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長谷川成一「日本三景の成立と名所観の展開」(島尾、長谷川編『日本三景への誘い』清文堂出版、2007年)による。------------江戸時代には多くの人々が各地を旅行するようになり、旅案内や名所解説のための、名所記、図会、名所図などが制作されるようになる。名所を、日本三景や本朝十二景などに数え上げることも行われるようになる。日本三景の史料上の所見は、林鵞峰(春斎)(1618-80)が編纂した『日本国事跡考』に見える記事だろう。鵞峰は史書『本朝通鑑』の編纂で名高い。『日本国事跡考』は、家綱誕生の賀使として来日した朝鮮通信史の求めに応じて編纂したもの。寛永20年(1643)成立。松島、丹後天橋立、安芸厳島を「三処奇観」と規定している。いずれも白砂青松の景観である。それでは鵞峰は日本三景を実見した上で提言したのか。否であろう。彼の年譜や家譜から三景を訪れた形跡はない。父の林羅山は、「本朝地理志略」で天橋立を「一州之美景也」と形容しているが、訪れた事実は確認できない。当時の文人にとっては、実景をみるよりも、現実の景観をしのぐ詩的なイメージが重要だった。つまり、胸中にイメージを湧出させる景観として「三処奇観」が受け止められた。寛永20年は鵞峰25歳、父羅山も生存中であることを踏まえると、幕府官学の地位を固めつつあった林家が、簡便な国家要覧ともいえる『日本国事跡考』に「三処奇観」の文言を刻した意義は小さくない。これによって全国に散らばる林家門下の儒学者たちに、日本三景の概念や内容が定着する契機となったからである。三景と別の次元から、当時第一級の俳諧師、大淀三千風(1639-1707)は国内の名所を「本朝十二景」としてランク付けした。三千風の主張する十二景は次の通りで、世に知られた地であった。1 田子の浦(駿河) 2 松島(奥州) 3 箱崎(筑前) 4 橋立(丹後)5 若浦(紀伊) 6 鳰海(近江) 7 厳島(安芸) 8 蚶潟(象潟)(出羽)9 朝熊(伊勢) 10 松江(出雲) 11 明石(播磨) 12 金沢(武蔵)田子の浦はおそらく富士山を組み込んだ眺望を想定していると考えられる。17世紀後半の時点では、日本三景としての松島、天橋立、厳島は必ずしも確定していなかったようだ。三千風のランキングは根拠を示されていないため、彼の趣向なのか当時の人気度なのかわからない。しかし、実際に国内を行脚した三千風の自負も読み取ることができよう。このように当時の三景論は固定的ではなかった。ちなみに、十二景論は三千風ひとりが唱えたのではなく、18世紀後半諸国を旅行した京都の豪商百井塘雨の紀行文『笈埃随筆』にも、ランク付けはないが三千風と同じ地名を列記している。日本三景が世間に定着するのは元禄期ころと推察される。貝原益軒は元禄2年(1689)に近畿地方の旅先での見聞を記した「己巳紀行」で、天橋立を批評する際に、日本三景の一つとするのも宜なり、と明確に記している。もっとも、紀伊方面に出かけた際には、和歌の浦の景色に感動し、松島はいまだ見ていないが日本三景をしのぐと絶賛している。天明2年(1782)成立の天野信景(さだかげ)「塩尻」では、天橋立、陸奥松島、出羽象潟を三勝景とし、また同書の別の箇所では、天橋立、松島、伊勢の二見を三勝景としている。18世紀を通じて識者による三景の中身に揺れが認められるものの、17世紀前半に成立した日本三景の概念は概ね固定化していったようだ。
2014.08.24
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ある登山ガイド本を読んでいたら、蔵王の御釜について解説があった。光の具合で水の色が変わるから、五色沼とも呼ばれる。直径約300m。水深約25m。お釜の脇(北側)の盛り上がりが五色岳で、その噴火で生まれた火口湖だ。強酸性で生物は一切生息できない。火山活動によってしばしば沸騰するといわれる。ということだ。驚きは、「沸騰する」ということ。大変なことだ。あの水量が煮えくりかえる様が想像できない。まさしく釜ゆで状態。前の記事で勉強したときにはガスが気泡となって浮くことがあるということだが。たしかに気象庁のサイトによれば、蔵王火山の活動記録に、沸騰したことが記されている。■関連する過去の記事 蔵王のお釜の色を考える(2013年2月19日)
2014.08.23
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〔前回に続く〕■前回の記事 木地業とこけしの歴史を考える(その1)(8月8日)■関連する過去の記事 木地師と東北を考える(2014年7月12日)■参考 柴田長吉郎『宮城伝統こけし』理工学社、1999年5 蔵王山麓の木地業とこけし蔵王連峰の東側(宮城県側)は古くから木地を挽いた稲子、横川(七ケ宿町)と、横川の流れをくむと考えられる遠刈田新地、弥治郎(白石市福岡八宮)が主要な木地産地。稲子と横川近江国から陸奥国会津に移住していた木地師のうち、桧原に居た新国掃部を天正年間に伊達政宗が召し出して、刈田郡湯原(七ケ宿町)に居住させたのが始まりという。その後この集団は、愛子、作並、大倉村滝ノ上などに移住した。また、稲子、谷地小屋、後沢(七ケ宿町)などに会津系の木地師が住んでいた記録もある。天和元年に伊達家直参の足軽が稲子に出駐し湯原の御番所に詰めるようになったので、稲子の木地師はよそに移住した。また、後沢の木地師と塗師の一団も材料の枯渇から、元文2年に石川領の横川(熊沢とも)に移住した。横川は塗屋がさかんで、こけしなど玩具は作られなかった。この地でこけしが作られるのは明治以降で、弥治郎の流れをくむもの。横川の木地業は一時繁盛したのだが、遠刈田や弥治郎のように、時代に適応する木地製品を売りさばく湯治場が近くになかったため、衰退し大正時代末頃には廃絶した。遠刈田新地横川の流れをくむもので、発祥時点は不明だが、木地玩具や小道具類が作られるのは文政後期から天保の初め頃に認められる。遠刈田新地の起源は古く平氏あるいは藤原氏の落人と伝える。全戸が佐藤姓を名乗り源氏車を家紋とする。江戸時代、白石城主片倉小十郎の支配下にあり、木地屋は御徒小姓組として苗字帯刀を許され、下級武士ながら内職として木地を挽いていた。横川と違って椀類は作らず、鉢、盆、煙草入れ、茶壺などの道具類と人形(こけし)、えずこなどの木地玩具類で、主として温泉客に販売した。維新後は木地業が生活の主体に。当時は1人が轆轤の回転軸を綱で引き他が刃物で切削する二人挽き轆轤。湯治客入りが3月節句から8月15日夜までのため、一年を通して行うだけの販路はなく、年の半分は農耕、養蚕、薬草取りで生計を立てていた。明治18年に田代寅之助が一人で回す足踏み轆轤を遠刈田に伝えてからは、生産は画期的に増大。鉄道開通も販路を拡大。大正時代には季節にかかわらず温泉客も入り売れ行きもよくなった。また、箱根、小田原などの玩具類が刺激を与えて、遠刈田新地の玩具の種類も多くなった。周辺の青根で木地工場ができて産業規模が拡大し、山を越えて蔵王温泉、汽車で鳴子温泉などに運ばれ売られるようになった。弥治郎この集落を開いたのが弥治郎という平家の落人との伝説がある。木地業がはじまったのは江戸時代。弥治郎は白石城主支配下にあり、延享3年に横川とともに近江国蛭谷筒井神社の氏子狩をうけており、この頃すでに木地業が行われていた。氏子狩(がり)(氏子駈(がけ)とも)とは、小椋谷が全国を統制する手段として江戸時代に行った制度。諸国に分散した木地師を巡回神官が歴訪して奉賀銭を集め神像などを授与。これにより諸国の伐採が自由となる。天文から永禄年間に始まり江戸初期に組織化された。小椋谷の蛭谷筒井神社と君ヶ畑金龍寺(高松御所)の2組織が独立して行ったが制度的には筒井神社が強く所属木地師も多かった。各年代の巡回記録が「氏子駈帳」として残る。弥治郎は横川の流れをくむ木地業と思われるが、隣の遠刈田では氏子狩を受けていない。このため、弥治郎が氏子狩を受けた頃に遠刈田で木地業が行われていたは不明である。古い工人の話では弥治郎の木地玩具と小道具は遠刈田新地から教えられたというので、こけしの発生は遠刈田よりいくらか遅れた頃と考えられる。弥治郎は明治以後も農作が中心で、内職として木地挽きを行い、主に鎌先や小原の温泉場で販売。この状況が現在まで継続している。6 鳴子の木地業とこけし鳴子は古くから漆器業が盛んで(おそらく室町時代に発生し藩政期に鳴子に集約)、木地業はこれと関連して発達したと考えられる。安永、文政、文久年間の古文書にも「鳴子のぬりもの」「木地挽きもの」などが鳴子村の産物と記され、江戸時代には木地業が塗物業とともに確立していた。こけしは、文化文政のころに発生したとみられている。鳴子周辺の中山平、鬼首、門沢、赤倉などには近江系木地師がいて蛭谷筒井神社の氏子狩を受けているが鳴子との関係は記録されていない。系統が違うようで、文化文政の頃に信州木地師の一団が飯田(長野県)より鬼首に移住したという記録もある。木地業としては明治時代には木地挽物と漆器の生産が盛んとなり、明治20年頃に二人挽きから足踏み轆轤に変わってからは生産が飛躍的に増加、40年頃ピークを迎える。しかし、足踏みは力が弱いため主に縦木挽きの小物が作られ、椀などの塗り下とこけしなどの玩具が製作された。大正に鉄道が開通し電気が通ると、各地から湯治客が季節に関係なく訪れる。大正5年頃には漆器類の生産が第2のピークを迎えた。大正10年頃には電動轆轤が登場し、昭和初期には木地工場が開設されたことで、塗り下の量産のほか、鉢や盆など横木の大型挽物が製作されるようになった。こうして鳴子の漆器は昭和5年6年ころに第3のピークを示したが、長期の戦争による資材統制や働き手の応召などで業界は分散状態となってしまった。それでも戦後しばらくは日常什器不足で漆器の需要も増大したが、やがて陶磁器、プラスチック食器、金属食器の発展で需要は減少し、大部分の工人は小物挽物やこけし、玩具製作の専門となり、こけし時代へと歩んでいった。鳴子の木地業は塗物の下地挽きが主体だったわけだが、こけしの始まりは文化文政のころにはじまったと推定されるものの、確かな根拠としては文化年間の古文書にこけしの絵が描かれ、鬼首の文書にも「こふけし」の名が出るので、この頃には作られていたのは確かであろう。西田峯吉氏は明治から鉄道開業の大正年代までを古鳴子時代と呼ぶが、この時代にも木地業は本業の傍ら少しづつこけしを作っており、いくつかの古品が残っている。昭和に入り、こけしが広く紹介されてからはこけしを作る人も増えたが、昭和10年以前の現存する物は少なく、戦後のこけしブームの昭和15年頃が最も盛んであり、やがて戦時終戦のころは実用品が主。戦後、木地物什器の衰退とともに、こけし専業の木地屋が多くなったのである。7 作並の木地業とこけし南条徳右衛門と弟子の岩松直助が、その師弟にこけしも含めて木地業を教えたことから始めると言われる。江戸時代後期頃となるが詳細は不明。南条徳右衛門については、青下(大倉村)の仙台藩お抱え木地師から木地挽きを習ったとも言われるが真偽は不明である。ともあれ岩松直助の時代には木地業がありこけしが作られた記録があり(明治15年頃)、山形の小林倉治が岩松に師事して、その後山形で木地業を始めた(山形系こけしの始まり)が、このころ作並では一時木地業が途絶えたようである。それでも、明治45年に倉治の弟子の平賀謙蔵が作並に帰って木地業を再開、その後謙蔵の弟子がこれを受け継ぎ現在の作並こけしに至。8 仙台の木地業とこけし仙台では江戸時代に町職人の木地挽き役が大勢居て、伊達漆器の椀下などを作っていたが、氏名は明らかでない。また、木地挽き役とは別のお抱え木地師がいたようで、佐藤家、高橋家などの名があげられる。佐藤家は仙台で最も古い木地屋といわれるが、こけしづくりの伝承はほとんどないようである。高橋家では、胞吉(えなきち)が明治時代に一貫してこけしを作っていた。胞吉のこけしの形態からは一応作並系に入るようだが、詳しい伝承は残っていないようだ。大正初年から中期にかけては、大勢の鳴子工人が仙台に出稼ぎに来た。大正終わりから昭和20年までは、鳴子系に加えて、遠刈田と肘折(山形県最上郡大蔵村)の工人が仙台で働いていた。昭和20年以降は遠刈田系工人が多くを占めていたが、胞吉型の工人や肘折系の工人なども活躍するようになった。加えて作並系の工人も働くようになり、現在は多くの系統の工人が木地業を営んでいる。9 伝統こけしと新型こけし、創作こけし玩具こけしは、封建制のもとで技術、用具のみならず形状や様式まで師弟相伝の形で伝えられ、それぞれの土地で代々継承されてきた。そして、形状や様式はそれぞれの家独特で他人はこれを侵さないという不文律ができあがった。定まった様式はその土地の中では、家系によりすこしの相違はあっても、共通した一定の形式が生まれるようになり、他には見られない土地独自の様式ができあがっている。この土地特有の様式を有するこけしを、現在は「伝統こけし」と呼ぶ。こけしの歴史はそう古いものではないが、その伝承のされ方が伝統的であり、東北地方固有のものとして残されてきたので、伝統の語をつけているわけである。こけしは一般に温泉地の手軽なお土産として出回っているが、その大部分は戦後以降に轆轤技術を応用して各温泉地の人形として作られたもの。ほとんどは工場で流れ作業でつくられ、生産も特定の場所で一括して行われ、その温泉地のものは少ない。これらは新型こけしと呼ばれるが、地方性や個性がなく、伝承もないので鑑賞の対象となりにくい。もちろん新型こけしの収集が悪いということではないが、伝統こけしとは基本的に別の世界ということである。一方で、創作こけしとは、作者があらかじめ主題を定めて人形で表現するようにデザインや工夫を施すもので、テーマの表現の点が伝統こけしとは全く異なる。伝統こけしには個々の作品についてのテーマはなく、父祖師匠から伝承した形式と模様を受け継ぎ、自分の個性が加わり、習熟による手練を表すのが本来である。また、同じ技術を様式が同じ土地で代々受け継がれたため、それぞれの伝統こけしは土地に定着した強い風土の味わいを持っており、この風土性が創作こけしにはない伝統こけしの特色である。音楽にたとえれば、伝統こけしはいかに演奏するかの表現技術であり、創作こけしはいかに作曲するかのまさに創作に相当する。もちろん両者に優劣はないが、別の方向で鑑賞の対象となるものである。10 伝統こけしの系統伝統こけしは11様式に分類されるが、これを系統と呼び、伝統こけしの特色である。土湯系(中心地は土湯温泉)遠刈田系(遠刈田温泉)弥治郎系(弥治郎集落)鳴子系(鳴子町)作並系(作並温泉)肘折系(肘折温泉)蔵王系(蔵王温泉)山形系(山形市、米沢市、寒河江市、天童市)木地山系(秋田県雄勝郡皆瀬村、稲川町)南部(花巻)系(花巻市、盛岡市)津軽系(黒石温湯温泉、大鰐温泉)各系統の中心地ではいくつかの家系が多くの師弟を保っているが、工人の移動や産地間交流などから、必ずしも一産地の工人全員が同じ系統を有しているわけではない。昭和56年6月に指定された「みやぎ伝統こけし」(指定当時で企業数107社従業者数175人)では、遠刈田系、弥治郎系、鳴子系、作並系、肘折系の5系統が指定されているが、肘折系が含まれるのはこの理由による。特に仙台市では各系統の中心地で修行した工人が販路を求めて移住して製作しているので、多くの系統のこけしが作られている。山形市内(蔵王温泉以外)でも、山形系のほか蔵王系の工人が大勢いることも同様である。それでも、各系統の各家系は独自の特色を保っているので、容易にその家系を指摘することができる。
2014.08.10
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木地業とこけしの歴史や系統について、少し学んでみた。■参考 柴田長吉郎『宮城伝統こけし』理工学社、1999年■関連する過去の記事 木地師と東北を考える(2014年7月12日)1 木地業についてこけしは東北地方を原産とし、それぞれ伝統を遵守した特色があるが、産地の多くは山深い温泉場周辺。昔からこけし製作の人は、原材料を求めるため山々を分け歩き、伐採地を見つけるとその周辺に仕事場を構え、そこで木工轆轤を挽いてこけしをつくっていた。轆轤(ろくろ)を用いて加工することを「挽(ひ)く」といい、作り出される物を「挽物(ひきもの)」という。本来、挽物は椀や盆などの生活用品が主で、こけしは技法を応用した産物といえよう。挽物を製作する人は木地師と呼ばれ、その業を木地業という。木地業の歴史は古く、奈良時代にはすでに多くの木地師が都周辺に集まり、轆轤を用いて木製の小塔を百万基(いわゆる百万塔)量産したことが知られる。百万塔は、称徳天皇が陀羅尼経100万枚の製作を命じた折、それらを納める塔婆として製作され、畿内の寺院10か所に各100万基づつ納められたという。そのころの木地業はすべて官営で、祭具などを主として製作したが、平安時代に律令制度が崩壊するとともに官営組織は消滅したと考えられる。官の庇護を失った木地業は、その後、近江国愛知(えち)郡小椋谷(おぐらだに、滋賀県神崎郡永源寺町)の筒井谷に多勢の木地師が集まり、惟喬親王を木地業の始祖とあがめる蛭谷(ひるたに)の筒井神社の統制下に、椀などの木地製品が作られた。その後、筒井神社のさらに奥の君ヶ畑金隆寺(高松御所)も、惟喬親王を祭って木地業の中心の地位を築き、木地師の信仰的中心を神社と競い合った。筒井神社、金龍寺の拠り所を得て木地業は産業としての発展をみる。そのため、近江国周辺では原材料の確保が難しくなり、また木地師自体の生活形態が山中の移動を繰り返す性格も働き、より良好な原材料地を求めて全国に広がった。この動きに対して、統制元の小椋谷では、各地に広がる木地師の庇護が常に問題となったようで、時代時代の権力者に木地師を筒井神社または金龍寺の氏子として諸役免除、商売安堵などの認可を求め続けた。小椋谷にある木地師資料館には、朱雀天皇や正親町天皇の御綸旨、また足利尊氏や織田信長の免許状と称されるものが残されている。2 東北の木地業伝によれば、平安時代に木地業は近江国を中心に各地に広まったが、東北地方には戦国時代末期に伝わったという。天正18年(1590)に、伊勢国松坂より蒲生氏郷が陸奥国会津に入封した際、氏郷が元来の出身地である近江国から木地師を連れてきたのがはじまりといわれる。近江系という。その後、寛永11年に保科正之が信濃国高遠(長野県上伊那郡高遠町)から会津に移封した時も、木地師を胎動して木地業を行わせた。信州系という。この2つの系統が主に東北各地に広がったと考えられるが、それ以外にも、津軽地方や南部地方では古くから土着の木地業が伝えられている。これらは筒井神社や金龍寺の影響を受けない、居木地師(いきじし)とよばれているが、どのような流れを有しているかは不明。3 こけしの発生これらの流れから東北でこけしが生まれたが、現在に伝わる系統は特徴により11を数える。土湯系、遠刈田系、弥治郎系、鳴子系、作並系、肘折系、蔵王系、山形系、木地山系、南部(花巻)系、津軽系。これらまとめて、こけしの発生時期は、記録的には江戸時代中期から後期となっている。なぜこけしが生まれたのか。起源には諸説あり、いくつか挙げると次の通り。(1)まったく新しい玩具として考案された(2)他の玩具(おしゃぶりなど)から転化(3)オシラ神信仰(養蚕、農業の神、男女一対のクワの木の偶像)などの信仰に関係(4)性器、性的信仰に関係以上のように民俗学的な考察も唱えられるが、確かなところはわからないのが現状。筆者(柴田氏)としては湯治場近くの木地師が湯治客の子の玩具として作り始めたと考えている。ともあれ、東北固有の産物と思われるので、東北に住む人々の心情が大きく関わっているのは確かだろう。4 こけしの語の由来こけしの語にも諸説。にわかに判定しがたい。(1)頭が芥子(けし)に似ている(2)コケシとは子供のオカッパの髪型を指し、身の回りの人形で一番安いものをケシ坊主と呼んだことなどから(柳田國男説)(3)木形子(こげし)。木で作った人形の意味。仙台で言われる「きんぼこ」が木のボッコ(木のオボコ)としていることからもうかがえる。遠刈田では、コゲシのコゲは「削ぐ」の意味で、木を削って作る人形のこと(天江富弥説)(4)木削為(三原良吉説)(5)コゲシの「こ」は木、「げす」は芥子の訛り。これにオボコ(人形または子供)がついて、コゲスオボコとなり、コゲスンボコ、コゲス、と省略された(菅野新一説)どれもこけしの特徴をよく踏まえているが、どれが正しいとは難しい。なお、この状況のためか、こけしは、木形子、小芥子、木芥子、木削子、小筍子などさまざま表記された。そのため、昭和15年鳴子温泉で開催された全国こけし大会では、以後ひらがな表記に統一するとの決議がなされ、徐々に定着した。(次回に続く)■木地業とこけしの歴史を考える(その2)(8月10日)
2014.08.08
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昨日の記事で、白石と七ヶ宿滑津間の人車軌道の構想があったと記した。■昨日の記事 松山人車と白石人車軌道(2014年8月7日)『七ヶ宿町史 歴史編』(七ケ宿町、昭和59年)を読んで確認した。小原新道や鉄道構想について、次のような内容で書かれている。------------(小原新道は)小原越えの難所を切り開き、馬車人車の通れる白石川に沿った平坦な道をつくろうとするもの。白石、小原両村は各500円の献金をして工事資金とし、柴田郡は一戸2人、刈田郡は一戸3人の人夫を提供して工事を行った。明治18年の工事は半月で完成したが、農民の工事のため、その後車が通れるように補修が行われている。このほか、時期は下るが日露戦争後の経済的混迷の中で、鉄道に対する期待が大きくなり、明治43年軽便鉄道法が制定され、大正第一次世界大戦による好況の中で、原内閣が交通機関の整備を重大政策の一つに掲げたこともあって鉄道がクローズアップされる。大正6年の県会意見書に、「上ノ山駅ヨリ白石駅ヲ経テ中村駅ニ至ル横断鉄道布設ニ関スル件」を可決(昭和3年、4年でも可決)している。そして、大正10年鉄道布(ママ)設法が制定されて全国的に予定路線が示される。この中には、後に陸羽東線や仙山線のように完成したものもあるが、「長町ヨリ青根付近」「松島ヨリ石巻ヲ経テ女川ニ至ル」「気仙沼ヨリ津谷、志津川ヲ経テ前谷地ニ至ル、津谷ヨリ分岐シ佐沼ヲ経テ田尻ニ至ル」鉄道とともに、「宮城県白石ヨリ山形県上山ニ至ル鉄道」も含まれていたのである。------------人車軌道について直接の記載はないのだが、小原新道が「馬車人車の通れる」平坦路をめざしたというから、人車軌道も念頭にあったというようにも読める。もっとも、全国的に人車軌道が開設されるのは明治期も後年なので、人力車のことだろうか。それとも、切り開いた平坦路の意義なり可能性を後世の評価として説明したということか。いずれにしても、人車軌道が小原新道を前提に構想されたのは間違いなかろう。さて、白石市史もざっと眺めたが、「白石滑津間の人車」については直接の記載は無いようだった。上記の小原新道についてはより詳しく記載されている。鉄道開業や人力車衰退による七ヶ宿街道の状況や小原温泉の振興のためにも望まれていたとの解説である。人車構想は、こうした道路整備の流れとあいまって、宿場町の復興をめざした地域の熱意だったのだろうか。勝手な想像だが、現実的な線としては白石町と小原温泉を結ぶものが考えられたが、刈田郡全体の気運として関や滑津までのばすべしとの論調もあったというあたりではないか。温泉地の小原までというなら全国の実例をみても、あり得ると思う。もっともかなり勾配はあっただろう。七ヶ宿までとなると、人車軌道そのものというより、鉄道や軽便を引くための前段階のような運動論として提唱されたのではないだろうか。なお、町史にある鉄道敷設法の「白石上山鉄道」は刈田峠を越える構想のはずだから、七ヶ宿を経由しないものだと思う(下記時事を参照)。■関連する過去の記事 幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2)(2013年4月20日)
2014.08.08
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東北本線と志田郡松山町の間を結んで走った。人車とは、貨客輸送のため、文字通り軌道の上の車を人力で押していくものだ。明治末年から大正期にかけて全国に登場したようだが、宮城県内では松山だけだった。松山軌道は、大正11年(1922)から昭和3年(1928)まで営業運転された。明治23年、東北本線は県北部に延伸されたが、旧城下町の松山町にとっては、北に離れて小牛田駅が設置され、本線の軌道は東にはずれて走ることとなり、松山町駅が明治41年に設置される。金谷駅(松山町駅隣接)と千石駅の間の2.5kmで、約15分の所要時間。人車軌道としては遅い時期になるが、馬車などの動力に転換することを想定して開業したもののようだ。結局は、6年で営業を終えている。しかし、その後に乗合自動車事業が「人車」の名前で継続されたため、「松山人車」の名は地域に定着していったようだ。毎年9月、御本丸公園内にあるコスモス園で行われるコスモス祭りの期間中のみ人車が復活する。(大崎市サイト)また、松山ふるさと歴史館には復元車両が展示されている。ところで、人車軌道は県内では松山だけと記したが、実現しなかったものとしては、「白石人車軌道」がある。白石町と七ヶ宿村滑津を結ぶ構想だが、布設に至らなかった(吉岡一男『宮城の鉄道物語 -宮城の街道物語-』宝文堂、1987年)。これは実現していればかなりの距離になっただろう。
2014.08.07
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