利我利亡者の考えで四,五年の間飛び回りました。 「報徳の精神」は、人はすべて世のため人のために勤めるべきと説く。明治八,九年の頃でした。フトした機会で二宮先生の遺教の報徳教を耳にしました。そして先輩にこの報徳の教えを聴いてみました。すると私の従来是なりと考えていた主義は、人道に背いている。そこで報徳の精神を当時の先輩から聴くと「人たる者は己れというものは虚にして、そしてすべて世のため人のために勤むべきである」。すると私がこれまで「何でもすべて自分のために勤める。自分のために働く。自分のためにする。すべて自己さえよければよい」と思っていたことはちょうど裏になる。しかし私はそれをごもっともとする勇気もありません。それから先輩諸氏に教えてもらいました。何のために人は自分を虚にして、世のため人のためにしなければならないのか。要するに人が今日社会にいるのは天地の恵みは申すに及ばず、皇恩、父母の恩、その他先人の遺徳によって、今日このようにしていられる。例えば大学者がいても先人から学問を遺されていなければ学ぶことができない。その他すべて政治でも実業でもこのようです。そういう訳で人は生まれながらにして既に大変な恩を受けている。だからその恩に報じなければならない。それが人の道である。ただ自分のためにするということではいけない。既に受けている恩徳に報いることを以て生涯勤めなければならない。これが即ち報徳である。この報徳は一切の人すべて身分の高い人でもそれだけの恩徳を受けているから、それに向かって恩を返す、それが報徳である。この身分の上下を問わず、この報徳は人間の道であるということに帰着したのです。 報徳の道は実行を尊ぶ。私は今後どうすればよいか。 私はそれならば今後どうすればよいか、報徳の真の大義をやりたい。そういう考えが起こりました。二宮先生の教えは実行を貴ぶ。ただ道理が分かって感服したからといって報徳という訳にいかない。どうかそれを自分の執る仕事の上にそれを実行して行かねばならない。それで自ら行う時はどうすればよいか。二宮先生は野州桜町に行かれた時、小田原侯から用金をお遣わしになって四千石の領地復興を命じられた。二宮先生は「金は要らない。金は持っていかなくても、仕事は確かに引き受けた」と言われた。すると小田原侯が「今まで誰が行っても、金を沢山入れても興らなかった。それを金なしにこの荒蕪を興すとはどういう訳か」とお尋ねになった。二宮先生は「荒地は荒地の力を以て開きます」野州桜町の四千石の領村はほとんど荒地になって実は八百俵しかなかった。「この荒蕪を興すには、荒蕪の力を以て興します。我が邦(くに)が開闢以来今日までに開けたのは、決して外国から金を入れたのではない。我が邦は我が邦の力を以て開けたのです。この開闢元始の道に基いて四千石の興復をしますから金は要りまん」と先生は家財から垣根に至るまで一切を売却しそれを資本として、あの事業をされた。それから「荒地は荒地の力を以て開くだけでは分からない。どのようにするのか」と尋ねると、まず始め元資金として仮に一円ある。その金で一反歩の荒地を開く。すると米が二俵取れる。二俵取れた中の一俵を来年の開墾費に投じ、また一反歩の土地を開く。すると翌年二反歩から得るものは四俵です。四俵得ればその中の二俵を開墾費に充て、翌年開墾すると、今度は四反歩の開墾ができるというようにいわゆる推譲を行うのです。そして年々歳々このようにして行くと、初め一円の金を元としたのも、六十一年目には非常に大きな開墾ができる。こういうことをハッキリと数字に挙げてやっていったのです。 私は「荒地開拓法」を自分の菓子屋で実行してみました。私が考えるにもし農業が本職ならば直ちにそれを応用してもできますが、私は小さい町の町人でした。別に田地を持っていない、また農業は少しも経験がない。これは農業のみではあるまい。天下の事業、すべてこの通りでなくてはならない。この精神をもってこの法に基づいて、どうか自分が実行したいという念がその時に起こりました。その時私は親から受けた小さな菓子屋をしていたので、まずこれに当てたいと明治十年一月一日を紀元とし今後この教えに基づいてできる限り世の中に働いて見たいと思いました。荒地開闢の方法をまずその小さい菓子の事業に応用する積りで十年から十四年に至る五年間の予算を立てました。そして一月一日から実行しました。五年間で売上が八倍以上、資本金が五倍以上になりました。明治十四年の大晦日にどうなったかというと、明治九年まで一年間の売上高が一三五〇円しかない。資本金は二六五円です。ところがその法を自分でやった十四年の暮れまでに売上高が一万二千円になり、資本金が一三五〇円と増加しました。私はこれはよいと思いました。しかしこれは自分の考えから、農業の方で明らかに計算してあることを、こういう仕事の方へ私が変用したのだから確かではない。先輩に鑑定を請うたほうがよいと五年間の帳面を集めて岡田良一郎先生の所へ年礼の時にお話しました。その時に岡田先生から「至極面白い。こういうふうに応用したのは、お前がまずともかくもここでは初めてである。この通りでよいからやるがよい」と許可を得ました。それから私はその後、砂糖をやったりいろいろやりました。ですからすべて何の事業でも、こういう報徳の心を心としまして、この方法に則ってやるならば、大きく申せば天下の事業、すべて成らざるものはないと私は信念を深くしました。それから私は今日まで三十年間その方針で参ったのです。これは私自身の非常につたない事を皆さんにご披露することで非常に恐縮ですが、ただ自分の工夫の少しばかり履んだことと、その当時考えましたことだけを、かいつまんで申し上げたわけです。 報徳の精神で活動すれば事として成らないことはない。 この報徳は、ひとり事業のみではありません。この精神を天下の政治に用いれば、国家は富強になり、またどんな事業に用いても。この精神で活動すれば事として成らないことはない。実にこの報徳は万能丸です。二宮先生は「我が道は神儒仏三味一粒丸であるから、この報徳という丸薬を服用する時はいかなる困難もたちどころに免れる。いかなる貧賎も富貴に転ずる。いかなることでも、この報徳という丸薬を飲めば解決が付く」といわれました。ただしこの丸薬は飲む時には、まず己に克って己を虚にして、強い決心をして飲まないと飲めない。どうかこのような妙薬ですから「報徳の精神」をお用いになることを私はお願いしたいのです。
2022.08.27

遠州における報徳の来歴遠江地方にあっては弘化嘉永の頃、相州蓑毛村の人、安居院庄七という者が来て、報徳趣法というものを説きました。当時浜松の下石田村の神谷与平治が有志とはかって一社を組織しました。弘化四年(一八四七)三月で、本県における報徳結社の最初です。以来、各地に会を設け、人々を集め、庄七の指導によって専ら報徳の道の実行につとめ衰えた村を救済し、風俗が正常となるようはかってきました。文久三年(一八六三)に庄七が亡くなってから報徳の道が衰退しました。有志の者はこれを憂い、小田原報徳社員福山滝助を招いて、報徳の教えを振興しようとしました。その結果は空しくなく、結社の数も次第に増加しました。明治四年(一八七一)に滝助は報徳遠譲社を組織し、付近の各社の統一を企画しました。これより先、周智郡森町の新村里助は早くから安居院庄七の教えを受けて、有志を集めて一社を組織しました。これが森町報徳社で報本社の起こった遠因です。遠州地方において報徳結社の数が次第に増加してきたので、この総括の必要により、明治八年(一八七五)に岡田佐平治等が有志の者とはかって浜松町に始めて遠江国報徳本社というものを設置して、遠譲社と連絡を通じて、報徳の道を研究し、遠州地方の報徳社員の集会機関となしたことから、次第に発達してきました。その後、報本社はその支社を率いて分離し、遠江国報徳社はその支社を監督指導し、こうして今日の盛況を見るにいたりました。以上が静岡県における報徳沿革の大要です。その詳細は各社の沿革の項目に記載するので略します。なお報徳の教義の発達にともなって風化の及ぶところ、自然とこれと目的を同じくする社団が設立されるようになったので、これを末尾に挙げました。各社の概要を1所在地、2沿革、3組織、4事業 一貸付二風教三殖産興業四教育五難村救済、5本社支社社員数及び資産、6創設者の順に掲げる。1 安居院庄七は、二宮尊徳の正式な門人ではない。庄七は相模国大住郡蓑毛村(神奈川県秦野市)の大山修験密正院の二男に生まれ、曽谷村の穀物商磯屋安居院家に婿入りした。穀物商いに失敗し、金次郎から無利息貸付金を借りる目的で、天保十三年(1842)に野州桜町陣屋を訪れたが、面会を許されない。尊徳は五十六歳、この年の十月に幕府の御普請役格に召し抱えられる。庄七は風呂番として陣屋で働き、尊徳が門人や来訪者に話す報徳の教えに感化された。帰郷後、報徳仕法を商売に適用して成功し、報徳仕法が良法と確信した庄七はその伝道を決意する。遠州で最初に受容したのは長上郡下石田村(静岡県浜松市)の神谷与平治であり、弘化四年(1847)下石田報徳社が設立された。翌嘉永元年(1848)岡田佐平治も庄七に面会し、倉真村下組に報徳社を結成した。その後、遠州各地に報徳社が結成されていく(『二宮尊徳』大藤修著p.287)2 なぜ遠州で安居院流の報徳運動が広まっていったのか。 「安居院の報徳手法は農民が主導して活動していくことに特徴があった。安居院の指導の下で、村の地主が働き、村人全員で村興しが始まった。この評判を岡田佐平治が知り、第二の報徳社が倉真に創立された。これを機に安居院流報徳運動が大きく広がっていった。安居院庄七と福山瀧助の四十二年間は遠州の農村の生活を根本から変えた時代となった。」(報徳のリーダーの心意気(三遠農学社)」池田充義著『遠州報徳の夜明け』所収) また「安居院庄七は農事革新の種を蒔いた。文久元年の四石取り秘伝書に短冊苗代、薄蒔きの法、正条植え等が図入りで詳しく説明する。当時正条植えを報徳植えと称し、遠州地方に行われた」(『報徳清談』井口丑二)」安居院は報徳と共に農業革新を遠州に広めた。現代の改善にも繋がる。
2022.08.27
現任社長の履歴 静岡県小笠郡倉真村 岡田良一郎 天保十年十年二十一日生 父佐平治が二宮尊徳の報徳を唱導したので、良一郎もその門に入り、国家に力を尽くすことを自分の任務とし、各地に報徳を伝播し、よく人を感化し誘引した。資性篤実で平素は勤倹廉直を旨としてわずかな時間も無駄に過ごすことなく、朝早く起きて事務ととり、家人を励まし、節約を守ったので、皆それに風化されて家業はよく治まった。官に奉職すると、自ら一生懸命働き、言論は遠慮することはなかった。そしてまた善く人の言葉を入れた。経済に最も意を用い、官を辞して掛川銀行の頭取となると、昔銀行が信用を失墜したのを挽回して大いに世人の信用を受けるようになった。これより先、資産貸付所の恐慌を数回こうむったが、固く維持して衰退を回復した。常に書物を読むことを好んで、閑暇があれば手に書物を放さなかった。著書が数種ある。今その履歴を細別すると次のとおりです。 嘉永五年(一八五二年)遠江国佐野郡大池村後藤美之に従い数学を学ぶ。 安政元年(一八五四年)江戸に至り相馬藩家老池田胤直に従い経書を学ぶ。年十六歳。同年九月下野に至り二宮尊徳の門に入り、報徳学を修める。在学六年、その奥義を究め、報徳の道の拡張・普及に努める。文久三年(一八六三)掛川藩学校徳造書院に通学し漢学を五年研究する。万延元年(一八六〇)倉真村の里正となり、堤防を修理し、道路を改良し、大いに村内の公益をはかったので村民は悦服した。明治元年日阪宿伝馬所取締りを兼ね、大いに悪弊を矯正した。同六年二月大区画区長兼学区取締りとなる。この時に時務策数編を浜松県令に建議しまた士族授産のために浜松掛川の二ヶ所に蚕業所を起こし女子教育のために女工場を設置する。同七年浜松に資産貸付所を創設し、後に自ら総括となり、大いに同所の衰退を挽回する。明治九年三月遠江国一般地価改正に際して大紛議となった。浜松県の依頼を受けて、青山宙平と共にこの解決にあたる。同十年十月私塾冀北学舎を開き、漢英の学を授けること七年。その間、遠近より学ぶ者が至り、全科を卒業する者は少なかったが、能力を発揮して学術その他実業界において当時世に聞こえた者は少なくなかった。同年遠江国報徳社長に推薦されて、結社は日に多くなり、社員は今に至ってほとんど一万人。同十一年二月同志とはかり掛川に農学社を起こし、毎月一回勧業演説会を開いた。今に至るまで存続する。同年十一月二日 天皇陛下巡行のみぎり、父佐平治以来公益を厚く起こすことをもって天顔奉拝、羽二重一匹を下賜される。同十二年、掛川資産金貸付所に勧業資金の方法を設ける。以来興業の助けとなるものが少なくなかった。 この年三月佐野城東郡長に任ぜられた。 同年十二月私塾冀北学舎の授業の功績少なくないことを以て金一百円を下賜される。 同年同月竹山某とはかり、遠州に紡績機械を設置する。 同十三年依願本官を免ぜられ、勉励金九十円下賜される。 明治十四年一月地債修正の儀についての建議が採用され、遠江国のほとんど全部がその方法に従って治安することができた。 同十五年掛川農学社に製糸場を設置する。 同十六年七月掛川農学社に勧農俚謳集を発行し、天下の俚謳を改良しようと欲した。毎月一回発行して五十余号に及んだ。 同十八年五月、これより先、社中の有志とはかって遠江国報徳学本社建築の資本を募集し、資本が集まったので浜松見付の両所に学館を新築した。両所は毎月の集談会はこれより日にますます盛んになる。同年四月大日本報徳社規則草案をつくり農商務卿に建議する。すなわち公報号外で府県に頒布される。 この年興業意見書一部を農商務省より下賜される。 同十九年二月有志数名と共に遠江国の総代となり、地価修正の事を政府に請願し、二十年に至り特別の命を得、人民は初めてその志を達することができた。 同二十年九月西南地方を漫遊し、鹿児島に至って帰る。 同二十三年七月衆議院議員に当選する。 同二十四年十一月藍綬褒章を賜り、その善行を表彰される。 同二十七年以降、教育勧業救貧報徳道路改良のため、金穀を寄付すること約四千余円に及ぶ。 明治二十九年六月衆議院議員に再選する。 同三十年二月英照皇太后宮御大葬につき参列を仰せ付けられる。 同三十四年十一月著書治国指掌三部を宮内省に献納する。 同三十五年二月叙勲六等、瑞宝章を授けられた。 著したところの書目は次のとおりです。 活法経済論 第二回巡回紀行 郡中小孝節録 報徳富国論 報徳斉家談 淡山論集 無息軒翁一代記 吾人ニ七宝アリ 報徳教章 報徳演説筆記 治国指掌1 岡田良一郎は天保十年(1839)十月遠江国佐野郡倉真村の庄屋佐平治の家に生まれた。良一郎は父佐平治の影響で、安政元年(1854)に二宮尊徳の門をくぐる。尊徳は安政三年に死去しているので、晩年の弟子である。良一郎は他の高弟たちが日光神領開墾、開発測量製図、用排水事業などに力を尽くす姿を学んだ。 安政六年(1859)、遠江に帰ると、倉真村の庄屋を務め、明治六年(1873)から浜松県庁に出仕し、旧静岡藩の貯蓄米を資金とした資産金貸付所の設立を建議する。らに明治一二年に良一郎は佐野・城東郡長に就任すると、「勧業資金」を募集し、加入者の積立金を資金として別口で貸し付けた。これはのちの明治二五年十月の掛川信用組合の設立につながる。 明治八年に士族授産を目的に浜松掛川に産業所を設置する。明治一一年に掛川農学社を設置する。明治一八年に浜松と見附の二か所に報徳館を設置する。明治一〇年(1877)佐平治から遠江国報徳社を引継ぎ、明治四四年には大日本報徳社と改称し、良一郎が初代社長に就任した。(「鈴木藤三郎と岡田良一郎」落合功著P.20-25)2 岡田良一郎は一九〇〇年二月帝国農家一致協会の演説で「勤倹貯蓄は一に人間の本務というべきものなり。その本務を成し遂げる、これを報徳の道という。故に諸君に向かって報徳の道を説くは、すなわちこれ勤倹貯蓄を推奨するゆえんなりとす。ただし報徳の道に在りては貯蓄といわずして推譲という」と述べているように、勤倹と貯蓄が本質であると指摘する。ただ貯蓄するという行為は決して自分の利得を目的としているわけではなかった。「眼前衣食足らざるがために勤倹を行うにあらず。飢饉凶歳の恐るべきが為に貯蓄を為すにあらず。常の心がけをもって常の道を行うに過ぎざるものなり。天下何者をか貴しとする勤倹推譲を行うものを尊しとす。」「報徳の道において推譲というは世人のいわゆる貯蓄これなり。これを貯蓄といわずして推譲というは今日得る所のもの明日に譲り、今年得るもの明年に譲り、蓄え我一生蓄える所のもの、これを子孫に譲り、またこれを他人に譲り、あえてこれを己れに消費するを目的となさず、故にこれを推譲という。その志遠大に在ればなり。」と述べている。勤倹貯蓄という考えは衣食が不足して勤倹を行ったり、飢饉などの災害を危惧して(自分のために)貯蓄するのではなく、人としての常の道(こころがけ)であると説いている。(前掲書P.26-27)
2022.08.27
岡田佐平治の伝 岡田佐平治は遠江国佐野郡(現在掛川市)倉真村の人です。文化九年(一八一二年)七月生まれる。祖父の清弥の没後より一家は次第に贅沢に流れ、家は衰退した。佐平治は若くして家を継ぎ、祖業の回復を志した。家のきまりを改正し、農事に励んで、数年で家政は回復にむかい、一家が再び栄える基礎を開くにいたった。 家は代々里正(庄屋)だったが、父の清光の代に至って、これを辞した。以後数十年里正は数々交代して帳簿が乱れ、加えて古検地を経過すること久しく、阡陌(せんぱく:縦横の交差する道)乱れ、反別は符合せず、境界を争い、訴訟が絶えなかった。天保四年(一八三三年)佐平治は二十二歳の時これを改正しようと誓った。日夜非常に骨折って、まず境界を正し、村内の田畑の明細図を作り古検地と照合し、六年で完成した。以来帳簿をもって貢租の基礎とし、明治維新まで廃することがなかった。天保十年里正となり、無駄な経費は省き、河川や堤防を修理し、荒地を開拓し、住民の風俗は大いに改まった。 天保十一年(一八四〇年)掛川藩の地方用達となった。いわゆる大庄屋であり、上下の意を通じて、渋滞することをなくした。 佐平治は三十四年間倦まず怠らず務めたので上下は信頼した。 嘉永元年(一八四八年)佐平治が三十七歳のとき、報徳の教義を安居院庄七に聞いて、身を修め家をととのえる道でこれに超えるものはないと思った。子どもたちを率いて農事に励み、耕作や肥料の方法を精緻にし、稲を植えるのに縄規植え(田植縄を田の縦方向にわたし苗を真直ぐに、等間隔に植える)をし、麦を作るのに七踏七耘七糞の法を用い、勤勉と節倹を漏れなく尽くした。村民はその事業に感じて報徳社を結社してその教えに従った。そこで日掛け縄積の法を立て一戸ごとに一房あるいはわらじ一足を出させ、その積もった代金を毎年入札を行い、社員のうち農業に努めた者一名に金五両もしくは十両を無利息五か年賦で貸付けた。五年の末になって、年賦の一年分を元金のほかに出させた。これを報徳金と名付け、年々これを積んで貸付を行った。これを循環して止まないことにより、社中でその利益をこうむらない者はなかった。また社員勤業の約束を定め、五年を一期とし、地方用達の給料米六俵と庄屋の給料米五俵一斗四升を度外としてその積金に加えて、嘉永元年より同六年に至った。また別に金四十二両を善種金として出し、勤勉を助けまたその業の怠惰や廃業に陥りやすいことを憂いて同元年十二月より五年に至る間、毎朝早朝近隣の社員二十戸を寒暑や風雨を厭わず積縄を集めて回った。以来今日に至るまで怠ることがなかった。あるいは田を買って公有のものとした。その影響は四方に及ぶ。 嘉永六年八月同志者数名と二宮尊徳にまみえて親しくその教義を聞こうと欲し、相州蓑毛村(神奈川県秦野市)に行って、安居院庄七の家を訪問し一緒に出発した。当時、尊徳は幕府の命令で日光神領の復興事業にあたっていて、下野(栃木県)にいた。佐平治らは尊徳に面会し、数日口授を受け、大いに得るところがあった。佐平治が家の規則を改正する方法を尊徳に質問した時、尊徳は詳細に歳入歳出を質問し、尊徳が調製した相州大住郡片岡村(神奈川県平塚市)の大沢小才太の家則を示してこれに則らせた。佐平治はこれを写して帰り、親族と協議して、関係する掛川藩役人の監査もあおぎ数ヶ月で完成した。これを「雲仍遺範」と称する。嘉永六年から天保五年にさかのぼり二十年の豊凶を平均して中庸の分度を立てて年々米五十俵を官に上納し、六十年を継続してこれを掛川領内の困窮した民の救済と荒地開墾の資本として提供することを願い出た。領主の太田備中守はその志に感じこれを許可した。安政元年、佐平治が四十三歳の時です。また別に金百両を献金したいと願い出た。官(掛川藩)はこれを開墾救済の資金に加え、これを報徳金と称して永遠に伝えようとした。その後領主が上総柴山に移封するに及んで、佐平治の献言によって、金四百五十七両余りを新しい領地に分かち、その徳化に浴させた。その功績で帯刀を許され、五人分の給与米を給せられた。領主は領内に布達した。「岡田佐平治に難村立入ならびに荒地起き返しなどの取締りを命じた。存立の困難な難村で、荒地開墾の願いのある村々は佐平治を頼って申し出よ」。それ以来、報徳の方法を施し、資金を貸与し救済したものは佐野郡に印内村、増田村、栃沢村、飛鳥村、平野村、北西部に村上、西郷村がある。城東郡に桶田村がある。山名郡に不入斗村がある。豊田郡に篠原村などがある。その他数村の多数に及んで、佐平治の名前は遠近に伝わった。 また佐野郡領家村の困窮を救い、薄利十年賦返済の約束で百七両三分を貸付し、別に十四両三分を施した。 同郡細田・沢田の両村は土地が平らで灌漑用のため池を築くことができない。用水が欠乏するために頻繫に干ばつとなり百姓は困窮していた。佐平治は武蔵千住より井戸師招いて非地を画定して工事した。鉄の錐が八九丈地中に入ると、井戸水がほとばしり出た。村民は大いに喜んで、その水を神水と称した。それ以来井戸水の及ぶところは稲が熟し、干ばつの年でも飢餓を免れることができた。 豊田郡深見村は太田川にまたがり、堤防は破壊され、荒れた田が多く住民は生計に苦しみ、隣人と争った。領主の摂津候はこれを憂慮し、復興の方法を地方用達に命じ、佐平治がこれを担当した。住民に報徳の道をさとして、日掛け積縄の方法を教えて、公私の負債を償却させ、堤防を修築して、荒地を開墾し十年で一村はようやく昔のように復旧することができた。 安政二年掛川城の草の刈り取りの法を講じた。従来城の草刈りには領内の人民の労力を使い、千百四十人分の費用がかかり、銭九十九貫六百三十六文になる。その弊習、半人分の労力に当たらない。佐平治は人足の費用を見直し、銭七十六貫文とし、金銭を出すこととし、城西の村に受け負わせた。その銭は五十貫文、草は請負人の利益と定め、残りの銭二十六貫文(この金を四両とする)は年々積み立て、百分の五の利をもってした。官民共にその法に感嘆し無窮に伝えようとしたが、維新の廃藩と共にこの法も中止となった。 佐野郡幡鎌村は村高三百四十七石で、戸数はわずかに四十三戸、借金は三千百両、また山名郡中野村は村高五百九十三石で、戸数は九十二戸、そして借金は五千七百両の巨額にあがり、両村ともに水害・干ばつの害が毎年のように起こり、農力の衰退は極に達した。何度も救済を官に愁訴したが、維新の争乱に際し、領主も顧みるいとまがなかった。明治三年に両村ともに静岡藩の領するところとなり、佐平治に命じてこの救済策を立てさせた。佐平治五十九歳の時で二村の回復を最終の業としようと、借金の額を詳細にし、毎戸の生計の予算を立て、日掛け縄ないの法を立て、勧農の田を置き租税を免除し、別に私費を投じ、幡鎌村へ金四百三十二両余り、中野村へ金七百両余りを貸し付け、年賦返済させた。別に勧農の地の代金十五両を幡鎌村に、百十五両余りを中野村に出し譲田とした。官もまた貸与するところがあった。数年で人民の気風は一変し、生計は日に暮らしやすくなり、貢納も納期に遅れることなく、回復するに至った。この年藩庁より上下一具、ラシャ二反を賜り、翌年の正月にはまた白木綿二十反を賜ってその功績を賞せられた。明治九年朝廷は佐平治の従来の功績を評価され、三組の銀杯を賜った。 明治九年九月資産金貸付所御用係となる。いわゆる資産金貸付所は浜松県が創設し、諸種の献金などながくその功績を隠滅させないために設けたもので、報徳金もまたその基本財産の一つである。後年老年を理由に辞任した。 明治八年十二月同志とはかり浜松報徳社会議規則を定め、毎月十一日社を集め報徳の教えを講じ百穀草木培養種芸の事を研究し、また遠江国報徳会の社則を改正し創立費金六十九円余りを寄付した。 明治十一年三月病気で亡くなった。六十九歳。無息軒至誠とおくり名された。長子の良一郎が家をついだ。 佐平治は経書を掛川藩の儒学近藤某に学び、周易に非常に通じ、また兵書を海津某に受け、兼ねて弓術をよくし、ともにその奥義を究めた。1 岡田佐平治は嘉永元年(1848)に牛岡報徳社を設立した。このとき参加した遠江国内の報徳連中は、三十二か村四百人余りに及んだ。このとき佐平治の推譲高は報徳連中の半分に近かったという。さらに嘉永六年(1853)には、天保五年(1834)までの二十年の収穫高を平均し、それを分度とし、余財分を推譲として毎年五十俵を六十年間上納し、掛川領村々の窮民撫恤荒地開墾のためにあてることを願い出ている。さらに明治八年(1875)年になると遠江国報徳社を組織し、佐平治が初代社長に就任する。(「鈴木藤三郎と岡田良一郎」落合功著P.22)2 報徳参会説話 故岡田無息軒翁(大日本報徳学友会報第二十回二頁)抜粋本年(明治九年)二月十一日常会の節に、誠を以て世のため国のため人のためと家職を精勤いたしたいと説話しました。中道の中とは竹の節を程よいと古人も竹を愛しました。竹の節は本繁く中ほど延び、末また繁く、締っては伸びています。一年の季節も節分とか正月の節とか、竹の節という字を用います。人の世もこの通りです。日曜に休むとか、暮に遣り取りをしまうとか、節を立てるからしだらくになりません。大先生(二宮尊徳)のご教諭に「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道とは報徳の事なり。また誠の一つをもって貫くのじゃ」と。誠とは、うそのない事で誠が離れては何事もゆきません。しかし世の中は種々でいずれが先いずれが後と先後・終始分りませんが、先生「これを道と為すなり、誠心を以て本となす、勤労を以て主となす、分度を立てるを以て体となす、推譲を以て用となす」と。この御文は分度を立つると申す一句が道の本体にて至極大事、人の世の盛んになる土台で、正業においては、家政調べを行って家の分をわきまえる。十俵徳の家が十二俵で暮らすのは二俵のうそで、誠ではありません。百円徳のものが百二十円にて暮らすのは二十円のうそ、そのうそが積もると分限が退転します。そうであれば十俵徳のものは八俵で暮らすが誠の至極と大先生は分内の図をもってご教訓されました、十俵徳は五俵、百両は五十両にて暮し、何でも半分にて暮し、半分は譲るべしと仰せられ、また中道の分度に止まるとのご教訓でした。この中とは片寄らず至極程よい事で、中は古人も難しとする所です。なぜならば一尺のまん中は中には相違ありませんが物によって片寄って中になりますから、中は容易に得がたい。大先生のご理解には、ナスを作り五つもなったらまず三つも取り、そして肥しをやるべし。霜の降るまでなる、この理は間違いないぞとおっしゃった。五つなったら三つとれとはおっしゃらない。まず三つとおっしゃった。三つ取るのも二つ取るのもある、その程を見てとる事なので、いくつと決まった事はない。朝と晩とは違う、この中道のご理解はいきいきとして、古今未曾有誠に極妙です。このご理解に基づいて分度を立てると財宝が余り、身体は必ずよくなります。しかし積善がなければ災いが来ます。災害が来ると、どれほど大身代も水の泡となります。積善は誠です。積善がなければ人に生まれた甲斐はない。積善の第一は譲りです。農家は作物の肥料に、職人は素人の及ばない所へ念を入れ、商家は正直に融通をよくつけ譲り助け合う。それでよいのですが、病難・火難・水難そのほか不慮の天災は逃れがたく、貧窮に陥る者も多い。貧窮は人事の大患です。貧に迫られると悪念を生じ、悪事をし、五倫の道を守らないようになり、有り難いという事を思わない、この大きな憂いを救う仕法が窮民撫育といって報徳善行のまっ先です。ですから社を結んで分度外に報徳善種金を積み立て社中は勿論、国に貧窮の者がないようにする仕法です。貧窮の者が無くなれば愉快ではありませんか。当国の報徳社中もおいおい増して盛んになりました、この社中が奮発したらどんな善行もできる。報徳善種金は恐れ多くも、日月の世界を照らしたまう同様の意味に大先生は仰せられ、自他の宝、実に大切です。(第一集八四頁)
2022.08.27
もの言わぬ従弟にサイダー渡す駅 本上まなみ本上まなみさんは、リュックのお題のときも1位。特待生見えてるなあ才能あり1位70点 ちびリュック 中身はおむつ 山笑う 娘が2歳くらいのころ、なんでも母の真似をしたがって、 私がリュックを背負うと娘もリュックを背負いたがる リュックにこどものおむつをいれて、一緒に歩いた山歩きを思い出して梅沢永世名人 私もこんな俳句作ろうとしたんですよ、げも 「ちびりゅっく」が出てこなかった。これは素晴らしい俳句ですね。2003年6月 第1週 本上まなみつゆくさで色水つくって遊んだよ 明け方の空の涙みたいな 鶯まなみ「鶯まなみ」とは、女優本上まなみが短歌を作るときの筆名である。 びいどろをぽっぴんぽっぴんふきました帰りまぎわのくろくもの下 今となりゃ《つかまされたか》とも思う大きいだけのへろへろかいめん 桜並木ももいろサンゴが手を振った様に見えたよメガネかけねば そういえばおふろあがりのうちの犬ソラマメのにおいに似てた 妹とケンカしてても庭にでてまめくじ見せれば勝ったも同然💛そうなんだ、プレバト1位は当然の実力と研鑽なのだ!
2022.08.26

八重洲ブックセンターで、4週連続1位(2021年10/24~11/20。新書部門)アマゾンの「高齢化社会部門」でも、1位。(2022年1月13日)『おひとりさまの老後』に、ほんとうの幸せはあるのか――。高齢者へのインタビューやアンケート調査など、数多くの具体的事例から、理想的なシニアライフを徹底検証した一冊。現代の高齢世代の実態や心理を時代背景から紐解くとともに、豊富な調査やインタビューから丁寧に分析。その悩みの本質や、健康・お金・交流……、さらに“老後二千万円問題”や“キレる高齢者”などを幅広く考察していく。そこから見えてきた、人生100年時代の“本当に幸せな健康長寿”の創り方とは?親孝行、したい時分に“親がいる”——そんな高齢の親を持つ世代も必読。NPO法人「老いの工学研究所」理事長である著者が、老年期との新たな付き合い方をここに提示する。<目次>第一章 高齢者たちの姿や声に学ぶ第二章 現代の高齢者は、どのような人たちか?第三章 高齢期の幸福について――健康、お金、親子関係……第四章 高齢者が集まって暮らすことによる価値終章 幸福な高齢期に向かって💛おひとりさま、孤独死が日常のいま、「高齢者用集合住宅」という、あたらしい生活様式が模索されているのかも・アムステルダムにある高齢者用集合住宅の「オクラホマ(WOZOCO)」。こちらは20年近く前に建築家集団のMVRDVが手がけた建築なのですが、バルコニーや部屋が引き出しのように飛び出しているポップなデザインになっています。もともとクライアントである住宅会社はビルに対して100部屋を希望していたのですが、面積が足りなかったためMVRDVのメンバーが「それなら部屋を外に取り付けるしかないですね」と冗談半分に言ったことでこのデザインが生まれたそうです。・パリ オンタリオ州 - カナダ - ペンマーヴィアン リタイアメント ホーム - リバービュー ホール - 文化遺産 歴史 初めて足を踏み入れた瞬間から、ここが特別な場所であることに気づかされます。ペンマーヴィアンは単なる老人ホームではなく、カナダで他に類を見ないユニークな歴史と魅力を持つ、非常に特別な場所なのです。もともとの建物はリバービューホールと呼ばれ、1845年にパリの創始者ハイラム「キング」キャプロンによって建てられました。1887年、地元の実業家ジョン・ペンマンがこの建物を購入し、タレットやタワー、アーチなどの豪華絢爛な建築物が並ぶ、現在のペンマービアンとなる野心的な計画を開始するまで、グランドリバーを見下ろす2階建ての質素な建物だった。1931年にペンマン氏が亡くなったとき、彼はこの家を運営費とともに地元の長老派教会に遺贈し、教会の聖職者のための引退住宅として使用することにしました。1970年に教会が費用を負担できなくなるまで、この住宅はこのように運営されました。その後、1978年にケンブリッジの実業家が、修復を条件に教会から格安で購入するまで、この住宅は空き家となっていた。そのわずか1年後、費用がかかりすぎることが判明し、建物は再び売りに出されることになりました。そして、現在のオーナーであるジョセフ&マリア・トンチッチ夫妻が、すでに10年前から近くでパリの老人ホームを運営していたこともあり、この建物を購入しました。そして、新たな変革が始まろうとしていた。最初の改修は、安全性を確保するための小規模なものであったが、現代の老人ホームとしてはまだ利便性に欠けていた。そこで、トンチッチ夫妻は1987年に大規模な増築工事を行い、3階部分の裏半分とダイニングラウンジ、2階部分の増築、エレベーターを増設し、建物本来の特徴を生かした建物にしました。現在も昔と変わらず、ペンマルヴィアンは堂々としたエレガントな建物として建っています。この建物は、パリの素晴らしい遺産と、パリのビジネスマンの証であり、今、あなたにユニークな退職の場を提供します。40年にわたる老後ビジネスの経験を生かし、お客様にご満足いただけるサービスを提供いたします。ヨーロッパでは、見た目では高齢者用の施設だとはわからない建築も増えてきている
2022.08.26

「日本人が急いで本気で考えたほうがいいこと」 84歳、養老孟司さんが語るモノサシの重要性8/26(金)養老さん最近、「老人本」ともいえる本を出した。『年寄りは本気だ』――生物学者、池田清彦さんとの対談だ。養老さんが現在84歳、池田さんが75歳。虫仲間の二人は何を「本気」で語ろうとしたのか。「まあそのタイトルは出版社がつけたんですけどね。池田さんも後期高齢者だけど、私とは世代が違って、いわゆる団塊の世代にあたります。私は団塊嫌いみたいに言われることもあるのですが、妻も団塊の世代ですし、この世代の友人は多いんですよ。 池田さんは、テレビの視聴者にどう見られているかはわからないけれど、ものごとの本質をつかんで、ずばりと表現ができる人です。ことの良し悪しを言うのに必要な『モノサシ』を持っています」(養老さん)「たとえば、日本の食料自給率が低いことがよく問題にされます。一時期、農林水産省がすごく取り上げました。そういう時には、『日本の食料自給率は4割程度』などと言われるのですが、これはカロリーベースの計算で、穀物主体の数字なので、ここには家畜の飼料も含まれています。最近、飼料を除いた数字が発表されて、そちらはもう少し自給率が上がっているようですが。 この数字とは別に生産額ベースで見ることもある。その場合、自給率は7割以上となっているんですが、それは国産品のほうが値段が高いからです。 単純に数字で実態を知ろうとしても、いろんなトリックが入っているからなかなか難しい。 食料自給率の問題は大切だ、というのは誰もが言うことでしょう。ところが、それを把握する際、何をモノサシとして測ればいいのかよくわからない。そこに合意が無いからです。日本を実質的に捉えるための基準がはっきりしていないのです。 だから、そのことについて議論しても宙に浮いたようなものになってしまう。 そもそも、そういうモノサシは誰が考えるべきなのか。政治家なのか、経済学者なのか、そこもよくわかりませんし、定まっていません」「コロナ禍は大きかったでしょうが、今後もいろんなショックがやってくるでしょう。首都圏直下型地震もあるでしょう。南海トラフ地震に至っては、近い将来、来ることがはっきりしている。知り合いの尾池和夫さんの説では、2038年頃だと予測されています。あと16年と考えると、やるべきことも見えてくるというもの。 そのときどれだけの損害が出て、何をちゃんとしておけばいいのか。この前の戦争みたいに東京が更地になったとき、最初に手をつけるべきことは何なのか。 そのことを考えていくには、根本的にこの国が何に依存しているかを絞り込んでおかなければいけない。優先順位を決めなければいけないのです。 そうでないと、国民の間に大きな枠組みでの合意ができませんし、いざというときの自給自足も成り立ちません」
2022.08.26

【日本ハム】「きつねダンス」原曲歌うYlvisがノルウェーから初来日 9・19試合前に歌唱日本ハムの「きつねダンス」ファン必見のイベントが、満を持して実施されることが決まった。同ダンスの原曲「The Fox」を歌うノルウェーのコメディーデュオ「Ylvis(イルヴィス)」が初来日し、9月19日ロッテ戦(札幌ドーム)の試合前に歌唱することが決定。当日は「きつねダンスDAY」として、限定グッズの配布なども予定されている。「きつねダンス」の原曲「The Fox」を歌う、ノルウェー在住のコメディーデュオ「Ylvis(イルヴィス)」の初来日が決定。9月19日の日本ハム-ロッテ戦(札幌ドーム)で、ファイターズガールとパフォーマンスする。「イルヴィス」は兄ヴェガードと弟バードの兄弟芸人コンビ。球団では本拠地開幕3戦目の3月31日から、同曲を使ってキュート&ユニークに振り付けした「きつねダンス」を展開してきた。徐々に人気に火が付き、いまでは他球団選手も踊るほど浸透している。球団担当者は今年5月、日本での熱狂を伝えて出演をオファー。これまで数々のスポーツイベント出演依頼を断ってきた「イルヴィス」だが、今回は球団側の熱意が伝わったようで「この内容なら」と出演を快諾したという。当日は「きつねダンスDAY」と銘打ち、きつね耳を着用したファイターズガールがプリントされた特別ファイルが配布される予定。また通常は試合序盤のイニング間に1度だけしか行われない「きつねダンス」を、複数回に渡って実施するという。弟のバードは、自身のSNSで9月の来日を予告。球団担当者は「待ち遠しい様子で、熱が伝わってきます」と、はやる気持ちを感じ取っている。BIGBOSSの初年度、そして札幌ドーム最終年を彩ってきた「きつねダンス」の集大成となる。The Fox
2022.08.26

マザー・テレサ マザーテレサが愛した言葉「暗いと不平を言うよりも自ら進んで明かりを灯しなさい」 と その続きの言葉カテゴリ:マザー・テレサとマハトマ・ガンジーの世界 「どんな本に出会うだろう」古本屋に入ったおりに、こうした楽しみを持つ、ごくたまにたまに本のほうから「私はここにいます」というように表題が目に飛び込んでくる場合がある。本とも波動があうということがある。そのときも、これといった本はないなと本棚をみながら締めかけていたら、ぐるっと廻った入り口付近に「マザーテレサ 愛のこころ最後の祈り」という本があった。さっそく買った。マザーの「祈り」「エピソード」を集めた箴言集で、マザーが語るこんなエピソードが載っている。わたしたちのシスターの中には、オーストラリアで活動している者もいます。アボリジニーのある居住地に、年配の男性がいました。その貧しい老人くらいひどい境遇を、あなたがたはいままで見たことはないと、私は断言できます。彼はだれからも完全に無視されていました。その家は散らかりほうだいで、汚れていました。「家の掃除と洗濯をさせてくださいませんか。 それからベッドをととのえさせてください。」わたしは彼に言いました。「これでいいんだ。ほっといてくれ。」彼は答えました。「もし、わたしにやらせてくれたなら、もう少しましになりますよ」もう一度、わたしが言うと、彼はとうとう納得しました。そこで掃除と洗濯をすることができたのです。わたしが部屋を片付けていると、ほこりまみれのきれいなランプを見つけました。彼が最後にそれに明かりをともしてからどれだけ時間がたったのかは、神のみぞ知るです。わたしは言いました。「ランプをともさないのですか。もう使わないのですか」「ああ、だれも来やしない。明かりをつける必要なんてもうないんだ。いったいだれのためにつけろっていうんだね。」「もしシスターが来たら、毎晩それをつけてくれますか」「もちろんだとも」彼はうなづきました。その日から、シスターたちは、毎晩彼のもとを訪れることを約束しました。シスターたちはランプを磨き、そして、毎晩それに火をともしたのです。二年が過ぎました。わたしはその人のことをすっかり忘れていましたが、彼からこんなメッセージが届きました。「わたしの人生にともしてくれた明かりは、まだ輝いていると、わが友に伝えてくれ」これはとても小さなことです。でも、わたしたちはよく小さなことをおろそかにしてしまうのです。」これを読んでいて「暗いと不平をいうよりもすすんで明かりをつけましょう」という聖パウロの言葉が浮かんだ。昔、朝ラジオからよく流れてきたものだ。この言葉はマザーが愛した言葉だという、そしてこの言葉には続きがある。暗いと不平を言うよりも自ら進んで明かりを灯しなさい。だれかがやるだろうということは、だれもやらないということを知りなさい。
2022.08.26

州立遠江国報徳社定款は、明治三十年七月制定で、「遠江国報徳社通則」は明治三十二年四月修正 であるが二つを比べると、大きな違いがある。 「遠江国報徳社通則」は1875年 ( 明治 8年)設立の 遠江国報徳社 を反映して報徳の教義・道徳的色彩が強い。第一条当社に入るものは左の箇条を以て規模となすべし。 一 神徳皇徳及び父母祖先の徳に報いるに我が徳行を以てする事 二 分度を守り富盛の基本を確立する事 三 善種を蒔き善根を植え幸福を永遠に享受する事第五条報徳は宗教にあらずして道徳学なり。その奥義は哲理に基づく。然れどもいたずらに高尚なる哲理を講じて極致を見るあたわざれば、かえって日常彝倫(いりん:人倫)の事に遠ざかるゆえに、当社は報徳の二字を以て万善を網羅し、内外諸教を該括し、貴賤賢愚を統一し、顕幽二道を兼併して洩らす所無きを期するものなり。第八条当社の常会には左の要項につき演説もしくは講義討究を為すべし。 財本を会し工業を起し殖産の法を立てる事 耕種肥培の法を改良する事 商法を盛んにし公利を謀る事 勤倹を行い貯蓄を為し金融の便を謀る事 天災不幸の窮民を救助する方法の事 荒蕪を開拓し水利を便にし山林を植付海産を開く等の事 風俗を改良し徳義を厚くする事 第九条当社の常会には必ず先ず報徳訓を一誦して、しかしてのち演説の題に入る。一誦おわらば社員一同に拝首すべし。社員たるものは報徳訓を暗記するを要す。今年12月で第9回目になる「報徳講座」もまた「必ず先ず報徳訓を一誦して、しかしてのち演説の題に入る」しかし、「州立遠江国報徳社定款」は、民法施行(1898年(明治31年)7月16日(民法施行日))に際して民法に即して制定されており、「遠江国報徳社通則」の道義的な説明はない。組織や権利義務に関するいわゆる法律的にのみ定めた様相を持つ。個人的には通則の報徳についての説明があるほうが好きかな。 州立遠江国報徳社定款戌第二一号 遠江国報徳社社長 岡田良一郎本年八月二十四日出願遠江国報徳社定款の件右民放施行法第十九条により認可す。 明治三十一年十月十九日 内務大臣 板垣退助印 州立遠江国報徳社定款 第一章 総則 第一条当社は二宮先生の遺法により報徳の事業を立てるを目的とす。 第二条本定款に単に社員と称する者は州立社員をいう。その町村立社員は必ず町村立社員という。 第三条本社の報徳金と称するは左の二種とす。一 土台金 二 善種金 第四条報徳金のほか各種の金は何らの名称にかかわらずすべて本社の預り金として取り扱うべし。ただし一切に社外より預り金をなさず。 第五条当社存立は永久無限とす。 第六条当社の位置は浜松町元城六十九番地に本部を置き、見付町掛川町に支部を置く。その他便宜の地に漸次出張所を設置する事あるべし。 第七条当社は遠江国報徳社と称し所属町村社を統括し、その社則を認可し、社員の証を付与し、現量鏡を検査し社務を発揮すべし。ただし現量鏡とは会計簿のことなり。 第八条社員の証及び当社の印象は左のごとし。 第二章 土台金 第九条土台金は第十条の諸経費支弁のため左の方法によって成立す。ただし本条にいわゆる寄付金とは義捐金のことなり。 社員入社義務寄付金及び追年随時寄付金 町村立社員随意の寄付金 社外篤志者の寄付金 貸借上より生ずる剰余金 第十条土台金使用法左の数項に限るべし。 町村立報徳社設立の際、土台金として下付する事 同上社員力農精業及び特別善行人同上報徳社の具申によって褒賞金を付与する事 同上報徳社において勧業奨励費を要す時その幾分を補助する事 社中内外町村天変非常の災害につき恤救費寄附金社費支弁の事 第十一条土台金支払残金は善種金と同一に貸付を行うべし。 第十二条もし土台金及び善種金追年増加するに及んでは山野開拓難村旧復事業等を直轄して行うことあるべし。 第三章 第十三条善種金は第十四条の貸付を行わんがため左の方法によって成立す。 社員入社義務寄入金及び追年随意寄入金 町村立社義務寄入金及び町村立社員随意の寄入金 第十四条善種金貸付は大半左の数項に拠る。 町村立報徳社設立につき拝借願出る時 荒蕪開墾山林植樹道路堤防用悪水路新開費用のため 町村立報徳社より拝借願出る時 難村旧復方法のため町村立報徳社より拝借願出る時 飢饉凶歳救助のため町村立報徳社より拝借願出る時 商業資本金及び農具肥料購入のため町村立報徳社より拝借願出る 時 第十五条善種金貸付方は無利息五か年賦として六か年目に報徳元恕金を納めしむ。ある特別の場合においては元恕金を免除することあるべし。ただし元恕金とは恩謝金のことなり。その数は年賦一か年分とす。 ただし即年返納または五か年以上の年賦貸付をなす場合においては元恕金に準じ適宜の利子を付すべし。 第十六条善種金貸付は町村立社有財産実価十分の二以内は無抵当にて貸付けるを得べくその余の貸付は確実の抵当を要す。 第十七条善種金は本社直轄の事業にあらざれば一己人へ直接に貸付をなさずといえども、一口積立高三十円以上に至る時はその寄入主に対し直接に貸付を為す事あるべし。 第十八条善種金貸付残余は公債証書あるいは有価証券等を購求しまたはこれに応募し及び不動産を所有し預け金となし利殖すべし。 ただし本文の財産処分は役員会の評決によってこれを定む。 第十九条善種金は五分利を以て利倍積立を行い一口金一百円に満るを及んで善種応報金としてその半額を下げ渡すべし。以後百円に満るごとに善報金を受くるを得べし。 ただし利子歩合は時勢の変動によって変更することあるべし。 該年渡し残りの分は翌年抽籤の初番に序するものとす。 第二十条善種金寄入者へは一口ごとに寄入の証を交付すべし。これを永安証券と称す。十円未満寄入者へは十円に満つるを待ってこれを付与す。ただし町村社の寄入金は依願永安証券を社名を以て付与し、または社員のうち名前人を定めて付与することを得。 第二十一条善種金は本人退社するもまたは何らの理由あるも善報金のほか下付すること無し。 ただし町村社解散の場合においては該社有永安証券及び該社有善種金は協議を以て該社員の内へ譲渡、個人の所有となし、名前替えをなさしむるものとす。 第二十二条永安証券は借財の抵当となし、または買売するを許さず。 ただし家名相続人または子孫に限り無代譲り渡しを為すを得べし。その譲渡等の節は当社へ申し出、名前換えの証印を受くべし。この証印なければ所有の効なし。社有永安証券は協議を以て社員に限り譲り渡すことを得べし。 第二十三条この証券は一人にして数口を所有するを得。数人にして一口を所有するを得ず。 第二十四条証券雛形左のごとし。 ただし従前の証券はこのひな形に相違のかどありといえども、自今以後この改正定款によって実行するものとす。 第四章 預り金及び計算 第二十五条本社の預り金は加入金・興産資本金・小児祝儀積金その他各種の基本金とす。 第二十六条 毎月一回各種貸借の計算をなし、現量鏡を調整し、翌年一月総会に報告し印刷して社員及び町村立社へわかつべし。 第二十七条諸貸付金利子元恕金収入のうち善種金及び諸預り金の利子を控除しその余金はこれを土台金に加うべし。 第五章 役員 第二十八条当社に左の役員を置く。 理事社長 一名 同副社長 一名 幹 事 数名 各組合に組合取締一名を置く 第二十九条社長副社長幹事は社員の公選を以て登任し組合取締は組合町村立社長の選挙を以てこれを任ず。書記は正副社長幹事の協議を以て適宜これを任用すべし。 第三十条社長は社務一切を総理し副社長これを補佐して教学布及の事務を担任す。幹事は会計その他の事務を分任し、結社勧誘の責に任ず。組合取締は組内町村社の監督を為すべし。 第三十一条教学拡張のため社長幹事の協議を以て学士を招き用い、または報徳の道に従事して実地経験あるものを推薦し報徳学訓導または結社勧誘委員となし、各社を巡回せしむべし。 第三十二条正副社長幹事の任期は三か年として満期に及び定式総会において改選すべし。取締の任期は三か年とし、各組合会において便宜改選し本社に届け出るものとす。 第三十三条当社の役員は定詰役員及び訓導の外すべて無給たるべし。 ただし事務取扱に係る実費巡回手当あるいは社用につき他行せるときは旅費日当を給す。 第三十四条役員の俸給経費の予算は毎年一月定式総会においてこれを定む。 第三十五条当社役員職務章程事務施行規則は正副社長幹事においてこれを議定し、社員へ報告すべし。 第六章 社員の権利義務 第三十六条社員は率先して町村社を組織し及び町村社員を鼓舞し誘導するの義務あり。 第三十七条社員は入社の際土台金五円を寄付し、善種金一口(十円)を寄入するの義務あり。それ以上の金額を寄付寄入するは分に応じて随意たるべし。 ただし社員永安証券を家名相続人に譲るも相続人更に土台金を寄付するにあらざれば社員の資格を有せず。その額を二円以上とす。 第三十八条町村社は法人として土台金五円以上寄付し及び善種金寄入の義務を負担す。土台金は町村社の土台金より寄付し、善種金は町村社の善種金中より寄入すべきものとす。 ただし結社の始めに在りては土台金寄付を当分猶予することあるべし。 第三十九条社員は役員を選挙し及び総会において本社の利害に関し発言投票するの権あり。 第四十条社員は何時にても本社の簿冊を検閲し及び総会の決議を以て役員を解任するの権あり。 第四十一条町村社長は法人の代表者として前条の権利を有す。 ただし第三十八条の義務を尽さざる間に在りては未だこの権利を行うことを得ず。 第七章 総会及び常会 第四十二条本社は毎年一月社員総会を開き、諸計算を報告し予算を議定すべし。これを定式総会と称す。 第四十三条定式総会の決議は出席過半数の同意を以てこれを決す。 第四十四条定款を改正しもしくは特別の事件は臨時総会においてこれを決すべし。臨時総会の決議は社員及び町村社長と共に十分の五以上の出席にして出席人員三分の二以上の多数にあらざればこれを可決することを得ず。然れども適法の委任状を以て出席員の数に加えることを得べし。 ただし臨時総会の招集再度にしてその数に充たざればこの規定に関せずしてこれを可否するを得。 第四十五条正副社長幹事において必要と認める事件ある時はいつにても臨時総会を開くの権あり。臨時総会には議案もしくは議件の要領を通報するを要す。 第四十六条本社の通常会は毎月一回左の定日においてこれを開き、社員及び町村立社員を集合して報徳の道義を講述し、及び農商工業改良を研究すべし。 十一日 浜松 第一報徳館 二十日 見付 第二報徳館 第一日曜日 掛川 農学社 十六日 周智郡 城下出張所 十二日 榛原郡 静波出張所 十三日 志太郡 前島出張所 第八章 入社退社 第四十七条社員もし事故あり。退社申し出る時は、社員の章を返納せしめ退社を許すべし。 第四十八条軽罪重罪の刑に処せられ満期のち三年を経ざるものは入社を許さず。 ただし悔悟を表するものは、三か年未満においては試業員とし入社せしむることあるべし。 試業員は社員の証を付せず。 第四十九条社員もし軽罪重罪の刑に処せられた時は退社を命じ、社員の証を返納せしむべし。満期三か年後においては申し出により更に社員の証を付すべし。 第五十条社員退社すといえども結社中においては善種寄入金を返付せず。その永安証券を所有すること妨げなし。 第五十一条退社員は本社の措置において一切異議を容れるを得ず。 第九章 解社 第五十二条当社は自ら解散決議するを得ず。もし民法第六十八条一項の三号(破産)その他において解散する場合は諸貸付金を徴収し、所有財産を売却し各種預り金善種金を返付し土台金は総会の決議を以て報徳二宮神社または当社の目的に近き事業に寄付すべし。 ただし損害ありて土台金を以てその不足を償うあたわざる時は預り金及び善種金共積金高に応じ平等に損害をかぶるべきものとす。右の通り議定そうろうなり。 明治三十年七月 州立遠江国報徳社
2022.08.24
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1203年9月5日、重体だった頼家が回復してしまう。そして、比企一族が滅亡してしまったことを知り、激怒。時政を討つように、和田義盛と仁田忠常に命じる。「許せん。和田に仁田、時政の首を取って、ここに持ってまいれ。あいつがやったことは謀反と変わりがない。討伐するのだ」しかし和田義盛はその命令書を時政のもとに渡してしまう。時政「よう知らせてくれた。しかし、仁田はなぜ何も言うてこん。まさか攻めてくるつもりではなかろうな」畠山重忠「仁田殿は律儀な方。頼家様が亡くなると思われた。覚悟を決めたというのに、こんなことになり、板挟みとなって、悩んでおられるのでしょう」史実では仁田は、9月6日の夜、北条時政の邸に呼び出されるが、いつまで経っても忠常は邸から出てこない。心配した忠常の親族は「頼家様から、時政殿を殺すように、忠常に命令が出たことがバレてしまい、殺されてしまったのだろうか」と疑い、復讐のため、北条義時を襲撃しようとするが、返り討ちにあう。仁田忠常は無事で邸から帰る途中、一連の騒動を聞き「このようなことになってしまったら、命を捨てるしかないではないか」と言い、御所に参るところを、加藤景廉により殺されてしまう。大河では、忠常が死の直前、義時に相談しようとする。「小四郎殿、相談したいことがございます」義時「急ぎ館に戻らねばならんのだ。またにしてくれるか。すまん」忠常「かしこまりました」と明るく振舞い、自ら首に刃をあてて自害する。泰時「不意に御所に現れ、命を捨てますと言って、止める間もなくご自害を」史実のとおり殺害されるのでなく、自決するところに、仁田の苦悩と沈痛の悲しみが心を打つ。伊豆山で政子らを守り、実衣を政子の命により守ったのに、義時は話を聞くこともできず守れなかった。むしろ忠誠の御家人をあなたは殺してしまったと、頼家に鎌倉から立ち退くよう迫る。「頼家様の軽々しく一言が、忠義に厚い真の坂東武者を、この世から消してしまわれたのです」「しかし、よろしいですか。頼家様のお気持ちが変わらぬ限り、同じことがまた繰り返されるのです。お分かりいただきたい」◎「鎌倉殿の13人」小栗旬も仁田忠常ロス ネット号泣…高岸宏行も驚きの最期「今も止めたい」芝居も応援業高岸「仁田忠常の最期は色々な説があるということなんですけど(自害は)僕の頭の中にはありませんでした。こういう終わり方もあるのか、と。最後まで“三谷マジック”を実感しました」「それでも、今回の律儀な仁田なら、こうなってしまうというのは、僕としては腑に落ちました。三谷さんの仁田への愛情に感動しました」「お芝居の技術やテクニックは僕にはないので、最初からずっと『この時、仁田ならどう思うだろう』と彼の気持ちだけは分かろうと思って演じてきました。仁田の最期も、僕なりに100%感情を乗っけられたと思います」「仁田忠常の強さは、身を捧げてでも北条や鎌倉殿を支えるという信念があったからこそだと思うんですけど、板挟みになったことで自分の軸がブレてしまい、義時にも相談できなかったことで余計にパニックに陥ってしまったんだと思います。いち高岸としては『大丈夫だよ』と仁田を励ましてあげたかったですし(仁田の自害を)止めたいという気持ちは今もありますよ(笑)。でも、この仁田の最期があるからこそ、物語に奥行きが出る。それが『鎌倉殿の13人』の魅力なのは分かっているので、いち高岸としては悲しかったですけど、作品のために自分ができるのは仁田の気持ちになり切ること。それに徹しました」「『小栗旬個人としては寂しいよ、泣きそうになるよ』とおっしゃっていただいて、うれしかったですね。演技経験のない僕に対しても、最初からずっと優しく接してくださったお兄ちゃんのような方。なので、小栗さんをはじめ諸先輩方のためにも、最後まで全力で演じようと気持ちを入れ直すことができました」「『史上最悪の鬱回』のハードルを毎度余裕で超えて、地獄の更新をし続ける大河」で唯一コミカルだったのは、次の場面。和田義盛「どうしてオレと仁田だけ呼ばれたんだ?」三浦義村「二人とも戦に強く 忠義者で ばか・・・。」和田義盛「ば?」三浦義村「場数を踏んでいるから」和田 ニコニコ
2022.08.24

『鎌倉殿』殺し屋・善児の “退場フラグ” にザワつく…「人の心を持ったため」「鬼脚本」の声8/22(月)『鎌倉殿の13人』の第32話でもっとも注目を集めたのが、梶原善が演じる「善児」。第1話で八重の息子である千鶴丸を殺めて以降、登場するたびに多くの人の命を奪ってきた冷酷な殺し屋。「主人から命令を受けると『へえ』とだけ返事し、無表情なまま淡々と人を殺してきたのが善児です。これまでセリフも少なく、表情を変えることさえなかった善児ですが、今回ついに “人間らしさ” を出したことで、大いに話題となっているのです」一幡を匿っていた善児のもとに義時が現れ、一幡を殺すように命令。しかし善児は「できねえ」「わしを……好いてくれている」と涙を流す。一幡「善児、何で泣いてたの」《善児に泣かされるとは…義時から「千鶴丸と何が違う」と言われても、顔面を痙攣させチラ、チラと激しく瞬きしながら命令撤回を乞う善児の表情よ…》《善児に人の心が 嘘でしょ、ここに至ってこんな描写するなんて鬼脚本》《人の心が芽生えた善児 非情で完全に闇堕ちした義時 二人の対比がなんとも言えず…人間のおそろしさを感じた 人は変わるもの…という言葉が効いてくる》脚本を担当する三谷幸喜も『自分の意図を超えて成長した』と驚くほど、予想外の注目を集めたキャラクター。💛まさに脚本家の予想を超えた 共感の広がり 工藤祐経「怖い所だ、この鎌倉は。私が生きていくところではない」 義時「ようやく分かりましたか。他に行く所があるのなら、一刻も早く出ていくことをお勧めします。私にはここしかない」 義時「これは警告です。二度と、鎌倉殿と競い合おうなどとお思いになりませぬよう」 武田信義「おまえたちはおかしい。狂っておる」この鎌倉ワールドでは、正常な感情の人間は生きてはいけぬ!
2022.08.24

【甲子園】仙台育英・岩崎生弥 「天国の祖父に『力貸してくれ』」試合を決めた満塁弾8/23(火)決勝で仙台育英(宮城)が下関国際(山口)に8―1で勝ち、東北勢が春夏通じて13度目の挑戦で初めて優勝を遂げた。4回に1点を先制すると、7回には5番・岩崎生弥一塁手(3年)の満塁弾などでリードを広げた。チームを率いる須江航監督(39)は東北6県の思いや、これまで決勝で散ってきた多くの方々の思いを胸に戦ったと感謝。春夏通じて100校目の優勝校となり、悲願の“白河の関越え”を達成した。 仙台育英の一塁側アルプスめがけて、堂々と右手を突き上げた。4―1で迎えた7回1死満塁、3ボール1ストライクとボールなら押し出しの場面で、岩崎が140キロの明らかに高い直球を強振。高々と舞い上がった打球は、左翼席で弾んだ。今大会チーム初本塁打は、東北勢初Vを決定づけ、決勝では史上4人目となる値千金のグランドスラム。ベンチ前で須江監督と抱擁を交わすと「甲子園という舞台で恩返しできてうれしかった」と白い歯を見せた。 2、3回戦ではともに代打で計4打点。“代打の切り札”が、高校の公式戦での初アーチを聖地で描いた。「打席に入る前、天国にいる祖父に『力を貸してくれ』と思った。打った瞬間、行けと思いました」とかみ締めた。 道のりは、平たんではなかった。昨年6月、逆流性食道炎などを患って約1か月もベッドの上で過ごした。「少し動いただけで気持ち悪くなる」。同7月、バットを振ってみたが、たった5回振っただけで「息が苦しくなった」。 中1時は12歳以下の日本代表に選出され、世界大会で優勝。同代表では、近江(滋賀)の山田陽翔らとチームメートだった。かつて一緒に戦った仲間が、今春のセンバツで活躍する場面を見て「負けられない」。強い決意を持って今年6月、全体練習に合流した。 だが宮城大会はメンバーから外れた。落ち込む岩崎を支えたのは仲間だった。同学年の選手から「絶対に甲子園に連れていく。あきらめずに練習しろ」と声をかけられ、指揮官には「腐らずに練習していこう」と励まされた。聖地でプレーする日を夢見て、黙々とバットを振り込んだ。 5試合で14打数5安打10打点。聖地で躍動した岩崎は試合後、何度もチームメートと抱き合った。「全員の支えがなかったら、この1本はなかった。日本一になろうと3年間やってきた。それがかなって幸せです」。柔和な笑みを浮かべながら、胸の金メダルを見つめていた。💛打席に入る前に、バットを天にかざして、天国にいるおじいちゃんに『力を貸してくれ』と祈った。 なんていい子なんだろうね(^^)
2022.08.24
草野仁78歳、今も腹筋・ダンベル数百回…かつて石原慎太郎からは「突然血管がプチっといくぞ」8/21(日)78歳になっても腹筋とダンベル運動を数百回――。草野仁は頭脳明晰(めいせき)で記憶力抜群なだけでなく、鍛えた身体はまさに「スーパーヒトシ」だ。今夏始まった「草野仁の名医が寄りそう!カラダ若返りTV」(BS朝日=土曜午後4時)では、人一倍体作りに気を使ってきたこの人が、健康法を伝えている。――相当鍛えていらっしゃるようですが。 今から10年以上前、東京都知事だった石原慎太郎さんのもとにインタビューにうかがいました。その時、「おう、草野君、まだ(筋トレを)やっているかい?」と聞かれたので「やってますよ」と答えたら、「お前なあ、人間60も過ぎたら突然、血管がプチッといくことがあるぞ。重いのはやめろ」と言われましてね。そこから負荷を減らして、なるべく無理をしない程度に鍛えています。――具体的には? 朝食から30分後、腹筋200回を数セット。そんなに苦もなくできるようになりました。それからダンベル15キロを両手に持って色々と回しています。80回を4、5セットかな。エアロバイクは、今ちょっと膝が痛くて無理していませんが、30~40分。東京五輪の聖火リレーにも参加しましたが、その前は散歩で有酸素運動もしていました。――食事も気を付けているとか。 朝は野菜サラダをたっぷりと食べます。血糖値の上がり方が緩やかな野菜をなるべくたくさん。トマト、レタス、たまにキュウリ。あとは山芋、長芋。その上にとろろ昆布をまぶして、割と多めに食べるんです。ある番組で「これはトップモデルの食事だ」と言われました。もちろんたんぱく質も。肉は取り過ぎず、魚を多く食べるようにしています。夜は糖質少なめ。2杯食べていたご飯を1杯にしました。――強い体の原点は? 数学者だった父、萬三郎(長崎大名誉教授)も102歳と長寿でした。それを受け継いだのかもしれません。父は第2次大戦で満州(現中国東北部)にいて、戦後、シベリアに抑留されましたが生き延びました。それがなければ、もっと長生きしたはず。あとは、故郷・長崎県島原市で子どもの頃、魚をたくさん食べたことでしょうか。戦後は貧しかったですが、父の教え子に漁師がいて、毎日のように魚を持ってきてくれたんです。――それで記憶力も抜群なんでしょうか。 円周率は110ケタくらい言えます。中学1年の時の教科書に載っていて覚えました。今も記憶力のよりどころになっています。3.141592653589……。――健康について考えていることは? 日本人は女性の平均寿命が87歳、男性が81歳で、世界でも一、二を争う大変な長寿国なんですね。けれども、人に迷惑をかけず、単独で生きていける「健康寿命」は、女性が平均寿命のマイナス11歳ぐらい、男性はマイナス9歳ぐらい。それだけの長い期間、介護を受けたり、どなたかの手を借りたりしなければならないという非常に厳しい状況にある。それが医療費の増大、大きな負担になっている。この差を縮めていくことが急務だと思います。自分の健康は自分で守る。番組を通じて何が大切で、何をすべきか、皆さんにお知らせしていきたいですね。――私たちにもできる健康法は。 糖質を取り過ぎずに適度な運動を心掛けることでしょうか。若い時から健康診断をきっちり受けて、そこで問題があったら「まだ大丈夫」と過信せず、適切に対応する。番組では、「肩こり」「血圧」などテーマごとに名医が改善策を提案し、悩まれている方がそれらを実践しますので、ぜひご覧ください。筋トレを週30分から60分、死亡・疾病リスクが減少…ただしやり過ぎは逆効果1週間に30~60分間の筋力トレーニングで、心血管疾患やがん発症のリスク、あらゆる病気などによる死亡リスクが減少するとの調査結果を、東北大などのチームが発表した。ただ、過度なトレーニングは健康維持に悪影響を及ぼす場合もみられたという。 チームは、18歳以上の人の筋トレと疾病・死亡リスクの関係についての国内外の研究論文1252本を集計・整理した。その中から信頼度の高い論文16本を選び、筋トレの時間と疾病・死亡リスクとの関連を調べた。その結果、心血管疾患リスクは週約60分の筋トレで18%、発がんリスクは週約30分の筋トレで9%、死亡リスクは週約40分の筋トレで17%、それぞれ低下していた。糖尿病のリスクは、筋トレの時間が長いほど低下するという。一方、筋トレが週130~140分を超えると糖尿病以外の疾病リスクが上昇し、死亡リスクも高まることが判明、逆効果となる可能性が示唆された。 論文はスポーツ科学の国際誌に掲載された。チームの門間陽樹・東北大講師(運動疫学)は「短時間の筋トレを長期的に続ければ、健康によいことが裏付けられた。今後は筋トレのやり過ぎがリスクを高める理由について、調べていきたい」と話している。谷本道哉・順天堂大先任准教授 (運動生理学) の話 「世界中の研究成果を統計的にまとめて筋トレの健康効果を示しており、意義のある研究だ。筋トレの時間だけでなく負荷の強度の違いを調べたり、高年齢層での効果を調べたりすれば、新たな知見が得られるだろう」2022/04/26
2022.08.24

<鎌倉殿の13人>山寺宏一が大河デビューへ “中世きっての名僧”慈円役 「心して挑みたい」8/20(土)「鎌倉殿の13人」第32回「災いの種」が8月21日に放送される。声優の山寺宏一さんが、名僧・慈円役で登場する。山寺さんは大河ドラマ初出演。演じる慈円は、後鳥羽上皇に仕える中世きっての名僧。のちに「愚管抄(ぐかんしょう)」を著す。 山寺さんは6月の出演発表の際、慈円について、「山寺という苗字であること、小学生の頃のあだ名が『和尚さん』だったことに感謝です」「仏教界で地位を築き、政界にも影響を及ぼし、さらに自らの心の内を詠(よ)み数多くの名歌を残した慈円。知れば知るほど魅力的な人物だと感じています」「天下泰平を祈り公武両立を理想としたといわれている慈円が、このドラマでどのような役割を担うのか? 心して挑みたいと思います。三谷(幸喜)さんからは『威厳9割、いかがわしさ1割なイメージで』というアドバイスが。逆にならないよう気をつけます!」後鳥羽上皇「またお得意の夢か。して、どんな夢を」慈円「次の鎌倉殿はかつて壇ノ浦で失われた宝剣(三種の神器の一つ)の代わりだから大切にせよと」後に北条時宗のとき、日本は武力と天運とによって二度にわたる元寇をおいかえす。おそらくは武力政権が日本を統一し、総力をもってあたらなければ、容易に九州に侵入されていたであろう。慈円の 鎌倉殿は三種の神器の宝剣の夢は正夢だったことになる。しかし対外戦争で元寇で活躍した御家人たちに恩賞を与えられなかった北条氏は滅亡する。「元寇は神風が吹かなくても本当は防げた」鎌倉幕府が幾度もあったチャンスを見逃した根本原因モンゴルには来襲のメリットがない本郷 和人北条泰時(1183―1242)の弟にあたる重時という武士がいました。泰時は御成敗式目を定めた執権。重時はその兄に非常に忠実な人で、泰時に頼まれて京都で六波羅探題を務め、泰時没後は、兄の孫の北条時頼(1227―1263)を補佐するために京都から帰ってきた。重時は時頼をしっかり補佐し、やがて重時の娘と時頼が結婚して時宗が生まれた。後にモンゴルと戦うことになる北条時宗(1251―1284)です。時宗からすると、重時は祖父ということになります。彼は、兄の泰時とともに、政治行為の重要性を知らしめ、鎌倉幕府に「統治」という概念を植えつけました。この重時が鎌倉時代のキーパーソンだったと私(本郷 和人)は考えています。その重時が、子どもたちにあてて書いた遺訓が残っています。そのなかの1つには「どんなに腹が立っても家来を殺してはいけない」とある。本郷さんは「どんな教えだ。重時ほど優秀な人にして、このレベル……。」と評しているが、「鎌倉殿の十三人」の権力争いでの血まみれの殺戮の世界を考えると「こんなレベル」ではなく、安定した政権の統治者として必要なモラルといえよう。北条家は鎌倉武士の中でも非常に賢い家だったのですが、モンゴルの国書を読みこなすだけの力はない。それに、モンゴルが非常に低姿勢であるというのは、現代の東洋史研究者だからこそわかることであって、リアルタイムの彼らが理解するのは難しいことだったのかもしれません。💛もし、北条時宗が元の使者を殺さず、冊封体制をとっていたならば、高麗のように元に攻め滅ぼされたか、あるいは日本も中国領と現代でも言われていたことであろう。 鎌倉幕府は日本を守る宝剣の役割を果たして消えていったともいえるのかも。
2022.08.24
中国四川省の楽山大仏風景区管理委員会は22日、連日の高温と干ばつの影響で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界複合遺産に登録されている楽山大仏の台座が露出したと発表した。楽山大仏(らくさんだいぶつ)は、中国・四川省楽山市にある、弥勒菩薩を象(かたど)って彫られた巨大な磨崖仏(石仏)であり、石窟寺院の一種である。「峨眉山と楽山大仏」として、近隣にある峨眉山とともにユネスコの世界遺産に登録されている。近代以前に造られたものでは世界最大・最長の仏像であり、石像である。顔は100畳分、岩山を掘り、90年かけて造られた。高さは71メートル。東大寺の大仏の5倍にも及ぶ。当時、多くの大仏が国家によって造られたのに対して、楽山大仏は民衆の力で作られた。天宝2年(743年)、海通は大仏が完成する前に亡くなったが、剣南西川節度使であった韋皋が建設を受け継ぎ貞元19年(803年)に完成した。 川の合流地点に工事で出た大量の土砂を投入することにより、川底が浅くなり、海通の意図通りに水害は大幅に減ることとなった。完成当時、大仏は「大仏像閣」と称する13層の木造の建造物に覆われ、法衣には金箔、胴には朱色が塗られていた。 さらに、湧水を外に逃がすための排水溝、そして雨水を効率よく逃す溝が掘られていた。 しかし、明代末期に建物は焼失、大仏も風雨に晒されて色が落ち、雑草に覆われていった。
2022.08.23
<鎌倉殿の13人>善哉の前に現れたのは実体、それとも? 比企尼、公式から消える 生死不明のまま8/22(月) 第32回「災いの種」が8月21日に放送され、前週第31回「諦めの悪い男」で比企一族が滅ぼされた後、生死が不明だった比企尼が登場。善哉(後の公暁、長尾翼君)に「北条を許してはなりませぬ」と繰り返し伝える様子が描かれた。第32回では、三浦義村(山本耕史さん)の庇護(ひご)の下、母のつつじ(北香那さん)と共にとある寺で暮らす善哉。境内で一人遊んでいると、薄汚れた老婆が姿を現す。それは、比企尼の変わり果てた姿で、「あなたこそが次の鎌倉殿になるべきお方。北条を許してはなりませぬ」と言い聞かせるように伝えると、また姿を消した。終盤の衝撃展開に、SNSでは「比企尼!」「比企尼、生きてた~!」「比企のばあちゃん生きてたのか!」と視聴者は即反応。善哉に向けた言葉については「ひぇーおばばの呪いだ」「魔女のような不気味さ」「なんだこの夏の夜の悪夢」「最後身の毛がよだった」「ホラーだなもう」「北条を決して許すなという呪いがこびりつく。これが後の、暗殺事件の布石か」といった感想が次々と書き込まれた。💛三谷さんはシェークスピア劇の魔女や真夏の夜の夢を意識して、視聴者にダイレクトに伝わっている感じ。しかしまあ草笛さんが魔女?として登場とは。イメージと真逆の役を与えて、視聴者を驚かすのがお好きみたい。魔女たちは、マクベスに重大な予言をする。マクベスはその予言を信じないではいられなくなる。魔女は実在的な影響力を持つ存在として登場する。魔女たちがマクベスにかけた呪いは、現実的な重みを以て作用していく。魔女たちの迫力を、マクベスとともにいたバンクォが次のように言う。 BANQUO:なんだ こいつらは(What are these) ひねこびて むさくるしいなりをして(So wither'd and so wild in their attire,) この世のものとも思われぬがこうしてこの世に生きておる (That look not like the inhabitants o' the earth,) マクベスとバンクォに、魔女たちは運命の予言をする。マクベスはスコットランドの王となり、バンクォの子孫たちがその王位を引き継ぐだろう。マクベスはスコットランド王になる前にコーダーの領主になるであろうという予言が実現したので、予言がもしかしたら本当に実現するかもしれないと期待するようになる。一方、ハムレットの中の亡霊は殺されたデンマーク王の亡霊であり、息子のハムレットの前に出没して、自分が殺された怨念をつらつらと語る。ハムレットはその亡霊の言葉を信じて、父親の敵討ちに立ち上がる。実にハムレットの前に現れ、復讐をそそのかす亡霊と、マクベスの ひねこびて むさくるしいなりをして(So wither'd and so wild in their attire,)現れる魔女を合わせて、出現した比企尼が誕生したのかもしれない。 「マクベス」の魔女は5つの重要な予言をする。 マクベスはカウダーのセインになり、最終的にはスコットランドの王になる。 バンクォウの子供たちは王になる。 マクベスは「マクダフに注意」する必要がある。 マクベスは「生まれた女性」の誰からも害を受けることはない。 「グレートバーナムウッドからハイダンシナンまで」までマクベスを倒すことはできない。ところが視聴者の予想を超えて、マクベスは倒される。
2022.08.23
みちょぱ、2度目の新型コロナの症状告白「いまだにたんが絡む」 仕事へ焦り「今年は休み過ぎてしまった」8/22(月)みちょぱは今年1月、新型コロナ感染を発表。「後遺症みたいなのも今はない感じだし、症状的にも丸2日は熱が40度くらいは出てたけどその後は、ちょっと頭痛があったりとかお腹下したりとかはあった」今月7日に、再び感染したとSNSで報告。約1週間が経ったこの日も「いまだに、たまに咳というか、たんが絡まる感じ」と報告。「熱が出たけど、1日半くらいで平熱くらいに戻って。今回のコロナはみんな“のどが痛い”っていうんですけど、私はのどというより、たんが絡む咳が出るくらい。めっちゃ痛いという感じでもなくて、咳もひどかったのは熱が出ているときくらいかな」「森三中」黒沢かずこ 新型コロナ感染 20年の感染時には1カ月半療養8/18(木) お笑いトリオ「森三中」の黒沢かずこ(43)が新型コロナウイルスに感染したことが分かった。18日、所属する吉本興業が発表した。 黒沢は17日夜に発熱し、PCR検査を受けた結果、18日に陽性と診断されたという。今後、保健所の指示に従って療養する。黒沢は20年4月にも新型コロナウイルスに感染しており、その時は味覚や嗅覚の異常が残ったことから自主的に1カ月半自宅療養を続けていた。おぎやはぎ・矢作 「これが不思議だね」コロナ自宅療養終了後も続く症状2022年8月19日矢作は、10日に発熱症状を訴え、新型コロナウイルスのみなし陽性者となったことを所属事務所が発表していた。「熱はね、1回39度くらいいったよ。でもやっぱ一日で下がったよ」と振り返った。続けて「あと味覚障害とか嗅覚ね、ない全然大丈夫。俺はね」とした上で、「いまだにちょっと喉が…。これが不思議だね、喉の痛みなんかさそんな続かないじゃん。まだ痛いっていうね」と現在、喉の痛みがあることを明かした。「コロナもただの扱いされてふざけんなってキレてるんじゃない?“見せてやるよ今回よ”ってなってるんだよ」「やられたよ今回、参った。(コロナに)ならない方がいいよ」
2022.08.23
「重症化しにくい」に変化が “第7波”直撃 コロナ医療現場の切実な“声”を聞け 「5類よりも、まずは感染者数を抑えて」8/21(日) 東京医科歯科大病院・植木病院長補佐:(東京医科歯科大病院に対する)受け入れ要請の電話内容などを見ますと、7月末ごろから、酸素需要の多い人、重症と中等症の中間ぐらいということになるかと思いますが、そういった人からの依頼が多くなってきています。また、中等症で入院した患者さんが、調子が悪くなって、重症の方の病棟に移動するといったことは、第7波を迎えた当初は、ほとんど存在しなかったんですが、7月下旬からそういった例も散見されるようになってきました。植木病院長補佐「経済との兼ね合いがある中で、何かを制限するということを医療者側から言うことはできないが、可能な範囲で皆さんに気をつけていただけたら」感染症専門医が警鐘 第7波は肺炎より衰弱死 意識レベルや水分摂取落ちれば危険症状8/20(土) 「第6波と比べましても重症者数は横ばいなんですが、亡くなる方が急増しています。やはり医療をちゃんと受けられない、資材も不足している、そういったことが理由なんでしょうか?」埼玉医科大学総合医療センター教授・岡秀昭氏「それも一因。都道府県や国の基準に基づいた重症度の定義が肺炎を中心にしたものだ」と指摘。 食事や水分が取れず、動けないという状態でも肺炎の症状がなければ軽症、あるいは中等症という判断になっているとし「そういった方が実際に重症を経ずに亡くなっているということ、これが現場で起きていることだと思います」と説明。現在はワクチン接種の影響やオミクロン株への移り変わりで肺炎を起こす人が減っているとも解説した。 従来は重症の肺炎になって死亡することが多かったが、今は高熱で食事が取れなくなったり、持病がストレスを受けて悪くなるなど衰弱して亡くなることが増えている。自宅療養者が救急車を呼ぶ目安として「呼びかけても反応が悪いとか、かなり元気がなくなっているとか、あと食事や水分が取れない、急に取れなくなった、そういったサインは比較的専門家でない方が見ても判断しやすい重症化のポイントではないかと思います」と呼びかけた。
2022.08.23
8/22(月) 徳島の山あいの町、日本のシリコンバレーになるか 起業家育成の高専が開校へ15歳から20歳が通う、起業家育成の学校「神山まるごと高専」(仮称)が来年4月にオープンするからだ。生徒はエンジニアリング、プログラミング、デザイン、マーケティングなどのビジネススキル、また資金調達などを学ぶ。男女は半数ずつ発案者は東京のITベンチャーSansanの寺田親弘社長。東京出身の寺田さんは、なぜ神山町を選んだのか? 「最初に聞いたストーリーは、徳島県神山町っていう田舎町がおもしろいと。2010年くらいだったんで、光ファイバーが古民家に張り巡らされていてネット関係が充実していると」大南さんには、「ちょっと働く場所の実験をしたい、僕らも何ができるのか分からないんですけれど、もしかしたらパソコン教えたりはできるかもしれません」と持ちかけた。しかし返ってきた答えは予想外のものだった。「彼は『そんなのはいらない』と。『SansanというITの会社の本業がこの田舎町でも成り立つと証明してくれたらそれでいいよ』と言われて、肩の力が抜けました。古民家を紹介され、じゃあそこでやってみようって始めたのがきっかけです」「直接的に仕掛けたつもりはないんですけれど、見ていておもしろいな」「ビジネスでは届かない社会課題に、自分なりにやるべきことはないかなと煮詰めていった時に、まぁ教育だなと、学校だな」「学校って言ったらエンジニアが足りない、テック人材が足りない、アントレプレナーシップをもっと教育の内側で教えられるべきなのに、そういうことが起きていない。高専がおもしろい。これを神山でやったら何か起きるんじゃないかな」「僕自身は起業家としてやっていますけれど、いわゆる大学までの教育の内側でそれに資するものを習った記憶がない」「優秀な子は起業する前提でやっていると思います。今時、いい会社入って、などとは、トップノッチ(最高レベルの人たち)はそんなこと考えていない」Can a sleepy Japanese town become Asia's Silicon Valley?
2022.08.22

幕末、二宮尊徳は荒廃した北関東の農村復興を行った。尊徳の方法は、支出に限度を定め(分度)、真心を尽くし(至誠(しせい))、勤勉に働き節約して(勤倹(きんけん))、そうして生じた剰余を借金の返済や貯蓄に回す(推譲)というものだった。これを「報徳」といい、それを実行する結社を「報徳社」という。報徳運動は、静岡県西部地域において急速に発展し、明治後期には全国的な運動となった。静岡県周智郡森町に設立された報本社は、1852年(嘉永5年)閏2月、新村里助らにより森町報徳社が設立されたことに始まる。里助と養子里三郎らは、報徳普及に努め、森町地域にも報徳社が次々と生まれた。 1895年遠江国報徳社との教義(きょうぎ)理解の違いから、森町報徳社を中心に報本社が設立された。1906年(明治39年)で32社が所属していた。報徳社では、教義の学習のほかに報徳金の貸付や農事改良の話し合いなどが行われた。報本社定款 第一条 目的報徳社団の仕方統一を謀り、社団の管理仕方の指揮並びに新社の拡張をなすを目的とす。 第二条 名称報本社 第三条 位置事務所本社は周智郡森町森四百八十番に置く。 第四条 存立期限本社の存立期限は主務官庁許可の日より起算し向う百八十年とす。 第五条 社員資格本社の社員は各所に既設される報徳社団の社員にして満五か年以上社務を全うしたもの及び徳望ある者を推選させ正社員として十か年以上社務を全うし篤志善行の者を選抜して有功社員とす。 第六条 社員証本社の社員へは社員証を下付す。社員証の雛形左のごとし。 報徳本社講堂 第七条 役員任免本社は総社員の選挙を以て左の役員を置く 専務理事 社長 一名 理 事 副社長六名各役員の任期は満五か年とす。ただし再選妨げなし。 第八条 巡回講師報徳社団にして本社の管理を望むところの各社団を巡視し、報徳書講義その他社員に有益なる演説講話をなすものとす。 第九条 社員の義務有功社員は義務として各報徳社団を巡視し、篤行勤務の社員を視察するものとす。正社員は一か年金十銭以上随意の寄付金をなして本社維持の資にあてるものとす。 第十条 本社の資産出資の方法本社の資産は左の二種とす。 善種金 これは二宮家より譲与せられし金。後年その筋等より資金あるときはその元金を積立置くものとす。 土台金 これは社員の寄付金 第十一条 社団より預り金本社の社費補充のため無利息預け金をなすことを社団より申出あるときはその意に任せこれを預り置くものとす。 第十二条 金員取扱もし管理をなすべき報徳の社団にして必要を生じ当社の金員を貸付する場合には総会の決議により貸付することあるべし。 第十四条 役員の事務本社の委員は左の事務をつかさどる。 一 巡回講師用聘並びに派出に関する事 二 報徳社団より管理の依頼を受けたるときはその承諾証を与えること 三 管理の社団を時宜により巡視すること 四 各地より新規報徳社の設立を望み本社へ指揮を請うものあるときは定款を指定しその設立に関する一切の設計を教示すること。 五 管理をなす社団のうち社員一己の過失ありて改心をなさしむべき依頼あるときは速やかに教戒を加え改心せしむべし。 七 右の外総社員の決議により万般の事務をつかさどるものとす。 八 新規結社を誘導し新規結社の社団設立の節、本社の管理を乞うものへは報徳善種金を譲与す。 第十五条 集合本社の社員は毎年四月までに一回集会し斯道の研究をなすものとす。管理を受くべき社団の社員集会を開き、知識の交換をなすものとす。 第十六条 管理拒絶本社へ管理を委託するといえども本社の指揮をこばみ、勝手の方法をなすものは、本社はその管理を拒絶する者とす。 第十七条 役員の給料本社の役員は無給とす。ただし遠隔の地へ出張する時は実費を窮することあるべし。なお講師には相当の報酬をなす。第十八条 会計年度本社会計年度はすべて歴年度を用いる。 第十九条 社員本社の社費はすべて土台金・善種金・預り金を預け置き、その利息を以て支弁す。不足あるときは篤志社員の寄付を以て支弁す。管理上必要の実費は管理を受くべき社団より応分の寄付を以て支弁するものとす。 第二十条 入社入社を望むものはその社の専務理事より推選したる証明書差出し入社を許す。有功社員は本社の役員会の評決を以て、その本人所在地の社団を経て選抜証を贈りて社員とす。 第二十一条 退社当社の主義に反する行いあるものは役員会の評決により退社をなさしむ。本人の願出により退社を望むものは、よく事情をただし、やむを得ざるものと認めたるときは、退社を許し、社員証を返戻せしむべし。 第二十二条 分社後年新規結社多数遠隔の地方へ設立せし時は、本定款の規定に従い、分社の登記を受く事務を分社長に引継ぐものとす。分社長の選挙は第七条を適用し、以下役員の定数及び選挙は分社において管理をなすべき社団の理事において執行するものとす。 第二十三条 分社費分社の費用は分社限り支弁し、本社の経済に混合することを得ず。本社の経費もまた同じ。 第二十四条 総会毎月十二月総会を開き左の事項を決議す。 経費の予算、決算、その他諸般の件 当社の総会は総社員の半数を以て議事を開く定員とす。 第二十五条 再召集総会の節再三の招集状を発するも社員定数の出席なきときは役員の決議を以て処弁す。欠席社員後日異議を唱えるを許さず。 第二十六条本社満期あるいは総会の決議により半途解散する場合には、貸金取立預り金返戻本社の資産に属する者はすべて本社の管理せし報徳社団へ分頭にて譲与する者とす。
2022.08.22
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